マーラーの場合、その人の生涯の軌跡を辿ることには、他の作曲家の場合とは些か異なった事情があるようだ。
作品と作曲者の生の軌跡との関係は、時代により、人によりまちまちだが、マーラーの場合にはその間に密接な
関係があるのは明らかであるように思われるからだ。勿論、狭義に解された意味合いでの「伝記主義」、その作品の
「内容」を、作曲者の人生のある出来事に還元しようとする姿勢は、マーラーの場合においてすら妥当ではないだろう。
マーラーの場合は、そうした短絡がしばしば起き勝ちであるためか、作品と作曲者の関係については、他の作曲家の
場合に比しても随分と慎重で繊細な取り扱いがなされる場合が増えているように思えるが、結局のところそれもこれも
作品と作曲者との関係の密接さを物語っているのだろう。
だが、その一方でマーラーその人の生きていた時代は遠くなりつつある。ましてや極東の僻遠の地に住むものにとって、
マーラーその人の生きた環境を思い浮かべるのには困難が伴う。幸いマーラーの場合には、ド・ラ・グランジュの浩瀚な
伝記をはじめとして、伝記、評伝の類は数多くあるし、邦訳が存在するものもあるし、日本人の手による伝記・評伝も
存在する。それらを読むことで、このような音楽を書いた人間がどのような人で、どのような時代に生きたのかを間接的では
あるが知ることができる。写真・図録の類も少なからずあるから、それらによって視覚的な情報を補うこともできるだろう。
従って、ここでマーラーの生涯についてまとめることが、そうした数多い評伝に伍する意図から発しているのであるとすれば、
私がマーラーの研究者でも、歴史学者でもない以上、まずもってその資格無しの烙印を押されておしまいになってしまうだろう。
所詮は直接一次資料にあたることができず、所蔵している幾つかの文献を元に、「自分の目に映ったマーラー」を描き出すのが
せいぜいなのだ。文献に誤りがあれば、「私のマーラー像」はその誤りの上に作り上げられるのだ。
その一方でWebで簡単に入手できる情報には、思いのほか間違いや、控えめに言っても誤解を招くような記述が少なくない。
比較的正確な情報があっても、それが日本語でなければその情報を利用できない場合もあるだろう。
勿論それはマーラーに限ったことではなく、一部の「恵まれた」作曲家を除けば、Webで入手できる情報は、多くの場合には
断片的だ。寧ろマーラーは量的にも質的にも恵まれた方であると言っていいかも知れない。問題は、客観性を装った
記述の中に、筆者の予断が入り込んでいたり、古い文献では事実として書かれていても、少なくとも現時点では信憑性を
疑われている内容がそのまま、注釈もなしに記述されていることがあることだろう。勿論、学問的に正確で厳密な記述は、
専門家の領分であり、Webで私のようなマーラーの音楽の一享受者が云々することではないのは確かだが、素人目に見ても
首を捻るようなケースもあるので厄介なのだ。もっとも、そうしたケースでも「私のマーラー像」との懸隔に苛立ちを感じているだけではないか、
という批判の前には沈黙せざるを得ない。せいぜいがある文献に従えば、それは事実ではないというのが関の山なのであって、
真偽の判定をする最終的な材料を私が持っているわけではないのだ。その点をはっきりさせるべき、記述にあたっては、
私自身が伝記作者を僭称することなく、自分が参照可能な伝記やドキュメントなどの文献に語らせる方法を採用すべきだろう。
実際そうでしかありえないのであれば、伝記やドキュメント類の引用の集積たる「メタ伝記」とでも言うべき体裁が、実質に
見合ったありように思われるからである。そして、それが不可能なのであれば、これを伝記と呼ぶのを止めるべきだろう。
せいぜいがそうした伝記的資料を渉猟していて自分が気になった点を断片的に記すといってレベルの備忘、覚書というのが
実質に見合っているのだ。
ここにまとめるのは、従ってあくまでも「自分の目に映ったマーラー」像である。ド・ラ・グランジュの伝記に含まれる情報量は
膨大だが、それを全て等しく記憶してマーラー像を作り上げている訳ではない。結局、伝記の類というのは、事実の選択と
系統付けの作業の結果であって、書く人の数だけマーラー像というのは存在するのだ。そして、ここに記載されたマーラー像が、
Webの他所で入手できる情報に比べて真正なものである保証はない。その点では、Web上に存在する他の情報に比べて
優位を主張するつもりはない。私はただ単に、「自分の目に映ったマーラー」がどんな人であったかを書きとめておきたいだけである。
勿論、主観的に判断した限りでは虚構を書くつもりはないが、それでもなお、間違いや、間違いではなくても、事実の取捨選択や
出来事の解釈に恣意が入り込むのを避けることができる自信が私には全く無い。従って、ここでのマーラー像は、寧ろフィクションだと
思って読んでいただいた方が誤解がないかも知れない。あったことを無かったこと同然に言いくるめる相対主義は危険であり、
強い反撥を覚えるし、ここでもそうした相対主義を主張しているわけではない。ことマーラーの生涯については、私は所詮、
あっとことと無かったことを厳密に判定する基準を自分の中には持っていないということと、自分の作り上げるマーラー像が、
今日の日本に住み、音楽を専門とせずに、マーラーの音楽をそれなりに聴いている私を形作る様々な文脈、環境に拘束された
一つの展望、星座に過ぎないのだということを言いたいだけである。
率直に言えば、かつて熱中していた頃にはその人にも夢中になったものだが、現時点では、その人に対して距離感を感じずには
いられない部分も多いし、何よりも、時代と場所の隔たりの大きさを感じずにはいられない。そして、そうした感覚が記述に
反映するのは避け難いことだし、あえて言えば、避けようとも思っていない。寧ろそうした距離感と共感のない交ぜとなった感じを
書き残して置きたい、というのが本音なのだ。マーラーの音楽を享受することに関しては、それが紛れもなく自分の固有の経験
だが(勿論、そうした「自分」が、様々な環境、文脈に拘束された、不安定なものであること、そして自分には己の全てが
見えているわけではないことは当然だが)、マーラーその人については決してそうではない。かつての私は、そこの部分の遠近感に
ついて明らかに錯視を起こしていた。音楽から人を眺める倒錯が、外挿する過誤がそこには確実に含まれていた。マーラーが
自分にとって、「他者」であること、これは恐らくはほとんどの人にとっては、はじめから明らかなことなのだろうが、私にとっては
必ずしもそうではない、それは苦々しい感覚を伴う、後成的な認識だったのであって、もしかしたら、今なおそれを意識的に
確認せずにはいられない心的なメカニズムが私の自己の、私からは見えないどこかで働いているようなのだ。恐らく実のところ、
ここで行うのはその確認作業に違いないのである。私の場合には、興味がある作品を書いた人に対する関心は必ずつきまとう
(作品と作曲者を切り離して、作品を自律的なものとして捉えることがどうしてもできない)のだが、それでも他の作曲家については、
その人の生涯を自分の手で確認するような、このような作業をしたいという欲求そのものをほとんど感じないのだ。結局のところ、
私にとってマーラーは、その音楽もだが、その人そのものも、未解決の問題なのだろう。
誕生からブダペスト時代まで
マーラーが誕生したのは1860年7月7日、没したのは1911年5月18日であることは周知の事実であるが、
ではマーラーが生きた時代がどんな時代であったかを想像することができるかといえば、それは
実際には容易なことではないだろう。とりわけ19世紀末のウィーンに関しては色々な書物によって
情報を入手することが可能であって、そうした知識の集積により自分の中に一定のイメージを作り出すことは
可能だが、そうした情報にはどうしても偏りがあって、その歪みが、例えばマーラー自身が眺めていた
風景の持つ歪みと一致することを期待することは望み薄である。否、そういう意味ではマーラーの音楽を
聴き、それと同化することによっての方が確実ではないかとさえ思える。だが、そうしたアプローチは
時間と空間を越えた「近さ」を感じさせはしても、現実は画然として存在しているはずの距離感を
測るには適さない。そういう点では(強烈なバイアスによって歪められてはいても)生き生きとした
アルマの回想に現れるマーラーのイメージもまた同様で、そらんじる程にその内容に親しんでしまった
子供は、自分が頭の中に作り上げたイメージが如何に身勝手な空想であるかに気付くのが困難になる。
距離感の測りがたさの一因は、逆説的にもそれが想像を絶するほど異なった過去ではない、という点にあるの
かもしれない。しばしば当たり前のことだと思っているが、マーラーの姿を定着させた数多くの写真、
マーラー自身が書いた夥しい量の書簡、そしてアルマのエピソードに出てくる鉄道、自転車、電話、電報、
そして自動車といった輸送・通信手段は勿論、自明のものではない。同じことは例えばもう100年前の
モーツァルトには全く当て嵌まらないことを考えれば、マーラーの生きた時代との距離感の微妙さを
大まかではあっても測ることができるだろうか。今日のスター指揮者であれば、大西洋を往来するのには
船ではなく、飛行機が使われるだろうが、とはいえ、発達しつつある交通網を利用して、客演を定期的に
行うというスタイルは今日と大きくは変わらない。ウィーンが再開発によって近代都市に生まれ変わったのは、
マーラーがウィーンの音楽院に在籍した時期(1875年~1878年)と重なっており、アルマの回想録に
生き生きと描き出されている壮年期のマーラーが闊歩したウィーンの街の景観は、まさにマーラーの時代に
出来上がって、その後基本的には現在まで引き継がれているのである。またウィーン以外の、マーラーが
キャリアを積み重ねていった各都市の歌劇場もまた、まさにマーラーの活躍した時代にそのあり方を
変えつつあり、まさにマーラーのような能力の持ち主が何時になく嘱望されていた時期なのである。
ウィーンの宮廷歌劇場こそその典型であって、宮廷歌劇場の新築はウィーンの都市改造の目玉の一つであった。
今日のウィーン国立歌劇場にはロダン作のマーラーの像が置かれているようだが、第2次世界大戦の惨禍に
巻き込まれ、現在の建物は戦後再建されたものではあるが、デザインが踏襲されたこともあって、基本的には
場所も含めて、マーラーが仕事をした歌劇場と今日のそれとの連続性を認めることは可能だろうし、
しかもその建物はマーラーが生まれる前には存在しなかったのである。同様のことはブダペストについても
ハンブルクについても言えて、ブダペストの王立歌劇場の開場はマーラーの赴任の4年前の1884年、1991年に
マーラーが赴任したハンブルクの市立劇場は1874年に大改造を経て新規に開場している。もっともハンブルクの
歌劇場は第2次世界大戦で破壊されて戦後に再建される際にデザインも一新されたため、往時の姿を
知るには過去の写真などによる他ないのだが。
マーラーは職業という観点から見れば何よりもまず時代を代表する歌劇場の監督・あるいはコンサート
指揮者であり、作曲は専ら余暇に無償で行った。ところで、歌劇場という施設やコンサートという制度は
それを支える経済的な側面も含めて、上述のようにまさにマーラーの時代に確立し、その後若干の変遷はあったものの、
基本は大きく変わらずに今日に至っているのであるし、マーラーが音楽教育を受けたのはウィーンの音楽院であるが、
そうした音楽教育の制度の面でも、まさにマーラーの時代に今日まで続く仕組みが確立していったのである。
そういう意味ではマーラーの時代と今日の間には大きな断絶はないと言っても良いかもしれない。
ちなみに音楽院という教育機関による教育の開始は、フランス革命が契機であり、パリの音楽院を嚆矢とする。
ウィーンの音楽院は楽友協会により1810年代に設立され、公立になったのはマーラーの晩年1909年の
ことである。従って音楽院自体はマーラーの時代の成立ではないのだが、カリキュラムや学科の確立、
教授陣の充実、それによる優秀な人材の輩出によって、音楽院の名声と権威が確かになるには当然それなりの
時間が必要であり、それはマーラーが入学する頃には確かなものになっていたと言いうるようである。
それだけではなく、上述したウィーン市の大規模な改造計画に伴って、歌劇場近くの現在の所在地に移転したのは、
マーラーが入学する直前の1870年だった。
例えばバロック期や古典期、更にはロマン派前期の音楽は今日でもよく聴かれるにも関わらず、それが受容された
環境、演奏の前提となる設備や演奏家を養成する教育の制度の面では何某かの断絶があったのに比べれば、
マーラーの音楽を取り囲む環境との連続性は明らかであろう。勿論、その後の音楽の大衆化の進展の大きさや、
あるいは演奏を記録する技術の急速な進展などを考えれば、第1次世界大戦前に没したマーラーは、いわば
「少し前の時代」を生きたというようにもいえるだろうが、マーラーの同時代の演奏家の録音記録もわずかながら
残されており、マーラー自身のピアノ演奏の記録さえ残っていることを考えると、この点についても状況の変化を
過大視することはできないだろう。確かにLPレコードの普及以降のマーラー受容の質的な変化には留意する
必要があるだろう。けれどもマーラー時代と基本的には変わらない仕方で、演奏会場で実演に接することも
依然として可能だし、寧ろ頻度だけを問題にすればその機会は拡大しているといっても良いかも知れないのである。
* * *
マーラーが生まれたのは、オーストリア・ハンガリー帝国領、現在のチェコ共和国内のカリシュトという村であった。
その後ただちに、マーラーの一家は近くのイーグラウという街に引っ越すことになる。イーグラウもまた、現在の
チェコ共和国の領内にある街である。マーラーは、チェコの作曲家ではなく、オーストリアの作曲家ということに
なっているようだし、それには勿論妥当性があるのだが、それでもマーラーがチェコでもボヘミアと呼ばれる
地域に生まれ、育った点は留意されて良い。マーラーがユダヤ人であることを知らぬ人はいないが、それに
加えて、ボヘミヤの生まれであること、更にイーグラウという街の性格、すなわちそれが帝国直轄都市であり、
街ではドイツ語が話され、街を取り囲むチェコ語が話される地域の中の「言語島」であったことが、
マーラーが幼少期を過ごした環境に幾重もの複合性をもたらしているからである。後年マーラーが言ったとされる
アルマの回想に書き留められた有名な言葉「オーストリアの中のボヘミヤ人、、、」という言葉、「異邦人性」、或いは
社会学で言う「マージナル・マン」といった性格付けは、このような環境が前提となっているのだ。ついでに言えば、カリシュト、
イーグラウという都市名はドイツ語のものであり、チェコ語での名と同じわけではない。同様の書き方を
敷衍すると、スロヴァキアのブラチスラヴァはプレスブルクと呼ばなくてはならないし、後にマーラーが指揮者として
赴く、スロヴェニアのリュブリャナもライバッハと呼ばなくてはならない、といったことが果てしなく続くのだ。
これに関連して興味深いテーマとして、マーラーの言語的アイデンティティの問題がある。後年の書簡などから
わかるように、マーラーの「母語」がドイツ語であったのは間違いなく、それはドイツ語圏の教養を身につけようと
努めた同化ユダヤ人であった父の用意した環境でもあった。イーグラウという街の性格は既述の通りだが、
マーラーが通ったイーグラウのギムナジウムではドイツ語で授業が行われたし、読書の虫であったマーラーが
読みふけった書物もドイツ語で書かれたものであったに違いない。だが、マーラーが生まれた直後の1860年10月に
皇帝が出した声明により、ユダヤ人にもようやく国内移住の自由が認められたのに乗じて、12月に直ちに
イーグラウに移住した父ベルンハルト・マーラーも、ユダヤ人としての信仰を放棄することは無く、シナゴーグには
通っていたし、マーラーにも引き継がれた勤勉さもあって経済的に成功するとイーグラウのユダヤ人社会の
名士になるわけで、ドイツ人相手の商売をしてはいても、ユダヤ人としてのアイデンティティは保ち続けていた。
ボヘミヤのユダヤ人の言語については、イディッシュ語のような独自の言語が存在していたわけではなかろうが、
ユダヤ教の礼拝ではヘブライ語が用いられたに違いない。そしてイーグラウを取り囲む地域からやってくる人びとはチェコ語を
話しただろう。マーラーが幼少期に憶えたボヘミヤ民謡の歌詞はもちろんチェコ語であっただろう。
これらのうち、シナゴーグの中で使われていたであろうヘブライ語については、マーラーが幼少期より、
シナゴーグではなく、教会聖歌隊に参加するというかたちで寧ろカトリックの教会を訪れていたらしいことを
考えると、マーラーが日常的に接していたと考えるのは無理があろうが、ドイツ語、チェコ語に
ついては、恐らく身近に接する機会が多かったに違いない。積極的に習得しないまでも、聞けば何となくわかる
程度には知っていた可能性は充分にあるだろう。言葉だけではない。その後のマーラーの音楽の基本となった
ドイツ・オーストリアの音楽の伝統の基層に、ボヘミヤやユダヤ人の歌や踊りが、それらが用いられる行事など
とともに存在しているに違いないのである。
ハンブルク時代からウィーン時代前期
マーラーにとって20歳代後半のブダペスト時代は色々な意味での転機だった。ハンブルク市立劇場に
就任するのは1891年3月26日だが、ハンブルクに移ってから、マーラーの歩みは或る種の確固とした
リズムと音調を持つようになる。
ハンブルク時代の最大の出来事は、やはり1894年のハ短調交響曲、
こんにち2番の番号が与えられている交響曲の完成だろう。この、最初に完成した「交響曲」は
そのまま翌年12月13日にマーラー自身の手によりベルリンで初演され、最初に演奏された「交響曲」になる。
翌年3月16日には、永らく5楽章の交響詩「巨人」であった、創作時期としてはハ短調交響曲に先行する
作品が4楽章の「交響曲」として同じベルリンで初演される。
一方で、ハ短調交響曲の初演に先立つ1895年の夏は第3交響曲第2部の作曲にあてられており、
翌年に第1部となる第1楽章を完成したマーラーは、1897年にはカトリックに改宗し、ハイネに倣うように
「入場券」を手にして、ウィーン王室・宮廷歌劇場に「凱旋」するのだ。夏の作曲家マーラーの作曲小屋での
創作というパターンはハンブルク時代に確立する。
ウィーンに移ったマーラーは夏の作曲の場をシュタインバッハからマイヤーニッヒに移し、そこで第4交響曲を
作曲すると、別荘を構えることを決める。すると今度はアルマ・マリア・シントラーが現われ、マイヤーニッヒの
別荘で第5交響曲の完成に立ち会うのは、妻となったアルマになる。ウィーンへの進出は勿論、
生涯の大事件、マーラーにとってはもしかしたら最大の快挙であったかも知れない。だが、ここではそれより
少し遅れて起きた、作曲の場の移動と、それに呼応するようにして起きたプライヴェートなパートナーの
交替の完了までを「ウィーン前期」と便宜的に呼ぶことにして、両者をあわせて一区切りとしたい。
実際にはマーラーの生涯に対する適切な展望は、このように幾つかの時点でそれを分割することではなく、
或る種の相転移のようなものが起きる領域・時期があって、それを経て次のフェーズに移行する、という
ものであろう。ここで扱うフェーズについていえば、その前の移行の領域が1888年末から1891年初頭の
ブダペスト時代であり、ここで扱うウィーン前期、即ち1897年から1901年までがそうした移行の時期にあたる。
分割をそうした移行期の後に設定してみたわけである。ただし、このやり方は、次の移行期には
当て嵌まらなくなるのだが。
ウィーン時代後期
ここでいうウィーン時代後期というのは、ウィーン時代前期の作曲パターンや
プライヴェートなパートナーの交替といった移行が済み、アルマを妻として
マイアーニッヒで交響曲を立て続けに作曲した時期を指す便宜的な呼び名である。
これまでの分割の仕方に倣えば、1907年以降の「晩年」は、それ自体が一つの
移行期を形成する可能性があり、移行期における「相転移」の後を次フェーズの
始まりとするならば、ここで晩年についても併せて扱うべきなのだろうが、
そうするには最後の「移行期」はあまりに色々なことが起きたし、事実としてマーラーには
次のフェーズはもう無かったのであるから、最後の移行期=晩年は別に扱うことにしたい。
晩年
マーラーの晩年は、歌劇場監督を辞任しウィーンを去る頃より始まると考えて良いだろう。
長女の猩紅熱とジフテリアの合併症による死、自分自身に対する心臓病の診断という、
アルマの回想録で語られて以来、第6交響曲のハンマー打撃とのアナロジーで「3点セット」で
語られてきた出来事は、それを創作された音楽に単純に重ね合わせる類の素朴な
伝記主義からはじまって、これも幾つものバージョンが存在する生涯と作品との関係をひとまずおいて、
専ら生涯の側から眺めれば、確かに人生の転機となる出来事だったと言えるだろう。
これを理解するのには別に特別な能力や技術どいらない。各人が自分の人生行路と重ね合わせ、
自分の場合にそれに対応するような類の出来事が起きたら、自分にとってどういう重みを持つものか、
あるいはマーラーの生涯を眺めて、マーラーの立場に想像上立ってみて、上記の出来事の重みを
想像してみさえすれば良いのだ。それが音楽家でなくても、後世に名を残す人物ではなくてもいいのである。
逆にこうした接点がなければ、私のような凡人がマーラーの人と音楽のどこに接点を見出し、どのように
共感すれば良いのかわからなくなる。
だが、その一方で、マーラーがそれを転機と捉えていたのは確かにせよ、己が「晩年」に
差し掛かったという認識を抱いていたかについては、後から振り返る者は自分の持っている
情報による視点のずれに注意する必要はあるだろう。マーラー自身、自分の将来に控える
地平線をはっきりと認識したのは間違いないが、それがどの程度先の話なのか、それが
あんなにもすぐに到来すると考えていたのかについては慎重であるべきで、この最後の
設問に関しては、答は「否」であったかも知れないのである。もしマーラーがその後4年を
経ずして没することがなかったら、という問いをたてても仕方ないのだが、もしそうした
想定を認めてしまえば、今日の認識では「晩年」の始まりであったものが、深刻なものでは
あっても、乗り越えられた危機、転機の一つになったかもしれないのである。丁度30歳を
前にしたマーラーが経験したそれのように。だとしたら現実は、そうした転機の危機的状況から
抜け出さんとする途上にマーラーはあったと考えるのが妥当ではないかという気がする。
要するに、ここで「晩年」として扱う時期は、その全体がブダペスト時代や、ウィーンの前期の
ような移行期、「相転移」の時代であったかもしれず、この時期を過ぎれば新しいフェーズが
待ち受けていたかも知れないのだ。だが、実際には次のフェーズはマーラーには用意されて
おらず、移行の只中で、それを完了することなくマーラーは生涯を終えてしまったように
私には感じられる。第1交響曲(当時は5楽章の交響詩)、第5交響曲がそれぞれ
移行の、相転移の終わりを告げる作品であったように、第10交響曲がその終わりを告げる
作品であったかも知れないが、第10交響曲は遂に完成されることはなかった。
(2008.10.11)