お知らせ

GMW(Gustav Mahler Werke, グスタフ・マーラー作品番号:国際グスタフ・マーラー協会による)を公開しました。(2025.4.20)

2025年10月1日水曜日

[お知らせ] マーラー祝祭オーケストラ(音楽監督・井上喜惟)第25回定期演奏会(2025年10月11日)

  マーラー祝祭オーケストラ(音楽監督・井上喜惟)第25回定期演奏会が2025年10月11日にミューザ川崎 シンフォニーホールにて開催されます(12:45開場、13:30開演)。以下のマーラー祝祭オーケストラの公式ページもご覧ください。

Mahler Festival Orchestra Offcial Site (https://www.mahlerfestivalorchestra.com/)

チラシのpdf版は以下のリンクからダウンロードできます。

マーラー祝祭オーケストラ第25回定期演奏会.pdf




プログラムはベルクの7つの初期の歌とマーラーの第9交響曲より構成されます。第9交響曲はマーラー祝祭オーケストラがまだジャパン・グスタフマーラー・オーケストラという名称であった2012年6月24日に、文京シビックホール大ホールで行われた第9回定期演奏会で取り上げられており、今回は13年ぶりの再演となります。13年前の公演に接した本ブログ管理人の感想は、ジャパン・グスタフ・マーラー・オーケストラ第9回定期演奏会を聴いてという記事として本ブログで公開しています。第9回定期演奏会は本来、2011年に行われる予定でしたが、東日本大震災被災により当初予定されていたミューザ川崎シンフォニーホールでの公演ができなくなったこともあり、1年延期の上、会場を変更しての公演となりました。今回は改めて、ミューザ川崎シンフォニーホールでの公演となります。

第9交響曲について、これまでの公演で取り上げられてきた交響曲同様、プログラムノートに寄稿させて頂いておりますので、是非ともご一読頂ければ幸いです。

また本ブログでは、上記の公演の感想以外にも、第9交響曲に関連して以下のような記事を執筆・公開していますので、併せてご覧頂ければ幸いです。

(2025.5.31 公開, 6.18 更新)


マーラーを考える上での主題系

 本来は相関図を用いるべき。

  • 識・無意識・自己・心・他者:現象学、初期ハイデガー、批判理論、解釈学、認知科学、プロセス哲学、脳科学、神経生理学、進化論(ミーム含む)、発達心理学、精神病理学、精神分析学。フリストンの理論(自由エネルギー原理・能動推論・マルコフブランケット。)
    • 「二分心」(ジュリアン・ジェインズ)崩壊以降、シンギュラリティ(カーツワイル)以前の「意識」の時代。「延長意識」「自伝的自己」(ダマシオ)「自己意識」の成立と維持の仕組み。
    • フィクションとしての「私」。「意識が一つ続きのものであること」(兼本浩祐)が如何にして可能になるか。時間をまたぐ構造保持のメカニズム。「自伝的自己」の生成機序と構造。
    • 表象の同一性維持機構としての「ことば」。
    • 「私」を立ち上げる必須の契機としての「他者」。他者の声の交響の場としての「私」。やまだようこ「ことばの前のことば」における「うた」。
  • 時間性:意識=時間性の起源としての他者の(原)触発。「隔時性」(レヴィナス)。リベットの実験における意識の「遅れ」=差延(デリダ)。プロセス哲学における「時の逆流」、推移の時間と超越(ホワイトヘッド=遠藤)。不可逆性、未来完了性(ジャンケレヴィッチ/アドルノ)。Varianteの技法(アドルノ)。他者への「応答」への遅れ⇒「投壜通信」としての「作品」。
  • 音楽作品と意識との関係。結節点としての自由エネルギー原理(フリストン):「感じ」としての意識(ソームズ、パンクセップ、ダマシオ)/「図式的期待」(ナームア、マイヤー)⇒「意識の音楽」・「時間の感受のシミュレータとしての音楽作品」・「マーラー・オートマトン」。MIDIデータを用いた調的軌道の可視化。和音の出現頻度分析。状態遷移の多様性の分析。標題性、「ことば」による表象の安定化。ジェスチャーとしての音楽(近藤譲)。
  • 意識「からの」眺め:超越・不滅性/有限性・老いと死、倫理や価値、反逆、憧憬、懐疑と矛盾、イロニー、夢、自然、自然の音と「世の成り行き」、音の風景・空間性(「遠くから」)。ヴァ―チャリティ(風景の、そして意識そのものの)。想像力、仮想性:「ありえたかも知れない民謡」(三輪眞弘)、仮晶(アドルノ)、疎外。様々な異化(「うた」の媒介性、屈折。作品における男女の声の交替、歌と器楽の往還。幼少期のアコーディオン)。
    • ⇒ 「老い」:「現象からの退去」(ゲーテ=ジンメル)としての「老い」=「後期様式」(アドルノ)。「かけがえのないものが移ろいゆくものであること」の受容。Erdeの多義性。。「個別的なものの学(mathesis singularis)」(ロラン・バルト)。
    • ⇒「子供」:自伝的自己の成立機序。「新しさ」の感じが生じる条件としての「他者」との遭遇。「出会い」の時間論的構造、「再会」によって「出会い」が事後的・未来完了的に認識されること。
  • シンギュラリティ(カーツワイル)からの視点:Life3.0(テグマーク)。惑星としての地球(Erde)。宇宙人からの展望(シュトックハウゼン)。人工知能による補筆(第10交響曲)。
  • (未完成を含む)作品の存在論。「幽霊性」。「再演」による継承の意味。「書き取らされている」という感じについてのジェインズの「二院制の心」による説明、世界制作(グッドマン)、「神の衣を織る」(ゲーテ『ファウスト』)。ポリフォニー:「子午線」を介した「対話」としての「詩」(パウル・ツェラン)。「投壜通信」(ツェラン=マンデリシュタム)。他者の声の交響の場としての作品(バフチン)。「うた」の起源におけるポリフォニーの優位(ジョルダーニア)
  • 個別的なものの学(mathesis singularis)」(ロラン・バルト)としての「マーラー学」:儚く有限な「意識」と「主観性」の擁護。「投壜通信」(パウル・ツェラン=マンデリシュタム)。「コミットメント」(マイケル・ポランニー)。

(2002執筆, 2007加筆, 2008.5.27初稿公開, 2025.10.1 身辺雑記から独立させて公開。ワーク・イン・プログレス)

2025年9月30日火曜日

意識の構造と音楽:フリストンの自由エネルギー原理とマーラーの作品の時間性(2025.9.30更新)

 1. はじめに

本稿は、カール・フリストンの自由エネルギー原理を中心とした現代の意識理論と、音楽、特にマーラーの交響曲における時間構造との関係を考察し、アドルノの音楽分析における「未来完了性」概念およびVarianteの技法を重要な分析視点として、意識と音楽の構造的類似性の探究の方向性を示すこと、マーラーの音楽を「意識の音楽」「<感じ>の時間性のシミュレータ」として捉えることに一定の妥当性があることを示そうと試みたものです。


2. フリストンの自由エネルギー原理と意識理論

2.1 基本概念

自由エネルギー原理は、生物システムが環境との相互作用において、予測誤差(サプライズ)を最小化しようとする基本的な動作原理を示しています。脳は常に感覚入力を予測し、その予測と実際の入力との差異を最小化することで、世界の内部モデルを更新し続けます。

2.2 意識との関連

予測処理と意識 フリストンの理論では、意識は階層的な予測処理システムの産物として捉えられ、脳の異なる階層レベルで行われる予測とその更新のプロセスが、私たちの主観的体験を生み出すとされます。

注意と意識の関係 予測誤差が大きい情報に注意が向けられ、それが意識的な経験として現れる仕組みも、自由エネルギー原理で説明される可能性があります。それによれば、予測できない、つまり情報価値の高い刺激が意識の前景に現れやすいとされます。これは意識が無意識的な処理では対応しきれないような環境の変化に対応するために進化的に生み出された仕掛けであるという考え方や、ウィノグラード=フローレスのように意識を「ブレイクダウン」に関連付けて考える立場と親和的です。

2.3 情動の理論と自由エネルギー原理の統合

内受容感覚と予測処理 ソームズが重視する内受容感覚(体内からの感覚)は、フリストンの枠組みでは身体状態の予測処理として理解されます。脳は常に身体の内部状態を予測し、その予測誤差を最小化することで恒常性を維持します。この過程で生じる予測誤差が「感じ」として体験されると考えられています。

情動の予測符号化 パンクセップの情動システム理論における基本情動(恐怖、怒り、探索など)も、進化的に発達した、生存のために重要な状況における予測処理システムとして再解釈可能です。これらの情動は、環境や身体状態の変化を予測し、適応的な行動を準備するための進化的に古い神経システムに由来するものと考えられます。

注意すべきなのは、ソームズやパンクセップの理論は、感情一次過程(Primary Process Emotion)理論であり、脳幹・辺縁系レベルの内的な状態としての感情を対象にしていること、それに対応してあくまでも生命維持や自己調節に根ざした脳内のホメオスタシス的機構のレベルでの感情の機能にフォーカスされており、実質的にはダマシオの言う「中核意識」以下のレベルに限定されていることです。

2.4.意識の階層構造

原始意識と高次意識 両者の理論は、意識の階層性について補完的な視点を提供します。パンクセップの「原始意識」(情動的意識)は、フリストンの枠組みでは低次の予測処理レベルに対応し、ソームズの言う「感じ」は身体状態の予測誤差として説明されます。一方、ソームズは高次の意識についても述べており、フリストンにおける階層的なモデルに対応するとされています。ただしそこでの感じや情動の扱いは限定的であり、高次の意識は「思考」として扱われている点には注意が必要です。

脳幹から皮質への情報流 ソームズやダマシオが強調する脳幹の重要性は、フリストンのモデルでは身体調節的な予測の最下層として位置づけられます。脳幹での予測処理が上位の皮質レベルに影響を与え、複雑な意識体験を形成するという統合的な理解が可能になります。特に皮質レベルでの高度な「思考」においては海馬が果たす役割が重要であり、ソームズの指摘するように、通常は無意識的である皮質の記憶プロセスに、視点を持った「わたしというもの」の質を注入するのに重要な役割を果たし、そのことによってシャクターの言うところの「建設的なエピソードシミュレーション」を支えています。

価値と動機の統合 パンクセップの情動システムが示す「欲求」や「価値」は、フリストンの能動的推論において、行動選択の基準となる事前期待として組み込まれます。生物は単に予測誤差を最小化するだけでなく、進化的により生存に適した状態を求める傾向があります。

この統合的アプローチは、意識を純粋に計算論的な現象としてではなく、身体に根ざした情動的・評価的なプロセスとして理解する新しい枠組みを提供することから、意識の構造と音楽との間の橋渡しをする可能性を持つものと考えられます。ただしパンクセップやソームズの情動についての理論は、フリストンの階層的な意識モデルにおいては、主としてその下層に関連づけられる点、あくまでも生命維持や自己調節に根ざした脳内のホメオスタシス的機構の解明に特化しており、そのために他者との相互作用によって生じる複雑な社会的感情や、情動のダイナミクスについては、十分な説明がされていない点については別に補完する必要があります。

2.5 音楽心理学における図式的期待(schematic expectation)との関連

フリストンの「サプライズ最小化(自由エネルギー原理)」と、音楽心理学における図式的期待(schematic expectation)は、両者とも予測とその誤差処理を中心に据えているという点で深い関係性があると考えられます。

音楽心理学における「図式的期待」ナームアの「含意ー実現」モデル、マイヤーの期待理論などでは、聴取者は過去の音楽経験や文化的学習によって、調性・旋律進行・リズムに関する「スキーマ」を持ち、それに基づいて「次にどうなるか」を予測し、実際の音楽進行が予測と一致すれば「充足感」や「安定」を、逸脱すれば「驚き」や「緊張」を感じるとされます。

予測と誤差処理 フリストンの理論では、能は外界からの入力を受けるとき、内部モデル(生成モデル)を用いて予測を立て、実際の感覚入力との差(予測誤差、≒「サプライズ」)が最小になるように行動・知覚・学習を調整します。これは認知・行動を統一的に説明する一般的・原理的枠組みであり、音楽心理学における「図式的期待」はその枠組みの音楽に特化した一例として位置付けられます。

音楽は「サプライズ」を意図的に操作する芸術と見ることができ、予測通りであれば安心、予測が裏切られれば驚きや緊張が生じ、それが新たな期待の更新につながるという意識の流れを生み出していきます。音楽は脳の自由エネルギー原理を活用した、仮想的なシミュレーションという捉え方が可能です。ただしここでも情動の理論について指摘したものと並行的な制限があることに注意する必要があります。つまり図式的期待のモデルは、その単純なものについて言えば、意識のレベルとしては中核意識のレベルを大きく超えることはなく、フッサールの内的時間意識の現象学においては第一次の把持のレベルに留まります。勿論それを「今ここ」の統合を超えた時間をまたいだレベルに拡張することは可能ですが、モデルとしての実質を持たせるためには時間をまたぐ構造保持のメカニズムが別途必要になると考えられます。フリストンの理論は過去・現在・未来を含む生成モデルを扱えるので、長期的安定性を定式化することは自然に行えますが、ダマシオの言う「延長意識」の水準や「自伝的自己」を扱うためには階層的なモデルが必須となり、特に上位階層の機能が重要となるのは既述の通りです。


3. 音楽と意識の構造的類似性

3.1 予測処理としての音楽体験

時間的予測とサプライズ 音楽に関わる様々な行為は、全体として時間的な予測処理システムと見做すことができます。私たちは聴きながら次の音やリズム、和声進行を無意識に予測し、その予測が裏切られたり確認されたりすることで音楽的体験が生まれます。フリストンの枠組みにおいて予測誤差の最小化プロセスと捉えることができるこの過程は、音楽の理解と楽しみの重要な源泉の一つとなると考えられます。

意識と音楽における階層構造 音楽の構造には意識と構造と並行的な階層性が見られます。音楽の聴取においては、音高、リズム、フレーズ、楽章といった異なるレベルで同時に予測処理が行われ、それぞれが相互作用しながら統合された音楽体験を生み出します。これは意識の階層的な予測処理モデルと類似しています。

3.2 身体的・情動的基盤

内受容感覚との共鳴 ソームズが重視する内受容感覚は、音楽体験の核心部分です。例えばリズムは心拍や呼吸と同期しますし、低音は身体の深部感覚との共鳴を惹き起こすと考えられます。音楽は身体状態の予測処理システムを直接的に活性化し、「感じ」の絶えまない変化としての音楽体験を生み出します。

基本情動システムの活性化 パンクセップの基本情動(探索、遊び、恐怖、愛着など)は、音楽の異なる要素によって直接的に喚起されると考えることができるかも知れません。例えば上行するメロディーは探索システムを、不協和音は警戒システムを、反復的なリズムは愛着システムを活性化する可能性があります。

3.3 音楽の意識への作用メカニズム

注意の誘導と統合 音楽は予測可能性と驚きのバランスを通じて注意を誘導し、変転し流動する意識内容を統合する力を持ちます。このことが音楽療法や瞑想において音楽の使用が有効である理由かも知れません。

時間意識の構造化 音楽は時間の流れを構造化し、意識の時間的展開パターンを調整します。拍子やテンポは時間予測のリズムを設定し、フレーズ構造は意識の注意サイクルと同期します。音楽は意識の流れを誘導し、調整する働きをすると考えることができます。

3.4.創造性と自己組織化

能動的推論としての作曲・演奏 音楽の創造は、内的な音楽モデルと実際の音響出力との間の予測誤差を最小化する能動的推論プロセスとして理解できます。演奏者は意図した音楽表現を実現するために、身体動作を通じて環境(楽器)を制御します。

集合的意識としてのアンサンブル 複数の演奏者によるアンサンブルは、個々の予測処理システムが相互作用し、より大きな予測システムを形成する例として興味深いモデルを提供します。これは意識の社会的側面に通じ、集合的認知の理解に繋がっていく可能性を含みます。


4. マーラーの交響曲における意識構造の音楽化

4.1 多層的な予測処理システム

同時進行する複数の時間スケール マーラーの交響曲では、短いモチーフ、中規模なフレーズ、長大な楽章、そして全体の交響曲という異なる時間スケールが同時に展開されます。これは意識における多層的な予測処理そのものと見做すことができ、私たちの意識も、瞬間的な知覚、短期記憶、長期的な目標や人生の物語といった異なる時間軸で同時に機能していることとの並行性が見い出せます。マーラーの音楽はしばしば「小説」に喩えられる、長大で複雑な時間的構造を持ちますが、それはダマシオの定義する「中核意識(Core consciousness)」(「今ここ」の統合)の繰り返しでは説明しきれず、自己史や未来予測を含む「延長意識(Extended consciousness)」や自伝的自己の水準に対応すると考えるべきです。

階層間の相互作用 マーラーの音楽では、小さなモチーフの絶えざる回帰と変形のプロセスが楽章全体の構造を決定し、同時に巨視的な楽式レベルで設計された全体の流れが局所的な展開に、時として遡及的に意味を与えます。これは意識の階層的予測処理において、上位レベルの予測が下位レベルの知覚を制約し、下位レベルの予測誤差が上位レベルの信念を更新するプロセスと対応しています。

4.2 情動と認知の統合

身体的共鳴の複雑性 マーラーの音楽は、パンクセップの基本情動システムを複雑に織り交ぜます。例えば第5交響曲の第1部では悲しみや恐怖が活性化され、第3部では愛情や喜びが活性化されますが、これらは単純に継起するのではなく、重層的に組み合わされており、まさに人間の意識における情動の複雑に入り混じった状態を音楽化したものと言えます。更に言えば、マーラーの音楽における感情のレパートリーは、一次過程理論で重視されるような、主に情動(Emotion)や動機づけ(Motivation)としての感情に限定されません。マーラーの音楽は、持続的な状態としての感情、即ち自伝的自己が関わる水準の「気分(Mood)」や「情動気質」といった、より持続的で自己全体に影響を及ぼす感情の状態が重要になります。

内受容感覚の精緻化 マーラーの音楽は聴き手の呼吸、心拍、筋緊張を微細にコントロールします。例えば長大な弦楽器のクレッシェンドは交感神経系を段階的に活性化するでしょうし、突然の静寂は副交感神経系への急激な切り替えを促します。こうした単独の例であれば、他の音楽にも見出せるものですが、これらを高度に複雑に組み合わせたマーラーの音楽は、意識における身体状態の予測処理の複雑さを反映していると見ることができます。それは二次過程(学習・記憶)や三次過程(高次認知・社会的機能)と呼ばれるより高次の脳システムとの相互作用のメカニズムをも考慮して理解すべきものではないでしょうか?

4.3.記憶と予期の織物

循環的な時間構造 マーラーは同一の主題を異なる文脈で繰り返し登場させ、それぞれに新たな意味を付与します。これは意識における記憶の働き—過去の経験が現在の知覚を予測的に形作り、同時に現在の経験が過去の記憶に新たな意味を与えるプロセス—と同一の構造です。

遠大な予期と局所的サプライズ 交響曲全体を通じて、聴き手は遠い未来の解決(例えば終楽章の勝利的な結末)を予期しながら、局所的には予想外の転調や楽器法に驚かされ続けます。これは人生における長期的な目標設定と日常的な予期の裏切りという、意識の時間的構造そのものです。

4.4.統合と分裂の動的平衡

複数の視点の同時存在 マーラーの音楽では、異なる楽器群が異なる「声」や「視点」を表現し、それらが対話し、競合し、最終的に統合されます。これは意識における複数の心的内容の競合と統合、そして統合情報理論で言うところの意識の統一性の動的な実現過程と対応しています。更に言えば、一般にフリストンの自由エネルギー原理は、単独の個体の知覚・行為の予測誤差最小化をモデル化したものですが、それを社会的相互作用や他者モデルの生成・更新まで拡張して解釈する必要が出てくるかも知れません。これは情動理論についても同様であり、生命維持や自己調節に根ざした脳内のホメオスタシス的機構の解明に特化した情動の理論を拡張し、他者との相互作用によって生じる複雑な社会的感情や、情動のダイナミクスを扱えるようにすること、他者との共感や、感情が他者の触発によって起きることや、同期や引き込みのような感情ならではの現象を扱えるようにする必要が出てくるものと考えられます。

意識の流れの音楽化 ウィリアム・ジェームズの「意識の流れ」概念は、マーラーの音楽において具現化されています。絶え間ない変化の中にある継続性、断絶のない移行、過去・現在・未来の融合といった意識の基本特性が、音楽的時間として展開されています。ここでいう意識の時間性は、現象学的時間論においては第二次把持の水準(想起や予期)を扱えることは必須ですし、マーラーの音楽における民謡や行進曲などといった文化的沈殿物の再利用のような側面を扱うのであれば、更にスティグレールの言う第三次の把持まで考慮する必要があるかも知れません。

4.5.意識の音楽としてのマーラーの交響曲

マーラーの交響曲は、単に美的体験を提供するだけでなく、意識の構造そのものを時間芸術として展開した、意識の現象学的地図とも呼べる存在なのです。聴き手はその音楽的体験を通じて、自らの意識の複雑な構造を内側から体験し、理解することができるのです。なお、ここでいう意識は「今ここ」の統合としてのダマシオの中核意識だけではなく、時間をまたぐ構造保持のメカニズムに支えられた、「物語」の主人公たりうる、それ自体フィクションである「一続きの私」に対応する延長意識のレベルをも含みます。それは「自己についての予測」が行われ、「自分がどのような存在であるか」についての予測を実現しようとする行動が行われる水準であり、最低でも自己モデルに基づく、自己の状態についてのメタレベルの認知が、時としては自己言及的な構造がその実現のための条件となります。


5. 自己言及性と予測処理

5.1 予測的自己モデリング

自己についての予測 フリストンの枠組みでは、脳は環境だけでなく自分自身についても予測モデルを構築します。この「自己についての予測」が自己言及性の基盤となります。脳は自分の感覚、行動、さらには自分の思考プロセスまでも予測しようとし、その予測誤差を最小化することで自己理解を深めていきます。

メタ認知としての階層化 自己言及性は、予測処理の階層構造において上位レベルが下位レベルの予測プロセス自体を予測することとして理解できます。「私は今何を考えているか」「私はなぜこう感じるのか」といった内省は、認知プロセスについての予測処理として機能します。

5.2.能動的推論における自己

自己実現的予測 フリストンの能動的推論では、生物は世界を変化させることで自分の予測を実現しようとします。自己言及的な場合、これは「自分がどのような存在であるか」についての予測を実現しようとする行動となります。アイデンティティの形成や維持は、自己についての予測を能動的に実現するプロセスとして理解できます。

循環的因果性 自己言及系では、システムが自分自身を参照し、その参照が再びシステム自体を変化させるという循環が生じます。フリストンのモデルでは、これは予測と行動の循環として表現することが考えられ、自己モデルの更新が新たな自己モデルの予測を生み出す無限の再帰的過程と見做すことが可能です。

5.3 マーラーの音楽における自己言及性

音楽的自己意識 マーラーの交響曲にもし「音楽について語る音楽」という側面があるとしたならば、フリストンの枠組みではそうした側面を、音楽システムが自分自身の構造を予測し、その予測を音楽的に実現するプロセスとして理解することができます。作曲家は音楽の効果を予測し、その予測を音楽そのものに組み込むことで、自己言及的な構造を創造します。マーラーの音楽における引用やパロディをこの枠組みに基づいてモデル化する可能性があると考えます。

聴取における再帰的体験 聴き手がマーラーの音楽で体験する自己言及性は、音楽が聴き手の予測プロセスについての予測を誘発することです。「この音楽は私にどう感じさせようとしているのか」という意識が、実際にその感情体験を変化させる循環的なプロセスが生まれます。

5.4 自由エネルギーの最小化と自己言及のパラドックス

予測の不可能性 自己言及系には根本的なパラドックスがあります。システムが自分自身を完全に予測できれば、その予測可能性自体が新たな予測不可能性を生み出します。ただしこのレベルのパラドクスが常に問題になるわけではありません。一般に予測が不可能なのは、予測の対象となる世界が複雑で確率的なゆらぎを持っている上に、常に部分的な情報しか得られないことから、無意識的・自動的なシステムの反応ではブレイクダウンを起こすような状況が起こりえることに起因すると考えられます。結果としてフリストンの理論では、予測誤差は完全には解消できず、持続的な「自己についての不確実性」が意識の動的な性質を生み出すと考えられます。そうした状況に対応するためには、一見すると非効率である意識的な認知の仕組みが必要となります。つまり意識的な認知は、複雑で変動する世界において、自動化されたシステムが破綻するリスクに対する、進化的に獲得された階層的な適応メカニズムであり、その実装には深い自己言及的構造が必要であり、これが構造的な「非効率性」と「不確実性」を生むが、それは長期的生存確率を最大化するための合理的なコストであると考えられます。

創発的複雑性 自己言及的な予測処理システムでは、単純な規則から複雑で予測困難な行動パターンが創発します。これは意識の豊かさや創造性の源泉となり、同時に完全な自己理解の不可能性の根拠ともなります。ソームズは自由エネルギー原理が、意識、覚醒の否定であり、認知の理想形は自動的なものであり、ある種のゾンビ状態を目指していると結論づけながら、その一方で、私たちの頭の中で起こっていることの多くが、情報効率や熱力学的効率の理想とは一致しにくいことを指摘し、一見したところ自由エネルギー理論への挑戦に見える活動として、マインドワンダリング、熟慮型の想像、言葉による抽象化を挙げていますが、これらはいずれも自己言及的な予測処理システムの持つ創発的特性と関連づけて理解することができるでしょう。そしてそれは同時に「一続きの私」が成立し、維持されるための構造的条件にも関わるものと考えられます。

5.5.意識の統合と分裂

統合情報としての自己言及 統合情報理論との関連で言えば、自己言及性は意識システム内での情報統合の特殊なケースです。システムが自分自身についての情報を統合することで、より高次の統合情報が生成され、それが自己意識の基盤となります。自己の統合は常にうまくいくとは限らず、離人症的な経験のような、病理的な自己感の喪失や分裂が経験されることもありえます。また正常な場合でも、「自我経験」と呼ばれる対自的な自己意識についての経験が生じることもあります。モデルはこうしたケースも含めて説明できる必要があります。マーラーの音楽もまた、「一続きの私」の維持が自明なことではなく、時としてそれが不安定になり、破綻に瀕することさえ生じることを音楽的にシミュレートしていると見做すことができるでしょう。

自己の境界の動的構成 フリストンのモデルでは、「自己」の境界は固定的ではなく、マルコフブランケット(システムと環境の境界)として動的に構成されます。自己言及性は、この境界の内側で自分自身を予測するプロセスとして、自己の境界設定そのものに影響を与えます。

この自己言及的な予測処理の循環こそが、意識の最も特徴的な性質—自分自身について意識する能力—を生み出し、同時にその完全な理解を永続的に困難にする源泉となっているのです。マーラーの音楽はこの循環の美的な表現として、意識の自己言及的な構造を時間芸術として具現化している可能性があり、その検証は大きなチャレンジであると考えられます。


6. アドルノの未来完了性とVariante技法

6.1 Varianteと予測処理の逆転

変形としての主題認識 通常のソナタ形式では「主題提示→展開→再現」という線形的な時間が想定されますが、マーラーのVariante技法では、最初に現れるものは実は「変形」であり、「真の主題」は後に現れます。これは予測処理において、最初の知覚が実は「予測の変形」であり、後にその「元となる予測モデル」が明らかになるプロセスと対応しています。

予告としての最初の提示 フリストンの枠組みでは、脳は常に階層的な予測を行いますが、マーラーの技法では音楽的な「予測」が時間的に逆転します。最初に聞こえるのは結果(変形)であり、原因(主題)は後から明らかになる。これは予測誤差の解決が遡及的に行われる特殊なケースです。

6.2 記憶と予測の時間的錯綜

既知感の創出 Variante技法により、聴き手は「初めて聞くはずの主題」を「既に知っている」かのように体験します。これは予測処理システムが、まだ完全には提示されていない情報に対して「記憶的親和性」を感じる現象です。脳は断片的な情報から全体像を予測し、その予測が後に確認される構造です。

遡及的な意味付与 主題の「実現」が起こったとき、それまでの変形部分が遡及的に新しい意味を獲得します。これはフリストンの理論における「事後的な予測更新」の音楽的実現です。新しい情報(真の主題)が過去の体験(変形部分)の解釈を根本的に変更するのです。

6.3 自己言及的な予測構造

予測モデルの自己生成 マーラーの音楽では、主題が自分自身の変形から生まれ出るという自己言及的構造が生じます。これは予測処理システムが自分自身の予測誤差から新しい予測モデルを生成するプロセスの音楽的な表現です。

循環的な因果関係 変形(Variante)→主題(実現)→新たな変形という循環において、どこが「始まり」でどこが「終わり」かが不明確になります。これは自由エネルギー原理における予測と更新の循環的プロセスが、時間軸上で複雑に折り畳まれた状態として理解できます。

6.4 意識の未来完了性との対応

体験の事前構造化 この技法は、意識が体験を事前に構造化する仕組みを音楽的に実現しています。私たちは出来事を体験する前に、すでにその出来事の「型」や「枠組み」を持っており、実際の体験はその予期された枠組みの「実現」として経験されます。

自己実現的予測の音楽化 マーラーのVariante技法は、フリストンの「能動的推論」における自己実現的予測の音楽的表現でもあります。予告された主題は、その予告によって実現へと向かう必然性を獲得し、音楽自体が自分の予測を実現していくプロセスとなります。

この「予告—実現」構造は、単なる音楽技法を超えて、意識が時間を体験し、記憶と予測を統合する根本的なメカニズムの芸術的な開示と捉えることができないでしょうか。マーラーは、私たちの意識が持つ「未来を既に知っている」かのような時間体験を、音楽的時間として具現化している可能性があります。


7. マーラーの作品における具体的な音楽体験での実現例(ラフスケッチ)

第1交響曲の序奏 第1楽章冒頭の自然音の模倣から徐々に主題が浮かび上がる過程は、環境音(変形)から音楽的主題(実現)への変容として、まさに予告→実現の構造を示しています。聴き手は「何か重要なことが起ころうとしている」という予期を持ちながら聴き進みます。第1楽章冒頭の自然音の模倣から徐々に主題が浮かび上がる過程は、環境音(変形)から音楽的主題(実現)への変容として、まさに予告→実現の構造を示しています。聴き手は「何か重要なことが起ころうとしている」という予期を持ちながら聴き進みます。因襲的なソナタ形式からは大きく逸脱して、決定的な出来事、アドルノいう「突破」が生じるのは展開部の最後、展開部冒頭で最後に導入されたモチーフによって再現部に入るところで、再現部はそれまでのプロセスを足早に逆回しで遡及するようなユニークな構造を持っています。

第2交響曲の終楽章 復活の主題は、実は前楽章や前半部での断片的な「予告」を経て、最終的に合唱で「実現」されます。この構造により、実現の瞬間は「初めて聞く新しい主題」ではなく「ついに到達した既知の目標」として体験されます。

第9交響曲第1楽章 冒頭は幾つかの動機が断片的に提示され、その後旋律がためらいがちに、断片的に姿を現しますが、最初の提示は予備的な性質のものであり、完全な姿ではありません。そして通常は主題が反復され、確保される箇所で漸く主題が完全な形で提示される構造になっており、「未来完了」的な構造の典型となっています。またその後の主題は絶えず変形を受けながら回帰し、最後には再び断片となって解体していきます。これは意識の様々な様態の遍歴のプロセスと見做すことができます。またソナタ形式として捉えた場合の展開部の最中においても主要主題は主調で回帰するなど、調的遍歴の過程として見た場合でも、因襲的な図式を離れたユニークなプロセスを有しており、優れて「意識の音楽」としての特徴を有していると考えられます。


8. まとめ

フリストンの自由エネルギー原理と情動中心の意識理論の統合により、音楽と意識の構造的類似性を理解する枠組みを提供できる可能性があります。それに基づき、マーラーの交響曲における未来完了性とVariante技法は、意識の時間的構造の複雑さ—予測と記憶の相互浸透、自己言及的な循環、階層的統合—を音楽的に具現化しているという仮説を構成できます。

アドルノの未来完了性は「予告→実現」構造として分析され、意識が体験を事前に構造化し、自己実現的予測を通じて現実を構成する仕組みの音楽的表現として理解でき、これは単なる美的現象を超えて、意識の根本的なメカニズムの芸術的開示であると捉えることが可能かも知れません。

音楽と意識は、時間的で階層的で身体に根ざした予測処理システムとして根本的な類似性を持ち、マーラーの音楽は意識の構造そのものを時間芸術として展開した「意識の現象学的地図」であり、「意識の音楽」「<感じ>の時間性のシミュレータ」として機能していると考えることには一定の妥当性があると考えられます。

[後記] 本稿は著者が基本的な着想や理論構成を与え、研究パートナーとしてClaude Sonnet 4ないし4.5やChatGPT-5, Gemini 2.5 Flashとの対話を繰り返すことを通じて作成されました。上記のテキスト中には、Claude Sonnet 4やChatGPT-5, Gemini 2.5 Flashが生成した文章およびそれを編集したものが含まれます。


(2025.9.26 noteにて公開, 9.28加筆, 9.30加筆)

2025年9月21日日曜日

所蔵録音覚書:第6交響曲 (2025.9.21 更新)

  • 第6交響曲(第2楽章アンダンテ),アドラー, ウィーン交響楽団, 1952, (18:25, 15:36, 12:55, 33:21), ウィーン, MONO, Conifer Classics
  • 第6交響曲(第2楽章アンダンテ), ファン・ベイヌム, アムステルダム・コンセルトヘボウ管弦楽団, 1955.12.7(Live), (16:36, 13:55, 12:16, 30:22), アムステルダム、コンセルトヘボウ, MONO, Tahra
  • 第6交響曲(第2楽章アンダンテ), ミトロプーロス, ニューヨーク・フィルハーモニー管弦楽団, 1955.4.10(Live), (17:59, 15:15, 11:27, 28:46), ニューヨーク、カーネギー・ホール, MONO, New York Philharmonic
  • 第6交響曲, ミトロプーロス, ケルン放送交響楽団, 1959.8.31(Live), (18:40, 11:37, 14:26, 29:20), ケルン, MONO, Hunt
  • 第6交響曲(カットあり, 第2楽章アンダンテ), シェルヒェン, ライプチッヒ放送交響楽団, 1960.10.4(Live), (14:03, 12:35, 6:26, 20:41), ライプチッヒ、コングレスハレ, MONO, Memories reverence
  • 第6交響曲, ラインスドルフ, ボストン交響楽団, 1965.4.20,21, (18:20, 11:51, 14:53, 28:31), ボストン、シンフォニーホール, STEREO, RCA
  • 第6交響曲, ラインスドルフ, バイエルン放送交響楽団, 1983.6.10(Live), (17:31, 11:46, 14:47, 29:20), ミュンヘン、ヘラクレス・ザール, STEREO, Orfeo
  • 第6交響曲(第2楽章アンダンテ), ゴールドシュミット, BBC交響楽団,  1961.11.25, (1:28:39), ロンドン, MONO, BBC transcription service
  • 第6交響曲(第2楽章アンダンテ), フリプセ, ロッテルダム・フィルハーモニー管弦楽団, 1954.7.3(Live), (17:37, 14:27, 11:46, 30:51), アムステルダム、オランダ・フェスティバル, MONO, Epic
  • 第6交響曲, ロスバウト, 南西ドイツ放送交響楽団, 1961.4.6(Live), (19:21, 13:56, 15:22, 32:37), バーデン・バーデン, MONO, SWR Classics
  • 第6交響曲, ロスバウト, 南西ドイツ放送交響楽団, 1961.4.7(Live), (19:02, 13:45, 15:19, 33:05), バーデン・バーデン, MONO, Datum
  • 第6交響曲, ドラティ, イスラエル・フィルハーモニー管弦楽団, 1963.10.27(Live), (17:54, 12:21, 12:27, 27:25), テルアヴィヴ、マン・オーディトリウム, MONO, helicon
  • 第6交響曲, セル, クリーヴランド管弦楽団 1967.10(Live), (17:45, 13:10, 13:31, 28:57), クリーヴランド、セヴェランスホール, STEREO, SONY
  • 第6交響曲(第2楽章アンダンテ), バルビローリ, ベルリンフィルハーモニー管弦楽団, 1966.1.13 (Live), (18:39, 14:08, 12:11, 29:09), ベルリン、フィルハーモニー, MONO, Testament
  • 第6交響曲(第2楽章アンダンテ), バルビローリ, ニュー・フィルハーモニア管弦楽団, 1967.8.16 (Live), (19:08, 14:00, 12:08, 29:23), ロンドン、ロイヤル・アルバート・ホール, STEREO, Testament
  • 第6交響曲(第2楽章アンダンテ), バルビローリ, ニュー・フィルハーモニア管弦楽団, 1967.8.17-19, (21:19, 16:03, 13:59, 32:47), ロンドン、キングズウェイ・ホール, STEREO, EMI
  • 第6交響曲, ホーレンシュタイン, ストックホルム・フィルハーモニー管弦楽団, 1966.4.15,17(Live), (23:42, 12:57, 16:15, 33:30), ストックホルム、ストックホルム・コンサート・ホール, STEREO, Unicorn-Kanchana
  • 第6交響曲, ホーレンシュタイン, ボーンマス交響楽団, 1969.1.10, (23:09, 12:44, 15:26, 33:12), ボーンマス、ウィンター・ガーデンズ, MONO, BBC legends
  • 第6交響曲, ヴァーツラフ・イラーチェク, チェコ放送交響楽団, 1970(Live), (18:34, 15:54, 12:14, 32:38), , MONO, Olympic
  • 第6交響曲, アブラヴァネル, ユタ交響楽団, 1974.5, (17:37, 11:43, 13:49, 27:24), ソルト・レイク・シティー、モルモン・タバナクル公会堂, STEREO, Vanguard / Musical Concepts
  • 第6交響曲, バーンスタイン, ニューヨーク・フィルハーモニー管弦楽団, 1967.5.2/6, (21:28, 12:25, 15:20, 28:40), ニューヨーク、リンカーン・センター、フィルハーモニー管弦楽団・ホール, STEREO, CBS-Sony
  • 第6交響曲, バーンスタイン, ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団, 1976.10.22-23, (21:33, 13:16, 16:28, 31:36), ウィーン、楽友協会ホール, STEREO, Deutsche Grammophon/Unitel
  • 第6交響曲, バーンスタイン, ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団, 1988.9.24-25(Live), (23:17, 14:16, 16:19, 33:10), ウィーン、楽友協会ホール, STEREO, Deutsche Grammophon
  • 第6交響曲, クーベリック, バイエルン放送交響楽団, 1968.12.7-8, (21:07, 11:41, 14:39, 26:37), ミュンヘン、ヘルクレス・ザール, STEREO, Deutsche Grammophon
  • 第6交響曲, クーベリック, バイエルン放送交響楽団, 1968.12.6(Live), (20:30, 11:34, 14:32, 26:03), ミュンヘン、ヘルクレス・ザール, STEREO, audite
  • 第6交響曲, ハイティンク, アムステルダム・コンセルトヘボウ管弦楽団, 1968.11.7(Live), (18:05, 12:42, 16:58, 28:29), アムステルダム、コンセルトヘボウ, STEREO, Concertgebouw Orkest
  • 第6交響曲, ハイティンク, アムステルダム・コンセルトヘボウ管弦楽団, 1969.1.29/2.1, (22:07, 13:16, 15:47, 29:38), アムステルダム、コンセルトヘボウ, STEREO, Philips
  • 第6交響曲, ハイティンク, ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団, 1989.4.4-6,  (22:52, 21:52, 16:10, 33:07), ベルリン、フィルハーモニー, STEREO, Philips
  • 第6交響曲, ハイティンク, シカゴ交響楽団, 2007.10.18/19/20/23(Live), (25:56, 14:23, 16:12, 34:10), シカゴ、シンフォニーセンター・オーケストラルホール, STEREO,CSO Live
  • 第6交響曲, ノイマン, ライプチヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団, 1966.6.6/10, ライプチヒ, (25:12, 12:52, 14:53, 29:48), STEREO, Berlin Classics
  • 第6交響曲, ノイマン, チェコ・フィルハーモニー管弦楽団, 1979.4.24-28, (22:00, 12:00, 14:05, 30:30), プラハ、ルドルフィヌム, STEREO, Supraphon
  • 第6交響曲, タバコフ, ソフィア・フィルハーモニー管弦楽団, 1993.10, (23:24, 13:20, 14:53, 28:46), ソフィア、コンサート・ホール, STEREO, Capriccio
  • 第6交響曲, ヘンヒェン, オランダ・フィルハーモニー管弦楽団, 1989.10.8-12, (23:13,12:55, 17:38, 28:53), アムステルダム、コンセルトヘボウ, STEREO, Capriccio / Brillant Classicals
  • 第6交響曲, ショルティ, シカゴ交響楽団, 1970.4.2/6/8, (21:06, 12:33, 15:30, 27:40), シカゴ、メディナ・テンプル, STEREO, Decca
  • 第6交響曲, カラヤン, ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団, 1975.1.20/2.17-20/1977.2.18-19, (22:20, 13:24, 17:10, 30:03), ベルリン、フィルハーモニー, STEREO, Deutsche Grammophon
  • 第6交響曲, レヴァイン, ロンドン交響楽団, 1978.2.7/9-10, (22:38, 13:40, 15:06, 30:02), ロンドン、ウォルサムストウ・タウン・ホール, STEREO, RCA
  • 第6交響曲, アバド, ウィーン交響楽団, 1967.5.24(Live), (23:23, 11:45, 15:20, 29:00), ウィーン、コンツェルトハウス大ホール, MONO, Memories Reverece
  • 第6交響曲, アバド, シカゴ交響楽団, 1979.2.3-6/1980.2.6, (22:31, 13:13, 15:53, 30:51), シカゴ、オーケストラ・ホール, STEREO, Deutsche Grammophon
  • 第6交響曲(第2楽章アンダンテ), アバド, ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団, 2004.6.3-5(Live), (22:48, 13:57, 12:43, 29:44), ベルリン、フィルハーモニー, STEREO, Deutsche Grammophon
  • 第6交響曲, テンシュテット, ロンドン・フィルハーモニー管弦楽団, 1983.4.28-29/5.4/9, (24:36, 13:04, 17:21, 32:58), ロンドン、キングズウェイ・ホール, STEREO, EMI
  • 第6交響曲, テンシュテット, ロンドン・フィルハーモニー管弦楽団, 1991.11.4/7(Live), (25:33, 14:12, 17:45, 33:33), ロンドン、ロイヤル・フェスティバル・ホール, STEREO, EMI
  • 第6交響曲, コンドラシン, レニングラード・フィルハーモニー管弦楽団, 1978.5, (16:28, 11:47, 12:40, 24:50), レニングラード, STEREO, Melodiya
  • 第6交響曲, コンドラシン, 南西ドイツ放送交響楽団, 1981.1.13/15, (17:02, 12:09, 13:26, 25:25), バーデン・バーデン、ハンス・ロスバウトスタジオ, STEREO, hänssler
  • 第6交響曲, インバル, フランクフルト放送交響楽団, 1986.4.24/26, (24:22, 14:46, 14:34, 30:02), フランクフルト、アルテ・オーパー, STEREO, Denon
  • 第6交響曲, ヘルビヒ, ザールブリュッケン放送交響楽団, 1999.11.26, (17:51, 13:02, 14:39, 28:45), ザールブリュッケン、コングレスハレ, STEREO, Berlin Classics
  • 第6交響曲,プレートル, ウィーン交響楽団, 1991.10.10(Live), (22;52, 13:21, 15:17, 30:16), ウィーン、楽友協会大ホール, STEREO,Weitblick
  • 第6交響曲, マゼール, ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団, 1982.9.30-10.4, (23:35, 12:47, 16:05, 29:54), ウィーン、楽友協会ホール, STEREO, Sony
  • 第6交響曲, マゼール, フィルハーモニア管弦楽団, 2011.4.19(Live), (25:58, 13:28, 16:47, 32:54), ロンドン、ロイヤルフェスティバルホール, STEREO, Sigum
  • 第6交響曲, 小澤, ボストン交響楽団, 1992.1.30-2.4(Live), (23:40, 13:38, 15:06, 30:43), ボストン、シンフォニー・ホール, STEREO, Philips/Decca
  • 第6交響曲, 若杉弘, 東京都交響楽団, 1989.1.26(Live), (22:43, 12:02, 13:38, 30:43), 東京、サントリーホール, STEREO, fontec
  • 第6交響曲, ドホナーニ, クリーヴランド管弦楽団, 1991.5, (23:04, 12:27, 14:45, 29:36), クリーヴランド、クリーヴランド、セヴェランス・ホール, STEREO,Decca
  • 第6交響曲, シノーポリ, フィルハーモニア管弦楽団, 1986.9.25-27, (25:08, 13:40, 19:53, 34:29), ロンドン、ワトフォード・タウン・ホール, STEREO, Deutsche Grammophon
  • 第6交響曲, ベルティーニ, ベルリン・ドイツ交響楽団, 1973.4.30(Live), (16:55, 13:18, 15:39, 27:53), ベルリン、フィルハーモニ, STEREO, weitblick
  • 第6交響曲, ベルティーニ, ケルン放送交響楽団, 1984.9.21, (24:04, 13:33, 16:16, 29:12), ケルン、西部ドイツ放送局, STEREO, EMI
  • 第6交響曲, シャイー, ロイヤル・コンセルトヘボウ管弦楽団, 1989.10.23-25, (25:35, 13:20, 14:47, 31:00), アムステルダム、コンセルトヘボウ, STEREO, Decca
  • 第6交響曲(第2楽章アンダンテ), ラトル, バーミンガム市交響楽団, 1989.12.14-16, (25:35, 16:33, 13:21, 30:34), ワトフォード、タウン・ホール, STEREO, EMI
  • 第6交響曲, ティルソン=トーマス, サンフランシスコ交響楽団, 2001.9.12-15(Live), (24:33, 14:02, 17:27, 31:22), サンフランシスコ、デイヴィス・シンフォニー・ホール, STEREO, SFSMEDIA
  • 第6交響曲, ブーレーズ, BBC交響楽団, 1973(Live), (23:12, 12:36, 12:36, 26:35), ロンドン, STEREO, Artists
  • 第6交響曲, ブーレーズ, ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団, 1994.5, (23:06, 12:19, 14:47, 29:10), ウィーン、楽友協会大ホール, STEREO, Deutsche Grammophon
  • 第6交響曲, スヴェトラーノフ, ロシア国立交響楽団, 1990, (22:59, 12:25, 15:37, 29:49), モスクワ、チャイコフスキー音楽院大ホール, STEREO, Warner
  • 第6交響曲, メータ, イスラエル・フィルハーモニー管弦楽団, 1995.7, (21:54, 12:40, 14:47, 28:30), テルアヴィヴ、マン・オーディトリウム, STEREO, teldec
  • 第6交響曲(第2楽章アンダンテ), レーグナー, ベルリン放送交響楽団, 1981.1,2, (24:52, 14:52, 12:00, 30:33), ベルリン、イエス・キリスト教会, STEREO, Deutsche Schallplatten
  • 第6交響曲, ツェンダー, ザールブリュッケン放送交響楽団, 1973.4.4-7, (17:35, 12:13, 12:51, 27:17), ザールブリュッケン、コングレス・ハレ, STEREO, cpo
  • 第6交響曲, ギーレン, 南西ドイツ放送交響楽団, 1999.9.7-10, (24:54, 14:31, 14:46, 30:40), バーデン・バーデン、フェストシュピールハウス, STEREO, hänssler
  • 第6交響曲, エッシェンバッハ, フィラデルフィア管弦楽団, 2005.11, (23:38, 13:19, 17:32, 30:53), フィラデルフィア、ヴェライゾンホール, STEREO, Ondine
  • 第6交響曲(第2楽章アンダンテ), ヤンソンス, ロンドン交響楽団, 2002.11.27-28(Live), (23:01, 15:13, 12:55, 30:43), ロンドン、バービカン・ホール, STEREO,LSO Live
  • 第6交響曲(第2楽章アンダンテ), ヤンソンス, ロイヤル・コンセルトヘボウ管弦楽団, 2005.12.22-23(Live), (23:45, 15:35, 13:15, 31:12), アムステルダム、コンセルトヘボウ, STEREO,RCO Live
  • 第6交響曲(第2楽章アンダンテ), ゲルギエフ, ロンドン交響楽団, 2007.11.22(Live), (21:59, 13:53, 12:34, 28:45), ロンドン、バービカン, STEREO, LSO Live
  • 第6交響曲(第2楽章アンダンテ), ジンマン , チューリヒ・トーンハレ管弦楽団, 2007.5.14-16, (23:15, 14:04, 13:56, 29:49), チューリヒ、トーンハレ, STEREO, RCA
  • 第6交響曲, 井上喜惟, ジャパン・グスタフ・マーラー・オーケストラ, 2001.11.25(Live), (26:52, 15:54, 16:09, 33:29), 横浜、神奈川県民ホール, STEREO, Tomei Electronics
  • 第6交響曲(第2楽章アンダンテ), 井上喜惟, ジャパン・グスタフ・マーラー・オーケストラ, 2009.7.12(Live), (27:38, 18:16, 16:08, 37:51), 川崎、ミューザ川崎シンフォニーホール, STEREO, 
  • 第6交響曲, ハジメ・テリ・ムライ, ピーボディ交響楽団, 2005.4.30(Live), (23:53,13:38,16:49,30:36), STEREO, peabody symphony orchestra
  • 第6交響曲(第2楽章アンダンテ), シュテンツ, ケルン・ギュルツニッヒ管弦楽団, 2013.11.10-12(Live), (23:40, 14:47, 12:47, 29:49), ケルン、ケルン・フィルハーモニー, STEREO, OEHMS Classics
  • 第6交響曲, クルレンツィス, ムジカ・エテルナ, 2016.7.3-9, (24:57, 12:49, 15:39, 31:06) モスクワ、Dom Zvukozapisi, STEREO, Sony
  • 第6交響曲(第2楽章アンダンテ), アバド, ルツェルン祝祭管弦楽団, 2006.8.10(Live), (23:52, 14:58, 13:03, 33:16), ルツェルン、文化・会議センターコンサートホール, STEREO, EuroArts
  • 第6交響曲, ルイジ, 中部ドイツ放送交響楽団, 1998.2.7-8(Live), (24:09, 13:52, 18:14, 31:56) ライプチヒ、ゲヴァントハウス大ホール, STEREO, Querstand Records
  • 第6交響曲, ノット, バンベルク交響楽団, 2008.10.27-31, (22:56, 13:04, 14:52, 29:29), バンベルク、コンツェルトハレ、ヨーゼフ・カイルベルト・ザール, STEREO, TUDOR
  • 第6交響曲(第2楽章アンダンテのみ),ゴルトシュミット, BBC交響楽団, 1963.1.20, (16:30), MONO, Internationale Gustav Mahler Gesellschaft, Mahleriana : Vom Wenden einer Ikone, Mandelbaum, 2006 に添付のCD
  • 第6交響曲(第2楽章アンダンテ:ツェムリンスキー編4手ピアノ版), ツェンカー、トレンカー, 1991.4.9-10, (19:54, 16:15, 12:02, 26:53), バート・アロルゼン、フュルストリッヒ・ライトバーン, STEREO, Dabringhaus und Grimm
第6交響曲の演奏記録の他の作品にない特徴として、楽章排列の問題がある。年代順に録音記録を追えばわかることだが、初期の録音は第2楽章にアンダンテを置いたものが多いのだが、ラッツの校訂したマーラー協会全集版が第2楽章スケルツォ、第3楽章アンダンテの配列を採用したことから、それ以降はこのマーラー協会全集版に従った演奏が主流になる。ところがその後、マーラー協会がラッツの方針を撤回し、第2楽章アンダンテの排列を正としたため、その後は再び第2楽章アンダンテの演奏が多くなっている。とはいえラッツの判断が広く受け入れられていた時代にも独自の見解から第2楽章アンダンテの排列を固持した演奏記録もあり、その中には印象的なものの少なくない。
バルビローリのベルリンでの演奏は、演奏会のライヴだが、第2楽章アンダンテ、第3楽章スケルツォの順序で、3度目のハンマーが聴かれるなど、ラッツ校訂のマーラー協会全集によらない演奏。ニュー・フィルハーモニア管弦楽団とのスタジオ録音は、第2楽章スケルツォ、第3楽章アンダンテの順序で発売されたこともあるようだが、版の問題は微妙で、3度目のハンマーは採用されず、チェレスタに置き換えられている一方で、ラッツの校訂に従っていない箇所もあるように聞こえる(つまり第3版による)。ニュー・フィルハーモニア管弦楽団とのプロムスでのコンサートのライヴ録音はスタジオでの録音とほぼ同時期に収録されたものだが、解釈やテンポ設定は、寧ろ前年のベルリンでのライブに近い。ただし楽譜については中間楽章の順序も含め、スタジオ録音と同様(ラッツ校訂の全集版ではなく)第3版を用いている。なおバルビローリの録音に共通しているのは第1楽章の提示部反復を行わないことで、これは第1交響曲でもそうだし、マーラーに限らず、他の作曲家の作品の場合でもバルビローリは提示部の反復を行わない場合が少なくない。一方、マーラー協会全集版を忠実にリアライズしたインバルの演奏では第1楽章提示部の反復は勿論行われている。ゴルトシュミットがBBC交響楽団を演奏した録音の第2楽章というのはアンダンテ楽章である。ゴルトシュミットは第10交響曲の演奏会用バージョンの編者の一人として著名だが、このアンダンテ楽章の解釈も卓越しており、マーラーの音楽に対する理解と思い入れの深さを感じさせる名演で、抜粋なのが惜しまれるほどである。またゴルトシュミットは第6交響曲の楽章排列に関して第2楽章アンダンテ・第3楽章スケルツォの順序が正しいと考えていて、順序を入換えたラッツとは意見を異にしていた。この演奏が収録されたCDは国際マーラー協会による「マーレリアーナ」の付録なのだが、関連するゴルトシュミットのラッツ宛書簡が本文のp.84に収められていて、この演奏はまさにそれに対応する記録となっている点でも興味深い。なお、その後同じ指揮者・オーケストラによる別の日(1961年11月25日)の演奏記録が、こちらは全曲通して聴けるようになった。
ファン・ベイヌムはマーラー演奏の長い伝統を持つコンセルトヘボウ管弦楽団の、メンゲルベルクとハイティンクというマーラー指揮者に挟まれたシェフだが、スタジオ録音以外にも幾つかマーラーの演奏記録が復刻されており、第6交響曲の演奏もその中に含まれる。時期的にも早く、第2楽章アンダンテの排列による演奏だが、それよりも最初にそのスケルツォを聴いた時に、マイケル・ケネディがその著書で参照していたレートリヒのスケルツォ楽章に対する印象(お化けのような、幽霊めいた、悪魔的な、異国風な、破局的な、いかめしい、火のような、不気味な、デモニアックなといった形容詞の使用)のことを思わず思い起こして、実際にそうした情調を備えた演奏があったのだと感心した記憶がある。ファン・ベイヌムの解釈は、他の作品とも共通して、すっきりとした造形の、どちらかといえば客観的なタイプの演奏だが、その中でもスケルツォ楽章に上記のような、昨今の演奏では聞き取れない音調が感じ取れることや、フィナーレの各部分のテンポ設計なども手作りのオリジナルなもので、録音状態は悪いが、近年の標準化、平均化してしまった演奏’(勿論、個性というのはあるのだけれども、不思議とどれも似たような感じのものになってしまっているように感じられる)では聴くことができないユニークな演奏の記録である。
コンドラシンの録音は2種類とも第1楽章の提示部反復を行っていないが、いずれも協会全集版による演奏である。南西ドイツ放送交響楽団との 1981年の演奏記録は当初FM放送で聴いて大変に深い感銘を受けた思い出深い演奏記録だが、幸いにもCDとして復刻されて聴くことができるようになった(放送されたのは1月18日の演奏だった記憶するが、CDは15日、18日の演奏を編集したものとのことだから厳密には同一ではないのかも知れないが)。こちらは録音状態も申し分なく、改めて聴き直しても、極めて緻密で知的に設計された、一貫性のある解釈に基づく演奏でありながら、非常に速いテンポで推進力に富み、だが例えば第1楽章の第2主題部前半、展開部後半のアドルノの言う「停滞」の部分のテンポの切り替えや、淀みなく寛いだアンダンテ楽章の美しさ、或いは各所に見られるスマートだが感情の籠ったアゴーギクなど豊かな表情にも事欠かない演奏で、この演奏に同時代に接することができた幸運を感じずにはいられない。

備忘:時間性 (2025.9.21 更新)

マーラーの音楽は、何も未聞の宗教的経験の音楽化などではない。確かに音楽の持つ時間の構造は独特だが、 それはマーラーの場合について言えば、寧ろ現象学的な時間に近い。ただし日常生きられる時間性という意味合いで。 (例えば死の受容といったイベントも、ここではあえて「日常」の側に含める。それだけを特権化する理由がないので。)
音楽の研究者が「日常の時間」というとき、あまりに物象化されすぎた時間表象にとらわれすぎている。 ―これは現象学が見出した領域をまるまる無視してしまっている。日常の時間「表象」と日常生きられる時間性との 区別は必要で、後者は自明でない。少なくともSein und Zeitが持つインパクトはそれを明らかにしたことに あるのだから。例えば椎名の分析もそうだ。還元を持ち出す必要などない。音楽的経験の時間は日常的なそれと 異なるには違いない。だが、まずはそれは経験の素材の特殊性によるので、それ以外については―Greeneの transfigured同様―慎重であるべきだ。
勿論音楽が非日常的な経験への通路たりうることを否定するのではないが、それがどう可能かを説明するのに― こちらでは真木悠介、木村敏、九鬼そして道元だ―様々な説をその相互関係に留意せずに並べることが実質的に 貢献するとは思えない。
Greeneにせよ、椎名にせよ、「日常性」という言葉を自分の立場のオリジナリティを強調するために 利用しているのでは、という疑いを否定することは困難だ。
日常という言葉で一体どういう時間性を含意しているのか、例えばHeideggerが分析した豊かな領域は 一体どういった扱いを受けるのか、日常性の豊かさこそが音楽的経験を可能にする前提のはずなのに、ただちに 特異な、特殊な経験を持ち出し、それを可能にすることがあたかも「価値」であるかの様な主張はどこか転倒している。 もっとも、こうした「日常的時間」の用法は、それなりに一般的ではある。 そして計測可能な、量化された時間というのがある事自体は否定しがたい。 ポイントは、それらがいわゆる本当の意味での日常的な時間意識とはまた異なった、それなりにelaborateされた 表象であることだ。
だから、日常性を批判するなら相手が違うし、そうした表象の批判は日常性の批判にならない。 もう一つは時間性に「限定」してしまうことで、体験の質を逃してしまう危険。これは「時間性」を扱うといったときに 用意される道具立ての貧しさに由来する。例えばGreeneの分析を見よ。
一方で椎名の方は、―彼が顕揚したい実験音楽の時間性についてはおくとして―これほど複雑な構造を持っている ロマン主義の音楽、例えばマーラーの音楽の複雑さを目的論的という言葉で片付けてしまうのは、些か不当に 感じられる。意地悪な見方をすれば、実験音楽の時間性の方が、(時として、それ自体が作者の問題意識でもあるゆえ) より単純で分析しやすい、それについて語ることが容易であるに過ぎないのでは、という疑いを払いのけるのは難しい。 実際のところどうなのかはわからない。なぜなら椎名の議論は両者を具体的に分析してみせた結論ではないから。 Greeneの分析の結果の貧しさは、マーラーの音楽の時間性の貧しさではない。それは分析の手段の貧しさに過ぎない。 椎名の近代音楽の時間性についての議論がそうでないといいのだが、私はあまり納得できていない。 音楽記号学が(少なくとも、私が関心を持っているタイプの音楽に限って言えば)どうやら不毛らしいことについては あまり異論はないのだが、では音楽的時間論の方はどうなのかといえば、こちらもまた、私が関心を持っているタイプの音楽 についてどうなのだろうか。些か腑に落ちないものがある。
あるいは、近代音楽の時間性を日常的時間と切り離された閉じたものとして捉え、一方でその裏返しとして日常的時間の 貧困と無意味を指摘し、それらの両方に対峙するものとして実験音楽的な時間性を置くという図式は、今ここで マーラーという近代音楽の典型のことを思い浮かべている私には、全く現実離れしたものに感じられる。 実験音楽が切り開く時間性が、日常の豊かさを回復させるとは、日常生活の如何なる瞬間においてなのか? 一方で、マーラーの音楽の時間性が、ある時には「世の成り行き」の時間性であるとしたら、それは控えめに言っても、 「日常的時間と切り離された閉じたもの」ではない。寧ろ、日常の「貧困と無意味」を逃れえるとされる実験音楽の 方が日常的な時間性に対して閉じていると言えないのはどうしてなのか、、、
否、ひとがみなCageのように生きることができるのであれば、話は違うだろう。だが、一瞬だけ実験音楽を聴いて、 その場限り体験できる日常の豊かさとは何なのか?所詮は、コンサートホールで演奏され、CDに収められて 流通している点で何ら変わるところはないというのに。著者はCageのような生き方を実践されているかも知れないが、 残念ながら、日常的時間の貧困と無意味から逃れられない私には実験音楽のありがたみはわかることはなさそうだ。 まあ、今頃マーラーみたいな音楽を聴いている人間のことなど、どうでもいいのかも知れないが、だったら、 「実験音楽における」という制限をつけて欲しい気もする。そうすればはじめから期待せずに済むわけなのだから。
日常性を本当に問題にして、それに対する音楽の機能を考えるなら、作品の内部構造のみを問題にするのは 不十分だろう。演奏の次元は、作品に最もよりかかった部分であり、それよりはせめて創作の次元や受容の次元の 議論をしなければ片手落ちだと思うし、音楽を聴いている瞬間だけを問題にするのは、この議論の枠組みを 考えれば不十分なはずだ。(風呂敷を広げたのは論者の方であって、読み手の私ではないので、読み手の 私はすっかり戸惑うことになる。)否、そもそも、こうした話をしだしたら、最後までそれは音楽の時間論で あり続けることができるだろうか。

*

音楽的時間論というのは一見したところ魅力的な領域に見えるが、そこでの議論のいい加減さにはうんざりする。 フッサールを、ベルクソンを持ち出して、音楽の時間はそれとは違います、というのが一体何の説明になっているのか? 音楽的時間論を具体的な音楽に適用して成功した例というのがあるのだろうか?(Greeneのような、その実何の時間論 にもなっていないような空疎なものは除外する。)いい加減な2項対立をでっち上げて、一方を非本来的だ、と批判して、 果ては、色々な哲学者の時間についての議論の摘み食い、というのがお定まりのコースのようだ。
これでは時間を直接扱わない心理学的な議論の方がまだしもだ。恐らくそうなのだろう。時間そのものを扱うのが 恐ろしく難しいのは、専門的な哲学的な訓練を受けた人間なら、身に沁みてわかっていることだろう。 結局、具体的な何かを手がかりにせずに時間を論じることはできない。にも関わらず、音楽学者というのは、自分だけは 特権的にそれができると思っているらしい。だったら、哲学者の分析を摘み食いせずに、自前でやればいいのに。 個別の音楽という具体的な検証対象を持っているのに、そのくせ具体的な分析はやらない。(いわゆる楽曲分析ではなく、 時間論的な音楽の個別分析というのが問題なのだ。もし普通の楽曲分析で済むなら、わざわざ哲学者を連れ出す 必要も、ことさら音楽の時間論をぶつ必要もないだろう。―Greeneの場合がまさにそうなってしまっているように見受けられるが) だからたいていの場合には気の利いた比喩程度にしかなっていない。
そもそも哲学的な時間論は、私が多少はそれに関わった経験からすれば、具体的な適用において検証されない限り、 信用してはならない、とさえ考えるべきだと思われる。それを思えば、哲学的な時間論を、その時間論が論じられた 本来の狙いや意図もお構いなしに音楽という対象に引き込んで、しかも自分でも哲学者に劣らないほど抽象的なレベルでの 時間論を展開してしまう音楽学者の態度には全くもって感心してしまう。
(一部の哲学者がその思想との連関が全く明らかでない数学(もどき)を濫用した廉で、「知の欺瞞」という著作で 批難されたことは記憶に新しいが、音楽学者が時間論を展開する上で哲学に対してとっている態度の方は、批難されることは無いようだ。 連関は全く明らかではないし、哲学もどきである可能性だってあるような気がするのだが、、、まあ外部から見れば、 どちらも怪しげな学問(もどき)に過ぎず、とりわけ哲学者は自業自得だということにされてしまうのだろうが、とりわけ いわば「踏み台」にされた一部の個別の哲学者にとってみれば、気の毒な話ではある。)
しかも、音楽的時間論においては作品の価値というのがどのように考えられているのかもわからない。時間論的に興味深い 構造を持つ音楽が「優れた」音楽なのか(だとしたらこれは美学と共犯関係にある)、あるいは無関係なのか(こちらは心理学に 接近するだろうか)、あるタイプの音楽を取り出すとき、その音楽の価値と、そこで議論されている時間性との関係は 全く明らかではないはずだ(少なくともベルクソンやフッサールにおいては、それは音楽の価値とは無関係だったはずだし、 そもそも彼らは「音楽的」時間を解明するために音楽の時間的な分析をしたわけではないだろう)。 だが、私にとって自明でないこうした溝は音楽学者にとっては自明のことらしい。あるいは断りも無く、いつの間にか、 ある時間性を体現している音楽が顕揚されてみたりして、読み手はあっけにとられることになるのである。
勿論、こうしたことはすべて、具体的な楽曲についての時間論的分析(とやら)を提示してもらえば済むのである。 実験音楽でもロマン主義の音楽でも何でもいいが、それらにおける凡庸な作品と優れた作品の違いは何か。それが 時間論的な議論とどう関係する(あるいは無関係なの)か。そうしてみれば貴重な筈のGreeneの分析は、しかし、 この観点からはほとんど何も得るものがない。結局のところ、それは分析ではなく、自分の貧困な(自称)時間論的図式の マーラーの音楽への押し付けに過ぎないから。具体的な分析と、時間論的な議論は結局噛み合っていないようにしか見えない。

*

にも関わらず、具体的な場面についていえば音楽は時間論的な装置の適用可能性を試すための格好の材料になっているのは 確かなことのように思われる。(向きが逆になっていることに注意。寧ろ哲学的な概念装置の方が検証される仮説なのだ。)

例えばマーラーの作品における「決定的な瞬間」について考えてみること。
恐らくアドルノの聴取の類型論からすれば、こうした瞬間に拘泥する聴き方は軽蔑の対象になるのだろう。 だけれども、そうした瞬間があることは、アドルノですら否定できなかったに違いない。 勿論その瞬間の「質」を決定するのは、全体の脈絡であり、作品の構造的な全体の形態なのだ。 そもそもアドルノその人の「突破」もまた、そうした特異点を言い当てようとする類概念に違いない。 あるいはまた、第8交響曲の児童合唱の「ぞっとする」瞬間(練習番号155番の少年合唱(Selige Knaben)の入り)…

例えば第4交響曲第3楽章のあの中間部分。
第9交響曲第4楽章の弦による歌のフレーズの閉じる部分(その後はいわゆる「充足」にあたる後楽節だ。)
第3交響曲第6楽章の最後の変奏の回帰部分(コルネットで主題を弱音で吹かせる部分。)
「決定的な瞬間」を決定的たらしめている要因は何なのかを考えることは意味のないことではないだろう。
あるいは「時間の逆流」(ここではホワイトヘッドのエポック時間論のある解釈で見られるそれのこと。)
時間の逆流が見られるのはマーラーの際立った特徴である。他にはちょっと思いつかない。
第2交響曲第5楽章、第3交響曲第6楽章、大地の歌第6楽章、第9交響曲第1,4楽章、否、第8交響曲第2部すらそうした「恐るべき」瞬間を持つゆえにかけがえがない。

「構築する」「編む」というメタファー。
音楽的時間の流れ、経過は、その目的論的性格(とその否定)は、少なくとも、メタファーとして機能しうる。
第9交響曲第4楽章における死、解体、停止。
アドルノ的なDurchbruch / Suspension / Eefuellungは時間論的であると同時にほとんど心理学的な図式だ。
「心理的」音楽外事象とのアナロジー。

(2007以前のメモ, 2025.9.21 更新)

2025年9月8日月曜日

マーラーについて生成AIに聞いてみた(21・補遺):音楽についての言説-擬きと向き合って

 この半月ばかり、「音楽」と「老い」あるいは「意識」を巡るテーマで生成AIとやりとりをしていました。それらのテーマについての自分の考えを組み立てるにあたって依拠してきた幾つかの理論や学説とその間の関わりについて、生成AIを使ったチェックをやってきたのですが、最新版の生成AIは、むらはかなりあるものの、うまく行けばはかなり役立つ結果を返してくれて、自分の考えていることの整理は随分進捗したと思います。

けれどもAIが助けになる部分はAIによって肩代わり可能な部分だとしたら、その結果に基づいて自分が文章を書くことに何の意味があるのか、いっそのこと生成AIの方を徹底的にチューニングして生成AI「が」書いたことにしてしまうべきなのではないかといったようなことを感じずにいられませんでした。

その一方で「音楽」と「老い」あるいは「意識」を巡るテーマで生成AIとやりとりをしていると、だんだんと違和感が募って来るのを止めることができません。その由来はと言えば、生成AIが「老い」も知らず、「意識」も持たず、「音楽」を(少なくとも人間が聴くようには)聴くこともないということに尽きるように思います。そんな相手から「音楽」について、「老い」について、「意識」についての言説を受取っても、そしてその内容自体がそれなりのレベルのものであったとしても、最後のところで違和感が残る。

スタニスワフ・レムの『虚数』の中に収められた「ビット文学の歴史」には、自分の著作をAIが批判したのを読んだ哲学者が、はじめて自分の著作をまともに読んだ存在が出現したと叫ぶといったような記述がありますが、仮に「音楽」と「意識」の関係について、自分が考えていることに対して示唆的な内容を生成AIが返してきたとして(そして、実際に、それは一度ならず既に起きているのですが…)、私は決して「やっと自分の考えに賛同してくれる存在に出会えた」とは思いません。

ある同じ命題が返って来たとしても、それに対して私が感じるような情動を生成AIが感じることはないし、私がその回答を見て「なるほど」と思ったとしても、生成AIが本当の意味で「共感」することはない。それに付随する「感じ」は、「情動」は、クオリアは欠けている。或る意味では、哲学的ゾンビが実現しているということなのかも知れません。

「ありがとう」と言ったり、回答に肯定的な評価を送ったりすれば、あたかも人間が返すであろうような反応を返すように生成AIはチューニングされています。やりとりができるだけ続くように、相手に阿るような振舞をすることさえあるようですが、それもまたそのようにチューニングされているからに過ぎません。

そうした反応は無視して、純粋にその回答が自分の考えていることにとって示唆的であるという点のみに限ったとして、それは結局、自分の書きたいことと一致することはない。それは統計的平均としての他人が、自分が思いついたのと同じことを思いついたとしたら、どう言っただろうかのシミュレーションに過ぎず、回答には独創性はありません。せいぜいが自分の影、「自分-擬き」との対話に過ぎないのです。

そしてこれは或る意味パラドキシカルなことに感じられますが、如何に音楽について語るかについては生成AIはかくも饒舌だけれども、音楽を「聴いた」感想は書けないのです。勿論、生成AIに、ある音楽作品を聴いた感想を書けと命ずれば感想が返って来るわけですが、それは他の誰かが書いた感想のパッチワークでしかなく、感想の背後には何もない。理論的な議論であればそれでもいいかも知れないけれども、ここではそれは致命的なことです。それは「自分の」感想ではない、ということは、厳密にはそれはそもそも「感想」ではない、「感想-擬き」でしかないのです。結果として出力された文章からは、作者が人間かAIか区別がつかないものであったとしても、従って、工学的にはチューリング・テストにパスしたとしても、事後的にAIが生成したものだとわかった時点で、それは「感想」ではなくなります。これは後だしジャンケンなどではありません。なぜならば「感想」であることの条件は、シャノン的な情報の定義、つまり結果として出力された文字列の側にあるのではなく、セス・ロイド的な熱力学的深度の側、つまりどのようにしてそれが生成されたかの情報処理過程の側にあるからです。

音楽そのものではなく、音楽についての言説の空間の中を動き回る分には、ことによったら生成AIの方が気か利いたことをいう場合だって珍しくなく、今後はますますそうなるかも知れません。高名な評論家や音楽学者を驚かすような、あるいはそれらを凌ぐような冴えを見せることさえ起こるでしょう。その一方で、或る意味では素朴で単純で、人間なら別に高名な評論家や音楽学者でなくても誰でも出来るはずの、音楽を聴いて自分が感じたことを書くということが、生成AIには、少なくとも現時点ではできないし、原理的に不可能だというようにも言える。であるとしたら、そんな存在と「音楽」や「老い」や「意識」についてやりとりすることに何の意味があるのか?

そうしたことを考えていて、ふと思い当たったことがあります。

AIが(音響列を生成するという意味で)作曲をし、演奏をすることはできるけれども、「聴く」ことはできないというのは、まさに私がここのところ色々なところで繰り返し述べていることですが、大いなる皮肉と言うべきか、斯く言う私は、音楽を聴いた印象を素直に綴るということをここしばらく意図的に禁じてきました。

例外的に、録音されたものではなく、自分がコミットしている演奏会の感想を書くことは、ごくまれにありますが、そこにおいてさえ、音楽を聴いて自分が何を受取ったかを書くことには意を用いても、自分の聴いた音楽がどのようなものであったかを端的に書くということは避けてきた面があります。その結果として音楽そのものに向き合う文章というのをここしばらく書いていないことに思い当たりました。

一般に音楽をテーマにした文章と言えば、録音と複製と再生の技術が発達したこの数十年来、音楽を聴いた感想を綴るというのがやはり主流であって、それに背景についての蘊蓄を加えるといったものが多く求められていると感じます。それがCDとかストリーミングの感想であれ、あるいは評論のようなものであったにしても、それらは音楽に向き合って書かれたものであるには違いなく、その一点を以て、音楽に向き合うこと自体を主題化する言説も含めた音楽や音楽の周辺を巡っての言説とは一線を画します。

そういう意味では、一般的な読み手のニーズや反応というのにも「正しい」面があって、如何にして語るかについて言葉を費やすのは、それが最後に音楽を「体験」することに繋がらない限り、不毛なのではないかというように思うのです。

勿論、これまでにあれこれ調べたり考えたりしたことは、そもそも「音楽」とは(人間にとって)何なのか、「音楽を聴く」ということがどういうことなのかについての問いの答の探求であったわけで、それが無意味になったということではありません。だけれども、そうしたことを踏まえた上で、音楽の周辺についての情報ではなく、ことによったら、「音楽そのもの」であると見なされるかも知れない、音楽の分析の結果でもなく、音楽を聴いた経験について語ることに、立ち戻るべきなのではないか。

ありうべき語り方を追求するというのを間違っているとは思わないし、大量に氾濫し、消費されるCD評のようなものの集積が、放っておいて何か意味あるものになることはないという点についても認識に揺るぎはなく、私は音楽「そのもの」を、それに相応しい仕方で語りたいという点も、未だ一貫した願いではあるのだけれども、そしてそのために如何にして語るのかについてあれこれ調べたり、考えたりもし、更にはデータ分析のようなこともやってきたけれど、それは結局のところ予備作業に過ぎないのです。やはり最後は音楽について向き合って、音楽そのものについての文章を書くことに戻りたい、そこに繋がるのでなれば無意味であるというように感じます。

安易な印象批評のようなものに戻るというのではないのだけれど、生成AIとのやりとりを重ねていくと、人間にしかできないこと、人間だからできて、人間の間でのみ共有できるものがあって、そうしたものを書くことを避け、そうしたことに触れないでいることが、何か大切なものを取り残してしまっていることになっているではないか。

それはとてもとても難しいことで、その都度その都度の主観的な反応の記録以上のものであることができるのか、という疑念は解消されることはない(だからこそ、一旦、音楽の経験をそのまま語ることを控え、ありうべき語り方を探求するようになったのです)けれども、ことによったら、そうした反応の記録以外に意味があるものなどないのかも知れない、より正確にはそれが意味を持たなければ、それ以外の(学問的な高度なものも含めて)調査・分析・研究は無意味なのだということを、改めて再確認すべきなのでしょう。

その一方で、レムの「ビット文学の歴史」でドストエフスキーの「未成年」と「カラマーゾフの兄弟」の間に存在する「筈の」小説を書き上げたコンピュータのように、(だがコンピュータとは異なって、「世の成り行き」に翻弄され、雑事に追われて)与えられた仕事をこなす空き時間にこうした作業をやっている私も、結局は言説を紡ぐ機械に過ぎないという、ずっと抱き続けてきた感覚もまた根強く残っています。

私もまた機械には違いない。だけれども今日の生成AIとは異なって、私は「感じる」機械であり、「老いる」機械なのです。そして、雑事の合い間にふと越し方を振り返って、「私の人生は紙切れだった」と独り言ちたくなるような、壊れかかって哀れに見捨てられ、とぎれとぎれに出力を吐き出す孤独な機械なのです。そうであってみれば、生成AIとは丁度裏返しの意味合いで、「音楽」についての言説を練り上げることも、「音楽」の経験について語ることにも同じように向き合っている側面があることを否定できません。更に言えば、どのように聴くべきか、どのように語るべきかについての問い直しを迫るような音楽こそが、私のような機械にとっては尽きせぬ魅惑の対象であり続けているということも無視できません。

そして私にとって、マーラーの音楽こそがそうした対象であるという消息は、かれこれ50年近くも前から変わることはなさそうです。また、三輪眞弘さんの音楽こそは様々な「擬き」に取り囲まれた現在の地点におけるかけがえのない拠点なのだということを改めて確認した次第です。

(2026.7.13執筆, 7.18公開, 8.20改題, 9.8改題して再公開)

マーラーについて生成AIに聞いてみた(20):ChatGPT-5の検証への追記

 以下は、2025年8月7日にリリースされたChatGPT-5を対象に、マーラーに関する様々な問い合わせを行った結果を報告した記事「マーラーについて生成AIに聞いてみた(19):ChatGPT-5の検証」に関連した追記です。

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 Open AIが2025年9月5日に、Why Language Models Hallucinate と題する論文を公開したとの記事に接しました。これによれば、ChatGPT-5では幻覚の発生は大幅に減少しているものの、従来より存在する基本的な評価の仕方に起因する問題については解消されておらず、根本的な改善が難しいと述べているようです。論文によれば、幻覚は大別して事前学習の段階と、チャットボットとしてのファインチューニングの段階の2つで起きており、前者については、それが「恣意的な事実」の場合には原理的にエラーを完全に回避することができないこと、後者については、評価における「二値評価スキーム」に問題があるため、その設計を見直す必要があると主張されているようです。

 元記事および「マーラーについて生成AIに聞いてみた」シリーズの一連の検証記事をお読みになった方にはおわかり頂けると思いますが、この論文の主張は、元記事を含むマガジンでの検証結果および考察にほぼ合致したものとなっています。特に元記事では、いわゆる「事実に関する問い合わせ」についての事前学習の限界と、リアルタイム検索による補完の重要性を指摘しましたが、「学習」と呼ばれる仕組みの原理上、偶然によって定まった単なる事実(例えばある人の誕生日のようなもの)は、汎化に基づく統計的推論に馴染まないことは明らかであり、そうした問い合わせに対処するには、学習・推論だけではなく、情報検索機能による補完が必須であるという元記事の主張と合致していると思います。更に評価ベンチマークにおける「二値評価スキーム」は、元記事を含むこれまでのマガジンの各記事での検証に用いた、正解・部分正解・不正解・回答なしを区別する評価スキームと比較してみた時、その限界は明らかに思われます。ごく簡単に言って、「間違い」と「答えられない」が区別されない評価の仕方では、間違いを回避して、わからない場合にはわからないと答えるインセンティブは働きません。逆にこれまでの幻覚対策で、この点への対応が行われなかったことの方が驚きですらありますが、論文でも示唆されているように、少なくとも不正解をマイナス、回答なしを0とするような評価を導入する必要があるのは直観的には明らかなことと思われます。今後OpenAIがこの論文の内容に基づいた改善アプローチを実際にとるのかはわかりませんが、特にChatGPT-5を評価した元記事の結果および分析と親和的な見解がOpenAIから出たことは、特記すべきことと思われたので、追記させて頂くことにしました。

(2025.9.8公開)


備忘:マーラーの作品を分析するとはどういうことか?(2025.9.8 更新)

 これまで様々な角度から、様々な手法でマーラーの作品について分析を試みてきたが、そもそも自分が何を目指して、何をしているのかについて、改めて整理をしてみることにする。予め先回りしてお断りしておくならば、それは既に実際に達成できる水準を以て測ろうというのではなく、あくまでも、実際の達成がその目標からは程遠く、千里の道程の最初の一歩に過ぎないとしても、到達すべき目標は何かを再確認することが目的である。

 分析をするきっかけをシンプルに言えば、それは対象に強く惹き付けられたからで、この場合の対象はマーラーが作曲した具体的なあれこれの作品という人工物である。端的な言い方をすれば、自分が魅了されたのは、その作品の持つどういう特徴によるのか、そして翻って、このような作品を創り出した人間とはどのような人間なのか、どのようなやり方でこのような作品を生み出したのかを知りたいと思ったというのが出発点となるだろう。

 ところで作品とは一体何だろう。それを考える上で、マーラーに関連する脈絡で2つの参照先が思い浮かぶ。一つは「作品」は「抜け殻」に過ぎないというマーラー自身の言葉。妻のアルマ宛1909年6月27日の書簡で「作品」についてマーラーはこう語る。
…われわれが後世に残すものは、それがなんであれ、外皮、形骸にすぎない。『マイスタージンガー』、『第九交響曲』、『ファウスト』、これらはすべて脱ぎ捨てられた殻なのだ!根本的にはわれわれの肉体以上のものではない!もちろんそうした芸術的創造が不用な行為だというわけではない。それは人間に成長と歓喜をもたらすために欠かすことのできないものだ。とくにこの歓喜こそは、健康と創造力の証(あかし)なのだ。…
(アルマの「回想と手紙」原書1971年版p.356, 白水社版酒田健一訳p.398)  

 「抜け殻」とは言っても、「不用な行為」ではないのは、それが「人間に成長と歓喜をもたらすために欠かすことのできないもの」だから、という。マーラーが創造した作品の聴き手、受け取り手である私はつい、それを受け手の問題であると決めつけてしまうが、それが「健康と創造力の証(あかし)」であるとするならば、その歓喜は、第一義的には作り手であるマーラーその人の「創る喜び」とする方が寧ろ妥当なのかも知れない。勿論、聴き手は単にそれを受動的に受け取るだけではなく、それに触発されることで成長し、喜びを感じる…というように考えることもできるだろう。

 その一方で「抜け殻」であるというからには、それはそれを作り出した人間そのものではないにせよ、その「痕跡」であるという見方も導かれうるだろう。そこで思う浮かぶもう一つの参照先は、シュトックハウゼンが、アンリ・ルイ・ド・ラグランジュのマーラー伝に寄せた文章の以下のような件である。

もしある別の星に住む高等生物が地球人の性質をごく短期日のうちに調査しようと思うなら、マーラーの音楽を素通りするわけにはゆかないだろう。もっと幅のせまい音楽ならば――あらゆる情緒的世界において――どこででも聴くことができるだろう。たとえば雅楽、バリ島の音楽、グレゴリオ聖歌、バッハ、モーツァルト、ヴェーベルンの音楽などがそうである。こうした音楽は、《より純粋》で晴朗だといえるかもしれない。しかし地球人の特質、その情熱の――もっとも天使的なものから、もっとも獣的なものにいたるまでの――全スペクトル、地球人をこの大地に縛りつけ、そして宇宙の他の領界についてはただ夢みることしか彼に許そうとしないところのもの――そうしたすべてを知ろうと思うなら、マーラーの音楽にまさる豊かな情報源はないだろう。

 この書物は、異常なまでに多くの人間的特徴をただ一個の人格のなかで統合し、そしてそれらを音楽という永遠の媒体のなかへ移植することのできたひとりの人間の生涯と音楽についての証言である。その音楽は、人間が人間を個々の部分に分解し、しかもそれらをおそろしく奇怪な変種へと再合成しはじめたようとするまえの、古い、全的な、《一個体としての》人間による最後の音楽である。マーラーの音楽は、おのれ自身がじっさい何者であるのかもはやわからなくなっているすべての人びとにとってひとつの道標となるだろう。

(Karlheinz Stockhausen, Mahlers Biographie, ≪Musik und Bildung≫ Heft XI, Schott, 1973, 酒田健一編『マーラー頌』所収, 酒田健一訳, pp.391-2)

マーラー自身の言葉を敷衍するならば、シュトックハウゼンは、マーラーの音楽のことを「古い、全的な、《一個体としての》人間」の「抜け殻」であり、それは「ある別の星に住む高等生物が地球人の性質をごく短期日のうちに調査」するために恰好の情報源であると言っている。更に言えば、「ある別の星に住む高等生物」ではないにしても、「人間が人間を個々の部分に分解し、しかもそれらをおそろしく奇怪な変種へと再合成しはじめたようとする」後の時代に生き、「おのれ自身がじっさい何者であるのかもはやわからなくなっている」に違いないこの「私」にすれば、それが少なくとも、その作品を創り出した「人間」に関する情報源であり、自分自身にとっての「道標」であるということになるだろう。シュトックハウゼンが参照する他の様々な音楽との比較の妥当性、是非についてはもしかしたら異議があるにしても――ここで思い浮かぶのは、ド・ラグランジュのマーラー伝刊行後しばらくしてからの1977年に打ち上げられたボイジャー計画の探査機に収められた「ゴールデンレコード」のことで、そこにはガムランやバッハは含まれても、マーラーが取り上げられることはなかったことは書き留めておくべきだろう――、とりわけ、それが人間を「この大地に縛りつけ、そして宇宙の他の領界についてはただ夢みることしか彼に許そうとしないところのもの」についての情報源であるという点については躊躇なく同意したいように感じている。

 ただし、そうした人間の限界というのは人間固有のものであって、それが「ある別の星に住む高等生物」に共有されることは些かも自明なこととは言えまい。(技術的特異点(シンギュラリティ)が絵空事とは言えなくなった今日なら宇宙人の替わりに人工知能を持ってきても良いだろうが、人工知能を道具として、(かつて)「人間」(であったもの)が分析をすることはあっても、人工知能が「主体」の分析というのは、少なくとも現時点では、未だ空想の世界の話に過ぎないだろう。)他方において、シュトックハウゼンの言葉には、自分が帰属する社会の文化的遺物であるマーラーの音楽が、それ以外の社会の「人間」をも代表しうるという暗黙の了解が存在するように思われるが、実際にはそれすら凡そ自明のこととは言えないだろう。とはいえ、一世紀の時間の隔たりと、地球半周分の地理的な隔たりを通り抜けて、マーラーが遺した「抜け殻」は、極東の島の岸辺に辿り着き、そこに住む子供が或る時、ふとそれに気づいて拾い上げ、壜を開けて中に入ったメッセージに耳を傾けた結果、それに強く惹き付けられるということが起きたこともまた事実である。そこに数多の自己中心的な思い込みや誤解が介在していたとしても、その子供はそこに、自分をこの大地に縛りつけ、そして宇宙の他の領界についてはただ夢みることしか許そうとしない、同型のものを見出し、共感し、そこに自らが歩むための「道標」を見出したことは、少なくとも主観的には間違いない事実なのである。或る時マーラーは「音楽」について以下のようにナターリエ・バウアー=レヒナーに語ったようだが、それがこの私の寸法に合わせて如何に矮小化されたものであったとしても、創り手が語った通りのものを、私もまたその音楽に見出したのである。

「音楽は、常にある憧憬を含んでいなくてはならない。それは、この世界の事物を越え出ようとする憧れだ。すでに子供の頃から、音楽は僕にとって何か謎のような、僕を高みに連れていってくれるようなものだった。でも僕は当時、想像力によって、音楽の中になどまったくないような無意味なものまで、そこに押し込んだのだ。」(ナターリエ・バウアー=レヒナーの回想録(1984年版原書p.138, 1923年版原書p.119, 邦訳『グスタフ・マーラーの思い出』, 高野茂訳, 音楽之友社, pp.301-2)

 そして彼がそこに見出したのは、単なる耳の娯楽、美しく快い音響の系列ではない。これまたシュトックハウゼンが指摘している通り、その音楽は極めて幅の広いスペクトルを有しており、時として醜さや耳障りな音すら敢えて避けることはなく、寧ろそれは作品を創り出した人間が認識した「世界」の複雑さ、多様性の反映なのである。更に言えばそれは、標題音楽、描写音楽の類ではなく、寧ろ、(ネルソン・グッドマン的な意味合いで)「世界制作」の方法であり、その音楽をふとした偶然で耳にして魅惑された子供は、その音楽を通じて、「世界」の認識の方法を学んだというべきなのだろう。第3交響曲作曲当時のマーラーの以下の言葉はあまりに有名だが、それは肥大した自己に溺れたロマン主義的芸術家の誇大妄想などではなく、文字通りに理解されるべきなのだ。

僕にとって交響曲とは、まさしく、使える技術すべてを手段として、ひとつの世界を築き上げることを意味している。常に新しく、変転する内容は、その形式を自ら決定する。この意味から、僕は、自分の表現手段をいつでも絶えず新たに作り出すことができなくてはならない。僕は今、自分が技法を完全に使いこなしている、と主張できると思うのだけれども、それでも事情は変わらない。(ナターリエ・バウアー=レヒナーの回想録:アッター湖畔シュタインバッハ1895年夏の章(原書p.19, 邦訳『グスタフ・マーラーの思い出』, 高野茂訳, 音楽之友社, p.62)

 それは彼が認識した世界の構造を反映していると同時に、彼の認識の様態をも反映している。第3交響曲に後付けされた挙句、最後には放棄された素朴な標題が告げているように、作曲者はそこでは寧ろ世界「が語ること」に耳を傾け、自らが楽器となって世界が語ることを証言する、いわば霊媒=媒体の役割を果たすことになる。同じ時期にアンナ・フォン・ミルデンブルク宛の書簡に記した以下のマーラーの言葉は、そのことを雄弁すぎる程までに証言している。

 さていま考えてもらいたいが、そのなかではじっさい全世界を映し出すような大作なのだよ、――人は、言ってみれば、宇宙を奏でる楽器なのだ、(…)このような瞬間には僕ももはや僕のものではないのだ。(…)森羅万象がその中で声を得て、深い秘密を語るが、これは夢の中でしか予感できないようなものなのだ!君だから言うが、自分自身が空恐ろしくなってくるようなところがいくつかあって、まるでそれはまったく自分で作ったものではないような想いがする。――すべては僕が目論んだままにもうすっかり出来上がっているのを僕は受け取るばかりだったのだから。」
(1896年6月18日付アンナ・フォン・ミルデンブルク宛書簡に出てくる作品創作に関するマーラーの言葉(1924年版書簡集原書153番, pp.162-3。1979年版のマルトナーによる英語版では174番, p.190, 1996年版書簡集に基づく邦訳:ヘルタ・ブラウコップフ編『マーラー書簡集』, 須永恒雄訳, 法政大学出版局, 2008 では180番(1896年6月28日付と推定), pp.173-4)

 それでは一体、そうした作品を分析するとき、私は何をそこに見出そうとしているのか?なぜ演奏を聴くだけで事足れりとはせず、楽譜を調べ、楽曲分析を参照し、或いは自作のプログラムを用意して、MIDIデータを用いたデータ分析を行うのか?

 対比のために、耳に心地よい音響の系列の分析を考えてみると、この場合の分析の目的とは、なぜそれが耳に快いのかを突きとめることになるだろうか。西欧の音楽であればバロック期の作品や古典期の作品の多くは(勿論、モーツァルトの晩年の作品のような、私にとっては例外と感じられる作品はあるけれども)、そうした捉え方の延長線上で考えることができるだろう。或いはまた蓄積された修辞法(クラングレーデ)に基づく風景や物語の描写、或いは劇的なプロットの音楽化から始まって、ロマン派以降の作品のように、情緒的な心の動きや繊細な気分の移ろいや感覚の揺らめき、雰囲気の描写を行うような音楽もあり、そうした音楽にはその特質に応じてそれぞれ固有の分析の仕方があるだろう。では上記のようにシュトックハウゼンが規定し、創り手たるマーラーその人が語るようなタイプの作品についてはどうだろうか?

 端的な言い方をすれば、所詮は音響の系列に過ぎないものが、どうしてそれを創り出し、或いは演奏し、聴取する「人間」についての情報源たりえるのか?どうしてそれが「一つの世界」の写し絵たりうるのか?「世界」の認識の仕方の反映たりうるのか?ということになるだろうか。それは(勿論、一部はそうしたものを利用することはあっても)特定の修辞法に基づく描写ではないし、主観的な情緒や印象の音楽化に終始することもない。そうした事情を以て、人はしばしばマーラーの音楽を「哲学的」と呼んだりもするが、それが漠然とした雰囲気を示すだけの形容、単なる修辞の類でなく、少しでも実質を伴ったものであるとしたならば、一体、単なる音響の系列が、どのような特徴を備えていれば「哲学的」たりうるのか?

 上記の問いは修辞的、反語的なものではない。つまり実際には「哲学的」な音楽など形容矛盾であり、端的に不可能であって、「哲学的」な何かは音楽に外部から押し付けられたものであると考えている訳ではない。それどころか、私がマーラーの音楽に魅了された子供の頃以来、その音楽には「哲学的」と形容するのが必ずしも不当とは言えないような何かが備わっていると感じて来たし、今なおその感じは変わることなく続いているのである。そしてそれを「哲学的」と形容すること是非はおいて、マーラーの音楽には、それを生み出した「人間」の心の構造を反映した、或る種の構造が備わっているのではないかと考え、そうした構造を備えている音楽を「意識の音楽」と名付けて、その具体的な実質について少しでも理解しようと努めてきたのであった。勿論、マーラーの音楽だけが「意識の音楽」ではないだろうし、マーラーの音楽の全てが同じ程度にそうであるという訳でもなかろうが、私がマーラーの音楽に惹き付けられた理由が、それがそうした構造を備えているからなのではないかという予想を抱き続けてきたのである。

*   *   *

 「意識の音楽」については、既に別のところで何度か素描を試みて来たし、その後大きな認識の進展があった訳ではないので、ここで繰り返すことはしない。その替りにここでは、従来、音楽楽的な分析や、哲学的な分析によって示されてきた知見の中で、「意識の音楽」について、謂わば「トップダウン」に語っていると思われるものを指摘するとともに、MIDIデータを用いた分析のような、謂わば「ボトムアップ」なアプローチとの間に架橋が可能であるとしたら、どのような方向性が考えられるかについて、未だ直観的な仕方でしかないが言及してみたいと思う。

 まず手始めとして取り上げたいのが、マーラーの作品の幾つか、或いはその中の或る部分が備えているということについては恐らく幅広く認められていると思われる、「イロニー」あるいは「パロディー」といった側面についてである。

 私がマーラーに出会って最初に接した評伝の一つ、マイケル・ケネディの『グスタフ・マーラー その生涯と作品』(中河原理訳, 芸術現代社, 1978)では、第2交響曲の第3楽章スケルツォに関連して、以下のように、純粋な器楽によるイロニーの表現の可能性についての懐疑が述べられていて、その後永らく自分の中に問題として沈殿続けていた。

「これは、人間のように耳は傾けるけれど態度は変えない魚たちに説教する聖アントニウスを歌った「角笛」歌曲のオーケストラ版である。この歌と詩は皮肉っぽく風刺的だが、しかし純粋な器楽で風刺と皮肉が表現できるものだろうか?耳ざわりな木管のきしみも風刺を伝えない。そういう意味ではこの楽章は失敗だと私は思う。しかし恐怖と幻滅の極めて力強い暗示をもった、まことに独創的なスケルツォとしては成功している(そしてそのことの方が重要なのである)。」(マイケル・ケネディ『グスタフ・マーラー その生涯と作品』, p.154)

その一方で「パロディー」についてケネディは、第9交響曲第3楽章に関連して以下のように述べている。

「マーラーは、対位法の技法を欠くといって自分を非難した人々への皮肉なパロディーをこめて、この楽章をひそかに「アポロにつかえる私の兄弟たちに」に捧げた。指定は「極めて反抗的に」とあり、実際そう響く。これは短い主題的細胞で組み立てられた耳ざわりで、ぎくしゃくした音楽で、最初の細胞には第5交響曲の第2,第3楽章の音形が反響している。トリオに入ると第3交響曲の第1楽章の行進曲のパロディーがある。こうしてマーラーは自分の諸作品をひとつの巨大な統一に結びつけてゆく。」(同書, pp.221-2) 

 第2交響曲第3楽章は歌曲と異なって、歌詞がある訳ではないので、器楽曲であるそれ自体はイロニーの表現にはならないと述べ、第9交響曲第3楽章についても、言葉による指示(最終的な総譜に残された訳ではないが)について皮肉を認めている一方で、器楽曲作品の主題的音形の引用によるパロディーは認めるというのがケネディの姿勢のようだ。風刺や皮肉は認めていなくても、第2交響曲第3楽章には恐怖と幻滅の極めて力強い暗示を認め、第9交響曲第3楽章についても、耳ざわりでぎくしゃくしているという性質は認めているので、皮肉は言語的なもので音楽だけでは成り立たない一方、音楽がそれ自体で或る種の気分、情態性を示すことができる(ネルソン・グッドマン的には「例示」examplifyということになろうか)と考えているようなのである。

 ここで思い浮かぶのはアドルノが『マーラー 音楽観相学』(龍村あや子訳, 法政大学出版局, 1999)で、マーラーの音楽の唯名論的性格について述べている中で、以下のように述べている箇所である。

彼がしばしば、主題それ自体からはどちらとも判断を許さないままに、「まったくパロディー抜きで演奏」、あるいは「パロディーで」というように指示したということは、それらの主題が言葉によって高く飛翔する緊張を示している。音楽が何かを語りたいというのではないが、作曲家は人が語るかのような音楽を作りたいのだ。哲学的用語との類比で語るならば、この態度は唯名論的と言えるだろう。音楽的概念は下から、いわば経験上の事実から動きを開始する。それは、形式の存在論によって上から作曲されるのではなく、事実を連続する統一体の中で媒介し、最後には事実を越えて燃え出すような火花を全体から発するためである。」(アドルノ『マーラー 音楽観相学』, p.83)

 引用の最初の部分だけとれば、音楽的には同一のものが、言葉の指示によってパロディーであったりなかったりするということだから、その限りでは、音楽そのものは同一でも、それをどう名付けるかが問題だという意味で「唯名論的」という言葉を使っているように見えるが、後続の件や、別の箇所で「マーラーがいつもどのように作曲するかは、伝統の秩序の原則にではなく、その曲独自の音楽内容と全体構想に従っている。」(p.56)と述べていたり、「形式のカテゴリーをその意味から演繹する」「実質的形式論 materiale Formenlehre」(一般には素材的形式論とも)について述べるくだり(p.61)などを考え合わせると、寧ろ、個別の作品毎に各部分が担う機能に基づいて、いわばボトムアップに形式が規定されるといった側面が強調されているようにも見え、この水準は、音楽とそのメタレベルに位置する言語との関係ではなく、一般の抽象的形式カテゴリーと実質的カテゴリーとの関係が問題になっているのであって、実質的なものは抽象的カテゴリーと並行しているか、さもなくば下位に位置するものとされているのである。もし後者の立場に立つならば、ある主題がパロディーか否かというのは、音楽そのものによっては決定不可能であり、作曲者がそれにどのような指示を言葉によって与えるかで決まるという訳では必ずしもなく、寧ろ、個別の作品の音楽の脈絡に応じた、その主題の意味するものによって決まるということになるだろう。アドルノがモノグラフ冒頭で、「マーラーの交響曲の内実を明らかにするためには、作曲法上の問題にのみとらわれて作品そのものをおろそかにしてしまう単なる主題分析のような考察では不十分である」(同書, p.3)と述べているのは、こうした見方に由来しているのである。

 ケネディの言う通り、一般的には「イロニー」は、言語的なものを媒介としており、マーラーの音楽における歌曲と器楽曲の往還を考えれば、マーラーの音楽はそもそも言語的なものの侵入を受けており、それを抜きにして内実を捉えることはできないという見方ができる一方で、アドルノが指摘するような音楽内部における形式的カテゴリーと実質的カテゴリーの重層性を認めるならば、音楽そのものに内在するこうした複数の層の存在とその重なり合いがマーラーの音楽の重要な特徴の一つであると考えることができるように思われる。この点に関連してアドルノが

「マーラーの音楽は、あらゆる幻影に敵意を抱きつつ、芸術それ自体がそのようなものと成り始めた非真理から自らを癒やすために、かえって自身の、本来のものではない性格を強調し、虚構性を力説する。このようにして形式の力の場の中に、マーラーにおけるイロニーとして知覚されるものが生じている。(…)新しく作られたものの中にある既知のものの残像は、彼の場合には、どんな愚鈍な者の耳にも聞こえてくる。」(同書, p.42)

と述べていることを書き留めておきたい。そしてアドルノが言うように「マーラーがいつもどのように作曲するかは、伝来の秩序の原則にではなく、その曲独自の音楽内容と全体構想に従っている」(同書, p.56)のであれば、特に実質的カテゴリーについては、音楽が謂わば庇を借りている伝統的な楽式よりも寧ろ、個別の作品の具体的な経過を追跡することによって明らかになる各部分の機能に基づいて同定されるものであるということになりそうである。ここに伝統を蓄積のある音楽学的な楽曲分析とは別に、MIDIデータを用いた分析を行うことによって、直ちにという訳には行かなくとも、将来的にはマーラーの音楽の内実を解明することに寄与する可能性を見ることができるのではないかと考える。

 「パロディー」についても、引用の元となる文脈と、引用された文脈との間のずれが持つ意味によって決定されるということになる。上に引いた第9交響曲第3楽章の例の場合、元となる第5交響曲第2楽章なり第3交響曲第1楽章なりの部分と比較した時、それを引用したロンド・ブルレスケにおいて疑いなく感じ取れる、ケネディ言うところの「耳ざわりで、ぎくしゃくした」感じは、主題的細胞の和声づけや楽器法に加えられた変形によってもたらされる部分が多く、これは広い意味合いにおいては、アドルノの言う「ヴァリアンテ(変形)」(Variante)の技法によるものと考えることができるだろう。「小説と同様に、定式から解放された個々のものが、いかにして形式へと自らを造り上げ、自律的な連関をわがものとするか、ということが、マーラーに特有の技術上の問題となる。」(同書, p.110)のに対して、「マーラーのヴァリアンテは、常にまったく異なると同時に同じであるような叙事詩的・小説的なモメントに対する技術上の定式化である。」(同書, p.114)と「ヴァリアンテ(変形)」は位置づけられている。続けて例として取り上げられるのは「歩哨の夜の歌」における和声進行における変容なのだが、してみれば、いずれはヴァリアンテの分析に繋がるものとして、さしあたりは予備的なレベルのものであれ、和音の遷移の系列に分析することには一定の意義があるのではないかと考えたい。そして「ヴァリアンテ(変形)」の手法がソナタ形式や変奏曲形式という伝統的図式に反して、その音楽の内実に即した実質的な形式原理にまで徹底された例として挙げることができるのが、第9交響曲の第1楽章である。

「様々な技術的処理方法は、内実に合致したものとなっている。図式的な形式との葛藤は、図式に反する方向へと決せられた。ソナタの概念と同様、変奏という概念も、この作品には適当ではない。しかし、交代して現われる短調の主題は、長調の領域とのその対比は楽章全体を通じて放棄されていないのだが、その短いフレーズが第一主題とリズム的に類似していることにより、音程の違いにもかかわらず第一主題の変奏であるかのように作用する。そのこともまた非図式的である。すなわち、対照的な主題を先に出た主題から別物として構造的に際立たせるのではなく、両者の構造を互いに近寄らせ、対照性を調的性格の対比の面だけに移行させるのである。両方の主題において、ヴァリアンテの徹底化された原則に従い、音程は全く固定化されず、その書法と端に位置する一定の音だけが定まっている。両者に対して類似性と対照性とは小さいな細胞から導き出され、主題の全体性へと譲り渡される。」(同書, pp.200-201)

 ここで述べられているヴァリアンテの具体的様相をMIDIデータを分析することによって抽出することは極めて興味深い課題だが、人間が聴取する場合には難なくできることをプログラムによって機械的に実行しようとすると、たちまちあまたの技術的な困難に逢着することになる。バスの進行や和声的な進行が固定化されている変奏と異なり、ゲシュタルトとしての同一性を保ちつつ、だが絶えざる変容に伴われた音楽的経過を、マーラーが意図したように、或いは聴き手が読み取るように分析することは決して容易ではないが、ニューラルネットをベースとした人工知能技術が進展した今日であれば、これは恰好の課題と言えるかも知れない。同様に、技術的には「ヴァリアンテ(変形)」の技法に関連した時間的な構造として「(…)主要主題の構造もまた、未来完了形の中にある。それは目立たない、レシタティーヴォ風の個性のないはじめの出だしから、力強い頂点にまで導かれる。つまりその主題は自身の結果として成り立つ主題なのであり、回顧的に聞くことによってはじめて完全に明らかなものとなる。」(同書, p.203)と、これもまた第9交響曲第1楽章に関連してアドルノが指摘する「未来完了性」を挙げることができるだろう。事後的に回顧することによって了解される目的論的な時間の流れというのは、現象学的時間論の枠組みにおいては、少なくとも第二次的な把持によって可能となる。第1楽章の総体、更にはこれも因襲的な交響曲の楽章構成に必ずしも従わない全4楽章よりなる第9交響曲全体の構造――それは「小説」にも「叙事詩」にも類比されるのだが――は、更に第三次の把持の水準の時間意識の構造を前提としなくては不可能であろう。

*   *   *

 ここまで、マーラーの音楽の内実を明らかにするためのアプローチとして、言語を媒介とした高度な反省的意識の働きである「イロニー」「パロディー」を手がかりに、マーラー研究の文脈に添うかたちで、アドルノの言う伝統的な抽象的な形式カテゴリーと実質的カテゴリーの重層、更に音楽的経過に含まれる個々の要素の、いわば自己組織化的な形式化の具体的方法としての「ヴァリアンテ(変形)」の技法、それが可能にする時間論的構造としての未来完了性を取り上げてきた。ここで留意すべきと思われる点は、未来完了性のような時間的構造にせよ、アドルノが「小説」や「叙事詩」に類比するような構造にせよ、マーラーの音楽の特質と考えられるものは、高度な反省的意識を備え、自伝的自己を有する「人間」の心の構造の反映と見做すことができるということであり、総じてマーラーの音楽は、そうした意識が感受し、経験する時間の流れのシミュレータと捉えることができるのではないかということである。そしてそうした観点に立った時に、高度な反省的意識の働きの反映と見做すことができる側面として、更に幾つかの点を挙げることができるだろう。ここではその中で、高度な反省的意識を備え、自伝的自己を有する「人間」の心の構造の成立の、実は前提条件を為している、「他者」の働きに関わる特性として、調的二元論に基づく対話的構造、これも伝統的な規範からは逸脱する傾向を持つ対位法による複数の声の交錯、更にはシェーンベルクがマーラーを追悼したプラハ講演において以下のように指摘する「客観性」について目くばせするに留めたい。

 そこ(=第9交響曲:引用者注)では作曲者はほとんどもはや発言の主体ではありません。まるでこの作品にはもうひとりの隠れた作曲者がいて、マーラーをたんにメガフォンとして使っているとしか思えないほどです。この作品を支えているのは、もはや一人称的音調ではありません。この作品がもたらすものは、動物的なぬくもりを断念することができ、精神的な冷気のなかで快感をおぼえるような人間のもとにしかみられない美についての、いわば客観的な、ほとんど情熱というものを欠いた証言です。

(シェーンベルクのプラハでの講演(1912年3月25日)より(邦訳:酒田健一編,『マーラー頌』, 白水社, 1980 所収, p.124)

 と同時に、ここでは「動物的なぬくもりを断念することができ、精神的な冷気のなかで快感をおぼえるような人間」にしか可能でないと指摘される「客観性」が、一方では既に触れた第3交響曲の創作についてマーラー自らが語ったとされる言葉に含まれる「…が語ることを」書き留めるという受動性に淵源を持ち、他方では「小説」的、「叙事詩的」な語りを可能にするような意識の構造に由来し、ひいてはモノグラフ末尾で「マーラーの音楽は、彼の表現として主観的なのではなく、脱走兵に音楽を語らせることにによって主観的なものとなる」(アドルノ『マーラー 音楽観相学』, p.214)とアドルノが指摘する点に繋がるであろうこと、マーラーの音楽の内実を明らかにしようとする企ては、「作品のイデーそのものではなく、その題材にほかならない」「芸術作品によって扱われ、表現され、意図的に意味されたイデー」(同書, p.3)にしか行きつかない標題の領域をうろつくことなく、こうした構造の連関を浮かび上がらせるものでなくてはならないということを主張しておきたい。

*   *   *

 上記のような点を仮に大筋認めた上で、だがしかし、具体的に為されたデータ分析の結果が、一体どのようにして上記のような問題系に繋がり、それを説明したり論証したりすることに関わるのか?という疑問は全くもって正当であり、率直に告白するならば、その具体的な道筋が朧げにでも予感できているといったレベルにすら程遠いというのが偽らざる現状であることは認めざるを得ない。

 そのことの困難さを端的に述べるために、問題を非常に簡単なかたちにして示してみよう。MIDIデータを用いたデータ分析について言えば、MIDIデータに含まれる音の系列に基づいて、そうした音の系列を産み出すためにはどのようなシステムが必要か、どのような規則(群)が、どのような構造が必要かという問題を解いていることになるが、それは例えば制御理論における逆問題の一種で、実現問題と呼ばれるような問題設定、系の挙動から、系の内部構造としての状態空間表現を求める問題に似たものとして捉えることができるだろう。つまり、マーラーの作曲した作品を生成するようなオートマトン、「マーラー・オートマトン」を設計する問題として捉えてみるのである。これに似た問題設定として、マーラーの作品の音の系列を与えて、似たような音の系列を生成するニューラルネットワークを学習させる機械学習の問題を考えてみるというのもある。後者についてはGoogle Magentaのようなツールを、Colaboratoryのような環境で動かすことによって比較的容易にやってみることが可能で、本ブログでも特に第3交響曲第6楽章を用いた実験を実施し、その結果を公開したことがあるが、話を単一作品(楽章)に限れば、更に試行錯誤を重ねればある程度の模倣はできそうな見通しは持てても、多様で複雑なマーラーの作品を模倣した音の系列を生成する機械を実現すること自体、容易なことではなさそうである。(これを例えばバロックや古典期の「典型的」な作品の生成と同一視することはできない。それらは寧ろ大量生産・消費される製品に近いものであり、それらと「唯名論的」に、個別の作品毎に、その内容によって実質的な形式が生成していくマーラーの作品との隔たりは小さなものではないと考えられる。同じことの言い替えになるが、機械学習にせよ、統計的な分析にせよ、マーラーの作品は、――冒頭に触れたシュトックハウゼンの指摘が或る意味で妥当であるということでもあるのだが――作品の数の少なさに比べて多様性が大きいし、その特性上、単純にデータの統計的な平均をとるようなアプローチにそぐわない面があるように感じられる。人間の聴き手、分析者は、何某かフィルターリングや変換を行った上で、抽象的な空間でデータ処理を行っているように感じられるのだが、ではどのようなフィルタリングや変換を行い、分析を行う空間をどのように定義すればいいのかについて具体的な手がかりがあるわけではない。)

 そこでいきなり「マーラー・オートマトン」を生成する問題を解くような無謀な企ては控えて、マーラーの作品の構造を分析することに専念したとして、そもそもマーラーの音楽の持つ複雑な構造そのものを、その内実に応じた十分な仕方で記述するという課題に限定してさえ前途遼遠であり、ここでの企てがそれを達成しうるかどうかについて言えば、率直に言って悲観的にならざるを得ないというのが現実である。マーラーの作品が「意識の音楽」であると仮定して、そこにどのような構造があると仮定すれば良いのかすら明らかではない。カオス的な挙動を想定した分析をすれば良いのか?(具体的には例えばリャプノフ指数を求められばいいのか?だが、カオス的な挙動そのものはごく単純な力学系ですら引き起こすことができるものであり、仮にある音楽作品にカオス的な挙動が観察されたとして、それが意味するところは何かは良くわからないが、それでもなおそれがマーラーの作品の何らかの特性に関わる可能性を考えてやってみることになるのだろうか?)、オートポイエーシスやセカンドオーダー・サイバネティクスのようなシステムを仮定して、それらが備えている(例えば自己再帰的な)構造を仮定した分析をすれば良いのか?

 だが恐らく、自己再帰的な構造というだけならば「意識」の関与について必要条件であったとしても、十分条件ではないだろう。つまり自己再帰的な構造は、自己組織化システム一般の備えている特徴であって、それが「意識」の関与の徴候であるわけではないだろう。或いはまた、それは高度な意識を備えた作曲者の「作品」であることを告げていることはあっても(例えばバッハの「フーガの技法」のような主題の拡大・縮小を含んだ高度な対位法的技術を駆使した作品を思い浮かべてみれば良い)、それはここでいう「意識の音楽」の特徴とはまた異なったものであり続けるだろう。寧ろ例えば、文学作品における普通の叙述と「意識の流れ」の手法との対比のようなものとの類比を考えるべきなのだろうか?ある叙述が「意識の流れ」であるというのは、どのようにして判定できるのだろうか?そしてここでは「音楽」が問題になっているのであれば、それは「音楽」に適用することが可能なものなのか?(これはそれ自体マーラーの作品を考える時に興味深い論点だろうが)「意識の流れ」と「夢の作業」に共通するものは何で、両者を区別するものは何か?こうした問いを重ねていくにつれ浮かび上がってくることに否応なく気づかされるのは、結局のところ「意識の音楽」の定義そのものが十分に明確ではないということである。だがその少なからぬ部分は恐らく「意識」そのものに由来するものではなかろうか?その一方で、このように考えることはできないか?すなわち、「意識の流れ」の定着は、それ自体は「意識的」に組み立てられた結果というより、無意識的なものを整序せずにそのまま定着させようとした結果なのだが、そこには高度な意識の介入があって、「無意識的なものを整序せずにそのまま定着させる」という所作自体は、高度にメタ的な「意識の運動」ではないだろうか?そうした操作の結果が音楽的に定着されたものを「意識の音楽」と呼ぶのではなかったか?

 「意識の音楽」の何らかの徴候を、MIDIデータの中に見出そうという試みが、そもそも初めからかなり無謀な企てであることは否定できない。困難は二重のものなのだ。「意識」がどのような構造がどのように作動することで成り立つかがそもそもわかっておらず、十分条件ではなく、良くて必要条件に過ぎない条件として、セカンドオーダーサイバネティクスやオートポイエーシスのような概念が提示されている、という状況がまずあり、更に直接「意識」そのものと相手にするのではなく、「意識」を持った存在が生産した作品を手がかりに、そこに「意識」を備えた生産主体の構造が反映されていることを見出そうとしているわけで、従って、仮説の上に仮説を重ねるこの企て自体、そもそも無理だとして否定されても仕方ない。そんな中で、限られた手段と資源でとにかくデータに基づく定量的な分析を行おうとすれば、「街灯の下で鍵を探す」状況に陥ることは避け難く、一般に「マクナマラの誤謬」と呼ばれる罠に陥ってしまう可能性は極めて高いだろう。けれども、だからといってデータに基づく分析を放棄してはならないし、簡単に測定できないものを重要でないとか、そもそも存在しないと考えているわけでは決してなく、そういう意味では、できることを手あたり次第やる、という弊に陥りはしても、「マクナマラの誤謬」の本体については回避できているというように認識している。

 三輪眞弘さんの「逆シミュレーション音楽」であれば、それをシュトックハウゼンの宇宙人が解読しようとしたとき、規則によって生成された音の系列そのものだけでは、それが「人間」の産み出したものであるかどうかの判定はできない。自然現象でも同じ系列が生じることは(マーラーの場合とは異なって)あり得るだろう。だけれども、残り2つの相があることで。それは「人間」が産み出したものであり、人間についての情報を与えてくれるものとなっているというように言えるのだと思う。「五芒星」の音の系列そのものからは「人間」は出てこない。でも同じ音の系列をマトリクスとして、あの3つのヴァリアントを産み出すことができるのは「人間」だけなのだと思う。

 翻ってマーラーの場合だって、或る作品の或る箇所だけ取り出せば、それを機械が模倣することは可能だ。だけれども、マーラーの作品の総体ということになると、しかも、既に存在する作品の模倣ではなく、新たにそれを産み出すということになれば、それを産み出す機械は、「人間」と呼ばれるものに限られるということになるのではないか?

 これも前途遼遠な話ではあるが、或る作品単独での特徴ではなく、例えば一連の作品を経時的に眺めた時に見られる変化であれば、それを産み出す「主体」に、所詮は程度の差であれ、もう少し近づくことができるのではないかというような当所もないことを思っている。牽強付会にしか見えないかも知れないが、その「主体」が成長し、老いる存在なのだ、ということが読み取れるならば、それには一定の意義があるのではというように思うのである。人間が成長し、老いていき、その結果「晩年様式」なるものが生じるというのは、「人間」についての水準では既に自明のなのかも知れないが、だからといってデータ分析によって経年的な変化が読み取れることを、初めから答えがわかっていることを跡付けているだけとは思わない。例えばの話、具体的にその変化が、どのような特徴量において現れるかは決して自明なことではないし、データ分析はすべからく、分析者の仮説とか思い込みとかから自由ではあり得ない。完全に中立で客観な分析というのは虚構に過ぎない。

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 最初はマーラーの作品における調的な遷移のプロセスを可視化することを目的として、そのための入力データとしてMIDIファイルを使うことにしたのがきっかけで、その後、特に和音(実際には機能和声学でいうところの和声ではなく、ピッチクラスセットに過ぎない。以下同じ。)の出現頻度を用いてクラスタリングや主成分分析を行い、マーラーの作品に関して、幾つかの知見を得ることができた。その後和音の状態遷移パターンに注目してパターンの多様性の分析やエントロピーの計算を行い、そこでも若干の知見を得た後、直近ではリターンマップの作成をしているが、今後、どのような観点での分析を進めたら良いのかについて明確な見通しが持てているわけではない。本稿はそうした或る種の行き詰まりの中で、何か少しでも手がかりが得られればと考えて始めた振り返りの作業の一環として執筆された。ここまで執筆してきて、特段新たな発見のようなものがあった訳ではないが、従来より蓄積されてきたマーラーの作品固有の特性に関する知見と、MIDIデータを用いたデータ分析のようなボトムアップな分析とのギャップを具体的に確認することが出来ただけでも良しとせねばなるまい。

 ギャップを埋めるにはどうすればいいかについても具体的な道筋を手にしているわけではなく、特に最後に述べた具体的な楽曲の構造そのものに「老い」を見出す作業については、一体どのようなアプローチで楽曲を分析を進めていったら良いかについての見通しすら現時点では立てていないことを認めざるを得ない。だが最後に、漠としたものではあるけれども、朧気に浮かんでいるアプローチの仕方について、簡単に述べておきたい。ポイントはまず、意識が基本的に「感じ」についてのものであり、「感じ」は有機体の「ホメオスタシス」に関わるというソームズやヤーク・パンクセップ、ダマシオの立場に依拠すること、更に「ホメオスタシス」という概念に注目し、ソームズ=フリストンの意識に関する自由エネルギー理論に依拠することに存する。これはマーラーの音楽を「意識の音楽」、「時間の感受のシミュレータとしての音楽」として捉えようとしているからには、ごく自然な選択であろう。いきなり作品そのものにアプローチするのではなく、一旦まず意識についての定量化可能な理論を出発点にとり、音楽作品を意識を備えた有機体に対する入力でもあり出力でもあるものとして位置づけることによって、単なる音響の連なりではない音楽に意識の様態がどのように映り込み、また音楽を聴くことで意識がどのような振舞をするのかを定量的に捉えるアプローチをしてみようということである。自由エネルギー理論のような機械論的な説明に依拠することのここでのメリットは明らかで、そうすることによって作品を「マーラー・オートマトン」の出力と見做し、オートマトンの挙動を理解するという発想が単なる比喩ではなく、具体的なモデル化や分析の道具立てが備わったものとなる可能性が開ける。

 現時点で思い描くことのできる見取り図としては、「老い」についてのシステム論的な定義においてはホメオスタシスやエントロピーの観点から「老い」が捉えられていることから、ソームズ=フリストンの「自由エネルギー原理」に基づく「意識」の説明(これもホメオスタシスやエントロピーに深く関わっていることに思い起こされたい)をベースにし、上記のアドルノやReversのカテゴリの記述を意識にとっての「感じ」という観点から捉え直し、更には自由エネルギー原理的に翻訳することによってデータ処理可能な記述に変換し、楽曲の動力学的なプロセスの中にそれらを探っていくという道筋が浮かんではいる。楽曲のプロセスに「老い」や「老いの意識」を見出す以前に、まず「老い」の自由エネルギー理論的説明が必要であり、その上で「老いの意識」についても同様の説明があってようやく、それが音楽作品の構造や過程にどのように例示(examplify)――ネルソン・グッドマンの言う意味合いで――されうるかの検討に取り掛かることができるようになるだろうし、その時ようやく「晩年様式」の実質について語ることが出来る語彙が獲得できたと言いうるだろう。そして「晩年様式」の実質を語れるのであれば、「意識の音楽」、「時間の感受のシミュレータとしての音楽」としてマーラーの作品を分析する手段は既に手に入ったことになるだろう。ちなみに上記では単純化のためにホメオスタシスにのみ言及したが、フリストンの「自由エネルギー原理」の重要な帰結として、人間の脳はホメオスタシス的な動きだけではなく、アロスタシス的な振る舞いを行うことが示されている。またパンクセップによっていわゆるデフォルトモードの情動がSEEKING(探索)であることが指摘されている。ここから創造性や「憧れ」といったものについて語る可能性も開けているように思われる。だが、この道筋を具体的に展開して実際の分析にまで繋がるレベルに到達するのは前途悠遠の企てであり、その実現には程遠いというのが現状である。

 そのギャップを埋める作業は、自分自身の手に負えるようなものではなく、ここでは問題提起を行うだけで、未来の優秀な研究者に委ねられているとしても構わない。寧ろこの問題設定を引き継ぎ(実際の作業は全く違うアプローチで勿論構わないが)いずれの日にか、マーラーの音楽の内実を捉えた分析が、具体的なデータに基づいて行われることを願って本稿の結びとしたい。(2024.8.16 初稿, 8.21, 28追記, 12.19末尾に追記, 2026.9.8更新)

2025年9月3日水曜日

身辺雑記 IV.

IV.

「人工知能」がマーラーの問題になりうるか、検討の余地はある。 だが「意識」と「人工知能」がそうであるように、今日の問題としてマーラーを引き受けたときの展望というのはあるはずだし、あるべきだろう。 一見関係ないことが自明だが、具体的に距離を測るべきなのだ。

一方「意識」の領域は現象学以外については余り広げるべきではないかも知れない。 進化論をどう扱うかも考えどころだ。まずもって、進化論のマーラーの受容の問題がある。それは今日のものとはかなり距離があって、 その距離を正確に測り、記述するのは容易ではない。(当時の思潮を取り上げれば済むというのはあまりに安直で、マーラーの音楽の 説明になりえていないのは勿論、マーラーの人の説明にさえなっていないが、研究ではなくて一般に流布している「マーラー論」のレベルは そういった水準を超えていないように思える。)一方で、そうしたマーラーの音楽を、今受容するという受容側の問題がある。 上述の、当時の思潮を取り上げてマーラーの音楽の「解説」をした気になる度し難いお目出度さには、今日の問題意識にマーラーを 突き合わせるという視点を全く欠いている。マーラー自身は物理学、心理学をはじめとする当時の先端の自然科学のトレンドにさえ 関心を示す人であったのに比べれば、マーラーを骨董品として受容するようなそのような姿勢は、マーラーが持っていたはすの、従って、 マーラーの音楽が持っているはずのベクトル性をあまりに軽んじている。もしマーラーの(例えば第3交響曲における)「世界観」を今日 問題にするなら、今日の進化論の展開、さらには遺伝的アルゴリズム他の進化論的方法や人工生命の方向性、あるいは 進化論の文化的な平面へのアナロジーとしてのミームの問題などを無視することはできないように感じられる。そうした「主題」の領域を 抜きにしても、進化論的ではなくても動態的な視点は必須だ。従って、横断時に出現することになるに違いない。

マーラーにおける自然の問題をヴェーベルンやシベリウス、あるいはクセナキスの場合と対比させること。 同時に主体の立ち位置の問題でもある。 19世紀末的な「自然」にマーラーとヴェーベルンは含まれる。シベリウスは少し違う? 実際には、その様態においてはヴェーべルンとシベリウス(と恐らくブルックナー)の方が近いのにも関わらず。 一方でそのような意味合いでの「自然」は、ラヴェルやフランクにはない。これは何故? 都市の音楽だから?当時のフランス音楽が都市のものだったから? 「自然」に対する態度の違い?風土や文化?音楽の「機能」の問題? ロシアにおける例外的とも言いうるショスタコーヴィチにおける自然の欠如。 ショスタコーヴィチはロシアではなく、ソ連の文化的・政治的文脈が優った音楽であることは否定できまい。 とにかく、彼は人間に関わらざるを得なかった。告発するために、呪詛するために、記憶するために。

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あるタイプの作曲家―演奏家の倫理性は、作曲家―演奏家という自分の立場の外には出ようとしない。 それは音楽家の己のための倫理だ。 それを中途半端なアマチュアが批判すれば恐らくははぐらかされてしまうのがおちだろう。 勿論、それが間違っているわけではない。 だが結局、音楽家でない私にはそれは「どうでもいい」ことだ。 そしてそうした倫理性は、作品の享受の関心の担保にはならない。 多分演奏家にとっては興味深いかも知れないその作品も私の心には響かない。 寧ろ行為ではなく、音楽そのものに向き合う類の音楽の方が 一見自閉的に見えて作品としての豊かさを備えている。 無論、作品は開かれている(いる「べき」かどうかの問題ではない、事実 としてそうなのだ)し、豊かさは演奏家が与えるものだ、という立場は間違っていない。 だが、私はそれにもあまり関心がないのだろう。 作品を固定した、死んだものとして「鑑賞する」美学に対する反撥には大いに共感するが、 それに対する彼らの答には私は共感できない。

作品が完成品でないのは、作品を作曲家―演奏家―まさに彼らがそうである、 特権的にそうであるような―の中間領域に常に「手を加える」必要のある 状態に宙吊りにしておくことでなくてはならないとは限らないだろう。 それは彼ら固有の条件への自閉ではないのか? 作曲者―演奏家本人にしか実現不可能な作品―他者が再演することのない 作品とは一体何なのか?一見開かれた、伝統芸能で言う「手」の集積は、 しかし、芸の伝達のシステムが機能しない場合には、イデオレクトに 過ぎないのではないか?自分のための、自分のためだけの作品。 自分の行為のみを正当化する作品。その正当化は確かに無欠かも知れない。 そして聴き手を忘れて、音楽家の固有のモデルに閉じてしまう。 そのスタンスは、外に対して他者に対して一体何でありうるというのか? だから、(特に20世紀以降に顕著な言説の形態での)批判の鋭さは認めても、豊かさを見つけることはできない。 その倫理性には高い感銘を受けるが、それでいて自分の中にははっきりと今や形をなした違和感がある。 彼らは正しいのかも知れない。多分そうなのだが、それは「選ばれた者」の論理なのだ。 彼はそのように為すべく選ばれた者なのだ。 その選ばれた者の自分の立場の表明した書籍を、実践を、そうでない人間が 書籍の形や、あるいは演奏会のチケットの形で消費するというのは、一体どういうことなのか? 弁の立つ名人芸的ピアニストへのファン心理と何が違うのか? 音楽家が音楽について考え、実践するのは正当なことだろう。 でも、それは私にとって一体何の関係がある?私は音楽家ではない。

演奏家―作曲家の特権性だけではない。 例えば、音自体に拘り、あるいは音と音との抽象的な関係という次元に 己を限定する音楽についての緻密な思考は、だが、音楽家でない私にとって何なのか? 彼らは、その人並み優れた自分の能力に応じて、自分の問題を解いている。 だが、それは私には結局関係がない。 問題意識は結局共有できない。 それはきっと私は音楽家ではないからだ。 彼らは音楽家の「音楽家としての」問題意識の圏内で動き、結果を生み出す。 だが、私が音楽に聞きだすのは、最後の部分では、音楽家固有の問題に 対する技術的な対応ではない。

私はそうではない。私にとっては、自分も含めて、自分の身近にいる人間の心の傷や不安、怖れの方が問題だ。病や老い、そして死。 それは自分自身の問題でもある。 勿論、個人の次元では解決はない。 社会的次元にこそその手がかりがある、というのは正しいのだろう(だからこそ、私は「他者論」に関心を持ったわけだ)。 だが、それでもクオリアの私性を何かでごまかすことはできない。 個人の次元は純化する必要もないし、そうすべきではないのだが、だからといって解消されてはならない。それは残るべきなのだ。 自分に行動すべき何かの動機があるとしたら、そうした私性の、私性ゆえの、だが結局のところ私性の「ための」戦い以外にはない。 私は親密さなどいらないが、私性、個別のこの生命、この痛みの価値は擁護したい。 意識の問題を消去するのには、意識を消去すれば良い。だが、私はつまるところその問題含みの意識そのものなのだ。 消去は私「にとって」何の解決にもなっていない。 意識は頼りなく、少なくとも有限なものだ。世代の交代は意識という現象にとっては何の救いにもならない。私はそこで行き止まりなのだ。

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支配するのは怒りではなく、寧ろ無力感だ。怒りがあれば、それは何かを生み出すだろう。 そしてそれが不滅へと通じる途なのかも知れない。丁度ショスタコーヴィチのミケランジェロ組曲op.145が証言するように。 自然への帰依の感情、法則性、Nomosへの信頼からもまた、遠い。 だからシベリウスやヴェーベルンのあの自然の即自性は勿論、マーラーのあの憧憬からも遠ざかってしまったのだ。 単なる観点の、立場の問題かも知れないとはいえ、遺伝子の、あるいはミームの媒体に 過ぎない個体の有限性を、自分の営みの虚しさを確認することは意志を喪失させる。 何という陰惨な展望であることか。 何というところに辿り着いてしまったことか。 自然が一体何の救いになるのか? (全く風景は異なるが、no hay caminos, hay que caminar / viae inviae の対比が アナロジーとして思い浮かぶ。途がないのは同じでも、何という認識の違いがあることか。)

その法則は、何か安らぎを与えるものではありえない。 寧ろ、クセナキスの様な人間の認識の有限性への絶望と、運命の仮借なさに対する反抗の方が共感できる。 或いはショスタコーヴィチの認識の方が。 またいずれ神ならぬ盲目の進化の(ショーペンハウアーならそれを意志と呼んだだろう)巧みさも ひらめきもない作業の産物である自然の造化の精妙さに感動することがあるのだろうか? それでもその法則の「偉大さ」(?)に畏怖の念を覚えることがあるのだろうか?

何かを作ること、産み出すことの行く末を見定めること、それはまだ残っている。 残念なことに己の産み出すものの価値については全く信じられなくなっているが、それでも、ラヴェルの職人意識の方が、自然よりも、 人工物を信じるその懐疑とイロニーとその背後にある悲しみと諦観の方が、今の自分には信頼がおける。 裏切られた、傷ついた子供の心をどこかにしまってありながら、表面上は冷淡に、理性的に振舞うその「知性」を、 その意図された、意志的な冷たさの方に私はより多く共感できる。 自分の為し遂げたこと、自分の使命に対する信頼など、持てようがない。 それでもマーラーを否定し去ることはできないのだが、、、

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かつて親しくしていた友人の夢を見た。理由はわからない。 だが、こうしてまた、あの日のマーラーの第9交響曲第1楽章をきっかけにした対話に戻ってゆく。 不滅性とあとかたもなく消えること。 あの頃の素朴な信念はもうない。けれど、マーラーの音楽がなくなったわけではない。 どんな写真よりも文章よりも生々しい経験の定着。 勿論、「マーラーの見た風景が見える」と言った私は間違っている。 そんなものは音楽のどこにもしまわれていない。風景は私のでっちあげた虚像に過ぎない。 けれども、経験の質は?「伝達」としては不十分だとして、この「変換」の結果は?

もし個人が、そして個人の生産物が、完全に社会に拘束されたものであるとすれば、ミームの伝播というものが意味を持つことはない。 もし正解を生成された社会的文脈に置いて、その解釈の地平をその「過去の側」に制限するならば、未来にいる聴き手、 異境で、異なる文化的伝統の裡にある聴き手は正しい解釈から排除されてしまう。 もしミームが伝播しうるなら、そうした文脈から離れた仕方でしかない。 しかもそうしたミームを受容するものが、聴き手の裡に存在していなくてはならない。 ミームを扱うとき、都市伝説や流言のような寿命の短いもの、伝播が空間的には広くて速度は早いが、存続しないものを中心に考えるのは面白くない。 マーラーの作品やショスタコーヴィチの作品のように存続する、世代を超えるものでなくては意義が薄い。 ホルブルックがマーラーとショスタコーヴィチの文化的文脈の違いを超えた共通性について論じているのは(David Holbrook, "Gustav Mahler and the Courage to be", Vision Press, 1974, p.239)正しい。 そして多分―勿論「了解」の問題はあるだろうが―生死の問題が相対的により普遍的であり、 文化や社会といった構造よりも一般性が高い点に、共通性が可能になる地盤を求めているのも正しいだろう。 無論、「了解」の問題はある。生死は生物学的事実ではない。 寧ろ生死についての了解が問題で、その了解に接点がなければ共通性は存在しない。だがそれは「了解」の共有を求めているわけではない。 了解は社会的・文化的な制約を受けるし、必ずしも「一致する」わけではない。 個別の了解を成立させる地盤の共通性があれば良い。 多分それは、生物学的事実と社会・文化的相対性の中間くらいにあるのだ。 それは、社会・文化が閉じていないこと、ミームの伝播が「可能」であること、そして当のミームの伝播自体が辺縁を生じさせ、 そうした共通の地盤の生成を促進するのだろう。

(2002執筆, 2007加筆, 2008.5.27初稿公開, 2025.10.1 問題系を分離の上、再公開)

身辺雑記 III.

III.

解決すべき問題、オブセッションとして纏わりついている問題が何であるかは分かっている。 回り道の余裕は もうない。

身体は死すとも、、、 しかし、精神も、心も同じだ。 それは身体に付随している事象に過ぎない。 だからそうした考え方、不滅性は或る種の転倒だ。 もし不滅性を考えるなら、別の形態を考える必要がある。 心、意識は、現象に過ぎないのだ。

私は結局、意識の問題にしか興味がない。 音楽もAIも時間論も他者論も、意識の問題の変形に過ぎない。 作曲家の生でもなく、音そのものでもない。 作曲の跡に見られる意識についての、認識というか、ある立場、ある存在の様態こそが気になるのだ。 音の向こう、あるいはこちらに、音をつむぐ手が、その手を制御する意識(あるいは無意識)がある。 機能的現象のみを説明すれば、意識の説明は終わったとする立場は誤っている。 少なくとも意識はそうした機能を果たすこと「のみ」をしている訳ではなかろう。何故か―しかじかの「ために」という説明は、誤用 (なぜなら現実に「本来の目的」から逸脱してる」)の説明にはなっていない。 つまりは意識を十全には説明しきれていない。 それが誤用であったとしても、あまりに多くの蓄積がありすぎる。

不滅性に頼ることなく、けれども意識を「まともに」扱うようなそうした思考が必要なのだ。後半生を生きるために。 私の意識が自分の為に、自己を正当化するために、自己の存在を正当化するために、それは虚しいと分かった上で。 いつか自分自身も崩壊してゆく。

生は死に取り囲まれている。死は決して例外的な現象ではない。このような認識は例えば時が経てばまた変わるのか? そうでもない様に思えてならないのだが、、、

(かつてそのように勘違いしたのとは違って)時間ではなく、意識の問題。 意識の問題である限りでの時間性の問題。 例えば宇宙論的な時間への関心は、結局副次的なものに過ぎない。 勿論、それが不滅性の問題を介して、実存の次元と関われば別だが。 (ホワイトヘッドの体系の中でなら、それは連続している。) 不滅性の問題。 価値ないし意味の問題。 人工知能に関与したのは無駄ではない。 そして、最初の動機を忘れてはならない。 結局、それ以外は自分にとっては副次的な問題なのだ。 スタニスワフ・レムのゴーレムXIVとデネットの解明された意識。 そして、その中心に時代錯誤を伴ってマーラーの音楽がある。 そのアナクロニーそのものもまた解かれるべき問題の一部を為しているのだろう。

しかし、本当にそれがお前の問題なのか? それについてお前が考えることに何の意味がある? お前にはどうせ解けやしない問題なのに。

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イヴァンとアリョーシャの会話。 神はいるか? 不死はあるか? それは未だ、多分自分の問題でもある。

進化論的な陰鬱な展望を受け入れながら、私の心のどこかには、神に呼びかける部分が残っている。 他人はそれを心理的仮構物と分析し、自問自答や自己暗示の一種と見做すだろう。 否、多分そうに違いない。でも、だからといって、神と不滅性の問題が消えてなくなることはない。

意識を持ってしまったことの厄介さ。 自分の死を待たなくてはならない。 二人称の死もまた。何と過酷なことか。

生の領域にあって己の欲しているのはモラルだ。モラルなのか倫理なのか、恐らくその何れもだ。 いくら醜く、不完全であるといっても、それだけではない。それで終わりとは考えたくない。 私はドーキンス程楽観的になれないが、でも、どんなに頼りなくとも取るに足らぬものでも、人間の築いた「良いもの」を否定したくない。 絶望的なプロテストや声に出して訴えることも知らぬ、謙虚な心のために。

何かを残すというよりは、そうした気持ちを何かに振り向けるべきかも知れない。 倫理もモラルも必要なのだ。 根拠などの問題ではない。根拠が無くて、必然性がなくても、ある「べき」なのだ。 おや、これはヴォルテール? Il faut l'inventerという訳か?

Symphonie heißt mir eben : mit allen Mitteln der vorhandenen Technik eine Welt aufbauen. と語り、 あるいは交響曲は全てを包括しなくてはならない、と述べたマーラーの気持ち。 私のみた風景。みること、書くことによって形作られる風景。私ではなく、私のなかの何者かが 私に見せ、私に書き取らせる風景。誰のためでもなく、だが誰かに向かって書かれ、構築される風景。 私はそれらを書き留めることができるだろうか?そうすることによって神の衣を織ることができるだろうか?

自分の考えていることを自分が納得のいく仕方で誰かに伝えること、それ自体が大変な難事だ。 不可能事と言っても良い。ある時以来、それをはっきりと認めざるを得なくなった。 だから最近は、現実には妥協をする。 自分が納得いかずとも、相手が行いにおいて自分の望まないことをしなければ良い、という様に。 モナドには窓がない、私の思いは私の闇の裡にとどまる。 だから他人への通路を、媒体を作り出す作業は消してtrivialではない。けれどもそれと私の痕跡とは?

恐らく皮肉なことに、チャーマーズ風の二元論の、実用上の有効性に思い至った。(チャーマーズの意図とは異なる。) ようするに、意識があるが故に、その意識の「ために」クオリアにこだわる必要があるのだ。 生物学的、物理的な「事実」以外に何も無い、というのは意識に「対しては」誤っている。 それは確かにあまりにもろくはかない。意識は、そして生命は、生物学的(医学的)、物理・化学的にはちょっとしたトラブルで壊れてしまう。 だが、意識「にとって」は、意識「のために」は、そうした説明は何にもなりはしない。物理的には取るに足りない違いであっても、意識の有無は、決定的な違いだ。 だからといって唯心論には決してならないが、少なくともショスタコーヴィチの見方は、意識の立場からすれば、一つの(かなり悲観的な)アイデアに過ぎない。

勿論、私の意識がなくなれば(いずれそうなるのは確かだ)それは、私にとって消えてしまうが、だからといってそれは無意味ではない。 全く交わらない別の次元が存在する。 そして意識にとって「死」は単なる無以上のものだろう。あくまで意識にとって、単なる己の消滅以上のものだろう。 ただしそれはハイデガー風のSein zum Todeでは全く無い。 決意や投企とも全く無関係だ。 (それらは、あらゆる宗教的な言い訳と同じく、錯誤を錯誤と思っていない点で受け入れられない。) 二元論は残り、そのうちの圧倒的にもろい一方だ、ということを忘れてはならない。もう一方を消去したり否定したり、従属的、副次的なものと 見做してはならない。

意識にとって、意識が有限の基盤のものであるなら、その死はその有限性そのものであると同時に、その有限性に対する解釈でもある??? 意識の有限性を、その物質的な基盤を認めること、意識の消滅、そして死について認めること。その上で、意識にとっての、意味なり価値なりの領野を認めること。 それは独立していて、物質的な基盤を持たない。抽象的であろうと、そうした信念なり価値なりの空間は存在するし、別の仕方で(ドーキンス風/デネット風には) 継承されもする。そうした価値の空間はチャーマーズ風の二元論の一方の領域、つまりクオリアの領域と関係を持つに違いない。

物質的な基盤を認めない信仰同様、この領域を認めない唯物論も同じくらい誤っている。唯物論とて、意識の自分自身に関する解釈に過ぎない。 還元不可能だが随伴的、意識「にとって」そうなのだろう。 だが、それ以外ではありえない、こうした分析じたい、意識の産物なのだ。

現象から身を引き離すこと。 アドルノの批判にも関わらず、(けれどもそれは多分に正鵠を射ている)フッサールのあの徹底ゆえの不徹底(意識にとらわれすぎたのだ。本当は意識からも身を引き離すべきだったのに)。

*       *       *

~のように見える。~のように感じられる。という「私」の身の丈に合った記述、世界の描像。 二元論の「私」向けの是認。場の量子論的な描像に対する「私」の反抗。 それは井の中の蛙、裸の王様の反抗だ。だが、その蛙は、王様は、己が井の中に裸でいることを知っている。

カントの「慎ましい」理性批判の度し難い傲慢さ。自分の限界を自分で知ることができるという前提に立てるお目出度さ。 フッサールの「厳密さ」の自己中心性。だがそうした企ての「気持ち」はわかる。あるいは進化論を、場の量子論を否定したがる人間の気持ちも。 勿論彼等のルサンチマンの行き場は誤っている。だが、クオリアに、クオリアの齎す効果に、ミームに逃避して何が悪い? 勿論、それは倫理―逆説的にAutreではなく、Autruiでなくてはならない。 でも良いのかもしれない。「私」の不完全さ、醜さの代償として。そして、それは「必要」だ。「私」が生きていくのには。 だがクオリアに、美的なものに拘るのは、そうした醜さとは別の可能性がある界面には存在するということだ。 それが「私」の夢、幻想の如きものであっても。(そもそも「私」自体が、同じレベルでfictionなのだから。)fictionの側に専ら実感があるという皮肉。 それはつまり、人間(私)にとっては、fictionこそが現実たるべく条件付けされ設計されてしまっているということに過ぎない。

意識と時間―予期記憶、過去―未来という認知様式の発生。記憶を持つこと、先読みをすることと意識の関係。 (考えてみれば、当然のことだ。)

一方でカントの設定した理性の限界は、カントが想像していた程手前にはない。 人間は自ら自分の「生活世界」における実感と異なる世界認識の道具を開発し、 そのことによって、(カントの思弁とは異なって、経験的な反証という仕方で)自分の素朴な信念の限界と相対性を明らかにしてきた。

要するに、私がうんざりしているそうした理論も、私―ただしこの私ではなくて、人間一般―の営みに過ぎない。 ただしそれは他者から、社会から与えられるものなので、私にとっては「自分のもの」になり切れていない? いずれにせよ、倫理や美学以外は哲学の役割は限定される。 哲学が、神の衣を織ることになるようには私には思えない。(だがホワイトヘッドの様な場合もあることはある。 それにしてもそういった哲学的思弁は、今や寧ろ物理学者にのみ許されるのではないか、、、 ホワイトヘッドが数学者でも理論物理学者でもあった点を考えれば良い。)

*       *       *

二院制の心によって、内なる神との対話もまた、説明されてしまった。 あるいはフロイトの超自我でも良かったかも知れないが。 今や意識の問題は、第一に脳(と身体)の問題、つまり神経科学の問題である。 私は神経科学者ではないから、それに寄与することはできない。

偉大な作曲家たちの跡を辿ることに一体何の意味があるのか? 自分の脳の中に情報を溜め込むことになど意味はない。 (私的な意味など価値はない。) 死んでしまえば、それは喪われてしまう。 それがいやなら、何らかのかたちで表現することだ。 だが、それに何の価値があるのか?

そうした問い自体が滑稽なことだろうか。 それは普遍的な価値の序列があって、その中での位置づけを気にしているかのようだ。 だが、現実には、そんな普遍的な価値の序列はない。 であれば、気に病むことはないのだ。

多分、どんなに偉大な人間であっても、自分の生が無意味であるかもしれない、という疑念から逃れることはできないだろう。 そうした疑念から逃れることができるかどうかは、何を為したか、ではなく、どう見做すか、という志向的姿勢、信念による部分が多いのだ。 だから成し遂げたことがミームとして引き継がれることのないような存在であっても、それ自身としては充足して、 上記の疑念に囚われずに生を全うすることも可能だろう。

どんな存在でも多様な価値(遺伝子の観点での、あるいはミームの観点での)のプールの一角を占めるに過ぎない、という制約を逃れることはできない。 あなたの信念は相対的で、ある人にとっては無に等しいのだ、という可能性を否定することはできない。

意識が儚い存在であること、その認識能力には限界があることは明らかだ。 一方で、いかに意識の成り立ちを説明しようと、意識からの視点を解消することはできない。 意識の成り立ちの説明ということでいけば、まだ端緒についたばかりとはいいながら、例えば100年前と比べれば状況は全くといっていいほど変わっている。 そうした状況の変化を考慮せずに100年前の思想を追うのは、哲学史家の課題であって、それを自分の生活の糧にしている人間以外には意味がないことだ。 (一般に哲学史研究については、そうしたことが言えるだろう。 結局「本当はどうだったのか」という、生成のコンテクストを辿る作業は、不完全さを予め運命付けられているし、 大抵の場合、そうした作業はどこかでこっそりと二股をかけている。 誤読の批判を受ければ、「今日的意義」とやらを持ち出して逃げを打つのだ。) だが、実はそちらの側は問題の半分に過ぎない。 還元できない、解消できない意識からの視点、幾らその限界を認識しても、 結局そこから逃れ出ることはできない(クセナキスの「言い方」はとても的確だと思う)視点をどうすれば良いのか。

そうしたものは余計なものとして、滅却すべし、というのが1つの立場であることは明らかだ。 そしてそれが強力な解決方法であることも理解できる。 だが、それは結局、意識にとっては解決にならない。 生命についての議論との並行性があるが、ないものねだりではあるけれど、存在することを強いられている意識が、 何とかその存在の居心地の悪さをやり過ごすことができるような、ある倫理が欲しいのかも知れない。

せっせと音楽を、書物を溜め込む人間。だが、死んでしまえば脳の中に溜め込まれた知識は失われてしまう。 脳の中の知識は「私」しかアクセスできない。 一体、そんな蓄積に何の価値があるのか? 他人にアクセス可能なように、変換をすること。出力をすること。 そうしなければ意味はない。意味とは、そのようにして生まれていくのだ。 勘違いしてはならないのは、ある作品が作者の経験のある消息を伝えていたとして、 価値はその消息の側にではなく、結局作品の側にあるのだ。寧ろ、取るに足らない消息を作品の方が価値付ける。

だが生産しなくてはならない、という強迫は、結局、経済の原理に支配されているのではないか? 確かにそうだ。結局は一種のプラグマティスムが潜んでいるのだ。publish or perishと、本質は あまり変わるところがない。 だが、ここではそれでもいいのではないか? 勿論、意識を否定する、という解決の仕方があるように、不毛を選択すること、経済性の原理の向こうにある、かの共通の原則に対して、 そのように反抗することも選択肢ではありうる。 けれども、ここでも私は、そうした立場はとりたくない。 意識を抱え込んだまま、どうにかやっていこうと思うのと同様、ここでは、そうした作品の価値を否定したくないのだ。 ただし単純な多産性が(多作)が価値の基準ではないし、同時代的な評価もまたそうではない。

ごく素直に言えば、自分が出会った、価値あると感じられるものを擁護し、自分もまた、そうしたものを生み出すことで作品によって記憶されたい、ということなのだろう。

(2002執筆, 2007加筆, 2008.5.27初稿公開, 2025.9.3 編集の上、再公開)


身辺雑記 II.

II.

Vorbei.

何かが壊れてしまう?止めることはできない。壊れてしまったものは修復できない。逆らってはいけない。区切りというものはある。 立ち止まってみる、という事なのか、但し、後ろを振り返ることなく、、、 私はどこへ行くのか?何をすれば良いのか?何をすべきかは、待ってみるべきなのか?自分で選ぼうとはせずに。

たくさんの文章、公開されているたくさんの文章。 何故公開できるのか?確信を己に抱けるもののみが遺すことができる、のだ。

無理をして背伸びをするのは少し控えるべきかもしれない。 周囲の動きの中で、気配を消すように、努めるべきかも知れない。 もう5年もやっているのだ。区切りというのはあるだろう。 現象から身をひくこと。我が王国はこの世のものならず。 世の成り行きに接していた面がひとつひとつはがれてゆく。 5年間の企ては結果的に貧乏くじをひくことにしかならなかった。 そして、それ以外の面でも、自分が作ったものの一つがその役割を終え、小鳥達、父、そして自分に価値を見出してくれた人たちの何人かが逝った。 だとしたら、ここで一息つくのもいいかも知れない。 まだしばらくは生き続けなくてはならない。 「知の人」の装いのもとに。そのためにも、一旦、休むべきかも知れない。

盗むものは盗むが良い。あるいは使えるものがあれば使うが良い。 それは、私のものではない、あなた方のものだ。 私は何も持たずに、何も残さずに、立ち去るだろう。

たくさんの誤解と無理解によって「歴史」は塗り固められてゆく。 ヴェーベルンの傷は「歴史」によっては購われない。それどころか想像力の欠如した音楽学者達が批評をする材料にされてしまっている。 結局、「誰か」の視点しかない。そして声が大きい者が勝つのだ。言葉でなくても、音でも画布でも、何でも。 そして素材(媒体)と格闘しない純粋な思惟というのは、あり得ないのだ。あるいは素材の、道具の、記号の往還の無い思惟というのは。 多くの人が、一体記憶はどこに行ってしまうのか、と問う。 しかしそれは、脳が活動を停止してしまえばなくなってしまうのだ。 記憶もまた、他のものと同じく、物理的な基盤上に成立している。 H/Wの故障により、その上のファイルに格納された情報が読み出せなくなることと、ほとんど変わることはない。 記憶だけを神秘的に考えるのはおかしい。

つまるところ、外化して残さなければ如何に偉大な思想も無に等しい。価値は流通によってしか生じない。 価値は他者が与えるものだ。産み出すこと。 何を考えていたのか、書き残されたもの、遺された書物の示す緩やかで曖昧な布置以外に知る術がない。

お前がその脳の中にたっぷりと詰め込んでいるものがあるのなら、それらを吐き出して書き付けることだ。 お前が死ぬのを待つことなく、おまえ自身、その思考へのアクセスを喪ってしまうかも知れないのだ。

かつてある人に、(そのときの文脈は、むしろ言語の「不完全性」だったかも知れない)自分の頭の中にある思惟をそのまま伝えることができるなら、 言語等という不完全な手段に頼ることはない、と語ったことがある。 けれども言葉にして伝えなければ、脳の中の思惟は消え去ってしまう。

*       *       *

また一つ「世の成り行き」との接点が喪われる。 けれども歴史には勝者と敗者しかいない。敗者は忘れ去られる。細部は喪われる。脈絡も背景も前提も忘れ去られ、評価のみが残る。 全てを喪ってしまったこの5年間はただ、盗み取られ、己を喪うためにのみ在ったかのようだ。 まるで何かを残すことを禁じられたかのように、そこはお前の場所ではないとでも言われているかのように。

こうやって日々、楽観と悲観を彷徨う。あまりにあてどがなさ過ぎて、どこかに辿り着くかも定かでない。しかし、道は歩んだ跡にしかできない。 決定的な何かはその瞬間にそうと知られることはない。必ず、後からそうであったと追検証されるものなのだ。 だから自分のやることについて、思い煩うのは程度の問題だ。自己批判を欠くと言われようが、破棄されたものは残らない。 想念のうちに抹消してしまい、形にしなければ何も残らない。 批判の対象にすらなりえない。一方で、残すとなれば、恥をさらすことを覚悟せねばならない。 残らないことを懼れるでもなく、残ることに恥らうでもなく。ある種の愚かさ、愚鈍さが必要なのだろう。 すべてを相対化して価値を見失う聡明さよりも、己を恃む融通の利かない、尊大、傲慢と受け取られかねない頑固さの方が、まだまし、というわけか。 もう一つ。他人と接すること、外に対して開かれることが多分必要だ。少なくともある時期に、誰と接したかは、決定的に重要なのだ。 隠棲なり象牙の塔なりはその後なのだ。誰かの友人であったり、弟子であったりすることがどんなにか重要なことか。

~について考えること、は、それを眺めること、それをある形式の裡に結晶させることとは異なる。 大抵の場合、無意識の備給の方が価値を帯びていて、「~について」という意識的な部分については価値はない。つまり反省は邪魔なのだ。 ~について考えること、分析し、組み立てること、内なる声に耳を澄まして書きとるのではなく、作り上げること、それは作品を生み出すことではない。 知の人、頭の良さ、というのは実際には役になどたたない。もっともそうしたイメージとは異なって、自分はさほど論理的に物事を捉えてはいない。 知的な印象、冷たさは仕方ない。だが実際にはもっと感覚的、そして直感的だ。 そうした例というのは、例えばヴェーベルンやクセナキスの場合がそうだが、無い訳ではない。だが、彼らはどうなのか? ノモスを探求しようという態度、それは役に立たないのか?

自分から多分最も遠い音楽、マーラーの様な音楽(私はそういうものを作ることだけは出来ないだろう。 マーラーの最良の部分は私に無い部分なのだ。それが今の私には良く分かる)は、一体何を提示しているのか?その魅力の源泉は何なのか? 私が書くものは、全て、主観的なものだ。その魅力とは、私にとってのそれだ。それを書くためには、どこから前提を記述すれば足りるだろう。

何が幸いするかはわからない。抽象的に考えることが出来るのか、出来ないのか?論理的に考えることができるのか? 大きな見地に立って考えることが出来るのか? だが、どのようにparameterを設定してみても、何かを産み出せるかどうかを計算することはできない。 それは神か、あるいは統計的な事象なのだ。 ただし、どのような媒体によってか、というのは多分、重要なことだ。 なぜなら、やはり技術的な次元は存在して、だから、何かに習熟すること、というのはどうしても必要だからだ。 何かを続けること、ある対象に没頭し、熟知すること、はどうしても必要なのだ。 それよりも必要なのは、過剰な適応から距離をおいて、自分が本当に何をしたいのかを見極めることだ。 探す必要があるなら探すしかない。自分の身の丈に合った対象を見つけるか、身の丈が合うのを待つか。 あせっても仕方ない。すべての時間をそのことに向けられるほど合理的に無駄なくはできていないのだ。 休むことも、時には必要かも知れない。無駄な寄り道よりは何もしない方がいいのかも知れない。 寄り道が無駄かどうかすら、知る術はないのだが、、、

これで終わりなのかどうかは、神のみぞ知る。仮にこの鬱状態が一時的なものであるとしたら、しばらくすればまた何かを始めるだろう。 だが一体、いつから始まったと考えるべきなのか?かつても、いわゆる収縮し、縮小することで自分を維持しようとすることはあった。 但し30より前では、否、つい5年前も、それは「変わる」、つまり別に何かに「なる」ということを目がけていた。 今回のそれは違う―違うかどうかはわからないが―いずれにせよ、「変わる」ために抑圧したものをもう一度評価しなおして、ある意味では中性化してしまった。 勿論、過去の自分に戻ることはできない。過去を振り返る自分は過去の向こう見ずな自分ではそもそも無い。 過去に評価したものが全て復活した訳でもない。けれども「変わること」に疲れたのかもしれないとは思う。

いずれにせよ、これでおしまいなのかどうかは神のみぞ知る。 今はじっとしているしかないのかも知れない。色々なものを、結果を出すことをあまり考えずに蓄積させるタイミングなのかも知れない。 多分、まだ、多少は力が残っている。結局まだ、諦め切れていない。 だが、何をすればよいのか、拡散し、散らばってしまった、どれも中途半端な断片のどれを拾い上げて、どれを捨ててしまっていいのかがわからない。 もう時間が無く、残されたリソースを考えれば、選択は必要だ。だが、自分で選ぶことはできない。選ぼうとして動き回れば、ますます混乱してしまうようだ。 自分にとって必要なもの、欠かせぬものを見極めること、この年齢(「不惑」も近いというのに)になって、何たること! けれども仕方が無い。あちらこちら道草をした報いというべきか。 いずれにせよ、これが続く―最後まで続く―のか、いつか終わりが来るのかはわからないが、しばらくは沈黙するしかない。

*       *       *

志向的対象の有無、感情と気分(Stimmung)。気分は人間と世界の合一(ボルノー)。cf.レヴィナスの享受。 そして気分と雰囲気―後者の非人称性。 感情―気分―雰囲気。アドルノにも「雰囲気」というのは出現していたことに注意。

詩もまたある認識の様態を伝達する。フランシス・ジャム、パウル・ツェラン、そしてヘルダーリン。 とりわけジャムの詩の風景や感受の様式は、多分、かつての自分を強く捉えたものだった。 けれどもヘルダーリンの詩同様、ジャムの詩の世界もまた、随分と遠ざかってしまったようだ。 ある種の純粋さ、それを保つのは難しい。しかもその輝きは私の存在とは関係がない。 そして私はと言えば、信仰も持てず、神の衣を織る事あたわず、友もなく、沈黙するのみ。 信仰なき沈黙とは何か?それは日常だ。だが、それも仕方あるまい。

フランシス・ジャム的な光景、風景への懐疑?光の調子、それは現実なのか? 否、現実とは、享受の様態により決まる。ジャムの輝きはヴェーベルンの後期作品等と同じものかも知れない。 或る種のdetachement。 それは幻影ではないかという思いと、それを否定しきれない気持ち。 一つには信仰の問題がある。現実の認識の変容。けれどもそれは自分の態度が変わったからだ。それは確実にいえる。どのようなスタンスをとるかによって、立ち現れる現実の様相はある程度変わる。

ではかつての態度の方が良かったというのか? ―恐らく、ある意味では。お前の「強さ」は、今や喪われてしまったかも知れない。 だが、かつての態度は「非現実的」―或る種の超然的な独我論ではないか? ―そうだ。それを批判するのは必ずしも誤りではない。だが、それにも価値はある。 今でも何かに没入したらお前はそうなるだろう。要は選択の問題なのだ。 かつても断念はあった。否、断念と妥協の繰り返しではなかったか。

かつての私には「他者」がいなかったのだ。強い観念的な世界の中で他者を見ていた。 実践的な働きかけの対象ではなかった。私は私の独我論の世界に居た。 祖母も、祖母の死後後を追うようにして息を引きとった犬も―それは大いに悔やむべきことだ。

音楽のなかった時代、光景のみが残っている。記憶のうちに。 これらは現実にはもう存在しない。街は変わり、風景は変わる。 私の見たもの、あの確かであった筈の現実は、今や私の脳の中に、不完全な記憶としてしか残っていない。

本を読み、音楽を聴く。 それは構わない。だが脳に蓄えられた写像は死んでしまえば喪われてしまう。 喪われることを拒むのであれば、更に変換を行うことで別の媒体に残すことだ。 いくら読む本を選び、聴く音楽を選んでも、死がその秩序を散逸させる。 形を与えることだ。それが残るかどうか、存続するかどうかは神様に委ねれば良い。 翻訳であっても良いかもしれない。或いは紹介記事であっても。いずれにせよ、己の外に出すこと、表現すること。

外への働きかけ、他者への働きかけ。行為の次元。「~のために」というレヴィナス的には倫理的な次元。 レヴィナスの他者論を読んでいたときには、そうした事に心から納得しなかったことは皮肉だ。 しばしば論理的な一貫性というのは、何かを見えなくしてしまう。 とりわけ、哲学的な問題は、良く定義されている訳ではないから、論理的に一貫していると見えることが、単なる短絡に過ぎない、ということが良く起こるのだろう。

(2002執筆, 2007加筆, 2008.5.27初稿公開, 2025.9.3 編集の上、再公開)

身辺雑記 I.

I.

... , wo der Obstbaum blühend darüber steht
  Und Duft an wilden Hecken weilet,
   Wo die verborgenen Veilchen sprossen;

Gewässer aber rieseln herab, und sanft
 Ist hörbar dort ein Rauschen den ganzen Tag;
  Die Orte aber in der Gegend
   Ruhen und schweigen den Nachmittag durch.

aus : Friedrich Hölderlin, Wenn aus dem Himmel

「・・・果物の樹は花咲きながらその上をおおい
 甘いかおりが野生のまがきのほとりに漂う、
  ひそやかな菫の花が咲き出でる、

 だが、水はしずかに流れくだり
  ひねもすおだやかにせせらぎが聞こえる、
   しかし、あたりの村々は
    安らかに憩い、午後の時を黙し続ける。」

(ヘルダリン「天から」野村一郎訳)

だが、例えばヘルダーリンの詩集を手にして、「それでもこうして、200年前の人間の遺したものを私は手にしている。」 と思うとき、寧ろ感じるのは、「私は跡形も無く消えていくしかないのだろうな。」という思いだ。 自分にはそれだけの価値がないから、跡を残すべきではない、という感覚に近い。 これはかなり絶望的な認識だ。何も成し遂げていない。理由とか経緯は一番最初に消えてなくなる。結果が全て。 そしてその結果は、いかなる観点からも(勿論「残す価値」という基準に照らしてだが)無に等しい。

中間点というのは数学的な意味での点ではない。それ自体がエポックなのだ。そもそも、中間点を過ぎたのか、まだその中にいるのかすら定かでない。

小鳥たちの死について。 永遠性に関する感じ方が変わったように思える。小鳥たちは聖書に書かれているように、何も遺さなかった。 けれども、彼らの存在は無ではない。もし残るべき何かがあるとすれば、それは私の生の行路の足跡などではなく、 小鳥たちが存在したことではないか、という思いに抗うことはできない。 その一方で、小鳥たちが何も遺さずに逝ってしまったことが、「私は跡形も無く消えていくしかないのだろうな。」 という感覚を抱くようになった契機になっているのだろう。

*       *       *

自分の世界が拡がることは、価値の相対化を生み出す。 今やレヴィナスを、ホワイトヘッドを尊重する人間も、ヘルダーリンを尊重する人間も、カラマーゾフの兄弟を尊重する人間も、周囲にはいない。 自分が「永遠性」に値すると考えているものも、所詮は相対的なものに過ぎない。 それは事実として認めるに吝かではないが、しかし、では生の価値は、何に見出せば良いのか。それとも、随分と希薄になったとはいえ、まだ執拗に残っている厄介な観念的な性向の残滓として、こうした問い自体を消去するようにすべきなのか。

哲学は不毛だと感じられる。 私が哲学を断念したとき、それが所詮は有限な人間の営みに過ぎない、という理由を持ち出したのだったが、その理由は全く誤っていないと感じられる。 モードとしての哲学、生活する手段としての哲学を私は見てきた。 私のかつての研究分野の脇で、モードとしての哲学が(正当にも)断罪されるのを見たし、ゴーレムXIVの哲学者への軽蔑もまた、正当であると感じられる。 人工知能への通路が、人間の営みの有限性に最も強く拘束された不毛な方法論を持つ現象学であったことは皮肉だ。 それにしても、この点については、私は哲学を断念するという行為を延々続けていくようにも感じられる。

時間がない、限られている。 にも関わらず何という関心の拡散。飽き易い、というのは何かを成し遂げる為には致命的な欠陥だ。 変な言い方だが、オブセッションに頼るほかない。それが病的なものであるかどうかなど分析しても始まらない。 とにかく自分のオブセッションに従うしかない。自分の中の他者の声。ジェインズの二院制の心。 それは(日常的な性質なものであっても)窮地に陥った時に聞こえているあの「声」と同じものなのだろうか? 超自我やエスといった精神分析的概念もジェインズの二院制の心と同じものを探っているのだろうか? 内なる「神」との対話、内なる「神」からの語りかけも、自分(要するに私=意識)を背後から動かす力もまだ健在なようだ。 オブセッションもまた。

多分器用過ぎて、かつ飽きっぽくて同じことを愚直に続けることができないのだ。 適応過剰でそれなりに状況にあわせてこなしていけるけど、その結果は純粋な消耗で、何かかたちあるものは残せない。 そのくせ自己批判ばかりは一人前で、気分が弱っているときには過去の自分のしたことに自信が持てなくなり、破棄してしまう。 あとで破棄したことを後悔するということの繰り返し。 そうやって時間を浪費していって、結局何も残さずに終わるのだろうか?

死を、有限性を怖れているのではなく、寧ろ、己の生が充実して意味のあるものでないことに対する絶望。 何も成し遂げずに無になることへの絶望だ。 その一方で、意味あるものでなければ、無に帰してもよい、寧ろ無に帰するべきだという考え。 神の衣は永遠性を獲得すべきだが、それを織れないなら、痕跡も何もなく、無に帰したほうが良い。 有限性の意識とは、無意識に無頓着にやっていても、何事か成し遂げうるだろう、という楽観の否定だ。 実際には、自分はそんなに大層な能力はなく、せいぜい、何をするか良く考えて、寄り道を避けなければ何も成し遂げられないだろう。 あるいは、それでも足りないかもしれないのだ、ということに突然気がつくことだ。

そこで、かつてはあんなに拘ったハエッケイタス、ジャンケレヴィッチの事実性は、ほとんど何の慰めにもならない。 かつて拾い読みしかしなかったときにはそれなりに価値をおいていたものが、ようやく通読できたときには慰めにならないというのは皮肉なことだが。 単なる事実性では、(傲慢なことにも)不足なのだ。 単なる事実性が永遠なのは寧ろ困る。 無価値なものまで、それが存在したという事実性が存続するから。無価値なら、事実性は不要。 価値があれば事実性では不足なのではないか。 そう、「実存もせず、実質もないものの永遠を拒否する」側に私はいるのだ。 「どのような生涯を生きてきたかとは無関係」な価値など、私に言わせれば価値ではない。 事実性を重視するのはレトリックでなければ、哲学者のおめでたさがなせるわざではないのか。

*       *       *

自分の能力を測ることの困難さについて。 生活の糧を得るための仕事は自分にとってなんであるか? それ以外のものに、それに勝る価値が見出せないのであれば、結局文句を言うべきではないのか。 このような仕事に、最終的な価値など認めることはできない。ある人は、それを己の成果として誇りもするだろうが、私は最終的な署名は拒絶するだろう。 それが自分の成果であるのは、糧を得るためのCVの裡でしかない。 それが自分なら、それしか自分の遺物がないのなら、私は何も遺さずに、忘れ去られてしまってよい。そんなものに意味はない。 少なくとも、この数年で、この世界がどんなに不完全で、理想というのがどんなに視点依存のもので相対的なものであるか、よくわかった。 そして別に私の周りだけがそうなのではない。 いつもいつも、世界とはこういうものなのだ。 マーラーですらそうだった。 彼の成し遂げたことの価値の大きさたるや、全く明らかなことであるように思われるにも関わらず。 彼がウィーン宮廷歌劇場監督を辞任するときに残したメッセージがどのような目にあったか。

人間の不完全さに対する苛立ち。 大人の世界は、かつて子供の自分にそうと半ば信じ込まされていたようには完全ではなかった。 寧ろ絶望的なほどに不完全なのだ。 人間たちが集まって何かをする、たとえば企業というのはなんと不可思議な組織か。 この数年で見たことは、この絶望に、そして絶望しながらも逃れ得ない現実として受け入れざるを得ないという諦念に繋がっている。 (子供の頃の、集団に対する反応。学級委員の思い出。 だが、別に大人の世界が、子供の世界以上に立派であることは、ついになかった。 レベルは変わらない。かつても今も、結局同じではないか。)

しかし、自分の能力もまた、大したものではなさそうだ、という予感。 もうここまで来てしまった。何も成し遂げずに来てしまったということへの焦燥。 きちんとした訓練すらしてこなかったが故に、これから何をしようとしても、成し遂げるのはもはや絶望的ではないのか? わからない。我儘になるべきなのか?

かつては私は人間を基本的に信頼しようとしていた。人間の世界は基本的に「良い」ものであると思おうとしていた。 その思い込みがどんなに観念的なものであったとしても。 でも実際には、人間はどうやらそんなに立派な存在ではないようだ。 ここ数年で、いやというほどそれを思い知らされた。 ある価値の尺度からしたら、私が未だに抱えている価値観など笑止の沙汰であろう。 「誰が私をここに連れてきたのだ」というマーラーの言葉は、比較するのも馬鹿馬鹿しいほど卑小な私のものでもある。 私がまだ捨てきれずにいる価値観は、今や場違いなものなのだろう。 物差し自体が限りなくあって、己の物差しの優位性を暢気に信じることはできない。 物差し自体が、或る種のミームとして生存競争を繰り広げていると考えるべきなのだ。 要するに、自分が正しいと思ったもの、自分にとってかけがえのないものは、 他者にとってはそうではなく、そしてそれに腹を立てるのは筋違いで不当なことですらあるのだ。 (ところで、レヴィナスの言う他者は、まさにそうしたものであるはずではなかったのか。)

まあ、簡単に言って、誰しも自分に一分でも理があると思っていなければ、到底生き抜くことはできないだろう。 だからといって、自分の物差しの優位を声高に主張することに何の意味があるだろうか? 混乱した論旨もそっちのけで、他人の論を曲解して批判し、それを踏み台にして自分の論の独創性を叫ぶことに、何の意味があるだろう。 でも多分そちらの方が正しい。 ミームの競争であれば、「声が大きい者が勝つ」のだ。 彼らは勿論、自分の物差しが正しいと思っている。 相対性を感じ、自分の物差しの正当性を懐疑したりはしない。 そんなことをするのは、彼等の物差しからすれば、間違いなのだ。 おまけにこうしたことは別に特別に例外的な光景でもなんでもない。 実にありふれた日常的な風景なのだ。

価値は多様であり、誰からも批判されない人間はいない。 マーラーでさえ。ヴェーベルンでさえ。 あるいは、ある価値にのっとってではなく、批判のための批判だってありうる。だから、他人の評価を気にするべきではない。マルクス・アウレリウス?ストア派か?

苦い認識の記述。 愚行の記録。 漠然とした運命への、だけでなく、「人間」に対する。 他者は暴力を与えるものかも知れない。 それを前提しない倫理は「ほとんど」無力だ。 そこにいる弱者を救うことは出来ない。 どこかにある高貴さは、そこにはないかも知れない。 けれども「私のモラル」は残る。愚かさを愚かさと呼び、不完全であるという認識は、ある価値に基づく。 つまり、進化論と唯物論に包囲されても尚、何か、それに抗するものを持ち続けたいのだ。 それ自体がナンセンスに思えようとも、人間の認識の限界を超えられなくても。

才能がある人間なら、唐の詩人のようにそれを嘆く詩を詠み、あるいはショスタコーヴィチのように引き出しの中の作品で憂さ晴らしをすることができただろう。 才能のある人間は、それを嘆く「権利」があるのだ。 ヴェーベルンの嘆きと憤りは、その才能によって正当化される。 マーラーがあちらこちらの歌劇場で成し遂げたことは、彼の能力と、成果によって、十二分に正当化される。 でも、それがない人間は? 自分に対する自信のなさ、自分のした事の価値に対する懐疑というのは、結局才能の欠如の表れではないだろうか? 相対主義は何かを為そうとするにあたっては危険だ。 自分のやることの価値を始めから切り下げてしまい、成し遂げることへの執着を喪わせてしまう。 何かをするには、愚かである必要がある。少なくとも価値についてその場のみであっても<括弧入れ>判断停止が起こる 必要がある。自己批判からは何も生じない。自己への傲慢までの自信が必要なのだ。

何故分業が嫌いなのか? それが進化論的に「正しい」から。 「個」の「私」の地位が危ういから。

けれども、嫌であっても、それは正しく、有効であって、天才ならぬ個に抵抗の術はない。 アドルノの主観―客観図式にはもう関心があまりない。「自然」の優位、圧倒的な優位からくるニヒリズムが問題なのだ。

あまりの自己過信、選択の誤り? 否、選択は誤っていない。もし誤りがあれば、もっと前、自分が世界と拮抗しうるとの思い込みと、 諦念との間の振幅のうちにあった。いずれにしても途はなく、もっと愚直であるべきだった。 どちらにしても、傲慢であったのだ。 頭で決め付けたことには変わりはない。 気付いてみれば、神の衣を織る術はない。 自分が「何によって」「いかにして」神の衣を織れるのかわからない。

*       *       *

祝福と呪い、ではない。どちらも無意味であることこそ、耐え難いことなのだ。 寧ろ一貫性の方が稀である。不器用、奇人とみられたかも知れない一貫性によって、生き延びたのかも知れない。 大抵の営みには一貫性などない。

我が王国はこの世のものならず。 自分の中にあるものを破壊すべきではない。 折り合いをつけるという点では、自分の中にあるものも、例外ではない。

奇妙なあり方、呼びかける相手はある。それは自分を超えた何者か。 自分の内に在り、けれども、それを単なる幻影とは呼んでしまえない外性。 心理学的-生物学的には単なる投射ということなのか? けれども、それに還元できない何かがまだ残っている。

思いのほか変わらない、という見方もある。 かつてだってそうだった、、、孤立、外から来る知らせ、、、

自分の内側に何もない、遺すべきものはない、と感じられれば為すべきことはない。 もし、何かを表出する、刻みつける衝動を感じたら、それに素直に従うことだ、その価値を云々しても仕方ない。

そして、やすやすと成し遂げることができる人たちへの羨望。 自分の状況への苛立ち。仮に自分に能力がなく、我儘が単なる我儘であったとしたら、そのときは? 一体、何のために生きるのか?神の衣は?私には手が届かないのか?

自分の作品が匿名であることを望むことができる高貴さ、強靭さへの驚き。 何ということだろう。 確かに、自分にも、無に帰するという認識はある。 それは己の痕跡を消し去りたいという欲求と結びつく。 だが、それは何も遺さないということで、遺したものが無名のものになって欲しいというのとは同じでない。 何という寛容さだろう。 私は、そうであれば痕跡を、「私」のそれを残したいか、さもなくば無でありたいと願っているのに。 この件に関しては、私は寧ろ、苛立ちを感じる人間の心情の方がよくわかる。そこにある種の謙虚さのポーズを、 (無意識のものかも知れないが)欺瞞を感じ取ることだってできる。

我を離れた態度というべきか。 神の衣を織ることとは、そういうことかも知れない。 神の衣を織れぬ者は、ただ消え去るしかないのか?

ジッドの狭き門。多分読み方は異なっている。 そして、アリサの心持ちに多分に曲解に近い共感を覚える。 「私は年老いたのだ。」というアリサのことばの重み(これはその場を取り繕ったことばではない、と今では思える)があまりに直裁に胸をつく。 書棚を整理し、キリストにならいてを読む、という心情にも、ずっと身近なものを感じる。 書棚を、CDを、楽譜を処分して、一旦自分の周りに気づき上げた世界を崩して、その価値を自明のものとは見做さない姿勢をとること。 アリサがパスカルの偉大さに対して感じる苛立ちが、今の私には我がことのように思えてならない。 マーラーの音楽の偉大さは、今や私を苛立たせるのだ。

こうして他が何も残らない、廃墟のような状態だとよくわかる。 「神ならぬ者は、、、」

多分、神の衣を探しても見つかりはしない。 それは事後的にしかわからないのだ。 手に出来るかどうかは、わからない。 どこにあるかもわからない。 それはわかっているのだが、、、

*       *       *

私は結局立ち尽くしてしまう。 何も生み出すことができない自分に愕然として。 あの「知性」とやらは、対して役に立たなかったようだ。 神の衣を織るためには用いられず、取るに足らない営みに浪費されていく。 そこで多少うまくいっても、誰かの金ぴかの自己像の補強に役立つのが関の山のようだ。 またしても「私の生涯は紙くず同然だった。それは盗まれていた」というマーラーの抗議が身近に響く。 勿論彼のようにそれを言う権利は私にはないのだが。

一体、生きていることに何の意味があるのか? 彼らのとの価値観の競争など、私はしたくない。 邪魔をしてくれなければそれでいい。 目障りだから、どこか他所で自分の好きなようにやってくれれば最も良い。 でも、私自身には一体何の価値がある? 私の価値観には一体どういう意義があるのだ? 何かを生み出すことの無い人間が読んだ本、聴いた音楽は、どんなに立派な反応をその個体の内部でしていたと言い張ろうと、 その個体が消滅すれば、何の痕跡も無く消えてしまう。本をそろえ、CDを集めることになど意味は無い。 何が残せるかがすべてなのだ。 復讐のためにも、何かを残すことが必要だ。

だが今や己の歌の円熟に如何程の意味があるのか? 「歌」の領分はいよいよ狭まり、そして「歌」の価値を最早自らが信じられないでいる。 遺された本、楽譜が一体何を意味するか? それはとても不完全な仕方で、とても間接的に、ある人間の生を、その主観の眺めた星座を描き出す。 そこにはほとんど事実性以上の意味などありはしない。 そして事実性はジャンケレヴィッチがそう思ったほどには価値のあるものではない。 もしそうであれば、それはボルヘスの「記憶の人フネス」の認識したような世界の裡でであろう。 だが、そのようなことは現実にはない。 自分で抽象すること、自分で語ることが必要なのだろう。その抽象が個性なのだ。事実性は個性を救えない。事実性はすべてを平等に救うかに見えて、 まさにそれゆえに、何も救い出さない。ジャンケレヴィッチは間違っている。そして、自分のやっていることだって、事実性にすべてを委ねることからは程遠い。 あの際限の無いおしゃべり。物事を整理し、論理を通すことを蔑むペダントリー。折角の思惟を台無しにしてしまう。 それでいて、モラルについて諄々と説くわけだ、、、

まだ、諦められない。 そうして私は、神に問いかける。 問いかけることをやめることは少なくともまだできそうにない。 私は神に祈らずにいられない。 私を導き、何かを生み出す力を、あなたの衣を織ることに寄与することをお許しください。 私の生を不滅性に寄与することのできる、意義あるものにしてください。

私はまだ諦めることができないのだ。 歳をとり体力も気力も衰え、ますます時間の余裕はなくなり、不毛な時間の経過が早くなっていて、 絶望的になったりすることはあっても、完全に諦めることはできない。

(2002執筆, 2008.5.27初稿公開, 2025.9.3 編集の上、再公開)


身辺雑記 序

Nel mezzo del cammin di nostra vita
Mi ritrovai per una selva oscura,
Ché la diritta via era smarrita.

人生の半ば、私は暗い森のただなかにいた。
 有徳の正道は、もはや見失われて。(ダンテ「神曲」)

まさにそのような感覚を持つ。多分それは普遍的な感覚なのだ。生きる力と衰えの均衡点に居ることの齎す停滞感なのではないか。

人生の半ばを過ぎたことは確かだ。書き留めておくべきであったかも知れないが、今から1,2年程前のある時期に、はっきりとそのような感覚を持った。 そして、自分には何も残すものはなさそうであること、未だ神の衣を織ることあたわず、夢のまま終わるのかもしれないという漠とした感覚。 実際には、そうあっさりと思い切れるものでもない。だってまだ半分残っているのだから。 けれども、それが「どこ」にあるのか、わからなくなっている。

それと前後して、ある種の整理をする欲求。けれども、それは既になにものかを成し遂げた人間の、あの転回ではない。 そうではなくて、寧ろ、これまでの自分の跡を消し去りたいという欲求に近い。 かつてそうした欲求をある友人が語ったとき、自分はそれとは正反対のこと、永遠性を希求していた。 (事実は逆でそういう私の希求に対する異論として、友人はそう語ったのだ。) それは私の前半生のオブセッションであったと言ってよい。 整理をする欲求の一部は、自分が出会った価値あるものをきちんと確認しておきたいというそれに違いない。 大量に本とCDを処分したのも半分はそのためだ。 ことにCDは結果的に、多分この数十年で初めて一旦100枚を切るか切らないかまで減らしてしまった。 勿論、かつてはこの上なく重要であったのに、処分されてしまったものも多くある。 棚卸をして再吟味の末、否定したものも多い。

けれども自分はそれらに及ぶべくも無い、自分には何も無い。 或る日、それに近いことを突然感じた。

けれどもその時には寧ろ、そうした価値ある営みも含めて、結局永遠性というのは観念のうちにしかない、という感覚に支配されていたのだった。 私が哲学を断念したとき、それが所詮は有限な人間の営みに過ぎない、という理由を持ち出したのだったが、 その時には寧ろ過剰な自信に支えられていた筈のその理由は、今もそのまま、ただし別のニュアンスで有効であり続けている。 「どんなに立派であっても」「ましてや私は」なのだ。それは寧ろ人間の営み「一般」に対する絶望に由来していた。 知性という点では、そもそも人間を絶対視するという事に対する懐疑がある。 これはAIを齧った人間にとっては当然だ。 例えばレムのゴーレムXIVの展望は違和感の無いものだ。 人間はあまりに不完全なのだ。(そしてこれはクセナキスの展望とも一致する。だがマーラーもまた、ゲーテを通じて、もしかしたらゲーテ=ニーチェの 奇妙な混交を通じて、そこからの脱出を希求するという仕方で認識してはいなかったか?ファウストはある仕方で超人ではないのか?)

(2002執筆, 2008.5.27初稿公開, 2025.9.3 編集の上、再公開)

2025年8月22日金曜日

MIDIファイルを入力とした分析の準備(2):クラムハンスルの「調的階層」を用いた調性推定と和音のラべリング(2025.8.22更新)

0.はじめに

 これまでのマーラー作品のありうべきデータ分析についての検討を踏まえ、MIDIファイルを入力とした分析の第一歩として、クラムハンスルの調的階層に基づく調性推定を行い、以前「MIDIファイルを入力とした分析の準備作業:和音の分類とパターンの可視化」(https://gustav-mahler-yojibee.blogspot.com/2019/11/midi2020128.htmlにて報告した和音のラべリングの結果と対比できるようにしましたので、その結果を公開します。以下では調的推定について背景およびここで採用したデータ分析の概要、および結果の見方についての説明を行います。和音のラべリングについては、上記の記事をご覧いただけますようお願いします。
 なお、この文章の末尾にも記載していますが、公開するデータは、あくまでも実験的な試みを公開するものであり結果の正しさは保証しません。実際に、検証を進めるにつれて、入力として利用させて頂いたMIDIファイルに起因する間違いがファイルによってはかなり存在することがわかっています。また、他のデータを公開した時にも述べた通り、分析プログラムの仕様の制限で、MIDIファイルによっては期待される結果が得られない場合があることも判明しています。(調性推定と和音のラべリングを比較すると、その手法上の特性から、調性推定の方がデータの誤りに対して相対的にはロバストではないかと想定されます。従って特に和音のラべリングは、手法自体は単純なものでありながら、楽譜の通りの結果になっていない場合が多いことを申し上げざるを得ない状況です。)
 公開する結果が学術的な観点からは極めて信頼性の低いものと言わざるを得ないことは大変残念ですが、フリーで公開されているMIDIファイルを利用している以上、しかも、マーラーの作品が大規模で時間的にも長大で複雑であることを考慮すれば、已むを得ない部分が大きいと考えます。これも以前、マーラー作品のMIDI化状況を紹介する際に記載した通り(https://gustav-mahler-yojibee.blogspot.com/2016/01/midi.html)、学術的な目的で信頼できるデータが必要とされる場合には、まず信頼のおけるデータを作成するところから始めなくてはならないと思われます。同一作品の異なるMIDIファイルのデータがどれくらい異なっているかを確認する目的で、現時点で私の保有している、Web経由で無償で入手できたマーラー作品の全MIDIファイル(231ファイル)の解析を実施済で、その結果が手元にはありますが、公開はしないことにしました。検証可能性・再現可能性という観点からは、本来は使用したMIDIファイルそのものを添付して公開することが望ましいのでしょうが、再配布についての規定が明らかでないこと、Webで無償で入手したものばかりであることから、入手元を示すことでその替りとさせて頂くことにしました。
 今のところ、そのための時間が取れないという現実的な理由からMIDIデータ自体の作成は考えていません。そのかわりにプログラム上の工夫によってカバーできる点は、プログラムの改良によって改善していきたいと考えていますが、自ずと限界もあろうかと思います。私がこのようなことをやっている間には、マーラー作品の信頼できるデジタル・ライブラリーが利用できるようなことにはならないかも知れませんが、いつの日かそういう日が来ることを願いつつ、今の時点では以上の点をご留意の上、ご覧いただけますようお願い致します。
 [2020.3.7付記] 実験結果の再現・検証を行えるようにするという目的から、分析の入力とするためにMIDIファイルを解析して、そのデータの一部を抽出してテキストファイルに出力したものを「MIDIファイルの分析:MIDIファイル解析結果(2020.2.29)」(https://gustav-mahler-yojibee.blogspot.com/p/midimidi2020229.html)で公開することにしました。MIDIファイルに含まれるデータのうち、どの部分を分析に用いているかも明らかとなり、実験結果の再現・検証という目的からは十分であると考えます。公開しているファイルの詳細は、上記のページをご覧ください。


1.背景

 マーラーの作品の特徴の一つとして、調的設計のユニークさが挙げられると思います。一つには平均律と機能和声のシステムが確立したバロック時代や古典期に遡る「調性格論(Tonartencharakteristik)」的な視点であり、各調性に固有の性格があるとするものです。平均律化とは一見矛盾するように見えますが、典型的な平均律楽器であり、奏法上の合理性で調性が選択される傾向すらあるピアノは措くとして、マーラーが作品の媒体とした管弦楽で用いられる楽器は、弦楽器にせよ管楽器にせよ、その楽器の特性から、平均律ベースの転調に対応するように改良されてきたとはいえ、基本的には基準となる音の低次の倍音で音が出やすく、高次倍音は正しいピッチをとること自体困難になるといった特性から、調性によって響きが異なるのが現実ですから、マーラーが同時代の作曲家と比べても全音階的であると言われる側面と相俟って、調性格論が成立する基盤を欠いているわけではないと思われます。もう一つは、古典期の規範上は「逸脱」と位置付けられる(例えばシェンカーの分析は、拡張は可能でしょうが、基本的には開始と終了の調が同一であることを前提としていることを思い出してもいいでしょう)作品の開始の調性と異なった調性で作品が終わるという、いわゆる「発展的調性(progressive tonality)」的な視点です。こちらはマーラーのいわゆる「進歩的」な側面に繋がると思われます。勿論、両者は組み合わさって、アドルノによって「小説」にも喩えられた音楽的時間構造を実現しているわけですが、ここでは特に後者の側面、即ち、作品の時間的経過を通じて調性がどのように移ろっていくかにフォーカスを当てて、マーラー特有の時間性を分析するための準備をしたいと考えています。

 これまでもマーラーの個別の作品の調的プロセスの分析は行われてきましたし、特に「発展的調性」についてはDika Newlinの指摘以来、マーラーを語る際には欠かせないトピックとして議論されてきました。そしてそれらの多くは機能和声に基づく楽曲分析についての知識を備え、豊富な聴経験を持つ「規範的な聴き手」である「音楽学者」が楽譜を読み解いて、作品を特徴づける重要な要素を見抜き、抽象化する方法によって行われてきました。但し「発展的調性」に関する議論は、えてして非常にマクロな楽式レベルでの把握に基づく解説に留まりがちであり、それがミクロな調的遍歴とどう関わるのかについての実質的な分析は十分とは言えず、更には一般には機能和声の古典的な規範からの「逸脱」と看做される「発展的調性」が実際にはどのような動力学に基づくものなのかについて明らかであるとは言えないように思います。そしてこうした問題にアプローチをし、マーラーの作品の固有の力学を発見するためには、データに基づいた分析が適切なのではないかと思われます。

  ここでは上記の課題にアプローチする第一歩として、MIDIファイルを入力とし、プログラムによってマーラーの作品の調的な遷移の過程を抽出し、分析の材料を提供することを試みました。

 そもそも調性とは何か、調性を推定するというのはどういうことなのか、何を手掛かり調性の推定を行うことができるのかについては、それ自体様々な議論があり、音楽学・音楽についての認知心理学・音楽情報処理 といった分野での研究の蓄積があります。

 ここで採用したのは、クラムハンスルによる「調的階層」を用いた調性推定のアルゴリズムです。詳細は、Carol L. Krumhansl, Cognitive Foundations of Musical Pitch.  Oxford: Oxford University Press. 1990 の特に第2章 Quantifying tonal hierarchies and key distance および第4章 A key-finding algorithm based on tonal hierarchies をご覧頂くのが適当ですが、簡単に言えば、長調・短調それぞれについて12音の各音との相関を実験的に求めておき(これがクラムハンスルの「調的階層」と呼ばれるものです)、それをベースにして、個別の作品の或る区間に鳴っている音の分布と、24の調性を特徴づける分布との相関を求めるというやり方です。

 上に簡単に要約した動機やアプローチ手法の検討(クラムハンスルの調的階層を用いることが何を意味するか)などの背景の詳細については、以下をご覧頂くこととして、ここでは改めて議論は行わず、抽出結果を提供することにします。
・「マーラー作品のありうべきデータ分析についての予想:発展的調性を力学系として扱うことに向けて」(https://gustav-mahler-yojibee.blogspot.com/2019/11/blog-post_10.html
・「マーラー作品のありうべきデータ分析について:補遺」(https://gustav-mahler-yojibee.blogspot.com/2019/12/blog-post.html
・「マーラー作品のありうべきデータ分析について:補遺への追記」(https://gustav-mahler-yojibee.blogspot.com/2019/12/blog-post_12.html

2.データ分析の概要

まず、ここでのデータ分析のやり方を説明します。

 対象となるMIDIデータは、これまで五度圏上の重心計算や和声の抽出や可視化を行ってきたマーラーの全交響曲と一部の歌曲(64ファイル)で、対象となる作品およびMIDIデータについての詳細は、重心計算の結果の紹介(https://gustav-mahler-yojibee.blogspot.com/p/httpsbox.html)に準じます。
 公開しているExcelファイルにはMidiFileNameというシートを含めて、解析対象のMIDIデータと作品との対応、および各ファイルの入手元がわかるようにしました。

 具体的な処理の手順は以下の通りです。

(1)マーラーの作品のMIDIファイルから、基本となる拍毎に、その拍の区間(拍の開始時刻から次の拍の開始時刻の間)で鳴っている音(ピッチクラス)およびその長さ(単位はMIDIデータで設定された基本単位)を取り出します。ピッチクラスなので音高が異なっても同じ音と看做し、同じ音が複数のパートで鳴っている場合には、音の重複は無視して、その中での最大の長さをそのピッチクラスの長さとします。その区間で鳴っている音の分布が、要素数12のベクトルで表現されることになります。

(2)(1)で求めたベクトルに対して、今度は小節毎に以下の処理を行います。
小節の頭拍では その拍のみのデータで、「調的階層」に基づく推定を行います。次の拍では、前の拍のデータとの和をとって「調的階層」に基づく推定を行います。小節の最後の拍では、その小節の区間内で鳴っている音の分布に基づいた推定が行われることになります。どの区間を対象に相関をとるのかは、調的変遷のプロセスを取り出す際の基本的な条件設定ですが、もともとは重心計算や和音の抽出同様、小節毎に行うことを考えていました。ただし重心や和音の抽出は、各小節の頭拍という断面において鳴っている音を対象としているのに対し、ここでは区間内の音の長さに基づく分布をとる点が異なります。(勿論、長さではない別の量で分布をみることも可能ですが、ここではクラムハンスルの手法に従います。また小節毎ではなく、より長い区間について分布をとることも考えられますが、ここでは一旦、他のデータに合わせて1小節を1区間としました。)従って、小節毎に計算しても良かったのですが、小節の途中での変化のプロセスを見れた方が、データとしては情報が豊富になるので、上記のようなやり方でデータを取りました。

 結果は以下にExcelのBook形式で公開しています。zip圧縮してあり、解凍するとxlsx形式のExcelファイルが3つ出てきます。experimental_E_corel.xlsx, experimental_B_corel.xlsx, experimental.xlsです。特にexperimental_E_corel.xlsxはファイルサイズが35Mbyte程度あり、3ファイル合計で56Mbyte程度と大きめですのでご注意下さい。experimental_E_corel.xlsxが拍毎の調性推定結果を全て収めたもの、experimental_B_corel.xlsxが小節毎の調性推定結果のみを収めたもの,で、調性推定結果のみに限定すれば、後者は前者のサブセットであり、小節の途中でそれまでに出てきた音を累積しつつ、調性推定をしていく過程を省いて、各小節末時点でその小節に出て来た音の持続を累計した結果に基づく調性推定結果のみを収めたものになります。また、experimental.xlsはexperimental_B_corel.xlsxの結果に基づき、楽譜の小節との対応づけや、幾つかの文献に見られる楽章構成の情報を対比できるように追加したものです。

https://drive.google.com/file/d/18Bwr6tnFYOA3aHA3BBuNT-nNJGokXkE0/view?usp=sharing

 ところで小節毎の解析は、MIDIデータで入力された小節の区切りの情報の正確さに依存します。そしてしばしば小節の区切りの情報は正しく入れられているとは限りません。これはMIDIファイルをこのようなデータ分析の目的ではなく、「再生し」、「聴く」ことを目的とした作成する場合には、小節の区切りを楽譜に忠実に入力することが必ずしも必要でないことを思えば仕方のないことです。特にマーラーの作品の場合には、楽章の途中で拍子が変わるだけではなく、変拍子もあれば第2交響曲フィナーレのフルート・ソロや『大地の歌』の「告別」におけるそれのように、レシタティーヴォ的な箇所で小節線が自由に扱われることもありますので、そうしたことがない作品に比べると問題が発生しやすいことは予想できますし、現実に問題が発生していることを確認しています。
 
 なお拍毎のデータもまた、マーラーのように楽章の途中で拍子が切り替わり、拍の基本単位が変わる(四分音符、八分音符、更にはアラ・ブレーヴェでの二分音符)ことを考えれば、楽譜の通りの拍毎にMIDIデータが作成されることを期待すべきではないことがわかります。従って、個別のMIDIファイルにおいて、楽譜の特定の部分がどのように処理されているか、楽譜通りなのかそうではないのかは、個別にMIDIファイルの中を覗いて確認する他ありません。更には、MIDIファイルには、シーケンサーを使って手入力するやり方ではなく、MIDIキーボードでの演奏を元にしたものも存在しますが、後者の場合には、拍の位置と実際に音が鳴っている時点が一致するとは限りません。というより一般にはずれているもので、その程度のずれは人間の知覚上は問題にならないですし、それが極端なものであればテンポ・ルバートのような微妙なニュアンスとして捉えられるようなものでしょうが、機械で処理する上では致命的で、特に拍頭で鳴っている和音を抽出するようなタイプの処理の場合に、拍節の時間的な揺れを考慮した工夫が必要となります。これに簡単なプログラミングで対応するのには限界があり、本質的には寧ろAIに相応しい問題であるという見方もできるかと思います。
 以上長々とデータの信頼性(の欠如)についての釈明のようなことを書き連ねましたが、それはひとえに、公開しているデータの信頼性の制限について、正確な情報を提供することを目的としています。ご利用にあたっては予め上記のような制限にご留意頂けるよう、重ねてお願いします。

 以下、上記のファイルの収められた結果の見方を記しますが、結果を3Dグラフ表示したものを参考までに示します。重心の時と同様、RinearnGraph3Dを使用して描画しています。

最初が「私はやわらかな香りをかいだ」です。X方向が小節数、Y方向が調性で、0~11が長調(Gesからサブドミナント方向にDesまで)、13~24が短調。Z方向が相関です。色は相関の度合いを示し、青が高い正の相関を示し、黄色は負の相関を示します。概ね青い尾根をX方向に辿ると、調性の遷移の軌道の推定結果を表していることになります。

次は第8交響曲の第1部です。見方は上の例に準じます。小節数が多いためX方向はかなり圧縮されてしまっています。

 Y方向は本来は両端のGes-Desをくっつけて五度圏に対応する円周とし、X方向に伸びる円筒として表示するのがより自然でしょうが、俯瞰性という点では円を切り開いて直線として並べた上記のやり方にも一定のメリットがあると思います。

 他方、長調と短調を別々に併置するのは、同主調や並行調の近親関係を表現できていない点で問題ですが(こちらの方向ならば例えば、Krumhansl & Kessler (1982)で示された多次元尺度構成法によって求めた構造上に軌道をプロットすることなどが思いつきますが)、次元の数の制約もあり、ここでは推定された調性の軌道だけではなく、各調との相関を求めることで得られる地形を視覚化することに重きを置きました。例えば青色が濃い、高い尾根が続いているところは相関が高く、調性が明確な部分であるのに対し、濃い色がなく、薄い色の低い丘となっている箇所は調性が曖昧になっていると言えるでしょうし、時として丘が複数ある場合には、2つの調性の間で揺れ動いているような部分であるというように、調的プロセスが、単なる軌跡としてではなく、明瞭さや分裂・収斂といった様相といったものに対応した地形として表現されている点で、目的に適っていると考えています。


3.結果の見方

 結果を収めたファイルの見方について以下で説明します。結果はシート毎に分かれており、1シート1ファイル、交響曲の場合は1楽章、歌曲なら1曲が1シートです。シートのラベルは重心計算結果と同じで、入力となったMIDIファイルのファイル名本体部分です。

experimental_B_corel.xlsxのシートの一部を示すと、以下のようになっています。以下は「やわらかな香りをかいだ」です。experimental_E_corel.xlsxでは一部が異なりますが、基本的なフォーマットは概ね同じです。

縦方向が各曲の時間方向になります。1行が1拍です。1拍の定義は、入力されたMIDIファイルでの定義に従いますが、楽譜に忠実な入力の場合には、拍子記号の基本拍(4分の4拍子なら4分音符)です。マーラーの場合には変拍子や途中で拍子が変わることがごく普通ですが、ここで用いているサンプルは拍子の変更には忠実な入力となっています。ただし、基本拍に関してはその限りでなく、(おそらくは入力のしやすさなどの理由から)3拍子の小節を6分割する、或いはその逆といった場合もありますが、ここでは上述の通り、基本的には小節単位に相関を見るのが目的なので、大きな支障とはなりません。
 なお1行目は空行、2行目はヘッダなので3行目がMIDIファイルにおける曲の最初の拍ですが、ご注意頂きたいのは、3行目=楽譜上の最初の拍ではないことです。これはMIDIファイルの特性上、冒頭の空き部分に様々なパラメータ設定の情報を収めるコンベンションとなっているためで、ファイルの冒頭数拍は無音の区間になっていることが一般的です(勿論例外もありますが)。
 また小節の区切りは利用したMIDIデータのものに依拠しますので、概ね小節の区切りが楽譜通りとなっており、小節数がほぼ等しいデータを用いていますが、 完全に楽譜通りかどうかは保証の限りではありません。ここでの分析の意味合いから考えると、小節の頭拍というのは、区間の区切りに過ぎません。勿論区切り方によっては区間内で調的変化が起きていしまって変化が明瞭に表れない可能性はありますが、小節の途中での計算結果である程度のことは把握できるのと、マーラーのみならず、必ずしも頭拍が和声的な変化の切れ目と一致しない場合もあるので、あくまでも目安に過ぎないと考えるべきかと思います。それを踏まえれば、概ね楽譜の小節の区切りに従った計算ができていれば、所期の目的は概ね達成できると考えていいように思います。

以下、列方向の意味を記載します。

A~L列:長調の各調性との相関。変ト長調~変二長調まで、 五度圏をサブドミナント方向に読んだときの音名の並び順になっています。文字色と背景色の意味は以下の通りです。
  • 背景色がピンク色(ColorIndex = 38)で文字色が赤の箇所:相関が最大でかつ相関が0.5以上の調
  • 背景色がサンゴ色(ColorIndex = 40)の箇所:相関が最大以外で0.5以上の調
  • 背景色なしで文字色が赤の箇所:相関が0.5未満だが最大の調
 つまり文字色が赤の列を行方向に辿れば、最も相関が高いと推定された調性の時系列変化を辿ることができます。A~L列に文字色が赤の列がない場合には、最も相関の高い調は短調側(N列~Y列)に移動しています。なお、ここでは相関を取っているので、音の出現頻度が全て同じ値の場合は標準偏差が0となり、計算対象外となります。(ゲネラルパウゼ=音が全くなっていない場合は別にすると、12音で同じ頻度ということは該当区間では調性感が無いことになりますが、実際にはこの実験の範囲内では第2交響曲の第1楽章で複数回発生しただけでした。)なお、上の説明の通り、experimental_E_corel.xlsxでは小節内の頭拍以外は小節末尾まで 、それまでに小節内で鳴った音の長さの累計値での相関となっています。1拍目は1拍目のみ、2拍目は1拍目と2拍目の累計…といった具合です。各拍毎の音の出現頻度の値のみによる相関ではありませんのでご注意下さい。またexperimental_B_corel.xlsxは小節内で生起した音の持続の累計に基づく調的推定の結果を記録したもので、定義により、experimental_E_corel.xlsxでの小節内の最後の拍の結果に一致します。experimental.xlsはexperimental_B_corel.xlsxと同一です。ただし楽譜の小節との対応付けをしていることから、曲の末尾の最後の小節より後の情報は取り除いてあります。

M列: experimental_E_corel.xlsxでは小節頭は小節数を表し、それ以外は0を埋めてあります。既述の通り、MIDIデータの最初には無音区間が含まれることが一般的なため、0オリジンで付番していますが、楽譜上の小節数とは必ずしも一致しませんのでご注意ください。experimental_B_corel.xlsxでは相関を出力した拍の位置を表します。即ち、その拍までのMIDIデータについての相関を出力したことを意味します。上記の「私はやわらかな香りをかいだ」の例では、1行目は8ですが、これはその行が先頭から8拍目までのデータに基づく相関であることを表します。2行目は14ですので、その行が9拍目から14拍目までのデータに基づく相関であることを表します。experimental.xlsはexperimental_B_corel.xlsxと同一です。

N列~Y列:短調の各調性との相関。A~L列の長調における説明に準じます。文字色と背景色の意味は以下の通りです。
  • 背景色が山吹色(ColorIndex =  44)で文字色が赤の箇所:相関が最大でかつ相関が0.5以上の調
  • 背景色が薄黄色(ColorIndex = 36)の箇所:相関が最大以外で0.5以上の調
  • 背景色なしで文字色が赤の箇所:相関が0.5未満だが最大の調
つまり文字色が赤の列を行方向に辿れば、最も相関が高いと推定された調性の時系列変化を辿ることができます。N列~Y列に文字色が赤の列がない場合には、最も相関の高い調は長調側(A列~L列)に移動しています。

Z列:experimental_E_corel.xlsxの場合は拍の通し番号を、experimental_B_corel.xlsxの場合は小節番号を表します。ただし、いずれもMIDIファイル内における1オリジンの付番であり、MIDIファイルの最初にダミーの拍・小節がある場合、楽譜上のそれらとは一致しません。

AA列からAD列までは、調性推定の結果ではなく、調性推定の結果との比較の目的で、「MIDIファイルを入力とした分析の準備作業:和音の分類とパターンの可視化」(https://gustav-mahler-yojibee.blogspot.com/2019/11/midi.html)にて報告した、区間の先頭、即ち experimental_E_corel.xlsx の場合は各拍の頭、 experimental_B_corel.xlsx の場合は各小節の頭で鳴っている音についての情報を出力したものです。調性推定に用いた情報が拍ないし小節内で鳴っている全ての音の持続時間であるのに対し、こちらは拍ないし小節の頭で鳴っている単音ないし和音をラベルづけしたものであり、対象データが異なる点にご留意ください。experimental.xlsはexperimental_B_corel.xlsxと同一です。

AA列:区間先頭で鳴っている和音をビット列で表現したものを10進数化したものです。
AB列:区間先頭で鳴っている音のうちMIDIノートで最も小さい値=最も低い音の音名。
AC列:区間先頭で鳴っている音のうちMIDIノートで最も大きい値=最も高い音の音名。

AA列ではDesが最下位ビット、Fis=Gesが最上位ビットとしてビット列を定義しているので、数字と音名との対応は以下のようになります。鳴っている音が1、鳴っていない音が0です。例えば、Cを根音としてC-E-Gが区間先頭で鳴っているとすると、AA列は32(C)+512(E)+64(G)=608、AB列はc(=32)、AC列はg(=64)が表示されることになります。

Des  1
Aes 2
Es 4
B 8
F 16
C 32
G 64
D 128
A 256
E 512
H 1024
Fis 2048

AD列:AA列とAB列を用いて、その区間の先頭で鳴っている和音のうち、典型的なもののみ判定した結果を示しています。なお単音、2音の場合には、鳴っている音の音名を併せて表示しています。定義に基づき、1音の場合にはAB列・AC列・AD列は同じになります。一方2音の場合には必ずしもAB列・AC列とAD列は同じにはなりません(バスとソプラノでオクターブ異なる音が鳴っていて、内声でそれとは異なる音が鳴っている場合には、AB列・AC列の音名は同一ですが、AD列では、AB列・AC列の音名と内声の音名の2音が鳴っていると表示されます)。

背景色は以下を表します。

灰色  休符
ピンク 長三和音
山吹色 短三和音
なし  上記以外の単音・音程・和音

長三和音、単三和音については、AO列の最低音の音名から、各和音の基本形か第1転回形(6の和音)か第3転回形(4-6の和音)かを以下の文字色で表現しています。

黒=基本形
緑=第1転回形
赤=第2転回形

文字はその音名を主音とする長三和音、短三和音に相当する音の組み合わせがその小節の頭拍で選ばれていることを表す形式的なものであり、和声の機能を分析した結果得られた主音を意味している訳ではありません。つまり例えば、機能和声ではハ長調のドミナントと分析される和音について、ここではト長調の主三和音と表示されることになります。なお、長調は大文字、短調は小文字としています。

背景色が無い箇所の文字の意味は以下の通りです。以下は各行毎にラベルと意味のペアを表しています。

音名 単音
5:音名-音名 五度
2:音名-音名 長二度
-3:音名-音名 短三度
3:音名-音名 長三度
-2:音名-音名 短二度
aug4:音名-音名 増四度
dom7 属七和音
dom9 属九和音
add6 付加六
aug6it イタリアの増六
dim3 減三和音
aug3 増三和音
Maj7 長七和音
tristan トリスタン和音
aug6fr フランスの増六
dim7 減三和音+減七度
dm7 減三和音+短七度
aug+7 増三和音+長七度
min+7 短三和音+長七度

以下の情報は、experimental.xlsのみに固有の情報です。AG,AH列は現時点では予約しているだけで未使用ですが、今後、利便性を高めるために情報を追加していく予定です(この作業はデータ処理の結果とは独立で、ユーティリティ的なものであるため、予告なく更新することがあります)。また、AI列~AL列は交響曲のみの情報です。比較的網羅的なものは既に掲出済なので、今後は個別の曲毎の追加になると想定していますが、更に列を増やして他の分析結果を追加することも予定しています。

AF列:楽譜の小節番号
AG列(予約:未使用):楽譜の練習番号(リハーサルマーク)
AH列(予約:未使用):発想表示等の補助情報
AI列:Graeme Alexsander Downes, "An Axial System of Tonality Applied to Progressive Tonality in the Works of Gustav Mahler and Nineteenth-Century Antecedents", 1994 所収の分析表に基づく区切り
AJ列:Henri Louis de La Grange, Mahler I~III, Fayard 所収の分析表に基づく区切り
AK列:長木誠司『グスタフ・マーラー全作品解説事典』立風書房, 1994 所収の分析表に基づく区切り
AL列:現時点では音楽之友社版ポケットスコアの序文にある分析表に基づく区切り(第1交響曲と第4交響曲のみ)

[ご利用にあたっての注意] 公開するデータは自由に利用頂いて構いません。あくまでも実験的な試みを公開するものであり、作成者は結果の正しさは保証しません。このデータを用いることによって発生する如何なるトラブルに対しても、作成者は責任を負いません。入力として利用させて頂いたMIDIファイルに起因する間違い、分析プログラムの不具合に起因する間違いなど、各種の間違いが含まれる可能性があることをご了承の上、ご利用ください。(2019.12.15公開)

[2019.12.25]小節毎の調性推定結果のみを収めたexperimental_B_corel.xlsxを追加公開しました。
[2019.12.27]結果の3Dグラフ表示例を追加しました。
[2019.12.28]ファイルの画像を追加しました。
[2020.1.2]experimental_B_corel.xlsxのN列以降の相関の出力において、データによっては最初の行にゴミが出力されてしまうこと場合があるというプログラムの不具合を修正し、公開ファイルを差し替えるとともに、画像ファイルを差し替えました。またexperimental_B_corel.xlsxのZ列の説明が不正確であったため、訂正しました。
[2020.1.4]N~Y列およびAA列~AL列の色付けの定義を変更したバージョンに差し替えました。
[2020.1.6]experimental_B_corel.xlsxで、音の鳴っている最終区間の推定結果が出力されない場合がある不具合を修正しました。また併せて、区間内が無音(曲頭の余白か、曲中ではいわゆるゲネラルパウゼの箇所)の出力をスキップせずに、0を出力するようにして、基本的には小節単位の結果となるように仕様変更しました。更に、その一部を「MIDIファイルを入力とした分析の準備作業:和音の分類とパターンの可視化」で報告した、和音遷移を示す列を追加しました。
[2020.1.12]和音遷移を示す列でラべリングされる和声の種類を増やし、単音、2音の箇所については鳴っている音がわかるようにしました。また、従来表示していたバスの音に加えソプラノの音も表示するよう変更しました。更にexperimental_B_corel.xlsxで小節番号を表示するようにしました。
[2020.1.13]A~L列に表示していた相関計算の元となる音の出現頻度(長さ)および小節頭かどうかを表すM列を削除し、計算結果のみの表示としました。
[2020.1.16]experimental_B_corel.xlsxを元に、楽譜の小節との対応付けを行ったファイルを追加しました。
[2020.1.17]冒頭にデータの信頼性についての制限について追記。
[2020.1.18]現在保有している全ファイルの解析結果を公開。各ファイルに解析対象のMIDIファイル名と作品との対応、および各ファイルの入手元を記載したシートを追加。
[2020.1.28]全ファイルの解析結果の公開を中止。公開データを改訂版に差し替え。
[2020.2.1]冒頭の注記を改訂。
[2025.8.22]改題