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GMW(Gustav Mahler Werke, グスタフ・マーラー作品番号:国際グスタフ・マーラー協会による)を公開しました。(2025.4.20)

2010年7月11日日曜日

調査レポート(2)「ドロミテのマーラーの足跡を辿る―林邦之さんに―」

少し前のことだが、マーラーの生涯の記録媒体として重要な写真を巡る混乱について、「ある写真についての備忘」と題した備忘を記したことがある。 そこで主題的に扱った写真ではないが、マーラーが「晩年」(それはどちらかといえば後知恵で、その生涯の終りから逆算したものだが、にも関わらず まるきり内実がないともいえない時代区分であるが)の夏の休暇を過し、そこで「大地の歌」「第9交響曲」「第10交響曲」が作曲されたトープラッハの トレンカーホーフを巡っても混乱があることに気付いて、以下のように記したのであった。

(...)ブラウコプフの「マーラー 未来の同時代者」の邦訳(酒田健一訳, 白水社, 1974)の巻頭では、 どうみてもトーブラッハの夏の別荘として使われた農家(トレンカー家の所有)が写っている写真に「アッター湖畔の別荘」というキャプションがついている。 同一の写真は例えばブラウコプフ夫妻が編纂したドイツ語版の資料集"Gustav Mahler, Leben und Werk in zeugnissen der Zeit" (Hatje, 1993)の27番で確認できるが、 そこでのキャプションは勿論トーブラッハの休暇の住まいとなっている。 なお同じ写真・同じキャプションの誤りは音楽之友社の作曲家別名曲解説ライブラリのマーラーの巻(1992)のp.50でも繰り返されている。(...)

もっともこの件に関しては、少なくとも白水社版のブラウコプフの「マーラー 未来の同時代者」の翻訳については、以下の事情を勘案しなければそれはそれで 不当なことになろう。即ち、原文であるKurt Blaukopf, "Gustav Mahler oder Der Zeitgenosse der Zukunft" (Fritz Molden, 1969)の図版のキャプション自体が 誤っているのである。私が所蔵している版では、1ページの上下に2枚の写真が割り付けられ、"Das Sommerdomizil am Attersee (oben), das Komponisthäuschen am Seeufer (unten)"として、上に問題のトレンカーホーフの写真が、下には正しくアッター湖畔の作曲小屋の写真が掲げられているのである。してみればブラウコプフ自身が 後になって"Gustav Mahler, Leben und Werk in zeugnissen der Zeit" (Hatje, 1993)を編む折に誤りを修正したことになる。ちなみに "Gustav Mahler oder Der Zeitgenosse der Zukunft"の図版にはもう一つ、現時点では考えられないキャプションの誤りがあって、これも青土社の「音楽の手帖 マーラー」や 新潮文庫の船山隆「マーラー」のp.165の下側など色々なところで紹介されている1909年に撮影された写真、グスタフとアルマがトーブラッハからアルトシュルダーバッハへ向かう なだらかな丘陵を並んで散歩している写真が"Gustav Mahler und Anna von Mildenburg"となっていたりする。 こちらも"Gustav Mahler, Leben und Werk in zeugnissen der Zeit" (Hatje, 1993)の図版22では"Alma und Gustav Mahler auf dem Weg von Toblach nach Altschluderbach, Photographie 1909"と訂正されていて、要するにこの種の混乱は別に日本だけのことではないということが窺えたりもするのである。

もともとが間違い探しを目的にしているのではなく、気になることを調べると次々とこうしたことが起きる、というのがマーラーを取り巻く現実なのはどうやら否定し難く、 その度に非常に消耗させられるのだが、この件はこれで一旦終りと思っていたら、以前、「ゼッキンゲンのラッパ手」を巡って問い合わせをいただいた林邦之さんから、 再び、今度はマーラーが晩年を過した場所が同定できない旨、お問い合わせを頂いた。今年はマーラーのアニヴァーサリーで、日本の音楽雑誌も特集を組んだり しているらしい(私は音楽雑誌というのを全く読まないので知らなかった)のだが、それを拝見してのこととのこと。手元にあるフランクリンの伝記のある部分を 元に、Webに存在する幾つかの情報源とともに取り急ぎご回答して、折角このようなお問い合わせをいただいたのだから、自分のWebページにもそうした 情報を付け加えようかと追加で調べ始めると、またもや雲行きが怪しくなってきた。といっても勿論、梅雨明けの豪雨に見舞われている日本の天気のことでも、 やはり天候が変わりやすく不順なことの多いらしいドロミテのことでもない。私には現地を訪れたりするだけの時間の余裕が許されていないから、 文献やら、Webの情報などを突き合せているだけなのだが、これが結構相互に矛盾していたりするのだ。

この件についてのもっとも簡明な解決方法は、自分で彼の地を訪れ、確かめることに違いない。だけれども今の私にはそれは許されていないので、 ここではあくまでも矛盾の指摘をするに留め、真実は、その目で確かめることが許された他の方に委ねたい。だがいずれにしても、 この項に記載する内容は上記のような経緯に基づくものである故、この文章自体が今度もまたご質問いただかなければありえなかった。 前回同様、ご質問がなければ、このテーマについてまとめることはなかっただろうし、私としてはまたもや非常に貴重な勉強をさせていただいたと感じている。 この場を借りて、林さんに、再び深い感謝の意を表したい。

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まず、件のフランクリンの著作である。この伝記はコンパクトではあるけれど新しいだけあって、それまでの研究の蓄積を踏まえたかなり突っ込んだ記述が なされており、トープラッハについてもまた然りである。一方で邦訳は首を捻るような箇所が多いので、一応念のため原書(私の手元にあるのはペーパーバック版)と 邦訳の両方の参照箇所を記すことにすれば、まず原書pp.164--165、邦訳pp.221--222で1907年にヴェルター湖畔のマイアーニヒを去ってからの残りの 夏を過した場所に触れた後、原書pp.168--171、邦訳ではpp.227--230にかけての部分で、ドロミテの一部の風景の写真(原書図版17、キャプションは "The Dolomities, a view from the path around the Dürrensee, just to the north of Schluderbach"、例によって訳ははなはだ自由な 読み替えを行っている)とともに、その続きを為すかのようにドロミテ(邦訳ではドロミティと表記)、だが実際にはここは(上記の写真とキャプションに対応する ように)シュルダーバッハを中心としたランドロ渓谷沿いの記述が続く。

("The railway line that one led from Toblach via Schluderbach to Misurina has gone, but the near by road, widened and much resurfaced, still snakes through the long and sometimes rather gloomy Landro valley, whose mountains walls periodically break to afford breathtaking views of viciously razoredged peaks. As one approaches Schluderbach, the peaks of the Drei Zinnen from the centre-piece of a grand vista to the east. A little further on one reaches the Dürrensee: the modest but picturesque lake, through whose forest of dwarf pines (it still flourishes) Mahler had thrashed in June 1905 to work off the migrane that train jouneys so often brought on. The path around the lake, where cowbells may still be heard, gives striking glimpses of jutting buttresses and towers of the cliffs that climb steeply above the road on the opposite side.") 

そこでは、ドロミテの一帯がマーラーにとって、この晩年に初めて訪れた場所などではなく、以前よりなじみの場所であることがきちんと記されているし、 (後述するが)特に1905年のドロミテ訪問と縁の深い第7交響曲で聴かれるカウ・ベルの音色まで仄めかす念の入れようである。

フランクリンが言及しているのは1905年のことだが、この時の経緯はアルマの「回想と手紙」に収めされたアルマ宛の1905年夏の一連の手紙、 シュルダーバッハ、エードラッハーホーフ、ホーホシュネーベルク発の手紙から窺える(白水社版の邦訳pp.313--316)。だが、南チロルまで範囲を広げれば その時が始めてというわけではなく、1897年の夏のチロルでの休暇の経緯はバウアー=レヒナーの回想が残っている(邦訳pp.196--202)し、 更に翌1898年にもやはりファールンで夏の休暇を過している(同じく邦訳pp.257--260)。1897年はマーラーがウィーンの歌劇場に就任した年だが、 この夏の休暇はその直前にあたり、バウアー=レヒナーの回想にも出てくるヤーンとハンスクリックの訪問のことは、書簡集に含まれるローザ・パピーア宛 の7月26日ファールンで書かれた手紙にも窺える(1996年版に基づく邦訳では252番。pp.241--243)。また書簡集では、1901年8月20日に ニーナ・シュピーグラー宛に書かれた手紙(同295番、pp.276--277)の中で、ドロミテを代表する高峰であるドライ・ツィンネンの山小屋が登場する。 (ちなみに邦訳では「三軒の鋸壁の山小屋」という奇妙な訳になっている。これはマーラーの"die 3 Zinnnenhütte"という書き方のせいもあるだろうが、 ちょっと調べればわかることには違いなかろう。)

話を1905年の夏に戻せば、この夏、前年に第6交響曲の余勢をかうように作曲された2つのアンダンテ楽章、第7交響曲の第2,4楽章の 「夜曲」を手に、第7交響曲の残りの部分の作曲をしようとしたものの、さっぱり筆が進まず、已む無くドロミテの山に籠ったようだ。 このあたりの経緯は、実はもっと後になって1910年6月にアルマに宛てて書かれた手紙の中で回想されているのを、アルマの「回想と手紙」で 読むことができる(白水社版邦訳pp.406--407)。回想にあるように結局、ドロミテの山中では収穫はなかったものの、その帰途のボートの一漕で 第7交響曲の第1楽章の冒頭がひらめき、その後4週間で第7交響曲を書くことができたのは有名な逸話に属するだろう。

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と、ここまでは別段問題はないのだが、その先で、「大地の歌」が書き始められたのが1907年なのか1908年なのかというこれまた 有名なトピックに関連して、アルフレート・ロラーの回想に触れるところで最初の齟齬が起きるのである。ロラーの回想(残念ながら私は 未だに原文にあたれていない)の引用として「大地の歌」の作曲は、「ランドロ渓谷の北端の町トープラッハから東に2、3キロ行ったところにある アルト・シュルダーバッハの古い農家」で1908年になって初めて行われたという記述が転記されているが、その少し後でフランクリン自身が アルト・シュルダーバッハを記述する際(原書pp.177-78、邦訳pp.238--39)には、「トープラッハから西に2,3キロ行った」というように、 アルト・シュルダーバッハとトープラッハの相対的な位置関係が逆転しているのである。

こんな疑問は地図が一枚あればたちどころに解決する類のものだ。地図はないかと思って探してみると、ド・ラ・グランジュの英語版伝記の 第3巻の図版57にトープラッハ近郊の鳥瞰図が収められている。尤もこの地図のみからではそもそもどちらが北か判らないのだが、 実際にはこれは南が奥になるような描き方になっており、従ってロラーの記述の「ランドロ渓谷の北端の町トープラッハ」の部分は正しくても、 アルト・シュルダーバッハとトープラッハの位置関係については「トープラッハから西に2,3キロ行った」というフランクリン自身の記述が正しいことになる。 (ちなみに、Webでも例えばHochpustertalのページ(http://www.hochpustertal.info/)から、丁度同じような鳥瞰図の画像を取得できる。 これには、山や町の名前と標高、湖の名前がドイツ語・イタリア語併記で詳細に記載され、山小屋の位置まで書き込まれている。Drei Zinnenは 勿論、DürrenseeとSchluderbachの位置関係、ランドロ渓谷からトープラッハ湖を経てトープラッハに至る、フランクリンが記述したルートが 視覚的に容易に確認できる。もっともこれは一例に過ぎず、ドロミテは今や世界遺産ということもあり、情報は幾らでもあるようだ。)

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さて、これで問題は解決かというとそうでもない。ド・ラ・グランジュは上で触れた図版57に"Toblach and its neighbourhoood, where Mahler made many excursions in the years 1897-1907"というキャプションをつけているが、これはこの図版が収められた巻が1904年から1907年までを 扱っているのに対応しているのだろう。ところで同じ見開きページに収められた関連する写真はいずれも絵葉書の写真で、58番が "Postcard view of Schluderbach and the Hohe Gaisl (1906), where Mahler stayed in 1907"、そして59番は"Postcard view of Lake Misurina (with Drei Zinnen)"、60番が”Postcard view od Landro (early 1900s), with Monte Cristallino”であり、ここはあくまで、 1907年にマイアーニヒを去ったマーラー家の足跡にフォーカスされているのであって、翌年以降、毎年訪れることになったアルト・シュルダーバッハが 話題になっているわけではないのだ。

フランクリンの記述の記述もまた、上で引用した部分は未だ1907年に留まっており、アルト・シュルダーバッハのトレンカーホーフが出て来るのは もう少し先、原書ではpp.177--178のことで、そこには例の作曲小屋の写真も掲げられている(邦訳ではpp.238--239)。アルマの「回想と手紙」の 「悲しみと不安 1907年」の章の末尾の部分(白水社版邦訳ではp.144)でシュルダーバッハへの移動に触れていて、その最後を「彼はシュルダーバッハ に滞在中、はてしないさびしい散歩のあいだに想をねり、はやくもこのオーケストラ付き歌曲のスケッチを書きあげていた。そしてそれは1年後に 「大地の歌」として完成するのだ!」と結んでいるのだが、この部分こそフランクリンが問題視した箇所なのであり、ロラーの証言もまた、この部分を 巡って引用されていたのである。

だがここで私が問題にしたいのは、「大地の歌」のスケッチが何時書かれたか、1907年か1908年かということそのものではない。それよりは寧ろ、 そのことに恐らくは関連して生じがちな混乱、1907年に滞在したシュルダーバッハと1908年以降の滞在場所であったアルト・シュルダーバッハの混同の方を 問題にしたいのである。これはわざわざド・ラ・グランジュが英語版マーラー伝第3巻のp.696で"Schluderbach (not to be confused with Alt-Schluderbach, in the neighbourhood of Toblach, where Mahler and Alma were to spend the next three summers)"と断り、更に 既に触れたとおり図版の58番にもHohe Gaislを背景とした写真(従って、西に向かって写真を取っていることになる)まで掲げている程なのだが、 例えば、Classical Composer DatabaseというWebサイトのトレンカーホーフの所在地の紹介(http://www.classical-composers.org/place/562)に おける地図の情報は、明らかに(アルト・シュルダーバッハではなく)シュルダーバッハの方を指してしまっていたりするのである。同じページにある写真の方は、 どうやら正しくトレンカーホーフ(今はペンションになっているらしい)と、マーラーの作曲小屋への途中経路を示しているようなので、却って混乱を招きかねない。

ド・ラ・グランジュは1907年のシュルダーバッハ滞在の折に拠点とした場所を、執筆時点でなお残っているシュルダーバッハにある2つのホテルのうちの いずれかであっただろうと推測しているが、それにつけた注(269番)で、マーラーの1907年のシュルダーバッハ滞在を裏付ける証跡(未知の人宛の 1907年8月シュルダーバッハという日付・場所を持つ第6交響曲の冒頭主題を伴うマーラー自筆の献辞が書き込まれたアルバム張)に言及すると ともに、翌年の滞在場所を提供したトレンカー家の一員であるマリアナ・トレンカーの回想でも1907年の(旧:Alt-ではなく)Neu-Schluderbachと 彼女が呼んでいるシュルダーバッハへのマーラーの滞在についての言及があることを記している(この点についてはフランス語版第3巻のp.87の注229にも記載がある)。 してみれば土地に住んでいる人でもわざわざ新・旧をつけて区別する必要がある地名なわけで、混同が起きるのは止むを得ない側面もあるのだろう。 現地に行って「シュルダーバッハへはどう行けばいいんでしょうか?」と現地の人に尋ねたら、「新しいのと古いののどちらのことですか?」と問い返されるような状況を考えれば良い。 こうした事は別段特別なことではなく、時代とともに少しずつ変わっていくプロセスはどの場所でも同じであって、日本でだってごく身近に実際に ちょくちょく起きているに違いない事態ではなかろうか。なお、このマリアナ・トレンカーの回想は、トーブラッハ(周知の如く、現在はイタリアに属していて、 トレンティーノ=アルト・アディジェ州ボルツァーノ自治県のコムーネであるドービアッコと呼ばれる。ただし現在でも住民の言語はほとんどドイツ語のようだ)で 開かれているマーラーの名を関した音楽祭のWebページで読むことができるようだ(http://www.gustav-mahler.it/index.html)。

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というわけでようやく1908年の夏、アルト・シュルダーバッハのトレンカーホーフに辿り着くことができたわけだが、トレンカーホーフの写真はモノクロ、 カラー取り混ぜ、時代も様々な写真が幾つもあるから、ここで紹介するまでもないだろう。なお、ド・ラ・グランジュの英語版マーラー伝の第4巻の p.203の最後のパラグラフ以降には、トープラッハを含む南チロル地方の当時の状況の紹介が為されており、鉄道網の発達やら、リゾート地としての 開発の様子を窺い知ることができる(ちなみにこの部分は英語版で大幅に増補された部分のようで、フランス語版には見当たらない)。 おさらいとばかりに、第7交響曲作曲の折のことにも触れているが、注では1905年の書簡を参照しているにも 関わらず、本文では何故か1904年のこととなっているなど、大作ならではの校正の杜撰さはフランス語版と同様相変わらずで、資料として利用するに あたっては注意が必要だろう。勿論、いわゆる実証性という点ではド・ラ・グランジュは徹底していて、(こうして休日に自室で資料を照合している だけの私などとは異なって)自分の足で現地を取材しているのは、フランス語版マーラー伝第3巻の図版21~24の"La Maison de Toblach"と題された4葉の 写真のうち23番の作曲小屋の写真には著者自身が写っていることからも窺える。

トレンカーホーフについても非常に詳細な記述が為されており、トレンカーホーフでの生活の様子も同様である。 かと思えば、p.212の注395では、典拠の1つとしている回想の主であるマリアナ・トレンカーが1906年生まれで、1908年にはまだ2歳、1910年でも やっと5歳に過ぎず、従ってその記述のあるものは"obviously fictitious"であること、回想のベースは実はトレンカー家で当時メイドとして働いていた 女性のそれであることが注記されていたりと、情報量は多いが、それだけに極めて見通しが悪い状態のまま積み上げられている感じが強い。 勿論、ドービアッコのグスタフ・マーラー音楽祭のWebのページではそんなことは断っていないから、知らずに読んだ人間が思わず鵜呑みにしそうになるのを 防ぐには役に立つわけであって、だからこそここでもそうした記述のあることを煩瑣を厭わずに紹介しているのであるが。

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ついでなので、ドロミテに関するド・ラ・グランジュの伝記資料でその年代考証で注目すべき例をもう一つだけ挙げておこう。上でも触れたフランス語版 マーラー伝第3巻の図版1には、"Mahler en promenade dans les environs de Toblach pendant l'été 1907"とキャプションが付けられた 写真が収められている。改訂・増補された英語版(出版は1999年)ではこれが1907年までを扱った第3巻に移動し、図版9として掲げられるところまでは当然なのだろうが、 それだけではなくキャプションが変えられていて、"Mahler in Fischleinboden (Dolomites), 10 August 1907"となっている。FischleinbodenがToblachの周辺か どうかは見方の問題だから問わないでおくとして、注目すべきは、この写真が一般には1909年に撮られたものだとされているのに、ド・ラ・グランジュが 異議を述べている、しかも日付まで特定してそうしている点である。

例えばKaplan FoundationによるThe Mahler Album(1995)では図版108が同一の写真である。所蔵はド・ラ・グランジュが館長を務める Bibliothèque Musicale Gustav Mahler(BMGM)で、同じ時に撮られた別のショット(こちらはKaplan Foundation所蔵)が図版107として 見開きのページに並べられていて場所は同じFischleinbodenでも1909年撮影となっている。ちなみに図版107もあちこちで見かけることができる有名な写真で、 例えばThe Cambridge Companion to Mahler(2007)の表紙を飾っているし、日本では音楽之友社の作曲家 人と作品シリーズに含まれる村井の 「マーラー」(2004)のp.201に収められ、しかもキャプションはThe Mahler Albumの1909年説を採っているのが確認できる。村井の著作はド・ラ・グランジュの 英語版第3巻より5年も後の出版であり、村井は後書きでできるだけ新しい資料にあたった旨を強調しているし、特にわざわざド・ラ・グランジュの英語版伝記を 生涯編の「タネ本」として明示的に言及している程なのだが、この写真が何故か解説編の第3交響曲のところ(だからどちらの説を採るにしても、年代的には 奇妙な錯誤を示していることになる)に挿入されている点はおくとしても、村井がド・ラ・グランジュの上記の見解を知っていて、なお別の根拠に基づきそれを却下したものか、 それとも単純に従来の見解に従っただけなのかは杳として知れない。村井は後書きにおいてド・ラ・グランジュが「比較的ナイーブに「人と作品」を 結びつけがちなのに対して、私は両者は基本的に別物だという立場だから、個々のデータの意味づけや解釈は随所で異なっている」(p.311)と書いているが、 勿論、ここで私が問題にしているのは意味づけや解釈以前の問題なのは言うまでもない。

だがここでは、ド・ラ・グランジュの主張を紹介するに留めよう。英語版第3巻本文で問題の写真に言及しているのはpp.704--705であり、そこでは 宮廷歌劇場での上司であったモンテヌオーヴォ侯から、ヴァインガルトナーがベルリンを離任したという手紙(これはアルマの「回想と手紙」で 読むことができる8月10日ゼメリング発の手紙だろう)を受け取ったときにはシュルダーバッハを離れ、フィッシュラインボーデン(フィッシュラインタールとも)に 移動していたという事実がまず述べられる。p.705の注11にある通り、更には上で紹介した地図でも容易に確認できる通り、フィッシュラインタールは Moosという村のすぐそば、Sextenと呼ばれる地域にあり、トープラッハからは15km程離れている。彼らの宿泊したホテルはHotel Dolomitenhofという 名前で、そのホテルのスタンプが押されたDrei Zinnenの絵葉書が、Sextenから更にToblachに向かって降りたところにあるInnichenという町から マーラーの妹ユスティーネ宛てに8月13日付けの消印で出されているようだ。以下、ド・ラ・グランジュ自身に語らせよう。

(...) Two photographs of Mahler were taken there that summer, not far from the hotel. They show him out walking in the mountains. He looks rather careworn, and is waring a waistcost and jacket, knee-breeches and walking boots. One hand is on his hip, the other, which is against his thigh, he holds a walking stick on which he is leaning. The photograph bears the signature of Alfred Liebig, whose identity remains unknown, and dated 10 August 1907. (...)

更に上記の部分につけられた注13で、ド・ラ・グランジュは1909年説がロラーによるものであることを明記し、また、先に触れたKaplan Foundationの The Mahler Albumに図版107,108として掲載されていることにも言及しているのである。

なお、ここで問題にしている写真は、上で触れた以外でも、例えば、マーラーに関するフランス語で書かれた書籍としては私の知る限り今のところ最も新しい Isabelle Werckの"Gustav Mahler"(2010)のp.148にも採られており、これもまたKaplan FoundationのMahler Albumに従い、1909年説をとっている。 (この本の場合、村井のそれとは異なり、Bibliographieが付いていて、そこにはKaplan FoundationのMahler Albumはあるが、de La Grangeの フランス語版マーラー伝はないから、これはこれで辻褄は合っていることになるが)。だが、そもそもBlaukopf夫妻編集の "Mahler : A Documentary Study"(Oxford University Press, 1976)において既に上で紹介したde La Grangeが言及している 事情には触れられていること、ただしここでは(実証を重んじるなら自然な選択だと思うが)1907年説が採られ、異説としてロラーの主張が根拠である1909年説を 併記している点を忘れてはなるまい。一体どういう事情があってのことかは杳として知れないが、30年以上が経過してなお、どちらかといえば回想ならではの 記憶違いから完全に自由というわけではないロラーの回想を根拠とした説が寧ろ優勢を占めているかにさえ見えるのは、私のような立場の人間には 不可解という他ない。

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林さんからのお問い合わせに触発された、ドロミテのマーラーの足跡を辿るヴァーチャルな旅は、思ったより難渋し、かなりの視界不良の中にあったように感じられる。 私のような単なる市井の愛好家には危険な暴挙であるとして、音楽学者や音楽評論家といったプロの方には咎められるようなものであったかも知れない。 だが、ある意味では林さんの戸惑いは至極もっともなものであり、私の調査が、決定的にではなくても、わずかばかりでもマーラーの足跡を明らかにすることに 役立てばこれに優る幸いはない。

最後に今回の調査で私が感じたことを少しだけ書き留めておきたい。まず、第3交響曲がアッター湖畔のシュタインバッハと、中期交響曲がヴェルター湖畔の マイアーニヒと結び付けられるように、「大地の歌」以降の後期の交響曲はトープラッハの地名、そしてドロミテの風景と結び付けて論じられることが多く、 勿論それは巨視的に見れば間違いではないのだが、それでもなお、マーラーがドロミテを訪れたのが1897年まで遡るということ、実際に曲が書かれたのが ヴェルター湖畔に戻ってから、否、ひらめいたのがヴェルター湖畔の対岸のクルンペンドルフから漕ぎ出したボートの一漕ぎであったとしてもなお、 中期交響曲のカウベルの音色がドロミテに響くそれでもあった可能性もあるのだということは確認されて良いことのように思われる。 そして次にこのことに関連して私が気になるのは、アドルノのマーラー論のDer lange Blickの章に含まれる「大地の歌」に関連した次の一節(Taschenbuch版全集13巻p.291) のことなのである。以下の"weißen Fleck des geistigen Atlas"という言い回しは、ここで確認したようなドロミテとマーラーとの密接で長期に渉る関わりの 存在を知らないか、あるいは上記のような図式的な捉え方で済ませてしまう向きには、まるでドロミテが、それまでのマーラーにとって未知の土地であったかのように取られかねないことを 私は懼れるのである。東洋趣味すらモードとしてならば同時代には溢れかえっていたわけだし、マーラー自身、「大地の歌」作曲の時期にハンマーシュラークという知己を介して 中国音楽の録音されたものを聞いたという事実はあるものの、ショーペンハウアーやフェヒナーなどを通して、あるいはリュッケルトを通して、東洋趣味に 関してはより早い時期から全く没交渉であったとは言えないだろう。してみれば、かつてのドイツ民謡の位置を中国趣味が占めているという評言は、主観的にはどうであれ、マーラーの 音楽の持つ反照的で屈折した性格により、両者への距離感が、そして結局のところ両者の機能が本質的には変わらないという事情に照らせば結局のところ妥当であるものの、 それでもなお、もう少し微妙なニュアンスが存在するのではという疑念は拭い難い。

(...) Das Lied von der Erde ist auf dem weißen Fleck des geistigen Atlas angesiedelt, wo ein China aus Porzellan und die künstlich roten Felsen der Dolomiten unter mineralischem Himmel aneinander grenzen. (...)

ここはいわゆる仮晶(Pseudomorphose)について語られているところで、mineralischem Himmelという言い回しなどにはそうした用語法の反響がこだましているのであろうが、 それにしてもドロミテについての"künstlich roten Felsen"とは一体何だろうか。恐らくはアドルノは、ドロマイト(苦灰石)という鉱物そのものの色彩について述べたのではない。 (ドロミテの名前の由来はフランスの地質学者デオダ・デ・ドロミウDeodat De Dolomieu(1750-1801)の名前である。1791年にこの地方で多く見られる岩石が、 石灰岩がマグネシウムを含んで変成したものであることを発見し、彼の名を冠して鉱物の名前をドロミテ(ドロマイト)と呼び、この地域のことをドロミテ・アルプスと 呼ぶようになったようだ。)

そうではなくてアドルノは恐らく、彼の地で"Enrosadira"と呼ばれる現象、日の出や夕暮れの陽の光に照らされて、赤色、薔薇色、菫色などの色彩に変化する現象を 思い浮かべて、"künstlich roten Felsen"と書いたのであろう。もともとのドロマイトの色とは全く懸け離れた色彩に、黄昏時の光によって変容するイメージは、 如何にも仮晶(Pseudomorphose)に似つかわしい。künstlichはだから、自然か人為かの対立を含意しているのではないだろう。寧ろ魔法のように非現実的な色彩へと 風景が変容する一瞬があるのだ。無い物ねだりなのかも知れないが、2種類の日本語訳(竹内・橋本訳「白雲石山脈(ドロミーテン)の人工風に赤い岩石」、 龍村訳「ドロミテンの作り物のような赤い岩」)も、フランクリンが参照している英訳("artificially red cliff")も、いずれもそうしたニュアンスを捉えているとは言い難い。 龍村訳はドロミテンにわざわざ訳注をつけているのだから、せめてなぜドロマイトが赤いのかについても一言言及して欲しかったように思えてならない。それとも、 訳している先生方には自明のことで、そんなことは断るまでもないことなのだろうか。ドロマイトがどんな鉱物かを知っていて、カラー写真で「普段の」ドロミテの風景を 見たことがあった私には、残念ながら何故、岩が「赤い」のかわからず当惑したものである。「魔法にかかったように茜色に染まる岩」だと思い至るのに、随分と遠回りを したものである。なお、あるいはおやと感づかれた方がいらっしゃるかも知れないが、"Enrosadira"という単語は語源的にはイタリア語由来の単語ではない。 ドロミテで今なお使われているイタリア語とは異なるロマンス語系の言語であるラディン語の単語とのこと。

否、今でもこのアドルノの言い回しは、私の中に、わからなさを伴って沈殿し続けているといって良い。同じ薄明の中であっても、夕陽は山の向こうに去って、 寧ろ菫色から藍色へと変わっていく瞬間、あるいは永遠の碧空、銀色の月、否、終楽章を離れても、翡翠と磁器の緑と白、柳の翠、湖の碧、再び翡翠の翠、 黄金色に枯れた蓮の葉、黄金の杯といった色彩は、アドルノが仮晶の風景として提示したそれとは余りに遠い。大地=地球説と並んで、アドルノの「大地の歌」に ついてのコメントは、総体としては違和感がないのに、具体的なイメージの水準に近づけば近づくほど、奇妙な懸隔があることに戸惑ってしまうのだ。 (余談になるが、「魔法にかかったように茜色に染まる岩」のイメージにぴったりくるのは、私にとっては寧ろ第6交響曲のアンダンテである。あるいは「晩年」のマーラーの 音楽に限定すれば、ジュリーニの指揮した第9交響曲の第4楽章アダージョが"Enrosadira"の裡にあるように感じられる。ジュリーニのマーラー演奏については別の ところで印象を記したことがあるが、大地の歌や第9交響曲第1楽章におけるその風景の鮮明な輪郭や直接的・現在的な立ち現れ方は異様で、私はついつい、 ジュリーニにとって南チロルの風景が幼少期の記憶と結びついた「原風景」の如きものであったに違いないということを思い浮かべずには居られない。 第9交響曲のフィナーレもまた、他の演奏では記憶の裡に朧に霞んでいたり、あるいは闇の中に没していたりしているのが、ジュリーニの演奏に限っては 「魔法にかかったように茜色に染まった」、だが紛れもなく現実の風景が眼前に広がる思いがしてならないのだ。)

「お前は結局アドルノがわかっていないのだ」「ド・ラ・グランジュの素朴な伝記主義同様、それはあまりに詩句の表面に囚われすぎた、素朴な捉え方で そんなことではマーラーを理解することなどできない」ときっと言われるのが落ちなのだろう。だがそれも仕方あるまい。理論は取替えが利くが、音楽を虚心坦懐に 受け止めた印象を裏切ることはできない。無理解との誹謗も甘受する他ない。何しろ私はドロミテの地に立ったことがないし、今の絶望的な多忙の中で、 ドロミテを訪れる機会など望むべくもない。そうした私に一体何がわかるというのだろう。だから私はここで沈黙することにしよう。寧ろ私は、未整理だろうが何だろうが、 あれだけの莫大な情報を蒐集したド・ラ・グランジュの巨大な情熱に敬意を表して、この拙い調査報告の結びとしたいと思う。(2010.7.11,14,24)

2010年7月10日土曜日

ヴァルターの「マーラー」のマーラーの頭痛についてのコメント

ヴァルターの「マーラー」のマーラーの頭痛についてのコメント(原書1981年Noetzel Taschenbuch版p.27--28, 邦訳pp.36--37)
Und wie schlecht hätte es dabei gehen können! Mahler litt ab und zu an einer Migräne, deren Heftigkeit ganz der Vehemenz seiner Natur entsprach und die alle seine Kräfte paralysierte; heirbei gab es für ihn nichts anderes als ein ohnmachtsähnliches Daliegen. Im Jahr 1900, kurz von einem Konzert mit den Wiener Philharmonikern in Pariser Trocadero, lag er wirklich so lange in solcher Ohnmacht, daß das Konzert um eine halbe Stunde später beginnen mußte und von ihm mir mit Mühe zu Ende geführt werden konnte. Hier in Berlin nun hatte er im Grunde sein künftiges Schicksal als Komponist unter schweren Opfern auf eine Karte gezetzt, und da lag er mit einer der schwersten Migränen seines Lebens am Nachmittag vor dem Konzert, unfähig, sich zu rühren oder etwas zu sich zu nehmen. Noch sehe ich ihn darnach vor mir auf der viel zu hoch aufgebauten unsicheren Dirigentenplattform, totenbleich, mit übermenschlichem Willensaufwand sein Leiden, Mitwirkende und Hörer bezwingend. (...)

 だが、なんと物事は不幸に展開するのであろう。マーラーはおりおり激しい頭痛に悩まされ、その激しさは彼の情熱と正比例していた。一度頭痛が起ると全く麻痺したようになって、何もできなくなってしまうのである。ただ卒倒したように静かに横になっているよりほか手のつくしようがなかった。一九〇〇年、パリのトロカデロで行われた、ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団の演奏会の直前にも、この昏睡状態が起って、演奏を三十分延期して、やっと最後まで続けたようなことがあったが、かれがすべてを犠牲にして、作曲家としての活動に全生命を賭けたベルリンにおける演奏会前の午後に、かれの生涯中で最もひどい頭痛の発作に襲われてしまった。かれは身動きひとつできなかったが、やっとのことで、やや高過ぎる不安定な指揮台に立って、死人のように青ざめた姿で、超人的な意志力をもって苦痛をおさえながら、楽員や歌手や聴衆を引きずって行ったマーラーを、今日でもなおきのうのことのようにはっきりと眼前に描くことができる。(…)

マーラーが多忙な指揮者だったことを思えば、マーラーが激務に耐える程度の体力を維持し、体調管理に気を遣い、己の職責を全うしようとしたことは、私のような平凡な勤め人からすれば いわば自明のことであって、だからマーラーが病気に悩まされたことも、そうした前提あっての話を受け止めるのは当然なのだが、マーラーの健康を巡る議論は、時折、そうした前提を忘れてしまったかの 様相を呈することがあり、私などはそこに寧ろ、そうした議論をしている人間の生活がマーラーのそれと如何に遊離したものであるかを見るような思いすらする程である。マーラーの多忙が 自分のそれの比ではないことは承知の上で、だが、彼我の能力の差を思えば、自我がばらばらに断片化してしまったような感覚を共有している点において主観的に同じような境遇にあって、 だから私にはマーラーのそうした側面が他人事とは思えない。
だがそれだけに一層、職責を果たす上で体調が思わしくない折のマーラーの苦衷を見るにつけ、到底他人事とは思えず同情を禁じえない。私は幸い偏頭痛持ちではないので、偏頭痛が 起きたときの凄まじさを本当に知っているわけではないけれど、そのかわりマーラーに出会った子供の頃からの慢性の強い緊張性頭痛といわば30年近く付き合ってきたし、それが折悪しく、 仕事の山とぶつかったときの辛さを思い起こせば、マーラーの心境を推し量るに、さぞや惨めな、悔しい思いをしたことであろうと思う。痛みは純粋に主観的な質であって、他人が感じることはできない。 いくら同情したところで、本当のところはわかりはしないのだ。それでも同情は、全くの無ではない。上記のような文章を後世に伝えたヴァルターのような人間の存在は、マーラーにとってさぞや慰めに なったに違いない。そして何より上記の文章はマーラーの死後も、ヴァルターの死後もなお、このようにしてマーラーを擁護し続けているではないか。
主観的な苦痛などお構いなしに仕事は降ってくるし、言い訳無用、それで成果を上げられなければそれで無能の烙印を押される訳だ。 そしてこれもまたしばしば私にも起き、マーラーに起きたことのようだが、どこが限界なのかがわからず、その手前で留まるべき一線を超えた挙句、身体が精神に追随できなくなってカタストロフが 生じるのも、「自己管理能力の欠如」と見做されるのである。マーラーの周辺の人間がどう思おうと、病のために療養を余儀なくされ指揮台に立てなくなった指揮者を解任して何が悪いかと言われれば、 返す言葉はないのだし、周囲の人間よりも寧ろマーラー自身が、有能な管理職として一番それをよく自覚していたのではなかろうか。「こんなに頑張って、倒れました」と言ったところで誰も同情などしない。 自分の限界をわきまえない方が悪いのだ。「何故もっと早くに言わないんだ。早めに言えと言っただろう。」というわけだ。
そして勿論、それは仕方ないことなのだ。なぜなら成果を上げること、仕事を止めないことはやはり必要なことであって、立場が変われば、マーラーも私も、自分の部下には同じような要求を、 その人間の心理状態や体調を慮りつつ、それでもなおせざるを得ないだろうから。要するにお互い様というわけだ。だからマーラーだって、気心が知れた人には愚痴の一つも言っただろうが、 職場で面と向かっては文句は言わなかっただろう。本当に無能で出来ないのも、身体が悲鳴を挙げてダウンするのも、成果が上がらないという結果だけ見れば同じなのだ、 ということをマーラーだって知悉していただろう。しかもマーラーは稼がなくても困らない身分の出自ではなかったから、「さっさと降りる」ことなど怖くてできなかっただろう。 そうした行動の様式は、そんなに簡単には変わらない。かくして「いつだめになるか」と自分でもはらはらしつつ、へとへとになって「もうだめだ」と思いながらも、だが「行進し続けなくてはならない」。 「起床合図」の兵卒のように。
そしてまた「世の成り行き」の裡で、その規範に従って生きる人、有能に事を成し遂げる人たちの価値は、それが己のそれとは決して交わらず、収斂することがなかったとしても、 蔑んだり、否定したりすべきではない。己の価値の体系の優位をア・プリオリに主張することなどどうして出来ようか。もし論争するとすれば寧ろ立証責任はこちらにあることを忘れて、 あたかも自分が世俗を離れた高みにいると錯視するのは滑稽なことだ。そしてそうした「上品な趣味」からは蔑まれるマーラー自身は、そうした滑稽さを見抜くだけの批判的な知性の 持ち主であったことは、遺された証言が、何よりもその音楽が語っている。そして断固として私はマーラーの側につきたいと思う。
だがそれでも、強烈な吐き気を催すような頭痛をごまかしつつ、一週間通して一日のほとんどを職責を果たすべく費やすのは何ともいえない気分ではある。「世の成り行き」という言葉の実質、 第9交響曲のロンド・ブルレスケや第10交響曲の煉獄、第5交響曲の第1部や第6交響曲の行進曲が、歌曲「起床合図」のあの絶望が、大地の歌の冒頭楽章の自棄がまさに自分のこととして 思われてならない。マーラーの音楽では、あろうことか、主観的で伝達不可能な筈の痛みとか苦しみ、身を引き裂かれるような悲しみの伝達が可能であるかのようなのだ。勿論、それが 錯覚に等しい、ほとんど無に近いものであることだってわかっている。「大地の歌」の第6楽章の歌詞のように倦み疲れ果てて家路につき、マーラーの遺した音楽を聴くときにちっぽけな 私の脳内に起きることなど、これっぽっちの意義などないのはわかっている。だがそれでも私にはそれが必要なのだ。意識の、主観性の擁護をしてくれる同伴者が。
芸術を自分が抱えたストレスを紛らわす道具をして用いるなんて何と低級な聴取のあり方よ、と謗られても仕方ない。マーラーの音楽には希望が、今ここには端的に 存在しないものとして、自分が体験できないものとして、仮象として存在する。そうしたものを甘く退嬰的なものとして否定することは、だが私にはできない。まずもってこんな私にとって、 そうしたものが無ければ、到底やっていけないから。そうしたもの無しでやっていける程私はタフではない。意識は目覚めている。だが意識が存続するために眠りは必要なのだし、 「世の成り行き」とは別の何かの幻影が必要なのだ。そしてそれらは二つながら自分の心の奥底の別の部屋(ここで私はまたしても、ジェインズの二院制の心を思い浮かべている)に 繋がっているに違いない。覚醒し続け、外の暴力に抗い続け、告発を続けること、現実を見つめるシビアな姿勢は顕揚さるべきだろうが、それはまずもって自ら「世の成り行き」と 化すことに繋がりはしないかという懸念もあれば、それ以上に、意識の賢しらさが嘲笑される瞬間にふと垣間見える深淵、意識の手前にある領域の存在を私は知っているゆえ、 そうした「別の部屋」への通路を持たない音楽は、それが非人間的で超越的な秩序の反映だろうが、人間の愚行と野蛮の歴史の告発であろうが、結局のところ、自分の外で 響くものでしかない。
そして勿論、マーラーが職場でそんなことはおくびにも出さなかったように、私も職場ではそんなことを漏らしたりはしない。「世の成り行き」に唾を吐き掛けたって仕方ないのだ。 私の精神の圏、領域はそことは交わらない、どこか別の次元に開けている。私にはマーラーが自分の人生は紙切れだった、と言った気持ちが私なりにわかるような気がする。 私のような人間だってそう言ってみたい気分に囚われるのだから、マーラーがそう言ったことを咎めることなど到底できないだろう。けれどもその一方で、マーラーの音楽を聴くとき、 「世の成り行き」に優る何かが存在していること、私の脳内の頼りない幻影ではなく、世代を超えるミームとして存続し、そのようにして永遠性へと漸近しうることを確認する。 アドルノが言うとおり、マーラーの音楽は私のようなものにも手を差し伸べてくれる。私もマーラーの音楽ともに行進する「目覚めたもの=幽霊」の一人なのだ。(2010.7.10 執筆・公開, 2024.8.11 邦訳を追記。)

2010年7月4日日曜日

「ばらばらになった私の内的自我の破片をざっとかき集める」:妻のアルマ宛1904年6月23日付け書簡にあるマーラーの言葉

妻のアルマ宛1904年6月23日付け書簡にあるマーラーの言葉(アルマの「回想と手紙」、1940年版原書p.304, 白水社版邦訳pp.282-3)
"Mein liebstes Almschili!
Also der erste (richtige erste) Tage wäre vorüber. Einfach schrecklich! Der dumpfe Malgeruch im Schlafzimmer, hierauf nothdürftiges Zusammensuchen der zerstreuten Stücke meines innerich Ich (Wie viel Tage es dauern wird, bis ich es mir gesammelt?) hierauf Besprechungen mit Theuer, dann gebadet, mittagmahlt; (...)"

「いとしいアルムシリ! 
こんなぐあいに第一日目(まぎれもない初日だ)はすぎ去ったわけだ。まずいやなことだらけ!寝室の黴くさいむかつくような臭いに当てられたあと、ばらばらになった私の内的自我の破片をとりあえずざっとかき集め(うまく集められるようになるまで何日かかるだろう?)、それからトイアーと打ち合わせをし、からだを流し、昼食をすませた。(…) 」

 この一節、人によっては(もしかしたらほとんどの人は)気に留めずに読み飛ばしてしまうかも知れない手紙の書き出しの部分が、私にとっては最初にこの書簡を読んだ30年以上も前から 不思議と心を捉えて離さないものなのだ。理由ははっきりしている。「ばらばらになった私の内的自我の破片をざっとかき集め(うまく集められるようになるまで何日かかるだろう?)」(酒田健一訳)の 部分が私にはとてもしっくりきたからなのだ。要するにマーラーのこの言い回しが自分にもしばしば起きる状況の実感を見事に言い当てているように感じられたのだ。そしてそれは今でも同じである。 否、寧ろ今なら多分、かつてよりももっとマーラーが置かれた状態をうまく想像ができるような気がする。

 
一体、年端も行かない中学生かそこらの子供にそんな感覚がわかるものかという言い分には私は同意できない。それは子供の時分の状況を忘れてしまったからだとしか思えない。現在の私のように 目も回るような多忙の中、食事の時間すら満足に取れない、日によっては全く取れないような時間に追われた状況の中で、同時に幾つもの、しかもそれぞれにそれなりに気を遣わなければ ならないような作業を並列に、状況の変化に応じて自分の側のコンテキスト・スイッチを切替つつ対応するようなことを延々続けていると、己がばらばらの破片になってしまって、我に返って 何かをしようとした時に、まさにマーラーが記述したような状況に自分がいることに気付くのはしばしばだが、ではそうした時の感覚というものが全く未知のものかと言えばそんなことはない。 それはかつても味わったことのある感覚、子供の時以来、繰り返し繰り返し味わう感覚なのだ。子供の時には子供なりの限界の中で、でもその中に無自覚にいる本人にとっては 傍から見れば滑稽に見える程の深刻さをもって受け止められたに違いない。否、傍から見れば滑稽なのは今でも同じで、私がむきになればなるほど、傍から見れば何を肩肘張って 深刻そうにやっているんだ。もっと楽しく、気楽にやればいいじゃないかと一蹴されるに違いなく、だが私にはどうすることもできないものなのである。そして、「何かをしよう」のその「何か」の方はといえば、 私を断片化する「世の成り行き」の価値観においては無に等しいこと、例えばこうした文章を綴ることでも構わないのであって、実際問題としてこんな作業でもちっぽけな自己をかき集めなければ やれはしない。こんなものを書くのに数時間の時間を費やすのは或る種の価値観からすれば無意味で愚かなことに違いない。だが私は、ここでもやはり、そうせずにはいられないし、そもそも、 ばらばらになった内的自我の破片を集めるために、こうして書いているという側面すらあるかも知れないのである。
 
勿論今の私は、子供の頃の忙しさなど物の数ではないということが身に沁みてわかっているし、その一方でマーラーの多忙というのが私など及びもつかない苛酷なものであることは マーラーの伝記を紐解けば直ちにわかることであって、マーラーが主観的にはどうであれ、客観的にはいわば「楽長の道楽」なり副業として行った作曲の営みの質の高さは想像を絶する。 自ら生活の糧を得ることに汲々とする必要のなかった作曲家達と違い、マーラーはまずは生きるために稼ぐことを優先しなくてはならなかったタイプの作曲家で、そうした人たちは例外なく、 時間に追われながら、わずかな時間を自分の「無益」かもしれなかった営みに振り向け続けたのだ。勿論彼は、勤め人としての有能さの分だけは「世の成り行き」の 中でも生き生きと仕事をしたであろうし、傍から見れば寧ろそちらが彼の本領であると見做す人が大勢を占めたとしても不思議はない程の成果も挙げた。 だが、だからといって不和が帳消しになるわけでもなく、適応不全が無かったことになるわけでもない。彼が溜め込んだストレスの大きさや、彼が蒙った傷の深さは彼の有能さ、 彼の挙げた成果の大きさとはとりあえず関係ない。子供の頃は恐らく無意識に感じ取って共感していたであろうそうしたストレスの影や傷の痕跡がマーラーの音楽の中に はっきりと刻印されているのを今やはっきりと感じることができる。
 
今日企業で管理職などやれば、目標管理をやらされ、自分のメンタル・コンディションに関してすらポジティブ・シンキングとやらを押し付けられ、部下に対してはコーチングといった接し方の規範が与えられ、 といった具合に「有能」であるための処方なり規範なりがあり、それらへの忠実さをもって「有能さ」を測定されることを余儀なくされるわけだが(そしてそういう規範に照らせば、例えばこのような入れ子の多くて やたらにセンテンスが長く、従属節を幾つも従えたような文章を書く人間は「無能」呼ばわりされるわけである)、上司に対しては慇懃無礼、部下に対しては暴君で、思いやりの心に欠けているわけではなくても、 自分にばかりかまけるあまり、他人の内面には最後の部分で無関心だった彼、人並み以上の集中力と引き換えに放心癖をもち、過剰な「内面」としぶとい「内的自我」を持ち、内向的で傷つきやすい 悲観主義者だったマーラーは、一方では心理を読むのに長け、現実の条件の中で最大の成果を挙げる判断力を備えていたにも関わらず、 そういう規範に対しては全くそぐわないタイプの人間だったように見える。報酬の分に見合っているかどうかの判断は人それぞれで、悪意ある人の手に係れば、余分な「内的自我」を抱え、「道楽」に割く時間を 確保することに執着し続けるような人間は常に既に職務怠慢なのだろうし、個人主義者は「度し難い自己中心性」の廉で常に指弾され、批難される。 「それは私の能力には余る」などと言おうものなら、それは愚痴なのか、それとも白旗なのかと強い口調で迫られ、そうかと思えば「自分の要求をすべてやる必要はない」と嘯かれる。 彼が常に上司と衝突していたわけではなく、そういう意味ではもっと非妥協的である意味では「世の成り行き」に背を向けた人間達の中で育ったアルマが驚きをもって書いているように、 「成り上がり者のユダヤ人」マーラーは、「柔軟な膝」も持ち合わせていたし、それでは上司の方はろくでもない人間であったかといえば決してそんなことはなく、 ビジネスマンとしてはマーラーなんか及びもつかないほどの「やり手」であったり、頭脳明晰で極めて有能な官僚であったりしたわけで、要するにどちらが悪いというのは立場によって全く異なる判断になるに違いないのだ。
 
マーラーの有能さは、そういう意味では何か「おまけ」、余禄のようなものに近い。つまり彼の真の適性は別のところにあり、彼(の「内的自我」)が目指していたのはもっと別の何かであったのだけれども、 それを彼の埋め込まれた職場の規範なり目標なりに合致させることが出来るだけの器用さを持ち合わせていたということに過ぎない。その合致はエフェメールなものに過ぎず、 ちょっとしたことで見せかけの和解は綻んで、葛藤が生じるということが繰り返されたのは、これまたマーラーの伝記に記録されている通りである。 集中力と精神力の強靭さが身体の状態を上回るのが常であった彼は、自分の限界を超えてやってしまいそうになって、どこで止めようかその都度迷った違いなく、 だけれども時々やり過ぎてダウンしてしまうということを繰り返したのだろう。 記録にはそんなことは残っていないが、きっと折々「こんな仕事辞めてやる」と内心毒づいたことだって一再ならずあったに違いないし、そんなことは職場では言えないに決まっているが、 内心では「今度はここまでで止めておこうかどうしようか」と思案していたに違いないのだ。そういう意味では書簡集すら、それが他人に、しかるべき目的をもって宛てられたものであるが故に、内心の 吐露とは言いがたく、その中では全てではないにしても相対的には、妻に宛てた手紙は最も「構えた」ところがない場合が多く、有名な「ファウスト」終幕の解釈の手紙などを一方の極端として、 もう一方の極である日常の平凡な記述に過ぎない上記の手紙なども割りと素直に本音が出ているような気がする。
 
だが結局、マーラーにとってそうした鬱憤の「はけ口」は音楽を書くことだったに違いない。 音楽によって世界を構築することは、日頃の世の成り行きに対する反逆という側面が必ずやあったに違いないのだ。第3交響曲のフィナーレにちなんでマーラーが言及した「主よ私の傷を見てください」という 言葉は、マーラーにとって切実な響きをもったものであったに違いない。天使と格闘するヤコブ(「私は天国に行きたいのだ」)、反逆者ファウストの贖罪と復活の物語に曲をつけずにはいられなかった 彼の心情は、「世の成り行き」の中で「ばらばらになった私の内的自我の破片をざっと」(なぜなら彼には時間がないから)「かき集め」て新しい身体を獲得することへの絶望的なまでに切実な願いに 満ちていたに違いない。それは「世の成り行き」とは別の場所を、別の価値の秩序に支配された世界への憧憬を孕んでいて、素材としての世界観の方ではなく(それが作品の価値を担保すること などありえない)、音楽に刻み付けられたその衝動のベクトル性の深さが人を惹きつけて止まないのだ。
しかも彼は、端的に「世の成り行き」の外に出ることの不可能性をはっきりと認識していた。だから彼の音楽は端的に「別の世界」の構築になることはなく、寧ろそこには時折「世の成り行き」があからさまに 映り込むことがあって、しかもその程度たるやアドルノをして「攻撃者との同一化」といった精神分析学的な言い回しによる批判をさせずにおかなかったほどなのである。だが私はこの点では、 アドルノに与しない。百歩譲ってアドルノの主張の正当性を認めた上で、だが結局あなたにはマーラーの気持ちはわかるまい、とアドルノに対して言ってみたい気がするくらいである。 こんなことを言ってみても始まらないのは百も承知で、裕福なブルジョワの家に生まれ、何不自由なく育ったアドルノには、「女行商人の孫」(という言い回しをアドルノはマーラーのこと指す際に用いている)の 気持ちなど結局のところわからないのではないか。経済的に何不自由なく「内的自我」に浸っていられた良家の子弟達や、音楽を書くことを「内的自我」などと関わらせることなく、仕事として 突き放すことができた職人的な作曲家達は勿論のこと、時代のせいもあって自分の理想とは異なる現実に曝され、その無慈悲な暴力の前に為す術もなく、そのギャップに「内的自我」が悲鳴を あげた挙句の果てに現実の戦場から病気の戦場に退却して、更には自分を「干した」ナチスの政権に対して明らかに宥和的であり、「世の成り行き」から背を向けて無人の高山に逃避するほかなかった貴族出身のひよわなお坊ちゃんのヴェーベルンよりも、あるいは 若い時期には放蕩に身を持ち崩すことができ、文無しの友人を金策に奔走させ、結局は国家の支給する年金によって妻の名を冠した家に隠棲して暮らすことができた医者の息子のシベリウスよりも、 一見聖なる「愚者」に見え、現実に深く傷つき、時に神経を病みながらも、生活の糧を得るために自分の時間のほとんどを費やさざるをえない中で倦む事無く「無益な営み」に取り組み続ける 雑草のようなしたたかさを備えていたという点において、その他の点では共通点がなくとも、フランクやブルックナーといった作曲家たちの方がマーラーに遥かに近いとさえ言えるのではないか。
 
それは自分で作った檻から出ようとしないだけではないかという批判に対しては、自在に檻から出れる(と思っている、そして自分はそうできていると思いなしている)人間にはマーラーの音楽は 結局不要なのだから、どうぞお好きにされるがよかろう、と言いたい。そういう「円満な」「聡明な」「有能な」「人格者」にはマーラーの音楽は勿論、カフカだってヘルダーリンだって、「カラマーゾフの兄弟」や 「ドン・キホーテ」だって不要だろうし、おしなべて「哲学」など無用の長物なのだろう。そうであれば結局言葉は通じず、コミュニケーションは成立しないのだ。 開き直りと採られても構わないが、それが愚かさの側につくことになったとしても仕方ない。私はそういうマーラーに共感しているのだし、そうした愚かさから産み出された音楽が好きなのだ。

そんな音楽は聴きたくない、それならいっそ音楽は寧ろ純粋な気晴らしであるべきではないか、それはえもいわれぬ「無為な楽しみ」であるべきではないか、あるいは無人の森林や湖水の風景、 限りなく主観が希薄化して、ほとんど客観的な秩序のみが支配しているかのような音楽を聴けばいいのではないか、という主張があることも否定はしない。だが私が欲しいのは気晴らしや娯楽ではないのだ。 私にとって必要なのは、まさに「ばらばらになった私の内的自我の破片をざっとかき集め」ることで、寧ろ自我なり主観性なりを擁護するタイプの音楽、しかも無自覚に、無反省に、無媒介に 主観的なのではなく、寧ろ、そうした主観の働きが反映しているようなタイプの音楽こそが必要なのだ。マーラーの音楽から意識を消去することはできない。希薄になったり、解体しかかったり といったことはあるけれど、それは人によっては鬱陶しいと感じられる程に自意識の現われがあからさまだが、見方を変えれば、人はそんなに簡単に自我とか自意識とかから自由に なれるわけではない。それを監獄のようなものと見做す立場を認めたとして、だがその監獄から逃れることはできない。もう一度、「監獄にはもしかしたら鍵などついていなくて、外に出ることだって原理的には 可能ではないのか」と人は言うかも知れない。だがその辺の消息はマーラーにはわかっていたに違いない。「意志と表象としての世界」や「純粋理性批判」を読みこなせる人にそれがわからない筈はあるまい。 あるいは「ファウスト」の終幕の場にあの音楽をつけ、その後で「大地の歌」や第9交響曲、第10交響曲を書いた人がそれをわからなかった筈はないと私には思える。空を飛べると思っただけで 実際に空を飛べるほど「世の成り行き」はやわではないのだ。霧のかかったようなアナロジーで物理法則を音楽化したなどと嘯くことのできた自信家のスクリャービンとは異なって、 批判的な知性を備えていたマーラーは、自分が「移ろいゆくもの」の側に属していること、少なくとも自分のままでは永遠に与ることができないことを認識していた。 そして翻って、価値観の違いによる机の叩き合いにおいて、その場で勝利を収めるのは常に「世の成り行き」の側である。「世の成り行き」の外は端的に「ない」のだから、所詮勝ち目はない。 だから「内的自我」なり「自意識」なりは逼塞して、誰のものでもない何かを作り上げ、壜に詰めて流すという無益な営みによって秘めやかな復讐を試みるほかない。 そして復讐の成否は当人には原理的にわからない。マーラーが復讐に成功したことを知るのは、何かの偶然で壜を拾って、その価値を認めた私達でしかない。その一方で私は証人として、 復讐の成功を宣しなくてはならない。
 
夢想することを止められない現実主義者、現実と折り合いをつけようとしつつ、だが現実に自分を合わせることは拒絶する個人主義者、有能な職業人として、余人の及ばぬ成果を挙げながら、 同時に敗北者のバラードを歌うことができた余所者、、、そして休暇の初日、モードの切替がうまくできずに「ばらばらになった私の内的自我の破片をざっとかき集め (うまく集められるようになるまで何日かかるだろう?)」と呟く男。そのように生き、このような音楽を遺した人間がいるということに、比較に足らぬほど凡庸で卑小な私ですら勇気付けられる気がするし、 その音楽を聴くことによってやっと「自分」が取り戻せるのである。 こんな人間のこんな音楽がどうして過去の遺物、芸術の殿堂とやらに陳列された骨董でありえよう。今日が彼の時代なのかどうかなど私にはどうでもいい。彼が生きた時代がどんな時代であったかも副次的な 問題でしかない。私にとって彼は必要な存在だし、何よりもまず遺された音楽によって、そして上記のような語録によって、彼は今、私の内側にいるのだ。(2010.7.4)

2010年6月27日日曜日

戦前の日本におけるマーラー受容との断絶

 戦前の日本におけるマーラー受容が広く知られるようになってきたのは、1980年代のマーラー・ブームの頃ではなかろうか。手元にある文献では、 サントリー美術館で1989年4月4日~5月14日に開催された展覧会のカタログ「サントリー音楽文化展 '89 マーラー」中に含まれる森泰彦「オーケストラ演奏記録が語るもの -日本のマーラー受容1924~1985」が挙げられるだろう。これは、まずカタログ自体がTBSブリタニカより市販された他、根岸一美/渡辺裕(編)「ブルックナー/マーラー事典」(東京書籍,1993)にも 追記がされた上で再録された。英語の文献なら、Donald Mitchell,とAndrew Nicholsonが編んだThe Mahler Companion(Oxford Unversity Press, 1999)に他の国での受容と並ぶ仕方で Kenji Aoyagi, "Mahler and Japan"が収められていて、その1章が戦前のマーラー受容に充てられている。
 
 だが記録や概観ではなく、より証言に近いものをということになれば、岩波新書に収められた柴田南雄『グスタフ・マーラー:現代音楽への道』(1984)を挙げなければなるまい。序論にあたる 「はじめに-われわれとマーラー」の第2節が「戦前の日本におけるマーラー」というタイトルを持っていて、10ページ強の中に手際よく受容史がまとめられているのだが、1916年生まれの著者の 回想が含まれていて、寧ろその点が強い印象に残る。この本の刊行当時、日本マーラー協会の事務局長であった桜井健二さんの『マーラー万華鏡』(芸術現代社, 1991)の中のV章を占める 山田一雄との対談 「マーラー演奏半世紀」やVI章のうちの最初の3つの文章「日本人とマーラー」、「現世と幻想の交錯する魔境/マーラーと小栗虫太郎」「マーラー時代のマスコミとマスコミ時代のマーラー」は、 戦前の受容に関わりのある記述を含んでいるし、同じ著者の『マーラーとヒトラー:生の歌 死の歌』(二見書房, 1988)でも近衛秀麿やプリングスハイムの記述など、日本国内での受容に関する記述が 含まれていた。
 
 けれども、もっと断片的なものを含めれば、それより以前にも上述のような文章でより包括的に記述される状況を窺わせるような文章がなかったわけではない。私がマーラーを 聴き始めた頃に刊行された青土社の『音楽の手帖 マーラー』(1980)には、戦前や戦後間もなくの時期の回想を含む文章が幾つか含まれていて、小栗虫太郎の「完全犯罪」、ワルターの 「大地の歌」(当然これは戦前にSPで出た1936年の演奏)、レーケンパーの「亡き児を偲ぶ歌」(1928年演奏でやはりSPで戦前の日本で入手できた)あたりへの言及が目立つ。 「大地の歌」の日本初演(昭和16年1月22日)への言及もあるが、何といっても既にこの中に柴田南雄「マーラー演奏のディスコロジー」が収められており、おしなべて戦前のマーラー受容の回想の 様子をある程度知ることはできたのである。
 
 もちろん、上記の文献で言及されている往時の状況を直接に、同時代の文献にあたって確認することも不可能ではない。現在のNHK交響楽団の前身にあたる新交響楽団の機関紙、 音楽雑誌『フィルハーモニー』第12巻第3号(1938)はグスタフ・マーラー特集号で、ローゼンシュトック指揮による第3交響曲の公演の折のもの、同じく『フィルハーモニー』第15巻第1号 (1941)は「大地の歌」の日本初演の公演の折のものである。プリングスハイムの文章があったかと思えば、ベッカーの『グスタフマーラーの交響曲』の部分訳が収められたり、橋本国彦の手になる、マーラー没後25年にあたる1936年にウィーンを訪れた際の体験やら、第10交響曲の1924年の出版への言及やら、既に刊行されていた書簡集(1925)、ロラーの回想(1922)、 ベッカーの著作への言及もあり、自分が撮ったものも含めた写真の説明もありといった非常に情報量の多い文章も収められていて、大変に興味深い記録である。
 
 上記以外にも、これはまだマーラーを聴き始めたばかりの頃であったろうか、戦争中のニュース映画のBGMにマーラーの第1交響曲の第4楽章の冒頭が用いられているのを耳にして驚いた記憶がある。 マーラーがユダヤ人であり、第2次世界大戦中に特にドイツにおいてその音楽が蒙った受難を知らないではなかったから、1941年時点ではまだユダヤ人であるローゼンシュトックがマーラーの「大地の歌」を 初演することができたといった、もう少し微妙な状況についてその時点では知らなかった私には、ドイツの同盟国であったはずの日本で戦争中のニュース映画のBGMにマーラーの 音楽が使われていたというのが腑に落ちなかったのである。
 
 戦後間もなくも含めれば、パウル・ベッカー『ベートーヴェンよりマーラーまでの交響曲』が武川寛海訳で日本音楽雑誌より 出版されたのは1947年、石倉小三郎の『グスターフ・マーラー』が音楽之友社より音楽文庫の1冊として出たのは1952年である。特に後者はシュペヒトの著作に依拠する部分が多いが、 第9交響曲における奇妙な記述など、音楽を耳にするか、せめてスコアを手にすればありえない誤りも含まれており、それはそれで状況を証言するものとして興味深い。
 
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 だがしかし、それらを読んだ私が受け止めることを余儀なくされるのは、自分のマーラー受容が、実際にはそうした受容の末端に連なるものであるはずであり、現実に異なる展望の下、例えば私が聴いたマーラーの 実演を演奏した方々の側では確かにそれらと繋がっているものである筈であるにも関わらず、それらがまるで他人事のように疎遠に感じられるという事実である。私は別段音楽的な 環境に育ったわけではないが、それでも若い頃にはフルートを嗜んだらしい父親が祖父から継いだ家業をやめ、会社に就職して郊外の田園地帯で借家住まいを始めると同時に楽器は止めてしまい、 その代わりにポータブルのラジカセでFM放送をエアチェックしつつカセット・テープに録音したクラシック音楽を聴き返すのを耳にしながら育った。しかしそれにも関わらず、マーラーの音楽は、 文字通り一から自分で発見したものだった。父はマーラーの名前を知っていたにも関わらず、 マーラーを決して自分から聴こうとはしなかったからである。もっとも父のライブラリに含まれる音楽で今尚私が、特定の作曲者への拘りを持ちながら聴き続けているのはセザール・フランクくらいなものであって、だからこの事実は単に父と私のそれぞれの個人の嗜好の差異に還元してしまえるものかも知れない。だが例えば学校の音楽室に貼られていた作曲家の肖像画の複製にもマーラーは含まれなかったし、音楽の教科書の年表にも、 「国民楽派の作曲家」シベリウスはあっても、あるいはバルトーク、ストラヴィンスキーやショスタコーヴィチ(あるいは「教育的作品」の作曲者であるという理由でプロコフィエフやブリテンは載っていても)、更には武満の「ノヴェンバー・ステップス」は載っていても、マーラーの名前は なかったのである。
 
 そもそも父の音楽の嗜好は、それではどのようにして水路づけられたのであろうか。父亡き今はそれを確認する術もないし、生前とて寡黙で自分のことを語ることのほとんどなかった 父からそうした話を聞き出せたとも思えないが、例えば父のカセット・ライブラリには含まれない音楽でも、ドビュッシーであったりブルックナーであったりについて父が語った言葉は記憶に残っているし、 そもそもバルトークの音楽(弦楽四重奏曲第四番)やストラヴィンスキーの音楽(ペトルーシュカ)は父のライブラリにも含まれていた。否、中心はバッハから古典派、シューベルトやシューマンなどのロマン派のピアノ曲や室内楽だったとはいえ、 ワグナーやチャイコフスキー、グリーグやスメタナすら含まれていたわけで、マーラーだって名前は勿論知っていたのだから、そこには選択が働いていたに違いなく、その背景には父が生きた時代の 音楽観のなかの或る種のもの、父が共感したタイプのものの反映があるに違いないのだ。
 
 ちなみに私はその後マーラーやシベリウスから始まって、ラヴェルやらヴェーベルンやら武満、果てはスクリャービンといった作曲家のレコードを買い、アイヴズやらクセナキスやらショスタコーヴィチに興味を示すようになっていき、父の嗜好とは全く異なる方向に進んでいった。父は勿論批難こそしなかったけれども随分な趣味だと内心思っていたに違いない。その父が亡くなった後、 父の遺品から件のカセット・ライブラリを引き取った私は、その中に私が世帯を別にした後に父が追加したカセット・テープが含まれ、その追加されたテープにうちにマーラーの第6交響曲と 第4交響曲が含まれているのを見つけて大変に驚いたものである。それは父が「趣味の悪い」息子に対して示した唯一の歩み寄りであったのだろう。一時期の私にとってマーラーが どんな存在であるかを父は傍で見て知っていたに違いないのだから。そしてそうであるならば、父はあのマーラー・ブームを一体どのような気持ちで眺めていたのだろうか。
 
 勿論、個人的な状況を根拠にして言い得ることは権利上はほとんど何も無いには違いない。現実問題としても日本におけるマーラーの作品の演奏は戦後間もなくの時期から私が知らないところで 行われ続けていたわけで、その後のブームも、今日のおけるマーラー受容もそうした継続性の上に成り立っているのは間違いないことであり、それをあたかも無かったかの如くに言い募るのはどのみち不当なのである。 だけれども、それでもなお、同じ文化的・歴史的伝統の裡にいるはずの自分の先達のマーラーの受容のあり方に全くといっていいほど接点を見出せず、共感もできないことに私はやはり 戸惑ってしまう。フィルハーモニー誌の文章やら、青土社の音楽の手帖所収の文章やらに記録された「マーラー経験」は、私のそれとは凡そ共通点を見つけることが困難なものなのだ。 ろくに西欧のクラシック音楽の伝統に身を浸さぬ裡に、遠近感がない状態でマーラーの音楽を聴くことになったという点では、私の置かれていた状況はむしろ戦前に初めてマーラーが 日本で演奏された際に平均的な日本の聴衆が置かれていたであろう状況に近く、その一方でマーラーと地続きであった時代は遠く去ってしまった時点で突然マーラーの音楽に出会った私にとって、 自分が生まれる少し前のマーラー生誕100年の頃から生じていたはずのマーラー・ルネサンスの恩恵をそれと気付かずに蒙りつつも、少なくとも主観的にはそうしたパースペクティヴには全く気付かないままに、 子供ながら徐々に形作りつつあった奇妙な文化的な圏の中に、だがその文脈では違和感なくその中央に位置づけられる存在としてマーラーが突然出現したというのが事態の端的な記述なのだ。
 
 漢詩を読みあさり、カントに魅惑され、ショーペンハウアーを齧り、シェイクスピアを読み散らし、ヘルダーリンに惹かれ、『カラマーゾフの兄弟』にどっぷりはまった中学生にとってマーラーの音楽はあまりに直截に、 その圏の中に響きわたったのである。マーラーのよるべなさ、マージナリティは少し考えれば己のそれとは全く異なるものであるのは明らかだというのに、そんなことにはお構い無しに、そこに自分の周囲の地形と 同相なものを見つけ出し、勝手に自分の同伴者と決め付けてしまったのだ。マーラーより少し前に聴くようになっていたシベリウスや、マーラーと相前後して聴くようになったヴェーベルンの音楽が 自分の波長に合い、琴線に直接響くものをであると感じつつも、でもそれらは自分の外側の、風景の側の響きであると思われたのに対し、マーラーの音楽は自分の中で響くものとして 呑み込んでしまったのである。風景ではなく風景の認識の、感受の様態そのもの、外界の事象への反応の様式そのものとして、マーラーの音楽は比喩でも何でもなく、文字通り自分の一部となったといって良い。
 
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 そしてそういう私にはマーラーを一緒に聴く同伴者は不在であった。実は戦前より日本ではマーラーが受容されてきたことを知り、それが世界的に見ても比較的早いものであって、 そこには日本の置かれた特殊な位置のようなものが関係しているということがわかった後でも、だからといって、そうした受容の中に自分を位置づけることはできなかったし、今でも そうすることが出来ずにいる。今や、こんな異郷の過去の音楽に何故関わらざるを得ないのかの方が寧ろ疑問視されて然るべきだと客観的には認識されても、だからといって主観的には済んだものとして 無かったことにするわけにはいかない。そちらの方がアナクロニスムであるとは思っても、現実問題として私にとって現在の「世の成り行き」をやり過すためには無くてはならないものなのである。 私はそこに過去の時代へのノスタルジーを感じることなどできない。それは骨董として賞玩するような「美」とは更に何の関係もない。勘違いや思い込みと嘲笑されようが、あるいはそれは単に 愚かなだけだと一蹴されようが、あいにく頭の悪い私にとっては、マーラーの問題は未だ自分の問題であり続けているし、それは決して解決済みな訳でもない。そしてそういう視界狭窄の 中から眺める日本におけるマーラーの受容史は、それ自体が異国のどこかの過去の出来事のようにしか感じられない。かくして私の前には深い断絶が聳えているのである。
 
 例えば、私がマーラーより前に、シベリウスより前に聴きはじめ、特定の作曲家に関心を持つ最初のケースであったセザール・フランクの場合には、上述の通り父親のコレクションの中に フランクの作品が数曲(交響曲二短調、ヴァイオリン・ソナタ、ピアノ五重奏曲の3曲に過ぎないが)含まれることもあり、事実問題として過去への辿る経路が存在した。また フランクの音楽が学校の音楽室に響くことはなくても、音楽史の中でフランクは確固たる存在だった。勿論フランクについての情報は今もそうだが、その当時も極めて乏しいもので、 辛うじてビュアンゾのフランク伝を田辺保が訳したものが読めたくらいだったのだが、それは過去への遡行を妨げるものでは決してない。実際に調べてみれば寧ろ最近よりも戦前の方が フランクの音楽は真摯に受容されていたらしい節も窺われるのだ。例えばダンディのフランク伝が(一部抄訳とはいえ)翻訳されたのは昭和7年のことだし、フランクの音楽のうちの何曲かはすでに昭和の初期に 来日した演奏家のリサイタルで、あるいはレコードによって日本で聞くことができたようだ。つい最近になって知ったことだが、例えば河上徹太郎のフランク論は、私が別のところに書いているような自己の経験とは 直接には違った文脈でではあるかもしれなくても、数十年後にそれと知らずにフランクの音楽を聴いた子供が確かに聴き取った音調と類似した何かを確かに聴きとっていたことを告げているように 感じられるが、それもまた昭和の初期に書かれているのである(「セザール・フランクの一問題-音楽家の自意識と旋律」の初出は昭和5年)。河上と親しかった堀辰雄の文章にもセザール・フランクの ヴァイオリン・ソナタに言及したものがあるのは随分前から知っていたが、河上徹太郎の文章を読んだのは最近、ふとした偶然によるもので、だから河上の文章を読んだときには非常に驚いた。 彼も言っているが、そのようなことを言っている人を私もまた他に知らなかったし、彼が聴き取ったあるものを、確かに私も聴き取っているのは確かだからだ。だが、この点については別に主題的に論じる価値があるので、 稿を改めて扱うことにしたい。河上徹太郎に関連して更に言えば小林秀雄はフランクを聞いて吐いた経験を河上の全集によせた跋文で披露しているそうだし、こちらは河上の回想によれば、 小林秀雄の有名なモーツァルト論の背後にもフランクの音楽の影があり、更にはそれが晩年に至るまで伸びているにも関わらず、小林秀雄はそれをある意味では抑圧し続けたらしいことをこれまた最近知ったが、 このことは、河上徹太郎のフランク受容のある側面と照らし合わせるに、小林秀雄の音楽論に私が非常に強い反発を覚える点と密接に関係しているようで腑に落ちてしまった。 だが、マーラーに関しては寡聞にしてこうした話は聞かない。小栗虫太郎の小説は私には疎遠で何の感興も呼び起さないし、戦後マーラーといえば決まって言及されるのが(マンの原作ならまだしも) ヴィスコンティの映画「ヴェニスに死す」なのだから、私には取り付く島がないのである。是非はおいて、とにかく事実としてそうしたマーラー受容と私のそれとは全く相容れないのだ。 フランクの音楽もまた、戦時中のニュース映画のBGMになっていたことに気付いて、戸惑いを覚えた(フランクは正確にはベルギーの生まれではあるけれど、敵国であるフランスの音楽の筈だが、これまたヴィシー政権などとの関連で微妙な部分が あったのかも知れないが、そんなことはわからないから、不思議に思う訳である)という点で実はマーラーと共通しているのだが、マーラーの音楽が同じような状況で響いた事実は知りえても、どのようにそれが響き、 どのような反応を起こしたのかはマーラーの側については杳として知れないのである。
 
 それとも、私が未だ知らない日本のどこかに同伴者がいたのだろうか。その人の声が届く圏域に私がいないだけなのだろうか。アドルノが見事に指摘したとおり、カフカの「審判」のヨーゼフ・Kの 代弁者であるマーラーには投壜通信は如何にも相応しい。マーラーその人が投げた壜は確かに手元にあるけれど、それはあまりに重過ぎて、自分の手に余り、受け取っただけのものを 自分が誰かに伝達する自信などありはしない。その重みを受け止めるに相応しい人が過去の日本には必ずやいたに違いないのだが、その人からの壜は私の岸辺には未だ辿り着いていないだけなのだろうか。 いずれにしても、それゆえ私にとって「マーラーの時代」は既に去ったものであるか、未だに到来していないものに留まっているのである。ともあれ私はまだ、自分の壜を流す作業を止めることはしばらくできそうにない。 或る種の自己中毒、手段と目的の転倒と嘲笑されようと、このような文章を書かずには私は生きていないのだ。そしてこのような無価値で拙い文章であっても、ごく稀に拾い上げてくれる方がいらっしゃる。 そう、今、ここにおいてなら私には確かに同伴者がいるというのはこれまた紛れもない事実である。私は多分、戦前・戦後の日本のマーラー受容のメイン・ストリームからは遠く離れたところにいるのだろう。 だけれども、そんな私の声も、時折は微かに響くことがあるらしい。だからそうした響きを聞きつけて下さる方々に感謝の気持ちを篭めつつ、やはり書き続けていこうと思うのだ。(2010.6.27)

2010年6月20日日曜日

ジャパン・グスタフ・マーラー・オーケストラ第8回定期演奏会を聴いて

ジャパン・グスタフ・マーラー・オーケストラ第8回定期演奏会
マーラー生誕150年記念/ガリ・ベルティーニ・メモリアル・コンサート(氏の没後5周年によせて)
2010年6月13日 ミューザ川崎シンフォニーホール 音楽ホール

マーラー 交響曲第7番ホ短調[最新校訂版(2007年:R.クビックによる)使用]

井上喜惟(指揮)
ジャパン・グスタフ・マーラー・オーケストラ

私にとって、コンサート・ホールでマーラーを聴くのは20年ぶりのことになる。20年前はいわゆるマーラー・ブームの渦中だったが、 当時の私はコンサート・ホールで聴くマーラーにほとんど入り込めず、挙句の果てに、コンサート・ホールでマーラーを聴くことのみならず、 コンサート・ホールを訪れることとマーラーを聴くことの両方を断念することになったのだった。理由は色々とあるが、ようやく到来したらしい 「マーラーの時代」の只中で、次々と提供される「今日のマーラー」とやらが、自分が聴き取りたいと願っている音調を備えておらず、 コンサート・ホールの熱狂の中で自分の外で、むしろ「世の成り行き」の側の一部として鳴り響くという現実に耐えられなくなったと言えば 端的な説明になるだろうか。
その後、自分の中に、自分の一部としてそれがどうしようもなく埋め込まれていることを思い知らされて、 マーラーの音楽を再び聴くようになりはしたし、一方で数は限られているとはいえ、コンサート・ホールに足を運ぶようにもなった。 それは主として三輪眞弘の音楽のように、同時代の、しかも実演で聴くことと録音媒体で聴くことの差異そのものが問題になるような音楽を 聴くためにであって、過去の異郷の音楽を聴くためではないようだ。例えばショスタコーヴィチの音楽は異郷のとはいえ、私が生まれた時には まだ生きていた作曲家のそれであって、時代的には少なくとも地続きの筈であり、またその音楽のもつ或る種の「公共性」(ここではそれに ついての価値論的な議論は行わない)ゆえにコンサート・ホールで少なくとも相対的には「聴きうる」ものと思っていたが、最近、そうとは 感じられない機会が連続し、更には生活の糧を得ることに追われ、コンサート・ホールという制度が要求する時間的・体力的・精神的な 余裕が自分になくなってしまったこともあり、再びコンサート・ホールから足が遠のきつつある。端的に言って、今ここで、自分が置かれている 物理的・身体的・精神的制約の元で、なぜわざわざその演奏を聴かなくてはならないのか、という気分になってしまう事態に至ってしまったということだ。 こう言えば身も蓋もないが、要するに、コンサート・ホールでの音楽の聴取が単なる娯楽なのだとしたら、それは私には全く割りの合わないものであって、 何某かのお金を払った上で、決められた時間に決められた場所に赴くことを強制され、一定時間椅子に座っていることを強制されるのであれば、 それは娯楽とは違った何かであって欲しいし、単なる消費で済ますなど真っ平御免なのだ。
まさにコンサート・ホールで演奏されるための音楽である筈のマーラーの作品をそのように聴けないというのは、 LPレコード、FM放送、CDといった媒体によってマーラーを聴いてきた世代ならではの「症例」と見做すべきかも知れない。 より根本的には自分の中で鳴り響く音が、他者が自分の目前でリアライズする音響と齟齬を来たすのに耐えられないという 全くもって傲岸不遜な理由があるに違いないのだが、それならCDを聴くのだって耐えられないはずで、だからコンサート・ホールという 公共の場で、他人が自分の目前で演奏するマーラーを、他の聴き手と共有するということが、マーラーの音楽の持つ「私性」に 背馳するように感じられるというのがあるのだろう。演奏会というのは所詮はエンターテイメント、娯楽の一種であって、 マーラーはいわば目玉商品の一つとして「消費」されているのだろうし、端的にそうした制度の外部に出ることなど出来る筈はないのだが、 マーラーの音楽そのものの中に、そうした「世の成り行き」の只中にあって、「世の成り行き」の外を志向する姿勢があって、 それに自分が惹きつけられているのであってみれば、マーラーを聴くことを単なる「消費」に還元してこと足れりという訳にはいかないのだ。
こうしたマーラーを聴くことの難しさについて考えた挙句の結論は、演奏者に対して聴き手たる自分がコミットメントすることであった。 勿論、これは私固有の問題であって、一般化しようとするつもりは全くないし、他人のマーラーに対する接し方を 判断するための基準とすることは思いもよらないことではある。その上でマーラーを再びコンサートホールで聴くための条件として、私がマーラーの人と音楽に対して コミットメントしているように、演奏者もまたマーラーに対してコミットメントしていること、つまりは演奏者がマーラーを弾くことを望み、 必要としていること、そして自分が、そうした演奏者の演奏に対して、何某かの対価を払って出来上がった「製品」を受け取るのではなく、 演奏を作り上げていくプロセス自体に何らかの仕方でコミットすることができれば、コンサートホールにわざわざ赴き、音楽を聴くという経験は 全く質の異なるものになるだろう、と思われたのである。勿論、チケットを買うこと、コンサート・ホールに赴くこと自体が、結局のところ 演奏を作り上げていくプロセスも含めた演奏に対するコミットの一つの仕方であるということだって出来るだろうが、それが錯覚であったとしても、 マーラーの音楽を骨董品のように、過去の、遠い異郷の文化的・社会的文脈に位置づけて理解することによって我有化するのではなく、 自分が作品を取り込むことによって、作品に埋め込まれたマーラーの認識の様式を、反応の様態を自分の中に移植すること、 マーラーに他者として対峙し、そうすることで逆に自分が少しだけマーラー「になる」ことが私にとって問題であるのであってみれば、 マーラーの音楽の演奏に対しても、完成品を対価を払って受け取る以上の何かが必要に感じられたのである。
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だが現実には、ジャパン・グスタフ・マーラー・オーケストラの第8回定期演奏会について言えば、結果的には通常のコンサートを聴くのと ほとんど変わるところがなかったということになるだろう。違いがあるとすれば、演奏者のマーラーに対するコミットメントに関してであって、 このアマチュア主体のオーケストラについてはそれは明らかであり、それどころか寧ろ私など足元にも及ばないレヴェルであることは疑いえないことなのである。 仮に私が、マーラーの作品のあるパートを、一緒に演奏する方々に迷惑をかけない程度に弾ける技量を今尚保持していたとしても、 私にはプローベに継続的に参加するだけの時間的・体力的・精神的な余力が残されていないのははっきりしているのだ。 であって見れば、そうしたコミットメントに対する敬意と賛意を表するためにコンサートホールに足を運ぶことが私にとって可能な コミットメントの仕方であり、まさにそうしたことを考えながら、幸いなことに時間的な余裕にも体調の小康にも恵まれた日曜日の午後に、 これまた幸いなことに、その種の音楽ホールとしては比較的在所から近いミューザ川崎に向かったのである。
上記のような経緯からもはっきりしているように、私は普通の意味でコンサートを聴きにいった訳ではない。だからいわゆる演奏会評を 書くことなど思いもよらないし、それだけの素地が私にないのは明らかだから、演奏がどうであったかを客観的に書くこともしない。 多分、それらは他の、その資格のある方がされるだろうし、演奏「そのもの」はこれまでそうであったようにCD化されるだろうから、 「客観的」な記録としてはそれを聴けばいいということになるだろう。勿論、演奏者にとって恐らくはそうであるように、私にとっても そのCDの価値は、「客観的」な記録などではなく、その日にそこで起きたこと、私の中で起きたことを(不完全ではあっても)再生する きっかけのようなものといった位置づけになるのだと思うが。
言い方を変えれば、6月13日にミューザ川崎の音楽ホールで経験したことをもって、コンサート・ホールでのマーラー演奏「一般」について の私の考え方が変わった訳ではない。私はこの経験が些か特殊な条件に拘束されていて、その拘束が経験の質に影響したことを否定しない。 アマチュア主体のオーケストラを演奏を、プロの演奏と比較して精度を云々するのは筋違いだろうし、「客観的」にはこの演奏よりも 「良い」演奏は幾らでもあるということになるのかも知れない。だが、だとしたら私には、そういう価値論的な座標系における「良し悪し」など せいぜいが副次的な意味しか持たないということになるのだろう。ある意味では、かつて私がコンサートホールで聴いた(恐らくは 「客観的」にはもっと精度の高い)マーラー演奏に何故感動できなかったのかの一部を確認できたような気がしたし、その一方で コミットメントについての昨今の自分の考え方がそんなに間違ってはいなさそうだということの確認もできたように思える。つまるところ、 マーラーの音楽がコンサートホールで響くことの意義が、豊かな実質を伴って明らかにされる現場に立ち会うことができたのだ。

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いずれにしても20年ぶりにコンサート・ホールでマーラーの音楽がリアライズされる現場に立ち会った印象は、主観的にはこれまでのコンサートでの マーラー演奏のどの聴取にも優る、素晴らしい経験であったことはここに記録しておきたいと思うし、もう少し具体的に、自分には どのようにその演奏が響いたかを下記に書きとめておきたいと思う。この演奏は、マーラーの音楽のリアリゼーションが説得力を備えるために必要な 何かを確かに備えていると感じられたし、常にというわけではなくても、マーラーの音楽の持つ「音調」を捉えていたと思う。再び傲岸不遜な 言い方をすれば、私の中に埋め込まれている音楽と、当日コンサートホールに響いた音響とが確かに共鳴し、圧倒される瞬間に 事欠かなかったのである。
テンポの設定はこれまでのCDで確認できる同じ演奏者による他の曲の演奏におけるのと同様ゆっくり目であったが、緊張感は保たれ、音楽の流れが 停滞することはない。幾つかのテンポを交換させることによって音楽の重層的な構造を明らかにし、複数の時間の流れの質の 差異を際立たせ、そうすることによって遷移していき、交替しながら、再現するたびに少しずつ変容していく風景の変化を支える 巨視的な法則の存在を感じさせることに成功していたのは、指揮者の解釈の卓越を証するものだろう。
そういう側面がとりわけ鮮明に感じられたのは、第3楽章のスケルツォとトリオのテンポの設計、同じく第5楽章のロンドとエピソードの テンポの設計で、間に挟まれるNachtmusikの底流として、第1楽章から第5楽章へと流れていくブリッジの役割を第3楽章が 果たしていることがはっきりと感じ取れたし、急がない、だが眩いばかりの響きの色彩に富んだ第5楽章の設計は、全曲のコヒーレンスを 浮かび上がらせ、この曲を端的な失敗作と見做す立場や、とりわけ第5楽章に或る種の「確信犯」的失敗を見出そうとする立場に 対する極めて説得力のある反例たりえていたと思う。指揮者はパンフレットの文章でメンゲルベルクのテンポの記録と並んで クレンペラーの晩年の録音を参照していたが、私が思い浮かべたのは、この曲を失敗作と考えていたクックの認識を改めさせたらしい 1960年のバルビローリの演奏記録である。要するにコヒーレンスを実現するのは、単純な演奏時間の長短ではなく、全体と部分の 関係におけるテンポの推移、ないし交換(不連続にレイヤーが切り替わることがあるので)の把握の問題なのだと私には思われる。
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今回の演奏の特色の一つに、近年精力的に行われている国際マーラー協会のマーラー全集の再校訂作業の一環である 2007年のラインホルト・クビークの校訂版を用いていることが挙げられるだろう。私は残念ながら事前に楽譜にあたることができず、 いわばぶっつけ本番で演奏を聴いたのだが、パンフレットに指揮者の井上さんが書かれていた変更点のうちの 幾つか(具体的には19小節目のチェロとファゴットの3連符の最後の音の変更と第1楽章266小節Subito Allegro I以降の テンポ設定、336小節の第2ヴァイオリンの改変の3点)は、聴いていておやっと思って、後で確認して新校訂版に 依拠したゆえのものであることが確認でき、非常に興味深く感じられた。(正確を期せば3点目については明らかにおかしいと思った というよりは、対向配置であることもあり、何となく「あれ、こんなだったかな」と感じた程度だったが、こういうところも コンサートならではで、録音で聞き分ける自信は私には全くない。)
ちなみに上述の3点について、所蔵している自筆総譜のファクシミリはどうなっているかと思い確認してみた結果を以下に メモしておく。
  • 第1楽章19小節:手前のト音の真上よりは少し左上に臨時嬰記号が書かれている。高さとしてはト音につけられた とするよりはその後のイ音に付けられたとする読みの方が妥当に思われる。
  • 第1楽章266小節:明らかにZiemlich hastig。ruhigには読めない。前の校訂版が別の資料に依拠していたとしか 思えない。
  • 第1楽章336小節:ここは厄介な箇所で、どうやら訂正した形跡が見られる。第1音と第2音の間にタイはあるようだが、 それとは別に、第2音の前にはオクターブ下あたりからのポルタメントの指示のような線があり、第1音の周辺には訂正した 結果消去をしたらしい痕跡が認められる。2音目のアクセントは(第1ヴァイオンもそうだが)ファクシミリにはない。 更に、誰の筆跡かわからないがクエスチョンマークもついていて、ここの部分、特にポルタメントのような線をどう読むか、 判断に苦しむ部分のようだ。全くの臆測だが、私の読みでは、マーラーは、このファクシミリでは 第2ヴァイオリンも第1ヴァイオンに追いつくように、2音目で記譜よりオクターブ上の音を弾くように8vaの記入により指示しているから、 件のポルタメントは、1音目の音高、即ち記譜された通りの高さから、2音目のオクターブ高い音へのポルタメントを 要求したのではないかという気がする。すると1音目と2音目を結ぶのはタイではなく、スラーと考えるべきだということになるのではないか。
なお、いずれも初版の出版譜と前の全集版、更にはレートリヒの版との間には上記3点には違いは見られないが、 ファクシミリは寧ろ今回のクビークの校訂を裏付けるものであるように窺える。ただしこのファクシミリは、出版譜とは 異なる部分が大変に多く、かなり前の段階の資料と考えるべきもののようであることは留意されるべきだろう。一例を 挙げれば、終楽章の練習番号268番のあの「調律されていない金属の板」の部分のNBが初版譜にはないのは良く知られていると思うが、 所蔵のファクシミリにはそもそもパート自体が存在しない。練習番号269の大太鼓とシンバルは下に段を足すかたちで後から追加されている のが明らかなのだが、「調律されていない金属の板」はそうですらなく、全く存在していないのである。従って そもそもファクシミリの解釈が困難な最後の点については勿論、他の2箇所についても、ファクシミリだけ判断するのは危険で、 前の全集版の校訂の報告、今回のクビークの校訂報告を参照する必要があるのは勿論だが、恐らくはそれらが 参照しているに違いない他の資料との比較検討が必要だろう。
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第7交響曲は、マーラーの作品の中では比較的コンパクトな編成の管弦楽のために書かれているが、アマチュア主体の オーケストラということもあり、実質的に倍管に近い編成のパートもあったようだ。しかし特に中低音が充実している(特に コントラバスとヴィオラの存在感は目覚しいものがあった)弦楽器とのバランスは不自然ではなかったし、 ソロ・パートが多く「歌う」ことを求められるティンパニとグロッケンシュピール以外は 調律されておらず非楽音的な側面の強い打楽器群、これまたオーケストラの楽器としては特殊な第4楽章に用いられる マンドリンとギターの響きも埋没することなく、広大な色彩のパレットと繊細で透明な響きの両立という、とりわけこの作品に 顕著な特質も不足なくリアライズされていたと思う。
管弦楽のための協奏曲の先駆の一つとも見做されうるようなソロ・パートが頻出し、複数の楽器が重ねられていても、 それがそのまま音響的な色彩のパラメータに直結するような管弦楽法の結果、奏者への負担は極めて大きなものがあり、 パートによる出来不出来が結果として出てくるのは、一発勝負の実演であるゆえ仕方のないことだし、 既に述べたように、いくつかの層が交替しながら並行して動いていくような構造の作品故に起きる頻繁なテンポの変更、 詳細を極めるアゴーギグの指示に対して大管弦楽が敏捷に対応するのは極めて困難で、それゆえプロの演奏でも、 リハーサル不足による拍の取り方の読み違えによる混乱が起きたかと思えば、その一方で安全運転に徹するあまり テンポの交替を平板化したような演奏もあり、更にはアゴーギグに対するアンサンブルに神経質になりすぎた挙句、肝心の 楽曲の持っているベクトル性が損なわれ、緊張と弛緩のコントラストがなくなってしまうこともまた、まま起きるようだが、 アマチュアのオーケストラで実現できる精度の範囲で指揮者の意図が徹底され、音楽の実質が最大限にリアライズされる という点で、この日の演奏は目覚しい成果を挙げていたように私には感じられた。
細部の解釈とかテンポ設定の問題ではなく全体として受けた印象でこれまでの中で最も近いのは、 奇しくもベルティーニがベルリン・フィルを指揮したものをFM放送でかつて聴いた時の印象だろうか。今回の演奏でも 楽章間でチューニングを行っていたが、ベルティーニも楽章間でのチューニングを厭わなかったと記憶している。 にも関わらず次元の豊かさと全体のコヒーレンスの調和、とりわけ終楽章の説得力という点ではこれは際立った演奏だったが、 そうした点に通じるものを、この日の演奏に見出すことができたように思えるのだ。
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演奏精度を超えた部分に演奏の成功の成否があるというのは、やはりその作品に何かが欠けているということを 証しているのだという意見に対して抗弁するつもりはない。もしそうならば、おしなべてマーラーの作品すべてについて、100年後の 異郷で演奏し、聴き続ける場合にはそれが当て嵌まると思えるからであり、そういう意味では第7交響曲よりも そうした傾向が強いマーラーの作品は他にもある。だがそもそも、私個人としてはマーラー以外の過去の異郷の音楽は 更に疎遠であって、個人的な経緯もあって、唯一辛うじてマーラーのみがアクチュアルな問題をつきつける他者性を 喪っていないとも言えるのだ。それはこの曲がマーラーの生前にどのように受容されたかといった話題ともまた、別の 次元の話であって、寧ろ私には、シェーンベルクのあの擁護、アドルノをすら戸惑わせたあの第7交響曲の擁護こそ、 時代を超えて共感できる立場に思われるのである。
もともと私は個別の部分の演奏精度があまり気にならない(そうでなければ 歴史的録音の幾つかは聴くに耐えないものになるだろう)こともあって、寧ろこの曲の演奏に説得力を持たせるために 不可欠な何かが、この演奏には確実に備わっていることが感じられたことに圧倒された。もっとも個別の部分をとっても 思わず身震いするような魅惑的な瞬間には事欠かない。一例を挙げれば第1楽章の練習番号60番以降、 コーダに至るまでは、オーケストラ全体が、いわば「入った」状態になったことがありありと感じられて、今思い起こしても その感覚がまざまざと甦るような、圧倒的な経験ができたように思える。
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終演後は体調を慮ってすぐに帰途につきはしたが、私は帰宅して後、オーケストラの事務局に対して上記の印象の一部を 御祝いの言葉ともどもメールで送った。来年に予定されている定期演奏会では第9交響曲を取り上げるとのこと。 是非、演奏会に立ち会いたいと思うのは勿論だが、仮にそれが何かの偶然で叶わないことが生じた場合でも、 マーラーの音楽という「ミーム」を1世紀後の異郷で継承していく隣人として、このオーケストラに対するコミットメントは 続けていきたいという気持ちを再確認させる演奏会であった。そして最初にも述べたように、コンサートで音楽を聴くことを 消費に終わらせて、不確かであるばかりか、存続性については更に疑わしい「感動」とやらを対価として得ておしまいではなく、 それがつたない、ほとんど無価値なものであって、書かれて公開されたという事実性のみにしか拠り所がないものであっても、 自分が受け取ったものを無にしないために、こうして感想を公開する次第である。(2010.6.20)

2010年6月6日日曜日

マーラーの「詩と真実」

21世紀に日本に生きる人間がマーラーの幼年時代を思い浮かべるのは難しい。150年前の異国の風景をどのように 再構成したら良いのか。けれども、例えば第1交響曲のあの序奏を聴けば、そうした想像をしてみたい気持ちを抑えるのは難しい。
勿論それはマーラーが実際にかつて見た風景そのものではないだろうけれど、第1交響曲に限らず、おしなべてマーラーの音楽は (彼自らそう語ったように)作曲者自身の経験と密接な関連があるのは疑いない。同じ風景を見ても、そこになにを見出し、何を 受け止めるかは人それぞれだろう。それゆえ、多かれ少なかれ他の音楽についても言えることではあるとはいえ、とりわけマーラーの ような音楽の場合には、風景の感受の「如何にして」への共感を聴き手が持てるかどうかが、その音楽の受容にとって決定的な 意味を持つのだろう。そうして受容されたものは、今度は聴き手の体験のあり方に応じて様々な変容を経て聴き手の中に 埋め込まれていく。絶対音楽と標題音楽の論争の脇で、享受と享受の伝達としての音楽、享受の享受といったプロセスを 考えてみるわけだ。これはもちろん、その音楽がどのような「意図」をもって書かれたかという(例えばフローロスが拘りそうな)議論とは とりあえず関係ない。強いて言えばマーラーの音楽が持っている自伝的な側面が、こうした聴き方を相対的に容易にするというのは あるだろうが。
だがここではそうした享受に纏わる脈絡は一旦捨象して、マーラーが見た筈の風景に如何にして近づくことができるかを問題にしよう。つまり、 マーラーの隣にいた誰かが見たかも知れない風景、もし私がマーラーの隣にいたら見たかも知れない風景へのアプローチに問題を 変換してしまおう。そうしたとき、マーラーの時代には既にあった写真、伝記作者たちが蒐集した当時の状況を覗わせる資料と いったものが手がかりとして思い浮かぶ。
例えば手元にある資料の幾つかには、今日(といって撮影されたのはもう数十年前だが)のカリシュテやイフラヴァのカラー写真がある。 マーラーの生まれた家は、その一部が1937年に消失したため改築されたという事情もあり、全て元のまま、というわけではないにしても保存されているし、 イフラヴァでマーラーの家族が生活した建物も残っている。これが決して「当たり前」ではないのは、自分の幼少時の風景の多くが最早残っていない場合を 思い浮かべればわかる。私が幼少時に生活した家はもう残っていないし、周囲の風景もかなり変わってしまい、自分の記憶の中の風景は最早自分の中にしか 残っていない。その一方で、当時撮影した写真でもあれば、自分が見た視線の高さ、自分が知覚した物体の大きさそのものではないにしても、 当時の様子を知ることはできるだろう。
そして同じことが幸いマーラーの場合には可能である。1912年頃に撮られたらしい写真が残っているのだ。もっとも、 実はマーラーの家族がカリシュトからイーグラウに引っ越したのはマーラーが物心つく前(生後わずか4ヶ月程)だから、カリシュトの風景についてマーラーが どのような記憶を持っていたかはわからないということになるだろう。あるいは物心ついてから改めてカリシュトを訪れ、自分の生まれた家の 周りを歩いたことがあっただろうか。
イーグラウの街についても同様に、マーラーが住んだ家、中庭〈明らかに時期の異なる2種類〉の写真、内部の階段の写真もあれば、市立劇場やシナゴーグ、 街の広場の写真もあれば、当時の市街の平面図(地図)もあり、マーラーの居宅が街のどこにあったのかを確認できたりもする。写真だけでなく、恐らく 写真の代替の役割をしたのであろう版画まで範囲を広げれば、街を郊外から眺望したもの、郊外の風景などもあり、そこをマーラーが訪れた証拠など ありはしないけれど、マーラーの幼年時代の周囲の風景を想像するよすがにはなる。
幼少時のマーラーの写真としては、1865年頃、すなわち5歳の頃のマーラーが椅子の脇に立ち、右手には帽子を持ち、左手で椅子に置かれた楽譜を 押えている写真が有名だろう。更には1871年に撮られた写真、その翌年、従兄弟のグスタフ・フランクと一緒に写っている写真があって、ここまでが イーグラウに住んでいた時期のマーラーを写したものである。(実は1878年と1881年のマーラーを写した写真も撮影場所はイーグラウのようで、帰省の折に 撮られたものらしいが。)
これらに加えて、バウアー=レヒナーやアルマの回想録中にマーラーの回想として記録されている幼少時のエピソードが加わり、例えばド・ラ・グランジュが あるいはフランクリンが筆の力で描き出す風景が加わる。私が心の中で構成するマーラーの幼少時の風景は、これらのものに基づくパッチワークである。 こうした作業が可能なのは、私の場合マーラーをおいて他にいない。理由は単純で、それをするための資料がないからである。だがマーラーの場合についていえば、 自分自身の記憶だって断片的な映像とエピソードの集積であることを思えば、そんなに条件は悪くはないとも考えられる。 勿論、一方にはあるクオリアが他方には全く欠落しているという決定的な違いはあるが、それをおいてもマーラーと自分との間にある距離の大きさを 確認することが出来る程度の厚みはあるといえるだろう。 そしてその厚みは、子供のころにマーラーの音楽を聴いて、音楽によってのみ自分が見出しえたと思いなし、錯覚した風景とは勿論一致しない。
だがだからといって、原理的には可能にも関わらず、ここで私が簡単にシミュレートしたような方向性から背を向け、オペラやら演劇の多くや一部のバレエの 演出と同じように、演出家なり監督なりが今日に相応しいとされる「読み替え」を行って自己顕示を行うための素材としてマーラーを利用したとしか 思えないケン・ラッセルのおぞましい映画や、それ自体には根拠が全くないわけではない連関を逆手にとってトーマス・マンの小説にマーラーの虚像を 重ね合わせることにより、結果的にマンの原作に対する読み替えの成否などそっちのけでマーラーについての誤解を蔓延させるについてはどうやら著しい 「成功」を収めたらしいヴィスコンティの「ヴェニスに死す」やらを、生産的な受容として顕揚することなど真っ平御免である。とりわけ一応は「伝記映画」という 触れ込みの前者には、そんなところだけには俊敏に反応するジャーナリスティックなセンスを誇示せんばかりに挿入されたわずか3年前のヴィスコンティの 「ヴェニスの死す」の映像のパロディとともに、こちらは「創作」と思しきマーラーの幼年時代のエピソードらしい映像が幾つかでっち上げられている。 それらも含めて総じてケン・ラッセルがマーラーの伝記を渉猟し、細々としたエピソードを調べ上げた上で「フィクション」としての味付けとやらをしている点を 好意的に評価する向きがあるのを知らないではないが、それでもなお私がそこに見出すのは、きちんとした考証を行う手間の方は割愛し、 その代わり本人は自信たっぷりに映画館のスクリーンで多くの人間にそれを晒す価値があるとどうやら思っているらしい、そしてこの映画を評価する向きには マーラー本人の強迫観念のもたらしたファンタスムの的確なリアリゼーションということになるらしい、勝手気儘な空想に過ぎない。 どうやらこの作品の独創性なり価値なりの根拠となるらしい「フィクション」化についてもまた、私には寧ろ想像力の貧困とマーラー本人が備えていたらしい 人格的な高潔さや精神性に対する底知れぬ悪意をしか感じ取ることができなかった。それ自体は決して悪い演奏ではないハイティンクが指揮する コンセルトヘボウ管弦楽団の演奏するマーラーの音楽が、その音楽を生み出した本人を肴にした、共感すら疑わしい(もしそこに「共感」があると主張するなら、 それは「共感」ではなく、寧ろ自分勝手な思い込みの類に過ぎないといいたいように思う)恣意的な映像に重ね合わされるのは私にとって苦痛以外の 何物でもないおぞましい経験だった。こちらはケン・ラッセル本人には関係ないが、日本での映画の公開があのマーラー・ブームの時期であったことも忘れてはなるまい。
勿論、自分がマーラーに対して抱いているイメージだって偏っているだろうし、それが権利上正当なものだと主張するつもりはない。だが私は、それも一つの 偏った見方だとしても、マーラーを「聖人」として描き出したシェーンベルクの側に断固として与したいと思う。意地悪に冷静な人は、そのシェーンベルクが 存外ケン・ラッセルの映画を評価したかも知れないではないかと混ぜ返すかも知れないが、こればかりは、頼りになるのは自分の直観だけであっても、 決してそんなことはなく、もしシェーンベルクが存命であれば(カーチャ・マンとアンナ・マーラーの抗議の方は「事実」にまつわるものであるからやや 趣を別にするのだが)、かつて「ヴェニスに死す」に対して「マーラー派」の少なからぬ人間が示した強烈な(ヒステリックと他人が言うかも知れない)反発と抗議に 恐らくは与したであろうように、ここでも同じ反発が繰り返されたに違いないと私は確信を持って言いたい。かつても「マーラーといえば「ヴェニスに死す」」のような 反応やら、マーラーは嫌いだが「ヴェニスに死す」は例外であるといった論調があって、今よりもずっと党派的な偏狭さの中に無自覚に居た私は随分と憤慨した ものだが、今日ではそもそもそんな騒動があったことなどすっかり忘れられ、受容史の一齣として年表の中に納まってしまったかのようで、それはそれで 違和感を感じずにはいられない。
勿論、だからといってマーラーの故地を訪れる式のドキュメンタリーの類が望ましいと言いたい訳では決してない。返す刀で例えばレゾフスキーの映画を顕揚しようと いうわけではないのだ。私は単に、例えばマーラーの幼年時代というのがどんなものであったかを感じとってみたいだけなのだ。事実の集積は必要だ。だけれども、 それは状況証拠に過ぎない。マーラーの回想自体、マーラー自身が意識的・無意識的に加えた変形を経たものであって、「事実」とは異なる、というよりは、 マーラーがそのように語ったものの別の展望を示すことが可能であるような類のものであることに留意すべきだ。マーラーがそのように受け止めたという事実と、 だが状況は他人の目から見たらこのようであったという事実の両面を考慮すべきなのだ。
マーラーの人と音楽の関係の特異性についても、それをむやみに強調し、安易な伝記主義による関連づけをするような姿勢に対する懐疑は必要だろう。マーラーの音楽に 過剰な物語を押し付けるのは、音楽から作曲者に対する伝説を仮構する(マーラーの場合なら、子供の死の歌にまつわる錯誤が典型だろうか)のと同様の滑稽さを 帯びている。その一方で、マーラーの音楽にある自伝的側面、それが「体験」に基づいたものであるという側面を軽視することも別の極端であって、 表面的には伝記的事実と直接的に関連づかないとしても、それでもなお作曲者その人によって「生きられた」ものである点に私は拘りたいと思う。
マーラーは何かの信条を表明することを「目的として」、音楽をその「手段」と したのではない。そういう意味ではマーラーの音楽は狭義の標題音楽ではない。だがそれは、例えば「カラマーゾフの兄弟」が、ドストエフスキー自身の経験、彼が 書き留めた様々な現実の事件を素材とし、ドストエフスキー自身の信仰に対する考えに導かれながら、物語固有の世界を備え、固有の力学を持ち、 一つの世界を形作っているのと同じだ。幾ら素材を渉猟しても、いくらドストエフスキーの意図を実証的に跡付けたとしても、それは「カラマーゾフの兄弟」そのものの 読解とは別であるのと同様、マーラーの音楽を聴くために、素材の渉猟や意図の実証的な跡付けが必須なわけではなく、寧ろそれは端的に別のものと考えた 方が寧ろ正しいのだろう。あるいはこれまたマーラーの読書の中核を占めていたゲーテの創作と生における「詩と真実」を考えてもいいだろう。
だがしかし、私は音楽だけでは不充分なのだ。少なくともマーラーの場合だけは、音楽ではなく、音楽とは別に、そういう音楽を作り出した人を、その人の生を 探ることを止めることがどうしてもできない。極論すればマーラーの音楽の音調は半ば私自身であるといっても良い程度には、自分の中に埋め込まれてしまっている。 だがこれは私「の」音楽ではなく、ある他者の作り出したものなのだし、実際、埋め込まれつつもそれは時折、他者の声として私の中で響くことがある。私自身の 幼年時代と違った幼年時代の印象が、音調の中にこだましている。克明さにおいても、クオリアの強度においても自分がかつて見た風景とは決定的な違いを 持ちながら、マーラーが見た風景が、マーラーが風景を受容したときの情態が、私の中に甦るような気がするような一瞬が確かにあるのだ。それが「客観的に」 どういう価値を備えているのか、そんなものが世代を超えて伝達されることにどういう意味があるのかは杳として知れない。だが、そうしたことが起きることは 私を非常に強く魅惑する。マーラーの愛読書でもあった「意志と表象としての世界」の第3部(特に第52節)の中でショーペンハウアーは音楽を「意志全体の 直接の客観化」であるとし、音楽が表明しているものを「現象ではなく、内面的な本質であり、あらゆる現象の即自態であり、意志そのものである」としている。 レムが「ゴーレムXIV」の講義に仮託して述べているように、ショーペンハウアーは過度の一般化をしてしまったに違いないし、だから粗雑にも「意志」と ショーペンハウアーが呼んだものに、現代なら可能になった肌理の細かさを回復させる必要があるだろうから、それに応じて上述の音楽についての言及も 翻訳されなおす必要があるだろうが、にも関わらず、ショーペンハウアーは極めて優れた直観を備えて、音楽によって世代を超えて伝わるものを言い当てている ように思えてならない。ちなみにショーペンハウアーが範例的に思い浮かべていた音楽が、単に時代的な前後関係から無理だからというだけでは決してなく、 マーラーのような音楽ではないということは、この場合には問題にならないと考える。マーラーの音楽は、これはアドルノが別の文脈で的確に言い当てている ことだが、極めて「唯名論的」であって、例えばショーペンハウアーが上述の引用のすぐ後で述べていることと一見したところ一致しないように見えるかも知れないが、 実際にはそれは問題ではないはずなのである。だが、これらについては項を改めて述べるべきだろう。(2010.6.6)

2010年5月29日土曜日

マーラーの本棚

今年はマーラーの生誕150年にあたり、コンサート・プログラムでは例年にもましてマーラーが取り上げられることが 多いようだし、日本国内だけ見ているとあまり実感がないが、海外まで視界を広げれば、マーラーに関する書籍の 出版の頻度は目だって高いように見える。だが、自分でも何かやろうと思ったところで、そういう暇などありはしない。 マーラーだって日曜作曲家だったが、私がマーラーを聴いたり、マーラーに関して書いたりするのは (自分でどうそれを定義しようと)世間的には「趣味」ということになるだろうし、であってみれば「趣味」如きに時間を 割くことが許容されるほど「世の成り行き」は甘くはない。今年はマーラーのアニヴァーサリーである、という認識自体、 「世の成り行き」の中では、かき消されてしまうほど小さく、限られた圏域でのみ共有されているに過ぎない。 マーラーなど必要としていない人間は幾らでもいるし、マーラーの存在さえ知らない人間は更に多いだろう。 そうした大多数の人たちに対してマーラーの価値を唱道することなど己の能く為すところではないし、その権利も 必要性も認められない。

というわけで「世の成り行き」は寧ろマーラーについて何かをしようとする時間を奪い去る傾向を年々強めている。 なくなるのは時間だけではない。気力・体力もまた確実に奪われていく。それでも体を壊さない程度には 休めている現実を感謝すべきなのかも知れないが、時間があるんだから、文句を言わずその時間にやれば いいだろうと言われてしまうと、自分のキャパシティの小ささに絶望せざるを得ないということになる。 ワーカーホリックとさえ言われる(例えば、福島章「マーラーは 時代を先取りする」を参照)マーラーのような勤勉さがあればともかく、遥かに及ばぬ己の怠惰をどうすることもできず、 〈丁度今、そうであるように〉偶に休みに本当に空いた時間ができても、マーラーがマイアーニヒで休暇の第1日目を過した折、 アルマに宛てた書簡に書いたように「ばらばらになった私の内的自我の破片をとりあえずざっとかき集め」 〈1904年6月23日付け書簡、白水社版の酒田健一訳による〉ているうちに大抵の場合には終わってしまい、 何かすることなどできないことの方が多い。こうした文章を書いている時は相対的にはましな方なのだ、、、

ショーペンハウアーは「読書とは他人に考えてもらうことだ」と書いていたと思うが、自分の頭が働かないならせめて読書をと思って、ここのところは通勤などの移動時間にマーラーが読んでいた書物を読むというのをやっている。 それまでは論文を読む作業を続けていたが、論文の場合にはメモを取り、整理する時間が必要なのに、それが取れないため、已む無く中断することにしたのだ。 マーラーの読書傾向については別のところで「人物像:本棚」と題してとりあげているが、マーラーに対して私が 拘りを捨てきれない理由の一つとして書物の嗜好に対する親近感があるのは間違いない。そこで窮余の策という わけでもないが、限られた時間と能力で可能なこととして読書が残ったわけだ。

マーラーの読書傾向についての情報の出所としては何といってもまずは書簡、そしてアルマやバウアー=レヒナーの回想が思い浮かぶが、 実際にはブルノ・ワルターの回想の「個性」の章の記述の影響が大きいのではなかろうか。 ワルターが挙げているのはショーペンハウアー、ハルトマン、ゲーテ(エッカーマンの対話集も含めて)、ヘルダーリン、 アンゲルス・シレジウス、ジャン・パウル、ホフマン、スターン、ドストエフスキー、セルバンテス、シェークスピアといったところだが、 それらに言及するに先立って、マーラーの読書傾向の特徴として科学の哲学的研究が多いことを指摘している点は 一層興味深い。ワルターが例として挙げているのは、フェヒナー、ロッツェと、ここでもまたゲーテの自然科学的研究である。 音楽が文学に多く素材を求めることから、作曲家は文学に通暁しているというようなイメージがあるが、実際には、 例えばブルックナーやフランクのように文学的なものに対する関心がほとんどないケースも少なくない。当然のことながら、 文学的なものに対する嗜好は勿論、一般に「教養」と言われるものの多寡は知性の高さと相関しているわけではない。 マーラーは自分でも自覚していたとおり読書家だったけれど、彼の文学的な書物の嗜好は、実はアナクロニックな側面があって、 同時代の文学よりも過去に偏し勝ちであったのに対し、哲学・科学の分野については同時代の動向に遥かに敏感で あったように見える。21世紀の今日から見れば100年前のマーラーの時代そのものが既に過去のものなので錯覚しそうになるが、 マーラーその人の立ち位置からの展望からすれば、文学的な嗜好の保守性に対し、哲学・自然科学への関心は、プラトンや アリストテレスからマーラーが生きた同時代までの大きな広がりを持っている点が特徴で、最新の動向にも 敏感であったように思われるが、この点についても既に別のところで繰り返し取り上げているので、ここでは扱わない。 一つだけ挙げれば、ショーペンハウアーが「意志と表象としての世界」で提示した見方は、例えばスタニスワフ・レムが 「ゴーレムXIV」で言及している(第43講・自己論)ように、時代の制約からあまりに思弁的に過ぎ、今から見れば滑稽にさえ見える過度の 一般化が著しいとはいうものの、一般に思われている以上にずっと現代的な側面を備えているということを 最近「意志と表象としての世界」を再読して確認したことは書き留めておきたいように感じている。

その一方で、マーラーの「大地の歌」における「東洋趣味」なるものの背景には、ショーペンハウアーの影響が少なからずあるのではなかろうか。 ニーチェが自説をゾロアスターに託したことはおくとしても、リュッケルトにせよ、フェヒナーにせよ、中国ではないにしてもペルシアやインドまでは 関心の領域に含まれているわけで、時代の趣味と無関係とまでは言えないにしても、やや異なった思考の流れをそうした系譜に読み取ることが できるように思われる。(ちなみに日本ではショーペンハウアーは、戦前以来、デカルト、カントと一まとめにされるくらいの知名度を持っているが、 西欧においては寧ろ傍流扱いされているようで、この辺も日本にいると遠近感が狂いがちな部分のようだ。)

もう一つ気付いたことだが、バウアー=レヒナーの回想で第3交響曲のフィナーレについて語ったくだり(邦訳p.142)に出てくる「イクシオンの車」は、 恐らくは確実に「意志と表象としての世界」でそれが出現する文脈(第3巻第38節)を踏まえて言及されているように思える。同様に「子供の魔法の角笛」と アンゲルス・シレジウスが第3巻第51節で一緒に論じられているのも興味深いし、実際にショーペンハウアーが好んだ音楽は(ゲーテがやはりそうで あったように)マーラーの嗜好とは必ずしも合致していないにしても、マーラーが音楽や作曲の営みについて語った言葉には、第3巻の掉尾を飾る 第52節の音楽論がこだましているように感じられてならない。実証的な研究にならないからかも知れないが、「意志と表象としての世界」の内容や 言い回しとマーラーのそれとの関連について、具体的な言及がなされないのは些か奇異にさえ感じられる。例えばカントとは異なって、ショーペンハウアーの 主著は決して難解な書物ではない。もしあるとすれば、あまりに飛躍した論理や気儘なアナロジーについていけないケースや、体系性を欠いている点に 苛立ちを感じたりといったケースだろうが、それにしてもこれだけマーラーに関する言説がある中で、ショーペンハウアーとの関係の具体的な様相についての 言及をほとんど見かけないのは不思議だといった印象を、改めて確認した。

もっとも、さすがに上に述べた第3交響曲フィナーレに関する発言については、 言及されている文献もある。例えばフランクリンの第3交響曲についてのモノグラフ(Cambridge Music Handbooksのシリーズ所収)のpp.40-41は 直接言及しているし、フローロスのマーラー論第3巻の第3交響曲の章では上掲のマーラーのコメントに言及している箇所(p.99)こそ、イクシオンの車自体の ついての注記のみであるが、それに先立つ部分では、フェヒナーにも目を配りつつ、ショーペンハウアーの影響については論じている(pp.81-82)。フローロスに ついては邦訳の方がより徹底していて、p.133の訳注で「意志と表象としての世界」の該当箇所の参照と引用がされているほか、ジャン・パウルの 「ジーベンケース」および「巨人」における使用例についての言及もなされている。フローロスは第4交響曲に関してもショーペンハウアーの影響を論じており、 そうした言及自体は実証的な観点からも妥当なのだろうが、いずれにしてもキーワードを媒介とした単なる言及に留まり、作品全体のコンセプトの ようなものに対する検討にはなっていない点はフローロスの「プログラム=標題」についての主張を思えば、些か表面的であるとの謗りを免れないであろう。 もちろんこれは邦訳のないフローロスのマーラー論第1巻の第4章「美学」第4節「芸術と世界:形而上学としての音楽」、特にその中の「ショーペンハウアーと ワグナーの音楽哲学と夢の理論について」の項(p.152以降)とそれに続く項(p.155以降の「マーラーのショーペンハウアー・ワグナー的音楽哲学の解釈: 音楽の形而上学的宗教的な使命」)の存在を考慮に入れた上での印象である。

ちなみにショーペンハウアーとゲーテとの交流を反映してか、「意志と表象としての世界」には「ファウスト」への言及も随所にあり、第1部のグレートヒェンについてがそのほとんどを占めるとはいえ、 それをマーラーのそれ(第8交響曲のみならず、それ以前・以降も含めて)との関係の様相もまた興味深いものがある。 (一方で、この主張が甚だ一方的であることも否定し得ない。慧眼な方なら、私がマーラーの友人であったリーピナーの存在を全く無視しているのは根拠もないし、 フェアではないと批判されるかも知れない。実際、実証的なフローロスは、リーピナーの影響の調査についても怠り無く、総じてフローロスのマーラー論第1巻は こうした点では非常に徹底しており、これが翻訳されずに第3巻のみの邦訳が出ているのは(仕方ないとはいえ)非常に残念に思われてならない。ともかくも、 結局、何を選択し何をしないかに偶然的な側面が付き纏うのは避けられない。 自分の展望でしかマーラーに接することはできないし、語ることもまたできないのだ。)
似たような事情は、やはり最近読み返した「ファウスト」そのもの、エッカーマンの「ゲーテとの対話」、ジャン・パウルの「ジーベンケース」、スターンの 「トリストラム・シャンディ」といった「マーラーの本棚」の書籍それぞれについても言えるように思われる。流石に例えばミッチェルは第1交響曲についての 記述のところでジャン・パウルの「巨人」をわざわざ一部引用して、マーラーの音楽との関係に留意しているが、その一方で、ジルバーマン「マーラー事典」の ジャン・パウルに関する項目のように、独断的にしか思えないような影響関係の否定の記述にぶつかると、果たしてジルバーマンがせめて一冊なりとも ジャン・パウルの小説を通読し、文体のみならず、主題や作品の構造について検討をした上で書いているのか、思わず疑いたくなってしまう。 スターンについて言及されることは更に稀だが、ジャン・パウル、ゲーテのいずれも(しかもその立場の相違、資質の相違に関わらず)、いずれもスターンを 非常に高く評価し、のみならず(終始常にではないにしても)自分の創作の或る種の手本と見做していたことすら窺えるのであれば、そこにマーラーの 精神的な「圏」の中の布置のようなものを見て取ることができそうに思われる。スターンから更にセルバンテス、「トリストラム・シャンディ」から「ドン・キホーテ」 へと広がるのもまた自然なことで、アナクロニックであれば尚のこと、そこにはマーラー自身が意識的に選びとった系譜がはっきりと読み取れるではないか。 「トリストラム・シャンディ」第1巻の冒頭の銘、エピクテータスの「行為ではなく、行為における意見こそが人を動かす」を、マーラーの音楽のメタ的な性格と引きつけることも 突飛とは言えないだろう。(アドルノの顰に倣いつつ、だがアドルノにやや逆らって言えば、マーラーの音楽の「小説」的性質を云々する際の、小説の モデルは、アドルノが引合に出しているものよりは、寧ろ、マーラー自身のこうした選択に添った流れ、寧ろバフチン的なポリフォニーを通じて20世紀の小説に繋がるような流れこそが相応しいと 私には感じられる。ドストエフスキーの「カラマーゾフの兄弟」、セルバンテスの「ドン・キホーテ」はいずれもマーラーの本棚の中でも特別な存在だったらしいが、 その長さにも関わらず、私自身繰り返し読み返す数少ない文学作品に含まれるこれらこそ、マーラーの音楽との対比に相応しいし、自分がマーラーを 聴く態度と、これらの小説に接する態度との間の親和性も確かなものだ。)

だからといって(例えばフローロスであれば恐らくそう主張するだろうが)、マーラーの本棚の書籍を読まなければマーラーの音楽を理解できない、という わけでは全く無い。フローロスの如き意見は、音楽を後づけで、あるいは外から説明するための語彙に音楽を還元しようとする 倒錯でしかなく、せいぜいのところが実証的なアプローチによって創作の文脈を明らかにすることが可能になるに過ぎない。 創作の文脈は、それによって生み出された作品そのものではなくその条件の一部に過ぎないし、寧ろそうした文脈の限定をはみ出る部分がなければ、 時代と環境の隔たりを超えて作品が享受され続けることも不可能になる。同じように、マーラーの音楽を聴くとき、作曲者がどのような書物を読んで いたかを知り、それを実際に自分でも読むことが必須の条件であろうはずがないし、そうすることが無条件に聴取の質を担保することもまたない。 ただ単に、私の場合にはこのような接し方をしているし、今後もしていくだろうという、ごく特殊な受容の具体例を述べて、 そうした視点からの展望と、それに対する素朴な感想を書き連ねているだけ過ぎない。そもそも生きている時代が違うのだから、特に マーラーと同時代のものに対しては視座の違いに応じて座標変換をすべきだし、実際そうしている部分もまた存在するのである。

例えばフェヒナーやロッツェ、ハルトマンのようなマーラーと同時代の思潮についていえば、私にとっての同時代のより新しい思潮に座標変換によって 移動するのが相応しいことのように私には感じられる。ショーペンハウアーは上述のように「ゴーレムXIV」のような文脈においても通用するような 先見の明を持っていただろうが、自然科学の分野において当時の知識の制限の下で書かれた部分まで有難がるのは少なくともマーラー自身の 指向とは背馳しているとしか思えない。ゲーテの植物論や色彩論にしてもまた然りだろう。今日にマーラーが生きていれば、今日の最新の知見に 関心を抱いたに違いない。この点について遠近法的な倒錯に陥った骨董趣味はマーラーその人の精神に相応しくない。そしてマーラーの音楽を 通じて私に伝わってくるマーラーの「声」は、座標変換をした後の、今日における展望の下でも依然としてその力を喪っていない。今日が 「マーラーの時代」だと言い募るのは、それ自体が視界狭窄に陥った度し難い傲慢さの現れとしか思えない。端的に、人間が、人間の意識の 様態が今のようなものであるうちは、マーラーの声は届くのだ。ジュリアン・ジェインズが「二院制の心」に関する仮説で示唆したような、意識の 様態の変容が今後更に起きた後の未来において、マーラーの声がどのように響くかは想像を超えているけれども。

マーラーが私にとって特別な存在であることを、最近の読書を通じて改めて確認できたことは、個人的にはアニヴァーサリーに相応しいことであったと 言ってよいのかも知れない。実際、同じことを誰に対してもできるわけではない。否、マーラーの場合が例外なのであって、他の作曲家に対して 同じことをやるのは自分の嗜好から言って無理だろうし、ただでさえ「世の成り行き」に翻弄されている中、時間的にも全く不可能である。 「所詮は趣味なのに何をごちゃごちゃ言っているのか」と言われれば返す言葉はない。けれど、単なる「趣味」ならもう窒息し、絶えてしまっているだろう。 マーラーはそうではない。それは自分の一部であり、寧ろ「世の成り行き」の中で維持していかなくてはならないものなのだ。 「お前の意識のあり方になど客観的には価値がない」と言われればそれまでだが、ショーペンハウアー風に言えば、「意識はかくのごとく 盲目の意志によって動かされているのだから仕方ない」というのが応答になろうか。将来において仮に「意識について」の諸々の問題が解けたとしても、 「意識にとって」の問題が解けたことにはならない。結局ところ私のような愚かな「意識」にとって、マーラーはこの上ない同伴者、水先案内人なのだ。 (2010.5.29/30, 6.6)