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2018年11月24日土曜日

2つの嬰へ調交響曲:ハイドンの交響曲第45番とマーラーの第10交響曲について

 マーラーとハイドン。ウィーンで活躍した交響曲作家という点では共通しても、それ以外にこの2人の作品に接点を見出すことは難しいように思われる。前古典期のマンハイム楽派のような先蹤はあるにしても、交響曲という形式が、長きに亘るハイドンの創作期間の中において、数にして100曲を超える作品を通して行われた様々な実験を経て完成されたという見方には一定の正当性はあるだろう。ハイドンはその創作期間のほとんどをハンガリーのエステルハージ侯爵の宮廷で過ごし、若き日を過したウィーンに戻ったのはようやく1790年代の初めのことだが、それ以前にもウィーンを訪れており、多大な刺激を受けた年少の天才モーツァルトとの出会いもウィーンにおいてであり、彼の交響曲創作の掉尾を飾る有名なザロモンセットは、その後にザロモンの招聘を受けて実現した2度のロンドン訪問のために書かれた作品であるから、彼の交響曲創作の頂点をウィーンという場所に結びつけることにも正当性はあろう。注意しなくてはならないのは、人の呼ぶ「交響曲の父」の創作の頂点をなす最後の作品の幾つかは、彼がロンドン訪問を決めると間もなく、第1回の訪問中の1791年12月に世を去ってしまうモーツァルトの没後に書かれた作品だということである。パリセットに刺激を受けたとされるモーツァルトの早すぎる晩年の傑作群に、今度はハイドンが刺激を受けるという往還を経ての到達であり、その後マーラーに至るまで1世紀に渉って試みられる様々な試行の先蹤となったベートーヴェンを前にして、彼等2人の手によって、古典派の交響曲は完成を見ると考えられてよいだろう。実際、ザロモンセットの第1期に含まれる変ロ長調の交響曲第98番は恐らくモーツァルトの死を知った直後の1792年初頭に作曲された作品だが、そこにはモーツァルトへの追憶が含まれると言われているし、翌1793年に戻ったウィーンで書かれた、第2期の最初を飾る変ホ長調の第99番におけるクラリネットの採用とともに、その序奏から同じ変ホ長調のモーツァルトの交響曲第39番のエコーを聞き取ることはそんなに突飛なこととは言えないだろう。

 そして間違いなく彼の交響曲の中の頂点をなす交響曲第104番は1795年に旅行先のロンドンで作曲され、その年の4月ないし5月に同じロンドンで初演されたのである。(100年後のマーラーはその前年のハンス・フォン・ビューローの死を契機に年末に、彼が初めて交響曲として完成させたハ短調の第2交響曲を完成させ、1895年3月の最初の3楽章の試演を経て、12月には全曲初演に漕ぎ付けることになる。)既にフランスでは革命が起きており、その影響で歌手を大陸から招聘することが困難となってザロモンのコンサートは最終年に至って中止を余儀なくされ、それに替わって組織されたオペラ・コンサートがハイドンの最後の3曲の交響曲の発表の場となったのだが、その最後を飾る作品を聞くと、時代を超えた天才であるモーツァルトの作品とは異なって、まさに時代が産みだした、だが同時代の限定を超えて、そこに至るまでの西欧の伝統が達成した最高の音楽的知性の成果物を目の当たりにしているような感覚に捉われる。

 ハイドンの場合は当時の趣味に合わせた側面というのが確実にあって、パリセットや第1期のザロモンセットが熱狂的に受け入れられたのはそういう側面が強く出ているからだと思われる。そしてそれゆえの限界というのがあるように思え、私見ではそれがザロモンセットの第1期の作品が外面的な効果とは裏腹に稍もすれば退屈に感じられてしまう理由なのだ。勿論それは別段とがめだてされるような側面ではなくて、実際第1期を第2期と同様に評価する向き、あるいはパリセットを或る意味で高く評価する人もいる訳だが、私はそれには与しない。当時はまた、ハイドンの亜流というのも大量生産されたわけだが、それはハイドン自身の発展と達成とは全く無関係の単なる後追いであり、流行の様式に過ぎず、ちょっと聞くと耳に快いけれど、さっぱり面白くない。21世紀の今日なら、AIによる自動作曲がそのレベルの作品であれば産み出しうるだろう。だが、モーツァルトの天才のみが達成できた「例外」は勿論、ハイドンの第104番のような作品も、現在のAIが(模倣することは可能であっても)創り出すことは不可能である。その作品によってのみようやく到達でき、実現した何かは、統計的には天才の「例外」に等しいから、それっぽい亜流のもどきを幾ら大量に作れても、偶然にそれを産み出す確率の低さは宇宙論的なレベルなものとなってしまう。第2期のザロモンセットの初演時には第1期の時程の熱狂はなかったということだが、それは丁度、ある時期のモーツァルトが大いに流行って、でも晩年に行くにつれて、そうでもなくなっていく、今聴いても、こんな音楽がいわば「消費」の対象として流行るわけはないと思ってしまうようなものになっていくのとの並行性を認めることができるだろう。

 特にパリセットには顕著に感じられ、第1期ザロモンセットにも明らかに見てとれるのは、実のところハイドンの職人としての非凡さ、その創意の比類ない豊かさの発露に外ならないのかも知れない。委嘱元の管弦楽の編成や技量、聴き手の質や嗜好を踏まえた上で、聴き手を驚かせ、感動させるような工夫がそこかしこに見られ、楽式上の意外性の追求や、大胆な転調の頻出などにこそ、ハイドンの非凡さを見い出し、こちらにこそその本領を見出す見方にも分があるだろう。だが、もしそうならば、いわゆる「疾風怒濤期」の実験についてはどうなるだろうか?突飛な比較に見えるかも知れないが、ブルックナーの初期(といってもそれはハイドンの円熟と同様、50歳を超えてからの成果だが)の交響曲の改訂前の形態の方により多く独創性を、更には或る種の前衛性を見出すこととの並行性を見出すことができるように思われるのだが、私がパリセットや第1期ザロモンセットに感じる退屈さは、ーこれもブルックナーの場合と並行する面があるように感じられるがーまさにそうした創意の或る観点から見た場合の過剰に由来するのではないか、それが抑制されずに発揮されていることにあるのではないかという感じを持つのだ。そして第2期ザロモンセット、中でもその掉尾を飾る104番から受けるのは、それらとは位相を異にする、創意が別の秩序に対して奉仕するかのように、より高度な秩序の裡の調和の形成を目がけて、寧ろ抑制されて用いられているかの如き印象なのであって、それが「完璧」と形容する他ないような質を実現しているように思われるのである。それは最早、最初の一度の、或いは一期一会の驚異を目がけているのではなく、反復の度に累乗される充実を、揺るぎなさ、人間的な地平を超越した無限の可能性を目指していて、それが104番を聴く時に、ここにおいて何か例外的なことが達成されていると感じる理由であると言えば、その一面の説明になりえているだろうか?或る意味ではパリ・セットから第1ザロモン・セットまでの達成は、生物学的基盤の上での社会的知性の延長線上で説明しうるものであったのに対し、第2ザロモンセットに至って、そうした進化論的な基盤を離れ、効用の観点からすればもしかしたら「パンケーキ」(ピンカー)としか捉えられないような領域へ、ドイッチュの言うところの「無限」への飛躍を試みたと言ってもいいのかも知れない。

 104番のような作品の完璧さもまた消費にはそぐわないし、ハイドン自身もそれはわかっていたのではなかろうか。第1期の時と違って、もう受けを狙うといった側面は、そもそも古典派のスタイル自体がそういう側面を初めから持っているが故に皆無という訳ではないにせよ大幅に後退していて、何か只管に神様が恵んでくださった才能を、それに相応しく行使することに専念しているといった趣さえ感じるのである。ハイドンのスコアをUrtext で見ると、 In Nomine Domini とか Fine Laus Deo といった言葉が付されているのを確認できるが、それが単に個人的な信仰心の発露を超えて、まさに作曲がそうした行為遂行であったことの証言として読むことができるように思う。こういうことが出来たことを本当に羨ましく思う一方で、そうした人が200年前の異郷の地にいて、その成果物を手に取ることができることは何と素晴らしいことかと思わずにはいられない。

 それは寧ろニュートンの発見であるとか、ハイドンの同時代人といって良いカントの批判哲学のようなものに接した時の感動に近い。よく科学は、誰かがやらなければ他の人がやったという意味で、芸術とは異なると言われて、確かにモーツァルトとかマーラーについてはそうだと思う一方で、ハイドンはそういう意味では例外に近いのかも知れない。とはいえ、結局、彼が到達したのだし、そういう彼にしか104番のような完璧さは実現できなかった、それは逆に、或る意味で畸形的な側面のある天才にはできないことではないかとも思う。何かの場面を描写したり、風景を喚起するのではなく、特定の感情を呼び起こされるいうよりは、純粋な形態とリズム、運動と色彩の変化を追っていくうちに感じ取る深い愉悦の感覚は、絵画でいけば抽象絵画から受けるそれに近く、第104番こそは西欧の音楽的知性の頂点の一つと呼びたいように思うのである。それが200年の時間と地球半周分の場所の隔たり故の、聴く私の側の伝統の不在によるものであるとしてもそれは変わらない。そもそも哲学であれ文学であれ、或いは科学でさえも、私はそのように西欧のものを受容してきたのであって、普遍性と云う言葉は今やその使用に限りなく慎重であるべきだとしても、時代を超え、場所を超えた知性の働きをそこに見いだせるという事情に変わるところはない。

 ハイドンには第104番以外でもそうした方向性を感じさせる作品の系列というのがあって、私見では、同時期の作品では第99番、第102番(と、その愛称が故に誤解されてしまっているが、その愛称の根拠となった当の第2楽章を除けば、第101番も)がそれに該当するし、少し遡って、エステルハージ宮廷の楽団員であったトストへの餞別として書かれた第88番あたりがそういう方向性での完成の画期であったのではないかと思う。99番は既述の通り変ホ長調、102番は98番に続いて変ロ長調で、これらは(色聴の私にとっては)金色から乳白色の暖色の色彩が実に美しいのに対し、ト長調である88番は色彩があまり感じられないこともあって、特に抽象度という点では際立っているように思われるのである。

 ところで交響曲という形式を作り上げる途上で、ハイドンは様々な実験を行っているのであって、到達点のみを見て、それに先行する試みを過渡的なものであったり、登ったら捨ててしまわれる梯子のように見做すのは適切ではないだろう。勿論、104番の達成したものの高みは比類ないものであったから、作品の完成度のような尺度で、若き日の作品を比較の対象としておいて価値の転倒を試みるような近年の研究の動向は、意図は理解できても最終的には首肯しがたいものがあるし、若き日の作品の中には実験に留まった印象のものも含まれるけれど、比較を超えた固有の価値を見出しうる作品を見出すこともまた可能であろう。

 後期交響曲の中で先ず思い浮かぶのが当時流行のトルコ軍楽を取り入れたとされる第100番「軍隊」であろう。大太鼓、トライアングル、シンバルといえばマーラーの作品の中ではお馴染みの楽器だが、それだけではなく、トランペットのファンファーレまで取り込まれているし、ト長調という調性にも関わらず、マーラーならば寧ろ第5番とか第6番を思わせるような、行進曲というものが持つある種強制的な性格をふと感じさせるかと思えば、あまりにコントラストが強すぎて深読みを誘う向きもあるメヌエットと、そのポピュラリティにも関わらず一筋縄ではいかない作品だ。マーラーのト長調交響曲である第4番を聴いて、さるウィーンの批評家が「それはあたかも白いかつらをかぶったパパ・ハイドンが、自動車に乗って、ガソリンの煙の中、我々のそばを通り過ぎるかのようだ」と評したらしいが、全く違う性格の作品とはいえ、ハイドン自身の実験精神は、批評家が勝手に被せ続けているかつらを尻目に、寧ろマーラーの精神に親和的な感じさえあるようだ。実際ハイドンは楽章構成から、楽章内の楽式、楽器法(様々な楽器での弱音器の利用、コルレーニョを含む)、引用の技法に至るまで、到達点だけから想像するのは困難な程の、様々な実験を行っているのであるから。

 私見では103番はもっと興味深い。この作品は調性格論的には基準からの逸脱の著しい困った作品で、変ホ長調なのに色彩はくすんでしまっている。近年は色々と即興が施されることが多い、題名のもととなった冒頭の太鼓(ただしこれは普通のティンパニ)のロールに続く、ロマン派を通りこしてマーラー以降のモダニスムを思わせるような管弦楽法の序奏からか、色彩のくすみは寧ろ湿度を感じさせ、或る種の不安や予感、幽霊的なものが漂うのが異色で、さしずめアーノンクール風の絵解きならば、遠雷がして、雷雨の忍び寄る予兆を孕んだ空気の中、舞踏会が行われ、、、といったあたりなのだろうが、マーラーならばスケルツォに「影のように」という指示を持ち、若きシェルヒェン(彼がハイドンの交響曲録音のパイオニアであることを思い起こすべきだろうか)を魅惑した7番のような作品に繋がっていく部分があるように感じる。

 だが、第104番を頂点とする完成に対する逸脱と言う点では、遡って、いわゆる「疾風怒濤期」と呼ばれる作品群に直接赴くべきであろう。実際第103番に感じるのは、時として感じられなくもない単調さもろとも、その遠い谺のようにも思えるのである。そしてその中で、知名度もさることながら、その異形性と、強烈な感情表現で際立つのは何といっても第45番、「告別」のニックネームを持つ交響曲だろう。今日風にはシアターピース的とでも言うべき趣向が凝らされた終楽章と、その成立に纏わるエピソードについては巷間に流布しているからここでは繰り返さない。寧ろここで注目したいのは、私の色聴が調性格論と関連があるということもあって、その破格の調的配置である。何とこの作品、嬰へ調という、古典期の作品としては稀な調性を持っているのである。

 嬰へ調というのは、ハ音に対して悪魔の音程とも呼ばれた中全音にあたる嬰へが基音であり、平均律楽器であるピアノのような鍵盤楽器でこそその後の奏法の発展とともに黒鍵が多くて弾き易い調性として選択されるような例はあるけれど、調弦が固定されている弦楽器、基本的には倍音列に従った共振系を持ち、基音に対して変化記号が増えると正しいピッチの音を出すのが難しくなる管楽器が主体の管弦楽作品では、マーラーと同時代やそれ以降であれば他にも幾つか例はあるとはいえ、嬰へ調の作品はやはり比較的稀である。特に金管楽器が基音にたいする低次の倍音しか出せなかったハイドンの時代、嬰へ調の作品を創ろうものなら、楽器をそのために調達するということにもなりかねず、実際、第45番の場合もfis管のホルンをそのために調達したという真偽不明のエピソードがあるくらいで、少なくともハイドンの同時代にあっては極めて稀な調性に挑んだ破格の作品なのである。

 勿論、破格なのは調性だけではなく、嵐のように激動するアレグロ楽章に対して、幽霊的な効果を持つ緩徐楽章での弦楽器における弱音器の使用、長調と短調の頻繁な交替、不協和音の頻用、メヌエットにおける「脱臼」したような奇矯なカデンツの拍節感と、強烈な、あるいは異様なアフェクトを備えており、それに加えてフィナーレの途中で音楽が途切れ嬰へ長調によるゆっくりとした「告別」の音楽が末尾を締めくくるという点も異形である。フィナーレは実質はアッタッカで繋がった2つの楽章と見做すべきで、5楽章形式の作品と見るべきだろう。

 さて、マーラーにおける嬰へ調の作品といえば第10交響曲が該当する。勿論、ハイドンの第45番とは似てもにつかないし、影響関係を論じる時に決まって持ち出される引用などの手掛かりがあるわけではなく、寧ろ、両者はそれぞれが際立ってオリジナルな、異なった個性を持つ作品なのだが、にも関わらず、調性の共通性は決して実質のないものではない。マーラーはその同時代の他の作曲家に比べて和声法についてはアナクロニックなまでに全音階的であって、それ故に調性格論が有効な面があるのだが、嬰へ調をオーケストラが鳴らしても、例えばト長調やニ長調のような、ニュートラルだが輝きに満ちた芯のある響きは出ないのである。つまり調性格論は、ことオーケストラ作品においては、マーラーの時代においても(ということは、今日においてもだが)単なるこじつけやメタファーの類ではなく、楽器の音色という物理的な基盤上での認知的な根拠を備えていて、恐らく調性に結びついた色聴のうちの一部(私のそれもそれに属するが)は、そうした点に根拠を持つのではないかと思う。それは神経回路網の馴化と固定の結果(成長に伴う機能分化が途中で止まってしまったという見方があるようだ)なので、結果として絶対音感との対応づけも起きているようだ。その証拠に、私の場合、見える色はモダン・オーケストラのピッチの方が鮮明で、ピリオド奏法の演奏を急に聞くと、ーそのピッチはしばしば半音近く低いことすらあるー色が見えない。ただしばらくそのピッチに慣れれば、色の方も徐々に鮮明になっていくようだから(それでもモダンピッチのそれには及ばないようだ)、絶対的な周波数に対応づいているのではなく、調的組織と、楽器の音色の特性が媒介しているもののように思われるのである。その傍証として挙げられるのは、ピアノではそうした色彩が見えることがない点であり、管弦楽曲でも楽器法により、その鮮明さは随分と異なるのだ。

 実は以前マーラーの第10番について考えていて、その調性の特異性に対して、交響曲の歴史の中でも先例のない、例外的なものと一瞬思い込んだ後、あっと思い当たったのが、交響曲の歴史の草創期のエピソードとして語られることの多い、ハイドンの疾風怒濤期の作品、第45番の存在であった。「告別」という内的なプログラムは、マーラーの場合、第10番ではなく、先行する第9番や「大地の歌」に関連づけられることが多いし(動機としての関連で言及されるのは、ベートーヴェンのピアノソナタ「告別」の冒頭の動機であったりする)、マーラーが(まさか知っていなかったとは思わないが)第10交響曲の創作にあたってハイドンの交響曲を参照したという外的な証拠があるわけでもなく、実証のレベルでの関連づけは恐らくは存在しないのであろう。そもそもがハイドンにおける「告別」は、文字通りの「葬送」である第44番とは異なって、マーラーの後期作品におけるそれとは意味が異なるという基本的な違いは無視できないだろうし、更に言えば、後年にはコルンゴルトの交響曲、そしてメシアンのトゥランガリーラー交響曲が嬰へ調の調性を持った作品として存在し、また嬰へ短調であれば、マーラーに先行して、既にリムスキー=コルサコフの「アンタール」のような例もあって、ハイドンの45番も開始の調性ということなら、寧ろこちらに属することになるだろう。(とはいえマーラーだって、出だしだけとればこれはほぼ無調であって、嬰へ長調は寧ろ終結の調性であろうが。)にも関わらず、交響曲の歴史の劈頭と掉尾に聳え、いずれも「告別」を内的なプログラムとして含むハイドンとマーラーの2つの嬰へ調の交響曲は、偶々同じ調性を持った他の作品とは異なって、見かけの様々なレベルの相違を超えて、響きあうものを備えているように感じられてならないのである。

 なお私見では、嬰へ調に限らず、調性格論におけるマーラーと古典期の作品との対応は偶然では説明しきれないものがある。例えば変ホ長調を取り上げて、マーラーの8番や2番の末尾に対して、モーツァルトの「魔笛」やハイドンの「天地創造」におけるその扱いを考えてみれば良い。あるいは色彩的に変ホ長調と鮮明なコントラストを持つホ長調が、第4交響曲で、或いは第8交響曲でどういう性格を備えているかを、古典期以前の調性格論と比較しても良いだろう。マーラーの第10交響曲に関連した点に触れるならば、そのフィナーレの後半部分のスケッチには、クックが採用した嬰へ長調のバージョンと、変ロ長調のバージョンが存在するようなのだ。クックは嬰へ調への回帰を選択したが、変ロ調であれば、フィナーレの到達地点で観ることができる風景は些か異なったものになる筈である。勿論マーラーがいずれを選択したかを問うことは原理的に不可能であろうが、この2つの調性が選ばれたことは極めて興味深い。更にハイドンとの関連でもう2点だけ、ハイドンの「天地創造」において変ロ長調が象徴するものを考えてみること、更にモーツァルト追悼として書かれた第98番と同じ変ロ長調(これはモーツァルトにおいて最後のピアノ協奏曲第27番の調性でもある!)で書かれた交響曲第102番の弱音器つきのトランペットとティンパニと独奏チェロのオブリガートで特徴づけられる緩徐楽章の音楽が、「告別」交響曲と同じ嬰へ調で書かれたピアノトリオ第26番の嬰へ長調で書かれた緩徐楽章からの転用であること―ただし交響曲では、その独特の音色の選択に応ずるかのように、主調のドミナントであるヘ長調に移されているのだが―を指摘しておくことにしよう。

 最後になるが、指揮者としてのマーラーのハイドンとの関わりは、時代の嗜好を考えれば決して希薄なものではなく、マルトナーの調査結果を信じるのであれば、ハンブルクで99番と101番、ウィーンでは103番と104番、ニューヨークでは「ヒストリカル・コンサート」のフレームにおいて集中的に104番を振っているようである。第104番と並んで(いやそれ以上に)、古典派音楽の頂点を極めたオラトリオ「天地創造」は、不思議なことにこの作品と縁の深いウィーンではなく、ハンブルクで6回指揮しているようだ(抜粋なら、ニューヨークでの「ヒストリカル・コンサート」でも取り上げた記録があるようだが)。だが寧ろ、ウィーンにおけるオラトリオの伝統でハイドンの「天地創造」に呼応してその掉尾を飾る作品は、フランツ・シュミットの黙示録に取材したオラトリオ「七つの封印を有する書」ではなかろうか。さしづめ聖書の劈頭に置かれた創世記に取材したハイドンのオラトリオが、その伝統の開始に位置し、古典派様式の完成を告げるという点でアルファなら、聖書の末尾に位置する黙示録を取り上げたシュミットのオラトリオは、それまでの音楽の歴史を回顧するように、様々な様式が盛り込まれたという点で、その伝統における奥津城たるオメガであろう。ハイドンの「告別」交響曲と第10交響曲に劣らずこちらの対峙も興味深いが、これについては指摘に留めることとして一旦筆を措く事としたい。(2018.11.24公開、25日補筆修正。2019.1.14加筆)

2018年11月4日日曜日

尾野正晴「松本陽子の絵画」より

 (…)「原空間」とは、ありとある絵画空間が生き死にを繰り返す場所である。そこでは、生成する絵画空間もあれば、死滅する絵画空間もあるが、こうした生と死の果てしない交錯のために、「原空間」は、常に混沌としたものになっているのである。
 (…)
 拭い取られたり、取って代わられたりすることによって、不吉な輝きを増す色彩、あるいは、面を整えることなく、常にそれをもつれさせる色彩、そういった色彩が干渉し合うとき、「原空間」は、最も語り得ぬものとなる。かつて、ゲルハルト・リヒターは、自分の作品に、語り得ぬものだけがもつ希望を見出したが、それは、似て非なるものとはいえ、松本やフランケンサーラーの作品の希望でもあるだろう(もっとも、見方を変えれば、こうした希望は、今世紀の画家のものというより、十九世紀以前の画家―たとえば、フェルメールやセザンヌ―のものといえるかもしれない)。
 語り得ぬ「原空間」のもとで、ふたりの抽象絵画は、ただちに、固有のイメージを育みはじめる。いや、より正確にいえば、抽象絵画そのものが、ひとつのイメージとなってゆく。これまで、抽象絵画は、再現的な絵画の対極に位置づけられてきたが、ふたりの色画抽象にあっては、両者は相容れないものではない。抽象が、自らのうちに再現的なものを見出し得ることを、ふたりの絵画は、美しく例証しているからである。
 絵画空間を語ることの困難を諭したふたつの「原空間」を前にして、なおも、それらを語らなければならないとき、思い出す用語がある。それは、テオドール・W・アドルノがマーラーの音楽形式の特質を明かすために見出した三つの用語である。「発現」(Durchburch)、「停滞」(Suspension)、「充足」(Erfüllung)という三つの用語は、「原空間」のありようを示す数少ない言葉とはいえないだろうか。松本やフランケンサーラーの「原空間」も、たしかに「発現」と「停滞」と「充足」を繰り返している。それは、唐突に「発現」し、自由に「停滞」し、そしてまた、唐突に「充足」してゆくのである。」
尾野正晴「松本陽子の絵画」(光琳社, 1990)より


 いずれも所詮は「趣味」の範囲を超えないとはいえ、私の場合、美術と音楽とを較べれば、どちらかと言えば音楽との関わりが占める割合の方が大きく、これまたいずれも所詮は自分の嗜好に合ったもののみを恣意的に選択する摘まみ食いには違いなくても、まずは単純にそれに向きあってきた時間の長さの差に起因してであろう、自己が選択した中核となる対象の周辺の広がりについても、音楽の方が遥かに大きなものであることは否定し難い。簡単に言ってしまえば、音楽の方が一般的な意味でより系統的な聴き方を、それでもしてきたことになるだろう。

 こんな比較に意味がどこまであるか疑問なしとはしないが、それでもなお、例えば、音楽における演奏録音の記録媒体に相当するものを絵画における画集であるとしたならば、実演に接することは実作品に接するべく美術館を訪れることに対応しそうである。であるとしたら、音楽の側においてはマーラーでさえやっと全交響曲について実演に接しただけであるに過ぎないことを思えば、新作が出るのを待ちかねて画廊に足を運ぶべく自分で積極的に情報収集する程の熱心さはないけれど、美術館で企画される個展、回顧展であればほぼ必ず足を運び、或いは時折は、その作家の作品だけを目当てに、常設展であったりアンソロジー的な趣向の企画展であったりを訪れたりする美術作家が居るとしたら、自分の中での重要度としては決して劣ることはないのかも知れない。松本陽子さんは、そうした意味において自分にとって、難波田龍起さん、中西夏之さんと並んで特別な存在である。更に言えば、これは音楽の場合の適当な等価物が見出せないが、自分の身の丈に合ったレベルではあるけれど、その作品が手許にあるという点で上記の3人は別格ということになるだろうか。

 ある作品が産みだされた背景のようなものは寧ろ敢て等閑視すべしとは全く思わないが、さりとてそうした文脈に作品を還元してしまうような視点に対しては拒絶感があって、それ故マーラーが好き「だから」同時代のマーラーの周辺の音楽が好きであるということがないのと同様に、周辺の美術、例えばクリムトや分離派、或いはココシュカ、更にはロダン等についても、一応その存在は知ってはいても、特にそこにマーラーとの共通性を見出すということはない。そもそもマーラー自身、その苗字にも関わらず、そして当時の著名な画家の娘を妻とし、分離派の面々との交流があるのみならず、ロラーの舞台美術のようなコラボレーションさえあり、或いはまたアマチュアの画家でもあったシェーンベルクが描いた絵を匿名で購入したりはしていても、総じて言えば造形芸術への関心は限定的だし、哲学や自然科学に関しては同時代の最新の潮流への関心を怠らない一方で、これまた同時代の作家との交流はあっても、文学の嗜好は寧ろ保守的であることは良く知られている。要するに、マーラーを文化的な潮流の(最も重要なそれであれ)一齣に還元するのでないとしたら、同時代に拘るのはマーラーその人を知る上でさえ役に立たないし、ましてやマーラーの作品を今日、遠く離れた日本で受容することの意義を考える上でも役に立ちはすまい。そしてそれはマーラーに限らず、音楽作品に限らず、美術についても同様ではないだろうか。少なくとも私にとっては、一見時代を隔て、様式の違い、あるいはジャンルの違いがあっても、そうした壁を超えた繋がりを見出すことの方が、断然重要に感じられるのである。
 
 だがしかし、とは言うものの、上記の尾野さんの文章を手許にある松本陽子さんの画集の解説文に見つけた時には、正直に言えば、不意打ちを受け、酷く驚いた。自分の中では、マーラーの音楽と松本陽子さんの絵画というのは、とりあえずは別々の領域にあって、その間に意識的な関連を見出そうとは特段思っていなかったからである。いずれも抽象画家である上記三人の作品に、或る種音楽的なものを感じこそすれ、そして別のところで何度か触れているように、私には色聴があるので、その時に「見える」色の色調に類似のものを感じることは時折あっても、具体的、個別的に、マーラーの作品との構造把握における対応を考えたことがそもそもなかったので、松本陽子さんの絵画の本質にアプローチする上記のような文章の中で、アドルノのモノグラフの「性格」の章に提示される三カテゴリに遭遇することになるとは全く予期していなかったのだ。実際、尾野さんの文章は、ポロックと松本さんの比較から初めて、松本さんのそれが制作手法上「引き算」の絵画である点を指摘し、それが色彩抽象絵画共通のものであることを指摘して、フランケンサーラーを比較の対象に設定し、引用した「原空間」への言及に至るのであって、末尾のパラグラフを除けば、専ら絵画というジャンルの中にある。それも20世紀の抽象絵画の中で専ら論じられているのだ。そして最初の転調がまずフェルメールとセザンヌを例とした19世紀以前の作家への時代を遡行する形で起こるのは興味深い。しかもそれが、引用を割愛させていただいた「原空間」がもつ祝祭的/不吉な質の指摘から、語り得ないものに辿り着き、語り得ないものだけが持つ「希望」への指摘とともに起きている点は特に注目される。

 そして末尾においてアドルノのマーラーに関するモノグラフでのカテゴリ、つまり美術ではなく音楽の、しかもよりによってマーラーという個別の作家の作品の性格を規定するために用意された、唯名論的といって良いカテゴリが出てくるのだが、その急激な転調と突然の結びに一旦は驚きはしても、マーラーの音楽が、語り得ないものだけが持つ「希望」という点において親和的であることは疑いなく、一方で、松本さんの作品が極めて動的な質を帯びて、その中に際立って豊穣な多様性と奥行きをもって、描かれたものが出現した現場を遡行的に感じさせることもまた疑いないことに思い当たれば、尾野さんの指摘にはそれを導きの糸として松本さんの絵画を理解する重要なポイントが示されていることに気付かずにはいられない。とはいえ、その作業は専ら読み手に課された形となっているのであるけれど。

 従ってここでは上記の文章を紹介するにとどめ、その内容について分析・考察することは控えることにしたい。松本陽子さんの絵画について語りたいことはたくさんあるし、日々その作品に接することが、自分にとって貴重な糧となっている事に対する、或る種の御礼とか恩返しのような気持から、そうすることに義務感の如きものを感じているという点で、マーラーの場合と変わることはないのだが、それには稿を改めるべきであろうし、とりわけても尾野さんの分析については、それについて単なる印象レベルでの貧弱な比較を超えた、それなりに実質的な何か言うだけの準備が今の私にはまだ出来ていないと感じるからである。

 とはいうものの、尾野さんが指摘する「原空間」のありようを示す言葉として三つのカテゴリを考えたとき、それがより一般的な絵画と音楽というジャンルを超えた、より高い抽象度の把握の可能性を示唆していることも然り乍ら、他ならぬマーラーの音楽観相学のためのカテゴリが、他ならぬ松本陽子さんの絵画の或る種の「観相学」であろうものに適用される点に、自分でも意識的には気付いていなかった相関の存在が示唆されているように思われる点が非常に興味深く思われる。

 実際、松本陽子さんの絵画を見たときの驚き、その絵画から押し寄せてくる光の放射の、その波動のうねりの中に自分が包み込まれ、漂うような感覚、そしてその流れが己の奥底に達した時に、今度は自分の中から湧き上がってきて、自分の中に広がり、あたかも自分を越えて周囲に拡がっていくかにさえ感じられる充足感は、最初に見たとき以来、変わることがない。絵画は音楽のように時間に沿って展開していくものではないけれど、ある水準において絵画についても動力学を考えることは、自分のそうした経験に照らすなら全く自然なことにさえ感じられるのである。

 今の私に言えることと言えば、以下のように、自分の経験を拙く、洗練もされていない仕方で語ることくらいなのだが、それでも敢て一言だけ付言すれば、尾野さんの分析は、それが収められた画集が出版された時点までの作品、即ち、松本陽子さんのトレードマークとでもいうべき、ピンクとグレーが主体のアクリルによる絵画のみに恐らくは対象を限定しているという点は、今日以降、それについて語る時に確認しておくべきことであろう。画集に限定するならば、その後2007年に出版された「松本陽子作品集」(ヒノギャラリー,2007)、あるいは国立新美術館での野口里佳さんとの二人展の図録「光 松本陽子」(国立新美術館, 2009)を開けばわかるとおり、2005年以降、緑を基調とした油彩の作品が制作されており、画材も違えば、制作の過程も異なったものであるからだ。

 緑の絵画は、まずもって「引き算」の絵画とは言えないだろうし、並行して制作されているドローイングと同様に、遠目に一見してそう見えるのとは異なって、細かい線の積み重ねからなっていて(まるでカオス力学系におけるカオス的遍歴の軌道のようだ)、粗密はあっても隙間があって、異なった色彩のコントラストや緑の中での色調の微細な差異と相俟って、際立って複雑で豊かな空間を内包している。しかもそれは決して静的に析出するといったものではなく、際立って動的で、その前に立つとたじろぐ程なのだが、そうした印象の方は、尾野さんが対象としていた「引き算」の、ピンクの作品群と共通した点もある。とはいえ、アクリルによるピンクの絵画においては絵から放たれる光の散乱が、寧ろ宇宙空間の異なる場所のように、普段人間の意識がその中に埋まっている環境とは異なった空間を感じさせ、時として観る者を脅かすのとは異なって、油彩による緑の絵画はある意味では親しみのある、日常のすぐ隣にある感覚があって、寧ろ観る者をその空間の奥の方へと誘うかにさえ感じられる。ただしそれは一見してそう思われるような、起源としての「自然」への回帰といったベクトルは全く異なった、寧ろ逆向きの経験であるというのが私の偽らざる実感である。それは日常的な経験を一旦括弧入れした上で把握されているかのようであって、極めて意識的に獲得し直された印象を受ける。一見して素材に見える緑色も、実は素材というよりも寧ろ、制作を通じて意識的な仕方で再び獲得しなおされるものに見える。恐らくはそうした媒介性は、ピンクの絵画がキャンバスを床に置いて描かれているのに対し、緑の絵画の場合はキャンバスを垂直に立てて、それに正対して描かれるという制作手法と関係があるのだろうし、松本さんにとって油彩は、一旦離れた後に再び向き合った画材であるという事情も関係しているに違いない。そしてそれはマーラーの音楽が、工芸品的に細工された制作物としてのそれから遠く隔たって、一見、生の素材を「廃物利用」よろしく取り集めているように見えて、そうした素材が芸術音楽に取り込まれた古典派の時期とは異なって、素材との関係が屈折した、媒介を経たものであること、そして、そうした素材を用いて、もう一度新たにヴァーチャルな「世界」の制作であろうとするのとどこかで接しているように感じられるのだ。そしていずれもそうして意識的に掴まれ、定着された音や色の向うに「語り得ぬものだけが持つ希望」を垣間見させるという点において、ジャンルや時代の様式や意匠の違いを超えて、やはり通じるものがあるように感じられる。

 実際、松本陽子さんの緑の絵画を初めて見たとき、それがピンクの絵画がそうであるように、絵画としては全くユニークであって、前人未踏の場所に居ることを感じつつ、同時にその質が、どこか別の非日常的な経験において垣間見ることができる印象に通じる点においても共通しながら、より確乎とした仕方で提示されるような感覚に捉われて、深い充足感のようなものを覚えたのを覚えている。そして勿論、そうした感じは、作品に向き合う度に都度新たに、より確かなものとなっていくように感じられるのだ。まるで逍遥しているうちに、気付かずに、自分が朧気に予感していた場所に突然出たような感じと言えば良いだろうか。こうした経験をさせてくれる絵画というのは他になく、作者が「引き算」の、今なお作者のトレードマークのように語られるピンクの絵画の長く深い経験を経て辿り着いた境地に、畏敬の念を覚えずにいられない。これは危険な言い方かも知れないが、或る日、自分がその絵画の空間の中に踏み入って、そのまま消えてしまうといった想像を、緑の絵画を前にしてすることさえあるのだ。繰り返しになるが、勿論それは「回帰」といった類の動きではなく、寧ろ逆に、到達することのないかも知れない未来の彼方に、未だないけれど、今そこにある絵画を見ればこの上もなく確かなものと感じられる「希望」として予感されている(に過ぎない)のであるが。

 であるとするならばここでは寧ろ逆に、「原空間」を音楽に適用してみることはできないだろうか?つまるところ、「原空間」というのは、時間と空間が分離された後の空間の謂ではあるまい。そうであるとするならば、それは経験的なレベルで時間に沿って再現される音楽の時間性とは異なった水準の、現象の背後・意識の背後から音楽が湧き出してくる場を指し示しているのであって、その向かう先が、ジャンルを違いを超えて、やはりマーラーにおいても「語り得ぬものだけがもつ希望」に他ならないという構造のアナロジーは極めて確からしいものに思えるのである。(2018.11.3/4)

2018年10月14日日曜日

石倉小三郎「グスターフ・マーラー」(1952)より

 
 近代の音楽史上にマーラー問題という言葉がある。それほど彼は問題の人であった。それは凡ての偉人芸術家たちの運命であると云えばそれまでであるが、彼についてはそれが格別に烈しかった。一方に熱狂的頌歌があれば、他方には永罰を課せんとする冷酷があり、それが彼に対する批判の全貌をなしている。その風当たりはシュトラウス、レーガー、プィッナーに比して、はるかに強かった。それは彼の作品からも来ているが、その性格にねざしている処も大きい。彼は創作する人の熱に於て一生を狂い進んだ。遠慮なく熱烈に凡てを敢行した。劇場の改革に熱中すると共に、九つの大がかりな交響曲を世界に送った。しかも凡てを矢つぎ早に、飛ぶような態度に於て。彼の作品はやむ間なき緊張を示しており、最も深い意味に於て刺激的である。その上に彼はユダヤ人である。新時代のユダヤ人が、大規模な交響曲作家として登場したのであった。まだヒットラー時代ではなかったから目だった迫害は受けはしなかったが、ベートーヴェンによって神性的なものにされ、しかも一時は衰退の途を辿りつつあったような交響楽が、一ユダヤ人によって復活されるのである。音楽創作の上に於ての人種問題が新しく掘りかえされ、意地わるく曝し物にされた。彼の理想的傾向が疑の目を以て批判された。
 このような問題を含む彼の音楽も、今では改めて正当な批判を受けてその評価もほぼ定まったと云えるであろう。彼の音楽は吾々の未来を担うものではないかも知れないが、その真剣さ・鋭さ・健康な素朴さ・と同時に、近代的な神経的ないらだたしさ・神のような純真さ・魔人的な力の感じ等は、正しく研究さるべき価値は充分備えていると思う。数は少ないが重要さに於ては交響楽に劣らないところの歌曲は、わが国に於ても既に紹介されているが、交響曲の凡てが、世界的にいつでもきかれるとまではなっていないであろう。私がその昔、滞独中にきき得たものも僅少であるし。今はその記憶も茫としており、また文献も充分でないから、私の研究も万全を期することは出来ないが、今手許にあるところのシュペヒトの「マーラー研究」、シュトルクの現代音楽史及びニューマンの現代音楽史、ワイスマンの「世界危機時代に於ける音楽」等の諸書に従ってマーラーの全貌をうかがい伝えることも死後四十年の今日に於て大に意義あることと思って私はここに筆をとってみた。楽曲の解説はシュペヒトを祖述したものであるが、シュペヒトはマーラーと親交があり、その所説は他人から自作の解説の試みられることを特にきらっていたマーラーからも自然に承認されていたものであろう。その他にもこの書に負うところ最も多いことを述べて謹んで感謝の意を表する。
 千九百五十一年五月十九日
      マーラー終焉満四十年の日に於て
 (石倉小三郎「グスターフ・マーラー」, 音楽之友社(音楽文庫42), 1952, pp.1-2) 


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 日本語で読むことのできるマーラーに関する書籍がまとまった形で現われるのは、マーラー生誕百年の1960年より後のこと、その嚆矢となったワルターの回想の翻訳(1960)を除けば、実際にはようやく1970年代になってからであると言ってよいだろう。翻訳ではなく、邦語による単行本ということであれば、音楽之友社の大音楽家・人と作品というシリーズの1巻として1971年に刊行された張源祥「ブルックナー/マーラー」があり、これはアルマの回想と書簡の邦訳(1973)、ヴィニャルやブラウコップフ、マイケル・ケネディ等の評伝の邦訳(それぞれ1970、1974、1978)と並んで、マーラーを聴き始めたばかりの中学生が本屋の書棚で目にすることができた書籍の一つであった。そして、それ以前にマーラーについて言及された著作があったとしても、その当時の書棚からは姿を消してしまっていて、その存在を知る術はなく、ずっと後、マーラーがブームになった1980年代後半から1990年代前半にかけて大量に出版されたマーラーに関する文献を介して、ようやくその存在を知ることになる。これはマーラーのみを扱ったモノグラフではないが、既に戦前にパウル・ベッカーの「ベートーヴェンからマーラーまでの交響曲」の翻訳が出ている。マーラーを音楽史の中に位置づけるにあたり、この著作に現われたベッカーの主張の影響力はかなりのものがあったように見えるが、ベッカーのマーラーのみを扱った大部のモノグラフは結局翻訳されることはなかった。モノグラフということであれば唯一、1952年に音楽之友社から音楽文庫の42冊目として刊行された石倉小三郎「グスターフ・マーラー」があるのみである。上に引用したのはその序であり、その日付は刊行の前年、マーラー没後四十年となっている。
 巻末には音楽文庫の既刊の目録が確認できるが、その中には、同じ著者による「バッハ父子」の翻訳、マーラーについての著作と同年刊行の「ゲーテと音楽」が確認できるほか、この後1954年にも「音楽史概説」が刊行されているようである。(なお、別のところで引用したマーラーの第八交響曲の1923年(大正12年)ベルリンでの実演に接した記録を含む兼常清佐「音楽巡礼」もやはり音楽文庫の一冊である。)

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 石倉小三郎といえば、近年どうであるかは知らないが、私の世代においてはシューマンの「流浪の民」の訳詩が何と言っても著名であろう。文学上のいわゆる古典の翻訳に関しては、定期的に新訳が出て新陳代謝が行われても、レコードやCDに添付される意味を知ることを第一義とした歌詞対訳ではなく、実際に歌われる歌詞となると、今や聞いても直ちに意味がわからないのではと思われるような古めかしい訳で未だに歌われることは珍しいことではないようだが、まさにその典型とでも言うべきその訳詩は、実際にはシューマンが曲をつけたガイベルのそれを、本来備えている文化的・歴史的な含意をばっさり切り捨てて意訳したもののようである。それだけでなく石倉は、既に学生時代にグルックの歌劇「オルフェオとエウリディケー」の本邦初演にあたって(共同であるようだが)訳詩を提供するといったこともしているようで、いわゆる本業のゲーテを中心としたドイツ文学だけではなく、音楽の受容にも少なからぬ足跡を残した人のようだ。
 そうした著者の手になるマーラーに関するモノグラフの内容はどうかといえば、上に見るように自身も序で断っているとはいうものの、著作というよりはシュペヒトのモノグラフをベースにした翻案に近いというのが実態のようだ。特に作品解説は、自分でもそう断っているようにほぼシュペヒトの「祖述」といって良いのだが、それもかなり自由なものというべきだろう。私が実際にシュペヒトの原著との比較を一文一文してみたのは第9交響曲についての章のみだが、シュペヒトの原文が全て翻訳されている訳でもなく、適当に切り取られた原文の自由訳を繋ぐようにして、石倉自身の文章が挟み込まれているという方が正確に思われる。
 尤も、翻訳も含めた著作権についての意識が高くなかったのは石倉個人というよりは、時代の制約と考えるべきであって、明治期の翻案と翻訳が入り混じった状況、つまり今日的には「盗作」と判定されても仕方ないような翻案があるかと思えば、抄訳といえば聞こえはいいが、原作を正しく伝えているとは到底言い難い、恣意的なカットが断りもなく行われているものが翻訳として流布したりといったことが当たり前だった時代の産物であると考えるべきなのであろう。上でも触れた目録でモノグラフを探せば、バッハ、モーツァルト、ベートーヴェン、ワグナー、シューベルト、シューマンにようやくチャイコフスキーが加わったところでマーラーのモノグラフが上梓されるということが如何に破格のことであったかは、当時一般に流布していた音楽史の通念の圧倒的な影響の下で初等教育を受けた私のような世代にはそれなりに理解できることでもあり、まずもってその志を評価するのが正当な姿勢なのかも知れない。

*   *   *

 とはいうものの、この著作には、今日見れば明らかな誤認が含まれるのも事実であって、1881年というからバルトークと同じ年に生れた著者がマーラー・ルネサンスが到来して間もなく(1965年)没したこともあり、この貴重な文献がその後陽の目を見ることもなく埋もれてしまったのも仕方ないのかも知れない。上に記したように私は小倉がベースとしたシュペヒトの著作との比較を第9交響曲の部分について行ったのだが、その理由は、「この曲は三つの楽章から成っている」(p.261)という文章にぶつかったからであった。勿論、この文章はシュペヒトの文章を気儘に切り取って繋いだ際に石倉が付加した文章なのだが、それにしてもどうしてこんな勘違いが生じたのかを確認しようと思い立ったからに外ならない。その結果を報告することにさほどの意味があるとも思えないのでここでは割愛するが、上記の事実誤認を含む石倉の繋ぎの文章に後続する「全体を通じて格別な新しさは認められない」(同)をシュペヒトのオリジナルと照合し、更には当該の文章に先行する、石倉が省略した箇所を注意深く読めば、それはシュペヒトが第1楽章を高く評価しているのに対して、後続の3楽章は「全体を通じて格別な新しさは認められない」と述べている文脈であることが直ちにわかるから、石倉が果してどこまでシュペヒトの文章をきちんと読んでいたかについて疑いを差し挟むことも可能かも知れない。
 ただしそれも、時代の制約というのを考慮してみれば、止むを得ない誤りかも知れない。石倉は序文で、滞独中にマーラーの実演に接しはしたが、それは一部であったと述べているし、日本で第9交響曲が初演されるのは、遥かに後年、1967年4月16日、東京文化会館でのキリル・コンドラーシン指揮モスクワ・フィルハーモニー管弦楽団の演奏迄待たなくてはならないのだから。既に戦前にSPレコードが輸入されてはいたけれど、戦前のワルターの録音のうち、1936年5月24日の「大地の歌」こそ全曲を聴くことができたものの、1938年1月16日の、あの異様な緊張を孕んだ第9交響曲の録音の方は当時まだレコードになっていなかった筈である。クロノロジカルには第9交響曲の次の録音は1950年のシェルヘンとウィーン交響楽団の演奏のようだが、これが聴けるのはずっと後、1990年代になってからだし、その次のホーレンシュタインとウィーン交響楽団の演奏は1952年6月だから小倉の著作の刊行後なのだ。従って、実演に接することも、レコードで接することもできない未聴の作品についての、必ずしも分りやすいとはいえないシュペヒトの叙述を読み誤ることがあったとしても、それを今日の基準で批判するのは酷というものであろう。更に言えば、シュペヒトの著作の刊行はマーラー没後間もない1913年だが、その初版は90もの図版が含まれ、楽曲解説には譜例がふんだんに入っているのに対して、1918年の再版―シュペヒトの再版への序文は1918年6月ベルリンとなっているから、第1次世界大戦の末期、決定的転機となる第二次マルヌ会戦とそれに後続する百日攻勢の直前の時期であり、出版はドイツの敗戦が決定的になってからベルサイユ条約に至るまでの混乱の時期にあたる可能性が高いようだ―となると図版のみならず、譜例も凡て削除されながら文章はそのままとなっていて、こちらの文章だけ読む限り、どこの部分を述べているのかを正しく言い当てるのはちょっとしたパズルである。私は永らく再版を参照してきたのだが、ようやく最近初版を入手することが出来、その違いに驚いた次第なのだが、もし石倉が手許において参照していたのが再版であるとするならば尚更のこと、一度も耳にしたことのない音楽についての記述についての多少の誤解は仕方ないようにさえ感じる。

*   *   *

 石倉は1965年10月に没しているが、その晩年には繰り返し「ファウスト解説」と題する著作が出版され没後に及んでいる。そのうちの一つ、上述の「ゲーテと音楽」と同年の1954年に出版された版は、「ゲーテの到達点はなんであったのか」という副題を持っているようだ。マーラーがゲーテを特に愛読していたことは、アルマやワルターの回想により良く知られているが、シュペヒトの祖述に紛れ、未だ未知の作曲家を紹介するという役割の自覚の下に書かれているこの著作からゲーテの研究者としての石倉自身の思いを読み取ることは容易ではない。だが、この著作を執筆するにあたり、果して彼は、少し前、1949年12月の山田一雄指揮、日本交響楽団(当時:現在のNHK交響楽団)による第8交響曲の日本初演を聴いたであろうか?ゲーテのファウスト第2部の終幕に基づく第8交響曲についての記述が大幅に拡張され、シュペヒトの著作にはない歌詞の翻訳が冒頭に挿入され、更に以下のような確信めいた言葉が記されているのを読むと、彼が件の初演に立ち会い、そのことがこの著作の執筆を後押ししたのではという想像は抑え難い。曰く、

 「ゲーテのこの難解な神秘極まる終りの言葉の含蓄するところを説明し理解するには、この曲をきくことが最もよい。この音楽による解説がそれの最捷径であると云っても過言ではないであろう。」(p.227)

 誰かがこの極東の島国におけるマーラー受容史を企てるとするならば、この著作を無視して通り過ぎるのは不当ではないだろうか?没後100年も過去のこととなった今日、石倉が参照したシュペヒトにせよ、ベッカーにせよ、既にマーラーの受容における過去の一齣ということになってしまっているようだし、マーラー・ルネサンスに先立つ時期に書かれた石倉の著作の意義も限定されたものにならざるを得ないことは止むを得まい。だけれども、ここには今日の、いとも容易くマーラーの音楽に接することができる環境では却って得難いものとなっているものが存在するのではなかろうか?柴田南雄さんにとって決定的な経験となった、戦前のプリングスハイムによる東京音楽学校における第6交響曲の初演と同じく、技術的な完成や、情報の正確さといった点では制限があっても、人の心を動かさずにはおかない何かが宿っているのではなかろうか?そしてそうした何かを無視し、時としてその技術的な未熟や情報不足による誤りを難じて軽んじ、蔑みさえしかねない受容というのは、それ自体、決定的な何かを取りこぼしているということはないのか?
 仕事柄、知的財産権について、相対的には敏感にならざるを得ないということもあり、個人的な嗜好からすれば、「祖述」という在り方自体に生理的に近い抵抗感を覚えるし、その時代がかった文体にも時として拒絶反応が起きるのは避け難いのではあるけれど、マーラー・ルネサンス後、バブルの時期を通過して今日に至るまで、この著作が等閑視されていることに対しては違和感を感じずにはいられない。マーラーを聴くことを単なる消費で終わらせることなく、更に半世紀の厚みを加えた隔たりを通じて、マーラーから受け取った何かを継承しようとしたとき、そこには未だ汲み尽くされていない何かが存在するという感覚は、単なる思い込み、錯覚に過ぎないのだろうか?マーラーを受け継ぐためには、それこそ、石倉のような先駆者たちよりもより一層大胆でなくてはならないのではないか?
 否、こと我が事に限定するならば、「私の意見」、「私固有の声」などといったものが、そもそも一体何処に在るのか?「私」とは、せいぜいが他者達の声の交響する場、結節点の如きもの、継電器(パトチカ)、配電盤(エリアス)、あるいは有機交流電灯の照明(宮澤賢治)に過ぎないのではないか?祖述とは明確に異なり、紛れもない自分の言葉で語ったとしても、だがその「自分」自体、摂取して来た様々な先人達の声のエコー、良くても変奏、大抵は劣化したコピーのようなものではないと言い切れるのか?
 更に言えば、何とも驚くべきことに、マーラー・ルネサンスに先立つ石倉のこの著作の時代には、いまだマーラーの音楽を、オリジナリティーの欠如、借り物であるとして否定する見解は決して少数派ではなかったのだ。よりによってマーラーの音楽さえもそうなのだ。勿論、影響関係、借用や引用を実証的に解き明かすこともまた、学問的には紛れもない業績であり、貴重な貢献であろう。だけれども、本当に言い当てたいのは、マーラーが如何にユニークであるかであり、そのオリジナリティの在り処の方ではなかったのか?
 そうした状況を忘れてしまったかのように、今やマーラーはますます普通に、当たり前のように消費されつつあるかに見える。だがマーラーの音楽はそうした状況から常に逸脱し、存在しない彼方を目がけるものではなかったのか?マーラーの音楽は、アドルノが見事に言い当てたように、ほんとうはほとんど慣用的な響きを、あたかもそれまでまったくなかったかのような新鮮さで耳にする子供の信頼を裏切らないようなものではなかったか?
 マーラーに後続する前衛がそれを目指して錯誤に陥った後、AIが人間の創造性にまで踏み込むかに見える今日においてこそ、「はじめて」であることや「新しさ」の感覚の由来についてマーラーから学び取ることができるのではないか?複雑性を語る語彙を手にし、決定論的でありながら予測ができない事象を扱うカオス理論が登場し、因果性や時間についての洗練された理論が出現しつつある今日、かつては否定神学のような語り方によってしかアプローチできなかった出来事を実質的な仕方で語ることができるようになりつつあるに見える。スタニスワフ・レムが「ビット文学の歴史」でさる哲学書の読解に関してイロニカルに書いたのと同様に、ある側面においてはマーラーの音楽の複雑さ、豊饒さを本当に読み解くのはAIにしかできないのかも知れないが、それでもなおマーラーの音楽は、シンギュラリティの手前の、ポスト・ヒューマンならぬ「人間」、ジュリアン・ジェインズの言う「二分心」崩壊後の神なき時代に、「隠れたる神」を求めずにいられない種族の末裔たる私たちのものであり続けるであろう。

*   *   *

 石倉の著作を前にして、第2交響曲の終楽章、復活の合唱(それもまたクロップシュトックの讃歌に対する簒奪の嫌疑をかけられたものであったが)の手前で、暁を待ちかねて啼く鳥の声のことが思い浮かぶ。シュペヒトの時代から四半世紀以上も遅れて、だがマーラー・ルネサンスの夜明けの光が射すに先立って書かれた著作は、それゆえに忘却の中に埋没してしまった。だが、その著作の末尾に置かれた文章、明らかにゲーテのファウストの終幕の神秘の合唱を踏まえた言葉を確認するとき、石倉は自分の立ち位置というのを、控え目に言っても予感していたのではないかと思わずにはいられない。そしてそれがマーラーという対象に相応しいものであり、のみならず、実は「二分心」崩壊とシンギュラリティに挟まれたエポックに生きる我々にとって相応しいものであることをも。

「重ねていう。彼は現象である。実現ではない。完成ではない。併し大いなる感激なしに、人は彼を考えることが出来ない。凡ては未来が決定する。」(p.299)

(2018.10.14/15)

2018年9月28日金曜日

小林憲正「アストロバイオロジー 宇宙が語る<生命の起源>」より

「 1898年、若き日の大指揮者ブルーノ・ワルターは、オーストリアの保養地シュタインバッハにある、作曲家マーラーの別荘を訪ねた。あまりの自然のすばらしさに見とれていたワルターに、マーラーはこういったそうだ。「そんなに見なくてもいいよ。すべて私が作曲してしまったからね。」
 マーラーはこのときまでに、自然への賛歌ともいえる交響曲第3番ニ短調を完成していた。演奏に100分ほどかかるこの大曲は6楽章からなり、それぞれに副題がついていた―「野原の花々が私に語ること」「森の動物たちが私に語ること」など。本書の各章タイトルは、これをレスペクトしたものだ。もちろん宇宙が私たちに語ることをこのような小冊子で語りつくすことなど、とてもできない。その面白さの一端を感じていただければ幸いである。(…)」(あとがき p.120)

 もし題名を伏せて上記の文章をあとがきに持つ書物のジャンルを当てよという問題が出されたならば、果たしてどれくらいの人が正解に辿り着けるものか、想像がつかない。手掛かりは「宇宙が私たちに語ること」という部分くらいにしかないけれど、「宇宙」という単語は文脈により、様々なニュアンスで用いられるから、よもや文字通りの「宇宙」を相手にした、アストロバイオロジーの著作の中で、上記のようなかたちでマーラーが参照されると思い至るのは難しいかも知れない。
 だけれども、既にアドルノはマーラーに関するモノグラフの中で、マーラーの「大地」とは「地球」のことに他ならず、それは同時代の通念としての母なる大地でも、ナショナリスティックなイデオロギーにおいて血と対を為すそれでもない、後年、宇宙飛行士が外から眺めることになる地球の「青さ」を先取りしたものであると述べているのを思い浮かべたらどうだろうか? あるいはまた、シュトックハウゼンが宇宙人の視点を持ち込んで、マーラーの音楽のスペクトルの幅の広さについて語っていることを思い浮かべてもいいかも知れない。
 そうした連想の糸を辿るならば、ボイジャー計画において、パイオニア探査機の金属板に続いて、地球外知的生命体や未来の人類が見つけて解読してくれることを期待して、地球の生命や文化の存在を伝える音や画像が収められたレコードが探査機に搭載されたことに行き着くだろう。
 レコードには、115枚の画像と波、風、雷、鳥や鯨など動物の鳴き声などの多くの自然音に加え、様々な文化や時代の音楽、55種類の言語の挨拶、当時のアメリカ大統領であったジミー・カーターと国際連合事務総長であったクルト・ヴァルトハイムからのメッセージ文が収められたのだが、残念ながらマーラーの音楽は、シュトックハウゼンのお墨付きにも関わらず、地球を代表する音楽には選ばれなかったようである。西欧の音楽として選ばれたのはバッハ、ベートーヴェン、モーツァルトとストラヴィンスキー、ホルボーンの作品だが、選曲は「様々な文化や時代の音楽」という観点で行われており、「大地」に根差した、各地域の特色を表す作品という選択基準が意図せず内包するイデオロギーが、三重の意味で故郷を持たない異邦人マーラーの音楽をまたしても疎外した、という穿った見方もできないことはなかろう。シュトックハウゼンの方は、1つだけ選ぶという条件なのだが、こちらはこちらで、半ばは意図して、だがやはり半ばは意図せずして、マーラーの音楽が持っている、アドルノ的な意味合いでの「地球」を、宇宙から眺めるという視点を過たず捉えたと言えるのではなかろうか。
 小林さんの書物の各章タイトルに登場するのは、隕石、彗星、火星、エウロパ、タイタンといった顔ぶれなのだが、就中タイタンは、それを探査するためにボイジャー1号が冥王星の探査を諦めた軌道を選択してフライバイを行ったにも関わらず、分厚い大気に阻まれて、探査機に備え付けられた機器ではその大気の下にあるものを観測することができなかったという因縁を持っている。小林さんの書物はといえば、ようやく近年のカッシーニ探査機から分離されたホイヘンス・プローブが、初めてその地表に到達して映像を地球に届けたことや、カッシーニ探査機によって長期間にわたって繰り返されたフライバイの結果に基づき、地球とは異なったタイプの生命がタイタンに存在する可能性を紹介しているのであり、そうした意味で、半世紀前のアドルノやシュトックハウゼンの認識の継承、深化という点において、現在においてマーラーの音楽について語るのにまことに相応しい内容を備えているように思われるのである。自分の立つ場所を、自分の視点を絶対視しない姿勢、「外」に対する眼差し、「他者」に対する意識を備え、自分が語るのではなく、外部からの語りかけを聴くという姿勢こそ、ジャンルを超えてマーラーの作品がリスペクトされる理由であり、それは寧ろ今日では、科学や工学の分野にこそ呼応するものをより多く見出すように私には感じられる。(2018.9.28)

3回目の第8交響曲実演に接したマーラー愛好家の専門家への手紙より

(…)2018年9月16日にミューザ川崎で行われた、東京ユヴェントス・フィルハーモニーの創立10周年記念演奏会、開演18:30の夜の演奏会で普通なら行くことはないのですが、連休の中日、ミューザ川崎、そしてタクトをとられた坂入さんが井上喜惟さんの知己とのことで、追加発売のチケット、3階右側で舞台の右側が半分見えない(しかも第8交響曲の場合、2階客席に合唱が入るのでその半分は足元から声が出てくるような感じの)席であったが聴いて参りました。

演奏はアマチュアとは思えない、精度の高いもので、歌手の方々も幸いにして皆さん好調だったようで、リアライズという点では申し分ない、素晴らしい演奏と受け止めました。とりわけ私見ではこの曲の要所を占めるパートである児童合唱のNHK東京児童合唱団の上手さには脱帽。彼女たちは若いけれど、この曲は初めてではないようで(パーヴォ・ヤルヴィのタクトでNHK交響楽団との共演がある由)、思えばこれはこれですごいことではないでしょうか?児童合唱は、定義上いつもそうなのですが、今回は指揮者のみならずオーケストラも若くて、とにかく勢いと溢れるばかりの精気に満ちた溌剌とした演奏で、オーケストラの10周年記念に相応しい、とても良いコンサートでした。

コンサートならではの空間的な配置について言えば、第2部のコーダ手前の栄光の聖母の歌唱は3階席右側のオルガン脇、同じ高さで聴くことになりました。練習番号174のWenn er dich abnetの出だしのピッチもぴったし、素晴らしい歌唱でしたが、距離が近いためにppには聴こえず、ちょっとびっくりしました。他方、各部のコーダで「離れて配置される」との指示のあるバンダは第1部ではオルガンの手前、オルガン奏者のすぐ脇、合唱の一番上の席とほぼ同じ高さ(合唱は真後ろから金管の直接音を浴びることになります)。第2部では指定通りにオーケストラ本体からは最も離れた4階席の最前列。

*   *   *

指揮者の坂入さんは弱冠30歳にしてこの曲を演奏したことになります。確かシューリヒトがヴィースバーデンでこの曲を振ったのは30代だったと記憶しますが、何しろマーラー自身による初演(1910年9月)に立ち会った時に丁度30歳、取り上げたのはその2年後とのことだから32歳ですか。同様に、28歳で初演に立ち会ったストコフスキーは1916年にフィラデルフィアでアメリカでの初演を実現しているので34歳だったことになります。坂入さんは彼ら2人よりも更に若いことになるのですね。

そういうこともあってか、私が会場でふと思い出したのは、1923年(大正12年)にベルリンで第8交響曲の演奏を聴いた兼常清佐が記した以下の言葉でした。

「(…)"フィルハーモニー"の演奏台は臨時に聴衆席の中まで拡張された。この演奏団の上には、真白の服の女性合唱団が管弦楽団を埋めるようにとりまいた。後には一段高く男性合唱団がひしめき合っている。大風琴の上には強い電燈が一つぎらぎらと光っている。一方の隅にピアノがある。他の隅にはチェレスタがある。ハルモニウムがある。上の段には見馴れぬ鋼鉄の棒がかけられている。すべてものものしい、圧倒的の光景である。この大勢を指揮する若い指揮者パウル・ペルラの得意は察するに余りがある。彼は凱旋将軍のごとく指揮台に現われた。雷のような拍手が彼を迎えた。マーラーの『世界市民への贈物』である『第八シンフォニー』は満堂の聴衆の魂を底の底から揺り動かした」(兼常清佐「音楽巡礼」、桜井健二『マーラーとヒトラー』p.76に引用されていて、私はそれによって知りました。)

合唱団の配置、ピアノ、チェレスタ、ハーモニウム、グロッケンといった楽器の配置といった細部は異なるけれど、「若い指揮者」パウル・ペラは1892年生まれだから31歳、年齢に関しては坂入さんに最も近いが、更に坂入さんの方が若いのです。第8交響曲を指揮した最も若い指揮者といった、ギネスブックのエントリのような記録に関心があるわけでもなく、調べるつもりもないのですが、管見では坂入さんより若い指揮者による演奏の記録はありません。

*   *   *

ただ正直に申し上げると、素晴らしい演奏を味わいつつも、ホールにおいて私が少し別の感覚も抱いていたことを言わなくては、その場での経験を偽ることになってしまうでしょう。

「離れて配置される」バンダの位置については上に述べた通りで、まず些か例外的な(何しろ「離れて」いるとは言い難かったので)第1部での配置に驚きましたが、では第2部の配置について違和感はなかったかというとそうではない。第2部の配置そのものは自然な選択であると思うのですが、第1部の配置が念頭にあったので、こちらはこちらで驚いたというのが正直なところです。ごく単純に、私には意図がよくわからない。マーラーの他の作品でもそうであるように、だがこの第8交響曲については一層、「空間性」は決定的な意味を持ち、「何処」で音楽が鳴っていて、つまりオーケストラが乗っている舞台が仮想的な作品の空間のどこに位置していて、「遠く」(即ちマーラーの指示の「離れた」ところ)が「何処」であるのかというのは決して些末ではない、と思うのです。しかも、これは歌詞により曖昧さなく明確であると私は理解しているのですが(従って勿論、多くの人が指摘していることでもあるわけですが)、第1部のVeni、地上から天に向かっての、「私」が、「我々」が発する「来たれ」に対し、第2部のKomm、こちらは高いところから栄光の聖母が、直接にはかつてグレートヒェンであった女に向けて呼びかける「来たれ」には明白な対応関係があり、それに対応して、バンダが奏する音型にも対応関係をマーラーが設定しているにも関わらず、そのシンメトリをあえて壊したのは何か事情なり理由なりがあったのでしょうか?

兼常の聴いたコンサートが恐らくそうであったと想像される様に、この演奏に対する聴衆の反応は猛烈といって良いものでしたし、音響的な実現という点では申し分ないものであったことを思えば、これは瑣末なことかも知れません。そんなことに拘って、総体の印象を薄めてしまうのは愚かしいことであるという言い分に説得力があることを否定しようとは思いません。しかも私は別のところで書いている通り、アドルノがモノグラフで示したこの作品についての留保に対して、常には距離を置き、寧ろ、そこにある逡巡のようなものに、実演に接した経験を裏切ることのない態度を見出しさえしてきたのです。第8交響曲の実演に接するのは、何とこれで3回目。唯一第7交響曲のみが3回の実演に接しているだけという私の貧しい実演に接した経験の半分は、若き日の苦い疎外の思い出に満たされていて、それ故に実演に接するのを永らく(四半世紀に亘って!)控えてきた程なのですが、その中にあってこの作品の実演は、ほぼ唯一といって良い例外だったのです。恐らくは演奏の客観的な出来からすれば最も優れたものであったであろう今回の演奏で、だけれども、どうしようもなく違和感を抱いてしまったが故に、本来なら演奏会の感想として纏めて公開することを予定していたものが、私の主観的な判断基準では出来なくなってしまったこの状況を自分でも整理する必要に駆られて、このようなご連絡をさせて頂いているような状況なのです。

*   *   *

「何処」で音楽が鳴っていて、つまりオーケストラが乗っている舞台が仮想的な作品の空間のどこに位置していて、「遠く」が「何処」であるのかという点は本当に瑣末なのか、そんなのは頭で作った理屈に過ぎないのではという問いに対して私は、必ずしもそうとは言えない、と答えるでしょう。寧ろそれは実感として感じられたものなのです。ですから、その時に感じた様々な印象を跡付けながら、そこに存在するに違いない連関を見出し、違和の理由を突き止める作業にもう少しお付き合い頂きたく思うのです。大切なお時間を頂くことになり申し訳ありません。恐らくそうして見出したものは、私の個人的な思い、主観的な反応に過ぎず、演奏の客観的な評価とは無関係であることを認めざるを得ないでしょう。それゆえこの演奏会については、感想を公開することを潔く断念するつもりです。それでもなお、他方において、この作業をすることなくしては、少なくとも私個人にとってコンサートに赴き、一度限りの演奏を聴く意味はないように思うのです。この作業なしには、再び実演に接することを断念せざるを得ないように思うのです。

私は頭の中に入っている音楽がその場でリアライズされるのを追い、歌詞を噛み締めつつも、どこかで、少しだけ取り残されたような気がして、かつまた、自分が年をとったことを感じていました。それは私のような老境に差し掛かりつつある人間ならではのもので、演奏されたみなさんには関係のないことなのだろうし、会場に居た多くの聴き手の方々にとってもそうでしょう。坂入さんをはじめとする奏者の方々の若さと、技術的な達成を目の当たりにして、マーラーの没年を超えてなお馬齢を重ねるしかないというのが偽らざる現実である我が身を振り返らざるを得なかったに過ぎないのかも知れません。

マーラー本人はこの曲を振ったとき50歳でした。歌手のリリ・レーマンはマーラーがひどく老け込んでいることに驚いたという証言を残しているし、シュペヒトは、終演後に聴衆に向かって挨拶をするマーラーを見つめていた若者が「あの人はもうすぐ死んでいくだろう。あの人の目をご覧なさい。勝利者の、新しい勝利に赴く人の目つきではありません。まさにすでに死が手を肩にかけた人の目つきです。」(マルク・ヴィニャル『マーラー』における引用より。手元の邦訳ではp.186)と語っているのを聞いたといいます。無論のこと、こうしたアネクドットの類の常で、その後1年を経ずに亡くなったことを知った人間の後付けであると疑うこともできるでしょうし、コンサートのあったその時点での展望としては、マーラーは単に扁桃炎を起こしていたのを無理をしただけだったのかも知れません。

だけれどもこの作が、柴田南雄さんが後続の「大地の歌」や第9交響曲とともに「背後の世界の作品」と呼んだ後期作品に属することも確かなのであって、表面的にはド・ラ・グランジュの言う通り歓喜の奔流かも知れなくとも、そして一見したところ否定的な契機に欠けるように思われたとしても、とりわけその第2部が人間が生きたままその場にいることはできず、また、経験することもできないような場での出来事の音楽化であることは、単に素材であるゲーテの「ファウスト」第2部終幕の場の場面設定がそうであるという以上に、マーラーの音楽の内実が物語っていることであると私は思っています。否、第1部での聖霊の訪れる瞬間とて、時間論的に見れば主体が自己超越をして客体化し、次の生成の背景となる受動性の極における出来事、言いかえればミクロなレベルでの「死」の経験に他ならない筈だし、第2部の素材について付言するならば、とりわけても少年達がこの場に至るまでにどんな経験をし、どんな場所を通り抜けてきたかに思いを致せば、総じてこの作品の中には「老い」とか「死」とかが潜んでいることに気付かずにはいられません。自室でCDの録音を聴く場合でさえ、第2部を聴き進めていくにつれ、自分が何処にいるのか、引き返すことのできない場所に到達したのではないかと感じて恐慌に陥ることがあって、怖くてなかなか聴く気になれないというのが、私にとってのこの作品の在り方なのです。

それを思えば、最初に記したバンダの配置に関する違和感もまた、無関係のこととは思えない。「何処」で音楽が鳴っていて、つまりオーケストラが乗っている舞台が仮想的な作品の空間のどこに位置していて、「遠く」が「何処」であるのかという点は、つまるところ上記のような作品の受け止め方と密接に関連しているのであって、10周年記念の大成功の演奏にケチをつけるというわけではなく、その成功は演奏した方々の、とりわけ指揮者の若さに相応しいものであったけれど、そしてこれは単なる無いものねだり、不当な留保であることは承知の上で、だが、しばしば人がこの曲に存在していること自体を見失いがちな、そして終演後の熱狂の只中では忘れられて当然な、「遠く」に対する感覚を欠いていた、あらゆることは「ここ」で起きて、「ここ」で自己完結し、成就していたと感じずにはいられない、それ故の疎外感であったのではないか、Veni-Kommの呼びかけのシンメトリが孕む、絶望的な程の隔たり、「死」を通してしか垣間見ることができないような「遠く」がそこには存在する余地がなかったように感じたが故ではないかと思うのです。

*   *   *

思えば最初の時は聴いた私が若かった。マーラーの聴き手としては既に10年選手だったとはいえ、坂入さんの年齢よりも更に若く、バブルに華やぐ世相の中のコンサート(サントリーホールの杮落とし)でした。2回目は井上喜惟さんのタクトでの、ジャパン・グスタフ・マーラー・オーケストラによる交響曲全曲演奏の掉尾を飾る演奏会でした。このコンサートについては、私も微力ながらお手伝いさせて頂いて、当事者の末席を汚しており、途中からではあれ、その活動を応援させて頂いてきた方々による演奏であったという事情があり、主観的には普通のコンサートとは違った意味合いを持っていました。そしてそうした「バイアス」は、実は私が実演を聴くのを再開するにあたって、意図的に選択したものでしたが、その選択は間違っていなかったと思います。もしかしたら今回の演奏会については、そうした「バイアス」が欠けていたが故に私の側に欠落があったのかも知れません。けれどもそれだけではなく、それにも増して、井上さんのタクトの下で生成する音楽の時間の流れは一種異様であった、それまでに実演、録音含めて聴いてきた様々な演奏の中にあって全くユニークで、寧ろ異様と形容するのが適当なものであったけれども、それでも尚、上記のような私のこの作品の受け止め方との齟齬はなかったように記憶しています。

こうして考えると、演奏の一つ一つを受け止めることがどんなに難しいことか、そしてそれらを比較して優劣を論じることが如何に暴力的な行為であるか、感じずにはいられません。コンサートで音楽を聴くというのは、優れて一つの実践的な行為、聴き手にとっても都度新たな挑戦であって、決して無音室で再生される音響を知覚するといった抽象的なレベルに還元することのできないものなのです。であってみれば、演奏会の成功は、坂入さんをはじめとする奏者の方々、坂入さんとオーケストラとを応援して来た聴き手の方々のためのものであって、やはり私はこのような主観的な経験を語るに留めるのが適当だと思えるのです。(…)

(2018年9月28日公開)

2018年8月5日日曜日

アドルノのモノグラフにおける「子供」について

 マーラーに関する日本語文献(海外の文献の翻訳を含む)は、マーラー・ルネサンスと呼ばれた1960年代より少し遅れて、1970年代になってようやく増え始めたかのように見える。勿論、そのピークはバブル景気の時期、1980年代後半から1990年代初頭くらいにかけてで、かなりの数の文献が出版された。そしてその後は、そうした「ブーム」の再来こそないが、すっかり大作曲家の一人として定着して、アニヴァーサリーが祝われ、文献も着実に増え続けているようだ。

 だが40年程前、私がマーラーを発見した頃の様相は全く異なっていて、丁度、ぼちぼち出版されるようになってきた文献を(子供独特の性急さと集中力で)内容を諳んじる程にまで貪り読んだものだ。時代と場所の(従って文化の・社会の)違いをものともせず、半ばは視界狭窄に助けられて、その音楽に「直接」向き合い、作曲家の人格に「直接」接したという性急な思い込みは、それが既に喪われてしまって後になって、かろうじて以下のアドルノの言葉の中に己を弁護してくれるものを見出すことになる。それはモノグラフの冒頭、「数秒の間この交響曲は、地上から天に向けられたまなざしが生涯にわたって不安げにかつ熱意を込めて求めていたものがあたかも実現したかのように夢想する。そのまなざしに対してマーラーの音楽は忠実であった。つまりは経験の変容が、彼の音楽の歴史なのである。」という記述に導かれて登場する。

「このように、十代半ばの子供は人を圧するように打ち降りてくる音を耳にして朝五時にたたき起こされるのかも知れない。その音を夢うつつにほんの一瞬耳にした者は、それがもう一度やってくるのでは、と期待するのを決して忘れはしない。その音の感覚的実体性を前にしては、形而上学的思考も色あせ、無力である。この形象の中でのあの瞬間は果して成功したのかそれとも単に意図されただけだったのか、と問いかけるだけの美学もまた同様である。あの瞬間にとって、それ固有の亀裂は本質的であり、それが成功した作品という見かけに反乱を企てるのだ。」
(アドルノ「マーラー 音楽観相学」、邦訳:龍村あや子訳、法政大学出版局, 1999, p.6) 

 これはバブルの時期に出版されたムックの一つに収められた対談か何かで、「マーラー・ファン」を自認する対談者の一人が冒頭、マーラー・ファンたるもの、自分とマーラーとの出会いを語るところからはじめなくてはならない、といったことを述べているのに面食らったものだが(とはいうものの、「からはじめる」わけではなくても、一応、受容史のドキュメントとして、私もまた「出会い」について書いた文章を書いたことはあるのだが)、それもまた、上記のアドルノの言葉の下では、少なくとも理解しがたいものではなくなるように思われたものである。そこから「はじめなくてはならない」かどうか、否、そもそもそれを「語る」(一体、誰に対して?)かどうかはおいて、マーラーの音楽が持つ、或る種の性格、私が「意識の音楽」という言葉で言い当てようと試みて、今なおそれを果たし得ていない質が、エピソード記憶を系列化することにより紡ぎ出される自伝的自己の成立に関わる機構に関わるものであり、「物語ること」への衝動に関わるものであるが故なのだろう。そしてその起源には、意識を備えた自己が成立する根拠として、「他者」の経験が、「超越」の経験が介在しているという消息を、上記のアドルノの文章は言い当ててていると思われるのである。それはマーラーの音楽の性格付けであると同時に(というのも、それは「音楽」一般が備えているわけでもなく、西洋音楽一般が備えているわけでもなく、マーラーと同時代の音楽が備えているものでもなく、更に言えば上記の文章の直後にアドルノが正確に言い当てているように、マーラーの音楽が嫌悪される原因でもあるからであるが)、他方で、自伝的自己の起源の出来事(の物語、それは常に事後的に、そのようにフィクションとして語られるしかなく、それは事実そうであったかについてよりも、どのようなものであったかについての神話的な記述であるほかないのだが)でもあるのだ。

 マーラーの音楽がそのような性格を帯びることが、歴史的事実としての社会的・文化的環境に媒介されたものであるにしても、それは勿論、統計的に平均的な典型的な事象というわけではなく、寧ろ、カオス的な挙動、カオス的遍歴の中におけるアトラクター痕跡の如きものとして記述されるのが妥当な、偶然的、例外的な出来事である一方で、一世紀後の極東の子供にも起こり得る程度には一般的な、ジュリアン・ジェインズ風に言えば、ポスト二分心のエポックの人間の構造に由来するものでもあるのだ。アドルノの記述では、勿論天から降ってくるのはマーラーの音楽ではない。だが、マーラーの音楽がそのようなものであり、そしてまさにそのようなものとしてマーラーの音楽に或る日出遭った子供は、寧ろマーラーの音楽を通して、自分が予感してはしても、はっきりと了解はしていなかった、だが実は実際にはそもそも自分というものが成り立つために必須の契機であったところの「今此処にある以上のもの」への眼差しを獲得するのではないか。いわば構造的ともいえる絶対的過去の忘却(というかそれは自己の成立に先立ち、それを可能にするという仕方でしか立ち現われないのだから、忘却することも不可能で、それゆえ想起の、再認の対象ではありえないのだが)を了解するのではなかろうか。

 上記引用箇所では厳密にはHalbwüchsiger、アドレッセントであり「子供」ではないが、文字通りKind、子供の経験に言及した件が、モノグラフの最後の章Der lange Blickに登場する、といってもそれは冒頭の「マーラーの音楽は、子供の頃の記憶の痕跡の中にユートピアをしっかり持っている。」以下の部分ではない。アドルノのここの部分の記述は、裕福なブルジョワの子弟であった彼自身の来歴もあってか、あたかも、かつては実際にそうしたユートピアがあって、そのときには気付かなかったけれども、それが喪われてからようやくそれが幸福であったことに気付いたといったように読めてしまう書き方になっているが、実際には、そんなユートピアは一度も存在したことが無く、初めからそれは喪われたものとして、寧ろ自分が存在する以前の世界を懐かしむようなものでしかないのではないか。寧ろ、自己が成立した時には既に神は「隠れたる神」でしかなく、自己が存続し続ける限りでもまた隠れたままである、という消息をこそ、マーラーの音楽は告げているように思われる。同じ章のずっと先で、再び「子供」が出現する場、だが最早、条件法的にしか出現しない場である、第9交響曲のフィナーレの終結部分についての記述で登場する「死ぬとわかっている人に対して、彼がまるで子供であるかのように、すべてはうまくいくのだと約束が語られる。」という箇所も、同様の仕方で読まなくてはなるまい。

 そういう意味合いで興味深いのは、寧ろ、少し前に戻って、最終章の冒頭でプルーストを参照する部分に後続する、以下の文章で登場する子供の形象ではなかろうか。

「作曲をしようとしてピアノのキーをあちこちたたく子供は、どのような和音にも不協和音にも意外な転換にも、無限の重要性を信じている。子供はその響きを、ほんとうはほとんど慣用的なものなのだが、あたかもそれまでまったく存在しなかったかのように「はじめてだ」という新鮮さで耳にする。あたかもそれらの音の中に、自分の頭に浮かぶもののすべてが満ちているかのように。こうした信頼はいつまでも保たれることはないし、こうした新鮮さを修復して再生させようと目指す者は、すでにその新鮮さがそうであったところの幻覚の犠牲となる。マーラーはしかしその確信を捨てることなく、「はじめてだ」という感覚をその欺瞞から救い出そうとする。」(邦訳:pp.186-7)

  ここでアドルノが言っていることは、ほとんど不可能なことのように思われるかも知れないが、マーラーの音楽を聴く者は、それがマーラーにおいてのみ可能であるかどうかはわからなくても、少なくともマーラーにおいては、可能であることを再認する。同じ作品をもう一度聴き、更にもう一度聴いてなお「はじめてだ」という感覚は喪われることなく、都度感受されることを確認するのである。

 まずもって、記憶がなく、都度新しい瞬間のみがある時、実際には「はじめてだ」という感じは起こらない。(寧ろここで思い浮かべるべきは、脳神経科学者が報告する病理的なケースであろう。)つまりこれは、まず第一には、エピソード記憶の系列からなる自伝的自己があってはじめて可能な経験なのである。

  いや、「はじめて」かどうかということの判定ということであれば、一見したところ単純なパターン・マッチングや距離計算により検出可能に思われるかも知れないし、それは流石に現実を過度に抽象化したが故の錯覚であるというのであれば、事例をひたすら貯めこんで、学習を行う機械であれば、ある事象が統計的にみて「慣用的なもの」か「例外的なもの」、稀なケースであるかどうかを判定できるのでは、という疑問が湧くかも知れない。だがそもそも、機械に対してどういうデータを与えるのかを機械を操作する人間が決めているとするならば、「新しさ」や「はじめて」を決めているのは機械ではなく、学習の環境をナヴィゲートしている人間の側であろう。結局のところ、デネットのいう理解力なき有能性は「新しさ」を感じることはない。それは統計的な規則性と、それからの逸脱を検出することはできるが、その逸脱が、単なるノイズなのか、「はじめて」経験する「新しい」何かの到来なのかを判定することはできない。結局のところ、第一にそれは事後的には「目的因」として仮構されるような或る種の方向性を、学習する系自体が持つ事なしには不可能なのだ。

 だがそれでは、「アルファ碁」およびその後継のシステムのように、囲碁という、或る意味では人間の能力を超えるほど広大な空間を持ちながら、結局のところゲームの定義と規則によって定められた、評価について閉じて完全に安定した領域であれば既に実現されたかに見える、自己ナヴィゲーション能力があれば十分かと言えば、それが閉じた空間の中での能力である限りは、ここで言われている「新しさ」や「はじめて」に到達することはやはりないであろう。この点に関して、デネットの近著『心の進化を解明する』における、アルファ碁その他の実際の「知的」システムそれぞれの達成したものと、彼のいう「理解力」との距離を測る作業に感じ取れるある種の逡巡の理由を考えることは興味深い。デネットは、いわゆる強いAIに対して否定的ではないにも関わらず、クオリアは存在しない(つまり意識はあるが、現象的特性は幻想である)と言い、哲学的ゾンビについては、我々もまたゾンビであるという立場をとる。ヘテロ現象学の提唱に見られる一人称的パースペクティブ(ひいては三人称的なそれとの対比)に関する素朴な(それこそフォーク・サイコロジックと言い返したくなる)思い込みもそうだが、彼は、本来は「存在」に対して中立であるべきところで、如何なる理由によってか定かでないが(まさかそういった方が論争上の修辞的な効果の上で優っているからということはあるまいが)、勇ましくも断定を行い、そのことによって、幻想であったり物語であったり、虚構であったり、幽霊(マーラー的には「レヴェルゲ」)であったりするものどもの存在論的地位を認めない。ここではそれを論証することはかなわないので、示唆するにとどめるが、実はそのことは、一人称的パースペクティブの成立の基盤にある「他者の経験」をデネットが等閑視していることと通じており、そしてそのことが、「知的」システムそれぞれの達成水準についての評価の基準において、デネットが決定的な点を見落とす原因でもあるのだ。

 この点について言えば、世上、誤解される場合が多いように見受けるが、哲学的ゾンビという問題設定自体をナンセンスだとするヴァレラの神経現象学的視点の方が優っているのである。一見したところ論理的には矛盾しているように見えるヴァレラのような考え方を、そちらの方こそナンセンスとして切り捨てるのは容易いが、そうする者はしばしば、己れの論理が前提とする概念規定が持つ素朴さに足をとられて、現実の奥底に隠されているメカニズムを見過ごしてしまう。もっともデネットの奇妙なスタンスに対するだけであれば、ロボット工学者で受動意識仮説を提唱している前野隆司さんのクリアな断定を持ってくれば十分であろう。消去主義者寄りの立場を自認する彼もまた「意識は幻想だ」というけれども、その先はデネットとは袂を別って「在るというには頼りない幻想のようなものだが、その幻想のようなクオリアは<私>にとって確実に第一人称的に感じられるものだ」と言い切っているのだ。この一見すると常識的と思われる見解の中の「感じられる」ということばにこそ、全てが賭けられていると言っても良いだろう。そもそもが、寧ろ説明すべきは「クオリアが確実に感じられるのは如何にしてか」の方ではなかったか?

 つまるところ、マーラーの音楽において「はじめて」の経験、「新しさ」の経験が可能であるということは、前の引用における「他者」の経験、自分の世界に穿たれた亀裂と本質的に相関しているのである。ここでは仮説の提示、素描に留める他無く、論証は後日を期さなくてはならないが、そのことはアドルノがモノグラフの末尾で述べる、社会から疎外されたものへと手を差し伸べるマーラーの音楽の性格にもまた、相関しているはずであり、そのことはマーラーの音楽を、それが産み出された時代と歴史的・社会的・文化的環境に還元して説明するのではなく、寧ろ、その音楽そのものの相貌を捉える観相学によって描き出すことによって明らかになるのであろう。その意味でアドルノのアプローチは正当であるには違いないものの、今やその後の50年の変化を踏まえた書き直しが求められているのではないかと思われてならない。一例を挙げるならば、カオス理論は、控え目に言っても、予測が可能であるということの意味合いを根本から変えてしまった。決定論的な規則に従って時間発展する系であれば、その挙動は予測可能であり、そこには新しいものはなく、それゆえ、はじめてということもないのだというのは、カオス力学系については当て嵌まらない。そしてこれは単なるアナロジーに過ぎないが、カオスが発見されたのが、天文学における三体問題であったことを思い起こしてみるならば、それぞれが世界の中に埋め込まれたエージェント間の相互作用、出会いや対話が成り立つような場を記述しようとしたときに、それは古典的な描像ではなく、寧ろカオス力学系で記述するのが適切なものであると考える方が自然ではなかろうか。そもそもが記憶のメカニズムにカオスが関わっている可能性があることが既に示唆されており、エージェントを単独の系として取り扱う際に既に、その挙動はカオス的であるかも知れないのだ。そしてそうした系については、解析的に調べることができないから、モデルを作ってシミュレーションしてみるという、工学的なアプローチが不可欠なものとなる。

 パウル・ツェランは、ある手紙の中で「真の出会いがあるとき、それは実際は再会です。(…)再会がはじめて、出会いを出会い足らしめるのです。」と語ったそうだが、それはこの詩人のシュールレアリズム仕込みの逆説か詩的な文彩の如きものとしてではなく、文字通りに受けとめるべきなのだ。そうすることによって、アドルノが示唆した子供の経験の構造を示すものであることが示されるだろう。一見秘教的(これはツェランに対してアドルノが用いた形容だが)であり、他者とのコミュニケーションを拒むかに見えるツェランの詩と、あらゆるものを自分の中に包摂しようとする肥大したロマン主義的自我であるかに受け止められるマーラーの音楽とに存在する、そうした見かけの背後にある共通した、他者との出逢いを本質的な契機として孕む、多声的な構造が浮かび上がってくることだろう。

 そしてそれを可能にするのは、具体的な理論(ないし理論に基づくモデル)構築の裏付けを持たない哲学者の貧困な論理などではなく(それが間違っているのでなくても、その操作が暗黙裡に前提としているモデルがあまりに単純すぎて―それはこの観点からいけばフォークサイコロジックなものと多くの場合には大きくは異ならないー、一見したところ直観に反するような指摘ができた場合でも、いわば必要条件を浮かび上がらせることがせいぜいで、説明能力のあるモデルを提示するには及ばないのが常であるようだ)、カオス理論のように、「新しさ」や「はじめて」についての再定義を可能にするような理論に基づいた工学的なアプローチである筈である。マーラーの音楽もまた、アドルノのモノグラフを超えて、それに相応しい分析が可能になるのは、そうしたアプローチを通してではないだろうか。そしてそれは同時に、ポスト二分心のエポックにおける(つまり現在の、そしてポスト・ヒューマンのではない)意識が成立する機構を明らかにし、そのことを通じて、その構造を実践的な仕方で掴みとることができていたマーラーの「世界を構築する」という言葉を、まさにそのまま了解し、「出会いとは再会である」というツェランの言葉を、まさにそのまま了解することを可能にするに違いないのである。

 最後にもう一言加えて、アドルノの言葉を出発点とした素描を終えることにしよう。私は哲学者のレトリックに対抗するのにロボット工学者の発言をもってし、更にカオス理論を取り上げて、それが「新しさ」「はじめて」という感じを経験することができる系のモデル構築の手掛かりとなりうることに触れ、それが工学的なシミュレーションのようなアプローチでしか(より正確には、それ抜きにはというべきだろうが)アクセスできないことに触れたが、ここでいう工学的アプローチは、必ずしも通常、工学ということでイメージされるものに留まる必要はないだろう。否、マーラーの、ツェランの創作の実践は、広い意味で(ただし決して比喩としてではなく、文字通り)工学的なアプローチではないのか?作品において「世界を構築する」こと、「はじめて」の経験を可能にすることは、まさに工学的な実践に他ならないのではないか?芸術と科学の間には厳然たる区別があるけれど、にも関わらず、その実践には少なからぬ共通点があることは夙に指摘されてきている。そしてそのことを今日的なテクノロジーやメディア論の文脈で自覚的に実践している例として私が直ちに思い当たるのは、三輪眞弘さんの「逆シミュレーション音楽」なのである。勿論、マーラーについてそう述べたように、ここでも音楽が全てそういうものである必要はないし、実際にそうではないだろうが、時代と場所の隔たりを超えて、更には一見したところ共通性が全く感じられず、実際にほぼ反対側からアプローチしているにも関わらず、そこには自己の境界まで辿り着き、根拠まで降りて行こうとする衝動のベクトルにおいて共通性を見ることができるように思われる。もはや明らかだと思われるが、アドルノの子供は、三輪さんの「昇天少年」、「新しい時代」において、最後に自分の声で歌うことができた少年に他ならない。そして結局のところ、私が聴きたいと思うのはそうした「音楽」なのだ、ということになるのであろう。(2018.8.5 未定稿)

2018年7月29日日曜日

ヴェスリング「アルマ」に登場する2名の女性について

 ヴェスリングについてはグスタフ・マーラーに関する著作に関する文章で触れているので、その内容をここで繰り返すことはしないが、バブル景気の最中、マーラーについての翻訳とほぼ同時期に翻訳が出版されたアルマの伝記の方を取り上げて置きたい。
 ヴェスリングの著作は、これも既述の通り、記載された内容の事実関係については信頼がおけない一方で、他の著作では目にすることのない言及に事欠かない。アルマに関する著作についても同じことが言えて、特に私は、そこで言及されている2名の女性について、備忘を記しておきたく思う。

 一人目は、サラ・シャルル=カイエ夫人(Mme Sarah Charles-Cahier)。ただし、訳書も含め、多くの文献では名前を英語読みすることが多いようだ。彼女の名前を私が最初に知ったのは、まずなによりも「大地の歌」の初演者としてであり、次いでマーラーの歌曲の最初期の録音記録を残した人としてであったが、前者に関わりのあるワルターの回想「主題と変奏」の翻訳では、さすがと言うべきか、チャールズ・キャヒール(シャルル・カイエ)夫人となっているものの、後者の復刻として近年容易に入手できるNaxos Historicalの日本語訳ではチャールズ=カーヒア、ここで参照しているヴェスリングの訳書では、シャルル・カヒア、カヒア夫人となっている。この最後のケースはどちらもちょっと問題があるが、実はカヒア夫人という表現はヴェスリング自身のものであるから、これは訳者の責に帰することはできない。(前者はフランス語読みと英語読みが並んでいて、奇妙なこと極まりなく、こちらは訳者の問題だが。)なお、私が最初に彼女の名前に接したのはケネディの著作の邦訳巻末の作品表の「大地の歌」の初演者としてで、勿論、中河原理さんはシャルル・カイエ夫人と表記している。
 調べてみると彼女は生まれはアメリカであり(ワルターも大地の歌の初演の2人の歌手がいずれもアメリカ人であることを「主題と変奏」において記している)、その活躍の舞台は大西洋の両側にまたがっていたが、アメリカの歌劇場での活躍を考えれば、英語読みも止むを得ないであろうけれど、そもそも、2番目の伴侶となったスウェーデン出身のインプレサリオが名乗ったシャルル・カイエというのは、フランスの実在のイエズス会士の考古学者である、シャルル・カイエ(こちらではだから、シャルルは名前である)に因んだもののようだから、日本語訳をするにあたり、わざわざ英語読みを優越させる必要はないのではないかと思わざるを得ない。
 だが、そうしたことは大した話ではない。問題はその登場の仕方で、第11章「アメリカ社会への失望」の冒頭、2度目のアメリカ旅行の途上で、アルマが彼女と親しくなったという形で登場する(邦訳134頁以降)。ここでも恰も見てきたかのような描写や会話が続き、
「指揮者や監督は死んでしまいますが作曲家は不滅です」とアルマに告げたことになっており(137~8頁)、果てはニューヨーク・フィルハーモニックの再建のための「委員会」に、ミニー・ウンターマイヤー夫人などと名を連ねていることになっているのである。その他、フィラデルフィアでのマーラーが指揮したコンサートの後に彼女が会ったときの印象が、これまた直接話法で引用されるといった具合である。(ここの部分は、その直後でミュンヘンでの第8交響曲の初演の際の出来事が回想されているという点でも興味深い、なぜなら、ここでの彼女の発言は、(またしても!だが)一般には第8交響曲の初演に立ち会った際の印象として、ソプラノ歌手のリリ・レーマンが語ったとされる内容に極めて近いのである。)
 シャルル・カイエ夫人の名前は、勿論、アルマの回想録には全く出てこない。同じくアルマの伝記であるジルーのそれについても同様だし、ド・ラ・グランジュの百科事典的な伝記を参照しても(私が今回確認に使ったのはフランス語版の第3巻)、彼女は専ら、マーラーのウィーン宮廷歌劇場監督としての任期の終り近くにアンサンブルに加わり、マーラーが歌手達に要求した音楽的・演劇的な技術・解釈の両面の要求を満たし、大きな成功を繰り返し収めたメゾ・ソプラノとして言及されるばかりである。(ちなみに、ド・ラ・グランジュの蒐集した資料からは、彼女が第8交響曲の初演をも担当する可能性があったことが窺えて、これもまた興味深い。)
 というわけで、ヴェスリングの記述の信憑性については慎重に考えるべきであろうが、「大地の歌」の初演者、そして(晩年の記録で、盛時を伝えるものではないと言われはするが、)マーラーの指揮の下で歌った歌手が遺した記録、勿論、マーラーの音楽の録音としては最も初期のそれの価値は測り知れないものがあるし、選曲が「原光」と「私はこの世に忘れられ」であることもその価値を高めている、そうした人物にこのような形で出会うのは感動的な経験には違いない。直接マーラーとその作品に関わる事実関係ではないから積極的にその真偽を確認するだけの余裕は私にはなく、それゆえ指摘に止めざるを得ないのではあるが。

 二人目は、マーラーその人には直接の関わりはない人物、そればかりか、ヴェスリング自ら、アルマの遺した手紙や回想の類でも言及がないと断りつつ言及している人物、確認はしていないがその回想の中で、アルマについてかなり明確な悪意をもった言及をしているとされる人物である。名前はクレール・ゴル(Claire Goll)。ヴェスリングの著作中では、恐らく色々な意味で問題含みであろうことが想像される第17章「カンディンスキーと反ユダヤ主義」において言及されている。
 実はクレール・ゴルの名前は、私にとって、パウル・ツェランを結果的に死に追いやった人物として忘れ難く記憶されているのであるが、この本を読んだ時の私は、その事情をまだ知らなかったので、根も葉もないゴシップをまき散らした迷惑な存在くらいの印象しかなかったのだが、後でツェランの文脈で「ゴル事件」の張本人として出てきた時に、あっと思って、この本をもう一度確認したことをよく覚えている。そいつにはどこかで会った記憶があるぞ、というわけである。
 アルマ自身がそうであるように、ヴェスリングもどうやら事実の歪曲や捏造の嫌疑を受ける存在のようなので、迫力はずっと落ちてしまうが、グスタフ・マーラーの著作に比べると、アルマのシンパであるのが寧ろ前提になってしまうからか、アルマに対する評価は寧ろ冷静な点が目立つくらいでもある中で、ヴェスリングのクレール・ゴルに対する評価は手厳しい。
 勿論事実についてはどこまで信頼していいかわからないし、それを追跡するつもりもないが(ツェランに対して、決して許すことのできない醜悪な仕打ちを繰り返したことの方は、既に事実として確定しているといって良いクレール・ゴルについて調べる程私は暇ではないので)、申し訳程度に確認した限り、「私は誰も許しません」と訳された彼女の自伝的著作というのは、Ich verzeihe keinemという原題で実在するようであり、以下の膨大な(読んでも不快になるだけの)彼女の著作からの引用と思しき文章も、珍しく典拠がそうして明示されているからには、でっちあげではないのだろう。何より私が感じるのは、その文章から受ける印象が、まさに「ゴル事件」のそれと重なるということであり、ツェランに対してだけではなく、こんなところでこんなこともやっていたのかと思う一方で、当然それくらいのことは平気でしてのけるだろうと、妙に納得した記憶があるくらいである。(なお、ヴェスリングの著作はアルマは勿論だが、ゴル事件も過去のこととなり、クレール・ゴルも鬼籍に入って数年後の1983年に書かれたものであり、だからこれだけクレール・ゴルに対して辛辣な書き方が出来たー彼女が生きていたら、恐らく黙ってはいなかったのではなかろうか―のかも知れないが、話題が違うから仕方ないとは言え、彼女がゴル事件の張本人であることに対する言及は全くない。せめて訳注ででもと思わずにはいられないが、グスタフに対する著作と異なって、こちらには訳注が全くないので、これも無い物ねだりに過ぎない。)
 他人から見れば、アルマもクレール・ゴルも、(ついでにヴェスリングも)同じ穴の貉というように思われるかも知れないが、それでもなお、ここでのヴェスリングのアルマに対する擁護には共感できなくもない。少なくともアルマは、様々な偏見から自由ではなく、その行動が様々な問題を惹き起こしたにせよ、他人を陥れるために作品を改竄し、事実を捏造したりはしなかった。彼女は作品として多くを残したわけではないが、様々な側面での自分の能力(その中には周辺の人間をたじろがせることがしばしばできた知的なものも含まれるだろう)とその限界について自覚的である程度には批判的知性も有し、にも関わらずあり余る自分の能力を持て余し気味であった。クレール・ゴルに対しては些か一方的であるととられるかも知れないが、「ゴル事件」の一件のみで私にとっては十分過ぎるくらいであって、彼女のやったことは、陰湿を極める手管による他人の人格の破壊とその果ての自殺の原因となったのであるから、間接的な殺人に外ならず、如何なる言い訳も通用しない。誰彼かまわず、Ich verzeihe keinem等とは言うまいが、「私はあなたを許しません」と、彼女に対して返したくなる気持ちは抑えがたい。もし、他人からの讒言、誹謗に苦しめられ、追い詰められたことがない人がいたとしたら、その人は幸運なのだ。そしてツェランもそうだけれど、マーラーもまた、夥しい傷を負い、病床で「私の人生は紙切れだった」と口走らざるを得ない程にまで、苦しめられた事実を忘れてはなるまい。

DIE SPUR EINES BISSES im Nirgends.

Auch sie
mußt du bekämpfen,
von hier aus.
(Celan, Gesammelte Werke in 7 Bänden, Suhrkamp, Band II, S.117)

 ツェランが負わなくてはならなかった傷は、それでもなお、彼の天才によって決して忘れ去られることなく記憶され続けるだろうし、それは、常に少なからず存在するであるクレール・ゴルのような人間に、同じように傷つけられ、苦しめられる人間にとって、何者にも取り換えの効かない慰めとなり続けていくことだろう。そして、この点においてもまた、ツェランとマーラーの間に接点が生じると私は考える。 
 のみならず、世代の異なる2人の間に直接の交渉は勿論あるはずはないけれど、その替りに、アドルノという存在を通して、ツェラン研究者の当惑を余所に、そこに見えざる、だけれども確実な交通があったことについては、別のところで触れたことがあるので、こちらについてもここでは繰り返さない。あえて一言だけ加えれば、それは表面的なスタイルの違いを超えた、「他者」に対する感受性の問題であり、「対話」の問題である。そしてジャンルとスタイルの違いを超えて、両者はともに、クレール・ゴルのような存在に虐げられた声なき存在に対して、それぞれ自分の仕方で、アドルノの言うように、「手を差し伸べる」という点に存している。それは更にまた、三輪眞弘さんが、「死者たちの無念に耳を傾ける」という言葉で、やはり全く違ったスタイルで今日実践していることにも勿論そのまま通じている。(2018.7.29)

2018年7月24日火曜日

ジルバーマン「マーラー事典」邦訳に寄せられた柴田南雄さんの文章におけるアマチュア・オーケストラへの言及について

 少し前に「マーラーの聴取様式」と題する文章において、私が幼少の頃に出会った「音楽の手帖 マーラー」(青土社)における柴田さんの文章を手掛かりにしたが、そこでも言及したように、一般には、柴田さんのマーラーについての文章では、いわゆるマーラーブームの最中の1984年に岩波新書の1冊として出版され、その後岩波現代文庫にも収められた「グスタフ・マーラー ―現代音楽への道」が有名であろう。だがここでは、柴田さんが音楽社会学者アルフォンス・ジルバーマンによる「マーラー事典」(邦訳・山我哲雄、監修・柴田南雄、岩波書店、1993)の邦訳に寄せた文章において、アマチュア・オーケストラによるマーラー演奏を再び取り上げていることに触れて置くべきかと思う。ただし視点は、上記の私のものとは異なり、聴取の様式にフォーカスしたものではなく、マーラーが日本に定着した度合いを測定する尺度の一つとしてである。私見では、色々と議論すべき題材に事欠かないのではあるが、ここでは以下に関連する箇所を抜粋して引用するに留めよう。
アマチュア・オーケストラへの言及箇所の出だしは以下の通りである。
「さて、西洋音楽はわれわれにとって明らかに異文化の音楽様式だが、はたして日本の社会に定着しつつあるのか、それを判定する尺度の選定は、それこそ応用音楽社会学者の仕事だろうが、わたくし自身はその指標の一つに、アマチュア・オーケストラの成果をあげることができると思っている。それは、わたくし自身が高校時代に小さな器楽アンサンブルに参加して以来、二度の大学生時代には学生オーケストラとセミ・プロの弦楽合奏団でチェロ奏者を経験し、また1933年以来60年にわたって、日本と世界の職業オーケストラにも一応は目配りを怠らなかった、という認識からである。」(pp.633-635)
そして最初に、「音楽の手帖」の文章でも言及のあった、(A)東京大学のオーケストラの演奏が言及され、更に加えて、(B)山田一雄指揮の新交響楽団の演奏、(C)井上道義指揮の東京マーラーユーゲントオーケストラの演奏が取り上げられる。演奏の日付も記載があるが、ここでの目的には関係が薄いので割愛するが、それぞれに対する評言は、演奏がどうであったか以上に、私がここで考えたかった「聴取様式」に関して極めて興味い示唆を含むものと思われる。

 例えば(A)については、「音楽の手帖」での言及よりも遥かに詳細に、「(…)まず、その予想外の上手さに舌を巻いた。そして、要するにオーケストラは西欧の合理主義が生み出した一つのシステムなのだから、技術的な完全主義と指揮者の集中制禦の下での一糸みだれぬ行動が確保されるなら、こうした巧緻な合奏が成就するのも当然は思った。だが同時にわたくしは、彼らの音楽表現がヨーロッパのオケとはひじょうに異質であることも痛感した。その原因がメンバー個人の音楽的主張の不在、個性同士の劇的でダイナミックな葛藤の不在、その遠因としてキリスト教精神の不在が考えられるだろう。」とまで言い及ぶ。これは些か余談めくが、最近読んだAIに関する概説書に、AIと一神教の関係を論じたものがあったのを思い出すとともに、三輪眞弘さんの「万葉集の歌の一節を主題とする変奏曲 または ”海ゆかば”」における「非合奏」の試みのことを思わずにはいられなかった。だがこの問題は、こうしたところで行きずりに論じるには余りに大きすぎるがゆえに、ここでの議論は諦めざるを得ない。とはいうものの、これは演奏者のみの問題で在ろうはずはなく、聴取の様式でもあるのは明らかだろう。柴田さんのコメントはオーケストラという「制度」一般のレベルで為されているが、ここで演奏されているのが、他ならぬマーラーの作品であることを捨象してしまっていいものか。しかもマーラーの場合には「大地の歌」のような作品もあるし、第2交響曲や第8交響曲にしても、あるいは第4交響曲の「天国」にしてもそうだが、キリスト教との関係はおよそ自明というには程遠く、更に言えば、それと同時に、極東の地からの展望ゆえの逆向きの単純化の方にも注意すべきなのである。李白や孟浩然、王維といった存在は日本人にとっては「異郷」でもなければ「故郷」でもなく、かつてのように漢籍が基本の教養であった時代の後に生まれた私のような人間でも、意識的に向き合った経験と同時に、自分がそれを伝統の内部で無意識的に受け取っている側面というのに気付かざるを得ず、その距離感を測るのが極めて困難な存在であるが、それに反対側から対峙する、しかも、ヨーロッパ的「自然」から疎外され続けてきたユダヤ人が対峙するといった状況は、西欧と日本、キリスト教的一神教と東洋的な思想といった単純な対立で扱うことはできないだろう。勿論、大筋において柴田さんの構図に異論があるわけではないけれど、ことマーラーの受容ということについて言えば、それのみに限定して論じることを拒むものがマーラーそのものに内在していると私には思えてならない。だが、これ以上の議論は稿を改めるべきだろう。

 (B)については「個人の表現意欲、音楽する喜び、とくにこの指揮者が絶えず音楽的感興を誘発するのに対して、瞬時に反応して自他ともに興奮の坩堝と化す、といった趣が感じられた。これは上記の東大オケとの大きな相違点だし、また日本の職業オーケストラ一般の技術至上主義に徹して、醒めた演奏態度を崩さないのとも異なる、いわばソフト面の充実した演奏だった。だが、そうなるとハード面がも少し強ければ、という感想も出てくるのだった。」としている。この部分については、私がアマチュア主体のオーケストラを聴く理由と重なる部分が少なからずあるけれど、その点はここで再言するまでもなく明らかであろう。

 (C)についてはまず「この夜の演奏を目的に集合した団体」というオーケストラの性格づけに触れた上で、「アマチュアであろうとなかろうと、われわれ日本人がオーケストラでここまで西洋音楽をやれるようになったのか、というのが率直な感想だった」とその「驚き」を記している。そして「この夜に発揮されたすぐれた音楽表現の原動力は、音楽経験や感覚や技術よりも、むしろ頭脳と身体を使っての、ふつうの社会生活の経験からではないかと思った。欧米の音楽家たちの持っている、音楽の才能と技術以外のもの、あるいはそれ以上のもの、そこにこそ音楽の本質があり、そこから音楽表現が発生する根源、それは日本のプロの音楽家たちが、専門教育の過程や狭い音楽社会の中では学び得なかかったものであり、それをこのオーケストラのメンバーたちは身につけているのではないか、と思った。」と記していて、当否についての議論はあるにしても(そして、このように断るからには、必ずしも無条件で首肯できるとまでは私は思っていないのだが)、こちらもまた、演奏のみならず、聴取にも関係する非常に興味深い指摘であり、これに言及せずに、「音楽の手帖」の文章のみを参照してしまえば、たとえ柴田さんの文章を主題的に論じることがが目的ではないにしても、その主張について誤解を生じかねないと感じたが故に、このような補足を注記する次第である。寧ろ、柴田さんが感じ取ったものに近いものを、私もまた受け取った可能性を否定できない。ただ、このような歯切れの悪い書き方になるのは、受け取ったものの質については(柴田さんと私の間に存在するであろう、音楽的素養や才能、音楽外の教養や知性の懸隔を超えてなお)一致するものがあるのでは、と感じる一方で、それを論じる枠組みには、(A)について触れたのと同様の齟齬、違和感を感じ、留保をつけたくなる気持ちを抑えがたいからである。事態は恐らく非常に錯綜としているに違いない。「欧米の音楽家たちの持っている、音楽の才能と技術以外のもの、あるいはそれ以上のもの、そこにこそ音楽の本質があ」る、という断定は首肯していいものか?必ずしもそれは欧米の音楽家が無条件で備えている何かではないのではないか?そして再び、ことマーラーに関して言えば、寧ろ欧米の音楽家たちが無条件には持ちえない何か、だが、優れた音楽家が意識してか否かを問わず身に着けた感覚、多分柴田さんの指摘の通り日本のプロの音楽家の多くには欠けている、だが、それは欧米の音楽家においても必ずしも無条件で備えているわけではないものを、マーラーの音楽が求めているということはないのだろうか?だからそれは例えば、ユダヤ人だから自動的に可能になるというものでもないと私は(イスラエル・フィルの大変に立派ではあるけれど、何かがずれているという感覚を強く持ったマーラーの実演に接した経験に照らしても)思う。勿論、フルトヴェングラーの雅楽化と形容されることもあるらしい近衛秀麿以来、今なお避け難く残っている「日本人のマーラー」といったものが規定できるかも知れないし、それは欧米のマーラーとは異質なものだと言われれば、そうなのかも知れないが、ことマーラーについていえば、そのどちらが「本来的」かといった議論自体を無効にしてしまいかねない契機が音楽そのもののうちにあるように思われるのは、極東の1世紀後のアマチュアの戯言に過ぎないのだろうか。ご自身作曲家としてそうした点について極めて自覚的であったに違いない柴田さん、何よりも戦前のプリングスハイムによるマーラーに圧倒された経験をお持ちの柴田さんは、こうした反問に対して、どのような答えをくださっただろうか。

 このあともう一パラグラフ、結びの文章が続くが、その内容は再びアマチュア・オーケストラの社会学的な位置づけに関するものであるけれど、そこで以下のように述べておられることは、上記の私の素朴な疑問への答えのヒントになるように感じられるので、それを引用して結びとしたい。一言付言すれば以下で述べられる「固有の演奏スタイル」というのを、必ずしも自覚的にではなくとも一足早く実現しつつあるのは、寧ろアマチュア主体の演奏なのではないかというのを「多くの選択肢の中から選び出す」立場にある聴衆の一人として感じるのであり、それゆえ柴田さんの慧眼が、バブル景気に踊らされただけに見える当時のマーラー・ブームの中で、冷静に未来を見通していたことに感銘を受けざるを得ない。音楽社会学の役割についての末尾のコメントについては何も言わないことにして、だが例えば、その柴田さんが書かれた「音楽の骸骨の話」を踏み板にして、柴田さんと問題意識を共有しつつも、その問題設定を超えた活動を展開している三輪眞弘さんに対する応答を続けていることを証言するにとどめたとしても、尚、である。

「やがて、日本のプロのオーケストラも固有の演奏スタイルを獲得する日が来るだろう。いつまでもヴィーンやベルリンのオーケストラを目指していてもはじまらない。しかし、それはプロのオーケストラだけが作るのではなく、基本的には聴衆が多くの選択肢の中から選び出すものだ。ヴィーンでもベルリンでも、パリでもシカゴでもそうであるように、日本でもそれは一般聴衆の好み、音楽趣味、音楽観が決めるだろう。だがその過程で、実践者でもあるアマチュアが、主動的な役割を果たすとまでは行かなくても、聴衆とプロの間にあってその方向性を示唆することは可能だろう。その意味でも、わたくしはアマチュア・オーケストラの活動に期待する。ともあれ、もし日本での応用音楽社会学の試みが可能なら、その重要なテーマは今日でも依然として、文化変容つまり西洋音楽受容における歪み、ではなかろうか。」(p.635)
(2018.7.24, 29追記・末尾を大幅に改訂)

2018年7月16日月曜日

30年越しで第5交響曲の実演に接するー川口市民オーケストラ第27回サマーコンサートを聴いて

川口市民オーケストラ創立40周年記念演奏会
第27回サマーコンサート
2018年7月15日 川口総合文化センター・リリア メインホール 

モーツァルト「魔笛」K.620より抜粋
第1幕:序曲、2番.アリア「おいらは鳥刺し」(パパゲーノ)、
 4番.レシタティーヴォとアリア「ああ怖れ慄くことはない、我が子よ」(夜の女王)、
 7番.二重唱「愛を感じる男の人達には」(パミーナとパパゲーノ)
第2幕:14番.アリア「復讐の炎は地獄のように我が心に燃え」(夜の女王)、
 20番.アリア「娘か可愛い女房が一人いれば」(パパゲーノ)
 21番.フィナーレより「パパゲーナ!」(パパゲーノ)~
  「パパパ」(パパゲーノとパパゲーナ)~終幕の音楽(管弦楽のみ)
マーラー 交響曲第5番 嬰ハ短調

指揮:高橋勇太(客演)
ソプラノ:見角悠代
バリトン:佐藤望
管弦楽:川口市民オーケストラ

私にとって初めてとなるマーラーの第5交響曲の実演に接した感想を以下に記しておくことにしたい。

これは個人的な事情だが、私にとってマーラーの第5交響曲の実演は、30年越しの宿題で、しかもつい1年半前にも、今度はプログラムに寄稿する文章まで書きながら、30年前同様、トラブルにより行けなかったことも手伝って、放っておいたら聴かずに終わるかもという不安もあり、帰宅時間を気にしながら、これも初めて訪れる川口まで足を運ぶ決断をした。(私は東京の西郊にいるので、都心を抜ける必要があった。ホールが駅前という立地もあり、実際には1時間と少しで行けるので必ずしも遠いという訳ではなく、新宿駅の混雑の中の乗り換えを耐えることができれば、幾らでもあるだろう、西郊にあっても交通機関の制約でもっと時間がかかる場所に比べてアクセスが困難であるということはないのだが。)ありがたいことに無料でチケットもなく、その日に何もなければ出かけるというのが可能だったのも大きい。何を大げさなと思われるかも知れないが、何しろ第5交響曲については、30年前、サントリーホールの隣のビルで働いていて、トラブルのせいで残業になって、チケットをふいにしたのがケチのつきはじめ、現在は体力をはじめとする様々な制約から、ごく稀な例外を除いて平日夜のコンサートは始めから断念しているし、どんな理由でキャンセルを余儀なくされるかわからないといった緊張の中で、幸いにしてコンサートに行けても、どこかで音楽に没頭できなくなることの方が多くて、それゆえコンサートから益々足が遠のく悪循環が続いているので、この日訪れることができたのは、私にとっては僥倖のようなものだったのである。

*   *   *

コンサートの方は、川口市民オーケストラのアニヴァーサリーコンサートの一環として企画されたサマーコンサートとのことで、後でwebページを拝見すると、前回のアニヴァーサリーでは第1交響曲を取り上げられているようで、今回も同様の趣旨とのお話もあって、これも僥倖のようなものだと感じずにはいられない。プログラムは上記の通り、(これも勿論、足を運ぶことを決断するのに少なからず力があったのだが)前半が、私が普段より親しんでいる数少ない歌劇の一つである「魔笛」の抜粋、15分の休憩を挿んで後半がマーラーの第5交響曲。

別のところで述べているように、私には共感覚(色聴)があって、しかもそれが強く表れるのが、丁度この日に取り上げられた2人。前半の(必ずしも全曲がそうというわけではないけれど、抜粋されて一層明確に)フラット系の金色から乳白色、白色にかけての調的色彩のパレットに対し、後半は明度や彩度のグラデーションはあっても(そしてアダージェッドのコントラストはあるけれど)、基本的にはシャープ系のどちらかというと灰色・寒色系から、青や緑といった光の溢れる野原を思わせる調的色彩のパレットというコントラスが鮮明な構成だった。

指揮は高橋勇太さん。ごく限られた演奏を限られた時間に聴くだけの私にすれば当然だが、私が聴くのは初めてだったけれど(正確に言えば、私も多少のお手伝いをさせて頂いた、井上喜惟さんとマーラー祝祭オーケストラによる第8交響曲の演奏において合唱指揮を担当されていたのに接したことはあったのだが)、オペラの畑の方のようで、それは「魔笛」のみならずマーラーの演奏でも感じ取れた。歌手もまたいずれも聴くのは初めてだが、リゲティの「グラン・マカーブル」の日本初演をやった(それだけで超絶的な技量をお持ちであろうことは想像できる)見角さんのソプラノと、一聴して直ちに、マーラーのリートを聴いてみたくなるような声をお持ちの佐藤望さんのバリトン。

*   *   *

コンサート以上にオペラからは縁遠い私は「魔笛」も実演で聴くのは初めてだったが、最初の変ホ長調の和音で金色の光が溢れてきて圧倒され、その後はモーツァルトの天才に圧倒されっぱなしだった。モーツァルトは実はとても難しくて、プロがやってもさっぱり楽しめないケースには事欠かないけれど、歌手の二人がリードするのを指揮者が受け止めて、流れができたように感じた。

歌手はどちらも素晴らしい。想像するに、さすがにいきなり夜の女王のアリアはやっぱり大変で、最初はエンジンがかかっていない感じがややあったように記憶するが、復讐のアリアは解釈も申し分なく、コロラトゥーラの音程もこちらは破綻なく、見事の一語に尽きる。でも圧巻は最後のパパゲーノとパパゲーナの掛け合いで、盛り上がったまま終幕の音楽になだれ込んで大団円。

こうして改めて聴くと、モーツァルトは本当に天才と呼ぶほかない。人間の感情の多彩なパレット、それぞれの時と共に遷ろう無限のニュアンスを、こんなにシンプルな音楽で、こんなに自在に操ることができるなんて…と同時に、それが単なる感情表現に終始せず、何か神話的とでもいうべき深みが開けてきて、慄然とさせられる。とともに、一方では、リアルタイム音声合成による歌唱で、人間とデュエットを試みるような場面に接していることもあって、人間の声の美しさ(平凡な形容で申し訳ないが、形容のしようがない)にシンプルに圧倒されたように感じる。

*   *   *

ということで、こちらだけでも(それでも、こちらだけだとわざわざ川口でのコンサートを聴きに行こうとは思わなかっただろうが)行った甲斐があったのだが、本来の目的の第5交響曲も、アマチュアのオーケストラのアニヴァーサリーならではの演奏の素晴らしさが漲ったものだったと思う。

勿論傷はあるし(記憶の限りでは、第1楽章コーダの末尾に推移する部分、377小節、Poco meno mossoのアウフタクトから入るトランペットが入るところで突っこんでしまって、そのまま落ちてしまったのが一番残念な事故だっただろうか…)、第1楽章始まってしばらくは弦にやや硬さがあるように感じられてはらはらしたものの、徐々に調子が出てきて、第2楽章の出だしがぴったりきまると、見違えるように音楽が輝きだし、それ以降は弛緩のない、充実した演奏であったと思う。

この曲は、すっかり有名になって、今日ではあちこちでやるようになっているけれど、本当にめげてしまう程難しい。2月末から半年近く練習したとのお話で、パートによってはエキストラが入ったとはいうものの、目を見張るような充実ぶり、こちらはほとんど音楽が身体に沁みついていることもあり、難しいパッセージをうまく弾ければ嬉しくなって、聴き手からの(多分に身勝手な)一体感の中で聴くことになる。プロのコンサートだとこういうことはなくて、あっても高額のチケットと引き換えの名人芸の世界になってしまって、どうしても意味合いが変わってしまうことは避けがたい。音楽を演奏して、一つの世界をその場に出現させるという実践的な行為の実質に関して言えば、こちらの方が正しいとまでは言わずとも、控え目に言っても自然であるように思える。もちろんこの認識があってこそ、これまでもアマチュア主体のオーケストラのマーラー演奏を支援してきたのだが、実のところこの認識もまた、現代音楽の最先端における「音楽」の定義の見直しに接することで深まったもので、一番近いのは、恐らくは三輪眞弘さんの「逆シミュレーション音楽」における演奏実践に接した経験のように思えるのだが、いずれにしても、それこそが「音楽」を聴くことの本質ではないかということを感じずにはいれらなかった。

*   *   *

私がコンサートに行くのを、とりわけてもマーラーの演奏されるそれに行くことを再開するのを躊躇った、実は今でも躊躇いがある理由の一つは、誠に恥ずかしいことに、聴きたいと思う曲であればあるほど、聴いたときの自分の反応が怖くて、公共の空間で周囲にご迷惑をおかけすることへの懸念からなのだが、この曲であれば第2楽章が特にそうした箇所に該当する。実際には録音でもそういう演奏にあたることはなかなかないのだが、特に356小節のEtwas langsamer (ohne zu schleppen)以降、392小節のNicht Schleppenに至る部分が私にとって一番聴いていてきつい部分である。上手く言えないが、自分の中で蓋をして来たものが、音楽に呼び出されて溢れ出て来てしまう感じがするのだ。偶々読んでいた(往復の電車の中でも読んで、終わりまであと20ページを残すだけとなったのだが)、John A. Snyder (with Nancy Steffen-Fluhr)の Overcoming depression without drugs : Mahler's Polka with Introductory Funeral March, (Author House, 2012)の中でスナイダーさんが正しく言っているように、「だからこそ」時として人はこういう曲(勿論、人によって、それは別の曲でもいい)が必要なのだと思う一方で、半ば公共の場でそういう経験をするのはやはり怖い。

でもそういう経験がなければ、いわゆる感動もなく、時間を使って(つまり、他の何かを犠牲にし、諦めて)コンサートホールを訪れる意味もない。それゆえ、再びコンサートを聴くようになってからは、いつもかなり苦労して乗り切るのだが、今回も(幸いなことに!)そういう経験をすることになった。涙はさすがに堪えられなかったけれど、(多分)周りに迷惑をかけずには済んだと思う。強い感情的な波に晒されてくたくたになったけれど、私の場合、マーラーの音楽を聴いて得られるカタルシスは、それがすぐれたものであれば比喩ではない。そうした経験を、相対的には最も疎遠であったこの曲で経験することができたことについては、演奏した方々に感謝の言葉しかない。

*   *   *

第3楽章はある種のカオス(必ずしも数理的な意味合いではなく)で、様々な力がぶつかり、入れ替わる場だが、そうした感じもはっきりと受け取れたし、第5楽章も少し違った規則に基づいて、でも第3楽章と大まかには同様に、様々な力が色々な方角からやってきて、ぶつかりあって音楽をある方向に導いていく、そうした力学的な軌道は鮮やかに感じられた。特にこのフィナーレはオーケストラにとっては大変な難物だが、手応えに満ちた素晴らしい演奏で、最後のコラールの再現(というか未来完了的に予示されたものの現勢化)が恐らくマーラーが望んだような質を湛えたものになっていたと思う。

長い長い旅、遍歴。アトラクターが出来ては不安定になり、軌道がずれて、しばらくすると別にベイスンに落ちて、でも一つとして同じアトラクターはなく、同じベイスンにもう一度来たように見えても風景は前回と同じではない、目眩のするような多様性が、ここでようやく準安定な状態に到達する。有機体におけるそうした状態の変化は、それ自体情動のような反作用を惹き起こすので、そうした反響を抽象するのは少なくとも有機体の内部からの展望を裏切ってしまう。そういう意味合いにおいて、マーラーの音楽機械は優れてオートポイエティックだと私は思っているが、そうした反響(付言すれば、それは演奏者にも聴き手にも起きて、それが更に音楽に作用して、渦のようなものが出来る)も含め、この演奏は、まさにそうあるべき、という実質を備えたものだったと思う。(偶々、そうしたことは技巧的な完璧といった尺度に対して、完全に独立ではないにせよ、従属的ともいえず、あまり関係がないという主旨の、聴取についての文章を書いたばかりなのだが、その内容について、また一つ裏付けを得たようにも思う。)

*   *   *

指揮は暗譜ではなく、特に最初のうちは全集版のスコアを捲りながらだったが、その解釈に関して言えば、マーラーの「通」が聴けば色々と評価はあるだろうし、同じ指揮者の他の演奏の解釈を私は知らないので、それがどこまで指揮者の解釈なのかも判断できないものの、私が強く思ったのは、このプロにとってさえかなりの難曲をアマチュアのオーケストラで取り上げるという条件で、指揮者は非常に的確な選択をしたのではないかということだ。オペラを振る豊富な経験に恐らくは裏打ちされているものと思われるが、その都度の場面でどこが重要か、流れに委ねて良い部分と、際立たないとならない部分のメリハリと、パート間のバランスが的確で、音楽の輪郭を崩さないようにコントロールされており、なおかつそのことによって、オーケストラがのってくると巨大な管弦楽のパートのそれぞれが軌道の軸に沿って絡み付いて大きなうねりを産み出していく効果をもたらしていて、破綻なく最後までたどり着く以上の、それを遥かに上回る成果を上げることに寄与していたのではないかと思う。それゆえ、そういう成果を前にして、もしかしたら嗜好に過ぎないかも知れない細かい解釈を云々することは、特にこのようなコンサートにおいては、私には全く意味のないことに思われるのである。

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最後に簡単に「客観的な」側面について書けば、モーツァルトはチェロ2プルト、バス3本だから、マーラーの半分くらいに刈り込んだ編成。マーラーではチェロ4プルト、バス6本、ヴィオラが確か5プルトくらいで、客席から見て向かって左からヴァイオリン、ヴィオラ、右端がチェロで、その後ろにバスという通常の配置(マーラーが対抗配置を前提として管弦楽を書いたのは明らかだし、この曲についてもそれは言えると思うので、この点もまた、一般論として異論があるかも知れない)。

印象としては、弦はマーラーをやる下限いっぱいの編成と感じたが、演奏が始まると、指揮者の適切なパートバランスが徹底していたからか、既述の通り、出だし以外はほとんど気にならなかった。中音域とバスの動きが気になる私は、意図的にやや低弦よりの位置で聴いたので、ヴァイオリンが聴こえにくいというのもあったかも知れない一方で、ヴィオラ・チェロ・バスは良く聞こえて、充実ぶりが感じられた。

木管は指定通りだったように思うが(あるいはコントラファゴットが持ち替えではなかったかも知れない)、金管は、トロンボーンとチューバは指定通りだが、トランペットとホルンはそれぞれ指定より1多い5と7で、結果として楽譜上のパートを分け合う部分があったと記憶する。(既述の事故も、そうした例外的な事態に由来するものであるとすれば、仕方ないだろう。)ただし音響上のバランスとか音色の効果の点で余程目につくことがなければ私はあまりそういうことは気にしないので、細部の記憶には間違いがあるかも知れない。

パートで印象的だったのは、金管では、この曲の主人公であるトランペットとホルンは勿論だが、それに劣らず雄弁であったトロンボーンとチューバ、木管では、ベルアップして最前面に出たと思えば、すぐに裏で難しいパッセージを吹くといった具合に忙しいクラリネットと、これも響きの上でこの曲の要所で前に出てくることの多いファゴット、そして何より、アルマが初期稿でのプローベを聴いて、そのあまりの厚さに思わずマーラーに抗議して薄く書き換えられたというエピソードがあるくらいにこの曲では目立つ打楽器、わけてもティンパニは全曲を引き締めるのに大きく寄与していたと思う。

あと、木管・金管について付言すれば、これは当然かも知れないけれど、マーラーが指示しているベル・アップ(Schalltrichter auf)もきちんと行われて、意図通りの効果を生んでいた。(これについては録音ではさすがに同じように聴きとることは難しい。視覚的効果もそうだけれど、それを措いても、音がホールの空間を伝わる、その伝わり方の問題なので、一旦マイクで拾ったものの再生を聴くのでは、もしかしたら今日では技術的にはかなりの線が実現可能になっているのかも知れないが、一般的にはやはり限界があるだろう。)

第1部の第1楽章と第2楽章の間は明確に一休みし、第2部の第3楽章後チューニング、第3部の第4楽章と第5楽章は当然、楽譜通りアッタッカでこれもごく普通。第1楽章は指定通りのインテンポで、どちらかというと早めで澱まないテンポ設定。第4楽章も溜めず、靠れずで、この作品の場合には適切だと私は考える。

第2楽章主部は堂々とした、この楽章が実質的なソナタ楽章であることを確認させるテンポで、対比群は大きなテンポのコントラストをつけず、ルフトパウゼも大きな溜めは作らない、すっきりとした演奏。第3楽章は(マーラー自身の言葉に忠実に)急がず、この第2部がこの曲の中核であることを思えば適切なテンポ設定、第5楽章も同様に中庸を得た違和感なく無理のないテンポで、こうした設計もまた、この演奏の成功に寄与していたのは間違いないと思う。

アンコールもなしで、マーラーの後に別の曲は、と実はやや心配していたので、個人的にはほっとしたし、客観的にも恐らく妥当なのではないか。

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初めて聴いたアマチュアのオーケストラで、失礼ながら率直に言って、このように素晴らしい演奏に接するとまでは期待していなかったけれど、何よりもまず、オーケストラにとって、アニヴァーサリーを最高の形で実現できたことに対して、祝意と敬意を表したく思う。その一方で個人的には、30年来の宿題となっていて、2度までもトラブルで機会を逃し、もしかしたら生きている間に聴くことができないかも知れないと思っていた第5交響曲の最初の実演が、かくも充実したものとなったことについて、心からお礼を申し上げたく思う。

これはマーラーから離れるが「魔笛」も実演がこんなに素晴らしいものだとは思わなかった。是非、今回の指揮者と歌手の御三方を中心にした上演をと思わずにいられない。百歩譲って演奏会形式でも、合唱付きで、全曲を聴くことができたらと思った。

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最後に私個人について言えば、これでやっとマーラーの全交響曲を、三輪眞弘さんの言う「録楽」ではなく「音楽」として、まがりなりにも(というのもかつて聴いた、その多くはプロの演奏が落胆しかもたらさなかったからだが)聴くことができて、ほっとしている。と同時に、このように休日のマチネでなら行ける相対的に可能性も高いし、i-amabileのようなサイトを見れば、今日の日本では、アマチュアの団体でもマーラーはかなりの頻度で取り上げられていることが確認できるのだから、都合がついた時にはもう少しそうした実演に接することを考えてもいいように感じた。

何より音響の面に限定したとしても尚、ホールで気付くことは多く、また聴こえ方も違う。何よりもマーラーの音楽が遠くのどこかで、かつて演奏されたことがあった、その記録に接するというのではなく、その場で人間が演奏することによって産み出されていく経験が「世界を構築する」というマーラーの音楽の理念の了解にとって本質的な契機であることは、こうした素晴らしい演奏に接した後では最早明らかなことに思われる。

思えば以前の私は、自分の中ある「かくあるべし」という音のイメージ(それはしばしば強固なものだ)を基準にし、録音・実演を問わずに演奏に接したのだと思う。それは例えば自分が指揮者であればいいのかも知れないが、聴き手としては必ずしもそうではないということに、40年近くマーラーを聴いてきてようやく理解が届くようになった、そしてそのことを一般的な聴取の問題としても整理できたように思うのである。今や時として、「演奏され過ぎる」という批判すら耳にするが、それはあくまで市場に提供するプロの演奏家の姿勢の問題であって、ことアマチュアについて言えば演奏され過ぎることなどないのではないかと思う。

コンサートの記録という本題からは外れるが、ついでに言えば、かつては実演に対する代補的なアクセス手段として需要があり、概ねそのように機能していた筈の室内楽や小編成オーケストラでの演奏や、2台ピアノ、連弾を含めたピアノ編曲でのマーラーの作品の演奏の録音が、最近、目立って増えてきたように思えるのだが、これらもまた既に飽和状態にあるかに見えるマーラーの録音の氾濫の中で、目先を変えて需要を喚起するといった面、あるいはもしかしたらオーケストラという基本的には過去の文化財たる音楽を再生する(そういって良ければ「伝統芸能」を、しかも日本においては、異なる文化的伝統に属していた筈のそれを継承するための)組織が、主として経済的な観点から維持困難になるケースがますます増えてきていることとも関係しているのかも知れない。しかしながら視点を変えれば、様々な制約があってなお、更には録音だけでマーラーを聴くことの致命的な限界を超える手段に限定したとしてもなお、少なからぬ意義あるもののように思えるのだ。

最後にもう一度、貴重な経験をさせて頂いたオーケストラの方々、指揮者、歌手、そしてオーケストラを支えておられる方々に心より御礼申し上げて、この文章の結びとしたい。(2018.7.16初稿, 7.18訂正, 7.19第5交響曲第2楽章についてのフルトヴェングラーのコメントへの言及を一旦削除。以下の注記参照。)

注記:第5交響曲第2楽章についてのフルトヴェングラーのコメントは、インバル、フランクフルト放送交響楽団の録音のCDの解説に記載された内容だが、確実な典拠が確認できないため言及を一旦保留することにする。海外のサイト等で確認できる限り、フルトヴェングラーが第5ではなく、第6交響曲について「音楽史上最初の虚無主義的な音楽」と呼んだという記述は見かけるが、第5交響曲についてのそれは確認できない。なお上記解説と同様、これが第5交響曲第2楽章のことであるとする文献には、ベルント・W・ヴェスリングのモノグラフ(「マーラー 新しい時代の預言者」、邦訳は喜多尾道冬訳、国際文化出版社、1989)があるが、それによれば、ベルリン・フィルとのこの曲のリハーサルの際の発言ということになっている。まるでフルトヴェングラーが語ったことをそのまま記録したかのような書き振りなのだが、実のところフルトヴェングラーがこの作品を取り上げた事実は(少なくとも管見では)確認できないのである。その一方で、クーベリックが第5交響曲を取り上げた折にフルトヴェングラーが立ち会った時のエピソードというのが残っているようだが、その折のフルトヴェングラーの反応は第5交響曲全体に対してのもので、第2楽章についてのものではなかったらしい。その他、フルトヴェングラーがマーラーの第9交響曲を演奏した「録音」なるものの存在が云々されたことも海外ではあるようだが、相対的には良く知られている第1から第4までの交響曲と「さすらう若者の歌」に加え、若干の歌曲と「大地の歌」を演奏した記録はあっても、第5から第9までの交響曲を演奏した記録は確認できないようである。機会があれば、この点については稿を改めて取り上げることにし、ここでは上記指摘に止めたい。(7.22付記)

2018年7月15日日曜日

第8交響曲への言及1件(ジャンケレヴィッチ『終わることなきもののうちのいずこか』)

こちらは如何にもジャンケレヴィッチがしそうなマーラーへのコメントをベアトリス・ベルロヴィッチとの対談『終わることなきもののうちのいずこか』の最終章「XXIX 戸外の光の中で」より。(邦訳『仕事と日々・夢想と夜々 哲学的対話』、仲沢紀雄訳、みすず書房、1982。なお、仲澤さんは訳者あとがきにおいて、原題 Quelque part dans l'inachevé を『どこかあるところで終わりなきままに』と訳されているが、これは私見では「超訳」の類で、仲澤さんのような方にされてしまうと何も言えなくなるが、随分と読み取れるニュアンスが異なってしまうように思われる。)

「(…)若い頃、プラハに住んでいたとき、わたしはスメタナ、ドヴォルザーク、ヤナーチェクなどチェコとスロヴァキアのオペラが演奏されていた国立オペラ座とヴァグナーとシュトラウスを演じていた新ドイツ劇場とに時を分かっていた。どちら側にわたしの心があったか言う必要があるだろうか。マーラーの全交響曲を聞いたのもまたプラハだった。ブルーノ・ワルターがウィーンから来てルツェルナ公会堂でこれを指揮した。とくに第二部の(ゲーテの『ファウスト』の終幕)いくつかのすばらしい瞬間にもかかわらず、マーラーの『第八交響曲』は『八分音符氏』が夢みた《戸外の光の中で、木々の前で演ぜられ、ただよう》音楽にはほとんど似ていない。ドイツ音楽は虚無にあまりにも制御され、壮大さの意欲にあまりにも占有されている。それは《花の香りと空気の曲線と木の葉の動きの神秘な協合》にあまりにも頑なに背を向ける。わたしは、音楽が平原の風の歌に耳を閉じず、夜の香りに無感覚でないことを愛する。(…)」(邦訳、pp.297-298)

アドルノの作曲家の取捨選択が(特に槍玉にあげられた作曲家、例えばストラヴィンスキーやヒンデミット、シベリウスを評価する側の)物議を醸したことは、マーチン・ジェイのモノグラフにも書かれている通りだが、ジャンケレヴィッチはアドルノ程度にも論理的でない。にも関わらず、単なる嗜好ということで片づけてしまう訳でもなく、理由を延々と語って見せるのだが、直ぐ後に自ら述べる「互いにごく異なっているいくつかの作品を共に愛する権利」、例えばアルベニスとスクリャービンとを愛する権利の主張、「だれに対するにせよ弁明する必要もない」権利と、上記のようなお喋りとの関係は定かではない。恐らくはある他者が、同じ権利によってマーラーを愛することについて、彼は「どうぞお好きに」というのだろうが(そしてそこがアドルノとは異なるところだろうが)、であるとしても、もしそうならば、それは彼がマーラーをどう聴くか、あるいはどう「聴かないか」を告げることはあっても、マーラーの音楽が持っているポテンシャル、異なる聴取の可能性、ジャンケレヴィッチが聴きとれないと証言する、そして聴き取りたいと思っている音楽を、まさにマーラーの中に(他の誰かが)聴き取る可能性に対して不当ではないだろうかと思わずにはいられない。

ジャンケレヴィッチは、ドビュッシーを引き合いに出すが、そのドビュッシーの音楽を、そしてスメタナやドヴォルザークの音楽をマーラーが高く評価し、指揮者として何度も演奏したこと、のみならずその作品にそれらの音楽の影響を見出す見解も存在することは証言しておくべきだろうか。勿論そのことが、マーラーの音楽そのものについて何かを告げることはなく、単なる傍証の類に過ぎないが、それでもそのことは、ジャンケレヴィッチが対立させようとする項の間に、他はいざ知らず、マーラーその人は対立を見ていたわけではないことを控え目に、小声で告げることだろう。

こうしたことは幾らでも続けることができよう。例えば、アウシュビッツ後に生き延びたユダヤ人であるジャンケレヴィッチが、オーストリア・ハンガリー帝国の「言語島」に育った同化ユダヤ人の息子であるマーラーが一時期まさに、プラハの「新ドイツ劇場」で指揮をしていたことを知っていた上で、上述のように語っている可能性は大いにあるが、そのマーラーが、その後ウィーンの王室宮廷歌劇場の監督として、スメタナの「ダリボル」を演奏したことの方は知っていただろうか。一般に「ダリボル」は、「リブシェ」とともに、その「ナショナリスティック」な内容の一方で(だから当然、ウィーンでの「ダリボル」の上演は政治的な意味合いを持たざるを得ない。「リブシェ」が強い政治的なコンテキストの中で作曲され、上演されたのと同様に。)、非常に強いワグナーの影響を指摘されているのだが。

いやそうした周辺的な話は止めにして、マーラーの音楽そのものを問題にしてみよう。ここで、限定つきではあっても、「よりによって」ファウスト第二部の終幕を音楽化した第8交響曲をジャンケレヴィッチが評価しているのは、やや意外な感じがしなくもない。だが、「虚無と壮大さ」をもって批判するのであれば、その選択は確信犯的なものと疑われても仕方あるまい。(またしても、であるならば、例えば『死』で参照している『大地の歌』はどうなるのだろう…)

一方でマーラーが第三交響曲に関して言ったこと、「鳥の歌、花の色、森の香りだけでは自然は作れない。ディオニュソスが、偉大なるパンの神が必要なのだ。」という発言を、ジャンケレヴィッチは知っていてドビュッシーを引き合いに出したものか。するとジャンケレヴィッチの言い分にも一理あるということになるのかも知れない。だが、別のところで書き留めたように、まさにこの言葉を梃子に、ドゥルーズ=ガタリがどのような議論を展開したかを思い出してみて頂きたい。

しかしながら、一番驚くのは、ロシア帝国からのユダヤ人移民の息子が、オーストリア・ハンガリー帝国の「言語島」に育った同化ユダヤ人の息子の音楽を、まるでそれが「ドイツ音楽」の典型であると考えていると受け止められかねないような仕方で語っていることだ。「ドイツ音楽」の定義の下、「オーストリア音楽」が等閑視されていることは一先ず措こう(というのもシューベルトやブルックナー、フランツ・シュミットが問題にされているわけではないので)。マーラーが「三重」の意味での無国籍者の感覚を持っていたこと、再びドゥルーズ=ガタリを参照すれば、彼らがカフカを「マイナー文学」と規定したのを承けて、「マイナー音楽」と呼んでもいいような性格をマーラーの音楽が孕んでいることを、ジャンケレヴィッチは認めたくないように見える。文学と音楽は違って、音楽だけは嗜好の押し売りをしていいのだ、とでも言うのだろうか?一世紀を隔てた極東の島に住む子供にすら、「ドイツ音楽」とははっきりと異質なものとしてマーラーの音楽は響いたというのに。

しかしそれも良しとしよう。最大の問題は、ドビュッシーを引き合いに、それに対する背馳と拒絶をジャンケレヴィッチが主張する《戸外の光の中で、木々の前で演ぜられ、ただよう》音楽、《花の香りと空気の曲線と木の葉の動きの神秘な協合》の音楽が、「偉大なるパン」への言及にも関わらず、マーラーの音楽にははっきりと聞き取れるという点である。ジャンケレヴィッチのいう「虚無と壮大さ」を仮に認めたとして、その上でなお、マーラーの「音楽が平原の風の歌に耳を閉じず、夜の香りに無感覚でない」ことを聞き取れないのは、専らジャンケレヴィッチの側の問題ということはないのだろうか?

再び『大地の歌』を、あるいは第一交響曲、更には第七交響曲を引き合いに出してもいいだろう。あえて言えば、パンの存在が、それを映画音楽やムード音楽的な(マーラーの時代で言えば、「ゼッキンゲンのラッパ手」のようなものが思いつくが)単なる描写音楽と区別がつかなくなることから、或はユーゲントシュティル風の装飾に退化することから救っているという見方さえ不可能ではなかろう。マーラーの世界を構築する意志は、今日なら、寧ろ分析哲学における多世界論、あるいは哲学的な立場としてはその多世界論については批判的である替りに、様々な「バージョン」の存在を作品にとって本質的なものと見なす、ネルソン・グッドマンの美学理論(彼にはその題名もずばり『世界制作の方法』という著作があることを指摘しておくべきだろうか?)のようなものを通じて受け止めるべきものを含んでいはしまいか?

ちなみに言えば、ジャンケレヴィッチがマーラーを参照する場面は、管見でもう一箇所存在する。彼が晩年に企図した、『音楽から沈黙へ』全七巻の掉尾に収められる筈であった『音楽と筆舌に尽くせないもの、夜のもの、沈黙』の、いわば改稿前の姿である『音楽と筆舌に尽くせないもの』(1961, 再版1983、邦訳は仲澤紀雄訳, 国文社, 1995)の中で一度きり、自分の言葉としでですらでなく、ラヴェルが言った言葉として(だが、引用の形さえ取らず、従って、出典に対する注もなく)このようにマーラーを参照してみせる。
「短さは、緩叙のもっとも自然な形だ。ラヴェルは、マーラーの膨大な交響曲を批評し、ぶしつけな打ち明け話や、日記および冗長な自伝にうかがわれる慎みを欠いた多弁な率直さを嘲笑する。フォーレの場合、『小品』の簡潔さは、濃密度と節度の要求を表明している。言外に含まれた意味は、《小品》の延長であるべきもの、その短さをひき延ばす黙説法の輝きではないだろうか。ラヴェルのような音楽家の厳しい、貪欲なまでの簡潔さ、ファリャのような音楽家の峻厳さ、ドビュッシーのような音楽家の雄々しい自制は、感情の露出癖と音楽の無節制にとっては、慎みと節度の教訓にほかならない。」(邦訳、pp.64-65)
ここには最早、具体的な作品への言及すらない。(あるいはそのこともひっくるめて、ラヴェルの発言に責を帰するつもりだろうか?)ラヴェルがどこかでそれに類することを言ったかどうかの真偽については問うまい。こんなコメントに抗弁しても虚しいだけだが、それでもなお、一つにはラヴェルの音楽家としての姿勢や発言は、必ずしもその作品の実質を保証するものではないこと、そしてその点についても実質的には一致を認めてなお、マーラーの「膨大さ」は、例えば別のところでそのテクニカルな欠点をラヴェルが非難しているベルリオーズのそれと単純に同一視できないだろうし、マーラーの音楽に、日記やら自伝を見出すのは、ある種の(しかもどちらかと言えば、マーラーを嫌う)聴き手の押し付けである場合が多いようだ。或はまた、マーラーに多弁を認めてなお、ジャンケレヴィッチが『死』で参照している『大地の歌』における、あるいは交響曲でなくても良ければ、特にリュッケルトの詩による歌曲集における別の(つまり持続の次元ではなく、器楽法の上での)節約、更には感情の露出癖という点に関して言えば、例えば第9交響曲にシェーンベルクが見出す「非人称性」はどのように扱われるのか?マーラーの音楽に無節操を見出すのは、そこに存在する(多分、別種の)論理を、形式を、別の種類の禁欲を、節約を見てとれないだけということはないのか。直ぐ後でジャンケレヴィッチ自身、量に対する質の「独立」について述べているが、もしそれが本当に「独立」しているなら、膨大さが即、質の低下を意味することもまた、ない筈なのだ。あるいは「過度」の弁証法的破滅そのものが方法論であり、ある部分(全てでは勿論ない)では(ジャンケレヴィッチにとって大事なものであるらしい)意味やら効果やらの希薄化すら厭わないような姿勢が、彼お好みの「イロニーの精神」に基いたものだという可能性についてはどうなのか?何なら、ジャンケレヴィッチ自身の叙述、とりわけ『死』のような著作の膨大さ、更には、これはどの著作を開いても等しく読み取れる多弁について、そっくりジャンケレヴィッチにお返ししても良いだろう。音楽とはまた別なのだ、とでも言うのだろうか。緩徐を、黙説を語るこの饒舌ぶりは一体どうしたことか…

嗜好を語るのは構わない。だが、そうであるならばあくまでも嗜好であるとして語るべきであり、あたかも客観的な評価であるかの如く装った趣味の押し売りはすべきではない。自分にはそうは聴こえない、というのを、言説の力で、さも客観的な判断の如く語るべきではない。それは、あろうことか、ユダヤ人マーラーに対してナチスの時代になされた誹謗中傷と区別がつかなくなってしまいかねない。疎遠なものに対する感受の器官の解像度は低くなりがちなのだ。勿論、ジャンケレヴィッチを権威として虎の威を借るが如く、自分の嗜好の押し付けをして憚らない、百年一日の如き、「トランク哲学」ならぬ「トランク美学」の「権威」の主張の責任をジャンケレヴィッチに帰するのは正当なこととは言えないだろうが。

だが、それにしてももう一度、ジャンケレヴィッチが第8交響曲の第2部、マーラーを評価する側において、寧ろ毀誉褒貶相半ばする楽章に、最も「ドイツ的」な性格すら見出されかねない音楽に、「いくつかのすばらしい瞬間」を見出しているという発言には興味深いものがある。実のところ、研究の出発点でシェリングを取り上げ、だから『夜の音楽』において、あるいは『イロニーの精神』において、結局のところ登ったら捨てる梯子のような扱いであるにせよ、皮相とは言えない仕方でドイツ・ロマン派に対する言及をしているジャンケレヴィッチは、ショパンの引き立て役ばかりをさせられるシューマン以上に、マーラーの音楽の寄る辺なさを、「なんだかわからないもの」、「ほとんど無」の思想から語れた筈なのに、という感じをどうしても抱いてしまう。『死』の中で通りすがりのように言及される『大地の歌』は、その出発点になりえた筈なのではなかろうか。だがそれは彼の嗜好の「外部」に場を持つものであり、だから、彼ではない他の誰かが引き継ぐべきなのだろう。アドルノのモノグラフもまた、半世紀の時を経て、書換えを待っているように思われるが、ジャンケレヴィッチの方もまた、ドイツ的なものに対する拒絶反応を、よりによって迫害された側にぶつけてしまうようなことなく、語りなおす必要があるのではなかろうか。(2018.7.15初稿, 7.17補筆)

2018年7月8日日曜日

マーラーの音楽の聴取様式

マーラーに関する文献の中で、私がマーラーを聴き始めて間もなくのうちに入手したものに、青土社が1980年に出版した「音楽の手帖」のマーラーの巻がある。既に手元にあったマイケル・ケネディのモノグラフ(中河原理訳、1978年、芸術現代社)、アルマの手になる回想と手紙(私が接したのは白水社版の酒田健一先生の訳のものでこれも1978年)と並び、私が住んでいた地方都市の書店でほぼ新刊として入荷したものに偶々接したそれらは、中学生であった私の文字通り座右の書であった。(一方、先行して翻訳が刊行されていた筈の、ブラウコップフやヴィニャルのモノグラフを読むのは、そうした微妙な刊行時期のずれのために、少し後のことになったと記憶する。)

「音楽の手帖」は、巻末資料として年表、ディスコグラフィー、ビブリオグラフィーが備わり、外盤や翻訳のない文献も網羅されたものだが、その後40年になろうかという歳月の重畳を通して改めて眺めれば、寧ろ当時の状況を証言する資料として貴重なものに感じられる。何しろ、ド・ラ・グランジュのあの浩瀚な評伝の第1巻が最初は英語で出版されて間もない時期なのだ。

だが、既に交響曲全集としてクーベリック、ショルティ、バーンスタイン、ハイティンクの4種が国内で販売されたことがあり、所収の記事の多くでも言及されているように、LPレコードによってマーラーの作品に比較的容易に接することが日本国内でも可能になり、アバドやテンシュテット、レヴァインやメータが、「現代的な」マーラーを提示し始めた時期でもある。(とはいえ、この本に収録された幾つかの文章における「現代的」という言葉の内実を問題にすれば、テンシュテットの演奏は、必ずしも他の3人と同じような意味合いでそう言われているわけではなく、そういう意味合いでは、テンシュテットの替りにカラヤンを持ってくるべきなのだろう。)

記事の中では、L'Arc 67号(1976)のマーラー特集所収の論文の翻訳が収録され、アドルノのモノグラフの一部、シェーンベルク、ブーレーズ、バーンスタイン、ライク、ブロッホの文章の翻訳に伍するように、日本語でも錚々たる顔ぶれによる文章が集められたもので、その後マーラーに関するムックのようなスタイルの本というのは幾つか出ているが、それらの嚆矢であり、かつ、今日に至ってなお、最も充実したものではないかと思われる。

だが、ここでそれを取り上げるのは、そうした書籍に見られるマーラー受容に対する回顧のためではない。あくまでもそれは出発点に過ぎず、寧ろ関心は、そうした書籍にいわばドキュメントとして記録されているマーラーの音楽の受容の在り方の方に存する。上述のように、私のマーラー受容のほぼ最初の時期の書籍を取り上げたのは、自分がそうした環境の中で、初めは概ね無意識的に、その後徐々に意識的に影響を受け、その後のある時期にはあからさまに反発をしつつ(その結果、マーラーそのものから遠ざかった時期もあった)マーラーを聴いてきた自分の「聴取」の在り方というのを確認するがためである。

そうした観点では、「音楽の手帖」記事の中の柴田南雄さんの「マーラー演奏のディスコロジー」という文章が特に印象的である。のみならずこの文章は、この頃以降しばらくの私のマーラーの聴き方にそれなりに影響力を持ったという意味でも、再検討に値すると感じられるのである。ディスコロジーというからには当時はLPレコードであった録音を主な対象としているのだが、実際にはFM放送で聴いた海外の演奏のライブ録音あり、コンサートホールでの実演ありと、言及される対象はより幅広く、かつ扱われている範囲も、柴田さんのマーラー受容史をなぞるように、戦前のクラウス・プリングスハイムによるマーラー作品の日本初演が出てくるかと思えば、やはり戦前のSPで聴けた演奏への言及があり、その一方では執筆と時期的に極めて近接した直近の録音や実演にも語り及ぶといった具合で、後年、岩波新書から出版された柴田さんのマーラーについてのモノグラフで語られる内容の幾つかは、既にここで読むことができる。

現時点での私の視点から見たときに特に興味深いのは、アマチュアの演奏に対する言及で、しかもそれは、1939年に撮影された、ヴェーベルン指揮の当時の勤労者オーケストラによるマーラー演奏のリハーサルの写真の話から始まって、既述のプリングスハイムが今日の芸大であるところの東京音楽学校の学生オーケストラを指揮した第6交響曲の日本初演の演奏から、1978年1月の東京大学の学生オーケストラによる同曲の演奏にまで及んでいる点で、まさに柴田さん自身の受容史と重なり、ひいては柴田さんのマーラー演奏様式の変遷についての歴史的な展望に直結しているのである。そしてその展望の方はと言えば、これもまた、ホーレンシュタインの指揮する管弦楽伴奏でレーケンパーが歌った「子供の死の歌」を範例とするマーラーと同時代の名残を留めたロマン主義的な演奏から、戦前の日本においてマーラーの作品を定期演奏会で取り上げたローゼンストックが範例となる「新古典主義的」な演奏、それから生誕100年を契機としたいわゆる「マーラー・ルネサンス」の時代を経て、執筆と同時期のアバド、レヴァイン、テンシュテットやメータの「今日的な」様式に至るといった把握が示されているのだが、大筋でそれが正しいと認めるにせよ、当然ながら色々な意味で限界もあり、現時点での私の認識では、首肯できない点も少なくない。

実を言えば、ここで特に書き留めて置きたい要点はそうした展望の是非自体にはないのだが、認識にギャップを感じる点を一点挙げておけば、「マーラー・ルネサンス」前の時期の展望は些か単純化し過ぎではないか、というのが、その後私が自分の耳で確認した上での私見である。例えば「新古典主義」という枠に押し込められて片付けられてしまっている観のあるホーレンシュタインの幾つかの録音は、現在の私の耳には、その新古典主義的な側面より、レーケンパーの伴奏をして以来の過去との繋がりの方が強く感じられるし、(しかもその印象は、ここでは言及されていない、より後の、彼の最晩年の演奏のライブ録音に及ぶのだが、)一つにはこの文章が「ディスコグラフィー」だからかも知れず、或は単に当時はアクセスできなかったからかも知れないが、それでもなお、ホーレンシュタインのみならず、アドラーやシェルヒェン、ロスバウト、ミトロプーロス、ラインスドルフ、或はシューリヒト、ファン・ベイヌム、バルビローリ、更にはコンドラーシンといった、それぞれがユニークな個性を備えた存在(更に、フリプセ、モリス、オーマンディ、ストコフスキー、、、とこのリストは追加していくことができよう)が等閑視されているのは、バランスを著しく欠いていると私には感じられる。この中では、バルビローリについてのみは辛うじて、ケネディのモノグラフのお蔭で誤認をせず済んだが、ことホーレンシュタインに関しては、この柴田さんの文章がもたらした負の影響を感じずにはいられない。

その一方で、ワルターが典型だが、戦前の幾つかの、異様な緊張感を湛えたライブ録音(戦後のウィーンでの「里帰り」の第2交響曲の演奏も、寧ろその系列に含めたい気がする)の一方で、戦後間もない時期の、いわば新古典主義的なスタイルの演奏があり、更にはそうした時代様式では括り難い、最晩年のコロンビア交響楽団との一連の録音もありといったようなケースを、時代による様式の変遷の一言で片付けるのもまた、乱暴すぎるであろう。勿論、一般的に見て時代による様式の変遷がないといいたいのではなく、ホーレンシュタインの場合にも共通することだが、それがライブであるのか、スタジオ録音であるのか、或はそのどちらの場合にしても、それがどういう文脈で行われた演奏なのかといった、録音された音響そのものから見れば外的な側面、更には長大なキャリアの中でそうした時代の変遷を生き抜いた音楽家が築いた唯一不二の個性といった個別的なものを無視した抽象は、結局のところ「音楽作品」のような対象を語る際に適切とは言えないのではないかといったことを感じずにはいられないのである。

かくして回り道をしながら、けれども結果的には、ここに至ってようやく、この文章において特に考えてみたいことを述べる準備ができたように思えるのだが、それは一言で言えば、マーラー受容において決定的な貢献をしたこと自体は否定しがたい、そして自分自身がその受益者の最たるものであることを否定し難い、録音された演奏の再生を通しての聴取という聴取のあり方に対する反省ということに尽きる。ただしそれは、単純にコンサートでの実演が「本来的」で、レコード、ラジオ(CDやDVDを経て、今ならネットワークを介したストリーミングによる聴取さえをも念頭に置く必要があろうが)といったメディアを介した聴取が、それの頽落態であり、色褪せたコピーであるといった二分法のような図式的な捉え方の水準の議論では全くない。

それよりは寧ろ、大量の録音記録に容易にアクセス出来るという、一見したところメリット以外見いだせそうにない点に潜む、聴取に対する影響のようなものを問題にしたいのである。しかもそうした環境の影響の度合いたるや、私のような単なる市井のアマチュアに対して決定的な影響を及ぼしているだけではなく、上述の柴田さんのような、ご自身も作曲家であり、聴取についても最高ランクのプロフェッショナルなスペシャリスト(アドルノの聴取の類型論を思い浮かべていただければ良い)でさえもまた、その影響から自由ではありえないのではないかと思われるのだ。従ってそれは(ナティエ的な三分法でいけば)聴取の極だけに留まる問題ではなく、そうした聴取が可能な時代に生きる演奏者の演奏の方にも決定的な影響を与えている筈なのである。(更には創作の極についても勿論同じことが言えるだろうが、これはマーラー作品そのものからは離れることになるので、ここでは扱わない。だが、三輪眞弘さんのような人を除けば、この点について、自分がおかれた同時代のメディア論的状況に対して徹底して意識的、かつ批判的なスタンスで対峙しつつ、その姿勢が、自分の「音楽」の創作そのものと矛盾や誤魔化しなく一貫し、更にその上で実現された音楽の豊穣さに繋がるというケースは稀であるように思われる。)

だがここでは、自分自身の経験に依拠できるという単純な理由から、第一義的にはアマチュアの聴取にフォーカスすることにしよう。例えば、これはマーラーに限らず熱心な愛好家であれば、多くの場合、かつてはSP・LPレコードを、少し前ならCDやDVDを蒐集し、それらを「聞き比べる」というのはごく普通に、自然にやることで、その結果として、各個人の嗜好や価値判断基準に応じた評価が為されることも少なくないだろう。そしてその評価が、しばしばランキングのような形態をとることも珍しくない。もちろん、複数の演奏の比較そのものについて言えば、論理的には、実演に限定してもなお不可能ではないだろうが、実質的には、一回性のものである実演について詳細な比較をすることができるのは、優れた能力を持った人間が自分の能力を十全に発揮するような集中的な聴取を行った場合に限られるだろう。更に付け加えるならば、結局のところ、そうした比較を支えているのは、同じ録音を何度でも聴きかえすことができ、特定の楽章、更には特定の部分のみに絞った聴取が行えるという、録音媒体ならではの聴き方に依存する部分が大きいとせねばなるまい。愛好家の主観的なランキングではなくても、これもしばしば見受けられるようになってきて久しい、同一曲の複数の録音を比較するような研究を、録音媒体なしでやることの困難を考えれば容易に想像がつくであろう。

そしてそうした繰り返し聴取することが出来る可能性は、演奏する側にも影響を与えずにはおかない。例えば原理的に実演に立ち会うことが不可能な、自分の誕生前の演奏すら、録音を通じてアクセス可能であるという状況は、自分の前の世代の演奏様式を跨ぎ越した「先祖がえり」のような様式での演奏といった企てをも可能にする。演奏の精度の問題について言えば、演奏不安の問題は、寧ろ一回性の実演ならではのものかも知れないし、名人芸というのも録音媒体が発達する前からあって、寧ろ、かつてのコンサートの方が今日よりもより多くそうした側面が重視されていたかもしれないことを思えば、録音はそうした観点のみで優劣を判断してしまう傾向の持つデメリットを解消するメリットの方が強調されてもおかしくないのだろう。近年は技術の向上だけではなく、予算上の制約といった消極的な理由でライブ録音が主流になっているが、かつてのスタジオでの収録であれば、納得がいくまでやり直すことが原理的には可能になっている。楽章単位で、場合によっては日を変えての演奏を継ぎ合わせ、更には、微細な演奏上の瑕疵については事後的な編集作業によって、見かけ上の正確さを向上させることは可能であろう。だが、それによって得られる演奏を、コンサートホールでの実演と同一視できるだろうか?ことマーラーに関して言えば、例えば第6交響曲の中間楽章の順序の問題がある。聴取の側に限れば、例えば録音されたものであれば、順序を入れ替えて聴くことも不可能ではないが、コンサートの中である順序で演奏されたものを逆転することと、そもそも別々に収録されたものについてどちらかの順序を選択することは同じと言えるだろうか?仮に指揮者が、ある順序を前提とした解釈を採用したとしても、実際にその順序で演奏するのと、あたかもその順序で演奏されたかのように演奏するのとでは少なからぬ相違が生じると考えるべきではなかろうか。

しかも、何回もやり直せれるのは演奏を録音するフェーズだけに留まらない。聴く方もまた、同じ録音を、何回も繰り返し聴くことが前提となってしまえば、それに合わせるように演奏者側が適応的な調整をしてしまうことが避けがたい。実際、レコード録音がようやく盛んになり始めた頃、指揮者・演奏者は録音されたものが何度も繰り返し聴くに耐えることに優先順位をおいて、解釈までひっくるめて実演とは異なった優先度づけで収録に取りくんだという話も聞く。だが、そうなってしまえば、仮に瑕疵の見当たらない、高精度の演奏であったとしても、録音された演奏というのはコンサートホールでの一度きりの実演とは全く異なる性質のもの、三輪眞弘さんが「録楽」という独自の言葉をあてて区別すべきことを指摘されているように、端的に異なるものと見做した方が良いことになりはしないだろうか。演奏不安は、コンサートでの方がよりシビアかも知れないが、記録された演奏に限れば、破綻のない、手堅い演奏が多くなるという逆向きの影響の方も考慮に入れるべきなのではなかろうか。のみならず、演奏精度の如きものは、一旦ドライブがかかってしまえば切りはなく、本来それが妥当であるかという問いが最早立てられることもなく、ある指揮者・オーケストラによる録音と別の録音を単純に比較して、技術的な優劣を論じてみたり、実演では初めからそこに意識を向けていない限りは気付くことすらおぼつかないかも知れないような細部について是非を議論することになる。それが例えば音響のバランスであれば、それが演奏の解釈の問題なのか録音の問題なのかの見分けさえ一般にはつかないにも関わらずである。そして更にそうした比較して優劣を論じる傾向は、演奏から受ける印象にさえ及ぶ。実演であれば、様々な文脈に規定され(私の場合には、聴き手たる自分のコンディションの影響が聴取の印象を変えてしまうことは避けがたい)、比較することに意味があるかどうかすら疑わしい実演における「感動」をも比較することが当たり前になってしまう。

もっともこの状況は、演奏会のライブ収録が増え、スタジオ録音がされなくなった昨今では変わってきており、録音された演奏に対しても、実演の緊張感や会場の雰囲気のようなものもひっくるめて、ドキュメントとして捉える聴き方が増えているような感じがする。ではあるものの、一度起きてしまったことはその影響が簡単になくなるわけでもなく、寧ろ、録音技術が発達した今日では、寧ろ様々な前提の違いがますます曖昧になった状態で、実演の経験も録音された音響を聴いた経験も一緒くたに、だが、技術的な精度に過度の重みづけがされた状態で、演奏の「出来」なるものを比較して、同じ空間の中でランキングをするということになっているように思われるのである。ドキュメントとして捉える場合について言えば、演奏会場に居て聞こえるのとは基本的に異なった条件、しかもそれは演奏毎にそれぞれ異なる筈なのだが、そうした条件の差異も押しなべて無視して、結果的に録音されたもののみを手掛かりにした作業となることは避けがたい。だが、であるとするならば、一体それは何を比較していることになるのか?

更に言えば、そうした比較をすることの結果として、聴いてすぐわかるような特徴や癖のある演奏が高い評価を得やすくなることは避け難いだろう。それは演奏精度が非常に高いということであったり、解釈がエキセントリックであったり、そうでなくてもそれまでに聴いたことのないような特徴を持っていて新鮮に感じられれば評価を得やすくなることを意味する。実際、柴田さんの文章もそうした嫌疑を持たせるような箇所には事欠かない。自分の聴経験の原点にある歴史的録音でなければ、マーラー・ルネサンスの時期の演奏ですらなく、新しい時代の演奏を、というのもそうだし、ハイティンクの録音やクーベリックの録音に対する「特徴のない」とか「取ってつけたように加減速するのは当世風ではない」といったような評言は、まさにレコード録音が当時持っていた意味合いと、そこから出てくる演奏上の配慮といったものに対し無頓着で、ライブであれスタジオ録音であれ、録音された音響のみで(あたかも他は還元されるべきファクターで、そうすることで客観性なるものが得られると思っているかのように)評価するという点で、たかがメディアである筈のレコードがもたらした様々な弊害を逃れているとは言い難いだろう。

ともあれそれ以降、レコード評でお金を取るジャーナリズムというのが存在し、少なからぬ影響力を持ち、近年では莫大なコレクションの全てに寸評をつけたものが持て囃され、星幾つといったランキングが、時として権威を持ち、そうではなくても参考にされるというのは、だが、考えてみれば(ベンヤミン風に言えば)「複製芸術時代」の固有の現象ではないのかという問いが頭をもたげてくるのを押さえることができないのだ。当たり前に見えるそれらは、実は、複製芸術時代の非常に偏向した価値観の副産物であったりはしないのだろうか。勿論、マーラーの交響曲には、オーケストラの名人芸のための作品であるという側面は確かにあって、演奏技術の問題そのものについても、実際に彼の作品が、彼が指揮をしていた一流の奏者を想定していることは否定できないだろう。まただからこそ、再生装置の性能やら微細なチューニングが問題にされるような文脈において、例えばリヒャルト・シュトラウスやストラヴィンスキーのようにオーディオの性能を測定するためのサンプルみたいな扱いもされもしたのであろう。だがそれだけでなく、まさにその演奏技術の向上という点で録音が果たした役割もまた、恐らくは見かけ以上に大きなものがあるのではないかと思われる。幾らプロとはいっても、普段弾きなれないばかりか、演奏の伝統のない作品を演奏するのには困難が伴うだろうし、記録に残る過去の演奏記録の中にも、そうしたことを思わせるようなサンプルには事欠かない。今やアマチュア主体のオーケストラでさえ、マーラーをプログラムに載せること自体は決して珍しいことではないのは、例えばi-amabileのようなWebサイトに掲載される演奏会の予定をトレースすれば確認できることであろうが、そうした現象もまた、膨大なマーラー演奏の録音の蓄積があり、聴経験の堆積があればこそであるには違いあるまい。

あまりに拙く、演奏が続くかどうかはらはらしながら聴き、頻繁に起きる事故に驚くことの連続といったレベルでは作品の実現という点で大きなハンデを背負うことになるのは避けがたいのは確かであり、だから演奏の巧拙が評価の空間を構成する一次元を占めること自体を拒絶しようと考えているわけではない。いわゆるスター指揮者も含めた演奏者の価値観を否定しようというわけではないし、その実現が時として技術的に申し分ないだけではなく、ここで私が考えている「価値」の十全な体現となるケースがあることを否定するわけでもない。そしてその場合に技術的に高度な達成であることが、「価値」の発現に対して寄与する場合があることも否定しない。けれども、その上で、最も間違いの少ない演奏が、最も優れた演奏であるというのは成立しないし、もっと言えば聴き手が自分の中に構築した嗜好の回路は、(そうしたものが成り立つとして、「客観的な」)「価値」とは原則としては関係がないと考えるべきであるように思えてならないのである。評論家や学者が、客観性を隠れ蓑に自分の嗜好の押し売りをやることのもたらす害悪は極めて大きく、この1世紀のうちに、それが暗黙の価値の前提となってしまっていると捉えるべきではないのか?そしてそうした中で演奏技術の次元の客観性、それが価値判断を構成することの妥当性が恰も或る種自明であることとなってしまい、挙句の果てに、そうした価値の体系自体が、リコメンドシステムのような「感性分析」を可能にするようなものへと変質してしまっているのではないかと思えてならないのである。

しかしながら、一見したところ名人芸を要求するかに見えるマーラーの音楽は、これは従来しばしば指摘されてきたことではあるが、特にコンサートホールで聴くと思ったより「鳴らない」。というより、音響的に「良く鳴る」演奏が良い演奏であるということは絶対に言えないのである。彼の作品は、オーケストラの性能を極限まで引き出すものではあっても、その「効果」を最大限に発揮するようには書かれていない。マーラーの場合はシューマンと違って、それは拙さに起因するとは見做されず、寧ろ、現場を知りすぎたカペルマイスターの或る種行き過ぎた技巧の類と見做されたこともあったようだが、リゲティやラッヘンマンが指摘するように、それらは決して末梢ではなく、寧ろマーラーが「演奏」というものをどのような「人間の行為」と捉えていたかを端的に証言しているものであろう。

勿論、商品としての「価値」ということであれば、それは支払う金額に還元されることを拒みえず、コンサートにせよ、録音メディアにせよ、下手なら金を返せになるのは仕方がないことなのだろう。だが、それでもなお、マーラーの音楽を演奏を演奏精度や録音の良し悪しで評価するのは、どこかずれているように思えてならない。「世界を構築する」その音楽は、実演のそのたびごとに世界の創造であり、それは聴き手の娯楽を目的に書かれているのわけではないことを思えば、名人芸のイデオロギーを引き摺った、演奏の巧拙に最も大きな重みづけをおく評価が、基準として妥当でないのは寧ろ当然のことではなかろうか。

そしてそれは、柴田さんの言及する幾つかの例外的な過去の演奏記録に対する評価と無縁ではありえない。私見でも、例えば、アンシュルス直前、ワルター自身の亡命直前のウィーンフィルの第9交響曲と、そのワルターがいわば里帰りをした、1948年のウィーンフィルの第2交響曲の演奏の記録は精度の上で万全には程遠く、録音だって制約が大きいが、そうした制約を超えて聴き取れる音の実質というか、重みにおいてそれらを凌駕する演奏はちょっと思いつかない。それらについては技術的な演奏精度や録音の質とは別のところに価値があるという点は、柴田さんの主張からも読み取れるだろうが、一見そのように受け取られるとしても、それらの例外性は、いわゆる時代様式という観点に回収しきれるものではないと私は理解している。それがマーラーと同時代の様式「だから」価値があるわけではない。

他方で柴田さんは、例えばローゼンストックを引き合いに出してホーレンシュタインの演奏を、その時代の演奏様式に還元して論ずるけれど、そうすることで聴きとることができなくなってしまったものが実はあるのではないか、というのが、後年、ホーレンシュタインの様々な演奏(その中には柴田さんが論じた録音もあれば、論じなかったものもあるのだが)を聴いた私の偽らざる印象なのである。戦前のレーケンパーとの子供の死の歌との違いは、時代の違いに還元され、一方では時代の違い、年齢の、つまりは経験の、加齢の違いを超えたホーレンシュタインの個性の方は見落とされてしまう。私見によれば、ホーレンシュタインは彼がオーケストラから引き出すことのできた響きの姿の持つ、ごつごつとして実質的でずっしりとした手応えや、強靭で、シェーンベルクの指摘した、長くなればなるほど白熱するマーラーのフレージングの特質を十全に実現している点において、間違いなく最高のマーラー指揮者の一人であって、その価値は時代の変遷などものともしないし、後年のより技巧的に安定した、高度な録音技術に支えられた他の演奏に勝るとも劣ることは決してないのだが、柴田さんの評を読んでしまった故に、それに気付くのに、大変な遠回りをすることになってしまったのである。

だが、既述のワルターの2つの演奏記録に関して言えば、話はそれにとどまらない。それがワルターがウィーンにいられなくなり、結果的にアメリカに亡命することになる直前、と当時に、ナチスに支配され、マーラーは演奏することを禁じられる直前という時代と場所に固有の状況が、単なる演奏の一回性という一般的な認識を超えた色合いを付加するように見えるし、それと対を為す1948年の録音は、この時期のウィーンでこの作品が選ばれたことの意味、ワルター個人の里帰り、禁じられたマーラーの演奏の再開、更には戦禍による破壊を蒙ったウィーンでの音楽の復興といった多重の意味合いが、やはり同様な特殊な意味合いを与える。しかもそれは、そういうことを知識として知ってから演奏を聴く聴き手にとっての或る種のバイアスとなるという意味合いにおいてだけではない。私自身については、前者については、まさにこの柴田さんの文章によって、そのことを先に知ってから演奏を聴いたのだが、後者は逆だった。1948年のワルターの復活というのが柴田さんの文章にあったことは覚えていたものの、それ以外の事情は知らずに、かつ(鈍感なことに、と憤慨されることを覚悟で言えば)あまり深く考えることなく、結果として気付かずに聴いて、その異様な雰囲気に驚いたのであった。私はこの作品の実演については不幸な経験しか持っていないので、そちらからの刷り込みもなく、とりわけても合唱が入ってからの異様なテンションに、一体何が起きたのかと思って調べて、ようやく背景を知ると共に深く納得したのである。

かくして通常は「音楽外」のファクターということで、ランキングの際に優先的に考慮されることはなくとも、時として個別の音楽「外lの文脈の例外性が演奏に刻印されてしまうという偶然が、評価の「客観性」なり「普遍性」なりを主張する基準を凌駕してしまう。そしてそれは(三輪眞弘さんが、逆シミュレーション音楽の定義という形で示したように)「音楽」というものの寧ろ不可欠な要素として捉えるべきなのではなかろうか。

勿論、奏者の共感といった要素もまたそうした要因の一つであって、柴田さんはヴェーベルンの指揮する勤労者のオーケストラと東京大学の学生のオーケストラを対比させて、前者にはそれがあり、後者は「マーラーという個性が体験した心のドラマとはまず、非常に別物」という言い方をされていて、恐らくそれは時代の、文化的、社会的環境の、時間的・空間的な隔たりをその理由とされているのだろうが、仮にその演奏自体が、柴田さんのような専門家の耳にそのように聞こえたことが事実であったとしても、そのことをもって、時代の、文化的、社会的環境の、時間的・空間的な隔たりが、マーラーの音楽への共感を不可能にするアプリオリな条件であるという結論には決してならないと私は思うのである。(とはいえ、私の知る限り、バブル期の日本におけるマーラー演奏は、少なくとも受容サイドについて言えば、時代の、文化的、社会的環境の、時間的・空間的な隔たりを強く感じ、かつ深い拒絶反応を惹き起こしてしまい、その後一旦マーラーを聴かなくなるという状態にまで追い込まれたのだが。)

もしそうであるならば、(実際には柴田さんの口調にはそうした傾向が感じられなくもないのだが、)音楽を生み出した文脈に全て還元して事足れりとなり、マーラーのような過去の異郷の作品は、寧ろ博物館に陳列される遺品か骨董の類に過ぎない事になってしまうだろう。(そして勿論、実際には今日のほとんどの人間は寧ろそうした意見の方に与するであろうことは容易に想像できる。『音楽の手帖』の他の書き手の中には結局のところマーラーの音楽をそうしたものとして、例えば過去の文化研究の対象の一つとして扱っている人がいるかも知れない(というか、結局そういう接し方しかしていないと思われる人は少なからずいるように私には思える)のだが、少なくとも柴田さんはそのように考えていたわけではなかったのではないかと思われるのは、既に例として掲げたワルターの2つの演奏の記録に対する柴田さんのコメントから伺うことができるように思うのだが…)

仮に日本のバブル期のマーラー受容が、時代の、文化的、社会的環境の、時間的・空間的な隔たりを浮かび上がらせるものであったにせよ、それは個別の「外れ」のケースに過ぎず、そんなことが取るに足らないことであることは反例一つあれば十分で、実際に私のケースであれば、更に時代を隔てた日本における実演での、そうしたトラウマから逃れることを可能にするだけの強度をもった聴経験によって、既述したような見解に至ったのである。

もちろん、こうしたことについては客観的に論理的にどちらが正しいということはなく、最終的には机の叩き合いにしかならないのだろう。だが繰り返しを懼れずに言えば、FM放送やLPレコードでマーラーの音楽に接し、その後、幾つかの実演に接した後、その当時のマーラーの受容のされ方に耐えられなさを感じて、一旦マーラーを聴くこと自体を止め、その後再びマーラーを聴くようになって以降、結局のところコンサートのレパートリーの一つ(しかも確実に集客が見込める主力商品)としてマーラーを演奏する他ないコンサートではなく、マーラーを演奏するためにコンサートを企画するような取り組みに対象を限定して、再び実演に接することにしてから既に8年の歳月を経た現時点での認識として、現在において自明と考えられている聴取のあり方というものが、結局のところ幾重もの歴史的・文化的な拘束の下にある他無く、勿論、そこから完全に自由になるということは、それはそれで幻想でしかないけれど、だからといって、暗黙の前提としている聴き方を変えることは必ずしも不可能というわけではないという認識を、その事を感じさせられた経験とともに記しておきたく、一文を奏した次第である。

私がアマチュアオケの演奏なら実演を聴いてもいいかと思ったのは、既述の通り、コンサートホールでプロの演奏から得られるものの質に対する懐疑ゆえであった。(誤解のないように言っておくが、だからといって、それらが皆全てやっつけ仕事だったと言いたいわけではなく、或る時には会場の雰囲気によって、或る時には皮肉にも寧ろ、十分に歴史的なパースペクティヴを踏まえたプログラム構成が仇となって、或る時には柴田さんが記事で賞賛した指揮者の一人の解釈によって、或る時には、およそマーラーのような音楽を聴くのに相応しくないと思われるホールの音響によって、或る時には、技術的にいっぱいいっぱいであることと柴田さんの指摘するタイプの共感の欠如の奇妙な混淆によって、そうしたことが起きたのであって、一律に演奏者にその責を負わせることはできないものであったことは強調しておきたい。)それは多分、CDに録音された演奏記録を通じて、マーラー・ルネサンスとその寧ろ手前(それは即ち、柴田さんの文章で些かネガティブに評価された時期にあたる)においては、恐らくはマーラーを演奏することが自明のことではなかったが故に記録に残された演奏のそれぞれにおいて、単なる時代の様式には収まりきらない、それぞれに固有の響きがあることを確認する経験が増えたことと無関係ではないだろう。当時は恐らく、それがライブであろうが、スタジオ録音であろうが、マーラーの演奏に取り組み、それが記録に残るということ自体が、一つの「出来事」であったのではなかろうかと想像されるのである。それらの記録が、いわば忘れられた状態にあったこと、単純化して言えば、マーラーの弟子達とマーラー・ルネサンスの間にはまるで何もなかったかの如くの了解がいつの間にか出来てしまい、単なるマーラー受容史の記録としての価値以上のものがないとでもいうような扱いを受けていたことは、マーラールネサンスこの方、ようやく1970年台も後半に至って、マーラーの「本当の」受容が始まったかの如く、「いよいよマーラーの時代が来た」とさえ喧伝されたバブルの頃の空騒ぎとどこかで共犯関係にあったのではなかろうか。勿論、マーラーの音楽が普通のレパートリーになるにつれ、演奏のレベルは確実に底上げされはしたのだろう。けれども、そうしたコンサートを聴いたところで、あるいは陸続と現われ、その度に賑々しく喧伝される新しい録音を渉猟したところで、バブルの時期に完成されたシステムに従った、単なる商品やサービスの消費以上のものを見出すことができるようには思えなかったのである。

では一体何ができるかと考え、それなりのサーベイをしての結論は、まずもって自分がマーラーを演奏するという企図と行為とにコミットすることであった。要するにマーラーを演奏することを目的としたプロジェクトを支援するということで、今であればクラウド・ファンディングという用語も出来、そうした発想は当り前のものになったようであり、その先駆けのようなものと考え頂いていいと思うが、そうした発想の下でマーラーの実演に再び接することにしたのである。それから8年が経過し、その間、7番、9番、10番(クック版)、4番、大地の歌、8番、5番の7回のコンサートに関わり、病気で行けなかった最後の回以外の演奏には立ち会うことが出来たのだが、その結果は、ほぼフィアスコのような経験の繰り返しだったかつての実演とは異なって、確かな手応えのあるものであったと思う。(付記すれば、四半世紀以上も前に実演に接する機会を逸した後、再度の機会もまた逸してしまった第5についても、この文章を公開するとほぼ同時に、あるアマチュアオーケストラのアニヴァーサリーコンサートにて、ようやく実演に接することが叶ったのであった。)個別の演奏会の記録は別に記したので繰り返さないが、それが私にとっては貴重な経験であり、最初は試みに始めたそれが、そのような結果となっただけではなく、マーラー以外の音楽の聴き方にも、否、音楽を聴くこと以外の局面にさえも影響を与えることになったことは記しておきたい。

その上で、そうした経験を経た後の、マーラーを聴くことについての認識を述べれば、それは概ね以下のようになるだろう。

アマチュア主体のオーケストラの演奏はどうしても技術的には大きな制約を受ける。録音記録にしても、いわゆるお化粧は原則ないから、マイクに入ったそのままに近いものを聴くことになる。そうした演奏の記録には、例えばyoutube等に公開されているものもあるのだが、それには非常に低い評価のコメントがつくことがある。

ある人が、その記録だけを対象に、youtubeでの再生という制約の下で、それまでの聴経験によって築き上げた独自の価値尺度によって為す評価に対して異を唱えることはできないし、記録だけ聴けば耳に付く技術的な欠点があって、それが気になって普通の聴取が出来ないということもあるかも知れない。とはいうものの、それが自分が実際に立ち会った演奏に対してのものであれば、些か事情は異なってくる。具体的にここでは井上喜惟指揮、ジャパン・グスタフマーラー・オーケストラの演奏を念頭においているが、私は、実演に接した限りにおいて全く異なる印象を消し難く記憶していて、それゆえに、そうした評価に反論するつもりこそなくとも、何故、このようなギャップが生じるのかに思いを巡らせ、そうでない聴き方というのが可能でないかという問いかけをしてみたくなるのは避け難いのである。

そう思って改めて演奏記録に接してみると、まず感じられたのは、自分が会場で聴いたと思っていた記憶とは少なからず印象の違いがあることであった。だがこれは音楽的時間の質のレベルではなく、随分と色褪せたものになっているとはいえ、その点では会場で聴いたのと基本的には変わっていないように感じられた。違いは微細な音響バランスの問題がほとんどで、これは恐らくはマイクの位置と私が聴いた席の場所の違いもあり、どちらが正しいということでもないのだろう。ただし、繰り返しを厭わずに言えば、感じ取れる音楽的時間の「充実」の度合いについては比較にならない程の隔たりがあるのは否みがたく、例えばチェリビダッケのあの録音に対する姿勢がごく自然に首肯できるように思われたのである。

だが、にも関わらず、録音記録そのものというよりは、それをトリガーとして呼び起こされる印象の記憶をベースとした再構成をしてみれば、聴いて受け止めることができる聴経験の密度の濃密さには圧倒されるものがあった。わけでも第9交響曲の演奏は、これはあまたあるプロのオーケストラの演奏に伍して、寧ろ優ったものであるとさえ思われた。勿論、演奏精度を言い出せば、当然ながら難癖は幾らでも付けられるのだろうけれど、そんなことをして、その演奏だけに聴き取りうる無二の固有の質を受け止めることよりも演奏の正確さのチェックが優越してしまうような聴き方に意味があるとも思えない。世上、アマチュア主体のオーケストラの演奏には、技術的な限界というレッテルが残念ながらついて回るようだが、ことこの演奏に関しては、そうしたことが全く気にならず、そうした評価に対抗する力を際立って備えた記録であるように感じられた。

実を言えば、それには音楽外の要因、即ち東日本大震災の体験が関係していることは間違いなく、それが演奏に(そしてその演奏の聴取に)落とした影を否定するのは適切ではないだろう。寧ろ逆に、素直にそれを認めるべきで、かつ、そうした音楽外の要因を捨象して、「客観性」を装った態度で演奏の出来を云々してみても始まらないのではないかと思えてならない。

繰り返しになるが、例えばアンシュルス直前に一発録りされたワルターとウィーン・フィルの戦前の記録があって、これは録音の制約もあり、また演奏技術的にも満足のいくものではなく、ワルター自身はあまり評価していなかったという話も聞くけれど、にも関わらず、何度と無く言われてきた通り、この記録に残された音楽的時間の特異性は、空前絶後のものだろう。あるいは1948年のウィーンでの第2交響曲の演奏記録でもいい。ここで言いたいのは、戦前の演奏様式が、といった話ではなく、また、ワルターの戦前の録音一般に対する評価の一翼を担うものとしてではなく、それらの演奏会の都度限りの、一度きりのアウラ、比類ない、比較を拒むものの存在についてであり、そしてそれが時空を隔てた全く別の場所で別の演奏においてやはり生じたのを自分は確かに経験した、ということに他ならない。

このジャパン・グスタフマーラー・オーケストラの第9の演奏には、何者かが憑依したかのような凄味がある、というのが端的な表現になるのだろうか。勿論それは当日にも感じ、記録でも触れたのだが、でも改めて今回聴いて見て、単に「入った状態」というのでは足りずに、「何者かが憑依したかのような」凄みがある、否、更に「かのような」を取り除くべきなのかとさえ思ったのである。

勿論、こうした私の主観的な経験の記憶は、そうした文脈なしに、実演の退化したコピーをそれまでに聴いた他の演奏記録と比較しながら聞いたかのコメント記入者の判断と両立しうる。そのどちらかが間違っていて、どちらかが正しいというわけではない。何故なら、両者は多分厳密な意味で「同じ」演奏を聴いているのではないからだ。

だがそれにしても、色々な演奏をとっかえひっかえ聴けるような環境で、まるでスポーツの採点のように演奏の精度だけが独り歩きする「評価」なるものが正当なものであるのか、そうした聴取が、音楽外の文脈を纏い、主観的なバイアスがかかった聴取と比べて優越しているといえるのか、やはり疑問を感じずにはいられないのである。私はこの演奏を聴いた後、オーケストラの事務局に感想を伝えたのだが、それに対する返答は、その「演奏はすべてがあるべき事があるように行われたと感じてい」る、「なぜそうなったのかはわか」らないし、「わかる必要もないのかもしれ」ないという音楽監督の言葉であったのを、非常に印象深く記憶している。

それはまさに「何者かに憑依されたかのような」という言葉で私が表現しようとしたことと、実質について変わるところなく、シェーンベルクが第9交響曲について記した言葉、そのラディカルな非人称性を「誰かが作曲者をメガホン替わりに使っている」と言い当てたことが否でも思い起こされる。シェーンベルクが見抜いたように(あるいはマーラーとのやりとりがあって、それ踏まえての発言だった可能性もあるだろうが)、マーラー自身もまた、そのように感じ、それを1世紀後に異郷の地で演奏した人間もそのように感じ、私は受け止めるだけであるとはいえ、やはり私もそのように受け止めたというそのことに、一般的な演奏の評価基準で測ることができない、恐らくはそもそもそうしたものとは次元を異にする価値が存するのではないかと思うのである。

恐らくこの演奏会には、一般的に今日の日本でコンサートが果す機能として了解されているものよりも、寧ろ、或る種の「奉納」の儀礼に近いものがあったと考えるべきなのではなかろうか。勿論、奉納の儀礼にだって出来不出来を云々することは可能だろうが、定義上は、そもそも奉納には出来不出来や巧拙はない筈だ。(その替わりに、或る種の正確さ、決められた手順を守ることは求められる。)もしそれが「奉納」であるならば、そして「音楽」は、それが世俗化され、コンサートホールで演奏されたとしても、時として「奉納」として機能しうるのであるとするならば、その演奏に対して、聴き手が偉そうに、自分の価値判断を振りかざして序列づけするなど、「音楽」の本質から甚だしく懸隔のある暴力、「非音楽的」な暴力ではなかろうか。

既にそうした試みは現実に行われているようだが、いずれ機械がいくらでも正確な演奏を行えるようになった暁には、その反動のようなものとして、もう一度、「音楽」が人間のものとなり、「あるべきよう」に受容されるようになるのだろうか?それとも単に人間が機械に順応し、「人間」のものとしての「音楽」が本当の意味合いで死滅するのだろうか?(残念ながら、どちらかというと、後者の兆候の方がより多く私には感じられるが。)

いずれにしても既に現在、というかこの一世紀この方、「音楽」の価値の序列は簒奪され、歪なものになっているのに、それが当たり前になっていて、それについて疑いが持たれることすらほとんどなくなっていることは、「音楽」という領域に閉じた問題であるというよりは、寧ろより広く「人間」の側の問題なのではなかろうか。もしそうであるとするならば、マーラーの聴取の仕方を変えることは、単に音楽の聴き方に留まらない、非常にラディカルな態度変更に繋がるものとなるのだろう。

だが実は、この問題自体、既にマーラーの時代にも存在したものであり、マーラーの音楽はそれに対する応答の試みであって、それゆえそうした態度変更は、マーラーの音楽そのものに誘われたものかも知れないのである。そういう意味合いではマーラーの音楽は、こうした問題を考えるにあたって極めてユニークな位置を占めていることになるだろう。であってみれば、ことマーラーの聴取様式を問題にするにあたっては、まずはこの点を再認すべきなのではなかろうかということを述べてこの稿を終えたい。(2018.7.7/8 暫定稿 7.10, 14, 21加筆修正, 2021.1.29修正)

2018年7月1日日曜日

「大地の歌」への参照2件(ジャンケレヴィッチ『死』、ドゥルーズ=ガタリ『千のプラトー』)

些か意外に思われるマーラーへの参照を2つ。

(1)常にはマーラーが、否定されるためだけに参照される、ヴラディミル・ジャンケレヴィッチの著作において、管見では唯一ネガティブでない参照が『死』(邦訳:みすず書房、仲澤紀雄訳、1978)の第2部「死の瞬間における死」の第3章「逆行できないもの」の9.「訣別。そして短い出会いについて」に確認できる。邦訳では352ページ。

「…ただ死という冒険のみが、絶対的に開かれた冒険だ。そして、ついで、別離の際にわれわれのうちでことばとなる告別は、ほとんど支えがたい思いに対応する。そして、われわれはこの支えがたい思いを、深く考えず、とくに実感でとらえられないという条件でかろうじて耐えている。いまとなれば、告別がつねに哀歌(エレジー)、抒情詩(リリック)の主題であった理由も理解できる(中でも次の作品、リスト『メロディー、42番、44番』。ビゼー『アラビア婦人の訣別』―V・ユゴー。チャイコフスキー『訣別、作品60』―ネクラソフ。ラフマニノフ『2つの訣別、作品26・4』―コルゾフ。V・シェバリーン『悲しい旋律、作品40』―A.コヴァレンコフ。グスタフ・マーラー『大地の歌、VI』。ガブリエル・フォーレ『訣別(ある日の詩、作品21・3)』参照)。告別は死の暗示なのだ。別離という数多くのちいさな死が、死という大きな別離の楕円を形作っているからだ。告別は人間関係を情熱的なものとし、これにロマネスクと悲劇性というはげしい緊張を与える。というのは、別離に由来する不在が悲劇と呼ばれうるなら、不在に先行した別離は悲劇性そのもの、その悲劇の悲劇性なのだから。…」

いつものジャンケレヴィッチの調子で、どこから引用を始めたものか、どこで終りにしたものか、決め難いが、ジャンケレヴィッチでは程度の差はあれ馴染みの固有名に交じって、ここで参照されるのは、文脈からいって他ではありえない『大地の歌』である。唐詩を素材としたNachdichtungであることを意識してかどうか、詩人の名前は参照されない。あろうことか、参照されている音楽作品の中で、私が唯一知っているのが『大地の歌』であることも付記しておくことにする。

それにしても何故、ここで一度きりの参照なのかについての詮索は今は控えて、事実のみを記しておくことにするが、一言だけ言えば、それはこの作品が、そうした例外的な出来事、つまり「死」を扱っているからなのは間違いない。「ただ…のみが、絶対的に開かれた…」という言い方が、ジャンケレヴィッチのレトリックの中で例外的なトーンを帯びているように。(「夜の音楽」におけるシューマンの役割を思い浮かべること。そう、シューマン。そしてロマン主義。マーラーが、カフカと同様、ドゥルーズ=ガタリ風には「マイナー文学」ならぬ「マイナー音楽」として規定されうること、、、ジャンケレヴィッチの些か極端なドイツ嫌いにあって、マーラーは格好の標的なのだが、実は彼は「三重の意味で故郷がない」のであって、そうした人間の「大地」がここでは問題になっている、、、)

(2)専らシューマンへの参照ばかりが言及されるドゥルーズ=ガタリの『千のプラトー』(邦訳:河出書房新社、宇野邦一他訳)の第11章.1939年―リトルネロについての中で、ロマン主義と大地についての文章のさなかで、突如として『大地の歌』が参照される。文庫版の邦訳では中巻の377ページの末尾から。

「…たとえば『大地の歌』の末尾では、二つのモチーフが共存しているではないか。メロディーによる第一のモチーフが鳥のアレンジメントを喚起し、リズムによる第二のモチーフが永遠に続く大地の深い息づかいをなぞっているではないか。」

そして続けて突然、話は第3交響曲に切り替わる(けれども、―ここではこれもまた、論証抜きで記しておくだけにせざるを得ないのだが―、勿論それは結局のところ、6楽章形式を持つ2つのマーラーの作品に存在する連絡通路、まさに地下茎の如き連関の存在を証しているのだ。そして第3交響曲に因んで述べられた「世界を構築する」ことが、『大地の歌』においてはどうなのかを語ろうとしたとき、そうすることで第3交響曲で言われた「世界」がどのようなものであるのかが明らかになるだろう)。

「マーラーは言う。鳥の歌、花の色、森の香りだけでは自然は作れない。ディオニュソスが、偉大なるパンの神が必要なのだ、と。」

それからベルクが参照され、ワグナーが参照され、と、一見したところマーラーへの言及は一瞬のものであったかに見えて、実はそうではない。しばらくすると再び(中巻の380ページ)、

「…ドイツ・ロマン主義は、生まれ故郷の領土を無人の地として生きるのではなく、人口密度がどうであれ、それを「孤独な」地として生きるという特質をもつ。そこでは人口が大地からの流出物にすぎず、しかもそれが<唯一なるもの>に相当するからである。領土は民衆に向けて開かれるのではなく、<友人>や<恋人>に向けて半開きになる。ところが<恋人>はすでにこの世の人ではないし、<友人>はあやふやで不気味な人間なのだ。」

ここで注が付けられる。そこで本文はここまでとして、注を見てみよう。同じく中巻の436ページ。実は上記の本文は『大地の歌』を念頭に書かれていたのである。

「(41)『大地の歌』末尾で、「友人」が演じる両義的な役割をみよ。あるいはシューマンの歌曲『たそがれ』(in Op.39)で使われたアイヒェンドルフの詩を参照。―「この世に友がいたとしても、いまは信じないように、その目とその口がいくら優しかろうと、いつわりの平安に身を包み、戦を夢見ているのだから。」(ドイツ・ロマン主義における唯一者、あるいは「孤独者」の問題については、Hölderlin, 《Le cours et la destination de l'homme en general》, in Poésie No.4を参照。)」

シューマン、そしてヘルダリン。ドイツ・ロマン主義について言えば、もう一度、マーラーが「マイナー音楽」であり、「三重の意味で故郷がない」ことを思い起こし、そこから逆にシューマンへ、ヘルダリンへと折り返さなくてはならないのだろう。

だがここでは一旦、参照への目配せに止めざるを得ない。(2018.7.1)