1. はじめに
本稿は、カール・フリストンの自由エネルギー原理を中心とした現代の意識理論と、音楽、特にマーラーの交響曲における時間構造との関係を考察し、アドルノの音楽分析における「未来完了性」概念およびVarianteの技法を重要な分析視点として、意識と音楽の構造的類似性の探究の方向性を示すこと、マーラーの音楽を「意識の音楽」「<感じ>の時間性のシミュレータ」として捉えることに一定の妥当性があることを示そうと試みたものです。
2. フリストンの自由エネルギー原理と意識理論
2.1 基本概念
自由エネルギー原理は、生物システムが環境との相互作用において、予測誤差(サプライズ)を最小化しようとする基本的な動作原理を示しています。脳は常に感覚入力を予測し、その予測と実際の入力との差異を最小化することで、世界の内部モデルを更新し続けます。
2.2 意識との関連
予測処理と意識 フリストンの理論では、意識は階層的な予測処理システムの産物として捉えられ、脳の異なる階層レベルで行われる予測とその更新のプロセスが、私たちの主観的体験を生み出すとされます。
注意と意識の関係 予測誤差が大きい情報に注意が向けられ、それが意識的な経験として現れる仕組みも、自由エネルギー原理で説明される可能性があります。それによれば、予測できない、つまり情報価値の高い刺激が意識の前景に現れやすいとされます。これは意識が無意識的な処理では対応しきれないような環境の変化に対応するために進化的に生み出された仕掛けであるという考え方や、ウィノグラード=フローレスのように意識を「ブレイクダウン」に関連付けて考える立場と親和的です。
2.3 情動の理論と自由エネルギー原理の統合
内受容感覚と予測処理 ソームズが重視する内受容感覚(体内からの感覚)は、フリストンの枠組みでは身体状態の予測処理として理解されます。脳は常に身体の内部状態を予測し、その予測誤差を最小化することで恒常性を維持します。この過程で生じる予測誤差が「感じ」として体験されると考えられています。
情動の予測符号化 パンクセップの情動システム理論における基本情動(恐怖、怒り、探索など)も、進化的に発達した、生存のために重要な状況における予測処理システムとして再解釈可能です。これらの情動は、環境や身体状態の変化を予測し、適応的な行動を準備するための進化的に古い神経システムに由来するものと考えられます。
注意すべきなのは、ソームズやパンクセップの理論は、感情一次過程(Primary Process Emotion)理論であり、脳幹・辺縁系レベルの内的な状態としての感情を対象にしていること、それに対応してあくまでも生命維持や自己調節に根ざした脳内のホメオスタシス的機構のレベルでの感情の機能にフォーカスされており、実質的にはダマシオの言う「中核意識」以下のレベルに限定されていることです。
2.4.意識の階層構造
原始意識と高次意識 両者の理論は、意識の階層性について補完的な視点を提供します。パンクセップの「原始意識」(情動的意識)は、フリストンの枠組みでは低次の予測処理レベルに対応し、ソームズの言う「感じ」は身体状態の予測誤差として説明されます。一方、ソームズは高次の意識についても述べており、フリストンにおける階層的なモデルに対応するとされています。ただしそこでの感じや情動の扱いは限定的であり、高次の意識は「思考」として扱われている点には注意が必要です。
脳幹から皮質への情報流 ソームズやダマシオが強調する脳幹の重要性は、フリストンのモデルでは身体調節的な予測の最下層として位置づけられます。脳幹での予測処理が上位の皮質レベルに影響を与え、複雑な意識体験を形成するという統合的な理解が可能になります。特に皮質レベルでの高度な「思考」においては海馬が果たす役割が重要であり、ソームズの指摘するように、通常は無意識的である皮質の記憶プロセスに、視点を持った「わたしというもの」の質を注入するのに重要な役割を果たし、そのことによってシャクターの言うところの「建設的なエピソードシミュレーション」を支えています。
価値と動機の統合 パンクセップの情動システムが示す「欲求」や「価値」は、フリストンの能動的推論において、行動選択の基準となる事前期待として組み込まれます。生物は単に予測誤差を最小化するだけでなく、進化的により生存に適した状態を求める傾向があります。
この統合的アプローチは、意識を純粋に計算論的な現象としてではなく、身体に根ざした情動的・評価的なプロセスとして理解する新しい枠組みを提供することから、意識の構造と音楽との間の橋渡しをする可能性を持つものと考えられます。ただしパンクセップやソームズの情動についての理論は、フリストンの階層的な意識モデルにおいては、主としてその下層に関連づけられる点、あくまでも生命維持や自己調節に根ざした脳内のホメオスタシス的機構の解明に特化しており、そのために他者との相互作用によって生じる複雑な社会的感情や、情動のダイナミクスについては、十分な説明がされていない点については別に補完する必要があります。
2.5 音楽心理学における図式的期待(schematic expectation)との関連
フリストンの「サプライズ最小化(自由エネルギー原理)」と、音楽心理学における図式的期待(schematic expectation)は、両者とも予測とその誤差処理を中心に据えているという点で深い関係性があると考えられます。
音楽心理学における「図式的期待」ナームアの「含意ー実現」モデル、マイヤーの期待理論などでは、聴取者は過去の音楽経験や文化的学習によって、調性・旋律進行・リズムに関する「スキーマ」を持ち、それに基づいて「次にどうなるか」を予測し、実際の音楽進行が予測と一致すれば「充足感」や「安定」を、逸脱すれば「驚き」や「緊張」を感じるとされます。
予測と誤差処理 フリストンの理論では、能は外界からの入力を受けるとき、内部モデル(生成モデル)を用いて予測を立て、実際の感覚入力との差(予測誤差、≒「サプライズ」)が最小になるように行動・知覚・学習を調整します。これは認知・行動を統一的に説明する一般的・原理的枠組みであり、音楽心理学における「図式的期待」はその枠組みの音楽に特化した一例として位置付けられます。
音楽は「サプライズ」を意図的に操作する芸術と見ることができ、予測通りであれば安心、予測が裏切られれば驚きや緊張が生じ、それが新たな期待の更新につながるという意識の流れを生み出していきます。音楽は脳の自由エネルギー原理を活用した、仮想的なシミュレーションという捉え方が可能です。ただしここでも情動の理論について指摘したものと並行的な制限があることに注意する必要があります。つまり図式的期待のモデルは、その単純なものについて言えば、意識のレベルとしては中核意識のレベルを大きく超えることはなく、フッサールの内的時間意識の現象学においては第一次の把持のレベルに留まります。勿論それを「今ここ」の統合を超えた時間をまたいだレベルに拡張することは可能ですが、モデルとしての実質を持たせるためには時間をまたぐ構造保持のメカニズムが別途必要になると考えられます。フリストンの理論は過去・現在・未来を含む生成モデルを扱えるので、長期的安定性を定式化することは自然に行えますが、ダマシオの言う「延長意識」の水準や「自伝的自己」を扱うためには階層的なモデルが必須となり、特に上位階層の機能が重要となるのは既述の通りです。
3. 音楽と意識の構造的類似性
3.1 予測処理としての音楽体験
時間的予測とサプライズ 音楽に関わる様々な行為は、全体として時間的な予測処理システムと見做すことができます。私たちは聴きながら次の音やリズム、和声進行を無意識に予測し、その予測が裏切られたり確認されたりすることで音楽的体験が生まれます。フリストンの枠組みにおいて予測誤差の最小化プロセスと捉えることができるこの過程は、音楽の理解と楽しみの重要な源泉の一つとなると考えられます。
意識と音楽における階層構造 音楽の構造には意識と構造と並行的な階層性が見られます。音楽の聴取においては、音高、リズム、フレーズ、楽章といった異なるレベルで同時に予測処理が行われ、それぞれが相互作用しながら統合された音楽体験を生み出します。これは意識の階層的な予測処理モデルと類似しています。
3.2 身体的・情動的基盤
内受容感覚との共鳴 ソームズが重視する内受容感覚は、音楽体験の核心部分です。例えばリズムは心拍や呼吸と同期しますし、低音は身体の深部感覚との共鳴を惹き起こすと考えられます。音楽は身体状態の予測処理システムを直接的に活性化し、「感じ」の絶えまない変化としての音楽体験を生み出します。
基本情動システムの活性化 パンクセップの基本情動(探索、遊び、恐怖、愛着など)は、音楽の異なる要素によって直接的に喚起されると考えることができるかも知れません。例えば上行するメロディーは探索システムを、不協和音は警戒システムを、反復的なリズムは愛着システムを活性化する可能性があります。
3.3 音楽の意識への作用メカニズム
注意の誘導と統合 音楽は予測可能性と驚きのバランスを通じて注意を誘導し、変転し流動する意識内容を統合する力を持ちます。このことが音楽療法や瞑想において音楽の使用が有効である理由かも知れません。
時間意識の構造化 音楽は時間の流れを構造化し、意識の時間的展開パターンを調整します。拍子やテンポは時間予測のリズムを設定し、フレーズ構造は意識の注意サイクルと同期します。音楽は意識の流れを誘導し、調整する働きをすると考えることができます。
3.4.創造性と自己組織化
能動的推論としての作曲・演奏 音楽の創造は、内的な音楽モデルと実際の音響出力との間の予測誤差を最小化する能動的推論プロセスとして理解できます。演奏者は意図した音楽表現を実現するために、身体動作を通じて環境(楽器)を制御します。
集合的意識としてのアンサンブル 複数の演奏者によるアンサンブルは、個々の予測処理システムが相互作用し、より大きな予測システムを形成する例として興味深いモデルを提供します。これは意識の社会的側面に通じ、集合的認知の理解に繋がっていく可能性を含みます。
4. マーラーの交響曲における意識構造の音楽化
4.1 多層的な予測処理システム
同時進行する複数の時間スケール マーラーの交響曲では、短いモチーフ、中規模なフレーズ、長大な楽章、そして全体の交響曲という異なる時間スケールが同時に展開されます。これは意識における多層的な予測処理そのものと見做すことができ、私たちの意識も、瞬間的な知覚、短期記憶、長期的な目標や人生の物語といった異なる時間軸で同時に機能していることとの並行性が見い出せます。マーラーの音楽はしばしば「小説」に喩えられる、長大で複雑な時間的構造を持ちますが、それはダマシオの定義する「中核意識(Core consciousness)」(「今ここ」の統合)の繰り返しでは説明しきれず、自己史や未来予測を含む「延長意識(Extended consciousness)」や自伝的自己の水準に対応すると考えるべきです。
階層間の相互作用 マーラーの音楽では、小さなモチーフの絶えざる回帰と変形のプロセスが楽章全体の構造を決定し、同時に巨視的な楽式レベルで設計された全体の流れが局所的な展開に、時として遡及的に意味を与えます。これは意識の階層的予測処理において、上位レベルの予測が下位レベルの知覚を制約し、下位レベルの予測誤差が上位レベルの信念を更新するプロセスと対応しています。
4.2 情動と認知の統合
身体的共鳴の複雑性 マーラーの音楽は、パンクセップの基本情動システムを複雑に織り交ぜます。例えば第5交響曲の第1部では悲しみや恐怖が活性化され、第3部では愛情や喜びが活性化されますが、これらは単純に継起するのではなく、重層的に組み合わされており、まさに人間の意識における情動の複雑に入り混じった状態を音楽化したものと言えます。更に言えば、マーラーの音楽における感情のレパートリーは、一次過程理論で重視されるような、主に情動(Emotion)や動機づけ(Motivation)としての感情に限定されません。マーラーの音楽は、持続的な状態としての感情、即ち自伝的自己が関わる水準の「気分(Mood)」や「情動気質」といった、より持続的で自己全体に影響を及ぼす感情の状態が重要になります。
内受容感覚の精緻化 マーラーの音楽は聴き手の呼吸、心拍、筋緊張を微細にコントロールします。例えば長大な弦楽器のクレッシェンドは交感神経系を段階的に活性化するでしょうし、突然の静寂は副交感神経系への急激な切り替えを促します。こうした単独の例であれば、他の音楽にも見出せるものですが、これらを高度に複雑に組み合わせたマーラーの音楽は、意識における身体状態の予測処理の複雑さを反映していると見ることができます。それは二次過程(学習・記憶)や三次過程(高次認知・社会的機能)と呼ばれるより高次の脳システムとの相互作用のメカニズムをも考慮して理解すべきものではないでしょうか?
4.3.記憶と予期の織物
循環的な時間構造 マーラーは同一の主題を異なる文脈で繰り返し登場させ、それぞれに新たな意味を付与します。これは意識における記憶の働き—過去の経験が現在の知覚を予測的に形作り、同時に現在の経験が過去の記憶に新たな意味を与えるプロセス—と同一の構造です。
遠大な予期と局所的サプライズ 交響曲全体を通じて、聴き手は遠い未来の解決(例えば終楽章の勝利的な結末)を予期しながら、局所的には予想外の転調や楽器法に驚かされ続けます。これは人生における長期的な目標設定と日常的な予期の裏切りという、意識の時間的構造そのものです。
4.4.統合と分裂の動的平衡
複数の視点の同時存在 マーラーの音楽では、異なる楽器群が異なる「声」や「視点」を表現し、それらが対話し、競合し、最終的に統合されます。これは意識における複数の心的内容の競合と統合、そして統合情報理論で言うところの意識の統一性の動的な実現過程と対応しています。更に言えば、一般にフリストンの自由エネルギー原理は、単独の個体の知覚・行為の予測誤差最小化をモデル化したものですが、それを社会的相互作用や他者モデルの生成・更新まで拡張して解釈する必要が出てくるかも知れません。これは情動理論についても同様であり、生命維持や自己調節に根ざした脳内のホメオスタシス的機構の解明に特化した情動の理論を拡張し、他者との相互作用によって生じる複雑な社会的感情や、情動のダイナミクスを扱えるようにすること、他者との共感や、感情が他者の触発によって起きることや、同期や引き込みのような感情ならではの現象を扱えるようにする必要が出てくるものと考えられます。
意識の流れの音楽化 ウィリアム・ジェームズの「意識の流れ」概念は、マーラーの音楽において具現化されています。絶え間ない変化の中にある継続性、断絶のない移行、過去・現在・未来の融合といった意識の基本特性が、音楽的時間として展開されています。ここでいう意識の時間性は、現象学的時間論においては第二次把持の水準(想起や予期)を扱えることは必須ですし、マーラーの音楽における民謡や行進曲などといった文化的沈殿物の再利用のような側面を扱うのであれば、更にスティグレールの言う第三次の把持まで考慮する必要があるかも知れません。
4.5.意識の音楽としてのマーラーの交響曲
マーラーの交響曲は、単に美的体験を提供するだけでなく、意識の構造そのものを時間芸術として展開した、意識の現象学的地図とも呼べる存在なのです。聴き手はその音楽的体験を通じて、自らの意識の複雑な構造を内側から体験し、理解することができるのです。なお、ここでいう意識は「今ここ」の統合としてのダマシオの中核意識だけではなく、時間をまたぐ構造保持のメカニズムに支えられた、「物語」の主人公たりうる、それ自体フィクションである「一続きの私」に対応する延長意識のレベルをも含みます。それは「自己についての予測」が行われ、「自分がどのような存在であるか」についての予測を実現しようとする行動が行われる水準であり、最低でも自己モデルに基づく、自己の状態についてのメタレベルの認知が、時としては自己言及的な構造がその実現のための条件となります。
5. 自己言及性と予測処理
5.1 予測的自己モデリング
自己についての予測 フリストンの枠組みでは、脳は環境だけでなく自分自身についても予測モデルを構築します。この「自己についての予測」が自己言及性の基盤となります。脳は自分の感覚、行動、さらには自分の思考プロセスまでも予測しようとし、その予測誤差を最小化することで自己理解を深めていきます。
メタ認知としての階層化 自己言及性は、予測処理の階層構造において上位レベルが下位レベルの予測プロセス自体を予測することとして理解できます。「私は今何を考えているか」「私はなぜこう感じるのか」といった内省は、認知プロセスについての予測処理として機能します。
5.2.能動的推論における自己
自己実現的予測 フリストンの能動的推論では、生物は世界を変化させることで自分の予測を実現しようとします。自己言及的な場合、これは「自分がどのような存在であるか」についての予測を実現しようとする行動となります。アイデンティティの形成や維持は、自己についての予測を能動的に実現するプロセスとして理解できます。
循環的因果性 自己言及系では、システムが自分自身を参照し、その参照が再びシステム自体を変化させるという循環が生じます。フリストンのモデルでは、これは予測と行動の循環として表現することが考えられ、自己モデルの更新が新たな自己モデルの予測を生み出す無限の再帰的過程と見做すことが可能です。
5.3 マーラーの音楽における自己言及性
音楽的自己意識 マーラーの交響曲にもし「音楽について語る音楽」という側面があるとしたならば、フリストンの枠組みではそうした側面を、音楽システムが自分自身の構造を予測し、その予測を音楽的に実現するプロセスとして理解することができます。作曲家は音楽の効果を予測し、その予測を音楽そのものに組み込むことで、自己言及的な構造を創造します。マーラーの音楽における引用やパロディをこの枠組みに基づいてモデル化する可能性があると考えます。
聴取における再帰的体験 聴き手がマーラーの音楽で体験する自己言及性は、音楽が聴き手の予測プロセスについての予測を誘発することです。「この音楽は私にどう感じさせようとしているのか」という意識が、実際にその感情体験を変化させる循環的なプロセスが生まれます。
5.4 自由エネルギーの最小化と自己言及のパラドックス
予測の不可能性 自己言及系には根本的なパラドックスがあります。システムが自分自身を完全に予測できれば、その予測可能性自体が新たな予測不可能性を生み出します。ただしこのレベルのパラドクスが常に問題になるわけではありません。一般に予測が不可能なのは、予測の対象となる世界が複雑で確率的なゆらぎを持っている上に、常に部分的な情報しか得られないことから、無意識的・自動的なシステムの反応ではブレイクダウンを起こすような状況が起こりえることに起因すると考えられます。結果としてフリストンの理論では、予測誤差は完全には解消できず、持続的な「自己についての不確実性」が意識の動的な性質を生み出すと考えられます。そうした状況に対応するためには、一見すると非効率である意識的な認知の仕組みが必要となります。つまり意識的な認知は、複雑で変動する世界において、自動化されたシステムが破綻するリスクに対する、進化的に獲得された階層的な適応メカニズムであり、その実装には深い自己言及的構造が必要であり、これが構造的な「非効率性」と「不確実性」を生むが、それは長期的生存確率を最大化するための合理的なコストであると考えられます。
創発的複雑性 自己言及的な予測処理システムでは、単純な規則から複雑で予測困難な行動パターンが創発します。これは意識の豊かさや創造性の源泉となり、同時に完全な自己理解の不可能性の根拠ともなります。ソームズは自由エネルギー原理が、意識、覚醒の否定であり、認知の理想形は自動的なものであり、ある種のゾンビ状態を目指していると結論づけながら、その一方で、私たちの頭の中で起こっていることの多くが、情報効率や熱力学的効率の理想とは一致しにくいことを指摘し、一見したところ自由エネルギー理論への挑戦に見える活動として、マインドワンダリング、熟慮型の想像、言葉による抽象化を挙げていますが、これらはいずれも自己言及的な予測処理システムの持つ創発的特性と関連づけて理解することができるでしょう。そしてそれは同時に「一続きの私」が成立し、維持されるための構造的条件にも関わるものと考えられます。
5.5.意識の統合と分裂
統合情報としての自己言及 統合情報理論との関連で言えば、自己言及性は意識システム内での情報統合の特殊なケースです。システムが自分自身についての情報を統合することで、より高次の統合情報が生成され、それが自己意識の基盤となります。自己の統合は常にうまくいくとは限らず、離人症的な経験のような、病理的な自己感の喪失や分裂が経験されることもありえます。また正常な場合でも、「自我経験」と呼ばれる対自的な自己意識についての経験が生じることもあります。モデルはこうしたケースも含めて説明できる必要があります。マーラーの音楽もまた、「一続きの私」の維持が自明なことではなく、時としてそれが不安定になり、破綻に瀕することさえ生じることを音楽的にシミュレートしていると見做すことができるでしょう。
自己の境界の動的構成 フリストンのモデルでは、「自己」の境界は固定的ではなく、マルコフブランケット(システムと環境の境界)として動的に構成されます。自己言及性は、この境界の内側で自分自身を予測するプロセスとして、自己の境界設定そのものに影響を与えます。
この自己言及的な予測処理の循環こそが、意識の最も特徴的な性質—自分自身について意識する能力—を生み出し、同時にその完全な理解を永続的に困難にする源泉となっているのです。マーラーの音楽はこの循環の美的な表現として、意識の自己言及的な構造を時間芸術として具現化している可能性があり、その検証は大きなチャレンジであると考えられます。
6. アドルノの未来完了性とVariante技法
6.1 Varianteと予測処理の逆転
変形としての主題認識 通常のソナタ形式では「主題提示→展開→再現」という線形的な時間が想定されますが、マーラーのVariante技法では、最初に現れるものは実は「変形」であり、「真の主題」は後に現れます。これは予測処理において、最初の知覚が実は「予測の変形」であり、後にその「元となる予測モデル」が明らかになるプロセスと対応しています。
予告としての最初の提示 フリストンの枠組みでは、脳は常に階層的な予測を行いますが、マーラーの技法では音楽的な「予測」が時間的に逆転します。最初に聞こえるのは結果(変形)であり、原因(主題)は後から明らかになる。これは予測誤差の解決が遡及的に行われる特殊なケースです。
6.2 記憶と予測の時間的錯綜
既知感の創出 Variante技法により、聴き手は「初めて聞くはずの主題」を「既に知っている」かのように体験します。これは予測処理システムが、まだ完全には提示されていない情報に対して「記憶的親和性」を感じる現象です。脳は断片的な情報から全体像を予測し、その予測が後に確認される構造です。
遡及的な意味付与 主題の「実現」が起こったとき、それまでの変形部分が遡及的に新しい意味を獲得します。これはフリストンの理論における「事後的な予測更新」の音楽的実現です。新しい情報(真の主題)が過去の体験(変形部分)の解釈を根本的に変更するのです。
6.3 自己言及的な予測構造
予測モデルの自己生成 マーラーの音楽では、主題が自分自身の変形から生まれ出るという自己言及的構造が生じます。これは予測処理システムが自分自身の予測誤差から新しい予測モデルを生成するプロセスの音楽的な表現です。
循環的な因果関係 変形(Variante)→主題(実現)→新たな変形という循環において、どこが「始まり」でどこが「終わり」かが不明確になります。これは自由エネルギー原理における予測と更新の循環的プロセスが、時間軸上で複雑に折り畳まれた状態として理解できます。
6.4 意識の未来完了性との対応
体験の事前構造化 この技法は、意識が体験を事前に構造化する仕組みを音楽的に実現しています。私たちは出来事を体験する前に、すでにその出来事の「型」や「枠組み」を持っており、実際の体験はその予期された枠組みの「実現」として経験されます。
自己実現的予測の音楽化 マーラーのVariante技法は、フリストンの「能動的推論」における自己実現的予測の音楽的表現でもあります。予告された主題は、その予告によって実現へと向かう必然性を獲得し、音楽自体が自分の予測を実現していくプロセスとなります。
この「予告—実現」構造は、単なる音楽技法を超えて、意識が時間を体験し、記憶と予測を統合する根本的なメカニズムの芸術的な開示と捉えることができないでしょうか。マーラーは、私たちの意識が持つ「未来を既に知っている」かのような時間体験を、音楽的時間として具現化している可能性があります。
7. マーラーの作品における具体的な音楽体験での実現例(ラフスケッチ)
第1交響曲の序奏 第1楽章冒頭の自然音の模倣から徐々に主題が浮かび上がる過程は、環境音(変形)から音楽的主題(実現)への変容として、まさに予告→実現の構造を示しています。聴き手は「何か重要なことが起ころうとしている」という予期を持ちながら聴き進みます。第1楽章冒頭の自然音の模倣から徐々に主題が浮かび上がる過程は、環境音(変形)から音楽的主題(実現)への変容として、まさに予告→実現の構造を示しています。聴き手は「何か重要なことが起ころうとしている」という予期を持ちながら聴き進みます。因襲的なソナタ形式からは大きく逸脱して、決定的な出来事、アドルノいう「突破」が生じるのは展開部の最後、展開部冒頭で最後に導入されたモチーフによって再現部に入るところで、再現部はそれまでのプロセスを足早に逆回しで遡及するようなユニークな構造を持っています。
第2交響曲の終楽章 復活の主題は、実は前楽章や前半部での断片的な「予告」を経て、最終的に合唱で「実現」されます。この構造により、実現の瞬間は「初めて聞く新しい主題」ではなく「ついに到達した既知の目標」として体験されます。
第9交響曲第1楽章 冒頭は幾つかの動機が断片的に提示され、その後旋律がためらいがちに、断片的に姿を現しますが、最初の提示は予備的な性質のものであり、完全な姿ではありません。そして通常は主題が反復され、確保される箇所で漸く主題が完全な形で提示される構造になっており、「未来完了」的な構造の典型となっています。またその後の主題は絶えず変形を受けながら回帰し、最後には再び断片となって解体していきます。これは意識の様々な様態の遍歴のプロセスと見做すことができます。またソナタ形式として捉えた場合の展開部の最中においても主要主題は主調で回帰するなど、調的遍歴の過程として見た場合でも、因襲的な図式を離れたユニークなプロセスを有しており、優れて「意識の音楽」としての特徴を有していると考えられます。
8. まとめ
フリストンの自由エネルギー原理と情動中心の意識理論の統合により、音楽と意識の構造的類似性を理解する枠組みを提供できる可能性があります。それに基づき、マーラーの交響曲における未来完了性とVariante技法は、意識の時間的構造の複雑さ—予測と記憶の相互浸透、自己言及的な循環、階層的統合—を音楽的に具現化しているという仮説を構成できます。
アドルノの未来完了性は「予告→実現」構造として分析され、意識が体験を事前に構造化し、自己実現的予測を通じて現実を構成する仕組みの音楽的表現として理解でき、これは単なる美的現象を超えて、意識の根本的なメカニズムの芸術的開示であると捉えることが可能かも知れません。
音楽と意識は、時間的で階層的で身体に根ざした予測処理システムとして根本的な類似性を持ち、マーラーの音楽は意識の構造そのものを時間芸術として展開した「意識の現象学的地図」であり、「意識の音楽」「<感じ>の時間性のシミュレータ」として機能していると考えることには一定の妥当性があると考えられます。
[後記] 本稿は著者が基本的な着想や理論構成を与え、研究パートナーとしてClaude Sonnet 4ないし4.5やChatGPT-5, Gemini 2.5 Flashとの対話を繰り返すことを通じて作成されました。上記のテキスト中には、Claude Sonnet 4やChatGPT-5, Gemini 2.5 Flashが生成した文章およびそれを編集したものが含まれます。
(2025.9.26 noteにて公開, 9.28加筆, 9.30加筆)