お知らせ

アマチュア・オーケストラ演奏頻度を2025年の公演の集計を追加して更新しました。(2025.12.25)

2024年7月1日月曜日

Google Street Viewによるヴァーチャル・ツアー(番外編):東京都町田市三輪沢山荻野邸の壁画(作:原田和枝)

 東京都町田市三輪沢山荻野邸の壁画(作:原田和枝)

Bei Regen, Wind, Schnee oder klarem Himmel - immer mit Mahler

(雨でも、風でも、雪でも、晴れた空でも、常にマーラーとともに)

2017年9月および2020年5月に本ページ作成者が撮影した写真をこちらのページで公開しています。




2024年6月29日土曜日

ナターリエ・バウアー=レヒナーの回想録:音楽についてのマーラーの言葉

ナターリエ・バウアー=レヒナーの回想録:音楽についてのマーラーの言葉(1984年版原書p.138, 1923年版原書p.119, 邦訳『グスタフ・マーラーの思い出』, 高野茂訳, 音楽之友社, pp.301-2)
(...)"Die Musik muß immer ein Sehen enthalten, ein Sehen über die Dinge dieser Welt hinaus. Schon als Kind war sie mir etwas so Geheimnisvoll-Emporttragendes, doch legte ich damals mit meiner Phantasie auch Unbedeutendes hinein, was gar nicht darinnen war." (...)
(…)「音楽は、常にある憧憬を含んでいなくてはならない。それは、この世界の事物を越え出ようとする憧れだ。すでに子供の頃から、音楽は僕にとって何か謎のような、僕を高みに連れていってくれるようなものだった。でも僕は当時、想像力によって、音楽の中になどまったくないような無意味なものまで、そこに押し込んだのだ。」(…)
この言葉はナターリエ・バウアー=レヒナーの回想録のSommer 1899 8. Juni - 29. Juli の章、Auf Bergeshöh(山の頂で) の節に含まれる。(1923年版には 22. Juli という日付の記載があるのだが、 1983年版では削除されており、1983年版に基づく邦訳にも当然日付の記載はない。削除の理由は詳らかでない。)この日、彼らはPfeiferalmに登り、その頂きにある小屋のヴェランダでの 言葉として記録されている。よくあることで、マーラーは突然こうした言葉を語ったのであろう、バウアー=レヒナーはどうしてそこでこうしたことをマーラーが語ったのかわからないと付記している。
 
だが私がこの言葉に初めて接したのは、実はナターリエ・バウアー=レヒナーの回想録ではなく、アドルノのマーラー論の中での引用によってではなかったかと思う。ただしアドルノが引用したのは 最初の一文のみであるが(I. Vorhang und Fanfareの最後のパラグラフ、Taschenbuch版全集第13巻p.165,邦訳(龍村訳)では p.23)。アドルノがこの言葉を引用した文脈はそれは それで興味深く、そうした憧れの表現が、世の成り行き(Weltlauf)を正当化する装飾と化す事無く、他なるものの他性を損なうことなく、見失われたもののうちに見つけるのでなければならないというように続く。 (このあたりをレヴィナスの超越論・他者論と突き合わせる作業は、そのいずれもがヘーゲルの現象学に対する読解なのであってみれば、非常に興味深いものとなるであろう。) 日曜作曲家、休暇の作曲家であり、世間的には歌劇場の監督であったマーラーは単純に世の成り行きを拒絶したのではない。実際の動機は何であれ、彼は日々の糧を得るべく、 身をすり減らし、自分の時間のほとんどを費やしたけれど、その最中、合間を縫うようにして音楽を書き続けた。意地悪な見方をすれば、実は件の憧れは「私はこの世に忘れられ」という 題名がいみじくも告げているように、そうした日常からの逃避だったのではないか、結局のところマーラーの音楽とて、本人にとっては楽長殿のはた迷惑な道楽であり、所詮は娯楽に 過ぎないのでないかと疑ってみることもできよう。実際、アドルノの発言を裏返したように、例えばハンス・マイヤーは(多少異なった文脈でだけれども)、マーラーの音楽は日曜宗教みたいな もので、装飾品ではないかという発言をしていたりもする。(Rainer Wunderlich刊行のマーラー論集に収められた"Musik und Literatur"の特にp.152以下。邦訳は酒田訳「マーラー頌」p.361以下。) マーラーがこの言葉を発した状況は、私には例えば第6交響曲第1楽章展開部後半の、アドルノのカテゴリーではSuspensionにあたるブロックを思い起こさせるが、マイヤーの手にかかれば 自然に対するマーラーの態度も同断であって、ディレッタント的な簒奪者ということになってしまう。だが、一見したところ対立するように見えるマイヤーの主張の結論はアドルノのそれと、少なくとも 決定的に背馳するものではない。マイヤーは「大地の歌」が「第2交響曲」の撤回であり、カフカやシャガールを引き合いに出しつつ、マーラーの芸術には救済が拒まれていると述べているのだから。
 
しかしここではアドルノやマイヤーの所説を検討するのは控えることにしたい。それよりも私にとって気になることは、マーラーの音楽を1世紀後に「消費」している私は、それでは一体何なのだ という点である。かつて中学生であった私がそう思ったように、私もまたディレッタント、簒奪者ではないのか。そうでないような立場が可能なのかは、現在の私にも未だ判然としないのだ。 お前に一体何がわかるんだと問い詰められれば、私には返す言葉がないのははっきりしている。まるで(これまたアドルノがマーラー論で引用した)カフカの「審判」のヨーゼフ・Kのように、 マーラーの角笛歌曲に歌われる「ひかれもの」のように。
 
けれども実は、寧ろそうであるからこそ上記のマーラーの言葉に、そしてその言葉を決して裏切らないマーラーの音楽に私は強い共感を覚えるのかも知れない。悟った人から見れば、こうした私のスタンスは 悪あがきに映るだろうし、そうした人にとってはもしかしたらマーラーの音楽さえ、そうした悪あがきのサンプルということになるのかも知れない。だがそれならそれで、ここでコミットメントが生じているのだ。 きっとマーラー自身がそうであったように、かの如き憧れなしに「世の成り行き」に身を浸すのは耐え難いことだけれども、だからといってそれは単なる息抜き、娯楽であるわけではない。 再びマーラー自身がそうであったように、それがある種の目的論的転倒であるにせよ、「神の生ける衣を織る」こと、為し能うかどうかは定かでなくとも、そのように努めることをせずには いられないのだ。マーラーの没後、「マーラーが何から救われたいと思っていたのかわからない」、と冷静で怜悧なリヒャルト・シュトラウスは語ったといわれるが、是非はおくとして、とにかく 私がマーラーとともに愚かさの側にいるのは確かなことのようだ。
 
そうした私にとって、上に掲げたマーラーの言葉はある種の「モットー」のような重みを持っている。勿論、音楽家ならぬ 私にとって主語は音楽には限定されない。でも序列の違いはあれ、マーラーだってそうだったろうし、私の側ではマーラーの音楽が上記のモットーに合致したものの一つであることは確かだ。 否、逆にそうした志向を子供だった私に与えたのはマーラーの音楽の方なのかも知れない。音楽を聴くのは気晴らしなどでは決してなく、ある種の感受の、認識の様態を感受することに よって自らの裡に受容し、刻印することに他ならない。そうしたプロセスの結果として、比喩でなく文字通り、私は少しだけマーラー「である」のだ。かくして アドルノの印象的な言い方を借りれば
So mag ein Halbwüchsiger um fünf Uhr in der Früh geweckt werden von der Audition eines überwältgend niederfahrenden Lauts, auf dessen Wiederkunft zu warten der, welcher ihn eine Sekunde zwischen Wachen und Schlaf gewahrte, niemals mehr verlernt. (Taschenbuch版全集第13巻p.153 )
このように、十代半ばの子供は人を圧するように打ち降りて来る音を耳にして朝五時にたたき起こされるのかもしれない。その音を夢うつつにほんの一瞬耳にした者は、それがもう一度やってくるのでは、と期待するのを決して忘れはしない。(邦訳(龍村訳) p.6)
ということになる。否、それは単にジェインズの言う「別の部屋」からの声に 過ぎないのかも知れない。だが例えばラマヌジャンが公式を見出したのはそうした声に導かれてではなかったのか。マーラーが「書き取らされた」のはそうした声に導かれててではなかったのか。 「全世界が映し出されるような巨大な作品においては、人は宇宙が奏でる1つの楽器に過ぎない」という言葉もまた同様に、マーラーの時代においてすら過去のものとなっていたロマン主義的な 意味合いではなく、そうした意味合いで文字通りに受け取られるべきなのだ。マーラーの音楽をそれが出てきた背景に還元して理解するが如き姿勢は、マーラーが上掲の言葉で語ったような 志向に対する背馳ではないか。そうした姿勢が「今こそマーラーの時代が来た」などという厚かましい呼号と対になっているのは、そこに存在する遠近法的錯誤の甚だしさを証言するものだろう。 マーラーが「音楽によって世界を構築する」、と発言したのを、その言葉のみではなく、実際に彼が為し得たことによって測ろうとするならば、比喩ではなく、文字通りに、だが肥大したロマン主義的 主体の妄想としてではなく、主体の背後にあって主体を構成している動的な構造を含めた上での環境と有機体の相互作用のあり方として、実践的な仕方での「世界」(だが、ここでいう世界は 一体どこから始まるのだろうか?)との関わり、解釈学的過程としての音楽のあり方を述べたものとして捉えるべきなのだ。生誕100年の時点でアドルノは、マーラーの音楽は形式的な楽曲分析に よっても標題によっても充分には解明されえないと述べたが、寧ろマーラーの音楽を分析し、その構造を記述するためのデバイスは半世紀後の今日においても未だ準備されておらず、 今後の脳神経科学や意識の科学の発展とともに、ようやく少しずつ的確な記述が可能になっていくのではないのか。本格的なマーラーの音楽の観相学はまだ可能になっていないのではなかろうか。
 
勿論そうした観点から帰結するところもまた、結局のところ人間は自分の行動様式という監獄からは自由になれない、ということに過ぎないのかも知れない。 賽を投げるのも、スピノザの自由意志についての議論よろしく、自分がそちらに向けて投げているのではなく、そう投げるように仕向けられ、馴化されてしまっただけなのかも知れない。 (もっともそうした意識の受動性に対する認識が、意識下で行われている活動についての意識が存在するという事実に基づく違いは残るし、マーラーの音楽はとりわけてもそうした 意識の構造のある種の反映となっている点で際立っていると思われるのだが。)それでもともかく、ein Sehen über die Dinge dieser Welt hinausが自然主義的な 展望の下で「どこ」に位置づけられるにせよ、あるいはマーラーの音楽の本格的な観相学のため準備が未だ整っていないとしても、そうした志向を共有するものにとって、 マーラーの音楽はこの上ない同伴者であるには変わりはないと私には思われる。(2009.12.19, 2024.6.26,29 邦訳を追記。)

2024年6月27日木曜日

ナターリエ・バウアー=レヒナーの回想録:音楽シーズン1901~1902年の章に出てくる歌劇「ゼッキンゲンのラッパ手」についてのマーラーの言葉

ナターリエ・バウアー=レヒナーの回想録:音楽シーズン1901~1902年の章に出てくる歌劇「ゼッキンゲンのラッパ手」についてのマーラーの言葉(1923年版原書p.173, 邦訳『グスタフ・マーラーの思い出』, 高野茂訳, 音楽之友社, p.451)
Mahler erzählte aus alter Zeit, daß er in Prag aus Verzweiflung, den greulichen "Trompeter von Säkkingen" so oft dirigieren zu müssen, in einer lustigen Stunde sich den Spaß machte, aus der ganzen Oper das Leitmotiv herauszustreichen, wie sie auch von nun an ohne Einbuße (alles ist ja in diesem "Schund" gleich wichtig oder unwichtig) dort so aufgeführt wurde ! Der Intendant sagte zwar einmal, es komme ihm so merkwürdig vor, als fehle etwas darin; aber was es war, dahinter kam er nicht !
"Dieses Machwerk ist übringens so, daß man gerade so gut alle Bläser oder, wahrhaftig, sämtliche Streicher daraus entfernen könnte, ohne daß es jemand merkte, da alle Instrumente : Bläser, Streicher, Schlagwerk, immer genau dasselbe spielen !"

 マーラーは昔の話をした。彼がプラハにいたとき、吐き気をもよおすような《ゼッキンゲンのトランペット吹き》を何度も指揮させられたのに嫌気がさして、気分が良い時に、遊び半分に、このオペラ全体からライトモチーフを、今後そこでそのかたちで演奏しても支障がない程度に抜き出して削ってしまった。(この「がらくた」にあっては、すべてが重要とも無意味ともつかなかった。)そこの監督は、何か欠けていて妙な気がする、とは言ったが、それには気づかなかったのだ!
「このでっち上げの作品は、ほとんど全ての管楽器や、実際、弦楽器をそっくり取ってしまったところで誰も気づかない、といった代物なのだ。管楽器であれ、弦楽器であれ、打楽器であれ、すべての楽器がいつも同じことを弾いているんだからね!」

こちらは自作の「ゼッキンゲンのラッパ手」ではなくて、ネスラーの歌劇に関する、ナターリエ・バウアー=レヒナーの回想録に収録されたマーラーのコメントで、 彼のネスラーの作品に対する評価が端的に窺える言葉である。
ネスラーの歌劇を聴いていないのは勿論、私にとってはそもそも歌劇というジャンル自体が疎遠なものなので、この評価の当否を云々しようとは思わないが、 この言葉が回想ならではの誇張でないのは、例えばハンブルク時代にイギリス公演を行った際に、ドイツで当時話題の作品であったこの歌劇の イギリス初演がその演目の一つに含まれていたにも関わらず、その指揮をマーラー自身は行わなかったことによっても確認できるようである。(2007.12.26)

ナターリエ・バウアー=レヒナーの回想録:アッター湖畔シュタインバッハ1895年夏の章に出てくる交響曲についてのマーラーの言葉

ナターリエ・バウアー=レヒナーの回想録:アッター湖畔シュタインバッハ1895年夏の章に出てくる交響曲についてのマーラーの言葉(原書p.19, 邦訳『グスタフ・マーラーの思い出』, 高野茂訳, 音楽之友社, p.62)
... Aber Symphonie heißt mir eben : mit allen Mitteln der vorhandenen Technik eine Welt aufbauen. Der immer neue und wechselnde Inhalt bestimmt sich seine Form von selbst. In diesem Sinne muß ich stets erst wieder lernen, mir meine Ausdrucksmittel neu zu erschaffen, wenn ich auch die Technik noch so vollkommen beherrsche, wie ich, glaub'ich, jetzt von mir behaupten kann.

(…)僕にとって交響曲とは、まさしく、使える技術すべてを手段として、ひとつの世界を築き上げることを意味している。常に新しく、変転する内容は、その形式を自ら決定する。この意味から、僕は、自分の表現手段をいつでも絶えず新たに作り出すことができなくてはならない。僕は今、自分が技法を完全に使いこなしている、と主張できると思うのだけれども、それでも事情は変わらない。

引用した最初の文が、アドルノのマーラー論を始めとして、これまた至る所で引用されるマーラーの交響曲についての言葉である。 これはマーラーが第3交響曲について語っている文脈で出てきた言葉であるが、まさに第3交響曲こそ、この定義に相応しい作品であることは 衆目の一致するところだろう。ところで私は、それに続く言葉もまた、とても重要だと思う。まさに内容が形式を産み出す点にこそ、マーラーの音楽の 比類ない力が在るのだと感じているからであり、マーラーは終生、ここでの発言の最後の部分に忠実であり続けたように思われるからである。
なお、上記の原書のページは私の所蔵している1923年版におけるものであり、邦訳のベースとなっている新版(こちらは未見)のそれではない。(2007.5.12)

2024年6月26日水曜日

ナターリエ・バウアー=レヒナーの回想録:歌劇場での仕事についてのマーラーの言葉

ナターリエ・バウアー=レヒナーの回想録:歌劇場での仕事についてのマーラーの言葉(1984年版原書pp.101-102, 1923年版原書pp.89-90, 邦訳『グスタフ・マーラーの思い出』, 高野茂訳, 音楽之友社, pp.215-216)
(...)"Du wirst sehen, ich halte diesen greulichen Zustand nicht einmal so lange aus, daß ich die Pension anständigerweise annehmen kann. Am liebsten möchte ich gleich auf und davon gehen. Ja, wenn das ein Absehen hätte : (...) Aber bei der Einrichtung unseres Theaters, wo täglich gespielt werden muß, wo ich der ärgsten Verlotterung und tief eingewurzelten Fehlern auf Schritt und Tritt bei dem ganzen Körper, mit dem ich's zu tun habe, begegne, und oft erst im Momente der Aufführung und im ärgsten Kampfe alles umstürzen und neu aufbauen muß; wo ich ein Repertoire habe, welches das Gemeine neben dem Höchesten enthält; wo die Stumpfheit und Beschränktheit von Ausführenden und Aufnehmenden mir meist wie eine Wand entgegensteht : da ist es eine Sisyphusarbeit, die ich leisten soll, die meine besten Kräfte, ja mein Leben aufzehren, aber zu keinem Ziel und Gelingen führen kann! Und daß ich vor tausenderlei Sorgen nie mit selbst angehöre, ist das Ärgste dran."
(...)

(…)「僕はこんな嫌な状態を、ちゃんと年金がもらえるようになるまで、我慢できっこないさ。いっそ今すぐにでも思い立って、おさらばしたいものだ。もし何か見通しでもあればの話だがね。(…)しかし、我々のオペラ劇場の制度では、毎日上演が行われなくてはならない。僕は、関わりをもつあらゆる部分でひどい自堕落と根深い欠陥に出会い、いざ上演というときになって、苦闘の末すべてをぶちこわして、新たに再建しなくてはならないことだってしばしばだ。おまけに僕の持つ上演演目は、最高の作品と並んで卑俗な作品をも含んでいる。そして大抵は上演スタッフと観客双方の愚鈍さと能力の限界が、僕の前に壁のように立ち塞がっているから、僕がそこでやっていることはシーシュポスの仕事にほかならず、僕の最良の能力ばかりか、僕の命までも消耗し尽くされる。しかも、それには目的もなければ成功もないものだ!何千という心配事のために、全く自分のことを考える暇がないのが最悪だ!」
(…) 

これはマーラーがウィーン宮廷歌劇場の監督に任命された折のナターリエ・バウアー=レヒナーの回想に含まれるマーラーの言葉である。指揮者、劇場の 管理者としても間違いなく有能であったマーラーがこうした言葉を残すことに或る種の訝しさを覚える向きがあるのは承知しているし、こうは言いながら、 数多の成功とそれに見合った名声をマーラー自身が楽しむ瞬間がなかったわけではないのは当然のことであろう。だが、そんなに目くじらを立てる程の 話でもないという見方もできるだろう。ウィーンの歌劇場の監督の発言、 大作曲家マーラーの発言だから読む人に立場によって様々な反応をもたらすのだろうが、内容を多少置き換えてしまえば、今日のありふれた 管理職の愚痴と大きく変わることはないのだから。随分いい気なものだとも言えるし、有能だけれども独断的な、部下になってしまえば一将功成りて万骨枯るタイプの 嫌な上司だったのではと思う人がいても仕方ないかも知れない。その一方で、程度の差はあれ、組織を任されて結果を出すことを求められる 同じような立場の人間であれば、このようなことを思うのはそんなに特殊なことではないという見方もあるだろう。誰もが自分の能力をそれなりに恃んで 努力するしかないし、結果の方はうまく行くこともあれば、失敗に終わることもあるという点は別に変わるところはない。そう思えばこうした述懐は、 天才神話に彩られているマーラーの普通の人間にとって最も親しみやすくわかりやすい 側面であるとさえ言えるかも知れないのだ。仕事から逃れた先が非生産的な余暇ではなく、そちらこそが神の衣を織る営みとなった作曲であったから結果的には 事情は異なるものの、そうでなければそれすらありがちな趣味への逃避に過ぎず、それなら凡人にも理解できないことはなさそうである。実際に生前の マーラーに対しては、作曲は些か度を越していて、それゆえ傍迷惑な楽長の道楽という評価もあったらしいのである。
 
彼が後に歌劇場を去る時に残した「手紙」を知るものは、この言葉がその内容に微妙にこだましているのに気づくだろう。 実際、マーラーはこの言葉の通り、ウィーン宮廷歌劇場の監督の仕事に見切りをつけて「おさらば」することになるのだ。年金の方は交渉の結果、 支給の権利を得たのであったが、それでも彼は文字通り「命まで消耗し」ながらも更にアメリカに渡り、創作活動に戻るための資金を稼がねばならなかった。 その結果、計画の途中で病に倒れて生涯を終えることになり、引退の夢は果たされなかったのは気の毒なことだと思う。だがそれとて、スケールこそ 違え良くある顛末ではある。寧ろそれだけに一層身に詰まされると感じる向きも少なくないだろう。
 
私が上記の言葉で個人的に印象的だったのは、それが単なる愚痴ではなく、自分の仕事が持つ制度上の問題についての認識が述べられていること(これは 彼の一貫した主張であったらしく、後に辞任の折にも繰り返されることになる)、そして更に、どんなに熱心に取り組んでも結局は「目的も成功もない」類の 仕事があるのだという、これまた冷静な認識が語られていることであった。 マーラーは凄まじい集中力と能力を持って、人並み以上のことを成し遂げることができたというのに、一方ではそうした営みを客観視する視線を備えていた。 もちろんそうした冷静な認識の中には、己の能力が如何ほどのものであるかについてのそれも含まれていて、彼は自分の能力を自惚れて過信することもなかったし、 その一方で過小評価することもなかったのだろう。作曲についてもまた然りで、その価値を信じ続けることができたのは、冷静な自己評価があればこそ だったに違いないのだ。
 
そしてそうした二重性はその音楽に刻印されているものと本質的には同じものに思われるのである。反省する意識の介在、メタレベルの存在というのは マーラーの音楽の持つ際立って重要な特徴の一つだと思うのだが、それはマーラーその人のあり方、物事の受け止め方と非常に密接に結びついたもので あったように感じられるのだ。そして更に、そうした複眼的で反省的な物の見方が、驚くべき素朴で純真な心のあり方と共存しているのもまた、マーラーの 特徴なのだが、ナターリエ・バウアー=レヒナーの回想のこの件を読んだ人は、その最後のところでそうした側面、マーラーの音楽を聴くとふと出会う、あの 表情を見出して胸を突かれることになる。最後にナターリエは、彼女がマーラーと連れ立って歌劇場の前を通り過ぎようとしたときに彼が以下のように 言ったのを記録しているのである。そう、これがマーラーなのだ。(2009.4.30)
"Daß ich da als Haupt und König herrsche, ist doch wie ein Traum !"

「僕がここで王様として支配しているなんて、まるで夢みたいだ!」

(同書、同ページ) 

(2024.6.26邦訳を追記。)

ナターリエ・バウアー=レヒナーの回想録:ベルリンにおけるマーラーの演奏会(1896年3月16日)後のマーラーの言葉

ナターリエ・バウアー=レヒナーの回想録:ベルリンにおけるマーラーの演奏会(1896年3月16日)後のマーラーの言葉(1984年版原書p.46, 邦訳『グスタフ・マーラーの思い出』, 高野茂訳, 音楽之友社, pp.94-95)
(...) "Gott, ich könnte ja alles ertragen", sagte er zu mir, "wenn mir die Zukunft meiner Werke gesichert schine. Aber nach der gestrigen Erfahrung bin ich hoffnungsloser als je. Ich werde bald mein Letztes für diese teuren Aufführungen hingegeben haben und dann wird es mit meinen Symphonien zu Ende sein, denn ein anderer wird sie mir nicht bringen!"

 (…)「僕の作品の将来は揺るぎない、という確信が持てるのであれば、ああ、僕は何にだって耐えられるだろうよ。」と彼は私に行った。「でも昨日の経験からすると、僕は前よりも絶望的だ。僕はやがて、こうした金のかかる演奏のために持てる物すべてを使いきって、それで僕の交響曲もおしまいだ。誰もそれを演奏してくれやしないんだから!」

マーラーの作品は同時代には必ずしも順調に受容されたわけではなかったというのは良く知られたことであって、それが「いつか私の時代はくる」という、奇妙に 独り歩きした感のあるあの言葉の背景をなしているのもまた確かなことなのだが、それでもウィーンの歌劇場監督として時代の中心人物となって以降のマーラーには 熱心でしかも非常に高度な理解力を備え、自らも生産的たりえた支持者達に恵まれたこともまた、確かなことだと思われる。そして今日の評価はおくとして、 その早すぎた晩年に訪れた第8交響曲初演の成功は、マーラーの同時代における位置づけを揺ぎ無いものとした。
だがそれは後の話であって、上に掲げた1896年時点でのマーラーには知るべくもないことだった。ここで扱われている1896年3月16日のベルリンコンサートというのは、 「さすらう若者の歌」管弦楽伴奏版の初演、第1交響曲の4楽章版(正しくは2部5楽章からなる交響詩ではなく、第1交響曲「として」)の初演、 更に後に第2交響曲の第1楽章となった交響詩「葬礼」の演奏という極めて重要なイヴェントである。指揮をしたのはマーラー自身であった。
歴史的な意義をおいてしまっても、今日からみればこれは大変な注目を浴びてよさそうなプログラムであり、調べたことはないが、恐らくこのプログラムを復活させる 試みというのは必ずや企画されているに違いない。だが、それは今日の評価を先取りした錯覚で、切符の売れ行きは非常に悪く、かろうじてほぼ客席を埋めていた 聴衆の多くは無料で聴いたらしい。客観的な評価はともかく、主観的にはマーラーにとってこのコンサートはフィアスコであったようで、そのコンサートが終わった後、 ナターリエ・バウアー=レヒナーに対して語ったマーラーの言葉が上掲のものなのである。
マーラーが落胆した理由が何なのか、本当のところはわからないというべきだろう。ナターリエ・バウアー=レヒナーの証言によれば、コンサートは別段スキャンダルに なったわけでもないし、歌曲の1曲はアンコールを求められたらしいし、翌日にはコンサート・エージェントとともに好意的な批評家なども集まり、「信奉者」たちが レストランに集まったりもしたという記述がある。ニキシュは部分的であれマーラーの作品を指揮することを約束した。状況は「客観的には」破滅的とは程遠いようにも 見える。
だが有能な歌劇場監督であったマーラーは、そのコンサートが経済的には破滅的な赤字であり、興行としてはお話にならないことを認識していただろうし、 そうした出費を今後も続けることができないことを認識していたに違いない。歌劇場監督としてのマーラーのサラリーは(後のアメリカでの「法外な」契約と比べたら 相対的には慎ましいものかも知れなくても)相当なものであったはずである。マーラーの妹・弟達もそうだが、マーラー自身もいわゆる倹約家ではなかった のもまた確かなようだが、だからといって、誰かに「たかって」資金を引き出そうと策を弄することはしなかった彼にとって、経済的には「道楽」に過ぎない (と無関心な他人には見えたに違いない)自作の演奏に莫大な費用をかけることには限界があると認識していたのは間違いなかろう。 こういう言い方は芸術に経済的なものを超越した価値を認める立場からすれば些か不謹慎なのかも知れないが、何よりマーラー自身の言葉が 非常に現実的なトーンを帯びているのだから仕方ない。そして私はそうしたマーラーの姿勢に寧ろ共感を覚えるし、上記の言葉を言ったマーラーの 気持ちの重苦しさも(私にはそんな「浪費」をするだけの作品の持ち合わせがないので、実感はできなくても)想像することはできるように思える。 マーラー流のというべきか、ある種のバランス感覚のようなものすら読み取れる気がするのである。
それにしても、マーラーの落胆ぶりは痛ましい。マーラーにとって自分の作品が演奏され、受容されることは、経済的な損得を超えてなお、重要なことだったのだ。 仮にこのコンサートが経済的な利害得失と無関係であったとしたら、マーラーは平静であったかといえば、そんなはずはない。 「理解される」こと、「共感される」ことがマーラーには重要だったのだ。今日、評価の定まったマーラーについて何かを言っても所詮は後だしジャンケンになって しまうかも知れない。だが同じようなかたちで経済的な制約を受けつつも、経済的な損得を超えてその作品(とその人)について調べ、共感し、理解しようと 努めずにはいられない人間が、1世紀後の異郷に居ることが全くの無でないことを祈らずにはいられない。ナターリエ・バウアー=レヒナーのマーラーに対する 信頼と共感が無でなかったのは確かだろうが、同時代で身近に接することができた人間に比べて、未来の異邦人のおかれた立場は遙かに分が悪い。 そう、所詮は価値の経済においてこれは無益でマーラーその人には何ら寄与しないのだろうとは思う。それでもそう祈らずにはいられないし、共感と理解への 努力を放棄しようとは思わない。それと同時に、現代の日本にもいる、マーラーのように「神の衣を織る」ことができる人間になら、同時代人として身近に 接することができるのであれば、そちらはそちらでまた、自分の為すべきことがある筈だし、それを為さねばならないということを改めて確認しもするのである。 (2009.2.8, 2024.6.26 邦訳を追加。)

ナターリエ・バウアー=レヒナーの回想録:創作プロセスについてのマーラーの言葉

ナターリエ・バウアー=レヒナーの回想録:創作プロセスについてのマーラーの言葉(1984年版原書p.163, 邦訳『グスタフ・マーラーの思い出』, 高野茂訳, 音楽之友社, pp.132-3)
(...) "Denk dir, die Stellen, welche ich bei der Arbeit nur geschwind, interimwiese hinschreibe, um weiterarbeiten zu können - von denen ich annehme, ich werde sie dann streichen oder ganz ändern -, dir erweisen sich nachher als die besten: als so wichtig und notwendig, daß ich, ohne zu schaden, keine Note hinzutun und keine wegnehmen kann.
Noch seltsamer ist es mir bei einem Passus ergangen, mit dem ich gar nicht ins Reine kommen konnte und der mich die letzten Tage schrecklich quälte. Da ruft mir heute im Schlaf eine Stimme zu (es war die Beethovens oder Wagners, mit denen ich jetzt überhaupt - keine üble Gesellschaft! - nächtlichen Umgang pflege): 'Laß doch die Hörner drei Takte später einfallen!' Und damit war die Schwierigkeit aufs einfacheste und wunderbarste gelöst, daß ich meinen Augen nicht traute!"

 (…) 「ねえ、僕がただ仕事を先に進めるために、一時しのぎに速く書きとばした箇所――いずれ削ってしまうか、そっくり書き変えてしまうつもりでいた箇所――が、後になってみると最高の出来である、ということがあるものだ。それを傷つけずには、音符ひとつでも付け加えたり、削ったりすることができないほどに重要かつ必然的である、ということがね。
ある一節では、もっと奇妙なことが起こった。僕は、そこがすっきりせずに、このところひどく悩まされていたんだけれど、きょう眠りのなかで、ある声が僕にこう呼び掛けてきたのだ。(それは、僕がこのごろ夜毎に付き合っている――といっても、悪い仲間じゃないよ!――ベートーヴェンかヴァーグナーの声だった。)『ホルンが三小節おくれで出てくるようにしなさい!』このことで難題が実にあっさりと、見事に解けてしまったのには、自分の目を疑ったよ!」

これは「マーラーのエッカーマン」ことナターリエ・バウアー=レヒナーの回想録のアッター湖畔シュタインバッハの1896年夏の章に含まれる、自身の創作プロセスの経験をマーラーが語った言葉である。前後の脈絡から明らかなように、この時マーラーは第3交響曲の作曲の最中であり、上記の言葉もその途上で起きたことであろう。 なお理由は詳らかにしないが、この部分は1923年版には含まれていない。「故郷と少年時代について」という日付なしの回想の記録のあと、「作曲と楽器付け」という7月16日の日付つきの パラグラフの前に、7月10日という日付つきで、だがタイトルはなしで、その日の午後、自転車でウンターアッハに同行した折にマーラーが語った言葉として収められているのである。

 
上記の証言はマーラーの創作プロセスにおける無意識の力と、それをマーラー自身がはっきりと認識していたことを証言する記録として貴重なものに感じられる。創作のプロセスの あり方は人それぞれだろうし、マーラーその人とて、これが全ての作曲に当て嵌まるわけではないだろうが、にも関わらず、こうしたことが起きたという証言は、一方ではマーラーにおける創作の あり方を端的に証言するものであろうし、他方では例えばジュリアン・ジェインズの二院制の心についての主張を裏付ける証言のリストに追加することができるだろう。
 
ジュリアン・ジェインズは、創造的思考には幾つかの段階があると述べている〈柴田訳「神々の沈黙」紀伊国屋書店, 2005, p.58〉。第一の準備段階で問題が意識的に検討され、 続く孵卵期には問題に意識的に集中されることなく、突如として解明が訪れ、後付けで正当性の論証がなされる。マーラーの証言を、ジェインズが傍証として引用している ヘルムホルツ、ポワンカレ、アインシュタインといった面々の証言に追加することは全く容易なことに思われる。(ちなみにここで引用されている証言の主がマーラーの同時代人であるのは興味深い。 とりわけヘルムホルツはマーラーと同じ街に住んでいたこともあり、マーラーを知っていたし、物理学に深い関心を抱いていたマーラーはヘルムホルツの学説にも強い関心を抱いていたことが 書簡などから窺える。またマーラーが特に親しかった物理学者のベルリナーはアインシュタインの友人でもあった。)3つのB、すなわちバス、風呂、ベッドが発見がなされる3つの場所だという 言葉に、己の経験に照らして納得する人は多いだろう。なお「声」がベートーヴェンやワグナーといった、彼にとっての規範的な存在の姿を纏っている点もジェインズの主張と一致する。 勿論、フロイト風に、一方ではエスの働きがあり、他方で超自我の声がある、というような説明も可能だろうが、寧ろ近年の意識についての見解のように、より広いパースペクティブの中に 位置づける方が一層興味深い。
 
マーラーの場合に興味深いのは、にも関わらず意識の働きがその音楽に痕跡として残されているかに感じられる点だ。マーラーはいわゆる技能として身体化された次元だけで音楽を 書いたわけではない。だが一方で意識的な「意図」が技法を選びとったというような説明ではマーラーの場合を説明したことにならない。マーラーの場合にしばしば問題になる「標題」に ついての議論もこのことと関係している。「標題」に従って音楽を編んでいったのではなく、編まれた音楽を事後的に説明するものとして「標題」があるのだ、とはこれまた本人の 証言だが、してみれば編まれた音楽に事後的な説明を付加することが可能になるような意識と無意識の往還がマーラーの場合にはあるのだ。そしてこうした機制はマーラーが表面的には「標題」を 拒絶した後も基本的には変わらなかった。その延長線上に、シェーンベルクがプラハ講演で述べた、あの第9交響曲についてのコメントが存在するのである。「内的な標題」という言葉に囚われて そうした標題を探索するのはホワイトヘッドの言う「具体性の履き違えの誤謬」である。マーラーが好んだといわれるショーペンハウアーの「思考は言葉で具体化された瞬間に死ぬ」という言葉を 思い浮かべるべきなのではなかろうか。
 
そのようなことを考えたとき、マーラーがアルマ宛の書簡で晩年に語った「作品は抜け殻に過ぎない」という言葉が別の意味を帯びてくるように思われる。恐らくマーラーは「ファウスト」のゲーテの 顰に倣い、「初めに行いありき」〈第1部1237行〉、「絶えず努め励むものを我々は救うことができるのです」〈第2部11937行〉といった言葉を念頭において語っているに違いない。音楽作品も また具体化された思考、思考の痕跡に過ぎないのかも知れない。だが意識のやっていることが情報の処分であり、情報の圧縮の過程で生じる「深み」こそが作品の価値の源泉なのだとしたらどうだろう。 作品の「如何にして」は、その作品が生み出された思考と切り離して論じることは困難だから、その意味で思考が作品に優越するということができる。だが情報を如何に処分するか自体が 背後の思考と無関係ではありえないとしたら、作品はその処分の仕方の「如何にして」の分だけ、その作品の背景となった思考を超え出ている。
 
作品の価値が中立的・自律的なものではないのは、作品の解読の過程についても同様だ。作品がどのような価値を持つかは聴き手がその作品からどのような情報を展開・構築しうるかにかかっている。 勿論それは作品の「如何にして」と独立ではありえないが、聴き手の側にも多くのものが課せられているのだ。押し付けられた不完全な標題に囚われ、作品が含み持つ豊かさに背を向けて、受け取った 情報を恣意的に処分してもう一度「言葉」を取り出すことに一体どのような意味があるのだろう。作品が生み出された文脈を渉猟し、あたかも「正解」に辿り着こうとして様々なものを排除する そのプロセスは「抜け殻」から更に色褪せ、次元の縮退した欠片を取り出す不毛さと貧困に行き着くことにしかならないのではなかろうか。
 
確かに作品は抜け殻に過ぎないかも知れない。だが、それは同時にそれ自体、神の衣でもあるのだ。マーラーの音楽は、聴き手がある瞬間に別の部屋からの声を聴くことを可能にするような類のものなのだ けれども、それは当然、ここで参照したマーラーの創作のプロセスでの「別の部屋からの声」と、同じものなくても、無関係ではありえない、同相のものであるに違いない。 (2010.5.5, 2024.6.26 邦訳を追記。)