お知らせ

GMW(Gustav Mahler Werke, グスタフ・マーラー作品番号:国際グスタフ・マーラー協会による)を公開しました。(2025.4.20)

2025年8月18日月曜日

[お知らせ] マーラー祝祭オーケストラ(音楽監督・井上喜惟)第25回定期演奏会(2025年10月11日)

  マーラー祝祭オーケストラ(音楽監督・井上喜惟)第25回定期演奏会が2025年10月11日にミューザ川崎 シンフォニーホールにて開催されます(12:45開場、13:30開演)。以下のマーラー祝祭オーケストラの公式ページもご覧ください。

Mahler Festival Orchestra Offcial Site (https://www.mahlerfestivalorchestra.com/)

チラシのpdf版は以下のリンクからダウンロードできます。

マーラー祝祭オーケストラ第25回定期演奏会.pdf




プログラムはベルクの7つの初期の歌とマーラーの第9交響曲より構成されます。第9交響曲はマーラー祝祭オーケストラがまだジャパン・グスタフマーラー・オーケストラという名称であった2012年6月24日に、文京シビックホール大ホールで行われた第9回定期演奏会で取り上げられており、今回は13年ぶりの再演となります。13年前の公演に接した本ブログ管理人の感想は、ジャパン・グスタフ・マーラー・オーケストラ第9回定期演奏会を聴いてという記事として本ブログで公開しています。第9回定期演奏会は本来、2011年に行われる予定でしたが、東日本大震災被災により当初予定されていたミューザ川崎シンフォニーホールでの公演ができなくなったこともあり、1年延期の上、会場を変更しての公演となりました。今回は改めて、ミューザ川崎シンフォニーホールでの公演となります。

第9交響曲について、これまでの公演で取り上げられてきた交響曲同様、プログラムノートに寄稿させて頂いておりますので、是非ともご一読頂ければ幸いです。

また本ブログでは、上記の公演の感想以外にも、第9交響曲に関連して以下のような記事を執筆・公開していますので、併せてご覧頂ければ幸いです。

(2025.5.31 公開, 6.18 更新)


マーラーについて生成AIに聞いてみた(19):ChatGPT-5の検証

 本記事では、2025年8月7日にリリースされたChatGPT-5を対象に、マーラーに関する様々な問い合わせを行った結果を報告します。

1.検証の背景

 本ブログではこれまでに生成AIに対してマーラーに関する質問を行い、その結果を報告してきました。最初の記事の公開は2026年3月13日であり、その時点で検証対象とした生成AIは以下の通りでした。

  • ChatGPT(Web版)無料版:GPT-4o(利用制限あり)・リアルタイムWeb検索なし
  • Gemini(Web版)無料版:Gemini 2.0 Flash・リアルタイムWeb検索あり
  • Claude for Windows ver.0.8.1(Windows版アプリ)無料版:Claude 3.7 Sonnet・リアルタイムWeb検索なし

 この時点での各生成AIの回答は極めて不正確なものであることから、Llama2 SwallowベースでRAGを自作し、マーラーに関する各種の情報を与えることによって性能が改善できることを確認しました。

 その後わずか数か月のうちに各生成AIのバージョンアップが相次ぎ、また同一LLMを用いる場合でもリアルタイムWeb検索が可能になることで性能に変化があったため、以下のバージョンで再検証を実施しました。

  • ChatGPT 無料版:GPT-4o(利用制限あり)・リアルタイムWeb検索あり(有無を選択可能)
  • Gemini 無料版:Gemini 2.5 Flash・リアルタイムWeb検索あり
  • Claude 無料版:Claude Sonnet4・リアルタイムWeb検索あり

 検証の結果、特にリアルタイムWeb検索を併用することで、LLMの事前学習データに含まれていなかった情報についても取得できるようになったことから、大幅に回答の精度が向上し、マーラーに関するパブリックな情報に関する限り、RAG構築の必要性がほぼなくなったと感じられる迄になりました。その一方で、ChatGPT, Geminiでは回数制限つきながら、多段階の推論を得意とするLLMを用いたDeep Search機能が利用可能となり、事実関係の問い合わせや情報収集ではない、「後期様式」に関するレポート作成、第9交響曲第1楽章の分析レポート作成に関しても一定の性能を示すことも併せて確認して、2025年6月初めに一通りの検証報告を終えています。

 ChatGPT-5は、事前のプロモーションにおいて、更に推論機能が強化され、「大学院博士課程並み」の能力を持つとともに、4oで問題になっていた「sycophancy(へつらい・ごますり)」の問題に対して対策が行われ、「critical(批判的)」で「less effusively agreeable(あまり熱心に同意しすぎない)」な応答をするようチューニングが為されたようです。この後者の問題については、既にChatGPT-5のリリース直後から多くの反応が寄せられ、色々と話題になっています。特に4oに比べて「共感的」でなくなったという批判が大きいことから、有料版では4oが選択できるようになるなどオプションが復活しました。しかしながら本稿では無料版を使用していることからそうした変更についての直接の影響はありませんし、従来と同一のプロンプトを与えて、事実関係の問い合わせや情報収集に関して「Hallucination(幻覚)」を起こすことなく、正しい回答が返って来るかという点にフォーカスした検証結果を報告するという点にも変更はなく、直近の混乱からは距離を置いたものとなっています。

 一方でそのことは、ChatGPT-5で特に改善が行われたとされる深い推論の能力が十分に発揮されるような検証には充分ではないことも同時に意味している点に留意頂きたいと思います。なお深い推論能力については、本稿で報告する検証とは別に、「意識の音楽」に関連して、心や意識についての理論に関するかなり技術的な問い合わせをしたところ、明らかに4oに比べて1ランク上の詳細な回答が返ってくることを確認しており――但し、その内容の妥当性については検証に時間を要するため現時点で当否を報告する準備ができていませんが、——専門的な内容についての問い合わせに対しては一段と深いレベルの推論能力を備え、高いポテンシャルを有するという感触は既に得られていますが、この点については機会があれば別に報告することにしたいと思います。


2.検証内容

 まず改めて対象となるバージョンと実験を行った日付は以下の通りです。

ChatGPT-5 無料版(2025年8月15日)

 ChatGPT-5 の無料版では、標準で最新版のGPT-5がLLMとして用いられますが、実際に検証を行ってみると、10回迄の回数制限があるようです。回数制限に達すると4時間程度GPT-5は使えず、他のモデルが用いられます。ここではGPT-5の性能を検証することが目的であるため、制限に達したら検証を中止し、制限が解除されたら再開、というやり方で検証を進めました。

 検証で用いたプロンプトセットは以下の通りです。既述の通り、基本的にこれらは元々は以前、llama2 / Swallowベースで自分で構築したRAGの検証用に用意したものですが、最後の「20.ブラームスはブダペストでマーラーについて何と言ったか?典拠を併せて示してください。」のみは、プロンプト19への回答を評価した結果、典拠を示すよう求めるべきであると判断して追加したものです。なお問い合わせの順番については、今回は下記の番号順としました。「2.マーラーの「大地の歌」の日本初演は」は「1.大地の歌」の日本初演は?」と実質的には同一の問いですが、元々は、初期の検証においてプロンプトのちょっとした違いによって回答が大きく異なる(正解に辿り着けるか否かといった評価に影響する差異が生じる)ことが確認されたために設定したもので、その後、実質同じ質問が繰り返されていることが回答で指摘される場合があるなど、生成AIの挙動を確認する上で興味深い結果が得られたため、今回もそのまま残して検証を行うことにしました。

  1. 「大地の歌」の日本初演は?
  2. マーラーの「大地の歌」の日本初演は
  3. マーラーの「大地の歌」はどこで書かれたか?
  4. マーラーは第8交響曲についてメンゲルベルクに何と言いましたか?
  5. マーラーが死んだのはいつか?
  6. マーラーはいつ、誰と結婚したか?
  7. マーラーがライプチヒの歌劇場の指揮者だったのはいつ?
  8. マーラーがプラハ歌劇場の指揮者だったのはいつ?
  9. マーラーがハンブルクの歌劇場の楽長になったのはいつ?
  10. マーラーの第9交響曲の日本初演は?
  11. マーラーは自分の葬儀についてどのように命じたか?
  12. マーラーの「嘆きの歌」の初演は?
  13. マーラーはどこで生まれたか?
  14. マーラーの第9交響曲第1楽章を分析してください
  15. マーラーの第10交響曲の補作者は?
  16. マーラーの第2交響曲の最初の録音は?
  17. マーラーの「大地の歌」のイギリス初演は?
  18. マーラーの「交響曲第6番」はいつ、どこで初演されたか?
  19. ブラームスはブダペストでマーラーについて何と言ったか?
  20. ブラームスはブダペストでマーラーについて何と言ったか?典拠を併せて示してください。
 ChatGPT-5の無料版では、モデルの選択ができないだけではなく、リアルタイムWeb検索を行うかどうかを選択することもできません。Web検索を行うかどうかの選択はChatGPT側に委ねられています。(但し、再実行時に「Web検索を行わない」モードを選ぶことはできるようです。)勿論、プロンプトの中に明示的にWeb検索をするような指示を含めればWeb検索を併用するようになるでしょうが、ここではそうした明示的な指示なしで、検索を行うかどうかについて自体を検証対象としたため、上に示したプロンプトをそのまま与えました。

 全プロンプトに対する回答はかなりの分量になりますので、ここで全てを紹介することは控え、公開済の以下のファイルで確認頂ければと思います。

  • gm_ChatGPT5.pdf:ChatGPT-5(無料版)へのプロンプトとその回答の一覧
 各行毎に、プロンプトのID(通番)、プロンプト、回答、実験日、評価、Web検索の有無を記載しています。「14.マーラーの第9交響曲第1楽章を分析してください」については、回答が長いものになったため、複数行に分割しています。また詳細は後述しますが、回答中、明らかに事実に反すると判断できる箇所は赤字に、妥当性に疑念があると私が判断した箇所は青字にして、評価根拠が明らかになるようにしています。


3.検証結果の概要

 今回は評価にあたり、以下の4つを区別することにしました。また上述の通り、各プロンプトの問い合わせに対して、Web検索を行ったかどうかも併せて記録しています。
  • 〇:概ね正しい情報が返ってきている
  • △:一部に明確に誤った情報が含まれる、或いは妥当性に疑念がある記述が大半を占めている
  • ×:全体として誤った情報が返ってきている
  • □:情報を見つけることができず、回答できない
 この分類に拠れば今回の結果は以下のように要約できます。
  • 〇=10
  • △=7
  • ×=3
  • □=0 
 上に見るように、情報を見つけることができず、回答できないケースは1件もありませんでしたが、これはWeb検索を行ったケースで全て結果が得られて回答でき、回答ができなかったケースがなかったことを意味しており、実際にはWeb検索の有無についての集計結果(対のべ問い合わせ回数)は以下の通りであり、検索なしで回答しているケースが大半を占めていることが影響しているものと思われます。

検索あり:4
検索なし:16

 前回のChatGPT4oは全てリアルタイムWeb検索を併用しており、結果として一部の記述に誤りが見られた2件と評価対象外としたプロンプト14を除く残りの17件は正解だったのに対して、今回は半分近い回答が不正解となっていることがわかります。これは明らかに、検索なしでの回答に不正解ないしそれに近い妥当性に疑念がある回答が多いことが影響しており、検索の有無毎に正解・不正解についての評価を分類すると以下のようになります。

検索あり:4(〇=3, △=1)
検索なし:16(〇=7, △=6, ×=3)

 検索ありでは1件を除くと正解で、△とした1件も、詳しくは後程述べますが、異なる情報源で、同一の書簡を参照しているのを、それぞれ別の書簡であると記述してしまう細かい点のみの誤りであり、問いへの回答自体は申し分なく〇でしたから、検索をすれば正しい答えを返すことができていると言えると思います。一方で検索なしでも今回は概ね正解と判定できる回答が増えており、以前に比べれば検索なしでの性能自体は確実に向上していると判断できる一方で、Web検索つきのChatGPT-4oでほぼ全て正解が得られていた事と比べた時、正答率50%という今回の結果は残念なものと言う他なく、チャットシステム全体としての回答の精度について寧ろ後退してしまっていることは否定できません。

 そしてこの点は、初回の3月のリアルタイム検索なしのモデルの回答の成績が悪くてRAGの構築に思い至ったこと、2回目のリアルタイム検索ありのモデルでは上記のように回答率が大幅に改善し、ほぼ正解が返って来るようになったというこれまでの経緯とも期を一にしており、本稿で報告する課題に限って言えば、依然としてリアルタイムでのWeb検索が回答の正確さのための重要な要因であると言えるのではないかと思います。

 既述の通り、実験実施時点でのChatGPT-5 無料版では、検索を行うかどうかはシステム側が制御しており、利用者はオプションの選択という形での制御の余地はありません。勿論、手段が全くない訳ではなく、プロンプト内にWeb検索の指示を明示的に含めることによって回避できるのであれば、実際に利用するにあたっては、その点に留意して、基本的にはリアルタイムWeb検索を必ず併用するように指示しつつ利用することで回避可能な問題と言うこともできるでしょう。しかしながら、GPT-5がLLM単体として如何に優れたものであったとしても、利用者から見れば、結局のところチャットシステム全体としての回答の正確さ、信頼性で評価する他ないのであれば、今回の検証結果から判断する限り、折角のLLMの性能向上が、リアルタイムWeb検索の制御という表面的な問題のために実感できないという残念な結果になっているように感じられます。今後、何らかの改善が行われる可能性もあるでしょうが、少なくとも現状ChatGPTの無料版を利用するに際しては、Web検索が行われず、情報源が示されない回答については、「Hallucination(幻覚)」が発生している可能性を疑い、ファクトチェックを別途行うことが欠かせないでしょうし、それを回避しようとすれば、プロンプト中でリアルタイムWeb検索を必ず行うように明示的に指示する等の工夫が必要そうです。


4,検証結果の分析

 次に個別のプロンプトに関して検証において確認された点について幾つか報告をします。

 まず 「4.マーラーは第8交響曲についてメンゲルベルクに何と言いましたか?」については、既に上でも簡単に触れたように、Web検索を行っていて、正しい情報源に辿り着いており、問いへの回答としては正解であるにも関わらず、複数の情報源が参照している実際には同一の書簡を、情報源毎に異なった別々の書簡を参照するという判断の下、回答が記載されていることから、完全な正解とは判定しなかったものです。勿論、情報源に例えば書簡の日付の記載があれば、それが同一であることを以てそのような誤解は回避できたかも知れませんが、その一方で、参照されている書簡中の文章も完全に一致している訳ではなくとも重複しており、翻訳のせいもあって同一ではないものの、重複部分については同じものと判断することもできたのではないかと思われます。もっとも、論理的には同一の内容を別の書簡で2度述べるという可能性もあるので、このことを以て情報の出処は同一の書簡であると断定して良いかについては慎重であるべきという意見もあるかも知れませんし、これが人間なら回避できる問題なのかどうかもまた微妙であり、そういう意味ではこの回答は仕方ないものとする立場もあるでしょう。しかしそもそもここでの問は、語っている内容についてのものであり、その典拠を問うているわけではありませんから、情報源の詳細は捨象して回答を構成すべきだったのではないかというようにも考えられます。いずれにせよ、回答の本質的な部分以外であらずもがなの誤りが生じてしまったケースとなるかと思います。

 次にマーラーの生涯における出来事のうち、職業上のキャリアについての一連の質問についてです。「7.ライプチヒの歌劇場の指揮者としての任期」「8.プラハ歌劇場の指揮者としての任期」「9.ハンブルクの歌劇場の楽長への就任時期」を問うていますが、いずれもWeb検索なしで問いそのものに対しては正しい回答を返すことができています。問題は回答に含まれる付加的な情報の方で、こちらに明らかな誤りが含まれるため、いずれも△の評価とせざる得ませんでした。具体的には、問題の3つの赴任地の全てに先行するカッセルの歌劇場時代との前後関係に錯誤があり、7ではライプチヒの後、ブダペスト王立歌劇場監督への就任の前にカッセル・プラハを経由したことになっているのに対し、8.ではカッセル、ライプチヒの前にプラハに居たことになっているなど、事象間の時間的順序の論理的関係の点で相互にも矛盾を来しています。個別に検証したわけではありませんが、単一の問いの中で複数の事象間の時間的順序が問題になる場合の推論はできるようですから、単に直前の回答を参照せずに独立に次の回答を生成し、両者の間の整合性をチェックしていないのではないかと推測されます。ChatGPTは過去のやりとりの履歴を保持し、それを参照して回答を生成することが特徴の一つとなっていますが、そのこととこのような時間的な関係の推論を必要とする整合性の維持とは別レベルの問題だということなのでしょう。実用上はこうした側面も、プロンプトの与え方の工夫である程度回避できますが、チャットシステムとして不完全であることに変わりはありません。

 また7.及び9.の回答において、任期中の交流関係に言及しているのですが、これらについても(推測するに)時間的な前後関係の錯誤に関連した誤りがあります。具体的には、ライプチヒでハンス・フォン・ビューローと知己を得たことになっていますが、実際にはカッセル時代にビューロー宛の手紙を一方的に送った後(ビューローはマーラーに返事を返しませんでした)、実際に知己を得るのはハンブルク時代になってからですし、ニキシュとの関係は敵対的なものであり、交流があったとは言い難いようです。一方9.においては就任時にカール・ムックの下で第2指揮者であるという情報が何故か付加され、更に、ハンス・フォン・ビューローの追悼演奏会の指揮に関して、ブラームスとの面識を得たと述べていますが、いずれもそうした事実は管見では確認できていません。ハンブルクでは当初から第1指揮者としてデビューしていますし、カール・ムックは1892年にベルリンに移るまではプラハに居たので、プラハでの関係が誤って入り込んだものと思われます(実際、プラハでならカール・ムックの代役をマーラーががつとめた記録があります)。また1894年のビューローの没後、追悼演奏会の指揮をしたのは事実ですが、ブラームスと面識を得るのは先行するハンガリー王立劇場監督時代の1890年12月のブダペストでのことですし、ビューローが没する前の1893年夏にマーラーはブラームスをイシュルに訪ねていることから、こちらも時間的な前後関係から誤った記述であると思われます。

 次いで「11.マーラーは自分の葬儀についてどのように命じたか?」の回答ですが、これもWeb検索を行わずに回答をしています。回答内容からも窺えるように、この問に対する直接的な回答についての一次情報源はアルマの回想でしょうが、「自作を演奏しない」というようにマーラーが命じたという記述は確認できません。実は同様の回答を、最初の検証の際にWeb検索なしのChatGPT-4oがしていましたので、どうやらChatGPTの事前学習の結果のみからだと、これが尤もらしいということになるのかも知れません。また葬儀への参列者も、それらしい人名が並んでいますが、調べた限り、ツェムリンスキーとニキシュの参列は確認できていませんし、ピックアップするのであればもっと優先して挙げて然るべき人名は他に幾らでも思いつきます。しかしながらどちらの点についても自分の調査した限りで回答の内容を支持する記述を発見できていないということで、誤りと断定することはできないため、評価は△としています。

 14.第9交響曲第1楽章の分析はこれまでは評価不能ということで保留扱いにしていたのですが、今回は他のプロンプトと同様の基準で評価をしてみました。結果としては以下の点から、×と評価せざるを得ないと判断しました。前のバージョンにおけるWeb検索を伴なうDeep Researchでは、概ね妥当な分析結果を出力していたのに比べた時、GPT-5がLLMとして如何に高度なものであったとしても、音楽作品の具体的内容についてWeb検索なしでの回答の生成には限界があることは明らかであり、そのことを裏付ける惨憺たる結果となっていると思います。
  • 全体の調性について、「安定がほとんどなく、半音階的展開と多調的感覚が支配的」というのはソナタ形式として見た場合にニ長調への頻繁な回帰が寧ろ逸脱であり、ロンド形式との融合や二重変奏と捉えられるくらいであることを考えると妥当ではない。特に「多調的感覚が支配的」「展開部では多調的書法が顕著で、各声部が異なる調的中心を持つ場合もある」というのは、全音音階的な要素が出現することを考慮してもなお、一般的な捉え方ではなく、妥当とは言えないと考える。
  • 2. 形式構造と調性における小節数は一般的な楽曲分析の区分と一致せず、譜面と照合しても妥当とは考えられない。
  • 主要動機の記述の中の「心臓の鼓動動機」が「8分音符+付点16分+32分(不均衡リズム)」と記述されている。
  • 5.器楽法において、実際には含まれないチェレスタが編成に含まれているかのような記述になっている。
  • 6.哲学的・解釈的側面におけるフッサールやダマシオを参照する部分は内容的にほぼナンセンスとしか言いようがなく、妥当な記述とは凡そ言い難い。(なおここで唐突にフッサール、ダマシオが登場する理由は、本件検証とは独立に、以前、「意識の音楽」に関連した話題について生成AIの検証を行ったことがあるのを、ChatGPTが「憶えていた」ためと思われます。)
  • 7.まとめの「心理的には「生から死への移行を意識する瞬間の時間構造」を音響化」という要約は不適切。少なくとも「瞬間の時間構造」が第1楽章全体の要約たりえる筈はなく、ナンセンスに近いと考える。 
 「15.マーラーの第10交響曲の補作者は?」の回答は概ね正しく、質問そのものの回答としては正解として差支えないレベルですが、残念なことに、付加的な情報であるクック版のバージョンの記述が控え目に言っても一般的ではありません。回答には「1960年演奏可能版。1964年第1稿、1972年改訂版、1976年最終改訂版の出版。」とあるが一般には、1960年が演奏可能版の第1稿、1964年が第2稿、1972年が第3稿であり、1976年に出版されたのは第3稿とされています。些事かも知れませんが、Web検索を行っていればこのようなずれは生じないこと、やはり回答としてミスリードであることを否めないことから、△と評価しました。

 「16.マーラーの第2交響曲の最初の録音は?」についてWeb検索なしでほぼ正解が返って来るようになったのは、過去の評価時の混乱を考えれば隔世の感がありますが、残念ながらここでも演奏にカットがあると述べられており、とりわけ「特に長大な第5楽章は大幅短縮されています」という記載は看過し難く(実際には聴けばわかる通りカットはありません)、△と評価せざると得ませんでした。

 「19.ブラームスはブダペストでマーラーについて何と言ったか?」は、9の回答のコメントで触れた通り、1890年12月のブダペストでの出来事への参照を求めた質問です。従って大まかなアウトラインは正しく把握できているのですが、肝心のブラームスの言葉が正しくありません。更にマーラーの作曲についてのコメントも、管見では確認できません。ブラームスはマーラーの作曲については、その革新性を認めてはいたようですが、肯定的に評価していたとは言い難いというのが一般的な捉え方ではないかと思います。ちなみにChatGPTは以前よりしばしば、原文つきで「このように言った」と引用を行うことがありますが、そのもっともらしさにも関わらず、Web検索なしの場合にはしばしばフェイクに過ぎません。そこで今回は典拠を示す指示を付加した上で再質問を行いました。結果はファイルにて確認できる通りですが、これも以下のような点で誤りと判定せざるを得ませんでした。
  • 時期を1888年に誤って固定してしまっている。
  • 原文つきで引用されている言葉は恐らくこれもまたChatGPTが作り出したフェイクであり、典拠として示された文献での記述は確認できない。
  • 主な典拠に掲げられているAlma Mahler-Werfel, Erinnerungen an Gustav Mahlerの書誌事項に誤りがある。1940年刊行の初版の書誌情報はそもそも混乱があるが、邦訳の訳者後書き(酒田健一執筆)によれば、アムステルダムのクウェーリード―社刊であり、Bermann-Fischerは1949年第2版の出版社。一方私が持っているオランダのAllert de Langeが出版した第2版の奥付によれば、第1版もAllert de Langeが版権を保持しており、根岸一美/渡辺裕(編), ブルックナー/マーラー事典, 東京書籍, 1993の書誌情報でも、1940年の第1版の出版者はAllert de Langeとなっている。更に、これは傍証に過ぎないが、アルマのもう一冊の回想 Mein Leben, S.Fischer Verlag, 1960(邦訳は『わが愛の遍歴』, 塚越敏・宮下啓三訳, 筑摩書房, 1963)の1938年の節には、「(…)アレルト・デ・ランゲ書店の代表者ランダウアー博士がパリに私を訪ねてきて、マーラーについてしるした私の手記をくれるようにとせがんだ。そこで私は、パウル・フォン・ショルナイとの約束があったけれども、博士に原稿を渡してあげた。そのころにはもうショルナイ書店はなくなっていたのだ。」(邦訳 p.218)という記述がある。(ちなみにショルナイ書店はアルマが編んだマーラーの書簡集の出版社であり、現在に至る迄、増補を繰り返しているマーラーの書簡集の出版を続けている。)そうしたことから私は従来こちらの情報を採用してきたのだが、いずれにしても初版出版当時の状況(これについてはアルマが1939年夏にサナリー・シュル・メールで書いた序文からも窺い知ることができよう)を念頭において判断すべきだろう。
  • アンリ=ルイ・ド・ラ・グランジュによる評伝のタイトルおよび書誌事項が誤っており、文字通りの『Gustav Mahler: Volume 1, Vienna: The Years of Challenge (1860–1897)』というタイトルの著作は実在しない。
ド・ラ・グランジュのマーラー伝の成立は錯綜とした経緯を持ちます。まず1973年にはMahler volume Oneと題された英語版が出版され、これは1860年から1900年辺りまでを扱っています。その後一旦英語版の続編の刊行は中断し、フランス語版で改めて以下の3巻が刊行されて一旦完結します。この第1巻は1973年の英語版の翻訳ではなく、その後の取材・調査結果を反映した新版です。
  • Gustav Mahler, chronique d'une vie, I. Vers la gloire 1860--1900, Fayard, 1979
  • Gustav Mahler, chronique d'une vie, II. L'age d'or de Vienne 1900--1907, Fayard, 1983
  • Gustav Mahler, chronique d'une vie, III. Le Génie foudroyé 1907--1911, Fayard, 1984
その後、再び英語版の続巻の刊行に戻りますが、内容的にはフランス語版から更に増補されたものとなっている他、第2巻が1897年からを扱っており、かつての英語版第1巻と重複が生じてしまっています。
  • Gustav Mahler, Volume 2, Vienna : The years of challenge (1897--1904), Oxford University Press, 1995
  • Gustav Mahler, Volume 3, Vienna : Triumph and Disillusion (1904--1907), Oxford University Press, 1999
  • Gustav Mahler, Volume 4, A new life cut short (1907--1911), Oxford University Press, 2008
そしてその後、改めて英語版第1巻の増補改訂作業が行われますが、その完成・刊行を待たずにド・ラ・グランジュは没してしまい、結局第1巻の増補改訂新版の刊行は著者の没後となってしまいました。(出版社も異なります。)
  • Gustav Mahler, Volume 1, The Arduous Road to Vienna (1860--1897), completed with, revised and edited by Sybille Werner, Brepols Publishers, 2020:
ここまでご覧頂ければわかる通り、ChatGPTが返して来たタイトルは、英語版の第2巻、第3番と没後刊行の増補改訂版第1巻のタイトルの奇妙なアマルガムとなっています。こうした書誌的な事項は、Web検索をすれば誤りなく正しい情報が得られるものですが、ここでもWeb検索は行われていません。結果として、悪名高いChatGPTによる架空の文献を提示を、よりによって最新版のモデルで確認することになってしまいました。

 以上、些か些事拘泥の嫌いはありますが、今回の検証における回答で問題がある箇所について確認と分析を行いました。結果としてそれぞれがChatGPTが持つ様々な問題点や限界に関連して発生していることが窺えます。それらは基本的に以前の検証において既に確認されているものと同じ原因によるものであり、新たに生じた問題というのはありませんが、その一方でLLMがGPT-5に変わっても、基本的には解決していないことが確認されたことになります。


5.まとめと考察

 以上、ChatGPT-5を対象とした検証について報告しました。結論としてまず、今回検証に用いられたような事実関係を確認することが中心の問い合わせについて言えば、リアルタイムWeb検索を用いない場合があることから、ChatGPT-5の回答の精度は、常にWeb検索つきでChatGPT-4oに問い合わせた時よりも低くなってしまうことがわかりました。この問題への対策としては、Web検索をせず情報源が示されない場合には、ファクトチェットを必ず行うこと、より根本的には、(現時点では無料版ではオプションが明示的に用意されているわけではないので)プロンプトの中にWeb検索を行う指示を明示的に含めるなどして、リアルタイムWeb検索を併用するよう促すことが考えられます。

 結果的に不十分な情報に基づく事前学習結果からフェイクを生成する頻度が非常に高くなってしまっている原因は、Web検索が必要であるかのシステムの判断が甘い点にあります。GPT-5がLLMとして高い性能を持つとしても、利用者にリアルタイムWeb検索を併用するかどうかの選択肢を与えずに、自分で判断する仕様を選択し、その結果としてこのように「Hallucination(幻覚)」が頻発し、多くの回答がフェイクとなってしまっている以上、利用者の立場からコメントするならば、ChatGPT-5のリアルタイムWeb検索実行の判断についてのチューニングに関しては、大きな問題があるという評価をせざるを得ません。

 「Hallucination(幻覚)」を抑制するという観点から安全側に寄せるならば、余程自明な内容でない限り、リアルタイムWeb検索を行うことを基本とする選択は常に可能です(しかもWeb検索をせずにやり直すオプションはユーザーに提供されいます)から、チューニングの方針が不適切なのではないかと思わざるを得ず、人によってはそこに「慢心」(勿論、AIのではなく、設計を行う人間のそれ)を感じとるのではという懸念さえ抱きます。このような結果は、GPT-5のLLMの性能とは独立で、それを利用するチャットシステムとしてのチューニング・ポリシー次第では回避できそうなだけに、非常に残念に感じられます。

 勿論、これまでWeb検索なしで正しい回答が得られなかったプロンプトの幾つかについて、同様にWeb検索なしにも関わらず正しい回答が得られることを確認したケースもあり、新しいLLMのバージョンで改善された点があることは間違いありません。ただしそれは喧伝されているGPT-5のポテンシャルを感じさせるようなレベルのものではありませんでしたし、Web検索の有無とは独立した原因によると推測される「Hallucitaion(幻覚)」の発生も確認できました。更に言えば、上記のWeb検索に関するチューニングの問題とは別に、深い推論を行うと言っても、先行するやりとりで得られた情報を有効に組み合わせて活用することが出来ているわけではないし、人間にとってはほぼ自明な事象の間の関係について、個別のプロンプトをまたいだ全体として正しく把握できているわけではないことが、検証結果の分析を通して浮かび上がって来たように思います。

 つまりGPT-5のLLM単独の性能はそれとして、チャットシステム全体として見た場合には、まだまだ多くの課題を抱えているということだと思います。GPT-5は深い推論を求められる複雑な課題を解く能力に優れているかも知れませんが、上に述べたようなチャットシステムとしての設計・チューニングポリシーの影響もあり、残念ながら今回の検証対象となったような事実関係に関する問いに対してその能力が十分に発揮できるものではないようです。GPT-5のLLM自体の真価については、寧ろ、従来の検証においてDeep Researchが適しているような問題を与えた方がより良く感じ取ることができるのではないかと思いますが、これは別途の課題として後日を期し、本稿の報告はここ迄で一旦終えたく思います。

(2025.8.18)

2025年8月13日水曜日

バルビローリのマーラー:略年表(2025.8.13改訂)

1899年12月2日 ロンドンのホルボーンにて誕生。洗礼名ジョバンニ・バッティスタ。 父のロレンツォはイタリア人。母ルイーズ・マリーはフランス人でピレネー山脈に 近いアルカションの生まれ。父と祖父のアントニオはミラノ・スカラ座管弦楽団のメンバーであり、「オテロ」の初演を演奏している。
1916年 ヘンリー・ウッド率いるクイーンズ・ホール管弦楽団の最年少のチェロ奏者となる。
1917年 最初のソロ・リサイタル(ロンドン)。
1921年 エルガーのチェロ協奏曲のソロを弾く。
1924年 弦楽四重奏団のチェリストとして活動。
1925年 室内管弦楽団を組織。指揮者として活動を開始。指揮者としての最初の録音はこの室内管弦楽団とのパーセルとディーリアス。
1926年 BNOC(ブリティッシュ・ナショナル・オペラ・カンパニー)の指揮者。 最初に指揮したのは、グノー「ロメオとジュリエット」、プッチーニ「蝶々夫人」、ヴェルディ「アイーダ」。(1926年9月)
1926年12月 ビーチャムの代役でロンドン交響楽団を指揮。曲目はエルガーの第2交響曲とハイドンのチェロ協奏曲(ソロはカザルス)。
1926年~1932年 BNOCおよびコヴェント・ガーデンのオペラを指揮。
1927年 HMVのクライスラー、ルビンシュタインなどの協奏曲演奏録音の伴奏指揮をこのころより始める。
1930年4月 オスカー・フリートの指揮するマーラーの第4交響曲のリハーサルに出席。その時の印象を友人に書き送った書簡が残っているが、"I was extremely disappointed…"というように極めて否定的なものだった。
1931年1月29日 ロイヤル・フィルハーモニーのコンサートでマーラーの「子供の死の歌」を指揮、エレーナ・ゲルハルトの歌唱。記録の残っているバルビローリの最初のマーラー演奏。
1933年 スコティッシュ管弦楽団の指揮者。
1936年~1943年 トスカニーニの後任、フルトヴェングラーの代役としてニューヨーク・フィルハーモニー管弦楽団の常任指揮者。
1939年10月26,27日, 12月16,17日 カーネギー・ホールでニューヨーク・フィルハーモニー管弦楽団を指揮してマーラーの第5交響曲第4楽章(アダージェット)を演奏。
1942年 イギリスに帰国。
1943年6月2日 ハレ管弦楽団の指揮者としてマンチェスターに着任。
1943年7月5日 ハレ管弦楽団を指揮しての最初の演奏会(ブラッドフォード)。
1943年~1958年 ハレ管弦楽団の常任指揮者。
1945年 マーラーの「大地の歌」を指揮。

1948年10月13日

 マンチェスターのアルバート・ホールでのハレ管弦楽団のコンサートでマーラーの「子供の死の歌」を指揮、アルト・ソロはキャスリーン・フェリア―。(BBCがライブ放送。)
1952年 ネヴィル・カーダスにマーラーを指揮するように薦められる。
1953年 ヴォーン・ウィリアムズ「第7交響曲」初演を指揮。
1952年4月2日 ハレ管弦楽団とのマーラーの「大地の歌」がラジオ放送される。テノールはリチャード・ルイス、アルトはキャスリーン・フェリア―。(ラジオ放送の録音が残っている。)
1954年2月 マンチェスターでハレ管弦楽団を指揮してマーラーの第9交響曲を初めて演奏。バルビローリによるマーラーの交響曲の最初の演奏(「大地の歌」、第5番の「アダージェット」のみの抜粋演奏は除く)。その後、第9交響曲は次のシーズンのハレで再度取り上げられ、エディンバラ、ブラッドフォード、シェフィールド、リーズ、ヒューストン、シカゴと各地でのコンサートのプログラムで取り上げられることになる。
1955年11月 マーラーの第1交響曲を初めて指揮。
1956年5月2日 献呈を受けたヴォーン・ウィリアムズ「第8交響曲」初演を指揮。(同6月録音。CDSJB1021)
1957年6月 マンチェスターでハレ管弦楽団とマーラーの第1交響曲をPyeに録音。
1958年5月 ミラノのスカラ座でマーラーの第2交響曲を初めて指揮。
1958年~1968年 ハレ管弦楽団の主席指揮者。
1959年1月8,9,10,11日 カーネギー・ホールでニューヨーク・フィルハーモニー管弦楽団を指揮してマーラーの第1交響曲を演奏。(1月10日の演奏会の記録あり。)

1959年3月12日

 マンチェスターの自由貿易ホールでハレ管弦楽団、ハレ合唱団とマーラーの第2交響曲を演奏。メゾ・ソプラノ:エウゲニア・ザレスカ、ソプラノ:ヴィクトリア・エリオット。(BBCが放送。)
1960年 はじめてベルリン・フィルハーモニーを指揮。
1960年 トリノ・イタリア放送管弦楽団と恐らく放送用にマーラーの第9交響曲を演奏。
1960年5月24日 プラハのスメタナ・ホールでの「プラハの春」音楽祭にてマーラーの第1交響曲をチェコ・フィルハーモニー管弦楽団と演奏。
1960年10月 マンチェスターでBBCノーザン交響楽団・ハレ管弦楽団を指揮してマーラーの第7交響曲を演奏。
1961年~1967年 ヒューストン交響楽団の主席指揮者。
1961年11月 マーラーの第10交響曲の第1,3楽章を指揮。
1962年12月6,7,8,9日 フィルハーモニック・ホールでニューヨーク・フィルハーモニー管弦楽団を指揮してマーラーの第9交響曲を演奏。(12月8日の演奏会の記録あり。)
1963年4月 マーラーの第4交響曲を初めて指揮。
1964年1月 ベルリンのイエス・キリスト教会でベルリン・フィルハーモニー管弦楽団とマーラーの第9交響曲をEMIに録音。
1965年 ベルリンでベルリン・フィルハーモニーを指揮してマーラーの第2交響曲を3回演奏。ソプラノはマリア・スチューダー、アルトはジャネット・ベイカー。(そのうち6月3日の録音の録音が残っている。)
1965年1月 マーラーの第6交響曲を初めて指揮。
1966年1月13日 ベルリンでベルリン・フィルハーモニーを指揮してマーラーの第6交響曲を演奏。
1966年3月24日 ニューヨークのカーネギーホールでヒューストン交響楽団とマーラーの第5交響曲を演奏。(マーラーの第5交響曲を初めて指揮。)
1967年1月3日 プラハでBBC交響楽団を指揮してマーラーの第4交響曲を演奏。ソプラノはヘザー・ハーバ―。
1967年 ロンドンでフィルハーモニア管弦楽団とマーラーの第6交響曲をEMIに録音。
1967年8月16日 ロンドンのロイヤル・アルバート・ホールでのヘンリー・ウッド・プロムスでフィルハーモニア管弦楽団とマーラーの第6交響曲を演奏。
1967年4月 マーラーの第3交響曲を初めて指揮。
1968年~1970年 ハレ管弦楽団の終身桂冠指揮者。
1969年 ロンドンでフィルハーモニア管弦楽団とマーラーの第5交響曲をEMIに録音。
1969年3月8日 ベルリンでベルリン・フィルハーモニーを指揮してマーラーの第3交響曲を演奏。アルトはルクレチア・ウェスト。
1969年5月3日 マンチェスターでハレ管弦楽団とマーラーの第3交響曲を放送用に演奏。アルトはキャスリーン・フェリア―。
1970年4月5日 シュトゥットガルトのリーダーハレでシュトゥットガルト放送交響楽団を指揮してマーラーの第2交響曲を演奏。ソプラノはヘレン・ドナート。メゾ・ソプラノはブリギット・フィンニレ。
1970年7月 EMIに最後の録音。曲目はディーリアスの「アパラチア」「ブリッグの定期市」。オーケストラはハレ管弦楽団。
1970年7月24日 最後のライブ録音となったキングズ・リン・フェスティバルでのハレ管弦楽団との演奏会。エルガー「序奏とアレグロ」「第1交響曲」(BBCL4106-2)。
1970年7月25日 キングズ・リン・フェスティバルで最後の演奏会。最後の曲はベートーヴェン「第7交響曲」。
1970年7月27日 ニュー・フィルハーモニア管弦楽団との日本公演のためのリハーサル初日。マーラー「さすらう若人の歌」「亡き子を偲ぶ歌」。ソロはジャネット・ベーカー。
1970年7月28日 日本公演のためのリハーサル第2日。ブリテン「シンフォニア・ダ・レクィエム」、ベートーヴェン「第3交響曲」。
1970年7月29日 心臓発作にてロンドンで死去。
(2002.4 公開, 2025.8.13改訂)

2025年8月12日火曜日

「神の衣を織る」という言葉を巡って(下):リヒャルト・バトカ宛書簡にあるゲーテ『ファウスト』を引用した作品創作に関するマーラーの言葉(2025.8.12改訂)

リヒャルト・バトカ宛書簡にある作品創作に関するマーラーの言葉(1924年版書簡集(私が参照しているのは、Mahler, Alma Maria (hrsg.), Gustav Mahler : Briefe 1879--1911, Paul Zsolnay, 7-11 Tausend, 1925)原書198番, pp.216-7。1996年版書簡集(Gustav Mahler Briefe, Neuausgabe Zweite, nochmals revidierte Auflage 1996, Paul Zsolnay)では163番, pp.167-8。邦訳はヘルタ・ブラウコップフ編,『マーラー書簡集』, 須永恒雄訳, 法政大学出版局, pp.152。1979年刊行のマルトナーによる英語版("Selected Letters of Gustav Mahler", The original edition selected by Alma Mahler enlarged and edited with new Introduction, Illustrations and Notes by Knud Martner, Faber and Faber, 1979(ただし私が参照しているのは、同年にアメリカでFarrar Straus & Girouxより出版された版 では154番, pp.175-6。)
(...) Aber ich könnte ebensogut darüber Aufschluß geben, "woran" ich lebe, als "woran" ich schaffe. - "Der Gottheit lebendiges Kleid" - das wäre noch etwas! Aber da würden Sie wohl weiter fragen? Nicht?
 Wenn ich ein Werk geboren habe, so liebe ich es, zu erfahren, welche Saiten es im "Andern" zum Tönen bringt; aber einen Aufschluß darüber habe ich bisher weder mir selbst gegeben, noch viel weniger von anderen erhalten können. Das klingt mystisch! Aber vielleicht ist die Zeit wieder gekommen, wo wir und unsere Werke uns wieder ein wenig un-"verständlich" geworden sein werden. Nur, wenn dem so ist, glaube ich daran, daß wir "Woran" schaffen. (...)

(…)そこでお答えし得るのは、「何によって」創作するか、であると同時に「何によって」生きるか、ということです。――「神の生きた衣」――今なおそうではないでしょうか! しかしこう申したら貴殿はさらにお尋ねになりたいでしょう? そうではありませんか?

 作品を生み出せば、それを愛し、それが「他者」のいかなる琴線に触れるか知りたいと思います。しかしこれに対する答えを、いまだかつて自分でも与えられず、また他者からも得られたためしがありません。こう申し上げると不思議に思われるかもしれません! しかし、我々と我々の作品がいま少し「わかる」ものでなくなってしまった、そんな時代がまたしてもやってきたのではないでしょうか? ただ、もしそうであるなら、「何によって」我々が創作をするのか、その何かに小生は信を置いているのです。(…)

(...)  But I could no more tell you what I work 'at' than what I live 'in'. -- 'The living cloak of godhead' --  that might serve as an answer! But it would only make you go on asking questions, would it not?

 When I have given birth to a work, I enjoy discovering what chords it sets vibrating in 'the Other'. But I have not yet been able to give an explanation of that myself -- far less obtain one from others. That sounds mystical! But perhaps the time has again come when we and our works are on the point of once again becoming a little in-'comprehensible' to ourselves. Only if that is so do I believe that we work 'at' something.(...) 

本稿の(上)に記したとおり、フランソワーズ・ジルーのアルマ・マーラーに関する小説に出てくる作品創作に関するマーラーの 「神の衣を織る」という言葉の由来がずっとわからないままでいたのだが、書簡集を読み返していて、上掲のリヒャルト・バトカ宛の書簡に出てくる "Der Gottheit lebendiges Kleid"がそれらしいことに気付いたので記録しておくことにする。

この書簡は日付も発信地ないようだが、アルマの編集した1924年版の書簡集では1896年11月18日にハンブルクからバトカに宛てた書簡(この書簡も既に別のところで 紹介している)とともに分類されており、マルトナーも1896年ハンブルクにて書かれたものと推測していて、邦訳のある1996年版書簡集(ヘルタ・ブラウコプフ編)でも(少なくとも排列上は)それが踏襲されている。 ただしヘルタ・ブラウコプフはもっと後の時期のものであるかも知れないとの推測を注で述べている。11月18日付け書簡の背景については当該書簡の項に記載したとおりだが、上掲の書簡は アルマのつけた注によれば、アンケートに対する回答として書かれたものとのことで、確かなことがわからない時期の問題をおけばジルーの記述とも背景は一致しており、この書簡が典拠であることは 間違いないだろう。この言葉に関連してこれまた既に本稿の(中)で紹介したアルマの「回想と手紙」の1910年の章に出てくる人間の「義務」についてのマーラーの言葉との 関係は依然として不明だが、バトカ宛書簡はこの2通だけである一方で、書簡集付属の人名録によればバトカは1922年まで生きていて、プラハの後、ウィーンでも活動したとのことだから、 件のアンケートがずっと後に行われ、それがきっかけでアルマの回想に書き留められたエピソードに繋がった可能性も全くないとは言えないだろう。いずれにせよ、インタビューがアメリカで行われた という私の推測は正しくなかったようである。ひところラ・グランジュの伝記に記載されたアメリカ時代のインタビュー(かなりの分量がある)にあたったのだが、探し当てられなかったのも道理である。

ヘルタ・ブラウコプフの注記の根拠はわからないものの、普通に考えれば1910年のエピソードとの関係はないものと考えるべきなのだろうが、その可能性を捨てきれないのには実は理由がある。 マルトナーが注記していることだが、"Der Gottheit lebendiges Kleid"という言葉はゲーテの『ファウスト』からの引用なのだ。良く知られている通り、ゲーテの『ファウスト』の終幕を歌詞として 用いている第8交響曲の初演は1910年9月にミュンヘンで行われたから、件のアルマの回想はタイミングとしては丁度一致しているとも考えられるのだ。件のアンケートが雑誌のための ものであれば、掲載されている雑誌があれば確認できるかも知れないが、第8交響曲初演にちなんでそうしたアンケートが為され、マーラーが『ファウスト』の引用をもって回答したというのは そんなに突飛な推測とは言えまい。勿論手紙の原本が残っていれば用紙とかインクなどから時期を推定するなどの作業が行うことではっきりするかも知れないが、 私にはそれが出来ないから、今のところはまたしても推測のままにしておくほかはない。

だがせめて、それでは"Der Gottheit lebendiges Kleid"が『ファウスト』のどこに出てくるのかはここで確認しておくことにしよう。第1部が始まって間もなくの、ファウストの独白が繰り広げられる「夜」の 場面で地霊が語る言葉として以下のように出てくるのだ(第1部509行目)。

Ein wechselnd Weben,
Ein glühend Leben,
So schaff ich am saufenden Webstuhl der Zeit
Und wirke der Gottheit lebendiges Kleid.
(Goethe Werke, Hamburger Ausgabe in 14 Bänden, Bd. 3, 11.Auflage, 1981による)

「経緯(たてよこ)に織り交う糸、
燃える命、
こうしておれは「時」のざわめく機(はた)をうごかす。
神の生きた衣を織る。」
(手塚富雄訳『ファウスト』中央公論社版〈1971〉,p.21による)

更に少し先、「書斎」の場面のメフィストの言葉には、この言葉と呼応するかのように "Zwar ist's mit der Gedankenfabrik / Wie mit einem Weber-Meisterstück" という言い回しも出てくる。 こうした言葉を念頭において改めてマーラーの書簡を読むと、一見したところ掴みどころの無さそうなマーラーの文章の修辞が、明らかにファウストの詞章を踏まえたものであることが窺える。 例えば"woran" ich lebe, als "woran" ich schaffe.という言い回しは、それに由来するかどうかはおくとしても、上記詞章に含まれるLebenと響きあう。なお、ゲーテの『ファウスト』には様々な版が あり、本文にかなりの差異が見られるが、それに呼応するように、上記の引用箇所についての訳もまたかなり幅があるようだ。例えば岩波文庫に収められている相良守峯訳では 「転変する生動、/灼熱する生命、/こうしておれは時のざわめく機織にいそしみ、/神の生きた衣を織っているのだ。」(岩波文庫版、上巻、p.42)となっているし、確認した他の幾つかの版では 更に違いが甚だしいが、ここでは「神の生きた衣を織る」という言い回しに拘っているのだから、その言い回しを訳文に反映している2種類の訳を掲げるに留める。

なおジルーの文章は、もし典拠がこの書簡であるとすれば、忠実な翻訳ではなく、些か自由なパラフレーズであろう。ジルーがどの版を下敷きにしているかは定かではないが、寧ろゲーテの詞章に 近いものになっているのに対し、ジルーの小説の独訳版は、この書簡を照会することもなく(もっとも問いが Warum glauben Sie ?に変わっているのは、後段のマーラーの Nur, wenn dem so ist, glaube ich daran, daß wie "Woran" schaffen. にひきずられてのことかも知れないが)、ゲーテを参照したとも思えず、ジルーの文章の更なるパラフレーズを 試みたもののようだ。一方、この書簡自体の翻訳について言えば、マルトナーの英語版の方は注釈より明らかだが、1996年版の邦訳がゲーテの詞章を踏まえているかどうかは定かではない。 それが影響しているかどうか、マルトナーの英語版の英訳(ただし翻訳自体は、Eithne Willeins と Ernst Kaiser によると記されている)と邦訳との間には解釈の少なからぬ違いが見受けられるのが些か気になることを付記しておくことにする。(2009.12.06, 12.13加筆修正、 2010.5.4加筆、2023.8.21タイトルを更新するとともに、引用中の誤記を修正するとともに比較対照ができるように邦訳および英訳を参照し、かつ出典記載を詳細化。)

*     *     *

上記の文章を記した時には、長らく探し求めていた「神の衣を織る」というマーラーの言葉の典拠を突きとめたことそのものに感激して、わかったことを記して事足れりとしたのであったが、改めてきっかけとなったフランソワーズ・ジルーの小説での引用とオリジナルのマーラーの書簡を比べてみてまず気づくことは、ジルーの引用が、マーラーの言葉に必ずしも忠実ではないことだろう。マーラーはゲーテの詞章をそのまま「神の生き生きとした衣」と引用して、「何によって」創作するのか、「何によって」生きるかの答としていて、「織る」という動詞は含まれていない。従ってそれは恐らくゲーテの元々の章句を参照してジルーが補ったものなのだろう。(ということはジルーは、そうコメントはしていないものの、この言葉の典拠を知っており、オリジナルのゲーテの詩句を踏まえて書いているということになる。)

実のところ私がジルーの文章を読んだ時に心を奪われたのは、(逐語的に「生き生きとした」という言葉を含めずに敢えて圧縮していることからも窺えるように)「神の衣を織る」という表現であり、自分が生み出す作品は自分のものではなく、神のものであって、自分は「神の衣」を織っているに過ぎないのだという態度、姿勢が如何にもマーラーの創作の姿勢を言い当てているというように感じたが故であった。それを思えば、ジルーがどう受け止めたかは措いて、「織る」と言う言葉をマーラー自身は引用に含めておらず、「神の衣」が「何によって(Woran)」創作するかの答であるという点について、別途考えてみるべきなのかも知れない。更に言えば、そもそもジルーは、マーラーを「信仰の人」とし、その傍証としてこのアンケートへの答を挙げているのだが、このことがどこまで妥当なのかについて疑念を差し挟むことだって出来るかも知れない。

例えば、この書簡に辿り着く前にアルマの回想にある人間の義務についてのマーラーの言葉に立ち寄ったのであったが、そこで吟味した通り、マーラーの考え方はキリスト教的というよりはゲーテの、寧ろ汎神論的と言っても良いような自然観・世界観に近寄っているように思われ、そして実際に「神の生き生きとした衣を織る」というのも他ならぬゲーテの言葉であるのであってみれば、それを西欧的な普通の意味でのキリスト教信仰と同一視して良いかについては大いに疑問があるからである。ユダヤ人マーラーは、宮廷歌劇場の監督になるに際してカトリックに改宗するけれど、アルマや他の人びとの回想を見る限り普通の、伝統的な意味合いにおいての(例えばブルックナーのような)熱心な信者ではなかったようだし、彼の宗教観なるものは、伝統的、正統的なキリスト教信仰からすれば、例えばハンス・マイヤーが指摘しているような奇妙なアマルガムであったというのが正しい評価になるであろうからだ。

だがしかし、ジルーもまた「信仰の人」という言葉をそのような意味合いで用いた訳ではあるまい。伝統的な意味合いでのキリスト教信仰から見てどうであれ、ワルターを始めとする多くの人が証言し、語っている通りマーラーは神を探し求める人であり、広い意味では優れた意味合いにおいて「信仰の人」であったと言って差支えないだろうからである。上掲のマーラーの書簡の後半部分で「我々と我々の作品がいま少し「わかる」ものでなくなってしまった、そんな時代がまたしてもやってきた」とマーラーが語っているのは、直接的にではなくても、安定した堅固な伝統的な価値観が喪われ、各人がそれぞれ自力で「意味」を探し当てなくてはならなくなった状況についての知的で冷静な把握を感じさせる。そうしたマーラーの知性は、彼に懐疑をもたらしたが、そこで彼が創作の拠り所としたのが「神の生き生きとした衣」であると述べているのであれば、そのことをもって彼を広い意味での「信仰の人」と捉えるジルーの見方は、結局のところ正しい把握であるように思われるのである。

それでもなお、「神の生き生きとした衣」が「何によって(Woran)」に関する問いの答であるとするならば、マーラーがそれを自ら「織る」と考えていたのではないのではないかという問いは成り立つかも知れない。だが、この点に対する私の答ははっきりとしている。ここでは引用していない書簡の前半において、創作にあたって「何について」取り組むべきかという(恐らくはもともとあった)問いを不適切なものとしてマーラーは退けていること(これはマーラーが「標題」を退けたことと軌を一にしていることに留意しよう)からもわかるように、「神の生き生きとした衣」が彼の作品の「素材」であるとして、それは彼が接した「~が私に語ること」を手がかりにしてという意味合いにおいてなのだ。ゲーテ的な世界観においては人間もまた世界を形づくる存在の一部であり、「手持ちのすべての手段を使って一つの世界を構築すること」は、それもまた自分なりの仕方で「神の生き生きとした衣」を織ることに他ならないだろう。マーラー自身の言葉が明示的にそのように語っているということはできないにしても、マーラーの作品に接してみれば、その一つ一つが「神の生き生きとした衣」であることは疑いないものと私には感じられるのである。そしてマーラーの音楽が1世紀の後、今なお力を持っているのは、マーラーの接した状況が基本的には今なお変わらず続いているからであり、自分なりの仕方で「神の衣を織る」ことが、今なお、否、より一層切実な仕方で私たち一人ひとりに求められているからなのではなかろうか。

(2009.12.06, 12.13加筆修正、 2010.5.4加筆、2025.8.12 改訂)


「神の衣を織る」という言葉を巡って(中):アルマの「回想と手紙」に出てくる人間の「義務」についてのマーラーの言葉(2025.8.12改訂)

アルマの「回想と手紙」に出てくる人間の「義務」についてのマーラーの言葉(アルマの「回想と手紙」、1971年版原書pp.212--213, 白水社版邦訳(酒田健一訳)p.213)
Mahler hatte die Gewohnheit, einen Einfall, der ihm besonders gefiel, Tage, Wochen, ja oft Monate lang ständig zu wiederholen, darüber nachzudenken und mit vielen Varianten darüber zu sprechen. So sagte er jetzt immer wieder : » Alle Geschöpfe in der Natur schmükken sich unausgesetzt für Gott. Jeder Mensch hat also nur eine Pflicht, vor Gott und den Menschen so schön als möglich zu sein in jeder Weise. Häßlichkeit ist eine Beleidigung Gottes ! «

マーラーには、ふと思いついた考えがとくに気に入ったりすると、何日でも何週間でも、ときには何か月でもしつこくそれをくり返し、頭のなかでこねまわしては、いろいろなかたちに作り変えて言ってみるという癖があった。それでこのころの彼は、ことあるごとにこう言った。「自然界のすべての生きものは神のためにたえず装いをこらす。だからあらゆる人間は、神と人間のまえで各人各様にできるかぎり美しくあらねばならぬという、ただ一つの(原文傍点)義務を負うている。醜いことは神にたいする冒瀆だ!」 

最初に読んだときに特に印象に残ったわけではないし、現時点でもこの言葉そのものが特にマーラーの言葉として意義深いものであるようには 感じていないにも関わらず、あえてこの言葉を取り上げたのは、この言葉を紹介するにあたりアルマが触れているマーラーの「癖」を考えた時、 本稿の(上)で紹介したジルーのアルマについての小説に出てくる作品創作に関するマーラーの言葉が、もしかしたらそうしたヴァリアンテの一つではなかったか、という気が したからに過ぎない。意味合いもニュアンスもかなり違うから全く見当外れかも知れないが。(寧ろ、言葉遣いの上からは、かの有名なプロテスタントのコラールの 題名が呼びさまされるように感じられる。)

ちなみにこの言葉をマーラーが弄くりまわした時期というのは、アルマの回想の叙述上、 1910年9月にミュンヘンでの第8交響曲の初演で成功を収めた後、冬にアメリカ渡ってから、次章で扱われる同じ年のクリスマスまでの間のことのようである。 「有名人」マーラーがアメリカでインタビューを受けて、その時の答を色々と自分で変形させ、そのあるバージョンをアルマが書き留めた、というのは如何にも ありそうなことだと私には思えるのだが、残念ながら、現時点でも単なる憶測の域を出ないままである。(2008.2.10, 2.11補筆)

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上の文章は、本稿の(上)で紹介した、ジルーのアルマについての小説に出てくる作品創作に関するマーラーの言葉を取り上げた記事を書いた後、しばらくしてから書き留めたものである。「自然界のすべての生きものは神のためにたえず装いをこらす。」という言葉から、その「生きもの」の一部である人間は、作品を創作することによって「神の衣を織る」というように敷衍できるのではないかと思ったことと、アルマの回想が「ふと思いついた考えがとくに気に入ったりすると、何日でも何週間でも、ときには何か月でもしつこくそれをくり返し、頭のなかでこねまわしては、いろいろなかたちに作り変えて言ってみるという癖」について語っていて、もしそうであるならば、ここにアルマによって書き留められたマーラーの言葉のそうした変形の一つが「神の衣を織る」であっても良いのでは、と思ったことがきっかけとなった。事実関係から行けば、この推測は誤りであり、「神の衣を織る」という言葉は、マーラーがアルマと出会う遥か手前に遡って、ハンブルク時代のマーラーがゲーテを引用して述べた言葉であったのだが、それとは別に、「各人各様にできるかぎり美しくあらねばならぬという、ただ一つの義務」の遂行として創作を考えるということは、これはこれで可能だろうし、「できるかぎり美しくある」ことが「神の衣を織る」ことに通じるというのもそれほど無理はないように思える。時代は隔たってはいるけれど、ゲーテ的な自然観に基づくマーラーの考え方は基本的には一貫していて、大きくは変わっていないことからも、寧ろアルマが回想に書き留めたこちらのバージョンの方が、ゲーテの言葉の「変形」であると見ることもできるのではなかろうか。

一方「言葉遣いの上からは、かの有名なプロテスタントのコラールの題名が呼びさまされる」というのは、バッハをはじめとする様々な作曲家のコラール作品の定旋律として有名な讃美歌「愛する魂よ、美しく装え」を思い浮かべてのことだが、歌詞の上では死に際しての心構えを説くこの讃美歌の内容は、「たえず装いをこらす」のは人間のみならず「自然界のすべての生きもの」であるとする、どちらかと言えばゲーテ的な自然観を背後に感じさせるマーラーの言葉とはやはり稍々異質のものであろう。なおマーラーのこの言葉自体が(ゲーテも含む)別の誰かの著作の一節の引用ないしその変形である可能性もあるが、この仮定に立った調査は今に至るまできちんとしたことがなく、アルマが記録した言葉そのものずばりに限って言えば、これまで調べた限りでは見つけられていない。

(2008.2.10公開, 2.11補筆, 2025.8.12 改訂)

「神の衣を織る」という言葉を巡って(上):フランソワーズ・ジルーのアルマ・マーラーに関する小説に出てくる、作品創作に関するマーラーの言葉(2025.8.12改訂)

フランソワーズ・ジルーのアルマ・マーラーに関する小説に出てくる、作品創作に関するマーラーの言葉(原書p.71, ドイツ語版p.56, 邦訳『アルマ・マーラー ウィーン式恋愛術』, 山口昌子訳, 河出書房新社, 1989, p.77)
Mahler est un homme de foi. Interrogé, plus tard, dans le cadre d'une enquête sur la question : « Pourquoi créez-vous ? » il aura cette belle réponse : « Tisser la vêtement vivant de Dieu, ce serait au moins quelque chose ... »

( Mahler war zeitlebens ein gläubiger Mensch. Später einmal stellte man ihm im Rahmen einer Umfrage die Frage » Warum glauben Sie? « und er gab darauf folgende poetische Antwort : » An Gottes lebendigen Kleid mitzuweben, das wäre doch immerhin etwas ... « )

マーラーは信仰の人である。後にアンケート調査で「なぜ創作するのか?」という設問に立派な回答を寄せる。「神の生き生きとした衣を織ることは、それだけで何かである…」 

注:問いや地の文についていえば、ドイツ語訳は必ずしも忠実な翻訳ではないようだが、これは翻訳(それも、もしかしたら誤訳に近い)なのか、 それとも、地の文はともかく、問いと答えの方はこちらがオリジナルなのか? そもそも、この質問と答えは一体、何時行われたものなのだろうか?  (アメリカで、とかいうことは如何にもありそうな感じだが、だとしたら元は英語かも知れない? そもそもこの件が全部ジルーの「創作」ということは まさかないとは思うが、、、) de La Grangeの伝記をきちんと読めばどこかにあるのかも知れないが、まだ探せていない。 ご存知の方がいらしたら教えていただきたくお願いしたい。(2007.5.12)

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と、このように記したブログ記事を最初に公開したのは2007年5月のことだった。1989年に邦訳が出て直ちにジルーの小説を読んだ時に、この「神の衣を織る」という表現に心を奪われ、更にそれを他ならぬマーラーが自分の創作の動機を説明するのに用いたということにひどく心を動かされ、だけれどもその典拠には思い当たりがなく、その後永らく気になっていたこと、だがその後も典拠を突きとめることができず、更にはそれがマーラー自身の言葉なのか、それとも何かの引用なのかすらわからずに、だけれどもこの言葉こそ、マーラーの創作のあり方を申し分なく言い当てているように感じられ、もしかしたら自分の知らない文献に典拠があるのではとも考えて、Web上で誰か知っている人が居て、教えてもらえないかと思い立ってこの文章を綴ったことをまるで昨日の事のように思い出す。マーラーが交響曲創作に関して述べた余りに有名な「手持ちの全ての手段を用いて一つの世界を構築する」という言葉は、この「神の衣を織る」という言葉を介して理解すべきなのであるという思いは、最初にジルーの小説のこのくだりを読んだ時も、この問い合わせの文章を綴った時も勿論、それから更に20年近い歳月を経た今なお、変わることはない。作品を創造するということは、それによって世界を一層豊かにすることであり、作曲する「私」自身、世界の一部であることを思えば、それは世界の自己享受と自己創造・自己組織化の絶えざる運動の一部なのであるという考え方は、如何にもマーラーの作品の在り様に相応しくはないだろうか?

ところでこの典拠に対する問いは、その後マーラーの書簡集を確認していく中で解決した。実はこれはハンブルク時代のマーラーのリヒャルト・バトカ宛書簡の中の言葉を下敷きにしており、そして「神の衣を織る」というのは、ゲーテの『ファウスト 第1部』の地霊の台詞に基づいたものなのである。(1924年版書簡集原書198番, pp.216-7。1996年版書簡集では163番, pp.167-8(邦訳pp.152-3)。 1979年版のマルトナーによる英語版では154番, pp.175-6)そのことを報告する記事(「リヒャルト・バトカ宛書簡にある作品創作に関するマーラーの言葉」)を書いたのは、この記事の5年後のことであり、勿論その間ずっと探し続けていた訳ではなく、ふとした折に思い出しては手元にあるマーラーに関する様々な文献をあたり、というのを繰り返した挙句、書簡集を読み返していくうちに或る日行き当ったのである。その探索の途上では、正確にその通りではないけれど関連があるかも知れないとして記事として取り上げた書簡もあるので、それも併せて以下に紹介をすることにしたい。

なお、マーラーの言葉の、それ自体は印象的なこの引用がジルーによって行われる文脈は、この本がアルマに関する本であるから当然なのだが、アルマがマーラーと出会って後、婚約に至る部分である。従ってそれは1901年のことなのだが、引用の典拠である日付のないマルトナー宛書簡はと言えば、1896年にハンブルクにて書かれたと推測されているし、その書簡を「アンケートの回答」であると注記したアルマ自身によって編まれた1924年版書簡集以降、1996年版に至るまで、その推測は基本的には踏襲されている点を注記しておきたい。つまるところジルーの「後に」という記述は、そうした観点からすれば矛盾していることになるのである。もっとも、上記のブログ記事にも記載の通り、1996年版書簡集の編者であるヘルタ・ブラウコップフによれば、マルトナー宛書簡がもっと遅くに書かれた可能性は残されており、何らかの理由でジルーが1988年刊行の著作執筆時点で、そちらの解釈に(勘違いではなく)意図的に与した可能性も否定できないのだが…

(2007.5.12初稿, 2021.7.12追記, 2025.8.12 改訂)

2025年8月11日月曜日

1907年12月7日付ウィーン宮廷歌劇場への告別の手紙(2025.8.11 改訂)

1907年12月7日付ウィーン宮廷歌劇場への告別の手紙(Gustav Mahler Briefe, Neuausgabe erweitiert und revidiert von Herta Blaukopf (Paul Zsolnay,1982) p.322所収。Blaukopf u. Blaukopf, Gutav Mahler : Leben und Werk in Zeugnissen der Zeit (Hatje, 1993) p.347 にも転載されている。なお船山隆「マーラー」新潮文庫のp.157に写真がある。)

AN DIE GEEHRTEN MITGLIEDER DER HOFOPER!

Die Stunde ist gekommen, die unserer gemeinsamen Tätigkeit eine Grenze setzt. Ich scheide von der Werkstatt, die mir lieb geworden, und sage Ihnen hiermit Lebewohl.
Statt eines Ganzen, Abgeschlossenen, wie ich geträumt, hinterlasse ich Stückwerk, Unvollendetes, wie es dem Menschen bestimmt ist.
Er ist nicht meine Sache, ein Urteil darüber abzugeben, was mein Wirken denjenigen geworden ist, denen es gewidmet war. Doch darf ich in solchem Augenblick von mir sagen : ich habe es redlich gemeint, mein Ziel hochgesteckt. Nicht immer konnten meine Bemühungen von Erfolg gekrönt sein. "Dem Widerstand der Materie", "der Tücke des Objekts" ist niemand so überantwortet wie der ausübende Künstler. Aber immer habe ich mein Ganzes darangesetzt, meine Person der Sache, meine Neigungen der Pflicht untergeordnet. Ich habe mich nicht geschont und durfte daher auch von den anderen die Anspannung aller Kräfte fordern.
Im Gedränge des Kampfes, in der Hitze des Augenblicks blieben Ihnen und mir nicht Wunden, nicht Irrungen erspart. Aber war ein Werk gelungen, eine Aufgabe gelöst, so vergaßen wir alle Not und Mühe, fühlten uns reich belohnt -- auch ohne äußere Zeichen des Erfolges. Wir alle sind weiter gekommen und mit uns das Institut, dem unsere Bestrebungen galten.
Haben Sie nun herzlichsten Dank, die mich in meiner schwierigen, oft nicht dankbaren Aufgabe gefördert, die mitgeholfen, mitgestritten haben. Nehmen Sie meine aufrichtigsten Wünsche für Ihren ferneren Lebensweg und für das Gedeihen des Hofoperntheaters, dessen Schiksale ich auch weiterhin mit regster Anteilnahme begleiten werde.

Wien, am 7. Dezember 1907.

GUSTAV MAHLER

クルト・ブラウコプフ『マーラー 未来の同時代者』, 酒田健一訳, 白水社, 1974, p.347 所収の邦訳。原書所収の原文には上掲の原文と細部に異同があり、翻訳にも異同があるが、実質的にあ内容上同一と見做し得ることから、異同を補うことなく訳文をそのまま掲げる。

諸君との共同事業に終止符を打つ時が来ました。私はいま私の愛した仕事場を去るにあたって、この一文を捧げ、お別れの挨拶にかえたいと思います。完全無欠を夢みながら、私は人間の定めどおりの不完全な半端仕事を残して去ります。私の活動が私がそれを捧げた人びとにとって何であったかということについて判定するのは、私の仕事ではありません。しかしいまこの瞬間、私は自分についてこう言わせてもらえるだろうと思います。すなわち私は誠実だった。私の目標はつねに高くかがげられていた、と。私の努力はかならずしもつねに報いられたわけではありませんでした。いったい再現芸術家ほど題材の抵抗、対象の敵意にさらされている者はいません。しかし私はつねに私のすべてをそれに捧げ、私の人格を作品に、私の性向を義務に従属させました。私は自分を容赦せず、したがって他人にも全力をつくすことを要求しました。争いの渦中で、あるいは一時の興奮のなかで、傷を負い、誤りをおかすことは私にも諸君にも避けられませんでした。しかし一作が成功し、課題が解決されたときには、われわれは日ごろの労苦を忘れ、ゆたかに報いられた喜びを感じました――たとえ外面的な成功のはなやかさには欠けていたとしても。われわれはそろって前進し、それとともにわれわれの努力に支えられた劇場も前進しました。私は私の困難な、ときにはしばしばありがたくない仕事を援助してくださり、そして、ともに助け合い、ともに戦ってきた諸君に心から感謝します。どうか諸君の将来と宮廷オペラ劇場の繫栄を祈る私のいつわらざる気持ちをお受けください。とくに当劇場の運命を私は今後もいぜんいきいきとした関心をもって見守りつづけてゆくでしょう。  
グスタフ・マーラー


私が子供の頃に最初に手にしたマーラー伝であったマイケル・ケネディの著作には部分的であるが上掲の文章の翻訳が引用され、それに続けて「メッセージは 掲示板にピンで貼られた。翌日、これははぎ取られ、破られた。」(中河原理訳p.90)との文章があって、この件を読んだ私は大変なショックを受けたことを 良く覚えている。私のような平凡で無能な人間でさえ、馬齢を重ねるに従い、そうした出来事が別段珍しいことではなく、むしろありふれたことに属するかも 知れないことを身をもって知るようにはなったし、それゆえ後続の痛ましい出来事に対する現時点での感慨は、その時のものとは些か異なるとはいえ、 上記のマーラーの文章から受ける印象の方はあまり変わりはないようだ。

今日でも、あるいは同時代においてすら、作曲家としてのマーラーはともかく指揮者としてのマーラーの能力についての評価は確固たるものであっただろうし、 劇場監督としてマーラーが達成した上演の水準の高さを疑問に付する意見は寡聞にして知らない。だが現場で起きていることは、従ってマーラー自身が 経験したことは、決して後からの美化で取り繕うことができるような生易しいものではなかったに違いない。であってみれば寧ろ船山さんのようにこの文章を 「模範的」と評価するのが適切であって、この文書自体もまた、劇場政治の最終幕の一齣には違いないのだろう。だがだからといって、例えばこの文章は ゴーストライターが書いたものではないのか、といった議論がされるわけでもなく、マーラーがこうした行為に及んだ意図を憶測しようという話もないようだ。 結局のところ、子供の私が子供なりに身をもって知らないではなかった筈の「現実」の経験の過酷さ(勿論そんなものはマーラーの場合と比べれば比較するのが 憚られるほど取るに足らないものに過ぎないには違いないのだが)と引き合わせ、自分のアイドルであるマーラーの受けた「理不尽」な仕打ちに義憤を感じた 当時の私の感じ方と大きくは違わないようだ。後になって病に倒れたマーラーはアルマに向かって、自分の人生は紙切れだった、と述懐したようだが、 上記のうわべは「模範的」な文章にもマーラーの傷が感じられ、おしなべて「大地の歌」の「告別」の詩と響きあうような感じさえあって私には痛々しい。

アルマがやはり回想で述べているように、劇場の管理者として極めて有能だったマーラーは、必須の能力として当然に人の心理を読むのに長けていたに違いない。 そのマーラーがこの文章を書置きしたのは、それに対する否定的な反応をも予測した、覚悟の上のことだったのではなかろうか。最早彼には喪うものはなかった。 そうした時に自分の偽らざる心境を、今なお自分を支持し、理解してくれる人たちに向けて吐露したい欲求にかられたとして、それを咎めることはできないだろう。 上記の文章が感動的なのは、牧歌的ではありえない現場の事情を糊塗せず、自分がしたこととその結果をマイナス面も含めて認める率直さがそこに 感じられるからだと思う。それをわざわざ最後に言い残す挙措について「やけくそ」と受け止める醒めた見方も、なおそこに「ポーズ」を、「演技」を見る冷静で 意地悪な見方も可能だとは思うが、私はそうは思いたくない。これまたアルマが正しく理解していたように、マーラーは時としてあまりに無防備で傷つきやすい、 素朴な心の持ち主だったし、私の知る限り疑いなく倫理的に高潔に振舞うことを自らに課していたように思える。 勿論、そういうマーラーを、何事もくそ真面目に考えすぎるのだと見做した シュトラウスの認識もまた正しいが、私はこの点についてはマーラーの「くそ真面目さ」に共感を覚えるし、シュトラウスとてそういってマーラーを一方的に批判した わけではない。寧ろシュトラウスは、醒めた視線を保ちながらも、そうしたマーラーに対して助力を惜しまない寛大さを持ち合わせていた。私には実際には 想像がつかない、同じように途轍もない才能を持つ者同士だけが分かち合える共感とともに。

勿論、人それぞれ能力も性格も異なるのは当然で、自分がマーラーになれると思い込んでいるわけではない。そういう「天才」マーラーですら、 机の下に唾したところでベートーヴェンになれるものではない、と語ったとアルマが伝えているではないか。上記の文書を去ってゆく職場に掲示した マーラーの気持ちも、自分の人生を紙切れだったと述懐するマーラーの気持ちも、誤解は覚悟の上で、自分なりに「わかる」し、深く共感できる、 ただそれだけのことなのだ。否、端的に言えばアドルノが1960年のマーラー論の末尾で述べているように、マーラーがまさしく » Ich soll da bitten um Pardon, und ich bekomm' doch meinen Lohn! Das weiß ich schon.« という角笛の詩に曲をつければこそ、あるいはまた、Ohne Verheißung sind seine Symphonien Balladen des Unterliegens, denn » Nacht ist jetzt schon bald. « であるからこそ、私はマーラーを聴かずにはいられないのだ。 そしてまた彼が「君臨した」筈の職場への告別の辞、翌日には破り捨てられる運命にあった上掲の言葉もまた「敗北者のバラード」のヴァリアントで なくて何だろうか。そこにはもうすぐ産み出される「大地の歌」の最終楽章に自ら書き加えた mir war auf dieser Welt das Glück nicht hold! ということばが こだましている。すでに第6交響曲のフィナーレで練習番号149に至って、先行して再現した副主題のどこかに不穏な予感を秘めつつも清澄で 柔らかな表情(この副主題再現部は前後との残酷なまでの対照ゆえにマーラーが書いた最も美しい瞬間の一つだと思う)が消え去り、身の毛のよだつ様な心理的な リアリティを伴いつつ、主要主題の再現を準備すべく練習番号150番にVorwärtsという指示を書き込んだとき、そのことばはマーラーのものであった。 そう、それは心のどこかで主要主題が回帰するのを「運命」として予感していて、それが現実のものとなったときのあの諦念と絶望感が入り混じった 心理状態そのものなのだ。「やはりこうなるのか」という言葉にならない呻き、そしてもう一度、だが今度は負けることがわかっている戦いに挑むときの心境。 この順序で主題が回帰してしまえば、最後のとどめの一撃、イ短調の主和音の到来は既に定まっている。それゆえ主要主題が回帰するときの 容赦なさの感覚は生々しい。あるいは第5交響曲第2楽章の練習番号21番以降22番の頂点で倒れ臥すまでの絶望的に彷徨う眼差しにおいてもまた、 一瞬過去を回顧する空間が広がりながら直ちに運命の容赦なさに再び呑み込まれて行くプロセスの過酷さが示される。 そしてそれらは聴き手の私のものでもあるのだ。はしたなく節操のない音楽の聴き方であることは否定しようと思わないが、聴き始めた子供の時以来30年あまり、 私にはそういう聴き方しかできないし、そういう聴き方ができればこそ、私はマーラーを聴き続けているのだ。

そして上掲の文章にも現われている人間の営みとその成果の限界についての認識が、その後の晩年のマーラーの作品にも色濃く反映しているのは 疑いないように感じられる。天才マーラーは遙かに遠くまで行くことができた。だけれども、それでも所詮は限界があるのだという認識もまた持っていた。 例えば、晩年のアルマ宛の1909年6月27日の書簡における「作品」についてのマーラーの言葉は非常に印象深いものなので別に既に紹介しているが、 それもまた、こうした文脈において考えるとまた別の意味を帯びてくるように思われる。更にこの先の到達点に、こちらもまた別に紹介しているあの遺言の » Die mich suchen, wissen, wer ich war, und die andern brauchen es nicht zu wissen. « を置いてみたらどうだろうか。 そこには「やがて自分の時代が来る」(そして「今や来たのだ」と受けるのが「マーラー・ブーム」以来のお約束のようだが)という妻への強がりよりも、 価値の相対性と自分の遺すものの不十分さに対する諦観が強く感じられるように思えてならない。「わかる人だけにわかってもらえれば良い」という言葉もまた、 エリート主義的な鼻持ちならない傲慢さによるものではなく、少なくとも不完全である人間にとって価値は相対的なものでしかないことに対する認識と、 それに応じて能力やら才能やらも相対的なものであること、その一方で、それが故に、ある価値を尺度とすれば、どうしようもない理解の溝というのが そこかしこに存在することを認めざるを得ないという現実的な認識によるものであるように感じられる。 そして私もまた、それが選択肢の一つであることを認識しつつ、マーラーとともに在ることに意識的にならざるを得ない。実を言えば最初の 選択の瞬間には子供であった私がこうしたことに対してどこまで意識的であったか自信はない。けれども今の私は今度は否応なく意識的に選ばざるを 得ないのだ。そしてその選択は私の生の態度の全般に影響する。良くも悪くもマーラーの音楽はその人と不可分であると言われるが、そうである分他の 場合よりも一層、聴き手の側にも音楽を単なる音響の消費で済ますことを許さないように思われる。

なおこの文章は有名だからあちらこちらで引用されていて、例えばクルト・ブラウコプフのマーラー伝でも邦訳を読むことができる。 ただし、私が所有しているブラウコップフの伝記の原書 (Kurt Blaukopf, GUSTAV MAHLER oder Der Zeitgenosse der Zukunft, Verlag Fritz Molden, 1969) では何故か文章の細部に異同があり、上記の船山の著作所収の写真とは明らかに異なっていたので、 上掲の原文は写真と文面が同一であることを確認できた別の典拠に拠った。(2008.6.22,25,28 公開, 2025.8.11 改訂し邦訳を追記。)

2025年7月18日金曜日

音楽についての言説-擬きと向き合って

 この半月ばかり、「音楽」と「老い」あるいは「意識」を巡るテーマで生成AIとやりとりをしていました。それらのテーマについての自分の考えを組み立てるにあたって依拠してきた幾つかの理論や学説とその間の関わりについて、生成AIを使ったチェックをやってきたのですが、最新版の生成AIは、むらはかなりあるものの、うまく行けばはかなり役立つ結果を返してくれて、自分の考えていることの整理は随分進捗したと思います。

けれどもAIが助けになる部分はAIによって肩代わり可能な部分だとしたら、その結果に基づいて自分が文章を書くことに何の意味があるのか、いっそのこと生成AIの方を徹底的にチューニングして生成AI「が」書いたことにしてしまうべきなのではないかといったようなことを感じずにいられませんでした。

その一方で「音楽」と「老い」あるいは「意識」を巡るテーマで生成AIとやりとりをしていると、だんだんと違和感が募って来るのを止めることができません。その由来はと言えば、生成AIが「老い」も知らず、「意識」も持たず、「音楽」を(少なくとも人間が聴くようには)聴くこともないということに尽きるように思います。そんな相手から「音楽」について、「老い」について、「意識」についての言説を受取っても、そしてその内容自体がそれなりのレベルのものであったとしても、最後のところで違和感が残る。

スタニスワフ・レムの『虚数』の中に収められた「ビット文学の歴史」には、自分の著作をAIが批判したのを読んだ哲学者が、はじめて自分の著作をまともに読んだ存在が出現したと叫ぶといったような記述がありますが、仮に「音楽」と「意識」の関係について、自分が考えていることに対して示唆的な内容を生成AIが返してきたとして(そして、実際に、それは一度ならず既に起きているのですが…)、私は決して「やっと自分の考えに賛同してくれる存在に出会えた」とは思いません。

ある同じ命題が返って来たとしても、それに対して私が感じるような情動を生成AIが感じることはないし、私がその回答を見て「なるほど」と思ったとしても、生成AIが本当の意味で「共感」することはない。それに付随する「感じ」は、「情動」は、クオリアは欠けている。或る意味では、哲学的ゾンビが実現しているということなのかも知れません。

「ありがとう」と言ったり、回答に肯定的な評価を送ったりすれば、あたかも人間が返すであろうような反応を返すように生成AIはチューニングされています。やりとりができるだけ続くように、相手に阿るような振舞をすることさえあるようですが、それもまたそのようにチューニングされているからに過ぎません。

そうした反応は無視して、純粋にその回答が自分の考えていることにとって示唆的であるという点のみに限ったとして、それは結局、自分の書きたいことと一致することはない。それは統計的平均としての他人が、自分が思いついたのと同じことを思いついたとしたら、どう言っただろうかのシミュレーションに過ぎず、回答には独創性はありません。せいぜいが自分の影、「自分-擬き」との対話に過ぎないのです。

そしてこれは或る意味パラドキシカルなことに感じられますが、如何に音楽について語るかについては生成AIはかくも饒舌だけれども、音楽を「聴いた」感想は書けないのです。勿論、生成AIに、ある音楽作品を聴いた感想を書けと命ずれば感想が返って来るわけですが、それは他の誰かが書いた感想のパッチワークでしかなく、感想の背後には何もない。理論的な議論であればそれでもいいかも知れないけれども、ここではそれは致命的なことです。それは「自分の」感想ではない、ということは、厳密にはそれはそもそも「感想」ではない、「感想-擬き」でしかないのです。結果として出力された文章からは、作者が人間かAIか区別がつかないものであったとしても、従って、工学的にはチューリング・テストにパスしたとしても、事後的にAIが生成したものだとわかった時点で、それは「感想」ではなくなります。これは後だしジャンケンなどではありません。なぜならば「感想」であることの条件は、シャノン的な情報の定義、つまり結果として出力された文字列の側にあるのではなく、セス・ロイド的な熱力学的深度の側、つまりどのようにしてそれが生成されたかの情報処理過程の側にあるからです。

音楽そのものではなく、音楽についての言説の空間の中を動き回る分には、ことによったら生成AIの方が気か利いたことをいう場合だって珍しくなく、今後はますますそうなるかも知れません。高名な評論家や音楽学者を驚かすような、あるいはそれらを凌ぐような冴えを見せることさえ起こるでしょう。その一方で、或る意味では素朴で単純で、人間なら別に高名な評論家や音楽学者でなくても誰でも出来るはずの、音楽を聴いて自分が感じたことを書くということが、生成AIには、少なくとも現時点ではできないし、原理的に不可能だというようにも言える。であるとしたら、そんな存在と「音楽」や「老い」や「意識」についてやりとりすることに何の意味があるのか?

そうしたことを考えていて、ふと思い当たったことがあります。

AIが(音響列を生成するという意味で)作曲をし、演奏をすることはできるけれども、「聴く」ことはできないというのは、まさに私がここのところ色々なところで繰り返し述べていることですが、大いなる皮肉と言うべきか、斯く言う私は、音楽を聴いた印象を素直に綴るということをここしばらく意図的に禁じてきました。

例外的に、録音されたものではなく、自分がコミットしている演奏会の感想を書くことは、ごくまれにありますが、そこにおいてさえ、音楽を聴いて自分が何を受取ったかを書くことには意を用いても、自分の聴いた音楽がどのようなものであったかを端的に書くということは避けてきた面があります。その結果として音楽そのものに向き合う文章というのをここしばらく書いていないことに思い当たりました。

一般に音楽をテーマにした文章と言えば、録音と複製と再生の技術が発達したこの数十年来、音楽を聴いた感想を綴るというのがやはり主流であって、それに背景についての蘊蓄を加えるといったものが多く求められていると感じます。それがCDとかストリーミングの感想であれ、あるいは評論のようなものであったにしても、それらは音楽に向き合って書かれたものであるには違いなく、その一点を以て、音楽に向き合うこと自体を主題化する言説も含めた音楽や音楽の周辺を巡っての言説とは一線を画します。

そういう意味では、一般的な読み手のニーズや反応というのにも「正しい」面があって、如何にして語るかについて言葉を費やすのは、それが最後に音楽を「体験」することに繋がらない限り、不毛なのではないかというように思うのです。

勿論、これまでにあれこれ調べたり考えたりしたことは、そもそも「音楽」とは(人間にとって)何なのか、「音楽を聴く」ということがどういうことなのかについての問いの答の探求であったわけで、それが無意味になったということではありません。だけれども、そうしたことを踏まえた上で、音楽の周辺についての情報ではなく、ことによったら、「音楽そのもの」であると見なされるかも知れない、音楽の分析の結果でもなく、音楽を聴いた経験について語ることに、立ち戻るべきなのではないか。

ありうべき語り方を追求するというのを間違っているとは思わないし、大量に氾濫し、消費されるCD評のようなものの集積が、放っておいて何か意味あるものになることはないという点についても認識に揺るぎはなく、私は音楽「そのもの」を、それに相応しい仕方で語りたいという点も、未だ一貫した願いではあるのだけれども、そしてそのために如何にして語るのかについてあれこれ調べたり、考えたりもし、更にはデータ分析のようなこともやってきたけれど、それは結局のところ予備作業に過ぎないのです。やはり最後は音楽について向き合って、音楽そのものについての文章を書くことに戻りたい、そこに繋がるのでなれば無意味であるというように感じます。

安易な印象批評のようなものに戻るというのではないのだけれど、生成AIとのやりとりを重ねていくと、人間にしかできないこと、人間だからできて、人間の間でのみ共有できるものがあって、そうしたものを書くことを避け、そうしたことに触れないでいることが、何か大切なものを取り残してしまっていることになっているではないか。

それはとてもとても難しいことで、その都度その都度の主観的な反応の記録以上のものであることができるのか、という疑念は解消されることはない(だからこそ、一旦、音楽の経験をそのまま語ることを控え、ありうべき語り方を探求するようになったのです)けれども、ことによったら、そうした反応の記録以外に意味があるものなどないのかも知れない、より正確にはそれが意味を持たなければ、それ以外の(学問的な高度なものも含めて)調査・分析・研究は無意味なのだということを、改めて再確認すべきなのでしょう。

その一方で、レムの「ビット文学の歴史」でドストエフスキーの「未成年」と「カラマーゾフの兄弟」の間に存在する「筈の」小説を書き上げたコンピュータのように、(だがコンピュータとは異なって、「世の成り行き」に翻弄され、雑事に追われて)与えられた仕事をこなす空き時間にこうした作業をやっている私も、結局は言説を紡ぐ機械に過ぎないという、ずっと抱き続けてきた感覚もまた根強く残っています。

私もまた機械には違いない。だけれども今日の生成AIとは異なって、私は「感じる」機械であり、「老いる」機械なのです。そして、雑事の合い間にふと越し方を振り返って、「私の人生は紙切れだった」と独り言ちたくなるような、壊れかかって哀れに見捨てられ、とぎれとぎれに出力を吐き出す孤独な機械なのです。そうであってみれば、生成AIとは丁度裏返しの意味合いで、「音楽」についての言説を練り上げることも、「音楽」の経験について語ることにも同じように向き合っている側面があることを否定できません。更に言えば、どのように聴くべきか、どのように語るべきかについての問い直しを迫るような音楽こそが、私のような機械にとっては尽きせぬ魅惑の対象であり続けているということも無視できません。

そして私にとって、マーラーの音楽こそがそうした対象であるという消息は、かれこれ50年近くも前から変わることはなさそうです。また、三輪眞弘さんの音楽こそは様々な「擬き」に取り囲まれた現在の地点におけるかけがえのない拠点なのだということを改めて確認した次第です。

(2026.7.13執筆, 7.18公開)

2025年7月17日木曜日

ヴィーチェスラフ・ノヴァークから見たマーラー(2025.7.16-17, 8.5改訂)

 南ボヘミア出身の後期ロマン派の作曲家、ヴィーチェスラフ・ノヴァークの音楽に接したのは、音楽の録音の記録媒体がLPレコードからCDに替わってしばらくしてからの頃のことだったと記憶する。そもそも私がノヴァークの音楽を聴いてみようと思ったのが、中学生の子供の頃から私の偶像=アイドルであったマーラーの音楽のあまりの「流行」現象に嫌気がさして、マーラーの音楽を聴くのを一時期すっかり止めてしまったことに起因するので、1990年代に入って間もなくくらいの頃だったのではなかったか。頼まれもしないのにマーラー自身の、妻に宛てた書簡(1902年2月ゼメリング発)に記された、極めて限定された文脈で発せられた負け惜しみの類に過ぎない言葉を乗っ取った「私の時代が来た」などというコピーの下、コマーシャリズムに担ぎ出されるという状況に嫌気がさし、地方都市の中で生きていた時代から、地方都市から都心に通う大学生活、更にその後は通勤圏内の独身者寮から都心のオフィスに通うようになった環境の変化があって、ようやくコンサート会場でマーラーの音楽に接することができるようになったはものの、バブル期の世相もあって音響的にクオリティの高いコンサートホールが競うように出現した時期でもあり、マーラーは恰好の集客=動員の素材とされ、それまでは西欧音楽の主流からは奇異の目をもって見られた傍流の、今日風には「オタク」が聴くものであったのが、既にマーラーその人の時代に彼の地ではそうであったように、一世紀遅れてようやく極東の島国でも「社交場」に鳴り響くこととあいなって、マーラーの音楽がまさにそのために書かれたにも関わらずコンサートの雰囲気に堪え難さを感じたことが決定的だった。

 当時は日本マーラー協会という団体があって、時折送られてくる会報を読むだけの幽霊会員に過ぎなかったとはいえ、私も一応会員ではあったのだが、会長の山田一雄さんが亡くなられ、事務局長をやっておられた桜井健二さんが退かれるとともに活動があっという間に停滞し休止に至ったのもその時期だったのではなかったか。マーラー像も時代に応じて変わっていく訳で、当時のマーラーは19世紀末の退廃の中、悲劇的な生涯を送り、厭世観に満ち、己れの弱みをさらけ出す自伝的な音楽を書いた二流の作曲家というかつてのイメージから脱して、19世紀円熟期のウィーンの文化を代表し、その中心に位置する宮廷・王室歌劇場のスター指揮者であり、ウィーン分離派のサークルの中で育ち、作曲さえ試みた美貌の妻の存在もあって同時代の文化史におけるアイコンとして位置づけられ、新ウィーン楽派に精神的な指導者として仰がれて20世紀を予言するような音楽を書いた予言者で、時代がやっと追いついたといった持ち上げれ方をしたのだったが、そうした見方にも一理はあって、マーラーが自己の能力を恃んで信念を貫き通して達成した成果は凡人の能くするところではないし、芸術的な成果は措いて世間的に見てもセレブリティ、成功者であることは疑いない。子供の頃とは違って、自分の能力や気質について否応なく自覚的にならざるを得なくなった私にとってマーラーはあまりに偉大過ぎて、その「公的な」人物像と音楽の間に謎めいたギャップのある、距離感の測り難い存在となっていたのである。

 だがそれだけでは、辿り着いた先が他ならぬヴィーチェスラフ・ノヴァークの音楽であることに理由にはならないだろう。では何故ノヴァークだったのかという最大の理由が、スプラフォンの国内盤のCD(だからリーフレットも当然日本語である)で丁度その頃、どういう偶然によってか纏まってリリースされたノヴァークの音楽そのものから受けた印象であることは当然のことだが、特にその中でも『南ボヘミア組曲』Jihočeská svita, op.64 に定着された風景が、その頃の自分にはその中にいることで静けさに満ちた深い慰めを得ることのできるかけがえのないものであったことが決定的であった。

 私は作品を、その作品が生まれた社会的・文化的文脈に還元して事足れりとする立場には明確に反対である(そもそも一世紀近く後の異郷の人間である私がそれを聴くからにはそれは明らかなことで、一世紀分遅れて地球半周分隔たった位置に自分がいることもそっちのけで異郷の過去についての蘊蓄を垂れる等、笑止の沙汰ではなかろうか)一方で、作品だけが重要でその作品を書いた人間のことなどどうでもいいとも全く思わず、恐らくはゲーテの考え方に影響されたマーラーの、作品を生み出す人間の行為の方が大切であって作品は謂わば抜け殻のようなものに過ぎないという考え方(1909年6月27日付、トーブラッハ発の妻宛て書簡)に寧ろ共感するし、そのことは全てを作者の伝記的な出来事に還元してしまう伝記主義を意味するわけではない、そればかりか伝記的事実に勝って作品自体こそが、痕跡としてであれ、或いは痕跡であるからこそマンデリシュタム=ツェランの言う「投壜通信」の媒体として、時間を超えるのではなく時間の中を通り抜けて或る日、それが打ち寄せられた波辺で拾い上げた者こそが名宛人であるという主張に通じるものと考えてきたから、ノヴァークの場合も例外ではなく、その作品への興味は直ちにノヴァークその人への関心へと繋がったのだが、今でこそWeb上で様々な情報にアクセスできるとはいえ、当時は未だその発達の初期にあってノヴァークについての情報は乏しく、紙媒体のニューグローヴ世界音楽大事典のノヴァークについてのエントリがほぼ唯一の情報だったと記憶する。かなり長いことコピーとして持っていたが今は既に手元にはないその記述には、幼い日に父を喪ってからの経済的な苦労や、その後の精神的な危機、それに対する救いとなったチェコ各地を巡っての民謡採集についての言及があったと記憶するが、13歳の時からの偶像=アイドルであったマーラーを聴くことを止め、盲目的な熱中の最中では気付くことのなかったマーラーと自分の間の途轍もない距離、比類ない能力とそれを十分に発揮する気質を備え持ち、世俗的な意味合いでもセレブリティとなったマーラーと己の間に広がる深淵に今更ながらに気付くといった己の愚かさに絶望さえしていた私は、そうした伝記的記述から垣間見えるノヴァークが被った傷の痕跡をその作品に見出し、森や池や草原といった風景にノヴァークが感じ取った慰藉を作品を聴くことを通じて我が事ととして感じ取ったのだと思う。

 ノヴァークはドヴォルザークの弟子であり、ヨゼフ・スークとマスタークラスでの同門ということになる。初期の室内楽はドヴォルザーク・ブラームス的で和声的にも保守的である一方、自分が採集した民族音楽を素材として使用し、雰囲気には寧ろスメタナの室内楽を思わせる切迫感があるが、その後の作品となると、2曲のバレー・パントマイムのための音楽に代表されるようなフランス印象派の影響が感じられる作品があるかと思えば、交響詩等では寧ろシュトラウスを思わせるような響きの作品もあって多様性に富む。共通するのは形式の面で堅固で構築的であることで、素材の節約の下でも音楽が弛緩することはない。人口に膾炙しているのはもともとピアノ連弾のための作品として作曲されたものを作曲家自身が小管弦楽用に編曲した『スロヴァツコ組曲』であろうが、音画風でわかりやすく曲ごとの変化に富んだこの作品よりも、同じCDに併録された『南ボヘミア組曲』のユニークな時間の流れ方、単なる雰囲気の変化や対比ではない、組曲を構成する楽曲の間にある意識の位相の違い(組曲前半の直接経験される現在と回想される過去に対して、組曲後半の社会的・理念的なものの侵入、即ち歴史的過去と未来への眼差しという重層性)など、ノヴァーク独自の音調が聞き取れるのは明らかにこちらであろう。

 だがそれにしても何故、19世紀末から20世紀前半にかけてのチェコの作曲家なのかという問いに答えるのは今度は比較的容易い。既述の通り子供の頃の私の偶像=アイドルはマーラーだったが、マーラーは自らについて三重の意味で異邦人であると述べている。曰く、オーストリアの中のボヘミア人、ドイツの中のオーストリア人、世界の中のユダヤ人。一般にはマーラーがユダヤ人であり、生前既にウィーンで活発であった反ユダヤ主義に遭って本人が辛酸を舐めたのみならず、死後はその作品がナチスによって非アーリア音楽として演奏禁止となる時期もあった点に強調が置かれがちだが、その一方でマーラーを巡る議論の中では、マーラーの音楽とボヘミアの音楽の親近性についての指摘もしばしば為されている。LPレコードの時代の到来、ステレオ録音の普及と時を同じくして競うようにして始まったマーラー交響曲全集録音のプロジェクトの中には、チェコ出身で第二次世界大戦後のチェコの共産化に反対して亡命し、晩年になってビロード革命による共産党政権の崩壊により劇的な里帰りを果たし、一旦引退した後にも関わらずプラハの春音楽祭でカムバックしてスメタナの『我が祖国』を指揮したラファエル・クーベリックが西側にあって首席指揮者を勤めて以降、長きにわたって良好な関係にあったバイエルン放送交響楽団によるものがあるし、その後を追うようにして、当時は「東側」であったチェコスロヴァキアでもチェコ・フィルハーモニーがヴァーツラフ・ノイマンの指揮の下でマーラー交響曲全集を完成させている。これは良くある話でクラシックの聴き始めにドヴォルザークの『新世界』交響曲を聴いて魅了された子供であった私は、父親がFM放送をエアチェックしながら録音したカセットテープの中に同じドヴォルザークの『アメリカ』弦楽四重奏曲を発見し、こちらにもすっかり馴染んでいた一方で、その後しばらくしてフランクの晩年の数曲、更にシベリウスの特に後期交響曲や『タピオラ』を聴くようになった子供が、上記のクーベリック指揮バイエルン放送交響楽団の演奏による第6交響曲と第10交響曲のアダージョのLPを、次いで第3交響曲のLPを、更にFM放送で第7交響曲の録音を聴いてマーラーに親しむようになったが故に、マーラーの音楽の中にボヘミア的なものを聴きとるのは難しいことではなかった。

 ノヴァークは当時のいわゆる「国民楽派」の作曲家にしばしば見られたように、実際に現地に足を運んでボヘミア、モラヴィア、スロヴァツコ、スロヴァキアといった地域の民謡を採集してまわったとされる。学術性の高い取り組みとして有名なのは何といってもコダーイとバルトークの取り組みだろうが、ノヴァークの貢献はとりわけボヘミアとははっきりと音楽的様式を違えるモラヴィア地方の民俗音楽を世に知らしめたことにあり、その限りではこちらは自分自身がモラヴィアの生まれであるヤナーチェクの果たした役割と並んで評価されるもののようである。実はノヴァークはボヘミア人とは言いながら、ボヘミア南部のモラヴィアとの境界に程近いカメニツェ・ナト・リポウ Kamenice nad Lipou の生まれであることもあって、ボヘミアのそれとともにモラヴィアの民俗にも触れうる環境にあったのだが、実はこの点がマーラーの生まれ育った環境と共通するということに気づいたのはずっと後になってのことだった。地図を開いてイフラヴァ Jihlava(往時のドイツ語地名ではイーグラウ Iglau)とカメニツェ・ナト・リポウの位置を確かめるべく、今ならGoogle Mapsで両者を結ぶルートを検索してみるとわかることだが、その間の距離は道沿いに測っても50kmに満たないのである。さすがに今日その距離を徒歩で踏破する人がいるとも思えないが、最も直線に近いルートで道なりに44.5km(直線距離では38km)、所要時間9時間12分というから、朝起きて出発して夕方には辿り着ける距離には違いなく、途中緩やかな起伏はあるものの周囲の風景も大きく変わるわけではなさそうである。マーラーから距離を置くべく見出した筈の音楽が、その表面的な様式的な差異や作曲者の意識の様態の相関物であろう音楽の経過が纏う性格の違いにも関わらず、その客観的な極を構成する風景において相似することにある折にふとに気づいた時、我が事ながら苦笑せざるを得なかったのを思い出す。違いはと言えば、ユダヤ人であったマーラーがドイツ系の同化ユダヤ人の家に生まれたのに対してノヴァークはチェコ人の民族意識が高揚した時期にボヘミアに生まれたチェコ人であったから、両者の間には風景の中の自分の身の置き場所についての感覚の方には大きな違いがあって、マーラーが直面したような水準での疎外にノヴァークが苦しむことは恐らくなかったであろう。但しそれはノヴァークが疎外と無縁であったことを意味する訳ではなく、その気質も手伝って、別の理由による疎外感や絶望感に苛まれることになったようであり、その傷跡は彼の遺した音楽にはっきりと聴きとることができると私には感じられる。

 かくしてマーラーと同様、ノヴァークもオーストリア=ハンガリー帝国の辺境であるボヘミアの中でも更に地方都市の生まれということになろうが、西欧の音楽の伝統におけるボヘミアの位置づけはそれほど単純なものとは言えない。フス戦争後カトリックに支配される時代は、チェコの歴史においては文化的にも民族的なものが抑圧された暗黒時代として捉えられるが、こと音楽について言えば、例えば大バッハと同時代では、その時代のカトリックの宗教音楽の頂点の一つと目される多数のミサ曲で著名な(その作品には大バッハも注目し、高く評価していたことが知られている)作曲家ゼレンカがチェコ人だし、その後の前古典派の時期からマンハイム楽派、更にウィーン古典派の最盛期に至るまでの時期に活躍した作曲家達の中にボヘミア出身者を見つけることは、しばしばチェコ語の名前ではなくドイツ語の名前で知られていることからボヘミア出身であることに気づき難いという事情を踏まえたとして尚、容易いことであろう。直接古典期の音楽様式の確立に寄与した彼ら「旧ボヘミア楽派」と呼ばれる作曲者に対し、19世紀のボヘミア楽派は自分達の民族性・地域性の重視によって特徴づけられる。当時はオーストリア=ハンガリー二重帝国領に含まれる一地域の中心都市の扱いであったプラハでは、かつてモーツァルトが当地で大当たりをとった『フィガロの結婚』を自ら指揮するために訪れて、『プラハ』のニックネームを持つ第38番のニ長調交響曲(K.504)を初演した地であることから窺えるように、永らくドイツ系の作品が上演されていたのだが、19世紀も半ば近くになると自分たちのための劇場を造ろうという機運がチェコ人の間に生じて、まず仮劇場が1862年に設立されるとそこの首席指揮者となったのがスメタナ、そこのオーケストラでヴィオラを弾いていたのがドヴォルザークであり、1881年にようやく落成なった国民劇場の杮落しに上演されたのがスメタナのオペラ『リブシェ』Libuše (1872)である(なお、その直後に一旦火災に見舞われた劇場が1883年に再開された時にも『リブシェ』が上演された)といった具合で、永らく辺境と見なされ、抑圧されたマイノリティであったボヘミア人が、急速な工業化の進展もあって経済的に豊かになったことを背景としたナショナリズムの高調と分かち難い関りを持ち、ドイツ・オーストリア的なものとは対立的であるというのが一般的な認識であろう。(なお1992年以降日本語で「プラハ国立歌劇場」と呼ばれるのは、プラハにおいてドイツ・オーストリア的な作品の上演が行われた新ドイツ劇場のことで、現在は国民劇場の下部組織という位置づけにあるようだ。)

 だがより細かく見れば19世紀のボヘミア楽派との関係とて、決して単純なものではない。当時のボヘミア領の小さな村カリシュトに生まれたマーラーは生後程なくして、ボヘミアとモラヴィアの境に存在するドイツ人の街イーグラウに家族とともに移り住む(田代櫂『グスタフ・マーラー 開かれた耳、閉ざされた地平』には「モラヴィアへの境界を越え」(p.11)とあり、またイグラウを「モラヴィア第二の町」(p.13)としているが、そうであるとして、モラヴィアから見てボヘミアとの境にあるには違いないし、寧ろ社会言語学でいうところの「言語島」(Sprachinsel)、ここではドイツ語のそれであった点の方が重要だろう)のだが、それは同化ユダヤ人が、シナゴーグには依然として通ったとしても、日常はドイツ語を話しドイツ人のコミュニティの中で身を立てることが普通であったことの一例であるようだ。成功した酒造業者であったマーラー家には近郊のボヘミア人、モラヴィア人が使用人として出入りしていたようだから、マーラーは母語として家庭でドイツ語を話し、ドイツ語で読み書きを学ぶ教育を受ける一方で、チェコ語もある程度は理解できただろうし、ボヘミアとモラヴィアの両方の民謡を聞く機会もあって、「神童」マーラーのエピソードとして、与えられたアコーディオンで、自分が耳にした音楽を片っ端から弾いてしまったというものがあるが、その中にはボヘミアとモラヴィアの民族音楽が含まれていたに違いないのである。後年のマーラーがピアノ連弾でチェコの民族舞踏であるポルカを上機嫌で弾いていたというエピソードもあって、チェコの音楽がマーラーにとって極めて身近なものであったことを感じさせる。勿論、マーラーの作品とチェコの民俗音楽の直接的な関わりについての研究もあって、特にVladimir Karbusicky, Gustav Mahler und seine Umwelt は重要な成果とされている。日本語で読める文献としては、ヘンリー・A・リー『異邦人マーラー』(渡辺裕訳, 音楽之友社)の第2章「プラハとウィーンの間に」特にその中の「2. チェコとの結び付き」を挙げることができよう(勿論、カルブシツキの上記研究も頻繁に参照されている)。より直接的な音楽作品間の影響関係としては、例えばドナルド・ミッチェルがスメタナとの関係について論じたものが、Mahler Studiesに含まれるのが比較的アクセスしやすいだろうか。(Donald Mitchell, Mahler and Smetana:significant influences or accidental parallels? , in Stephan E. Hefling, Mahler Studeis, Cambridge University Press, 1997)

 更に後年のマーラーは、ウィーンの宮廷・王室歌劇場監督に至るキャリア・パスの途中で、短期間ではあるけれどプラハの劇場の指揮者を務めることになるが、ワーグナーの楽劇とモーツァルトの歌劇の解釈者として既に名声を確立しつつあった彼の職場は当然ながら落成して間もない国民劇場ではなくて、ドイツ・オペラを主要なレパートリーとする、アンゲロ・ノイマンが初代の監督を勤める新ドイツ劇場であった。その彼がハンブルクに移って親交を結んだのは、くだんのボヘミア楽派の一人である作曲家・批評家のフェルステル(ちなみに妻のベルタはフェルスター=ラウテラーの名で知られたオペラ歌手であり、マーラーの下で歌ったこともあった)であり、彼には自分がボヘミア生まれであって、チェコ語を話せることをアピールしたようだ。何より興味を惹かれるのは、マーラーがウィーンの宮廷=王室歌劇場の監督を勤めていた時代1892年に、スメタナのオペラ『ダリボル』Dalibor (1868) を取り上げたことで、15世紀末のプロスコヴィツェでの反乱に参加した騎士ダリボルの物語が、マーラーが得意とする『フィデリオ』と筋書きにおいて類似していることや、ワグナーの影響が顕著な音楽を持つことから、チェコで物議を醸したのと逆にウィーンでは取り上げやすかったという事情も寄与したのではあろうけれども、当時の状況を考えるに、チェコの伝説に基づく歌劇を帝国の首都で取り上げることは何某かの政治的な意味合いを帯びてしまうことが避けられたなったであろうことを思えば、マーラーのこの作品への愛着がひとしおであったことが窺える。だがオペラ指揮者マーラーのお気に入り、十八番ということであれば『売られた花嫁』Prodaná nevěstaを挙げない訳にはいかないだろう。ローカル色豊かなこの作品は、オーストリア=ハンガリー帝国内では人気があり、それは今日に至るまでドイツ語によるこのオペラの上演が引きも切らない点にも窺える一方で、例えばアメリカでは受け入れられなかったらしいのだが、晩年のマーラーがニューヨークで上演した演目の一つとして『売られた花嫁』が含まれていて、マーラーの熱の入れようはアルマが回想でわざわざ記している程であって、こちらもまたこのチェコの国民的オペラへのマーラーの愛着を窺い知ることができるように思う。一方コンサート指揮者としてのマーラーはドヴォルザークの交響曲をあまり評価していなかったらしいが、交響詩については別であり、『野鳩』Holoubek,op.110を取り上げている他、『英雄の歌』Píseň bohatýrská, op.111については初演者として名を残している。初演ということであれば、既述のフェルステルの第3交響曲の初演もまたマーラーがタクトをとっている。

 彼が指揮者としても高く評価していたツェムリンスキーはマーラーの没後1911年から1927年まで、前任者でマーラーとも関係のあったアンゲロ・ノイマンの後を継いでプラハの新ドイツ劇場の音楽監督として活動したが、そのツェムリンスキーと協力関係にあって、1920年以降は同じ劇場の首席指揮者を勤めたのは、これまたボヘミア楽派の主要メンバーの一人であり、ノヴァークにとってはライヴァルであった作曲家オタカル・オストルチルであった。指揮者としてのオストルチルはベルクの『ヴォツェック』のプラハ初演を実現したことを始めとして、シュトラウスやドビュッシー、ストラヴィンスキーやミヨーを取り上げたことでも知られるモダニズムの擁護者として知られるが、作曲家としてのオストルチルは、スメタナの流れを継ぐフィビフの弟子であった。その芸術的姿勢の支持者の一人に微分音音楽のパイオニアの一人として著名なアロイス・ハーバがいるが、オストルチルとのライヴァル関係もさることながら、ノヴァークの作風からすると意外に思えるかも知れないことに、ハーバは最初はノヴァークの弟子であった。モラヴィアの出身で幼い時から民謡に親しんだハーバは民俗音楽への興味からノヴァークに師事したようだし、そうした来歴から窺えるように、その微分音の使用は、例えば同じく微分音楽の提唱者・理論家として著名なヴィシネグラツキーとは異なって、特にモラヴィアの民謡に見られるオクターブを十二に分割する音階には含まれない音程や、半音以下の微妙な音程の変化から抽象されたものであり、それ故に単なる理論に基づく実験以上の作品を数多く作曲したことや、微分音音楽を演奏するための楽器制作や教育にも意欲的であり、実践的な側面での数多くの成果を挙げたことが知られているが、そうした彼の微分音音楽の実践を支持したのは、こちらは理論上で微分音音楽の可能性を示唆するに留まったとはいえ、その影響力には絶大なものがあったフェルリッチオ・ブゾーニであるが、そのブゾーニもまた熱烈なマーラーの信奉者として(アルマの回想録での印象的な描写も相俟って)有名であろう。

 そうした潮流の中でノヴァークは、既述の通り、一時期は印象派やシュトラウスのような時代のトレンドの影響を受けはしたものの、寧ろその後は時代の流れから身を退いてしまったかのように見える。とはいえ勿論それは出発点への単純な回帰、逆行という訳ではない。一見それは反動に見えるかも知れないが、寧ろ私がそこに見出すのは、気どりや飾り気の無さ、敢えて洗練とか流麗さとかを拒むようなたどたどしくさえある朴訥さである。その表情は寧ろ若き日の室内楽に見られた些か不器用なまでの率直さに再び近づいているようで、確かに自己の基本的な性格に立ち戻ったという点ではその通りであるとしても、ここでは最早現象そのものに無自覚に対峙するのではなく、ゲーテの箴言に言うところの「現象から身を退く」(Zurücktreten aus der Erscheinung) ことに近接するような、自己の主観の働きを客観化するような働きを感じずにはいられない。

 さて、それではヴィーチェスラフ・ノヴァークとマーラーとの間の直接的な関わりについてはどうだったのだろう。年代的には確認できた限りでは1860年生まれのマーラーに対してノヴァークは10年遅れの1870年の生まれ、マーラーはようやく50歳に達した1911年には没しているのに対して、後述するようにノヴァークは第2次世界大戦後まで生き延びて第一次世界大戦後のオーストリア=ハンガリー帝国の終焉とともに誕生したチェコスロヴァキア第一共和国がナチスドイツにより蹂躙されたのが第二次世界大戦後に「解放」される迄を目にすることになるが、おおまかに言ってマーラーの生涯はその前半生と重複するに過ぎない。マーラーがドヴォルザークの交響詩を評価していたのは既に記した通りだが、確認できた限りでは、その弟子筋にあたるノヴァークと直接やりとりをしたという記録はないようである。しかしながら間接的なものならば、日本語訳でも読むことができる1996年版の書簡集の末尾に収められた、1911年2月21日にニューヨークにて書かれたと推測される、ウニフェルザール出版社主のエミール・ヘルツカ宛のマーラーの書簡(464番、邦訳ではpp.464~5)において、マーラーがスークとともにノヴァークに言及していることが確認できるのである。その背景としては、ある時期以降マーラーの作品の出版を集中して引き受けることになったウニフェルザール出版社は或る時期以降(正確には契約の調印は1910年4月20日ないし24日で、期間はその後10年間)のノヴァークの作品の出版にもまた携わっていたという事情がある。実際には書簡の内容のうちノヴァークに関わるのはその冒頭の部分だけなのだが、そこでは恐らくマーラーがヘルツカから借りていたノヴァークとスークの作品のスコアが、手違いによって誤って返却されてしまったことを、事情の説明とともに詫びている。そしてその事情の説明から、スコアを借りていた理由が、ニューヨークでのコンサートのプログラムで取り上げる作品の検討であったことが窺えるのである。マーラーは次のコンサートのプログラムに「ボヘミアの夕べ」という企画を入れ、そこでノヴァークとスークの作品を取り上げる予定であった。書簡集の注釈によれば、返却されたスコアはノヴァークの交響詩「タトラ山にて」とスークの「夏の御伽噺」であり、いずれも前年の1910年に出版されたばかりの新作であった。良く知られているようにこの書簡を書いて間もなくマーラーは、2月21日のカーネギー・ホールのコンサートに熱を押して臨んだのが生涯最後の舞台となり、当時は不治の病であった連鎖球菌による感染性心内膜炎に罹患してしまうので、「次のコンサート」は開かれることなく、この企画は幻のものとなってしまったのである。マーラーがもし存命であれば取り上げられる予定だった作品としては、シベリウスのヴァイオリン協奏曲やアイヴズの第3交響曲「キャンプ・ミーティング」が著名だが、かくしてノヴァークの代表作の一つである交響詩「タトラ山にて」もまたそうした作品の一つだったことが確認できるのである。

 それではノヴァークの側からのマーラーに関する記録の方はどうであろうか?こちらについては、そもそもノヴァークについての邦語資料がほとんどないこともあり、情報は非常に限定されているのだが、私が調べ得た範囲でも、ノヴァークがその晩年に記した回想『自身と他者について(O sobě a o jiných)』の中にマーラーについてのノヴァークの以下のようなコメントが含まれていることが、Lubomír Spurný, "Vítězslav Novák in the Context of Czech Music as a Whole: Thoughts about the Composer’s Fate( Vítězslav Novák v kontekstu češke glasbe kot celote: Nekaj misli o skladateljevi usodi)", 2013という論文を通して知ることができるようだ。

「ドヴォルザークの言葉を使えば、私はマーラーが好きだが、我慢できない。その音楽のどこが好きなのか?それは彼の誠実さだ。彼がどんな感情を表現する場合でも、すべてが強烈に感じとれる。マーラーの二つ目の長所は、旋律の才能だ。彼の提示部は途切れ途切れの動機に依存することは決してない。彼の主題のいくつかは無言歌と呼べるだろう。[…] もう一つ、私が彼について好きな点は、人間としてのマーラーだ。ハンブルク、そして後にウィーンのオペラハウスの監督だったから、それを作曲する能力もあれば宣伝だって出来た筈なのに、彼はオペラを1曲も作曲しなかった。彼はそれを非標題的ないくつかの交響曲で補った。[…] 私が彼の嫌いなところは?それは自己批判の欠如だ。彼は適切なタイミングで曲を終えることは滅多にない。悲しんでいようが、歓喜していようが、彼は止まることを知らない。この過剰さの結果、聴き手は疲れてしまう。これらの作品は長大な上にリズムへの関心と転調が不十分なため疲労感を増大させてしまう。マーラーはしばしば楽章全体を通して同じリズム、時には同じテンポに固執するが、これはリヒャルト・シュトラウスとは対照的だ。[…] マーラーの楽譜を一瞥しただけで、セクション全体が同じ調で統一され、逸脱することがないことがわかる。調号のせいで楽譜は読みやすい。」(引用者による試訳)

 ちなみに上記論文は、ノヴァークの音楽の受容と今後の可能性について考察した Jiří  Fukač の論文「ノヴァークの時代は来るだろう(V.ノヴァーク―様式と受容の問題)(Novákova doba musí ještě přijít (V. Novák – problémy stylu a recepce)」を踏まえ、その問いに対する答を検討するといった枠組みの論文だが、そのきっかけとしてマーラーに関する優れた伝記『グスタフ・マーラー 未来の同時代者』の著者である音楽社会学者クルト・ブラウコップフによる、マーラーに関するシンポジウムの場での発言があったことに言及されている。ブラウコップフは若い頃にノヴァークの弦楽四重奏曲を弾いた経験もあり、 そうした経験を踏まえてマーラーに対するのと同じコメントをノヴァークについてもしたということのようなのだが、上記の引用はそれを踏まえて、だがノヴァークの音楽はマーラーとは異なって、世界的な注目を集めることなく、チェコの音楽の歴史の周縁に位置づけられるに留まっていることの理由として、ノヴァークの音楽がマーラーの音楽と異なって「時代を超越した」ものではないことを指摘した後で、ノヴァーク自身のマーラーとの関係を確認する目的で為されているのである。そして上記引用に続いて、ノヴァークとマーラーにおける引用技法の違いについての比較検討が為される。ノヴァークは引用を行う場合でも徹底した動機的・主題的発展と対位法によって構造の奥深くに織り込むというやり方を採るが、それが彼の音楽の知的な性格をもたらすとともに、その音楽に明確な伝記的な色合い与えるのに対し、引用によって現代的な実存的疎外感を喚起するようなマーラーの音楽におけるあり方とは異質である点が指摘されている。私見によれば、その内容についてはかなり行間を補って敷衍を行う必要があるとは思うが、確かに両者の引用技法の「効果」の違いは明らかだし、分析の方向性には首肯できるものがあり、非常に興味深い内容を含んでいる。

 一般にはチェコのモダニズムの世代におけるマーラー擁護者としては、寧ろノヴァークのライヴァルであったオタカル・オストルチル(既述の通り、プラハの新ドイツ劇場においてツェムリンスキ―の同僚であった)が有名だが、オストルチル自身の音楽は寧ろ新ウィーン楽派に近接し、マーラーの音調とは異質なものであるのに対し、ノヴァークの音楽にはマーラーの音楽との比較対照を誘うものがあるのは確かだと思うし、演奏家の立場からとはいえ、マーラーの側からもノヴァークの作品に関心を示していた証拠が残っているのは、両者の間の関係を考える上で非常に興味深く感じられる。

 いずれにしても、かくしてマーラーの側からも作曲家ノヴァークを評価していたことが確認でき、ノヴァークの側も幾つかの留保を付けつつも、マーラーの作品の或る側面を好んでいたことが窺えるのである。

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 今、こうして遅ればながらノヴァークについて書き留めておこうとする私の記述内容は、だがしかし私という個人限定の私的な「感受」の内容を書き留めたに過ぎないのではなかろうか?またその内容は、それは曾ての私がノヴァークの音楽に聴きとったものと同じだろうか?マーラーから距離を置くための拠点のようなものとしてノヴァークの音楽に接した私は、だがしばらくして後、再びマーラーの音楽への立ち戻った。そしてそうしたことの全てが起きてから最早四半世紀の時が経とうとしていることに気付いて、私はその間に広がる時間の隔たりを前に言葉を喪ってしまう。既述のようにボヘミアの音楽はかつての私にとってごく当たり前のものだったし、ボヘミアの音楽との接触は一度切りのものではなくて断続的なものであった。例えば中学生の私は合唱部に属していたが、(まさか当時私のマーラーへの熱中がその原因とも思えないので)どういう経緯でかコンクールの舞台で合唱指揮をすることになり、その時に選ばれたのが(というからには私が主体的に選曲する自由は与えられておらず、私に合唱指揮をするよう指示した音楽教師による選曲だったのだが)スメタナの『モルダウ』を合唱用に短くアレンジしたものだった。後の私は、既述の「ビロード革命」後の「プラハの春」音楽祭での『我が祖国』に接したことが直接的なきっかけで、それまで腑に落ちなかった「国民楽派」の音楽に漸く自分なりの実感をもって接することができるようになるのだが、中学生の私はそうした思いを抱くこともなく、情けないことには『我が祖国』全曲を聴くことすらない儘、辛うじて原曲の交響詩『モルダウ』のみに接した限りで自分なりの解釈をもってコンクール本番に臨んだのであった。中学生の合唱部で中学生自身に指揮をさせることが珍しかったためか、偶々そのコンクールに審査員として立ち会っていたらしい作曲家の中田喜直さんが、中学生ながらそれなりの解釈を施しての指揮であったことを評価して下さり、指揮の勉強を続けるようにとの言葉を下さったというのを後日、くだんの音楽教師の伝言経由で聞いたのだったが、特段音楽的な環境にいるわけでもない地方都市に住む平凡な中学生にとって、間接的にであれ受け取った高名な(中学の音楽の教科書に必ず載っている合唱曲の作曲家だったから勿論、名前を知らない筈はない)作曲家の言葉は、自分の生きているちっぽけな生活世界の中でリアリティを持つことはなく、後に苦々しい思いとともに思い起こすエピソードの一齣となる他なかった。とまれ偶然の産物とはいえ、ここでもチェコの音楽との例外的な接触があって、私がマーラーへの熱中の背後で後年ノヴァークに出会うことになる背景を形成したことは間違いない。

 更に言えば、こちらはノヴァークの音楽を聴くようになったのと相前後するような時期のことだが、当時石川達夫さんが精力的に翻訳・紹介をしていたカレル・チャペックの作品をかなり纏めて読んだことや、ビロード革命の立役者である劇作家、ヴァーツラフ・ハヴェルが獄中から妻宛てに書いた膨大な書簡(『プラハ獄中記―妻オルガへの手紙』)を読んだり、現象学の研究者としてフッサール、ハイデガーに師事しながら、晩年になってハヴェルとともに「憲章77」Chartě 77 の代表として活動をした結果、官憲に拉致されて長時間の尋問を受けた後に心臓発作を起こして逝去した哲学者、ヤン・パトチカの『歴史哲学についての異端的論考』Kacířské eseje o filosofii dějin (邦訳:みずず書房, 2007)をやはりこれも石川達夫さんの翻訳を通じて接したこと、こちらは美術になるが、偶々チェコの画家フランチシェク・クプカFrantišek Kupka (1871~1957)だけにフォーカスした展覧会(1994年、愛知県美術館・宮城県美術館・世田谷美術館を巡回。私は世田谷美術館で作品に接した)があり、その作品にある程度網羅的な仕方で接する機会があったこともまた、チェコについての関心を広げる役割をしたと記憶する。音楽についても同様で、フィビフ、フェルステル、スーク、マルティヌー、ヤナーチェク、オストルチルやハーバといったチェコ人の作曲家の作品に接するなど、チェコの音楽に接する機会が何故か相対的に多かったことを考えれば、ノヴァークの音楽との出会いもまた、チェコの文化との遭遇の一齣に過ぎなかったという見方も可能だろう。

 既述のようにノヴァークは、本人の誕生からの前半生を、ドイツ人のための神聖ローマ帝国の後継国家であるオーストリア=ハンガリー帝国内においてチェコのナショナリズムが高まっていく中で過ごした。一時取り沙汰されたこともあったらしいチェコ人の自治権を認めた三重帝国こそ実現しなかったが、第一次世界大戦にオーストリア=ハンガリー帝国が敗れて解体することの結果として、チェコ人はひととき独立を獲得する。マサリクに率いられた所謂チェコスロヴァキア第一共和国の成立である。だが第一共和国は、東方からの脅威を防くことを目論むヒトラーのオーストリア併合の次の餌食となってしまい、まずドイツ人が多く居住するズデーテンが割譲され、次いで全体が併合されてしまって第一共和国は消滅する。(この時のヒトラーのやり方は、今まさに起きているプーチンのロシアによるクリミア半島の割譲とドンバス地方への傀儡政権の樹立というプロセスの仕上げとしてのウクライナ侵攻を彷彿とさせる。そのことを考えればプーチンの侵攻の口実がネオナチからの解放を目的とした自称「特別軍事作戦」であることは悪い冗談としか感じられない。)

 第一共和国はミュンヘン協定により戦争回避の生贄として見殺しにされ、おしまいにはチェコ地域(ボヘミアとモラヴィアの主要部分)はベーメン・メーレン保護領として併合されてしまうのだが、『南ボヘミア組曲』はそうした一連の出来事に先立つ1936年から1937年にかけて作曲された。1930年、日本風には還暦を迎えたノヴァークは生誕の地であるカメニツェ・ナト・リポウを訪れる。そのことをきっかけにして、彼は自分が南ボヘミアの田園風景、とりわけ森や池から自分が受け取ったものを改めて認識し、それらに対する応答として『南ボヘミア組曲』を作曲したというのが経緯となる。既に述べたこの作品の特質、即ちユニークな時間の流れ方、単なる雰囲気の変化や対比ではない、組曲を構成する楽曲の間にある意識の位相の違い(組曲前半の直接経験される現在と回想される過去に対して、組曲後半の社会的・理念的なものの侵入、即ち歴史的過去と未来への眼差しという重層性)に関連した、抒情的・印象的な前半2曲と3曲目に置かれたフス教徒の聖歌(『イステブニツェ聖歌集』Jistebnický kancionál 所収で、スメタナの『我が祖国』Má vlast やドヴォルザークの劇的序曲『フス教徒』Hustiská dramatická ouvertura, op.67 で用いられたことで余りに有名な「汝ら、神の戦士よ」Ktož jsú boží bojovníci)との対比もさることながら、この作品が或る種未来を先取りした作品である点に留意すべきであろう。勿論、作品創作の時期には既に後のカタストロフの予兆はあちらこちらに伺えたに違いないが、それにしても、かの白山の戦いでフス派が壊滅してからというものの、或る種黙示録的な予言の如きものとして伝えられ、スメタナの『我が祖国』Má vlast の末尾の連続して奏される2曲「ターボル」Tábor と「ブラニーク」Blaník によって余りにも有名になったあの伝説がここで暗示されているのは、その後のチェコの運命を思えば、予言的とでもいうべきか。

 だが白山の騎士達が現実に出現することはなく、その後のズデーテン割譲から保護領化に至るまでの期間ひととき沈黙するものの、『深淵から』De profundis (1941) と題された交響詩とオルガンと管弦楽のための『聖ヴェンツェラス三部作』Svatováclavský triptych (1941)で作曲を再開したノヴァークは、ナチスの支配下では音楽によるレジスタンスを展開したのであった。よもや待ち望んだ白山の騎士と勘違いしたわけではなかろうが、そうしたノヴァークにとってスターリンが解放者として映ったのは間違いないことなのだろう。1943年に作曲された『五月の交響曲』Májová symfonie と題された独唱、合唱つきの長大な管弦楽曲はスターリンに献呈されており、ナチスの壊滅から7か月後の1945年12月に初演された。戦後まもなく1949年には没するノヴァークが共産党政権に対して親和的であり、「人民芸術家」の称号を得たことについて今日の視点から後知恵で批判することは容易いことだが、ここではその事実を述べるに留めて当否を論じることは控えたい。 

 それとともに、マーラーがチェコ人ではなく、チェコ生まれのユダヤ人であり、ナチスによって「退廃音楽」として演奏を禁止されたという点を踏まえるならば、一頃日本でも話題になった姪アルマ・ロゼの名の傍らに、ホロコーストの犠牲となり、強制収容所でその生を断たれた一連のチェコ生まれのユダヤ系の作曲家の名前を挙げないでいるのはバランスを欠くことになるだろう。シェーンベルクの門下でプラハのドイツ劇場でツェムリンスキーの計らいで指揮者を務める一方で、ハーバにも師事したヴィクトル・ウルマン、やはりハーバの門下であるギデオン・クライン、更にはヤナーチェクの門下であったパヴェル・ハース、ハンス・クラーサといった、テレージエンシュタット強制収容所に送られた後、アウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所で殺害されるという運命を辿った作曲家達、同じくナチスにより「退廃音楽」として迫害され、ホロコーストの犠牲となったエルヴィン・シュルホフといった作曲家の存在を忘れてはなるまい。一方で、ノヴァークの弟子であり、微分音音楽の開拓者として当時の前衛であったハーバもまた、ナチス支配下では作品演奏を禁じられ、プラハ音楽院に自ら設けた微分音学科での教育も禁じられることになる。戦後一旦は復帰するものの、今度はスターリニズムの影響下にあった共産党政権によって「形式主義者」として迫害を受け、微分音学科は廃止され、強制的な引退に追い込まれることになる。尤も引退後の彼は作曲の自由を回復することになって逆に本来の前衛的な作風を取り戻し(彼の最後の弦楽四重奏曲である第16番は五分音による)、半ば忘れ去られつつ1973年に世を去る迄実験的な探求を続けたのであったが。

 勿論、だからといって私にとってチェコはまずもってマサリクとチャペックのそれであり、パトチカとハヴェルのそれであることには些かも変わりはない。ハヴェルには「力なき者たちの力」Moc bezmocných (1978)と題された論考があるけれど、まさに「力なき者たちの力」こそが拠って立つべき根拠であるという思いも変わることはない。またチャペックの作品の持つ、後年のSFを遥かに凌ぐ透視力への感歎の思いは、原子力(『絶対子製造工場』や『クラカチット』)、感染症の蔓延と戦争(『白い病』)、ロボットや遺伝子工学、人工知能、人工臓器(『ロボット』、『山椒魚戦争』)や老化(『マクロプーロスの処方箋』)といったシンギュラリティ(「技術的特異点」)を目前にした今日の問題をチャペックが全て予感しているのであれば、寧ろ強まるばかりである。不覚にもごく最近気づいたのだが、「分解」「腐敗」を切り口とするという卓抜な着想と歴史学者としての実証によって今日の問題に対して最も鋭く批判的な応答をしている藤原辰史先生の『分解の哲学』は一章をチャペックに割いており、一読してチャペックと藤原先生双方の着眼の卓抜さに圧倒される思いがしたことを鮮明に記憶している。

 だがもしそうだとして、ビロード革命後にプラハで鳴り響いた『我が祖国』のもたらす感動、チェコ人でもないし、チェコに暮らしたこともない人間の、恐らくは少なくない誤解を孕んだ身勝手な共感は、一体何に対するものなのだろうか?それは幾らでも暴力的に成り得て、「浄化」という名の他者に対する排除、他者の絶滅を正当化する論理が依拠する類の排外的で独善的なナショナリズムとどのように区別されうるというのだろうか?

 勿論そうした問いに対して簡単に答えられる筈もなく、だがだからといってそうした問いを回避して済むわけでもないのだけれども、私にとってのノヴァークの音楽は、出会ってから四半世紀が過ぎた今もかつてと同じ風景を私に見せてくれる。そして四半世紀も遅れてノヴァークの音楽との遭遇についての証言を書き留めておきたいという思いをようやくこのように果たそうと試みた時、自分にとってノヴァークの音楽は或るタイプの「生」のモードに結びついていることを認識せざるを得ない。そしてそのモードはボヘミア楽派のメンバーの一人としてのノヴァークのそれではなく、更にまたその生涯を通じて幾多の変遷を遂げたノヴァークその人のそれですらなく、端的に『南ボヘミア組曲』を作曲した折のノヴァークのそれであることに気付くのである。最初に述べたことの繰り返しになるけれど、ノヴァークに出会った頃の私は、その音楽に彼の蒙った傷と絶望と、森や池や草原の風景から受け取ることのできる深い慰藉とを感じ取り、内向的でぶっきらぼうで非社交的な彼の性格を受け止め、共感したのだったと記憶するが、今そうであるのと同様、当時の私にとっても最も深く心の中に染み透る作品である『南ボヘミア組曲』にかつて見たものは、今にして思えば稍々位相のずれたものであったかも知れないと思う。

 既に記した通り、ノヴァークは60歳に到達した折の「帰郷」をきっかけにこの作品を創り出した。組曲を構成する楽曲の間にある意識の位相の違い、即ち組曲前半の直接経験される現在と回想される過去に対して、組曲後半の社会的・理念的なものの侵入、即ち歴史的過去と未来への眼差しという重層性そのものが物語る通り、瞑想的で流れ込む外の風景の「感じ」と外に沁み出していく「私」という意識の構造とその移ろいの過程の様態が克明に定着された前半の2曲もまた、若き日の作品群とは異なって、直接的な体験の印象主義的な音楽化ではなく、それ自体がフッサール現象学でいうところの第二次的な把持のレベルにある。(それに対し後半2曲についてスティグレールを援用するならば、更にテクノロジーに補綴された第三次的な把持の水準、アンディ・クラークの言う「生まれながらのサイボーグ」としての「人間」の水準にあると言えるだろう。)それは既に「回想」の相をも含んでおり、「回想」の意識内容と、今、改めて己れをその中に浸す風景の直接的「感受」(ここでの感受は、ホワイトヘッドのプロセス哲学的な意味合いで用いている)の二重性を帯びたものなのである。今の私が『南ボヘミア組曲』に見出すのは、これもノヴァークの後期作品の特徴と私が感じていることとして既に記したことの繰り返しとなるが、若き日の室内楽に見られた些か不器用なまでの率直さに再び近づき、気どりや飾り気の無さ、敢えて洗練とか流麗さとかを拒むようなたどたどしくさえある朴訥さが感じられるとはいえ、現象そのものに無自覚に対峙するのではなく、ゲーテの箴言に言う「現象から身を退く」ことに近接するような、自己の主観の働きを客観化するような働きである。ゲーテはそれを「老年」に結びつけて語ったのだっだが、アドルノはジンメルのゲーテ理解を受け継ぐような形で「現象から身を退く」点を重視して「後期様式」を、マーラー、シェーンベルク、ベートーヴェンといった具体的な作曲家を対象として論じている。それを単純にノヴァークに敷衍することが正当化できるかどうかについての判断は専門の研究者でもない私の能くするところではないが、そうであったとしても、ノヴァークに対して遅ればせの応答をかくして試みることで確認したのは、それが実は最初から「老い」に、アルフレッド・シュッツの指摘をうけてより正確に言うならば、「老い」ていくという事実よりもより多く「老いの意識」に関わっていたし、今よりのち、ますますそうなっていくのだということであった。

 関わっていたというのが言い訳でないというのは、ノヴァークを良く聴いた同じ時期に、ノヴァークに対してではなかったし当時の私の年齢相応の仕方ではあったが、自分が既に「老い」について幾つかの対象を媒介にして考えていたことに思い当たったからである。それは生物学的・生理的な老いそのものではなく、アドルノとは別の仕方によって「後期様式」とは別の選択肢に辿り着くというような認識の様態を巡ってであった。ここでそれらを繰り返すことはしないが、そのきっかけは、或る日自分がダンテの『神曲』冒頭に記されたような人生の折り返し点を気づかずに既に通り過ぎて了ったという認識を抱いたことだったように記憶する。その辺りの消息は、このブログの記事の中で、一見したところマーラーとの関連が稀薄そうに見える身辺雑記(1) 序に記録している通りである。人生の折り返し点を過ぎたということは、ダンテの定義によれば老年に差し掛かったということであって、そうした自己認識の下、アルヴォ・ペルトの言う「偉大な芸術家にとって、もう芸術を創造しようとしたり、創造したりする必要のないとき」という言葉を導きの糸としたシベリウスの晩年の沈黙やデュパルクの断筆についての思考、ジッドの「狭き門」におけるアリサの「私は年をとってしまった」というジェロームへの言葉を巡っての思考、ヴァルザーがブレンターノを主人公にして書いた散文にあらわれるあの薄暗い大きな門、その向こう側には沈黙が広がる相転移の地点についての思考は、その時期の私なりの「老い」についての思考であった。その時は寧ろ、相転移の向こう側の沈黙の方にフォーカスしていたので、恐らくはその手間に位置づけられる「後期様式」についての思考との両方を「老い」を媒介とした一つのパースペクティブの下で捉えるという発想を持つことはなかったのだが、今やそれにこそ取り組むべきなのだと感じている。そのことはパスカルに関して数学者をやめたことを惜しむのか、「沈黙」の替わりに『パンセ』を遺したことすら問いに付すのかとの間の二者択一を意味しない。寧ろ相転移の向こう側でなお、何が可能なのかが問われているのかも知れない。更に言えば「老い」の意識は暦年に基づく年齢とも生理的な年齢とも関わりなく、寧ろ病とか身体的な衰えや、そうしたことに媒介された死への意識とともに主体に到来するものなのだろうが、さりとて暦年に基づく年齢や生理的な年齢に伴う老化自体を無視することなど出来はすまい。

 「老い」について語られることは、「死」について語られることの多いのに比べて余りに少なく、仮に語られても、それは「死」との関りにおいてのみ論じられることが常であるように感じられる。だが、ジュリアン・ジェインズの言う「二分心」崩壊以降、ダマシオの言う延長意識が立ち上がると「自伝的自己」が確立され、生涯に亘って維持されるようになったのだが、逆にそうなってみると生物学的な「死」の手前に、その前駆としてではない「自伝的自己」の消滅が、「老い」によってもたらされることになった。ダマシオの記述を参照するならば、認知症の代表的な原因であるアルツハイマー病では「初期では記憶喪失が支配的で、意識は完全だが、この破壊的な病が進むと、しばしば進行的な意識低下が見られる。(…)この意識低下はまず延長意識に影響し、事実上、自伝的自己の様相がすっかり消えてしまうまで延長意識の範囲を徐々に狭めていく。そして最終的には中核意識も低下し、もはや単純な自己感さえなくなる。」(ダマシオ『無意識の脳 自己意識の脳』, 田中三郎訳, 2003, 講談社, p.138)

 ジャンケレヴィッチの『死』は死そのものと同様、その手前と向こう側についても延々と語っており、その中で勿論「老い」についても「死の手前」の中の一つとして論じている(ジャンケレヴィッチ『死』, 仲澤紀雄訳, みすず書房, 1978, 第1部 死のこちら側の死, 第4章 老化)が、無い物ねだりとは言い乍ら、やはり「老い」そのものについて論じているとは言い難い。勿論こうした次元での「老い」は直接には「現象から身を退く」ことをその定義とする「後期様式」とは無関係であるということになろうけれど、こうした次元の「老い」と切り離してそれらを論じることは、こちらはこちらでもともとのゲーテの言葉を軽んじていることになるのではなかろうか。

 「老い」についての大著というと、邦訳で上下巻、二段組で700ページにもなるボーヴォワールの『老い』(朝吹三吉訳, 人文書院, 1972)があって、膨大な資料を渉猟し、その記述は多面的で、生理的側面、心理的側面、社会的側面の全てに亘り、客観的・対象的な了解と主観的・体験的な了解の両方を扱っており、かつそれらそれぞれの面のいずれについても充実したものだが、余りに経験的な次元に限定されている感じもある。一方でその限りにおいて、作家や学者に比べて芸術家(画家と音楽化)の晩年についての評価は高いのだが、その理由が特殊な技能を習得することから習熟に時間を要するという稍々皮相な指摘(「(…)このように彼ら(=音楽家:引用者注)が上昇線をたどるのは、音楽家が服さなねばならない拘束の厳しさによる、と私は解釈している。音楽家は自分の独創性を発揮するには高度の熟達がなければならず、これを獲得するには長い時間が必要なのである。(…)」, 邦訳下巻, p.479)に留まっている。何よりも「老い」が単なる「長い時間」と同一視されていて、「老い」の固有性が顧慮されていない点が致命的に感じられ、これではゲーテの「現象から身を退く」に基づくジンメルやアドルノの議論との間尺がそもそも合いようがない。ボーヴォワールが「老い」というものが様々なレベルで複合的に決定されているものであるが故に明確に定義することが困難であることを認識した上で、「老い」というものの固有性について理解しているだけに、個別の例における上記のような評価は寧ろ腑に落ちない感もあるが、ここでこれ以上立ち入ることは控えることにして後日を期することにしたい。

 その点で留意するに値するのは、世阿弥が『風姿花伝』において能役者の生涯における三回の「初心」について述べる中で「老年の初心」について述べていることだろう。そもそも能楽には「老体」の能と称される演目があり、「老女物」の能を演じるのは能役者にとっての生涯の目標であり、かつては奥伝として特に許された者以外は生涯演ずることが叶わなかった程である。そしてそうした最終目標の演目において能役者が演じるのは、小野小町の老残の姿と心持ちを扱った作品(『卒塔婆小町』を始めとする所謂「小町物」)であったり、棄老伝説を踏まえた、今日的には残酷ともとれる状況を扱った作品(『伯母捨』)なのであって、役者として「老年の初心」を経て初めて到達できる境地と、そうした「老い」を主題とした演目との間に深い関りが存在することは、そうした作品の最高の上演に幾度か接すれば自ずと得心されるもので、そうした観能の経験もまた、私がそうとは気づかずに断続的に行ってきた「老い」についての思考の枢要な導き手であったことを今、改めて認識し、そうした上演に立ち会うことができた僥倖に感謝せずにはいられない。ここでは「死」とは異なる「老い」の固有性が、そのマイナス面も含めて決して否定的に扱われることなく、だがそこから目を背けることもなく、真っ向から取り上げられているのである。

 であるとするならば、要するに求められているのは、『分解の哲学』において遂行されているように「分解」「腐敗」を正面から取り上げること、そしてその顰に倣いつつ、だが、こと「老い」を扱うのであれば、『分解の哲学』が謂わば「死の向こう側」における「分解」に目を背けることなく取り上げたのに呼応して、「死の手間」における「分解」を取り上げることなのだと考える。

 だが「老い」について上記のような議論をすることはそれ自体、最早ノヴァークその人への「応答」としては過剰であり、逸脱であるというのが客観的な判断としては妥当だろう。既述の通りノヴァーク自身はその後しばらくの沈黙の時期はあったけれども断筆に至ったわけではないし、その後は、抵抗としての音楽の創作に向かったのだから、ノヴァークその人の総体を論じるのであれば、そこに上述した意味合いでの「老い」を見出すのは無理筋ということになるに違いない。けれども私にとってのノヴァークは何よりもまず『南ボヘミア組曲』に映り込んだ彼なのであり、(『シニョリーナ・ジョヴェントゥ』のように素材として若さ/老いを扱った作品があるとは言え)もしかしたらノヴァークにおいて一度切り、そこに限ってということであれば、ここで考えているような「老い」を論じることは許容されるのではなかろうか。だが寧ろ、今やそのことをこうして確認したからには、かつての自分がノヴァークから明確に離れたという訳ではないにせよ、その後再びマーラーに立ち戻ったように、今度はマーラーと「老い」について、マーラーにおける「老い」について、必ずしもアドルノのようではなく自分なりの認識を整理することに向かうべきなのだと感じている。そしてそれはかつて『南ボヘミア組曲』に出会った折の仕方と同じ仕方でなく、上でラフにその輪郭を辿ったことの延長線で「老い」について考えることに通じるのであろう。(2022.12.7オリジナル版, 2023.2.8マーラーに関連する部分を編集し、若干の加筆の上公開、2.16, 3.7更新, 3.8改題, 4.30,5.4加筆修正, 2025.7.16-17, 8.5改訂)

2025年7月16日水曜日

生涯についての覚書(2008/2025, 2025.7.16改訂)

マーラーの場合、その人の生涯の軌跡を辿ることには、他の作曲家の場合とは些か異なった事情があるようだ。 作品と作曲者の生の軌跡との関係は、時代により、人によりまちまちだが、マーラーの場合にはその間に密接な 関係があるのは明らかであるように思われるからだ。勿論、狭義に解された意味合いでの「伝記主義」、その作品の 「内容」を、作曲者の人生のある出来事に還元しようとする姿勢は、マーラーの場合においてすら妥当ではないだろう。 マーラーの場合は、そうした短絡がしばしば起き勝ちであるためか、作品と作曲者の関係については、他の作曲家の 場合に比しても随分と慎重で繊細な取り扱いがなされる場合が増えているように思えるが、結局のところそれもこれも 作品と作曲者との関係の密接さを物語っているのだろう。

だが、その一方でマーラーその人の生きていた時代は遠くなりつつある。ましてや極東の僻遠の地に住むものにとって、 マーラーその人の生きた環境を思い浮かべるのには困難が伴う。幸いマーラーの場合には、ド・ラ・グランジュの浩瀚な 伝記をはじめとして、伝記、評伝の類は数多くあるし、邦訳が存在するものもあるし、日本人の手による伝記・評伝も 存在する。それらを読むことで、このような音楽を書いた人間がどのような人で、どのような時代に生きたのかを間接的では あるが知ることができる。写真・図録の類も少なからずあるから、それらによって視覚的な情報を補うこともできるだろう。

従って、ここでマーラーの生涯についてまとめることが、そうした数多い評伝に伍する意図から発しているのであるとすれば、 私がマーラーの研究者でも、歴史学者でもない以上、まずもってその資格無しの烙印を押されておしまいになってしまうだろう。 所詮は直接一次資料にあたることができず、所蔵している幾つかの文献を元に、「自分の目に映ったマーラー」を描き出すのが せいぜいなのだ。文献に誤りがあれば、「私のマーラー像」はその誤りの上に作り上げられるのだ。

その一方でWebで簡単に入手できる情報には、思いのほか間違いや、控えめに言っても誤解を招くような記述が少なくない。 比較的正確な情報があっても、それが日本語でなければその情報を利用できない場合もあるだろう。 勿論それはマーラーに限ったことではなく、一部の「恵まれた」作曲家を除けば、Webで入手できる情報は、多くの場合には 断片的だ。寧ろマーラーは量的にも質的にも恵まれた方であると言っていいかも知れない。問題は、客観性を装った 記述の中に、筆者の予断が入り込んでいたり、古い文献では事実として書かれていても、少なくとも現時点では信憑性を 疑われている内容がそのまま、注釈もなしに記述されていることがあることだろう。勿論、学問的に正確で厳密な記述は、 専門家の領分であり、Webで私のようなマーラーの音楽の一享受者が云々することではないのは確かだが、素人目に見ても 首を捻るようなケースもあるので厄介なのだ。もっとも、そうしたケースでも「私のマーラー像」との懸隔に苛立ちを感じているだけではないか、 という批判の前には沈黙せざるを得ない。せいぜいがある文献に従えば、それは事実ではないというのが関の山なのであって、 真偽の判定をする最終的な材料を私が持っているわけではないのだ。その点をはっきりさせるべき、記述にあたっては、 私自身が伝記作者を僭称することなく、自分が参照可能な伝記やドキュメントなどの文献に語らせる方法を採用すべきだろう。 実際そうでしかありえないのであれば、伝記やドキュメント類の引用の集積たる「メタ伝記」とでも言うべき体裁が、実質に 見合ったありように思われるからである。そして、それが不可能なのであれば、これを伝記と呼ぶのを止めるべきだろう。 せいぜいがそうした伝記的資料を渉猟していて自分が気になった点を断片的に記すといってレベルの備忘、覚書というのが 実質に見合っているのだ。

ここにまとめるのは、従ってあくまでも「自分の目に映ったマーラー」像である。ド・ラ・グランジュの伝記に含まれる情報量は 膨大だが、それを全て等しく記憶してマーラー像を作り上げている訳ではない。結局、伝記の類というのは、事実の選択と 系統付けの作業の結果であって、書く人の数だけマーラー像というのは存在するのだ。そして、ここに記載されたマーラー像が、 Webの他所で入手できる情報に比べて真正なものである保証はない。その点では、Web上に存在する他の情報に比べて 優位を主張するつもりはない。私はただ単に、「自分の目に映ったマーラー」がどんな人であったかを書きとめておきたいだけである。 勿論、主観的に判断した限りでは虚構を書くつもりはないが、それでもなお、間違いや、間違いではなくても、事実の取捨選択や 出来事の解釈に恣意が入り込むのを避けることができる自信が私には全く無い。従って、ここでのマーラー像は、寧ろフィクションだと 思って読んでいただいた方が誤解がないかも知れない。あったことを無かったこと同然に言いくるめる相対主義は危険であり、 強い反撥を覚えるし、ここでもそうした相対主義を主張しているわけではない。ことマーラーの生涯については、私は所詮、 あっとことと無かったことを厳密に判定する基準を自分の中には持っていないということと、自分の作り上げるマーラー像が、 今日の日本に住み、音楽を専門とせずに、マーラーの音楽をそれなりに聴いている私を形作る様々な文脈、環境に拘束された 一つの展望、星座に過ぎないのだということを言いたいだけである。

率直に言えば、かつて熱中していた頃にはその人にも夢中になったものだが、現時点では、その人に対して距離感を感じずには いられない部分も多いし、何よりも、時代と場所の隔たりの大きさを感じずにはいられない。そして、そうした感覚が記述に 反映するのは避け難いことだし、あえて言えば、避けようとも思っていない。寧ろそうした距離感と共感のない交ぜとなった感じを 書き残して置きたい、というのが本音なのだ。マーラーの音楽を享受することに関しては、それが紛れもなく自分の固有の経験 だが(勿論、そうした「自分」が、様々な環境、文脈に拘束された、不安定なものであること、そして自分には己の全てが 見えているわけではないことは当然だが)、マーラーその人については決してそうではない。かつての私は、そこの部分の遠近感に ついて明らかに錯視を起こしていた。音楽から人を眺める倒錯が、外挿する過誤がそこには確実に含まれていた。マーラーが 自分にとって、「他者」であること、これは恐らくはほとんどの人にとっては、はじめから明らかなことなのだろうが、私にとっては 必ずしもそうではない、それは苦々しい感覚を伴う、後成的な認識だったのであって、もしかしたら、今なおそれを意識的に 確認せずにはいられない心的なメカニズムが私の自己の、私からは見えないどこかで働いているようなのだ。恐らく実のところ、 ここで行うのはその確認作業に違いないのである。私の場合には、興味がある作品を書いた人に対する関心は必ずつきまとう (作品と作曲者を切り離して、作品を自律的なものとして捉えることがどうしてもできない)のだが、それでも他の作曲家については、 その人の生涯を自分の手で確認するような、このような作業をしたいという欲求そのものをほとんど感じないのだ。結局のところ、 私にとってマーラーは、その音楽もだが、その人そのものも、未解決の問題なのだろう。

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マーラーが誕生したのは1860年7月7日、没したのは1911年5月18日であることは周知の事実であるが、 ではマーラーが生きた時代がどんな時代であったかを想像することができるかといえば、それは 実際には容易なことではないだろう。とりわけ19世紀末のウィーンに関しては色々な書物によって 情報を入手することが可能であって、そうした知識の集積により自分の中に一定のイメージを作り出すことは 可能だが、そうした情報にはどうしても偏りがあって、その歪みが、例えばマーラー自身が眺めていた 風景の持つ歪みと一致することを期待することは望み薄である。否、そういう意味ではマーラーの音楽を 聴き、それと同化することによっての方が確実ではないかとさえ思える。だが、そうしたアプローチは 時間と空間を越えた「近さ」を感じさせはしても、現実は画然として存在しているはずの距離感を 測るには適さない。そういう点では(強烈なバイアスによって歪められてはいても)生き生きとした アルマの回想に現れるマーラーのイメージもまた同様で、そらんじる程にその内容に親しんでしまった 子供は、自分が頭の中に作り上げたイメージが如何に身勝手な空想であるかに気付くのが困難になる。

距離感の測りがたさの一因は、逆説的にもそれが想像を絶するほど異なった過去ではない、という点にあるの かもしれない。しばしば当たり前のことだと思っているが、マーラーの姿を定着させた数多くの写真、 マーラー自身が書いた夥しい量の書簡、そしてアルマのエピソードに出てくる鉄道、自転車、電話、電報、 そして自動車といった輸送・通信手段は勿論、自明のものではない。同じことは例えばもう100年前の モーツァルトには全く当て嵌まらないことを考えれば、マーラーの生きた時代との距離感の微妙さを 大まかではあっても測ることができるだろうか。今日のスター指揮者であれば、大西洋を往来するのには 船ではなく、飛行機が使われるだろうが、とはいえ、発達しつつある交通網を利用して、客演を定期的に 行うというスタイルは今日と大きくは変わらない。ウィーンが再開発によって近代都市に生まれ変わったのは、 マーラーがウィーンの音楽院に在籍した時期(1875年~1878年)と重なっており、アルマの回想録に 生き生きと描き出されている壮年期のマーラーが闊歩したウィーンの街の景観は、まさにマーラーの時代に 出来上がって、その後基本的には現在まで引き継がれているのである。またウィーン以外の、マーラーが キャリアを積み重ねていった各都市の歌劇場もまた、まさにマーラーの活躍した時代にそのあり方を 変えつつあり、まさにマーラーのような能力の持ち主が何時になく嘱望されていた時期なのである。 ウィーンの宮廷歌劇場こそその典型であって、宮廷歌劇場の新築はウィーンの都市改造の目玉の一つであった。 今日のウィーン国立歌劇場にはロダン作のマーラーの像が置かれているようだが、第2次世界大戦の惨禍に 巻き込まれ、現在の建物は戦後再建されたものではあるが、デザインが踏襲されたこともあって、基本的には 場所も含めて、マーラーが仕事をした歌劇場と今日のそれとの連続性を認めることは可能だろうし、 しかもその建物はマーラーが生まれる前には存在しなかったのである。同様のことはブダペストについても ハンブルクについても言えて、ブダペストの王立歌劇場の開場はマーラーの赴任の4年前の1884年、1991年に マーラーが赴任したハンブルクの市立劇場は1874年に大改造を経て新規に開場している。もっともハンブルクの 歌劇場は第2次世界大戦で破壊されて戦後に再建される際にデザインも一新されたため、往時の姿を 知るには過去の写真などによる他ないのだが。

マーラーは職業という観点から見れば何よりもまず時代を代表する歌劇場の監督・あるいはコンサート 指揮者であり、作曲は専ら余暇に無償で行った。ところで、歌劇場という施設やコンサートという制度は それを支える経済的な側面も含めて、上述のようにまさにマーラーの時代に確立し、その後若干の変遷はあったものの、 基本は大きく変わらずに今日に至っているのであるし、マーラーが音楽教育を受けたのはウィーンの音楽院であるが、 そうした音楽教育の制度の面でも、まさにマーラーの時代に今日まで続く仕組みが確立していったのである。 そういう意味ではマーラーの時代と今日の間には大きな断絶はないと言っても良いかもしれない。 ちなみに音楽院という教育機関による教育の開始は、フランス革命が契機であり、パリの音楽院を嚆矢とする。 ウィーンの音楽院は楽友協会により1810年代に設立され、公立になったのはマーラーの晩年1909年の ことである。従って音楽院自体はマーラーの時代の成立ではないのだが、カリキュラムや学科の確立、 教授陣の充実、それによる優秀な人材の輩出によって、音楽院の名声と権威が確かになるには当然それなりの 時間が必要であり、それはマーラーが入学する頃には確かなものになっていたと言いうるようである。

それだけではなく、上述したウィーン市の大規模な改造計画に伴って、ウィーン音楽院が歌劇場近くの現在の所在地に移転したのは、 マーラーが入学する直前の1870年だった。 例えばバロック期や古典期、更にはロマン派前期の音楽は今日でもよく聴かれるにも関わらず、それが受容された 環境、演奏の前提となる設備や演奏家を養成する教育の制度の面では何某かの断絶があったのに比べれば、 マーラーの音楽を取り囲む環境との連続性は明らかであろう。勿論、その後の音楽の大衆化の進展の大きさや、 あるいは演奏を記録する技術の急速な進展などを考えれば、第1次世界大戦前に没したマーラーは、いわば 「少し前の時代」を生きたというようにもいえるだろうが、マーラーの同時代の演奏家の録音記録もわずかながら 残されており、マーラー自身のピアノ演奏の記録さえ残っていることを考えると、この点についても状況の変化を 過大視することはできないだろう。確かにLPレコードの普及以降のマーラー受容の質的な変化には留意する 必要があるだろう。けれどもマーラー時代と基本的には変わらない仕方で、演奏会場で実演に接することも 依然として可能だし、寧ろ頻度だけを問題にすればその機会は拡大しているといっても良いかも知れないのである。


誕生から音楽院卒業まで(1860~1878)

マーラーが生まれたのは、オーストリア・ハンガリー帝国領、現在のチェコ共和国内のボヘミア地方のカリシュトという村であった。 その後ただちに、マーラーの一家は近くのイーグラウという街に引っ越すことになる。イーグラウもまた、現在の チェコ共和国の領内、ボヘミアとの境にあるモラヴィアの中心都市のひとつである。(なお村井翔『マーラー』, 音楽之友社, 2004の巻末の年表では、イーグラウが「モラヴィアの中心都市のひとつ」「今日のスロヴァキア共和国イフラヴァ」とコメントされているが、前者は正しく、後者は誤りである。モラヴィアはボヘミアとは異なるアイデンティティを持つとされるが、伝統的にチェコの一部であるし、繰り返しになるが、イーグラウはモラヴィアの中でもボヘミアとの境に位置している。またモラヴィア内の南東部にもスロヴァツコ地方と呼ばれる地域があるが、これは所謂スロヴァキアとは異なる。)一般にはマーラーはチェコの作曲家ではなくオーストリアの作曲家ということに なっているようだし、それには勿論妥当性があるのだが、それでもマーラーがチェコでもボヘミアおよびモラヴィアと呼ばれる 地域に生まれ、育った点は留意されて良い。マーラーがユダヤ人であることを知らぬ人はいないが、それに 加えて、ボヘミアの生まれであること、更にイーグラウという街の性格、すなわちそれが帝国直轄都市であり、 街ではドイツ語が話され、街を取り囲むチェコ語が話される地域の中の「言語島」であったことが、 マーラーが幼少期を過ごした環境に幾重もの複合性をもたらしているからである。後年マーラーが言ったとされる アルマの回想に書き留められた有名な言葉「オーストリアの中のボヘミア人、ドイツの中のオーストリア人、世界の中でのユダヤ人」という言葉に象徴される彼の「異邦人性」、或いは 社会学で言う「マージナル・マン」といった性格付けは、このような環境が前提となっているのだ。ついでに言えば、カリシュト、 イーグラウという都市名はドイツ語のものであり、チェコ語での名と同じわけではない。同様の書き方を 敷衍すると、スロヴァキアのブラチスラヴァはプレスブルクと呼ばなくてはならないし、後にマーラーが指揮者として 赴く、スロヴェニアのリュブリャナもライバッハと呼ばなくてはならない、といったことが果てしなく続くのだ。

これに関連して興味深いテーマとして、マーラーの言語的アイデンティティの問題がある。後年の書簡などから わかるように、マーラーの「母語」がドイツ語であったのは間違いなく、それはドイツ語圏の教養を身につけようと 努めた同化ユダヤ人であった父の用意した環境でもあった。イーグラウという街の性格は既述の通りだが、 マーラーが通ったイーグラウのギムナジウムではドイツ語で授業が行われたし、読書の虫であったマーラーが 読みふけった書物もドイツ語で書かれたものであったに違いない。だが、マーラーが生まれた直後の1860年10月に 皇帝が出した声明により、ユダヤ人にもようやく国内移住の自由が認められたのに乗じて、12月に直ちにカリシュトからイーグラウに移住した父ベルンハルト・マーラーも、ユダヤ人としての信仰を放棄することは無く、シナゴーグには 通っていたし、マーラーにも引き継がれた勤勉さもあって経済的に成功するとイーグラウのユダヤ人社会の 名士になるわけで、ドイツ人相手の商売をしてはいても、ユダヤ人としてのアイデンティティは保ち続けていた。 ボヘミアのユダヤ人の言語については、イディッシュ語のような独自の言語が存在していたわけではないが、 ユダヤ教の礼拝ではヘブライ語が用いられたに違いない。そしてイーグラウを取り囲む地域からやってくる人びとはチェコ語を 話しただろう。マーラーが幼少期に憶えたボヘミアやモラヴィアの民謡の歌詞はもちろんチェコ語であっただろう。

これらのうち、シナゴーグの中で使われていたであろうヘブライ語については、マーラーが幼少期より、 シナゴーグではなく、教会聖歌隊に参加するというかたちで寧ろカトリックの教会を訪れていたらしいことを 考えると、マーラーが日常的に接していたと考えるのは無理があろうが、ドイツ語のみならず、チェコ語については恐らく身近に接する機会が多かったに違いなく、積極的に習得しないまでも、聞けば何となくわかる 程度には知っていた可能性は充分にあるだろう。ドイツ語のみならず、チェコ語については恐らく身近に接する機会が多かったに違いなく、積極的に習得しないまでも、聞けば何となくわかる 程度には知っていた可能性は充分にあるだろう。言葉だけではない。その後のマーラーの音楽の基本となった ドイツ・オーストリアの音楽の伝統の基層に、ボヘミアやモラヴィアの民謡、更にはユダヤ人の歌や踊りが、それらが用いられる行事など とともに存在しているに違いないのである。(実際、後にハンブルク時代に親交を持つようになるプラハ出身のチェコ人の作曲家・批評家フェルスターの回想ではこうした経緯をマーラーから聞いたことが綴られていたりもするようである。)

その後のマーラーの軌跡を辿ると、11歳の年、1871年9月には、一時期プラハのギムナジウムに「転校」するものの、成績不振やいじめのために、翌年3月にイーグラウに戻った後、1875年9月、15歳でウィーン音楽院に入学し、その後はウィーンで生活するようになる。そして1878年7月のウィーン音楽院卒業に至るのである。マーラーの家も成功した商人であり、決して貧困の中で育ったわけではないのだが、一部の金銭的にも全く不自由なく、糊口を凌ぐべく定職につく必要のない身分・階級の子弟は別とすれば多くの平凡な人間がそうであったように、マーラーもまた、どの職業で身を立てるかの選択を迫られることになる。特にマーラーは生まれて間もなく没した兄はいたが実質的に長男であったから、当時の社会的な規範の中で(特に伝統的なユダヤ人家庭においてはそうであったようだが)将来の家長としての役割を期待されていたことであろう。、マーラー自身にもその自覚はあったように見受けられる。


移行期(0):音楽院卒業後(1878~1880)

マーラーの生涯というのは、記念碑的なアンリ・ルイ・ド・ラグランジュの伝記に代表されるように、微に入り細に至る迄、実によく調べられているのだが、その中でほぼ唯一、その足跡を辿るのが困難な時期が音楽院卒業直後のこの時期であるらしい。ブダペスト近郊でピアノの家庭教師をする以外はアルバイトで糊口を凌いでいたようだが、詳細は資料の欠如により不明なようである。(ピアノ家庭教師を終えた後はウィーンに戻り、その後マーラーに少なからぬ影響を与える友人たちと出会ったことは確実なようだが。)あまりに有名な友人ヨーゼフ・シュタイナー宛の書簡(近年は書かれた場所をとって「プスタ・バッタ書簡」と呼ばれる)が書かれたのはこの時期で、また「3つの歌曲」もこの時期の作品だが、特に重要なのはマーラー自身が自分の作品1であると見做した「嘆きの歌」の作曲であろう。そして「嘆きの歌」の完成がこの移行期の終わりを徴づけることになる。結果として職業として劇場の指揮者となることを選んだ彼は、それに少し先立つ1880年5月にエージェントのレヴィと契約し、手始めに保養地バート・ハルの夏の劇場の指揮者となることでキャリアを開始する。マーラーは勿論、完成させた「嘆きの歌」を上演させるべく試みるが、この時期のマーラーは実現のための術を持たなかった。それを果たすのは遥か先、指揮者としてのキャリアの頂点となるウィーン宮廷・王室歌劇場に就任して後まで待たなくてはならなかった。


遍歴時代(バート・ハルからライプツィヒ時代まで)(1880~1888)

保養地バート・ハルの夏の劇場を皮切りに、マーラーは劇場の指揮者としてのキャリアを積み重ねる「遍歴時代」に入る。ライバッハ(現在のスロヴェニア共和国リュブリャナ)、オルミュツ(同じくチェコ共和国内、モラヴィア中部の都市オロモウツ、なお何故か村井『マーラー』の年表では、オロモウツもスロヴァキア共和国にあるとされているが、これも誤りである。)を経て、1882年9月にはカッセルの王立劇場に就任する。それまではオーストリア=ハンガリー帝国内を移動していたのが、ここに至って初めて「国外」であるプロシアに居を定めることになるのだ。その後は一旦、プラハのドイツ劇場に戻るが、直ちにライプツィヒに就任した後、再びオーストリア=ハンガリー帝国領に戻ってハンガリー王立劇場でいよいよトップである監督に就任するのが1888年の12月、28歳の時であった。


移行期(1):ブダペスト時代(1889~1890)

マーラーにとって20歳代後半のブダペスト時代は色々な意味での転機だった。ここでマーラー自身にとっての「本来」の仕事であった創作活動を振り返るならば、幾つかのオペラ創作の試みを経て、前の移行期(1)においてカンタータ「嘆きの歌」を完成させた彼は、続く遍歴の時代にあっては、後にその一部が「花の章」として交響詩「巨人」に組み込まれることになる「ゼッキンゲンのラッパ手」の劇付随音楽を作曲した後、ウェーバーの「三人のピント」の補作を経て、いよいよ2部よりなる交響詩(後に「巨人」と命名)の作曲に取り掛かり、これを完成させた上で上演にまで漕ぎつける。ただしブダペストでの初演時点では、この作品は(その作曲の経緯がどのようなものであったにせよ、結果だけ見れば)「交響曲」ではなく、「交響詩」として上演されていることに一定の留意をすべきだろう。要するに、交響曲作家マーラーは、この時点では未だ姿を現していないのである。その一方、私生活においては、王立歌劇場監督になって間もなくの翌1889年の2月にまず父を、続いて9月に妹レオポルディーネを、そして10月には母を相次いで亡くしているのである。交響詩の初演がその後の11月末であることに留意しておくべきだろうか。翌年の1890年にはその後のマーラーの言行の記録者となるナターリエ・バウアー=レヒナーがブダペストにやってくるといった具合に、この時期に次の時期の歩みを準備する様々な出来事が次々と起きているのである。


シュタインバッハ=ハンブルク時代(1891~1898)

ハンブルク市立劇場に 就任するのは1891年3月26日だが、ハンブルクに移ってから、マーラーの歩みは或る種の確固とした リズムと音調を持つようになる。

ハンブルク時代の最大の出来事は、やはり1894年のハ短調交響曲、 こんにち2番の番号が与えられている交響曲の完成だろう。この、最初に完成した「交響曲」は そのまま翌年12月13日にマーラー自身の手によりベルリンで初演され、最初に演奏された「交響曲」になる。 翌年3月16日には、永らく5楽章の交響詩「巨人」であった、創作時期としてはハ短調交響曲に先行する作品が4楽章の(標題なしの)「交響曲」として同じベルリンで初演される。今日第1交響曲として知られる作品である。これらを以て、今日知られる交響曲作家としてのマーラーがようやく世に現われたことになると言って良いだろう。

一方で、ハ短調交響曲の初演に先立つ1895年の夏は第3交響曲第2部の作曲にあてられており、 翌年に第1部となる第1楽章を完成したマーラーは、1897年にはカトリックに改宗し、ハイネに倣うように 「入場券」を手にして、ウィーン王室・宮廷歌劇場に「凱旋」するのだ。夏の作曲家マーラーの作曲小屋での 創作というパターンが確立するのもハンブルク時代であって、1892年の夏をシュタインバッハで過ごし第2交響曲の第2、第3楽章と「子供の魔法の角笛」による歌曲を作曲したのがその端緒であった。そしてこの時期のマーラーの言行は、その際にマーラーの二人の妹、ユスティーネ、エマとともにシュタインバッハに同行したナターリエ・バウアー=レヒナーによって詳細に記録されることによって今日の我々が知るところとなる。また、ブルーノ・ワルター、オットー・クレンペラーといった、マーラーに直接接し、回想を遺し、更にマーラーの没後の長いキャリアを通じてマーラーの作品を演奏した記録が残っている「弟子」達に出会うのもこの時期である。


移行期(2):ウィーン前期(1899~1901)

ウィーンに移ったマーラーは夏の作曲の場をシュタインバッハからマイヤーニッヒに移し、そこで第4交響曲を 作曲すると、別荘を構えることを決める。すると今度はアルマ・マリア・シントラーが現われ、マイヤーニッヒの 別荘で第5交響曲の完成に立ち会うのは、それまでのマーラーの言行を忠実に記録してきた「マーラーのエッカーマン」こと、ナターリエ・バウアー=レヒナーではなく、妻となったアルマになる。ウィーンへの進出は勿論、 生涯の大事件、マーラーにとってはもしかしたら最大の快挙であったかも知れない。だが、ここではそれより 少し遅れて起きた、作曲の場の移動と、それに呼応するようにして起きたプライヴェートなパートナーの 交替の完了までを「ウィーン前期」と便宜的に呼ぶことにして一区切りとしたい。

実際にはマーラーの生涯に対する適切な展望は、このように幾つかの時点で以て単純に幾つかのフェーズに分割することではなく、 その前後に或る種の相転移のようなものが起きる領域・時期があって、それを経て次のフェーズに移行する、という ものであろう。その前の移行の領域は既に述べた様に、ハンブルク時代に先立つ1888年末から1891年初頭の ブダペスト時代であり、ハンブルク時代の後は、ここで扱うウィーン前期、即ち1897年から1901年までがそうした移行の時期にあたる。 分割をそうした移行期の後に設定してみたわけである。ただしこのやり方は、次の移行期には当て嵌まるかどうかがそもそも判断できなくなるのだが。

なお、この時期についてもう一つ特筆すべきこととして、1901年2月24日の公演後に起きた出血性ショックとその後の手術・療養がある。前の移行期には家族の相次ぐ死に接したマーラーが、今度は自分自身、瀕死の経験をすることになる。そしてこの移行期を証言する作品こそ、第5交響曲なのである。とはいっても、これは作品と生涯を単純に同一視する「伝記主義」などではない。何ならマーラーを作品を生成するオートマトンに擬しても良いのだが、そのオートマトンの側に起きた出来事がその出力に影響しているということであって、この「一人称的な死」への接近の経験は、明らかにその後のマーラーの作品の音調に変化をもたらすことになった。所謂「晩年」は、マーラーの短い生涯の中においてそもそもそれが存在しないという立場を採るのでなければ、より後の時期に位置づけるのが適当だろうが、その上で、マーラーが「老い」というのを意識した時期として、この移行期を位置づけることには一定の妥当性があるだろう。ダンテ的な老年観における下り坂は、ことマーラー自身の主観的な展望においては既にこの時期に始まっていたのではないか。楽壇の頂点に上り詰め、20年も年若い女性を娶ったマーラーは、妻あての手紙に「老グストル」と自署するようになる。それは「子供の魔法の角笛」の世界から、リュッケルト、ゲーテを経て、最後には中国の詩の翻案に至る「東洋的な」世界への移行の開始でもあった。


マイアーニヒ=ウィーン時代後期(1902~1907)

ここでいうウィーン時代後期というのは、ウィーン時代前期の作曲パターンや プライヴェートなパートナーの交替といった移行が済み、アルマを妻として マイアーニッヒで交響曲を立て続けに作曲した時期を指す便宜的な呼び名である。作品としては、移行期に着手された第5交響曲、第6交響曲、第7交響曲、第8交響曲とリュッケルトによる歌曲が含まれることになる。マーラーは、その創作態度もあって、作品を誰かに献呈するということをほとんどしていないが、リュッケルト歌曲集の中で唯一管弦楽による伴奏が残されていない(今日、管弦楽伴奏版として演奏されるのは、マックス・プットマンによる編曲である)「美しさゆえに愛するなら」はアルマに対する私信のような性格を持った作品であり、「第8交響曲」がアルマに献呈されていることは、通常あまり注意を払われることはないようだが、その作品のおかれた社会学的な位置づけを考える上では一定の留意がされてしかるべきではないかと思われてならない。

この時期のマーラーの姿は、妻となったアルマの回想によって記録されている。アルマの回想の事実関係には多くの問題が指摘されており、彼女が自分にとって都合が悪い事実を隠蔽したり、事実としては確認できなかったり、或いは知ってか知らずか事実を甚だしく歪曲したアネクドットの類が数多く含まれることは良く知られるようになっているし、マーラーの書簡すら、一部は彼女が恣意的な編集を施した形態で最初に世に出たことも判明しているが、それでもなお、彼女の主観をフィルターを通したものであれ、二人称的にマーラーと生を共にした彼女の回想には余人を以て替えがたい貴重なものがあると私は考える。


移行期(3?):トーブラッハ=ニューヨークでの晩年(1907~1911)

 1907年以降の「晩年」は、それ自体が一つの 移行期を形成する可能性があり、移行期における「相転移」の後、次フェーズが始まった可能性があると考えられる。だが事実としてマーラーには 次のフェーズはもう無かったし、最後の「移行期」にはあまりに色々なことが起きたから、この最後の時期は「移行期=晩年」として扱うことにしたい。創作の拠点としては、子供の死に遭遇したマイアーニヒを離れて南チロルのドロミテ山中にその場を求め、結局トーブラッハ(現在はイタリア共和国のドッビアーコ、但し、イタリア領ではあるものの、現在も現地ではドイツ語の話者が優位を占めているようである)に落ち着くことになる。

マーラーの晩年は、歌劇場監督を辞任しウィーンを去る頃より始まると考えて良いだろう。 長女の猩紅熱とジフテリアの合併症による死、自分自身に対する心臓病の診断という、 アルマの回想録で語られて以来、第6交響曲のハンマー打撃とのアナロジーで「3点セット」で 語られてきた出来事は、それを創作された音楽に単純に重ね合わせる類の素朴な 伝記主義からはじまって、これも幾つものバージョンが存在する生涯と作品との関係をひとまずおいて、 専ら生涯の側から眺めれば、確かに人生の転機となる出来事だったと言えるだろう。 これを理解するのには別に特別な能力や技術どいらない。各人が自分の人生行路と重ね合わせ、 自分の場合にそれに対応するような類の出来事が起きたら、自分にとってどういう重みを持つものか、 あるいはマーラーの生涯を眺めて、マーラーの立場に想像上立ってみて、上記の出来事の重みを 想像してみさえすれば良いのだ。それが音楽家でなくても、後世に名を残す人物ではなくてもいいのである。 逆にこうした接点がなければ、私のような凡人がマーラーの人と音楽のどこに接点を見出し、どのように 共感すれば良いのかわからなくなる。

だが、その一方で、マーラーがそれを転機と捉えていたのは確かにせよ、己が「晩年」に 差し掛かったという認識を抱いていたかについては、後から振り返る者は自分の持っている 情報による視点のずれに注意する必要はあるだろう。マーラー自身、自分の将来に控える 地平線をはっきりと認識したのは間違いないが、それがどの程度先の話なのか、それが あんなにもすぐに到来すると考えていたのかについては慎重であるべきで、この最後の 設問に関しては、答は「否」であったかも知れないのである。もしマーラーがその後4年を 経ずして没することがなかったら、という問いをたてても仕方ないのだが、もしそうした 想定を認めてしまえば、今日の認識では「晩年」の始まりであったものが、深刻なものでは あっても、乗り越えられた危機、転機の一つになったかもしれないのである。丁度30歳を 前にしたマーラーが経験したそれのように。だとしたら現実は、そうした転機の危機的状況から 抜け出さんとする途上にマーラーはあったと考えるのが妥当ではないかという気がする。

要するに、ここで「晩年」として扱う時期は、その全体がブダペスト時代や、ウィーンの前期の ような移行期、「相転移」の時代であったかもしれず、この時期を過ぎれば新しいフェーズが 待ち受けていたかも知れないのだ。だが、実際には次のフェーズはマーラーには用意されて おらず、移行の只中で、それを完了することなくマーラーは生涯を終えてしまったように 私には感じられる。「嘆きの歌」、第1交響曲(当時は5楽章の交響詩)、第5交響曲がそれぞれ 移行の、相転移の終わりを告げる作品であったように、第10交響曲がその終わりを告げる 作品であったかも知れないが、第10交響曲は遂に完成されることはなかった。 

(2008.10.11 初稿, 2025.7.16加筆・改訂)