近年の私のマーラーへの接し方について、まずマテリアルなレヴェルでインターネットの発達の影響は非常に大きなものがある。多忙のせいもあって お店に足を運ぶ時間がない私は、CDもほとんどはインターネット経由で購入することが多いが、CDの蒐集に対する関心は希薄なため、 それよりも文献と楽譜へのアクセスに関する恩恵の方が遥かに大きいだろう。特に文献は新しいものではなくて、過去の基本的な文献に 接するのに、まずもって時間的に困難なばかりではなく、専門の研究者でない市井の愛好家に過ぎない私のような人間にとって 図書館のようなところに足を運ぶことは非常にハードルが高いのだが、インターネットで古書を探すことが容易になったことで、そうしたメディアが なければ到底アクセスが叶わなかったであろう文献を手元に置いて参照することができるようになったのは大変に有難い。特に洋書の古書の 入手については、以前は想像もできなかったような恵まれた状況にある。ほんの一例に過ぎないが、1910年刊行のマーラー生誕50年記念論集、 アルマの「回想と手紙」のオリジナルの形態やアルマが編んだ書簡集、バウアー=レヒナーの回想の初版、パウル・ベッカーの研究などといった文献は、 私が生きていない過去、だがマーラーが生きた時代とは確実に繋がっている過去の記憶そのものであり、そうした書籍を市井の一愛好家が 手元においてリアル・タイムにアクセスできることは、CDのような記録手段によって歴史的演奏にリアルタイムにアクセスできることと並んで、 21世紀初頭のマーラー受容のあり方を特徴づける状況ではないかと感じられる。その後の文献にしても、例えば「ブルックナー/マーラー事典」(東京書籍,1993) の文献リストに載っている研究文献のかなりの部分をそれを職業にしている研究者や評論家でもない、さりとて時間と資金とをそれにふんだんにつぎ込むことが できる立場にある訳でもない、平凡な市井の愛好家が手元に置き、必要に応じて参照することができるのは、考えようによってはかなりアナーキーな 事態とさえ言えるかも知れない。そういう意味ではこのWebページの所蔵文献や所蔵録音のリスト自体が、受容史の資料となるのではないかとさえ思える。
残念ながら文献については未だその途上にあり、だが恐らく今後はそうなることと予想されるが、楽譜については著作権の問題がなくなったものは デジタル画像に変換され、オンラインで入手できるようになっており、それによって出版譜の異同の確認ができるようになったことの恩恵も大きいだろう。 個人的には今後最も期待しているのは世界中のあちこちに散在して収蔵されている自筆譜ファクシミリのデジタル化、オンライン化で、これができるようになれば、 マーラーの「音楽」が本当の意味で市井の愛好家にとって手に届くものになるだろう。こうしたことを書けば、「猫に小判」「豚に真珠」という声が聞こえて きそうだが、私個人についてはそうした評価を甘受するにしても、その恩恵に浴してマーラーの研究に画期的な貢献をするような研究が出てくるのは 間違いがない。技術の革新による処理時間の短縮は、作業の内容を変え、質を変えることになるのは疑いないことで、マーラーの音楽の受容のあり方も 必ずや変容していくに違いない。
もう一点、技術革新に対する期待を書いておくと、現在進んでいる楽譜の画像のデジタル化、オンライン化とは別に、楽譜に書かれた情報のデジタル化の 進展に期待したい。楽譜を再現するという観点からは既にxmlの規格が存在している(ある規格のサンプルに、「さすらう若者の歌」のピアノ伴奏版終曲の 最初のページが取られているのをご存知の方もいられるかも知れない)が、ここでの期待はそれよりも、そうした音楽を構成する情報を 構造的に蓄積することで、作品の分析に対してドラスティックな変化が起きることに対するものである。楽曲分析は分析者が楽譜を読むことによって 行われてきたし、今後もその基本は変わらないにしても、より大量のデータを効率的に分析することができ、検索や抽出、比較や照合が容易に行える ようになり、その結果自体を保存することができるようになれば、楽曲の分析の仕方も大きく変化することになるだろうし、楽曲を分析するための 語彙もまた変わっていくのではなかろうか。アドルノがマーラー論冒頭で批判する楽曲分析の限界は、それをなくすことは原理的にできないにしても、 限界をずっと遠くに押しやることは可能になるだろう。例えば、かつては時間をかけてコンコーダンスを作成することによって行われてきた哲学文献の 用語法の分析などは、現在はテキストコーパスの利用によって全く様相を変えつつある。例えばの話、遠い将来、クックが第10交響曲に対して 行った作業をコンピュータが行うといった事態だって全くの空想とは言えないだろう。これはいわゆるSFの作品の中での話しだが、レムの 「ビット文学の歴史」の中で、コンピュータがドストエフスキーの「あったかも知れない」作品を書き上げたり、カフカの「城」を完成するのに失敗したり といった話が出てくる。ここで私が挙げた例は、対象がマーラーの音楽になっただけで、別段独創的な部分などありはしない。勿論、この半世紀ばかりの 人工知能研究の歩みを考えれば、そうしたことがすぐに可能になるとは到底思えないが、しかしそれがいつの日か可能になるというのは私の個人的な 放恣な妄想などではない。
私は別のところでシュトックハウゼンがド・ラ・グランジュのマーラー伝の書評において、 「もしある別の星に住む高等生物が地球人の性質をごく短期日のうちに調査しようと思うなら、マーラーの音楽を素通りするわけにはいかないだろう。」 (酒田健一訳)と述べているのに対して、その文章に含まれる様々な予断を批判しつつ、だがそれを詩的な比喩か修辞のように、あるいは芸術家の 誇大妄想として受け流すのではなく、逆にその不十分さを補って、もっと先に推し進めていくことによって限界を認識することによってこそマーラーの音楽の 今日的な射程は見えてくるのではないかと書いたことがあるが、それはこうした受容を支える技術的なレベルの進展と無関係ではあり得ない。 そして強調したいのは、現時点でマーラーの受容史を書こうとしたとき、技術的な環境の変化がどのように受容のあり方に影響するのかという分析なしには その作業は不充分なものとなるだろうということ、そして最終的に、「マーラーの場合」の個別性を扱いえないだろうということである。事実問題として、 マーラーの受容は「常に既に」技術の発展と並行して変容してきたし、今日ますますその連関の度合いが増しているのは、私のような市井の一愛好家の 受容のこうした記述だけからでも明らかだし、同時に、私のような市井の一愛好家の己の受容についての振り返りからも明らかなのだから。
なお、最近の私個人のマーラー受容の具体的な様相については、雑文集に収められている幾つかの文章に記述がある。また、自分の受容のあり方と 近年盛んになりつつある、戦前以来の日本におけるマーラーの受容についてのいわゆる「受容史」が告げるあり方との関係、あるいは無関係についても やはり雑文集の中に主題的に扱った文章があるので、ここではそれらの内容を繰り返すことはしない。 (初稿2010.10.3)
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