お知らせ

「アマチュアオーケストラ演奏頻度」ページに2024年分を追加し、更新・公開しました。(2024.12.30)

2025年3月7日金曜日

未来に開かれた末尾:マーラーの音楽の「未来完了性」について(2025.3.7 再公開)

文字通りの反復を嫌うマーラーの音楽の時間性においては、再現の意味合いが変わり、再現こそが 予告されたものの実現となる。マーラーの音楽の経過には、そうした実現の瞬間が含まれるのだが、 にも関わらず決してそれが音楽が目指していた目的地という訳ではない。寧ろ、それは事後的に、 回顧的にそれとわかるものなのだ。目的論的な図式が事前にあるわけではなくて、寧ろ外部から 何かが到来することを契機に、システムが新たな準安定状態に遷移するのだ。それは新しさの経験であると 同時に、システムの自己同一性が維持される不可欠の契機でもある。マーラーの音楽の時間性は、 意識を有する高度な有機体のそれであり、マーラーの音楽は意識の背後にあって、意識に先行し、 地平を形成していわば水路づけをする無意識的な部分の活動、更には、システムにとっての外部の痕跡すら 留めている。重層的・多声的な構造を持つそれは、マーラー自身がそのように定義した通り、一つの「世界」なのだ。

マーラーの音楽はアドルノが夙に指摘しているように、常に「未来完了的」であり、開かれている。morendoないしersterbendという総譜への書き込みが マーラーにおいてはしばしば取り沙汰されるが、アレゴリーやメタファー、標題性の次元ではなく、その書き込みが 書かれた箇所で音楽的に何が生じているのかこそが問題であり、それを突き止めることによって、マーラーの音楽の 時間論的な特殊性が闡明される。マーラーの音楽という時間対象の消え去っていく有様は、その時間性の 「未来完了性」を告げている。その音楽は「外部」を指し示し、浮かび上がらせる。 究極の可能性としての「死」、それは他人事ではないが、主体にとって経験不可能な閾の彼方として追い越すことが 原理的に不可能な可能性として、だが寧ろ主体にとっては端的に一つの不可能性として、主体がその中に 予め投げ込まれている(被投性)。主体は自分の終りを自分で画定することはできないが、原理的に到達不可能な 外部として、いわば理念として想像することは可能であり、引き受け不能なその可能性を引き受けることを余儀なくされる。

複製技術が発達し、テレコミュニケーションが可能になり、コンサートホール以外の場所で、それぞれが異なる場所、 異なる時間に、マーラー自身は経験出来なかった仕方での同一のリアリゼーションの反復的聴取が可能になることによって、 同一の経験の文字通りの反復の不可能性をもたらす変様が浮き彫りにされ、自分の経験できなかった過去を 時間対象として享受しつつ、自己と対象たるマーラーの音楽との差異を、遅れを見出しつつ、自己が生成する、 それ自体は唯一の、反復不可能な出来事の過程の個別性が析出する。そのように私は形成され、私は予め 自分に先立つものとして、自分が直接出遭ったことのない他者に取り憑かれていて、自分の経験したことのない 記憶を想起し、他者の導きに従って未来を構想する。

個体としてのマーラーが同じ日付に終焉を迎えてから、既に100年以上の時間が経過した。100年後、地球の反対側に 生きる私は、マーラーその人に会うことなく、その創作の現場に立ち会うことなく、マーラーが遺した楽譜によって、 自分が経験していない生を自己の裡に再構することができる。それ以降、自分の寿命を越える期間に渉り、 地球上の様々な場所で行われたマーラーの作品の数多くの演奏に、その演奏に立ち会うことなく、録音アーカイブを 通じて接することができる。様々な文献により、その作品の受容の目も眩むばかりの多様性に接し、自分自身もまた、 マーラーに関する様々な知識や経験を記録することによって、都度、マーラー受容の文脈を更新し、地平を広げ、 深めることができる。しかもそれは孤立したモナド的主体の営みではなく、いわばシモンドンの言う横断的個体化なのだ。 或いはまた、マーラーを自ら演奏するオーケストラの活動にコミットすることで、より直接的な仕方で共時的な次元を 拡大することもできる。

マーラーが唯物論を支持し、いわゆる「霊魂の不滅」に対して否定的な意見を述べた知己に向かって述べたといわれる 「不滅性」は、マーラー自身がそのように了解していた通り、個体性の限界を超えて、いわば「客体的不滅性」として、 だが超越論的な領野においてではなく、自然主義的に経験化され、事実性の水準において、ただし或る種の極限として、 常に未来にあるものとして、その限りでもう一度理念的なものとして、このようにして実現し、絶えず実現しつつあり、 実現し続けるであろう。

時空を隔て、直接経験できない絶対的な過去、時間を超えてではなく、時間を通って、忘却なしの 直接的経験ではなく、忘却を経て想起される記憶として、否、寧ろ、絶対的な隔たりの彼方に対する追憶として、 何度目かの今日、5月18日という日付の反復により、マーラーという固有名の署名が記入された営み、活動が 未来に向けて継承されていくためには、それ自体はどんなに取るに足らない、些細なことであっても、その効果の持続に ついてどんなに頼りなく、儚げで疑わしいものと感じられたとしても、それが自分が受け取ったものの価値に対する精一杯の、 可能な応答なのであってみれば、「歓待」し、「証言」しなくてはならないのだと思う。

それは常に「未来完了」的であり、未来に向けて開かれたものであり、かつまた、未知の相手に宛てた 投壜通信でもある。投壜通信には、固有の日付が、固有の署名が為されている。自分が生きる土地に漂着した それを受け取った人は、記録された出来事の事実性を、恰も確実で疑い得ないことであるかのように思いなす。 「それはかつてあった」こととして、私の直接経験できない過去を、外部を指し示す「記号」となるのだ。

マーラーの総譜のersterbendという書き込みが告げているのは、美学的な水準での作品の内容であったり 意味であったりするのではない。 それは個体がいわば墓場に持って行ってしまい、忘却されて系統発生的には継承されない記憶、 その個体が蒙った癒しがたい傷を証言する痕跡なのだ。かくしてマーラーの音楽は目覚めて再来するもの =幽霊であり、私はその声に応答し、歓待しなくてはならない。時空を隔てて、共に行進する幽霊たちの連帯として。 それは「私の傷を見てください」と私の代わりに言ってくれる同伴者であり、私自身が蒙った傷の証人でもあるのだから。 

(2013.5.18, 2025.3.7 改題の上、再公開)

2025年3月6日木曜日

マーラーの音楽における時間性の反時代性について(2025.3.6 再公開)

もはやマーラーの音楽におけるような時間性は不可能なのだろうか。 それ以前の音楽は最早、絶滅した時間を今に伝える化石の如きものとしか感じられない。 それ以降の音楽は、作品として際立ったものであれば一層、時間性を放棄して別の次元を探求しているかのように見える。 調性を放棄することは垂直方向の和声における響きの放棄である以上に、カデンツがもたらす緊張と解決の原理の放棄であり、 主調領域の確保、属調領域への推移、主調から遠く離れて転調を繰り返し緊張感を高める展開、その末に主調に回帰する再現と いったソナタ形式やエピソードを挟んだ主要主題への繰り返しの回帰が主調への回帰でもあるロンド形式とそれらの複合としての ロンド=ソナタに示されるような調的遷移の遍歴の過程の放棄であった。12音が一度づつ鳴ったら終りになるという ヴェーベルンの耳が感じとった直観はその極限として正しかったが、それは音楽にとって本質的な次元の縮退をしかもたらさない。 圧縮が限界に達したとき、複雑さを目指そうとしても、音の継起する順序という規則のみからは巨視的な構造は産まれてこない。 結果として得られる筈の複雑さは豊かさからは隔たって、単なる混沌と区別がつかなくなってしまう。 その代わりに巨視的な音群の分布を確率的に決定したところで、設計は音の具体的な細部には及ばない。選択される分布や 作曲者の直観的な恣意に任せられる細部に対する嗜好(それこそが創造性・独創性だというわけだ)の結果として得られる音響は、 多くの場合、音楽というよりは自然音のシミュレーションに似ている。
 
その後の音楽のあるものは、幾つかのパラメータを捨て、自分の自由になる次元を限定し、自ら課した制限の下での可能性を探求する禁欲的な 姿勢を貫いて、結果として豊かな成果に辿り着いたが、それらは皆、どちらかといえば抽象美術に似ている。 音楽である限り時間の次元はなくせないが、そこでの時間の流れは作品の中に閉じていてそれは時間を封じ込めたオブジェのようだ。 例えばリゲティの言う「凍った時間」、「空間化された時間」というのは自己規定としては際立って正確で、リゲティのそれを含めた圧倒的な説得力を 持つ作品は、鋭利な批判的な知性に裏付けられた創られたことを証言する。 そしてその中で共感覚に裏打ちされた色彩や肌理の連続的な変化が追求され、内側に向かっては大変に豊かな次元を獲得することにも成功する。
 
その結果として、まるで自由は作品の裡にしか残されていないかのように、時間は作品という閉じた空間の中に封じ込められる。 作品の内部は有機的で豊饒だが、たとえそこに動的な軌道が存在し、周到にもゆらぎさえ与えられ、カオティックな挙動が生じるように 構築されていたとしても、それはあくまでも作品の内部でのことでしかない。 その音楽は寧ろ聴き手を細部の微細な変化に集中するようにいざなう。 非常に長い周期で一致するようなリズムの重ね合わせ、単純な比で表せない複数のテンポ、複数の音律の重ね合わせ、 フラクタル的な自己相同性の導入は複雑で有機的な細部をもたらすが、巨視的にみた時間構造は静的なままだ。 そこには生成があり発展があり、階層分化さえあるかも知れないし、人間が演奏することによるゆらぎの発生は許容されても、 隅々まで決定され、作品として紛うことなく設計され、構築されたものなのだ。 そこでは時間は様々な出来事を内包しつつ、強い志向性を持つことなく、まるで自然を映し出したように緩慢で多元的だ。 複数の中心を持ち、更にそれが時間の経過に連れて変化していき、ある領域が広がったかと思えば別の領域が圧縮され、 ある道は延び、ある道は消滅して2つの領域が接合する、といったように可動的で時々刻々と姿を変えるネットワーク構造。 だがそれは巨視的な推移の構造を、目的論的な到達点を持たない。
 
(例外と呼べるようなケースが皆無というわけではないことも忘れずに記しておくことにしよう。音楽の経験を「旅」と見做し、 聴く前とは別の場所に連れて行かれるような音楽、それを自覚的に企図し、しかも常にではなく、稀にではあってもそれに成功する ケースがないわけではない。そして恐らくそこでの「旅」とは人生の行路そのものでもあるに違いないことも想像できる。 だがそうして稀有な例外であるラッヘンマンの場合でも、それが騒音的な音素材による音響作法に基づく異化効果という、 いわば「表の顔」とどう結びつくのかの方は、私には良くわからない。あるいは「旅」としての側面は単純に音の時間方向の 組織において彼が反動的であるに過ぎないとして切り捨てる立場もあるであろうこともまた、予想できなくもない。異なる 素材の下、昔ながらに構築的であろうとする姿勢。特殊奏法による挑発は目晦ましに過ぎないのか。だが彼が調的組織 抜きでそうした構築に勤しんでいることもまた間違いないことだ。それ自体が稀有なことではないのか。 それが反動だろうが何だろうが、彼が、もしかしたら例外的に、少なくとも私の知る限り彼のみがそれを達成しているのは確かなことなのだから。 だから私はここで結論を出すことを控えざるを得ない。 だが何故ラッヘンマンの音楽に自分が惹かれ続けてきたのかは、こうして考えれば明らかなように感じられる。)
 
勿論、伝統を拒絶し、素材を縮減し、単純なパターンの反復、それとすぐにわかる複数のパターンの重ね合わせなどに よって推移を設計することはある意味で容易い。だがそれは作品ですらなく、単なる音の知覚の実験に近づく。 複雑さに飽きた耳にとって、聴き取りやすく理解しやすい単純な音のパターンの変化は一時は新鮮で快いものであっただろう。 だが単純さはここでは可能性の貧しさに直結し、複雑さを求めても硬直した方法論は同一の次元をうろうろするばかりで、 どれも似たような変化になるという結果の貧困をどうすることもできない。
 
管理された時間を嫌ったところで、偶然の出来事の到来に身をゆだねるのは音楽的時間の放棄だ。 何も時間性を探求するのに音楽が唯一の手段なわけではないから、作品として時間を構築することを拒絶するのは自由だ。 そこでは新たな作品概念が生まれ、新たな実践が生じることだろう。だがそれならばコンサートホールなどに留まるのは場違いだし、 一旦そうした音楽的時間の変容(その結果は最早音楽的という形容すら妥当でないほどに徹底したものであった筈だが)を語りながら、 旧態依然の如く過去の音楽にしがみつく人たちの姿はできれば見たくないものだ。 最早20世紀も過去となったが、更に退行して19世紀末の、しかもマージナルで少なくとも意識の水準では、実験的な姿勢とは縁遠い音楽への郷愁を何故か隠せないように見えるその様は不可解で、 それでいて流行の最先端を標榜し、一方では今やモダンの、前衛の時代は終わった、人間性の地平は乗り越えられるべきだと言いながら、 今こそ癒しを、ノスタルジーを、スローライフを、といった宣伝文句が語られるのはマーケティングの必要性ゆえのことであろうと考えるほかない。
 
かくして協和音が復活し、旋律が復活する。だが反動を恐れてか時間的構造は打ち捨てられたままだから、単調な反復繰り返しは相変わらずだし、 機能和声の支えを持たない旋律は、微分音的なゆらぎを導入し、ヘテロフォニーによって強度や色彩の変化を求めるが、 こちらもまたどこにも辿り着かずに宙を漂うばかりだ。いずれにしても音楽は、聴き手を どこかに連れ去る力を喪ってしまったように感じられる。そう言うと決まって繰り返されるのは、目的論的な時間の流れの放棄と引き換えに、 永遠の瞬間を手にするといった言い回しだが、所詮は日常的な生活の時間の流れの中に点在して消費される存在でしかない多くの場合、 一時のヒーリング、気分転換に利用されるのが関の山に過ぎない。そうした態度を「頽落」として蔑むのは簡単だが、生活自体を 修行の場よろしく音に没入する(あるいは没入できるとの思いなし、ないし勘違いの)特権は、一部の音楽家にのみ許されているに過ぎない。いわゆる「現代音楽」のスノビズムを指弾するその姿勢は、 こちらはこちらで狂信的な環境保護運動などと共通した特権意識が見え隠れする独善性を感じさせられて辟易させられる。(彼らから見れば疑いなく) 「頽落」した聴き手である私には、それもまた自閉の一つの形でしかないようにしか思えない。
 
一方で多くの場合には、学問の装いの下、1世紀の歳月とその間に獲得された認識などないかのように、今更100年前の出来事の周囲をうろうろし、既に自明のことで あるはずの観点を恰も独自の新発見であるかの如くに述べ立てる姿勢もまた、そうした行為がそれを巡って為された対象が抱いていた筈の 志向に対する裏切りにしか見えない。100年が経過し、しかも異郷のこの地であれば、いまや舶来の骨董品としての価値も出てきたとばかりに アニヴァーサリーなどにかこつけて、こちらはもう一桁上の1000年の一度のスケールの未曾有の災害に逢ったにも関わらず、そんなことはまるで なかったかのようにおかまいもなしに、私のような門外漢からすれば、身内意識丸出しに、同業者間の棲み分けと共存共栄への配慮ばかりが目立つ状況に吐き気を催すことも一再ならずであった。
 
だが掟の門前でうろつくばかりしか能のない門外漢にしてみれば、マーラーの音楽にはあれ程豊富に存在した筈の時間方向の構造、 聴き手をもどこか別の場所に連れて行かんばかりの、それが作者の意図するところであるならばその限りにおいて「目的論的」という 形容すら誤りとは言い難い、巨大な時間的持続を支える時間方向の方法論的図式に代替するものが、20世紀の音楽の中では 結局発見されることはなかったのではという感覚は否み難い。否、一例をとればマーラーの作品の長大な時間的経過を支える 音楽的構造と、それを利用する具体的な適用の卓越は非専門家の耳にも明らかで、そうであれば尚更、その後の音楽において かくも生産的な原理が放棄されたのは何故なのか改めて不思議な思いに囚われても不思議はない。 確かに、今この音楽をもう一度創ることの不可能性もまた疑いを容れない事実のように思われる。しかし、過去の遺物を骨董品よろしく品定めして愛でることにあれほど熱心な音楽学や音楽史の研究者も、今ここにスコアとして残されたマーラー作品の構造の分析については、旧態依然の道具立てを用いて、それによっては測りえない逸脱を指摘するのが関の山で、マーラーの音楽の持つ構造の特異性を言い当てる道具を作り上げる努力は、少なくともこの極東の島国からの展望においては一向に行われているようには見えない。 せいぜいが前世紀後半に発達した記号論やナラトロジーのような各種の文学理論の枠組みを借りてきて、音楽にも適用しようという試みが海の向こうで行われていることが窺い知れるくらいなもので、寧ろ音楽を出発点とした新たな構造記述の方法が出てきてもよさそうなものだが、具体的な音楽を前にしたら、あまりに素朴で表層的であると哲学者自らが撤回しかねない哲学的な時間論の分析を持ってきて、目の前の具体的で個別的な音楽作品の豊かさをプロクルステスのベッドのようにそぎ落としてしまうような分析しかできていないように見える。それにしても何故なのだ、という疑問が頭に取り憑いて離れない。それは時代の要請なのか。
 
逆に言えば100年前の音楽に確実にあって、更には今尚力を喪っていないと感じられる側面が未だにあるというのは、 その音楽の指し示す未来を告げてはいないか。時代の制約の中、所与であった語法を換骨奪胎して提示する、今なお異様な力を 喪わないその音楽の動性、超越への衝動に支配された外への運動、未知の地点に聴き手を運んでいってしまう、暴力的なまでの力。 アドルノは全般としては己が批判的に考えていたマーラーの第8交響曲に対して「救い主の危険」という表現を用いた。 私にはこの言い回しはアドルノの逡巡を、聴経験に忠実なアドルノの論理でもって断定し去ることへの躊躇いを感じずにはいられない。 「救い主の危険」。それは今やマーラーの音楽全体について言いうるように私には感じられる。マーラーの音楽の持つ時間性の アナクロニスムは、だが閉塞した現在の凍りついた時間(その認識の何と正しいことか)にあって、単なる夢想に過ぎないとさえ感じられるし、 そのように断罪されるケースも、しばしば見受けられる。だが、そこには文字通り、未だ来たらざるものとしての未来への途があるのではないか。 それは仮想されたものを恰も現実に実現するかのように見せかける詐術ではない。ポテンシャルとしての未来が、音楽の彼方にあるものとして ヴァーチャリティとして指し示されているのではないか。
 
だが、今ここにおける私は、これ以上遠くに行くことはもうできない。私にとって確実なのはマーラーの音楽を手放してはならない、ということだ。 異様な力に満ちたその音楽を聴くことが時折困難になるにせよ、自分に向かって手を差し伸べ、自分を幽霊の隊列に加わるよう 誘う音楽に耳を閉ざしてはいけない。生き延びてどこか別の場所に辿り着くことを希求し続けるならば。(2012.5.5, 2015.8.10補筆改訂, 2025.3.6 改題・改稿の上、再公開)

マーラーの音楽に何を聴き取るか?:主観性の擁護について(2025.3.6 再公開)

「ラ・フォル・ジュルネ・オ・ジャポン」という音楽祭が丁度毎年ゴールデン・ウィークの時期に開催されるようになったのは何時頃のことからだったか。 コンサートが課する時間的・体力的・精神的な制約に耐えるだけのキャパシティを欠いていることから、私はごく一部の例外を除けばコンサートに 足を運ぶことがない。ゴールデン・ウィークとて同様だから「ラ・フォル・ジュルネ・オ・ジャポン」もまた例外ではなく、そういう催しの存在は 知っていても、それに参加することはそもそも選択肢にすらならないのではあるが、そういう私でも昨年2011年のそれが、東日本大震災とそれによって 発生した原子力発電所の災害のため、当初のプログラムを維持できないような会場設備への損害と来日演奏者の大量のキャンセルを蒙った ことは風の噂に聞いていた。もっとも、2011年が丁度マーラーの没後100年にあたる年であることは意識していても、その年の「ラ・フォル・ジュルネ・オ・ジャポン」が 特集した19世紀末のクラシック音楽の創作における「巨人たち」の中にマーラーが含まれていることすら知らず、一年後になってふとした偶然で 2012年の「ラ・フォル・ジュルネ・オ・ジャポン」に因んだ公式ガイドとしての機能を持つらしい新書版のロシア音楽に関する書籍(亀山郁夫, 『チャイコフスキーがなぜか好き 熱狂とノスタルジーのロシア音楽』(ラ・フォル・ジュルネ・オ・ジャポン「熱狂の日」音楽祭2012オフィシャルBOOK), PHP新書, 2012)を読み、 その中におけるマーラーの音楽に関連した記述に非常に強い違和感を覚え、やはり震災を契機に中断していたマーラーについての文章を 認めることを再びせずにはいられなくなってから、ようやくそうした事実関係を知ったような次第なのだ。


勿論、2012年の「ラ・フォル・ジュルネ・オ・ジャポン」はロシア音楽の特集なので、マーラーがいわゆるテーマ作曲家として言及されているわけではなく、 公式ガイドブックの著者の個人的な音楽聴取の履歴やら、テーマ作曲家を論じるときの或る種の背景として言及されているに過ぎない。 プロローグにあたる部分で著者の30歳代の10年間全体におよぶマーラーに対する熱中の時期があったことがまず語られ、ついであるコンサートで接した ショスタコーヴィチの室内楽を言及する際のいわゆる聴取の背景の経験として言及され、そしてそこからはかなり離れて、「現代のロシア音楽」と 著者が見做す(あるいは企画上、そう括ることを強いられた)作曲家の音楽を論じる部分で、ここで取り上げようと考えている一対の言及、 カンチェリとシルヴェストロフに関する記述に出現するマーラーへの参照が為されているに過ぎない。


ちなみに同じくプロローグにある2011年の「ラ・フォル・ジュルネ・オ・ジャポン」への言及は、些か奇妙な(と私には感じられる)仕方で為されている。 まずプロローグの冒頭、2012年5月という日付が記された一節の途中で「昨年の5月」に開かれたコンサートについて言及がなされる。 そこでの記述は、19世紀末のヨーロッパの音楽は「今」(いつ?)の著者にとって「遠い記憶のなかにこだましている 懐かしい響きばかりだったが、あの、恐ろしい災厄に打ちのめされた心には、なぜかむしょうに心地よく響きわたった。コンサート会場に足を運んで、 はじめて自分が慰めに飢えていたことに気づいた」といったものだが、それ自体には特段奇妙な点はない。


奇妙な、というのは次にもう一度、上述のマーラーへの言及が行われた1994年6月のショスタコーヴィチ作品のコンサートについての一節の後、 今度は2004年9月という日付が冒頭に書付けられた一節で再び言及される時の言及の仕方と内容だ。今度は個別のコンサートに対象が限定されていて、 それは東京国際フォーラムCで行われたらしいブルックナーの第4交響曲のコンサートである。だがそこでは今度は(深読みをすれば、暴力とノスタルジーというコピーを意識したものか) 巨大地震と津波の「現前化」の経験が語られるのだ。奇妙に感じられるのはその経験の内容自体では勿論ない。「現前化」の経験は恐らく事実なのだろうし、 私自身、少し後になるが、被災地から出てきた知人と一緒に東京文化会館でラヴェルの「ダフニスとクロエ」のバレエの公演を観ていた折、ラヴェルの音楽に対してではなく、 波が押し寄せてくる演出を見て津波の映像のフラッシュバック(だからそれはここで語られる「現前化」とは似て非なるものではあるが)を経験した結果、 ラヴェルの音楽の方も聴けなくなってしまい、未だにその状況が続いているのだ。同様に、同じ第4交響曲でも私の場合はショスタコーヴィチの第4交響曲なのだが、 あのフィナーレのコーダを頭の中で思い浮かべるだけで津波の映像のフラッシュバックに襲われるため、ショスタコーヴィチの音楽もまた聴けない状況が未だに続いている。


ブルックナーの第4交響曲の方はと言えば、自分にとってブルックナーの交響曲の中で最も疎遠な作品の一つであるし、その作品の雰囲気から言っても 「現前化」なるものが起きるのは意外なことではあるけれど、そのことを奇妙に感じたわけでもない。私がフラッシュバックの経験をした際に不幸にも聞いていた ラヴェルの音楽もまた19世紀末のヨーロッパの音楽といって良いだろうが、きっかけとなった演出はおいて、ラヴェル音楽そのものからはその時には大きな慰藉を 受け取った気がする。またこれは心理的には或る種の退行ではないかと思うが、その後色々な音楽が聴けなくなって後、しばらくはブラームスの音楽ばかりを 聴いていた時期があったくらいだが、ブラームスもまた19世紀後半の「巨人達」の一人に含まれていた。そういう意味では2011年の「ラ・フォル・ジュルネ・オ・ジャポン」への 2つの言及のうち、寧ろ一度目に近いものを当時の私は感じていたのだと思う。


結局のところ私が奇妙に感じるのは、その一度目の(恐らくはブルックナーの第4交響曲もまた含まれるであろう19世紀末のヨーロッパ音楽に対する)言及と、二度目の言及で語られる 「現前化」の体験がどう結びついているのかがわからないという点に尽きる。私自身の経験からすればコンサートの途中でそうした「現前化」を体験するのは 寧ろ悲惨なことである。その経験にも関わらず「恐ろしい災厄に打ちのめされた心には、なぜかむしょうに心地よく響きわたった」「遠い記憶のなかにこだましている 懐かしい響き」でもあるというのが、私には腑に落ちないのである。


同様にして、ブルックナーの第4交響曲についてのこの経験が、「堅牢な」ドイツ音楽とロシア音楽との対比へと連想を広げていくこと自体も、それに異議を挟む謂れはないし、 出発点となっている「執拗かつ強靭な反復のなかで、その反復のもつ意味が日常の理解を超えたリアリティを増」すというのは、ブルックナーの音楽の聴取の 経験に基づく発言なのだろうが、それが直ちに「堅牢」さと言い換えられれば当惑せざるを得ず、これもまた違和感の原因となっていそうである。 執拗な同一音型の反復、長大なゼクエンツは確かにブルックナーの音楽の特徴だろうが、シューマンの同一リズムの反復の執拗さやシューベルトのゼクエンツの 長大さと同様、それらは寧ろ、所謂「ドイツ音楽」の構築的な契機とむしろ対立するものではなかったか。 シューマンのそれはしばしば病的なものとさえ見做され、シューベルトのそれは「天国的な長さ」という決まり文句に通じる非構築的な側面であり、 ブルックナーの場合であれば、20世紀の音楽の諸潮流を経た今日であれば、寧ろミニマリストのそれに比することができるかも知れないものであって、 時間方向の構造を決定する契機としてはドイツ的な「堅牢さ」とはまず異質なものではなかったのか。


もっとも、この後取り上げるマーラーについての言及が為される近傍には、「カンチェリはミニマリスト・ブルックナー」という言葉に続いて直ちに「形容矛盾ではない。」 というメモを記す著者のことだから、それはそれで了解は首尾一貫してはいるのだろう。だが、一貫しているからといって理解できるかと言えば勿論そんなことはなく、 私にとってはそのいずれも当惑の対象にしかならないのだが。序に言えば、発展・展開のない執拗な反復は寧ろ対比される筈の「ロシア音楽」の特徴の一つではないかとさえ 私は考えているし、その限りで例えば件のカンチェリに対するコメントも(対立を持ち込もうとする著者の意図には反するので、「形容矛盾」は当らないとはいえ) わからなくもないのだが、いずれにしてもそれはこの「ラ・フォル・ジュルネ・オ・ジャポン2012」公式ガイドブックの是とする「ロシア音楽」の理解ではないのだろう。 パウル・ベッカーによればオーストリア的な交響曲のカテゴリに属し、ブラームスからは(これはより構築的であるはずの第8交響曲についてだったが)「うわばみ」と 評されたブルックナーの音楽の、よりによって執拗な反復をとりたててドイツ音楽の「堅牢さ」を連想するというのは、私にとっては奇妙な把握としか思えない。


その「ミニマリスト・ブルックナー」であるらしいカンチェリの「風は泣いている」に因んで、この「ガイドブック」は「世界は、人間中心的な意味づけから 解放されなくてはならない。今こそそれを知る必要がある。」という主張を行い、更に「この一行は、マーラーの交響曲を念頭に置いて書いている。」と 自己の主張について注釈するのである。そして「人間による意味づけからの解放、その表象世界がカンチェリにあるのだ。」と続け、更に、「彼の世界観は、 次に述べるシルヴェストロフとは対極にあるものだろう。世界が暴力とノスタルジーの二つからなっているということを、そして音楽は無限の可能性を 秘めているということをカンチェリほど切実に訴えかけてくる音楽はなかなか出合えない。」と述べる。更に節を変えて、そのシルヴェストロフについての 記述の中で、彼の第5交響曲に因んで再びマーラーの名前が出現する。「涙が出そうになるくらいの、哀愁とノスタルジーに満たされている。 それは、もはやロシアとかウクライナへの郷愁ではなく、廃墟と化した世界におのずと立ちのぼるある種の普遍的な感情としてのノスタルジーの感覚と いってもよい。」という言葉に続けて、「グスタフ・マーラーから強い影響を受けていることがはっきりと聴きとれるが、ロマン主義が終わり、アヴァンギャルドも 遠い過去となったいまだからこそ、この音楽が甦るのだ。」というようにマーラーが参照されるのである。


上記のようなマーラーへの言及は、私自身が、そして想像するに多くの人が想定するであろうショスタコーヴィチやシュニトケの項においてはマーラーへの言及が 為されていない(厳密にはショスタコーヴィチの項では「バッハからマーラーへと連なる壮大な西洋音楽の歴史」という言い回しの中でマーラーという固有名が出現するが、 これはマーラーとショスタコーヴィチとの関係の記述ではないから除外できるだろう)という面と併せて、少なくともこの「ガイドブック」の著者がマーラーの音楽を どのようなものとして受容しているかを端的に物語っているだろう。


ある音楽をどのように受容するかは、結局のところ各人の自由だから、私もまたそうした受容を「誤り」であると主張しようというわけではない。 ましてやこれは第一義的には「ロシア音楽」についての「ガイドブック」であって、マーラーについてのそれではないのだから、こんなところでマーラーの受容に ついて云々するのは、本末転倒・些事拘泥の謗りを免れないだろう。更に言えば、意図的かも知れないレティサンスの背後に、「ポスト・マーラー」といったコピーの下、 ショスタコーヴィチやシュニトケを取り立てる傾向に対する暗黙の異議申し立てが含まれているとしたら、それについては首肯できる側面だってあるのだ。 またその一方で、クレーメルか誰かが「キエフに死す」だと評したらしいシルヴェストロフの交響曲との関連付けのさせ方について言えば、当然のこととして マーラーの交響曲の方は「ヴェニスに死す」のBGMとしての文脈で捉えられているに違いないのだが、そうした把握の仕方こそが「ロシア音楽」からの展望なのだと 言われてしまえば、それが私にとって如何に意外で許容しがたい把握であったとしても、それはそれで受け入れるしかないのだろう。 カンチェリの音楽に対する程にはシルヴェストロフの音楽に私が惹きつけられることはないのだが、さりとてカンチェリの音楽に対してさえ、特段の強い拘りを持っているわけでもないから、 彼らの音楽との関係でマーラーの音楽がどのように位置づけられるにせよ、それによって決定されるシルヴェストロフの音楽、カンチェリの音楽の位置づけの方について言えば、あえてそれに関する文章を書いて自分の思いを整理しておこうと思っているわけでもないのである。


否、そもそもそれは「ロシア音楽」からの展望に限定された了解というわけではなく、21世紀にマーラーを聴くことの意義の一般的な了解はそうしたものなのであって、 別段特殊な見解が述べられているのではないのかも知れない。そしてとりわけ東日本大震災の後の日本ではそうであることの兆候が偶々「ロシア音楽」を 媒介にして発現したということなのかも知れない。


だがしかし、それがどのようなマジョリティを占めるものであったとしても、東日本大震災の影響と、それとは直接的に別の要因による多忙の結果の 感情的な麻痺状態の後、ようやく再びマーラーの音楽に接することが出来るようになりつつある状況下にあって感じるのは、少なくとも私にとってマーラーの音楽は、 この「ガイドブック」でのそれとは異なった相貌と志向を帯びた音楽であると感じられるし、そのように私はマーラーの音楽を聴いているということだ。 しかもそれは震災の前後で変化したわけでもなく、出会ってから35年間、基本的には変わっていないように感じられるのである。 そしてその了解のもとにこの「ガイドブック」の記述を読み返したとき、私にとっては飛躍が多くて論理の筋道がひどく辿りにくく、ここで扱うマーラーへの 言及に関連した部分に限定しても、例えばカンチェリについての記述は私にとってはその論旨が正確には把握できないことを白状せざるを得ないほど であるのだが、そうした困惑もひっくるめてこの文章で少なくとも仄めかされていると感じられる幾つかの点について自分なりの整理を行う必要を感じたということなのである。


正直に言えば、私は最早ほとんど、今、この地でマーラーの演奏を、ジャパン・グスタフ・マーラー・オーケストラの活動への関与といった例外を除けば、 コンサートに赴いて聴取する必然性を感じなくなっている。その理由の一部は、この「ガイドブック」でマーラーという固有名の周辺で論じられている 事柄と確かに関連しているには違いなく、その限りでは問題の設定自体に違和感を感じているわけではない。しかしその一方で、そういう状況に陥った 私が未だにマーラーの音楽に聴き取りうると感じ、それゆえマーラーを聴き続けようと思うその理由となる音調は、ここでマーラーに帰せられているらしい それではないのも確かなことに思われる。要するに事態は錯綜としていて、この「ガイドブック」の記述から受ける困惑の一部もそうした錯綜に原因があるようなのだ。 そこで以下ではそうした錯綜を自分なりに整理してみたい。


マーラーの音楽が帰属する時代、ロマン主義の時代は最早決定的に過去のもので、その限りで「ロマン主義が終わり、アヴァンギャルドも 遠い過去となったいま」という認識は正しいと思う。しかし、そうした時だからこそ甦る「この音楽」とは一体どういう音楽なのか。甦ると言われるからには それは一旦は滅したということなのだとしたら、「この」の指示対象はシルヴェストロフの個別の音楽作品では少なくともないだろう。「この」はより 正確には「このような」であって、「涙が出そうになるくらいの、哀愁とノスタルジーに満たされ」た音楽、「廃墟と化した世界におのずと立ちのぼるある種の 普遍的な感情としてのノスタルジーの感覚」に満たされた音楽一般が甦る、ということと受け取るほかない。だとしたら、そうした特性を持つシルヴェストロフの 音楽に「影響」を与えた(という主張をこの著作の著者は支持しているように見える)グスタフ・マーラーのそれもまた、同じ性質を備えた音楽だということになりそうである。


まず思いつくのは、人が過去の音楽にノスタルジーを感じるのは、対象となっている音楽自体が哀愁とノスタルジーに満たされているということを 必ずしも意味しないということだ。それは聴取の態度の性質の問題であって、聴取の対象の持つ性質ではない。勿論、対象もまた、そうした性質を 帯びていて、ホワイトヘッド的な意味での「感受の感受」のような事態が生じることもあるだろうし、ここでもそうしたことが想定されているということは 考えられるが。実際、ここで取り上げられているシルヴェストロフの第5交響曲は、マーラーの第5交響曲のアダージェットと結び付けられて論じられることが多いようだ。 既に言及したクレーメルの発言らしい「ヴェニスに死す」ならぬ「キエフに死す」であるといった評言は、そうした結びつきを前提としたものだろう。


しかし、ある音楽が過去の時代の音楽を引用する、あるいは直接的な引用ではなくても、音調を借用するという挙措は、引用や借用を行う側の音楽 固有の文脈と展望における価値を帯びていて、それは引用や借用の対象となった音楽が持っていたものとはとりあえず別である。 借用が元の音楽の持つ音調の効果を利用するために為される場合もあるだろうが、それでも借用であることがわかってしまえば、 借用された内容の次元ではなく、それを借用した行為の次元について何某かを問わず語りに語ってしまうことは避けられない。 シルヴェストロフの意図が奈辺にあるか私は詳らかにしないが、いずれにしても聴き手に届くのは、借用の意図であって借用されたものの内容そのものである筈がない。 そうした時に、マーラーの「影響」とは一体どの水準での影響を指し示しているのかが曖昧に思われるのである。クレーメルの発言に乗っかって それを利用した言い方をするならば、シルヴェストロフの立ち位置は、せいぜいヴィスコンティの立ち位置と対応しているに過ぎず、 それならばマーラーの音楽の捉え方に関するヴィスコンティの影響を云々すべきだということになろう筈であって、マーラーの音楽そのものの影響を 云々するのはレベルの混同であるということになるのではないか。


勿論、そうした事情を踏まえてなお、マーラーの音楽自体もまた、「涙が出そうになるくらいの、哀愁とノスタルジーに満たされ」た音楽、 「廃墟と化した世界におのずと立ちのぼるある種の普遍的な感情としてのノスタルジーの感覚」に満たされた音楽である、という主張は可能だし、 そうした音調こそ、シルヴェストロフとの共通点であり、そうした音調に関してシルヴェストロフへのマーラーの影響が窺えるという主張もまた 成立するだろう。だがしかし、例えばマーラーの第5交響曲という作品の脈絡におけるアダージェットの置かれた位置とそれに相応して担っている機能、 更にはそれを含めたマーラーの第5交響曲の総体の持つ志向は、構造的に全く異なったシルヴェストロフの作品の志向と本当に同じだろうか。


伝記的事実や本人の意図を特権視する姿勢は今日では手放しで是認されることはないだろうからそうした面は捨象することにしても、 葬送行進曲で始まり、ニ長調のロンド・フィナーレで終わるマーラーの作品の全体は、私見によればシルヴェストロフの音楽の 「涙が出そうになるくらいの、哀愁とノスタルジー」とはかなり異質のものである。アダージェットの主題が後続のロンド・フィナーレで受ける 変形についてはマーラーを知る人の間では良く知られているし、何よりも一度聴けばすぐに気づくほど明らかなことだが、 その変形の意味をどうとるにせよ(ちなみに私は、それが言語的な記述の水準で確定できるという考え方に対して懐疑的であるが)、 未完成の第10交響曲を含めてさえ、ということは調性が曖昧になる「部分」(だがそれはあくまでも部分に過ぎない)を含んでさえ、 全体としては明確に全音階的な調的システムの中で軌道を描き、バロック時代以来の調性格論の適用すら可能な程であるマーラーの交響的作品 にあって、ニ長調で終わる第5交響曲ははっきりと「涙が出そうになるくらいの、哀愁とノスタルジー」とは別の着地点を音楽の裡に持っていると 私は了解している。


一方で、第5交響曲がマーラーの交響曲作品の中で占める位置づけについては、この曲に決まって適用される発展的調性論が嵌め込もうとする 闘争から勝利へといった図式を逃れるものがあること、この曲をベートーヴェン的な肯定の音楽と見做すことに対する疑問を私は持っていて、 別のところで記述したことがあるのでここでは詳細は繰り返さないが、それでも第5交響曲がマーラーの創作において(事後的な展望での 後付の理屈かも知れなくても)或る種の停泊点、折り返し点であり、その音楽の持つ時間性は、例えば第1交響曲の初期形態、つまり 交響詩「巨人」のそれを逆行させたものに近接するように捉えられるのではないかということはここで改めて述べておいてもいいだろう。


しかしそうした捉え方の下でも、「涙が出そうになるくらいの、哀愁とノスタルジー」に終始しない異なる明確な動性を備えているということは 明らかだし、仮に乱暴な単純化をして第5交響曲を退嬰的な後ろ向きの音楽であると総括したところで、そうした位置を占める第5交響曲が マーラーの創作の全てではないから、マーラーの音楽が総じて「涙が出そうになるくらいの、哀愁とノスタルジーに満たされ」た音楽、 「廃墟と化した世界におのずと立ちのぼるある種の普遍的な感情としてのノスタルジーの感覚」に満たされた音楽であるという主張は、 第5交響曲のアダージェットについての主張を第5交響曲全体に、そしてマーラーの作品全体に不当に広げたものであるという疑念は拭い難く、 実際の私の聴経験とも一致しないのである。


それならば更に一歩下がって、マーラーの音楽がロマン派の棹尾を飾るものであり、その音楽は滅びてゆく世界の過去の輝きに対するノスタルジーなのだ、 といった見方はどうだろうか。だが、この主張もまた、マーラーの音楽を後世の人間が眺めるときの展望の一つに過ぎない。勿論、そう捉えたければどうぞお好きに、 という他ないし、そういう展望でマーラーを捉えることこそマーラーを今日聴くことの意義を保証するのだと言われれば、そうした他人の展望にケチをつける つもりもないのだが、一つにはそのような音楽史的・文化史的な展望への還元は個別の作曲を、結果としての作品を少しも救い出さないし、 ある時代においてある人間が選択した姿勢なり態度なりをあまりに軽視しているとしか思えない。歌劇場の監督であり、 コンサート指揮者でもあったマーラーは、過去の音楽にも同時代の自分以外の音楽にも現場で接していたし、音楽史的な展望を持っていたのは、 マーラーが行ったコンサート・シリーズの企画などからも窺えることだが、シェーンベルクの音楽に未来を託した彼が自分の音楽を行き止まりであると 考えていたとは思えないし、幸か不幸か第1次世界大戦すら知らずに没したマーラーは、自分が属した(とはいっても、3重の異邦人としてという マージナルなあり方でに過ぎなかったのだが)秩序が崩壊していく過程とその帰結を(例えば第2次世界大戦の惨禍に直面して「メタモルフォーゼン」を作曲することになったシュトラウスのようには)目の当たりにすることもなかった。


だからマーラー自身と、マーラーの音楽の同時代における意義はおくとして、今日の我々にとってはそれは「廃墟と化した世界におのずと立ちのぼるある種の 普遍的な感情としてのノスタルジーの感覚」を惹き起こす音楽であるという主張に対しては、そういう聴き方も可能かもしれないし、そうしたければどうぞ という他ないのだが、そのようにマーラーの音楽の聴取の仕方を規定しておいて、他方で「マーラーの交響曲を念頭に置いて」「世界は、人間中心的な 意味づけから解放されなくてはならない。今こそそれを知る必要がある。」という主張を行うことは、マーラーの音楽に対して正当な態度とは思えない。 それは自分である見方を対象に押し付けておいて、自分が押し付けたに過ぎない見方によって対象を断罪しているに過ぎないではないか。


断っておくが、私は「今こそそれを知る必要がある。」とまで言うつもりはないが、「世界は、人間中心的な意味づけから解放されなくてはならない。」という 主張自体に異議があるわけではない。否、東日本大震災とそれによって生じた原子力発電所の災害の渦中に未だにいるのであれば、 「今こそそれを知る必要がある」と言いたい気持ちもわからなくはない。もっとも今更、手のひらを返したように「今こそそれを知る必要がある」といった 言い方をするのは随分御目出度い発言のように感じられるというのが正直な気持ちではある。しかもそう言っておいて、震災後に聴取の仕方が 変わったと言われるのが、そうした「人間による意味づけからの解放」の音楽であるカンチェリに対してではなく、彼の世界観と「対極にある」とされる シルヴェストロフの「涙が出そうになるくらいの、哀愁とノスタルジーに満たされ」た音楽に対してなのだというのだから戸惑ってしまう。主張とは裏腹に、 それまでは懐疑的であった「人間中心的な意味づけから解放され」ない側の音楽に対する評価が高くなったと言っているに他ならないのだから。


そしてまた、一方ではカンチェリの音楽を「対話的宇宙」と性格づけ、それを説明するために、2つの人格である「我‐汝」の間の対話の思想を 展開したブーバーの名前を引用しておきながら、「世界は、人間中心的な意味づけから解放されなくてはならない。」というのは、端的に矛盾しているか、 さもなくば大幅な説明不足であって、そんな論理的な飛躍を自明のこととして、その間隙を埋める作業を読者に強制するのもまた不当なことにように 感じられてならない。もし対話の一方の主体を非人格的なもの(「世界」でも「宇宙」でも好きに名付ければよい)とするのなら、ブーバーを参照するのは ミス・リーディングにしか感じられないし、対話が(そのように取れる記述も見られるから)作曲者と聴き手の間のそれであるとするなら、そうした対話と 「人間中心的な意味づけから解放されなくてはならない」とされる「世界」との関係の如何、更には総じて「対話的宇宙」で名指されているものが 一体何であるか、全く明らかではない。しかもここでは「暴力」のみならず「ノスタルジー」もまた「世界」に帰せられているらしいのだ。


文学の世界ではこうした修辞や表現は許容され、寧ろ顕揚されさえするのかも知れないが、残念ながら私にはその意味を正確に捉えることが著しく困難であり、 これを「ガイドブック」として向かい合うことが求められている音楽祭に参加する資格など自分にあるとは思えない。そればかりか、少なくともカンチェリの音楽を 理解することなど全くの不可能事にさえ思えてくる。個人的な経験を言えば、カンチェリの音楽は30代に差し掛かる直前のある時期、全ての交響曲、 ヴィオラ協奏曲「風は泣いている」や、「亡命」「詩篇」といった幾つかの作品を聴いたので、ここで参照されている作品についての聴経験は持っているはずなのだが、 その経験も、この「ガイドブック」の発言内容を理解する助けにはあまりならないようだ。


あるいはこういうことなのだろうか。カンチェリの作品は確かに暴力的とも形容できるような大音量の音塊が響くブロックと、哀歌的な旋律がきれぎれに 継起する静かな部分が、西欧の音楽からすれば全く非有機的な仕方で交替するような構造を概ね備えているという言い方は可能だろう。 そしてその交替に脈絡のなさを見出し、ある種の単調さを感じる人も少なくないだろう。その音楽の時間方向の脈絡は、主体の外部から到来する イヴェントに支配されているかのようで、主体は受動的である他ない。そういう意味ではこの音楽の世界は「人間中心的な意味づけから解放されている」という観方もできよう。 一方で、だがそうした音楽はそれでもなお作品であり、カンチェリという人間が組み立て-作曲したものである。単調さや脈絡のなさは、カンチェリによって 選び取られたものなのだ。だがその一方でカンチェリは作品の中に「ノスタルジー」をも埋め込むことで、聴き手に対して対話の余地を残していると言うことは できないだろうか。もっと言えば、暴力とノスタルジーが交替する作品を提示することによって、人間中心的な意味づけを拒む世界とともに、それに対面する 人間の反応としてのラメントをも差し出すことで、聴き手との対話を試みているのだ、と。


(もっとも、著者の提唱する二分法によれば、カンチェリもシルヴェストロフもどちらも有機的であって、ここでは対立はないことになるらしい。一方で、 ベートーヴェン的=求道的・構築的、モーツァルト的=道草的・非構築的という軸では、カンチェリは前者、シルヴェストロフは後者で対立することになっている。 ただし有機的であることの定義は一切なされないから、そもそも異論を唱えることすらできない。求道的、構築的にしても同じで、例えばペルトが シュニトケと並んで求道的・構築的に分類されているのを見ると、それぞれの意味もさることながら、求道的と構築的を一緒に押し込んだ分類に 一体どういう意義があるのか疑問に感じられる。もっと謎めいているのはキリスト教・非キリスト教の軸である。例えば、第14交響曲を書いたショスタコーヴィチがキリスト教タイプに分類されるかと思えば、ユダヤ人ではあるがロザリオの祈りを構造的な支点に持つ第4交響曲を書き、それ以外にも 典礼文に音楽を繰り返しつけていて、例えば翻訳もあるイヴァシキンとの対談においても自分からカトリックや正教への信仰を巡って語っているにも関わらず、 シュニトケは非キリスト教タイプとされる。同様に、タタール人ではあるが正教徒であり、やはり受難曲や復活に因んだ作品を作曲していても、 グバイドゥーリナもまた非キリスト教的と分類される。ちなみにカンチェリはキリスト教タイプ、シルヴェストロフは非キリスト教タイプに分類されている。 この2人に対しては以下にも述べるようにその音楽が(非音楽的な礼拝行為のような性格を帯びているかという観点から)宗教的・非宗教的を分類すると 読みかえれば概ね妥当だと思うが、それは「キリスト教的」かどうかとは別の水準の議論だし、他の作曲家の配分を見る限りでは分類基準は私には 全く不明であって恣意的で勝手気儘なものにしか思えない。一体、基準が明確でない二分法の組み合わせが「ガイド」として何の役に立つのか 私には理解できない。読者の反応を気にして釈明をする以前に、定義を示すべきなのではないか。)


一方で、もっと単純に、カンチェリの作品が儀礼的な側面を備えていること、そういう意味でそれは人間的ではない何かに対する語りかけであるというふうに 言うことはできるだろう。それはだが、端的に「祈り」と呼ぶべき行為なのだ。つまりカンチェリの音楽は常に音楽外の行為的な価値を帯びている点に その音楽の決定的な特徴の一つが存しているように私には見える。そしてそうした側面は、カンチェリの作品の内容をも浸食しているのだ。 祈りは常に人間のものであり、祈りの行為には必ず祈らずにはいられない人間の感情や情動が影のように付き纏う。そうした側面こそが カンチェリの作品に或る種の暖かみを与えているのではないかと考えることはできるだろう。


だとしたらそれは「対話的」なのではないだろう。それは人間的な祈りの所作であり、聴き手は聴くことによってその祈りに参与することが可能であるに過ぎない。 勿論、「我-汝」の関係を祈りの対象との対話、神との対話として考えることもできるだろうし、実際ブーバーの思想が由来するハシディズムの伝統では そうなのかも知れない。だが、カンチェリの音楽の相貌からは、寧ろ私なら我と汝の対話を主張するブーバーよりも絶対的他者としての神との分離を説く レヴィナスを思い起こすところだ。実際にはグルジア人であるカンチェリはいずれとも直接の関わりはないのかも知れないが、例えば彼の別の作品、 アルバム「亡命」に含まれる幾つかの作品で選択されたパウル・ツェランの詩はブーバーのハシディズム的な対話の世界からは遠く隔たっている。誰でもないものへの祈りであるそれは、 寧ろ対話が拒まれた世界との(非)関係における祈りの(不可視の)共同体への絶望的な希求なのではないか。それは「ぼくとあなた」の対話などでは 決してないし、そこに世界が割り込むのでもない。ここで「亡命」を、ツェランの詩を参照することの妥当性については議論があるかも知れないが、 いずれにせよ最初にも述べたように、カンチェリを巡る「ガイド」の記述は、私にはそれこそ「支離滅裂」にしか感じられない。


ともあれそう考えれば、世界観が対極にあるかどうかはおくとして、少なくともシルヴェストロフの音楽がカンチェリの音楽と異なった位相にあることは間違いないだろう。 シルヴェストロフの音楽には祈るべき超越的な他者が欠如しているのだ。レクイエムと題された作品ですら、それは祈りではない。寧ろそれは主体の世界に 対する反応(例えば親しい人間の死という出来事に接したときの感情や情動)を音楽的に定着したものであり、私的で独我論的といっても良い ような記録なのであるが故に、自律的で、音楽外的な機能を持たない純粋な音楽でしかない。だがこのとき、カンチェリにもシルヴェストロフにも適用される ノスタルジーという語の用いられ方は、ほとんど無意味に近づくほどにまで拡張されてしまっているように思える。「ロシア音楽」(だが、カンチェリは西欧に 亡命したグルジア人であり、シルヴェストロフはウクライナ人、更に言えばシュニトケはヴォルガ・ドイツ系ユダヤ人、グバイドゥーリナはタタール人、ペルトはエストニア人で、ここで対象となっている二名のみならず他のいずれの作曲家もロシア人ではないのだが、、、)の特徴を一言で要約することが要求される音楽祭のキャッチコピーによって、 暴力的に一くくりにするという目的以外にそれを敢えて同じ語で呼ぶのは必要性があるのだろうか。勿論、両者に共通性を見出す立場も可能だろうが、 実際に対極にあると主張するのであれば、その主張に応じて、いっそのこと別の語を用いるべきだったのではという疑念は避け難い。 もっとも実際の適否を判断するのは私の手に余る作業である。私はその両者の作品の全体を、個別の作品のではなく、作品に共通する作者の 世界観の違いを判別することが可能な程度に知っているのは到底言えないからである。だが、この点においてすら、この「ガイド」のこの部分について、 数えるばかりの実演と、「乏しい」と著者自らが述べるCDのコレクションと(音源の著作権に照らした投稿の合法性について疑念がある場合が 少なくない)YouTubeの音源に基づき、代表作かどうかも自分では判断できない、ごく限られた作品しか案内できないと断り書きがついているので あれば、著者とは見解が一致することはないのだろう。結局のところ私自身はシルヴェストロフは関心はないし、カンチェリにしても関心はそんなに強固なものではないので、 この点についてはもうこれくらいで十分だろう。


だがしかし、そうであるならばマーラーについてはどうなのか。既に述べたようにマーラーの音楽そのものは典礼的な目的で書かれたわけではないが、 にも関わらず、テキストにキリスト教的なものが含まれる作品以外でも、総じてその音楽には奉納といった側面が確実に存在しているように私には 感じられる。コンサートホールでの交響管弦楽の演奏を想定されてはいるが、委嘱を受けて書かれたわけではないそれは、名人芸の披露のため、 あるいは聴き手の娯楽のため、消費されることを目的として書かれたのではない。内容においても、際立って主観的と見做されるにも関わらず、 それは作曲者の個人的感情の吐露といったレベルでは捉えることができず、寧ろ或る種の世界観の提示(ただしそれを主題とているのではなく、寧ろ、世界を構築するシミュレーションと捉えるべきだろう)、認識の様態を開示するようなものだ。 そういう意味では疑いなく哲学的であり、広い意味での宗教性を帯びていると言ってよいと思われるし、少なくとも音楽が手段として用いられる 音楽外の契機が音楽を基礎づけるといった音楽のあり方において、カンチェリに近接するようにすら感じられる。


その作品は歌謡的な旋律に富んでいて、一見形式的に弛緩しているように受け止める向きもあるだろうし、複数の音響層の併置や 空間的な音響構成など、伝統的な作曲法からすれば構築的とは言いがたいが、全般的には全音階法的な和声と線的な書法に支えられ、 意識の流れを思わせるような散文的な時間的構造を備えており、有機的な音楽と言ってよいだろう。


またマーラーの音楽はヘーゲル的な「世の成り行き」(Weltlauf)とそれに対する主体の(必ずしも意識的な部分に限定されない)反応といった図式に従っていて、 現実的な外部が契機として明確に存在するし、そうであるが故に、他面において超越的なものへの眼差しにも欠けていない。 意識の音楽としてのマーラーの音楽には、時間論的に回想に相当する機能を果たす箇所が認められるが、それはあくまでも一つの契機に過ぎず、 その作品の構造をそれのみで規定するようなものではない。従って、マーラーの音楽をノスタルジーの側面のみから捉えるのは、 マーラーの音楽自体にとっては著しく一面的でバランスを欠いた見方であると考えられる。


その一方で、マーラーの音楽には様々な性質の非人間的な契機の侵入が明らかに認められ、従ってマーラーの音楽を専ら「世界の人間的な意味づけ」として捉えるのは、 これもまた不当な単純化であると思われる。だが同時にマーラーの音楽は、「世の成り行き」に対する主体の反応であると見做せるし、 人間が儚く有限の存在であることを認めた上で、そうした人間の主観性の無限への憧れを擁護し、卑小な人間の反応の過程を音楽として定着させる志向を 備えているという点で、人間的な地平に縛られた音楽であるともいえるだろう。それは人間中心主義的ではないが、にも関わらず人間的な音楽なのだ。 総じて主観の極が廃棄されることはなく、全面的に非人間的な秩序ないし法則、あるいは暴力の反映になりきることはない。 そして3.11以降の今であるからこそ、(それには心理的には大きな困難が伴うことを私は経験しているし、今でもそれはしばしば困難であり、 もしかしたら私が存続する限り、もうその困難から解放されることはないのかも知れないが、そうであれば寧ろ、尚更)マーラーの音楽を聴き続ける必要が あると感じているのは、それが「世の成り行き」の前で無力な人間の立場に立った音楽だからなのだ。 アドルノも言っている通り、マーラーの音楽は敗残者のためのバラードであり、自由を奪われた状況においては幽霊の行進でしかなくとも、弱り果て、 もの言わぬ自我たちに表現の道を用意し、救おうと手を差し伸べるものであり、「レヴェルゲ」(目を覚まさせるもの=幽霊)なのだ。


従って、あえて「ラ・フォル・ジュルネ・オ・ジャポン2012」公式ガイドブックに抗して言えば、今こそ必要なのは、人間的な意味づけからの解放などではない。 確かにマーラーは過去の異郷の音楽であるけれど、そうした時代と空間の隔たりを越えて、常に人間が直面せざるを得ない、人間的な意味づけがいとも 容易に崩れてしまうという現実のさなかにあって、繰り返し人間的な意味づけを恢復することに誘うような音楽なのだ。恢復は懐古でないのは勿論、復旧でもない。 意味はその都度、改めて獲得されなおされなければならないものであって、決して自明で不変なものではない。そして恢復のためにはノスタルジーが契機として 必要であったとしても、ノスタルジーに自閉するのではなく、現実に立ち戻る必要がある。疲労困憊していたとしても、更にはそれが運命に対する或る種の「反逆」であり、 勝ち目のない戦いであったとしても尚、移り行くものに留まるほかない者は外部に向かって働きかけ続けなくてはならないのだろう。「私が人生の終焉まで 休むことなく活動すれば、現在の生存形態が私の精神をもはやもちこたえられなくなっても、自然はかならず私に別の生存形態を与えてくれる筈だ」という マーラー自身の発言を、その音楽は裏切らない。ここに引用したマーラーの言葉は、マーラーの時代にあっては「霊魂の不滅」という議論の枠組みでしか 語られることはなかった。だが、マーラー自身はそうした時代の制約の中で、ゲーテに依拠しつつ、彼の時代の自然科学の動向にも留意しつつ、 音楽という手段(そう、ここで音楽は手段であり、音楽外の契機が侵入していることをもう一度確認しよう。音楽は自律しているかわりに他の人間の活動から 孤立した営みではないし、そうした人間の活動もまた、世界の中で孤立して、自足しているわけではないのだ。)を用いて定着させた。100年後の異郷に 住む人間は、そうしたマーラーの志向を継承し、今、ここでの展望から、更には未来のポスト・ヒューマンの展望から、かつて「魂」と呼ばれたものや「精神」と 呼ばれたものを改めて定義しなおし、「霊魂の不滅」を別の仕方で扱うことができるし、そうすべきなのだ。マーラーの音楽はそうした不断の、終りなき 活動への誘いなのである。


その一方でマーラーの音楽は暴力的な世界に対する徹底的な覚醒を強いることはない。「お休み」と言うことはここでならまだ許されているのだ。 ここでは回想だけではなく、眠りにより意識の中断すら許容される。主観性の擁護は、無意識的なものの排除を意味しない。 そしてそういうマーラーの音楽は意識的な主体の限界を超えた奥の部屋からの声を 聴き取るように誘う(「おお、人よ、注意せよ!」)のであり、三輪眞弘さんの言う「人間ならば誰もが心の奥底に宿しているはずの合理的思考を越えた 内なる宇宙を想起させるための儀式のようなもの、そこには自我もなく思想や感情もない、というより、そこからぼくらの思考や感情が湧き出してくる、 そのありかをぼくらの前に一瞬だけ、顕わにする技法」なのであって、それゆえ100年の隔たりを経た後、今なお、それに感動することができるし、 GWの余暇のための単なる「イケテナイ娯楽」ではない何かであり続けるのだし、それゆえ、どんなに拙いものであったとしても、その音楽に自分なりに 応答するための時間を贈与すべき対象なのだ。その音楽を擁護するという行為そのものによってさえ、かつまた卑小で無価値な私のような聴き手さえもが、 自分に勝りたるもの、自分の有限の生命と取るに足らない能力が能くしうる限界を遥かに超えた価値、最早人間の概念が止揚されるような場、もはや 私のままでは関与できないようなものにコミットし、寄与することを確信できるような何かをマーラーの音楽は備えている。人間的な意味づけの擁護、 主観性の擁護を介して、それを徹底することによって人間的な意味づけからの解放を希求する動きこそ、マーラーの音楽の備えるもっとも基本的な 志向なのだ。そして私はそのことを、自分のマーラーの聴経験に照らしてここに証言し、かつそうしたマーラーの音楽とともにあることをここに証言する。


(2012.4.30/5.1初稿, 2021.6.24,29加筆修正, 2025.3.6 改題の上、再公開)

マーラーの音楽が語る「世の成り行き」との関わりについての断想 (2025.3.6 再公開)

 行進曲、カッコウの鳴き声、ファンファーレ、聖歌は記号として、そしてそれ以上に文脈を引き込むものとしてアトラクタの様なものとして、存在する。単なる記号ではないのは、それが実際に行進、野原、祈りという「内容」を形作るからで、単に~をあらわす記号、~というものをピンで留めている訳ではないからだ。

それは多分、音楽の「意味」といってしまって良い。意味の領野が成立しうる様な音楽、自我の音楽。 意味は目的であったり、方向であったりしなくても良い。意味と前意味のあわい、記号の持つ意味とは異なった。 だが、単純な感覚質に比べたらはるかに構造化されたものの構造。

それは創作の極における形式への批判的取り組みや、調性についての批判的な見直しでは直接にはない。それらもまた、実現された音楽のうちに刻印されていなければ、単なる作者の意図と言う名の素材に過ぎない。

音楽的な経過を言語による物語に「翻訳」してしまうこと。近似的変換として、あっても良いが、しかし、それでは恣意性が高すぎる(もっとも、劇音楽における描写のように、そのような翻訳がなされるべきであることも、正解が存在することもあるだろうが。) また、或る種の分析のように、結局のところ「~的」という特徴のリスト(しかもしばしば驚くほど短いものでありうる。)に還元することにしかならない分析もまた、不毛であろう。そうしたリストは―それが数十から数百にもなれば、そして測度が適切に入るならば、有効なものになりうる可能性だってあるのだが―一般には、印象批評と結果だけ見れば変わるところはない。

それでは音楽的時間の擬人化についてはどうか。音楽はオブジェだから、根源的時間そのものではありえない。擬人化の由来は、音楽に対するTriebの結果だという主張は?音楽的時間の「理想化」、人間に―日常的時間に―喪われた時間の意味を返してくれる擬似根源的な時間?

多分、擬人化は正しい。だが理由は安直に一般化できない。それは享受の極で(そして恐らく自我の音楽なら、創作の極でも)行われうる、或る種の代償行動(現実には実現可能でないことをfictionの中で実現することで満足を得るといった類の説明)に還元してしまうことになる。 それが全く無とは言わないまでも、それは起こりうる事態のほんの一部でしかないだろう。そもそも人は、そのように音楽に出会うとは限らないし、仮にそれに現実を代替する機能を認めたとして、その代替は必ずしも代償として機能する訳ではない。そもそもその光景は初めて聴き入る子供にとって未聴のものであるかも知れないではないか、、、(アドルノがマーラー論で語っているあの経験を参照せよ。)

また近代音楽の批判、現代音楽の近代音楽に対する批判的機能についても留保が必要だ。確かに現代音楽は、自明性の前提を崩すから、批判的な機能は持ちうる。だが、それが近代音楽の持ちえた豊かさと同等のものを保証するわけでも、それ替わる、それに釣り合う別の何かを自動的に保証するわけではない。 (だいたい、ここでいう批判の機能は、近代音楽であるマーラーの音楽が、その時代に持ちえた機能と何ら変わることはないではないか?本当に、近代と現代の対比は意味を持つのか?ここでいう批判の機能は、或る種の音楽が時代を問わずに持ちえる、などということは考えられないのか?近代批判を近代に無批判にのっかってやっていることにはならないだろうか?)そもそも、その批判は人を「音楽ではないもの」に向かわせる可能性だってある。それはそれでも構わない。だが、これはまた、一つのイデオロギーに過ぎない。

不思議なのは、もし「世の成り行き」との葛藤がなかったとして、あるいはそこから逃避したとして、そこで表現するものがまだ残っているという事だ。―勿論、理想的な、あるいは理念的な秩序、法則性を、世の成り行きから抽象して表現する、ということがあるのかも知れない。例えばそれが「自然」であったりする、、、逃避の対象が実現される当のものである、という循環は、どこにでもあるようだ。一方で、作曲家はやはり音という素材に向き合うという側面がやはりあるようだ。構築するにせよ、構築することを拒んで、寧ろ「見つける」という姿勢をとる(cf.Feldmanの場合がわかりやすい)にせよ、音に対峙するという位相、表現云々の問題以前に、素材として目の前に音がある、という側面が在る様だ。特に「世の成り行き」から身をひいた音楽の場合には、そういう契機があらわになるようだ。―例えばオペラのために脚本に音楽をつけるという場合と異なって―「何のために」が与件として存在するわけではない。音を手段として、表現する何かがあるわけでもない。そういった意味合いでは、それが「世の成り行き」から強いられた―注文による―のではないとはいえ、マーラーの場合には「何のために」は、多くの場合、暗黙の与件だったように思われる。―つまり、世界を包含することがそれだ。音楽は「手段」である、という意識があった。ところが「現代音楽」の場合、音楽は手段ではなく、それ自体、目的のようだ。だが、それはやはり危ういものではないか?

そもそも語りの衝動はどこから来るのか?そして聴取の衝動は?―これは「まずは」心理学的な問題だろう。現代音楽こそ、「世の成り行き」からの逃避ではないか?と疑ってみることは不当なことだろうか。あるいは、さまざまな逃避のかたちだけではないのか?、と。音の聴取そのものを問うラディカリズムもまた、「世の成り行き」との関わりからすれば、ある種の逃避、疎外の果ての姿ではないのか?

だとしたら、単純に、近代音楽を批判することはできないし、マーラーのようなあり方(「世の成り行き」との関わりに満ちている)を、時代遅れといって批判するのは見当はずれだ。

別に「現代音楽」が聴き手から遊離していることを問題にしているのではない。音に対する姿勢へのこだわりという位相に自明の事として―あるいは積極的にラディカルな立場と自分で思い込んで―住まうこと、それが寧ろ逃避の極限として、だから対立するものというよりは寧ろ、同じもののより徹底された姿として映るということだ。そこには、セリエリズムか、それの否定かという区別は大して意味をもたらさない。音に対するつきつめが、どのような社会的条件のもとで可能になるのか、あるいはどういった心理的機制のもとで生じるのか。(セリエリズムに疲れ、音を聴くことを選んだシェルシを思い浮かべても良いだろう。あるいは―全く別の事例として、ティンティナブリに至ったペルトを考えても良いだろう。一方の極として、フェルドマンやケージのようなアメリカの、アメリカならではの実験的なスタンスを考えても良い。)

一方、例えばマーラーにおける世界の暴力的な相貌は、自我の、主体の側の態度のエコーではないのか? マーラーの場合は、世界は、彼が世界に対して暴力的な分だけ暴力的なのではないか?と疑ってみることもまた、可能だろう。 (だが多分、これは言いすぎだ。常に世界の方が主体より強く、主体は敗北するのだから。)

では、現代音楽が拒絶したかに見える、そしてマーラーにおいては満ち溢れているかに見える「うた」、人間的な主体の表現であると普通には見なされるであろう「うた」についてはどうなのか?

「うた」の問題はマーラーの歌曲において躓きの石となる。本来「うた」は主体の側にあるはずなのに、マーラーの場合にはそれはズレを孕んでいるかに感じられる。マーラーの「うた」は寧ろ客観の側にあって、作曲主体はそれを書き留めて作品として証言しているかにさえ見える。それでもなお、結局、 マーラーの場合は「うた」の優位は一貫しているといって良く、「うた」を介した「世の成り行き」との関わりは、それがどんなに緊張を孕んで、破綻に近づいたとしても、どこかに受容と共感の余地を残している。マーラーの場合、主観が没落するのさえ「うた」の圏内でなのだ。それは和解とか宥和を導くものでは最早ないが、「世界」を眺める主体の眼差しが消え去ることなく残っていることを告げているように見える。(バルビローリの第9交響曲の演奏におけるフィナーレの末尾を思い浮かべよ。それに図像学をあてがって「主体の死」の描写と決めつけることを、その演奏は拒絶しているかに見える。)

実際に世界との関係は破綻しない。破綻は楽曲においても表現の対象だ。破綻は形成自体には起こらない。そこでは破綻が形式化される。カオスや相転移が記述されるように。そして暴力に満ちた客観ということでいけば、マーラーとクセナキスの距離を考える必要がある。クセナキスの場合でも、勿論そこには法則がある。だがそこには「うた」の共感的次元はなく、あるのは人間の尺度を超えた、人間を玩具のように弄ぶ気まぐれな世界の相貌に過ぎず、そこでは主体は安全ではない。 まるでその都度賭けが行われているかのようだ。「世の成り行き」に対する「別の仕方で」の関わりとしてクセナキスを考えることができるだろう。

いずれにしても、音楽を聴くとき、何が起こっているのか、音楽の個性とは何かを、具体的な事象に対する具体的なモデルによって記述することは、全く手付かずで残っている。でもだからといって形而上学的な時間論に耽っていて良いということにはならない。 様々な時間論を渉猟して博学をひけらかしたり、レトリックを連ねて気の利いたことを言ったところで、実質的には何も進まない。 (そもそも「音楽的時間」という切り出し方そのものがすでに抽象的だ。重要なのは個別の時間の分析なのに。) 単純化も不可能だ。それはマーラーのような極めて多くの文脈の上で成り立ち、それ自体が複雑な脈略を持つような音楽の説明になりうる保証がない。 勿論認知的なモデルを作ること自体は必要だが、一般的なモデルで十分だというわけではないだろう。

例えばマーラーの場合なら、「世の成り行き」との関係の転送とか感受の伝達というのを想定することができるだろう。だがそれは、どこで起きたのか、本当に創作の極で起きたのか?(何も起きなかったということはあるまい。)いずれにせよ、「作品」には刻印されている。(ところで、作品についてはLevinasのoeuvreの概念を参照せよ。)世の成り行きから身を離すこともできる。しかも色々な仕方で。勿論、身を浸すこともできる。(オペラの作曲を考えてみれば良い。ドニゼッティのように良心的に注文に応じて音楽を量産しつづけた人もいるのだ。)マーラーが興味深いのはその「世の成り行き」との関係の作品上の表われだろう。そして件の不変項、取り出されるべき構造には勿論、この「世の成り行きとの関係」が捉えられているべきである。世界と自我の関係といい、意識の音楽といい、そのような言語で記述しようとしてきた側面こそ、取り出さなくてはならない当のものだ。

脳の可塑性、文化の相対性からいっても「自我」というのは普遍的なものではありえない。それは、ある文明の、ある歴史的エポックに固有の、ある組織化の様態なのだ(ジュリアン・ジェインズの二分心と、レイ・カーツワイルのシンギュラリティを思い浮かべよ。「自意識」を備えた「自我」は、二分心崩壊以降・シンギュラリティ以前のエポック限定の心の様態に過ぎないのだ)。だが、それを認めたところで、ここでの問題は変わらない。何も一般的な図式、普遍的な構造が手に入れたい訳ではないので。

ここでの目標は、物理学のそれに近いといって良い。雲や水流のような現象の記述と同じような姿勢で、音楽、しかも個別の、外延が定義された音楽についての記述を探求するのが課題なのだ。文化的な対象について、一般的な学を構想すると、途端に対象の範囲の曖昧さが出現して、それに足をとられてページ数を費やすことが多いが、ここでは、まずは対象は比較的良く定義されている。(それでも版の問題や未完成の第10交響曲の問題等もあるが。)だがそれは音響の継起の客観的な記述にとどまってはならない。そこには音楽はなく、そうした音響の継起によって(作曲者・演奏者も含めた)聴き手にどのような影響を与えるのかが問われなくてはならない。

だがその場合でも、クオリアというのは狭義の感覚質を指してしまう様で、些か問題がある。音楽が惹き起こすのはより身体的、情態的な反応だ。そうした反応パターンを含めて質を考えてやる必要がある。クオリアを、音響を聴覚で知覚することに限定するのは、多分抽象なのだ。そもそも喜び悲しみetc.というのは、狭義のクオリアとは別の、身体的、生理的な反応だ。

問題は、音楽を聴く、特にマーラーのような音楽を聴くということが、あるレベルで何であるかを示すことだ。音楽が「思想」を表すことは可能か?何か法則性を表すことができるだろうか?(法則に従うこととは別だ。)音楽が、何かを伝達するという言い方がされる。けれどもここでは、送り手、受け手は必ずしも明らかではない。 恐らく音楽は、言葉を使ってのように思想を表すことはない。(あくまでマーラーの場合は) だが直接に、何か感受の様式を、ある情態性を、転送する。あるいは聴き手の裡に構成することを可能にする。 感受の伝達の媒体なのだ。 例えば、音楽外のある出来事の経験をしたとき、その経験の構造、感受の様式のあるパターンがある音楽によって構成されたものに近い、ということはあるだろう。 自我の形成期に音楽を聴くことによって、脳内にあるパターンが形成されると、それが音楽外の経験をしたときにアトラクタとして働く、ということは大いにありえそうだ。 勿論、新たなパターンが作られることの方が多いだろうし、音楽の作るパターン自体も、安定したものであり続けるわけではないだろう。 だが、そうした経験の空間の形成の初期条件、canalizationとして、ある他者(=マーラー)の感受の伝達の結果が用いられるというのはあるだろう。 逆にショスタコーヴィチのように、後から、自己の経験の対応パターンを音楽の聴取に見出すこともある。

さまざまな音楽。ある個体の受容についていうのであれば、いつその音楽に出会ったのか? 音楽には言語における母語と第2言語の習得のような差異はないのだろうか? 新しい音楽、異なるタイプの音楽に出会い、その仕組みを理解し、そこから何かを学ぶことはできる。 だが、それを表現の媒体とすることについてはどうだろうか?あるいは表現されたものを受容するという過程については?

一方で、可塑性を信頼する立場もある。何歳になったら言語の習得が困難になるのか、 母語・第2言語の差異というのは結局、一般には程度の問題ではないか(私の場合はそうではないが) 母語以外を表現の媒体とすることだって可能ではないか、と考えることもできる。

その一方で、あるシステムが他のシステムよりも合理的で強力だ、ということはないだろうか。 そうだとしたら、これはどちらを先に受容して、内部のネットワークを形成したか、という問題ではない。 今度は可塑性が力を発揮する。そして、あるシステムはその可塑性をより発揮させやすいシステムを持っている、etc. あるいは、作品を作る仕組みとして強力であるがゆえに、より力を持つ作品が作られやすい。 ある文脈、ある目的のためでない音楽、というのが可能なこと自体、そのシステムの強力さを表していないか?

勿論、ある個体がそうした強力なシステムを受け容れるか、拒絶するかは別の問題だ。

(2006.9, 2025.3.6 改題、大幅に加筆の上、再公開)

2025年3月5日水曜日

マーラー作品のMIDI化状況について(2025.3.5更新)

既に別のところでも何度か記していることであるが、専門の研究者ならぬマーラー愛好家にとって、近年のインターネット環境におけるコンテンツの充実は目覚しいものがある。権利が切れた出版譜が`PDF化されて自由に閲覧可能になったり、歴史的録音がmp3のフォーマットで無償で入手できるようになったかと思えば、いよいよ自筆譜についても、その一部については既にスキャンされた画像が公開されるようになってきており、同様にpdf等のフォーマットで入手できるようになってきている歴史的研究文献ともども、これまではアクセスが困難であった情報に容易にアクセスできるようになってきている。

ところで、そうしたトレンドと並行して、マーラーの作品をMIDIのフォーマットで入力して、MIDI音源で再生できるようにしようという試みが為されてきている。アコースティックなオーケストラがコンサートホールで演奏することを想定したマーラーの音楽を電子的に再生するという姿勢の是非について議論はあるかも知れないが、広く別の媒体での演奏というようにとってみても、それまではせいぜいが、ピアノ・リダクション(2手、4手連弾、2台ピアノなど、これまた色々な形態の編曲がされてきているが)や室内楽編曲が行われたくらい、しかもレコード、CDといった録音・再生技術やテレビ・ラジオといった放送技術の発達前で実演以外だとピアノや室内楽で自ら弾くしか作品に接する手段がなかった時代でこそ需要があったが、その後は寧ろそうした編曲版は半ば忘れられた存在となり、逆に近年になって、受容の多様化の現われとして、通常のオーケストラ版では飽き足らなくなった層向けに室内楽版やピアノ・リダクション版のCDの録音・販売がされるようになったり、あるいはピアノ編曲版がいわゆる「オリジナル」に比べて価値的に一段下に置かれるといった価値基準からは自由な立場から、ピアノ・リダクション版のツィクルスが行われるようになってきた(一つだけ実例を挙げれば、残念ながら私は聴く機会を得ないままだが、大井浩明さんが近年継続的に取り組まれている)ような状況だが、受容の多様化の一貫として、しかもマーラーの時代には全く存在しなかった新たな受容のあり方として、MIDIファイルへの入力の試みというのは大変に興味深いものがある。

私見では、MIDIデータというのは、楽譜の情報を変換したデータ、しかもそれを自由に分析、編集、加工することが可能な汎用のフォーマットとして非常に大きな価値があると思われる。マーラー自身もその伝統のうちにある西欧の音楽の伝統が築き上げてきた記譜法のシステムは、人間が読み取るためにはそれなりに合理的なものだが、その情報を加工したり、編集したり分析しようとしても簡単にはできないからだ。

寧ろ今後、コンピュータによる大量のデータの処理がますます一般的になるとともに、MIDIのデータの価値はますます増大していくのではないかと思われる。もしかしたら狭義のDTMの範囲を超えて、今後はMIDIデータが、様々な音楽情報処理の基盤としての意味を持ってくるようなこともあるのではなかろうか。(実は、私自身、今回MIDIファイルを調べてみようと思い立った理由というのが、マーラーの作品のある側面をコンピュータにより分析してみたかったからに他ならない。それならMIDIファイルを使うと良いというアドバイスを頂いて調べてみると、ことマーラーに限って言えば、正直に言ってここまで充実しているとは想像していなかった程に状況が進んでいることを確認して、大いに不明を恥じることになったような次第である。)

現実には電子的なメディアの常で、MIDI規格においても機種依存性の問題があるようで、仕方ない側面もあるとはいえやはり色々と弊害があって悩ましいことのようだし、実際に分析に使おうとしてみると、例えば、「音を鳴らす」観点からいけば不要な、付帯情報に過ぎない拍子や調号の情報は、必ずしも「楽譜通り」に入力されているわけではないようで、小節数にしても、必ずしも楽譜と一致するとは限らないようだ。多くの場合には恐らくは入力の便宜上、音価を倍にしたり半分にしたりということは行われているものと思われるし、稀にはシーケンサソフトの制限で、1ファイル1000小節という制限を回避するために小節数を調整する必要が生じたりということも実際に起きていると聞く。マーラーの交響曲楽章で1000小節を超えるのは、第8交響曲第2部だけなので、最後のケースが問題なのは1つだけのはずだが、別の作成者が第3番1楽章、第5番3楽章、第6番4楽章のような大規模な楽章についてはファイルを分けているケースもあり、類似した別の制限が理由なのかも知れない。(媒体もパラメータも異なるが、LPレコードにおいて、こちらは演奏時間に制約されるのだが、例えば第3番1楽章、第8番2楽章あたりは必ず片面には収まらないことから、途中で分割されていたのをふと思い出してしまった。)

小節数の制限についてのみ言えば、分析目的からすれば、寧ろ、分割して、楽譜通りに入れることが望ましいということになるが、本来DTMで「鳴らす」為に入力しているわけで、そうであれば、楽章の途中で切れるのは如何にも興醒めであり、そうした目的の違いを考えれば分析にとっては多少の制限がつくのは仕方ない側面もある。

音高や持続のような情報だけが分析の目的であれば問題にならないが、音色の次元を考えれば、今度はチャンネル数の制限がネックとなり、第8番のような作品を「正しい」音色で入れるのには困難が伴うのは容易に想像がつく。人間の奏者の持ち替えよろしく、同一チャンネルで音色を切り替える工夫等はごく普通に行われているだろうが、特殊楽器の利用、クラリネットなどの移調楽器の場合における、管による音色の違い、更には(弦のみならず管でも)ソロ・ユニゾンの差異が音色の効果狙いである場合(アドルノの言う、第4交響曲第1楽章の「夢のオカリナ」を思い浮かべよ)、弦楽器における線(弦)の指定、ミュートに留まらない特殊奏法の指定(フラジオレット、コル・レーニョ、バルトーク・ピチカート、、、)等々に忠実に従おうとすれば、音色のパラメータの方は切りがなさそうだ。更に加えてマーラーの場合、空間的な指定、ベルアップやら起立せよといった奏者への指示もある。これらは音響の変化としてよりも、膨大な発想表示、指揮者への注などと同様、コメントのような形で入れることになるのだろうか。

しかしながら、ことマーラーに関してMDI化にあたっての最大のネックは、「声」ではなかろうか。今日であらば初音ミクのようなヴォーカロイドに歌わせることは当然、技術的には可能なのであろうが、調べた範囲では、歌詞を歌わせたMIDIファイルは一つもなく、いずれも歌詞パートをある音色をあてて鳴らしているだけに留まっている。この状況は日本だけではなく 外国語の歌詞に対する距離感が違う筈の海外においても同じなのだが、主として技術的制約故であることを思えば、当然のことかも知れない。もっとも、網羅的に調べたわけではないので、どこかでヴォーカロイドに歌わせた例がある可能性は十分にある。しかし総じて言えば、「鳴らして聴く」目的のMIDI化にしても、マーラーが優れて人間の声の、歌の作曲家であるが故に、まだ途上にあると言うべきなのかも知れない。

[追記]ヴォーカロイドによるマーラーの歌曲の歌唱の例としてニコニコ動画のものについて本ブログコメント(以下のコメント欄を参照)にてご教示頂きました。情報の提供につき御礼申し上げます。取り上げられている作品は、「大地の歌」、「子供の魔法の角笛」の中の幾つか(「原光」「天国の生活」を含む)、リュッケルト歌曲集が中心で、最初期の「思い出」はある一方で、「さすらう若者の歌」からは「朝の野辺を歩けば」のみ、「子供の死の歌」はないようです。他方で第2交響曲の「復活」の合唱や第8交響曲第1部が取り上げられています。

以上のように少し考えただけでも、いろいろと制限はありそうだが、作品情報の「機械可読」な形式として、MIDIファイルのメリットはそうした制限を上回るものがあるのは確かなことであろう。

というわけで、マーラーの作品のMIDIファイルの状況がどうなっているのかを調べてみると、それはそれで非常に興味深い状況が見て取れたので、簡単に気づいた点を記しておきたい。

まず、マーラーの音楽はDTMの対象として、比較的ポピュラーなものと言って良さそうであるということ。作品の長大さ、編成の大きさを考えると入力の手間は大きいものと思われるが、にも関わらず、専らマーラーの作品のMIDI音源を紹介したページというのが幾つか存在する。

更に加えて、ことマーラーに関しては、寧ろ日本国内の方が入力が盛んにすら見えること。それを最も端的に物語っていると思われるのが、世界でも唯一のMIDIによるマーラー交響曲全集(「柳太朗」こと加藤隆太郎さんによる)の存在で、これを達成したのが日本人であることはおおいに喧伝されて良いことのように思われる。

以下、私が気づいた範囲でマーラーの作品のMIDIファイルがある程度まとまって公開されているサイトを紹介しておくことにする。ご覧いただけるとわかる通り、マーラーの作品の主要な部分のほとんどが既にMIDI化されており、大規模作品では「嘆きの歌」、歌曲では子供の魔法の角笛の数曲を除けば初期のピアノ伴奏歌曲を欠くくらいであって、その充実ぶりには驚かされる。他の作曲家の作品の日本における状況との比較などから、日本におけるマーラー受容のユニークな特質が浮かび上がってくるのではとさえ感じられる。

なお、より網羅的なMIDIデータの所在の情報については、別途、以下のページで画像ファイルとして参照・ダウンロードできるようにしているので、必要に応じてそちらも参照されたい。

https://gustav-mahler-yojibee.blogspot.com/p/midi.html

[2024.6.16付記] その後、思い立った時に以下に紹介したサイトが利用可能かについて確認を行っていますが、閲覧できない、或いは実質的に利用できなくなってしまったサイトが増えてきています(最新の状態で閲覧・利用不能なサイトには†を付けるようにしました)。マーラーの作品自体の著作権は失効していますし、マーラーの作品の楽譜のうち最近出版されたものではないものには著作権が失効したものが存在しますが、それらに基づいて作成された場合であっても、MIDIファイルそのものについては作成者の著作権は有効です。ここで対象としているMIDIファイルは無償でのダウンロードができるものに限られているので、ダウンロードしたファイルをダウンロードした個人が自分で利用する分には問題ありませんが、それを再配布(二次配布)ができるかどうかは作成者の判断次第であり、厳密には別途許諾が必要と考えられます。とは言え、許諾を得るために連絡を取れるものはそもそもご本人のサイトからダウンロード可能であるわけで再配布の必要性はなく、閲覧・利用不可能になったケースは、作成者と連絡の取りようがないため、実質的に再配布は断念せざるを得ません。以下でも確認できる通り、海外で作成されたMIDIファイルでは同一ファイルが複数のリポジトリサイトで公開されている場合がありますが、それも再配布を許諾した結果と見做すことは厳密にはできません。公共的な価値を考えれば、手元にあるMIDIファイルをダウンロードできるようにすることの意義は小さくないと思いますが、そうした事情から本サイトではMIDIファイルから本ブログの作成者独自のプログラムによって抽出した情報については公開しても、元となったMIIDファイル自体の公開は控えていますので、ご了承の程、よろしくお願いします。


(A)日本国内のサイト

†(1)Deracinated Flower
マーラー 交響曲全集
(旧サイト)http://www.geocities.jp/masuokun_2004/
(現サイト)http://kakuritsu.sitemix.jp/asobi/midi2/index.html

交響曲第1番~第9番と大地の歌の総てがMIDI化されている世界でも唯一のサイト。
※2020年1月現在では、ホームページ閉鎖のため閲覧不能。Wayback machineのアーカイブは残っていることを確認。第8交響曲第2部では、使用していたシーケンサの制限(最大1000小節)を回避するために、小節数の情報が楽譜に忠実ではない。その他のケースでは、一部例外はあるものの、小節の情報についてはほぼ楽譜通りのようである。一方で残念ながら曲によっては入力が不正確な部分が散見され、分析に利用するには注意が必要であることも確認している。

[2022.8.8の追記]作者よりコメントにてご連絡頂き、移転先のURLをご教示頂いたので、情報を更新しました。

[2023.7.12の追記] 移転先のURLも閲覧できなくなっているようです。
[2024.6.16の追記] 移転先URLで閲覧できない状態が続いています。エラーコードはDNS_PROBE_FINISHED_NXDOMAINですが、DNSキャッシュをクリアしても状態が改善されないため、サイトが移動ないし削除されたものと思われます。


†(2)The World of Tachan Orchestra
マーラーの部屋
http://midi-orchestra.xii.jp/

交響曲第5,6,7,9番全曲と第3番第1楽章、大地の歌第6楽章をMIDI化。第3交響曲第1楽章、第5交響曲第3楽章は2つのファイルに、第6交響曲第4楽章は3つのファイルに分割されている。

※2020年1月現在、第1交響曲が追加されていることを確認。なお曲によっては拍や小節の情報が楽譜と一致しないため、或る種の分析での利用にあたっては制限があることも確認している。

※2023年11月20日時点では閲覧不能でしたが、2024年6月時点では再び閲覧できるようになっていることを確認済。

※2025年3月4日時点で閲覧不能であることを確認。

†(3)PSPのおっちゃんなブログ・・・。
ピアノ演奏MIDI集
http://www.geocities.jp/uncle_of_psp/music.html

ピアノ演奏版ということで、交響曲第1,2,5,8番を公開。
※2020年1月現在、ホームページ閉鎖のため閲覧不能。

†(4)お抹茶いつかし
デジタル音楽館~パソコンが奏でるシンフォニー~
http://www004.upp.so-net.ne.jp/itsukashi/digital_symphony/index.html

交響曲第5番全曲と第2番第4楽章(原光)を公開。

※2023年7月現在、閲覧不能。新しい作品はyoutubeで公開されているようです。

(5)Andante comodo - 音の住む館 -
幻想曲(ファンタジー)
その他のMIDI
http://www5d.biglobe.ne.jp/~mabushis/fantasy_etc.html

リュッケルト歌曲集(5曲)と子供の魔法の角笛より3曲の歌曲をMIDI化している貴重なサイト。

※2020年1月現在、『大地の歌』第3楽章が追加されていることを確認。

※2025.3.5 閲覧可能であることを確認。本記事で紹介している国内サイトでは存続している唯一のものとなってしまいました。


(B)海外のサイト

(1)GustavMahler.com
http://gustavmahler.com/

交響曲第1番(2種)、第2,3,4,5,9番および第10番(クック版)のMIDIファイルが公開されている。色々な作者のファイルをまとめて公開しているサイトであり、日本のサイトが個人のものであるのと対照的である。

(2)ClassicalArchives
http://www.classicalarchives.com/

マーラーだけでないクラシック音楽全般のMIDIファイルを公開しているサイト。
マーラーは、交響曲第1番、第9番の全曲(これらは(1)と同一音源)、第1番第3楽章、第3番第5楽章、第4番第1楽章(2種)、第4番第2楽章、第5番第4楽章(3種)、第5番第5楽章、第6番第1楽章、第7番第1楽章、第9番第4楽章、第10番第3,4,5楽章が公開されている。

(3)Kunst der Fuge
http://www.kunstderfuge.com/

(2)同様に、マーラーだけでないクラシック音楽全般のMIDIファイルを公開しているサイト。
マーラーは、(1)と同一の音源であり、交響曲第1番(2種)、第3,4,5,9番および第10番(クック版)が公開されている。


†(4)KARAOKE
 Lieder, Arien, Ensembles, Chöre  aus dem klassischen Repertoire
http://www.impresario.ch/karaoke/

マーラーだけでないクラシック音楽の歌曲・アリア・アンサンブルや合唱曲などのMIDIファイルを公開しているサイト。

マーラーは、子供の死の歌(5曲)、さすらう若者の歌(4曲)、リュッケルト歌曲集(5曲)、子供の魔法の角笛のうち11曲の計25曲に達する。

いずれもピアノ伴奏のみ(「カラオケ」)と歌唱パート旋律つきの2種類が公開されている。

恐らくMIDIキーボードでの演奏をMIDIファイル化したものと想定され、音が拍節とずれているために、(プログラムの工夫によりある程度の回避は可能だが)分析には適さないことを確認している。更にピアノ伴奏版固有の問題として、声域に応じた移調がされている場合があることで、詳細は割愛するが、原調と異なる調で作成されたMIDIデータが多数存在することを確認しており、仮に小節線や拍節とのずれが問題にならないような分析を行う場合でも、この点についての考慮が別途必要となる。

※2024年6月現在、メイン画面で検索した結果がブラウザに表示されなくなってしまい、実質的に利用できない状態になっていることを確認。(phpを使って書かれているサイトのようです。検索結果が単にない場合にはその旨メッセージが出ますし、検索結果があると思われる場合には、単に検索結果が表示されないで検索画面が再表示されるだけで、エラーが返ってくるわけではないので、サーバーサイドで実行されたqueryの結果が何かの理由でブラウザで表示できなくなってしまっていると思われますが、原因の調査はしていません。なお、確認したブラウザは2024年6月時点で最新のchromeとEdgeだけです。)


(2016.1.3:公開)
(2020.1.18:最新の情報を追記)
(2022.8.8:Deracinated Flowerサイトの「マーラー 交響曲全集」の移動後のURLを追記)
(2023.7.12:リンク切れにつき更新。ヴォーカロイドによる歌唱の試みについて本文中に追記。)
(2023.11.20):リンク切れにつき更新。
(2024.6.16):KARAOKEサイトで検索結果が表示されず、利用できない状態になったため更新。また当該サイトのデータが移調されたものを数多く含むことを付記。The World of Tachan Orchestraサイトが再び閲覧・利用可能になっていることを追記。
(2025.3.4):The World of Tachan Orchestraサイトが閲覧不能になっていることを確認・追記。
(2025.3.5:編集・更新)