お知らせ

GMW(Gustav Mahler Werke, グスタフ・マーラー作品番号:国際グスタフ・マーラー協会による)を公開しました。(2025.4.20)

2007年12月31日月曜日

マーラーの「矛盾」とマーラーへの「距離」

マーラーの「遠さ」:引用、文化的文脈、民族性、社会的背景、地位(成功者)―引用も文化史もアドルノの観相学の本来の企図も、すべて遠い異邦の出来事には違いない。
作曲活動の不滅性(Blaukopf p.106)
進化論、汎神論と唯物論
ゲーテのファウストと唐詩の間の距離

作曲者でもなく、演奏家でもない、楽曲分析―伝統的な音楽学での―も遠い。
影響と再生産、単なる享受者、受容者にとどまって何が可能か?

内在主義、それどころか認知心理学的な水準まで戻っても良い。
(形式的な分析は「聴取」の論理からすれば―そして音楽は現象する音が全てだとすれば―逆立ちしている。伝統的な楽式論からの出発を保障するのは、せいぜい作曲主体の知識との共通性だ。―つまり、同じ教育を 受けたという。)

世界観の問題は残る。 マーラーの場合は、まずそれは「意図された」ものであった。 意図されたものはどうでもよくて、実現されたものが問題であったとして、だがそこで問題になるのはやはり世界観 ―というか認識のあり様、意識の様態といったものだ。 ところで、認知心理学的な水準に戻ることは、実験室の環境に聴取を還元することではない。マーラーの場合はそれは無謀な企てだ。 だから、結局はもう一度文脈というのは入って来ざるを得ない。 少なくとも歌詞は無しで済ますことは出来ない。 (標題は、それが撤回された、という事実を無視しなければ、やはりそれなりの手がかりにはなる。但し、標題音楽的な 解釈が是とされることには全くならない。標題は結局、歌詞そのものでもないのだ。) だからニーチェと第3交響曲は問題にして良い、すべきなのだ。

―マーラーの「矛盾」はだが、ずっと前から言い古されてきた事だ。 指揮者と作曲家、交響曲と歌曲、しかし世界観ともなれば別だ。意識の様態の多様性自体は問題ではない。 けれどもコヒーレンスはやはり想定されねばならない。 Kennedyは「実験的」「演技者」と呼んだ。 仮説とその検証がより近いのか? 否、そうでもないだろう。 作品を形成する作業と、そこに盛り込まれる実質の問題はだから分裂もするし、緊張関係にもある。

マーラーの音楽は、その世界観はもはや過去のものであって、疎遠なものだ。何と言っても前世紀の価値観の 産物なのだ。だが、マーラーの音楽は、同時代にあっても、アナクロニックなものであった。アナクロニズムには、だから注意を払う必要がある。

(もっとも、生活世界レベルでの世界観や思想、信仰については、彼が懐疑主義的でしばしば「実験的」で あったとはいえ、それなりに「誠実に」表明されていると思うが、、、)
それが「実験」であったことが戸惑いの原因ともなり、逆に時代の違いを乗り越える契機にも なりうるということなのだろう。それでも、違いは無心に音楽を聴いていたころには想像もしなかった程大きいように感じられる。それとも、これは私が変わったのか?かつての私はむしろマーラーの音楽の同時代人だったのか?

進化論と第3交響曲(Vignal):だがマーラーはショスタコーヴィチと違って、唯物論者ではなかったろう。主観的な闘争―勝利ではなく、漸次的な推移 banalな素材。

進化論的思潮との距離。唯物論への抵抗(手紙より)

例えば進化論に対する立場。あるいは唯物論に対する立場:19世紀の西欧の音楽では、この点で展望を共有することを期待するのは難しい。ただし日本にいれば、微妙に風景のピントの合い方はずれてみえる。マーラーの進化論に対する立場は微妙だ。彼は自然科学に対する豊富な意識を持っていた。ニーチェに対してはアンビヴァレントな感情を持っていた。ショーペンハウアーに対する共感を考えれば、実際には進化論を受け入れる素地はあったろう。だが、恐らく進化論に対しては留保をしたに違いない。彼の神がどのようなものであったかはわからないが、神がいたのは確かだろう。神秘主義があったに違いない。
彼は(処世のために改宗はしても)カトリックではなかった。とはいうものの、時代の空気を考えれば、現在の日本に生きる人間の意識と単純に同一視するのは 困難だろう。

こうした立場の違いを理由に、音楽そのものを拒絶することは一般には 「筋違い」と見做される。だが、そうだろうか?実際にはそうした態度はしばしば 密輸されているのではないか。教会で典礼に用いられる音楽を、そうした文脈を切り離して聴くのは 実際には困難だ。現実にはやってしまっている人は多いだろうが。

人と音楽の解離?かつての伝記主義的な解釈は、寧ろ音楽から人への投影に基づくもの?

出世主義者マーラー:Mahlerの音楽は、Adornoのいうほど、弱者の、引かれ者の歌なのか? 出世主義者であり、かつ成功者、今風にはセレブリティでもあったMahler

Mahlerの微妙さは、その多面性にある。あったのは自己への信頼ではなく、媒体としての宿命の認識だったかも知れない。醜い星座、調和しないモナドのイメージを定着させる?何のために?それに何の意義がある?

醜さや悪を観念的に考えることも、何か巨大な怪物としてイメージする必要もない。それは目前に、ごく日常的に存在する。エイハブのように鯨に向かうのは、ある種の投射の結果だ。

作曲者の意図と作品と、いずれに忠実であるかは明らかだ。だが、問題は主体の意図ではなく、作品がどうであるかということだ。もし、そうだとしたら「作曲者」はどうなる?天才の神話は?あるいは「個性」と言うものは?

マーラーへの疑念はむしろ第8交響曲を書いてかつ第9交響曲を、「大地の歌」を書くことができる点、あるいは第6交響曲のあとで第8交響曲を書ける点だ。両立しうるのか疑わしくなるほどの振幅。本当にどちらも信じられたのか?気分的なもの以上のものを読み取ろうとしたとき、そうした世界観や死生観のちょっと考え付かないほどの 相違はとまどわせるものになる。勿論、どちらかが本当で、どちらかが偽りでということはないのだろうが、だから、Greeneの第9交響曲についての最後のコメントは正しいだろう。第10交響曲があればまだ「一貫」するかも知れない。第9交響曲では問いへの答は出ていない。宙に吊られたままなのだ、と。

またKennedyの「演技者の要素があること、つまり確信からでなく、精神的な実験として態度を構えた」 というコメントは正しいのだろう。(ところで、かつての私は、一体ここに何を読み取っていたのだろう?こうした世界観の矛盾をどう思っていたのか?もう思い出せない。)

Mahlerの謎。なぜあのような音楽を、私は「内容」を問題にしているのだ。彼が疎外を感じていたとして、それを強調するのはおかしい。公的な成功と内面を混同することと同じくらい、両方を分離することも間違っている。平和な戦争の無い時代に、頂点にまで登りつめた人間の書いた音楽、私はそれを本当に理解しているのだろうか?100年前の異邦の音楽、しかも全く異なる生活。寧ろ作品そのものに向かい合う、自分なりに向かい合うことのみが可能か? 例えば、第3交響曲第6楽章、この音楽がどんなに並外れたものか、今ならわかる (かつては「当たり前」のように聴いていたのだ!何ということ!)

*かつての私のマーラー観が、恐らく、その当時まだ残っていたマーラー観の影響を受けて、ひどくエキセントリックで内面的なものであったのは 確かだ。何しろ、彼を成功者だとは思っていなかった。文字通り、殉教者だと思っていたのだ。第3交響曲第6楽章についての記述は、作品自体から受ける印象のことではない。そういう点では、かつての私も「当たり前」のように聴いていたわけではない。この作品の持つ時間性は、全く独特の、稀有のものだ。ここでいう並外れたもの、というのは、寧ろ、音楽史上をみても破格である、人間が創造したものとして、云々といった、比較対照をした上での 卓越性を言っている。確かに、かつてはもっと直接に音楽を聴いていたので、そうした他との比較の上での偉大さというのは「考えたことがなかった。」

しかしどちらが作品に端的に向き合っているか、判断は困難だ。言えるのは、かつての方が無媒介に接していたこと、今は距離感が存在すること、 その事実だけだ。(それでもその音楽は、その距離を乗り越えて、私の心を打つ。そういう意味でも、これは例外的で卓越した音楽だ。もっとも、 この感動には、しまいこまれた印象の想起、といった側面もあるのかも知れないが)。そして自分がかつて受け取ったもの、否、今でも受け取れると感じられるものと、そうして反省的に捉えられた人間が一致しない。だから自分にはきちんと聴けていないのではないかという懸念が生じる。もう少し一致してもいいはずだ。MozartやBrucknerの様な音楽では「ない」のだから、尚更だ。(従って、今一度、伝記的な像の確認もまた、必要だろう。La Grangeを入手する手配をしたのは、そうした理由による。欲しいのは、作品の解釈ではなく、 生涯の事実。人間像の方なのだ。この場合には。作品像は私の裡にあるのだから。)

偉人伝のシリーズに収まった大作曲家の生涯は子供を欺く。ラ・グランジュが、モルデンハウアーが、オールリジが、へーントヴァや ファーイが明らかにする作曲家の生は、ちかよればちかよるほど、子供が心に 描いた理想像から離れてゆく。伝記を読み事実を知ることでわかるのは、自分が音楽の向こうに見出していた主体は、 多少とも自分勝手な投影に過ぎないということだ。

社会的環境、選択された生き方、性格、思想を理解することは、自分が親しんでいる 音楽が産み出された環境が、実は自分とはどれだけかけ離れているのかという認識だ。(だからといって別に同時代性や、日本の作曲家であることが、距離感を塞ぐことは ありえない。)

コミットメントの重視。主体性。倫理。ここでは命題的とはいえないかも知れないが、 音楽を通じて表現された態度の帰属が問題になっているといえる。デイヴィドソンの根源的解釈だ。勿論こうした考え方は、作品を表現の媒体として捉える立場を前提としている。
そして作品には意味がある、という立場を。だが、マーラーの場合には、そうした立場をとることが問題になることはないだろう。

(2007以前)

芸術と人生(2023.7.7更新)

芸術と生活の分裂―確かに。
だが、それが一致するようなことがあり得るのか?

それを悲惨と見做すかどうかはおくとして、それが「矯正」さるべき異常な事態であるかどうかは疑ってみて良い。 近代化―疎外、分化、合理化。だが、日常生活の実践や儀式との密接な結びつきは、回復さるべき何かなのか? そうではなかろう。

現実を何か外的な価値によって断罪する身振りにはどこか独善がつきまとう。そもそも何故、音楽が 現存する「社会」を超越しなくてはならないのか?何故、音楽が社会的機能をもって価値付けされなくてはならないのか? 音楽が、自律的なもの等ではなく、社会的に規定されているばかりか、寧ろ積極的に、その産出から享受に至るまで 社会の中を通過していく社会的な存在であることは、当然のことであって、自律的な美学は批評をする自分がどのように 音楽と対したかというのを単なるエピソードやアネクドットの類に閉じ込めることによって議論の舞台から締め出そうと しているに過ぎない。 自分だけが超越的な視点で作品を眺めることができ、その眼差しを消去することが可能だというのは、全くお目出度い 姿勢だというべきだろう。 だが一方で、脱審美化された美的経験を重視しながらも、聴衆類型論で良き聴き手を囲い込み、非形象的な音楽を 優位におき、更には直接的な感情的応答を超え出た批判的応答を芸術作品の「真理内容」とすることで、 批判哲学の居場所をちゃっかりと星座の中にとっておく姿勢は、それが結局、今、ここには不在の規範的な 「真なるもの」を目がけている点でやはり疑わしいものとなる。

分裂はユートピアにおいて解決されるべき何かなどではないのではないか? アドルノがマーラーの第8交響曲に対して示した両義性―「救い主の危険」―は自分に対しても向けられるものだ。 多分アドルノ自身も自覚していたことだと思うが。マーラーに何か共感できるものがあるとしたら、それは矛盾のうちに、第2,3,8交響曲と第6,9交響曲および「大地の歌」とを同一の人間が書いたという矛盾のうちにある。どれかが他を回収するわけではない。共感は、そのいずれか一方についてのそれではなく、矛盾と感じられるとしても、にも関わらずその両方が共存しうるということそのものの裡にある。そしてユートピアが文字通り、現実に決して場所を持つことがないという認識の下において、分裂は寧ろ不可避なものなのではないのか?分裂が刻印された音楽こそ、現実の最中において、手を差し伸べ、Courage to Be(ホルブルック)を与えてくれるのではないか?Overcoming depression without drugs(スナイダー)を可能にするのは、まさにその矛盾から目を背けようとはしないが故ではないのか?(2007.12.31公開, 2023.7.7加筆)

マーラーを語ることの困難

偉大な作品について書き、それを公表することは困難だ。 それは大変な勇気を要する。私が何を加えることが出来るのか?
「~について語る」ことが出来るほどに、ある対象について知悉しうるのは決して簡単なことではない。 結局、そのためには充分な時間とコストが必要なのだ。 時間をかけずに、何かを産み出すことはできない。 全ての作品を知らねばならない、というつもりはないにせよ、ほとんどの作品を憶えているくらいでなければ、語ることは難しい、、、
知らずに書くことは恐ろしい。またわからずに書くことも。 何とたくさんの間違いが蔓延って、大きな顔をしていることか。 私もまた、その愚を犯そうというのか?

自分の聴き方に対して反省してみる余裕ができれば、書くことは難しくなる。一通り聴いて全体を捉ええたと 思われるくらいが丁度良い。 文献を読むのは、第一印象が薄れるからではなく、視点の多様性を自分の立つ位置の相対性を認識することで、 そうした反省を生じさせる故に危険なのだ。 独断的な潔さをもって熱中の対象を描き出すのは悪いことではない。 だが、多分、その先に進まなければ、本当に何かを論じることはできない。

音楽一般「について」考えを纏める事はやらないほうがいいだろう。 それだけの時間がない。 音楽そのものについて語るには素養が無さ過ぎる。 だが何と多くの誤解と事実の無視が、基本的な考え違いが音楽の周囲にあることか。
それらに対しては「否」を言わなくては、と思う。 「現象から身を離しつつも」、そこでは赦し難いものを感じる。
音そのものに対する興味、関心というのは、共有しない。 勿論音楽家は興味を持ってよいのだろう。 私が聴き取りたいのは音の構造の水準ではなく、それを支える「何か」の方だ。 そうでなければ音楽家でもない私が何かを言う意義はない。

とりあえずマーラーの音楽は「古典」である。それは同時代性の限界を乗り越えて、文化の違いを乗り越えて、今日の極東の地で聴かれ続けている。 そうであるとすれば、それは「古典」に接するときに生じる問題―その作品が生まれた文脈は既に喪われてしまっていて、間接的な知識というかたちでしか それを理解する手段がないという限界を持っている。マーラーが生きた時代についての、マーラーが己の作品を産み出す素材とした思想的背景についての 知識が増すことは、マーラーの音楽の理解にとって無意味ではないだろうが、一方で、それを幾ら知ったところで、自分が生きている時代がそれとは 全く異なる時代なのだということを忘れてはなるまい。知識の量が経験の質を担保することは、結局ありえないのだ。特にそうした知識を豊富に持つ 人たちは、我が事のようにマーラーに向き合う聴き手の素朴さを嘲笑うが、そのくせマーラーの音楽が世代を超えて生き続ける理由について、 そうした素朴な聴き手以上に多くのことを掴んでいるようには見えない。要するにそういう人達は、マーラーの音楽を過去に閉じた、完結したものとして 扱っているのだ。その姿勢の骨董品の来歴について得々と語るのとなんと似ていることか。(2007.12.31)

備忘:変形の技法

Variante-オリジナルはどれか?主題は最後にあるいは回顧的にのみそれを知りうる。→「未来完了性」との関わりについて検討せよ。

cf.原詩の扱い。原詩の改変とVariante技法との類比。

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時間の流れの形成。Varianteによる主題の変容による流れの形成。
closure / finale問題、エネルギー最小、カデンツにおける安定(解決)
だがclimaxでの終了は、エネルギーの最小化からすると「もともと」無理がある。
→XIIIを最後に、finale問題は消失。
ersterbend/morendoによる終了は、エネルギー最小の点からは、最も適切なclosureとなる。
マーラーはもはやfinaleの問題を解決しない。
LEの付加6の和音は?

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変形の技法によって、モティーフ、素材の持つ意味、引用の意義は変わる。それはライトモティーフではないし、同じモティーフの単なる反復でもない。

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マーラーの「再現」の恐ろしさ、それが聴き手にもたらす、時としてそれ自体がトラウマになりそうな程強い情緒的なバイアスである。

「決定的な瞬間」においては、相転移が生じ、最早、それは単なる繰り返しとしての再現ではないこと、寧ろ、もはや元のようではない、音楽がもう引き返せないところまで来てしまったということを告げているが故にそうした強烈な情緒的な負荷が生じるのではなかろうか。

こうしたメカニズムを支えている技術的な要素として、アドルノ指摘する「ヴァリアンテ(変形)」の技法が挙げられる。アドルノがヴァリアンテの技法と時間性との関わりについて述べる以下の一節との対応づけを考えよ。
「彼のヴァリアンテは、時間を静止させるのではなく、時間によって生成し、さらにまた二度と同じ流れに乗ることはできないということの結果として、時間を生産するのだ。マーラーの持続は力動的である。彼の時間の展開のまったく異質なところは、物まねの同一性に仮面をかぶせるのではなく、伝統的な主観的力動性の中になお一種の物的なもの、つまりは以前に措定されたものとそこから生じたものとの間にある硬化した対照性を感じ取ることによって、時間に内側から身を任せることにある。」(アドルノ『マーラー 音楽観相学』, 龍村あや子訳, 法政大学出版局, 1999, p.128)
彼の「再現」が文字通りの「反復」ではなく、「ヴァリアンテ」がもたらす対照性の効果によって、それが二度と戻ることのない過去に「かつてあった」ことがあり、今やそこから遥かに時間が経過したという決定的な感じを与えることで聴き手を震撼させ、戦慄させ、軽い恐慌状態にすら至らしめるということは言えるのではないか。

*     *     *

私が生態学の中でも特に植物生態学に惹かれた原因の一つは、当時の私にとってのアイドルであったマーラーやヴェーベルンに影響を与えたゲーテの植物論だった。特に彼の「原植物」という発想の影響は明瞭で、彼らの作曲技法にもその反映が見られる。

そのことに関連して、藤原辰史『植物考』(生きのびるブックス, 2022)に、ベンヤミンのVarianteへの言及が含まれることを書き留めておくべきだろう。登場するのはブロースフェルトの『芸術の原形』を取り上げた第4章の、「ベンヤミンの評価」と題された節(同書, p.85以降)。ヴァリアンテに対する言及は更にその中で、ベンヤミンが1929年に書いた書評「花についての新刊」の内容を紹介する中で、書評の一部を引用するところ。
(…)つまり、植物の拡大写真は、「創造的なものの最も深い、最も究めがたい形のひとつ」に触れる。この場合、「形」というのは、さまざまなものが変形する以前のプロトタイプのようなものだ。ベンヤミンはこんなことを言っている。
この形を、大胆な推測をもって、女性的で植物的な生原理それ自身、と呼ぶことが許されてほしいものだ。この異形は、譲歩であり、賛同であり、しなかやなものであり、終わりを知らぬものであり、利口なものであり、偏在するものである。
 この場合、異形とはVariateで、原形をずらしたり、改変したり、変形したりしたもののことである。自然のものとしてこの世に存在する植物の形に、人間の作ったトーテムポールや、建築物の柱や、踊り子の動きを見ることができるのは、植物の「創造」の原理が、超越者の「発明」ではなく、なんらかの真似や譲歩や賛同を通じて「変化」していくという中心なき移ろいのようなものだからである、とベンヤミンは考えているようだ。(同書, p.87)
アドルノがマーラーについてのモノグラフで、作曲技法としてVarianteの手法を指摘しているが、『植物考』で指摘された点を踏まえれば、概念的も明らかに共通点があり、無関係ではないのだろうと思う。私はベンヤミンは不勉強で、自分の興味があるテーマについて書かれた論考を摘まみ食いしているだけで全く疎いのだが。

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ナターリエ・バウアー=レヒナー『グスタフ・マーラーの思い出』(高野茂訳, 音楽之友社, 1988)
p.162 : 純粋な書法
(…)植物の場合に、一人前の木として花を咲かせ、枝を幾重にも伸ばした木が、たった一枚だけの葉からなる原形から成長していくように、また人間の頭がひとつの脊椎骨にほかならないように、声楽の純粋な旋律性を支配している法則は、豊潤なオーケストラ曲の錯綜した声部組織にいたるまで、保持されなくてはならない。(…)
p.350:シューベルトについて 1900年7月13日
(…)あらゆる繰り返しというものは、もうそれだけで嘘なのだ!芸術作品は、生命と同じように、常に発展していかなくてはいけない。そうでないと、そこから虚偽と見せかけがはじまる。(…)
p.431;第五交響曲に関するマーラーの話
(…)とくに、一度でも何かを繰り返してはならず、すべてが自発的に発展しなくてはならない、という僕の原理(…)

上記では、最初の「純粋な書法」の節が、ゲーテの「原植物」を最も強く示唆する。

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ブルーノ・ワルター『マーラー 人と芸術』(村田武雄訳, 音楽之友社, 1960)
p.148
しかし、マーラーの心を強くひいたのは、与えられた主題の変形と拡大、すなわち変奏曲の基底となる「種々の変形(ヴァリアンテ)」が展開の重要な要素であった。そして、この変奏技術は、その後のかれの交響曲にいっそ立派な形式となって表現されて、かれの再現部と終結部とに美しさを加えたのである。

*     *     *

以下は、岡部真一郎『ヴェーベルン 西洋音楽史のプリズム』(春秋社, 2004)に、著者自身による翻訳により引用された、モルデンハウアーのヴェーベルン伝に収録されたヴェーベルンの日記の一部である(Moldenhauer, Anton von Webern: A Chronicle of his Life and Work, London, 1978 のpp.75-76)。見ての通り、第一義的には対位法に関する文脈であり、ヴァリアンテについてではないことに注意。だが、結論部分は結局、そういう話になるようにも読める。変奏に主題が移り、「展開」の仕方が問題となっているわけなのであるから…もっとも、マーラー自身は、「主題が再現する度に新鮮な美しさを感じさせるためには」、旋律そのものの美しさが重要であると言っていて、ヴァリアンテの技法を持ち出しているわけではない。
岡部真一郎『ヴェーベルン 西洋音楽史のプリズム』(春秋社, 2004)
p.67 
シェーンベルクが、対位法の奥義を理解しているのはドイツ人だけだ、と述べたのがきっかけで、話は対位法へと向かった。マーラーは、ラモーなど、フランス・バロックの作曲家の存在を指摘し、一方、ドイツ圏では、バッハ、ブラームス、ヴァーグナーの名前を挙げるに留まった。「この問題に関しては、我々にとっての規範となるのは、自然だ。自然界においては、宇宙全体が、原始的細胞から、植物、動物、人間、そして、超越的な存在である神へと発展して行く。同様に、音楽においても、大きな構造は、これから生まれるべきもの全ての胚芽を包含する単一のモティーフから発展すべきだ。」ベートーヴェンにおいては、ほとんどいつでも、展開部において、新たなモティーフが現れる、と彼は言った。しかしながら、展開部全体は、単一のモティーフにより構成されるべきである。したがって、この点から言えば、ベートーヴェンは対位法の名手とは言い難い。さらに、変奏は、音楽作品において、最も重要な要素であるとも彼は述べた。主題は、シューベルトにおいて見い出されるように、真に特別な美しさを持つものでなければならない。主題が再現する度に新鮮な美しさを感じさせるためには、それが必要なのだ。彼にとっては、モーツァルトの弦楽四重奏曲は、提示部の二重線で終わりだ、という。現代の創造的音楽家の使命は、バッハの対位法の技術とハイドンやモーツァルトの旋律性を一体化させることなのだ。
そして上記のマーラーの言葉を、ヴェーベルンの「原植物」(以下の引用文では「根源植物」)と結び付けているのは、実際には著者の岡部さんなのだった。
一方、再度、マーラーについての日記への記述に目を向ける時、今一つ、我々の目を引くのは、この大音楽家の「宇宙は単一の原始的細胞から発展し、構築される」という発言にヴェーベルンが強く魅かれていたと考えられることが。これは、後年、ヴェーベルンが繰り返し言及したゲーテの「根源植物」の概念をも想起させるものではあるまいか。(同書, p.68)

(2007, 2024.5.11更新)

2007年12月26日水曜日

フリッツ・レーア宛1884年6月22日付けカッセル発の書簡にある「ゼッキンゲンのラッパ手」についての言葉

フリッツ・レーア宛1884年6月22日付けカッセル発の書簡にある「ゼッキンゲンのラッパ手」についての言葉(1924年版書簡集原書18番, p.27。1979年版のマルトナーによる英語版では24番, p.77,  1996年版に基づく邦訳:ヘルタ・ブラウコップフ編, 『マーラー書簡集』, 須永恒雄訳, 法政大学出版局, 2008 では27番, p.32)
(...)
Ich habe in den lezten Tagen über Hals und Kopf eine Musik zum "Trompeter von Säkkingen" schreiben müssen, welche morgen mit lebenden Bildern im Theater aufgeführt wird. Binnen 2 Tagen war das Opus fertig und ich muß gestehen, daß ich eine große Freude daran habe. Wir Du Dir denken kannst, hat es nicht viel mit Scheffelscher Affektiertheit gemein, sondern geht eben weit über den Dichter hinaus. Deinen Brief erhielt ich eben, als ich die letzte Note in dir Partitur schrieb; wie Du wohl fühlen wirst, schien er mir mehr eine himmlische als irdische Stimme.(...)

(…)ここ何日か大急ぎで、「ゼッキンゲンのラッパ吹き」のための音楽をやっつけなければならなかった。そいつは明日、劇場で舞台をつけて上演される。二日以内で仕上げたが、正直言っておおいに楽しんだ。君も察するとおり、その曲はシェッフェル流の気取りを必ずしも受け継がずに、まさしく詩人をはるかに凌駕するものだ。総譜に最後の音符を書き付けている折も折、君の手紙を落手。君もきっと感じているだろうが、この手紙は僕にはこの世のものというより天上の声のように思われたよ。(…) 

マーラーの第1交響曲が、その初期の形態では2部5楽章からなる交響詩「巨人」として構想され、その第2楽章には現在では削除された「花の章」が 含まれていることは、今や良く知られていることだろう。第1交響曲の成立の経過の詳細はここでは割愛するが、その更に前史にあたる過程として、「花の章」が 「ゼッキンゲンのラッパ手」という劇付随音楽に由来することにちなんで小文をまとめたので、それにちなんで、ここではその「ゼッキンゲンのラッパ手」の作曲に まつわる書簡を紹介する。早くも半年後には否定的に眺められ、最終的にはマーラー自身により見放される作品だが、それにも関わらずここでのマーラーは、 作曲を終えたばかりの亢奮と高揚の裡にいるように見受けられる。(2007.12.26 執筆・公開, 2024.8.12 邦訳を追加。)

2007年12月16日日曜日

調査レポート「花の章とゼッキンゲンのラッパ手を巡って―林邦之さんに―」

はじめに

以下は、主にロマン派に加え、ヨーロッパの民族音楽にも興味をお持ちで、ドイツの学生歌に大変深い造詣をお持ちの林邦之さんの お問い合わせに応じて調査した結果に基づくものである。
もとのご質問は非常に専門的な性質のもので、私ごときの手に負えるものではなかったのだが、そのうち、以下については、何とか調査しご回答することができた。

  • 「ドイツ学生歌」のLPに含まれる”Lied des Trompeters von Säckingen”が歌詞上は、ドイツ民謡集 ”Allgemeises Deutsches Kommersbuch” に 掲載されている ハイデルベルクの学生歌”Alte Heidelberg, du feine- - - ”そのものであることに関連した、「ゼッキンゲンのラッパ手」に関する事実関係。
  • マーラーの第1交響曲の初期形態に含まれていた「花の章」と「ゼッキンゲンのラッパ手」との関係が具体的にどのようなものであったか。
  • 「ゼッキンゲンのラッパ手」に基づく歌劇に関連した情報について。

いずれも手持ちの文献に記載の内容で、私が一次資料を調査したわけではないが、このテーマについてある程度まとまった情報を日本語で 目にする機会は恐らくなかなかないものと思われるので、公開する価値があると考え、その調査内容をここにまとめておくことにする。

この項に記載する内容は上記のような経緯に基づくものである故、この文章自体がご質問いただかなければありえなかった。 ご質問がなければ、このテーマについてまとめることはなかっただろうし、私としては非常に貴重な勉強をさせていただいたと感じている。 この場を借りて、林さんには深い感謝の意を表したい。

1

「ゼッキンゲンのラッパ手」は、Victor von Scheffel作の韻文の小説(詩物語)である。 Scheffelは1826年Karlsruhe生まれ、1890年同地に没した作家・画家。 「ゼッキンゲンのラッパ手」は1853年に執筆、1854年に出版され、非常に評判を呼び、250版を重ねたということだから、当時としては 大ベストセラーだったのだろう。

今日でも同じようなことが小説と映画、テレビドラマ、演劇といったジャンルの間で行われることは珍しいことではないが、 当時もまた、このベストセラーに基づく翻案劇や、歌劇、それから「活人画」などが作成、上演されたようだ。 その中で最も著名なものは、Victor Ernst Nessler(1841-1890)による同名の歌劇のようである。これについては、歌劇場の指揮者 としてのマーラーとの関連もあるので、後ほど別に扱うことにする。

ところで、質問していただいた林さんがドイツ民謡集"Allgemeines Deutches Kommersbuch"所収の学生歌であることを突き止められた "Alte Heidelberg, du feine--"は、実はSchffelの作品の中に含まれているのである。Scheffelの原作は、現在Webでは Gutenberg-DE(ドイツのグーテンベルク・プロジェクト)で読むことができるので、 ご興味のある方は確認されたい。問題の詩は、"Zweites Stück : Jurg Werner beim Schwarzwälder Pfarrherrn" の中に含まる。(Jurg Wernerは、ラッパ手である主人公の名前。)

従って件の学生歌が"Lied des Trompeter von Säckingen"そのものを題名にしたことの経緯は別にして(それはそれで 調べれば興味深い事実が判明するかも知れないが)、それなりの根拠があるわけである。 学生歌や民謡は、常に匿名の伝承に由来するものとは限らず、このように比較的新しい時代に創作されたもので ありながら、原作が時代の流れとともに忘れ去られ、特に愛好されたその一部のみが、匿名性を持って流通する ということは珍しいことではないのは、例えば 梅丘歌曲会館の特に藤井さんがお訳しになられた詩についてのコメントなどを読めばわかる。 (その他にも、藤井さんがお調べになって判明した興味深い事実は―発見と呼べるようなものも含めて―色々とある。 まだご覧になっておられない方がいらしたら、是非、一読されることをお奨めしたい。)

一方、Scheffelの原作が更に、既存の伝説などに由来するものである可能性も否定できないが、こちらについては 残念ながら、マーラーに関する文献しか手元にない私には手に負いかねる問題である。例えば、実は事実はもう一度逆転し、 "Alte Heidelberg, du feine--"は、そのとき(つまり1853年時点で)すでに学生歌として存在していたものを、 Scheffelが取り込んだものである可能性だってないとはいえない。さらには、Der Trompeter von Säckingenの全体について それが下敷きにした伝説や民謡の類が存在するのかどうかについては何とも言えない。Scheffelの原作、 あるいはScheffelその人についての研究などがあれば(きっとあるに違いない)、それをあたるべきなのだろうと思うが、 私が憶測を重ねることは慎みむべきだと判断し、この点についての追求は断念した。

2.

マーラーと 「ゼッキンゲンのラッパ手」との関係は、今日の我々にとってのマーラー、すなわち交響曲作家としてのマーラーについて 言えば、些か間接的なものである。それは第1交響曲の生成史と関わりを持ち、改訂により今日 一般に演奏される4楽章の形態になる際に削除されてしまった「花の章」と呼ばれる楽章が、実は、マーラーが1884年に書いた 「ゼッキンゲンのラッパ手」の「活人画」のための付随音楽に由来するという事実によるのである。

マーラーは、1884年6月22日付けのカッセル発の友人のフリッツ・レーア宛書簡で、「ゼッキンゲンのラッパ手」の付随音楽の 作曲を行なったことを述べていて、その翌日の6月23日、勤務先の劇場で「活人画」と一緒に上演されることになっていることを述べている。 ちなみに「活人画」というのが、具体的にどういうものであったかはよくわからないようで、少なくとも私の参照している文献では はっきりしたことはわからない。(ほんの100年少し前の事なのに不思議な気もする。あるいは、音楽の―わけてもマーラーの ―研究者が知らないだけで、演劇史研究の専門家の世界では、事情が違ったりするのかも知れないが。)

第1交響曲の生成史については既にご存知の方も多いとは思うが、関連する、成立までの過程について改めて簡単にまとめると、 初演は1899年11月20日ブダペスト、彼は当時、当地の歌劇場の監督だった。初演の時には5楽章2部からなる「交響詩」として演奏されており、 プログラムには各楽章のタイトルもつけられている。

作品の完成については1888年3月のフリッツ・レーア宛書簡がその完成を告げる資料として知られている(アルマ・マーラー 編の書簡集所収)。実はこの手紙は日付がなく、3月にライプチヒから出されたということしかわからない。 いずれにしても、この作品の創作の最終段階は、ライプチヒの歌劇場で働いていた時代であることは確かなようである。

一方、創作の開始についてははっきりとしないようだが、1885年頃、すなわちカッセルの歌劇場時代の末期、 「さすらう若者の歌」の創作時期まで遡れるのは確かなようだ。(よく知られているように、第1交響曲の素材には、「さすらう若者の 歌」と共通するものが数多くある。)

ところで問題の「花の章」だが、自筆譜を検討したドナルド・ミッチェルによれば、使用された五線紙などを根拠に、それが 直接「ゼッキンゲンのラッパ手」の付随音楽のスコアが書かれた時期、すなわち1884年まで遡ると仮定することもできるようである。 (この点については、異論もあって、例えば、金子建志さんは疑問を述べられているが。) ただし、ミッチェルも、「花の章」が、「ゼッキンゲンのラッパ手」の付随音楽をそのまま転用したという決定的な証拠はない、と はっきり述べている。というのも、「ゼッキンゲンのラッパ手」の付随音楽の楽譜は、破棄されたか、そうでなくとも喪われていて、 少なくとも現時点ではそれがどのようなものであったかを直接知ることができないからだ。 (もっとも、ヨーロッパの歌劇場では喪われたと思われていた作品の楽譜が発見されたり、というのはよくあることのようなので、 今後、見つからないとも限らないが。)

にも関わらず「花の章」が、「ゼッキンゲンのラッパ手」と関係しているといえるのは何故かといえば、上掲のレーア宛の書簡以外に もう一つ、非常に重要な証言が残っているからなのである。それは、1920年(1930年としている文献もあるが、間違いの ようだ。Musikblätter des Anbruch II-7,8 (1920) Sonder-Nummber Gustav Mahler pp.296~。ただし元論文には私はあたれていない。 なおAnbruchには1930年にもマーラー特集があるので、上記の間違いはこれを混同したものと推測される。) にマックス・シュタイニッツァーが書いた論文で、著者が記憶している(!)、「ゼッキンゲンのラッパ手」の出だしのトランペットの旋律が 数小節記譜されており、それが「花の章」のそれと一致することが確認されている。 (もっとも、厳密には、シュタイニッツァーの論文のそれと、「花の章」では調性が異なるようで、これはこれで、マーラーが 第1交響曲を改訂した動機や、改訂の過程自体に関連した興味深い部分である。要するに、しばしば「花の章」の削除の理由として、 調的関係の相性の悪さが指摘されるようだが、その点について考える際に、この証言をどこまで考慮すべきかという問題があるように 思われるのだ。)

それでは、「花の章」の音楽は、「ゼッキンゲンのラッパ手」において一体どのような場面で用いられたものだったのだろうか? カッセルでの「活人画」の上演時には"7 lebende Bilder mit verbindende Dichtungen nach Viktor Scheffel von Wilhelm Benneck. Musik von Mahler"と告知されていたようだ。 ミッチェルの推測では、「花の章」はその最初の曲"Ein Ständchen im Rhein"であろうとのことで、それは 主人公のラッパ手ヴェルナーが、月夜の晩にライン川の対岸の城に住むマルガレーテのために吹くセレナーデだったようである。 またド・ラ・グランジュによれば、全曲はこのセレナーデの主題に基づき、その主題が変形されて 行進曲、愛の場面のためのアダージョ、そして戦闘の音楽に用いられたということだ。これは1970年の英語版でも、その改訂版である フランス語版第1巻でも、それぞれの作品解説で読むことができる。ちなみに、ラ・グランジュの著作に記載された各曲の題名は以下の通り。

  • Ein Ständchen im Rhein
  • Die erste Begegnung
  • Das Maifest am Bergsee
  • Trompeten-Unterricht in der Geissblattlaube
  • Der Überfall im Schlossgarten
  • Liebesglück
  • Wiedersehen in Rom

また、自筆譜の存在については1944年の爆撃によって喪われるまでは、カッセルの劇場のアーカイヴにあったが、 爆撃により喪われたと想定されているようだ。(この想定は、上記のシュタイニッツァーの論文での証言に 基づいている可能性が高いと思うが。)

自筆譜について言えば、この作品は、1884年にカッセルで上演された後、マンハイム、ヴィースバーデン、カールスルーエで 演奏された可能性がある。これはレーア宛の1885年1月1日付け書簡で触れられており、これに基づき、ド・ラ・ グランジュが調査したところによれば、ヴィースバーデンは記録なし、マンハイムは爆撃で記録自体が失われ、 辛うじて、カールスルーエでは1885年6月6日に上演された記録があるとのこと。(1973年の英語版注による。 フランス語版の注では6月16日だが、これは誤植ではないか。というのも英語版書簡集のp.81には カールスルーエでの演奏の予告記事のコピーが収録されているが、この予告では6月5日となっているからである。 ラ・グランジュが確認した上演記録が、マルトナーが書簡集に収めた予告とは別のものであるかどうかはわからないので、 5日の予定が6日になったのか、それとも6日もまた誤植なのかを判断することは私にはできない。なお、マルトナーは英語 版書簡集に付けた注で、マンハイム、ヴィースバーデンでの再演は行われなかったと書いている。 ラ・グランジュの本は大部なせいもあってか細かい誤植がかなり目立ち、資料的に用いる際には困ることがしばしばある。) したがって、もし今後楽譜の「発掘」調査をするのであれば、例えばカールスルーエの劇場とかも調査の対象としては 考えられるのではなかろうか。

ちなみにマーラーは、自分が書いたこの音楽について、作曲当初は「Scheffelの気取りとはあまり重なっておらず、その世界とは かけ離れたもの」だと自負し、満足していたものの、その後否定的な考えを持つようになり、既述の通り、一旦は交響詩「巨人」に 組み込まれた「花の章」も、最終的には削除されることになる。「花の章」ではない、そもそもの 「ゼッキンゲンのラッパ手」の音楽自体についても、マーラー自身の否定的な考えは、すでに上記の1885年1月の書簡にも 現われていて、それ以上の上演が行なわれるように運動するようなことはしない、と述べており、そして、上記 3つ以外の上演記録が確認されたという話はないようだ。

以上、マーラーの書いた「ゼッキンゲンのラッパ手」に関して、私が手元にある資料でわかっていることをまとめてみた。

3.

最後に、最初に予告したとおり、マーラーとNesslerの歌劇との関係について、若干補足したい。

このNesslerの歌劇はまさに問題の1884年に作曲、初演されたようだ。(初演は1884年5月ライプチヒで行なわれた。) この歌劇もまた、Scheffelの原作同様、非常に人気があったようで、現在でも、またしても典拠がわからないままそのうちの 一曲"Berüt' dich Gott, es wär' zu schön gewesen"が演奏されることがあるという記述がジルバーマンの「マーラー事典」にある。

ちなみにマーラーがScheffelの原作について否定的な意見を持っていたことは、既述の内容からも窺える通りだが、 このNesslerの音楽とマーラーの作曲とは勿論、無関係なもので、こちらについてもマーラーは否定的な見解を抱いていたことを 推測させる資料が幾つかある。 (作曲のきっかけとなった活人画の上演企画自体が、時期的に見てNesslerの歌劇の成功に刺激されてのもので ある可能性はミッチェルの言うとおり、充分にある。)

ただしNesslerの歌劇は当時流行の歌劇だったわけで、歌劇場指揮者であったマーラーは、演奏家としては没交渉で済ませることはできなった ようで、カッセルの次の勤務地であるプラハでの1885-86のシーズンに指揮をしたことが確認されている。 この上演については、有名なバウアー・レヒナーの回想に、マーラー自身の語った顛末が収められているが、そこでは Nesslerの歌劇についても、否定的な意見であったことがはっきりと窺えるのである。

更に後年、ハンブルクの歌劇場時代、イギリスに引越し公演をした際にも、プログラムには、Nesslerの歌劇が含まれている。 これは当時ドイツで大人気だったこの歌劇のイギリス初演で、それなりに注目を集めたことが当時の新聞記事などから窺えるようだ。 ただし、はじめからマーラーには、自分で指揮するつもりはなかったようで、フェルトという人が指揮をしたようだが。 (公演予定のパンフレットの写真が例えばブラウコップフの編集したドキュメント研究に含まれるので確認することが可能である。) まあ自分も同じ作品に作曲したことがあるわけで、作曲家としてのライバル意識のようなものが働いたということも考えられるのだが。

残念ながら、私はこの歌劇を聴いたことはないのだが、ちょっと調べてみると、何とCapriccio レーベルから2枚組みでCDが出ている ことがわかった。Amazonなどで検索すれば比較的容易に見つけられるようなので、ここでは詳細は記載しないが、マーラーの 評価の是非について関心をお持ちの方が確認すること、あるいはそうではなくても、この歌劇そのものに関心をお持ちの方が その内容を確認することは可能なようである。(2007.12.16公開, 12.18加筆修正, 12.26マンハイム、ヴィースバーデン、 カールスルーエでの再演に関して加筆修正)


2007年7月7日土曜日

アンリ・ルイ・ド・ラ・グランジュ「マーラー」第1巻(フランス語版, 1979)第1章(p.9)より

アンリ・ルイ・ド・ラ・グランジュ「マーラー」第1巻(フランス語版, 1979)第1章(p.9)より
Il n'avait pas cinq ans lorsqu'on lui demanda ce qu'il rêvait de devenir plus tard. La réponse de Gustav Mahler fut aussi surprenante que la question avait été banale : « Je veux être un martyr ! »
Sans doute Arnold Schoenberg ne connaissait-il pas cette anecdote et pourtant il allait s'exclamer, après la mort de Mahler : « Ce martyr, ce saint ... peut-être était-il écrit qu'il nous quittât? ... » Certes, l'histoire de sa vie suffit à détruire la légende aussi absurde que tenace d'un Mahler crucifié par les tragédies personnelles, les deuils, les drames et toutes les catastrophes qui forgent l'âme romantique. Quoi qu'il en soit, Mahler fut réellement un martyr et cela au sens littéral du mot, c'est-à-dire un homme qui met sa vie, toute sa vie en jeu pour sa croyance, un homme pour qui le sacrifice est accomplissement. Sa religion de la musique, son douloureux idéal de la perfection devaient en faire la victime désignée des philistins de la tradition, de la routine et de la facilité. Pour lui, l'acte de musique passait par la contrainte de soi-même, par la souffrance. Il sera donc un martyr de la musique au même titre que Flaubert un martyr des lettres.

大人になったら何になりたいかと尋ねられたとき、彼はまだ5歳にもなっていなかった。グスタフ・マーラーの答えは、問いが平凡であったのと同じくらい驚くべきものだった。「ぼくは殉教者になりたい!」 
アルノルト・シェーンベルクは恐らくこの逸話を知らなかったでしょうが、にも関わらず、マーラーの没後、「この殉教者、この聖人…我々のもとを去ってしまった…」というように述べることになるでしょう。 確かに、彼の人生の物語は、個人的な悲劇、喪、ドラマ、そしてロマンチックな魂を鍛え上げるあらゆる大惨事によって十字架につけられたマーラーという、執拗で馬鹿げた伝説を破壊するのに十分です。とはいえマーラーは実際に殉教者であり、言葉の文字通りの意味でのそれ、つまり自分の信念のために自分の命、全生涯を賭け、犠牲を成し遂げた人でした。音楽という彼にとっての宗教、完璧さという痛みを伴う理想は、彼を伝統、ルーチンワーク、安易さに埋もれたペリシテ人たちの餌食にしました。彼にとって、音楽という行為は苦しみと自己抑制を伴うものでした。それゆえフローベールが文学の殉教者であるのと同様、彼は音楽の殉教者なのです。 

同じくアンリ・ルイ・ド・ラ・グランジュのマーラー伝の今度は本文の冒頭である。子供の頃何になりたいかと聞かれて、殉教者になりたいと答えた このエピソードもまた有名なものだが、これを冒頭に置き、またしてもシェーンベルクの言葉を引きながら、マーラーが結局、音楽の殉教者であったという 規定をするところから、この長大な伝記が始まるのである。(なお、恐らくこのシェーンベルクの言葉の引用とされるものは、マーラーの思い出に捧げられた『和声学』から採られたものに違いないのだが、上記フランス語版の引用は断片的過ぎて、実質的に彼がマーラーを殉教者と呼んだということしかわからないし、典拠の記載も為されていない。この点はド・ラグランジュ没後に刊行された、英語版第1巻の改訂版では改善されていて、ここに引用したパラグラフはより詳細な記述によって大幅に増補されていて、更に典拠が注記されているのが確認できるが、ここでは、本稿執筆当時に参照したフランス語版を引き続き参照することにする。なお、フランス語版に先行する英語版の最初の版では、最初のアルマの語るアネクドットこそほぼそのままだが、次のパラグラフは全く異なるものであった。)

個人的なことになるが、もう20年ちかく前に、このアンリ・ルイ・ド・ラ・グランジュの伝記ではなく、ドナルド・ミッチェルの研究の最初の巻を読んだ時に、 膨大な伝記的情報が、音楽を聴くことで自分の中に勝手に作り上げていたマーラーのイメージと一致せず、身勝手な親近感に冷水を浴びせかけ、 距離感をもたらすことになった経験がある。だから伝記には楽聖伝説の類を破壊する効果があるという言葉には頷けるものがある。否、楽聖伝説の 類には興味がなくても同じことだ。同じ中部ヨーロッパに住んでいるならまだしも、それは自己の想像力を遙かに超えた距離の向こう、時空の彼方にあるのだ。 評伝を幾つかと、とりわけアルマの回想録を、その内容をそらんじられるほど読んで、すっかりマーラーを「わかった」気になっている愚かな若造に対して、 自分の知らぬ人、自分の知らぬ土地やものをこれでもかとばかりに延々と提示することで、自分がわかったと思ったのがどんなに浅はかな思い込みに 過ぎないかを思い知らせる効果が、このような伝記には確かにあるのだ。量はここでは質的な効果を持っていて、結局、ある人の生の厚みを そのまま追体験することなど勿論出来はしない、そのわかりきったことを、ともすれば忘れてしまう浅慮を粉砕する強度は、まさにその量に由来するのだろう。

それでは、音楽の殉教者という規定の方はどうか?それは間違いではないのだろうと思うが、こちらもまた、私にとってはマーラーという人の「理解しがたさ」を 象徴するようにさえ感じられる。そうした人間の書いた音楽が自分を惹きつけるのは何故なのだろうか、あるいはまた、自分は本当にその音楽を 理解しているのだろうか、という問いは恐らくなくなることはないのだろうと思う。マーラーのような「時代の寵児」の伝記であれば、恐らく別の読み方― 時代を知るためのコーパスとして用いるような―もまた可能なのだろうが、残念ながら私にはそうした視点の移動はできそうにない。 私にとっては、マーラーの音楽の特異性がまずもって問題なのだから。それゆえ私にとって、伝記というのは直接謎に答えてくれる情報を提供してくれるものではない。 そもそも伝記もまた、「客観的な事実」を伝えるものではなく、ある人物の生の軌跡を浮び上がらせるために、できるだけ多くの視点を提供することに あるのだし。それゆえ必要に応じて伝記を参照することは、寧ろ、過度の熱中による思い込みを防ぎ、適当な距離感を持つために必要なものと 感じている。(2007.7.7マーラーの誕生日に, 2024.8.12 邦訳を追加し、ド・ラ・グランジュの伝記の各版による記述の相違について追記。)