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GMW(Gustav Mahler Werke, グスタフ・マーラー作品番号:国際グスタフ・マーラー協会による)を公開しました。(2025.4.20)

2008年10月31日金曜日

歌曲の調性と声部指定について―梅丘歌曲会館の藤井さんに―

マーラーの楽曲における調性配置を気にしだすと、マーラーの作品におけるジャンルの問題が奇妙な仕方で 出現することに気付いたことがある。組曲形式における調性配置はマーラーにとっては重要な 視点であり、また時代遅れと揶揄されるほど全音階主義的なマーラーは、古典期までは 普通であった特定の調性と曲の性格の対応のようなものすら意識していたようで、実際例えば イ短調がマーラーにおける「悲劇の調性」ということになっていたり、それほど明確ではなくても ハ短調やニ短調あるいは変ホ長調、ホ長調という調性と音楽との間にある一定の 傾向のようなものを見出すことはそんなに無理なことでもないだろう。典型的な平均律楽器である ピアノではなく、主としてオーケストラを媒体として用いたこともあり、それらは伝統の単なる残滓である わけではなく、実際に現場で経験できる音響上の傾向の裏づけをもったものであったに違いない。

こうした事情は歌曲においても、とりわけそれが管弦楽伴奏の連作歌曲集である場合には基本的には 変わるところはない筈である。 だが歌曲の場合にはピアノ伴奏によるバージョンが存在することを無視してはならない。管弦楽伴奏と 連作歌曲集という2つの条件が両方とも当て嵌まる場合にはそうでもないが、どちらかの条件が外れる 場合、とりわけピアノ伴奏版では移調が許容されているのである。(管弦楽伴奏でも個別の歌手の 声域の制約などから移調しての演奏が行われる場合は稀ではないが。)だから移調の問題は 決して取るに足らない問題ではないはずである。

更に言えばマーラーにおける歌曲というジャンルの無視できない特徴は、声部指定のないことなのでは ないかと私は考えている。特に男声・女声の指定がなく、結果的にほとんどの作品で両方の録音が 存在することが挙げられるだろう。この点に注目すると、「大地の歌」は声部指定があること、 ただしアルトの替わりにバリトンでも可という選択肢が示されていること、そして移調しての歌唱に ついては少なくとも管弦楽伴奏においてはまず考えられないという点で、これはまさに連作歌曲集よりは 交響曲の側により近づいた作品であると言える。一方でこの作品にはピアノ伴奏版が存在すること、 その成立過程のある時期までは寧ろ連作歌曲集のそれに近いことは近年良く知られるようになった。 するとピアノ伴奏版については、これを移調した上で、全楽章を女声で、例えばソプラノで歌うなどと いったことが考えられるか、という思考実験をしてみれば良いことになる。曲毎に移調するのは連作歌曲に おいても既に不可だろうが、ピアノ伴奏版なら恐らく女声のみで通すのは可能で、場合によっては、 平均率で調律されたピアノは移調に対してニュートラルだから、全体を(つまり内部の相対的な 調的関係は保存したまま平行移動を行うような要領で)移調して演奏することも許容されるのかもしれない。後者についてはともかく、前者の、女声のみで通す例として、実際にソプラノが全曲を歌ったピアノ伴奏による「大地の歌」の録音が存在するの(ソプラノの平松英子さんが野平一郎さんのピアノ伴奏で演奏したもの)をご存知の方も多いだろう。

その一方で交響曲の中で使用される声楽は強く制約されている。第2交響曲の第4楽章を男声が歌うことは 行われないだろうし、第3交響曲の第4楽章や第5楽章も同様であろう。第8交響曲第2部に至っては 役割まで与えられていて、その点では「嘆きの歌」などと変わることなく、従って自由度はほとんど全く存在しないのだ。 (もっとも「嘆きの歌」の方は改訂にあたって声部の割当に若干の変更が生じているのはこれはこれで興味深いし、 検討をしてみる価値はあるだろう。)

ところで歌曲集における声部指定の自由度は、その曲を男声で歌うか女声で歌うかについての選択肢を 可能にする。結果として生じるのは、歌詞内容から想定される性別とは異なる性別での演奏の可能性で、 例えば「さすらう若者の歌」であれば、この曲集は連作歌曲集でもあり、しかも歌詞の内容上は明らかに男声が 想定されているわけだから、女声で聴くのは直感的にはどうかと思われるのだが、 実際にはこの曲は女声でも頻繁に取り上げられるし、優れた演奏も多い。私の嗜好でいけば もっとも印象深く、繰り返し聴くのは、ベイカーの歌唱をバルビローリが伴奏したものなのである。 この曲集や「子供の死の歌」を女声が歌うことがどういう効果をもたらすかというのは興味深い 問題である。そして、私見ではそれはマーラーの場合についていえば許容されるべきだと思う。

というのも、そうした性別の交代によって或る種の異化作用、距離感、客観化が生じることは確かだが、そうした 効果は、交響曲楽章において声部を明示的に指定した場合には既に明らかに意図されているようにうかがえるからである。 例えば「大地の歌」の偶数楽章においてマーラー自身がアルトを選択したとき、にも関わらず第2楽章の題名の性別をあえて ベトゥゲの原詩の女性から男性に変えていることを思い起こすべきだろう。 否、そもそも角笛交響曲群のソロはすべて女声だが、「原光」の「私」は勿論、旧訳聖書に描かれたヤコブだし、 「三人の天使が優しい歌を歌う」の「私」には新訳聖書のあのペテロの姿が揺曳しているのは明らかなのだ。 だがだからといって、これらをバリトンで歌うというのは「大地の歌」における代替案の場合とは異なって、 音楽的にはあり得そうにない選択肢ではなかろうか。(だから私は第4交響曲のフィナーレの歌曲をボーイ・ソプラノで 歌わせるという選択は不可能ではないにせよ、どことなくマーラーの音楽には似つかわしくない選択であるように思えてならないのだ。 この曲は子供のような純真さでというマーラーの注意書きに従って、大人が歌うからこそ本来の機能を発揮するのではないのか。 この曲には第3交響曲第5楽章とモチーフを共有する部分も含まれ、そちらはアルトで歌われるということをもう一度思い起こしても 良いだろう。)

要するに一方では明確な声部指定があり、そこでは歌詞の内容から推定されているのとは異なった性別が マーラー自身によって選択されているし、その一方で、声部の指定がない歌曲においても、やはり同様に歌詞の内容から 推定されるのとは異なる性別の選択がしばしば行われもし、不自然さも違和感も生じないという事態が起きているのだ。 「さすらう若者の歌」を例にとれば、晩年のマーラーがアメリカでこの曲を演奏した時には女声が用いられたという事実もあるし、 マーラー自身は選択しなかったようだが、「子供の死の歌」の名演奏の幾つかはフェリアー、ベイカーといった女声による ものである。「大地の歌」については好みが分かれるようだが、初演者ヴァルターの下で歌ったのは、かつてマーラー自身が ウィーンに呼んだアルト歌手、シャルル=カイエであったし、ディスコグラフィーを見れば圧倒的にアルトでの歌唱が多いのは 動かしようがない。

もっとも歌詞内容が事実上ほとんど性別を決めてしまう場合が歌曲にも存在することも注意を払うべきだろう。 「起床合図」や「少年鼓手」といった子供の魔法の角笛による長大なバラード的な作品は、まず間違いなく専ら男声のための ものに違いない。同様に子供の魔法の角笛による歌曲の幾つかに見られる男女の掛け合いは、男声の歌手によって 一人で歌うことも可能だけれども、しばしばここでは性別に忠実に、男声と女声の掛け合いで演奏されることがしばしば 行われるということにも留意しておこう。してみれば演劇的な発想というのが皆無かといえばそういうわけでもないのだ。大規模 作品であれば「嘆きの歌」と第8交響曲第2部がそうした方向性を示している。

だがそうした多様性があるとはいえ、そこに一定の傾向を見出すことは不可能ではあるまい。要するにマーラーは民謡調を模倣したり、あるいは民話やファウスト劇といった伝承に拠って楽曲を編む場合には、素材との距離感やその態度の客観性故に(それはアドルノが「仮晶」という言葉で言い当てようとした側面そのものであり、民謡への擬態、「ありえたかも知れない民謡」という性格を帯びることになるのだが) 、その内容に従った歌唱を割り当てるのに対して、より抽象的で実存的とでもいうべき主観性の領域を動くときには、 あえて性別をずらすことにより、その音楽が専ら主観的な感情や情緒の表現となってしまうことを拒絶しているように 見えるのである。その作品に自伝的な性格を見出したり、控えめに言っても非常に強い主観的な性格を見出す解釈が 飛びつきたがる領域が、表面的な分類では「絶対音楽」であったり、古典的な図式に忠実に見えたりするのと軌を一にする かのように、そこには屈折が、距離感が存在するといった具合なのである。ここには解かれるべき謎とは言わなくとも、 控えめに言っても解釈されるべき徴候というものが確実に存在していると私には思われる。

だがそれは一見したところそのように見えたとしても決してパラドクスなどではなく、寧ろマーラーの音楽が「意識の音楽」であることの 自然な表れであると私には思われる。 作曲した主体の意識の痕跡を読み取れるという場合、実現された音楽がいわゆる典型的な「ロマン主義的」 と見做されるような、作曲者の思想、感情、感受性などなどを聴衆に伝えるためのもの、という定義からは逸脱するのだ。 それは単なる主観の音楽でも、単なる世界の記述でもない。主観と客観は相関しているが、その両者の相関の様相が読み取れること、 更に進んで、主観の客観に対する反応の様相が読み取れること、そして、そうした様相に対する主観のリフレクションが読み取れることこそが、 「意識の音楽」の要件であって、ここで述べた性別の交代はそうした要件の成立に寄与していると感じられるのである。

結局のところ、マーラーの作品の「私」はマーラー自身ではない。作品の「私」は語られる物語の主人公なのだ。だが演劇とは異なって そうした役割を演じることが問題なのではない。寧ろそれは民話や伝承の類がそうであるような「語り物」に近い性格を持っていて、 ここではそうした形態を模倣しつつ、架空の伝承を語ることが問題なのだといってもいいのかも知れない。マーラーが作曲を世界の構築に 喩えたのは誇大妄想でもなんでもなく、実際に起きていることをありのままに語っただけなのだ。つまり、作品の「私」とは楽曲の表現内容、 標題の水準における主人公などではない。固有の性格を持ち、遍歴を重ね変容を繰り返し、だが同一のものである主題やら動機やらが マーラーの作品における「私」なのである。ある旋律が提示される調性はその旋律の性格を形作るし、楽曲が辿る調的なプロセスは 「私」の超空間における遍歴を辿る際の重要な手がかりの一つなのだ。複数の楽章の継起は層が複数存在することを可能にする。 かくしてマーラーの音楽は「意識の音楽」と呼ぶに相応しい相貌を備えることになるのである。(2008.10初稿, 2009.7.27,29改稿)

2008年10月21日火曜日

作品覚書(16)子供の魔法の角笛

マーラーの音楽は主観的であり、自己の感情、世界観、死生観その他もろもろのある時は誇大妄想的な、 ある時は感傷的で自己憐憫に溺れた表明である、というのはしばしばマーラーの音楽が鼻持ちならない ナルシスティックなものとして拒絶されるときの決まり文句に近い。そしてそれは勿論、一面において全く 間違っているというわけでもなかろう。音楽には色々あるから、マーラーの音楽とはおよそ懸け離れた、 ある次元において対極にあるような音楽は幾らでもあるだろうし、それらと比較した時に、マーラーの 音楽が上記のように規定されるのは致し方ない。幾ら強がって否定してみようとしたところで、 それには限界というものがある。どんなに逆立ちしたところで超えることの出来ない閾が存在する。

だがその一方で、マーラーの作品の中でも「子供の魔法の角笛」に作曲された歌曲を聴くとき、 人は些かはぐらかされたような、取り留めのない印象を覚えるのではなかろうか。それは、 「子供の死の歌」や「大地の歌」とは異なって、ほとんど主観的な色合いを欠いている。 様式的には歌詞もろとも「子供の魔法の角笛」の世界に近接する「さすらう若者の歌」ですら、 ぐっと主観的で個人的なドラマであり、そこには「私」がいるのは確かなことに感じられる。

それに比べて、「子供の魔法の角笛」の世界は何と客観的なことか。勿論、歌詞の上で 「私」が語り、歌う音楽はあるけれど、それは作者との同一視を拒む距離感をはっきりと 感じさせる。「少年鼓手」のような作品すら、作者ならぬ「私」への作者の眼差しが 感じられる。明らかにそこには客観性があるし、醒めた視線、意識の存在がある。

主題にしてもそうだ。「子供の魔法の角笛」にはしばしば軍隊が、兵士が登場するが、 マーラーは少年時代に兵営を間近にした生活を送ったに違いないとはいうものの、 総じてマーラーが生きた時代は大きな戦争のない、平和な時代だった。してみれば 戦争を知らない作曲家が書いた戦争を素材とした音楽を戦争を知らない聞き手が 受け取るという奇妙な状況が存在していることになる。例えばクセナキスとショスタコーヴィチは 勿論、ヴェーベルンもラヴェルも戦争とは無縁ではあり得なかったし、その作品には 様々な仕方で戦争の影が映り込んでいるのを感じずにはいられないが、マーラーの 場合にはそうした事情は見受けられない。要するに「子供の魔法の角笛」の歌詞は、 マーラーがある時はっきりと語ったと伝えられる通り、そこに彫刻が掘り出される原石、 素材の方に近く、決して作品の内容、主題といったものではないのだ。

だが、「子供の魔法の角笛」の性格に関しては、100年後の日本人は愚か、同じ文化的 伝統に属する、更に言えばマーラーに遙かに近い世代の人間ですら、ややもすれば見解が 分裂するようだ。それを証言する事例を一つだけあげれば、アドルノのマーラー論の第3章で Gebrochenheitについて論じるところ(p.195)で、In den Gedichten, mit denen Mahlers Musik sich durchtränkte, denen des Wunderhorns, waren Mittelalter und deutsche Renaissance selber schon Derivate (...)と述べたり、あるいはよりはっきりと第4章で歌曲について言及するところ(p.223)で、 リヒャルト・シュペヒトの「子供の魔法の角笛」の管弦楽伴奏版に対するコメントを引き合いに出しつつ、 以下のように述べていることが挙げられよう。

Er (=Richard Specht) schreckt nicht vor der Behauptung zurück: » In frühren Jahrhunderten mag man in Marktflecken, unter Soldaten, Hirten, Landleuten so gesungen haben « , (...) während doch jene Künste nicht nur die Wiedergabe auf Messen und Märkten ausschließen, die es ohnehin nichr mehr gibt, sondern dem Begriff des Volkslieds ins Gesicht schlagen.

これについていえば、そもそも「子供の魔法の角笛」というアンソロジーそのものが、これはしばしばあることだが、 アルニム=ブレンターノによる介入を受け、変形された「まがいもの」めいたところがあるらしいことも併せて 考えるべきだろうが、いずれにしても、マーラーの態度が、一方では自分が属していた世界、ドイツロマン派の 主観的な抒情詩系譜からみれば外部であるボヘミヤの民俗的世界に根ざしつつ、他方でそれに対する 距離感をはっきりと意識することにより、叙事的な語りとそれに対する注釈、世界と主体の関係の様相 そのものたりえていることは確かなことに思われる。してみれば、「子供の魔法の角笛」歌曲集は、マーラーを ドイツロマン派の末裔と見做す不当な単純化に対して異議申し立てを行う位置にあることになろう。

こうした微妙な距離感が、100年後の異邦の地に住む人間にどうしてわかるのか、それはそうした知識から 逆に音楽の聴き方を決める倒錯ではないか、という批判が考えられるが、実際「子供の魔法の角笛」 歌曲集に親しめば、少なくともこの歌曲集の民謡調は、いわゆるロマン派の主観的叙情とは懸け離れている こと(だから、ロマン派歌曲が好きな人の多くにとって、マーラーは寧ろとっつきにくい存在なのだ)、そして 他方では理由は何であれ、民謡に対してもはっきりとした距離感があり、民謡への擬態のような側面があることは はっきりとしてくる。その頂点は恐らく、「子供の魔法の角笛」への付曲の掉尾を飾る「起床合図」や「少年鼓手」と いった、もはや民謡調からは懸け離れた作品だろう。単純に旋律や動機が交響曲と連関しているという 以上に、これらの歌曲はその「語り物」的な性格により、その客観性により交響曲に限りなく接近するのである。 「無言歌」というのが、主観的・叙情的な歌曲とのアナロジーによって成り立っているとしたら、マーラーの 純粋器楽による「交響曲」は、「子供の魔法の角笛」歌曲集のような「語り物」とのアナロジーで成り立っている と言いうるかも知れない。 (2008.10.21 この項続く。)

形式の概略(長木「グスタフ・マーラー全作品解説事典」所収のもの。管弦楽版による。)
歩哨の夜の歌第1節「行進曲風に」112B
第2節「少しよりゆっくりと」1330
第3節「テンポI」3145
第4節「少しよりゆっくりと」4662
第5節「テンポI」6391-g-B
第6節「ゆっくりと、ひきずることなく」92107
骨折り損のくたびれ儲け前奏「ゆったりと、陽気に」16A
第1の対話739
第2の対話「テンポI」4073
第3の対話「テンポI」74112
運の悪いときの慰めっこ前奏「大胆に、常にもっとも含蓄あるリズムで」112A
第1節1323fis
リフレイン2435e-h
第2節3645f-
間奏4653A
第3節「嘆くように(パロディを伴って)」5461C
第4節6269
リフレイン7077
間奏7885-fis
第5節86102D-A
この歌をこしらえたの だあれ前奏「陽気に楽しく」112F
第1節A1346
第2節B「ゆったりと」4768A-Des
第3節A6997F
この世の生前奏「不気味な動きで」16es
第1節741-B-b
第2節4274es-B-b
第3節75136es-B-es-b
魚に説教するパドヴァの聖アントニウス前奏「のんびりと、ユーモアを伴って」18c
第1節928
第2節2948
間奏「ユーモアを伴って」4963
第3,4節6487-C
間奏「パロディを伴って」88108-c-F
第5,6節109132
第7節133148c-G
間奏「ユーモアを伴って」149158c
第8節159176
第9節177197
ラインの伝説前奏「ゆったりと」116A
第1,2節1732-E
間奏3339
第3節4049A
第4節5057
間奏5870-D-F
第5,6節7190a-E
間奏9194-A
第7節95106
第8節107114
後奏115120
塔に囚われ迫害うけるものの歌第1節「激しく、強情に110d
第2節1128G
第3節2938d
第4節3964B
第5節6577C
第6節7898F
第7節99110d
美しい喇叭の鳴り響くところ前奏「夢見るように、静かに」120d
第1節前半2139
第1節後半、第2節4071D
第3節「冒頭のように」~「落ち着いて」721222d-Ges-h
間奏123129
第4節130162D
第5節163186d
後奏187192
お高い良識 褒める歌前奏「大胆に」19D
第1節1025
間奏2635
第2節3656
第3節5787d-D
第4節88103
第5節104129
レヴェルゲ(死んだ鼓手)前奏「行進して、連綿と」17d
第1節817
第2節1829
第3節「表情を伴って」3047B
間奏4856G
第4節「表情を伴って」5772
第5節7289D-d
間奏8994-es
第6節「非常に強く」95108
第7節109127-fis
間奏~「はっきりと抑えて」~「冒頭より少し荘重に」128153-d
第8節154171
少年鼓笛兵前奏「荘重に、虚ろに」18d
第1節932
第2節3358-g
第3節5977d-g
間奏~「はっきりと遅くして」78110-c
第4節111126C/c
第5節127161
後奏162171c

2008年10月8日水曜日

作品覚書(14)さすらう若者の歌

「さすらう若者の歌」は、幾つかの点でマーラーの原点と言える作品だろう。まずは歌曲自体の 構成の観点から、管弦楽伴奏の連作歌曲集として最初の作品である。「子供の死の歌」を 経て「大地の歌」に至るルートの出発点がこの「さすらう若者の歌」なのだ。次には、有名な 第1交響曲との素材の共通性。歌曲集第2曲と交響曲の第1楽章の主要主題、 そして歌曲集の終曲と第3楽章の中間部。その後のマーラーにおいても繰り返し見られる 歌曲の旋律が交響曲の素材でもあるという状況がはっきりと姿を取るのは、この「さすらう若者の 歌」からである。勿論、素材の共通性という点なら、すでに「嘆きの歌」と最初期の歌曲との 間にも見られたが、ここでは、後にそうであるように、単なる純音楽的な旋律素材の共通性だけ ではなく、マーラーにおいては特徴的な音楽の「意味」の水準での関係が問題になっているのだ。

その一方で、これまた第1交響曲がそうであるように、この歌曲集の持つ信じ難いほどの ナイーヴさは、今日における受容を寧ろ困難にしているかも知れない。そこに込められた 感情の真正さを疑う者は恐らくいないだろうが、その音楽の表現の、ほとんど反動的といって 良いほどの素朴さ、感傷性は、後年のマーラーに親しんだ聴き手にとっては寧ろ当惑の 種ですらありうるほどで、「芸術歌曲」というものに確固とした公準を設定している人にとっては、 この曲の存在は許容し難いものに映るかもしれない。

ところで、マーラーにおける歌曲というジャンルの無視できない特徴は、声部指定のないことなのでは ないかと私は考えている。一つには男声・女声の指定がなく、結果的にほとんどの作品で両方の 録音が存在することが挙げられる。更に言えば、管弦楽版でありかつ連作歌曲集であるという ような条件が加わるとそうでもなくなるが、連作歌曲集に含まれない曲のピアノ伴奏版では 移調も許容されているのである。組曲形式における調性配置はマーラーにとっては重要な 視点であり、また時代遅れと揶揄されるほど全音階主義的なマーラーは、古典期までは 普通であった特定の調性と曲の性格の対応のようなものすら意識していたようで、だから 移調の問題は決して取るに足らない問題ではないはずである。例えば大地の歌を移調した 上で、すべて女声で歌うなどといったことが考えられるか、という思考実験をしてみれば良いのだ。 移調は不可だろうが、ピアノ伴奏版なら恐らく女声のみで通すのは可能で、実際にそうした 録音も存在するのをご存知の方も多いだろう。その一方で交響曲の中で使用される声楽は 強く制約されている。第2交響曲の第4楽章を男声が歌うことは行われないだろうし、 第8交響曲第2部に至っては役割まで与えられていて、その点では「嘆きの歌」などと 変わることなく、従って自由度はほとんど全く存在しないのだ。

というわけで、この曲集は連作歌曲集でもあり、しかも歌詞の内容上は明らかに男声が 想定されているわけだから、女声で聴くのは直感的にはどうかと思われるのだが、 実際にはこの曲は女声でも頻繁に取り上げられるし、優れた演奏も多い。私の嗜好でいけば もっとも印象深く、繰り返し聴くのは、ベイカー・バルビローリのものなのである。 この曲集や「子供の死の歌」を女声が歌うことがどういう効果をもたらすかというのは興味深い 問題である。そして、私見ではそれはマーラーの場合についていえば許容されるべきだと思う。 或る種の異化作用、距離感、客観化がそこには働くことは確かだが、「大地の歌」の偶数楽章に おいてマーラー自身がアルトを選択したとき、にも関わらず第2楽章の題名の性別をあえてベトゥゲの 原詩の女性から男性に変えていることなどを思い合わせるべきなのだ。否、角笛交響曲群のソロは すべて女声だが、「原光」の「私」は勿論、旧訳聖書に描かれたヤコブだし、「三人の天使が優しい歌を 歌う」の「私」には新訳聖書のあのペテロの姿が揺曳しているのは明らかなのだ。だがだからといって、 これらをバリトンで歌うというのは、大地の歌の場合とは異なって、音楽的にはあり得そうにない選択肢 ではなかろうか。ここには解かれるべき謎とは言わなくとも、控えめに言っても解釈されるべき徴候というものが 確実に存在していると私には思われる。

その一方で、連作歌曲としての調的な配置について管弦楽版に拠って確認をすると、この歌曲集が後年の「子供の死の歌」や 「大地の歌」以上に非因習的なプランを持っていることに驚かされる。この曲集が一見したところ備えている 素朴さ、感傷性にも関わらず、ある種のクリシェと化することから逃れえている要因の一つとして、この大胆な調性配置が 機能しているのは疑いないように思われる。それは破格とまでは言えなくても少なくとも独特ではある。

最初の曲はニ短調で開始し中間に変ホ長調の部分を挟むがニ短調に回帰する。ところが第2曲はニ長調からロ長調に転調し、更に嬰へ長調に 至って終わってしまう。 3曲目は再びニ短調に始まるが、音楽的な「崩壊」の最初の事例である末尾では変ホ音で終止する。終曲はホ短調で始まり、ヘ長調に転じて、 最初に同主短調で終止してしまう。長調と短調の同主調間での頻繁な交代は、後に第6交響曲のモットーとして蒸留されるマーラーの音楽の 特徴の一つではあるが、それが全曲の末尾に現れるのだ。だがより興味深いのは第1曲以外はいずれも曲の始まりの調性と終わりの調性が 一致しないことである。その効果はあからさまであり、第2曲と第4曲ではまるで途中で音楽が歩みを止めてしまったかのような印象を与える。 第3曲は冒頭の調性の基音から半音上がった音で終止し、更にその終止音が第4曲の冒頭の基音に対する導音であることに留意しよう。 このようにこの作品の調性配置には如何にもマーラー的な特徴が良く現れているのだが、それだけではなく、そうした調性の機能が音楽の内容、 この場合には歌曲であるから歌詞の内容に対応している点が印象的である。終止がホ長調であれば冒頭の調性に対して丁度ソナタの提示部の 末尾の調性で停止することになる。そこをマーラーは更に同主短調に変化させることで3度関係の近親調に「上がったまま」で終わらせてしまう。 到達した場所は一体どこだろうか。それが冒頭とは全く異なった場所であることは確かである。第1交響曲第3楽章でも引用されるヘ長調の 部分を通過した後は最早それまでと同じではない。そう歌詞も告げているように。(2008.10初稿, 2008.12.13, 2009.7.27/28加筆)


形式の概略(長木「グスタフ・マーラー全作品解説事典」所収のもの。管弦楽版による)
1.愛しいひとが婚礼を迎える日は第1節「より速く~ゆるやかに動いて」143d
第2節「モデラート」4463Es
第3節「冒頭と同じく」6496d
2.けさ野辺をよぎったのは第1節「ゆったりと(急ぐことなく)」130D
第2節3163
第3節「もう少しゆっくりと」64102H
第4節「非常に静かに、ゆっくりと」103127
3.ぼくの胸には灼熱の刃が前半「嵐のように、野性的に」132d
間奏「非常に速く」3340g
後半「もっとゆっくりと」4180-es
4.愛しきひとの碧きふたつの瞳第1節「秘密めいて、憂鬱な表現で」117e
第2節前半1838C/c
第2節後半3945F
第3節4667-f

2008年10月7日火曜日

作品覚書(18)リュッケルトの詩による歌曲

リュッケルトの詩による歌曲は、1901年の夏に「子供の死の歌」の第1,3,4曲とともに作曲され、 管弦楽伴奏も作られた4曲と、翌年にピアノ伴奏版のみ書かれた「美しさゆえに愛するなら」に 分かれる。「最近の7つの歌」として「起床合図」「少年鼓手」とともに出版された際に、 「美しさゆえに愛するなら」についてはマックス・プットマンが管弦楽伴奏編曲を行ったものが 組み込まれたが、マーラー自身は管弦楽伴奏版を作成しなかった。

ところで、上記の作曲時期のずれは、「美しさゆえに愛するなら」という歌曲の成立事情を 考えた場合、決定的な意味を持つ。他の4曲は妻となったアルマ・マリア・シントラーと出会う 前に作曲されたのに対し、「美しさゆえに愛するなら」はアルマとの結婚後の最初の夏、8月に 書かれたのである。アルマの回想録にもこの曲に関するエピソードが登場するが、要するに、 この曲についてはアルマ宛に認められた手紙のような性質の作曲であったようなのである。 他の4曲とて、それぞれが独立の作品であり、連作歌曲であるわけではないのだが、 それでもなお、こうした成立事情を確認することは意味のないことではないだろう。

マーラーの創作を区分するとき、「子供の死の歌」とこのリュッケルトの詩による 歌曲は、交響曲であれば中期の第5,6,7交響曲とセットにされることが多い。初期の 交響曲を「角笛交響曲」と称するのに対応させてか、中期の交響曲の方を「リュッケルト交響曲」と 呼ぶ人もいるようだ。これはまずもって創作時期の近接、それから素材としての参照関係に基づく 区分なのだろうが、厳密には「少年鼓手」は1901年の作曲だから、時期的にリュッケルトの詩への 付曲と少なくとも重なるし、「少年鼓手」と並んで、1899年作曲の「起床合図」の中期交響曲との 関連もまた明らかであろう。従って、「角笛」の世界から遠ざかってしまった、と見るのは 些か単純化し過ぎた見方なのだが、それでもなお、リュッケルトの詩への付曲に見られる主観的で 現実的な側面が、中期の交響曲のそれ、特に第5,6交響曲と対応しているのは確かなことであろう。 ある意味ではパラドクシカルなことに、純器楽による交響曲において、マーラーの場合には主観的で 個人的な側面がより強く現われることになる。大規模な管弦楽を動員する交響曲と、切り詰めた 室内管弦楽によるリュッケルト歌曲を単純に同一視はできないものの、交響曲に素材を提供する とともに、交響曲を注釈し、解釈する(この場合主語は曲自体である)存在として、リュッケルトの 詩に対する付曲の持つ意味は決して小さくない。歌詞の有無や媒体の違い、交響曲という 形式の意義を測るのに、ミニアチュアのような繊細な、だが確固たる広がりを持つ歌曲を参照点に してこそ見えてくるものがあるに違いないのである。(2008.10.7 この項続く)

形式の概略(長木「グスタフ・マーラー全作品解説事典」所収のもの。<美しさめあてに愛するなら>以外は管弦楽版による)
<ぼくの歌を見つめたりしないで>第1節「非常にいきいきと」134F
第2節3566
<やわらかな芳香をぼくは吸いこんだ>第1節「非常に優しく、内面的に、ゆったりと」117D
第2節1836-Es-D
<この世間からぼくは消えたのだ>前奏「非常にゆっくりと、控えめに」19Es
第1節1027
第2節「少し流れるように、しかし急ぐことなく」2843
第3節「再び控えめに」4467
<真夜中に>第1節「落ち着いて、一様に」120a
第2節「流れるように」2135A
第3節3648a
第4節4970
第5節「~一転して力強く」7194A
<美しさめあてに愛するなら>第1節「内面的に」18C
第2節916c
第3節1722C
第4節2334

作品覚書(15)リートと歌第2,3集

リートと歌と題された3集よりなるマーラーのピアノ伴奏歌曲集は、内容上は、第1集と 第2,3集の2つに分かれる。第2,3集は出版の便宜上分けられてはいるものの、 いずれも「子供の魔法の角笛」に付曲した作品のみからなっており、しかも、それぞれが 独立の作品であるから、順序にしても第2,3集のいずれに帰属するかについても、 別段の意図はないことになる。第2,3集については出版も1892年に同時に行われており、 ひとまとめとして扱うのであれば、ピアノ伴奏版のみが存在する「魔法の子供の角笛」 歌曲群として9曲をひとまとめにするのが適当だろう。

マーラーは管弦楽法の大家ということになっていて、歌曲においても管弦楽伴奏であることが 特色として挙げられることが多い。そうした中で、このピアノ伴奏の9曲は、同じ「角笛」歌曲でも 管弦楽伴奏を持つ他の作品に比べて、注目される機会は決して高くはないというのが実情かも知れない。

そこで問題になるのは、マーラーの創作の中でこのピアノ伴奏歌曲が占める位置である。 なぜマーラーはこれらの曲に管弦楽伴奏をつけなかったのか。時期の問題というのはありえない。 先行する「さすらう若者の歌」の管弦楽伴奏版の成立過程ははっきりとしない部分があるようだが、 それでも1891年から1893年くらいのことと考えられていて、1888年から1890年くらいに作曲された と考えられているこの「角笛」の9曲だって、その気になれば「後から」管弦楽伴奏版を作ることは 可能だったはずなのだ。マーラーはこれらの9曲については管弦楽伴奏版を作る価値を認めなかったの だろうか。この後、マーラーはアルマへの「私信」の性格があると考えられる「美しさゆえに愛するなら」を 除いて、全ての歌曲について管弦楽伴奏版を作っていて、そういう意味ではこの9曲は寧ろ「例外」の 側に属するといっても良いのである。この点で興味深いのは「夏の交替」で、第3交響曲第3楽章に 素材を提供したにも関わらず、この歌曲自体は管弦楽伴奏版が作られることはなかったようだ。 (2008.10.7 この項続く)

形式の概略(長木「グスタフ・マーラー全作品解説事典」所収のもの)
悪い子たちをおとなしくさせるには前奏「快活に」13E
前半(第1,2節)419
間奏2022
後半(第3,4節)2338
後奏3941
緑の森を愉快な気分で歩いていったら第1節「夢見るように、総じて優しく」128D
第2節2957
第3節「少しより遅くして」5880G
第4節「テンポI」81108D
終わっては!終わっては!第1節「大胆な行進曲のテンポで」110Des
第2節1118B
第3節1928Des
第4節2940A
第5節4148Des
第6節「嘆くように(パロディを伴って)」4966B
第7節6779Des
たくましい想像力前奏「非常にゆったりと、ユーモラスな表現で」12B
第1節311
第2節1220
シュトラスブルクの城塁に立つと前奏「民謡の調子で(感傷なしに、非常にリズミカルに)」14fis
第1節516
第2節1726
第3節2738
第4節3961H-h
夏の歌い手交代前半「ユーモアを伴って」131b
後半3258B
後奏5967b
別れさせられ遠ざけられるのは第1節「快活に」145F-F/f
第2節4681f-F
もう会えない!第1節「憂鬱に」116c
第2節1726
第3節2740
第4節4151
第5節5268C-c
自惚れごころ前半「不機嫌な調子で」126F
後半2757

作品覚書(13)3つの歌・リートと歌第1集

マーラーによほど親しんだ人でも、そしてその中でもとりわけ歌曲に特別の意義を認めるような人でも、 初期の歌曲作品に関心を抱くことは少ないかも知れない。マーラーの個性というのは非常に早い時期 からあわられているとはいうものの、さすがにこれらの歌曲においては、もちろん、その片鱗は随所に 窺えるとはいうものの、さほど顕著なものではなく、結局のところ、マーラーの出発点を証言する資料の ような扱いを受けることが多いのかも知れない。

更に注意すべきは、出版されたリートと歌第1巻の5曲はともかく、3つの歌については、マーラー自身は 出版されることも、もしかしたら演奏されることも想定していなかったかも知れないという点である。 当世では、作者の意図はすっかり覇権を喪い、聴き手・読み手の解釈がこの世の春を謳歌している 感があるが、マーラー自身の意志を尊重すれば、少なくとも3つの歌を、それ以降の出版を認めた 作品と単純に同列に並べることについては一定の配慮がなされてしかるべきだろうと思われる。 (もっとも、これについては「嘆きの歌」の初稿についても言える。結局のところ、これらはマーラーが 破棄しなかったのだから、恐らく破棄されたであろう、青年期の創作の数々とはやはり違うのかも 知れない。)

だが、そうであるにしても、マーラーの創作を総体として捉えようとしたときには、これらの歌曲集も 一定の役どころを得ることになる。一つは「嘆きの歌」との関係であり、もう一つには、こちらはやや 間接的ではあるものの第1交響曲との関係において、幾つかの注目すべき点を見出すことができる。

「嘆きの歌」の方は、旋律素材の共通性のような関係で、3つの歌の第1曲「春に」との共通性が 指摘される。「第1交響曲」の方は3つの歌の「五月の緑の野の踊り」、リートと歌第1巻での 「ハンスとグレーテ」と、スケルツォ楽章主部との相関である。なおリートと歌第1巻の「ハンスとグレーテ」は 3つの歌の「五月の緑の野の踊り」の異稿と考えることができ、こうした参照関係についていえば 両者はほぼ同じ作品と見做して良いだろう。更に、ティルソ・デ・モリーナの「ドン・ファン」の独訳に 基づく2曲は、いわゆる劇伴との関連が想定され、第1交響曲の初期形態に含まれていた 「花の章」が「ゼッキンゲンの喇叭手」の活人画のための音楽と関係していたことと関連して、 当時のマーラーの創作活動のあり方を告げる記録と言える。(2008.10.7 この稿続く。)

形式の概略(長木「グスタフ・マーラー全作品解説事典」所収のもの)

3つの歌
春に第1節「非常にいきいきと」113F
第2節「もう一度とてもゆっくりと」1428As
第3節2942C
第4節「もう一度とてもゆっくりと」4353
冬の歌第1節「軽やかに動いて」117A
第2節1829
第3節「真面目に、しかし落ち着いて」3044c
第4節4574
草原の5月の歌前半「快活に大胆に、レントラーのテンポで」140D
後半4189

リートと歌第1巻
春の朝前奏「ゆったりと、軽やかに動いて」15F
第1,2節「モデラート」616
第3,4節「冒頭と同じく」1735
思い出第1節「ゆっくりと、憧れに満ちて」111g
第2節「内面的に」1221
第3節「次第に動いて(しかしそれとなく)」2240
第4節「テンポI」4153
ハンスとグレーテ前半「ゆったりとしたワルツのテンポで」140F
後半「少しゆっくりと」4189
セレナーデ第1節「軽やかに流れるように」114Des
第2節1526
第3節2738
ファンタジー第1節「夢見るように」118h
第2節「少しゆっくりと」1934

作品覚書(4)第4交響曲

第4交響曲の成立史は幾つかの理由により些か特殊である。最初の一つは、最終的にはフィナーレの位置を占めることになった歌曲の 成立が1892年のハンブルク(2月10日ピアノ伴奏版、3月12日管弦楽伴奏版)まで遡れるのに、残りの3つの楽章はようやく1899年の夏に、 既に第3交響曲以来「夏の作曲家」としての生活パターンを確立しつつあったマーラーが、その夏の休暇の終わり間際にスケッチするまでは 少なくとも今ある形を為していなかったという点。実際に聴いた人の多くが感じるように、この作品はフィナーレの歌曲の前に3幅対の絵を 並べたような、些か特殊な構造になっているのだが、それを裏付けるような作曲年代の分裂を持っているということ。

次もまた、フィナーレの歌曲の辿った遍歴に関わることなのだが、第4交響曲は1899年の夏の終わり間際に今ある形態をとる以前の 構想では、第3交響曲の構想と渾然一体となっていた可能性があるという点である。フィナーレの歌曲は、第3交響曲のフィナーレを なす第7楽章に置かれる計画があったのである。勿論、単純に今日聴かれる形態の第3交響曲の後に、「天国の生活」を付加して みたところで、マーラーの構想を想像するには不十分なのだが、とにかく、第4交響曲は、言ってみれば第3交響曲の補遺のような 性格を持っているというのが、成立史からは窺えるのである。世上、「角笛交響曲」として第2,3,4交響曲をまとめたり、あるいは さらに第1交響曲を加えて1グループにしたり、といった区分が為されてきたが、第1交響曲、第2交響曲が、それぞれ紆余曲折に 満ちた独自の成立史を持っていたのに対し、第3交響曲、第4交響曲の方もまた幾多の構想の変遷を経たとはいいながら、 こちらは少なくとも第3交響曲が完成する時期までは一つの構想の中に包含されていて、不可分のものだったのだ。であれば、 同じく「子供の魔法の角笛」歌曲との関連があるとはいえ、第2交響曲と第3交響曲の間にははっきりとした句読点が打たれている と考えるべきなのに対し、第3交響曲と第4交響曲との間には、双生児のような関連があると考えるべきなのだろう。実際、 パウル・ベッカーが報告している第4交響曲の早期の構想は6楽章構成で、第1,3,5楽章が器楽のみにより、第2,4,6楽章は 歌曲という組み合わせで、全体は「フモレスケ」という副題を持っているのである。ここでもフィナーレの第6楽章が「天上の生活」であり、 第4楽章は、恐らく現在の第3交響曲第5楽章の「三人の天使がこころよい歌を歌っていた」、そして第2楽章に「地上の生活」が 予定されていたらしいのである。

このようにして、第4交響曲のフィナーレに収まることになった「天上の生活」という歌曲は、マーラーの作品構想上のジョーカーの ような機能を果たしていることがわかる。ついでにいえばベッカーの報告する「フモレスケ」の第3楽章は「カリタス」と題されていたが、 実現されなかったこの構想は、後の第8交響曲の最初のスケッチに引き継がれることになる。「地上の生活」の方は未完成に 終わった第10交響曲の煉獄(プルガトリオ)、即ち第3楽章に繋がっていることは、よく知られている通りである。人によっては、 マーラーが第9交響曲について述べる際に、第4交響曲を引き合いに出したことを思い起こすかもしれない。ともあれ、 読みようによっては物騒とも言える民謡を歌詞に持つ「天上の生活」はマーラーの創作の中で特異点の如きものであり、 第4交響曲の成立史は、そうした事情を端的に物語っていると言えるのではなかろうか。

*   *   *

第3楽章のコーダ近くの楽節の「雰囲気」がひどく日常的な安らぎに近く感じられることがある。 超越的な何かに撃たれたわけでもなく、感情を揺さぶる出来事に遭遇したわけではない、ある日の陽だまりの風景。それはこの 曲を作曲しているある一日に、マーラーが見たときの情態をそのまま保存しているようにさえ感じられる。 この曲のいわゆる「突破」の瞬間は、しかしこちらからの力はほとんどなく、主体は受動的に感じられる。 突破は向こうからやってきて、勝手に天が開く。それを待っていたわけではなく、不意打ちのように訪れる。 だがそれは主体を脅かすことはない。私にとってより印象的なのは音楽が静まって後、コーダに至るまでの和声進行のプロセスだ。 まるで一旦、回り道をしてからようやくゆっくり、ゆっくりと状態を元に戻すような感覚。 でも実はそこは出発点ではない。元には戻らない。そこはすでに異なる相であり、最後は何とニ長調に到達するのだ。 そしてそれは確かに、後続する歌曲のト長調を用意する。

天国の生活というのは、ここでは恐らく、この世ならぬどこかでいつか実現されるものではない。日常のすぐ隣にあって、だけれども 気づかずにいる世界といった感じのものではないか。morendoという言葉に引きずられて、ここで生物学的な死を持ち出すのは 滑稽に感じられる。だが一方で、第9交響曲の世界と全く異質のものであるとも思えない。第9交響曲が「死」を「描写」したもの だというのがむしろ疑わしいのだ。マーラーの音楽にはどこかひどく受動的な、虚ろな時間の経過する瞬間がある。無意識という のではないし、眠りでもないが、意識がひどく不活発になる瞬間がある。何かが到来するのはきまってそういうときなのだ。 もちろん、ここで述べていることを殊更、神秘的に、形而上的に捉える必要はない。マーラー自身の言葉による説明を 探し求める必要もない。寧ろ自然主義的に意識の「外部」を問うべきなのだ。「子供の魔法の角笛」のある意味では物騒な 歌詞によってアイロニカルに暗示される「天国」もまた、第4交響曲においては自然主義的に解釈されるべき地点まで接近しているのでは なかろうか。マーラーのもともとの構想は、「天国の生活」を取り囲む器楽楽章をあらためて(というのは、第3交響曲からいわば 「はみ出して」しまったので)用意することにあったのだろう。だが出来上がった作品においては音楽と言葉のどちらがどちらの注釈なのだろうか。 こうした関係を前にして「標題音楽」か否かといった議論をすることに一体どういう意味があるのだろう。更に言えば、ここで第4楽章の 音楽は、この第3楽章のコーダに対してどのような関係に立っているのか。

第1楽章で予告される第5交響曲の葬送行進曲、第2楽章でスコルダトゥーラによって示される「背後の世界」、第3楽章の二重変奏が 持つ両義性、特に副主題の変奏部分が示す、しかも曲の経過に従って深まっていく闇は「天国の生活」とどのように関係するのだろうか。 そこに突然到来する転換は、その後のたゆといは本当に第4楽章への途、第4楽章を準備するものなのだろうか。 それらを経て「天国の生活」に「到達する」という説明は、音楽の経過を歪めた言い回しによって、その関係を捉え損なっている。 そう、第3楽章がニ長調で閉じたあと、再びト長調で始まるこの歌曲は、結局のところ現実のある相を示しているのではないか。 物騒さもイロニーも、それが現実であるとすれば納得がいかなくもない。勿論それは第6交響曲の現実とは異なった相の下にあるには 違いない。だが、この終楽章は超越とはおよそ無縁ではないか。確かにこの世の営み、世の成り行きはこの音楽の外にあると言えるだろう。 だが、この音楽はそれが外にあることを恐らく知っている。

こうしてみると、「天国の生活」がなぜ、前作からいわばはみ出てしまったのかを第4交響曲自体が端的に告げているように見える。 そこでは主体の位置の移動が、座標系の変換が起きているのだ。第1交響曲から第3交響曲までの作品の語りの空間の 原点の位置、楽曲の構成と叙述の構造の対応関係の要請が、「天上の生活」を位置づけ不可能なものとして追い出してしまったように見える。 詳細は各交響曲毎に記述されなくてはならないが、交響曲におけるフィナーレの問題を解こうとしたとき、遍歴の具体的な様相はそれぞれ 異なったとしても、遍歴した主体(マーラー自身である必要は全くないが)の現在をフィナーレの近傍に置かざるを得ない。実際、どこで語りの レベルが終わり、主体の場に着地するかは、各作品毎に違うものの、どの作品においても終楽章はそこから己の辿ってきた軌道を、 非可逆的な過程によって隔てられた絶対的な過去として顧みる。そうした時間性と「天国の生活」は相容れないのだ。もしかしたら 第3交響曲の構想の時点においてマーラーは、それを未来として構想したかも知れないし、それは論理的には必ずしも間違いではないのだが、 ただちにそれが不適切な構想、実現不可能であることに気づいたに違いない。ここでは未来は決して到達しないもの、極限であって、 仮象としてであれ、それを作品の最後に置くことは構想上不可能なのだ。

第4交響曲のあからさまな擬古典主義は、主体の移動、座標系の変換のための媒介として必要だったに違いない。そして第4交響曲と 第5交響曲とを比べた時、両者があたかも同一の点に向かって逆方向から辿っているような印象を覚える。第5交響曲が回顧的なのは、 逆向きに眺めているから眺望は大きく異なるものの、その結論が実は第4交響曲のそれと同じ場所であること、そこが主体の現在の場では ないことの現われなのだ。マーラーは第6交響曲において今度は第5交響曲の過程の出発点を座標の原点に取る。「この世の生活」が、 世の成り行きが、今度は語りのレベルでの回顧としてではなく、主体の現在の場となる。第4交響曲ではあるタイプの聴衆を困惑させ、 あるいは神経を逆撫でしつつ、擬古典主義の装いのもと、「天国の生活」の非-場所を正しく定位してみせたマーラーは、 第5交響曲ではまるで交響曲の歴史をパロディ化するかのように、今度は「苦悩から栄光へ」という図式を借りつつ、現在の場から非-場所を もう一度振り返ってみせる。もうマーラーは「天国の生活」を語ることはない。ひたすら語りの水準にのみあって、交響曲にはなれなかった 「嘆きの歌」の対蹠点として「第6交響曲」はひたすら現在の、主体の場であり、従ってこれが最も主観的であり、同時に交響曲的な 構想を持った作品になる。同様に第1交響曲のプロセスのネガが第7交響曲であり、それらの後では、第2交響曲は最早、第8交響曲の ような「突破」の瞬間の拡大としてしかありえない。一見すると二番煎じの嫌疑をかけられる第2部は、だが、第2交響曲のフィナーレとは 全く異なった時間性の下にある。「死」の捉え方は、そこではほとんど正反対といっても良く、これまた一見すると矛盾・対立しか 見出せそうにない第8交響曲と大地の歌の間には実は連関があるのだ。そしてその連関の下、第3交響曲の進化論は大地の歌の個人史に 転化してしまい、結局「天国」は第9交響曲のフィナーレで、今度は「音楽」そのものの彼方にしかないものとして示唆されることになるのである。

第4交響曲の「天国の生活」をイロニーとして受け止めていながら、一体どうすれば第9交響曲のフィナーレを「死の描写」とみなし、 「昇天」の音楽化などとして捉えることができるのだろうか。一見、説得力があるようでいて、第4交響曲の「天国の生活」をある意味では 「単純に」イロニー「としてしか」捉えない見方は、その背後にある屈折を無視している点では、それが批判しているはずの見方と同じレベルにある ということはないだろうか。第4交響曲の「天国の生活」が「子供が私に語ること」でありえなかったように、第9交響曲のフィナーレもまた 「死が私に語ること」などではないのだ。いずれもそうしたありきたりの「死」なり「天国」なりのイメージを拒絶しつつ、それぞれ異なってはいるものの、 いずれも彼方への視線の時間性を音楽として定着させているのだ。「標題性」の否定は決して表面的な事柄ではない。 内的なプログラム=標題が存在するという言葉を担保に、そうした「標題性」をもう一度正当化することは、音楽の具体的な様相をわざと陳腐で 平板な抽象によって図式化してマーラーの音楽の実質を損なっているに過ぎない。第4交響曲はそれ自身身をもって、そうした誤った抽象を 告発しているように私には思われる。

*   *   *

形式の概略(Philharmonia版ミニアチュア・スコア所収のもの)
第1楽章 提示部主要主題部137
副主題部3857
第1終結部5871
主要主題部の変形された再現(再現部ふう)7290
第2終結部91101
展開部102238
再現部239297
コーダ298349
第2楽章 スケルツォ主要主題部133
副主題部3445
主要主題部4668
トリオ69109
スケルツォ109200
トリオ201280
スケルツォ281329
コーダ330364
第3楽章 ロンド形式と変奏曲形式の混合 主要主題部161
副主題部62106
主要主題部の第1再現部と変奏107178
副主題部の第1再現部と変奏179221
主要主題の第2再現部(主題と変奏曲ふう)222314
コーダ315353
第4楽章 第1部139
第2部4075
第3部76114
第4部とコーダ115184

*   *   *

形式の概略(長木「グスタフ・マーラー全作品解説事典」所収のもの)
第1楽章(ソナタ形式) 呈示部鈴の動機「落ち着いて」13h
主題I「適度にゆったりと」47G
主題II817
主題I確保1821
主題III「新鮮に」2237-D
主題IV「幅広く歌って」3846
主題V4757
主題VI「突然ゆっくりと、落ち着いて(モルト・メノ・モッソ)」5872
鈴の動機7276h
主題I擬似再現「テンポI」7780G
主題II擬似再現8090G
主題VII「再び非常に落ち着いて、少し控えて」91101
展開部主題I・II展開「テンポI」102124h-e-C
<夢のオカリナ>「流れるように、しかし慌てることなく」125154A-e
主題I・II展開155166es
鈴の動機、主題I・II展開167184f
主題I・II展開185208b
主題II・III・<夢のオカリナ>によるクライマックス209220C
<小さな呼び声>(第5交響曲予示)221238
再現部主題I展開再現「再び冒頭のように、非常にゆったりと、くつろいで」239240G
主題II展開再現241251
<夢のオカリナ>、主題III並列251262
主題IV展開再現263271
主題V展開再現「大きな音調で」272282
主題VI展開再現「再び急にゆっくりと、落ち着いて」283297
主題I・II擬似再現298322
主題VII展開再現「落ち着いて、さらに落ち着いて」323339
コーダ340349
第2楽章(スケルツォ) スケルツォ部I導入「ゆったりとした動きで、慌てることなく」16c
A733
B3445C
A'4663c
後奏6468
トリオ部I第1部分「急がずに」6993F
第2部分94109
移行句109114c
スケルツォ部II導入「テンポI」115117
A118144
B145156C
A'157184c
B'185200C
トリオ部II第1部分「再びよりゆったりと」201253F
第2部分254275D
移行句「急がずに」276280c
スケルツォ部III導入「音を保持して(ソステヌート)」281282
A283313
B「テンポI」314329C
A'330341c
コーダ342364
第3楽章(二重変奏) 主題部A主題「静かに」116G
主題変奏確保1736
後奏3750
結部(永遠の動機)「控えて(リタルダンド)」5161
主題部B第1部分「よりゆっくりと」6275e
第2部分「流れるように」7692-d
後奏「再びもとのテンポで」93106
A変奏I主題変奏1「優雅な動きで」107122G
主題変奏2123142
主題変奏3143170
移行句171178
B変奏第1部分変奏「再び以前のように」179191g
第2部分変奏「流れるように」192211cis-fis
後奏212221
A変奏II主題変奏1「アンダンテ」222237G
主題変奏2「アレグレット・スビト(急がずに)」238262
主題変奏3「アレグロ・スビト」253277E
主題変奏4「アレグロ・モルト」278287G
「アンダンテ・スビト(まったく突然変奏の始めのテンポで)」(283)(287)
後奏「ポコ・アダージョ」288306
結部307314
突発的絶頂(第4楽章予示)「ポコ・ピウ・モッソ」315325E
コーダ326353-D
第4楽章序奏「非常にくつろいで」111G
歌詞第1節1239-a
間奏(鈴の動機)「突然新鮮な動きで」4056h-e
歌詞第2節「少し控えて」5775
間奏(鈴の動機)「再びいきいきと速く」7679h
歌詞第3,4節「テンポI」80114G-d
間奏(鈴の動機)「再びいきいきと速く」115121h
牧歌的間奏「テンポI」122141E
歌詞第5節141174
後奏175184

*   *   *

形式の概略:de La Grange フランス語版伝記第1巻Appendice No.1
1. Bedächtig. Nicht eilen くつろいで、急がずに提示13 導入(I) 3つのモチーフよりなる(フルートとクラリネット)e (h?)
431「適度にゆったりと」 3部分よりなる主題A (A:1-7, A':8-17, 将来のコーダの主要モチーフと展開部主題を伴うAの模倣:18-21, A'':22-31)G
3237「新鮮に」移行G-D
3857「幅広く歌って」 3部分よりなる主題BD
5871「いくらか流れるように」 主題C (終結)D
7276主題 1e
7790Tempo primo:非常に変形された主題A(擬似再提示)G
91101コデッタ「再びとても静かに」
展開102108Tempo primo:主題I /TD>e
109116主題A'e
117124主題Aa
125154「流れるように、しかし慌てることなく」新しい主題(Aのモチーフ(20小節)を用いており、フィナーレの主要主題を告げる)
155166主題IとA''の22小節の派生モチーフなどaes
167208主題I, モチーフA'',C,Aなどf-c-d
209220フォルティッシモのクライマックス:モチーフA''と移行句C
221238モチーフA'',I,トランペットのシグナル(マーラー自身が「小さな叫び」と名づけた)、Aの開始に戻るFis-C
再提示239253「最初と同様に」Aの再提示(A''の拡大モチーフとともに) がA''自体の1小節前から始まるG
254262移行G
263282「躍動して」:弦楽器のみによる主題BG
283297「突然再びゆっくりと」:主題C
298322モチーフI, A'',A,A'の断片
コーダ323340「静かに、さらに静かになる」 Aと展開部の新しい主題
341349「とてもゆっくりと、poco a poco stringendo」Aと移行句

2. In gemächlicher Bewegung. Ohne hast ゆったりとした動きで、慌てずにスケルツォ133 導入(ホルンで、4小節、後に各エピソード間の移行に用いられる)とAc
3445BC
4663Ac
トリオ641094小節のホルンの移行句(スケルツォの後奏であると同時にトリオの導入)、ついでCF
スケルツォ110144移行(ホルン:6小節)とAc
145156BC
157184A(1小節の導入の後)c
185200BC
トリオ2012532小節の移行、ついでC(変奏された)F
254275Cの展開D
スケルツォ2763135小節の移行、ついでAc
314329BC
3303646小節の移行、ついでA(半音階的転調)と導入モチーフから派生したコーダ

3. Ruhevoll 安らぎにみちて (Poco Adagio)124A(3部分の第1区分)G
2550A(第2区分)(ホルンとファゴットによる間奏を伴う)
5161A(最終区分)
6275B 「よりゆっくりと」(縮小された最初のバスのモチーフの断片とともに)e
7691変奏されたB(同じバス上で)(80小節は「子供の死の歌」第2曲「何故そのような暗い眼差しで」を先取りしたモチーフ)
92106B:主題のバスを変奏する第3セクション(コーダ)d
107130A「優雅な動きで」Aの第1区分の変奏(バスのモチーフが上声に現われる)
131150第2区分の冒頭の変奏、ホルンとファゴットからクラリネットへ、さらにファゴットに引き継がれる間奏とともにG
151178「非常に流れるように」Aの終りの自由な変奏
179191B「再び以前のように」:B(バッソ・オスティナートなし)g
192204「流れるように」:B、第2区分(フォルティッシモのクライマックス)cis
205221「情熱的に、やや急いで」:B、最終区分(コーダ)fis/Fis
222237A. Andante 3/4 :Aの第1変奏G
238262Allegretto subito 3/8:第2変奏G
263277Allegro subito 2/4:第3変奏E
278286Allegro molto 2/4:第4変奏、第1区分のホルンの間奏によって突然中断される(Andante subito)G
287314Poco Adagio : Aの終り(37小節から61小節)の変奏G
315325Poco piu mosso : fff :フィナーレの主要主題の金管での告知(Pesante)(すでに第1楽章の 展開部の主題中で部分的には聴かれたもの)E
326353コーダ: 上昇していく主題(AとBのモチーフに基づく)ト長調のドミナントで終止E-C-G

4. Sehr behanglich 非常に気楽に111最初の主題を提示する管弦楽の導入
1235主要セクションA、2つの部分(A,A')よりなる
3639「突然抑えて」:コラールe
4056「突然新鮮な動きで」:リフレイン(第1楽章ですでに用いられているものの展開)e
5771「少し抑えて」:対照的なパッセージBe
7275「再び抑えて」:コラールe
7679「再び生き生きと」:リフレインe
80105Tempo primo :セクションA(短縮された)とA'(展開された)G
106114「再び突然抑えて」:コラールd
115121「再び生き生きと」:リフレインh
コーダ122141Tempo primo :「終りまでとても優美で神秘的に」:Aに基づく新たな主題を提示する管弦楽の導入
142168主題A(変奏された)E
169174コラール(平行和音による和声付けなし)E
175184管弦楽による結び:ピアニッシモ
(2008.10.7~25, 11.16, 11.30, 2009.8.14 この項続く)