2008年10月8日水曜日

作品覚書(14)さすらう若者の歌

「さすらう若者の歌」は、幾つかの点でマーラーの原点と言える作品だろう。まずは歌曲自体の 構成の観点から、管弦楽伴奏の連作歌曲集として最初の作品である。「子供の死の歌」を 経て「大地の歌」に至るルートの出発点がこの「さすらう若者の歌」なのだ。次には、有名な 第1交響曲との素材の共通性。歌曲集第2曲と交響曲の第1楽章の主要主題、 そして歌曲集の終曲と第3楽章の中間部。その後のマーラーにおいても繰り返し見られる 歌曲の旋律が交響曲の素材でもあるという状況がはっきりと姿を取るのは、この「さすらう若者の 歌」からである。勿論、素材の共通性という点なら、すでに「嘆きの歌」と最初期の歌曲との 間にも見られたが、ここでは、後にそうであるように、単なる純音楽的な旋律素材の共通性だけ ではなく、マーラーにおいては特徴的な音楽の「意味」の水準での関係が問題になっているのだ。

その一方で、これまた第1交響曲がそうであるように、この歌曲集の持つ信じ難いほどの ナイーヴさは、今日における受容を寧ろ困難にしているかも知れない。そこに込められた 感情の真正さを疑う者は恐らくいないだろうが、その音楽の表現の、ほとんど反動的といって 良いほどの素朴さ、感傷性は、後年のマーラーに親しんだ聴き手にとっては寧ろ当惑の 種ですらありうるほどで、「芸術歌曲」というものに確固とした公準を設定している人にとっては、 この曲の存在は許容し難いものに映るかもしれない。

ところで、マーラーにおける歌曲というジャンルの無視できない特徴は、声部指定のないことなのでは ないかと私は考えている。一つには男声・女声の指定がなく、結果的にほとんどの作品で両方の 録音が存在することが挙げられる。更に言えば、管弦楽版でありかつ連作歌曲集であるという ような条件が加わるとそうでもなくなるが、連作歌曲集に含まれない曲のピアノ伴奏版では 移調も許容されているのである。組曲形式における調性配置はマーラーにとっては重要な 視点であり、また時代遅れと揶揄されるほど全音階主義的なマーラーは、古典期までは 普通であった特定の調性と曲の性格の対応のようなものすら意識していたようで、だから 移調の問題は決して取るに足らない問題ではないはずである。例えば大地の歌を移調した 上で、すべて女声で歌うなどといったことが考えられるか、という思考実験をしてみれば良いのだ。 移調は不可だろうが、ピアノ伴奏版なら恐らく女声のみで通すのは可能で、実際にそうした 録音も存在するのをご存知の方も多いだろう。その一方で交響曲の中で使用される声楽は 強く制約されている。第2交響曲の第4楽章を男声が歌うことは行われないだろうし、 第8交響曲第2部に至っては役割まで与えられていて、その点では「嘆きの歌」などと 変わることなく、従って自由度はほとんど全く存在しないのだ。

というわけで、この曲集は連作歌曲集でもあり、しかも歌詞の内容上は明らかに男声が 想定されているわけだから、女声で聴くのは直感的にはどうかと思われるのだが、 実際にはこの曲は女声でも頻繁に取り上げられるし、優れた演奏も多い。私の嗜好でいけば もっとも印象深く、繰り返し聴くのは、ベイカー・バルビローリのものなのである。 この曲集や「子供の死の歌」を女声が歌うことがどういう効果をもたらすかというのは興味深い 問題である。そして、私見ではそれはマーラーの場合についていえば許容されるべきだと思う。 或る種の異化作用、距離感、客観化がそこには働くことは確かだが、「大地の歌」の偶数楽章に おいてマーラー自身がアルトを選択したとき、にも関わらず第2楽章の題名の性別をあえてベトゥゲの 原詩の女性から男性に変えていることなどを思い合わせるべきなのだ。否、角笛交響曲群のソロは すべて女声だが、「原光」の「私」は勿論、旧訳聖書に描かれたヤコブだし、「三人の天使が優しい歌を 歌う」の「私」には新訳聖書のあのペテロの姿が揺曳しているのは明らかなのだ。だがだからといって、 これらをバリトンで歌うというのは、大地の歌の場合とは異なって、音楽的にはあり得そうにない選択肢 ではなかろうか。ここには解かれるべき謎とは言わなくとも、控えめに言っても解釈されるべき徴候というものが 確実に存在していると私には思われる。

その一方で、連作歌曲としての調的な配置について管弦楽版に拠って確認をすると、この歌曲集が後年の「子供の死の歌」や 「大地の歌」以上に非因習的なプランを持っていることに驚かされる。この曲集が一見したところ備えている 素朴さ、感傷性にも関わらず、ある種のクリシェと化することから逃れえている要因の一つとして、この大胆な調性配置が 機能しているのは疑いないように思われる。それは破格とまでは言えなくても少なくとも独特ではある。

最初の曲はニ短調で開始し中間に変ホ長調の部分を挟むがニ短調に回帰する。ところが第2曲はニ長調からロ長調に転調し、更に嬰へ長調に 至って終わってしまう。 3曲目は再びニ短調に始まるが、音楽的な「崩壊」の最初の事例である末尾では変ホ音で終止する。終曲はホ短調で始まり、ヘ長調に転じて、 最初に同主短調で終止してしまう。長調と短調の同主調間での頻繁な交代は、後に第6交響曲のモットーとして蒸留されるマーラーの音楽の 特徴の一つではあるが、それが全曲の末尾に現れるのだ。だがより興味深いのは第1曲以外はいずれも曲の始まりの調性と終わりの調性が 一致しないことである。その効果はあからさまであり、第2曲と第4曲ではまるで途中で音楽が歩みを止めてしまったかのような印象を与える。 第3曲は冒頭の調性の基音から半音上がった音で終止し、更にその終止音が第4曲の冒頭の基音に対する導音であることに留意しよう。 このようにこの作品の調性配置には如何にもマーラー的な特徴が良く現れているのだが、それだけではなく、そうした調性の機能が音楽の内容、 この場合には歌曲であるから歌詞の内容に対応している点が印象的である。終止がホ長調であれば冒頭の調性に対して丁度ソナタの提示部の 末尾の調性で停止することになる。そこをマーラーは更に同主短調に変化させることで3度関係の近親調に「上がったまま」で終わらせてしまう。 到達した場所は一体どこだろうか。それが冒頭とは全く異なった場所であることは確かである。第1交響曲第3楽章でも引用されるヘ長調の 部分を通過した後は最早それまでと同じではない。そう歌詞も告げているように。(2008.10初稿, 2008.12.13, 2009.7.27/28加筆)


形式の概略(長木「グスタフ・マーラー全作品解説事典」所収のもの。管弦楽版による)
1.愛しいひとが婚礼を迎える日は第1節「より速く~ゆるやかに動いて」143d
第2節「モデラート」4463Es
第3節「冒頭と同じく」6496d
2.けさ野辺をよぎったのは第1節「ゆったりと(急ぐことなく)」130D
第2節3163
第3節「もう少しゆっくりと」64102H
第4節「非常に静かに、ゆっくりと」103127
3.ぼくの胸には灼熱の刃が前半「嵐のように、野性的に」132d
間奏「非常に速く」3340g
後半「もっとゆっくりと」4180-es
4.愛しきひとの碧きふたつの瞳第1節「秘密めいて、憂鬱な表現で」117e
第2節前半1838C/c
第2節後半3945F
第3節4667-f

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