お知らせ

GMW(Gustav Mahler Werke, グスタフ・マーラー作品番号:国際グスタフ・マーラー協会による)を公開しました。(2025.4.20)

2025年8月18日月曜日

[お知らせ] マーラー祝祭オーケストラ(音楽監督・井上喜惟)第25回定期演奏会(2025年10月11日)

  マーラー祝祭オーケストラ(音楽監督・井上喜惟)第25回定期演奏会が2025年10月11日にミューザ川崎 シンフォニーホールにて開催されます(12:45開場、13:30開演)。以下のマーラー祝祭オーケストラの公式ページもご覧ください。

Mahler Festival Orchestra Offcial Site (https://www.mahlerfestivalorchestra.com/)

チラシのpdf版は以下のリンクからダウンロードできます。

マーラー祝祭オーケストラ第25回定期演奏会.pdf




プログラムはベルクの7つの初期の歌とマーラーの第9交響曲より構成されます。第9交響曲はマーラー祝祭オーケストラがまだジャパン・グスタフマーラー・オーケストラという名称であった2012年6月24日に、文京シビックホール大ホールで行われた第9回定期演奏会で取り上げられており、今回は13年ぶりの再演となります。13年前の公演に接した本ブログ管理人の感想は、ジャパン・グスタフ・マーラー・オーケストラ第9回定期演奏会を聴いてという記事として本ブログで公開しています。第9回定期演奏会は本来、2011年に行われる予定でしたが、東日本大震災被災により当初予定されていたミューザ川崎シンフォニーホールでの公演ができなくなったこともあり、1年延期の上、会場を変更しての公演となりました。今回は改めて、ミューザ川崎シンフォニーホールでの公演となります。

第9交響曲について、これまでの公演で取り上げられてきた交響曲同様、プログラムノートに寄稿させて頂いておりますので、是非ともご一読頂ければ幸いです。

また本ブログでは、上記の公演の感想以外にも、第9交響曲に関連して以下のような記事を執筆・公開していますので、併せてご覧頂ければ幸いです。

(2025.5.31 公開, 6.18 更新)


マーラーについて生成AIに聞いてみた(19):ChatGPT-5の検証

 本記事では、2025年8月7日にリリースされたChatGPT-5を対象に、マーラーに関する様々な問い合わせを行った結果を報告します。

1.検証の背景

 本ブログではこれまでに生成AIに対してマーラーに関する質問を行い、その結果を報告してきました。最初の記事の公開は2026年3月13日であり、その時点で検証対象とした生成AIは以下の通りでした。

  • ChatGPT(Web版)無料版:GPT-4o(利用制限あり)・リアルタイムWeb検索なし
  • Gemini(Web版)無料版:Gemini 2.0 Flash・リアルタイムWeb検索あり
  • Claude for Windows ver.0.8.1(Windows版アプリ)無料版:Claude 3.7 Sonnet・リアルタイムWeb検索なし

 この時点での各生成AIの回答は極めて不正確なものであることから、Llama2 SwallowベースでRAGを自作し、マーラーに関する各種の情報を与えることによって性能が改善できることを確認しました。

 その後わずか数か月のうちに各生成AIのバージョンアップが相次ぎ、また同一LLMを用いる場合でもリアルタイムWeb検索が可能になることで性能に変化があったため、以下のバージョンで再検証を実施しました。

  • ChatGPT 無料版:GPT-4o(利用制限あり)・リアルタイムWeb検索あり(有無を選択可能)
  • Gemini 無料版:Gemini 2.5 Flash・リアルタイムWeb検索あり
  • Claude 無料版:Claude Sonnet4・リアルタイムWeb検索あり

 検証の結果、特にリアルタイムWeb検索を併用することで、LLMの事前学習データに含まれていなかった情報についても取得できるようになったことから、大幅に回答の精度が向上し、マーラーに関するパブリックな情報に関する限り、RAG構築の必要性がほぼなくなったと感じられる迄になりました。その一方で、ChatGPT, Geminiでは回数制限つきながら、多段階の推論を得意とするLLMを用いたDeep Search機能が利用可能となり、事実関係の問い合わせや情報収集ではない、「後期様式」に関するレポート作成、第9交響曲第1楽章の分析レポート作成に関しても一定の性能を示すことも併せて確認して、2025年6月初めに一通りの検証報告を終えています。

 ChatGPT-5は、事前のプロモーションにおいて、更に推論機能が強化され、「大学院博士課程並み」の能力を持つとともに、4oで問題になっていた「sycophancy(へつらい・ごますり)」の問題に対して対策が行われ、「critical(批判的)」で「less effusively agreeable(あまり熱心に同意しすぎない)」な応答をするようチューニングが為されたようです。この後者の問題については、既にChatGPT-5のリリース直後から多くの反応が寄せられ、色々と話題になっています。特に4oに比べて「共感的」でなくなったという批判が大きいことから、有料版では4oが選択できるようになるなどオプションが復活しました。しかしながら本稿では無料版を使用していることからそうした変更についての直接の影響はありませんし、従来と同一のプロンプトを与えて、事実関係の問い合わせや情報収集に関して「Hallucination(幻覚)」を起こすことなく、正しい回答が返って来るかという点にフォーカスした検証結果を報告するという点にも変更はなく、直近の混乱からは距離を置いたものとなっています。

 一方でそのことは、ChatGPT-5で特に改善が行われたとされる深い推論の能力が十分に発揮されるような検証には充分ではないことも同時に意味している点に留意頂きたいと思います。なお深い推論能力については、本稿で報告する検証とは別に、「意識の音楽」に関連して、心や意識についての理論に関するかなり技術的な問い合わせをしたところ、明らかに4oに比べて1ランク上の詳細な回答が返ってくることを確認しており――但し、その内容の妥当性については検証に時間を要するため現時点で当否を報告する準備ができていませんが、——専門的な内容についての問い合わせに対しては一段と深いレベルの推論能力を備え、高いポテンシャルを有するという感触は既に得られていますが、この点については機会があれば別に報告することにしたいと思います。


2.検証内容

 まず改めて対象となるバージョンと実験を行った日付は以下の通りです。

ChatGPT-5 無料版(2025年8月15日)

 ChatGPT-5 の無料版では、標準で最新版のGPT-5がLLMとして用いられますが、実際に検証を行ってみると、10回迄の回数制限があるようです。回数制限に達すると4時間程度GPT-5は使えず、他のモデルが用いられます。ここではGPT-5の性能を検証することが目的であるため、制限に達したら検証を中止し、制限が解除されたら再開、というやり方で検証を進めました。

 検証で用いたプロンプトセットは以下の通りです。既述の通り、基本的にこれらは元々は以前、llama2 / Swallowベースで自分で構築したRAGの検証用に用意したものですが、最後の「20.ブラームスはブダペストでマーラーについて何と言ったか?典拠を併せて示してください。」のみは、プロンプト19への回答を評価した結果、典拠を示すよう求めるべきであると判断して追加したものです。なお問い合わせの順番については、今回は下記の番号順としました。「2.マーラーの「大地の歌」の日本初演は」は「1.大地の歌」の日本初演は?」と実質的には同一の問いですが、元々は、初期の検証においてプロンプトのちょっとした違いによって回答が大きく異なる(正解に辿り着けるか否かといった評価に影響する差異が生じる)ことが確認されたために設定したもので、その後、実質同じ質問が繰り返されていることが回答で指摘される場合があるなど、生成AIの挙動を確認する上で興味深い結果が得られたため、今回もそのまま残して検証を行うことにしました。

  1. 「大地の歌」の日本初演は?
  2. マーラーの「大地の歌」の日本初演は
  3. マーラーの「大地の歌」はどこで書かれたか?
  4. マーラーは第8交響曲についてメンゲルベルクに何と言いましたか?
  5. マーラーが死んだのはいつか?
  6. マーラーはいつ、誰と結婚したか?
  7. マーラーがライプチヒの歌劇場の指揮者だったのはいつ?
  8. マーラーがプラハ歌劇場の指揮者だったのはいつ?
  9. マーラーがハンブルクの歌劇場の楽長になったのはいつ?
  10. マーラーの第9交響曲の日本初演は?
  11. マーラーは自分の葬儀についてどのように命じたか?
  12. マーラーの「嘆きの歌」の初演は?
  13. マーラーはどこで生まれたか?
  14. マーラーの第9交響曲第1楽章を分析してください
  15. マーラーの第10交響曲の補作者は?
  16. マーラーの第2交響曲の最初の録音は?
  17. マーラーの「大地の歌」のイギリス初演は?
  18. マーラーの「交響曲第6番」はいつ、どこで初演されたか?
  19. ブラームスはブダペストでマーラーについて何と言ったか?
  20. ブラームスはブダペストでマーラーについて何と言ったか?典拠を併せて示してください。
 ChatGPT-5の無料版では、モデルの選択ができないだけではなく、リアルタイムWeb検索を行うかどうかを選択することもできません。Web検索を行うかどうかの選択はChatGPT側に委ねられています。(但し、再実行時に「Web検索を行わない」モードを選ぶことはできるようです。)勿論、プロンプトの中に明示的にWeb検索をするような指示を含めればWeb検索を併用するようになるでしょうが、ここではそうした明示的な指示なしで、検索を行うかどうかについて自体を検証対象としたため、上に示したプロンプトをそのまま与えました。

 全プロンプトに対する回答はかなりの分量になりますので、ここで全てを紹介することは控え、公開済の以下のファイルで確認頂ければと思います。

  • gm_ChatGPT5.pdf:ChatGPT-5(無料版)へのプロンプトとその回答の一覧
 各行毎に、プロンプトのID(通番)、プロンプト、回答、実験日、評価、Web検索の有無を記載しています。「14.マーラーの第9交響曲第1楽章を分析してください」については、回答が長いものになったため、複数行に分割しています。また詳細は後述しますが、回答中、明らかに事実に反すると判断できる箇所は赤字に、妥当性に疑念があると私が判断した箇所は青字にして、評価根拠が明らかになるようにしています。


3.検証結果の概要

 今回は評価にあたり、以下の4つを区別することにしました。また上述の通り、各プロンプトの問い合わせに対して、Web検索を行ったかどうかも併せて記録しています。
  • 〇:概ね正しい情報が返ってきている
  • △:一部に明確に誤った情報が含まれる、或いは妥当性に疑念がある記述が大半を占めている
  • ×:全体として誤った情報が返ってきている
  • □:情報を見つけることができず、回答できない
 この分類に拠れば今回の結果は以下のように要約できます。
  • 〇=10
  • △=7
  • ×=3
  • □=0 
 上に見るように、情報を見つけることができず、回答できないケースは1件もありませんでしたが、これはWeb検索を行ったケースで全て結果が得られて回答でき、回答ができなかったケースがなかったことを意味しており、実際にはWeb検索の有無についての集計結果(対のべ問い合わせ回数)は以下の通りであり、検索なしで回答しているケースが大半を占めていることが影響しているものと思われます。

検索あり:4
検索なし:16

 前回のChatGPT4oは全てリアルタイムWeb検索を併用しており、結果として一部の記述に誤りが見られた2件と評価対象外としたプロンプト14を除く残りの17件は正解だったのに対して、今回は半分近い回答が不正解となっていることがわかります。これは明らかに、検索なしでの回答に不正解ないしそれに近い妥当性に疑念がある回答が多いことが影響しており、検索の有無毎に正解・不正解についての評価を分類すると以下のようになります。

検索あり:4(〇=3, △=1)
検索なし:16(〇=7, △=6, ×=3)

 検索ありでは1件を除くと正解で、△とした1件も、詳しくは後程述べますが、異なる情報源で、同一の書簡を参照しているのを、それぞれ別の書簡であると記述してしまう細かい点のみの誤りであり、問いへの回答自体は申し分なく〇でしたから、検索をすれば正しい答えを返すことができていると言えると思います。一方で検索なしでも今回は概ね正解と判定できる回答が増えており、以前に比べれば検索なしでの性能自体は確実に向上していると判断できる一方で、Web検索つきのChatGPT-4oでほぼ全て正解が得られていた事と比べた時、正答率50%という今回の結果は残念なものと言う他なく、チャットシステム全体としての回答の精度について寧ろ後退してしまっていることは否定できません。

 そしてこの点は、初回の3月のリアルタイム検索なしのモデルの回答の成績が悪くてRAGの構築に思い至ったこと、2回目のリアルタイム検索ありのモデルでは上記のように回答率が大幅に改善し、ほぼ正解が返って来るようになったというこれまでの経緯とも期を一にしており、本稿で報告する課題に限って言えば、依然としてリアルタイムでのWeb検索が回答の正確さのための重要な要因であると言えるのではないかと思います。

 既述の通り、実験実施時点でのChatGPT-5 無料版では、検索を行うかどうかはシステム側が制御しており、利用者はオプションの選択という形での制御の余地はありません。勿論、手段が全くない訳ではなく、プロンプト内にWeb検索の指示を明示的に含めることによって回避できるのであれば、実際に利用するにあたっては、その点に留意して、基本的にはリアルタイムWeb検索を必ず併用するように指示しつつ利用することで回避可能な問題と言うこともできるでしょう。しかしながら、GPT-5がLLM単体として如何に優れたものであったとしても、利用者から見れば、結局のところチャットシステム全体としての回答の正確さ、信頼性で評価する他ないのであれば、今回の検証結果から判断する限り、折角のLLMの性能向上が、リアルタイムWeb検索の制御という表面的な問題のために実感できないという残念な結果になっているように感じられます。今後、何らかの改善が行われる可能性もあるでしょうが、少なくとも現状ChatGPTの無料版を利用するに際しては、Web検索が行われず、情報源が示されない回答については、「Hallucination(幻覚)」が発生している可能性を疑い、ファクトチェックを別途行うことが欠かせないでしょうし、それを回避しようとすれば、プロンプト中でリアルタイムWeb検索を必ず行うように明示的に指示する等の工夫が必要そうです。


4,検証結果の分析

 次に個別のプロンプトに関して検証において確認された点について幾つか報告をします。

 まず 「4.マーラーは第8交響曲についてメンゲルベルクに何と言いましたか?」については、既に上でも簡単に触れたように、Web検索を行っていて、正しい情報源に辿り着いており、問いへの回答としては正解であるにも関わらず、複数の情報源が参照している実際には同一の書簡を、情報源毎に異なった別々の書簡を参照するという判断の下、回答が記載されていることから、完全な正解とは判定しなかったものです。勿論、情報源に例えば書簡の日付の記載があれば、それが同一であることを以てそのような誤解は回避できたかも知れませんが、その一方で、参照されている書簡中の文章も完全に一致している訳ではなくとも重複しており、翻訳のせいもあって同一ではないものの、重複部分については同じものと判断することもできたのではないかと思われます。もっとも、論理的には同一の内容を別の書簡で2度述べるという可能性もあるので、このことを以て情報の出処は同一の書簡であると断定して良いかについては慎重であるべきという意見もあるかも知れませんし、これが人間なら回避できる問題なのかどうかもまた微妙であり、そういう意味ではこの回答は仕方ないものとする立場もあるでしょう。しかしそもそもここでの問は、語っている内容についてのものであり、その典拠を問うているわけではありませんから、情報源の詳細は捨象して回答を構成すべきだったのではないかというようにも考えられます。いずれにせよ、回答の本質的な部分であらずもがなの誤りが生じてしまったケースとなるかと思います。

 次にマーラーの生涯における出来事のうち、職業上のキャリアについての一連の質問についてです。「7.ライプチヒの歌劇場の指揮者としての任期」「8.プラハ歌劇場の指揮者としての任期」「9.ハンブルクの歌劇場の楽長への就任時期」を問うていますが、いずれもWeb検索なしで問いそのものに対しては正しい回答を返すことができています。問題は回答に含まれる付加的な情報の方で、こちらに明らかな誤りが含まれるため、いずれも△の評価とせざる得ませんでした。具体的には、問題の3つの赴任地の全てに先行するカッセルの歌劇場時代との前後関係に錯誤があり、7ではライプチヒの後、ブダペスト王立歌劇場監督への就任の前にカッセル・プラハを経由したことになっているのに対し、8.ではカッセル、ライプチヒの前にプラハに居たことになっているなど、事象間の時間的順序の論理的関係の点で相互にも矛盾を来しています。個別に検証したわけではありませんが、単一の問いの中で複数の事象間の時間的順序が問題になる場合の推論はできるようですから、単に直前の回答を参照せずに独立に次の回答を生成し、両者の間の整合性をチェックしていないのではないか推測されます。ChatGPTは過去のやりとりの履歴を保持し、それを参照して回答を生成することが特徴の一つとなっていますが、そのこととこのような時間的な関係の推論を必要とする整合性の維持とは別レベルの問題だということなのでしょう。実用上はこうした側面も、プロンプトの与え方の工夫である程度回避できますが、チャットシステムとして不完全であることに変わりはありません。

 また7.及び9.の回答において、任期中の交流関係に言及しているのですが、これらについても(推測するに)時間的な前後関係の錯誤に関連した誤りがあります。具体的には、ライプチヒでハンス・フォン・ビューローと知己を得たことになっていますが、実際にはカッセル時代にビューロー宛の手紙を一方的に送った後(ビューローはマーラーに返事を返しませんでした)、実際に知己を得るのはハンブルク時代になってからですし、ニキシュとの関係は敵対的なものであり、交流があったとは言い難いようです。一方9.においては就任時にカール・ムックの下で第2指揮者であるという情報が何故か付加され、更に、ハンス・フォン・ビューローの追悼演奏会の指揮に関して、ブラームスとの面識を得たと述べていますが、いずれもそうした事実は管見では確認できていません。ハンブルクでは当初から第1指揮者としてデビューしていますし、カール・ムックは1892年にベルリンに移るまではプラハに居たので、プラハでの関係が誤って入り込んだものと思われます(実際、プラハでならカール・ムックの代役をマーラーががつとめた記録があります)。また1894年のビューローの没後、追悼演奏会の指揮をしたのは事実ですが、ブラームスと面識を得るのは先行するハンガリー王立劇場監督時代の1890年12月のブダペストでのことですし、ビューローが没する前の1893年夏にマーラーはブラームスをイシュルに訪ねていることから、こちらも時間的な前後関係から誤った記述であると思われます。

 次いで「11.マーラーは自分の葬儀についてどのように命じたか?」の回答ですが、これもWeb検索を行わずに回答をしています。回答内容からも窺えるように、この問に対する直接的な回答についての一次情報源はアルマの回想でしょうが、「自作を演奏しない」というようにマーラーが命じたという記述は確認できません。実は同様の回答を、最初の検証の際にWeb検索なしのChatGPT-4oがしていましたので、どうやらChatGPTの事前学習の結果のみからだと、これが尤もらしいということになるのかも知れません。また葬儀への参列者も、それらしい人名が並んでいますが、調べた限り、ツェムリンスキーとニキシュの参列は確認できていませんし、ピックアップするのであればもっと優先して挙げて然るべき人名は他に幾らでも思いつきます。しかしながらどちらの点についても自分の調査した限りで回答の内容を支持する記述を発見できていないということで、誤りと断定することはできないため、評価は△としています。

 14.第9交響曲第1楽章の分析はこれまでは評価不能ということで保留扱いにしていたのですが、今回は他のプロンプトと同様の基準で評価をしてみました。結果としては以下の点から、×と評価せざるを得ないと判断しました。前のバージョンにおけるWeb検索を伴なうDeep Researchでは、概ね妥当な分析結果を出力していたのに比べた時、GPT-5がLLMとして如何に高度なものであったとしても、音楽作品の具体的内容についてWeb検索なしでの回答の生成には限界があることは明らかであり、そのことを裏付ける惨憺たる結果となっていると思います。
  • 全体の調性について、「安定がほとんどなく、半音階的展開と多調的感覚が支配的」というのはソナタ形式として見た場合にニ長調への頻繁な回帰が寧ろ逸脱であり、ロンド形式との融合や二重変奏と捉えられるくらいであることを考えると妥当ではない。特に「多調的感覚が支配的」「展開部では多調的書法が顕著で、各声部が異なる調的中心を持つ場合もある」というのは、全音音階的な要素が出現することを考慮してもなお、一般的な捉え方ではなく、妥当とは言えないと考える。
  • 2. 形式構造と調性における小節数は一般的な楽曲分析の区分と一致せず、譜面と照合しても妥当とは考えられない。
  • 主要動機の記述の中の「心臓の鼓動動機」が「8分音符+付点16分+32分(不均衡リズム)」と記述されている。
  • 6.哲学的・解釈的側面におけるフッサールやダマシオを参照する部分は内容的にほぼナンセンスとしか言いようがなく、妥当な記述とは凡そ言い難い。
  • 7.まとめの「心理的には「生から死への移行を意識する瞬間の時間構造」を音響化」という要約は不適切。少なくとも「瞬間の時間構造」が第1楽章全体の要約たりえる筈はなく、ナンセンスに近いと考える。 
 「15.マーラーの第10交響曲の補作者は?」の回答は概ね正しく、質問そのものの回答としては正解として差支えないレベルですが、残念なことに、付加的な情報であるクック版のバージョンの記述が控え目に言っても一般的ではありません。回答には「1960年演奏可能版。1964年第1稿、1972年改訂版、1976年最終改訂版の出版。」とあるが一般には、1960年が演奏可能版の第1稿、1964年が第2稿、1972年が第3稿であり、1976年に出版されたのは第3稿とされています。些事かも知れませんが、Web検索を行っていればこのようなずれは生じないこと、やはり回答としてミスリードであることを否めないことから、△と評価しました。

 「16.マーラーの第2交響曲の最初の録音は?」についてWeb検索なしでほぼ正解が返って来るようになったのは、過去の評価時の混乱を考えれば隔世の感がありますが、残念ながらここでも演奏にカットがあると述べられており、とりわけ「特に長大な第5楽章は大幅短縮されています」という記載は看過し難く(実際には聴けばわかる通りカットはありません)、△と評価せざると得ませんでした。

 「19.ブラームスはブダペストでマーラーについて何と言ったか?」は、9の回答のコメントで触れた通り、1890年12月のブダペストでの出来事への参照を求めた質問です。従って大まかなアウトラインは正しく把握できているのですが、肝心のブラームスの言葉が正しくありません。更にマーラーの作曲についてのコメントも、管見では確認できません。ブラームスはマーラーの作曲については、その革新性を認めてはいたようですが、肯定的に評価していたとは言い難いというのが一般的な捉え方ではないかと思います。ちなみにChatGPTは以前よりしばしば、原文つきで「このように言った」と引用を行うことがありますが、そのもっともらしさにも関わらず、Web検索なしの場合にはしばしばフェイクに過ぎません。そこで今回は典拠を示す指示を付加した上で再質問を行いました。結果はファイルにて確認できる通りですが、これも以下のような点で誤りと判定せざるを得ませんでした。
  • 時期を1888年に誤って固定してしまっている。
  • 原文つきで引用されている言葉は恐らくこれもまたChatGPTが作り出したフェイクであり、典拠として示された文献での記述は確認できない。
  • 主な典拠に掲げられているAlma Mahler-Werfel, Erinnerungen an Gustav Mahlerの書誌事項に誤りがある。1940年刊行の初版はアムステルダムのクウェリード―社刊であり、Bermann-Fischerは1949年第2版の出版社。
  • アンリ=ルイ・ド・ラ・グランジュによる評伝のタイトルおよび書誌事項が誤っており、文字通りの『Gustav Mahler: Volume 1, Vienna: The Years of Challenge (1860–1897)』というタイトルの著作は実在しない。
ド・ラ・グランジュのマーラー伝の成立は錯綜とした経緯を持ちます。まず1973年にはMahler volume Oneと題された英語版が出版され、これは1860年から1900年辺りまでを扱っています。その後一旦英語版の続編の刊行は中断し、フランス語版で改めて以下の3巻が刊行されて一旦完結します。この第1巻は1973年の英語版の翻訳ではなく、その後の取材・調査結果を反映した新版です。
  • Gustav Mahler, chronique d'une vie, I. Vers la gloire 1860--1900, Fayard, 1979
  • Gustav Mahler, chronique d'une vie, II. L'age d'or de Vienne 1900--1907, Fayard, 1983
  • Gustav Mahler, chronique d'une vie, III. Le Génie foudroyé 1907--1911, Fayard, 1984
その後、再び英語版の続巻の刊行に戻りますが、内容的にはフランス語版から更に増補されたものとなっている他、第2巻が1897年からを扱っており、かつての英語版第1巻と重複が生じてしまっています。
  • Gustav Mahler, Volume 2, Vienna : The years of challenge (1897--1904), Oxford University Press, 1995
  • Gustav Mahler, Volume 3, Vienna : Triumph and Disillusion (1904--1907), Oxford University Press, 1999
  • Gustav Mahler, Volume 4, A new life cut short (1907--1911), Oxford University Press, 2008
そしてその後、改めて英語版第1巻の増補改訂作業が行われますが、その完成・刊行を待たずにド・ラ・グランジュは没してしまい、結局第1巻の増補改訂新版の刊行は著者の没後となってしまいました。(出版社も異なります。)
  • Gustav Mahler, Volume 1, The Arduous Road to Vienna (1860--1897), completed with, revised and edited by Sybille Werner, Brepols Publishers, 2020:
ここまでご覧頂ければわかる通り、ChatGPTが返して来たタイトルは、英語版の第2巻と没後刊行の増補改訂版第1巻のタイトルの奇妙なアマルガムとなっています。こうした書誌的な事項は、Web検索をすれば誤りなく正しい情報が得られるものですが、ここでもWeb検索は行われていません。結果として、悪名高いChatGPTによる架空の文献を提示を、よりによって最新版のモデルで確認することになってしまいました。

 以上、些か些事拘泥の嫌いはありますが、今回の検証における回答で問題がある箇所について確認と分析を行いました。結果としてそれぞれがChatGPTが持つ様々な問題点や限界に関連して発生していることが窺えます。それらは基本的に以前の検証において既に確認されているものと同じ原因によるものであり、新たに生じた問題というのはありませんが、その一方でLLMがGPT-5に変わっても、基本的には解決していないことが確認されたことになります。


5.まとめと考察

 以上、ChatGPT-5を対象とした検証について報告しました。結論としてまず、今回検証に用いられたような事実関係を確認することが中心の問い合わせについて言えば、リアルタイムWeb検索を用いない場合があることから、ChatGPT-5の回答の精度は、常にWeb検索つきでChatGPT-4oに問い合わせた時よりも低くなってしまうことがわかりました。この問題への対策としては、Web検索をせず情報源が示されない場合には、ファクトチェットを必ず行うこと、より根本的には、(現時点では無料版ではオプションが明示的に用意されているわけではないので)プロンプトの中にWeb検索を行う指示を明示的に含めるなどして、リアルタイムWeb検索を併用するよう促すことが考えられます。

 結果的に不十分な情報に基づく事前学習結果からフェイクを生成する頻度が非常に高くなってしまっている原因は、Web検索が必要であるかのシステムの判断が甘い点にあります。GPT-5がLLMとして高い性能を持つとしても、利用者にリアルタイムWeb検索を併用するかどうかの選択肢を与えずに、自分で判断する仕様を選択し、その結果としてこのように「Hallucination(幻覚)」が頻発し、多くの回答がフェイクとなってしまっている以上、利用者の立場からコメントするならば、ChatGPT-5のリアルタイムWeb検索実行の判断についてのチューニングに関しては、大きな問題があるという評価をせざるを得ません。

 「Hallucination(幻覚)」を抑制するという観点から安全側に寄せるならば、余程自明な内容でない限り、リアルタイムWeb検索を行うことを基本とする選択は常に可能です(しかもWeb検索をせずにやり直すオプションはユーザーに提供されいます)から、チューニングの方針が不適切なのではないかと思わざるを得ず、人によってはそこに「慢心」(勿論、AIのではなく、設計を行う人間のそれ)を感じとるのではという懸念さえ抱きます。このような結果は、GPT-5のLLMの性能とは独立で、それを利用するチャットシステムとしてのチューニング・ポリシー次第では回避できそうなだけに、非常に残念に感じられます。

 勿論、これまでWeb検索なしで正しい回答が得られなかったプロンプトの幾つかについて、同様にWeb検索なしにも関わらず正しい回答が得られることを確認したケースもあり、新しいLLMのバージョンで改善された点があることは間違いありません。ただしそれは喧伝されているGPT-5のポテンシャルを感じさせるようなレベルのものではありませんでしたし、Web検索の有無とは独立した原因によると推測される「Hallucitaion(幻覚)」の発生も確認できました。更に言えば、上記のWeb検索に関するチューニングの問題とは別に、深い推論を行うと言っても、先行するやりとりで得られた情報を有効に組み合わせて活用することが出来ているわけではないし、人間にとってはほぼ自明な事象の間の関係について、個別のプロンプトをまたいだ全体として正しく把握できているわけではないことが、検証結果の分析を通して浮かび上がって来たように思います。

 つまりGPT-5のLLM単独の性能はそれとして、チャットシステム全体として見た場合には、まだまだ多くの課題を抱えているということだと思います。GPT-5は深い推論を求められる複雑な課題を解く能力に優れているかも知れませんが、上に述べたようなチャットシステムとしての設計・チューニングポリシーの影響もあり、残念ながら今回の検証対象となったような事実関係に関する問いに対してその能力が十分に発揮できるものではないようです。GPT-5のLLM自体の真価については、寧ろ、従来の検証においてDeep Researchが適しているような問題を与えた方がより良く感じ取ることができるのではないかと思いますが、これは別途の課題として後日を期し、本稿の報告はここ迄で一旦終えたく思います。

(2025.8.18)

2025年8月13日水曜日

バルビローリのマーラー:略年表(2025.8.13改訂)

1899年12月2日 ロンドンのホルボーンにて誕生。洗礼名ジョバンニ・バッティスタ。 父のロレンツォはイタリア人。母ルイーズ・マリーはフランス人でピレネー山脈に 近いアルカションの生まれ。父と祖父のアントニオはミラノ・スカラ座管弦楽団のメンバーであり、「オテロ」の初演を演奏している。
1916年 ヘンリー・ウッド率いるクイーンズ・ホール管弦楽団の最年少のチェロ奏者となる。
1917年 最初のソロ・リサイタル(ロンドン)。
1921年 エルガーのチェロ協奏曲のソロを弾く。
1924年 弦楽四重奏団のチェリストとして活動。
1925年 室内管弦楽団を組織。指揮者として活動を開始。指揮者としての最初の録音はこの室内管弦楽団とのパーセルとディーリアス。
1926年 BNOC(ブリティッシュ・ナショナル・オペラ・カンパニー)の指揮者。 最初に指揮したのは、グノー「ロメオとジュリエット」、プッチーニ「蝶々夫人」、ヴェルディ「アイーダ」。(1926年9月)
1926年12月 ビーチャムの代役でロンドン交響楽団を指揮。曲目はエルガーの第2交響曲とハイドンのチェロ協奏曲(ソロはカザルス)。
1926年~1932年 BNOCおよびコヴェント・ガーデンのオペラを指揮。
1927年 HMVのクライスラー、ルビンシュタインなどの協奏曲演奏録音の伴奏指揮をこのころより始める。
1930年4月 オスカー・フリートの指揮するマーラーの第4交響曲のリハーサルに出席。その時の印象を友人に書き送った書簡が残っているが、"I was extremely disappointed…"というように極めて否定的なものだった。
1931年1月29日 ロイヤル・フィルハーモニーのコンサートでマーラーの「子供の死の歌」を指揮、エレーナ・ゲルハルトの歌唱。記録の残っているバルビローリの最初のマーラー演奏。
1933年 スコティッシュ管弦楽団の指揮者。
1936年~1943年 トスカニーニの後任、フルトヴェングラーの代役としてニューヨーク・フィルハーモニー管弦楽団の常任指揮者。
1939年10月26,27日, 12月16,17日 カーネギー・ホールでニューヨーク・フィルハーモニー管弦楽団を指揮してマーラーの第5交響曲第4楽章(アダージェット)を演奏。
1942年 イギリスに帰国。
1943年6月2日 ハレ管弦楽団の指揮者としてマンチェスターに着任。
1943年7月5日 ハレ管弦楽団を指揮しての最初の演奏会(ブラッドフォード)。
1943年~1958年 ハレ管弦楽団の常任指揮者。
1945年 マーラーの「大地の歌」を指揮。

1948年10月13日

 マンチェスターのアルバート・ホールでのハレ管弦楽団のコンサートでマーラーの「子供の死の歌」を指揮、アルト・ソロはキャスリーン・フェリア―。(BBCがライブ放送。)
1952年 ネヴィル・カーダスにマーラーを指揮するように薦められる。
1953年 ヴォーン・ウィリアムズ「第7交響曲」初演を指揮。
1952年4月2日 ハレ管弦楽団とのマーラーの「大地の歌」がラジオ放送される。テノールはリチャード・ルイス、アルトはキャスリーン・フェリア―。(ラジオ放送の録音が残っている。)
1954年2月 マンチェスターでハレ管弦楽団を指揮してマーラーの第9交響曲を初めて演奏。バルビローリによるマーラーの交響曲の最初の演奏(「大地の歌」、第5番の「アダージェット」のみの抜粋演奏は除く)。その後、第9交響曲は次のシーズンのハレで再度取り上げられ、エディンバラ、ブラッドフォード、シェフィールド、リーズ、ヒューストン、シカゴと各地でのコンサートのプログラムで取り上げられることになる。
1955年11月 マーラーの第1交響曲を初めて指揮。
1956年5月2日 献呈を受けたヴォーン・ウィリアムズ「第8交響曲」初演を指揮。(同6月録音。CDSJB1021)
1957年6月 マンチェスターでハレ管弦楽団とマーラーの第1交響曲をPyeに録音。
1958年5月 ミラノのスカラ座でマーラーの第2交響曲を初めて指揮。
1958年~1968年 ハレ管弦楽団の主席指揮者。
1959年1月8,9,10,11日 カーネギー・ホールでニューヨーク・フィルハーモニー管弦楽団を指揮してマーラーの第1交響曲を演奏。(1月10日の演奏会の記録あり。)

1959年3月12日

 マンチェスターの自由貿易ホールでハレ管弦楽団、ハレ合唱団とマーラーの第2交響曲を演奏。メゾ・ソプラノ:エウゲニア・ザレスカ、ソプラノ:ヴィクトリア・エリオット。(BBCが放送。)
1960年 はじめてベルリン・フィルハーモニーを指揮。
1960年 トリノ・イタリア放送管弦楽団と恐らく放送用にマーラーの第9交響曲を演奏。
1960年5月24日 プラハのスメタナ・ホールでの「プラハの春」音楽祭にてマーラーの第1交響曲をチェコ・フィルハーモニー管弦楽団と演奏。
1960年10月 マンチェスターでBBCノーザン交響楽団・ハレ管弦楽団を指揮してマーラーの第7交響曲を演奏。
1961年~1967年 ヒューストン交響楽団の主席指揮者。
1961年11月 マーラーの第10交響曲の第1,3楽章を指揮。
1962年12月6,7,8,9日 フィルハーモニック・ホールでニューヨーク・フィルハーモニー管弦楽団を指揮してマーラーの第9交響曲を演奏。(12月8日の演奏会の記録あり。)
1963年4月 マーラーの第4交響曲を初めて指揮。
1964年1月 ベルリンのイエス・キリスト教会でベルリン・フィルハーモニー管弦楽団とマーラーの第9交響曲をEMIに録音。
1965年 ベルリンでベルリン・フィルハーモニーを指揮してマーラーの第2交響曲を3回演奏。ソプラノはマリア・スチューダー、アルトはジャネット・ベイカー。(そのうち6月3日の録音の録音が残っている。)
1965年1月 マーラーの第6交響曲を初めて指揮。
1966年1月13日 ベルリンでベルリン・フィルハーモニーを指揮してマーラーの第6交響曲を演奏。
1966年3月24日 ニューヨークのカーネギーホールでヒューストン交響楽団とマーラーの第5交響曲を演奏。(マーラーの第5交響曲を初めて指揮。)
1967年1月3日 プラハでBBC交響楽団を指揮してマーラーの第4交響曲を演奏。ソプラノはヘザー・ハーバ―。
1967年 ロンドンでフィルハーモニア管弦楽団とマーラーの第6交響曲をEMIに録音。
1967年8月16日 ロンドンのロイヤル・アルバート・ホールでのヘンリー・ウッド・プロムスでフィルハーモニア管弦楽団とマーラーの第6交響曲を演奏。
1967年4月 マーラーの第3交響曲を初めて指揮。
1968年~1970年 ハレ管弦楽団の終身桂冠指揮者。
1969年 ロンドンでフィルハーモニア管弦楽団とマーラーの第5交響曲をEMIに録音。
1969年3月8日 ベルリンでベルリン・フィルハーモニーを指揮してマーラーの第3交響曲を演奏。アルトはルクレチア・ウェスト。
1969年5月3日 マンチェスターでハレ管弦楽団とマーラーの第3交響曲を放送用に演奏。アルトはキャスリーン・フェリア―。
1970年4月5日 シュトゥットガルトのリーダーハレでシュトゥットガルト放送交響楽団を指揮してマーラーの第2交響曲を演奏。ソプラノはヘレン・ドナート。メゾ・ソプラノはブリギット・フィンニレ。
1970年7月 EMIに最後の録音。曲目はディーリアスの「アパラチア」「ブリッグの定期市」。オーケストラはハレ管弦楽団。
1970年7月24日 最後のライブ録音となったキングズ・リン・フェスティバルでのハレ管弦楽団との演奏会。エルガー「序奏とアレグロ」「第1交響曲」(BBCL4106-2)。
1970年7月25日 キングズ・リン・フェスティバルで最後の演奏会。最後の曲はベートーヴェン「第7交響曲」。
1970年7月27日 ニュー・フィルハーモニア管弦楽団との日本公演のためのリハーサル初日。マーラー「さすらう若人の歌」「亡き子を偲ぶ歌」。ソロはジャネット・ベーカー。
1970年7月28日 日本公演のためのリハーサル第2日。ブリテン「シンフォニア・ダ・レクィエム」、ベートーヴェン「第3交響曲」。
1970年7月29日 心臓発作にてロンドンで死去。
(2002.4 公開, 2025.8.13改訂)

2025年8月12日火曜日

「神の衣を織る」という言葉を巡って(下):リヒャルト・バトカ宛書簡にあるゲーテ『ファウスト』を引用した作品創作に関するマーラーの言葉(2025.8.12改訂)

リヒャルト・バトカ宛書簡にある作品創作に関するマーラーの言葉(1924年版書簡集(私が参照しているのは、Mahler, Alma Maria (hrsg.), Gustav Mahler : Briefe 1879--1911, Paul Zsolnay, 7-11 Tausend, 1925)原書198番, pp.216-7。1996年版書簡集(Gustav Mahler Briefe, Neuausgabe Zweite, nochmals revidierte Auflage 1996, Paul Zsolnay)では163番, pp.167-8。邦訳はヘルタ・ブラウコップフ編,『マーラー書簡集』, 須永恒雄訳, 法政大学出版局, pp.152。1979年刊行のマルトナーによる英語版("Selected Letters of Gustav Mahler", The original edition selected by Alma Mahler enlarged and edited with new Introduction, Illustrations and Notes by Knud Martner, Faber and Faber, 1979(ただし私が参照しているのは、同年にアメリカでFarrar Straus & Girouxより出版された版 では154番, pp.175-6。)
(...) Aber ich könnte ebensogut darüber Aufschluß geben, "woran" ich lebe, als "woran" ich schaffe. - "Der Gottheit lebendiges Kleid" - das wäre noch etwas! Aber da würden Sie wohl weiter fragen? Nicht?
 Wenn ich ein Werk geboren habe, so liebe ich es, zu erfahren, welche Saiten es im "Andern" zum Tönen bringt; aber einen Aufschluß darüber habe ich bisher weder mir selbst gegeben, noch viel weniger von anderen erhalten können. Das klingt mystisch! Aber vielleicht ist die Zeit wieder gekommen, wo wir und unsere Werke uns wieder ein wenig un-"verständlich" geworden sein werden. Nur, wenn dem so ist, glaube ich daran, daß wir "Woran" schaffen. (...)

(…)そこでお答えし得るのは、「何によって」創作するか、であると同時に「何によって」生きるか、ということです。――「神の生きた衣」――今なおそうではないでしょうか! しかしこう申したら貴殿はさらにお尋ねになりたいでしょう? そうではありませんか?

 作品を生み出せば、それを愛し、それが「他者」のいかなる琴線に触れるか知りたいと思います。しかしこれに対する答えを、いまだかつて自分でも与えられず、また他者からも得られたためしがありません。こう申し上げると不思議に思われるかもしれません! しかし、我々と我々の作品がいま少し「わかる」ものでなくなってしまった、そんな時代がまたしてもやってきたのではないでしょうか? ただ、もしそうであるなら、「何によって」我々が創作をするのか、その何かに小生は信を置いているのです。(…)

(...)  But I could no more tell you what I work 'at' than what I live 'in'. -- 'The living cloak of godhead' --  that might serve as an answer! But it would only make you go on asking questions, would it not?

 When I have given birth to a work, I enjoy discovering what chords it sets vibrating in 'the Other'. But I have not yet been able to give an explanation of that myself -- far less obtain one from others. That sounds mystical! But perhaps the time has again come when we and our works are on the point of once again becoming a little in-'comprehensible' to ourselves. Only if that is so do I believe that we work 'at' something.(...) 

本稿の(上)に記したとおり、フランソワーズ・ジルーのアルマ・マーラーに関する小説に出てくる作品創作に関するマーラーの 「神の衣を織る」という言葉の由来がずっとわからないままでいたのだが、書簡集を読み返していて、上掲のリヒャルト・バトカ宛の書簡に出てくる "Der Gottheit lebendiges Kleid"がそれらしいことに気付いたので記録しておくことにする。

この書簡は日付も発信地ないようだが、アルマの編集した1924年版の書簡集では1896年11月18日にハンブルクからバトカに宛てた書簡(この書簡も既に別のところで 紹介している)とともに分類されており、マルトナーも1896年ハンブルクにて書かれたものと推測していて、邦訳のある1996年版書簡集(ヘルタ・ブラウコプフ編)でも(少なくとも排列上は)それが踏襲されている。 ただしヘルタ・ブラウコプフはもっと後の時期のものであるかも知れないとの推測を注で述べている。11月18日付け書簡の背景については当該書簡の項に記載したとおりだが、上掲の書簡は アルマのつけた注によれば、アンケートに対する回答として書かれたものとのことで、確かなことがわからない時期の問題をおけばジルーの記述とも背景は一致しており、この書簡が典拠であることは 間違いないだろう。この言葉に関連してこれまた既に本稿の(中)で紹介したアルマの「回想と手紙」の1910年の章に出てくる人間の「義務」についてのマーラーの言葉との 関係は依然として不明だが、バトカ宛書簡はこの2通だけである一方で、書簡集付属の人名録によればバトカは1922年まで生きていて、プラハの後、ウィーンでも活動したとのことだから、 件のアンケートがずっと後に行われ、それがきっかけでアルマの回想に書き留められたエピソードに繋がった可能性も全くないとは言えないだろう。いずれにせよ、インタビューがアメリカで行われた という私の推測は正しくなかったようである。ひところラ・グランジュの伝記に記載されたアメリカ時代のインタビュー(かなりの分量がある)にあたったのだが、探し当てられなかったのも道理である。

ヘルタ・ブラウコプフの注記の根拠はわからないものの、普通に考えれば1910年のエピソードとの関係はないものと考えるべきなのだろうが、その可能性を捨てきれないのには実は理由がある。 マルトナーが注記していることだが、"Der Gottheit lebendiges Kleid"という言葉はゲーテの『ファウスト』からの引用なのだ。良く知られている通り、ゲーテの『ファウスト』の終幕を歌詞として 用いている第8交響曲の初演は1910年9月にミュンヘンで行われたから、件のアルマの回想はタイミングとしては丁度一致しているとも考えられるのだ。件のアンケートが雑誌のための ものであれば、掲載されている雑誌があれば確認できるかも知れないが、第8交響曲初演にちなんでそうしたアンケートが為され、マーラーが『ファウスト』の引用をもって回答したというのは そんなに突飛な推測とは言えまい。勿論手紙の原本が残っていれば用紙とかインクなどから時期を推定するなどの作業が行うことではっきりするかも知れないが、 私にはそれが出来ないから、今のところはまたしても推測のままにしておくほかはない。

だがせめて、それでは"Der Gottheit lebendiges Kleid"が『ファウスト』のどこに出てくるのかはここで確認しておくことにしよう。第1部が始まって間もなくの、ファウストの独白が繰り広げられる「夜」の 場面で地霊が語る言葉として以下のように出てくるのだ(第1部509行目)。

Ein wechselnd Weben,
Ein glühend Leben,
So schaff ich am saufenden Webstuhl der Zeit
Und wirke der Gottheit lebendiges Kleid.
(Goethe Werke, Hamburger Ausgabe in 14 Bänden, Bd. 3, 11.Auflage, 1981による)

「経緯(たてよこ)に織り交う糸、
燃える命、
こうしておれは「時」のざわめく機(はた)をうごかす。
神の生きた衣を織る。」
(手塚富雄訳『ファウスト』中央公論社版〈1971〉,p.21による)

更に少し先、「書斎」の場面のメフィストの言葉には、この言葉と呼応するかのように "Zwar ist's mit der Gedankenfabrik / Wie mit einem Weber-Meisterstück" という言い回しも出てくる。 こうした言葉を念頭において改めてマーラーの書簡を読むと、一見したところ掴みどころの無さそうなマーラーの文章の修辞が、明らかにファウストの詞章を踏まえたものであることが窺える。 例えば"woran" ich lebe, als "woran" ich schaffe.という言い回しは、それに由来するかどうかはおくとしても、上記詞章に含まれるLebenと響きあう。なお、ゲーテの『ファウスト』には様々な版が あり、本文にかなりの差異が見られるが、それに呼応するように、上記の引用箇所についての訳もまたかなり幅があるようだ。例えば岩波文庫に収められている相良守峯訳では 「転変する生動、/灼熱する生命、/こうしておれは時のざわめく機織にいそしみ、/神の生きた衣を織っているのだ。」(岩波文庫版、上巻、p.42)となっているし、確認した他の幾つかの版では 更に違いが甚だしいが、ここでは「神の生きた衣を織る」という言い回しに拘っているのだから、その言い回しを訳文に反映している2種類の訳を掲げるに留める。

なおジルーの文章は、もし典拠がこの書簡であるとすれば、忠実な翻訳ではなく、些か自由なパラフレーズであろう。ジルーがどの版を下敷きにしているかは定かではないが、寧ろゲーテの詞章に 近いものになっているのに対し、ジルーの小説の独訳版は、この書簡を照会することもなく(もっとも問いが Warum glauben Sie ?に変わっているのは、後段のマーラーの Nur, wenn dem so ist, glaube ich daran, daß wie "Woran" schaffen. にひきずられてのことかも知れないが)、ゲーテを参照したとも思えず、ジルーの文章の更なるパラフレーズを 試みたもののようだ。一方、この書簡自体の翻訳について言えば、マルトナーの英語版の方は注釈より明らかだが、1996年版の邦訳がゲーテの詞章を踏まえているかどうかは定かではない。 それが影響しているかどうか、マルトナーの英語版の英訳(ただし翻訳自体は、Eithne Willeins と Ernst Kaiser によると記されている)と邦訳との間には解釈の少なからぬ違いが見受けられるのが些か気になることを付記しておくことにする。(2009.12.06, 12.13加筆修正、 2010.5.4加筆、2023.8.21タイトルを更新するとともに、引用中の誤記を修正するとともに比較対照ができるように邦訳および英訳を参照し、かつ出典記載を詳細化。)

*     *     *

上記の文章を記した時には、長らく探し求めていた「神の衣を織る」というマーラーの言葉の典拠を突きとめたことそのものに感激して、わかったことを記して事足れりとしたのであったが、改めてきっかけとなったフランソワーズ・ジルーの小説での引用とオリジナルのマーラーの書簡を比べてみてまず気づくことは、ジルーの引用が、マーラーの言葉に必ずしも忠実ではないことだろう。マーラーはゲーテの詞章をそのまま「神の生き生きとした衣」と引用して、「何によって」創作するのか、「何によって」生きるかの答としていて、「織る」という動詞は含まれていない。従ってそれは恐らくゲーテの元々の章句を参照してジルーが補ったものなのだろう。(ということはジルーは、そうコメントはしていないものの、この言葉の典拠を知っており、オリジナルのゲーテの詩句を踏まえて書いているということになる。)

実のところ私がジルーの文章を読んだ時に心を奪われたのは、(逐語的に「生き生きとした」という言葉を含めずに敢えて圧縮していることからも窺えるように)「神の衣を織る」という表現であり、自分が生み出す作品は自分のものではなく、神のものであって、自分は「神の衣」を織っているに過ぎないのだという態度、姿勢が如何にもマーラーの創作の姿勢を言い当てているというように感じたが故であった。それを思えば、ジルーがどう受け止めたかは措いて、「織る」と言う言葉をマーラー自身は引用に含めておらず、「神の衣」が「何によって(Woran)」創作するかの答であるという点について、別途考えてみるべきなのかも知れない。更に言えば、そもそもジルーは、マーラーを「信仰の人」とし、その傍証としてこのアンケートへの答を挙げているのだが、このことがどこまで妥当なのかについて疑念を差し挟むことだって出来るかも知れない。

例えば、この書簡に辿り着く前にアルマの回想にある人間の義務についてのマーラーの言葉に立ち寄ったのであったが、そこで吟味した通り、マーラーの考え方はキリスト教的というよりはゲーテの、寧ろ汎神論的と言っても良いような自然観・世界観に近寄っているように思われ、そして実際に「神の生き生きとした衣を織る」というのも他ならぬゲーテの言葉であるのであってみれば、それを西欧的な普通の意味でのキリスト教信仰と同一視して良いかについては大いに疑問があるからである。ユダヤ人マーラーは、宮廷歌劇場の監督になるに際してカトリックに改宗するけれど、アルマや他の人びとの回想を見る限り普通の、伝統的な意味合いにおいての(例えばブルックナーのような)熱心な信者ではなかったようだし、彼の宗教観なるものは、伝統的、正統的なキリスト教信仰からすれば、例えばハンス・マイヤーが指摘しているような奇妙なアマルガムであったというのが正しい評価になるであろうからだ。

だがしかし、ジルーもまた「信仰の人」という言葉をそのような意味合いで用いた訳ではあるまい。伝統的な意味合いでのキリスト教信仰から見てどうであれ、ワルターを始めとする多くの人が証言し、語っている通りマーラーは神を探し求める人であり、広い意味では優れた意味合いにおいて「信仰の人」であったと言って差支えないだろうからである。上掲のマーラーの書簡の後半部分で「我々と我々の作品がいま少し「わかる」ものでなくなってしまった、そんな時代がまたしてもやってきた」とマーラーが語っているのは、直接的にではなくても、安定した堅固な伝統的な価値観が喪われ、各人がそれぞれ自力で「意味」を探し当てなくてはならなくなった状況についての知的で冷静な把握を感じさせる。そうしたマーラーの知性は、彼に懐疑をもたらしたが、そこで彼が創作の拠り所としたのが「神の生き生きとした衣」であると述べているのであれば、そのことをもって彼を広い意味での「信仰の人」と捉えるジルーの見方は、結局のところ正しい把握であるように思われるのである。

それでもなお、「神の生き生きとした衣」が「何によって(Woran)」に関する問いの答であるとするならば、マーラーがそれを自ら「織る」と考えていたのではないのではないかという問いは成り立つかも知れない。だが、この点に対する私の答ははっきりとしている。ここでは引用していない書簡の前半において、創作にあたって「何について」取り組むべきかという(恐らくはもともとあった)問いを不適切なものとしてマーラーは退けていること(これはマーラーが「標題」を退けたことと軌を一にしていることに留意しよう)からもわかるように、「神の生き生きとした衣」が彼の作品の「素材」であるとして、それは彼が接した「~が私に語ること」を手がかりにしてという意味合いにおいてなのだ。ゲーテ的な世界観においては人間もまた世界を形づくる存在の一部であり、「手持ちのすべての手段を使って一つの世界を構築すること」は、それもまた自分なりの仕方で「神の生き生きとした衣」を織ることに他ならないだろう。マーラー自身の言葉が明示的にそのように語っているということはできないにしても、マーラーの作品に接してみれば、その一つ一つが「神の生き生きとした衣」であることは疑いないものと私には感じられるのである。そしてマーラーの音楽が1世紀の後、今なお力を持っているのは、マーラーの接した状況が基本的には今なお変わらず続いているからであり、自分なりの仕方で「神の衣を織る」ことが、今なお、否、より一層切実な仕方で私たち一人ひとりに求められているからなのではなかろうか。

(2009.12.06, 12.13加筆修正、 2010.5.4加筆、2025.8.12 改訂)


「神の衣を織る」という言葉を巡って(中):アルマの「回想と手紙」に出てくる人間の「義務」についてのマーラーの言葉(2025.8.12改訂)

アルマの「回想と手紙」に出てくる人間の「義務」についてのマーラーの言葉(アルマの「回想と手紙」、1971年版原書pp.212--213, 白水社版邦訳(酒田健一訳)p.213)
Mahler hatte die Gewohnheit, einen Einfall, der ihm besonders gefiel, Tage, Wochen, ja oft Monate lang ständig zu wiederholen, darüber nachzudenken und mit vielen Varianten darüber zu sprechen. So sagte er jetzt immer wieder : » Alle Geschöpfe in der Natur schmükken sich unausgesetzt für Gott. Jeder Mensch hat also nur eine Pflicht, vor Gott und den Menschen so schön als möglich zu sein in jeder Weise. Häßlichkeit ist eine Beleidigung Gottes ! «

マーラーには、ふと思いついた考えがとくに気に入ったりすると、何日でも何週間でも、ときには何か月でもしつこくそれをくり返し、頭のなかでこねまわしては、いろいろなかたちに作り変えて言ってみるという癖があった。それでこのころの彼は、ことあるごとにこう言った。「自然界のすべての生きものは神のためにたえず装いをこらす。だからあらゆる人間は、神と人間のまえで各人各様にできるかぎり美しくあらねばならぬという、ただ一つの(原文傍点)義務を負うている。醜いことは神にたいする冒瀆だ!」 

最初に読んだときに特に印象に残ったわけではないし、現時点でもこの言葉そのものが特にマーラーの言葉として意義深いものであるようには 感じていないにも関わらず、あえてこの言葉を取り上げたのは、この言葉を紹介するにあたりアルマが触れているマーラーの「癖」を考えた時、 本稿の(上)で紹介したジルーのアルマについての小説に出てくる作品創作に関するマーラーの言葉が、もしかしたらそうしたヴァリアンテの一つではなかったか、という気が したからに過ぎない。意味合いもニュアンスもかなり違うから全く見当外れかも知れないが。(寧ろ、言葉遣いの上からは、かの有名なプロテスタントのコラールの 題名が呼びさまされるように感じられる。)

ちなみにこの言葉をマーラーが弄くりまわした時期というのは、アルマの回想の叙述上、 1910年9月にミュンヘンでの第8交響曲の初演で成功を収めた後、冬にアメリカ渡ってから、次章で扱われる同じ年のクリスマスまでの間のことのようである。 「有名人」マーラーがアメリカでインタビューを受けて、その時の答を色々と自分で変形させ、そのあるバージョンをアルマが書き留めた、というのは如何にも ありそうなことだと私には思えるのだが、残念ながら、現時点でも単なる憶測の域を出ないままである。(2008.2.10, 2.11補筆)

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上の文章は、本稿の(上)で紹介した、ジルーのアルマについての小説に出てくる作品創作に関するマーラーの言葉を取り上げた記事を書いた後、しばらくしてから書き留めたものである。「自然界のすべての生きものは神のためにたえず装いをこらす。」という言葉から、その「生きもの」の一部である人間は、作品を創作することによって「神の衣を織る」というように敷衍できるのではないかと思ったことと、アルマの回想が「ふと思いついた考えがとくに気に入ったりすると、何日でも何週間でも、ときには何か月でもしつこくそれをくり返し、頭のなかでこねまわしては、いろいろなかたちに作り変えて言ってみるという癖」について語っていて、もしそうであるならば、ここにアルマによって書き留められたマーラーの言葉のそうした変形の一つが「神の衣を織る」であっても良いのでは、と思ったことがきっかけとなった。事実関係から行けば、この推測は誤りであり、「神の衣を織る」という言葉は、マーラーがアルマと出会う遥か手前に遡って、ハンブルク時代のマーラーがゲーテを引用して述べた言葉であったのだが、それとは別に、「各人各様にできるかぎり美しくあらねばならぬという、ただ一つの義務」の遂行として創作を考えるということは、これはこれで可能だろうし、「できるかぎり美しくある」ことが「神の衣を織る」ことに通じるというのもそれほど無理はないように思える。時代は隔たってはいるけれど、ゲーテ的な自然観に基づくマーラーの考え方は基本的には一貫していて、大きくは変わっていないことからも、寧ろアルマが回想に書き留めたこちらのバージョンの方が、ゲーテの言葉の「変形」であると見ることもできるのではなかろうか。

一方「言葉遣いの上からは、かの有名なプロテスタントのコラールの題名が呼びさまされる」というのは、バッハをはじめとする様々な作曲家のコラール作品の定旋律として有名な讃美歌「愛する魂よ、美しく装え」を思い浮かべてのことだが、歌詞の上では死に際しての心構えを説くこの讃美歌の内容は、「たえず装いをこらす」のは人間のみならず「自然界のすべての生きもの」であるとする、どちらかと言えばゲーテ的な自然観を背後に感じさせるマーラーの言葉とはやはり稍々異質のものであろう。なおマーラーのこの言葉自体が(ゲーテも含む)別の誰かの著作の一節の引用ないしその変形である可能性もあるが、この仮定に立った調査は今に至るまできちんとしたことがなく、アルマが記録した言葉そのものずばりに限って言えば、これまで調べた限りでは見つけられていない。

(2008.2.10公開, 2.11補筆, 2025.8.12 改訂)

「神の衣を織る」という言葉を巡って(上):フランソワーズ・ジルーのアルマ・マーラーに関する小説に出てくる、作品創作に関するマーラーの言葉(2025.8.12改訂)

フランソワーズ・ジルーのアルマ・マーラーに関する小説に出てくる、作品創作に関するマーラーの言葉(原書p.71, ドイツ語版p.56, 邦訳『アルマ・マーラー ウィーン式恋愛術』, 山口昌子訳, 河出書房新社, 1989, p.77)
Mahler est un homme de foi. Interrogé, plus tard, dans le cadre d'une enquête sur la question : « Pourquoi créez-vous ? » il aura cette belle réponse : « Tisser la vêtement vivant de Dieu, ce serait au moins quelque chose ... »

( Mahler war zeitlebens ein gläubiger Mensch. Später einmal stellte man ihm im Rahmen einer Umfrage die Frage » Warum glauben Sie? « und er gab darauf folgende poetische Antwort : » An Gottes lebendigen Kleid mitzuweben, das wäre doch immerhin etwas ... « )

マーラーは信仰の人である。後にアンケート調査で「なぜ創作するのか?」という設問に立派な回答を寄せる。「神の生き生きとした衣を織ることは、それだけで何かである…」 

注:問いや地の文についていえば、ドイツ語訳は必ずしも忠実な翻訳ではないようだが、これは翻訳(それも、もしかしたら誤訳に近い)なのか、 それとも、地の文はともかく、問いと答えの方はこちらがオリジナルなのか? そもそも、この質問と答えは一体、何時行われたものなのだろうか?  (アメリカで、とかいうことは如何にもありそうな感じだが、だとしたら元は英語かも知れない? そもそもこの件が全部ジルーの「創作」ということは まさかないとは思うが、、、) de La Grangeの伝記をきちんと読めばどこかにあるのかも知れないが、まだ探せていない。 ご存知の方がいらしたら教えていただきたくお願いしたい。(2007.5.12)

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と、このように記したブログ記事を最初に公開したのは2007年5月のことだった。1989年に邦訳が出て直ちにジルーの小説を読んだ時に、この「神の衣を織る」という表現に心を奪われ、更にそれを他ならぬマーラーが自分の創作の動機を説明するのに用いたということにひどく心を動かされ、だけれどもその典拠には思い当たりがなく、その後永らく気になっていたこと、だがその後も典拠を突きとめることができず、更にはそれがマーラー自身の言葉なのか、それとも何かの引用なのかすらわからずに、だけれどもこの言葉こそ、マーラーの創作のあり方を申し分なく言い当てているように感じられ、もしかしたら自分の知らない文献に典拠があるのではとも考えて、Web上で誰か知っている人が居て、教えてもらえないかと思い立ってこの文章を綴ったことをまるで昨日の事のように思い出す。マーラーが交響曲創作に関して述べた余りに有名な「手持ちの全ての手段を用いて一つの世界を構築する」という言葉は、この「神の衣を織る」という言葉を介して理解すべきなのであるという思いは、最初にジルーの小説のこのくだりを読んだ時も、この問い合わせの文章を綴った時も勿論、それから更に20年近い歳月を経た今なお、変わることはない。作品を創造するということは、それによって世界を一層豊かにすることであり、作曲する「私」自身、世界の一部であることを思えば、それは世界の自己享受と自己創造・自己組織化の絶えざる運動の一部なのであるという考え方は、如何にもマーラーの作品の在り様に相応しくはないだろうか?

ところでこの典拠に対する問いは、その後マーラーの書簡集を確認していく中で解決した。実はこれはハンブルク時代のマーラーのリヒャルト・バトカ宛書簡の中の言葉を下敷きにしており、そして「神の衣を織る」というのは、ゲーテの『ファウスト 第1部』の地霊の台詞に基づいたものなのである。(1924年版書簡集原書198番, pp.216-7。1996年版書簡集では163番, pp.167-8(邦訳pp.152-3)。 1979年版のマルトナーによる英語版では154番, pp.175-6)そのことを報告する記事(「リヒャルト・バトカ宛書簡にある作品創作に関するマーラーの言葉」)を書いたのは、この記事の5年後のことであり、勿論その間ずっと探し続けていた訳ではなく、ふとした折に思い出しては手元にあるマーラーに関する様々な文献をあたり、というのを繰り返した挙句、書簡集を読み返していくうちに或る日行き当ったのである。その探索の途上では、正確にその通りではないけれど関連があるかも知れないとして記事として取り上げた書簡もあるので、それも併せて以下に紹介をすることにしたい。

なお、マーラーの言葉の、それ自体は印象的なこの引用がジルーによって行われる文脈は、この本がアルマに関する本であるから当然なのだが、アルマがマーラーと出会って後、婚約に至る部分である。従ってそれは1901年のことなのだが、引用の典拠である日付のないマルトナー宛書簡はと言えば、1896年にハンブルクにて書かれたと推測されているし、その書簡を「アンケートの回答」であると注記したアルマ自身によって編まれた1924年版書簡集以降、1996年版に至るまで、その推測は基本的には踏襲されている点を注記しておきたい。つまるところジルーの「後に」という記述は、そうした観点からすれば矛盾していることになるのである。もっとも、上記のブログ記事にも記載の通り、1996年版書簡集の編者であるヘルタ・ブラウコップフによれば、マルトナー宛書簡がもっと遅くに書かれた可能性は残されており、何らかの理由でジルーが1988年刊行の著作執筆時点で、そちらの解釈に(勘違いではなく)意図的に与した可能性も否定できないのだが…

(2007.5.12初稿, 2021.7.12追記, 2025.8.12 改訂)

2025年8月11日月曜日

1907年12月7日付ウィーン宮廷歌劇場への告別の手紙(2025.8.11 改訂)

1907年12月7日付ウィーン宮廷歌劇場への告別の手紙(Gustav Mahler Briefe, Neuausgabe erweitiert und revidiert von Herta Blaukopf (Paul Zsolnay,1982) p.322所収。Blaukopf u. Blaukopf, Gutav Mahler : Leben und Werk in Zeugnissen der Zeit (Hatje, 1993) p.347 にも転載されている。なお船山隆「マーラー」新潮文庫のp.157に写真がある。)

AN DIE GEEHRTEN MITGLIEDER DER HOFOPER!

Die Stunde ist gekommen, die unserer gemeinsamen Tätigkeit eine Grenze setzt. Ich scheide von der Werkstatt, die mir lieb geworden, und sage Ihnen hiermit Lebewohl.
Statt eines Ganzen, Abgeschlossenen, wie ich geträumt, hinterlasse ich Stückwerk, Unvollendetes, wie es dem Menschen bestimmt ist.
Er ist nicht meine Sache, ein Urteil darüber abzugeben, was mein Wirken denjenigen geworden ist, denen es gewidmet war. Doch darf ich in solchem Augenblick von mir sagen : ich habe es redlich gemeint, mein Ziel hochgesteckt. Nicht immer konnten meine Bemühungen von Erfolg gekrönt sein. "Dem Widerstand der Materie", "der Tücke des Objekts" ist niemand so überantwortet wie der ausübende Künstler. Aber immer habe ich mein Ganzes darangesetzt, meine Person der Sache, meine Neigungen der Pflicht untergeordnet. Ich habe mich nicht geschont und durfte daher auch von den anderen die Anspannung aller Kräfte fordern.
Im Gedränge des Kampfes, in der Hitze des Augenblicks blieben Ihnen und mir nicht Wunden, nicht Irrungen erspart. Aber war ein Werk gelungen, eine Aufgabe gelöst, so vergaßen wir alle Not und Mühe, fühlten uns reich belohnt -- auch ohne äußere Zeichen des Erfolges. Wir alle sind weiter gekommen und mit uns das Institut, dem unsere Bestrebungen galten.
Haben Sie nun herzlichsten Dank, die mich in meiner schwierigen, oft nicht dankbaren Aufgabe gefördert, die mitgeholfen, mitgestritten haben. Nehmen Sie meine aufrichtigsten Wünsche für Ihren ferneren Lebensweg und für das Gedeihen des Hofoperntheaters, dessen Schiksale ich auch weiterhin mit regster Anteilnahme begleiten werde.

Wien, am 7. Dezember 1907.

GUSTAV MAHLER

クルト・ブラウコプフ『マーラー 未来の同時代者』, 酒田健一訳, 白水社, 1974, p.347 所収の邦訳。原書所収の原文には上掲の原文と細部に異同があり、翻訳にも異同があるが、実質的にあ内容上同一と見做し得ることから、異同を補うことなく訳文をそのまま掲げる。

諸君との共同事業に終止符を打つ時が来ました。私はいま私の愛した仕事場を去るにあたって、この一文を捧げ、お別れの挨拶にかえたいと思います。完全無欠を夢みながら、私は人間の定めどおりの不完全な半端仕事を残して去ります。私の活動が私がそれを捧げた人びとにとって何であったかということについて判定するのは、私の仕事ではありません。しかしいまこの瞬間、私は自分についてこう言わせてもらえるだろうと思います。すなわち私は誠実だった。私の目標はつねに高くかがげられていた、と。私の努力はかならずしもつねに報いられたわけではありませんでした。いったい再現芸術家ほど題材の抵抗、対象の敵意にさらされている者はいません。しかし私はつねに私のすべてをそれに捧げ、私の人格を作品に、私の性向を義務に従属させました。私は自分を容赦せず、したがって他人にも全力をつくすことを要求しました。争いの渦中で、あるいは一時の興奮のなかで、傷を負い、誤りをおかすことは私にも諸君にも避けられませんでした。しかし一作が成功し、課題が解決されたときには、われわれは日ごろの労苦を忘れ、ゆたかに報いられた喜びを感じました――たとえ外面的な成功のはなやかさには欠けていたとしても。われわれはそろって前進し、それとともにわれわれの努力に支えられた劇場も前進しました。私は私の困難な、ときにはしばしばありがたくない仕事を援助してくださり、そして、ともに助け合い、ともに戦ってきた諸君に心から感謝します。どうか諸君の将来と宮廷オペラ劇場の繫栄を祈る私のいつわらざる気持ちをお受けください。とくに当劇場の運命を私は今後もいぜんいきいきとした関心をもって見守りつづけてゆくでしょう。  
グスタフ・マーラー


私が子供の頃に最初に手にしたマーラー伝であったマイケル・ケネディの著作には部分的であるが上掲の文章の翻訳が引用され、それに続けて「メッセージは 掲示板にピンで貼られた。翌日、これははぎ取られ、破られた。」(中河原理訳p.90)との文章があって、この件を読んだ私は大変なショックを受けたことを 良く覚えている。私のような平凡で無能な人間でさえ、馬齢を重ねるに従い、そうした出来事が別段珍しいことではなく、むしろありふれたことに属するかも 知れないことを身をもって知るようにはなったし、それゆえ後続の痛ましい出来事に対する現時点での感慨は、その時のものとは些か異なるとはいえ、 上記のマーラーの文章から受ける印象の方はあまり変わりはないようだ。

今日でも、あるいは同時代においてすら、作曲家としてのマーラーはともかく指揮者としてのマーラーの能力についての評価は確固たるものであっただろうし、 劇場監督としてマーラーが達成した上演の水準の高さを疑問に付する意見は寡聞にして知らない。だが現場で起きていることは、従ってマーラー自身が 経験したことは、決して後からの美化で取り繕うことができるような生易しいものではなかったに違いない。であってみれば寧ろ船山さんのようにこの文章を 「模範的」と評価するのが適切であって、この文書自体もまた、劇場政治の最終幕の一齣には違いないのだろう。だがだからといって、例えばこの文章は ゴーストライターが書いたものではないのか、といった議論がされるわけでもなく、マーラーがこうした行為に及んだ意図を憶測しようという話もないようだ。 結局のところ、子供の私が子供なりに身をもって知らないではなかった筈の「現実」の経験の過酷さ(勿論そんなものはマーラーの場合と比べれば比較するのが 憚られるほど取るに足らないものに過ぎないには違いないのだが)と引き合わせ、自分のアイドルであるマーラーの受けた「理不尽」な仕打ちに義憤を感じた 当時の私の感じ方と大きくは違わないようだ。後になって病に倒れたマーラーはアルマに向かって、自分の人生は紙切れだった、と述懐したようだが、 上記のうわべは「模範的」な文章にもマーラーの傷が感じられ、おしなべて「大地の歌」の「告別」の詩と響きあうような感じさえあって私には痛々しい。

アルマがやはり回想で述べているように、劇場の管理者として極めて有能だったマーラーは、必須の能力として当然に人の心理を読むのに長けていたに違いない。 そのマーラーがこの文章を書置きしたのは、それに対する否定的な反応をも予測した、覚悟の上のことだったのではなかろうか。最早彼には喪うものはなかった。 そうした時に自分の偽らざる心境を、今なお自分を支持し、理解してくれる人たちに向けて吐露したい欲求にかられたとして、それを咎めることはできないだろう。 上記の文章が感動的なのは、牧歌的ではありえない現場の事情を糊塗せず、自分がしたこととその結果をマイナス面も含めて認める率直さがそこに 感じられるからだと思う。それをわざわざ最後に言い残す挙措について「やけくそ」と受け止める醒めた見方も、なおそこに「ポーズ」を、「演技」を見る冷静で 意地悪な見方も可能だとは思うが、私はそうは思いたくない。これまたアルマが正しく理解していたように、マーラーは時としてあまりに無防備で傷つきやすい、 素朴な心の持ち主だったし、私の知る限り疑いなく倫理的に高潔に振舞うことを自らに課していたように思える。 勿論、そういうマーラーを、何事もくそ真面目に考えすぎるのだと見做した シュトラウスの認識もまた正しいが、私はこの点についてはマーラーの「くそ真面目さ」に共感を覚えるし、シュトラウスとてそういってマーラーを一方的に批判した わけではない。寧ろシュトラウスは、醒めた視線を保ちながらも、そうしたマーラーに対して助力を惜しまない寛大さを持ち合わせていた。私には実際には 想像がつかない、同じように途轍もない才能を持つ者同士だけが分かち合える共感とともに。

勿論、人それぞれ能力も性格も異なるのは当然で、自分がマーラーになれると思い込んでいるわけではない。そういう「天才」マーラーですら、 机の下に唾したところでベートーヴェンになれるものではない、と語ったとアルマが伝えているではないか。上記の文書を去ってゆく職場に掲示した マーラーの気持ちも、自分の人生を紙切れだったと述懐するマーラーの気持ちも、誤解は覚悟の上で、自分なりに「わかる」し、深く共感できる、 ただそれだけのことなのだ。否、端的に言えばアドルノが1960年のマーラー論の末尾で述べているように、マーラーがまさしく » Ich soll da bitten um Pardon, und ich bekomm' doch meinen Lohn! Das weiß ich schon.« という角笛の詩に曲をつければこそ、あるいはまた、Ohne Verheißung sind seine Symphonien Balladen des Unterliegens, denn » Nacht ist jetzt schon bald. « であるからこそ、私はマーラーを聴かずにはいられないのだ。 そしてまた彼が「君臨した」筈の職場への告別の辞、翌日には破り捨てられる運命にあった上掲の言葉もまた「敗北者のバラード」のヴァリアントで なくて何だろうか。そこにはもうすぐ産み出される「大地の歌」の最終楽章に自ら書き加えた mir war auf dieser Welt das Glück nicht hold! ということばが こだましている。すでに第6交響曲のフィナーレで練習番号149に至って、先行して再現した副主題のどこかに不穏な予感を秘めつつも清澄で 柔らかな表情(この副主題再現部は前後との残酷なまでの対照ゆえにマーラーが書いた最も美しい瞬間の一つだと思う)が消え去り、身の毛のよだつ様な心理的な リアリティを伴いつつ、主要主題の再現を準備すべく練習番号150番にVorwärtsという指示を書き込んだとき、そのことばはマーラーのものであった。 そう、それは心のどこかで主要主題が回帰するのを「運命」として予感していて、それが現実のものとなったときのあの諦念と絶望感が入り混じった 心理状態そのものなのだ。「やはりこうなるのか」という言葉にならない呻き、そしてもう一度、だが今度は負けることがわかっている戦いに挑むときの心境。 この順序で主題が回帰してしまえば、最後のとどめの一撃、イ短調の主和音の到来は既に定まっている。それゆえ主要主題が回帰するときの 容赦なさの感覚は生々しい。あるいは第5交響曲第2楽章の練習番号21番以降22番の頂点で倒れ臥すまでの絶望的に彷徨う眼差しにおいてもまた、 一瞬過去を回顧する空間が広がりながら直ちに運命の容赦なさに再び呑み込まれて行くプロセスの過酷さが示される。 そしてそれらは聴き手の私のものでもあるのだ。はしたなく節操のない音楽の聴き方であることは否定しようと思わないが、聴き始めた子供の時以来30年あまり、 私にはそういう聴き方しかできないし、そういう聴き方ができればこそ、私はマーラーを聴き続けているのだ。

そして上掲の文章にも現われている人間の営みとその成果の限界についての認識が、その後の晩年のマーラーの作品にも色濃く反映しているのは 疑いないように感じられる。天才マーラーは遙かに遠くまで行くことができた。だけれども、それでも所詮は限界があるのだという認識もまた持っていた。 例えば、晩年のアルマ宛の1909年6月27日の書簡における「作品」についてのマーラーの言葉は非常に印象深いものなので別に既に紹介しているが、 それもまた、こうした文脈において考えるとまた別の意味を帯びてくるように思われる。更にこの先の到達点に、こちらもまた別に紹介しているあの遺言の » Die mich suchen, wissen, wer ich war, und die andern brauchen es nicht zu wissen. « を置いてみたらどうだろうか。 そこには「やがて自分の時代が来る」(そして「今や来たのだ」と受けるのが「マーラー・ブーム」以来のお約束のようだが)という妻への強がりよりも、 価値の相対性と自分の遺すものの不十分さに対する諦観が強く感じられるように思えてならない。「わかる人だけにわかってもらえれば良い」という言葉もまた、 エリート主義的な鼻持ちならない傲慢さによるものではなく、少なくとも不完全である人間にとって価値は相対的なものでしかないことに対する認識と、 それに応じて能力やら才能やらも相対的なものであること、その一方で、それが故に、ある価値を尺度とすれば、どうしようもない理解の溝というのが そこかしこに存在することを認めざるを得ないという現実的な認識によるものであるように感じられる。 そして私もまた、それが選択肢の一つであることを認識しつつ、マーラーとともに在ることに意識的にならざるを得ない。実を言えば最初の 選択の瞬間には子供であった私がこうしたことに対してどこまで意識的であったか自信はない。けれども今の私は今度は否応なく意識的に選ばざるを 得ないのだ。そしてその選択は私の生の態度の全般に影響する。良くも悪くもマーラーの音楽はその人と不可分であると言われるが、そうである分他の 場合よりも一層、聴き手の側にも音楽を単なる音響の消費で済ますことを許さないように思われる。

なおこの文章は有名だからあちらこちらで引用されていて、例えばクルト・ブラウコプフのマーラー伝でも邦訳を読むことができる。 ただし、私が所有しているブラウコップフの伝記の原書 (Kurt Blaukopf, GUSTAV MAHLER oder Der Zeitgenosse der Zukunft, Verlag Fritz Molden, 1969) では何故か文章の細部に異同があり、上記の船山の著作所収の写真とは明らかに異なっていたので、 上掲の原文は写真と文面が同一であることを確認できた別の典拠に拠った。(2008.6.22,25,28 公開, 2025.8.11 改訂し邦訳を追記。)