お知らせ

GMW(Gustav Mahler Werke, グスタフ・マーラー作品番号:国際グスタフ・マーラー協会による)を公開しました。(2025.4.20)

2011年6月11日土曜日

マーラーの「音楽」

マーラーの「音楽」。一見したところそれは自明のものに見える。だが、最初の曖昧さは「の」に存するだろう。「の」の曖昧さは それ自体が更に分岐し、それらのそれぞれについて答えるためには膨大な時間を要するであろう。それでいてそれらはそれぞれ独立の ものというわけではなく、もう一度マーラーと名づけられた或る種の「場」の如きものにおいて相互に作用しあっている。例えばそうした 分岐の一つはマーラー「にとっての」音楽と、マーラー「による」音楽の対立であるだろう。さらに例えば後者の意味でのマーラー「の」音楽は だがこれも一義的なものではなく、寧ろマーラーが生きていた時代にあっては、まずもっては指揮者マーラーが指揮した音楽の 「解釈」のことであったかも知れない。マーラーが生きた時代の制約でそれを没後100年の今、直接に(だが、直接性の定義は?)知る術は 無いとしても。これはこれで単独で扱っても際限なく問題は広がっていくだろうが、ここでは直接それを扱うことはせず、 マーラー「の音楽」のもう一方との関係においてのみ間接的に後でもう一度立ち戻ることにしよう。

そのもう一方とは、こちらこそが今日一般にそう思われているマーラー「の音楽」、作曲家マーラーの書いた音楽の「作品」の方なのだが、 これまた、一体それが「どこ」にあるのかという問いに答えるのはそんなに簡単ではない。既に完成されていた記譜法のシステムと 印刷術によって複製可能となった楽譜がマーラーの音楽なのか。それとも誰かがどこかでその楽譜を用いて演奏した時の音響こそが マーラーの音楽なのか。いずれをとっても更に問いは続くだろう。楽譜には校訂の問題が付き纏うし、音響の方は、まず演奏について まわる解釈の問題があり、更にその音響に接する媒体の問題がある。コンサートホールもそうした媒体の1つだし、レコード、CD、 ラジオ放送、テレビ放送と変遷し、更にMP3ファイルのダウンロード、Webでの演奏会のライブ・ストリーミングに至るまで、様々な 媒体の差異は「音楽」と無関係ではありえない。それに加えてマーラー自身が指揮者であり、解釈して演奏する立場であったことが、 「作品」にどう関係しているのかという問いをもう一度重ねてみることもできるだろう。複製技術との関連で行けば、ベンヤミンが映画の 製作の方法の演劇との違いに注目したのと並行して、録音媒体に記録されることを前提としたスタジオ等でのセッション録音のプロセスや いわゆる「ライブ録音」と呼ばれるものにも実際には介在する録音に対する様々な編集や加工といった操作に注目すべきだろう。

他方、マーラーが生きた時代が近代的な音楽史の確立の時期にあたり、過去の音楽に対する歴史的な展望を持ちつつ、 その一方で同時代の先行する潮流としてのブラームス派とワグナー派の対立、逆に同時代の後続する潮流としてのシェーンベルクの音楽、 あるいはドビュッシーの、アイブズの音楽の中でマーラーの音楽が作曲されたという当時の時代背景に規定される「音楽」についての了解が マーラーの「音楽」を規定している側面も留意する必要があるだろう。(だが勿論、直ちにこう問うことができる。その了解とは誰にとっての それなのか。再び偶然最初の分岐であったもの、マーラー「にとって」の音楽とマーラー「による」音楽のいずれがここで問題になっているのかを 改めて問うことができるだろう。)

かくの如くマーラーの「音楽」はマーラーが生きた時代の音楽を規定する様々な制度の制約を受けたものだが、100年の時と 文化の違いを隔てて存続しているに違いない或る種の制度的な連続性が今日におけるマーラーの「音楽」を可能にしていることは 確認しておいても良かろう。コンサートホールや歌劇場での演奏と享受の形態は勿論多少の変化はあるけれど、基本的には今日と 大きく変わるわけではない。それまではドラスティックな変遷を積み重ねてきた楽器、楽器の集合体であるオーケストラという演奏形態も同様に 今日なお廃れることなく、大きな変化もなく今日用いられている。

それと同時に喪われてしまった文脈の厚みを軽視すべきではなかろう。マーラーの音楽の周囲で鳴り響いていた他の「音楽」、音楽以外の音響は 今日のそれとは異なるし、既に述べた媒体の変化も一緒に考える必要があるだろう。更にそうした条件が作曲の現場を逆に条件づけ、 制約することにも留意すべきだろう。オーケストラ作品の作り方もマーラーの時代と電子的な音響の操作の経験が浸透した今日では 同じであろう筈が無い。オーケストラやコンサートホールそのものは大きく変わっていないとはいうものの、その社会的な機能や地位は 大きく変化し、今やオーケストラという媒体がもはや補助金なしで維持ができない「文化財」となってしまっていること、いみじくも「クラシック音楽」 という呼称が物語るとおり、媒体も作品ももはや過去のものであり、意識的な維持・継承が必要なものである点も決定的な差異だろう。 「芸術音楽」と「軽音楽」の対立そのものは既にマーラーの時代にもあったとは言いながら、その内実は大きく変化し、特に伝統を有さない 日本においてマーラーの音楽の「芸術音楽」からの逸脱を身体化された経験として受け止めることは困難であることは、例えばシュニトケの 多様式主義と対比してみれば否応なく認識されるに違いない。「民謡風」であることくらいはわかり、通俗性について漠とした感覚を 持つことはできても、その陳腐さの度合いを同時代の西欧人が感じたように意識することはできない相談である。

次にやって来るのが、マーラーとは誰かという問いだ。享受の経験において、まず初めに音楽があったとするならば、マーラーを規定するのは、 実は音楽の側、マーラーの署名のある音楽の総体がマーラーを規定しているという側面があるだろう。とりわけマーラーの音楽においては人と 音楽との関係が問題になることが他の作曲家、他の作品に比べて多く、それゆえにマーラーの生涯や気質についての伝記的知識が 作品の解釈に流れ込むかと思えば、逆に音楽の側から人間像が形成され、時として事実を凌駕しかねないといった事態が生じる。 こうした事態がとりわけマーラーにおいて顕著であるとするならば、要するに「の」が含意する内実はその都度、固有名毎に定まるもの なのだという見方さえ成り立つかも知れない。マーラー固有の事情ということであれば、既述の演奏家にして作曲家という点が既にそうで、 とりわけマーラーが歌劇場の指揮者であり、またコンサートの指揮者でもあったことが作品に与えた影響については、明らかに中傷や 誹謗のニュアンスを帯びたカペルマイスタームジークであるという生前からついてまわった規定から、しばしば作品の「意味」の解釈の 根拠として用いられる様々な他の作曲家の作品の「引用」の問題に至るまで、演奏者、なかんずく指揮者であることが作曲に 与えた影響について論じられるかと思えば、社会学的・経済学的な側面から、注文によらない道楽としての作曲、シーズンオフである 夏の余暇の作曲家といった側面が取り沙汰されることにもなる。そうした「作品」の外部がマーラーの署名を持つ作品を条件づけているのは 確かなことだろう。あたかもそれを問うことが自明であるかの如き、かの「標題」についての際限のない問い、ただマーラーという名の、 マーラーの署名のある作品の周囲をうろつきまわることのみしか念頭にないかのような徘徊は、「作品」について語ると見せかけながら、 その実、作品を取り囲む文脈についての詮索に過ぎず、「音楽」の側が呼び出す文脈には無頓着に、自分こそが、そして自分のみが 「正当な」作品理解のための条件を具備した特権的な立場を僭称し、その地位を恰も「作品」そのものが認めたかの如く偽っているに過ぎない。 署名された作品は、まさに署名されることによって、投壜通信にも似て、寧ろそうした特権的な文脈なしに漂流することになった筈なのに。

ところで、複製技術によってコンサートホール以外の場所で聴くことが可能となったマーラーの音楽は、「絵画」における複製のようなものなのだろうか。 自宅のパソコンにダウンロードされたマーラーの音楽のMP3音源は、自宅の壁に貼ってある絵画の複製のようなものなのだろうか。 ラジオやテレビで中継され、あるいは記録されて後、放送される演奏会での演奏は、(アドルノがシュピーゲルのインタビューに対して答えて 言ったように)「おこぼれ」に過ぎないのだろうか。だが、もともと放送目的で演奏された場合には、一体それは何の「おこぼれ」なのだろう。 いつの日か、「ピリオド・アプローチ」として、かつて存在した「コンサートホール」を復元し、もともとそうした場所で演奏されることを想定して 書かれた音楽を「復元」する作業が行われるようになるような時代が到来するだろうか。 一方で、印刷されて比較的容易に手に入るようになったマーラーの作品の「楽譜」は、これまた所詮はマーラー自身の書いた手稿の「おこぼれ」なのか? ワープロが手書きを駆逐しないまでも、一定の割合で手書きに変わったように、ノーテーションソフトの発達で楽譜を手書きすることなく作品を書きとめ、 それをそのままインターネット経由でダウンロードできるよう公開した場合、頒布された楽譜を含むファイルは一体何の「おこぼれ」なのだろう。 署名は複製されるが、もともとのオリジナルは本当に単一性を保持しているのだろうか。複数の草稿があり、仮にどれがどれのコピーかが判明したとしても、 ではどちらが「真」の作品なのか。マーラーの場合に固有な一例を挙げれば、第6交響曲の中間楽章の順序の問題のように、事実問題の水準での 蓋然性を限りなく高めていきつつ、だが、「作品」としては事実が指示するマーラーの「意図」なるものに反した選択をなおも許容するような事態が、 あるいは唯一の決定稿を、マーラーその人が(もしかしたらある一連の予定されていたプロセスの途中で、外的な要因によって中断された可能性 だってありえるのだが、そうした事情は無視するか、あるいは最小限の配慮に限定し)この世を去ったときに遺した形態に求める発想が、 もしかしたら便宜的で実用的な事情に基づく「現実的な妥協」であったかも知れない改変の価値を履き違えたかに見える「嘆きの歌」のマーラー 協会の批判版全集における稿選択のような事態が物語るように、「真正な」唯一の作品に辿り着くことが意味を喪うケースがあること、既に 起源自体が仮構である可能性が常に存在することに留意すべきだろう。

価値論的な判断はおくとして、記譜法のシステムといい、音楽を保存する媒体のフォーマットといい、それらを用いたときそれら自体のもつ 媒体としての制限が記録する対象を歪めてしまう。だが、記譜する「手前」にマーラーの「作品」を想定するのは事後性に基づく仮構ではないのか。 マーラーは作曲家であると同時に演奏家でもあったし、それゆえ自作品の解釈者でもあった。だが時代の制約もあってマーラー自身の演奏解釈の 記録は残っていない。コンサートホールでの演奏は繰り返し行われているが、ホールの音響的な条件がマーラーの「音楽」に相応しいものであるか、 オーケストラの演奏や指揮者の解釈がマーラーの「音楽」に相応しいものであるかは別の問題であるし、理念としての理想的なマーラー演奏のための アコースティクス、規範となる解釈を想定するのは、これもまた事後性に基づく仮構であろう。演奏の現場を知り尽くしていたマーラーは、自作の 「楽譜」すら絶対視せず、その都度の音響的な条件に応じた改変を認めていた。演奏が録音されるときに技術的な制約で情報が欠落してしまうことに 対する異議申し立てと、あるホールがマーラーの作品の演奏に適さないという理由で演奏をキャンセルすることの間に本質的で飛び越えられない ギャップがあるのだろうか。勿論、程度の差はあるし、その程度の差によってあるものは許容され、あるものは拒絶されるのだが、それは結局のところ 程度の差と見做して差し支えないのではなかろうか。

ここで再び「作曲家」マーラーの「改訂」の問題の展望の下で見るならば、マーラーが自分自身をも含めた「現場の判断」に基づく改変を許容したのは、 一部のパラメータに過ぎないことにも留意は必要だろう。既述のような絶えざる改訂のプロセスは楽譜が流通した後でさえ行われており、 「改訂」とその場限りの「現場の工夫」とを見分けることも微妙なケースがあるだろうが、それでも「演奏家マーラー」と「作曲者」マーラーの区別は 多くの場合可能だろうし、初期作品の複雑な創作のプロセスの経験の後、中後期の作品においては第6交響曲の中間楽章の順序の問題を 除けば作品の構造に纏わる変更はほとんど為されなかったと言って良く、不変とは言わないまでも、比較的安定した次元があり、それが 「作品」を実質的に規定しているのを軽視することは許されない。

マーラーを巡ってはコラージュ的な作曲法、多様式主義に繋がるような 通俗的素材の利用、晩年の無調的な響き、調律されていない特殊な打楽器の多用による騒音的な音響の導入などといった側面が 強調されることが多く、勿論そうした「傾向」はマーラーにおいて少なくとも萌芽的なレベルでは確実に存在したのだろうが、そうはいっても マーラーにおいては、既成の技法として取り上げられたのでなく、唯名論的に作品の内実の要請に従っていわば生み出されたのだと いいうることに注意しよう。それらが作曲された文脈ではマーラーの作品は「音楽からの逸脱」と見做されるような効果を備えていたことも 軽視すべきではないし、マーラーの音楽の唯名論的な、その都度形作られる形式にしてからが、ややもすれば単なる無形式と見做され 批判された事情も銘記すべきだろうが、そういう意味では変わったのは周囲の文脈の方で、マーラーの「音楽」は署名され、アーカイブに 保存されることによって、タイムカプセルに入れられたもののように変化せずに私の手元に届いているのだ。しばしば過去においては 新規な効果を持ったものが、今日では陳腐化して新鮮な効果を最早持ちえなくなっているといった言われ方をするが、ことマーラーの場合に 限れば、さしあたり今のところは、後から振り返ってみれば、相変わらずかつての同じ批判と同じ擁護が繰り返されているように 回顧されるのかも知れない。今日マーラーが生きていたら、作曲した作品が今遺されているものと同じものであったとは到底考えられないが、 その一方で、時空の隔たりを超えて残ったものを、あたかも骨董品のように陳列して眺めるがごとき受容の仕方は、最早受容とも継承とも 呼べまいし、マーラーの作品を通路にして過去の文脈の方に降りていき、時代の隔たりなどまるでないかのようにそうした文脈の中に 自分が入っていくような受容の姿勢も、マーラーの「音楽」を(勿論、そうした姿勢をとる人とってはそれこそ真正な聴取姿勢と 考えているに違いない)ある予断の中に閉じ込めるばかりで、それが時空の隔たりを超える力の在り処を明らかにすることはない。

いつの日か、マーラーの「音楽」が最早コンサートホールで、人間が楽器を演奏することによって 演奏されるのではなく、楽譜から直接、(自動的とは言わないまでも)音響的に合成されて再現されるようになったとしたら、それはもうマーラーの 「音楽」ではないのだろうか。それを聴くのは(シュトックハウゼンが想像したような)宇宙人ではなく、ロボットでもなく、人間なのだとしたら。 もしかしたら、その時の聴き手は、今日の聴き手と同じ「人間」では最早ないと言うべきなのだろうか。今、あなたはマーラーの「作品」の 「楽譜」を開き、楽譜を目で追いながらあなたの頭の中で音響を仮構するとする。最早空気の振動という意味での音響は存在しない。 その時あなたの頭の中を流れるのは、それでもなお、マーラーの「音楽」なのだろうか。熱心なあなたはじきに楽譜を覚えてしまい、 楽譜なしで頭の中に音楽を思い浮かべられるとしたら、その時には?楽譜は昇ったら捨ててしまえる梯子であると言い切ってしまって いいのだろうか。

「楽譜」以前にマーラーの音楽が「あった」のではないだろう。楽譜という記録のための補助具は、マーラーの交響曲のような長大で 複雑な作品の「創造」そのものにとって不可欠なもの、単なる外部記憶の媒体ではなく、作品の成立の条件をなし、プロセスを 構成する要素であるに違いない。とりわけパートタイムの夏の余暇の作曲家であったマーラーの場合、スケッチ帳からパルティチェルに、 それからスコアにという転記・編集の作業そのものが創作にとって極めて本質的なものであったに違いない。それはまた他者への伝達のために、 別の世代への継承のためにも必要だろう。それと同様に「演奏」なしでの伝達・継承もまた、ないだろう。仮にそれがアコースティックな楽器演奏に よる現実の空気の振動による音響の記録ではなくても、完全に電子的に合成されたものであったとしても、あるいは脳の中の音響像に 過ぎなくても、そうした合成や像の形成の前提をなすものとして、いわば「原」‐オーケストラの如きものの「演奏」があるのだ。

つまり、記譜され署名されてアーカイブ化される音楽は亡霊的であり、事後的に「再現」されるしかない。「再現」とはいうものの、 最初の1回は実は存在しない。作品が媒体に定着される過程、それは少なくともマーラーの場合は作品創造の過程に他ならないのだが、 イデアルな存在としての「音楽そのもの」、天才の頭の中に閃いた霊感の産物を抹消することにより、遅れて作品として生成する。自らが演奏家で あり、演奏を重ねながら改訂を加えていったマーラーの場合には、最初の演奏すら創作の過程を終結させる特権的な時点ではありえない。 だがいずれにしても、媒体への定着、それによる複写の可能性、再現可能性によって「作品」は成立する。楽譜は作品の不完全で部分的な備忘、 解読し、解釈することによる再構が求められている不完全な代補に過ぎないが、ことマーラーの音楽作品はそのようにしか存在しえないのだ。

純粋な、如何なるメディアをも想定しない透明なマーラーの「音楽」、いわばイデアの如きものとしてのマーラーの「音楽」は、それ自体が 事後性に基づく仮構なのだ。少なくともマーラーの「音楽」に限れば、それは予め、例えばマーラーの時代に存在した(そして100年後の 現時点でも存在している)楽器群に依拠している。サンプリングされた音響の合成の前提をしないという極端な仮定の下ですら、 それらの楽器の音響上の特性についての知識なしには、現実のオーケストラを不要とする音響の合成の前提が成り立たない。 楽譜に書かれている奏法指示の記号についても同じことが言えるだろう。更に、これまたマーラーの場合を特徴づける楽譜における自然言語での 様々な指示は人間の奏者、しかも特定の音楽文化の伝統に属する人間を想定して書かれていて、そうした背景なしにそれらを 音響上の効果に変換することはできない。更に一見したところ量的な変換が可能であるかに見える強弱法やアゴーギグなどの指示も、 実際には同様に特定の音楽文化の伝統に属する人間でなければ量的なものへ適切に変換することはできないのだ。 あなたは実演で聴いた、あるいはCD等の録音媒体で聴いた様々な演奏における楽器間のバランスやダイナミクス、テンポの設定等に 違和感を感じていて、自分の理想の演奏を別に頭の中で持っているかも知れない。だが、そのイメージを、何の媒介も無く楽譜に含まれる 記号や文字のみから構成したと考えるのは誤りであり、それらはマーラーが属する音楽伝統に対する様々な知識と様々な媒体による 聴取の経験(必ずしもマーラーの「音楽」のみのそれに限定されない)の上で初めて可能になっていると考えるべきなのだ。

転記や複写や記録は(作曲者たるマーラー自身による書き誤り・写し誤りも含めて)常に不完全なものだが、 一方で(ここでは人間の脳も含めて)マテリアルな媒体を介さない「音楽」はなく、ファイルのフォーマット変換のように、 SPレコードをCDに変換するように、ある記譜法を別の表記の体系に変換するように、変換をしつつでなければ「音楽」の受容も継承もない。 マーラーの「音楽」は、「本物」がどこか特定の媒体に結びついて存在するのでも、イデアルな存在として如何なる媒体とも独立に 存在するのでもない。(2011.6.11~14)

2011年5月29日日曜日

マーラーの音楽の「サウンドスケープ」

マーラーの音楽から聴こえてくる風景には当然のことながら、マーラー自身の生きた風景が映りこんでいるといって良いだろう。 勿論、聴き手が受け止めるものは聴き手の側の生きている風景の影響を受けて変容する。マーラー自身の生きた時代に関する知識が 無くてもそれなりに、その音楽から聴き取り、聴き手が構成する風景というのはあるだろう。マーラーの音楽自体が聴き手の生きている風景の 一部であるという視点は無視できないだろうし、そのようにして別の時空を生きた他者の風景を自分の風景に取り込むことが、聴き手の 風景を、同じことだが風景の感受の様態を変容させることは確実であろう。一方で、聴き手がもともと備えている風景の感受のあり方が音楽の嗜好に 影響し、マーラーのように風景の感受に対して肯定的であったり否定的であったりというのもあるだろう。また、こうした作用は何もマーラーにのみ 固有の事態ではなく、他の音楽作品についても起きることかも知れないし、或る種の音楽ではそうした事は起きないかも知れない。 だが、最後の点についてはいつもの通り、それによって音楽を定義することや音楽の類型を括りだすことには関心はなく、 個別のこの音楽(ここではマーラーのそれ)の個別性を突き止めることにあるので、ここでは専らマーラーの場合に絞ることにしよう。

マーラーの音楽から聴こえてくる風景といった時、そこで問題になっているのは、マーラーの音楽で用いられている「素材」としての音響だけではなく、 マーラーがそれをどのように音楽として組織化したかという形式化のあり方そのものである。実際にはこの両者は相関していて単純に分離することは できない。しばしば言及される「自然の音のように」というマーラーの指示も、それによってマーラーが「自然」の風景を音画的に描き出しているという のは(ヘーゲル的な意味合いで)抽象的な把握であって、その手前にはマーラーの「自然観」が横たわっているだろうし、それと表裏を為すように マーラーの「音楽」のありようが炙り出されてくる様相を捉えるべきなのだ。マーラーの場合には文化史的な視点での優れた研究というのが存在しており、 マーラーの「自然観」がどのような文化的背景を持つのかを重層的に把握する試みも行われている。だが「自然の音のように」と楽譜に書き込んだとき、 そのようにして形作られる「音楽」と「自然」との関係もまた問われなくてはならない。それをわざわざ混乱しきった「標題」の問題に還元するのは、 あまり粗雑な抽象、却ってマーラーの場合の特殊性を取りこぼし兼ねない誤った一般化ではなかろうか。それに比べれば、シェーファーの 「サウンドスケープ」を手がかりに、ベルンハルト・アッペルの「マーラーの交響曲における大都市型の知覚パターン―社会学的研究―」を紹介しつつ、 マーラーの音楽に、彼の生きた時代にまさに進んでいた「都市化」の力が映りこんでいることを示した渡辺裕さんの「文化史のなかのマーラー」の 第8章「都市の音の知覚」は遥かに多くのことをマーラーの場合について示唆しているように私には思われる。

とはいうものの、実を言えば、マーラーの音楽を「都市の喧騒」を映し出しているという主張そのものには単純に首肯し難いものを感じるし、 アッペルの挙げている「大都市型」の音の知覚に基づくとされる音楽書法「偶発的ポリフォニー」「異種並列様式」「主題の断裂」「モチーフの モンタージュ」の四つについても、個別の特徴が傾向としてマーラーの音楽に見られることについては同意できても、それを「大都市型」の音の知覚に 基づける点については違和感無しとはしない。残念ながらきちんとした議論をするだけの余裕がないので、ここでは後日の議論のための備忘として、 私の感じる違和感をごく素朴に書き留めておくことにしたい。

1.マリー・シェーファーの「世界の調律」の中の「記憶のホルン」について。ここではまさに「自然の音のように」という指示のあるあの第1交響曲第1楽章 の序奏のホルンが扱われているようだ。シェーファーによればそれは風景の変質を映し出しており、都市化の進展により喪われた田園風景を ノスタルジックに振り返るものだという。マーラーの時代に都市化が進展したのは間違ってはいないだろうし、各地を転々としつつ歌劇場でのキャリアを 積み重ねていったマーラーの居宅はほとんどの場合都市部にあったのは事実だ。「自然の音のように」という指示の裏側に、「自然」ではないものの 存在を意識するが故に、あえて恰も改めて模倣されるべきものとしてそのように書き込まなければならなかったという消息を関知するのも間違いでは なかろう。だが、ここで「自然」と対立するのは実のところ何なのか?第一義的にはそれは「音楽」という「人工物」と考えるべきではなかろうか。 些事に拘泥するならば、「記憶のホルン」の記憶は誰の記憶なのか。マーラーの幼年時代のそれなのか。あるいは「子供の魔法の角笛」歌曲集に おけるような幽霊的にしか存在したことのない偽りの過去なのか。それとも(夏の作曲家マーラーが作曲小屋で創作に励むのは少し先の話だが) 休暇に訪れる郊外の風景の記憶なのか。昨日、あるいは数時間前に訪れた郊外の風景の記憶としての「音楽」ということはないのか。 ハイドンとマーラーの間に、シューマンを、あるいはマーラーと時代と場所を共有した、だが、明らかに前の世代に属するブラームスを置いて、 そこでの「狩のホルン」の位置づけを問うた時、「記憶のホルン」はマーラー固有のものなのか。マーラー固有のものであるという強い主張が為されている 訳ではないことを認めたとして、ではそのことを殊更マーラーの場合に結びつけるのは、どのような事情によるのか。

2.ベルンハルト・アッペルの「大都市型」の音の知覚に基づく音楽書法をマーラーの音楽の特徴とすること自体に大きな異論はない。だが、 実際にはそれもまた程度の問題で、マーラーの音楽はそれらの特徴を、過去の音楽に比べて、あるいは同時代の他の音楽に比べて豊富に 備えているのは確かだとしても、或いはまた、非常に的確に渡辺さんがマーラーの音楽に対する同時代のカリカチュアによって例証しているように、 同時代の人々にとって顰蹙の種となる程にまでその特徴が際立っていたとしても、その後の音楽におけるほどそれらの書法は徹底されているわけ ではなく、寧ろ、マーラーの音楽の特異性は、そうした書法を伝統的な音楽の枠と対決させた点にあったのではないのか。渡辺さんもまた、第8章の結びの 部分で、ウィーンという都市そのものが「都市化」のベクトルと、それに抗する「伝統の力」の拮抗の場であり、マーラーはその「二つの力の狭間に あって激しく引き裂かれた」と書いているが、マーラーが「伝統の力」に敗れてウィーンを去ったというのを、この状況に重ね合わせるのには違和感を 感じずにはいられない。仮に歌劇場監督としてのマーラーが「伝統の力」に敗れてウィーンを去ったというのが事実だとしても(この点については私は 判断を留保する。判断するだけの材料の持ち合わせもないし、実のところそれ自体には興味もないので)、作曲家マーラーは本当に敗れたのだろうか。 そのように捉えることは、マーラーの音楽を一方的に「都市化」のベクトルの側のみに与するものとして捉えることになり、マーラーの音楽そのものが その拮抗の場であったという視点を損なってしまうことにはならないだろうか。

ここで例として、マーラーとやはり時代と場所を共有するが、マーラーとは 異なった文化的伝統にあり、かつ世代的にも後の世代であるチャールズ・アイブズの場合を思い浮かべてみよう。そしてまた、アイブズの場合と マーラーの場合とを比較して、「現実音」の使用に対する共通性のみならず両者の差異にも目配せしたドナルド・ミッチェルの「角笛交響曲の時代」の 記述を思い浮かべてみよう。この場においてはアッペルの取り上げる書法はそれ自体としては寧ろ、アイブズの方によりぴったりと当て嵌まる。 そして更にシェーファーに戻れば、「記憶のホルン」もまた寧ろアイブズにこそ相応しいようだし、「自然の音のように」などアイブズは書かなかっただろうが、 それはハイドンがそう書かなかったのと同じ理由によるのではなく、マーラーを挟んで両者がそれぞれの反対側にいるからなのだということ、「伝統の力」を それまた一つの(まさにアドルノ的な意味での)「素材」としたマーラーの音楽の立ち位置(それは境界を侵犯しつつ確定しているかのようだ)が 「自然の音のように」という指示に照応するのだということを、ここでは論証抜きで主張しておくに留める。

3.渡辺さんが「都市の喧騒」をきらって大自然の中の作曲小屋にこもったはずのマーラーのもっている別の一面をかいま見させてくれる例として 挙げている2つのエピソードについて。一つはアルマの回想の「新世界 1907~08年」の章に出てくる、マーラーがニューヨークのマジェスティックホテルに 滞在しているときのバレル・オルガンにまつわるエピソードであり、もう一つはバウアー=レヒナーの回想の「1900年夏」の章の「ポリフォニー」と題された 有名なエピソードであるが、これらを渡辺さんはウィーンのプラーター公園の遊園地における音知覚に結びつけ、第4交響曲が「街角の音楽」として 批難されたという同時代の反応に繋げていく。これらはアッペルの主張の紹介の所謂露払いのような位置づけの部分であり、シェーファーの 「記憶のホルン」から始まって、総じてマーラーの音楽を「都市の音の知覚」に基づくものとする主張を形作っている。だが、あえて些事に拘泥するならば、 バレル=オルガンのエピソードは摩天楼の聳える近代都市の中に突然侵入してきた「過去」の「記憶」が問題になっているのであって、それは寧ろシェーファーの 「記憶のホルン」に照応するもので、「自然」の側にあると考えるべきなのではないか。バレルオルガンのようなメディアが「自然」の側にあるというのは、 それ自体何某かの問題を孕んでいるかも知れないし、例えば人が似たような認識・知覚の様態を第9交響曲のハ長調の第2楽章に見出したとしたら、 それはそれで基調をなす「世の成り行きの喧騒」の側について、もう一度「都市の喧騒」との関係を問うのは全く正当なことだと思うのだが。

「ポリフォニー」のエピソードについても基本的には同じことが言えるだろう。つまりそこでの「ポリフォニー」は両義的なものであって、それが発生させる 喧騒・騒音は、「自然」のそれであり、同時に「世の成り行き」のそれでもあるという点にこそ、マーラーの音楽の、マーラーの音楽に刻印された 認識の様態の独自性が存するのではないのか。マーラーの都市型ポリフォニーの最も顕著な例として、人はまたもやハ長調の第7交響曲の ロンド=フィナーレを挙げるかも知れない。それを肯定的に評価するのであれ、否定的に評価するのであれ、あるいはそこでの「失敗」を 評価するといったアドルノ的な立場をとるにせよ、アドルノでさえ遊園地の喧騒を見出しているこの音楽こそ「都市の音の知覚」のもっとも端的な反映が 見られる範例であるといった主張がなされるかも知れない。だが、またもや些事に拘泥すれば、件のエピソードはオフ・シーズンの避暑地での出来事で あったのだし、第7交響曲のロンド=フィナーレの末尾では、先行する楽章では遠くから聞こえていたカウベルが舞台の上でガラガラと響きわたるのである。 第3交響曲の第1楽章でもそうだが、寧ろここでは「自然」そのものが大都市さながらの喧騒の巷と化していると言うべきではないのか。

勿論、オフ・シーズンの避暑地での出来事は、マーラーの時代ならではのもので、それもまた広義で「都市の音の知覚」の一部を為すという言い方もできるかも知れない。 だがそもそも、角笛もカウベルも「自然」そのものではない。(「ポリフォニー」のエピソードの末尾でマーラーが、またもや「過去」に遡行して、イーグラウの 森の中での経験を語ることに留意しよう。)第3交響曲第3楽章のポストホルンが人間の存在を告げ、自然の中に無自覚に埋め込まれているのではなく、 自然の中で、田園の風景の真っ只中で、だが距離をおいて(「遠くから」聴こえるのだから、聴き手の方が遠く離れているのだ)自然を眺める眼差しの存在を 証言するように、ここではそれが「都市」であれ「自然」であれ、自分が埋め込まれた環境に対する現象学的還元にも比せられるような括弧入れが 行われている、そうした態度変更が問題なのだ。(翻って、ハイドンの音楽には彼の生きた時代の「都市」の方は映りこんでいないのだろうか。決して そんなことはあるまい。)確かにマーラーの「自然」への態度には或る種の反省的な意識の介在が認められるし、それが文化的な背景を持つものであることも 間違いではなかろう。だが、マーラーは同じ眼差しを「都市」に対しても投げかけているのではなかろうか。彼の同時代の、もしかしたら「都市の音の知覚」に もっと(無意識、無自覚であるが故に)忠実かも知れない他の音楽と比較してマーラーの音楽を特徴づけるのは、それが「都市の音の知覚」の様態を 反映している点ではなく、「都市」も「自然」も含めた「世の成り行き」に対する反省的な視点であり、それらの手前、ないし彼方にあって(ということは その場には現れていないということだが)それらを根拠づけ、価値づける筈の(なぜならそれらはその場には現れていないのだから、それは実現はしていないし、 実現する保証もないのだ)ものに対する探求の姿勢ではないのかと思われてならない。そうした姿勢が音を聴く態度にも映りこむ。その結果として その音楽は(マーラー自身がそう語ったと伝えられるように)「憧れ」を含むのだ。「憧れ」は決して音楽の「標題」でもないし、「素材」ですらなく、 寧ろマーラーの姿勢や態度の結果として音楽が孕み、聴き手に伝播するものなのだ。

そしてもう一度。マーラーの時代の風景には、それがマーラーの音楽に直接映りこんでいるかどうかとは別に、「都市」的なものが含まれているのは確かだ。 渡辺さんが引いたカリカチュアに「4度で鳴く」カッコウとともに、蒸気機関車が含まれている点は、私が蒸気機関車をマーラーの音楽に見出すかどうかとは 別として、興味深い。私は蒸気機関車をごく例外的にしか知らない「から」、聞き取れないという可能性を否定しない。マーラーの時代の「都市」と 私が知っている「都市」は同じものではないから、私はそれを「都市の音の知覚」として聞き取れないという可能性もまた。マーラーの時代、馬車はまだ 走っていたが同時に市電が走り始め、自動車もまだ珍しいものであったけれど、既に走っていた。鉄道網、蓄音機、写真、記録装置としてのプレイヤーズ・ピアノ、 白熱電球といった技術がまさにマーラーの生きている時代に発明され、その後の普及を待っている状態にあった。電力を用いた様々なメディア普及の前夜に 書かれた「音楽」。実のところ私にはマーラーを聴いても「都市の喧騒」はちっとも響いてこない一方で、公式な(だが如何なる権威によってか?)マーラーの後継者、 息子たちとは隔たって、20世紀のメディアの揺籃期に生み出された作品としての位置づけを確認する作業を行い、その上で今・ここで自分に呼びかけられているものに答え、 記憶の継承への関与していかなくてはならないように感じている。ここでも別のところで別のある人物によって、ある別の人物について(ああ、だが、ここに或る種の並行 関係を認めるのは決して不当ではないだろう)の講演の冒頭で掲げられた奇妙なスローガンが木霊しているかのように。あなたでも私でもいい、 誰かが進み出て以下のように言う。「生きることを学びたい、終に」、と、、、(2011.5.29初稿)

2011年4月29日金曜日

「生きるという甘美な習慣」(süßer Gewohnheiten des Daseins)

マーラー生誕150年のアニヴァーサリーの昨年に引き続き、今度は没後100年のアニヴァーサリーの今年は、だが日本の歴史上では、史上最大級の地震に 見舞われた年として記憶されることになるだろう。昨年に引き続き、アニヴァーサリーを意識してか、マーラーに関連する雑誌の特集やら書籍の出版は 行われており、マーラーに因んだ映画の公開も予定されているようだが、その一方で3月11日の震災以降、いわゆる「芸術」活動への影響も決して小さくはなく、 私がコミットしていて、かつマーラーに関連する例を一つだけ挙げれば、会場として予定されていたコンサートホール、ミューザ川崎の被災により、 ジャパン・グスタフマーラー・オーケストラの第9交響曲の演奏会が1年延期になっている。その一方で、己の内部になる音楽が変わってしまったり、 あるいは音楽を聴いても感動できなくなったりすることもありえるだろうし、心の中に鳴り響く音楽がその人を支えることもありえるだろう。そうした最中にあって 音楽が娯楽だから自粛する、あるいは心を癒すから自粛すべきでないという議論は音楽がなお可能であるということを疑ってみることもせずに暗黙の 前提とした論理を備えていることがあからさまであり、音楽が必要とされなくなる、必要なのに音楽を演奏したり享受したりすることができないといった 状況からずれたものに感じられてならず、あるいはまた恰も自分が論じている作品や作曲家の価値が自明であり、自説や自分の解釈を開陳することに 終始するかに見えるマーラーを巡る状況にも強い違和感を覚えずにはいられない。

2011年3月11日の地震の日、私は自宅に帰らずに都心にある勤務先のオフィスに留まり、翌3/12の朝、復旧した電車に乗って帰宅した。 週明けの3月14日には今度は「計画停電」と称する突然の電力供給制限の実施のせいで運休を余儀なくされた交通機関の麻痺により、 出勤ができなくなった。それから1ヶ月が経過し、幸いにして私の周辺ではようやく日常が戻りつつあるものの、一旦損なわれた生活は恐らくは 完全に元に戻りはしないだろうし、この状態に明確な終りなどなく、最初は異常と感じられた様々な事象にも何時しか馴化してしまい、 日常の風景に溶け込んでしまうこともあろう。マーラーの音楽はそうした中で、だが確実に自分の内側で響いていた。例えば早朝の通勤の途上、 人影のまだほとんどない都心を歩いている最中、心のうちには第9交響曲の第1楽章が鳴り響き、そこから湧き出してくるものに導かれるように、 後押しされるような感覚に囚われることが幾度となくあった。そうした中、Webページの更新も別段自粛していたわけではなく、 仕事の関係もあって間接的ではあるけれど震災復興に従事する方々のお手伝いをしていたがため時間が全く取れずに断念してきたのだが、 ようやく一段落した時にふと思い浮かんだのが、この文章のタイトルとして掲げたマーラーの言葉であった。

この言葉は1909年の初めにニューヨークからヴァルター宛に書かれた日付のない書簡中に出てくる(1996年版書簡集では404番)のだが、書簡の方は 名宛人であったヴァルター自身がマーラーについてのモノグラフの中で言及して以来、この時期のマーラーの心境を告げる文章として 繰り返し引用されてきた非常に有名なものであり、私自身、以前に「語録」の項で取り上げたことがあるので、そこで書いたことは繰り返さない。

特に取り上げる上記の言葉は原文では ( in allen ) » süßer Gewohnheiten des Daseins « であり、だから括弧は私が付加したのではなく、 マーラー自身がつけたものである。色々なところで引用される際の日本語訳を調べてみるとかなりばらつきがあることがわかり、それはそれで興味 深いがここで逐一取り上げることはせず、私がここで示した訳は、そうした様々な訳と比べれば、いわゆる直訳と言われるタイプに属するであろうと いう点の指摘に留めることにしよう。マーラーが括弧をつけたのは、何かの引用であることを示している可能性はあるだろうが、原典について 言及した記述は管見では見当たらなかった。簡単に調べた限りでは、恐らくマーラーの愛読書であったE.T.A.Hoffmannの Lebensansichten des Katers Murr(「牡猫ムルの人生観」)のErster Band, Erster Abschnitt "Gefühle des Daseins. Die Monate der Jugend."の冒頭、 Es ist doch etwas Schönes, Herrliches, Erhabenes um das Leben! – »O du süße Gewohnheit des Daseins!« ruft jener niederländische Held in der Tragödie aus." がその出典に違いない。ここで言及されている「悲劇の主人公」とは、これまたマーラーの愛読書であったゲーテの「エグモント」であるが、対応する第5幕2場では やや違った形で出てくる。"Süßes Leben! schöne freundliche Gewohnheit des Daseins und Wirkens!")

だが出典が何であれ、括弧つきで繰り返し用いられているこの言葉は、第9交響曲に浸透している 情調と如何にも親和的に感じられ、また、震災とその後の混乱を経た後の私自身の思いと強く響きあうものを感じずにはいられない。 "Mich selbst finde ich jeden Tag unwichitiger, kann es aber oft nicht begreifen, daß nab im täglichen Leben doch seinen alten gewohnten Trott weitergeht - in allen » süßer Gewohnheiten des Daseins. «" というマーラーの述懐は、それ自体は平凡な私のような人間にもわかるもので ありながら、その背後に響く音楽によって比類ない仕方でもってその認識に伴う「感じ」の記憶を定着させ、ふとそれに耳を澄ます時代も場所も 隔たった他者の裡に再現するのだ。

更にもう一点、同じ書簡の少し先で(これまたヴァルターが引用している部分だが)、Was denkt denn nur in uns? Und was tut in uns? と問いかけていることにも触れずにはいられない。第3交響曲のタイトルよろしくここでもマーラーは自分を主体の位置に置かず、自分の内なる 何者かを主体の位置においているが、それは上記の Gewohnheit という単語と勿論対応しているに違いない。否、そのようにGewohnheitを 捉える視点こそが、第9交響曲のあの音調を可能にしているのだ。それゆえシェーンベルクが後にプラハ講演で第9交響曲に関して指摘する、 "In ihr spricht der Autor kaum mehr als Subjekt. Fast sieht es aus, als ob es für dieses Werk noch einen verborgenen Autor gebe, der Mahler bloß als Sprachrohr benützt hat."という消息にこの言葉は繋がっていく。

己の内なる他者の声に耳を澄ます姿勢はマーラーにあって(どこまでそれについて意識的であったかについてはおくとして、その姿勢そのものは) 一貫したものであったと私には思える。だが» süßer Gewohnheiten des Daseins «という認識自体は、マーラーが人生の危機、 それまでに経験したどれよりも大きな危機を経て獲得したものであり、危機を克服した後にそうした認識を芸術に定着させることができたことに 私は畏敬の念を覚えずにはいられない。客観的にはどうであれ、マーラー自身にとってそれは大きな危機だったに 違いないし、その経験を過ぎ越すことによってマーラーが獲得した認識の主観的な質や重みを、神話の解体や偶像破壊よろしく軽んじるような論調に 与することはできない。確かにマーラーはその時に自分の余命がいくばくもないとは考えていなかっただろうが、だからといってマーラーが己の有限性に ついてそれ以前とは質的に異なった認識に達しなかったことにはならないし、彼が獲得した認識がどんなものであるかは、その後の彼の音楽を 聴けば明らかなことではなかろうか。それはまたアルバン・ベルクが後に妻となるヘレーネに宛てた手紙に第9交響曲第1楽章について記した言葉とも 共鳴する。勿論、書簡でヴァルターへの語りかけに仮託しつつマーラー自身が自問しているように「生きるという甘美な習慣」は両義的なものだが、 そうした両義性に対する意識こそ、第9交響曲のあの不思議な、これ一度限りの(アドルノの言葉を借りれば「唯名論的」な)楽章配置の 構想に対応している。中間楽章でハ長調・イ短調という調性は、»Gewohnheiten des Daseins «の「世の成り行き」としての側面を、アクセントを 変えて提示するし、それらを囲繞する両端楽章のうち第1楽章のニ長調の色彩と光の調子は、きっとどこかで第10交響曲フィナーレのあの、最早どこで 鳴っているのか言い当てることができないようなユートピア的なニ長調に繋がっているし、半音下がった変ニ長調のフィナーレは茜色に染まって 漂ったまま静寂と薄明の中に溶け込んでしまい、決して元には戻らない。この音楽を順応的に感受する(ホワイトヘッド的な意味合いで)ことに よって聴き手が自分の中に形成するものの重みは、文化史的な背景への還元など受け付けないし、陳腐な標題についての議論やら 「人生」と「芸術」の単純化された関係図式の中をうろつきまわるだけの論争とも無縁のものだ。作品から自分が受け取ったものを作品の作者に 押し付けることも、そうして形成された「神話」の虚構性を告発し、事実をもって否定するかの身振りも、「作品」や「作者」の存在論的身分に ついて些かの疑いを抱くこともなく自らこそが「真理」に辿り着く特権を有しているのだという思い込みの下、所詮は同じ土俵の上で自分の観点の 押し売りをしているに過ぎないように思えてならない。

というわけで、2年続きのアニヴァーサリーの最中、それに因んで編まれた雑誌の特集に目を通しても、映画のリブレットを読んでみても、 何か奇妙に視界がずれているようにしか感じられない。そして震災とその後の時期を経て改めて感じたのはそうした違和感が 寧ろ深まったことだった。同じ対象を相手にしている筈でありながら認識を共有できないこと自体は日常的に色々な場面で多少なりとも 起きていることで、それ自体は驚くに足らないのかも知れない。だが「生きるという甘美な習慣」という言葉を書簡に書き付けた人間とその人間の書いた音楽の 場所と、それらについて解釈し、語っている筈の場所が全く重なり合わず、しかも後者こそが今・ここの近傍である筈なのに接点を見出すことが できなさそうに感じられるのは一種異様な感覚である。神話の解体や偶像破壊の名の下に一体そこで断罪されようとしているものは実際には何者で、 厄払いの後に残るものは一体何なのか。そこで救い出され、あるいは見出されたと主張されるものについてはどうか、少なくとも私にはわからない。 幽霊を追放し、抹殺する(だが、そもそも幽霊に対してそれは可能なのだろうか)ことにより顕わになる実体が本当にあるのだろうか。あるいはまた、 フィクションを隠れ蓑にして幽霊の代理を演じさせ、それを撮影して撒き散らすことがもたらす結果についての責任はどうなのか。先立つかつての アニヴァーサリーの折にあった類似の事象に対してはそれなりの正当な異議申し立てが為されたものであったが、このたびは時効により免責というわけか。 アニヴァーサリーが刻みつける時間の隔たりを介し、その隔たりそのものに他ならない地平の変容、技術がもたらした時空の遠近法のドラスティックな変化の影響下で、 まるでそんな変容には無頓着に、だがその実そうした変容のもたらした結果に最大限依存しつつ、幽霊の幽霊性を都合良く忘却し隠蔽すること、 自分の用意したフィクションに取り込んでしまうことによって幽霊を厄払いし、隔離して閉じ込めることは、だが、しかしそうした営みが自閉する地平の外には 出ることはないだろう。そのようにしたところで幽霊と会話することを学ぶことなどできないのだから。

それゆえそうした歪んだ遠近感の支配する空間の中で、だがそんな歪みなどお構い無しに、自分が会ったこともない過去の異郷の音楽家の 「生きるという甘美な習慣」という言葉の背後にある認識が、その認識と隣り合わせに書かれた音楽によって形成された地形に沿って自分の心に実感を伴って届く。 まるで幽霊に憑依されるかのように。そしてそれは取り憑いた者に対し、己の内なる他者の声に耳を澄ますように促すかのようだ。 Was denkt denn nur in uns? Und was tut in uns? という問いかけへの答を求められた者は、「生きるという甘美な習慣」の裡に (厄払いではなく)喪の作業に誘われるのだ。まさに能の舞台でしばしば起きるように。かつて別の文脈で、ある他者によって言われたように、 可能なのは幽霊に対して言葉をかけること、幽霊からの語りかけに言葉を返すこと、そうしつつ生きることを学ぶことでしかないのだ。 だがそもそも、マーラーという幽霊がその作品を通して私たちに語るのもまた、まさにそのことそのものではなかったか。(2011.4.29/30初稿・公開, 5.2/8加筆・修正)

2010年11月6日土曜日

 かつてパウル・ツェランはブレーメン講演において、マンデリシュタムが「対話者について」で述べた「投壜通信」を引用して、 詩を、必ずしも希望に満ちてはいなくても、いつかどこか、心の岸辺に打ち寄せると信じ、流される投壜通信であるとした。 航海者が遭難の危機に臨み壜に封じて海原に投じた、己れ名と運命を記した手紙。誰も聞いてくれないのに 小声で語られる末期の言葉は、だが、彼が去ったのちに、どこかの砂浜に打ち上げられ、砂に埋もれた壜に偶然気づいた人に 拾い上げられて読まれることはないのだろうか。
 
 マンデリシュタムはやはり「対話者について」において、そうした手紙を読むことが 自分の権利であると言っている。壜を見つけたものこそが手紙の名宛人なのだと。 かくしてある時には人の一生を超える時間の隔たりと、地球を半周の場所の隔たりを乗り越えて、 だが、実際にはそうした距離の測定を無効にする印刷技術が可能にした記譜法のシステムと 録音・再生のテクノロジーに支えられて、ふとした偶然によって耳にすることによって、詩のみならず、 ある音楽が拾い上げられ、読まれる。それらは事後的に差出人を指示するが、それは常に痕跡としてでしかない。 私の裡にこだまするのは常に既に幽霊の声なのだ。
 
 ある作品の持つ「深さ」はどのようにして測る事ができるのか。伝記主義的な実証はそれが生み出された背景をなす 環境を指し示しはするが、作品を、作品から受け取ることができるものを何ら明らかにしない一方で、形式的な分析もまた、 それ自体「痕跡」であるメッセージの、情報伝達の形態のみを問題にし、ノーレットランダーシュの言うところのexformation、 メッセージが生み出される際に処分され、捨てられた情報(更にはベネットの「論理深度」とか、 セス・ロイドの「熱力学深度としての複雑性」もまた思い浮かべていただきたい)を扱うことができない。 勿論、形態の美しさ自体が、その深さと密接に関係するということもあるだろう。マックスウェル方程式にたいしてボルツマンが 発したことば、ゲーテのファウストの引用、更にはマクスウェル自身の言葉「私自身と呼ばれているものによって成されたことは、 私の中の私自身よりも大いなる何者かによって成されたような気がする」ということばを思い浮かべるべきだろう。 そのとき差出人たる幽霊とは一体何者だろうか。ダイモーンの声、ジュリアン・ジェインズの二院制の心の「別の部屋」からの声。 情報を捨てるプロセスそのものを事後的に物象化したものを幽霊と呼んでいるのだろうか。「抜け殻」としての作品。 そして捨てられた情報の大きさは、受け取るものがそこから引き出すことができる情報の豊かさに対応しているに違いない。
 
 だが、読まれたことは如何にして知られるのか、事実性の水準での認識の問題としてではなく(なぜなら既に差出人はいないから、 配達証明は無意味なのだ)、投壜通信が読まれることと読まれないことの価値論的な差はどこにあるのか。拾った主が拾ったことを 更なる(ということは差出人と受取人以外の)他者に伝えることなくして、投壜通信が読まれたことにはならない。 拾った者の個別的な有限性の中で受け取ったものを朽ちさせてはならないのだ。だがそれではどのようにして受信を証することが可能になるのか。 お前もまた「作品」を生み出すことができるのであればともかく、受け取るばかりの者はじきに支払うことができなくなり、 破産する他なくなるだろう。だが、そうした贈与の経済は「世の成り行き」とは異なる時空間に場を持つ 遭難者の論理にそぐわないのではないか。自分自身の力では打ち勝つことのできない悲しみゆえ、壜は投じられ、 あるいは果て無き砂浜を彷徨いつつ、己れ宛の壜を探し求めるのだというのに。
 
 「作品」の存在論が必要なのだろうか。広義での人工物に属し、記譜法のシステム、演奏されたものを記録する 様々な方式や媒体といったものを質料的な基盤として備えた、だが道具連関には回収しきれない存在。 そしてここにまた、普通にはコミュニケーションの道具と見做されながら、「世の成り行き」における規範に抗いつつ、 口ごもり、何度となく言い直され、但し書きが付けられ、何重にもモダリティを担わせられたことば。あえて「とおまわり」を、 迂回をすることを選んだことば。過去化し、存在化した沈殿物としての「作品」、抜け殻としての「作品」を連関から 切り離し、抽象して扱うのではなく、それ自体、何者かに向かっての語りかけとして、何者かに促されての構築としての、 「世の成り行き」の目的連関から逸脱した、経済的には単なる蕩尽であるような無為の営み。深さの次元として、 exformationとして、捨てられた情報としてしか事後的には観測できない豊饒。
 
 ことばは、私のそれであるはずのことばが発しているはずの私に対してこのように語りかける。他人からみれば不毛な独語に 見えるだろうが私にとってそれは独語であろう筈はなく、むしろ私を通して語ろうとしていることばが私を諭すかのようだ。 お前は水路、通り道、拡声器に過ぎない。おまえのことばなどないし、お前の作品の固有性などありはしない。
 
 例えばどの音楽を己の裡に埋め込み、どの音楽を拒絶するかは、その人の特殊性の一部である。 もっと言えばそうすることそのものが都度、個体化の過程であり、個体化はその脈絡によって制約されるだけでなく、 常に既に、選択であり排除である。そしてそうした過程の描き出す軌道を事後的に観察するとき、やっとそこに 「主体」が過去化の結果として、存在する。個性とは、そうした選択のもたらす特殊性の沈殿した結果に過ぎない。 (ホワイトヘッドの抱握の理論を思い浮かべていただければよい。)
 
 勿論「主体」は己の来歴のある部分を否定し、抑圧することもありうる。 抑圧されたものが何であるかは、事後的に推測することもある程度は可能だろうが、潜在性のまま現勢化することなく 去ったものがそうであるように、実際にそれを言い当てることは困難だろうし、そうした作業が意味を持つのは、その 「主体」が否定しなかったもの、「作品」として遺したものの裡に沈殿したもの価値如何だろう。大抵の場合、 そんなことに関心を持つものはいない。個体化がありふれた事象であるように、個性の多様性の海の中で、 ある特殊性が価値を持つことは稀である。そしてそれが特異点であるかどうかは、事後的にしか、巨視的な 観測によってしかわからない。
 
 そしてまた引用の織物そのものが、ある星座を描き出すかもしれない。主体が黙しても、他者の声の重なりが、 交響が、沈黙を引き受ける。誰もいない空間、現象から身を引き、「世の成り行き」から退いた空間の中を、 だが己に埋め込まれた他者達の声が交わる。お前は無だが、お前の裡に響き渡る他者の声はそうではない。 お前はあるベクトルを備えた軌道を寄せ集めるアトラクターなのだ。
 
 その一方で、それと同時に自分の中にあるもの、逆説的に、抑圧によって破壊されず護られた空間が、 ふとしたきっかけで顕れる。今なお恐らく呼びかける相手はある。それは自分を超えた何者か。 自分の内に在り、けれども、それを単なる幻影とは呼んでしまえない外性。
 
 心理学的-生物学的には単なる投射ということなのか?(例えば臨死経験の報告例の間に見られる類似性は、 その時に置かれた脳の状態の共通性に由来するだろう。差異の方はといえば、各人が埋め込まれた文化的・ 宗教的脈略に応じて、具体的なイメージとして把握されたものには違いが生じるのだ。結局のところ 生理的・生物学的基盤の共通性が、異なる文化的伝統に属する対象の享受の同型性を保証するということは 確認されるべきだろう。ことさら共役不可能性を言挙げするのは控えめに言ってもバランスを欠いている。) けれども、それに還元できない何かがまだ残っている。
 
 心の中には、どこか懐かしい、だが徹底した闇に包まれた、それでいて同時にその裡に光を閉じ込めた満天の星降る夜、 あるいは慈しみに満ちた雨の夜が封じ込められてはいないだろうか。自ら選択して抑圧し、その結果二重・三重にも隔離された空間。 きっと誰もが心のどこかに潜ませていて、だから決して未知ではなく、けれども常には安全に閉じ込めておける感情、 けれどもそれゆえに祈りが、救済が必要とされる動因となるような心の動き。その向こうには明るい夜が開けている。
 
 意識は明るい夜の裡に睡み、夢見ることで、だが私の中の誰かは目覚めている。 「世の成り行き」とは別の何かの幻影の裡でその誰かは涙し、安らう。 そして雨の夜は奥底の別の部屋(ここで私はまたしても、ジェインズの二院制の心を思い浮かべている) に繋がっているに違いない。覚醒し続け、外の暴力に抗い続け、告発を続けること、 現実を見つめるシビアな姿勢は顕揚さるべきだろうが、それはまずもって自ら「世の成り行き」と 化すことに繋がりはしないかという懸念もあれば、それ以上に、意識の賢しらさが嘲笑される瞬間に ふと垣間見える深淵、意識の手前にある領域の存在を私は知っているゆえ、 そうした「別の部屋」への通路を持たない音楽は、それが非人間的で超越的な秩序の反映だろうが、 人間の愚行と野蛮の歴史の告発であろうが、結局のところ、自分の外で響くものでしかない。
 
 「別の部屋」からの展望は、「世の成り行き」からすれば非-場所であるだろう。 それが「世の成り行き」に対する退行であるとしても否定はすまい。病理学的な標本でも結構である。私は 己が抑圧したその空間を、結局のところ否定しきれないようなのだ。それは「世の成り行き」と直接触れれば、 炉心融解によって水蒸気爆発が惹き起こされるような崩壊が起きるだろう。だからそれは何重にも閉じ込めて おかねばならない。だが、愚かな意識は、己に課された監視の務めを良く全うし得えずして、時おり、そうした 崩壊が生じ、その後には長い麻痺状態が続き、「世の成り行き」から落伍する。
 
 だがその別の部屋に住まうのは私ではない。寧ろ私という部屋に辿り着いた音楽やことばがそこで響きあい、 わたしに命じておりふしに、外に向かって溢れ出る。その流れを私が調整することはできない。自分の心の中の ある地層が大規模な落盤を起こし、その影響を「世の成り行き」に晒さずに措くために、何重もの無感動の ヴェールで覆い、凍りつかせることによって界面を辛うじて保護しようとする過程において、一緒に堰き止められたと 思われた、あるいは今度こそ涸れ果てたと思われた泉は、だが断層によって思いもよらぬ方向に浸透し、しばらくの 沈黙の時を経て、その浸透がある瞬間に相転移を惹き起こし、外に溢れ出ようとする。 その水圧は私の心の中の地形を元のままにはしておかない。変形によって生じた空間の歪みが、 今までとは異なった反響を惹き起こし、音楽やことばの交響もまた変容する。
 
 わたしの中に潜んだあなたがた、わたしの中から時おりこみ上げ、立ち尽くすわたしを、だが、そうして支え 生かしている、それゆえに辛うじてわたしが生きている所以である「あなたがた」にとっては私は楽器なのだ。 沈黙の中、あるいは饒舌の支配するなか、私は「あなたがた」を担い、運び、溶け合わせ、響かせ、 流れ出させる、固有の方向づけをもって、永遠には辿り着かずとも、あたかもそれを希求するかのように、 時を通って、だれかのもとに届けられることを希って。私は「あなたがた」の記憶であり、私の歩み、たどたどしく、 覚束無い、時には蹲ることもある歩みのその方角、それは「あなたがた」の定める力学によっている。 声の複数性、複数の声の反響、共鳴の場である私は、「あなたがた」の示す方角に歩むほかない。 こうして語ること、ことばを紡ぐことは、別の部屋に住まう「あなたがた」が、まだ私という搬体を捨てず、 私のなかで結晶し、析出しようとすることの現象でなくてなんであろう。
 
 私はそうした「あなたがた」の運動の痕跡、私が発したと思いなされたことばは「あなたがた」の軌跡、 「私の作品」は「あなたがた」の抜け殻に過ぎない。私という意識は、そうした空間を照らし出す照明に 過ぎない。擁護されるべきは意識そのものではなく、意識が照らし出すわたしではないのに、外からは わたしと見做されるところの、だがむしろ「あなたがた」の相貌であるところの結晶の構造、結晶が形成される 空間の地形そのものなのだろう。
 
 もちろん慧眼な人たちはここに或る種の自家中毒の危険、自己正当化の匂いを嗅ぎつけることだろう。 おまえの無価値を、おまえの無能を、営為の麻痺を「他者達」の価値によって代償させることは許されることでは ないという告発に対して、私は否認のことばを持たない。そればかりか、私が無であること、無価値であることを 認めよう。だが、私を形作っている「他者達」についての判断を、それゆえに誤らないで欲しい。「他者達」が 流れ出し、あるいは結晶として析出することを妨げて欲しくない。私の意識は、「別の部屋」の声に耳を澄ます。 いつしか「別の部屋」が空となり、もはや誰も棲まない場所となるかも知れない。だがそのときは恐らく、 私もまた、このように語ることもないだろう。いつしか相転移の起きる臨界の領域を、豊饒なカオスの縁から 軌道は離れ、あるいは沈黙の支配する冷たい秩序に、あるいはカオスのざわめきの中に落ち込んでしまうかも 知れないが、そのときにはそもそも「私」そのものが最早存続していないだろう。
 
 そう、これは私の「投壜通信」である。だが、より正確には、私の奥底の誰かが私を介して投じたものと言うべきだろう。 それは私の内なる「別の部屋」に響く他者達の声を「外に」伝えるために為される必要がある。そしてそれは己が 投壜通信の受信者であることを証することでもある。このようにして時間のなかを他者達の声は伝わっていく。 私のたどたどしいことばは、勝りたるものの仮晶、私の個性そのものが、あるいはまた個別性そのものもまた、 そうした他者達の声の交響が浮かび上がらせるホログラムなのだ。意識である私はそうした他者達に耳を傾け、 それを書き留めることでしか存在し得ない。かくしてことばを綴ること、誰に宛ててでもなく、だが、決して独語ではなく、 誰かにあてて自分が聴き取ったものを書き記すことこそ、崩壊した私の修復の営みに等しく、そうやって ばらばらになった断片が拾い集められ、貼り合わされて私が恢復されるのだ。そう、私とは他者達の幽霊に他ならない。 かつまた他者達にとって私は私ではない私のうちなる他者達のことばから事後的に構成されるほかない(まずもって 私自身に対してもそうなのだ)という意味合いでも幽霊でしかありえない。(2010.11.6/10, 2011.9.12)

2010年10月17日日曜日

「大地の歌」は交響曲ではないのか

今年はマーラー生誕150年というアニヴァーサリーであるにも関わらず、かつての1980年代後半から1990年代前半にかけての「マーラー・ブーム」前後の状況と比べれば、 少なくともこの極東の国における雰囲気は随分と落ち着いたものであると感じられる。勿論、コンサート・プログラムやら、放送における企画やら、雑誌における企画やらが ないではないが、もう四半世紀も前のあの「根拠なき熱狂」は一体何だったのかと思わずにはいられない。マーラーは既にフレームに納まりはしたが、新たな読み直しを する程の時間はまだ経っていないという事情もあるのかも知れないし、あるいは単純に、海外の事情は詳らかにしないし、実感も持てないので判断は差し控えるが、 こと日本国内においては商業的なプロモーションをするだけの経済的な余裕が喪われてしまったというのが実情なのかも知れない。オーケストラの運営状況は厳しさを増す一方のようだし、 マーラーの普及に大きく貢献した録音媒体の方も、LPからCDへと移行して後、今は丁度過渡期にあるようだし、書籍についてもまた然り、ベルナール・スティグレール風に言えば 「第3次記憶」を支える基盤の変動の最中にあって、これまでマーラーに関する「記憶」を保持していたあり方もろとも、マーラーという記憶そのものもまた、現在との接点を喪って 過去の地平の彼方に没しつつあるのだというのが、更に四半世紀が過ぎてから回顧しての展望にならないとも限らないとさえ感じられる。

その一方で、今はまだ時期が熟していないかも知れなくても、もう四半世紀が過ぎた頃には今度はようやく新たな読み直しが可能となって、現時点では予想もつかないような仕方で マーラーの受容が行われているということだってありえるだろう。意識のあり方とて歴史的に規定され、その意識がそこに埋め込まれている社会的文脈との相互作用によって変容 していくものであるとすれば、遠い将来のある時点でジュリアン・ジェインズがホメロスの時代の意識の様態を探ったのとパラレルな探査がマーラーを素材にして行われたりするのかも 知れない。シュトックハウゼンのように宇宙人を持ち出すまでもなく、そもそも「人間」というのも一つの概念であり、時代とともに移ろい、変化していくものなのだから、意識の 考古学の如きものを考える方が遥かに興味深い。否、そうしたシュトックハウゼンのマーラー認識そのものが、例えばアドルノがマーラー論において「大地の歌」に関連して 宇宙飛行士が宇宙から眺めた球体としての地球を持ち出したことなどとともに、ある時代の認識の様態を端的に象徴するものとして分析の対象になっても不思議はなかろう。

そうした中で「クラシック・ジャーナル」という雑誌がマーラーの特集を企画し、そこに掲載された「マーラーについてあまり知られていないこと、いろいろ」と題された前島良雄さんの文章を たまたま目にする機会があった。そしてその文章の中に「「大地の歌」は交響曲か」、という一節があり、「「大地の歌」を交響曲に分類することが自明であると考えられているのは、 わが国の特殊事情によるものであるようだ」とし、それを受けて「大地の歌」を交響曲に分類することに「第9の迷信」が影響しているという主張がなされるのを知り、強い違和感を 感じずにはいられなかったので、まずは自分の整理と備忘のために、もう一つには同じ文章を読まれた方に対して、前島さんの文章を読んで私が素朴に抱いた疑念、あるいは 思い浮かべたこと、更にはまた改めて調べてみたりした幾つかの事項を参考までに記録しておくことを目的として書き留めておくことにする。

*   *   *

前島さんの文章において「大地の歌」を交響曲に分類することが自明であると考えられていることの根拠として挙げられているのは、CDなりLPなりの「交響曲全集」に 「大地の歌」が含まれるかどうかに関する調査結果であり、日本国内と海外での扱いの差に、日本特有の事情を見ておられるようなのだが、 一読した限りでまず不思議に感じられるのは、その指摘の後に続く、「大地の歌」を交響曲とすることについて「第9の迷信」が影響しているという主張が、先行するCDやLPの 「交響曲全集」での「大地の歌」に対する日本国内と海外での扱いの差とどう結びつくのかが判然としないことである。 仮に「第9の迷信」についての影響の差が日本国内と海外での扱いの差の原因であるとするのであれば(ただし、 そのように明確に書かれているわけではないが)、何故その差が生じることになったかこそがこうした社会学的な議論においては重要ではないかと思えるのだが、 その点については触れられていないので、読み終えてみて些かはぐらかされた感じになり、実は前半の話と後半の話は独立の話なのだろうかと思ってみたりすることにもなる。

ひっかかりの原因を突き止めるべく、再読してみた結果、前島さんの主張は二重・三重の意味で私には不可解に感じられることがわかった。 まず1つ目は「「大地の歌」を交響曲に分類することが自明であると考えられているのは、わが国の特殊事情によるものであるようだ」という主張がLP, CDの交響曲全集に それが含まれるかどうかという点のみに基づいて為されている点である。2つ目は、「大地の歌」を交響曲に分類することに「第9の迷信」が影響しているという主張が、 「わが国の特殊事情」なのかどうかについて些かも明らかではないにも関わらず、あたかも「第9の迷信」が「わが国の特殊事情」であるともとれるような書き方になっている点である。 流れからすれば「わが国の特殊事情」の説明として「第9の迷信」が影響しているという主張になるはずだが、もしそうであるとするならば、今度は「第9の迷信」が「わが国の特殊事情」 であることの実証があってしかるべきだし、どのような事情で「第9の迷信」が日本では根強く信じられているのかについての説明があっても良さそうなものだが、その点についての 説明が為されることはない。そして3つ目は、最後に至って突然シベリウスの「クレルヴォ」が比較対象として取り上げられ、「大地の歌」を交響曲に分類することには営業的な 意味があるのではないかという主張がなされ、それは「わが国の特殊事情」に纏わるものに違いないのだが、では何故日本ではそうなのかの説明はまたしても為されず、 なおかつ「第9の迷信」とは少なくとも権利上は全く独立のものであるが故に、それぞれがどう関係し、あるいは関係しないのかについての説明がないのも腑に落ちないといった 具合なのである。

勿論、「交響曲全集」に「大地の歌」が含まれるかどうかに関する調査結果は事実として受け止められるべきなのだろうが、後半の「第9の迷信」についての議論との相関が 気になりだすと、「「大地の歌」は交響曲か」に関する他の手がかりはないものかと考えてみたくもなる。そこで私が思いついたのは2つあって、1つはこれまた「マーラー・ブーム」の頃には 日本でも頻繁に行われ、今年から来年のシーズンにかけては海外・国内いずれにおいても行われる予定であるらしい、コンサート・ホールでの「マーラー・ツィクルス」での「大地の歌」の扱い、 もう1つはマーラーの「交響曲」に関する文献における「大地の歌」の扱いであった。いずれについても網羅的な調査をやるだけの環境も時間も能力も私にはないので、学問的な 分析に値する調査は専門の研究者に期待することとして、ここではとにかく、市井の愛好家がふと出来た休日の空き時間を使って調べた限りで知りえたことを紹介しておくことにしたい。

*   *   *

まず、「マーラー・ツィクルス」の方だが、まず1990年前後に国内で行われたケースについて記すと、シノポリ/フィルハーモニア管弦楽団による東京芸術劇場の杮落としでは歌曲集や 「嘆きの歌」とともに「大地の歌」が取り上げられていて、CD同様、交響曲に限定されないのに対し、ベルティーニ/ケルン放送交響楽団によるツィクルスは「交響曲」のみであり、 だがそこで「大地の歌」が第10交響曲のアダージョと組み合わされてツィクルスの1回分を構成していたようである。一方、ほぼ同じ時期に3年かけてサントリーホールで行われた 「純国産」の企画である若杉/東京都交響楽団のツィクルスでは、交響詩「巨人」が第1交響曲のハンブルク稿として 初演されたり、交響詩「葬礼」が第2交響曲の第1楽章に置き換わる形で、後続する4楽章と続けて演奏された点や、新ウィーン楽派の3人だけでなく、ツェムリンスキー、 シュレーカーの作品とマーラーの交響曲が組み合わせられたプログラム構成が特徴的であったが、マーラーに関してはやはり「交響曲」に限ったプログラムであった。その一方で、ここでは「大地の歌」は別枠の特別演奏会という形態で第10交響曲のアダージョと組み合わせたプログラムで取り上げられた。 (パンフレットに掲載された諸井誠さんとの対談で若杉さんは、交響曲全曲という場合には「大地の歌」も含めなくてはならないと述べているので、特別演奏会はその発言の意図に沿ったものだったのかも知れないが。) 時期は少し下るが、「国産」のもう一つのツィクルスである1999年シーズンの井上道義/新日本フィルハーモニーのそれは歌曲集やらピアノ四重奏曲等を 併せて取り上げたプログラム構成になっており、その中で「大地の歌」を含めている。要するにマーラーの管弦楽作品を取り上げる場合は勿論、交響曲に限定した場合も 「大地の歌」は含まれているようなのである。

以上は日本国内で演奏されたものだから、CDやLPでもそうであることを前島さんが指摘したのと同様に、外来のオーケストラのコンサートであったとしても「国内向け」仕様なのでは、 という考え方もあるだろうから、海外におけるツィクルスについても多少調べてみると、1920年のアムステルダムでのマーラー祭、1967年のウィーン芸術週間、1995年のアムステルダムでの マーラー祭のいずれも歌曲集、「嘆きの歌」などとともに「大地の歌」を含むもので、いずれもそもそも交響曲全曲という枠組みではない。 現在進行形である今年から来年のシーズンはどうかと言えば、コンセルトヘボウ管弦楽団、バイエルン放送交響楽団、北ドイツ放送交響楽団のものは「大地の歌」を含むし、 ストックホルムでの複数のオーケストラによるものは含まないといった具合である。コンサートの場合、1回のプログラムの長さの問題もあるし、歌手の招聘の問題もあるだろうから、 交響曲だけのツィクルスというのは企画上却って難しいのかも知れないし、マーラーの作品のみ特別に集中して行うのか、他の作曲家の作品と組み合わせて定期演奏会の枠組みの中で やるのかといった点も影響するかも知れない。いずれにしても「「大地の歌」は交響曲か」という問いに対してコンサートにおけるマーラー・ツィクルスは明確な判断材料を与えるものではなさそうである。 ということは同時に、ここでは日本と海外との間には大きな差異があるわけではなさそうだということでもある。

*   *   *

ではマーラーに関する文献の中での扱いはどうだろう。歌曲や「嘆きの歌」も含めた全作品解説ではなく、タイトルに「交響曲」と銘打った文献に限って調べることするが、 結果はやはりLPやCDの場合とは些か勝手が異なるようだ。

古いところでは、例えばベッカーのGustav Mahlers Sinfonien(1921)は「大地の歌」を含んでいる。ほぼ同じ時期のイステル編の Mahlers Symphonien(2 Auflage)もやはり含んでいる。それらが、アルマが撒き散らした伝説の圏内で書かれたものであるという時代的な制約の下にある点は否定できないが、 その一方で新しいところでも、例えばレナーテ・ウルム編のGustav Mahlers Symphonien : Entstehung - Deutung - Wirkung (4. Auflage, 2007)は「大地の歌」を含んでいる。 実を言えば、当の前島さんが訳されているフローロスのモノグラフ第3巻(1985)がそもそもずばり「交響曲」という題名を持っているのだが、この中でもやはり 「大地の歌」は扱われているのである。まさかこの点に気付かずに(あるいは忘れて)前島さんが上記の文章を書かれたということはあり得ないから、前島さんの主張する 「「大地の歌」を交響曲に分類することが自明であると考えられているのは、わが国の特殊事情によるものであるようだ」というのは、LP, CDといった録音媒体の企画やら マーケティングに限定した議論なのだということなのだろうか。こうした文献における分類は何かの理由で考慮する必要がないのだろうか。私にはその辺の事情が 判然としないのである。

実を言えば、Webページでの分類をご覧になっていただければわかるとおり、「「大地の歌」は交響曲か」という問いに対する見解そのものについては、私は前島さんの 主張に賛成なのである。「大地の歌」は交響曲と歌曲の中間的な形態であり、こうした形態に辿り着いたことが「マーラーの場合」の特殊性を示していると私は考えている。 だがこれは別に私独自の立場というわけではなく、既にアドルノがモノグラフにおいて「《大地の歌》は純粋な形式というものに反乱を起こしている。それは一つの中間型なのである」 (龍村訳p.194)と述べ、更に続けて「歌曲交響曲Liedersymphonieという構想は、マーラーのイデーにまことに適している。それは、先験的に上から与えられた図式に拘泥 することなく、意味深く互いに連続する個々の出来事の結果として生成する一つの全体であるのだから。」(同)と述べていることを指摘しておこう。ともあれ、それゆえ私は一方で ピアノ伴奏版の「大地の歌」もまた、他の連作歌曲集の場合と同様それ固有の価値を持つと考えるし、それゆえ例えば平松・野平による全曲をソプラノ歌唱・ピアノ伴奏で 演奏する形態にも違和感を感じていない。だが、だからといってもう一方でマーラー自身が「大地の歌」を草稿の上でだけとはいえ「交響曲」と呼んだ事実は残るし、 そのことに言及せずに論を進める前島さんの議論は、例えばその後で交響曲の「ニックネーム」に関しては作者の意向を顧慮する立場を取られていることからすれば 一貫しないのではなかろうかと感じずには居られない。

*   *   *

「第9の迷信」について前島さんは、アルマの作り話である可能性すら示唆しているが、私にとって問題なのは「第9の迷信」を広めた点についての事実関係はおくとして、 それを否定した序に「「大地の歌」は交響曲か」についての本質的な議論の方まで葬り去られてしまうことである。 フローロスとてアルマがそう伝えるから「大地の歌」が交響曲なのだとは言っていない。フローロスに限らず「大地の歌」が作品の構造上、 交響曲と呼ばれるに相応しい実質を備えているかどうかの検討をそれぞれの論者が行っているわけで、確かに「大地の歌」は単なる連作歌曲とは言い難い、少なくとも 第8交響曲が交響曲であるのと類比的に論じられる程度には、交響曲的な実質を備えているのは確かなことなのである。

そもそもアルマの回想が意図的か否かを問わず、多くの歪曲・記憶違いを含むものであることや、アルマが編んだ書簡集がかなりの程度に改竄されたものであることは 今では良く知られていて、寧ろ旧聞に属するものであると私には思われる。子供であった私が最初に読んだマーラーの評伝は、デント社のシリーズの1冊として書かれた マイケル・ケネディのものの邦訳だったが、ケネディのようなどちらかといえば一般向けの啓蒙書といった体裁のものですら、そうした点の指摘は既に行われていた。ちなみに ケネディのモノグラフが置き換わることになったレートリヒの「ブルックナーとマーラー」(マーラーの部分の更に一部だけ邦訳がある)においても「死後出版の3つの交響曲」という章で 「大地の歌」が扱われているが、ここでは「第9の迷信」が事実として言及されている。従って、「第9の迷信」に限って言えば、文献が執筆された年代を考慮に入れる 必要はあるのだろうが、「「大地の歌」は交響曲か」という点について言えば、あくまで管見ではあるが、近年の研究においてさえ「大地の歌」を交響曲と見做さない立場が 優勢であるようには思えない。何より前島さん自身が訳されたフローロスにしてもそうであって、フローロスはアルマの証言をひとまずは受け入れる立場を取っているからには 見解が対立しているにも関わらず、「大地の歌」のテキストの問題については詳細な訳注をもって介入することを厭わない前島さんが、その一方で「「大地の歌」は交響曲か」と いう点についても、「第9の迷信」についてもフローロスの立場に異議を唱えるわけでなく、訳注による介入をするわけでもないのは思えば不可解という他ない。

勿論私には「第9の迷信」が現時点でどの程度日本に蔓延っていて、それが「大地の歌」を交響曲に分類することにどの程度与っているかについて実証的に検証することは できないので、前島さんの説を否定することはできないが、それを言い出せば「第9の迷信」がアルマの作り話であるという実証的な裏づけがあるわけでもなく、要するに 前島さんにとって「「大地の歌」は交響曲か」の判断基準が奈辺にあるや杳として知れないというのが正直な印象なのである。

仮にの話だが、「第9の迷信」が虚構であったとして、だからといってアルマが回想で記述した「大地の歌」成立の経緯、フローロスが引用し、前島さん自身が訳している 「彼は、それぞれ別々のテクストをつなぎ合わせ、間奏を作曲し、長大になった音楽形式はしだいに彼本来の音楽形式―つまり交響曲への彼自身を引き寄せていった。 これが交響曲のような作品になりそうだということにマーラーが気付くと、作品はみるみるうちにその形を成し、彼が考えていたよりも早く完成してしまった」(AME 175を フローロスが引用したもの。前島訳p.318)という件の信憑性はまた別のものだろう。アルマ自身が、それは最初は歌曲として構想されたと述べているのである。 「大地の歌」はマーラー自身が演奏することがなかったし、生前に出版されることもなかったから、最終的な形態については所詮は想像の域を出ないとはいえ、 ピアノ伴奏版の完成度が管弦楽版よりも劣ることや、形態的に前の段階を示している可能性があること、更にマーラーが「大地の歌」の出版契約にあたり、 自分の用意したピアノ伴奏版の出版は想定していなかったことを告げる書面が残されていることなどを傍証としてあげることができるように、 「大地の歌」が交響曲「でも」ある、否、第一義的には完成した作品はマーラーが草稿にはそう書いたようにSymphonie für eine Tenor- und Altstimme und Orchester であるという経緯をアルマの回想は生き生きと証言しているのではないか。細かい区別に拘泥するならば、「第9の迷信」は寧ろ番号付けに纏わる問題であって、 「大地の歌」が番号なしであれ「交響曲」であるという主張とは別の平面の話であるという見方も可能だろう。

念のため繰り返して強調するが、前島さんも「大地の歌」は交響曲ではないと断定しているわけではないし、私がその点について異議があるわけではないのも既に 述べた通りである。私がひっかかったのはその点ではなくて、上記のような微細な議論の齟齬もさることながら、「大地の歌」を交響曲に分類することが恰も日本固有の、 しかも近年の(「海外の」という含意がもしかしたらあるのだろうか)研究成果を知らないが故の、更にはアルマが流布させた「第9の迷信」による誤解であるかの如き論調に まずもって非常に強い違和感を抱いたのである。序に言えば、私は「大地の歌」にまつわる情報の多くをHeflingのモノグラフから得ているが、Heflingがピアノ伴奏版に ついて報告した論文の題名にしてからが"Das Lied von der Erde : Mahler's Symphony for Voices and Orchestra - or Piano"なのであって、 「大地の歌」は交響曲だということになっているのだ。CD, LPの交響曲全集の問題はともかくも、交響曲「大地の歌」という呼称は「わが国の特殊事情によるもの」でもなければ、 「第9の迷信」に基づく誤解ばかりというわけでもないようにしか私には思えないのである。

*   *   *

前島さんが指摘するCD, LPの交響曲全集に「大地の歌」が含まれるのが日本固有の事情である理由は、別途原因を探るべき価値があるテーマかも知れない。 また単純に海外と日本を対立させるのではなく、時代の経過とともに「大地の歌」の受容がどのように変遷してきたかについて、これは海外、日本ともども追跡してみる べきなのかも知れない。寧ろ見方によっては、マーラーについての文献は「大地の歌」を交響曲に分類しているにも関わらず、海外でのCD, LPの交響曲全集に 「大地の歌」が含まれないことの方を異常なことと見做して、何故そういうことが生じるのかを追求するような立場だって可能かも知れないのだ。もしかしたらそこに 「大地の歌」という「標題」を持つ「交響曲」に対する微妙な態度が浮かび上がらないとも限らない。

前島さんはシベリウスの「クレルヴォ」が交響曲と呼ばれることを「大地の歌」と類似した例として挙げられているが、実際には作曲者がそれを交響曲と呼んだかどうかに ついての差異が両者には存在するし、「クレルヴォ」を交響曲と見做すのは日本人だけではないという点を指摘しないのは公平を欠くだろう。更に別の作曲家に目を向ければ、 例えばチャイコフスキーにおける「マンフレッド交響曲」のような例はどのように位置づけられるのだろうか。そもそもベートーヴェンの「戦争交響曲」と呼ばれる 「ウェリントンの勝利」はどうなのか。それらが標題交響曲なり描写音楽であり、はっきりと他の交響曲と異質であるというのであれば、アイヴズの第4交響曲と 「祝日交響曲」の差異はどうだろうか。あるいはまた、マーラーならむしろ第8交響曲を連想させる2部構成をとり、3楽章よりなる器楽によるシンフォニアを第1部とし、 9曲からなる声楽を含むカンタータを第2部として持ち、作曲者自身が「交響カンタータ」と呼んでいたらしいメンデルスゾーンの第2交響曲はどうだろうか。 声楽が全編を占めるということで言えば、ニックネームの項で前島さんが言及するショスタコーヴィチの 第14交響曲だけではなく、同じく「大地の歌」の影響なしには考えられないブリテンの「春の交響曲」やらツェムリンスキーの「叙情交響曲」はどうだろうか。 スクリャービンの「法悦の詩」「プロメテウス―火の詩」は交響曲全集(ピアノ協奏曲は含まない)に含まれるだろうか。こうした例は幾らでも挙げることができるだろうが、 そこにはマーラーの場合に見られるような海外と日本との差異が、日本固有の事情がやはりあるのだろうか。ないとすればそれは何故なのか、あるとしたらそれはそれで マーラーの個別の事情であるはずの「第9の迷信」の影響というのはそうしたパースペクティブの下ではどういう位置づけになるのか。

一方で、実際には上述の例の幾つかにおいて既にそうであるように、ごく単純に作曲者自身が番号を振ったかどうかという点を問題にすることもできるだろう。 前島さんが取り上げられたシベリウスであれば、第7交響曲を「交響的幻想曲」という題名のままにしておいたらどうなっただろうか。あるいはまたショスタコーヴィチを 取り上げるなら、第14交響曲のみならず、第2交響曲や第3交響曲のようなケースや「バビ・ヤール」が番号付き交響曲であることについてはどうだろうか。 ショスタコーヴィチのそれらの作品同様、メンデルスゾーンの「賛歌」も、ヴォーン・ウィリアムズの「海の交響曲」や「南極交響曲」もまた、 番号付きであるという理由だけで交響曲全集から排除することができない。単純にそうすれば欠番が生じて「全集」ではなくなってしまうからだ。 その一方で既述のスクリャービンの場合は第4交響曲と見做されていた「法悦の詩」と「プロメテウス―火の詩」の間に線を引く 選択肢がありえるだろうか。だがそもそもマーラーの場合に立ち返れば、それらとは異なって「大地の歌」を除いても欠番は生じないし、第9交響曲が後に続いているのだ。

前島さんが最後に書いた「交響曲」と名づければ売れるという、恐らくそれ自体は全く間違っている訳でもない理由付けは、その理由が「第9の迷信」によるかどうかに関わらず、 マーラー自身が「大地の歌」に番号を振らずに、次の器楽曲に番号を与えたという事実がまずあっての話なのではないか。裏を返せば海外で「大地の歌」を 「交響曲」に含めないというのを事実として認めたとして、それはそれで海外ではそちらの方が売れるからなのか、「大地の歌」を含めたら売れなくなる理由があるのか、 という問いの立て方だって可能に違いない。

*   *   *

結局のところ欧米のマーラー交響曲全集から「大地の歌」が排除されるのは、「大地の歌」が備えている特徴のうち、何が最も大きく寄与しているのだろう。 上に幾つか挙げた例との類比に限れば、最も表面的には、それが作曲者によって「番号」を与えられなかったからという説明だった成り立ちそうだし、「大地の歌」という 題名、交響曲には似つかわしくない題名のせいかも知れない。もう少し実質的な水準において交響曲的な構造を備えた連作歌曲であるからということであれば これは極めて正当な理由だということになろうが、これとて「交響曲」についてのドクサに従わないマーラーの形式の唯名論的な性格が、それ以外の理由、例えば素材として 用いられている五音音階、アドルノ言うところの「仮象」としての東洋趣味ともども「交響曲」の理念にそぐわないという暗黙の判断がそこに働いているというふうに考えることも できるだろう。要するにマーラーの音楽は今日においても未だ、通念のレベルでは西欧音楽においてマージナリティを帯びており、その中でもとりわけ「大地の歌」は幾つもの理由で「交響曲」から 排除さるべき徴を帯びているのではないか。だとしたら、「第9の迷信」を隠れ蓑にして、マーラー自身が番号をつけなかったことを幸い、あるいは「大地の歌」という「交響曲」には 相応しからぬ題名を作者によって与えられた作品である「大地の歌」を交響曲のカテゴリーから排除するのは、研究文献やら作品解説の水準では「交響曲」として認知されながらも、 しかもマーラーの意図を違えてまでそうするのは寧ろ西欧の伝統そのものではないのかと疑ってみてもいいのだ。

そもそもマーラーの交響曲は第6交響曲を含めてもなお、交響曲の規範からの逸脱の連続である。 そしてアドルノが「突破」「停滞」「充足」あるいは「崩壊」といったカテゴリーを用いたように、その構造は 伝統的な図式とは別の次元での力学を備えていて、それが例えばソナタ形式のような伝統的な図式を変容してしまう。 アドルノのいうマーラーの音楽の唯名論的な性格に惹かれる聴き手にとって、ジャンルの問題は連続的で せいぜいがプロトティピカルなものでしかない。結果として私にとっては交響曲と歌曲の間に序列があるわけではない。寧ろカンタータと連作歌曲と交響曲が 連続的で移行可能な形態であること、歌曲が交響曲楽章の一部になりえてしまうというより大きな展望の方が重要なのだ。

そう名づければ売れるという売る側の思惑や「第9の迷信」もあるには違いないだろうが、端的に「大地の歌」を他のマーラーの交響曲と同じように聴くことに 困難を覚える聴き手は日本にも居るに違いないし、寧ろそれはその人が聴いてきた音楽が形成する地平と相関しているのではなかろうか。 かく言う私も、「大地の歌」を他の交響曲と同一の仕方で聴いているわけではない。もっともそれを言えば私に限っては、第8交響曲もまた、 番号付きではあってもやはり普通の交響曲とは異なるものに感じられる。そういう意味では第8交響曲だってもし番号が付けられなければ「大地の歌」と同じように 排除されたとしても違和感はないのである。一方で「大地の歌」を交響曲に含めるのと同じレベルで、例えば「嘆きの歌」を同列に扱うことは、他の作曲家における 類似のケースはともあれ、ことマーラーの場合に限れば不可能だろう。何よりもまず、作曲者自身がそれを同列のものと見做していないという点は尊重されるべきだし、 それ以上に作品そのものの水準において、結局のところ「大地の歌」にはあり、第8交響曲にはより多く備わっていて、かつ「嘆きの歌」にはない、 「交響曲」に含められるだけの実質というのがやはりあるわけで、それを抜きにした議論は事態を不当に単純化することにしかならないと私には感じられてならない。

「大地の歌」を「交響曲」として扱い、CDの交響曲全集に含めれば売れるというのが日本独特の事情であることを認めたとして、そして更に百歩譲って、 それが可能であることの背景として「第9の迷信」が影響しているという仮説を認めたとして、そうしたレベルで議論が終始すること自体が批判の対象と 同じ土俵の上にいることを告げているように思えてならないのである。それがマーケティング戦略の副産物だとして、「大地の歌」を交響曲に含めることが 自然に受容される日本の特殊性を逆に積極的に評価する意見さえありえるかも知れないし、更に微妙な問題を含む第10交響曲のクック版の扱いについても、 日本で企画されたインバル/フランクフルト放送交響楽団のそれには協会全集版アダージョとともに全集に含まれている点を積極的に評価する向きがあったとしても 不思議はない。

*   *   *

従って実のところ、このように書いてはみたものの、私自身にとってはニックネームの問題も「大地の歌」の分類の問題も、「第9の迷信」の問題も、少なくとも前島さんが 扱う水準に限れば別段興味を惹くような話題ではないのだ。ニックネームは不要だし、「大地の歌」は交響曲と連作歌曲の融合だし、「第9の迷信」の事実関係によって マーラーの後期交響曲の「内容」なり「意味」なりと呼ばれるものが変わるわけではないというのが私の立場である。そもそもフローロスの言う「標題」に対しても私が 懐疑的なことは別のところで既に述べたとおりである。それよりは歌詞と音楽との関係や音楽の構造の具体的な様相そのものに寄り添うことの方が一層興味深いことに思えてならない。 繰り返しになることを厭わずに再度確認すれば、「大地の歌」の魅力は、それが交響曲と連作歌曲の融合であって、「「大地の歌」は交響曲なのか」式の問いを無効にするような 実質を備えていることと不可分の関係にあるのではなかろうか。 (2010.10.17初稿)

2010年10月3日日曜日

近年のマーラー受容を支える技術的環境を巡って

近年の私のマーラーへの接し方について、まずマテリアルなレヴェルでインターネットの発達の影響は非常に大きなものがある。多忙のせいもあって お店に足を運ぶ時間がない私は、CDもほとんどはインターネット経由で購入することが多いが、CDの蒐集に対する関心は希薄なため、 それよりも文献と楽譜へのアクセスに関する恩恵の方が遥かに大きいだろう。特に文献は新しいものではなくて、過去の基本的な文献に 接するのに、まずもって時間的に困難なばかりではなく、専門の研究者でない市井の愛好家に過ぎない私のような人間にとって 図書館のようなところに足を運ぶことは非常にハードルが高いのだが、インターネットで古書を探すことが容易になったことで、そうしたメディアが なければ到底アクセスが叶わなかったであろう文献を手元に置いて参照することができるようになったのは大変に有難い。特に洋書の古書の 入手については、以前は想像もできなかったような恵まれた状況にある。ほんの一例に過ぎないが、1910年刊行のマーラー生誕50年記念論集、 アルマの「回想と手紙」のオリジナルの形態やアルマが編んだ書簡集、バウアー=レヒナーの回想の初版、パウル・ベッカーの研究などといった文献は、 私が生きていない過去、だがマーラーが生きた時代とは確実に繋がっている過去の記憶そのものであり、そうした書籍を市井の一愛好家が 手元においてリアル・タイムにアクセスできることは、CDのような記録手段によって歴史的演奏にリアルタイムにアクセスできることと並んで、 21世紀初頭のマーラー受容のあり方を特徴づける状況ではないかと感じられる。その後の文献にしても、例えば「ブルックナー/マーラー事典」(東京書籍,1993) の文献リストに載っている研究文献のかなりの部分をそれを職業にしている研究者や評論家でもない、さりとて時間と資金とをそれにふんだんにつぎ込むことが できる立場にある訳でもない、平凡な市井の愛好家が手元に置き、必要に応じて参照することができるのは、考えようによってはかなりアナーキーな 事態とさえ言えるかも知れない。そういう意味ではこのWebページの所蔵文献や所蔵録音のリスト自体が、受容史の資料となるのではないかとさえ思える。

残念ながら文献については未だその途上にあり、だが恐らく今後はそうなることと予想されるが、楽譜については著作権の問題がなくなったものは デジタル画像に変換され、オンラインで入手できるようになっており、それによって出版譜の異同の確認ができるようになったことの恩恵も大きいだろう。 個人的には今後最も期待しているのは世界中のあちこちに散在して収蔵されている自筆譜ファクシミリのデジタル化、オンライン化で、これができるようになれば、 マーラーの「音楽」が本当の意味で市井の愛好家にとって手に届くものになるだろう。こうしたことを書けば、「猫に小判」「豚に真珠」という声が聞こえて きそうだが、私個人についてはそうした評価を甘受するにしても、その恩恵に浴してマーラーの研究に画期的な貢献をするような研究が出てくるのは 間違いがない。技術の革新による処理時間の短縮は、作業の内容を変え、質を変えることになるのは疑いないことで、マーラーの音楽の受容のあり方も 必ずや変容していくに違いない。

もう一点、技術革新に対する期待を書いておくと、現在進んでいる楽譜の画像のデジタル化、オンライン化とは別に、楽譜に書かれた情報のデジタル化の 進展に期待したい。楽譜を再現するという観点からは既にxmlの規格が存在している(ある規格のサンプルに、「さすらう若者の歌」のピアノ伴奏版終曲の 最初のページが取られているのをご存知の方もいられるかも知れない)が、ここでの期待はそれよりも、そうした音楽を構成する情報を 構造的に蓄積することで、作品の分析に対してドラスティックな変化が起きることに対するものである。楽曲分析は分析者が楽譜を読むことによって 行われてきたし、今後もその基本は変わらないにしても、より大量のデータを効率的に分析することができ、検索や抽出、比較や照合が容易に行える ようになり、その結果自体を保存することができるようになれば、楽曲の分析の仕方も大きく変化することになるだろうし、楽曲を分析するための 語彙もまた変わっていくのではなかろうか。アドルノがマーラー論冒頭で批判する楽曲分析の限界は、それをなくすことは原理的にできないにしても、 限界をずっと遠くに押しやることは可能になるだろう。例えば、かつては時間をかけてコンコーダンスを作成することによって行われてきた哲学文献の 用語法の分析などは、現在はテキストコーパスの利用によって全く様相を変えつつある。例えばの話、遠い将来、クックが第10交響曲に対して 行った作業をコンピュータが行うといった事態だって全くの空想とは言えないだろう。これはいわゆるSFの作品の中での話しだが、レムの 「ビット文学の歴史」の中で、コンピュータがドストエフスキーの「あったかも知れない」作品を書き上げたり、カフカの「城」を完成するのに失敗したり といった話が出てくる。ここで私が挙げた例は、対象がマーラーの音楽になっただけで、別段独創的な部分などありはしない。勿論、この半世紀ばかりの 人工知能研究の歩みを考えれば、そうしたことがすぐに可能になるとは到底思えないが、しかしそれがいつの日か可能になるというのは私の個人的な 放恣な妄想などではない。

私は別のところでシュトックハウゼンがド・ラ・グランジュのマーラー伝の書評において、 「もしある別の星に住む高等生物が地球人の性質をごく短期日のうちに調査しようと思うなら、マーラーの音楽を素通りするわけにはいかないだろう。」 (酒田健一訳)と述べているのに対して、その文章に含まれる様々な予断を批判しつつ、だがそれを詩的な比喩か修辞のように、あるいは芸術家の 誇大妄想として受け流すのではなく、逆にその不十分さを補って、もっと先に推し進めていくことによって限界を認識することによってこそマーラーの音楽の 今日的な射程は見えてくるのではないかと書いたことがあるが、それはこうした受容を支える技術的なレベルの進展と無関係ではあり得ない。 そして強調したいのは、現時点でマーラーの受容史を書こうとしたとき、技術的な環境の変化がどのように受容のあり方に影響するのかという分析なしには その作業は不充分なものとなるだろうということ、そして最終的に、「マーラーの場合」の個別性を扱いえないだろうということである。事実問題として、 マーラーの受容は「常に既に」技術の発展と並行して変容してきたし、今日ますますその連関の度合いが増しているのは、私のような市井の一愛好家の 受容のこうした記述だけからでも明らかだし、同時に、私のような市井の一愛好家の己の受容についての振り返りからも明らかなのだから。

なお、最近の私個人のマーラー受容の具体的な様相については、雑文集に収められている幾つかの文章に記述がある。また、自分の受容のあり方と 近年盛んになりつつある、戦前以来の日本におけるマーラーの受容についてのいわゆる「受容史」が告げるあり方との関係、あるいは無関係についても やはり雑文集の中に主題的に扱った文章があるので、ここではそれらの内容を繰り返すことはしない。 (初稿2010.10.3)

2010年7月25日日曜日

マーラーの交響曲のソナタ楽章についての覚書

そのことをどう評価するかは立場によって様々であろうが、マーラーがおよそ1世紀程前に成立した、交響曲という多楽章の組曲形式に拘り続けたのは事実であろう。 一方でマーラーの交響曲が、伝統的な交響曲形式から著しく逸脱しているといるという認識も広く共有されていることといって差し支えないだろう。だが、その逸脱の 「如何にして」の内容についてはどうだろうか。全体としての長大化、楽章数の拡大・縮小、楽章間の長さのコントラストの拡大、そして何よりも管弦楽の拡大、 特殊な楽器の使用や声楽の導入といった特徴について語られることは多いし、勿論これらの特徴はいずれも取るに足らぬものではない。だが、私見によればそれ以上に 重要なのは、楽章間の調的な配置の問題であり、各楽章内の構造、とりわけ交響曲における主要楽章と見做されるソナタ楽章の内部構造の方であって、 マーラーのそれが(しばしば起きることではあるが、交響曲とは名ばかりの単なる)交響的な組曲ではなく、なお交響曲であり続けるのは、良きにつけ悪しきにつけ、 マーラーが主要楽章を構築するにあたり、そこから結果的に大きく離れていくことになったとはいえ、基本的にソナタ形式を出発点としている点、そればかりではなく、 そうした「逸脱」が単なる構造の解体ではなく、アドルノが的確に言い当てたように「唯名論的」にその都度決定される構造の構築、 前世紀後半に流行した言い方を借りれば「脱構築」であることに存するだろう。
例えばマーラーの音楽が同時代のパリで、「進歩的」と目される作曲家達に拒絶されたのは、それがなお「交響曲」であり続けたからに違いなく、そうした抗議は その後も「交響曲」というジャンルに拘り続ける作曲家達に対しても同様に向けられることになるのだが、ここではそうした音楽史的な展望は少なくとも二義的な 意味合いしか持っておらず、寧ろ、そうした批難にも関わらず「交響曲」であり続けた具体的な様相の方を、外から押し付けられる価値判断を中断して眺めてみたいのである。 なぜならこの点だけとも言わず、この点が他よりも優ってとも断定はできないかも知れないにせよ、それでもなおこの点こそがマーラーの音楽の独自性を示す特異点であることは 確かに思われるからだし、私見ではマーラーの音楽の際立って時間的に発展していく構造、しかも伝統的な形式とは異なって、時間発展が外枠で予定的に決められておらず、 内在する別の力によって時間発展の方向がその都度分岐していくような、際立って豊かな構造を明らかにするための予備作業として欠かせないものと考えるからである。 それは外部からの異質のファクターの介入による構造変化、或る種の換骨奪胎と見做すのが適当な場合もあろうし、もともと内在していて、だが潜在的であったパラメータが コントロール・パラメータとして顕在化したと見做すのが適当な場合もあるだろうが、いずれにせよ、マーラーの音楽の時間的発展の豊かさ、人によってはそこに分裂やら 混乱を見出すかも知れない複雑さの背後にある力学を解明するために、特にソナタ形式を出発点としている楽章の内部構造の解明は中心的な意義を担うに違いない。
勿論こうした主張自体、何ら新規なものでも独創的なものでもなく、寧ろマーラーの音楽の形式に対する関心の中心の一つが常に既にソナタ形式の扱いにあったことは、 これまでに蓄積された文献を一瞥しただけでも明らかなことであり、従ってここで為しうるのもそうした先行研究のおさらいに過ぎない。だが、それにしてもでは実際にこうした 「まとめ」が行われたケースを邦語文献で見たことはなく、であってみればまずは自分の確認と整理のためにおさらいをしてみることを思い立った次第である。 なお直ちに明らかになることだが、結局のところソナタ形式の認定にあたっては楽章内の各部の調性配置が決定的な要因となるのであるから、以下の整理は既に別のところで 行っている調的配置の問題を、より範囲を限定し、別の角度から眺めたものに過ぎないという見方ができる。マーラーの交響曲楽章は、歌詞の構造に束縛される場合を 除けば、ソナタか変奏か、舞曲に多い3部形式かさもなくばロンドに大きく分類できるだろう。だが、静的な構造であるはずの3部形式に展開が持ち込まれたり、 やはり循環的な構造を持つロンドが回帰するとともに変奏されたり、ソナタ的な展開が企図されたりといった具合に、マーラーの場合にはそうしたプロトティピカルな各形式間での 相互嵌入が著しく、それがマーラーの楽曲の構造に豊かな動性をもたらしているのであり、ソナタ形式にフォーカスすることは、その中で最も動的な構造を中心にして 見ていくことに他ならない。そしてソナタ形式との関連が最も深いのは二重変奏であり、とりわけてもマーラーのソナタ楽章において、提示部の中で提示が2重化されたり、 複数の展開部を持つようになったりすると、両形式の境界は非常に微妙なものになっていき、結局のところ、展開部と再現部を徴づける調的配置を手かがリにするしかない、 といったことが起きるようになる。その一方でソナタであれば展開部の途中で主調での主題再現が生じると同時に文字通りの再現を忌避し、再現部が圧縮される一方で、 更なる展開を行う契機も孕むといったといった、ブルックナーにも見られるような形式上の流動化が進んだ結果、特に晩年に至るとソナタ形式とも変奏ともつかないような 独特の動的発展を孕んだ形式が生じるようになっていく。
だが、些か結論を先回りして言ってしまえば、マーラーの音楽の動性には、単に上記のような従来の形式間での相互嵌入による緊張のみでは説明できない別の 動因が存在するのである。ソナタと変奏の間の緊張は、いわば展開による緊張の後の再現による弛緩というソナタの図式と絶えざる無限に続く変容の過程との 緊張であるが、その中に、異質の句読点を入れ、音楽の流れを不連続にするような契機が持ちこまれる。ソナタ自体が複数の主題の間の緊張関係を含み持つ 動的で弁証法的な図式なのだが、そこに更に別の力学が埋め込まれ、あらぬ方向に軌道を導くような様相を呈するのである。アドルノの著名な「突破」「停滞」「充足」 ないし「崩壊」といったカテゴリーは、そうした別の力学を言い当てるために導入されたと考えるべきであって、だから、楽曲のある部分の静的な特徴をそうした カテゴリーに対応づけて分類するのは、勿論意味のないことではなかろうが、事態の一面しか言い当てたことにならないであろう。実のところそれらのカテゴリーの価値は それらの実質が、出発点となったソナタ形式の図式自体には内在するものではなく、音楽の動的な流れの別の層、別の次元を構成する点にあり、にも関わらず、 晩年に至るまでマーラーは、ソナタ形式を単なる図式として利用し、いわば宿主のように寄生することでソナタ形式を形骸化したというのは些か行過ぎた評価であって、 実際には個別の楽章において、ソナタ形式がもともと含み持っていたそれ自体複合的な諸契機を、そうした別の層との交錯によって、その都度異なった仕方で 賦活したと考えるのが正しいように思えるのである。
そうした見方をした場合に、マーラーのソナタ形式にあって顕著なのは、まず基本的には静的な性質を帯びた序奏が、ソナタの形式の外部に置かれるのではなく、 形式の内側に入り込みことで音楽の流れを都度変えてしまう点であろう。まるで構造上の句読点が序奏の再現によって打たれているかのような印象を与える 事例すら出てくるようになる。また主題の絶えざる変容を伴った再現、しかもしばしば性格的な変容すら伴った再現により緊張と弛緩の交替は、必ずしも 複数の主題間の対立、同一主題の再現といった平面のみで起きる事象ではなくなってしまう。ソナタの図式でいけば展開の途中で緊張が弛緩してしまうかと 思えば、再現が単なる回帰ではなく、その間に生じたイベントによる時間の流れの不可逆性のバイアスを強く帯びることで、寧ろ心理的には別の段階への到達を 告げるような状況がしばしば生じる。そして最後に、ソナタの図式に一応は従って、だが構造上の特異点を為すように、例えば再現部冒頭や再現部末尾で 「突破」が生じることによって、音楽の句読点の位置が移動してしまう。「突破」は予告されずに生じることはないといってよく、必ず既に呈示だけはされている 素材に基づくのだが、しばしばその素材はソナタ形式における二項対立を構成する主要な二つではなく、全くエピソード的な性格であったものが、今や主人公と ばかりに表舞台に躍り出る、といった按配なのである。同一の素材で、更にはモットー的にさえ生じる長調・短調の交替もまた、弁証法的な緊張、対立が優位な 次元とは別の連続的な次元の存在を際立たせる。
マーラーの交響曲におけるソナタ形式が形骸化し、あたかも廃墟の如き有様を呈しているといった修辞が用いられることがあり、それがひいては交響曲という ジャンルそのものにも敷衍されがちなのはソナタ楽章が交響曲に占める地位を考えれば当然のことと言える。そして確かにいわゆる図式的な意味でのソナタ形式は、 控えめに言っても、極めて限定的な役割しか果たしておらず、マーラーの音楽でそこには収まらない、逸脱した部分が重要であることは確かなことである。 だが、ソナタ形式が昇ったら捨てられる梯子の如きものであったのかどうかについては、私見では疑問があるように感じられる。図式的なレベルではなくても、 ソナタ形式を特徴付ける実質的な諸契機は決して機能することを止めてしまったわけではない。当時のワグナー派の作品と比すれば例えば世代的には先行する ブルックナーに比べてさえ反動的なまでに全音階的な初期作品は、だがしばしば形式的な大胆さから拒絶にあったのだったし、調性がなくなる一歩手前まで 近接するかに見える晩年の作品においてなお、第10交響曲を含めてさえ、ソナタ形式の契機は機能することを止めてしまったわけではない。だからして私には、 ソナタ形式の形骸化、廃墟といった言い回しは、既成のものからの逸脱の距離をもってのみ「新しさ」を測ろうとする立場そのものに起因するように感じられてならないのである。 そこでソナタを形骸化をしているのはマーラーではなく、寧ろ分析者ではないのかといった感覚に囚われることすら一再ならず起きている。恐らくは それをソナタと呼ぶかどうかはさておき、マーラーの動的なタイプの楽曲の形式をより実質的に記述するための言語を手にする必要があって、そうした言語の中で ソナタ形式からマーラーが汲み上げた実質、賦活させた契機といったものは適切な位置づけをもって立ち現れるのではないかと思えてならない。 (2010.7.25)