2024年5月27日月曜日

音楽の鳴り響く「場所」を求めて――第10交響曲クック版の再演に寄せて(2024.5.26 マーラー祝祭オーケストラ第23回定期演奏会によせて)

 マーラーの早すぎる逝去の後、未完成で遺された第10交響曲の受容の歴史は、ドラフトを演奏可能な形態にまで補筆する企ての歴史でもあった点で他の作品とは一線を画する。モノグラフ第二版へのあとがき(1963)、更には「グラフィックとしてのフラグメント」(1969)において表明された補作に否定的なアドルノの姿勢は、ブルノ・ヴァルター、エルヴィン・ラッツといった有力なマーラー擁護者とも共有され、国際マーラー協会の全集版では第1楽章のアダージョのみが出版され、演奏や録音においてもアダージョのみが取り上げられることが多かった一方で、ドラフトの一部のファクシミリの出版(1924)以降、様々な補作の試みが為されてきたことは、永らく実演においても録音においても頻繁に取り上げられてきたデリック・クックによる全五楽章からなる演奏用版に加え、新旧を問わず様々な補作版が演奏、録音されるようになった今日では最早人口に膾炙した事柄に属するだろう。更には近年のAIブームの最中にあって、2019年にはメディア・アートの分野で著名なArs ElectronicaにおいてAIによる補作が発表されたかと思えば、かつては特定の限られた人にしかアクセスできない、謂わば「秘教的存在」であったドラフトもパブリック・ドメインとなり、ネットワークを介して誰もがアクセス可能であることを思えば、第10交響曲の全貌は今や我々にとって明らかなものであるかの如くに感じられても不思議はなかろう。

一方で第10交響曲を巡っては、未完成作品であることも手伝って、他の作品にも増して多くのことが作品の周囲で語られてきた。その多くはドラフトに書き込まれた言葉や作曲当時の伝記的出来事を手掛かりにした標題に関する問いであったり、自伝的側面が強調されるマーラーの作品の中でもその度合いが著しいこの作品の成立と伝記的事実との関係の詮索であるが、それらは遂に作品そのものに辿り着かない感が拭えず、この曲が聴き手に与える印象の破格の強さ、その質の特異性を証言するものとしては、強い情動を伴う音楽の聴取経験に関する心理学実験における、この曲についての聴き手の証言の方が寧ろ勝っているようにさえ見える。

かつて私は第10交響曲のクック版を聴いて、ヘルダーリンの最後期の断片(Wenn aus der Ferne...「遠くから…」)を思い浮かべつつ、そうした「遠く」、人間が生きたまま到達できるとは到底思えない、辛うじて垣間見ることしかできない「場所」で鳴り響く音楽であると感じたのだったが、その感覚は数十年の後の今も変わることはない。シェーンベルクのプラハ講演(1912)の末尾は第10交響曲への言及で結ばれるが、そこではこの曲について「未だにわれわれが知る由もなく、未だに迎える覚悟もできていない何かがわれわれに授けられでもしそう」(アーノルド・シェーンベルク「グスタフ・マーラー」,『シェーンベルク音楽論選 様式と思想』, 上田昭訳, ちくま学芸文庫, 2019 所収, p.160)だと述べられている。そのシェーンベルクの顰に倣えば、 私は自分がまだそれを受け止めるところまでに熟しておらず、それを知ってはならないような気持ちに捉われてならない。そしてこの信じられない程の強度を持つフィナーレに圧倒されながら、自分が一体何を受け取っているのかをきちんと語ることが未だにできない。それが第9交響曲の先にあり、この作品によって第9交響曲や「大地の歌」に関する或る種の捉え方が否定されるのは確実だと思うのだが、さりとて音楽の鳴り響く場所がどこなのかを私はきちんと言えないのである。だがそういう場所があることを指し示す音楽の力は物凄いものだし、それを産み出すことが出来た人間が確かに居たということは、本当に感動的な、 それを思うだけでも胸が一杯になるようなことだし、音楽が示す風景を、所詮は音楽が終われば消え去る仮象として片付けてしまうことが、 この音楽について私は出来ない。どんなに大袈裟に響こうとも、知ってしまえば生き方が変わってしまう類の音楽であるという言い方はこの第10交響曲に関して、私個人に限って言えば誇張でも比喩でもない端的な事実なのである。

そうした例外的な音調をもたらすのに嬰へ長調という調性が寄与していることは疑いないだろう。それはオーケストラの楽器にとっては「鳴らない」調性であり、実現される音響にどこか朧気な雰囲気を与えているに違いない。一時は第1楽章のアダージョと対を為すフィナーレとして企図されたこともあったらしい第2楽章のスケルツォは決然とした嬰へ長調で終わるが、最終構想ではそこ迄を第1部とし、その後に「この世の営み」を示唆する変ロ短調の短い「プルガトリオ」によって開始され、スケルツォとフィナーレが続く第2部が置かれ、全体で二部五楽章制をとることによってマーラー固有のポリフォニックな多層性が実現することになる。フィナーレ末尾には調性の異なる二種の構想が存在するようだが、クックが選択したのは嬰へ長調の方であり、是非は措くとして、それによって音楽が持つことになる意味は決定的である。それはその帰結として生じる、この作品におけるニ長調の風景の特異性(フィナーレの30小節目から始まる、あの忘れ難いフルートソロの箇所を思い起こして頂きたい)からも明らかであろう。そしてその意味は第1楽章のアダージョのみではなく、全五楽章を聴きとおすことによって初めて確認可能となるのであって、このことを以てしてクックの補筆の意義は明らかなことと私には思われるのである。

客観的に見ればシェーンベルクの言葉は当時の状況に依存したものとして相対化してしまえるのかも知れないが、第10交響曲の全貌が明らかになったというのは思い上がりに過ぎず、未だそれが啓示されていないという認識は、一世紀後の今日も尚、有効であると私には思えてならない。シュトックハウゼンはド・ラグランジュのマーラー伝第1巻に寄せた文章において、宇宙人が人間を理解するという仮定におけるマーラーの音楽の卓越性を述べたが、二分心崩壊以後・シンギュラリティ以前の同じ「神の不在」のエポックの終端にあって、AIが補作を行うのを目の当たりにするようになった我々にとって、「人間の解体」の後に一歩踏み出しかかりつつも未完に終わった第10交響曲こそ、シンギュラリティの向こう側におけるポスト・ヒューマンにとっての音楽に関する重要な予感を告げる預言的な存在なのではなかろうか? 

かつて私は、第10交響曲は、第5交響曲にも比せられる転換を告げる作品なのではないかという仮説を提示したことがある。偶々この作品の生成の最中でマーラーの生涯が断ち切られたことによる行き止まり、終着点の印象とは裏腹に、それは次のエポックの開始を告げる音楽ではなかったか。その無調への接近に伴う和音の拡張に関して言えば、MIDIファイルを入力とした和音に関するデータ分析の結果もまた、マーラーが「発展的」な作曲家であることを裏付け、第10交響曲が未来に向かっての発展の途上にあることを証言している。この曲をある種の行き止まり、乗り越え不可能な限界とし、そこに西洋音楽の終焉を見る立場にも歴史的な正当性があるのだろうが、かつての「人間」の解体の後、シンギュラリティが現実味を帯び、機械が有機体と区別がつかなくなるポスト・ヒューマンの予感の最中、『再帰性と必然性』(原島大輔訳,青土社,2022)においてユク・ホイが試みるように、「非人間のなごり」を見出し、ありうべき「宇宙技芸」を思い描くことに共感する私は寧ろ、第10交響曲を通過点として第11交響曲がどのようなものになりえたかを問うマイケル・ケネディの姿勢に与したいように思うのである。第10交響曲を完成させ、更にその先にあるものを確認すること――それは過去のデータに基づく近似と汎化に基づき、例外的な「新しさ」をどうすることもできない現在のAI技術によっては到達困難であろうし、そもそも第10交響曲が垣間見せてくれる「遠く」の「場所」は遂にAIには無縁のものであろう――は、同じエポックの終焉を生きる「人間」ならぬ我々の責務なのではなかろうかと思えてならないのである。

演奏され、再演されることが音楽作品の成立に不可欠の条件であり、アドルノが傲慢にも言い放ったようにドラフトをファイルに入れて一人眺めることは、作品を奇妙な幽霊的な状態のまま辺土に幽閉するが如き仕打ちであることを思えば、演奏用バージョンを作成し、解説付きの放送により聴き手に届けようと企てた(一度きりの筈のその記録もまた、今やCD化されて我々の手元に届くようになっている)クックの功績の大きさは測り知れないし、その企てに接し、それまでの態度を翻して支援を行ったアルマの判断に我々は感謝すべきであろう。

そして第10交響曲が、同じ演奏者によって10年越しに再演されることの意義もまた明らかであろう。演奏の一回性に留まらず、指揮者が年を経るに応じて解釈は異なったものとなり、演奏もまた更新される。完成作と同様の資格では存在していない第10交響曲にとって、そうした地道な作業の繰り返しの積み重ねこそが、そもそもこの世に存在するための条件に他ならず、その行為によってのみ作品は都度新たに生を享け、未来に向けて新しい姿を浮かび上がらせ、それを受け止める準備が出来ているかを聴き手に問うのだということを、再演に接する一人一人が身を以て経験することになるだろう。そしてそれはプラハ講演の末尾のシェーンベルクの以下の言葉に対して、我々一人一人が応答することに他ならない。

「しかしながら、『第十』がまだわれわれに啓示されていない以上、われわれは闘いつづけなければならない。」 (2024.3.4初稿, 2024.5.27本ブログにて公開)


2024年5月26日日曜日

[お知らせ] マーラー祝祭オーケストラ(音楽監督・井上喜惟)第23回定期演奏会(2024年5月26日)

 マーラー祝祭オーケストラ(音楽監督・井上喜惟)第23回定期演奏会が本日、2024年5月26日にミューザ川崎 シンフォニーホールにて開催されます(12:45開場、13:30開演)。詳細は以下のマーラー祝祭オーケストラの公式ページをご覧ください。(当日券が発売されるようです。)

Mahler Festival Orchestra Offcial Site (https://www.mahlerfestivalorchestra.com/)



プログラムには、マーラーの第10交響曲のデリック・クックの補筆による演奏会用バージョン(全五楽章版よりなる、所謂「クック版」)及びリュッケルトによる5つの歌曲がプフィッツナーの「パレストリーナ」前奏曲とともに含まれます。第10交響曲のクック版はマーラー祝祭オーケストラがまだジャパン・グスタフマーラー・オーケストラという名称であった2014年6月15日に同じミューザ川崎シンフォニーホールで取り上げられており、今回は10年ぶりの再演となります。10年前の公演に接した本ブログ管理人の感想は、ジャパン・グスタフ・マーラー・オーケストラ第11回定期演奏会を聴いてという記事として本ブログで公開しています。

今回の公演における第10交響曲クック版の再演に際してプログラムノートに寄稿させて頂いておりますので、是非ともご一読頂ければ幸いです。

また本ブログでは、上記の公演の感想以外にも、第10交響曲に関連して以下のような記事を執筆・公開していますので、併せてご覧頂ければ幸いです。

また、リュッケルト歌曲集の管弦楽伴奏版の演奏に接する機会は、こと日本国内では稀であり、大変貴重な機会となります。リュッケルト歌曲集に関連した本ブログの記事としては以下のようなものがありますので、こちらも目を通して頂ければ幸いです。

(2024.3.29公開, 5.26更新)

2024年5月12日日曜日

備忘:変形(ヴァリアンテ)の技法とゲーテの「原植物」とを巡る語録と証言について

 マーラーの「再現」の恐ろしさは、それが聴き手にもたらす、時としてそれ自体がトラウマになりそうな程強い情緒的なバイアスに由来する。「決定的な瞬間」においては、相転移が生じ、最早、それは単なる繰り返しとしての再現ではないこと、寧ろ、もはや元のようではない、音楽がもう引き返せないところまで来てしまったということを告げているが故にそうした強烈な情緒的な負荷が生じるのではなかろうか。

 こうしたメカニズムを支えている技術的な要素として、アドルノが指摘する「ヴァリアンテ(変形)」の技法が挙げられる。変形の技法によって、モティーフ、素材の持つ意味、引用の意義は変わる。それはライトモティーフではないし、同じモティーフの単なる反復でもない。アドルノはヴァリアンテの技法と時間性との関わりについて、以下のように述べている。
「彼のヴァリアンテは、時間を静止させるのではなく、時間によって生成し、さらにまた二度と同じ流れに乗ることはできないということの結果として、時間を生産するのだ。マーラーの持続は力動的である。彼の時間の展開のまったく異質なところは、物まねの同一性に仮面をかぶせるのではなく、伝統的な主観的力動性の中になお一種の物的なもの、つまりは以前に措定されたものとそこから生じたものとの間にある硬化した対照性を感じ取ることによって、時間に内側から身を任せることにある。」(アドルノ『マーラー 音楽観相学』, 龍村あや子訳, 法政大学出版局, 1999, p.128)
 彼の「再現」が文字通りの「反復」ではなく、「ヴァリアンテ」がもたらす対照性の効果によって、それが二度と戻ることのない過去に「かつてあった」ことがあり、今やそこから遥かに時間が経過したという決定的な感じを与えることで聴き手を震撼させ、戦慄させ、軽い恐慌状態にすら至らしめるということは言えるのではないか。

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 子供の頃の私が生態学の中でも特に植物生態学に惹かれた(住んでいた地方都市の書店で入手することのできた『オダム生態学』(水野寿彦訳, 築地書館)とオダムの『生態学の基礎(上・下)』(三島次郎訳, 培風館)はその頃の私のバイブルだった)原因の一つは、当時の私にとってのアイドルであったマーラーやヴェーベルンに影響を与えたゲーテの植物論だった。特に彼の「原植物」という発想の影響は明瞭で、彼らの作曲技法にもその反映が見られる。

 そのことに関連して、藤原辰史『植物考』(生きのびるブックス, 2022)に、ベンヤミンのVarianteへの言及が含まれることを書き留めておくべきだろう。登場するのはブロースフェルトの『芸術の原形』を取り上げた第4章の、「ベンヤミンの評価」と題された節(同書, p.85以降)。ヴァリアンテに対する言及は更にその中で、ベンヤミンが1929年に書いた書評「花についての新刊」の内容を紹介する中で、書評の一部を引用するところ。 
藤原辰史『植物考』,生きのびるブックス, 2022, p.87
(…)つまり、植物の拡大写真は、「創造的なものの最も深い、最も究めがたい形のひとつ」に触れる。この場合、「形」というのは、さまざまなものが変形する以前のプロトタイプのようなものだ。ベンヤミンはこんなことを言っている。
この形を、大胆な推測をもって、女性的で植物的な生原理それ自身、と呼ぶことが許されてほしいものだ。この異形は、譲歩であり、賛同であり、しなかやなものであり、終わりを知らぬものであり、利口なものであり、偏在するものである。
 この場合、異形とはVariateで、原形をずらしたり、改変したり、変形したりしたもののことである。自然のものとしてこの世に存在する植物の形に、人間の作ったトーテムポールや、建築物の柱や、踊り子の動きを見ることができるのは、植物の「創造」の原理が、超越者の「発明」ではなく、なんらかの真似や譲歩や賛同を通じて「変化」していくという中心なき移ろいのようなものだからである、とベンヤミンは考えているようだ。
 上記のような『植物考』での指摘を踏まえれば、アドルノがマーラーについてのモノグラフで指摘している作曲技法としてのVarianteの手法は、ベンヤミンのそれと概念的にも明らかな共通点があり、無関係ではないのだろうと思う。私はベンヤミンは不勉強で、自分の興味があるテーマについて書かれた論考を摘まみ食いしているだけで全く疎いで、この点を実証的に裏付けることは手に負えかねるのだが。と同時に、このベンヤミンの「異形=ヴァリアンテ」という捉え方には、『植物考』においても当然参照されているゲーテの「原植物」との発想上のアナロジーを感じずにはいられない。(但し『植物考』でゲーテが参照されるのは、第7章 葉についてであり、これはゲーテが植物の原型を葉であると考えたことに基づいている。)

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 藤原辰史『植物考』の上で参照した部分を読んで、マーラーが、反復の忌避に関連させてゲーテの「原植物」について、シェーンベルクとその弟子達に語っているという証言をどこかで読んだように記憶しているのを思い出した。だが、どこで読んだのかが思い出せないため、マーラーが反復の忌避について語っている箇所、およびゲーテの「原植物」について言及している箇所を手元にある資料の上で跡付けてみることにした。

 当然そこにあるだろうと思って、まず最初にアルマの『回想と手紙』にあたったのが、豈図らんや、回想部分のエピソードにも書簡にもそれらしい記述を見出すことができなかったので、シェーンベルクとその弟子達に語った言葉だという前提なら、それが扱っている時期の点から対象外になるのだが、記憶が混乱している可能性も考慮して、マーラー自身の言葉の記録という点では最も充実し、信頼もおけるものである(それ故に「マーラーのエッカーマン」と言われているというゲーテ繋がりからという訳でもないが)ナターリエ・バウアー=レヒナーの回想を参照すると、以下のような言葉が記録されている。
ナターリエ・バウアー=レヒナー『グスタフ・マーラーの思い出』(高野茂訳, 音楽之友社, 1988)
p.162 : 純粋な書法
(…)植物の場合に、一人前の木として花を咲かせ、枝を幾重にも伸ばした木が、たった一枚だけの葉からなる原形から成長していくように、また人間の頭がひとつの脊椎骨にほかならないように、声楽の純粋な旋律性を支配している法則は、豊潤なオーケストラ曲の錯綜した声部組織にいたるまで、保持されなくてはならない。(…)
p.350:シューベルトについて 1900年7月13日
(…)あらゆる繰り返しというものは、もうそれだけで嘘なのだ!芸術作品は、生命と同じように、常に発展していかなくてはいけない。そうでないと、そこから虚偽と見せかけがはじまる。(…)
p.431第五交響曲に関するマーラーの話
(…)とくに、一度でも何かを繰り返してはならず、すべてが自発的に発展しなくてはならない、という僕の原理(…)

上記では、最初の「純粋な書法」の節が、ゲーテの「原植物」を最も強く示唆するだろうが(ゲーテの名前こそ明記されていないが、葉を原型であるという考えは、既述の通りまさにゲーテのそれであることに留意されたい)、そこでの話題は反復の忌避ではなく、他方で反復の忌避について語られた部分の方は「原植物」への言及を欠いている。そうは言っても反復の忌避と「原植物」とのいずれもが、後年、シェーンベルクのサークルとの交流があった時期から遥かに遡って、若き日よりマーラーが一貫して抱き続けてきた考え方であることは確認することができるだろう。

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 ついで、ヴァルターの回想をあたってみる。こちらはアリストテレスのエンテレケイアに関しての言及はあっても、或いはマーラーの読書の対象となった科学の哲学的研究の例として、フェヒナーの『ナナー植物の精神生活』への言及はあっても、そしてマーラーの「知的世界に輝いていた太陽」(ブルーノ・ワルター『マーラー 人と芸術』(村田武雄訳, 音楽之友社, 1960)p.192)としてのゲーテへの言及はあり、「ゲーテから驚くほど広汎な知識を汲みとり、つねに引用し、実に際限なき強健な記憶力を示した」(ibid.)という証言はあっても、「原植物」についての個別的な言及は見いだせないようだが、その替りにヴァリアンテについては以下のような言及が見いだせる。冒頭述べたマーラーの「再現」の持つ力との繋がりに関しては、ヴァルターの証言は、それの結果を「美しさ」としている点に微妙なずれはあるにせよ、その存在を支持するものと言えるだろう。
ブルーノ・ワルター『マーラー 人と芸術』(村田武雄訳, 音楽之友社, 1960)
p.148
しかし、マーラーの心を強くひいたのは、与えられた主題の変形と拡大、すなわち変奏曲の基底となる「種々の変形(ヴァリアンテ)」が展開の重要な要素であった。そして、この変奏技術は、その後のかれの交響曲にいっそ立派な形式となって表現されて、かれの再現部と終結部とに美しさを加えたのである。

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 上記以外では、マーラーの音楽の思想的な背景を渉猟した研究文献として、フローロスのモノグラフの第1巻、Gustav Mahler I , Die geistige Welt Gustav Mahlers in Systematischer Darstellung, Breitkopf & Härtel, 1977 が真っ先に思い浮かぶ。だが、一瞥した限りでは「原植物」そのものに関する言及には行き当らなかった。また新しい文献にもあたって書かれており、現時点において日本語で書かれたマーラーに関する評伝として最も浩瀚なものであり、膨大な情報量を持つ田代櫂『グスタフ・マーラー 開かれた耳、閉ざされた地平』(春秋社, 2009)の仔細を極めた索引においても、ゲーテの項目は立っていても、「原植物」を始めとするゲーテの自然科学的・自然哲学的著作そのものについての言及は見当たらない。
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 ということで、ここまでのところマーラーの側からの探索が手詰まりの状況なので、シェーンベルクとその弟子の側からのアプローチに切り替えることにする。とはいうものの、私がシェーンベルクのサークルのメンバーでその作品に網羅的に触れ、かつ多少なりとも文献に当たったことがあるのは唯一ヴェーベルンに限られるので、自ずとヴェーベルン関連の資料を当たることになる。ヴェーベルン自身のゲーテの「原植物」への言及としては、晩年、カンタータ第2番を作曲している時期に、ヴィリ・ライヒに宛てた書簡(1941年8月23日付)が有名だろう。これは竹内豊治編訳『アントン・ウェーベルン その音楽を享受するために』(法政大学出版局, 初版1974, 増補版1986、私が学生時代に入手して架蔵しているのは増補版の方)にも収められており、アドルノのヴェーベルン論やヴェーベルンの講演とともに読むことができるのだが、ここで問題にしているマーラーの言葉に関する限り、そのいずれにも「証言」にあたる記述は見つけることができない。

 結局、私が記憶していたのは、モルデンハウアーのヴェーベルン伝に収録されたヴェーベルンの日記の一部のようである。以下は、岡部真一郎『ヴェーベルン 西洋音楽史のプリズム』(春秋社, 2004)に、著者自身による翻訳により引用された、その日記の該当箇所である(Moldenhauer, Anton von Webern: A Chronicle of his Life and Work, London, 1978 のpp.75-76)。見ての通り、第一義的には対位法に関する文脈であり、ヴァリアンテについてではないことに注意すべきだろう。だが、変奏に主題が移り、「展開」の仕方が問題となっているわけなのであるから、結論部分は結局、そういう話になるようにも読める。もっとも、マーラー自身は、「主題が再現する度に新鮮な美しさを感じさせるためには」、旋律そのものの美しさが重要であると言っていて、ヴァリアンテの技法を持ち出しているわけではないが。
岡部真一郎『ヴェーベルン 西洋音楽史のプリズム』(春秋社, 2004)
p.67 
シェーンベルクが、対位法の奥義を理解しているのはドイツ人だけだ、と述べたのがきっかけで、話は対位法へと向かった。マーラーは、ラモーなど、フランス・バロックの作曲家の存在を指摘し、一方、ドイツ圏では、バッハ、ブラームス、ヴァーグナーの名前を挙げるに留まった。「この問題に関しては、我々にとっての規範となるのは、自然だ。自然界においては、宇宙全体が、原始的細胞から、植物、動物、人間、そして、超越的な存在である神へと発展して行く。同様に、音楽においても、大きな構造は、これから生まれるべきもの全ての胚芽を包含する単一のモティーフから発展すべきだ。」ベートーヴェンにおいては、ほとんどいつでも、展開部において、新たなモティーフが現れる、と彼は言った。しかしながら、展開部全体は、単一のモティーフにより構成されるべきである。したがって、この点から言えば、ベートーヴェンは対位法の名手とは言い難い。さらに、変奏は、音楽作品において、最も重要な要素であるとも彼は述べた。主題は、シューベルトにおいて見い出されるように、真に特別な美しさを持つものでなければならない。主題が再現する度に新鮮な美しさを感じさせるためには、それが必要なのだ。彼にとっては、モーツァルトの弦楽四重奏曲は、提示部の二重線で終わりだ、という。現代の創造的音楽家の使命は、バッハの対位法の技術とハイドンやモーツァルトの旋律性を一体化させることなのだ。
だが、それよりも重要な点は、ヴェーベルンの証言するマーラーの言葉には、ゲーテの「原植物」についての直接の言及がないことだろう。寧ろそこで語られるのは、マーラーが第3交響曲を構想した時に念頭に置いたことが、その標題のプランから強く示唆される、当時流行した自然哲学的な進化論的なイメージであったようだ。そして上記のマーラーの言葉を、ヴェーベルンの「原植物」(以下の引用文では「根源植物」)と結び付けているのは、実際には著者の岡部さんなのであった。
一方、再度、マーラーについての日記への記述に目を向ける時、今一つ、我々の目を引くのは、この大音楽家の「宇宙は単一の原始的細胞から発展し、構築される」という発言にヴェーベルンが強く魅かれていたと考えられることが。これは、後年、ヴェーベルンが繰り返し言及したゲーテの「根源植物」の概念をも想起させるものではあるまいか。(同書, p.68)
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 ところでマーラーが愛読し、影響を受けたと思われる植物に関する研究や考察としては、ゲーテだけではなく、フェヒナーの名を挙げなければ片手落ちの誹りを免れまい。しかも上で確認できたヴェーベルンが証言するマーラーの言葉に出てくるた自然哲学的な進化論的なイメージは、アルマやヴァルターの証言でマーラーが愛読していたことが知られているフェヒナーの思想に由来する可能性が高いようだ。実は、上では触れなかったが、フローロスのモノグラフの第1巻でもフェヒナーについては大きく取り上げられているし、田代櫂さんの評伝でも、ヴァルターが言及するゲーテの「モナド不滅説」を媒介にして、「指揮台の哲学者」という一節(p.153以降)において、マーラーが愛読した、フェヒナーを始めとする「自然科学的観念論者」についての紹介がある。であってみれば、ここでフェヒナーとマーラーとの関わりについてお浚いをすべきところであろうが、これは質・量ともに別に稿を立てて論じるべきテーマであろうし、今日の植物学の視点からマーラーの「ヴァリアンテ」を捉えなおそうとするならば、『植物考』でも参照されているマンクーゾのような立場の先駆としてフェヒナーを位置づけるといった作業が基礎工事として必要となるだろう。実際、マンクーゾとヴィオラの共著『植物は<知性>をもっている』(久保耕司訳, NHK出版, 2015)では、植物が「一般に考えられているよりも、ずっと優れた能力をもっていると確信している科学者」(同書, p.14)の一人として、ダーウィンの名前とともにフェヒナーの名前が挙げられているし、「どんな時代にも天才といわれる人々のなかには、植物に知性があるという説を支持する者がいた」(同書, p.20)例として再びフェヒナーの名前が挙げられているのを確認することができる。一方でマンクーゾが参照する文脈においては「知性」が問題になっているから、形態学的・発生学的なゲーテの「原植物」とは視点が異なり、それゆえゲーテの名前は登場しないのだろう。ここではマーラー自身が言及したゲーテの「原植物」と、ベンヤミンの「ヴァリアント」を介したアドルノの「変形の技法」の繋がりの指摘に留め、マーラーとフェヒナーとの関わりについては後日を期することとして、一旦この稿を閉じたい。

(2024.5.11初稿、12加筆・改題, 13加筆)

2024年5月11日土曜日

MIDIファイルを入力とした分析:状態遷移パターンの出現確率に注目した予備分析(2024.5.11更新)

1.はじめに

 これまで記事:MIDIファイルを入力とした分析の準備(3):状態遷移の集計手法の検討と集計結果の公開、MIDIファイルを入力とした分析の準備(4):状態遷移の集計結果の公開(続き)およびMIDIファイルを入力とした分析の準備(6):状態遷移の集計結果の公開(補遺その2)にて、状態遷移の集計方法の検討、検討内容に基づいた集計結果を公開を行い、更に本格的な分析の予備作業として、状態遷移パターンの多様性についての確認と簡単な分析を行った結果を記事:後期マーラーの「挑戦」?:MIDIファイルを入力とした分析:状態遷移パターンの多様性に注目した予備分析において報告しました。今回はその続きとして、集計した状態遷移パターンの出現確率についての集計・分析の結果を報告します。

 前回の分析では、状態遷移パターンの出現頻度ではなく、パターンの異なり数にフォーカスし、いわばパターンの多様性の観点から、マーラーの作品間に見られる傾向の違いや、他の作曲家の作品との比較を通して見たマーラーの作品の特徴を調べてみました。その結果、マーラーの作品は状態遷移の多様性において際立っており、更に後期になればなるほど多様性が増大し、深い状態遷移パターンにおいては多様性が極限まで拡大していくという点がユニークな特徴であることを確認しました。

 そこでここではいよいよ一般的に状態遷移の分析において行われるように、パターンの出現頻度にフォーカスし、その出現確率の偏りや不確実性の大きさを調べてみることにします。通常、状態遷移のプロセスは、マルコフ過程として捉えられることが多く、またその特徴量としてはエントロピー(情報量)に注目することが多いのですが、ここではマルコフ過程としてのエントロピーの計算の前に、和音の出現確率(状態遷移パターンとしてみた場合には深さ=0に相当)、状態遷移パターンの出現確率のエントロピーを計算してみることにします。そして最後に参考情報として、比較的計算が容易な単純マルコフ過程としてみた場合(これはこれまで公開してきた集計結果では、深さ=1の場合に相当します)のエントロピーの計算を行い、その結果と比較できるようにしました。

 結果を先回りして述べると、今回の分析結果を眺めるにあたり、エントロピーという量の定義を念頭において、どうしてそういう結果になったかを理解する必要がありました。そしてその過程で、幾つかの補足的な計算を行い、その結果とともに以下では報告させて頂くことになります。また、計算対象として、以下の分析条件に記載する通り、和音のパターン(例えば「長三和音形」)のみを状態とする(pcls)条件での集計結果を用います。更にこの集計結果は、休止の拍は当然として、単音・重音の拍はスキップし、同じ和音パターンの連続もスキップした系列となっていること、更に、これはこれまでも常に問題になってきた点ですが、同じ和音パターンには、ある和音の移置・転回も含まれますから、機能的には異なる和声として区別されるべきものを区別していないという点に留意すべきと考えます。

 要するに、ここで計算対象としている系列は、通常、楽曲分析において楽典の知識を有する分析者が抽出する和声進行とはかなり異なったものであるという点は強調し過ぎてもし過ぎということはありません。和音のパターンの出現頻度のような特徴量ならば、テクスチュアのような表層的なレベルを扱っているというような見方が可能でしょうが、状態遷移パターンを扱う今回の分析では、「聴いた感じ」とはかなり異なった情報を抽出していると言えると思います。つまり人間の分析者が行ったかも知れない分析を自動化したという見方は本稿で報告する内容についてはできないと考えます。実はこれは本稿をお読み頂いた方の一人から頂戴した指摘をそのまま受け入れて記載させて頂いているのですが、それに意味があるかどうかは措いて、人間ではなく、機械が楽曲を(人間とは異なった視点で)「分析する」としたら、という「ありえるかも知れない分析」の一つの可能性を示したものと見做すのが適切と考えます。(勿論ここでのケースに限れば、機械が自分で分析条件を設定し、興味深いパターンを発見するといった水準には程遠く、分析が「つまらない」ものであることの責任は、ここでは偏に私に存するわけですが。)

 一連の計算と計算結果の分析をした上での率直な感想を申し上げれば、パターンが多くなりすぎることと、「差分」「変化」ではなく単独で定義できる「状態」を対象とするという点を踏まえて、和音のパターンのみを状態とする(pcls)条件を用いたわけですが、その結果は、何をパターンとするかに関して余りに人間の感覚から離れすぎてしまって結果の意味づけを行うことが困難であるというように感じています。後述するマルコフ過程として見た場合の「吸収的状態」の発生に関しても、パターンが多すぎて状態遷移の経路が一意に決まる方向性も考えられる一方で、パターンが過度に同一視された結果、人間にとっては異なるものが同一のパターンと判定された結果、その条件限りでの「吸収的状態」が発生するといった方向性も考えられそうです。従って、状態遷移の分析を本格的に行うのであれば、せめてもう少し「変化」をきめ細かく捉えた条件で生成した系列を用いて行うのが適切ではないか、というのが現時点での偽らざる認識です。本稿を「予備分析」としているのは、そうした点を踏まえて、分析手順を確認し、起こりうる問題を事前に把握して検討することで、来るべき本格的な分析に備えるといった目的があるからです。

 上記のような事情を踏まえ、ここでは従来行ってきたような分析結果に基づく対象の作品に関する検討は行わず、分析の報告のみを行います。

 なお、本稿で報告している分析はごく初歩的なものであり、Webで多数公開されている情報理論についての説明をご覧頂ければ十分に理解可能なものですので、本稿では情報量としてのエントロピーの定義や計算方法についての説明は割愛させて頂き、それらについての知識を前提に分析方法や分析結果についての記述を行わせて頂きますので、予めご了承の程よろしくお願いします。


2.分析条件

 上記を踏まえ、以下のようにレイアウトした分析を行うことにしました。

対象とするデータ:状態遷移をマルコフ過程として扱った場合のエントロピー(記憶を持つ情報源についての条件付きエントロピー)ではなく、無記憶情報源について出現する状態遷移パターンの出現確率からエントロピーを計算する場合に限ると、これまで報告してきたどの条件の集計結果でも計算はできますが、最後に単純マルコフ過程として捉えた場合のエントロピーを計算して比較することを踏まえ、MIDIファイルを入力とした分析の準備(6):状態遷移の集計結果の公開(補遺その2)で公開した、和音のパターン(例えば「長三和音形」)のみを状態とする(pcls)条件での集計結果を用いることにします。深さに関しては、無記憶情報源について出現する状態遷移パターンの出現確率からエントロピーを計算する際には集計したすべての深さ(深さ0(単独の和音に相当)~深さ5)を用いますが、マルコフ過程としてのエントロピーの計算は、比較的簡単に計算できる単純マルコフ過程の場合(深さ=1に相当)のみとしました。

分析手法:今回はタイトルには予備分析とあるものの、実際にはエントロピーの計算を行った結果を集計・報告するだけです。計算にあたっては従来から用いてきたR言語にあるエントロピー計算用のライブラリ(entropy)とマルコフ過程用のライブラリ(markovchain)を用いました(そのためR言語のバージョンアップを行い、バージョン4.3.1を使用しています)。状態遷移パターンの出現頻度・確率に関するエントロピーは単純に公開している集計結果をentropyライブラリのentropy関数に渡すだけです。エントロピーは対数の底として何を用いるかにより値が異なりますが、ここでは情報量としてのエントロピーで普通に用いられるlog2を用いました。単純マルコフ過程としてのエントロピーの計算で必要となる定常分布の計算にはmarokovchainライブラリのsteadyStates関数を用いました。steadyStatesには状態遷移マトリクスを渡す必要がありますが、これは集計結果から事前に計算をしておいたものを用いました。(本稿末で公開しているデータに含めてあります。)状態遷移マトリクスの作成は、通常のマルコフ過程の場合の分析の場合には、観測によって得られたサンプルは無限に続く系列の一部であるとして推定の上で行われます。markovchainライブラリでもサンプルの系列を基に、様々なタイプの推定に基づいて状態遷移マトリクスを計算する関数(createSequenceMatrix)が用意されていますが、ここでの分析対象である音楽作品は有限の確定した系列を持っており、前提が異なります。従ってここでは公開済の結果からそのまま生成した状態遷移マトリクスを用いました。 

 これは技術的なディティールに属する話かも知れませんが、サンプルそのものから直接状態遷移マトリクスを作成する際に系列がある特徴を持っている場合、問題が生じます。具体的には、単純マルコフ過程として見た場合なら系列の末尾に出現する和音が、それまでに一度も出現したことがない場合です(多重マルコフ過程なら、多重度に応じた長さの和音の部分系列が末尾のみに用いられる場合です)。その和音に続く和音はありませんから、その和音から他の和音への遷移確率は0となってしまい、状態遷移マトリクスを作成する条件を満たしません。このケースについては、その最後の和音を所謂「吸収的状態」と看做し、その和音に続くのは確率1でその和音自身のみであるという閉包として系列を一つ追加してやることで状態遷移マトリクスを作ることができます(ちなみにこの件とは直接の関係はありませんが、今回対象としている和音の系列は、同一和音の反復を取り除いたものを用いているので、この操作をしなければ同一和音が続く遷移は含まれません)。具体的な作品について単純マルコフ過程として見た場合にこのケースは例外的に感じられるかも知れませんが、例えばピカルディ終止のようなものはたちまちに思い浮かびますし、深さが大きくなり、マルコフ過程としての多重度が上がれば、特定の和音の系列が一度きり作品の末尾にしか出現しないというのはあってもおかしくないように思えます。古典期によく見られるような、末尾に反復記号がついて最初に戻って全く同じ系列が反復されるケースは当て嵌まらない一方で、マーラーが志向したような、文字通りの反復を嫌う有機的な音楽の展開を志向した作品の場合には、寧ろ意図的にそのように末尾が構成される可能性すらあるでしょう。また、曲の長さとは必ずしも関係せず、短い曲であっても(否、寧ろ短い曲の方が)末尾にそれまでに出てこない和音を出して終えるということは起こりそうで、実際に今回の一連の分析にあたって、いつも分析用のプログラムの動作確認や、分析手順の確認のサンプルとして用いている歌曲「私はやわらかい香りをかいだ」の今回の分析用に生成した系列を二重マルコフ過程としてみた場合にそれが起きることを確認しています。しかも状態遷移マトリクスが生成できても、それで問題解決というわけには行かないのです。この点についてはもう一度後で述べますが、結論だけ言えば、吸収的状態を含むマルコフ過程のエントロピーは0になってしまい、作品の特徴を分析するための手段としては意味がなくなってしまいます。本稿では単純マルコフ過程のエントロピーの計算結果のみを示し、深さ2以上の多重マルコフ過程としてのエントロピーの計算結果を示すのを保留したのにはこの点が関わっています。

分析対象のデータ:前回の予備分析と同じで、以下の通りです。(括弧内は以下に示す分析結果におけるラベルを表します。)集計・分析は基本的には曲単位で行いましたが、マーラーの作品に関してのみ、個別の作品毎ではなく全交響曲での集計に基づく計算を一部では行っています。

  • マーラー:第1~10交響曲、大地の歌(m1~10, erde)、全交響曲(all)
  • ブラームス:第1,2,3,4交響曲(jb1,2,3,4)
  • ブルックナー:第5,7,8,9交響曲,第9交響曲フィナーレ断片つき(ab5,7,8,9,9f)
  • フランク:交響的変奏曲、交響曲 (cfsymvar,  cfsym)
  • ラヴェル:左手のための協奏曲、ピアノ協奏曲ト調、優雅で感傷的な円舞曲、ダフニスとクロエ第2組曲 (mr_lpc, mr_pc, mr_vns, mr_dcl)
  • シベリウス:第2,7交響曲、タピオラ (js2,7, jsTapiola)
  • タクタキシヴィリ:ピアノ協奏曲第1番 (ot)  
  • ヤナーチェク:シンフォニエッタ (lj)
  • ドヴォルザーク:第7,8,9交響曲 (dv7,8,9)
  • スメタナ:我が祖国 (bs)
  • カール・シュターミッツ:クラリネット協奏曲第3番、第10番、2本のクラリネットと管弦楽のための協奏曲、フルート協奏曲ト長調作品29,、 ヴィオラ協奏曲ニ長調作品1 (st1, st2, st3, st4, st6)
  • ゼレンカ:聖セシリアのミサ、 聖霊のミサ、信仰のミサ、慈善のミサ、ミゼレーレニ短調 (zwv1, 4, 6, 10, 56)

3.分析結果

(1) 状態遷移パターンの出現確率のエントロピー計算結果

(A)マーラー作品間の比較(深さ=0,1,5のみ)




(B)マーラーと他の作曲家の作品との比較(深さ=0,1,5のみ)




 マーラーの作品間の比較に注目すると、深さ=0,1では概ね後期になると増大していたものが、深さ=5においては後期は寧ろ中期に比べて低下していることがわかります。全般に前回の分析において、和音のパターンや状態遷移パターンが分析対象総数との割合で非常に高い場合において、エントロピーは寧ろ低くなる傾向があることがわかります。
 これはエントロピーの定義そのものがその原因であるらしいことが、以下のような簡単な計算から推測できます。シャノン・エントロピーの場合、2のn乗のパターン数で全てのパターンが等確率で生じる場合にエントロピーは最大となり、nになります。パターン数8(2の3乗)のそれぞれのパターンの発生確率が等確率であれば、エントロピーは3です。逆にエントロピーが小さくなるのは、生起しうるパターンのうちの1つが偏って高確率で生起する場合です。つまりエントロピーはパターン数に応じた量であり、各パターンがそれぞれたかだか1回しか起きない場合には、系列の長さに応じた値となることがわかります。系列長が決まればとりうるエントロピーの上限が決まることになります。
 ここで対象としているのは有限の長さを持った音楽作品の拍のうち、三和音以上が鳴っている箇所を抜き出して作成した系列における和音の出現確率や和音の遷移のパターンの発生確率です。従ってパターンの異なり数の系列の長さに対する割合が100%に近づくケースでは、エントロピーの大きさは系列の長さの影響を受けやすくなることが想定されます。つまり作品自体が長いか、テクスチュアが厚くて三和音以上が鳴っている箇所の割合が大きい作品程エントロピーは高くなります。
 そこで系列長xが決まった時に取りうるエントロピーの最大値(系列の全ての時点で異なるパターンとなる場合、つまりパターン数もxの場合に相当します)と、更にパターン数yが決まった時に、その系列長xでそのパターンが取りうるエントロピーの最小値(こちらはパターンのうち、ある1つのパターンを除く他のパターンはそれぞれ1回のみ出現し、ある1つのパターンだけが系列長とパターン数の差分であるy-x+1回出現する場合に相当します )とを計算し、実際の作品の持つエントロピーとの比較をすることによって、とりうるエントロピーの値の幅がどれくらいで、実際の作品のエントロピーがその中のどのあたりに位置しているのかを確認することが考えられます。例えば系列長x=8の時、シャノン・エントロピーの最大値は3であり、系列長x=8においてパターン数y=5の時、シャノン・エントロピーの最小値は2となります。系列長に対するパターン数の割合が大きくなり、系列長とパターン数との差が小さくなると、エントロピーの幅は小さなものになっていきます。例えば既に取り上げた例、系列長x=8の場合なら、パターン数y=5の場合のシャノン・エントロピーの最小値は2ですから最大値3との幅は1ですが、パターン数y=6になるとシャノン・エントロピーの最小値は2.405639、パターン数y=7なら最小値は2.75となり、最大値との幅は0.25まで縮まります。またパターン数は深さが浅ければ小さく、パターンが深くなれば大きくなっていきますから、エントロピーの幅は、深さが浅ければ大きく、深さが深くなるにつれて小さくなっていきます。
 以下に示すのは、このアイデアに基づく計算の結果です。
 (2-i)のグラフでは青で下限値を、灰色で上限値を示して比較できるようにしています。実際に、青の下限値と灰色の上限値の幅は、深さが深くなると急速に狭まるのが確認できます。またマーラーの作品の場合、特に深さが深くなるにつれて系列長に対するパターン数の割合が極めて大きなものになるため、深さが深い場合においては、実際上、系列長がほぼエントロピーの大きさを決めていることが確認できます。

(2-i)状態遷移パターンの出現確率のエントロピー計算結果(上下限つき)

(A)マーラー作品間の比較(深さ=0,1,5のみ)




(B)マーラーと他の作曲家の作品との比較(深さ=0,1,5のみ)



 (2-ii)では左側(オレンジ)が下限値とのマージン、右側(青)が上限値とのマージンを表します。
 特に深さ=5においてパターンの異なり数の系列の長さに対する割合が100%に近づくケース(マーラーであれば特に後期作品、他の作曲家との比較においてはマーラーの第1、第6交響曲(この2曲はソナタ形式の第1楽章において提示部の反復を持つ点がパターンの異なり数の系列の長さに対する割合に大きく影響しています)以外が顕著ですが、それ以外でもフランクの交響曲、ラヴェルやゼレンカの一部作品などが該当します)では、マージンがほとんどないことがわかります。従って、エントロピーについてはマーラーの大地の歌、第9,10交響曲が、より長大で変化に富んだ第6,8交響曲に比べて大きな値をとり得ないことがわかります。

(2-ii)状態遷移パターンの出現確率のエントロピーの上下限とのマージン

(A)マーラー作品間の比較(深さ=0,1,5のみ)



(B)マーラーと他の作曲家の作品との比較(深さ=0,1,5のみ)




 最後に、いよいよマルコフ過程として見た場合のエントロピーを計算した結果を示して、本稿を終えたいと思います。本稿で「深さ」と述べてきたのは、謂わば記憶の深さのことであり、マルコフ過程としてみた場合には多重度に相当します。ここでは比較的簡単に計算できる深さ=1の場合、つまり単純マルコフ過程としてみた場合のエントロピーの計算結果のみを示します。

 実は既に多重度=2のマルコフ過程と看做した場合について計算をしてみたのですが、markovchainライブラリのsteadyStates関数で定常状態を求めるところで、作品によってはある状態のみが確率1となり、他の状態が0となるようなケースが出現することがわかりました。当然この場合、定常状態におけるエントロピーは0となってしまいます。

 実はこのケースは、本稿2節で分析条件について述べた際に触れた吸収的状態の存在が関わっています。ここでは一例として何種類かの和音が1回ずつ順次出現するような系列をもった作品を仮定します。この場合、各和音および状態遷移パターンは等確率に出現しますので、まず和音の出現頻度に関するエントロピーはその系列でとりうる最大値となり、その値は系列長で決まります(系列長が2のn乗なら、エントロピーはnになります)。またこのケースでは単純マルコフ過程の状態遷移マトリクスは、全ての行について、それぞれ異なる1列だけが確率1で残りの列は全て0になりますが、最後に出現する和音の行はその和音に続く和音がないため全体の和が0となってしまうため状態遷移マトリクスが生成できず、そのままでは定常分布の計算もエントロピーの計算もできません。そこで最後に出現する和音についてはクロージャ(閉包)として自分自身のみに確率1で遷移することにします。これにより状態遷移マトリクスが構成でき、それに基づく定常分布の計算はできますが、その結果は最後の和音のみ1で他は0という結果となります。マルコフ過程のエントロピーは状態遷移マトリクスの各行の状態の確率分布のエントロピーをその状態の定常状態における発生確率で乗じたものの総和ですから、結果として1次以上のエントロピーは0になるというわけです。

 ではこのケースは例外的なケースなのかと言えば、実際にはそうとは言えないようです。本稿2節で分析条件について述べた際にも述べた通り、マーラーの作品では歌曲「私はやわらかな香りをかいだ」を二重マルコフ過程として見た場合でも起こりましたし、同様のことが少なくとも第3交響曲、第7交響曲でも起こることを確認しています。これは確認したわけではない推測ですが、多重度が上がれば上がるほど、状態として扱われる和音の系列は長くなるので、末尾に吸収的状態を持つ確率は大きくなると想定されます。

 これは見方を変えれば、離散力学系として見た場合に、必要なだけ長い時間を与えた時、ある音(の系列)に収束してしまうような系に該当するのかも知れません。(実際、三輪眞弘さんの「虹機械」の系列の作品ではそのような力学系が用いられています。ただしそのままではなく、その上で作品構成上の工夫が凝らされているわけですが。)これはウルフラムのセル・オートマトンの分類では、タイプ1の秩序状態になるグループに該当します。こういう言い方をすると、セル・オートマトンのようにタイプ分けができるのではないかという発想になってそれならば面白そうなのですが、現時点でわかっているのは、上記のように、最後にそれまで未知のパターンが現れるという、状態遷移系列全体からすれば局所的な特徴を持つときにそうなるということで、それ以前の系列がどんなものであるかは全く関係がありません。そのような局所的な条件でエントロピーが求まったり求まらなかったりするのだとしたら、その限りにおいては、マルコフ過程としてのエントロピーは作品の特徴づけとしてはあまり適切でないということになるようにも思います。

 これはもともと無限の系列の一部が観測されたものとしてサンプルを扱うマルコフ過程の前提が、決定した有限の長さの系列を持ち、特にその最後の系列に特徴を持ったパターン(音楽理論上は「カデンツ」とか「終止形」と呼ばれるものに対応するものと考えられます)が出現することも珍しくない過去の或る特定の文化的伝統に属する音楽作品という対象にそぐわないという点が露呈されたものと考えることができるように思います。そもそもがそれ自体は統計的な対象ではなく、過去に生成され、閉じた決定論的な過程を持つウニカート(一点もの)な存在である音楽作品の分析を目的として統計的な処理を行うことの持つ意味合いを考えた上で、どのような場合にどのような分析方法を用いるのが適当かを検討すべきように感じます。別のところ(備忘:mathesis singularisとしての「マーラー学」?―アドルノのモノグラフを手掛かりにして―)で、本稿を含む本ブログのアプローチを「個別学」mathesis singuralisとして規定することを試みましたが、「個別学」という観点から、ある分析の結果にどのような意味があるのか、どのような分析が適切なのかが問われているようにも思います。

 結果だけから言えば、今回報告した対象作品に限っては、単純マルコフ過程として見た場合には問題が起こらなかったため、以下にその計算結果を報告しました。一方で既述の通り、二重マルコフ過程として見た場合には上記の問題が起こることを確認しており、しかも繰り返しを厭わずに言えば、それが起きる確率は多重度が増大すればするほど高くなると想像されます。勿論、技術的には、問題となる最後の和音ないし和音の系列を除外した系列で計算をするといった荒っぽい解決方法もあるでしょうし、エントロピーのような巨視的な統計量であれば、必ずしも不適切な操作ではないかも知れないとはいえ、もともとが「カデンツ=終止形」の近似として状態遷移パターンを捉えてその特徴を調べることが目的であったことを思えば、全曲か、個別の楽章かは措いても曲の末尾を取り除いた系列の分析には強い違和感を感じます。そこで差し当たりここでは単純マルコフ過程として見た場合のエントロピーについてのみ、あくまでも参考として報告することにします。繰り返しになりますが、マルコフ過程としてのエントロピーの計算が前提としている「定常状態」を想定することが、ここでの分析の対象と目的にとってどのような意味を持つのかに(控えめに言っても)議論の余地があり、適切なのかに疑念があるからです。その限りにおいては、本稿でここまで報告してきた、無記憶情報源として扱い、状態遷移パターンの単なる出現確率に基づいた計算結果の方が、ここでの主旨に照らした限りでは妥当であるという見方もできるように思います。

(3)(参考)単純マルコフ過程(深さ=1)として見た場合のエントロピー

(A)マーラー作品間の比較

(B)マーラーと他の作曲家の作品との比較


 ここで特徴的に感じられる点を簡単に述べるならば、以下のようになるでしょうか?

(A)マーラーの作品間の比較においては、初期作品は作品の長さに比して素朴で簡素な印象があり、中期作品(ここでは第6、第7に加えて第8)において複雑さが頂点に達したのが、「大地の歌」に至って、初期の素朴さとは異なった意味合いでの「簡潔さ」が現れるが、第9,10は中期と同様の複雑さを備えているといった印象に対応するような結果が得られているように感じます。

 (B)マーラーと他の作曲家の作品との比較においては、マーラーの作品の複雑さは際立っており、和音や状態遷移パターンの多様性においてはマーラーと比肩するレベルにあったラヴェルやシベリウスの作品のエントロピーが必ずしも高くなく、ブルックナーの第5交響曲、フランクの交響曲やドヴォルザークの第7交響曲、スメタナの「我が祖国」といった作品の方が高い値となっていること(ここでもその原因の一つとして作品の長さが関わっているというのは考えられますが、ブルックナーやドヴォルザークの他の作品やブラームスの作品を考えると、それだけではなさそうです)、特にシベリウスでは後期に向けて作品が圧縮される傾向とその内部における多様性の拡大といった相反する傾向がパターンの多様性と単純マルコフ過程としてのエントロピーとの対比によって読み取れるように思われれることが印象的です。


[追記]二重マルコフ過程(深さ=2)として見た場合のエントロピー計算結果

参考までに、二重マルコフ過程(深さ=2)として見た場合に吸収的状態を含むために定常状態が単一の状態に収束してしまい、エントロピーの計算ができなくなるケースについて、吸収的状態を除去して計算した結果を以下に掲げます。吸収的状態を含む作品は、以下の通りです。

  • マーラー:第3交響曲(第1楽章末)(m3)、第7交響曲(第4楽章末)(m7)
  • ブルックナー:第7交響曲(ab7)
  • ラヴェル:ピアノ協奏曲(mr_pc)・優雅で感傷的な円舞曲(mr_vns)
  • ヤナーチェク:シンフォニエッタ(lj)
  • スメタナ:「我が祖国」(bs)
  • ゼレンカ:聖霊のミサ、慈善のミサ、ミゼレーレニ短調 (zwv4, 10, 56)

(A)マーラー作品間の比較(深さ=1(青),2(オレンジ))


(B)マーラーと他の作曲家の作品との比較(深さ=1(青),2(オレンジ))

 なお、個別のどの作品のどこの部分で吸収的状態が生じるかどうかには、今回対象とした系列の性質が少なからず影響することを付記させて頂きます。つまり、今回は、各作品の各拍を対象に、三和音以下(つまり休符・単音・重音のみ)の箇所をスキップし、かつ同じ和音の繰り返しもスキップし、三和音以上からなる系列を各楽章毎に構成し、曲毎にエントロピーを求めています。従って対象の系列には自分自身に遷移するパターンは含まれていません。現実の作品では途中に同じ和音の繰り返し、休止、単音や重音の拍が含まれるので、それらを考慮すれば吸収的状態にはならない可能性があります。

(2023.9.15公開, 9.17-18 技術的な側面での補足を追記。9.21 二重マルコフ過程として見た場合のエントロピー計算結果を追記。9.23 1.はじめに に本稿の分析の制限について追記。2024.5.10,11 系列長が決まった時のエントロピーの最大、および系列長、パターン数が決まった時のエントロピーの最小の定義を正確なものに修正して、例示を追加。)


[付録] 公開データの内容

(A)マーラーの作品間の比較

 gm_A_cdnz3_pcl_transition.zip には以下のファイルが含まれます。

(A-1)入力データ

  • *_A_cdnz3_pcl_transition.csv:状態遷移マトリクス

(A-2)出力データ

  • sym_A_pcls3.xlsx:系列長・パターン数のデータおよびエントロピーの計算結果
(A-3)画像

  • shanon-entropy-pcls(depth=[0-5]).jpg:和音・状態遷移パターンの出現確率に基づくエントロピーのグラフ
  • minmax[0,1,5].jpg:和音・状態遷移パターンの出現確率に基づくエントロピーの計算結果とその上下限の比較グラフ
  • margin[0,1,5].jpg:和音・状態遷移パターンの出現確率に基づくエントロピーの計算結果とその上下限とのマージンのグラフ
  • markov1.jpg:単純マルコフ過程としてのエントロピーのグラフ


(B)マーラーと他の作曲家の作品との比較

 control_A_cdnz3_pcl_transition.zip には以下のファイルが含まれます。

(B-1)入力データ

  • *_A_cdnz3_pcl_transition.csv:状態遷移マトリクス

(B-2)出力データ

  • control_A_cdnz3_pcl.xlsx:系列長・パターン数のデータおよびエントロピーの計算結果

(B-3)画像

  • shanon-entropy-pcls(depth=[0-5]).jpg:和音・状態遷移パターンの出現確率に基づくエントロピーのグラフ
  • minmax[0,1,5].jpg:和音・状態遷移パターンの出現確率に基づくエントロピーの計算結果とその上下限の比較グラフ
  • margin[0,1,5].jpg:和音・状態遷移パターンの出現確率に基づくエントロピーの計算結果とその上下限とのマージンのグラフ
  • markov1.jpg:単純マルコフ過程としてのエントロピーのグラフ

[参考]

 markov_entropy_A_cdnz3_pcl.zip には以下のファイルが含まれます。

(B-1)出力データ

  • markov_entropy_A_cdnz3_pcl:単純マルコフ過程・二重マルコフ過程として見た場合のエントロピー計算結果。数値に*がついている箇所は、吸収的状態を含むため定常状態が収束してしまい、エントロピーの計算ができないため、吸収的状態を除去した計算結果となっています。詳細は記事本文をご覧ください。

(B-2)画像

  • markov2_gmsym.jpg:マーラーの交響曲間の比較
  • markov2_control.jpg:マーラーと他の作曲家の作品との比較


[ご利用にあたっての注意] 公開するデータは自由に利用頂いて構いません。あくまでも実験的な試みを公開するものであり、作成者は結果の正しさは保証しません。このデータを用いることによって発生する如何なるトラブルに対しても、作成者は責任を負いません。入力として利用させて頂いたMIDIファイルに起因する間違い、分析プログラムの不具合に起因する間違いなど、各種の間違いが含まれる可能性があることをご了承の上、ご利用ください。