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2010年6月20日日曜日

ジャパン・グスタフ・マーラー・オーケストラ第8回定期演奏会を聴いて

ジャパン・グスタフ・マーラー・オーケストラ第8回定期演奏会
マーラー生誕150年記念/ガリ・ベルティーニ・メモリアル・コンサート(氏の没後5周年によせて)
2010年6月13日 ミューザ川崎シンフォニーホール 音楽ホール

マーラー 交響曲第7番ホ短調[最新校訂版(2007年:R.クビックによる)使用]

井上喜惟(指揮)
ジャパン・グスタフ・マーラー・オーケストラ

私にとって、コンサート・ホールでマーラーを聴くのは20年ぶりのことになる。20年前はいわゆるマーラー・ブームの渦中だったが、 当時の私はコンサート・ホールで聴くマーラーにほとんど入り込めず、挙句の果てに、コンサート・ホールでマーラーを聴くことのみならず、 コンサート・ホールを訪れることとマーラーを聴くことの両方を断念することになったのだった。理由は色々とあるが、ようやく到来したらしい 「マーラーの時代」の只中で、次々と提供される「今日のマーラー」とやらが、自分が聴き取りたいと願っている音調を備えておらず、 コンサート・ホールの熱狂の中で自分の外で、むしろ「世の成り行き」の側の一部として鳴り響くという現実に耐えられなくなったと言えば 端的な説明になるだろうか。
その後、自分の中に、自分の一部としてそれがどうしようもなく埋め込まれていることを思い知らされて、 マーラーの音楽を再び聴くようになりはしたし、一方で数は限られているとはいえ、コンサート・ホールに足を運ぶようにもなった。 それは主として三輪眞弘の音楽のように、同時代の、しかも実演で聴くことと録音媒体で聴くことの差異そのものが問題になるような音楽を 聴くためにであって、過去の異郷の音楽を聴くためではないようだ。例えばショスタコーヴィチの音楽は異郷のとはいえ、私が生まれた時には まだ生きていた作曲家のそれであって、時代的には少なくとも地続きの筈であり、またその音楽のもつ或る種の「公共性」(ここではそれに ついての価値論的な議論は行わない)ゆえにコンサート・ホールで少なくとも相対的には「聴きうる」ものと思っていたが、最近、そうとは 感じられない機会が連続し、更には生活の糧を得ることに追われ、コンサート・ホールという制度が要求する時間的・体力的・精神的な 余裕が自分になくなってしまったこともあり、再びコンサート・ホールから足が遠のきつつある。端的に言って、今ここで、自分が置かれている 物理的・身体的・精神的制約の元で、なぜわざわざその演奏を聴かなくてはならないのか、という気分になってしまう事態に至ってしまったということだ。 こう言えば身も蓋もないが、要するに、コンサート・ホールでの音楽の聴取が単なる娯楽なのだとしたら、それは私には全く割りの合わないものであって、 何某かのお金を払った上で、決められた時間に決められた場所に赴くことを強制され、一定時間椅子に座っていることを強制されるのであれば、 それは娯楽とは違った何かであって欲しいし、単なる消費で済ますなど真っ平御免なのだ。
まさにコンサート・ホールで演奏されるための音楽である筈のマーラーの作品をそのように聴けないというのは、 LPレコード、FM放送、CDといった媒体によってマーラーを聴いてきた世代ならではの「症例」と見做すべきかも知れない。 より根本的には自分の中で鳴り響く音が、他者が自分の目前でリアライズする音響と齟齬を来たすのに耐えられないという 全くもって傲岸不遜な理由があるに違いないのだが、それならCDを聴くのだって耐えられないはずで、だからコンサート・ホールという 公共の場で、他人が自分の目前で演奏するマーラーを、他の聴き手と共有するということが、マーラーの音楽の持つ「私性」に 背馳するように感じられるというのがあるのだろう。演奏会というのは所詮はエンターテイメント、娯楽の一種であって、 マーラーはいわば目玉商品の一つとして「消費」されているのだろうし、端的にそうした制度の外部に出ることなど出来る筈はないのだが、 マーラーの音楽そのものの中に、そうした「世の成り行き」の只中にあって、「世の成り行き」の外を志向する姿勢があって、 それに自分が惹きつけられているのであってみれば、マーラーを聴くことを単なる「消費」に還元してこと足れりという訳にはいかないのだ。
こうしたマーラーを聴くことの難しさについて考えた挙句の結論は、演奏者に対して聴き手たる自分がコミットメントすることであった。 勿論、これは私固有の問題であって、一般化しようとするつもりは全くないし、他人のマーラーに対する接し方を 判断するための基準とすることは思いもよらないことではある。その上でマーラーを再びコンサートホールで聴くための条件として、私がマーラーの人と音楽に対して コミットメントしているように、演奏者もまたマーラーに対してコミットメントしていること、つまりは演奏者がマーラーを弾くことを望み、 必要としていること、そして自分が、そうした演奏者の演奏に対して、何某かの対価を払って出来上がった「製品」を受け取るのではなく、 演奏を作り上げていくプロセス自体に何らかの仕方でコミットすることができれば、コンサートホールにわざわざ赴き、音楽を聴くという経験は 全く質の異なるものになるだろう、と思われたのである。勿論、チケットを買うこと、コンサート・ホールに赴くこと自体が、結局のところ 演奏を作り上げていくプロセスも含めた演奏に対するコミットの一つの仕方であるということだって出来るだろうが、それが錯覚であったとしても、 マーラーの音楽を骨董品のように、過去の、遠い異郷の文化的・社会的文脈に位置づけて理解することによって我有化するのではなく、 自分が作品を取り込むことによって、作品に埋め込まれたマーラーの認識の様式を、反応の様態を自分の中に移植すること、 マーラーに他者として対峙し、そうすることで逆に自分が少しだけマーラー「になる」ことが私にとって問題であるのであってみれば、 マーラーの音楽の演奏に対しても、完成品を対価を払って受け取る以上の何かが必要に感じられたのである。
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だが現実には、ジャパン・グスタフ・マーラー・オーケストラの第8回定期演奏会について言えば、結果的には通常のコンサートを聴くのと ほとんど変わるところがなかったということになるだろう。違いがあるとすれば、演奏者のマーラーに対するコミットメントに関してであって、 このアマチュア主体のオーケストラについてはそれは明らかであり、それどころか寧ろ私など足元にも及ばないレヴェルであることは疑いえないことなのである。 仮に私が、マーラーの作品のあるパートを、一緒に演奏する方々に迷惑をかけない程度に弾ける技量を今尚保持していたとしても、 私にはプローベに継続的に参加するだけの時間的・体力的・精神的な余力が残されていないのははっきりしているのだ。 であって見れば、そうしたコミットメントに対する敬意と賛意を表するためにコンサートホールに足を運ぶことが私にとって可能な コミットメントの仕方であり、まさにそうしたことを考えながら、幸いなことに時間的な余裕にも体調の小康にも恵まれた日曜日の午後に、 これまた幸いなことに、その種の音楽ホールとしては比較的在所から近いミューザ川崎に向かったのである。
上記のような経緯からもはっきりしているように、私は普通の意味でコンサートを聴きにいった訳ではない。だからいわゆる演奏会評を 書くことなど思いもよらないし、それだけの素地が私にないのは明らかだから、演奏がどうであったかを客観的に書くこともしない。 多分、それらは他の、その資格のある方がされるだろうし、演奏「そのもの」はこれまでそうであったようにCD化されるだろうから、 「客観的」な記録としてはそれを聴けばいいということになるだろう。勿論、演奏者にとって恐らくはそうであるように、私にとっても そのCDの価値は、「客観的」な記録などではなく、その日にそこで起きたこと、私の中で起きたことを(不完全ではあっても)再生する きっかけのようなものといった位置づけになるのだと思うが。
言い方を変えれば、6月13日にミューザ川崎の音楽ホールで経験したことをもって、コンサート・ホールでのマーラー演奏「一般」について の私の考え方が変わった訳ではない。私はこの経験が些か特殊な条件に拘束されていて、その拘束が経験の質に影響したことを否定しない。 アマチュア主体のオーケストラを演奏を、プロの演奏と比較して精度を云々するのは筋違いだろうし、「客観的」にはこの演奏よりも 「良い」演奏は幾らでもあるということになるのかも知れない。だが、だとしたら私には、そういう価値論的な座標系における「良し悪し」など せいぜいが副次的な意味しか持たないということになるのだろう。ある意味では、かつて私がコンサートホールで聴いた(恐らくは 「客観的」にはもっと精度の高い)マーラー演奏に何故感動できなかったのかの一部を確認できたような気がしたし、その一方で コミットメントについての昨今の自分の考え方がそんなに間違ってはいなさそうだということの確認もできたように思える。つまるところ、 マーラーの音楽がコンサートホールで響くことの意義が、豊かな実質を伴って明らかにされる現場に立ち会うことができたのだ。

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いずれにしても20年ぶりにコンサート・ホールでマーラーの音楽がリアライズされる現場に立ち会った印象は、主観的にはこれまでのコンサートでの マーラー演奏のどの聴取にも優る、素晴らしい経験であったことはここに記録しておきたいと思うし、もう少し具体的に、自分には どのようにその演奏が響いたかを下記に書きとめておきたいと思う。この演奏は、マーラーの音楽のリアリゼーションが説得力を備えるために必要な 何かを確かに備えていると感じられたし、常にというわけではなくても、マーラーの音楽の持つ「音調」を捉えていたと思う。再び傲岸不遜な 言い方をすれば、私の中に埋め込まれている音楽と、当日コンサートホールに響いた音響とが確かに共鳴し、圧倒される瞬間に 事欠かなかったのである。
テンポの設定はこれまでのCDで確認できる同じ演奏者による他の曲の演奏におけるのと同様ゆっくり目であったが、緊張感は保たれ、音楽の流れが 停滞することはない。幾つかのテンポを交換させることによって音楽の重層的な構造を明らかにし、複数の時間の流れの質の 差異を際立たせ、そうすることによって遷移していき、交替しながら、再現するたびに少しずつ変容していく風景の変化を支える 巨視的な法則の存在を感じさせることに成功していたのは、指揮者の解釈の卓越を証するものだろう。
そういう側面がとりわけ鮮明に感じられたのは、第3楽章のスケルツォとトリオのテンポの設計、同じく第5楽章のロンドとエピソードの テンポの設計で、間に挟まれるNachtmusikの底流として、第1楽章から第5楽章へと流れていくブリッジの役割を第3楽章が 果たしていることがはっきりと感じ取れたし、急がない、だが眩いばかりの響きの色彩に富んだ第5楽章の設計は、全曲のコヒーレンスを 浮かび上がらせ、この曲を端的な失敗作と見做す立場や、とりわけ第5楽章に或る種の「確信犯」的失敗を見出そうとする立場に 対する極めて説得力のある反例たりえていたと思う。指揮者はパンフレットの文章でメンゲルベルクのテンポの記録と並んで クレンペラーの晩年の録音を参照していたが、私が思い浮かべたのは、この曲を失敗作と考えていたクックの認識を改めさせたらしい 1960年のバルビローリの演奏記録である。要するにコヒーレンスを実現するのは、単純な演奏時間の長短ではなく、全体と部分の 関係におけるテンポの推移、ないし交換(不連続にレイヤーが切り替わることがあるので)の把握の問題なのだと私には思われる。
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今回の演奏の特色の一つに、近年精力的に行われている国際マーラー協会のマーラー全集の再校訂作業の一環である 2007年のラインホルト・クビークの校訂版を用いていることが挙げられるだろう。私は残念ながら事前に楽譜にあたることができず、 いわばぶっつけ本番で演奏を聴いたのだが、パンフレットに指揮者の井上さんが書かれていた変更点のうちの 幾つか(具体的には19小節目のチェロとファゴットの3連符の最後の音の変更と第1楽章266小節Subito Allegro I以降の テンポ設定、336小節の第2ヴァイオリンの改変の3点)は、聴いていておやっと思って、後で確認して新校訂版に 依拠したゆえのものであることが確認でき、非常に興味深く感じられた。(正確を期せば3点目については明らかにおかしいと思った というよりは、対向配置であることもあり、何となく「あれ、こんなだったかな」と感じた程度だったが、こういうところも コンサートならではで、録音で聞き分ける自信は私には全くない。)
ちなみに上述の3点について、所蔵している自筆総譜のファクシミリはどうなっているかと思い確認してみた結果を以下に メモしておく。
  • 第1楽章19小節:手前のト音の真上よりは少し左上に臨時嬰記号が書かれている。高さとしてはト音につけられた とするよりはその後のイ音に付けられたとする読みの方が妥当に思われる。
  • 第1楽章266小節:明らかにZiemlich hastig。ruhigには読めない。前の校訂版が別の資料に依拠していたとしか 思えない。
  • 第1楽章336小節:ここは厄介な箇所で、どうやら訂正した形跡が見られる。第1音と第2音の間にタイはあるようだが、 それとは別に、第2音の前にはオクターブ下あたりからのポルタメントの指示のような線があり、第1音の周辺には訂正した 結果消去をしたらしい痕跡が認められる。2音目のアクセントは(第1ヴァイオンもそうだが)ファクシミリにはない。 更に、誰の筆跡かわからないがクエスチョンマークもついていて、ここの部分、特にポルタメントのような線をどう読むか、 判断に苦しむ部分のようだ。全くの臆測だが、私の読みでは、マーラーは、このファクシミリでは 第2ヴァイオリンも第1ヴァイオンに追いつくように、2音目で記譜よりオクターブ上の音を弾くように8vaの記入により指示しているから、 件のポルタメントは、1音目の音高、即ち記譜された通りの高さから、2音目のオクターブ高い音へのポルタメントを 要求したのではないかという気がする。すると1音目と2音目を結ぶのはタイではなく、スラーと考えるべきだということになるのではないか。
なお、いずれも初版の出版譜と前の全集版、更にはレートリヒの版との間には上記3点には違いは見られないが、 ファクシミリは寧ろ今回のクビークの校訂を裏付けるものであるように窺える。ただしこのファクシミリは、出版譜とは 異なる部分が大変に多く、かなり前の段階の資料と考えるべきもののようであることは留意されるべきだろう。一例を 挙げれば、終楽章の練習番号268番のあの「調律されていない金属の板」の部分のNBが初版譜にはないのは良く知られていると思うが、 所蔵のファクシミリにはそもそもパート自体が存在しない。練習番号269の大太鼓とシンバルは下に段を足すかたちで後から追加されている のが明らかなのだが、「調律されていない金属の板」はそうですらなく、全く存在していないのである。従って そもそもファクシミリの解釈が困難な最後の点については勿論、他の2箇所についても、ファクシミリだけ判断するのは危険で、 前の全集版の校訂の報告、今回のクビークの校訂報告を参照する必要があるのは勿論だが、恐らくはそれらが 参照しているに違いない他の資料との比較検討が必要だろう。
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第7交響曲は、マーラーの作品の中では比較的コンパクトな編成の管弦楽のために書かれているが、アマチュア主体の オーケストラということもあり、実質的に倍管に近い編成のパートもあったようだ。しかし特に中低音が充実している(特に コントラバスとヴィオラの存在感は目覚しいものがあった)弦楽器とのバランスは不自然ではなかったし、 ソロ・パートが多く「歌う」ことを求められるティンパニとグロッケンシュピール以外は 調律されておらず非楽音的な側面の強い打楽器群、これまたオーケストラの楽器としては特殊な第4楽章に用いられる マンドリンとギターの響きも埋没することなく、広大な色彩のパレットと繊細で透明な響きの両立という、とりわけこの作品に 顕著な特質も不足なくリアライズされていたと思う。
管弦楽のための協奏曲の先駆の一つとも見做されうるようなソロ・パートが頻出し、複数の楽器が重ねられていても、 それがそのまま音響的な色彩のパラメータに直結するような管弦楽法の結果、奏者への負担は極めて大きなものがあり、 パートによる出来不出来が結果として出てくるのは、一発勝負の実演であるゆえ仕方のないことだし、 既に述べたように、いくつかの層が交替しながら並行して動いていくような構造の作品故に起きる頻繁なテンポの変更、 詳細を極めるアゴーギグの指示に対して大管弦楽が敏捷に対応するのは極めて困難で、それゆえプロの演奏でも、 リハーサル不足による拍の取り方の読み違えによる混乱が起きたかと思えば、その一方で安全運転に徹するあまり テンポの交替を平板化したような演奏もあり、更にはアゴーギグに対するアンサンブルに神経質になりすぎた挙句、肝心の 楽曲の持っているベクトル性が損なわれ、緊張と弛緩のコントラストがなくなってしまうこともまた、まま起きるようだが、 アマチュアのオーケストラで実現できる精度の範囲で指揮者の意図が徹底され、音楽の実質が最大限にリアライズされる という点で、この日の演奏は目覚しい成果を挙げていたように私には感じられた。
細部の解釈とかテンポ設定の問題ではなく全体として受けた印象でこれまでの中で最も近いのは、 奇しくもベルティーニがベルリン・フィルを指揮したものをFM放送でかつて聴いた時の印象だろうか。今回の演奏でも 楽章間でチューニングを行っていたが、ベルティーニも楽章間でのチューニングを厭わなかったと記憶している。 にも関わらず次元の豊かさと全体のコヒーレンスの調和、とりわけ終楽章の説得力という点ではこれは際立った演奏だったが、 そうした点に通じるものを、この日の演奏に見出すことができたように思えるのだ。
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演奏精度を超えた部分に演奏の成功の成否があるというのは、やはりその作品に何かが欠けているということを 証しているのだという意見に対して抗弁するつもりはない。もしそうならば、おしなべてマーラーの作品すべてについて、100年後の 異郷で演奏し、聴き続ける場合にはそれが当て嵌まると思えるからであり、そういう意味では第7交響曲よりも そうした傾向が強いマーラーの作品は他にもある。だがそもそも、私個人としてはマーラー以外の過去の異郷の音楽は 更に疎遠であって、個人的な経緯もあって、唯一辛うじてマーラーのみがアクチュアルな問題をつきつける他者性を 喪っていないとも言えるのだ。それはこの曲がマーラーの生前にどのように受容されたかといった話題ともまた、別の 次元の話であって、寧ろ私には、シェーンベルクのあの擁護、アドルノをすら戸惑わせたあの第7交響曲の擁護こそ、 時代を超えて共感できる立場に思われるのである。
もともと私は個別の部分の演奏精度があまり気にならない(そうでなければ 歴史的録音の幾つかは聴くに耐えないものになるだろう)こともあって、寧ろこの曲の演奏に説得力を持たせるために 不可欠な何かが、この演奏には確実に備わっていることが感じられたことに圧倒された。もっとも個別の部分をとっても 思わず身震いするような魅惑的な瞬間には事欠かない。一例を挙げれば第1楽章の練習番号60番以降、 コーダに至るまでは、オーケストラ全体が、いわば「入った」状態になったことがありありと感じられて、今思い起こしても その感覚がまざまざと甦るような、圧倒的な経験ができたように思える。
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終演後は体調を慮ってすぐに帰途につきはしたが、私は帰宅して後、オーケストラの事務局に対して上記の印象の一部を 御祝いの言葉ともどもメールで送った。来年に予定されている定期演奏会では第9交響曲を取り上げるとのこと。 是非、演奏会に立ち会いたいと思うのは勿論だが、仮にそれが何かの偶然で叶わないことが生じた場合でも、 マーラーの音楽という「ミーム」を1世紀後の異郷で継承していく隣人として、このオーケストラに対するコミットメントは 続けていきたいという気持ちを再確認させる演奏会であった。そして最初にも述べたように、コンサートで音楽を聴くことを 消費に終わらせて、不確かであるばかりか、存続性については更に疑わしい「感動」とやらを対価として得ておしまいではなく、 それがつたない、ほとんど無価値なものであって、書かれて公開されたという事実性のみにしか拠り所がないものであっても、 自分が受け取ったものを無にしないために、こうして感想を公開する次第である。(2010.6.20)

2010年6月6日日曜日

マーラーの「詩と真実」

21世紀に日本に生きる人間がマーラーの幼年時代を思い浮かべるのは難しい。150年前の異国の風景をどのように 再構成したら良いのか。けれども、例えば第1交響曲のあの序奏を聴けば、そうした想像をしてみたい気持ちを抑えるのは難しい。
勿論それはマーラーが実際にかつて見た風景そのものではないだろうけれど、第1交響曲に限らず、おしなべてマーラーの音楽は (彼自らそう語ったように)作曲者自身の経験と密接な関連があるのは疑いない。同じ風景を見ても、そこになにを見出し、何を 受け止めるかは人それぞれだろう。それゆえ、多かれ少なかれ他の音楽についても言えることではあるとはいえ、とりわけマーラーの ような音楽の場合には、風景の感受の「如何にして」への共感を聴き手が持てるかどうかが、その音楽の受容にとって決定的な 意味を持つのだろう。そうして受容されたものは、今度は聴き手の体験のあり方に応じて様々な変容を経て聴き手の中に 埋め込まれていく。絶対音楽と標題音楽の論争の脇で、享受と享受の伝達としての音楽、享受の享受といったプロセスを 考えてみるわけだ。これはもちろん、その音楽がどのような「意図」をもって書かれたかという(例えばフローロスが拘りそうな)議論とは とりあえず関係ない。強いて言えばマーラーの音楽が持っている自伝的な側面が、こうした聴き方を相対的に容易にするというのは あるだろうが。
だがここではそうした享受に纏わる脈絡は一旦捨象して、マーラーが見た筈の風景に如何にして近づくことができるかを問題にしよう。つまり、 マーラーの隣にいた誰かが見たかも知れない風景、もし私がマーラーの隣にいたら見たかも知れない風景へのアプローチに問題を 変換してしまおう。そうしたとき、マーラーの時代には既にあった写真、伝記作者たちが蒐集した当時の状況を覗わせる資料と いったものが手がかりとして思い浮かぶ。
例えば手元にある資料の幾つかには、今日(といって撮影されたのはもう数十年前だが)のカリシュテやイフラヴァのカラー写真がある。 マーラーの生まれた家は、その一部が1937年に消失したため改築されたという事情もあり、全て元のまま、というわけではないにしても保存されているし、 イフラヴァでマーラーの家族が生活した建物も残っている。これが決して「当たり前」ではないのは、自分の幼少時の風景の多くが最早残っていない場合を 思い浮かべればわかる。私が幼少時に生活した家はもう残っていないし、周囲の風景もかなり変わってしまい、自分の記憶の中の風景は最早自分の中にしか 残っていない。その一方で、当時撮影した写真でもあれば、自分が見た視線の高さ、自分が知覚した物体の大きさそのものではないにしても、 当時の様子を知ることはできるだろう。
そして同じことが幸いマーラーの場合には可能である。1912年頃に撮られたらしい写真が残っているのだ。もっとも、 実はマーラーの家族がカリシュトからイーグラウに引っ越したのはマーラーが物心つく前(生後わずか4ヶ月程)だから、カリシュトの風景についてマーラーが どのような記憶を持っていたかはわからないということになるだろう。あるいは物心ついてから改めてカリシュトを訪れ、自分の生まれた家の 周りを歩いたことがあっただろうか。
イーグラウの街についても同様に、マーラーが住んだ家、中庭〈明らかに時期の異なる2種類〉の写真、内部の階段の写真もあれば、市立劇場やシナゴーグ、 街の広場の写真もあれば、当時の市街の平面図(地図)もあり、マーラーの居宅が街のどこにあったのかを確認できたりもする。写真だけでなく、恐らく 写真の代替の役割をしたのであろう版画まで範囲を広げれば、街を郊外から眺望したもの、郊外の風景などもあり、そこをマーラーが訪れた証拠など ありはしないけれど、マーラーの幼年時代の周囲の風景を想像するよすがにはなる。
幼少時のマーラーの写真としては、1865年頃、すなわち5歳の頃のマーラーが椅子の脇に立ち、右手には帽子を持ち、左手で椅子に置かれた楽譜を 押えている写真が有名だろう。更には1871年に撮られた写真、その翌年、従兄弟のグスタフ・フランクと一緒に写っている写真があって、ここまでが イーグラウに住んでいた時期のマーラーを写したものである。(実は1878年と1881年のマーラーを写した写真も撮影場所はイーグラウのようで、帰省の折に 撮られたものらしいが。)
これらに加えて、バウアー=レヒナーやアルマの回想録中にマーラーの回想として記録されている幼少時のエピソードが加わり、例えばド・ラ・グランジュが あるいはフランクリンが筆の力で描き出す風景が加わる。私が心の中で構成するマーラーの幼少時の風景は、これらのものに基づくパッチワークである。 こうした作業が可能なのは、私の場合マーラーをおいて他にいない。理由は単純で、それをするための資料がないからである。だがマーラーの場合についていえば、 自分自身の記憶だって断片的な映像とエピソードの集積であることを思えば、そんなに条件は悪くはないとも考えられる。 勿論、一方にはあるクオリアが他方には全く欠落しているという決定的な違いはあるが、それをおいてもマーラーと自分との間にある距離の大きさを 確認することが出来る程度の厚みはあるといえるだろう。 そしてその厚みは、子供のころにマーラーの音楽を聴いて、音楽によってのみ自分が見出しえたと思いなし、錯覚した風景とは勿論一致しない。
だがだからといって、原理的には可能にも関わらず、ここで私が簡単にシミュレートしたような方向性から背を向け、オペラやら演劇の多くや一部のバレエの 演出と同じように、演出家なり監督なりが今日に相応しいとされる「読み替え」を行って自己顕示を行うための素材としてマーラーを利用したとしか 思えないケン・ラッセルのおぞましい映画や、それ自体には根拠が全くないわけではない連関を逆手にとってトーマス・マンの小説にマーラーの虚像を 重ね合わせることにより、結果的にマンの原作に対する読み替えの成否などそっちのけでマーラーについての誤解を蔓延させるについてはどうやら著しい 「成功」を収めたらしいヴィスコンティの「ヴェニスに死す」やらを、生産的な受容として顕揚することなど真っ平御免である。とりわけ一応は「伝記映画」という 触れ込みの前者には、そんなところだけには俊敏に反応するジャーナリスティックなセンスを誇示せんばかりに挿入されたわずか3年前のヴィスコンティの 「ヴェニスの死す」の映像のパロディとともに、こちらは「創作」と思しきマーラーの幼年時代のエピソードらしい映像が幾つかでっち上げられている。 それらも含めて総じてケン・ラッセルがマーラーの伝記を渉猟し、細々としたエピソードを調べ上げた上で「フィクション」としての味付けとやらをしている点を 好意的に評価する向きがあるのを知らないではないが、それでもなお私がそこに見出すのは、きちんとした考証を行う手間の方は割愛し、 その代わり本人は自信たっぷりに映画館のスクリーンで多くの人間にそれを晒す価値があるとどうやら思っているらしい、そしてこの映画を評価する向きには マーラー本人の強迫観念のもたらしたファンタスムの的確なリアリゼーションということになるらしい、勝手気儘な空想に過ぎない。 どうやらこの作品の独創性なり価値なりの根拠となるらしい「フィクション」化についてもまた、私には寧ろ想像力の貧困とマーラー本人が備えていたらしい 人格的な高潔さや精神性に対する底知れぬ悪意をしか感じ取ることができなかった。それ自体は決して悪い演奏ではないハイティンクが指揮する コンセルトヘボウ管弦楽団の演奏するマーラーの音楽が、その音楽を生み出した本人を肴にした、共感すら疑わしい(もしそこに「共感」があると主張するなら、 それは「共感」ではなく、寧ろ自分勝手な思い込みの類に過ぎないといいたいように思う)恣意的な映像に重ね合わされるのは私にとって苦痛以外の 何物でもないおぞましい経験だった。こちらはケン・ラッセル本人には関係ないが、日本での映画の公開があのマーラー・ブームの時期であったことも忘れてはなるまい。
勿論、自分がマーラーに対して抱いているイメージだって偏っているだろうし、それが権利上正当なものだと主張するつもりはない。だが私は、それも一つの 偏った見方だとしても、マーラーを「聖人」として描き出したシェーンベルクの側に断固として与したいと思う。意地悪に冷静な人は、そのシェーンベルクが 存外ケン・ラッセルの映画を評価したかも知れないではないかと混ぜ返すかも知れないが、こればかりは、頼りになるのは自分の直観だけであっても、 決してそんなことはなく、もしシェーンベルクが存命であれば(カーチャ・マンとアンナ・マーラーの抗議の方は「事実」にまつわるものであるからやや 趣を別にするのだが)、かつて「ヴェニスに死す」に対して「マーラー派」の少なからぬ人間が示した強烈な(ヒステリックと他人が言うかも知れない)反発と抗議に 恐らくは与したであろうように、ここでも同じ反発が繰り返されたに違いないと私は確信を持って言いたい。かつても「マーラーといえば「ヴェニスに死す」」のような 反応やら、マーラーは嫌いだが「ヴェニスに死す」は例外であるといった論調があって、今よりもずっと党派的な偏狭さの中に無自覚に居た私は随分と憤慨した ものだが、今日ではそもそもそんな騒動があったことなどすっかり忘れられ、受容史の一齣として年表の中に納まってしまったかのようで、それはそれで 違和感を感じずにはいられない。
勿論、だからといってマーラーの故地を訪れる式のドキュメンタリーの類が望ましいと言いたい訳では決してない。返す刀で例えばレゾフスキーの映画を顕揚しようと いうわけではないのだ。私は単に、例えばマーラーの幼年時代というのがどんなものであったかを感じとってみたいだけなのだ。事実の集積は必要だ。だけれども、 それは状況証拠に過ぎない。マーラーの回想自体、マーラー自身が意識的・無意識的に加えた変形を経たものであって、「事実」とは異なる、というよりは、 マーラーがそのように語ったものの別の展望を示すことが可能であるような類のものであることに留意すべきだ。マーラーがそのように受け止めたという事実と、 だが状況は他人の目から見たらこのようであったという事実の両面を考慮すべきなのだ。
マーラーの人と音楽の関係の特異性についても、それをむやみに強調し、安易な伝記主義による関連づけをするような姿勢に対する懐疑は必要だろう。マーラーの音楽に 過剰な物語を押し付けるのは、音楽から作曲者に対する伝説を仮構する(マーラーの場合なら、子供の死の歌にまつわる錯誤が典型だろうか)のと同様の滑稽さを 帯びている。その一方で、マーラーの音楽にある自伝的側面、それが「体験」に基づいたものであるという側面を軽視することも別の極端であって、 表面的には伝記的事実と直接的に関連づかないとしても、それでもなお作曲者その人によって「生きられた」ものである点に私は拘りたいと思う。
マーラーは何かの信条を表明することを「目的として」、音楽をその「手段」と したのではない。そういう意味ではマーラーの音楽は狭義の標題音楽ではない。だがそれは、例えば「カラマーゾフの兄弟」が、ドストエフスキー自身の経験、彼が 書き留めた様々な現実の事件を素材とし、ドストエフスキー自身の信仰に対する考えに導かれながら、物語固有の世界を備え、固有の力学を持ち、 一つの世界を形作っているのと同じだ。幾ら素材を渉猟しても、いくらドストエフスキーの意図を実証的に跡付けたとしても、それは「カラマーゾフの兄弟」そのものの 読解とは別であるのと同様、マーラーの音楽を聴くために、素材の渉猟や意図の実証的な跡付けが必須なわけではなく、寧ろそれは端的に別のものと考えた 方が寧ろ正しいのだろう。あるいはこれまたマーラーの読書の中核を占めていたゲーテの創作と生における「詩と真実」を考えてもいいだろう。
だがしかし、私は音楽だけでは不充分なのだ。少なくともマーラーの場合だけは、音楽ではなく、音楽とは別に、そういう音楽を作り出した人を、その人の生を 探ることを止めることがどうしてもできない。極論すればマーラーの音楽の音調は半ば私自身であるといっても良い程度には、自分の中に埋め込まれてしまっている。 だがこれは私「の」音楽ではなく、ある他者の作り出したものなのだし、実際、埋め込まれつつもそれは時折、他者の声として私の中で響くことがある。私自身の 幼年時代と違った幼年時代の印象が、音調の中にこだましている。克明さにおいても、クオリアの強度においても自分がかつて見た風景とは決定的な違いを 持ちながら、マーラーが見た風景が、マーラーが風景を受容したときの情態が、私の中に甦るような気がするような一瞬が確かにあるのだ。それが「客観的に」 どういう価値を備えているのか、そんなものが世代を超えて伝達されることにどういう意味があるのかは杳として知れない。だが、そうしたことが起きることは 私を非常に強く魅惑する。マーラーの愛読書でもあった「意志と表象としての世界」の第3部(特に第52節)の中でショーペンハウアーは音楽を「意志全体の 直接の客観化」であるとし、音楽が表明しているものを「現象ではなく、内面的な本質であり、あらゆる現象の即自態であり、意志そのものである」としている。 レムが「ゴーレムXIV」の講義に仮託して述べているように、ショーペンハウアーは過度の一般化をしてしまったに違いないし、だから粗雑にも「意志」と ショーペンハウアーが呼んだものに、現代なら可能になった肌理の細かさを回復させる必要があるだろうから、それに応じて上述の音楽についての言及も 翻訳されなおす必要があるだろうが、にも関わらず、ショーペンハウアーは極めて優れた直観を備えて、音楽によって世代を超えて伝わるものを言い当てている ように思えてならない。ちなみにショーペンハウアーが範例的に思い浮かべていた音楽が、単に時代的な前後関係から無理だからというだけでは決してなく、 マーラーのような音楽ではないということは、この場合には問題にならないと考える。マーラーの音楽は、これはアドルノが別の文脈で的確に言い当てている ことだが、極めて「唯名論的」であって、例えばショーペンハウアーが上述の引用のすぐ後で述べていることと一見したところ一致しないように見えるかも知れないが、 実際にはそれは問題ではないはずなのである。だが、これらについては項を改めて述べるべきだろう。(2010.6.6)

2010年5月29日土曜日

マーラーの本棚

今年はマーラーの生誕150年にあたり、コンサート・プログラムでは例年にもましてマーラーが取り上げられることが 多いようだし、日本国内だけ見ているとあまり実感がないが、海外まで視界を広げれば、マーラーに関する書籍の 出版の頻度は目だって高いように見える。だが、自分でも何かやろうと思ったところで、そういう暇などありはしない。 マーラーだって日曜作曲家だったが、私がマーラーを聴いたり、マーラーに関して書いたりするのは (自分でどうそれを定義しようと)世間的には「趣味」ということになるだろうし、であってみれば「趣味」如きに時間を 割くことが許容されるほど「世の成り行き」は甘くはない。今年はマーラーのアニヴァーサリーである、という認識自体、 「世の成り行き」の中では、かき消されてしまうほど小さく、限られた圏域でのみ共有されているに過ぎない。 マーラーなど必要としていない人間は幾らでもいるし、マーラーの存在さえ知らない人間は更に多いだろう。 そうした大多数の人たちに対してマーラーの価値を唱道することなど己の能く為すところではないし、その権利も 必要性も認められない。

というわけで「世の成り行き」は寧ろマーラーについて何かをしようとする時間を奪い去る傾向を年々強めている。 なくなるのは時間だけではない。気力・体力もまた確実に奪われていく。それでも体を壊さない程度には 休めている現実を感謝すべきなのかも知れないが、時間があるんだから、文句を言わずその時間にやれば いいだろうと言われてしまうと、自分のキャパシティの小ささに絶望せざるを得ないということになる。 ワーカーホリックとさえ言われる(例えば、福島章「マーラーは 時代を先取りする」を参照)マーラーのような勤勉さがあればともかく、遥かに及ばぬ己の怠惰をどうすることもできず、 〈丁度今、そうであるように〉偶に休みに本当に空いた時間ができても、マーラーがマイアーニヒで休暇の第1日目を過した折、 アルマに宛てた書簡に書いたように「ばらばらになった私の内的自我の破片をとりあえずざっとかき集め」 〈1904年6月23日付け書簡、白水社版の酒田健一訳による〉ているうちに大抵の場合には終わってしまい、 何かすることなどできないことの方が多い。こうした文章を書いている時は相対的にはましな方なのだ、、、

ショーペンハウアーは「読書とは他人に考えてもらうことだ」と書いていたと思うが、自分の頭が働かないならせめて読書をと思って、ここのところは通勤などの移動時間にマーラーが読んでいた書物を読むというのをやっている。 それまでは論文を読む作業を続けていたが、論文の場合にはメモを取り、整理する時間が必要なのに、それが取れないため、已む無く中断することにしたのだ。 マーラーの読書傾向については別のところで「人物像:本棚」と題してとりあげているが、マーラーに対して私が 拘りを捨てきれない理由の一つとして書物の嗜好に対する親近感があるのは間違いない。そこで窮余の策という わけでもないが、限られた時間と能力で可能なこととして読書が残ったわけだ。

マーラーの読書傾向についての情報の出所としては何といってもまずは書簡、そしてアルマやバウアー=レヒナーの回想が思い浮かぶが、 実際にはブルノ・ワルターの回想の「個性」の章の記述の影響が大きいのではなかろうか。 ワルターが挙げているのはショーペンハウアー、ハルトマン、ゲーテ(エッカーマンの対話集も含めて)、ヘルダーリン、 アンゲルス・シレジウス、ジャン・パウル、ホフマン、スターン、ドストエフスキー、セルバンテス、シェークスピアといったところだが、 それらに言及するに先立って、マーラーの読書傾向の特徴として科学の哲学的研究が多いことを指摘している点は 一層興味深い。ワルターが例として挙げているのは、フェヒナー、ロッツェと、ここでもまたゲーテの自然科学的研究である。 音楽が文学に多く素材を求めることから、作曲家は文学に通暁しているというようなイメージがあるが、実際には、 例えばブルックナーやフランクのように文学的なものに対する関心がほとんどないケースも少なくない。当然のことながら、 文学的なものに対する嗜好は勿論、一般に「教養」と言われるものの多寡は知性の高さと相関しているわけではない。 マーラーは自分でも自覚していたとおり読書家だったけれど、彼の文学的な書物の嗜好は、実はアナクロニックな側面があって、 同時代の文学よりも過去に偏し勝ちであったのに対し、哲学・科学の分野については同時代の動向に遥かに敏感で あったように見える。21世紀の今日から見れば100年前のマーラーの時代そのものが既に過去のものなので錯覚しそうになるが、 マーラーその人の立ち位置からの展望からすれば、文学的な嗜好の保守性に対し、哲学・自然科学への関心は、プラトンや アリストテレスからマーラーが生きた同時代までの大きな広がりを持っている点が特徴で、最新の動向にも 敏感であったように思われるが、この点についても既に別のところで繰り返し取り上げているので、ここでは扱わない。 一つだけ挙げれば、ショーペンハウアーが「意志と表象としての世界」で提示した見方は、例えばスタニスワフ・レムが 「ゴーレムXIV」で言及している(第43講・自己論)ように、時代の制約からあまりに思弁的に過ぎ、今から見れば滑稽にさえ見える過度の 一般化が著しいとはいうものの、一般に思われている以上にずっと現代的な側面を備えているということを 最近「意志と表象としての世界」を再読して確認したことは書き留めておきたいように感じている。

その一方で、マーラーの「大地の歌」における「東洋趣味」なるものの背景には、ショーペンハウアーの影響が少なからずあるのではなかろうか。 ニーチェが自説をゾロアスターに託したことはおくとしても、リュッケルトにせよ、フェヒナーにせよ、中国ではないにしてもペルシアやインドまでは 関心の領域に含まれているわけで、時代の趣味と無関係とまでは言えないにしても、やや異なった思考の流れをそうした系譜に読み取ることが できるように思われる。(ちなみに日本ではショーペンハウアーは、戦前以来、デカルト、カントと一まとめにされるくらいの知名度を持っているが、 西欧においては寧ろ傍流扱いされているようで、この辺も日本にいると遠近感が狂いがちな部分のようだ。)

もう一つ気付いたことだが、バウアー=レヒナーの回想で第3交響曲のフィナーレについて語ったくだり(邦訳p.142)に出てくる「イクシオンの車」は、 恐らくは確実に「意志と表象としての世界」でそれが出現する文脈(第3巻第38節)を踏まえて言及されているように思える。同様に「子供の魔法の角笛」と アンゲルス・シレジウスが第3巻第51節で一緒に論じられているのも興味深いし、実際にショーペンハウアーが好んだ音楽は(ゲーテがやはりそうで あったように)マーラーの嗜好とは必ずしも合致していないにしても、マーラーが音楽や作曲の営みについて語った言葉には、第3巻の掉尾を飾る 第52節の音楽論がこだましているように感じられてならない。実証的な研究にならないからかも知れないが、「意志と表象としての世界」の内容や 言い回しとマーラーのそれとの関連について、具体的な言及がなされないのは些か奇異にさえ感じられる。例えばカントとは異なって、ショーペンハウアーの 主著は決して難解な書物ではない。もしあるとすれば、あまりに飛躍した論理や気儘なアナロジーについていけないケースや、体系性を欠いている点に 苛立ちを感じたりといったケースだろうが、それにしてもこれだけマーラーに関する言説がある中で、ショーペンハウアーとの関係の具体的な様相についての 言及をほとんど見かけないのは不思議だといった印象を、改めて確認した。

もっとも、さすがに上に述べた第3交響曲フィナーレに関する発言については、 言及されている文献もある。例えばフランクリンの第3交響曲についてのモノグラフ(Cambridge Music Handbooksのシリーズ所収)のpp.40-41は 直接言及しているし、フローロスのマーラー論第3巻の第3交響曲の章では上掲のマーラーのコメントに言及している箇所(p.99)こそ、イクシオンの車自体の ついての注記のみであるが、それに先立つ部分では、フェヒナーにも目を配りつつ、ショーペンハウアーの影響については論じている(pp.81-82)。フローロスに ついては邦訳の方がより徹底していて、p.133の訳注で「意志と表象としての世界」の該当箇所の参照と引用がされているほか、ジャン・パウルの 「ジーベンケース」および「巨人」における使用例についての言及もなされている。フローロスは第4交響曲に関してもショーペンハウアーの影響を論じており、 そうした言及自体は実証的な観点からも妥当なのだろうが、いずれにしてもキーワードを媒介とした単なる言及に留まり、作品全体のコンセプトの ようなものに対する検討にはなっていない点はフローロスの「プログラム=標題」についての主張を思えば、些か表面的であるとの謗りを免れないであろう。 もちろんこれは邦訳のないフローロスのマーラー論第1巻の第4章「美学」第4節「芸術と世界:形而上学としての音楽」、特にその中の「ショーペンハウアーと ワグナーの音楽哲学と夢の理論について」の項(p.152以降)とそれに続く項(p.155以降の「マーラーのショーペンハウアー・ワグナー的音楽哲学の解釈: 音楽の形而上学的宗教的な使命」)の存在を考慮に入れた上での印象である。

ちなみにショーペンハウアーとゲーテとの交流を反映してか、「意志と表象としての世界」には「ファウスト」への言及も随所にあり、第1部のグレートヒェンについてがそのほとんどを占めるとはいえ、 それをマーラーのそれ(第8交響曲のみならず、それ以前・以降も含めて)との関係の様相もまた興味深いものがある。 (一方で、この主張が甚だ一方的であることも否定し得ない。慧眼な方なら、私がマーラーの友人であったリーピナーの存在を全く無視しているのは根拠もないし、 フェアではないと批判されるかも知れない。実際、実証的なフローロスは、リーピナーの影響の調査についても怠り無く、総じてフローロスのマーラー論第1巻は こうした点では非常に徹底しており、これが翻訳されずに第3巻のみの邦訳が出ているのは(仕方ないとはいえ)非常に残念に思われてならない。ともかくも、 結局、何を選択し何をしないかに偶然的な側面が付き纏うのは避けられない。 自分の展望でしかマーラーに接することはできないし、語ることもまたできないのだ。)
似たような事情は、やはり最近読み返した「ファウスト」そのもの、エッカーマンの「ゲーテとの対話」、ジャン・パウルの「ジーベンケース」、スターンの 「トリストラム・シャンディ」といった「マーラーの本棚」の書籍それぞれについても言えるように思われる。流石に例えばミッチェルは第1交響曲についての 記述のところでジャン・パウルの「巨人」をわざわざ一部引用して、マーラーの音楽との関係に留意しているが、その一方で、ジルバーマン「マーラー事典」の ジャン・パウルに関する項目のように、独断的にしか思えないような影響関係の否定の記述にぶつかると、果たしてジルバーマンがせめて一冊なりとも ジャン・パウルの小説を通読し、文体のみならず、主題や作品の構造について検討をした上で書いているのか、思わず疑いたくなってしまう。 スターンについて言及されることは更に稀だが、ジャン・パウル、ゲーテのいずれも(しかもその立場の相違、資質の相違に関わらず)、いずれもスターンを 非常に高く評価し、のみならず(終始常にではないにしても)自分の創作の或る種の手本と見做していたことすら窺えるのであれば、そこにマーラーの 精神的な「圏」の中の布置のようなものを見て取ることができそうに思われる。スターンから更にセルバンテス、「トリストラム・シャンディ」から「ドン・キホーテ」 へと広がるのもまた自然なことで、アナクロニックであれば尚のこと、そこにはマーラー自身が意識的に選びとった系譜がはっきりと読み取れるではないか。 「トリストラム・シャンディ」第1巻の冒頭の銘、エピクテータスの「行為ではなく、行為における意見こそが人を動かす」を、マーラーの音楽のメタ的な性格と引きつけることも 突飛とは言えないだろう。(アドルノの顰に倣いつつ、だがアドルノにやや逆らって言えば、マーラーの音楽の「小説」的性質を云々する際の、小説の モデルは、アドルノが引合に出しているものよりは、寧ろ、マーラー自身のこうした選択に添った流れ、寧ろバフチン的なポリフォニーを通じて20世紀の小説に繋がるような流れこそが相応しいと 私には感じられる。ドストエフスキーの「カラマーゾフの兄弟」、セルバンテスの「ドン・キホーテ」はいずれもマーラーの本棚の中でも特別な存在だったらしいが、 その長さにも関わらず、私自身繰り返し読み返す数少ない文学作品に含まれるこれらこそ、マーラーの音楽との対比に相応しいし、自分がマーラーを 聴く態度と、これらの小説に接する態度との間の親和性も確かなものだ。)

だからといって(例えばフローロスであれば恐らくそう主張するだろうが)、マーラーの本棚の書籍を読まなければマーラーの音楽を理解できない、という わけでは全く無い。フローロスの如き意見は、音楽を後づけで、あるいは外から説明するための語彙に音楽を還元しようとする 倒錯でしかなく、せいぜいのところが実証的なアプローチによって創作の文脈を明らかにすることが可能になるに過ぎない。 創作の文脈は、それによって生み出された作品そのものではなくその条件の一部に過ぎないし、寧ろそうした文脈の限定をはみ出る部分がなければ、 時代と環境の隔たりを超えて作品が享受され続けることも不可能になる。同じように、マーラーの音楽を聴くとき、作曲者がどのような書物を読んで いたかを知り、それを実際に自分でも読むことが必須の条件であろうはずがないし、そうすることが無条件に聴取の質を担保することもまたない。 ただ単に、私の場合にはこのような接し方をしているし、今後もしていくだろうという、ごく特殊な受容の具体例を述べて、 そうした視点からの展望と、それに対する素朴な感想を書き連ねているだけ過ぎない。そもそも生きている時代が違うのだから、特に マーラーと同時代のものに対しては視座の違いに応じて座標変換をすべきだし、実際そうしている部分もまた存在するのである。

例えばフェヒナーやロッツェ、ハルトマンのようなマーラーと同時代の思潮についていえば、私にとっての同時代のより新しい思潮に座標変換によって 移動するのが相応しいことのように私には感じられる。ショーペンハウアーは上述のように「ゴーレムXIV」のような文脈においても通用するような 先見の明を持っていただろうが、自然科学の分野において当時の知識の制限の下で書かれた部分まで有難がるのは少なくともマーラー自身の 指向とは背馳しているとしか思えない。ゲーテの植物論や色彩論にしてもまた然りだろう。今日にマーラーが生きていれば、今日の最新の知見に 関心を抱いたに違いない。この点について遠近法的な倒錯に陥った骨董趣味はマーラーその人の精神に相応しくない。そしてマーラーの音楽を 通じて私に伝わってくるマーラーの「声」は、座標変換をした後の、今日における展望の下でも依然としてその力を喪っていない。今日が 「マーラーの時代」だと言い募るのは、それ自体が視界狭窄に陥った度し難い傲慢さの現れとしか思えない。端的に、人間が、人間の意識の 様態が今のようなものであるうちは、マーラーの声は届くのだ。ジュリアン・ジェインズが「二院制の心」に関する仮説で示唆したような、意識の 様態の変容が今後更に起きた後の未来において、マーラーの声がどのように響くかは想像を超えているけれども。

マーラーが私にとって特別な存在であることを、最近の読書を通じて改めて確認できたことは、個人的にはアニヴァーサリーに相応しいことであったと 言ってよいのかも知れない。実際、同じことを誰に対してもできるわけではない。否、マーラーの場合が例外なのであって、他の作曲家に対して 同じことをやるのは自分の嗜好から言って無理だろうし、ただでさえ「世の成り行き」に翻弄されている中、時間的にも全く不可能である。 「所詮は趣味なのに何をごちゃごちゃ言っているのか」と言われれば返す言葉はない。けれど、単なる「趣味」ならもう窒息し、絶えてしまっているだろう。 マーラーはそうではない。それは自分の一部であり、寧ろ「世の成り行き」の中で維持していかなくてはならないものなのだ。 「お前の意識のあり方になど客観的には価値がない」と言われればそれまでだが、ショーペンハウアー風に言えば、「意識はかくのごとく 盲目の意志によって動かされているのだから仕方ない」というのが応答になろうか。将来において仮に「意識について」の諸々の問題が解けたとしても、 「意識にとって」の問題が解けたことにはならない。結局ところ私のような愚かな「意識」にとって、マーラーはこの上ない同伴者、水先案内人なのだ。 (2010.5.29/30, 6.6)

2010年4月18日日曜日

ある写真についての備忘

マーラーが生きた時代と今日との隔たりはおおよそ1世紀にもなるが、にも関わらず色々なレヴェルで地続きであることを感じさせられることが多い。 それもそのことが特徴的であり、目に付くという仕方ではなく、逆に地続きであるが故にうっかりすると気付かないのだが、何かのきっかけでそれを 意識するといった仕方でのことが多い。例えば街灯がつき、電話が開通し、鉄道網が形成され、といったことはマーラーの伝記に当たり前のように 出てくるが、もう半世紀遡れば事情は全く異なる。一方でアメリカとヨーロッパの往来は飛行機ではなく専ら船に依ったし、時代を代表する大指揮者にも 関わらず、ほんの十年くらいの差で演奏の録音が残っておらず、辛うじてピアノ・ロールへの記録があるに過ぎないとか、医療技術の限界から 今日であれば異なった治療法が可能であったものが、当時においては不治の病であったりといった点は時代の隔たりを感じさせる側面だろう。

マーラーその人を知る記録として膨大な自筆の書簡があるが、こちらはタイプライター、ワードプロセッサーを経て、今日であれば その一部は電子メールでやりとりされたかも知れない。その一方で動画こそないけれど写真によってマーラーその人やマーラーの周囲に居た人、 マーラーが生活した場所の記録が遺されているのは、これまた少し時代を遡れば望むべくもないことであり、マーラーその人に対するイメージの 形成に写真の果たしている役割は極めて大きなものがあるだろう。

ここでは「語録」「証言」のページによってマーラーが語ったと伝えられている言葉や、マーラーに関するイメージや価値形成に(少なくとも主観的には) 大きな影響のあった他者の言葉を、主として典拠の備忘の目的でまとめているが、写真についてはそうした作業の必要性をあまり感じてこなかった。 だが、ふと文献にあたっているうちに、マーラーのイメージ形成上、それなりの機能を果たしているであろう、ある1枚の写真を巡って気になることに 気付いてしまったので、備忘のためにここに記録しておくことにする。写真そのもの(の複製)を掲出することは、一つには著作権等の権利関係の 確認が煩瑣であることから、だが主として準備のための時間が取れないという理由で断念し、問題の写真を見ることのできる文献を記載することにする。

その写真は、私が尤も早期に入手した文献の1つである青土社の「音楽の手帖 マーラー」(1980)の中ほど、127ページから134ページの写真のコーナーで まず確認することができる。それはp.130の上半分を占めるマーラーが机に座っている室内の写真で、その机には大版の書物が幾つも広げられていて、 マーラーが背を向けている背景の壁には絵がかかっているもので、キャプションとして「早朝、オペラハウスの自室で、夏の間作曲した自分の作品を 清書するマーラー」という非常に具体的な記述がある。この記述を信じればその部屋は、どこかは特定できなくてもマーラーが勤務していた歌劇場の 執務室であって、広げられているのは自作のスコアや草稿なのだということになる。時期の特定についてはマーラー自身の容貌が手がかりになり、 マーラーの肖像写真を見慣れている人なら、この写真に写っているマーラーが40歳代の後半であることは容易に想像できるだろう。もっとも、 上記の文献の写真のページにおけるこの写真のおかれた場所、つまり前のページにアルマの写真と「ウィーン宮廷歌劇場へ向かう」途上と説明がついた マーラーの写真の後の位置、更には同じページの下に撮影年の特定された2枚の写真、つまり1906年の「ウィーンの街を行くマーラー」と 1909年の「夏の休暇中、避暑地で散歩するマーラー夫妻」があるという文脈から、これをウィーン宮廷歌劇場の執務室で撮影されたものと 考えてしまったとしても何ら不思議はないだろう。

同じ写真は、桜井健二さんの「マーラー 私の時代が来た」〈二見書房, 1987〉のp.94でも見ることができ、こちらは「歌劇場執務室でのマーラー」と いうキャプションがついている。見開きの隣である次ページにウィーン国立歌劇場歴代総監督の表があることからもわかるとおり、このページは 「"神聖な殿堂"への変革とその反感」と題された章の一部で、ウィーン宮廷歌劇場時代のマーラーについて書かれた部分であるし、 ここでの歌劇場はウィーン宮廷歌劇場のことに違いない。更には周到にも前のページには「歌劇場の執務室外景」の写真まで収められていて、 ページをめくると、その中に居るマーラーの写真に切り替わるといった配慮まで為されていて、まるでこの写真がウィーンの宮廷歌劇場で 撮影されたことは疑問の余地の無い事実であるかのような構成になっているのだ。さらに立風書房の「マーラー事典」(1989)のp.103にも 「ウィーン宮廷歌劇場執務室でのマーラー」というキャプションとともに同じ写真が載っている。

ところが、Kaplan Foundationが刊行したThe Mahler Album (1995)に収められた写真を調べていくと、驚くべき記述にぶつかる。 I. Mahlerの92番が同じ写真なのだが、同じ時に撮った別のショットである93番とともに、これが1907年にローマで撮影されたもので、彼の手元にあるのは コンサートで演奏する作品のスコアであるという説明がついているのだ。以下、念のため全文を引用しておこう。

92-93. 1907. Rome. Mahler at work at his desk studying scores for two concerts he conducted here in March and April with the Orchestra of Santa Cecilia. At one of the concerts he performed the Adagietto movement of his Fifth Symphony as a separate work. (92: BMGM; 93: Lebrecht Collection)

なお、BMGMはパリのBibliothèque Musicale Gustav Mahlerとのことで、これはド・ラ・グランジュがやっているのだからと思って、ド・ラ・グランジュの マーラー伝を調べてみると、フランス語版にはないものの、英語版の第3巻"Vienna : Triumph and Disillusion (1904-1907)"(Oxford University Press, 1999)の 3番として収められていて、"Mahler annotating scores in Rome, March 1907"というキャプションが付いているのが確認できる。更には やはりド・ラ・グランジュが編集に関わっている最近出たマーラーのアルマ宛書簡を集めた"Ein Glück ohne Ruh'"(1997 )でも同様〈37番〉であることから、少なくとも 近年では1907年にローマで撮られたというのが定説のように窺える。するとこの写真がウィーンの宮廷歌劇場の執務室で撮影されたという主張は、誰がいつ したものなのだろうか。そう思ってみれば海外の文献ではそうした記述が確認できないのも不自然な気がしてくる。

そうであってみれば、仮にそのうちの1冊が自作の交響曲のスコアであったとしても、それは「夏の間作曲した自分の作品を清書」しているのでは 全くないだろうし、それをやっている場所(オペラハウスの自室)も間違っていれば、時間〈早朝〉だって本当かどうか疑わしいと言わざるをえない。 「夏の間作曲した自分の作品を清書」という記述の典拠がどこにあるのか私には今直ちには同定できない(アルマの2つの回想録のいずれも、 マーラーが早朝の出勤前に作業をしたという記述はあるが、出勤したオフィスで自作に関する作業をしたという記述は見当たらないようだ)が、 この写真を証拠に「公私混同」の廉で批難されることがあるとすれば、それはマーラー本人にとって不当なことに違いない。 いや、少なくとも私はこの写真を念頭において、(反語的な文脈ではあるけれど)そうした主旨の文章を書いたことが実際にあるのだ。 別にこの写真がなくても、それをもってマーラーがそうしていた嫌疑が晴れるわけではないのだが、いずれにしても本人にとっては迷惑な話に違いない。 (一方で若き日のマーラーが作曲に夢中になって歌劇場での職務を怠ったとして問題視されたのは事実のようだが、それとこの写真とは時期が ずれており、直接の関係はない筈である。)

なお、上述の青土社の「音楽の手帖 マーラー」の同じページにあった「ウィーンの街を行くマーラー」〈1906年〉というのも間違いである。 こちらは撮影年こそ1906年で正しいが、これはマーラーがオランダを訪れたときの写真である〈The Mahler Albumでは72番〉。また 前のページの「ウィーン宮廷歌劇場へ向かう」途上のマーラーの写真は、Kurt Blaukopf編のMahler, A Documentary Study(1976)では 222番として収められているが、その説明では「アルフレッド・ロラーによればこの写真は1904年に撮影され、マーラーが歌劇場のオフィスから 帰宅する途上」とある。ちなみにこの写真を巻頭に含めたヘンリー・A・リー「異邦人マーラー」の翻訳〈渡辺裕訳, 音楽之友社, 1987〉の キャプションは帰宅途上となっている。なお、この巻頭写真は日本語訳版のオリジナルのようで、私が持っている原書(Bouvier Verlag Herbert Grundmann, 1985)には写真は含まれない。

重箱の隅を突くようだが、この手の食い違いはちょっと探すと他にもあるようで、 もう二つ三つ例を挙げると、

  • マーラーとシュトラウスの往復書簡集(邦訳は音楽之友社, 1982)に収められている、マーラーがシュトラウスを どこかの建物の入り口で迎えている写真が1906年にザルツブルクのものであると説明されていて、ド・ラ・グランジュのマーラー伝第3巻の 14番でも同様の説明になっているのに対して、The Mahler Albumの77番および"Ein Glück ohne Ruh'"の28番では1906年5月16日グラーツでの 「サロメ」オーストリア初演のときものとなっている。ちなみに往復書簡集に付けられた「敵対と友情」と題されたヘルタ・ブラウコプフの論文中では 「サロメ」のオーストリア初演はグラーツで行われ、その折にシュトラウスとマーラーが会っていることが記載されている。一方、ド・ラ・グランジュのマーラー伝の フランス語版第2巻にも同じ写真が収められているがこれのキャプションは間違っていて、「サロメ」の初演が1906年の8月にザルツブルクであったことに なってしまっている。
  • 白水社版のアルマの「回想と手紙」〈酒田健一訳, 1973〉の巻頭のマーラーに話しかけるブルーノ・ワルターを収めた写真がウィーンで 撮られたことになっているのに、Oxford University Pressから再版されたMichael Kennedyのマーラー伝では1910年のミュンヘンで撮影された ことになっていて(もっともすぐ上に収められた1907年にローマで撮影したアルマと一緒の写真が1910年に撮影されていることになっていたりして、 この版のキャプションは信憑性に欠けるようだが)、The Mahler Albumの97番では1908年にプラハで第7交響曲の初演に際しての時のもので あることになっている。
  • ブラウコプフの「マーラー 未来の同時代者」の邦訳〈酒田健一訳, 白水社, 1974〉の巻頭では、どうみてもトーブラッハの 夏の別荘として使われた農家〈トレンカー家の所有〉が写っている写真に「アッター湖畔の別荘」というキャプションがついている。同一の写真は例えば ブラウコプフ夫妻が編纂したドイツ語版の資料集"Gustav Mahler, Leben und Werk in zeugnissen der Zeit" (Hatje, 1993)の27番で確認できるが、 そこでのキャプションは勿論トーブラッハの休暇の住まいとなっている。なお同じ写真・同じキャプションの誤りは音楽之友社の作曲家別名曲解説ライブラリの マーラーの巻(1992)のp.50でも繰り返されている。この作曲者別名曲解説ライブラリは、上記ページを含め、門馬直美氏執筆の箇所を中心に、 かなりの間違いや典拠不明の独自の主張を含んでいるので、利用にあたっては注意が必要である。
といった具合であって必ずしも青土社の「音楽の手帖 マーラー」だけが 間違えているというわけでもない。

しかしながらここで主題的に採り上げた1枚についていえば、そのキャプションにより「夏の作曲家」マーラーに関する或る種のイメージが形成されるのは 避け難いから、素通りしてしまってよいとも思えず、ここに気付いたことを記録しておく次第である。マーラーが歌劇場の職務をそっちのけで自作の 演奏旅行ばかりをしているというウィーンのマスコミの攻撃に、この写真は恰好の口実を提供してしまったかも知れないのである。もっとも彼らにすれば、 これがローマで撮影されていたのが事実だとわかれば、事実関係を誤認していたことなどそっちのけで今度は、やはりウィーンを離れて自作の普及に 励んでいる職務怠慢の証拠写真として、攻撃の材料に用いたことであろうが、、、(2010.4.18,25)

2010年3月27日土曜日

アルマの「回想と手紙」中のアルマのマーラーに対する評言

アルマの「回想と手紙」中のアルマの言葉(アルマの「回想と手紙」原書1971年版p.144, 白水社版邦訳p.136)
Ich hatte mich, mein Sein und Wollen vollkommen ausgestrichen - und bewahrte mit Mühe und Not meine Fassung. Nichts von allem hat er gemerkt. Seine Natur war schon unerhört egozentrisch, aber nie für sich und immer für das Werk. (...) und sollte es zu spät erfahren, was er verloren hatte! Diese genialen Karnivoren, die meinen Vegetarier zu sein!

私は私という人間を、私の存在と意志のすべてを、完全に抹殺し、このことによってあやうく崩れようとする心をかろうじて支えていた。彼はなにも気づかなった。彼の性格はもともとおそろしく自己中心的だった。とはいえそれは、わが身かわいさのためではなく、ひたすら仕事のためだった。(…)そしてそれがために自分がどれほどのものを失ったかということに気づいたときには、すでに手遅れだったのだ!自分ではいっぱしの菜食主義者きどりでいる彼ら天才的な肉食獣たちよ! 

アルマはその「回想」の中で、マーラーに対する両価感情を幾たびと無く吐露しているが、そのうち最も激しい呪詛の念を綴ったのが、上記の言葉ではなかろうか。こう書いたアルマ自身、自己中心的な 肉食獣ではなかったかという批判が一方にあり、多分その批判もいくたりかは真実なのであろう。だが、この呪詛の言葉にも偽りはないのではないかと思う。彼女自身、断念した作曲家であり、その断念がマーラーとの出会いによって惹き起こされたのは良く知られているし、マーラー自身がそれを禁じた書簡は有名である。勿論、彼女は「自発的に」断念を選んだのだし、それを棚に上げることもしていない。 彼女はマーラーの偉大さを(ある意味では不幸にも)認識していた。そして自分が敵わないことに気付いていた。だからこれは負け惜しみ、敗北の言葉でもあるのだ。
 
彼女に対する批判があるのを知らないでもないけれど、この点に関して言えば、私は彼女に些かの同情を感じずにはいられない。勿論私はマーラーその人にあったわけではないけれど、 彼の音楽を聴いて、その偉大さを感じる一方で、或る種の息苦しさを、彼女が感じたのと恐らくは遠からぬ両価感情を私もまた感じないでもないからだ。マーラーの音楽の魅力はそれがアドルノの言う 「ひかれものの小唄」、カフカの『審判』のヨーゼフ・Kを引いて言われる、誰も聞くものがないのに大声で語られる末期の言葉であることにある。けれども彼は楽壇の頂点に君臨する大指揮者だったし、 時代を代表する「大物」でもあった。仮に私がマーラーの同時代人であり、彼に接する機会があったなら、多分私もまた、同じような息苦しさを感じたに違いない。肉食獣に関する彼女のコメントは、 同じ穴の狢であるという点を別にすれば非常に鋭くて残酷なまでに的確であると思う。
 
そしてこれは別に芸術の分野に限った話ではないだろう。どんな分野でも肉食獣はいるし、菜食主義者気取りというのも同じだ。そしてそうした点に気付き、反発を感じる側もまた敗北した肉食獣である、 という点についても何ら変わるところがない。「世の成り行き」の中にもそうした肉食獣はいて、そこにおいては今度は私こそが敗北した肉食獣として、アルマが書き付けたような呪詛を投げつけずにはいられない。
 
私自身、マーラーの音楽に対してもまた、両価感情を抱き続けるのだろう。彼の音楽は自分の中に深く、自分の一部として埋め込まれている けれど、時折息苦しさを覚えずにはいられない。違いがあるとしたら、それは価値の領域の問題で、マーラーの音楽が属している私の価値の領分は、自己の価値を超えたものであって、それ故に 擁護しなくてはならないものであるのに対し、「世の成り行き」の中で出会う肉食獣たちの価値観には接点がないことだろう。 彼らの「仕事」への献身、高潔さを認めた上で、私はそこまで「仕事」に殉ずる気はないし、 価値観を共有することもできない。
 
カエサルのものはカエサルに。そしてこれもまたアルマが書き留めた、マーラーがおもしろくない事態にぶつかったときに笑いながら発した言葉 "Wer hat mich gebracht in dieses Land?"(原書1971年版p.143、白水社版邦訳p.134)を己の言葉とし、彼女が記したマーラーの姿勢"Mahler war ein Feind aller Aussprachen, allen Zankes, allen Klatsches."(原書1971年版p.133、白水社版邦訳p.125)に共感を新たにし、敗北した肉食獣でありながら、最終的にはそうしたマーラーの価値に断固としてコミットしたアルマの姿勢に 共鳴するのである。(2010.3.27 執筆・公開, 2024.8.11 邦訳を追加。)

2009年10月13日火曜日

マーラーの楽曲における調的配置

  • イ短調
    • VI-1開始、VI-3開始・終結、VI-4終結
    • 嘆きの歌-初稿1開始、嘆きの歌-初稿3終結
    • IX-3
    • V-2開始・終結
  • ハ長調
    • VII-2, VII-5
    • IX-2
    • 大地の歌-6終結
  • ホ短調
    • X-4開始
  • ト長調
    • IV-1冒頭主題
    • IV-3開始
    • IV-4開始
    • 大地の歌-4開始・終結
  • ロ短調
  • ニ長調
    • I-1開始
    • I-4終結
    • III-6開始・終結
    • V-3開始・終結
    • V-5開始・終結
  • 嬰へ短調
    • III-2トリオ
    • X-2開始
  • イ長調
    • 大地の歌-5開始・終結
    • VI-1終結
    • I-2主部
    • III-2開始・終結
  • 嬰ハ短調
    • V-1開始
  • ホ長調
    • VII-1終結
    • IV-4終結
  • 嬰ト短調
  • ロ長調
  • 変ホ短調
    • VIII-2開始
  • 嬰ヘ長調
    • X-1終結
    • X-2終結
    • X-5終結
  • 変ロ短調
    • X-3開始・終結
  • 変ニ長調
    • IX-4開始・終結
    • II-4開始・終結
  • ヘ短調
    • I-4開始
  • 変イ長調
    • II-2開始・終結
  • ハ短調
    • 嘆きの歌-初稿2開始
    • II-1開始・終結
    • II-3開始・終結
    • II-5開始
    • III-3開始・終結
    • IV-2開始・終結
  • 変ホ長調
    • VIII-1開始・終結、VIII-2終結
    • II-5終結
  • ト短調
  • 変ロ長調
    • 大地の歌-3開始・終結
  • ニ短調
    • III-1開始
    • I-3主部
    • VII-3開始・終結
    • 大地の歌-2開始・終結
    • X-5開始
  • ヘ長調
    • V-4開始・終結
    • VII-4開始・終結
    • III-5開始・終結
(最終更新2009.10.13:作成中)

2009年9月27日日曜日

楽章順序について、および歌曲の調性についてのメモ―梅丘歌曲会館の藤井さんに―

別のところにも書いたが、私見ではマーラーの管弦楽作品、とりわけ 多楽章形式の作品において調性の持つ機能を無視することはできない。 多楽章形式の管弦楽作品という言い方をしたのは、(「大地の歌」を 含めて)交響曲に分類される作品の他に、「嘆きの歌」と連作歌曲集である 「さすらう若者の歌」「子供の死の歌」を含めたいからである。

歌劇場の指揮者として、後にはコンサート指揮者としてオーケストラと ともに仕事をし、しかも今日は当然のように受け止められているコンサート という制度が確立し、音楽史的なパースペクティブをもってプログラムを 構成するようになる時期に活動したマーラーは、バロック音楽以来の伝統を 自分で演奏することによって振り返ることができたこともあり、また 典型的な平均律楽器であるピアノを媒体としなかったこともあって、それぞれ の調性の持つ「性格」のようなものに対する意識があったことは疑いない。 どちらが原因でどちらが結果かはともかく、ワグナー的なクロマティズムが 流行した時代にあって、反動的に見えかねないほどに全音階的な音楽を 書いたこともあり、他の作曲家における事情はともかく、ことマーラーの 場合に限っていえば、調性にまつわる議論は避けて通ることができない テーマである。 それを象徴的な意味合いを調性に投影させるかどうかとは別に論じることも 可能だろうが、一般には悲劇の調性であるイ短調 (「嘆きの歌」、第6交響曲)や、天上の調性であるホ長調 (第4交響曲や第8交響曲における用法)といったように、ある種の 象徴的な意味合いを持たせて論じるのが一般的だろう。

一方で、単独の調性の象徴的な意味ではなく、多楽章形式における 楽章間の調的な関係が話題になることも多い。著名なのはダイカ・ニューリン 以来のいわゆる「発展的調性」で、決まって引き合いに出されるのは 第5交響曲の嬰ハ短調→ニ長調の例であろう。第9交響曲がニ長調で始まり、 今度は半音低い変ニ長調のアダージョで終わるのもよく引き合いに出される だろうか。一方で、第2交響曲のように開始と終了が平行調の関係にあるもの (ハ短調→変ホ長調)、第3交響曲のように同主調の関係にあるもの (ニ短調→ニ長調)もあるし、第6交響曲や第8交響曲、あるいは第1交響曲も 含めてもいいだろうが、開始の調性と終曲の調性が同じものもあり、 といったようにその関係は多様であるとともに内容との間に対応がある点が 注目される。

開始と終結だけを論じるのは認知的、心理学的な裏付けに乏しいという 批判もあるかも知れないが、調的な遍歴はどんどんミクロに見ていくことが 可能であって、私見ではそれをどう意味付けるか、どのような象徴づけを 想定するかについてを仮に捨象したとしても、音楽を聴取するときに そうした調的な遍歴を辿ることによって得られる効果については (もちろんこれとて西洋のある時期の音楽の規則の枠内限定であるとは いいながら)それなりの実質を備えていると言い得るだろうと思われる。

例えばマーラーの交響曲では楽章の上部構造として、部(Teil)が設定 されることがしばしばあるが、第3交響曲ではニ短調で開始した第1楽章は へ長調(!)に到達して第1部を終える。第2部冒頭は遠隔調のイ長調だが、 終わりはニ長調である。大地の歌は明確に部が示されているわけではないが、 前半の5楽章が1まとまりを構成して、それに第6楽章が対応するといった、 あたかも第3交響曲の構成を逆転したような構造を持つのは明らかだろうが、 そう思って調性を確認すれば、イ短調で始まる第1楽章に対して、第5楽章は 同主調のイ長調で終わり、第6楽章はハ短調で始まるがその終わりは 冒頭の平行調であるハ長調(ただし付加6の和音なのでいわば宙に吊られた まま終わる)であるといった具合である。

こうして見ると、調的は配置は多楽章形式の作品の構成と密接な関係に あることが伺えるが、それが別の現れ方をしたのが、楽章の順序にまつわる 揺れの問題であろう。 この点については何と言っても第6交響曲の中間楽章の順序の問題が 有名だし、近年、永らく「真正」と見なされて来たエルヴィン・ラッツの 見解を反映したマーラー協会版の順序(第2楽章スケルツォ、第3楽章 アンダンテ)に異論が投げかけられ、マーラー協会が今度は逆の順序が 正しいという声明を出すといったことも起き、その結果、最近では 逆の順序を採用した演奏が増えて来ているのは良く知られているだろう。 だが、「真正性」の基準はどこにおくのが妥当かといった議論を措いて しまって音楽自体の論理を追った時、アドルノが盟友でもあったラッツの 立場を擁護した際の主張にも正当性はあるように思えるし、マーラー自身、 迷ったという事実が残ってしまうという状況が告げているように、 もともとどちらの順序も可能だという、マーラーならではの事情が あること自体は否定しがたいだろう。

こうした例は別にもあって、その中でも未完成に終わった第10交響曲 の楽章順序の問題は、これまた有名だろう。第10交響曲の補筆にまつわる 歴史は色々なところで紹介されているし、ここでの本題ではないので 割愛するが、補筆版の第2楽章に位置するスケルツォの草稿には、 「スケルツォ-フィナーレ」と記載した跡があるし、第4楽章の スケルツォにも、「フィナーレ」「第2楽章」「第1スケルツォ(第1楽章)」 といった記載の跡があって、未完成であるが故に、マーラーが創作の 過程で楽章構成について幾つもの選択肢を検討した様子が窺える。 それだけではなく、第5楽章のフィナーレ終結部の草稿には、 デリック・クックが採用した嬰へ長調のバージョンとともに、 変ロ長調のバージョンが存在するらしい。クックの作業についての 批判はかつても存在したし、今でもあるのだろうが、例えばここでの クックの選択が音楽の論理に適っていることは認めざるを得ないのでは なかろうか。第10交響曲の冒頭のヴィオラのパート・ソロは限りなく 無調的であることで有名だが、それでもアダージョ主部の主題は嬰ヘ調で あり、フィナーレが嬰へ長調をとるのは、調的に見れば自然な選択なのだ。 (勿論、誰かが変ロ長調版を採用した説得力のある別解を提示する可能性 を否定するわけではないけれど。)

だが、ここで触れておきたいのは、マーラーの交響曲創作の出発点で あった第2交響曲(なぜなら第1交響曲は、まだその時点では2部5楽章 よりなる交響詩だったから)の楽章順序に関する経緯である。 第2交響曲が複雑で長期にわたる生成史を持つこと、途中の段階では 第1楽章を単独の交響詩「葬礼」とするプランがあったことなどは 今日良く知られるようになり、交響詩「葬礼」の録音も存在すれば、 実演でも取り上げられることがある(日本でもすでに初演されていて、 私はそれに立ち会うことができた)。そしてまた、最終的に辿り着いた 形態が必ずしもコヒーレンスが高いとは言えないものであること、 マーラー自身、自分で指揮した経験からそれに気付いていて、その結果 第1楽章と第2楽章の間に5分間の休憩を入れる指示を書き加えたことも 人口に膾炙しているだろう。(もっとも、もっと緩やかな多楽章形式の 交響曲が幾らでも存在するせいか、今日ではマーラーの指示が文字通り 忠実に守られているわけではないようだが。)

しかし、その長期にわたる生成過程において楽章の順序がどういった 検討を経たのかについての議論はあまり為されていないように思われる。 この点についてはドナルド・ミッチェルが既に1975年の時点で興味深い 検討をしていて邦訳もされているのだが、それに対する言及を見かけること はあまりないので、ここで簡単に紹介しておきたい。 (第3交響曲と第4交響曲の関係に纏わる議論はそれに比べれば遥かに 良く知られていて、あちらこちらで触れられているのは、今日聴くことが できる形態上その連関があからさまで、説明の必要を感じるためだろうか。)

まず確認しておくべきことは、今日第2交響曲と呼ばれる作品の第1楽章に 相当する音楽が最初に(既に良く知られているように最終形とは異なった 形態で)成立したのは1888年9月、つまり今日第1交響曲と呼ばれる作品の完成後 間もなくであった。対して第2交響曲の完成は1894年の年末であり、その完成には ハンス・フォン・ビューローの葬儀への参列の際に聴いたクロップシュトックの 復活の賛歌が決定的な役割を果たしたことの方は良く知られている。

第2楽章と第3楽章の完成は1893年の夏のこととされる。この頃マーラーは 子供の魔法の角笛歌曲集の管弦楽化をしていて、第3楽章のスケルツォは その副産物とでも言えるべきものであったようだ。スケルツォのスコア完成は7月16日、 歌曲の管弦楽版の完成は8月1日という日付を持つ。第2楽章となったアンダンテも同じ夏に 余勢を駆るようにして作曲されている(スコア完成7月30日、ただしスケッチは それに先立って6月21日頃完成)。第4楽章である歌曲「原光」の管弦楽版の完成も 1893年7月19日付けであり、第2楽章や第3楽章、「魚に説教するパドヴァの 聖アントニウス」の管弦楽版と同時期に完成していたらしい。フィナーレは恐らく 進捗していたとしてもまだ素材をスケッチしている段階だったが、 それ以外の楽章は一応、既にこの時点で揃っていた。だが、ここで注意すべきは、 スケルツォの器楽楽章は明確に交響曲の一部とする意図をもって書かれていた一方で、 「原光」の方はそれを交響曲の楽章として用いるという着想はこの時点ではなかったかも 知れないことだ。楽章間の順序もまだ未定であり、アンダンテをスケルツォの後に 置くことも検討されたらしい。結局、楽章構成が確定したのは、くだんの追悼式の 参列以降のことで、ミッチェルもそういっているが、それ以前には多楽章形式の交響曲を 書くという構想の下、いわば泥縄式に出来上がった楽章を組合せようとしたものの 思うような結果が得られなかったというのが実態らしい。

これに関連して思い浮かぶのは、第5交響曲ではアダージェットが後から追加された らしいことや第7交響曲では先に2曲の夜曲ができていて、残りの3つの楽章は後から 翌年になって追加されたことである。一方で、第1交響曲や「嘆きの歌」のように、 後から楽章を1つ削除してしまうということも行われている。その結果、第1交響曲は 終楽章に主題連関のリファレントが宙に浮いたエピソードが残ってしまったし、 「嘆きの歌」は、当初の調的な構想がすっかり姿を変えてしまうことになる。

要するに、マーラーの多楽章形式の作品における楽章間のコヒーレンスは 概してあまり高いものではない。しかしその具体的な様相は多様であって、 個別に記述していくしかなさそうである。であってみればコヒーレンスの不足をもって 非難するのはマーラーの場合にはあまり生産的なやり方ではない。マーラーの形式が 唯名論的なものである、とアドルノが言うとき、それは事前に用意された図式に 従って個別の楽曲の構造が決定されるのではなく、寧ろ各楽章が描き出す星座 (コンステラチオーン)こそを読み取るべきなのだ、ということを言っているに 違いない。そしてそうした多様性こそがマーラーの音楽の認知的・心理的な リアリティの源泉となっていることに留意すべきなのであろう。

ところで、そうしたことは交響曲の場合には例外なく該当するだろうが、 マーラーの作曲したジャンルのもう一方の極である歌曲の方はどうかと考えたとき、 ただちに気付くのは、歌曲については少なくとも連作歌曲集と出版上の都合で 組まれたアンソロジーとを区別する必要があることだろう。「さすらう若者の歌」 「子供の死の歌」は明らかに連作歌曲集として構想されており、少なくとも 交響曲の楽章と同程度のコヒーレンスが存在する。もちろん「さすらう若者の歌」が 4曲で終わっているのはある種の偶然の産物かも知れないし、「子供の死の歌」は 生成史的に見た場合には分裂が見られるから、ここでも交響曲で起きているような 泥縄式の辻褄合わせといった側面がないことはないだろうが、その結果はそうした ネガティブな言い方が不適切に感じられるほど見事なものである。

興味深いのは交響曲において言及される発展的調性は、寧ろ歌曲の方にその萌芽があるかも 知れないことで、実際、歌曲においては1曲のうちの最初と終わりで異なる 調性で終わることは初期作品から珍しくない。1880年の3つの歌曲(リート)の 「春に」や「冬の歌」、「リートと歌第1集」の「思い出」がそうだし、「さすらう 若者の歌」を構成する歌曲に到っては、すべての曲が該当するのだ。この点については ミッチェルが「リートと歌」について論じる際に詳論しているが、マーラーにおける 交響曲と歌曲というジャンルの関係を考える上で、調性の遍歴の問題は非常に重要な 視点であることは間違いない。

その一方で、連作歌曲集に含まれない歌曲における個別の曲の調性の問題は、歌曲の 楽譜が出版される際の実用上の問題、即ち、声の高さに合わせて移調した幾つかの バージョンが出版されるという事情があるゆえに複雑なものとなる。しかもマーラーの場合、 典型的な平均律楽器であるピアノによる伴奏によるものばかりか、管弦楽伴奏のものも あるため事態は一層錯綜としたものになる。つまり曲によっては同じ楽器での伴奏が 音域の問題やら移調楽器の性質から不可能になり、管弦楽法上の調整が行われる場合が あるのだ。リュッケルトによる歌曲のうち「美しさゆえに愛するなら」の管弦楽版が マーラー自身によるものではなく、マックス・プットマンの手になるものであることは 最近は良く知られるようになってきたが、他の曲においても移調された版では管弦楽伴奏に 細かい違いが見られ、それがすべてマーラーによるものなのかは定かでないのである。

そこで最後に歌曲における移調の状況を、分析は控えてまとめておきたい。例えば マーラーのオリジナルの調性と出版譜の調性が異なる場合に、それがどのような理由に よるものなのか、マーラー自身の意図がどの程度反映されているのかといった問題は 個別に検証されるべきだし、調性による象徴法の議論を連作歌曲集に含まれない 歌曲に対して適用することの可否もまたそうした検証の上でようやく可能になるだろう。 他の作曲家の場合には、もしかしたらこうした移調の問題は取るに足らないものかも 知れないが、マーラーの場合にはそうとは言えないだろうから、まずは事実を整理しておく ことにも何某かの意味があるものと思う。

  • 3つの歌(リート):手稿の調性と出版譜の調性は同一。
    • 春に:へ長調→ヘ短調(変イ長調)→ハ長調
    • 冬の歌:イ長調→ハ短調
    • 緑の野の五月の踊り:ニ長調
  • リートと歌第1集:高声版・低声版が存在。以下は手稿の調性。
    • 春の朝:へ長調(低声版が原調)
    • 思い出:ト短調→イ短調(高声版が原調)
    • ハンスとグレーテ:原調はニ長調(出版譜はへ長調)
    • ドン・ファンのセレナーデ:変ニ長調(出版譜はニ長調、ハ長調)
    • ドン・ファンのファンタジー:ロ短調(高声版が原調)
  • リートと歌第2,3集:高声版・低声版が存在。以下は手稿の調性。
    • いたずらな子をしつけるためには:ホ長調(高声版が原調)
    • 私は緑の森を楽しく歩いた:ニ長調(高声版が原調)
    • おしまい、おしまい:変ニ長調(出版譜は変ホ長調、ハ長調)
    • たくましい想像力:変ロ長調(出版譜はハ長調、イ長調)
    • シュトラスブルクの保塁で:嬰ヘ短調(出版譜はト短調、ヘ短調)
    • 夏の交替:変ロ短調(高声版が原調)
    • 別離と忌避:ヘ長調(低声版が原調)
    • もう会えない:ハ短調(高声版が原調)
    • うぬぼれ:ヘ長調(低声版が原調)
  • 子供の魔法の角笛:高声版・低声版が存在し前者を長二度低く移調したのが後者である。
    • 歩哨の夜の歌:変ロ長調(低声版が原調)
    • 無駄な骨折り:イ長調(高声版が原調)
    • 不幸なときの慰め:イ長調(高声版が原調)
    • この歌をひねりだしたのは誰:へ長調(高声版が原調)
    • 地上の生活:変ロ長調(フリギア旋法)(高声版が原調)
    • 魚に説教するパドヴァの聖アントニウス:ハ短調(低声版が原調)
    • ラインの小伝説:イ長調(高声版が原調)
    • 塔の中に囚われた者の歌:ニ短調(高声版が原調)
    • 美しいトランペットの鳴りひびく所:ニ短調(高声版が原調)
    • 高い知性への賛美:ニ長調(高声版が原調)
    • 3人の天使がやさしい歌を歌う:へ長調(高声版が原調)
    • 原光:変ニ長調(低声版が原調)
    • 起床合図:ニ短調またはハ短調
    • 少年鼓手:ニ短調(低声版が原調)
  • リュッケルトの詩による歌曲:中声用が原調。短三度または長二度異なる高声版・低声版が存在。
    • 私の歌を覗き見しないで:へ長調
    • 私は快い香りを吸いこんだ:ニ長調
    • 私はこの世に忘れられ:変ホ長調またはへ長調、初演時は変ホ長調。
    • 真夜中に:イ短調、ピアノ稿はロ短調、管弦楽稿は変ロ短調。
    • 美しさゆえに愛するなら:ハ長調、ピアノ版のみ。管弦楽版はマックス・プットマンによる

(2009.9.27,28)