お知らせ

GMW(Gustav Mahler Werke, グスタフ・マーラー作品番号:国際グスタフ・マーラー協会による)を公開しました。(2025.4.20)

2020年1月26日日曜日

アメリカの消防士のゴング?:第10交響曲についてのアドルノの言及を巡って(2020.1.28更新)

 アドルノの『マーラー』の最後の章「長きまなざし」の中に、第10交響曲の「プルガトリオ(煉獄)」末尾のゴング(タムタム)に関する言及があるのだが、以前この部分を読んだ時に、「おやっ」と思って記したメモが残っている(実はメモのままこのブログの記事として公開状態にある)。もともとが雑多な覚えの末尾に、その直前のメモの主題とは全く別に、おまけのようにそのことを書き記したこと自体、実は半ば忘却の彼方に去っていたのだが、どなたかがその「メモ」を読んで下さったお蔭で思い出したので、感謝の気持ちを籠めて、些事ではあるけれど備忘としてここで取りあげて置くことにする。

 問題のアドルノの文章は以下の通りである。

(...) Diesem könnte die Geschichte von dem Tamtamschlag des Feuerwehrmanns in Amerika entlehnt sein, der Mahler einen traumatischen Schock versetzt haben soll und der wohl am Ende des »Purgatorio«-Fragments aus der Zehnten Symphonien wiederkehrt;  (...)

(…)マーラーに精神的外傷(トラウマ:原文ルビ)のようなショックを与え、第十交響曲の「プルガトリオ」断片の最後に再び出てくる、アメリカの消防士のゴング(タムタム)の音はカフカから引きついだのかもしれない。(…) 

Taschenbuch版全集第13巻pp.291-292, 龍村訳 pp.191~192

前後を読むと、ここではカフカについて論じられているのだが、私が気になったのはその本来の論旨から言えば、どちらかといえば些末な事実に関することであった。アルマの『回想と手紙』の読者であれば、否、そうでなくても、第10交響曲についての作品解説の類でも良く参照されるので、それを通じて知っている人も多いだろうが、アルマの『回想』の中にアドルノが言及しているエピソードが出て来はしても、それは厳密に言えば、アドルノが述べている通りではないのである。

 アドルノのモノグラフの全訳としては2つ目の訳業ということになる龍村訳にはかなり豊富な訳注がつけられており、ここの部分にも訳注が付けられているので、それを参照した読み手は、もう一度「おやっ」と思うことになる。そこでは

「アルマ・マーラーによると、第十交響曲の葬送のゴング(タムタム)は、ニューヨークで夫妻がホテルの窓から見た、殉死した消防士の葬儀の印象に由来しているという。」(龍村訳 訳注(VIII 長きまなざし)*8 p.259)

と述べられており、ミッチェル版の『回想』の対応箇所のページ数が記されているのである。つまりこの訳注では、恰もアドルノの言及の通りにアルマが回想で述べているかのように書かれている。

 ところが知っている人は知っている通り、この訳注は事実に反しているのだ。アルマの『回想と手紙』を確認してみることにしよう。私は、酒田健一訳の1973年に白水社から出版された旧版を子供の頃に入手して以来ずっと手元に置いて参照してきたので、それを引用することとさせて頂きたい。それは「新世界 1907-1908年」の章に出て来る、以下のパラグラフのことに違いない。

「若い美術工芸学校の生徒のマリー・ウヒャーティウスが、ある日マジェスティック・ホテルに私をたずねてきた。話しこんでいるうちに、私たちはふと聞き耳を立てた。セントラルパーク沿いの大通りが騒がしい。窓からのり出して見ると、下は黒山のような人だかりがしている。葬式だった―行列が近づいてくる。そういえば新聞に、消防士が一人火事で殉職したという記事が出ていた。行列がとまった。代表者が前に進み出て、短い挨拶をした。私たちのいる十二階からでは、なにかしゃべっているらしいとわかっても、声までは聞こえてこない。挨拶のあとちょっと間をおいてから、おおいをかぶせた太鼓が一つ鳴った。あたりは水を打ったように静まり返り、やがて行列は動き出し、式は終わった。
 この風変わりな葬儀を見ているうちに、私の目には涙があふれてきた。おそるおそるマーラーの部屋の窓のほうをうかがうと、彼も身をのり出していて、その顔は泣きぬれていた。このときの光景は彼によほど深い感銘を与えたとみえて、のちに彼はあの短い太鼓の響きを『第10交響曲』のなかで使っている。」
(アルマ・マーラー『グスタフ・マーラー 回想と手紙』, 酒田健一訳, pp.155~156)

このくだりを読んだ人は、まず間違いなく、アルマが参照しているのは、第10交響曲の第4楽章のスケルツォの末尾、第5楽章のフィナーレの冒頭に鳴る、あの忘れ難い大太鼓の一撃であると考えることであろう。勿論、アルマは明確にそこの部分だと指示しているわけではないけれど、それにしても、「おおいをかぶせた太鼓が一つ鳴った。」とあって、それがゴング(タムタム)ではないことは間違いない。念のため対応の箇所の原文をあたっても 、

Die junge Kunstgewerbeschülerin Marie Uchatius war einst bei mir in Hotel Majestic. Wir wurden aufmerksam. Auf der breiten Straße, entlang des Centralparks, Getümmel und Lärm. Wir lehnen uns aus dem Fenster, unten eine große Menschenmenge. Ein Leichenbegängnis ― der Kondukt naht. Jetzt wissen wir auch aus unsern Zeitungskenntnissen, es war ein Feuerwehrmann, der bei einem Brand den Opfertod fand. Der Zug steht. Der Obmann tritt vor, hält eine kurze Ansprache, wir ahnen im 11. Stock mehr als wir hören, daß gesprochen wird. Kurze Pause, dann ein Schlag auf die verdeckte Trommel. Lautloses Stillstehen ― dann Weitergehen. Ende.Diese seltsame Totenfeier preßte uns die Tränen aus den Augen. Ich sah ängstlich zu Mahlers Fenster hin, aber da hing auch er weit hinaus, und sein Gesicht war tränenüberströmt. Die Szene hatte einen solchen Eindruck auf ihn gemacht, daß er diesen kurzen Trommelschlag in der Zehnten Symphonie verwendet hat.(酒田訳がそれに基づいている1949年版原書(アンシュルス後、第二次世界大戦中の1940年に出版された初版の、戦後出版された再版)ではp.170、現在入手しやすいと思われるFischerから出ている『回想』部分のみのTaschenbuch版ではp.163)

となっていて、やはりゴング(タムタム)ではないのである。いやこういうのは私だけではない。というよりも私がほとんど反射的に「おやっ」と思ったのは以下の理由による。
 
 これも上記の『回想と手紙』と並んで、子供の頃からの伴侶であった2冊のうちのもう1冊であるマイケル・ケネディの『グスタフ・マーラー』(中河原理訳、芸術現代社、1978年)は、著者がデリック・クックの知己であることもあって、第10交響曲に関する正確でかなり詳細な情報を含んでいるのが一つの特徴となっているが、その第5楽章の紹介のくだりは以下のようになっていて、この件を記憶した子供であった私の中では、アルマの回想が第4楽章のスケルツォの末尾、第5楽章のフィナーレの冒頭に鳴るバスドラムと関連していることは「事実」も同然であったわけなのである。

「これが何を意味するか、君だけが知っている」とマーラーはアルマにあてて、このスコアに書いている。マーラーはふたりがはじめてニューヨークに行ったとき(1907年12月から翌年4月まで)の出来事に触れているのである。このときはセントラルパークを見おろすホテル・マジェスティックに泊った。英雄的な死をとげた消防士の葬列が窓の下にとまった。歩き始めるまえに、覆いをつけた太鼓が短く鳴った。感じやすいマーラーはこれを眺め、涙がほほを伝った。その太鼓がこの終曲を開始し、ニ短調を保ってゆく。(…)
マイケル・ケネディ『グスタフ・マーラー』(中河原理訳、芸術現代社、1978年、p.233)

アドルノの側について言えば、彼自身は、例によってこういう側面の参照に関してはその典拠についての注をつけていないので、確実にアルマの回想の上掲のエピソードを参照しているという証拠があるわけではないとはいうものの、他にこれに替るドキュメントがあるものか、寡聞にして知らない。もしアドルノが言及している通りの、ゴングが鳴り響くアメリカの消防士に関するエピソードというのが別にどこかにあるのをご存知であれば、是非ご教示頂きたくお願いする次第である。

 ちなみにこの第10交響曲がマーラーの早すぎる晩年に訪れた、一般的には家庭内の不和ということになるであろう出来事に関わることは良く知られている。ケネディの評伝は伝記と作品解説の2部に分かれるが、そのいずれにおいてもこの点について、しばしばアルマに対して批判的なトーンを交えて言及している。私見では、それは全く正当な態度だと思われるが、その一方で私が第10交響曲を聴きながら最近感じるのはそれとは別のことである。作品とその作品を産み出す背景となった伝記的事実とは一先ず区別して考えるべきであり、私のそれは寧ろマーラーその人の経験の側についての思いに過ぎないのだが、マーラーのような性格の人は、この時期に、自分が気付かずに、時として無意識に、或る時にはもしかしたら良かれと思ってやった数々のことが、他人にとっては迷惑な、不快ですらあることに思い至らなかったことについての果てしない慙愧の念を感じていたに違いないということだ。誤解のないように繰り返して言うが、第10交響曲がその慙愧の念を表現していると感じたということではない。それとはいっそ無関係に、だが、背後にそうした悔悟の念、自分が意図せず独善的でしかなく、他人にとっては迷惑な存在であったこと、自分がどんなに願ったとしても、他人のために何かをすることにおいて、自分が不十分な存在であり、常にではなくても、最終的には力及ばないこと、そしてその時に気付いた時には最早手遅れであって、自分がやってしまったことについては最早取り返しがつかないのだという認識、或る意味ではあまりに平凡で取るに足らないと言われもしよう認識に直面したときの絶望感というものが潜んでいるような感じがしたということに過ぎない。そしてそのことをふと、上記のエピソードを引用しつつ思っただけではあるのだが、こと私個人に関しては、こうした「人間的な、あまりに人間的な」地平がマーラーへの共感の背景となっていることが否定しがたいことのように思われること、そして一見無関係に見えたとしても、アドルノの了解との隔たり(とはいえそれは対称なものでは全くなく、こちら側はごく私的な感じ方の根拠に過ぎず、何ら一般性な価値を有するものではないのだ)が、もしかしたらこの辺りに存するかも知れないと感じたこともあり、敢てここに追記しておくことにしたい。

 アドルノが第10交響曲の補筆に対して否定的な見解であったことは、龍村訳に収められているモノグラフ第2版へのあとがきからも窺えるが、これまた周到にも龍村訳の訳注で言及されている通り、»Fragment als Graphik«というタイトルの論考を後に書いてもいて、実はそこでももう一度、第3楽章について言及しているところで、

(...), obwohl der berühmte Tamtamschlag am Ende, den Alma Mahler mit einer biographischen Episode in Zusammenhang brachte, immerhin auf eine inkommensurable musikalische Situation deutet. (Taschenbuch版全集第18巻, Musikalische Schriften V, p.252) 

(…)、とはいえ、アルマ・マーラーが伝記上のエピソードに関連付けた末尾のタムタムの一撃は、少なくとも計り知れぬ音楽的状況を示している。(引用者による試訳) 

と記しているのであって、少なくともアドルノ自身の中では一貫した主張だったようである。上掲の»Fragment als Graphik«は1969年の日付を持つ文章のようだが、これはまさにアドルノの没年にあたっているから、アドルノが生前一貫して持ち続けていた信念だったと言って良いだろう。

 ここからは私の想像になるが、アドルノは既に戦前の1924年に出版されていたファクシミリには当然目を通していただろうし、同じ1924年秋の演奏も、或いは聴いていたかも知れない。また1951年に出版された所謂クシェネク=ヨークル版(これには第1楽章と第3楽章が収められている)も知っていたに違いないけれど、第4楽章・第5楽章の草稿を精査したことはなかったのではなかろうか。

 一方、クック版の補筆作業とその成果に基づく演奏については、演奏こそ、ゴルトシュミット指揮によるクック第1稿の放送初演が1960年12月19日にBBC放送であり、 クック第2稿の初演は1964年8月13日、ロンドンにおいてであるが(なお、いずれについても今やCDで聴くことができる)、これらを補筆に対して否定的であったアドルノが聴いたことがあったかどうか?更にクック版の楽譜としての出版はアドルノの没後の1976年まで待たなくてはならないのである。アドルノが、同じシェーンベルクのサークルのメンバーであったクシェネクや自分の作曲上の師であったベルク、シェーンベルクの師であったツェムリンスキーが関わった1924年版の作業は勿論として、その後のクックによる補筆の動きを知っていたことは、モノグラフ第2版へのあとがきから状況的には疑いないが、実証的な観点からすれば、わざわざ大太鼓が打ち鳴らされる箇所が別にあるのを知った上で尚、第3楽章末尾のゴングの一撃とアルマの回想のエピソードを結びつけるとも思えない。というわけで、アドルノが第4楽章のスケルツォの末尾、第5楽章のフィナーレの冒頭に鳴る大太鼓の一撃を知らなかったのではという見解に傾くのである。尤も、アドルノは必ずしも実証を重んじるタイプではなかったかも知れず、従ってこれ以上についてはアドルノを研究されている専門の研究者の判断を俟つしかなく、素人の憶測は慎むこととしたい。

 だが、斯く云う私も、上記のことに気付いた時にさえ、アドルノの主張の本筋の是非については別の問題であると思っていたし、その点の認識については基本的には現時点でも変わりはない。第10交響曲の「ゴング」と消防士に関する事実がどうであれ、「プルガトリオ」を閉じるゴングは、「プルガトリオ」が典拠としている歌曲『この世の営み』や歌曲『魚に説教するパドヴァの聖アントニウス』に基づく第2交響曲第3楽章の末尾同様、死後の世界への到着を告げる(『この世の営み』については歌詞の物語る通りだし、「プルガトリオ」の後には「悪魔が私と踊る」第4楽章が続き、第2交響曲第3楽章の後には、あの歌曲『原光』そのものである第4楽章が続く)ものではあるだろうから、アドルノの指摘それ自体は問題なく、誤っているのは消防隊の連想と、事実関係の誤認の点のみに限定されるだろう。

 いや正確に言えば、「プルガトリオ(煉獄)」とはこの世の営みの終焉とと天国への到着との間にあるのだから、死後の世界への到着を告げるゴングが曲の末尾に鳴るのはズレているだろう、という指摘はあるかも知れない。この点に関しては文字通りには反論の余地はないが、だとしたらそれは標題から逆に音楽に辿ろうとするが故に発生する問題だと返すことはできるだろう。「死後の世界への到着を告げる」という言葉がもたらす歪みが問題だというなら、或る種の相転移のポイントの通過を表すというように言い直しても良い。そもそもがそのようなゴングの音の象徴学に拠るならば、曲頭からゴングが鳴り響く葬送の歩みのような『大地の歌』の「告別」は、既に「死の世界」だということになるだろうが、それでは「告別」の中間部分の器楽による「葬送行進曲」はどうなる、といった疑問が出て来ることになるだろう。こんな議論を追いかけていけば、そのうちに当の音楽からどんどん離れて行ってしまう。要するにこうした標題的な詮索は、音楽に対して言葉の持つ歪みを押し付けているに過ぎないし、音楽は出来事を文字通り「物語る」のではないのであって、寧ろ「時間性の様態のシミュレータ」と見做すのが適切なのだが、このことは別に書いたのでここでは繰り返さない。

 ただ、その上でアドルノがかくもこだわった第3楽章末尾のゴングに関して確認してみたいと思うことがある。それはそのゴングを、クシェネク=ヨークル版に従ってフォルテで鳴らすべきか、それともクック版におけるように小さく鳴らすべきか、いずれが妥当かという点である。最初はFM放送で(諸井誠さんによる解説に導かれて)レヴァインの録音を聴き、しばらくはインバルがヘッセン放送のオーケストラと録音したものが私のリファレンスだったのだが、メモを記した当時私が良く聴いていたのはクルト・ザンデルリンクが旧東ドイツのベルリン交響楽団(現在のベルリン・コンツェルトハウス管弦楽団)を演奏した全曲版だった(やはり旧東ドイツのドイツ・シャルプラッテン・レーベルから出ていた)らしく、メモにはこの演奏への言及もある。これも良く知られていることだろうが、ザンデルリンクはクック版に基づくとはいえ、器楽法上は独自の変更をかなり行って演奏をしているのだが、プルガトリオ末尾のゴングの一撃もまた、当時の私がクシェネク=ヨークル版を参考にしたかと思ったくらい、はっきりと鳴らされている。アドルノへの問いに戻れば、クシェネク=ヨークル版にせよクック版にせよ、ここの部分については「補筆」であるには違いなかろうから、アドルノは、第10交響曲の演奏そのものに否定的であった原則に立ち戻って、そんなことはマーラー自身でもなければ答えられない、というようにこちらの問いを切って捨てそうな気がするのだが、それでもなお問いかけてみたくなる程度には、アドルノの「アメリカの消防士のゴング」への拘りに対して、私自身の方がひっかかりを感じているということなのであろう。

 私は、別のところで何度となく記している通り、第10交響曲をアダージョのみから捉えるのではなく、全5楽章の交響曲として捉える立場に与したく思っていて、クックの補筆は、私のような単なるアマチュアの愛好家にとっては十分過ぎる程に、マーラーの意図を捉えたものと感じている。恐らくはこの点こそが分岐点なのだろうが、そういう私にとってはアドルノの本件についての了解、つまりゴングと大太鼓の間の「ずれ」は、単に第10交響曲が未完成であるという事実に即した是非の議論に留まらず、第10交響曲を含めた、もっと言えば、曲毎に発展し続けたマーラーの創作活動にあって、それをあり得たかもしれない全作品の頂点として捉えるような位置づけに基づいてマーラーの作品全体を考える立場からすれば、或いは決定的かも知れない認識の相違に通じているのではないかという気がしてならないのである。

 スタニスワフ・レムの『ビット文学の歴史』における、ドストエフスキーの『未成年』と『カラマーゾフの兄弟』の間に横たわるミッシング・リンクにあたる作品のAIによる仮構やカフカの未完成作品『城』の補完の(こちらは実は失敗に終わることが、その理由の示唆的な説明とともに語られる)エピソードを、マーラーの第10交響曲の場合に突き合わせてみることは極めて興味深い。ネットワークやデジタルメディアの発達に伴う「創作」、「創作物」の概念の変化に加えて、AIによる文学作品、美術作品、音楽作品の「創作」というのが一気に現実味を帯びるようになった今日、未完成であるが故に、ありうべき存在という様態でした存在しえない「幽霊的」な存在である第10交響曲に対してどのように向き合うかということは決して些末な問題とは思えない。AIが第10交響曲を補完することは、仮にやったとしても(レムがカフカの『城』について示唆したのと、或る部分では全く異なる―寧ろその点についてはブルックナーの第9交響曲のフィナーレの方が『城』のケースには近い―だろうが、大枠としては同じような理由で)必ずや失敗に終わるであろうと私は思っていて、そのことはそう考える理由とともに別にところに記した通りだが、そのことが結局は(それこそカフカの地下茎の迷路の如く)アドルノがカフカを引き合いに出したことの背後にある認識の正しさを裏付けていることに通じている点を認めるには吝かでなくとも、こと第10交響曲に関しては、アドルノの認識を今日我が事として引き受けようとしたときに、彼の立場を離れることが寧ろ必要なことのように感じられるのである。彼と共にプルガトリオ末尾のゴングの響きの前で立ち止まるのではなく、本当はそうであった筈の、未聞の、未成のバス・ドラムの一撃をこそ受け止めるべきなのではなかろうか?

 我々が第10交響曲を聴く準備はまだ整っていないとシェーンベルクが述べてからもう1世紀が経過したが、恐らくその準備は未だ出来ていないと言うべきだろう。だがそれは、その準備をまだ進めなくても良いということでもないし、そうした準備が最早不要のものとなったということでもないだろう。寧ろ今やそれを準備すべき時に至ったという認識を持つべきなのではなかろうか。
 
 いや、シェーンベルクがプラハ講演で第10交響曲に言及した、そのもともとの意図に沿うならば、それはそもそも時代の問題ではないのだ。1世紀の歳月は第10交響曲に関する展望を変えてしまった。シェーンベルクが第10について「ほとんど知ることがないだろう」ということの半面においてはまさしく、事実としてそうだろう。講演末尾の「まだわれわれに啓示されていない」という言葉もまた、その限りにおいては今日には最早相応しくないものかも知れない。だが、もう半面は?もう半面は、未だシンギュラリティの手前にいる以上、シェーンベルクが語った時と今とで何ほどの違いがあろうか。なおそこで例えば、マーラーの生命を奪った病は程なくして治癒可能なものとなったことを指摘する人はいるかも知れないし、事実としてそれは決して間違いではない。だがそれが「極限」の向こう側についての何かを授けるのであるとすれば、そのことの意味はシェーンベルクが語ったような水準では、限定的なものに留まるだろう。

 だが一方で、我々は第10交響曲について何某かのことを知ることになったのだし、そのことを恰も無かったかの如き態度をとることは最早許されまい。のみならず、シンギュラリティについて、つまり総じて100年前に既に先取りするようなかたちで予感されていた領域についてもまた、かつてとは異なる切迫の下で論じられる時代となったことは抗いがたい事実であろう。とあるとするならば再び、寧ろ今や第10交響曲を聴く準備をすべき時に至ったという認識を持つべきなのではなかろうかと感じずにはいられない。たとえその準備が私の生きている裡には終わらないとしても。そもそも私にはその準備を成し遂げるだけの能力も時間も遺されていないとしても。マーラーの最後の同時代者かも知れない一人として。その音楽を受け取ってしまった者に課せられた義務として。(2020.1.18初稿公開、2020.1.26-28加筆, 2024.8.11 「グラフィックとしてのフラグメント」の引用に試訳を追加。)

2020年1月20日月曜日

MIDIファイルを入力とした調性推定についての注記:とりあえずの「まとめ」に替えて(2023.7.10更新)

[はじめに] 本ブログの記事「MIDIファイルを入力とした分析の準備:調性推定と和音のラべリング」(https://gustav-mahler-yojibee.blogspot.com/2019/12/midi.html)にてその結果を公開した調性推定について、それをマーラーに適用することに関して、複数の専門家(作曲家、音楽学者)の方から厳しい批判を頂戴しました。
 頂いた批判の骨子は、一つにはマーラーの音楽については、基本的にこのような分析手法を適用しても得ることが少なく、伝統的な分析による方が結局近道であること、もう一つにはこのような手法の適用結果を利用するにあたっては、前提として伝統的な和声学に基づく分析に基づいた批判的な見方ができなくてはならないということに存すると認識しています。
 既に報告した通り、MIDIファイルの内容の正確さついての検証を行う必要が生じ、そのための時間的な余裕がないことから、これ以上この試行を継続する意義は薄れてしまっていますが、いわば顛末書のようなものとして、頂いた批判に対する私の見解を、批判を頂けたことに対する感謝の気持ちとともに、以下に記録しておくことにします。
 応答を残すことは、このようなアマチュアの拙い試みに対してまともに向き合って頂けたことに対する或る種の義務のようなものであると考えるからであり、やったことを振り返った上で区切りとしたいからでもあります。更に言えば、公開したデータというものが専門的な観点からはどのように受け止められるか、どのような点に限界があるのか、どのような点に留意して制限して利用すべきかに関して、利用される方に知って頂くことが必要とも考えました。
 なお、以下の内容を踏まえた上で私の宿題(ただし私には最早それを解くことができないことが判明したわけですが)として残っているのは、以下でも触れている、アドルノのモノグラフにおける主張(つまり、その冒頭での楽曲分析の限界の主張や、カテゴリやキャラクターといった概念装置の導入、そしてマーラーの形式の「唯名論」的性格の指摘など)をどのように受け止めたら良いのかということです。クラムハンスルの手法に色々な制限があることについては異論はありませんが、数理的な手法のマーラーへの適用が不適切である理由が、単にクラムハンスルの手法の個別的な制限故であるのか、そうではなく伝統的な楽曲分析ではない、数理的な手法一般の問題なのかによって展望は大きく異なってくるように感じます。
 しかし最早この点についての議論を、それをする資格のない私が行う越権をこれ以上続けることは慎むこととして、(私にとってはまさにそうであるので)「未解決問題」として残し、それを論じ、解決する資格のある方々が解決してくれることに期待して筆を擱く他ありません。そして文字通りのアーカイブとなるこのブログの記事が、単なるきっかけ、しかもそれが不完全であるという否定的な様態でのきっかけとしてであれ、そうした解決に対して何某か寄与することを願わずにはいられません。(2020.1.20-22記)

*    *    *

確実なデータがあるもっともシンプルかつ小さな作品を分析してみて、まず機械がおかしな答を出さないかどうかの確認をし、分析の精度や利点、弱点などを明らかにした上でやるべきで、マーラーの分析はそれらをやった後のずっと先にようやく見えてくるものなのに、何故いきなりマーラーのような複雑なものに飛びついたのかについて、まず述べることにします。

([2023.7.10補足]ところでここで、「確実なデータがあるもっともシンプルかつ小さな作品」というのを、マーラーの作品の内側に限定すれば、実は私は、まさに指摘されたような手順を踏んで分析を進めています。これは偶々最初がそうだったので、その後も踏襲しているのですが、新しい分析・集計方法を思いつくと、まずそれが期待した通りになりそうかを検討し、その検討にパスすれば、今度はプログラムを書いて実際に動かしてみるのですが、その際には、『リュッケルト歌曲集』の1曲、「私はやわらかな香りをかいだ」(Ich atmet' einen linden Duft))のMIDIファイルのあるバージョンを用いてテストをするというのが標準の手順になっています。(実際、ここで問題になっている分析に先立つ報告「MIDIファイルを入力とした分析の準備作業:和音の分類とパターンの可視化」において、この作品をサンプルとして提示したこともあります。)40小節に満たないこの小品についてなら、あるMIDIファイルが楽譜通りに入力されているかの確認もできますし、プログラムの出力が意図した仕様通りのものであるかどうかについての確認も、各小節毎・各拍毎に行えますし、やろうとしている分析の精度や利点、弱点などについてもある程度は見当をつけることができます。こうした点は、エンジニアリングの観点でごく当たり前のことであり、寧ろ指摘の通りに考えて実際にやっているからにはこの点については指摘に対して異論があろうはずがありません。従って以下の弁明は、ここで「確実なデータがあるもっともシンプルかつ小さな作品」というのが、実質として、例えば古典派のシンプルなピアノソナタの楽章のような、単に小さいだけではなく、用いられている和声の種類が限定され、拍節構造もシンプルなものを含意していて、マーラーに取り組む前にそうしたもので検証を行わないのか、という含意を持っているとしたら、という点についての弁明になります。エンジニアリング的な観点からのトリヴィアルな弁明ということなら、「確実である」ことは「小さい」ことで検証の被覆率(カバレッジ)をあげる―ーあわよくば100%にするーーことができれば良く、マーラーの中で実際にこれができる作品があるので、それを取り上げれば十分である一方で、「シンプル」という点について言えば、例えば和声的な多様性(転調のパターンのそれを含む)ということについて言えば、古典派の中でもシンプルな作品だとパターンが限定され過ぎて却って網羅性の点で問題が生じる懸念があるし、マーラーの場合には珍しくない拍子の変化についてはプログラムの検証上無視できないでしょう。勿論だからといって「私はやわらかな香りをかいだ」(Ich atmet' einen linden Duft))1曲で必要十分であるという訳ではないのですが、そうした条件を考慮した上での、或る種「現場」でのノウハウの如きものとして、この曲が選択されたというのが弁明になるでしょうか?とは言うものの、この点について明示的に言及することなしに以下だけを述べるのは明らかに説明不足であるため、その点をお詫びして補足するとともに、以下のコメントは、ここで述べた点を踏まえた上での更なる弁明ということでお読み頂けるようお願いする次第です。)

なぜ手順を踏まなかったかについて言えば、クラムハンスルの手法を、作品がどのように出来ているのか、楽曲分析したらどのように分析できるかとは基本的に関係なく、調性音楽に親しんできたけど専門的な訓練を受けた「エキスパート」(アドルノの聴取の類型論を思い浮かべて頂ければと思います)ではない人間が聞いたらどう聴こえるかについての非常に肌理の粗い、単純なモデルでしかないという了解に基づき、そのようなアプローチでの調性推定に関する限りにおいては、伝統的な楽曲分析においてそれが複雑であるかどうか、伝統的な楽曲分析において難しい対象であるかどうかはあまり関係ないと思っていたというのが正直なところです。

複雑で長大だから精度の高いデータを作るのは難しいというのは別の問題ですし、調性推定一般がそうだということもありません。例えば伝統的な楽曲分析でいう調性の推定は、私の知る限りでもそうではなさそうに見えますし、統計的なデータに基づかない推定であれば、プログラムによる推定でも、ここでの手法とは特性が全く異なります。そして、そうした手法を試行して後にこのような統計的な手法を用いるべきではないかということが主旨であるとするならば、その限りでは、マーラーの分析をやる前にやらないとならない手順があるというご指摘には異論はありません。

ただ、こういう発想は、それ自体、伝統的な楽曲分析の観点からは許容しがたいのかも知れませんが、ことによったら訓練されていない聴き手の耳は寧ろ、まさにそのような許容しがたいものであるということはないのだろうかとも思います。

というよりも素直に考えて、私は例えば、三輪眞弘さんの作品もパレストリーナも、ヴェーベルンもクセナキスも、或いは能楽の囃子のようなものも皆等しく「音楽」として聴いている、そういう水準が間違いなく存在すると感じているのだと思います。そして少なくとも私の中では、そのような中にマーラーが位置づけられている。恐らくはそれはマーラーを正しく聴くには不適切なのかも知れません。そういう聴き方ではマーラーを正しく聴くことはできないかも知れませんが、遺憾ながらそれが私の現実なのです。

勿論、言語におけるコードスイッチングのように狭義の調性音楽固有の聴き方というのがあって、対象に応じて聴き方を切り替えているといったことは実際に起きているだろうと思いますし、調性音楽固有の領域で繊細で微妙な問題がたくさんあって、それこそが本質的であるということに私も同意したく思いますが、前者はそれこそ程度の問題だし、後者は事実上は別としてそれが権利上、特権的なものだとは思わないのです。

一方、事実としてはそれは特権的かも知れません。例えば私は能楽の微妙な部分について聴けていないと思いますし、「ありえたかも知れない音楽」であり、伝統自体をいわばその都度仮構する三輪さんの音楽についてはとりわけそうだと思います。言語における母語とそれ以外のような質的な差になっているかどうかは措いても、総じて西洋の調性音楽を聴く頻度に応じた分だけは事実として特権的な扱いを受けるように脳内のネットワークが形成されているように思います。とはいえ、だからといって伝統的な西洋の調性音楽について専門的な訓練を受けているわけでもなく、結局どれについても私の「耳」(それには理論的な知識も含まれますが)は訓練が足りないが故の限界を持っているという自覚もまた、あります。そうでありながら、或る種の成り行きで、基本的には西洋の調性音楽をベースとした(但し精度には甚だ問題のある)「耳」を備えるようになり、それでもって狭義の調性音楽でないものをも聴いている。こうした条件にいるからこそ、クラムハンスルの統計を用いた相関のような仕方で調的推定をやる意味があると感じた、そして伝統的な調性音楽の分析においては、常に逸脱という仕方でその特性が測られているように見えるマーラーのような対象こそ、寧ろ対象としてふさわしいと感じたということなのだろうと思います。

しかし実際にやってみると、どうやらマーラーのMIDIデータの信頼性が思った以上に低いらしいことがわかってきた以上、確実なデータがあるもっともシンプルかつ小さな作品を分析すべきというのは、結果的にご指摘の通りなのだと思います。少なくとも個別の結果についての調査を行い、結果が想定されたものにならない理由を一つ一つ明らかにする必要があると認識しています。単なる入力ミスなのか、データの欠落なのか、作成方法に由来するずれのような問題(DTMの領域では「クオンタイズ」の対象とされるもの)なのか、はたまたMIDIデータ作成に許容されている大きな自由度故に、プログラムが想定していない設定がされているために正しくデータが読めていないためなのか、或いは単にプログラムの不具合なのかの切り分けをして、一つ一つ解決する必要があります。そもそもその全てのケースを想定した解析プログラムを書くことが事実上困難であるとすれば、データの信頼度を考慮しつつ、対象とするデータを限定して、その範囲では正しく解析できるプログラムにするという妥協点を見つける必要があるでしょう。そしてこれらの作業は、最終的にマーラーの作品が対象なのであれば、シンプルで信頼できるデータを対象にしていたらできません。例えて言えば、マーラーの作品の実演においても必ずしも楽譜通りになるとは限らない、特に長大で複雑で難しいが故に、ミスがつきものであるのと同じこと、現実のデータというのはこうしたものなのだと思います。

一世紀の校訂作業と実際の現場での利用を経て極めて信頼性が高くなっているであろう楽譜であっても現実にはミスプリントが皆無ではない可能性については今は措きます。それを言えば、そもそもMIDIデータの入力がどの版の楽譜を基に行われたのかも問題になりえますが、現在私が直面しているのは、そのような高水準の精度の問題ではなく、現実に起きているMIDIデータに固有の様々なタイプの問題だからです。それは寧ろ、データ分析において常に直面するデータクリーニングのような前段階に近い性質のものであるという認識を持っています。

その反面で、分析結果がどうなりそうなのかについて、私は予断を持ちすぎていたのだという点も感じます。つまり分析の前提から、精度や利点、弱点などは、やる前からある程度想像がつくと思ってしまっていて、それ故に、伝統的な楽曲分析の基本と応用の切り分けと、このようなタイプの分析の得意・不得意にずれがあることも当然のことだと思っていました。けれどもだからといって、伝統的な和声学に基づく分析に基づく批判的な検討を抜きにすることは正当化できないということは認めざるを得ません。

*    *    *

まず、和音のラべリングの結果を後から追加して、調性推定の結果と並べてしまったことが誤解を与えてしまったかも知れません。

和音のラべリングと調性推定は手法上独立で、関係ありません。そもそも分析に使っている対象のデータが、前者は拍なり小節の先頭に鳴っている和音であり、後者は拍内、小節内に鳴っている全ての音の各音毎の持続時間のデータであって、全く異なりますから、単純な比較はできません。そして関係がない別々のやり方だからこそ、並べて眺める意味があると思って追加したのであって、和音のラべリング結果と突き合わせて調性推定が妥当かどうかを検証する目的ではありませんでした。勿論それもまた、或る種間接的な参考にはなりえるでしょうが、上記の理由から直接的には間違いですし、そのことには結果報告のブログの記事中でも言及していますが、結果データのみを手にしたときに、あたかもそれを意図しているかの如き構成になってしまった点は反省しています。

一方、古典的な作品の和声の分析結果と照合することで分析の精度や利点、弱点を確認するということの意義について言えば、機能和声に基づく分析と、クラムハンスルの調性推定の比較を行うという観点では意味のあることかと思います。しかしそれを除けば、和音毎に一つ一つ人間が分析しながら見ていくアプローチを取るのであれば、まさに正統的な楽曲分析をすれば済むことで、あえてここで試みたような別の方法で調性推定をする意味が私には判然としません。

繰り返しになりますが、ここでは小節を区間とした推定を行っています。拍毎の推定も出していますが、それもまた、小節内で鳴っている音がだんだんと累積されていくので、拍毎に和音を同定して、非和声音が含まれているかを分析して…というのと同一のことをやっているわけではありません。

勿論、純粋に拍毎に鳴っている音に限定して拍毎に独立に推定を行うことも、プログラムを少し修正すればできるので、古典派のシンプルな作品についてその結果をお送りすることは可能です。ですがクラムハンスルが実際にやった推定実験を見る限り、また理屈の上でも本筋は逆に見えます。寧ろもっと長い区間で推定すべきなのでは、と思います。なぜならここでやっているのは、個々の和声の機能分析ではなく、調性推定だからで、一般には調性が確立するためには単一の和音ではなく、和音の系列が必要と考えるのが自然だからです。

例えば或る小節の中がある調のドミナントと機能分析される和音のみで占められているとした時、その小節を1区間として独立に調性推定したら、転調先のトニカと見做して調性推定をしてしまうことが予想されます(結果を確認すれば、実際そのようになっている部分があるかと思います)。そしてそれが転調先の調性のトニカでなく主調のドミナントなのは周囲を見たらわかることです。だとしたら、この調性推定のやり方に限っては、推定対象の区間を拡げるべきなのです。

それでは区間どれくらい長ければいいのか?というのが難問です。人間には簡単でも、機械に自動判定させるのは難しく、逆に調性推定の結果をもとにして区切りを推定することになるかも知れないとも思います。私はといえば、次のステップとして(自動処理に拘ればズルをすることになりますが)フレーズの区切り、楽段の区切りの情報を与えて、その区間内で推定させるということを考えていました。

更に、それでは上記の例のような調性推定結果をどう受け止めるべきかと言えば、和声の機能分析の観点から見て間違いなので、こんなものは使えないと判断するよりは、そのことが和声の機能や調性の確立について告げているものを受け止めることの方が興味深いように思えました。そしてもしこのレベルの検討が必要であるというのであれば、それは現実の作品を分析するのではなく、ここでの例のような更に単純な例を構成すれば良く、かつそれはわざわざプログラムを書いてやってみるまでもなく、机上で分析可能なことのように思われたのです。

他方でマーラーの作品のように、和声の機能分析が困難で、エキスパートのみがそれを行うことができるような対象であれば、いわばトンネルを反対側から掘り進めるようにして、このような単純な手法による結果からでも浮かび上がってくる何かがあるというように思って試行してみたのです。

しかしことマーラーの作品に関しては、その作品の成り立ちからしてそのような発想は誤りで、逆にこちらこそ試してみるまでもなく、やることの意義はなく、和声の機能分析が一番の近道とのことで、見当外れのことをやっていたことになり、この点は不明を愧じる他ありません。

*    *    *

これは分析というよりプログラムの作成のディティールの話になりますが、機械がおかしな答を出さないということについては別の話になります。具体的な個別のプログラムそれぞれについて言えば実は基準は明確です。

和音のラベリングでは、ラベリングの手順が決まっていて、ルールが決まっていて、その通りに動けばプログラムとしてはOKです。そしてこのレベルの確認、つまり普通のプログラムとしてのテストはそれなりに行っています。古典的な作品のMIDIデータも用意しましたし、マーラーでは重心計算以来、まず規模の小さな歌曲(記事でもよくサンプルとして出す「私はやわらかな香りをかいだ」)で確認するということをずっと行ってきました。ただ小さなデータでは出現しない条件もあります。なので一方では、マーラーの作品の全てのMIDIデータを通してみるということもやっています。そしてもともと最終目的がマーラーの作品についての結果を得ることであれば、極論すれば、他の作品のMIDIデータでうまく動かなくても支障はないという考え方もできます。実際、MIDIデータの作り方は様々で、恐らくは作成に用いたシーケンサ依存の部分があり、その全てのケースに対応したプログラムを作成を目指したわけではありません。実際、幸いマーラーのMIDIデータには一つもなかったのですが、他の作品のMIDIデータではMIDIファイルからデータを抽出する最初のプログラムが異常終了するケースもありましたが、上記の理由から、これには対応しませんでした。

ただご指摘はこのレベルでの検証に対するものではないと思います。そしてこのレベルで「正しく」動くことが確認できた上でも、調性推定にしても、和音のラベリングにしても、でも現実に動かせば、間違いなくエキスパートが見れば「変な答」を出すことがあるでしょう。

それは一つには、もともとのデータ(MIDIファイル自体)がおかしい場合で、これは事前にわからないし、どうしようもないです。一つ一つ確認して元のMIDIデータの方を直すしかない。そしてマーラーに適用した今回のケースでは、この点が現実的なネックとなって、先に進めることの意義が薄れてしまったと認識しています。

もう一つは手順そのものに不足がある場合です。こちらは或る意味で初めから想定済です。そしてその限りでは、できないものははじめからできないので、MIDIファイルの大きさや作品の複雑さは実は関係ないのです。意地の悪いひっかけ問題も意味がなく、やる前からできないことは仕様上明確で、できるようにするには、仕様を変更し、手順を追加しなくてはいけません。

和音のラベリングのパターンの種類については、別に報告している通り、百通り以上のパターンを分類できるように用意していますが、調性推定結果とともに表示することにした和音のラベリングは、そのうち頻度が高くで先行文献等でも扱われている十数種類に限定しています。出現頻度が稀になるとその和音に名前がないし、曲によっては百通り以上用意しても100%にはならなかったからです。そしてそれがMIDIデータの誤りに由来する可能性が出てきたため、パターン数を増やすのは一旦中断しています。そういうわけで対象となっているMIDIデータに限定しても網羅性には欠けるという中途半端な状況になっています。(なお、このレベルの網羅性については、データ自体の公開は目的から外れるため行っていませんが、報告の文章の中には、マーラー以外の作品の場合にどうであったかについて、ごく簡単にではありますが触れた箇所があると思います。)

ただしMIDIデータの誤りは別として、それは別にプログラムの問題ではなく、理論が興味を持たない和音というのがたくさんあるということの結果に過ぎないようにも思います。或る珍しい和音に意味があるのかないのかというのは結局のところプログラムにはわからない(これは機械学習のプログラムでも同様です)。基準は結局人間が与えているに過ぎません。プログラムとしてどこまで自動化されているかどうかは、プログラムを作っていて、その動作を理解している製作者でもある私の立場からすれば枝葉に過ぎないと思います。機械の分析対象外のケースについては、それが人間の扱える程度の量なら手作業でやってもいいわけですし…寧ろ難しいのは、特定の和音が重要であるかどうかを判定する能力です。それは単なる出現頻度だけでは測れない筈で、簡単なやり方では外れ値との区別がつかないでしょう。そしてそれが統計ベースの手法の限界であると思います。

調性推定の場合には少し事情は違いますが、プログラムとしてOKかどうかは、或る意味で和音のラベリングよりもっと手前の問題です。ここではMIDIデータの方の信頼性とは別に、推定の根拠となっているクラムハンスルの調性とピッチの出現頻度の統計データの側の持つ限界が一つと、統計的な手法が持つ限界というのがもう一つ出てくるからです。そしてこちらについては意地の悪いひっかけ問題は一定の意味を持ちます。工学の分野ではある手法の理論的限界を明らかにする「騙し問題」というのがありますが、それに相当する役割を期待するわけです。ただ、今回のプログラムは、機械学習のような「やってみないとわからない」部分は少ないので、理論的な興味は薄いかも知れません。

*    *    *

次いで、敢えて通常の楽曲分析ではなくこうしたプログラムを使おうとしたのはなぜかについて言えば、私個人についてはそうしたくなる明確な動機が幾つかありました。

ことマーラーに限れば、程度は様々ですが楽曲分析というのにも幾つか接しています。でも複雑な大曲であるが故か、非常に大まかな楽式レベルの分析か、逆にミクロな、非常に範囲を限定した分析しかない。その一方で、マーラーの作品の一般的特徴のようなことが、具体的な裏付け抜きで言われたりして、それに説得力を感じたり感じなかったりするわけです。その根拠を確かめようと思っても確かめる術がない。更には楽曲分析の結果がしばしば一致しないのも困惑の種で、そうなると自分なりに判断根拠が欲しくなります。結局のところ、他の作曲家の作品ならいざ知らず、マーラーは(所詮程度の問題に過ぎないとはいえ)私が最も良く知っていて、あそこの部分がどうなっているのか?誰かがこういうことを言っているが、そこはどうだったか?といった具体的に確認したい事柄が山程あったからというのが理由なのでしょう。更に言えば、アドルノが通常の楽曲分析でマーラーを理解することの限界を述べていますし、繰り返しになりますが、多くの場合、音楽学の領域での分析のほとんどは規範的なものからの逸脱によってマーラーの独自性を測ろうとする。それではアドルノいうところの「唯名論的」な性格は捉えられないので、それならば寧ろ、データに即したボトムアップな見方、伝統的な見方ではない見方にも可能性があるのではないかと思った、というのもあります。

クラムハンスルのモデルがそうである訳ではないけれど、そこから出発して、例えば相転移や自己組織化のような現象や分岐現象がみられたり、(疑似)カオス的な挙動をする系とのアナロジーが抽象度を上げたあるレベルで成り立っているというような見方に展開していくことはできないか、それが優れて「人間的」な時間、またしてもアドルノを参照すれば「小説」的な時間性を備えたものであり、通常の数理モデルでは扱い辛いものであるとするならば、音楽を「時間の感受のシミュレータ」とする立場から、生命や意識に対する複雑系的なアプローチを援用することによって捉えることなら可能ではないだろうか、というような発想にも繋がっていきます。但しその時には、具体的な楽曲分析の対象としての狭義の「調性」の推移ではなく、より一般化された或る種の特徴の軌道が記述対象となるのものと考えるのが自然に思われます。もっとも最後の部分については、それが今実現できる見通しがあるわけでもなく、いずれそのようなことが行われることを夢想しているに過ぎないのではありますが…

いやそうしたことを持ち出すまでもなく、マーラーの音楽を聴いて受け取る「感じ」の根拠を、その一部でも一面でもいいので知りたい、或いは自分なりの納得のいく理由を探したいということが根っこにあります。更に言えば、色々な文献を読んだりして、知識のフィルターを通して眺めることもできる今の状態でなく、出会った時の「子供」が受け取ったものの根拠が知りたい。ある音楽が、他の音楽では見ることのできない風景を見せてくれるとしたら、その風景が忘れられないものだとしたら、その音楽のどこに秘密が隠されているのか、知りたくなるという、ごく単純な話です。そしてマーラーについては、これは謂われない話だとは思いません。マーラーについてのモノグラフの最後の章で、アドルノは「子供」について語っていますが、素朴なレベルでは、それと私のようなアマチュアの思いと通じる部分があるのではと思い、また、あって欲しいと思っています。

私の耳は専門的な訓練を受けているわけではない。そういう意味では分析の難しさからは上級編で、エキスパートでないと手が負えないようなマーラーの音楽を、私が論じる資格はないのだと思います。私の立場は単なる「聴き手」としての「子供」に過ぎません。「子供」は、アドルノがそう書いているように、大人だったらしないような思い込みをしてしまうかも知れない。でも、そうした思い込みをさせてしまうのがマーラーの音楽の力であるとしたら、そうした「勘違い」が起きる理由も併せて私は知りたいのです。

例えばですが(実際そういう主張を見かけたのですが)ある音楽学者が、他の説は間違っている、自分の説が正しいのだと主調しているところで、私は以下のようなことを思ってしまいます。「そうかも知れないけれど、それならそれで、なぜ間違っているかだけではなく、なぜそのような間違いが起きてしまうのかということも含めた説明であるべきなのではないか?」と。よく「意識」は迷妄だ、虚像であり実在しない、という消去主義の立場がありますが、これも全く同じで、そのような「錯覚」が起きること自体に問題を解く鍵があるのでは、と思うわけです。

そして「聴き手」としての「子供」という立場に立って、マーラーの作品の調的な推移を眺めようとしたとき、その文脈の「主音」「調性」を知る必要がある、というのが今回の調性推定やら和音のラベリング作業の出発点でした。誰かに(謂わば「天下り式に」)教えてもらうのではなく、作品をそのものから「主音」「調性」はどうやったらわかるのかを調べてみた結果としてわかったのは、それを判別する手法がアルゴリズム化できてプログラムにできるような一般に共有されている定義はなさそうだし、そもそもが調的感覚というのは、文化的・社会的に形成されたものであるらしいということでした。だとしたら「「主音」「調性」はどうやったらわかるのか」という問いを「聴き手は「主音」「調性」が何と認識しているのか」にずらすという発想の方が適切かも知れないと考えたわけです。そして辿り着いたのが、そうした「文化的・社会的形成物」を実験により求める音楽に関する認知心理学の成果だったということです。

*    *    *

ここで試行した調性推定の手法は枠組みとしてはシンプルです。クラムハンスルの統計を用いた相関は、作品がどのように出来ているのか、楽曲分析したらどのように分析できるかとは基本的に関係なく、調性音楽に親しんできたけど専門的な訓練を受けたプロではない人間が聞いたらどう聴こえるかについての非常に肌理の粗い、単純なモデルでしかないのです。その限りで、調性推定に限ればここでやっていることはエキスパートがやっている高度な楽曲分析の自動化でもその代替手段でもありません。或る作品がどのような原理で出来ているかとは無関係に、指定区間が24のどの調性に聴こえるかを統計的に推定しているだけなのです。

それは伝統的な機能和声に基かない作品、例えばクセナキスのピアノ曲についても行えます。もっとも、集合論的に音群を操作する「ヘルマ」については、調的感覚がそもそも考慮されていないので無意味かも知れません。一方で調的構造の一般化とでもいうべき、いわれるところの「篩の理論」を背景に持つ「エヴリアリ」については必ずしも無意味ではないように思います。(所詮は西洋音楽のある時代固有のシステムである24の短調・長調に対する相関であるとしたら、結局、関係ないのはどちらの場合でも一緒ではないかという意見もあるかも知れませんが。)

全ての音の出現頻度が同じだと相関は計算できませんので、現実にある区間で完全に調性が無ければそもそも分析はできないのですが、調性感がなくなるすれすれで、しかも伝統的な機能和声に従って書かれていないので伝統的な分析が行えない作品がどの調性に聴こえるか?という問題設定なら選択肢として有力かも知れません。(そういう分析をやること自体の意味についてはまた別に議論があるでしょうが。)

拡張されているとはいえ、基本的には伝統的な調性音楽を基盤としているマーラーについては、このような手法で得られるものは限定的で、伝統的な楽曲分析の方が結局は近道であり、適用対象として不適切であるなら(ただもしそうならば、既述のアドルノの主張や提案はどのように受け止めたらいいのかという問題は残りますが、今は措きます)、他の何かでも構いません。例えば三輪眞弘さんの新調性主義の作品ではどうでしょうか?三輪さんが新調性主義に属する或る作品のノートに「変化を続ける音型パターンに対して、繊細にそして「機械のように」反応するしかない」と記している、聴き手の側で起きていることを、それは浮かび上がらせるでしょうか?その結果をどのように受け止めたらいいのでしょうか?或いはそれは「機械のように」反応する人間ならぬ、文字通り「機械」が聴いた反応と考えるべきなのでしょうか?そして、これはやってみる意義があることでしょうか、それともそうではないのでしょうか?

三輪さんの新調性主義の作品を例に出しましたが、つまるところ対象はパレストリーナでもヴェーベルンでもクセナキスでもいい。完全に旋法でてきている音楽に適用することの意味は自明ではないでしょうが、マーラーのように基本的には調性音楽だが、旋法的な部分がそこかしこに出現する、或いは特に晩年に向けて、調性感が希薄になるようなケースについてなら、狭義の調性音楽に親しんだ人が聴いたらどう聴こえるかということの粗い近似にはなっていると言えないでしょうか。それをやることに意義を認めるかどうかは立場と目的によるでしょうが。

一方でミルトン・バビット式のトータルセリー的な方向性は、作品を構築する論理とどう聴こえるかが乖離しているといったような批判があると思いますが、そういう観点では、実際にどう聴こえうるかを推定する手掛かりになると思います。私は詳しくないですが、ベルクの音楽は同じ十二音でも、調的に聴こえる部分が多いというような話にしてもそうではないかと思います。

繰り返しになりますが、ある区間で本当に12音の分布が全て均一であるならば、相関は計算できないですから、逆にこの手法が成り立たないような作品は調性から自由になったということになるかと思います。そのことの価値はまた別の問題で、事実してそうであるということです。もっともこれも「自由」の定義に依存するのでしょうが…

それを考えれば、クラムハンスルが「正解当て」の問題のようにして調性推定を検証に用いたのは、検証としては勿論間違っていないでしょうが、手法そのものの持つ意味合いを考えれば、誤解を招くような使い方であったという見方ができるのかも知れません。本来、そうした「正解」を云々することがそもそも不適切な対象であるからこそ、相関をとることの意義が生じるのではないかと思われるからです。

繰り返しになりますが、伝統的な調性音楽の拡張した形態であるマーラーのような作品の場合、部分によっては調性感が希薄になったり、揺らいだりということが起きることがありますが、それに対して素人は何調と何調との間で揺らいでいるというのを自覚的には言えないかも知れません。そういう場合にもこの分析によってそれが浮かび上がってくることが期待できるように思えます。それは伝統的な楽曲分析と合致するかも知れないし、合致しないかも知れません。でも仮に合致していない場合、だから間違いなのでしょうか?いや伝統的な和声学の基準に照らしてそれが間違いだとして、でも、素人の耳にはそう聞こえてしまうという事実を示唆しているということはないでしょうか?勿論モデルとしての近似の精度が甘くて聞こえている通りに結果が出ないということはあるかも知れませんが、それは別の問題で、ここで確認したいのは、基本的な枠組みとしてこのような手法で調性推定を行うことが何をしていることになるのかという点です。

私はこれを或る種の事実として受け止めるべきではと考えました。調性音楽に親しんだ人の調性とピッチの出現頻度の統計データを使うと専門的な観点から見てうまく行く部分もうまく行かない部分もひっくるめて事実としてこうなるということです。理論的な分析の結果ではなく、寧ろ分析の対象となる事実の一部、楽曲そのものではなく、楽曲の聴取の水準でこのような地形が形成されているのだということを事実として眺める方がいいように感じました。逆に、それ以外には使い道はないかも知れません。それもあって、解釈とかはできるだけ加えずに結果を公開したのでした。

関連して、この手法が音響物理学的に有意味なのか、それとも調性音楽的に有意味なのかについては、調性音楽が音響物理学的にも一定の合理性を持つ限りで前者とも無関係とは言えないでしょうが、一般論として前者ということはなく、後者だろうと思います。なぜならこの推定のベースとなっているクラムハンスルの調性とピッチの出現頻度の相関の統計データは調性音楽に慣れ親しんだ人間を対象とした実験の結果だからです。

*    *    *

実は一番最初は紙に五度圏の丸を描いて調性の変化を手書きで書いていたのを見かねて、今ならMIDIデータを解析することもできると教えてくださった方がいたのがそもそもの始まりでした。そして優秀な学者が膨大な時間をかけて、マーラーの作品のうちの一つの、ことによれば更に一部を楽曲分析する、あるいは横断的に眺めるかわりに、個別の作品については「摘まみ食い」になるという現実を目の当たりにして、自分の能力と自分に遺された時間を考えた上で、マーラーの作品の全体を薄く広く眺めるというのを、自分にできる範囲で一旦はやっておきたいと考えたのでした。

ということで公開したデータは撤回せずにそのままにしたいと思っています。勿論、こんなことには価値はないかも知れません。知る限り、私が今公開しているような結果が別に公開されていることはないようですが、そもそも他の誰にとってもこんなデータは意味がないかも知れない。どの程度の価値があるかはわからないし、それを自分で独力で1つ1つ確認する時間はとれませんが、他の誰かがやってくれる可能性もあり、あるいはもっと精度の良い、価値のあるものが出てくるきっかけになるかも知れないという淡い期待にすがりたいからです。

私には価値のあるものを後に残すことはできないので、このレベルのものでさえ、主観的には大事なのです。それゆえ既にやってしまった「暴挙」については、いわば沈みかかった船から投じられた投壜通信の如きものとして、大目に見て頂きたくお願い致します。(2020.1.19執筆、20公開, 22, 27, 28, 2.1加筆. 2023.7.10補足追記)

2020年1月4日土曜日

物語論的分析をする音楽学者と音楽を聴く「子供」とAIを巡る断想(2020.1.4改訂)

 マーラーを対象とした分析の中には、特に物語論的分析と称するものがあって、以前より手元にあったVera Micznikの論文 Music and Narrativity Revisited: Degrees of Narrativity in Beethoven and Mahler (2000) の再読を出発点に、Micznikが参照されている論文を中心に幾つか入手できた(無料で入手できるものだけですが)ものを一通り読み終えて感じたことを備忘のために書き留めたものを公開しました。(マーラーの交響曲の物語論的分析に対する疑問についてのメモ

 人間が「物語る」存在であることと、人間が「うたう」存在であることとの間には深い関連があると考えますが、文学の一ジャンルである「小説」のアナロジーから、いわば逆立ちするようにして音楽にアプローチするにあたって、前者の媒体である言語の持つ性質を、強引に音楽にごり押ししようとする記号論ベースのアプローチでは うまくいかないように感じます。それと同時に、ある時代に確立した制作のユーティリティとしての規範やら、シェンカーの図式のような、これまたある時代の作品を分析して得られた規則性を基準に、そこからの逸脱の距離の大きさで「物語性」の程度を測るというのも、如何にして「音楽」が「物語る」ことができる(かのようにみえる)のかについての説明としては適切でないように感じます。

 その不自然さを言い当てようと考えていて、ふと「子供」がマーラーに接する、 (シュトックハウゼンがド・ラ・グランジュのマーラー伝の序文で登場させた「宇宙人」でも良かったのですが、当世風には)AIがマーラーに接するという状況を考えることを手掛かりにできるのではないかというように思いました。

 Webでは英米系のものが入手しやすいのでどうしてもそっちに偏ってしまいますが、マーラーの楽曲分析について言えば、知る限り、シェンカー分析を何等か適用したものと物語論的分析が多いように感じます。 前者はもともとはコンピュータを用いた分析を進める方向性が掴めたらという思惑があって読み始めたのですが、結局ところあくまで人間が分析をするためのツール(単なるツールであるかについては、シェンカー自身の思いはまた別にあったようですが)であり、コンピュータを用いた分析への適用は難しそうに見えるのと、分析結果がかなり恣意的に見えたり(シェンカー自身の元々の意図から考えれば、結論ありきであったり)、トリヴィアル(別に難しい分析を経なくてもわかること)に思えたりで、なかなかしっくりきません。後者は領域横断的なものになりがちなので種々雑多ですが、個人的にはやはり音楽自体の構造の分析に基づくものでないと意味がないと考えているため、そういうものを期待して読むと、結局のところ音楽において「物語性」を成立させているものが具体的に何なのかについては、明確とは言い難いような印象を持ちます。

 そもそもが言語を範例とする「記号」として音楽を扱うということ自体に理論的には無理があると思うのですが(音楽が「記号」としても機能しうる点を認めるに吝かでないですが、それはまた別の話)、そこを強引な(にしか見えない、もっと言うとナンセンスに近い気さえする)アナロジーで対応づけるか、それをあっさり放棄して、音楽の「実質」を抜きに、領域横断的な話題に終始するかのいずれかであるように感じてしまい、違和感が募ることが多いのです。そもそもが規範との差分であったり、過去の楽曲、更には他のジャンルの作品との関係に基づくアプローチというのは、そうしたアプローチを提唱し、実践する当事者たる音楽学者の厖大な学識と、高度な分析能力を前提したものであり、例えば私自身がマーラーの作品を聴くときに、彼らの要求するような水準の聴取が出来ているとは到底思えないですし、マーラーに初めて出会った時の「子供」であった私の経験を、彼らの分析は少しも説明してくれない。勿論、高度な分析が、自分が気付かなかったようなマーラーの作品の秘密を明らかにしてくれることを否定するわけではなく、私のような愛好家はそうした分析の恩恵を最も被っているに違いないのですが、それでもなお違和感が残ります。そしてその由来を端的に述べれば、マーラーの音楽を聴く時には、確かに高度な記号操作が行われているには違いないのでしょうが、その背後で起きていること、音楽が人を惹きつけ、感動させ、或いは世界の見方を変えさせさえするといった側面については、そうした分析が語ることが余りに乏しいことに存するように思えます。そして私が知りたいのは、寧ろ、背後で起きていることの側であり、それが起きるメカニズムの側なのです。

 背後で起きていることは、一般には心理とか情動という言葉で語られ、そうした側面についての研究も行われていますが、それらの多くは、あえてやや戯画化した言い方をすれば、何種類かの作品を与えて、何種類かの感情なり、情動なりのタイプを事前に決めておいて、その間の対応づけを行うといったレベルに終始する限り、余りに肌理が粗すぎて、ここで私が知りたいことに対する回答はおろかヒントさえ与えてくれるようには思えません。せめてよりミクロな音楽の脈絡に応じて、聴き手の「心」の内部で起きていることに対して、例えば今日ならば脳の働き方を測定することによって探りを入れるようなものであるべきだろうと思います。勿論、そうした実験結果から言いうることと、ここで私が知りたいと思うこと間の径庭は大きいと思います。例えばデリック・クックが『音楽の言語』で試みたようなアプローチを考えてみると、今や辛うじてながら、それでも異なる文化的伝統を身体化している極東に住む我々から見れば、そこで試みられている音型と情動の結び付けは、全く恣意的ではないとはいえ、非常に多く文化的・社会的な文脈で形成されるものであることは間違いなく、他方でそうした我々が、クックが解明しようとした伝統に属する音楽を「聴く」ことができるからには、文化的・社会的決定論というのも誤りで、その結び付けが学習によって後成的に形成可能であることもまた、明らかであるように思えます。であるとするならば、その結び付けの手間で、そこに辿り着く前に音楽の構造の側でやれることはたくさんある筈です。

 批判ばかりしていないで、では具体的にどうすればいいのかについて述べるべきとは思いながら、漠然とした予想めいたものを書き留めることしかできないでいることは上記のメモ書きの末尾に記した通りですが、それでもこれまでデータ分析の準備を進めてきた中で、具体的なあてが全く見つかっていないというわけでもありません。MIDIデータから抽出したある時点なり時区間毎に鳴っている五度圏上の音名(ピッチクラス)の集合を12音各音を1ビットとする12ビットのベクトルで表現すれば、このベクトルのビットの遷移パターンの力学系を考えることができるでしょう。遷移規則も伝統的な和声学や対位法、楽式論のような既成の規範に基いて天下りに与えるのではなく(そうしてしまうと規則からの逸脱を測るといった発想から逃れることは困難です)、実際の作品が描き出す軌道から法則性を抽出するといった方法をとることができるでしょう。この枠組みだと機械学習で規則を学習させるというのも可能でしょう。ただしこのアプローチで大規模で複雑な作品をどこまで分析できるかはわかりません。伝統的には和声の遷移パターンに帰着できる側面に限定すれば、モデルは単純化できるでしょうが、何よりも「うたう」ことを念頭に置いた場合、旋律と旋律の複合としての対位法がマーラーの場合には特に重要なのは明らかで、 調的な図式を抽象した分析ばかりをやっていては取りこぼしてしまうことがあまりに多く、さりとてそれを回避すべく、いわゆるセカンダリー・パラメータと呼ばれる特徴量をきめ細かに捉えようとすると、次元は瞬く間に大きくなり分析は困難になることが容易に予想できます。

 これを裏返してみると、「子供」が音楽を聴く時どんなに複雑で精妙な情報処理が行われているかということに他なりません。そこで起きていることをコンピュータ上の分析に置き換えることを考えようとした途端、まず直ちにその事実に圧倒されてしまいます。 他方、記号処理のレベルでは、個別の分析に限れば(アドルノのような) 博識で怜悧な音楽学者の分析に負けず劣らずのレベルにAIが達する可能性だってないとはいえないかも知れませんが、「うたう」ことの基層の「共感」の次元、歌うこと、 聴くこと、創ること、分析することの基層にある衝動の次元は、生物としてのヒトの進化の(最大限に譲歩して、ピンカーのいうようにパンケーキに過ぎないとしても)副産物であり、まずこのレベルでAIには無縁のものです。勿論、人工生命のようなアプローチで進化の過程をシミュレートするアプローチは可能ですし、その意義を否定する訳ではありませんが。

 更に「物語る」ことについては、まずは獲得された言語との共進化の産物であり、これまた社会的・文化的進化の産物であるという側面を持ちます。更に加えて 「物語る」ことは、反射的な衝動ならぬ精緻な目的論的図式の獲得と密接に関わります。この水準においては、何のために歌うのか、何のために聴くのか、何のために分析するのか、そして究極には何のために創るのかを問うようなフレームをAIが自らの中に持たなければ、AIがそれらを「する」とは言えないことになります。「芸術」の領域においては、この違いを素通りしようとする研究は、「芸術」というものに取り組もうとしていないという点で不毛であると私は考えます。適用分野は異なりますが、詩歌や小説をAIに生成させる試みは古典的なテーマであり、かつ簡単なプログラムであれば作成は難しくありません。仮にそこで、ボルヘスの『伝奇集』の中の一篇、「ドン・キホーテの作者、ピエール・メナール」のように、一字一句本物とと区別がつかない作品をAIが生成したとして、工学的な意味合いでは合格するでしょうが、こと「芸術」に関してはそうではない。ピエール・メナールの場合であれば、彼自身が再創作をする衝動を持って自らそれを行ったわけですが、AIの場合には、AIのプログラムとプログラムを作った作者に分裂していると考えるべきであり、その両者を包含する「システム」全体が「芸術」に関わっていると見做さなくてはなりません。AIを研究する工学者の中にはその点を意識してかせずか、敢て無視して「AIには創作する意志などありません」といったことを言う人もいますが、これは一見否定的な表現を使って逃げ道を確保しつつ、AIに主体性を密輸して仮託させることになっていて、控え目に言ってもミス・リーディングな言い方であり、強い抵抗感を私は感じます。一方では、そうした点を正確に踏まえて、人工生命系を用意して、その中のエージェントに嗜好を与えるところから始めてボトムアップに「芸術」の生成に至ろうとする研究の方向性もあり、こちらは大いに注目すべきであると考えます。しかし仮に人工生命的なアプローチで生物学的水準のシミュレーションができたとしても、「芸術」が成立するのは更に異なる階層の話であり、確かに生命的・生物的な基盤を持つとはいえ、その進化のプロセスの果て、もしかしたら或る種の行き止まり、袋小路であるかも知れない、マーラーのそれのようなロマン派の末端に位置付けられる音楽を「聴く」ことをシミュレーションするのは、目も眩むような企てに感じられます。「作曲することは世界の構築に他ならない」というマーラーやシュニトケの発言は、この文脈においてこそ、文字通りに受け止められるべきなのです。

 というわけで、音楽を「歌う」「聴く」「分析する」「創る」ことをAIにやらせるという構成論的アプローチは端から諦めて(それは他の若くて優秀な人々に相応しい課題でしょう)、せめて音楽が「物語る」ことを可能にするメカニズムを音響態としての楽曲の分析によって探るアプローチの方をわずかでも進めることができないだろうか、そしてあわよくば、そうした(人間が分析主体の)楽曲分析と、楽曲のデータを入力としたコンピュータを利用した分析との橋渡しができないか、というようなことを考えているような次第なのです。(2019.11.6初稿を別のブログに公開、11.10一部改訂, 12.24改訂の上、本ブログ上で再公開, 1.4加筆)