お知らせ

GMW(Gustav Mahler Werke, グスタフ・マーラー作品番号:国際グスタフ・マーラー協会による)を公開しました。(2025.4.20)

2014年9月6日土曜日

ヴェーベルンからみたマーラー

ウェーベルンのことを考える上で無視することができない存在といえば、何よりも まずマーラーだろう。勿論、師であるシェーンベルク、友人のベルク、晩年の ウェーベルンの声楽曲に歌詞を提供したヨーネなどもいるが、マーラーはウェーベルンが 自分の生き方のモデルと見なしていたように見える点で、特殊な位置を占めているように 思える。

ちなみに、私はウェーベルンの物の感じ方とか見方に親近感を覚えているけれど、 マーラーを尊敬していたというのも、不思議でも何でもない、とてもよくわかる気が するのである。少なくとも世上言われるほど意外な組み合わせでは決してないと思う。

それにしても、この音楽は法外だと感じる。これほどの大管弦楽を用いて、しかも 1時間半にわたって表出される内容の私的な性質は、ある種の美学からすれば到底 許すことができない放恣として映るだろう。けれども、だからといってこの音楽の 私性を中和してしまうのは誤りだと思う。この音楽の巨大さはイワン・カラマーゾフが 大審問官を語る前にアリョーシャに語った「叛逆」に通じるのではないか?

マーラーはウィーンを去った後、「私の人生は盗まれた」と語ったという。 これを独りよがりと採る人には、同時にこの音楽も独りよがりの最たるものであろう。 けれども私は、彼がそのように語るのを不当だと断罪する気にはなれない。 才能も、能力もはるかに劣る人間でさえ、そうした、成し遂げようとすることに 対する感情的な妨害(それは大抵、別の理想との対決といったものではない、 単なる無意味な、妨害のための妨害に過ぎない)や、成し遂げたことに対する 狡猾な強奪(途を切り開くことは困難だが、その後をついて歩いて拾った落穂を 我が物顔で自慢するのは容易なことだ)に遭えば悄然とするであろう。彼は 疑いなく能力があったし、理想の実現のために膝を屈し、妥協をする実際的な 判断力もあった。けれども、自分の来た途をあるとき振り返って、そうした 犠牲の対価として得たもの、自分の努力の最終的な報いを改めて確認したときに、 「私の人生は盗まれた」という述懐をするのを誰が禁じることができるだろう。 「神の衣を織る」ことに価値をおき、そしてそうすることができた人間のセルフ・ ポートレートに対して、私は到底否定的にはなれない。

バルビローリの演奏は、同じように「成し遂げることが」できる人間、そのために 努力を惜しまない(そう、能力のある人間ほど努力もするものなのだ)もう一人の 指揮者による共感に満ち溢れているように思える。その度合いを超えて 個人的にはこの演奏以外で聴いてみたかったのは、本人を除けばウェーベルンの 指揮した演奏くらいのものだ。

かつてはシューマンがそうであったように、そして初演時のマーラー自身が (あれほどのプロフェッショナルであった彼としては例外的なことに)そうで あったように、ウェーベルンもその資質から、この音楽の実質に打ちのめされ 溺れてしまって、(しばしば実際にそうであったと伝えられるように)この 曲の指揮を冷静にし遂げることができたかが心配になるが、けれどもそうした 音楽の内実に対する深い共感が、バルビローリが成し遂げたようなぎりぎりの 均衡を達成できた時には、類稀な感動的な演奏になっただろうと想像される。ベルクが夕食を忘れるほど熱狂したあのウェーベルン指揮のマーラーの 第3交響曲の演奏が恐らくそうであったように。(2002.4)

2014年7月11日金曜日

仮想の移動性をもった視線によるマーラー巡礼

実際にドロミテの地を訪れた林邦之さんのご質問がきっかけで、机上でドロミテのマーラーの足跡を辿った記録を 公開したのは、もう4年も前のことになる。同じ年の数ヵ月後、近年のマーラー受容を支える技術的環境を巡ってのメモを、 マーラーに出会った30年以上前の状況の記録の補遺として記して公開した。この2つが同じ年に書かれたのは決して 偶然ではなく、片や伝記的・地誌的な事柄、片や出版譜や文献へのアクセスと対象こそ異なるものの、いずれも インターネットの普及による変化の影響が、自分がマーラーを受容する上で無視できなくなった認識に基づき 記述したものである。

それから4年後、改めて技術的環境の変化が、マーラーの人と音楽に接するにあたり少なからぬインパクトを持つことを 実感したことから、ここにその経緯を記録しておくことにしたい。更に5年経ち、10年経った時、その都度、 定点観測のように記録を残すことになるかも知れないが、そうなったら受容史のコーパスとしてはそれなりに 意義を持つことになるかも知れない。それらをマーラーが生きていた100年以上前の技術的な環境と対比させることは、 マーラーの音楽が世代を超え、地理的・文化的な隔たりを超えて聴き続ける際の前提となる隔たりを確認する上でも 意味のないことではあるまい。

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4年前にドロミテについて机上で調査をした時にもWebを通じて入手できる情報は大きな助けになったのだが、 その後のオンライン地図の充実は著しく、現時点では自分の居住している地域、国ではなく、空間的に遠隔の地であっても、 かつては入手自体が困難であった現地の小路まで確認できる縮尺の地図が閲覧可能になっているし、加えて 上空からの画像と切り替えながら場所の確認をすることができるようになっている。

更にはストリート・ビューによって、自宅に居ながらにして遠隔の地を訪れ、あたかもその場を移動して いるかのように移りゆく風景を眺めることすら可能になっている地域もある。 以前私は南チロルを紹介したWebサイトから入手した鳥瞰図でデューレン湖(現在はランドロ湖と呼ばれる)と シュルダーバッハ(これも現在はカルボニンと呼ばれる)の位置関係、 ランドロ渓谷からトープラッハ湖(現在はドッビアーコ湖)を経てトープラッハ(同じく現在はドッビアーコ)に 至るルートが視覚的に容易に確認できることを 記したが、今やそのルートをストリートビューでヴァーチャルに踏破することができるようになっているのだ。 あるいはまたマーラーが登山の途中といった様子でフィッシュラインタール(ないしフィッシュラインボーデン)の 坂の途中で一息ついている有名な写真があるが、その写真が撮影された場所の正確な同定はできなくても、 マーラーが宿泊した記録のあるホテル・ドロミテンホーフの今日の姿を確認することができるのである。

ただし、マーラーの場合には 主要な活動地域であったオーストリアとドイツはオプトアウトのためにGoogle MapsやGoogle Earth上での ストリート・ビューの画像は存在しない。結果的に旧オーストリア・ハンガリー帝国領でストリート・ ビューによる「仮想の移動性をもった視線によるマーラー巡礼」ができるのは、チェコやイタリアの ドロミテ地方などに限定され、例えばアッター湖畔のシュタインバッハ、ヴェルター湖畔のマイアーニクなどは 上空からの写真のみでの確認に限定される。マーラーが「もう作曲してしまったから、見る必要はない」と 言ったとされるザルツカンマーグートの山塊も、地上からの眺望は、地図にアップロードされた写真によって 確認できるにすぎず、これだとレコードやCDのジャケットの写真を眺めるのと、知覚のモードとしては 大きく変わるところはない。それでも上空からの写真の解像度は極めて高く、アッター湖畔のシュタインバッハの 作曲小屋は湖水の岸辺にあることもあり、写真で小屋の場所が確認できてしまうほどである。宮廷歌劇場監督で あったマーラーがアルマとともに住んでいたウィーンのアウエンブルガー通りのアパートから歌劇場までの ルートを辿るのも容易だし、アルマの実家があったホーエ・ヴァルテにしても一軒一軒の住居を識別することが できてしまいそうだし、グリンツィンク墓地に至ってはマーラーの墓が識別できてしまいかねないほどなのだ。 上空からの映像が既にそうなのだから、プライヴァシーに敏感なドイツ、オーストリアの人々が ストリートビューを排除したくなるのも仕方がないように思われる。

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ストリートビューにフォーカスすると、ヴァーチャルな移動性に重点が置かれ勝ちではあるが、そもそも そのような「仮想の移動性をもった視線によるマーラー巡礼」が可能になるためには、幾つかの要件が 存在している。4年前の探索についてもその点については基本的に同じだった筈なのだが、結局のところ マーラーの生きた時代と現代とが歴史的に見ていわば「地続き」である点が大きいように思われる。

マーラーが生まれた150年前から100年前にかけての時代は、写真撮影が一般的になり、ヨーロッパ中を繋ぐ 鉄道網が発達し、船舶による大西洋横断が普通になった時代である。マーラーについて言えば、マーラー 自身の各年代毎の肖像写真は勿論、カリシュトの生家やイグラウの住居についてさえ当時の写真が残っていて、 それを現在の写真と比較することが可能になっている。だが一見すると当たり前に見える状況も、 マーラーが50年前、100年前に生まれていたら同じ程度には成立しえないことは容易に想像できるだろう。 例えばシューマンには辛うじて晩年に撮影された写真が残っているが、古典期の作曲家ではそれは期待できようはずがない。

直接テクノロジーが関与したメディアではなくても、例えば1世紀前のある場所が 今日の地図上で特定できるということすら自明のことではない。地名・住所は恒久的なものではなく、 現在の地名・住所との対応付け、位置の比定のためには、まず過去の側に地名や住居表示のシステムが あることが前提で、かつそれの今日までの変遷が辿れる必要がある。 今日であればGPSを使って 位置を正確にアイデンティファイできるから、仮に開発等で景観が変わったとしても場所の同定は可能だが、 100年前についてはそれはできないから、墓や記念碑、住居や街区の保存やプレートの設置等、 場所を記憶するための努力なしに100年前の個人の足跡を辿ることは不可能に近い試みである。

マーラーの場合には、カリシュトの生家やイグラウの住居から、シュタインバッハやマイアーニク、 トーブラッハの夏の住まいから作曲小屋に至るまで、保存の努力がなされているからこそ、 仮想の移動性をもった視線によるマーラー巡礼が可能になっているのだ。私の4年を隔てた 2度のヴァーチャルな机上での巡礼すら、その寄与は限りなくわずかなものであるにせよ、 そうしたマーラーを記念して記録する行為の一端ではあり、 マーラーの誕生日である7月7日に開始して数日後に報告の文章を草するという作業の反復は、 実際には4年前も偶々同じ時期にそれをしていたことを、この文章を書き始めるまで忘れていたにせよ、 過去を再現を企てる儀礼としての側面を、無意識のうちに帯びていたことになるだろう。 所詮は100年後、150年後の風景であり、当時のままである筈は無く、それは当時の写真と比較すれば すぐにわかることでもあるけれど、そうした差異の上で、差異にも関わらず同じ場所を訪れること、 マーラーの足跡を辿ることが「巡礼」として成り立っているのである。

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とはいうものの、Google Maps やGoogle Earthで確認できるアップロードされた写真の位置は必ずしも 信頼できないというのは、かつての書籍での記述の混乱と変わるところはない。今回確認できた例を幾つか 挙げれば、トーブラッハでマーラーが過した家の隣にある「アルト・シュルダーバッハの動物園」 なるものが、トーブラッハの中心からの方角では全く逆の方向のある地点に存在するかのように マーキングされていたし、グリンツィンク墓地におけるマーラーの墓の位置については幾つかの写真が 大きく分けて2つの異なる区画にアップロードされていたりする。また、これはマーラーを記念する 意図に由来する、些かアイロニカルな状況だが、マーラーを記念して通りの名前をマーラー通りに してしまったために、かつての通りの名前が現在の地図では喪われているようなことも起きるのである。

更に、これはストリートビューの撮影の仕方がもたらした一時的な事象である可能性もあろうが、 マーラーの生地カリシュトのストリートビューについては面白いことが起きている。 マーラーの生家はカリシュトの中心の道沿いにあり、道に面した軒側の壁にはめ込んである マーラーのレリーフと、切妻の壁に記されたMAHLERの文字によりすぐにそれとわかるのだが、 マーラーの家の前を通り過ぎるときに緑に囲まれ、青空の広がっている風景が、少し先の交差点で 町の中心にある教会の方に道を折れ曲がると、途端に雪景色の中の村の風景に変貌するのである。 ストリートビューの撮影車によるカリシュトの訪問は季節を変えて少なくとも2度(2011年9月、 2012年2月)行われており、その結果を単一のルートのストリートビューとして並存させている 結果なのだが、360度撮影のストリートビューの特徴を生かして後方を振り返ると、 先ほど緑の中にあったマーラーの家が来た道の奥に、雪の中に佇んでいるのを確認することができる。

かくして150年後のそれであることをおいても、ストリートビューで日本に居ながら 見ることのできるカリシュトの2つの季節の風景は、だがマーラー自身の見たはずのそれと 重ね合わせることが可能なのであろうか?記録によればマーラーは生まれてほどなくして 家族ともどもイグラウに移ってしまっているようだ。とすれば、マーラーがカリシュトの 冬を過したとしてもなお、雪景色のカリシュトの記憶があったかどうかははっきりと しないのではなかろうか?もちろん、イグラウに移ってからもカリシュトを訪れることは 可能だったろうが、それをしたかどうかもまたわからない(成人して後も、イーグラウには しばしば戻ったことは確認できるのだが)としたならば、マーラー自身の見た風景であるか どうかは結局のところ想像の領域の事柄であろう。(一方、後日晩年のマーラーがカリシュトの 生家の写真を友人と眺める機会があったらしいことは記録に残っているようだ。当時ストリート・ ビューがあれば、生家をヴァーチャルに訪れることも可能だったに違いないし、当時最先端の 自動車に乗ったこともあるらしい(アルマの回想録にそういう記述がある)マーラーの ことだから、きっと関心を示したであろうと思うが、いずれにせよ、マーラー自身が写真と いう技術が記憶と知覚に介入する時代に既に生きていたということは間違いないことである。)

更にイグラウ近郊では、今度は春先と夏と秋の晴れた日の交代を確認することができる。 撮影日を確認すると2011年7月,9月 2012年3月,4月が混在しているようで、交差点ではデータの 上書きの仕方による効果であろう、それらの季節が一瞬だけ交替するようなケースも確認できる。 イグラウの近郊は落葉樹が主体の植生のようなので、季節の交替は樹叢の姿によってはっきりと 感じられるし、電線が地下に埋設されず電柱が立っている風景は、どことなく日本の郊外の 風景を見ているような錯覚に囚われることもしばしばである。

恐らくストリートビューの世界というのは時空のあり方が現実のそれとは異なる独立の世界であると考えた 方が良いのだろう。時間は車載カメラが通過した日付で固定され、地域の間にはしばしば不連続面が 生じる。空間的にも、車載カメラが通れる道路および道路からの展望のみが存在し、車載カメラの視界の外は 存在しない。人間はたとえ見えなくても空間と空間の隙間を補完してしまうのに対して、ここでは 空間は網目上の構造をなしていて網目の隙間というのは世界に属していないと考えるべきなのだ。 データは徐々に追加・更新・(オプトアウト等を考えれば)削除がなされていくだろうから、 更新処理によって時空が不連続に別の点に飛び移るような時間の構造を持っていると考えられる。 更新されなければある地点の時間はある日付と時刻に固定され、何度同じところを繰り返し通っても、 現実の世界でそうする場合とは異なって、その間に時間が経過し、景観の変化が起きているということはない。 寧ろ車載カメラの移動方向に沿って時間が流れ、逆行するときには、時間は逆流していると考えるべきだろう。 ここではいわば一筆書きの要領で、空間中のある有向線分に沿って、その近傍だけ時間が 流れていくのである。空間的には網目に見える構造も、時間的には線分が集まるノードである交差点は、 その内の入ってくる一本と出て行く一本の線分は時間的に連続していても、それ以外のものとは 不連続になっていて、未来へか過去へか、飛躍が起きる特異点になっている。

ストリートビューの時空の構造を確認していると、マーラーの交響曲の持っている時間の構造を 思い浮かべずには居られない。勿論それは両者が似ているということではなく、全く異なるのだが、 ストリートビューは一つ一つは基本的に一筆書きのリニアな時間を持った撮影日が異なる画像が 道路のネットワーク構造に沿って重ね書きされることで時間の連続・不連続が偶然的な仕方で確定するという 単純な構造になっているのに対して、マーラーの音楽の時間の構造は(勿論、創作の順序の痕跡で あろうはずはないが、その一方で古典期の工芸品的な構造を持つ作品とは異なって)、 意識の流れのようでもあり、だがあちらこちらに不連続面があり、多層的であったりしているのであり、 そうした構造を現象学的時間論の枠組みに引き寄せて聴取の時間の流れに射影して捉えるのではなく、 それ自体として捉えようとする際のヒントとなるように思われたのである。

それはまたアドルノが一方では擬似心理学的な「突破」「停滞」 「充足」「崩壊」といったカテゴリによって、他方ではヴァリアンテといった技法的な側面から 捉えようとしたマーラーの作品の時間論的構造を、或る種の人工物の存在論として記述していく ための手がかりになるに違いない。ラッヘンマンは楽曲の聴取を「旅」に喩えたが、 ここでの仮想の移動性をもった視線によるマーラー巡礼は、ストリートビューの持つ時間構造の 上での旅であった。そこでマーラーの作品の聴取という「旅」の経験の基盤となっている楽曲自体の 持っている時間構造を作品自体に即して捉えるための方法を問題にしているのである。

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ところで4年前ドロミテについて調べた折に、アドルノのマーラーについてのモノグラフにあるドロミテに ついての言及、"die künstlich roten Felsen der Dolomiten"の解釈について記したが、 今回調べてみたところ、それとは別の解釈の可能性があることがわかったので、ここに記しておきたい。

その時には通常の苦灰石(CaMg(CO3)2)の色彩や写真等で確認できるドロミテの山々の眺望を基に、 岩が赤いのは、朝日や夕日に照らされてのこと、現地のドロミテ・ラディン語で"Enrosadira"という 現象ではないかという仮説を提示したのだった。現時点でもこの解釈が妥当であるという考え自体は 変化していないのであるが、調べてみると、ドロマイトに酸化鉄が混ざることがあり、その場合には 岩が赤く見えることがあることがわかったのだ。

もっともそれだけなら、ドロマイトという鉱物の性質についての一般的な議論に過ぎず、ここでの 文脈、つまりドロミテの山々の岩の色の話に即、適用されるわけではない。だが実際には、ドロミテには 「赤い壁」(Croda Rossa / Rotwand)と呼ばれる山が存在しており、写真で確認すると確かに赤い岩肌が 確認できることがわかったのである。しかも、私が確認した限りで、「赤い壁」(Croda Rossa / Rotwand)と いう名前の山は少なくとも2つあるのだ。一つはマーラーが山小屋を訪れたとされるTre Cime / Drei Zinnen と 同じ山塊に属するSextener Rotwandであり、 もう一つはマーラーが「大地の歌」の構想を練ったとされるシュルダーバッハ(現在はカルボニン)から 見ることができる、Croda Rossa d'Ampezzoである。実際にストリートビューでカルボニンから 西の方を眺めると、Croda Rossa d'Ampezzoの赤い壁を見ることができるし、Google Mapのカルボニン近郊に アップロードされた写真でも確認することが可能である。従って、決して人工的(künstlich)ではないし、 実際にそのようにも見えない(他の岩石に酸化鉄が混ざって赤く見える場合のように、それはごく自然な 色彩と私には感じられる)のだが、「ドロミテの赤い岩」は、ドロミテ山塊一般のイメージとは 言えなくても、しばしば見られる景観であるとは言えそうなのである。従って、4年前の解釈について 撤回の必要は感じていないものの、「赤い岩」の理由について別の可能性があることは否定できないため、 ここにその事実を公開しておくことにする。

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マーラーが生きた土地の風景を、作曲をした土地の風景を眺めることの意義は何だろうか? しかもそれを、自分が現地に移動して、その場を動き回るのではなく、自宅のPC上で、 仮想の移動性をもった視線によって行うことはどういう意味があるだろうか? 私のように、諸般の事情から現地を訪れる機会が訪れることのなさそうな人間にとって、それは 貴重な代替手段ではあるけれど、それは所詮、不完全な代替に過ぎないには違いない。 将来、マルチモーダルなヴァーチャル・ツアーが可能になる可能性がないとは言えまいが、 少なくとも現時点では、それは、マーラーが見た通りの風景でないのはもちろん、今・ここで 私が見ている風景ではなく、車載のカメラが撮影した過去のある日付の記録に過ぎない。

だが、マーラーの遺した音楽をまるまる捨象して、マーラーその人の直接的な経験のみを 問題するのではなく、その作品を含めた総体としてとらえた場合、1世紀後の異邦の聴き手で ある人間は、マーラーが「作曲してしまったから見る必要がない」という言葉を残していることを 今一度思い起こすべきなのだろう。勿論、マーラーの作曲が行われた場所を知ることは その作品の理解に対して何某かの意義を持つだろうが、作品に定着されたもの、作曲された時点での 具体的・個別的で一回性の文脈を離れて、時空を隔てた人間が、ある日自分の歩く浜辺に見つけた壜の中の手紙に 読み取るものを問題にしたとき、マーラーの作曲が行われた場所を知ることは端的に言って 不要であるというように寧ろ言うべきではなかろうか。勿論、1世紀後のそれであれ、 仮想の移動による視線を通じてであれ、その風景を知ってしまったものは、その経験自体を 無かったことにすることはできないし、その後のマーラーの音楽の受容に影響するだろうが、 その経験がなければ作品が語ることを正しく受け取れないという主張は、端的に誤りだろう。 マーラーがドロミテを通して東洋を幻視したのと鏡像を為すように、マーラーの作品が 1世紀後の日本のある場所のある風景に結び付けられたとしたら、それこそが作品の普遍性と 持つ力の巨大さの為せる業ではなかろうか。

直接的・身体性を伴う経験の持つベクトル性の深みを軽視すべきではなく、実際に現地を 訪れることは、マーラーの作品の実演をコンサートホールで経験するのと同様に、 ストリートビューやCDやストリーミングによる再生による経験とは異なったものである。 だが、その一方で、人間は現実の世界に生きているのと同じように、様々な仮想的な 空間の重なりの中で生きており、そうした世界の重なりが、眺める風景の眺望を 変えてしまっていることにも留意すべきであろう。同じ場所で、同じ時に同じ風景を 眺めても、過去の記憶や観念の空間をひっくるめたその人の視点はユニークなものであり、 共役不可能なのである。逆にマーラーの音楽を知っていてドロミテの風景を眺めるのと、 そうでない場合との違いを思い浮かべれば、マーラーの愛好家にはその質の決定的な 違いは容易に納得できるものであろう。他方で逆向きの作用、つまり技術的環境のもたらす 展望が楽曲の聴取に与える影響も無視してはならないだろう。Google Earthによって、地球と火星が同等の 扱いを受けるようになっている今日であれば、アドルノが同じ著作で地球を 「青い球形の天体」と観じた延長線上で、"die künstlich roten Felsen der Dolomiten"の 「赤い岩」を、やはり同じように酸化鉄によって、今度こそ地球上では人工的な風景と見えるかも 知れない火星の風景のそれと観ることすら可能だろう。同様にマーラーの「東洋」は、 21世紀の現実の東洋とは異なる時空に存在しているが、それを当時の東洋趣味の 風潮に還元するよりも、今日の日本からそれがどのように見えるかを測り、 今・ここでならではのユニークな展望からその可能性を汲み取ることに意を尽くすべき なのではなかろうか。(2014.7.11公開, 12,14補筆修正)

2014年6月16日月曜日

ジャパン・グスタフ・マーラー・オーケストラ第11回定期演奏会を聴いて

ジャパン・グスタフ・マーラー・オーケストラ第11回定期演奏会
2014年6月15日 ミューザ川崎シンフォニーホール

マーラー 交響曲第10番(デリック・クックによる演奏用補筆版)

井上喜惟(指揮)
ジャパン・グスタフ・マーラー・オーケストラ


ジャパン・グスタフ・マーラー・オーケストラの第11回の定期演奏会を聴きにミューザ川崎を訪れる。 曲目は第10交響曲のデリック・クックによる演奏用補筆版。 第10交響曲はクックの補筆によって演奏可能になった5楽章の形態において その価値が闡明されるものであり、未完成であるにも関わらず、 マーラーの作品の中でも最高の力を備えた作品であるというように ずっと考え続けてきたが、初めて聴いてから30年以上の歳月を経て、 初めて接した実演がかくも素晴らしいものであったことを、非常に幸運なことであると感じ、 このような高水準の演奏を達成した音楽監督の井上喜惟さんと楽団の方々にまずは敬意を表したい。
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この曲の主調は嬰へ調で、管弦楽のどのパートにとっても演奏しづらく、鳴らしにくい調性だが、 当然それは意図された選択であって、作品にどこかこの世ならぬ不思議な陰影をもたらしているように 私には感じられる。音楽が響いている場所、音楽的主体のいる場所がどこであるのかを言い当てることが できないように思われるのだ。強いて言えば、ヘルダーリン晩年の詩断片"Wenn aus der Ferne, ..."が 語られている場所が思い浮かぶのだが、その詩断片の語りの場というのもまた異様で、 まるで世の成り行きから超絶した、異世界のほとりで、かつて自分がその只中を 彷徨った世の成り行きを遙かに望みながら語っているかのようだ。
その限りでシェーンベルクがプラハ講演で第10交響曲について述べた言葉、 「われわれがまだ知ってはならないような、われわれがまだそれを受けとめるところまでは 熟していないようななにごとかがわれわれに語られているかにみえる」(酒田健一訳) という言葉は、この作品が知られていない過去の証言であるとして用済みにすることが できない何かを含んでいると私は考えている。
それだけにこの作品について言葉で語るのは非常に難しいのだが、特に今回の演奏を聴いて はっきりと感じ取れたことは、この作品の調的設計を中心としたユニークな全体の構造の 未完成とは思えぬ緊密さ、豊かさと、クックがマーラーの晩年の様式の延長線上で慎重に配置した 色彩の絶えざる変化が、モザイク状に組み上げられ交代する複数の音楽の層の質に 見事に適ったものであるということであった。
第1楽章冒頭のヴィオラが奏する調性感が希薄な旋律をはじめとして、この作品を 無調への入り口として捉える見方が一般的だが、全5楽章からなる交響曲総体の構想から すれば、細部での調性の拡大、非因襲的な楽章間の調的関係にも関わらず、 全体としては調性関係によって多層的・複合的な構造を構築する意図は明確であり、 従来にはない試みが行われているとはいえ、それは紛れもなくマーラーの 交響曲の発展の過程の(未完成であることを重視すれば、ありえたかも知れない) 最先端に位置づけられるものなのである。
この演奏では第2楽章と第3楽章の間にチューニングが行われたが、これは第1楽章と 第2楽章を第1部、第3楽章からを 第2部とする作曲者の構想に沿ったものであるし、実際に第2楽章の末尾において 嬰へ長調に到達することが作品全体の巨視的構造にとって持つ意味を考えれば、 この構造把握の妥当性は明らかであろう。
マーラーが交響曲においてそれまでも 何度か採用した5楽章形式ではあるが、その内部構造は前例のない、非常にユニークなものである。 特に重要なのが第2楽章スケルツォの位置づけであり、ここではスケルツォは「中間楽章」ではなく、 第1楽章に対して同じ調性圏において応答し、そのコーダにおいて第1段目のフィナーレを形成する。 頻繁な転調や調性感の拡大、希薄化にも関わらず、(あるいはそれゆえに)調的な発展はここでは 拒絶されていて、何か現実から断絶した閉鎖された空間の如き領域を形作る。
それに対して第2部冒頭の第3楽章は変ロ短調という調性(これは夙に関連が指摘される 「子供の魔法の角笛」の「この世の生」が到達する調性でもある)によって「プルガトリオ」と いうトポスを、嬰へ調というヴァーチャルで閉じた領域である第1部のいわば裏側に定位して 再開するのである。反復を嫌ったマーラーとしては例外的なDa Capoを持つプルガトリオ楽章の構造は、 この楽章の時間性が(「この世の生」への関連にも関わらず)日常的な生のそれではないことを 告げているかのようである。
いわゆる「死の舞踏」であると一般にはみなされる第4楽章スケルツォでは、その冒頭において ホ短調という調性が選択されていることに留意しよう。轟々と鳴る主部の嵐に対する凪のような (移行部分も含めた)トリオ部分(それはC-A-H-Dと調的に発展していくに従い表情を変えていく)の 指揮者によるテンポの設定が適切であるがゆえに、徐々に音楽が現実の影の領域に 侵入していく経過が的確に示され、その先のコーダにあたるフィナーレへのブリッジ部分への 到達が構造的に準備されているように聴き手には感じられる。
2人のティンパニ奏者が活躍する第4楽章の「影のような」コーダが「完全に消音された大太鼓」 (この演奏では、舞台上ではなく、舞台奥上方の客席に離れて置かれて、あたかもホール全体が 鳴っているかのような効果を上げていた)の一撃で鳴り止み、フィナーレの閾に達したとき、 音楽は二短調の領域にいる。
そしてバスチューバと大太鼓によって進められる 主部に対して、フルートが弦の和音上で息の長い、どんどんと輝きを増していく旋律を奏でるとき、 何たることか、音楽はニ長調の領域にいるのである。(ニ長調がマーラーの音楽において どのような機能をしているかは、幾つかの他の交響曲の楽章を思い起こせば充分だろう。) だがそれは中間のアレグロ部でもフラッシュバックのように挿入される、この楽章の (アドルノのカテゴリにおける)「滞留(Suspension)」のブロックの 調性であり、嬰へ長調の下属調であるロ長調の「幻境」に到達することで、この作品に おける「解決」の方向性が示唆される。
このロ長調の箇所の響きを比喩なしで言い当てるのは私には不可能である。 それは壜の中に閉じ込められた世界のように、何か膜のようなものに隔てられて、 周囲では樹々が嵐に吹かれて枝を撓ませ、その枝を通り抜ける湿気を孕んだ風の音と 風に靡く葉のざわめきとで充たされて、奥行きの感覚が喪われた結果であるのか、 外部から遮断され、閉鎖された空間が生み出され、その中心の場所はひっそりと黙して、 無時間的な空虚を閉じ込めていて、まるで神話的で無時間的な過去の断層に 落ち込んでしまったかのようだ。それはいわば外側(嬰へ調)から見た、 未来から見た「かつて」「現実」であったもののフラッシュバックなのだ。
音楽的主体はその挟間に居て、 いずれにも属さず、いずれとも膜のようなもので隔てられているかのようであり、 記憶の静寂の中にそうした風景が音も無く閉じ込められていて、己自身の存在を その風景の中に予感するのは、まるで自分の生に先立つ遥かな過去の 記憶の中に自分が埋め込まれたかのようで、己がその風景の裡に居るのか外にいるのかすら 最早定かではない。激しい嵐にも関わらず、彼の周囲には静寂が支配していて、 恰も聴覚を介してではなく、戻ってきた陽光の明るみや、暖かみのような 別の感覚を介して音を予感するかのようだ。
その後のアレグロの中間部が第1楽章のカタストロフの再現を経て、冒頭主題の 回帰を惹き起こした後、変ロ長調からの移行を経て、315小節で到達する 嬰ヘ長調の不思議な色合いを帯びた輝きがこれだけ眩く感じられ、 和声の進行による光の変化のニュアンスが、これだけ心を掻き乱すもので あったのも実演ならではで、聴いていて涙を堪えることができなかった。
その涙はまずもって素晴らしい演奏に接したことによる感動によるものなのだが、 同時にそれは、この終結部が第1部の調性である嬰へ調への回帰であること、 つまりここに何か肯定的なものがあるにしても、それは最早通常の 意味合いにおける「現実」で生起するものではないということが 調的な構造と、嬰へ調という調性の持つ固有の音調によって告げられている ことを感じた故なのだろう。 マーラー自身、変ロ長調による終結の代案を考えていたことが 遺された草稿からは伺えるようだが、既に述べたように、 「幻境」の部分がロ長調であることなどから、クックが選択した嬰ヘ長調による 解決に分があるように私には思われる。そしてそれは、井上氏が作品の解説に 記している「12回の打撃音」の「カバラ的」解釈とも整合しているのではなかろうか。
否、このフィナーレの結末における 主体の場所を考えれば、この作品が「この世」では作曲者によって完成される ことなく、その作品の価値を認識した他者によって補筆されなくてはならなかった 事情すら、作品にとって自然な成り行きではなかったかとさえ思えてくる。 再三シェーンベルクのプラハ講演を参照することになるが、確かに第9交響曲は 「限界」であり、第9交響曲では隠れた作曲者のメガフォンであった作曲者は、 第10交響曲では自らが隠れてしまい、補筆を待っていたかのようにさえ 感じられるのである。
第10交響曲には、その創作に纏わる「神話」が永らく付き纏ってきたが、 こうした調的遍歴をそうした「神話」に結び付けて解釈することにさほど意味が あるとは思えない一方で、この日の演奏のような明確な巨視的なブランと 各調的領域の性格やテンポの交替の適切な設定が為された演奏に接すれば、 この作品の持つ調的な設計の力の凄まじさに圧倒されずにいることはできない。 楽曲解説の類に書かれていることを手がかりに音楽を追いかけることと、 楽曲の構造が演奏そのものを通して浮かび上がってくるのを受け止めるのは 全く異なる経験であって、私はこの演奏によってようやく作品の構造を 充分に把握できたように感じられた。
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個別の楽章の解釈はといえば、これまでの第7, 9, 4番の実演においても井上氏の スケルツォ楽章の解釈には瞠目させられて来たが、個性の異なるスケルツォを3つ 中間楽章として持つこの作品はまさにその解釈の卓越を認識する、またとない機会となった。
特に第2楽章のスケルツォの解釈の卓越は、録音も含めて、これまでに接したどの 演奏解釈を上回るものであり、初めて隅々まで説得される十全な解釈に接したように感じた。 と同時に、第2楽章の全体構造に占める位置づけについても、ここまで説得的な解釈は これまでに出遭ったことがないほどに決定的なものであったと思う。
譜表の調号指定にも関わらず、不安定ながら嬰へ短調で始まるこの楽章の目まぐるしく変化する 調的な遍歴は、頻繁に交替するその部分部分の音楽の表情と、 固有のテンポによってその構造を明らかにするのだが、この演奏の解釈はそうした 部分部分の固有な音調を巨視的な流れの犠牲にすることなく隈なく提示することによって、 その音楽の経過の複雑さの中に秘められた或る種の必然性の如きものを明らかにしたものであり、 その説得力は圧倒的なものがあった。
オーケストラもまた、明らかに第2楽章に入ってドライブがかかったように感じられた。 特に主部は頻繁に拍子の変わるテンションの高い音楽だが、その響きの充実とリズムの躍動感は素晴らしく、 その後はフィナーレまで緊張感も途切れず、実に手応えのある響きでの演奏が展開され、 それぞれのパッセージの表情の濃やかさもまた、これまで聴いたどの演奏にも優るもので、 息を呑む瞬間にも事欠かなかった。勿論全く瑕がないというわけではないにせよ、 そうした細部の不安定さや瑕が気にならない素晴らしいアンサンブルであった。
特に印象的だったのはこの曲において常に支配的な 弦のパートが良く歌われていることに加えて、頻出する各パートのソロの表情の豊かさである。 印象に残った箇所やパートは枚挙に暇がないが、何よりも全体として、かくも深い感情に 満たされた演奏によって、マーラーの全交響曲の中でも際立って深く人の心を抉る第10交響曲の 全曲を聴くことができたのは稀有の経験であり、それはマーラーを演奏するための集った オーケストラでなくては実現できないに違いないものであり、聴き手にとって圧倒的な経験で あったのは勿論だが、それだけでなく、演奏する方々の心の動きと聴き手の心の動きが 一体となるような感じがして、作品を自らリアライズした指揮者をはじめとする 奏者の方々にとっても必ずや素晴らしい経験であったに違いないと感じられた。
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この日の演奏のような素晴らしく説得力のある演奏によって第10交響曲の全貌に 接することができると、「われわれがまだ知ってはならないような、われわれがまだそれを 受けとめるところまでは熟していないようななにごとかがわれわれに語られているかにみえる」 というシェーンベルクの言葉は、この音楽の持っている前代未聞の時間性を 図らずも「預言」してしまっているかにさえ感じられる。
この音楽は、それまでのマーラーの音楽とも異なった、 別の空間、現実の世界に住むものにとってはヴァーチャルと呼ぶ他ない、けれども 紛れもなく、そこもまた或る仕方で人間が生きる空間、進化の偶然と文化的・社会的な 発展の偶然の結果、今あるような意識を備えた人間のみが生きることができる仮想的な 空間を開示している類例のない作品であるように思われるのである。そうしたことを 一瞬であれ実現して見せる音楽芸術の持つ力の凄まじさと、それを構想しえた マーラーの天才に対しては、どんな言葉も無力なものに感じられ、この点でも シェーンベルクの講演内容に同意せざるを得ないのである。
同様に、試みが為された当時は寧ろ批判したり、留保したりすることが 良識ある姿勢とする見方が優越であったかに見えるクックの補筆の作業の 価値も疑問の余地がないものであると思われるし、この演奏はそのことを 最高度の説得力を持って示したと感じられる。
かつての留保は当時のマーラー協会の 校訂の基本姿勢であった最終稿=決定稿主義に象徴される美学を背景とするものであり、 そうした姿勢自体、全く異論を挟む余地のない絶対的なものではないだろう。 管弦楽配置に関しては、何よりも現場の人であったマーラー自身が演奏会場の アコースティクスに応じた臨機応援な対応を是としていたのであるし、 より作品の構造寄りの側面についてのアドルノの、モノグラフの第2版への後書きに 含まれる、決定的にさえ響く留保のコメント、即ち草稿が「垂直的に」断片的であり、 「和声的なポリフォニー、すなわちコラールの枠内での声部の編み細工によって はじめて、楽曲の具体的な形、作曲されたものが示されたことだろう」 (龍村訳)という発言すら、彼がその論の根拠とするマーラーの後期様式の 遺されたものではなく、向かっていった方向を考えたとき、クックの試みを 否定しきることができるような絶対的なものではないと思われる。
アドルノは 「マーラー自身に由来するものを厳密に尊重するならば、一つの不完全なもの、 彼の意図に反するものを提示することになるし、といって対位法的に補完する ならば、その仕事はまさにマーラー自身の創造性の発揮されるべきその場所へと 踏み込んでしまう」(龍村訳)という二者択一を示して両方を拒絶し、もって補筆を 否定するのだが、カーペンターのような、明らかに「マーラー自身の創造性の 発揮されるべきその場所へと踏み込んでしま」った挙句、自分の補筆の方を 絶対視するような姿勢とは全く異なって、クックの作業はどちらかといえば 不完全なものであることを自ら認めた上で、実現される音響像のもしかしたら 少し先に、ありえたかも知れない作品像を浮かび上がらせるための試みであり、 しかもマーラー自身の創作プロセスとて、それがどこで停止し、どこで 再開され、時には改作にまで到るかはその都度その都度の偶然に支配されることも あっただろうことを思えば、「少し先」の距離は、アドルノが考えている 程大きなものではないのかも知れないということは無いのかとさえ思えるのである。
何よりも「第10交響曲の構想の並外れた射程距離を感じ取る人間こそは、 そこに手を入れたり演奏することを回避すべき」であり、「まだ実行に 移されていないイメージに対する巨匠のスケッチを理解してあたかも完成 したかのように色づけする人は、それを壁に架けるのではなく、ファイルに 入れて自分一人で眺めている方がいい」という発言は、少なくともマーラーの 音楽が、人間の手によって演奏会場で演奏され、物理的な音響として 実現されることを不可欠のものとしているという点を決定的に見誤っている のではなかろうか。
今日のマーラーの音楽のポピュラリティは放送や録音媒体による 普及による部分が大きいだろうが、聴く力を麻痺させかねないバブル期に見られた ツィクルスによる実演の氾濫も含めた受容の歴史を経た現時点での展望からすれば、 寧ろ、必要なら「音断ち」をさえした上で、充分な準備と解釈の徹底が施された 実現がなされるのを新鮮な耳で聴取する経験こそが、その音楽の持っている力を 十全に解き放つための必須の契機であるということになるように私には思われる。 そしてまた、そうした契機なくして、過去の異郷の音楽を 今ここで演奏する意義はないし、そうした意義のある試みこそがマーラーの 音楽を世代を超えて継承していくものであるに違いない。
クックの試みもまた、 完成した暁にはコンサートホールで オーケストラによって演奏されることになっていたことが明らかなこの作品、 しかしながら、まさにそのために書かれたにも関わらず、演奏はおろか、 作曲の途上で、楽譜の上においてさえ、 そうした形態を採る前に作者たるマーラーの手を離れてしまったこの作品を、 アドルノのような専門家の占有物にしてファイルもろとも忘却に委ねてしまう ことなく継承していくことを可能にする試みである。
カーツワイルのような技術特異点論者の唱える技術的特異点の向こう側から見たとき、 生物学的な基盤の持つ限界からの自由を獲得し、 時間的にも空間的にも、現在の人間の持っている制限から自由になったとき、 人間のアイデンティティの定義も当然だが、作品のアイデンティティの側も また変容してしまった後で、この作品を取り巻く様々な状況の意味はどのように変わり、 どのような形態で、どのような媒体での受容が行われることになるのだろうか。 最早人間の可聴域の制限すら超え、媒体の制約も超えて、クックの作業の更なる延長線上に、 寧ろその未完成が故のポテンシャリティによって、現在では思いもつかないような 受容のされ方がなされるかも知れない。 例えばスタニスワフ・レムの「虚数」の中に収められた「ビット文学の歴史」に出てくる、 コンピュータによるカフカの「城」の補作完成の試み(これは失敗することになっているが)や、 ドストエフスキーの長編小説のミッシング・リンクの「仮構」といった試みの、 「人力による」(!)先蹤として評価される時代がいずれ到来するのではなかろうか。
マーラーの第10交響曲が提示するものは、21世紀になっても未だ解決済みでもないし、 過去の遺産などでは決してなく、未だそれに接する人間の成熟を待ち続けているように さえ感じられる。そういう意味で、この演奏会における演奏は、なぜ今ここでこの音楽を 演奏するのかについての有無を言わせぬ必然性を感じさせるものであったように感じられた。 改めて音楽監督の井上喜惟氏とオーケストラのメンバーに対して感謝の気持ちを記して 感想を終えたい。 (2014.6.16初稿公開, 17,18加筆修正)

2014年2月16日日曜日

マーラーの音楽の時間性についてのメモ

音楽は時間の組織化、構造化である。それは生物的な、感覚受容や身体的事象へ反応といった体験の時間とは異質の、非日常的に、人工的に編まれた時間の結晶体である。音楽的時間の経験は、様々な時間経験の一種に過ぎないが、それは高度な意識を持つ生物種である人間ならではの社会的・文化的な歴史の沈殿物の摂取であり、或る種の意識経験の様態を自分の中に(変形しつつ)移植することである。 叙事的、ロマン的(アドルノ)と形容される時間の流れを、その複雑さを毀損することなく捉えようとしたとき、充分に意識的で、 批判的・反省的な知性の持ち主であったマーラー自身による説明におけるゲーテの原植物を含む有機体論や進化論的メタファー(エンテケレイアなど)の進入については、その事実を骨董に関する薀蓄よろしく、歴史的な事象として指摘することなどではなく、さりとてそれを単なる比喩や修辞として、音楽自体とは別のものとして無視するのでもなく、システム理論や複雑系の理論の発展を通過した今の地点から捉え直すことこそが必要であろう。

調性組織における発展的調性は、楽式論における単なる反復、ダ・カーポを嫌い、絶えず変容し発展しようとする傾向との間に 明白な相関を有するのであって、出発点に過ぎない和声法や楽式論の図式を逸脱してしまう。その結果として、多楽章形式はここでは 複数の視点、複数の層からなる時間の布置を実現するデヴァイスであり、多重世界論(デイヴィッド・ルイスの様相実在論)の如き理論装置を要請する。 マーラー自身が敏感に感じ取り、指揮者への指示として書き込んだように、楽章の始まりと終わりは一様ではないし、楽章間の関係も、 画一的な単なる中断、中休みには決してならず、ある時にはそこに断層があり、ある時には休止を跨いで連続するといった具合に、 その連関の様相は多彩である。 オーケストラならではの、非平均律的な均質でない和声組織に支えられた調性格論は、直接的には共感覚的に色彩を喚起するものであると同時に、心理的時間としては、モーダルなヴァーチャリティの様々な質・諧調を実現しており、その肌理の細かさに対応した理論装置を要求する。

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マーラーの音楽は、職人技による工芸品的な単純なパターンの反復、規則的な変形による線形変化のもつ、物理的とでもいうべき 時間ではない。他方で、外的なプロットに束縛されることのない、独立したモナド的な主体性を備えている。 それが近藤譲の言う「身振り」の音楽であるというのは、命題的態度の音楽であるということであり、それは高度な心性を持つ 意識的主体においてのみ可能となる構造を前提として初めて生じうる時間性を備えているということであり、その時間性は 現象学的・実存的な時間論が分析の対象とするようなものである。

そしてそれは閉じているわけではなく、世界、他者との接触により生じる間主観的な出来事としての実存的時間を備えている。 その空間性は、相対論的に出会うことなく、常に遅れてしか出会い、応答できない同時的存在としての他者との距離であり、 主体の内的時間と同調しない、容赦ない推移の流れ(「世の成り行き」)に身を浸すという意味で、高度な心性を有する 意識的な主体の間主観的な生成過程の組織化である。

その限りにおいては、異星人が地球上の人間について知りたければ、 マーラーの音楽を調べれば良いという、カールハインツ・シュトックハウゼンの言葉は妥当性を持つ。これは(とりわけても 西欧的な意味合いでの)「人間」でなければ産み出しえない類の音楽であることは間違いない。更に、ジュリアン・ジェインズ的な 意識の考古学的な展望を、レイ・カーツワイルのような技術特異点論者のポスト・ヒューマン的な展望と接続する立場からは、 これは将来のある時点で、「かつての人間」の意識の様態を記録した考古学的遺物になるのだろう。マーラーの音楽が音楽で 在り続けるのは、「人間」がかつての、そして大きな変容を蒙りつつ、今なお辛うじて存続している「人間」の存続期間の 範囲内であり、賞味期限つきなのである。ジェインズの記述するホメロスの時代、あるいは西洋中世といった意識なきエポック ではマーラーの音楽はありえなかったし、タイムマシーンで遡及して送り届けたところで理解不可能なものであったに違いないが、 未来の方向に向けても、三輪眞弘さんが「感情礼賛」で「夢を見た」ようにポスト・ヒューマンのエポックにおいてはマーラーの音楽は理解不可能なものとなるであろう。(再帰的に、音楽を聴取する、しかも自己自身のような複雑な音楽を聴取する経験自体もまた、そうした時間性を備えている。このことから、マーラーの音楽自体が聴き手にとって優れた意味での他者である、つまり複雑な内部構造を有し、固有の時間性を持つ他者であり、レヴィナス的な意味で、決して自己固有化できない「他者」であるということが帰結する。それは私の中に埋め込まれても、或る種の飛び地、クリプトとして 存在し続けるだろう。)

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マーラーの音楽の時間はアドルノ風の、「突破」「停滞」「充足」「崩壊」といったカテゴリが示唆する心理的時間であり、 意識の構造に由来するアスペクト的な特性を持つ。楽章内においても時間の断絶、複数の層の不連続な継起があり、 ホワイトヘッドのプロセス哲学における時間論における「時の逆流」を彷彿とさせるような瞬間にも事欠かない。 それは単一の時間ではなく、複数の重層的な時間。時間の分岐と合流であり、ヒンティッカが試みたような可能世界意味論による解釈の下で、 フッサール現象学における内的時間意識の不連続性を取り扱う必要性を認識させる。

第一次過去把持・第二次過去把持の区別は勿論、忘却・想起・回想といった出来事を、多重世界の圏域体系上で解釈しようとしたとき、 しばしばその人工性や模倣的で根無し草の性格が取りざたされるマーラーにおける「民謡」調や、とりわけ「大地の歌」での 東洋趣味もまた、スティグレール的な第三次過去把持による前主体的過去、社会的、集合的記憶への仮構された遡及としての (ありえたかもしれない、架空の)「民謡」。「東洋」(「大地の歌」)として、同じ多重世界の圏域体系上で解釈可能な ものになるのではないか。

*   *   *

そしてその先には、第10交響曲がある筈であった。嬰ヘ調という調性の持つヴァーチャリティと、その文脈における ニ長調がコントラストによって蒙る変容。過去が絶対的な過去になり、現在は通常の時系列的なパースペクティブから 隔離されて浮遊する。(臨死経験との類比からすれば、それは可能性としての「未来」を最早持たないことの 帰結なのだろうか?)だがそこにおいてこそ、(数学的な意味での)極限としての未来の到来・生成の場があり、 それは主体の側からは自己超越による死と再生の過程である。第10交響曲はそうした時間を作品の裡に 刻み込んでいるという点で、極めて特異な作品である。

この作品が未完成であることについては多くのことが 言われているが、この音楽が、芸術に許されたヴァーチャリティを限界まで徹底させ、「実現しない未来」の 時間を定着しつつあったことを思えば、ありとあらゆる迷信の類を取り除いた後に、その実質と、作品が「この」 現実世界、様相実在論的な可能世界意味論における用語法におけるそこでは、それがスーパーヴィニエンスである ことを確認した上で、未完成に終わったことに対して、「人間」は何某かの意味を読み込みたい欲求に抗うことは 難しい。それを「あまりに人間的」と断定する批判は正しいが、「音楽」が結局は「人間」のものでしかないことに 対する無視は致命的である。

*   *   *

第8交響曲の冒頭のEsのペダル音は、人間の消滅の時に響く「基底の音」であるかも知れない。(実際、三輪眞弘さんの 「ひとのきえさり」ではEintonという「楽器」がそのように響く。)第8交響曲はアドルノ風には「突破」の瞬間の 拡大であろうが、その音楽は経過につれて、人間がそのままの姿では見ることのできない出来事と化してゆく。 勿論、(プフィッツナーが悪意を篭めて揶揄したといわれるように、またアドルノが両義的な態度の中で、不承不承か、 あるいは寧ろ、己の恃む否定性の威を借ってか認めたように、それは「到来しなかった」かも知れないのだ。 それは1世紀後の極東で、深夜、自室で「録楽」としてそれを聴いた聴き手のちっぽけな脳内で起きた事象に過ぎず、 何も変わっていはしない。これまたアドルノの言うように、ファウストの終景から聖書的近東を経由して 辿り着いた「大地の歌」の極東は紛い物に過ぎないかも知れない。だが、どんな形而上学も可能ではないということが最後の形而上学たりうる ように、あるいはまた、架空の極東の民族の(だから決して「到来したことのない」)滅亡を記憶する機械による朗読が、 あたかも最後の「音楽」のように、あるいは「音楽」の終焉のドキュメントとして、それ自体は現実に生起し、 その事実が語り継がれていくように、第10交響曲の、決して到来することのない、決して経験することのできない 時空は、マーラー自身によって完成されることはなかったけれども、デリック・クックによって演奏可能な形にされ、 1世紀を経てなお、極東の地で再演が試みられる限りにおいて、まさに「音楽」として、「音楽」を介して、 現実的に生起するのである。

かつての「音楽」、かつてそう呼ばれ、今なお、人がそれをそう呼ぶことに何の疑問を抱かない音楽作品と その演奏を振り返ってみたとき、逆に、或る過去の時代の、自分とは異なった歴史的・文化的伝統に属する人間が作曲し、 記譜して残した作品を、別の誰かが演奏するとき、あるいはまた、不幸にして未完成に終わった作曲を、 別の誰かが補うとき、更には同時代にいながら、それゆえに常に遅れてしか応答できないにせよ、自分のできる仕方 (それ自体は「音楽」ではないかも知れない)での応答を試みるとき、そうした人間の営みによって、 音楽が、第一義的にはまず自分自身という人間のためのものでありながら、そうした自分という或る種の制限、 檻の如きものが制限づけているに違いない視界の狭窄、感性の水路の狭窄にも関わらず、 その音楽(だがそれは、正確には「どれ」のことを、「どの範囲」の出来事を指しているのだろうか?)が 人間の限界を超越して、想像することの出来ないような彼方へと(そう、まるで宇宙船にカプセル化されて 未知の知的生命体に向けて送り出されたものであるかのように)、突き抜けていってしまい、 私のようなちっぽけな人間には及びもつかないような存在に感じられることが、しばしば生じる。 その限りで、いかに突飛で滑稽に見えようとも、アドルノが「大地の歌」に関連して、宇宙飛行士が外側から 見ることになる地球の青さを先取りしていると述べたのは、それがジャン=ピエール・デュピュイの賢明な破局論 での意味合いにおける「予言」である限りにおいて、文字通り正しいのである。だとしたら、レイ・カーツワイルの 述べる技術的特異点の彼方で生起することの「予言」が、第10交響曲において、それ自体未完了で開かれたままの 状態で行われていると考えることもまた可能であろう。

*   *   *

勿論、技術的特異点の彼方において、この「音楽」が、否、おしなべて「音楽」自体が最早意味を喪失し、 無用のものとなる可能性もある。そうではなくても、かつての「人間」の制約条件に強く拘束されているがゆえに、 過去の遺物として、博物館での展示品としての価値しかなくなる可能性もあるだろう。その一方で、第10交響曲の 「今」と「ここ」がようやく適切な現実を獲得する事態も考えられるだろう。マーラーより更に100年前にヘルダーリンが、 早すぎる晩年の寂静の裡に記した断片 "Wenn aus der Ferne" の「今」「ここ」と同様、現在の現実世界では ヴァーチャルな、「場所なき場所」を指し示すそうした作品が、丁度ホメロスの叙事詩のように、今より更に100年後、 新たな光の裡で、新たな光を放たないと誰が言いうるだろうか?

全ては両義的である。まさにそのために書かれたにも関わらず、完成した暁にはコンサートホールでオーケストラによって 演奏されることになっていたことが明らかなこの作品は、しかしながら、演奏はおろか、作曲の途上で、楽譜の上においてさえ、 そうした形態を採る前に作者たるマーラーの手を離れた。だが、技術的特異点の向こう側から 見たとき、生物学的な基盤の持つ限界からの自由を獲得し、時間的にも空間的にも、現在の人間の持っている 制限から自由になったとき、人間のアイデンティティの定義も当然だが、作品のアイデンティティの側もまた 変容してしまった後で、この作品を取り巻く様々な状況の意味はどのように変わり、どのような形態で、 どのような媒体での受容が行われることになるのだろうか。最早人間の可聴域の制限すら超え、媒体の制約も超えて、 クックの作業の更なる延長線上に、寧ろその未完成が故のポテンシャリティによって、現在では思いもつかないような 受容のされ方がなされるかも知れない。

*   *   *

人間的なものの極限に、人間を超えたものが顕現するかに思われる瞬間がある。通常の自己の記憶の回想ではない、 自己の経験していない過去を展望できるかに思われる瞬間があり、それに応じて、実現可能性のある現在の延長としての 未来ではない未来、人間の意識がその形態のままでは経験不可能に思われるような未来、極限としてしか想像できない未来が 顕現するかに思われる瞬間がある。音楽は実際には起きはしないことをあたかもそれが今ここで成就したかの如く偽る 詐術などではない。それは現実とは異なる実在の多重世界の別の一つにおける別の現実の投影なのだ。

これは現在の瞬間が拡大されて、永遠と化する奇跡ではない。そこで起きるのはまた、充実ではなく、「ノエマの 爆発」の如き出来事であり、寧ろ自己は没落し、滅して、純粋な受動性の領域が現れ、外から何かが到来する瞬間、 外に対して自己を被曝する瞬間であると同時に、主体の自己超越の瞬間なのだ。そうした瞬間は孤立した出来事ではなく、 それが生じるための力学が働く多層的な脈絡と多岐的な広がりとが必要となる。 マーラーの音楽は、そうした瞬間をその中に胚胎しているという点で特異な音楽であろう。そうした瞬間を孕む 時間的な構造はそれ自体、人間の歴史の蓄積の結果であり、マーラーの音楽はそうした文脈の下で起きた一回性の事象であった。 勿論、もう一度歴史が反復されれば、それが生じる可能性はあるが、それが生じるのは必然ではなく、系の持つゆらぎの 産物に過ぎず、異なった径路を辿ることになると考えるべきだ。

その音楽にあっては「ここ」こそが主体にとって未だ訪れることがなかった異邦の地であり、「自己」が滅したときにしか 出現しないという意味で、最も主体から遠い場所なのだ。これほど「人間」から遠ざかった音楽は、だが「人間」にとって遠いのであって、それは「人間」的主体の構造に基づいていて、それゆえ優れて「人間」のためのものなのだ。 シェーンベルクの第10交響曲への評言は、しばしば歴史的には誤解に基づいた、仰々しいほどまでに大袈裟なものと されることがあるが、実際には個別の出来事の事実関係の差異を超えて、その音楽の質を正しく言い当てている。 我々は、それを聞くための準備がまだ出来ておらず、その音楽に値しない。その故にその音楽は我々にとって未完成のまま留まる。それは常に未来に向かって開かれたまま、聴き手の個体の限界をさえ超えて存続し続ける。(2014.2.16初稿,2.21加筆)

2013年7月14日日曜日

ジャパン・グスタフ・マーラー・オーケストラ第10回定期演奏会を聴いて

ジャパン・グスタフ・マーラー・オーケストラ第10回定期演奏会
2013年7月13日 ミューザ川崎シンフォニーホール

マーラー 交響曲第4番ト長調

井上喜惟(指揮)
蔵野蘭子(ソプラノ)
ジャパン・グスタフ・マーラー・オーケストラ


ジャパン・グスタフ・マーラー・オーケストラの定期演奏会は第5回以降ミューザ川崎で開催されてきた。前回の第9回は東日本大震災による被災のため、 1年延期になり、2012年6月24日に文京シビックホール大ホールで行われたが、第10回の今回は修復を終えたミューザ川崎にいわば「戻って」の開催となった。 曲目は第4交響曲の後、休憩を挟んでワーグナーの楽劇「ニーベルングの指輪」の抜粋。ワーグナー作品について語るのは私には荷が勝ちすぎている故、 前半の第4交響曲の演奏のみについて感想を書き留めて置きたい。
*   *   *
実は私にとって第4交響曲をその本来あるべき姿で、即ちコンサートホールでの実演で聴くのは今回が初めてである。勿論、第4交響曲にはメンゲルベルクが指揮する コンセルトヘボウ管弦楽団の演奏記録から始まって、膨大な録音の蓄積がある。人によってはこの曲の最初の録音が1930年に近衛秀麿の指揮する新交響楽団 の演奏のものであり、日本で行われたことを思い浮かべるかも知れない。楽譜を読むことと併せ、そうした録音を聴くことにより作品の構造と細部の音響像を 自分の中に定着させて後、実演に接するのは、この作品にコンサートホールで初めて接するのとは全く異なった経験である。ましてや文化的・社会的文脈において 全く異なるといって良い1世紀後の日本で、この作品がかつて(たとえばマーラーの同時代に)どのように響いたかを想像することは難しい。 仮に楽器や奏法について、いわゆるピリオド的なアプローチをとったところで、演奏者も聴き手も、演奏会が置かれている環境もそっくり異なるのである。 そういう意味では、上述の戦前の日本での録音とて同じことで、同じ日本だからという理由だけで、そこに連続性を見出すことは、少なくとも私個人には不可能である。 だが、その一方で、全く文脈のない聴取というのはありえない。コンサートの一回性による様々な 制約(私にとっての最大の問題は、自分自身の体調や心理状態である)もあるし、人間が演奏して再現することが前提となっている以上、誰がどこで演奏するのか、 ということもある。かくして、それが本来想定された上演の形態であるとは言いながら、幾重にも屈折してその「本来」に辿り着かねばならない人間にとっては、 その理由の如何を問わず、演奏者を聴き手が信頼することは(少なくとも私にとって)、「音楽そのもの」と呼ばれるものに虚心坦懐に接するための 必須の条件なのである。例えば特定の演奏家の録音を繰り返し聴くというのは、そうした信頼関係の退化した形態なのだ。ジャパン・グスタフ・マーラー・ オーケストラの定期演奏会に足を運ぶのは、こと私に関して言えば、そうした「本来」に辿り着くことを可能にしてくれる貴重な場であるからに他ならない。
この演奏会の感想を記すにあたりまず書き留めておきたいのは、そうしたことを踏まえた上で、この演奏会において、隅々まで馴染んでいるとはいえ、初めて実演に接する作品に 対して、安心して、素直に接し、没入することができたという点である。勿論、技術的に不安定な箇所や、はっきりとわかる細部におけるミスも皆無ではなかったし、 リアライズの難しさを感じる部分がなかったわけではない。だが、そうしたことすら、私にとってはこの作品を理解することの妨げになることはなく、全体として、実演に 接しなければわからない多くの経験を得ることができた貴重な機会となった。クルト・ブラウコップフが音楽社会学者的な視点で行った、長時間録音媒体が可能にした マーラーの受容の変化についての指摘の中では、コンサートホールでは聴き取れない音が録音では聴き取れることが挙げられていたが、数多くの録音に接した上でコンサートホールでの 実演に接すると、逆に録音で聴こえない音が如何に多いかに驚かされることになる。今回は大規模な室内管弦楽という形容矛盾こそ寧ろ適切な形容とさえ感じられる、 音色の微妙な変化や対比、対位法的な 線の対話、音楽が静まり、背後にある沈黙が浮かび上がる瞬間、あるいはフレーズの切れ目の音の鳴らない瞬間のホールの残響をも一つの楽器としたかのような第4交響曲が 演奏されたこともあり、楽音が鳴り響く空間の中に自分がいることによって獲られる新しさの経験は圧倒的なものであった。勿論それは、聴き手たる自分が 作品の構造と脈絡を身体化した形で、次に起こる音響的イヴェントを予期していることが前提としてあって、だが、指揮者の形式構造に対する把握の確かさとそれに基づく 適切なテンポの設定があればこそのことである。第7交響曲、第9交響曲でもはっきりとそう認識できたが、この第4交響曲においても、そうした巨視的な構造の把握の確かさを 感じることができればこそ、聴き手は作品に安心して、素直に接し、没入することができるのだ。
その一方で、音楽がその場に全く相応しく自然に流れ出てくるような印象は、細部の積み重ねにも因っているのは間違いない。トロンボーンとチューバを省いた 編成の管弦楽の楽器法は、金管楽器を木管楽器の一種として扱うことを求めている(トランペットすら、音色のパレットの上で、クラリネットの少し先に位置づけられる)が、 特に様々な管を持ち替え、更には頻繁なベルアップ(Schalltrichter auf!の指示)をきちんと実践することで、多様な音色の立体的なコントラストを実現したクラリネット属と、 音域や音価・強弱の大きなコントラストによって、同様に音色の多様性を実現したファゴット属のパートの活躍が印象的であった他、それが導入されることではっきりと音調が変わり、 異なる領域に音楽が入ることを告げる打楽器群、フラジオレット等も用い、他の楽器の音色との混合により、別の楽器を産み出すことが求められることがあるかと思えば、 ある場所でははっきりと音楽の流れを主導する役割を担ったハープ、先行する作品に比べても際立って線的に精密に書かれた音楽にあって重要なコントラバスのパートの 安定感といったところが全体として印象的だった。
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当初第3交響曲第7楽章に予定されていた歌曲がいわば押し出されてしまい、第4交響曲第4楽章に収まることになった成立史は良く知られていることだが、 そうした紆余曲折の中にあって、終曲に管弦楽伴奏歌曲1曲を持ってくるという着想自体の方は結局最後まで残り、のみならず、その前に三幅対(triptyque)の絵のような 3つの楽章が置かれるという第4交響曲の楽章設計のいわば原点になっている点は見逃すべきではなかろう。第2交響曲や第3交響曲における独唱を伴う楽章の 機能は、ここでのそれとは全く別のものなのだ。そして時系列的に独立に先行していたという事実はあり、確かにそこから逆算するように前の楽章が配置されたとはいえ、 前の楽章と終曲の歌曲の間にマーラーが設定した連関は軽視すべきではない。中期交響曲への橋渡しは、単に第5交響曲第1楽章のファンファーレが予示される といった皮相な点にのみあるのではなく、とりわけ第1楽章に著しく、実際アドルノがマーラーに関するモノグラフの中でも例外的に非常に細かく楽譜を追って 例示するほどの(Variante)の技法、恰も小説の登場人物が、小説の時間を生きることで変容していくような主題の操作の仕方や音楽的時間の構築の仕方こそが、 中期交響曲の前哨としての意義の裏づけとなっているのである。この辺りの事情や、更にマーラーが述べたとされる第9交響曲との関連については別のところに 覚えを記しているのでここではその内容を繰り返すことはしないが、私見では、陳腐な標題性の議論に終始することは論外としても、アドルノのコメントすら、 この交響曲については誤解を招来しかねないような側面があり、音楽自体の持つ決して損なってはならない契機を捉え損ねている。この日の演奏において、私は そのことをはっきりと確認したように思う。
そしてそうした巨視的な設計への配慮は、繰り返しになるが、今回も指揮者によって的確に準備され、実現していたと思う。経過の一部を取り出すのは適切ではないかも 知れないが、それでも強いて取り立てたいのは、例のアドルノ言うところの「夢のオカリナ」から始まって、第1楽章の展開部後半、 「わざとらしく子供じみた、騒々しくも楽しげな部分」(absichtsvoll infantiles, lärmend lustiges Feldとアドルノが呼ぶ練習番号16を経て、 中期交響曲とカフカの巣穴の地下道のように結びついているという指摘を俟つまでもなく明らかな第5交響曲第1楽章への暗示へ至る音調の変化 (頂点ではタムタムが強打され、全く違う領域に音楽が転げ落ちてしまったことが明らかにされる)、そして明確に音楽が停止して、何事もなかったかのように突然に フレーズの途中から再現部に入り、だがそうした軌道の力学で堰き止められてしまったものを補償するかのようにもう一度「わざとらしく子供じみた、 騒々しくも楽しげな部分」をブリッジして第1主題部再現を閉じる辺りまでの音楽的時間の流れであり、あるいは第3楽章の終り近く、練習番号12のあの有名な「突破」(Durchbruch) 以降、静まっていき、Gänzlich ersterbendで停止して第4楽章の天国に至る部分である。そして更にそれに続く第4楽章の全体、そこにおいてパート毎のテンポの入れ替わりが 聴くものに圧倒的な印象を与えたのは、この歌曲を中核として設計された交響曲全体の大きな構造の把握に裏づけされたテンポ設計あってのものに違いないのだ。
今回の演奏は、途中のチューニングなしで行われたが、 それが作品の長さが可能にしたものであるとしても、そのことによって獲られる効果が損なわれるわけでもない。三幅対(triptyque)の絵は決して遠心的に置かれているわけではなく、 楽章相互の明暗のコントラストも含め、寧ろ第4楽章の歌曲に寄り添うようにして置かれていることが自然に理解できるのである。とりわけ第3楽章末尾のGänzlich ersterbendに 関して言えば、第2交響曲の後半3楽章とは異なってattaccaの指示こそないが、音楽的時間は楽章間の中断をいわば跨いでしまっているのである。 第3楽章の「突破」の後、音楽が静まってからコーダに至るまでの和声進行のプロセスはまるで一旦、回り道をしてからようやくゆっくり、ゆっくりと状態を元に戻すような感覚がある。 でも実は戻ったと見える場所は出発点ではなく、決して元に戻ることなく、実は既に決定的に異なる相にいるのだが、その挙句に最後は何とニ長調に到達する プロセスが停止し、時間が止まったときには後続する歌曲のト長調が用意されているのである。この日の演奏おいては、 第4楽章の歌曲は序奏が始まってから登場し、歌い始めまでに定位置に移動する歌手によって歌われたが、これもまた楽章の合間も含めた音楽的時間を損なうことが ないような配慮に基づくものと忖度され、適切なものと感じられた。
この作品の第4楽章で初めて人間の声が響く瞬間というのは、それ自体が或る種の出来事であって、その強度は著名な第2交響曲のUrlichtのあの戦慄すべき歌い出しに 決して劣るものではない。そして歌詞がどんな多義性を孕んでいる可能性があったとしても、音楽がそのような場を用意し、自ずから物語る以上、 歌唱はマーラーが指示した通りでなければならない。ある意味では、ここは既に(つまり第4楽章が始まる前に)時間が停止しているわけで、それぞれ固有の テンポと表情を持ったブロックの交替はあっても、音楽の構造は基本的に静的である。それがとりわけはっきりと示されるのは、詩節に添った何回かの反復の後、 第4スタンザ冒頭の練習番号11で第1楽章の序奏が明確に再現され、だが一瞬ののち練習番号12で音楽が第4楽章の冒頭を回顧し、Kein Musik ist ja nicht auf Erden, ... と歌い始める部分だろう。まるでエンブレムのように聖ウルズラの微笑が浮かび上がるが、音楽は再びmorendoで消えてゆくまで、最早動かない。そうした音楽が求める、 その質に見合った歌唱が為されたこともまた、この日のこの曲の演奏の成功に大きく与っていたと思われる。
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私がこの日の演奏を聴いて受けた印象のうち、果たしてどの程度がこの日の演奏を客観的に受け止めたものであるかはわからない。 上でも触れたことだが、私は第4交響曲に関して、以前より、マーラー自身の言葉を受けて、第9交響曲と関連づけて考えてきたが、この日の演奏は、 そうした聴き方に対しても(残念ながら未だ十分に言葉にはできないし、演奏会の感想からは完全に逸脱するので、それは別の機会にまた改めて論じたいが)、 大きな何かを告げるものがあったと感じている。 恐らくそれは、東日本大震災を経て、昨年のあの第9交響曲の演奏を同じ指揮者、同じオーケストラで聴いたこととどこかで繋がっているだろうが、仮に それが2つのコンサートに参加した人間のうちで私だけに生じた、ごく主観的な経験であったとしても構わない。繰り返しになるが、私は最早 客観的な(と呼ばれる)批評が成立するような地点でコンサートを聴いているのではなく、だからそうした立場でのコメントは断念している。是非、他のそれに相応しい方の 評が公開されることを期待したい。だが、そうした前提の上で、この日のコンサートで第4交響曲の実演に初めて接することができ、ここに記したような印象をもてたことを、 私は非常に幸運なことであったと感じている。それゆえ末筆になるが、ジャパン・グスタフ・マーラー・オーケストラの方々、音楽監督・指揮者の井上喜惟さん、 事務局の方に対し、この日の演奏を共有することができたことへの感謝の気持ちとともに、長期に渉り、演奏会を継続して実現させていることに対する敬意を改めて 表することで感想を終えたいと思う。 (2013.7.14公開)

2013年7月7日日曜日

マーラーとドストエフスキー(2):「白痴」について

マーラーとドストエフスキーの関係が論じられるとき、多くの場合はドストエフスキーの側は「カラマーゾフの兄弟」がその中心となる 傾向にある。そもそも管見では、マーラーの生涯に関する一次文献において「白痴」(ИДИОТ)に言及されることはないようだ。 その一方で、マーラーとドストエフスキーの関係を、例えばフローロスが第3交響曲と「カラマーゾフの兄弟」の第2部第6篇3章のゾシマの説教と 関連づけて論じるように、いわゆる思想内容の水準で捉えるのではなく、様式上、ドストエフスキーの小説とマーラーの音楽との間に見られる 類似性について論じようとしたとき、何故か今度は「白痴」が参照される場面にしばしばぶつかることになる。

その嚆矢は何と言っても、マーラーに関するアドルノのモノグラフの第4章だろう。"Romanhaft ist die Kurve, die sie beschreibt, das sich Erheben zu großen Situationen, das Zusammenstürzen in sich. Gesten weden vollführt wie die der Nastassja des Idiioten, welche die Banknoten ins Feuer wirft ;"(Taschenbuch版全集13巻, pp.217-8)のように、「白痴」の第1部の終り近く、ナスターシャの名の祝日の 宴における彼女の行動が持ち出される。勿論、参照されるのは「白痴」だけではなく、上記引用の後ではバルザックもまた参照されるのだが、 既に先行する部分において、マーラーがシェーンベルクの弟子達に向かってドストエフスキーを勧めたところ、ヴェーベルンがストリンドベリを挙げて 応答したという有名なエピソードが参照されていることもあり、「小説」というタイトルを持つこの章における範例としてアドルノがドストエフスキーの 小説を念頭においているのは疑いない。

マーラーの作品に対するドストエフスキーの影響を主題とした論文で最も著名なのは、Inna Barsovaの"Mahler und Dostojewski"だろう。 近年では、Julian Johnsonが2009年のモノグラフ"Mahler's Voice"のとりわけ第6章"Ways of Telling"において、上記の Barsovaの論を受け、内容面よりは寧ろ様式の面でのマーラーとドストエフスキーの共通性を取り上げ、バフチンの「ポリフォニー」を参照しつつ論じているが、 ここでも参照されるのはドストエフスキーの他の小説ではなく「白痴」なのである。もっともここでもアドルノの上記モノグラフは同様に参照されている (まさに上記引用部分を含む一節が英訳で引用されている)わけで、従ってアドルノが「白痴」を参照していることが、ジョンソンがここでの専ら「白痴」に集中して 参照を行っている理由の一つにはなっているのだろう。実際、実に注にして5箇所が様々な特徴づけの範例として参照されているのである。 ((1)第2部の終りでのエパンチン将軍夫人のムイシュキンとのやりとり、(2)第2部5章のムイシュキンの不安に苛まれた内的独語、 (3)第2部9章のブルドフスキーの出生に纏わる事実が明らかになった後のブルドフスキーの取り巻き達のやりとりとそれに続くエパンチン将軍夫人の激しい批難の言葉、 (4)第1部6章、ムイシュキンがスイスで療養していた時期に出逢ったマリーという娘の死に至るまでの物語、(5)第3部7章のムイシュキンのスイスでの療養中の頃の回想)。

ドストエフスキーの小説とマーラーの音楽の様式的な共通性については、まさにバフチンのポリフォニーの概念を中心として、 別のところで既に書いているので繰り返さないが、アドルノやジョンソンの指摘は実際の読書経験・聴体験に照らして、十分な説得力を有するものであると 思われる。とはいうものの、こと「白痴」に関して言えば、私はマーラーの作品や同じドストエフスキーでも「カラマーゾフの兄弟」のような長期に 渉る繰り返しの聴取・読書により、すっかりその内容が自分の中に収まっていると言いうるような経験の蓄積を持っているわけではない。 30年以上前に「カラマーゾフの兄弟」を読んで以来、「白痴」もまた何度か読もうとしながら、とうとう読むことができずに来て、ようやく つい最近になって、ふとしたきっかけで読むことができたに過ぎないのである。(ちなみにドストエフスキーの作品で私が読んだことのあるのは 「カラマーゾフの兄弟」と「白痴」の2つのみであり、私はドストエフスキーの愛読者というわけではない。)

最近になってようやく「白痴」を読むことができた理由の一つは、近年出版された望月鉄男訳(河出文庫)に因るところが大きい。世間的には 寧ろ「カラマーゾフの兄弟」こそ、亀山訳がベストセラーになってことで大いに話題となり、宝塚歌劇団で取り上げられたり、読み替えをした上で、 テレビドラマ化までされたようだが、別のところで述べた通り、私は亀山訳に関しては、その問題点を指摘する側に明確に与する考えでいる。 だが、思えば私がかつて「カラマーゾフの兄弟」を読みことができたのは、当時文庫版として新刊された原卓也訳に因るところが大きいのだから、 やはり良い訳が手に入ることの意義は決して小さなものではないということが、「白痴」に関しても、改めて確認されたということなのかも知れない。 というのも望月訳で読了した後、従来手に取りながら読めずにいた木村浩訳(新潮文庫)を通読して比較してみて、後者には少なからぬ 問題があり、そのために抵抗感なく読むことができないことがわかったからである。引っかかった箇所に付箋を付けながら読み進めるたのだが、 付箋の数は上下2巻で100を超えた。流れが悪い部分には一ページに何箇所も引っかかる場所が出てくるといった頻度であり、今回も先行して 望月訳を読んだ後でなければ読み通せなかっただろうと思う。ちなみに木村訳に関してもう一つわかったのが、先行する訳のうち、小沼文彦訳 (筑摩書房・個人全集)に非常に似ているということである。もっとも訳文の比較検討を目的で読んでいるわけではないから、翻訳の比較に ついてはこれくらいにしておく。

「白痴」は極めて印象的な鉄道の描写で始まる。のみならず鉄道は、作品中の「批評家」的=道化的機能を担う重要な 脇役の一人であるレーベジェフの「黙示録」解釈によれば「ニガヨモギの星」に他ならず、時代の精神的な風潮を象徴する 存在にすらなっている。その一方、マーラーの伝記においても鉄道は当たり前のように出て来て、ヨーロッパ各地の歌劇場に 勤め、更に頻繁に客演を行った指揮者マーラーの活動は、当時の鉄道網の発達抜きには考えることができない。 「白痴」に関して興味深いことには、マーラーがロシアへの演奏旅行に赴くにあたり、まさに「白痴」冒頭に出てくると思しき、 ワルシャワからペテルブルクに鉄道で移動していることが確認できることである。つまりムイシュキンが故国に戻った径路と交通手段は、 マーラーがロシアを訪問する際のそれでもあった。

一方で、「白痴」には、回想というかたちをとって、ムイシュキンが療養のために 滞在したスイスでの出来事や風景が繰り返し出てくるが、これはスイスでもフランス語圏であるとはいえ、ロシアの地方都市 (スターラヤ・ルッサをモデルとした架空の町という設定)を舞台にした「カラマーゾフの兄弟」と比較して、当時のヨーロッパの 雰囲気を強く感じさせる作品となっている。このことは、そもそも「白痴」はドストエフスキーがロシアを離れてヨーロッパの諸都市を 移動しつつ過した期間に書かれた作品であることを考えれば不思議なことではないし、全編の結末のエパンチン将軍夫人の ラドームスキーに対する言葉に、ロシアを離れて暮らしていたドストエフスキー自身の心境の反映を読み取ることもできるように感じる。

また「白痴」においては、これもドストエフスキー自身が目にしたヨーロッパの美術作品が大きな役割を果たしている (その最たるものが、ホルバインの「イエス・キリストの屍」だろう)のは良く知られていることである。一方、音楽の方はと言えば、 「白痴」の主要な舞台の一つである、ペテルブルク近郊の別荘地パーヴロフスクの駅の大広間において、オーケストラによる コンサートが催されるという記述がある。ここのオーケストラは実は非常にレベルの高いもので、ヨハン・シュトラウスが1856年 以降ロシアを訪問する度に客演し、或いはグリンカ、チャイコフスキー、アントン・ルビンシュタインの新作初演も数多く行っていて、 その時代のロシアの音楽の中心地の一角を占めていたらしい。マーラーがロシアを訪れた際にこのオーケストラに客演したという 記録は残念ながら見出せない(Inna Barsovaの"Mahler and Russia"によれば、マーラーのロシア訪問は3度、1897年にはモスクワ、 1902年と1907年にはペテルブルクを訪問し、1902年には現在のフィルハーモニーの奏楽堂にあたるホールで、 1907年には音楽院の大ホールで、いずれもマリインスキイ劇場のオーケストラを指揮している)が、時代設定上、 マーラーが活躍した時期には若干先行するとはいうものの、マーラーの少年時代よりも遡るわけでもなく、総じて マーラーの生活空間と「白痴」の物語の空間は密接に繋がっていると言えると思う。

上で言及したBarsovaの論文にもあるとおり、1902年3月にマーラーとアルマが結婚した直後の、いわゆる新婚旅行先が ペテルブルクであったことは、その旅の印象がアルマの回想にかなり詳しく出てくるから良く知られていることと思われるが、 そこでのペテルブルクの風景は1902年のそれだから、「白痴」の時代(1860年代末)からは30年近く後のことになる。 更にはドストエフスキーを誰も知らないことへの驚きをもアルマは記しているものの、裏を返せば彼らにとってペテルブルクという街は ドストエフスキーの作品中の印象と分かちがたく結びついていたことを証言していると考えることもできるだろう。

4部からなる「白痴」は、確かにジョンソンやアドルノの指摘の通り、極めてポリフォニックに、しかもマーラー的な意味合いでポリフォニックに 書かれている。しかも第1部の緊密さと、全体がそこに向けて設計されている第4部終結部に比べると、第2部、第3部と 第4部の前半には、いわゆるエピソード的な場面や、一見すると本筋からの逸脱にしか見えない長大な副筋の挿入があり、 譬えて言えば、非常に遠心的な構造を持った、4楽章からなる交響曲を聴いているような感じがする。 エピソード的とはいえ、第3部にある有名なイッポリートの「弁明」は本筋と関連を持つ重要なものだが、例えばイヴォルギン将軍の長大な 法螺話、あるいは第4部のレベージェフの財布に纏わる騒動などは全体の中で必ずしも有機的に機能しているとは言い難いように感じられる。

まるでマーラーの第6交響曲におけるハンマーの打撃のように、ムイシュキンの癲癇の発作の2回の再発が、そこで流れが切り替わる 緊張の頂点におかれるように設計されているが、1回目がロゴージン宅訪問後にムイシュキンがネヴァ河のほとりを彷徨いながら 内的独白を繰り広げ、不安が高まった頂点のところ(第2部5章)で、その不安の潜在的な原因であったロゴージンの殺意が現実の行為となる 瞬間に発生しており圧倒的なのに比べると、2回目を準備する夜会でのムイシュキンの長大なスピーチ(第4部7章)は、設定された性格付けを 逸脱しているわけでもなく、不自然なわけでもなく、そしてそれ自体意図された部分があるにせよ、どこか上滑りした感じがあって、 読んでいて気持ちが良いものではない。同様のことが第3部5章でのイッポリートの「弁明」(МОЕ НЕОБХОДИМОЕ ОБЪЯСНЕНИЕ)に ついても言うことができて、やはりこちらも意図した効果という側面はあるだろうが、全体として筆の凄まじいばかりの勢いを 感じることができる一方、その勢いが余ってしまった感がある部分が無きにしも非ずといった印象が拭い難いのである。

「白痴」が、当初の構想から大きく変わって現在のものになったことは膨大なノート(これは米川正夫訳の全集には一緒に収められている)に よって窺い知ることができるようだし、締め切りに追われて大急ぎで書かれ、それでも最後は間に合わずに、年を越して臨時増刊と いう形で掲載を終えたという事情も良く知られているようだが、上述のような印象には、そうした事情を窺わせる側面がないではない。 ただし特に私の場合、比較の対象が「カラマーゾフの兄弟」になるために分が悪いという面があり、実際、これだけの長さの小説を続けて 2回通読するというのは、これまた「カラマーゾフの兄弟」以来の事であるから、あくまでもこうしたコメントは一定の評価の上でのものでは あるのだが。実際それは、マーラーの交響曲同士を比較した場合に、一部の作品にある或る種の座りの悪さと似た性質のもので、 実のところそうした一見すると欠点にすら見えかねない特徴は、その作品の個性や魅力と不可分のものであることを思えば、こうした批判は ある意味ではないものねだりなのだろう。

だがその一方で、ドストエフスキー自身、この作品に「カラマーゾフの兄弟」と並んで強い愛着を示しつつ、この作品については、 書きたいことを十分に書きおおせていないという感覚は持っていたようだし、私見では、「白痴」において探求され、作中で明確に 目配せさえされたにも関わらず、結局到達できなかった事柄というのが確かにあって、その探求は「カラマーゾフの兄弟」において 再び試みられたと私は考えている。そのことは類似したキャラクターを備えた「白痴」におけるムイシュキンと「カラマーゾフの兄弟」に おけるアリョーシャの違い、特に両者における「決定的な瞬間」の到来の仕方の違いに現れており、「白痴」においては、 ある意味では自然主義的に、例外的な「瞬間」の時間性は決して持続せず、いわば弁証法的にその頂点において反対物に 転化する構造を備えていて、それゆえにムイシュキンはどこにも辿り着くことがないのだが、アリョーシャにおいては、 それはやはり極限的な経験が契機になっているとはいえ、不可逆で永続的なもの、少なくとも有限の生命を持つ人間の 尺度において、その後一生持続するような変化たりえている。ムイシュキンとアリョーシャの対応関係みならず、全般として 「白痴」の登場人物は、「カラマーゾフの兄弟」の登場人物の持つ特徴や性格を別の仕方で分配し直したような雰囲気を 備えているように感じられる。実はこのあたりもまた、マーラーの交響曲間の関係に近いものがあるように思われるが、 いずれの場合においても、その分配の仕方の違いが、そのまま結果の違いに結びついているような感じがある。 (ちなみにここでいう結果の違いは、作品の価値の優劣とは独立の問題であるし、作品の出来ともまた異なる固有の 次元を備えている。)

既に述べたように、イッポリートの「弁明」はメインのプロットに対しては明らかにエピソード的ではあるものの、 メインのプロットを批評する視点を提供している点で、その重要さは明らかである。しかし同じ批評的な視点でも、 特に第4部におけるラドームスキーのそれとは異なって、幾つかの重要な論点が未整理で、いわば開かれたままになっている 印象は拭えない。例えばイッポリートがムイシュキンの言葉だとして引用する「温順こそ恐るべき力だ」(смирение есть страшная сила)という言葉は、 そのように引用されるものの、病のせいか、時間の切迫のせいか、些か脈絡を欠く傾向にあるイッポリートの「弁明」と それの朗読を巡っての言説の中で展開されることはない。ムイシュキンに帰せられる「世界を救うのは美だ」 (что мир спасет красота)という言葉もまた、奇妙に宙に浮いたままである。更に後者に関しては、アグラーヤの次姉で絵描きの素養のあるアデライーダが ナスターシャの写真を見た時に述べた「これほどの美しさは力だわ、、、こんな美しさがあれば世界をひっくり返すことだってできるわ」 (Такая красота - сила ... с этакою красотой можно мир перевернуть!) という言葉(第1部7章)との関係もあり、更に加えてまたしてもイッポリートが ラドームスキー同様にムイシュキンを批判するにあたり持ち出す「キリスト教徒的」な心との関係もあるのだが、 それらが明らかにされることは少なくとも作品中においてはないように見える。

後の「カラマーゾフの兄弟」からの展望において、 「白痴」という作品の風景というのは、どこか歪んだものに映る。だが作品はその歪みに忠実であり、それゆえ結末は 悲劇となる他ない。ムイシュキンがナスターシャの写真に見出した「美」は、この陰惨な作品のそれでもあるかのようだ。 それは「世界を救う」ものではなかったのか。それともまたもやアドルノ風に、それもまた最早仮象として、不可能なものと してしか顕れることのできないものの垣間見せる光芒に過ぎないのか。にも関わらず、小林秀雄のようにムイシュキンに 不気味さを、或る種の魔性を見出すのは、結局のところ見当はずれでしかない。ましてやムイシュキンを悪魔呼ばわりする 解釈は論外である。そうした見解は、自分の見たいものを作品に押し付けているだけなのだ。小林秀雄は、よりによって ロゴージンの書斎の部屋にかかるカーテンの色を見間違え、更にはホルバインの絵のある部屋と混同して憚らない。 しかも一度ならず、四半世紀の時を隔てて二度までも。だが、それは彼の空想の裡の風景であって、それは「白痴」という 作品の持っている歪みとは別のものなのだ。

さりとて一方で、ムイシュキンの内面を描写することを作者の失敗と断罪し、 神秘のヴェールを被せておけば良かったなどという議論も、作者の意図を全く蔑ろにし、その企図の困難を嘲笑する ものでしかない。ムイシュキンの「憐み」をトーツキーの「プチジュー」における彼自身の「遊び心から出たいたずら」と等価な ものと見做し、トーツキーの「プチジュー」がムイシュキンの行動の先取りであるというような解釈(それは、第1部だけで も十分であるといったような判断に繋がっているのだが)もまた、この物語の結末の意味合いを根底から腐食させ、 損ねる類のものである。そうした解釈は当然に、ナスターシャに対する全面的な無理解と表裏一体の関係にある。 「カラマーゾフの兄弟」においても、アリョーシャを真犯人に仕立ててみたり、スメルジャコフの真の父親をグリーゴリイと 断定するような解釈があるらしいが、「白痴」においても解釈の恣意と、作者の意図の蹂躙は留まることを知らないようである。 勿論、時には「生産的」な誤読というのもあるのかも知れないが、ここでの問題は、いずれの解釈にしても解釈者が 自説の奇抜さを誇るくらいが関の山で、些かも生産的ではないことだ。もっとも似たような事情はマーラーの場合でも しばしば見かけることであり、だから別段驚くべきことではないのかも知れないが、さりとて、それを黙過するわけには行くまい。 マーラーについて不徹底ながら同じ理由でやってきたことを、「白痴」という作品についてもやるべきなのかも知れない。

ドストエフスキーは「白痴」を書くにあたって、セルバンテスのドン・キホーテをキリスト教文学にあらわれた美しい人びとの中で、 もっとも完成された人物と見做していたらしい。実際に書かれた「白痴」のテキスト中では、ムイシュキンがアグラーヤに宛てた 手紙をアグラーヤが挟み込む分厚い書物が、意図せずして「ドン・キホーテ」であった(第2部1章)という仕方で言及されるだけで、 直接にはプーシキンの「貧しき騎士」(рыцарь бедный)が作中に埋め込まれて重要な機能を果たすことになる(第2部7章)。それ以外では、 上でどこか上滑りした感じがあって、読んでいて気持ちが良いものではないと書いたムイシュキンの長広舌の一部が 「ドン・キホーテ」のエピソードの一つに基づくものであることが創作ノートによって確認できるようである。マーラーの愛読書でも あった「ドン・キホーテ」の主人公が「美しい人」であるとするならば、それを「美しい人」の屍を描いたホルバインの絵と、 「世界をひっくりかえす力」を備えたナスターシャの写真の「美しさ」と、更には「謎である」とムイシュキン自体が規定した アグラーヤにおける「美」も併せて一貫したパースペクティブに収めなくてはならないだろう。 それは更に、森有正の「ドストエーフスキーが最も深く、人間現実を その非現実性に接する域に突入するまで、掘下げた作品であって、爾余の諸大作群の、いわば、形而上学的基礎工作を なしている、とさえ言うことができると思うのである。「白痴」は、その外面的不統一と静穏さにもかかわらず、最も深い 内面的運動の原理を蔵するものであるということができる」(「ドストエーフスキーにおける「善」について」) という認識の下、「温順こそ恐るべき力だ」(смирение есть страшная сила)という言葉と、 「世界を救うのは美だ」(что мир спасет красота)という言葉を、あの悲劇的な結末の下に おいてみる企てに通じることになるだろう。そしてそれは森有正が主題として扱った「善」と、「美」との関係をも闡明するもので なくてはならないだろう。

これらの事柄は、さしあたり「白痴」という作品固有の問題に見えるが、実はその射程は遠く、マーラーの音楽の観相学にも 及ぶのではなかろうか。アドルノもジョンソンも「白痴」に言及するときには、いわゆる「語り方」の次元に焦点を当てていた。 だが、語り方を離れた内容についての議論同様、「語り方」に終始する分析もまた、マーラーの音楽が語ることを、そしてまた 「白痴」という作品が語ることを、そのベクトル性の深さにおいて闡明することはできない。実のところ、アドルノがまさに ナスターシャが10万ルーブリの札束を火に投じる場面を参照したのは、マーラーの音楽の、一般に「小説的」と呼びうる 特質を例証するためだけに過ぎなかったと考えることはない。そこでマーラーのどの作品のどの部分が鳴り響いているのかを 言い当てることが出来るのでなければ、アドルノのこの観相は空虚であろうし、マーラーの音楽が持っている力、上述の森有正の 「白痴」についての評言にも通じる「最も深く、人間現実をその非現実性に接する域に突入するまで、掘下げた」、 「形而上学的基礎工作をなしている」作品の、「最も深い内面的運動の原理を蔵するもの」のみが備える力を 捉え損なってはならないのであってみれば。(2013.7.7)

マーラーとドストエフスキー(1):「カラマーゾフの兄弟」について

マーラーがドストエフスキーの熱心な読者であることは様々な証言によって伝えられていて、良く知られたことと言って良いだろう。 マーラーの読書の傾向については別のところでも触れたが、哲学や自然科学に関してはプラトンやカントといった古典のみならず、 ショーペンハウアー以降、同時代のフェヒナーやロッツェ、エドゥアルト・フォン・ハルトマンといった最新のトレンドに敏感であったのに対して、 文学においては全般として古典に傾き、エウリピデスから始まってシェイクスピア、セルバンテス、スターン、ドイツ語圏においても 同時代の作家よりはジャン・パウル、ホフマン、ヘルダーリン、そして何よりもゲーテを愛読している中で、主要作の最初のドイツ語訳が 作者が没した直後の1882年から1890年にかけて行われていったドストエフスキーについては概ね同時代の文学作品の中では 例外的ともいえる熱中を示しているように窺える。

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マーラーに最初にドストエフスキーを紹介したのはジークフリート・リーピナーであったようだが、リーピナーの最初の妻(ただし 1891年に離婚)であったニーナ・ホフマン=マチェンコはドストエフスキーの研究者であり、1899年にドイツ語では初の ドストエフスキーの伝記、"Ph. M. Dostojewsky. Eine biographishche Studie"を執筆している。彼女はまた、 マーラーの若き日の友人、フリードリヒ・レーア夫妻とも交流があり、マーラーはレーアを通じて知己をえるようになったことが 書簡等から窺える。ニーナはマーラーのみならず、弟のオットーもまた親交があったのだが、そのオットーが「自分の入場券を返す」と いって1895年2月6日にピストル自殺をしたのはニーナの住まいでのことであったらしい。この「自分の入場券を返す」という表現は、 明らかに「カラマーゾフの兄弟」(БРАТЬЯ КАРАМАЗОВЫ)中のイワンの言葉(第2部第5編「プロとコントラ」(Pro и contra) 4章「反逆」(БУНТ)の「だから俺は自分の入場券は急いで返すことにするよ。正直な人間であるからには、できるだけ 早く切符を返さなけりゃいけないものな。俺はそうしているんだ。俺は神を認めないわけじゃないんだ、アリョーシャ、 ただ謹んで切符をお返しするだけなんだよ」 (訳は新潮文庫版の原卓也訳に従う、以下同じ。) "И если только я честный человек, то обязан возвратить его как можно заранее. Это и делаю. Не бога я не принимаю, Алеша, я только билет ему почтительнейше возвращаю.")を意識したものだろう。 (ちなみにピストル自殺といえば、「白痴」の登場人物で、「わが不可欠なる弁明」を読み上げて後、ピストル自殺未遂を 起こしたイッポリートのことを思い浮かべずにはいられない。)

ブルノ・ワルターもまた、マーラーにとってドストエフスキーが重要な存在であったことの証言者の一人であり、ハンブルク時代にマーラーの 家を訪れたおり、マーラーの妹のエマから、「カラマーゾフの兄弟」の「大審問官」(ВЕЛИКИЙ ИНКВИЗИТОР)の 部分に関して、アリョーシャとイワンのどちらが 正しいのかと聞かれたというエピソードを記録している。のみならず、マーラーについての回想("Gustav Mahler : ein Porträt")の中でも「カラマーゾフの兄弟」のアリョーシャとイワンの 対話への言及がある("In dem Gespräch des Ivan mit Aljoscha aus den Brüdern Karamasoff finden wir im Grunde den vollen Inhalt dessen ausgedrückt, was ich Mahlers Weltleid nannte.", Florian Noetzel Verlagの Taschenbücher zur Musikwissenshaft版ではp.107)。アルマもまた回想において、Mahlers Dostojewsky-Verbundundenheit hieß ihn oft und oft aussprechen : "Wie kann man glücklich sein, wenn ein Geschöpf auf Erden noch leidet!"(1949年版ではp.31)と述べている。ただしアルマの 言及は、こうした言葉が自己中心的であったり利己的であったりする人間により語られるものであり、マーラーもまたこうした考えを 実践しようという決意は持っていたことは認めても、つねに身をもって実践したとはいえない、という痛烈な批判のトーンを帯びた ものであることに留意すべきであろう。これ以外にもアルマは後年、晩年のマーラーとアメリカに滞在した折、ナイヤガラからの帰途に 「カラマーゾフの兄弟」を読んだことが書簡から窺えるが、リーピナーのグループに対する反感もあってか、上述のオットーの自殺に ついて言及する時も含め、マーラーのドストエフスキーに対する関係への言及には屈折した心境が感じられることが多い。 例外は1902年3月にマーラーと結婚した直後に新婚旅行を兼ねた演奏旅行で訪れたペテルブルクの印象を記録した部分で、 そこでは没後20年ほどにしかならないドストエフスキーの名を知る人がほとんどいないことへの驚きが記されている。

一方で、マーラーの作品に対するドストエフスキーの影響についてもまた、様々なことが言われている。最も著名なのは、Inna Barsovaの 論文"Mahler und Dostojewski"だろう。近年では、Julian Johnsonが2009年のモノグラフ"Mahler's Voice"(Oxford University Press)の とりわけ第6章"Ways of Telling"において、Barsovaの主張を受けて、内容面よりも寧ろ様式の面におけるマーラーとドストエフスキーとの 共通性を、バフチンの「ポリフォニー」を参照しつつ論じており、これは非常に興味深い。 一方で内容面・思想面での、しかも「カラマーゾフの兄弟」の影響ということでは、Constantin Florosが第3交響曲の第6楽章の 後に撤回されることになった1895/96年の構想における「永遠の愛」を「カラマーゾフの兄弟」のゾシマ長老の説法(第3部第6篇 「ロシアの修道僧」(Русский инок)3章「ゾシマ長老の法話と説教から」(ИЗ БЕСЕД И ПОУЧЕНИЙ СТАРЦА ЗОСИМЫ)と 関連付けているのが良く知られているだろう(Constantin Floros, "Gustav Mahler I : Die geistige Welt Gustav Mahlers in systematischer Darstellung", p.66)。だがこちらは何しろ撤回された標題に纏わる議論でもあり、マーラーの側の裏付けが乏しいこともあって、 その説得力については意見が分かれるだろう。これ以外にも、初期交響曲の理解においてドストエフスキーが重要であるというシュペヒトの意見が あるし、日本では田代櫂さんが近年出版されたマーラー評伝中で「カラマーゾフの兄弟」に一節を割き(「グスタフ・マーラー 開かれた耳、 閉ざされた地平」の第5章「ハンザ都市」中の「カラマーゾフの衝撃」の節, pp.127-131)、その中で「カラマーゾフの兄弟」の 第1部第2編「場違いな会合」(Неуместное собрание)3章「信者の農婦たち」(ВЕРУЮЩИЕ БАБЫ)に現れるテーマと マーラー作品のテーマとが共通していると指摘している。

マーラーとドストエフスキーを巡るエピソードとしては、マーラーがシェーンベルクとその弟子達に対して、ドストエフスキーを読むことを勧めた折、 ヴェーベルンが、自分達にはストリンドベリが居ると返答したという件もまた有名だろう。このエピソードはマーラーと後続の表現主義の世代との ギャップを証言するものとして語られることが多いようだが、それが世代という環境によって規定されたものであるかどうかに関わらず、 なおかつ、時代の違い、文化的背景の違いの中で、マーラーとドストエフスキーが形作る星座のみはその構造を大きくは損なうことなく、 維持され続けているように思われる。もっとも私の場合には、ドストエフスキーの側については、熱心な読者とは言いがたい。なぜなら、 30年以上にわたって、何回となく読み返してきた結果、細かいエピソードやちょっとして描写の類まで頭に入っているという点でマーラーの 音楽と共通している「カラマーゾフの兄弟」を除けば、唯一「白痴」を、しかもごく最近になってようやく読み通すことができただけなのだから。 だがしかし、こと「カラマーゾフの兄弟」に関して言えば、内容面と様式面の両面において、それがマーラーの音楽と際立った親和性を持って いるのは疑いないことのように思われる。マーラー(Mahler)が絵描き(Maler)でカラマーゾフ(Карамазов)が「染物屋」(красильщик) (実際、ミーチャがこう呼ばれる場面が、第3部第8篇「ミーチャ」(МИТЯ)2章「セッター」(ЛЯГАВЫЙ)に出てくる)という類縁性が あるからというわけではなく、その作品の構造と内容の両面において、 私にとっては、マーラーの音楽も「カラマーゾフの兄弟」も同じ精神的な圏に属しており、両者は同じ問題、しかも私にとってのっぴきならない 重要性を帯びている問題を巡っての偉大なる先蹤なのである。

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「カラマーゾフの兄弟」がロシアで発表されたのは、1881年に没したドストエフスキーの晩年の1879年から1880年にかけてのことであるから、 マーラーと、あるいはドストエフスキーと接する時と距離は現在の我々のそれとは全く異なったものであっただろう。そしてそうした事情は勿論のこと、 私がマーラーに出逢った30年以上前においても変わりはなかったのだが、それでもなお、マーラーとの出逢いとほぼ時を同じくして 「カラマーゾフの兄弟」にも出逢ったのはまさに僥倖というべき出来事だったと思う。 今なお版を重ねている新潮文庫の原卓也訳の「カラマーゾフの兄弟」が出版されたのが丁度そのころ(奥付によれば、初版は 昭和53年7月20日)であり、私はその初版を買って以来、マーラーの音楽を聴き続けるとともに、「カラマーゾフの兄弟」を何度となく 読み返してきた。マーラーの場合には一時期一旦、全ての文献を処分してしまったことがあるのに対して、「カラマーゾフの兄弟」の方は そういうことはなかったのだが、さすがに四半世紀の時を経て、紙はすっかり茶色く焼けてしまい、カバーも破けて何時の間にか なくなり、背中が傷んで一部のページが外れてしまったりして読書に耐えなくなったため、つい3年程前に意を決して買い換えをした。 ところが入手できたのは平成16年に改版され字が大きくなったかわりにページ数が増えた版であった。何度も読んだために 何がどのページのどのあたりにあるかまで記憶してしまったこともあり、改版されてページ割が変更されたことに対する違和感が 大きく、結局古書で平成8年辺りの比較的状態の良い版を手に入れることになり、更にまた新潮世界文学の1巻として収められた 2段組の一巻本(1000ページ近い)も手に入れて、現在は3種類を必要に応じて使い分けている。(ただし厳密に言うと、 新潮世界文学に収められた版は文庫版よりも古く、訳文には若干の差異がある。)

「カラマーゾフの兄弟」の翻訳と言えば、数年前に出た新訳が夥しい誤訳を含むものであるのみならず、その翻訳が、放恣な想像力を 行使した奇妙な解釈を背景としたものであることが話題になったことがあった。私がその誤訳の実体を知ったのはごく最近のことなのだが、 実情を知るにつけ、マーラーを取り巻く状況との並行性を感じずにはいられなかった。誤訳を具体的に提示する作業を、莫大な労力を 惜しまずに行い、その結果をWebで公表して世に問うた方々に対して大きな敬意を抱くとともに、共感を抱いている。 私自身はあくまでも自分自身の備忘のために、マーラー文献の誤訳から始まって、伝記的事実や写真等の記録、出版譜に関するものなど、 色々な分野で不正確な情報に出逢うたびに記録してきたに過ぎず、推敲する時間すら取れないうちに次々とそうした発見があって、 結果として何時の間にやら膨大な量になってしまっただけなのだが、そうした不充分なものであっても敢えてwebで公開しているのは、 偏にプロの研究者ではない私と同じような市井の愛好家で、私と同じような関心や疑問を抱く方々にとって、少しでも同じ調査を する手間を省くために公開しているのであり、それ以上のものではない。実際には目に余る酷い翻訳もかなりあるのだが、 個別に指摘するだけの時間的な余裕もないから、個人的な見解として自分が見つけたものを報告しているに過ぎず、 遥かに不徹底な仕方ではある。それでもなお、自分にとって別格の小説であり、マーラーとも因縁浅からぬ「カラマーゾフの兄弟」を 巡ってそうした営みが為されていることを知って、それに対する支持の気持ちを表明する必要を感じ、マーラーの誕生日に因んで このように取り上げた次第である。

マーラーの音楽は必ず演奏行為によってリアライズされなくてはならず、聴き手は演奏者の解釈のフィルターを介して聴かざるをえないのに対し、 ドストエフスキーの小説はロシア語原文を読む限りは、そうした問題はない。だが、日本語に翻訳するとなれば、そこには訳者の基本的な語学力、 原作の置かれた文化的・社会的文脈についての知識、そして訳者自身の読解といった諸条件が介在することになる。一見すると言葉の壁がない分、 閾が低いかに見える音楽についても、時代と場所(文化的・社会的な「場」を含めて)の隔たりは実際には厳然としてあるのであって、 寧ろ一見透明に見える分、音楽の方が厄介かも知れない程である。それゆえ「カラマーゾフの兄弟」の誤訳を巡る論争は、今日の 日本におけるマーラー受容にとって、決して他人事とは言えない。1910年代(だからマーラーの没後間もなくの時期にあたる)の 米川正夫訳以来、数多くの訳者による翻訳の試みの蓄積を経て、利用できる情報において圧倒的に優位にあるはずの 「カラマーゾフの兄弟」の最新の翻訳と、その背景にある解釈が大きな問題を孕んでいるという事態は、メンゲルベルク、フリート、 ワルターやクレンペラーの世代から始まって、LPレコード、CDの発達もあって膨大な演奏の録音の蓄積を経ているはずの 今日のマーラー受容の姿と否応なく重なって見えてくる。それでもCDで安価に交響曲全集が入手できるようになったマーラーの場合と異なって、 「カラマーゾフの兄弟」においては、私が幸運にも最初に読んだ原卓也訳のみならず、江川卓訳(集英社)、小沼文彦訳(筑摩書房)、 池田健太郎訳(中央公論社)といった優れた訳業が存在するのだが、これらの訳を入手すること自体困難なようであり、 その一方で、問題のある新訳がブームと呼べるほどの売れ行きを示す現実にはうんざりさせされる。幸い私は上掲の翻訳については 全て手元にあって参照ができるし、その一方で、ロシア語原文、仏訳、独訳、西訳、英訳は電子テキストの形でインターネットを 介して入手できて手元にあったりする現実があり、こちらはこちらで、著作権の切れた初期の出版譜がWebで無償で入手できるようになり、 インターネットを経由して海外の古書店が在庫している文献を検索して取り寄せることができ、近年では図書館が、やはり 著作権の切れた古い文献から順次、デジタル化を進めているというマーラー周辺の事情と同じく、ネットワーク環境の変化の 恩恵を受けているわけである。

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ドストエフスキー側の研究については大した情報収集もしていないこともあり、直接マーラーに触れたものは確認できていないが、その中では ゴロソフケルが「カラマーゾフの兄弟」の第2部第5編「プロとコントラ」とカントの「純粋理性批判」の4つのアンチノミーを突き合わせる試み (木村豊房さんの訳で「ドストエフスキーとカント」という題名でみすず書房から出版されている)が興味深い。 マーラーが「純粋理性批判」を筆頭としたカントの著作に親しんでいたことや、上述のエマのワルターへの問いに関わる部分がまさに 主題的に扱われていることもあり、この研究は、マーラーの側からも注目に値するように思われる。 ゴロソフケルが「カラマーゾフの兄弟」に見出したカントの「純粋理性批判」のアンチノミーと、 解決できない問題を問わずには居られない理性の宿命、更には実践理性や構想力/想像力の問題は、まさにマーラー自身の 問題意識と重なる部分があるのみならず、ことマーラーの場合に限って言えば(というのも、本人にとっての問題が作品にそのまま 現れるのは必ずしも自明ではないし、寧ろその点でマーラーは例外に属するといっても良いかも知れないからなのだが) その音楽を通して問い続け、聴き手にも問いかけた問題と核心において通じていると思われる。今日においては カントのアンチノミーなど、それ自体がアナクロニズムであるとする向きには、恐らく、マーラーの音楽もまたアナクロニズムに違いない。 そしてアナクロニズムであっても仕方ないと私個人としては思わざるを得ない。なぜなら、その問題は別の時代、別の社会を生きる 私にとっても、未解決の問題であり続けているし、少なくとも私が生きる間には展望が一新されることはないだろうと考えているからである。 そういう意味では、私を含む現世代は未だマーラーやドストエフスキーの「エポック」の末裔なのだという認識を私は持っている。

それゆえ、「カラマーゾフの兄弟」とマーラーについては、いずれ必ず稿を改めて自分の考えを整理し、それをWebで公開すべきであると 考えている。もしかしたら、将来のある時点に、例えばカーツワイルのような論者が語る「技術的特異点」が到来し、意識の在り方が、 人間の定義が、観念と物質の関係が変わってしまうことがあるかも知れない。三輪眞弘さんが「感情礼賛」のカバーストーリーに記したように、現在が 回顧されることがあるのかも知れない。だが、それはもし到来するとしても、もう少し先の事であって、それまでは「カラマーゾフの兄弟」とマーラーが 提起した問いはなくならないし、それを各自が受け止め、自分に出来る仕方で継承していくしかないのだろう。

私がここで問いに対する導きとして考えている「カラマーゾフの兄弟」の箇所というのは、しかし、大審問官でもゾシマの説教でもない。そうではなくて、 「カラマーゾフの兄弟」という作品のまさに折り返し点、構造的な扇の要に位置している第3部第7編「アリョーシャ」(АЛЕША)の4章 「ガリラヤのカナ」(КАНА ГАЛИЛЕЙСКАЯ)の末尾の部分である。それは 《ほかの世界に接触》"соприкасаясь мирам иным"する瞬間、マーラー論の文脈で強いて対応物を求めるとするならば、 辛うじてアドルノがマーラーに関するモノグラフにおいてその一部を、Druchbruch/Suspension/Erfühllungというカテゴリーによって、 いわば間接的に言い当てたに過ぎない、或る種の時間的な構造、或る種の「極限」、更に言えば、特異点には違いないが、 いわば「奇跡」のような例外的な出来事を経ることなくして可能になるような場面である。 (私はここで「白痴」におけるムイシュキンとアリョーシャの、こうした位相における違いを突き止めようとしていると言うこともできるように思う。 それはそうした例外的な「瞬間」の時間性の差異、決定的な差異であり、それはアリョーシャにおいては不可逆で永続的なもの、少なくとも 有限の生命を持つ人間の尺度において、その後一生持続するものなのだ。)

その瞬間に起きたことを神秘として片付けずに受け止めようとするならば、鍵はその瞬間にアリョーシャの魂に響いた声が語る言葉、 《僕のためには、ほかの人が赦しを乞うてくれる》"за меня и другие просят"にあるだろう。私見では、かくの如き他者との受動的な 関わりについての分析を徹底的に掘り下げていった先蹤としてのレヴィナスの分析の行き着く果てにおいて、この言葉に、そしてこの言葉が 魂に響いた声によって語られたという事態に、「だれかがあのとき、僕の魂を訪れたのです」"Кто-то посетил мою душу в тот час"と後日 アリョーシャが語ることになった、魂を訪れる「他者」によって語られたという事態に行き当たることになる筈なのである。

だが、それはあくまで仮説的なもの、現時点ではきちんとした論証を伴わない、単なる見通しの提示に留まらざるをえない。同様にして、 それはマーラーの音楽のある瞬間の響きに裡に確かに聴き取ることができるものだが、こちらもまた、未だきちんとした説明ができない単なる 指摘に留まらざるをえない。フローロスのような内容的な指摘は勿論、ジョンソンのようなバフチン的なポリフォニーを援用した一般論な 「語り方」の議論でも不充分だし、「小説」とマーラーの交響曲のアナロジーを論じるのもまた、必要ではあっても十分ではなくて、ここで 問題になっている事態を的確に言い当てるためには恐らくは新しい語彙を鍛造するところから始めなくてはならないだろう。

ちなみにゴロソフケルは「ドストエフスキーとカント」の結びにおいて、「ドストエフスキー自身は「知性の地獄」から脱却できなかったが、 彼はそれでもアリョーシャに託して、未来に対する全人類的な期待---より正確にいえば、この期待への親近感を示そうとした。」(木下訳、 p.167)と結論づけ、まさに私が注目しているのと同じ、第7編第4章の別の箇所「本当の、、、本当の道は広く、まっすぐで、明るく、水晶のようにきらめき、 その果てに太陽があるのだ、、、」 "А дорога... дорога-то большая, прямая, светлая, хрустальная и солнце в конце ее... "を引用して、「読者はこの言葉をもって、 せめてもの慰めにするべきである。」と結んでいる。しかし、私見では、実はその結びは、仮にゴロソフケルの意見を認めてカント的な枠組みにあっては 行き止まりとしての結論であることを認めたとしても、そこが分析の終点であるということではないのであり、寧ろ、そこから分析が始まるべきなのだ。 あえて尚、カントに即して言うならば、「純粋理性批判」ではなく、「プロとコントラ」でもなく、「判断力批判」を、「ガリラヤのカナ」における 《ほかの世界に接触》を、「突破」の契機を出発点にとるべきなのではなかろうか。(そして再び、それは実は既に一度「白痴」において探求され、 作中で明確に目配せさえされたにも関わらず、結局到達できなかった事柄を、別の仕方で取り上げることに他ならないだろう。)

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翻って、例えばマーラーの音楽に纏わる様々な見解についてはどうだろうか。第9交響曲の終楽章に関連して、 非常に些細な、一見したところ取るに足らないとも見做されかねない例を幾つか挙げてみよう。例えば アドルノは第8小節の音型が第2交響曲の第4楽章である歌曲「原光」の引用であることを指摘する "Wie über Äonen kehrt das »Im Himmel Sein« aus dem Urlicht der Zweiten Symphonie zu Beginn wieder." (Taschenbuch版全集13巻, p.307)。 しかしその音型は、「原光」自体の再現において»wird leuchten (mir)«という歌詞でも歌われているのだ。 些細なことかもしれないが、もしかしたら、その些細な差異が、この楽章の時間性についての了解に関する 異なった展望を導くことはないだろうか。

更に続けてKindertotenliederの第4曲の引用についても言及するが、その一方で何故か、ずっと先に 出現する第8交響曲第2部の引用への言及はなされない。 Molto adagio subitoの指示から7小節目のヴィオラの下降音型がそれで、これは第8交響曲の第2部の 練習番号170から171にかけて、かつてグレートヒェンと呼ばれた女が歌う部分の結びの音型と同じである。 第8交響曲のこの箇所は、まさにファウストの復活が述べられる決定的な部分であり、更にこの音型には "neue Tag"という言葉があてられていることを思い起こしていただきたい。その上そもそも練習番号165番から 始まるこのグレートヒェンの歌は、楽章をまたがって、第8交響曲第1部の第2主題"Impre sperna gratia"の 「再現」なのであって、それはマーラー自身が etwas frischer als die betreffende Stelle im 1. Teilと 記していることからも明確なのである。

勿論、(アドルノもそのようなことを述べているが)第9交響曲の引用は、全て引用であって、従って回顧なのだから、 引用されている等のものとは全く異なる意味付けがされているのだということはできるかも知れない。 だがそれならば、こちらは有名で必ず言及されるといっていい、「子供たちのいる天国」を示唆するとされる、 Kindertotenlieder第4曲の末尾"Der Tag ist schön auf jenen Höh'n"の引用が 実は既に第8交響曲にも現れていること(第1部練習番号22 "firmans"のところ、 第2部練習番号79から4小節目のzurückhaltend "Die ew'ge Liebe"のところ)はどうなのか。つまるところ、 子供の死の歌の子供はまた、第8交響曲の第2部でグレートヒェンとともにファウストの復活を歌う子供達 (Selige Knaben)でもある筈なのだが、或る種のレティサンスによって、彼らだけが、ひいては第8交響曲だけが 恰も別の文脈に置かれようとしているように見える。

第8交響曲のここの部分では、この世では起きようのないこと、寧ろ起きては「ならない」と言うべきかも知れないこと、 「カラマーゾフの兄弟」第5編「プロとコントラ」の「4.反逆」(БУНТ)の章において、イワンがまさに先に引用した 言葉によって拒絶した事態が起きているのかも知れない。アリョーシャですら、イワンの「銃殺か」(расстрелять?)という問いに対して 肯定の返事をしているのだし、イワンとともに、ゲーテのファウストのこの結末を噴飯物として受け付けない人の 気持ちもわからなくもない。名作を地に引き摺り下ろすという意図から出たのではなしに、晩年のゲーテの若き日の 過失に対する悔恨をそこに見出す人もいるだろう。

だが、ゲーテのテキストそのものではなく、マーラーの音楽に端的に接したとき、第8交響曲第2部の音調が、 一見したところ対極にあるかに見えて、そのコントラストが人を戸惑わせさえする次の作品、一般には第8交響曲との間には 越えがたい深淵が拡がっていて、両者の間には端的に連続性はないかのような扱いを受けている「大地の歌」の それに通じるものがあることに気づかせる演奏解釈というのがあることを、私はある種の極限的な状況において 身をもって経験したことがあり、別のところに記録を残している。 また、3.11のために1年遅れで実現した、井上喜惟指揮するジャパン・グスタフ・マーラー・オーケストラの第9交響曲の 演奏は、一見したところ間に「大地の歌」を挟んで対極的な位置にあると見做されがちな第8交響曲と 第9交響曲が共通した世界認識に基づくものであることを示していることを印象付ける、圧倒的な説得力を 備えたものであり、その記録もまた、別のところで文章として残している。

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一方、ここでは詳述はできないし、その意味をきちんと 測ることも叶わないが、「カラマーゾフの兄弟」の作品については、ドストエフスキーの側から直接「ファウスト」第2部の 終幕に対する暗示的な参照が行われている点を、せめて指摘だけはしておきたい。ゾシマに対してPater Seraphicusと 呼びかけがなされる場面があるのだ。しかもそれは、第2部第5編「プロとコントラ」5章「大審問官」(ВЕЛИКИЙ ИНКВИЗИТОР) において、自作の詩「大審問官」の内容をアリョーシャに語り終えたイワンが、臨終の床にある ゾシマの許に急いで戻るように促す部分で、イワンの口から発せられるのである。「さ、それじゃ、お前の天使のような神父 (パーテル・セラフィクス:原訳文ではルビ)のところへ行ってやれ、だって危篤なんだろう。」(Ну иди теперь к твоему Pater Seraphicus, ведь он умирает; )そしてイワンと別れたアリョーシャはゾシマの僧庵に戻る途で、イワンの言葉を 思い浮かべてこのように自問するのだ。『《天使のような神父(パーテル・セラフィクス)》--こんな名前を兄さんはどこから 持ち出してきたのだろう、いったどこから?』アリョーシャはちらと考えた。『イワン、気の毒なイワン、今度はいつ会えるのだろう… あ、僧庵だ、助かった!そう、そうだ、長老のことか。長老さまがセラフィクス神父なのだ。あの方が僕を救ってくださる… 悪魔から永遠に!』("Pater Seraphicus" -- это имя он откуда-то взял -- откуда? промелькнуло у Алеши. Иван, бедный Иван, и когда же я теперь тебя увижу... Вот и скит, господи! Да, да, это он, это Pater Seraphicus, он спасет меня... от него и навеки!" )

イワンが何故、ゾシマのことをそう呼んだのかを 読者は突き止めなくてはならない。イヴァンはその前のアリョーシャとの対話において、あの「すべては許される」 ("всё позволено")という言葉を巡って、ゾシマの僧庵での「場違いな会合」を思い浮かべていた。ゾシマが イワンの苦悩の本質をあの場で完璧に言い当てたことにイワンは理解し、ゾシマの祝福を受け、その手に接吻した こと(第1部第2編「場違いな会合」5章「アーメン、アーメン」(БУДИ, БУДИ!)を思い出そう。そしてPater Seraphicusが、 この世を早く去った童子たち(Selige Knaben)の救い手、導き手であることをも。ここでは大急ぎで、2つの事実を述べて 後日の検討のための備えとしたい。

まずはドストエフスキーの側から。Pater Seraphicusがアッシジのフランチェスコを指していて、ゾシマがアッシジのフランチェスコに 擬されている可能性があるにせよ、ドストエフスキーは「カラマーゾフの兄弟」の創作にあたって、「ファウスト」第2部を参照した のは間違いのないことのようだ。というのも「カラマーゾフの兄弟」の創作ノートに、「ファウスト」第2部への言及があるからだ。

次いでマーラーの側から。マーラーがドストエフスキーとともにゲーテの愛読者であったことは良く知られているし、 「ファウスト」第2部もまた、「カラマーゾフの兄弟」を経由せずして、直接読んでいたことは間違いないだろう。 では、マーラーは「カラマーゾフの兄弟」における「ファウスト」への参照に気づいただろうか?証拠はないものの、 逆に「ファウスト」に親しんでいればこそ、気づかなかったということは考えにくいように思われる。ところで、ここに 些か奇妙な事実がある。一般に第8交響曲の第2部は、「ファウスト」第2部の終幕の場をそのまま音楽化したものと 考えられているが、厳密にはそうではなく、ここにも歌詞の省略がある。そして、その省略された部分こそ、まさに Pater Seraphicusが語る部分なのである。だから第8交響曲のパートには、Pater Seraphicusという役は登場 しないのである。もっとも、彼に導かれるはずの、この世を早く去った童子たち(Selige Knaben)の方は、全く 登場しないわけではなく、原文では天使達がファウストの霊を運んで空中の高いところをただよいつつ、 "Wer immer strebend sich bemüht, / Den können wir erlösen; "という重要な詩句を含む一節を歌う 部分の前にある"Hände verschlinget euch"以降の歌を、マーラーは順序を入換えて歌わせているのである。 グレートヒェンとともにファウストの復活を歌うのが、この子供達、洗礼を受けることが出来ずに命を奪われ、 カトリックの教義によれば、地獄の第一獄である辺土(リンボ)に行く運命であった筈の子供達であるのは、 上でも言及した通りである。従って、ここでは、マーラーの側のこのレティサンス、省略が何を意味しているのかが 問われるべきところなのだ。そしてそれは、創作プロセスにおける事象という事実性の水準と、作品そのものの 解釈の水準の両方で問うことができるだろう。だが、ここでは恣意的な臆測を逞しくすることは慎み、 上述の事実の指摘に留め、後日の検討を期することにしたい。

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そういうわけで、「カラマーゾフの兄弟」は、単にマーラーの愛読書であったという伝記的事実のみからは、形式的には マーラーの作品の外部に存在するものと見做さざるをえないが、恐らくはある空間においてマーラーの音楽の内部と 繋がっているような、特異な参照点であり、それゆえ一方の理解は他方に通じているように私には思われる。 それゆえ、これまで30年以上そうして来た様に、今後も引き続き、(ヴェーベルンとは異なって、)マーラー自身の勧めに従い、 ドストエフスキーと、なかんずく「カラマーゾフの兄弟」と、マーラーの音楽の両方ともに向かい合って行こうと思っている。 それによってシュペヒトに従い、初期の交響曲を見直す際の視座が得られるのかもしれないが、それだけではなく、 後期の作品もまた、どこかで通底しているのは確かなことであり、マーラーの生涯を貫く核心部分に関する視座を 得ることさえ可能であると私は考えている。そしてまた例えば、マーラーが第9交響曲に関して述べた、 一見すると謎めいた言葉、それが第4交響曲に通じるという発言の背後にある了解に近づくこともまた、 そうすることにより可能になり、ひいては第4交響曲に対して、従来のイロニーに基づく理解とは異なった 接し方をすることが可能になるような気がしてならないのである。(2013.7.7)