もともとこの文章は「所蔵CDについての概観」というタイトルで、2008年に記載したものでした。そこで私はLPレコードやFM放送を経て、その時点での自分のマーラー受容の中心がCDを介してのものであると記し、その当時は明確であった替わりに非常に偏っているが故に断りをする必要性を感じていた自分のCDの所蔵方針についての記載をしたのでした。
その後、所蔵の方針の方はその記載内容から大きく逸脱したにも関わらず、文章はそのままで放置されていましたが、今回、整理にあたってリファレンスとしてきたディスコグラフィーをVincent Mouretさんが個人で維持管理していたものから、Mahler Foundationのもの―とは言えそれは、Vincent Mouretさんのものに基づいており、それを継承するというだけではなく、Vincent Mouretさんが引き続き維持管理を担っているので、実質的にも後継版と呼べるものですが―に準拠するかたちへと移行することにして、その作業を一通り終えたタイミングで、実体との乖離を埋める必要を感じて改稿することにしました。
なお、Mahler Foundation の管理しているディスコグラフィーは、以下にあります。https://mahlerfoundation.org/mahler/discography/
所蔵している録音記録には、Mahler Foundationのディスコグラフィーには含まれないものが若干ながら存在します。そのため、所蔵録音関連のページに未追加の分を追加する作業を進めながら、全体を見直す作業を実施するにあたり、Mahler Foundationのディスコグラフィーに存在しないものや、存在するが記載内容に疑義があるものについては、適宜Péter Fülöp, Kalplan Foundation, "Mahler Discography" (Microcosmos, 2010)を参照して照合を行い、更に手元のある別の資料やWebで検索できる資料等で裏付けをとるようにしています。
少し調べるとわかることですが、録音記録に関するデータは不明確な場合が多く、しばしばMahler FoundationのディスコグラフィーとKalplan Foundationのそれには食い違いが見られます。特に歴史的録音と一般に言われる時期に収録された記録の収録年月日についての異同はごく普通に見られます。ただし第一次資料に基づいているわけではなく、どちらが正しいかについての判断の正確さには限界があり、その点はご了承頂くしかありません。
Webが普及して以来、観点も様々な厖大な種類のディスコグラフィーに比較的容易に接することができるようになりましたが、Webのディスコグラフィーの決定的なメリットの一つは、書籍等の紙媒体のディスコグラフィーにとっては大きな制約であった、増補・改訂の困難さから自由であることと思われます。実際、Kalplan Foundationの"Mahler Discography" は、作品別に録音年代順に並べられ、複数回のリリースがあるものについてはレーベルや番号を網羅的が記載されたリストのみならず、演奏者やレーベルのインデクス、演奏時間の一覧などを含み、非常に利便性の高いものですが、当然のことながらディスコグラフィー出版後の情報については利用することができず、専らMahler Foundationのディスコグラフィーに依拠するということになります。
しかしながらWebの普及がもたらした変化としてより本質的なのは、SPレコードからLPレコード、カセットテープやオープンリールのテープから始まって、その後CD、レーザーディスク、DVD、ブルーレイディスクと、様々なフォーマットの記録媒体が出現してきたのに対して、ネットーワーク経由での視聴や、mp3, flacといったフォーマットでのダウンロードが容易にできるようになった点だと思われます。その結果として、それまでは記録された媒体を入手するのでなければ、特定の日時に放送されるFM放送やテレビ等の番組を通してしかアクセスできないという制約がなくなり、録音記録を所蔵するということ自体の意味合いが変わってしまったように思われます。それだけでなく、演奏記録を録音・録画して公開することが以前に比べれば容易になったことから、かつてならレコード会社が企画をして、セッションを組み、時間をかけて収録を行ったごくわずかな演奏のみしか流通しなかったものが、比較にならない程多様な演奏に接することができるようになっています。録音の編集技術の高度化により、時間と費用がかかるセッション録音が行われなくなり、ライブ録音が中心になったことで、今度はライブ録音の中に、同一プログラムの複数回の演奏を、いわば継ぎはぎしたものと、一度きりの演奏をそのまま収録したものの区別が生じるといったようなことも起きています。以前ならプレス枚数の制約もあり、限定された範囲でのみ流通した演奏記録も、今ならWeb上で公開されれば、多くの人が接することができるようになっています。
更に指摘できるのは、著作権の存続期間との関係で(著作権を始めとする知的財産権は基本的に属地主義を採るので、国や地域によって異なるため、注意が必要ですが)、今やステレオ初期の録音までもがパブリック・ドメインになってきており、レコードが普及し、録音点数が飛躍的に増大し、録音品質が向上した時期の優れた演奏に、ネットワーク越しに容易に接することができるようになった点です。
また一方で、以前は接することができなかった稀少価値のある歴史的録音が、著作権の制約から自由であることから、web上のアーカイブ等を通じて、却って簡単に接することができるようになった点も大きな変化であるように思われます。付け加えて言えば、そうした状況の変化により、CDのような従来の記録媒体においても、過去の録音を集成した、いわゆるBoxセットが企画され、嘗ては想像もできなかったような低価格で、膨大な録音記録を入手できるようになっています。勿論、新しい演奏が録音されてリリースされ、ということも続いてはいますが、その流通の媒体としてCDは最早標準とは言えず、映像も含めたストリーミングが中心になっている一方で、CDの方は著作権切れのものを中心とした過去の膨大な録音記録に接するための媒体となっているようにさえ感じられます。
上記のような変化を受けて、私のマーラー作品の録音記録の収蔵方針も変化しており、目下のところ、新しい演奏についてはWeb経由でのストリーミングでの視聴が専らとなっている一方で、パブリックドメインとなった過去の演奏記録を辿ることを目的として録音記録を整理することを主要な目的とするようになっています。そのような目的であれば必ずしも所蔵する必要はないように思われるかも知れませんが、一方ではWeb上の様々なサイトに分散し、他方では従来ながらのCD等の媒体での記録もあること、更に、Web上のリソースというのは流動性が高く、数年程度のスパンでも、嘗て公開されていたサイトが消滅したり、そうでないまでもURLが変更されたり、公開対象が変化したりといったことが起きることから、相対的に安定した情報を保持し、整理することを考えると、その管理対象を所蔵録音に限定することに一定の有効性があると考えています。(2021.5.9)
(以下、改訂以前の稿)
マーラーの受容に関して、LPレコードの普及が果たした役割の大きさは、クルト・ブラウコップフや、マイケル・ケネディの指摘しているところだが、 私もまた、受容の初期にはLPレコードを介してマーラーに接してきた。実際にはそれとともにFM放送の恩恵も大きいと思うが、これらについては 別に記述することにして、ここでは、現時点での私のマーラー受容の中心であるCDについて作品別にまとめておきたい。
といっても所蔵しているCDは限定されたもので、従って網羅的なディスコグラフィーは望むべくもなく、さりとて いわゆる「聴き比べ」にしても、網羅性に欠けたサンプルの範囲内での比較に何か意義があるとも思えない。結局のところ、第一義的には 自分の整理のためのもので、それを公開するのは、或る種の状況証拠、つまりマーラーに関して私が何かを語る時に、その裏づけとなっている 環境を確定するためである。
私の現時点での所蔵方針は、以下の通りである。
- マーラーの作品を網羅すること:ただし未完成の習作(ピアノ四重奏曲断章のみは楽譜も出版されており、例外的に架蔵しているが)や、 他の作曲家の作品の編曲などは除外。
- 第10交響曲は5楽章形態のクック版を含める。
- 「嘆きの歌」は「森のメルヒェン」を第1部とする3部構成の初期稿を含める。
- 第1交響曲は5楽章形態の交響詩「巨人」を含める。
- 歌曲の演奏については、ピアノ伴奏・管弦楽伴奏の両方を対象とすること。これは「さすらう若者の歌」「子供の魔法の角笛」「子供の死の歌」 「リュッケルト歌曲集」が該当する。
- 歌曲の演奏については、男声・女声の両方を対象とすること。これは作曲者自身による指定のある「大地の歌」の場合と、幾つかの曲が男声・女声の 掛け合いで歌われることのある「子供の魔法の角笛」の場合、それ以外の声部指定のない作品の場合に区別して考えられる。
- バルビローリの演奏の録音を含める。
- マーラーが遺したピアノ・ロール、メンゲルベルクの録音、ワルターの初期の録音、クレンペラーの録音、シューリヒトの録音を中心とした歴史的録音を含める(若干の回想も含めて)。
- ベルティーニ、ケーゲル、コンドラシン、クルト・ザンデルリンク、ジュリーニの演奏の録音を含める。
- 個人的な受容の経緯から、リファレンスとしてインバル・フランクフルト放送交響楽団の録音を含める。
- 個人的な受容の経緯から、若杉・東京都交響楽団の連続演奏会の録音記録を含める。
- 井上喜惟、ジャパン・グスタフ・マーラー・オーケストラの演奏の録音記録を含める。
- いわゆる非正規盤は対象としない。
便宜的に交響曲と歌曲・カンタータでページを分けた。「大地の歌」の管弦楽版は「交響曲」とするのが妥当かも知れないが、 ピアノ伴奏版が存在していることもあり、連作歌曲の発展形態であるという見方にも妥当性がある。そこで、便宜的に 「大地の歌」は歌曲・カンタータの側に分類した。
それでもこのように作品別に整理してみると、さすがに10種類に及ぶものはほとんどないとはいえ、同一作品についての重複がかなりある。 勿論、マーラー・ファンの方々から見れば極めて慎ましいコレクションということになるのだろうが、私個人としては、これでも多すぎて それを「自分の」ディスコグラフィーに属するものと胸を張って言えないようなCDも幾つかあることを認めざるを得ない。 1枚1枚のCDには、演奏者や録音を企画した人、担当した人たちの思いがそれぞれに込められている。勿論、買ったけれど、 一度も聴いていないCDなどあろう筈もないが、それでも1枚1枚がそれぞれに持つ重みをきちんと受け止めることができているかを 自問してみるに、はなはだ心もとない気持ちに捉われる。しかしながら、1度聴いただけであったり持っているだけというのは 方針として所蔵しないことにしている。
だが、複数の演奏の録音を聴くことの効用は、専門的な音楽教育を受けていない私のような人間にとっては明らかだ。要するに、 スコアを見て音を思い浮かべるといっても限界があって、楽譜の読み取りの多様性、音響的な実現の多様性を論より証拠とばかりに 思い知らされるのに、複数の演奏を聴く以上に手っ取り早くて確実な方法はないのだ。楽譜の方も、唯一真正なヴァージョンが 1つ存在しているわけではないのだが、それもまた異なる版の楽譜に基づく録音を聴けば、自ずと理解されるのである。 演奏解釈に客観的に唯一真正のものがありうるというのがナンセンスなのは論を俟たないだろう。
それゆえ幾つかの演奏を聴くというのは大切なことだ。どんなに優れた演奏であったとしても、ある演奏は切断面の一つに過ぎない。 勿論可能であれば自分で楽譜を読み、演奏するのが望ましいのだろうが、それをしないまでも、別の演奏を聴くことで作品の持つ 別の側面に気付くことができる。結局、アドルノのいうところの星座の見え方は、各人固有のものであり、 他の誰も、その人の代わりにそこに立つことはできないのだ。
また、マーラーの自作自演(無論ピアノ編曲で)のピアノロールの再生を録音したものを含め、特に第2次世界大戦前から戦後間もなく くらいまでの録音には音質の限界を超えた価値が認められると考える。とりわけメンゲルベルク、ワルターの当該時期の録音は、彼等がマーラー自身と長期に わたって知己であったことや、フリート(第2交響曲)やホーレンシュタイン(レーケンパー歌唱の「子供の死の歌」)のケースも含め、演奏者の側にもマーラーを 同時代人として知る人間が少なからずいたはずであることを考えれば先ずもって記録としての価値があることは明らかだが、それだけではなくそれらの録音には それを単なる「資料」や「骨董」の類として聴くことを拒む何かが備わっていると私には感じられる。勿論、今日の演奏には、聴き手が同時代人として 違和感無く受け止めることができる、あるいは無条件でわかる何かが備わっているということもあろう。だが、ではなぜ音楽の方は1世紀も前の作品なのか。 少なくとも個人的な事情に限れば、私がマーラーを聴くのは自分が抱えているある種の「アナクロニスム」、同時代に対する適応不全ゆえであると感じているし、 マーラーの音楽がもともとそのために書かれたからといっても、今日の日本のコンサートホールでマーラーを聴くことにさえ、違和感を感じずにはいられない。 少なくとも近年の演奏のうちに、私が聴き取りたいと思っている「音調」が、同時代ゆえによりよく聞き取れるとは全く思えないのだ。
ただしこれは、私がいわゆる歴史的録音に「オーセンティシティ」を 認めているということを意味しない。そうではなく、まずは端的にそれらのうちの幾つかの(勿論、全てではないのは当然である)演奏には圧倒的な説得力が 備わっていると思っているし、それはそれらの持つ 音質の限界を勘案してなおそうなのだ、ということに過ぎない。そういうことでいけば、例えばバルビローリやコンドラシンは マーラー演奏の歴史的な経緯からすれば、いずれもどちらかといえばマージナルな存在である。 その一方で、近年の録音にも例外はあって、そのもっとも著しい例が平松英子さんが全曲を歌い、野平一郎さんがピアノを弾いた「大地の歌」であり、私見では この演奏については同時代の日本で演奏された記録ゆえの「近さ」の感覚とともに(何なら「にも関わらず」といっても良いが)、その演奏の驚異的な 説得力に圧倒されてしまった。全曲を女声で、しかもソプラノで歌うのは、少なくともマーラーの想定外であったに違いないし、ピアノ伴奏稿は企図されたことは 確かでも、それを最終的に彼がどうするつもりであったのかまでを確言することはできまいが、だからといってこの演奏の価値が減じることは些かもないと私は思う。
だが、そうした一部の例外を除けば、私には自分にとって「同時代」のものである筈の1980年代よりこちら側の演奏というのは 却って今ひとつぴんと来ないのだ。それは単に、子供の頃から親しんだが故に、その頃「刷り込まれた」演奏様式以降の演奏についていけないだけなのかも 知れないが、理由はともかく、リストをご覧いただければ、近年の演奏の方が寧ろ、特殊な理由があって演奏の質に関わり無く手元に置いているものばかりで あることにお気づきになるだろう。極論すれば、私は今日マーラーを聴くこと自体がアナクロニスムであってマーラーの時代は遠くに去ってしまったと感じているし、 1世紀の時間の隔たりを経て今日の演奏がようやく獲得したと言われるマーラーの作品との適切な距離感や客観的なアプローチなり、これまでの演奏解釈の 変遷を踏まえた新しい読みなりを積極的に評価する気になどなれないのだ。今日マーラーを演奏する「理由」や「意義」については演奏家の方々ご自身が お考えになれば良いことで私がどうこう言うべきことではそもそもないが、今日マーラーを聴く方については、積極的にそれが最早取り返しの利かない過去の ものであるということを抜きにして無媒介に受け止めることは困難であるように感じる。
またそれは文化史的な興味でマーラーにアプローチすることを意味するのではなく、寧ろ全く逆である。文化史的な興味など、マーラーを「骨董」として 扱う態度と隔たるところはない。そしてマーラーの音楽を「骨董」としてでなく聴くには距離感への意識が必要なのであって、文化史的な興味なるものは寧ろ それ自体、自分のパースペクティブにマーラーを嵌めこんでしまい、他者としてマーラーに接することを避けているのだ。 相手を自分の展望なり文脈に位置づけるのではなく、寧ろ自分が自分の本来の立ち位置から(仮想的にであれ、もっと言えば思い込みに過ぎなくても) 離れて「身を退く」こと、それが客観的には不可能であっても、時代の隔たりを超えて自分がマーラーに歩み寄り、少しだけマーラー「になる」こと、 それがマーラーを聴くことの意味だと思う。ありがたいことにマーラーを聴くことが「ファッション」であるような身の毛もよだつような酷い時期は過ぎ去ったようだ。 実際にはその結果、いよいよマーラーは手の届かない遠くに行ってしまったに違いないのだが、マーラーの音楽の力はそうした距離を超えるだけのものを 持っていると私には感じられる。音楽の持つ暴力、聴き手がそれを受容することで「別の身体」を自分の内側に引き込んでしまう力は、自分の知らない時代に 自分の生きていない風土に生きた人間を私の中に埋め込む。マーラーを聴くこととは、少なくとも私にとってはそういうことなのだ。
今後、せめて個々の演奏についてのコメントをつけようかとも考えているが、それが録音された演奏に相応しく(何しろ、 繰り返して聴くことができることが、その大きな特徴の一つで、実演との大きな違いな筈なのだから)一過的な印象にとどまらない ものたりうるか、あるいは複数の録音を聴く場合に陥りがちな、「聴き比べ」の弊に陥らずに済むかについては、あまり自信がない。 演奏の優劣を論じるのに必要な条件を私が充たしていないのは明らかで、だからいわゆる批評をするつもりもないし、 それぞれの演奏から何が聴き取れるかという側面に絞って書くしかないのだが、それでも、繰り返し聴くたびに加筆・修正を していくことになるのだろうと考えている。(2008.3.15初稿、10.26, 2009.6.12, 10.10加筆)