その後の音楽のあるものは、幾つかのパラメータを捨て、自分の自由になる次元を限定し、自ら課した制限の下での可能性を探求する禁欲的な 姿勢を貫いて、結果として豊かな成果に辿り着いたが、それらは皆、どちらかといえば抽象美術に似ている。 音楽である限り時間の次元はなくせないが、そこでの時間の流れは作品の中に閉じていてそれは時間を封じ込めたオブジェのようだ。 例えばリゲティの言う「凍った時間」、「空間化された時間」というのは自己規定としては際立って正確で、リゲティのそれを含めた圧倒的な説得力を 持つ作品は、鋭利な批判的な知性に裏付けられた創られたことを証言する。 そしてその中で共感覚に裏打ちされた色彩や肌理の連続的な変化が追求され、内側に向かっては大変に豊かな次元を獲得することにも成功する。
その結果として、まるで自由は作品の裡にしか残されていないかのように、時間は作品という閉じた空間の中に封じ込められる。 作品の内部は有機的で豊饒だが、たとえそこに動的な軌道が存在し、周到にもゆらぎさえ与えられ、カオティックな挙動が生じるように 構築されていたとしても、それはあくまでも作品の内部でのことでしかない。 その音楽は寧ろ聴き手を細部の微細な変化に集中するようにいざなう。 非常に長い周期で一致するようなリズムの重ね合わせ、単純な比で表せない複数のテンポ、複数の音律の重ね合わせ、 フラクタル的な自己相同性の導入は複雑で有機的な細部をもたらすが、巨視的にみた時間構造は静的なままだ。 そこには生成があり発展があり、階層分化さえあるかも知れないし、人間が演奏することによるゆらぎの発生は許容されても、 隅々まで決定され、作品として紛うことなく設計され、構築されたものなのだ。 そこでは時間は様々な出来事を内包しつつ、強い志向性を持つことなく、まるで自然を映し出したように緩慢で多元的だ。 複数の中心を持ち、更にそれが時間の経過に連れて変化していき、ある領域が広がったかと思えば別の領域が圧縮され、 ある道は延び、ある道は消滅して2つの領域が接合する、といったように可動的で時々刻々と姿を変えるネットワーク構造。 だがそれは巨視的な推移の構造を、目的論的な到達点を持たない。
(例外と呼べるようなケースが皆無というわけではないことも忘れずに記しておくことにしよう。音楽の経験を「旅」と見做し、 聴く前とは別の場所に連れて行かれるような音楽、それを自覚的に企図し、しかも常にではなく、稀にではあってもそれに成功する ケースがないわけではない。そして恐らくそこでの「旅」とは人生の行路そのものでもあるに違いないことも想像できる。 だがそうして稀有な例外であるラッヘンマンの場合でも、それが騒音的な音素材による音響作法に基づく異化効果という、 いわば「表の顔」とどう結びつくのかの方は、私には良くわからない。あるいは「旅」としての側面は単純に音の時間方向の 組織において彼が反動的であるに過ぎないとして切り捨てる立場もあるであろうこともまた、予想できなくもない。異なる 素材の下、昔ながらに構築的であろうとする姿勢。特殊奏法による挑発は目晦ましに過ぎないのか。だが彼が調的組織 抜きでそうした構築に勤しんでいることもまた間違いないことだ。それ自体が稀有なことではないのか。 それが反動だろうが何だろうが、彼が、もしかしたら例外的に、少なくとも私の知る限り彼のみがそれを達成しているのは確かなことなのだから。 だから私はここで結論を出すことを控えざるを得ない。 だが何故ラッヘンマンの音楽に自分が惹かれ続けてきたのかは、こうして考えれば明らかなように感じられる。)
勿論、伝統を拒絶し、素材を縮減し、単純なパターンの反復、それとすぐにわかる複数のパターンの重ね合わせなどに よって推移を設計することはある意味で容易い。だがそれは作品ですらなく、単なる音の知覚の実験に近づく。 複雑さに飽きた耳にとって、聴き取りやすく理解しやすい単純な音のパターンの変化は一時は新鮮で快いものであっただろう。 だが単純さはここでは可能性の貧しさに直結し、複雑さを求めても硬直した方法論は同一の次元をうろうろするばかりで、 どれも似たような変化になるという結果の貧困をどうすることもできない。
管理された時間を嫌ったところで、偶然の出来事の到来に身をゆだねるのは音楽的時間の放棄だ。 何も時間性を探求するのに音楽が唯一の手段なわけではないから、作品として時間を構築することを拒絶するのは自由だ。 そこでは新たな作品概念が生まれ、新たな実践が生じることだろう。だがそれならばコンサートホールなどに留まるのは場違いだし、 一旦そうした音楽的時間の変容(その結果は最早音楽的という形容すら妥当でないほどに徹底したものであった筈だが)を語りながら、 旧態依然の如く過去の音楽にしがみつく人たちの姿はできれば見たくないものだ。 最早20世紀も過去となったが、更に退行して19世紀末の、しかもマージナルで少なくとも意識の水準では、実験的な姿勢とは縁遠い音楽への郷愁を何故か隠せないように見えるその様は不可解で、 それでいて流行の最先端を標榜し、一方では今やモダンの、前衛の時代は終わった、人間性の地平は乗り越えられるべきだと言いながら、 今こそ癒しを、ノスタルジーを、スローライフを、といった宣伝文句が語られるのはマーケティングの必要性ゆえのことであろうと考えるほかない。
かくして協和音が復活し、旋律が復活する。だが反動を恐れてか時間的構造は打ち捨てられたままだから、単調な反復繰り返しは相変わらずだし、 機能和声の支えを持たない旋律は、微分音的なゆらぎを導入し、ヘテロフォニーによって強度や色彩の変化を求めるが、 こちらもまたどこにも辿り着かずに宙を漂うばかりだ。いずれにしても音楽は、聴き手を どこかに連れ去る力を喪ってしまったように感じられる。そう言うと決まって繰り返されるのは、目的論的な時間の流れの放棄と引き換えに、 永遠の瞬間を手にするといった言い回しだが、所詮は日常的な生活の時間の流れの中に点在して消費される存在でしかない多くの場合、 一時のヒーリング、気分転換に利用されるのが関の山に過ぎない。そうした態度を「頽落」として蔑むのは簡単だが、生活自体を 修行の場よろしく音に没入する(あるいは没入できるとの思いなし、ないし勘違いの)特権は、一部の音楽家にのみ許されているに過ぎない。いわゆる「現代音楽」のスノビズムを指弾するその姿勢は、 こちらはこちらで狂信的な環境保護運動などと共通した特権意識が見え隠れする独善性を感じさせられて辟易させられる。(彼らから見れば疑いなく) 「頽落」した聴き手である私には、それもまた自閉の一つの形でしかないようにしか思えない。
一方で多くの場合には、学問の装いの下、1世紀の歳月とその間に獲得された認識などないかのように、今更100年前の出来事の周囲をうろうろし、既に自明のことで あるはずの観点を恰も独自の新発見であるかの如くに述べ立てる姿勢もまた、そうした行為がそれを巡って為された対象が抱いていた筈の 志向に対する裏切りにしか見えない。100年が経過し、しかも異郷のこの地であれば、いまや舶来の骨董品としての価値も出てきたとばかりに アニヴァーサリーなどにかこつけて、こちらはもう一桁上の1000年の一度のスケールの未曾有の災害に逢ったにも関わらず、そんなことはまるで なかったかのようにおかまいもなしに、私のような門外漢からすれば、身内意識丸出しに、同業者間の棲み分けと共存共栄への配慮ばかりが目立つ状況に吐き気を催すことも一再ならずであった。
だが掟の門前でうろつくばかりしか能のない門外漢にしてみれば、マーラーの音楽にはあれ程豊富に存在した筈の時間方向の構造、 聴き手をもどこか別の場所に連れて行かんばかりの、それが作者の意図するところであるならばその限りにおいて「目的論的」という 形容すら誤りとは言い難い、巨大な時間的持続を支える時間方向の方法論的図式に代替するものが、20世紀の音楽の中では 結局発見されることはなかったのではという感覚は否み難い。否、一例をとればマーラーの作品の長大な時間的経過を支える 音楽的構造と、それを利用する具体的な適用の卓越は非専門家の耳にも明らかで、そうであれば尚更、その後の音楽において かくも生産的な原理が放棄されたのは何故なのか改めて不思議な思いに囚われても不思議はない。 確かに、今この音楽をもう一度創ることの不可能性もまた疑いを容れない事実のように思われる。しかし、過去の遺物を骨董品よろしく品定めして愛でることにあれほど熱心な音楽学や音楽史の研究者も、今ここにスコアとして残されたマーラー作品の構造の分析については、旧態依然の道具立てを用いて、それによっては測りえない逸脱を指摘するのが関の山で、マーラーの音楽の持つ構造の特異性を言い当てる道具を作り上げる努力は、少なくともこの極東の島国からの展望においては一向に行われているようには見えない。 せいぜいが前世紀後半に発達した記号論やナラトロジーのような各種の文学理論の枠組みを借りてきて、音楽にも適用しようという試みが海の向こうで行われていることが窺い知れるくらいなもので、寧ろ音楽を出発点とした新たな構造記述の方法が出てきてもよさそうなものだが、具体的な音楽を前にしたら、あまりに素朴で表層的であると哲学者自らが撤回しかねない哲学的な時間論の分析を持ってきて、目の前の具体的で個別的な音楽作品の豊かさをプロクルステスのベッドのようにそぎ落としてしまうような分析しかできていないように見える。それにしても何故なのだ、という疑問が頭に取り憑いて離れない。それは時代の要請なのか。
逆に言えば100年前の音楽に確実にあって、更には今尚力を喪っていないと感じられる側面が未だにあるというのは、 その音楽の指し示す未来を告げてはいないか。時代の制約の中、所与であった語法を換骨奪胎して提示する、今なお異様な力を 喪わないその音楽の動性、超越への衝動に支配された外への運動、未知の地点に聴き手を運んでいってしまう、暴力的なまでの力。 アドルノは全般としては己が批判的に考えていたマーラーの第8交響曲に対して「救い主の危険」という表現を用いた。 私にはこの言い回しはアドルノの逡巡を、聴経験に忠実なアドルノの論理でもって断定し去ることへの躊躇いを感じずにはいられない。 「救い主の危険」。それは今やマーラーの音楽全体について言いうるように私には感じられる。マーラーの音楽の持つ時間性の アナクロニスムは、だが閉塞した現在の凍りついた時間(その認識の何と正しいことか)にあって、単なる夢想に過ぎないとさえ感じられるし、 そのように断罪されるケースも、しばしば見受けられる。だが、そこには文字通り、未だ来たらざるものとしての未来への途があるのではないか。 それは仮想されたものを恰も現実に実現するかのように見せかける詐術ではない。ポテンシャルとしての未来が、音楽の彼方にあるものとして ヴァーチャリティとして指し示されているのではないか。
だが、今ここにおける私は、これ以上遠くに行くことはもうできない。私にとって確実なのはマーラーの音楽を手放してはならない、ということだ。 異様な力に満ちたその音楽を聴くことが時折困難になるにせよ、自分に向かって手を差し伸べ、自分を幽霊の隊列に加わるよう 誘う音楽に耳を閉ざしてはいけない。生き延びてどこか別の場所に辿り着くことを希求し続けるならば。(2012.5.5, 2015.8.10補筆改訂)
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