要旨
本論文は、自由エネルギー原理(Free Energy Principle: FEP)を参照枠として、老化と芸術作品における後期様式をめぐる形式的問題を再検討する。その際、決定的に重要なのは、「老化過程」と「老いの意識」を理論的に区別することである。
老化過程は、生成モデルおよび精度構造の長期的変移として理解される非出来事的過程であり、その本質はロバストネスの再配置にある。一方、老いの意識とは、この変移が主体において出来事化され、了解の地平に不可逆的な変形をもたらす推論様式として定義される。本研究は、この区別を導入することで、老いを単なる劣化や崩壊として捉えてきた従来の理解を修正する。
さらに本論文では、ルネ・トムのカタストロフィー理論を、老化過程そのものの記述装置としてではなく、老いの意識において連続的な推移が維持できなくなる局面の形式を記述する理論として再配置する。ここで問題となる不可逆性は、生物学的老化ではなく、了解構造の更新に存する。
マーラー《交響曲第9番》を中心事例として、老いの意識が成立し、反復され、極限化される時間構造を分析する。第9交響曲は「死への物語」ではなく、老いの意識が不可逆的に変形しつつ、なお反復的に経験されうる過程を形式化した作品として理解される。
本研究は、後期様式を心理主義的・伝記的解釈から切り離し、推論様式の変形として捉え直す理論的基盤を提示する。
キーワード:自由エネルギー原理、カタストロフィー理論、老いの意識、ロバストネスの変移、後期様式、マーラー、ヒステリシス
第1章 序論
1.1 問題設定
老化(aging)と後期様式(late style)は、一見異なる領域に属する概念である。前者は生物学・医学・老年学の対象であり、後者は美学・音楽学・文学研究の主題である。しかし両者は、次の構造的特徴を共有している。
不可逆性: 時間の一方向的進行を前提とする
非線形性: 緩やかな変化の中に突然の転換が生じる
断片性: 統合・調和の維持が困難になる
倫理的次元: 単なる事実ではなく、存在様式の問題である
しかし従来の研究は、これらの特徴を主として記述的・解釈的水準で論じてきた。老年学では老化を「機能低下」「劣化」として、美学では後期様式を「円熟」または「非和解性」として扱ってきたが、なぜそのような変容が構造的に生じるのかについては、十分な説明が与えられていない。
本論文の目的は、自由エネルギー原理(Friston, 2010)とルネ・トム(Thom, 1972)のカタストロフィー理論を参照枠として、老化と後期様式に共通する形式論理を提示することにある。特に重要なのは、今井眞一郎(2013)が提示した「老化とはロバストネスの変移と崩壊である」という定義における「変移」の積極的意義を、理論的に実装することである。
1.2 今井による老化の定義とその理論的含意
今井眞一郎は、システム生物学的観点から老化を次のように定義した。(今井, 2021)
(…)以上のように、老化という現象には、「階層構造」と「時間」のファクターが組み合わさり、時間軸方向には決定論的にふるまうが、ある時間の断面では確率論的である、という複雑な性質があります。このような複雑な現象を示すシステムとして生物をみた場合に、老化の本質はいったいどのようなものと考えられるのでしょうか。(…)システムの特徴の一つに、「ロバストネス」(頑健性)」という工学用語で表されるものがあります。生物学的な用語でいえば「ホメオスタシス(恒常性)」となるでしょう。(…)システム全体に負荷がかかった場合でも、それを元の状態に戻そうとする能力、それが「ロバストネス」なのです。(…)こうした議論をとおして北野所長とたどり着いた考えは、「老化」は、ロバストネスが変移して、最終的に崩壊する」過程であるというものでした。つまり老化の定義は、「生物がもつロバストネスの変移と崩壊」だと。単なる崩壊ではなく、「変移と崩壊」というところに注目してください。歳を取っても人の体はロバストなのです。(…)ロバストであることに変わりはありませんが、定常の位置が推移していきます。だんだんずれていって、最後に全体としてシステムのロバストネスを保つことができなくなるとついにシステムが崩壊する、つまり「死」に至る、ということになります。(今井眞一郎『開かれれたパンドラの箱 老化・寿命研究の最前線』, 朝日新聞出版, 2021, pp.229-30)
この定義の決定的な点は、**「単なる崩壊ではない」**という強調にある。老化を単一の破局的事象として捉えるのではなく、ロバストネスの連続的推移として理解する視点が提示されている。
しかしこの定義には、理論的に精密化すべき以下の問いが含まれている。
「ロバストネスの変移」とは、どのような力学的過程か
「変移」と「崩壊」はどのように関係するのか
なぜ定常状態は「推移」するのか
この過程は、主観的にどのように経験されるのか
1.3 先行研究の到達点と限界
1.3.1 後期様式論の系譜
後期様式をめぐる議論は、大きく二つの潮流に分けられる。
(A)円熟・完成モデル
伝統的な芸術史・音楽史においては、後期様式はしばしば「円熟」「完成」「超越」として理解されてきた。この見方では、老年期の作品は若年期の模索を経て到達した統合的境地とされる。
(B)断片・非和解モデル
これに対しアドルノは、ベートーヴェン後期作品の「断片性」「慣習との断絶」を強調し、後期様式を調和的完成の対極に位置づけた(Adorno, 1937, 1993)。サイードはこれを受け継ぎ、晩年様式を「時代錯誤性」「非同時性」として特徴づけた(Said, 2006)。
しかしこれらの議論には、次の理論的限界がある。
記述は鋭敏だが、なぜその形式が生じるのかが説明されない
老化という生物学的過程との関係が曖昧である
時間性の変容が主題化されるが、その機構が不明瞭である
1.3.2 自由エネルギー原理の射程と可能性
自由エネルギー原理(FEP)は、知覚・行為・学習を統一的に説明する理論枠組みであり(Friston, 2010; Friston et al., 2017)、近年では意識(Hohwy, 2013)、精神病理(Friston et al., 2014)、社会的認知(Veissière et al., 2020)へと応用が拡大している。
FEPの核心は、生物システムが変分自由エネルギーを最小化することで、自己の存続可能性(viability)を維持するという主張にある。システムは環境からの感覚入力に対して生成モデル(generative model)を用いて予測を行い、予測誤差を最小化するように内部状態を更新する。
この枠組みは、老化研究に対して次の可能性を開く。
老化を「劣化」ではなく「生成モデルの変移」として捉え直す
主観的経験としての「老い」を推論様式の変容として記述する
不可逆性を時間の流れではなく、推論構造の更新として理解する
しかしFEP単体では、変移過程の内実と、その主観的経験の構造が不明瞭である。
1.3.3 カタストロフィー理論の可能性と危険性
ルネ・トムのカタストロフィー理論は、連続的変化が不連続な相転移を生む機構を説明する数理的枠組みである(Thom, 1972; Zeeman, 1977)。しかしカタストロフィー理論を老化に適用する際には、重大な危険性がある。
危険性: カタストロフィーを巨視的な一回的崩壊として捉えると、老化は「ある時点での決定的破局」に還元されてしまう。これは今井が強調した「変移」の意義を喪失させ、老化を再び「死への一方向的物語」に回収してしまう。
本研究の立場: カタストロフィーを、老化過程そのものの記述装置ではなく、老いが意識において連続的変移として処理できなくなる局面の形式を記述する理論として位置づける。
1.4 本論文の構成
本論文は以下の構成をとる。
第2章: FEPの基礎概念と、老化研究への適用可能性を検討する
第3章: 「老化過程」と「老いの意識」を理論的に区別し、カタストロフィー理論を再配置する
第4章: 分析方法論と、音楽作品を老いの意識の形式として読む理論的根拠を提示する
第5章: マーラー《交響曲第9番》を老いの意識の形式的展開として分析する
第6章: 第6交響曲(病理モデル)との対比により、理論の妥当性を検証する
第7章: 後期様式の一般理論へと抽象化する
第8章: 結論と今後の展望
第2章 自由エネルギー原理の基礎
2.1 自由エネルギー原理の基本構造
2.1.1 変分自由エネルギーとは何か
自由エネルギー原理(FEP)の中心概念は、変分自由エネルギー(variational free energy)である。これは情報理論と統計物理学に由来する概念であり、生物システムが最小化すべき量として定義される。
変分自由エネルギー $F$ は、変分分布 $q(s)$ に関して次のように定義される。
$$F(q) = \mathbb{E}_{q(s)}[\ln q(s) - \ln p(o,s \mid m)]$$
ここで、
$o$: 感覚入力
$s$: 隠れ状態(世界の真の状態)
$m$: 生成モデル(システムが持つ世界についての信念構造)
$q(s)$: 近似事後分布(システムが推論する隠れ状態の確率分布)
自由エネルギーは次のように分解できる。
$$F(q) = D_{KL}[q(s) | p(s|o, m)] - \ln p(o|m)$$
第一項: KLダイバージェンス(推論の精度)
第二項: 負の対数エビデンス(驚き、surprisal)
2.1.2 自由エネルギー最小化の意味
生物システムが自由エネルギーを最小化することは、次の二つを同時に達成することを意味する。
正確な推論: 世界の真の状態を正しく推測する($D_{KL}$ を小さく)
低驚き状態の維持: 予想外の感覚入力を避ける($-\ln p(o|m)$ を小さく)
この枠組みにおいて、知覚・行為・学習は、すべて自由エネルギー最小化の異なる様式として統一的に理解される。
知覚: 感覚入力に対して生成モデルを更新する(推論)
行為: 感覚入力そのものを変える(能動的推論)
学習: 生成モデル自体を更新する
2.1.3 ロバストネスと自由エネルギー地形
システムのロバストネスは、FEP的には自由エネルギー地形における安定極小点の存在として理解できる。
システムが安定しているとは、
$$\exists x^: \quad \nabla_x F(x^, m) = 0 \quad \text{かつ} \quad \nabla^2 F(x^*, m) > 0$$
すなわち、自由エネルギーが極小となる内部状態 $x^*$ が存在し、そこに向かって勾配流が収束することを意味する。
今井の言う「ロバストネスの変移」は、この極小点 $x^*$ の位置が時間とともに推移することとして理解できる。
2.2.1 精度付与の概念
FEPにおいて重要なのは、すべての予測誤差が等しく扱われるわけではない点である。システムは、各予測誤差に対して精度(precision)$\pi$ を付与する。
精度が高い誤差は重要視され、精度が低い誤差は無視される。この精度付与の構造が、システムの注意・優先順位・意味付けを決定する。
2.2.2 階層的生成モデル
生物システムの生成モデルは、階層的である。
低次レベル: 感覚入力の直接的予測(視覚、聴覚、触覚など)
高次レベル: 抽象的・概念的予測(文脈、意図、物語など)
老化において重要なのは、この階層間の精度配分が変化することである。
2.3 時間スケールの多層性
2.3.1 三層時間構造
FEPに基づく老化理論において、時間は三つのスケールに分離される。
(A)ミクロ時間(ミリ秒〜秒)
感覚入力の処理
予測誤差の更新
即時的推論
(B)メゾ時間(日〜月)
生成モデルの局所的更新
精度構造の再調整
習慣・方略の形成
(C)マクロ時間(年〜生涯)
生成モデル全体の長期的変移
ロバストネスの定常点の推移
自伝的自己の変容
老化過程は、主としてマクロ時間において進行するが、それはミクロ・メゾレベルの累積的変化によって駆動される。
2.3.2 ゆらぎと非単調性
重要なのは、老化過程が完全に単調ではない点である。
生成モデルの変化は、確率的ゆらぎを含む。
$$\frac{dm_t}{dt} = \mu(t) + \sigma \eta(t)$$
$\mu(t)$: 平均的なドリフト(概ね単調な変移)
$\eta(t)$: 確率的ノイズ(揺り戻し、一時的回復)
このゆらぎが、代償的再編成の可能性を開く。
2.4 FEPから老化理論へ
以上のFEPの基礎概念を踏まえると、老化は次のように再定義される。
老化とは、自由エネルギー最小化系において、生成モデル $m_t$ および精度構造 $\pi_t$ が長期的かつ不可逆的に変移し、それに伴って自由エネルギー地形の安定極小点(ロバストネスの定常状態)が時間とともに推移する過程である。
しかしこの定義は、老化過程そのものの記述であり、老いの意識の記述ではない。次章では、この区別を理論的に確立する。
第3章 老化過程と老いの意識の形式的区別
3.1 老化過程と老いの意識の形式的区別の必要性
本章では、従来一括して論じられてきた「老い(aging)」と「老いの意識」を、理論的に明確に区別する。その理由は、老化過程それ自体と、その過程が主体にどのように経験・了解されるかとでは、時間構造・不可逆性・出来事性の水準が異なるからである。
とりわけ自由エネルギー原理(FEP)とカタストロフィー理論を統合する本研究においては、カタストロフィー概念を老化過程そのものに直接帰属させることは、老いを単一の崩壊的出来事へと還元する危険を孕む。本章の目的は、老いをロバストネスの変移過程として、老いの意識をその過程が了解される形式として再定義し、両者の理論的位置づけを整理することにある。
3.2 老化過程の定義:非出来事的変移
3.2.1 老化過程の定義
定義1(老化過程)
老化過程とは、自由エネルギー最小化系において、生成モデルおよび精度構造が長期的かつ不可逆的に変移し、それに伴ってロバストネスの定常点(安定的推論状態)が時間とともに再配置され続ける過程である。
この定義において決定的なのは、老化過程の以下の性格である。
3.2.2 非出来事性
老化過程は、単一の決定的出来事として生起するのではなく、連続的・漸進的な変移として進行する。
FEP的に言えば、自由エネルギー地形 $F(x, m_t)$ において、制御パラメータ $m_t$ が緩慢に変化することで、極小点 $x^*(t)$ の位置が連続的に推移する。
$$x^(t) \to x^(t + \Delta t) \quad \text{(連続的推移)}$$
これは、カタストロフィー理論における極小点の消失(fold)とは異なる。極小点は存在し続けるが、その位置が変わるのである。
3.2.3 多重スケール性
老化過程は、身体的・神経的・認知的諸水準において異なる時間スケールで進行し、それらが必ずしも同期しない。
視覚機能の低下(数年)
筋力の低下(数ヶ月〜年)
記憶機能の変化(数年〜十年)
自伝的自己の変容(十年〜生涯)
これらは独立に進行し、相互に影響を与え合うが、単一の時間軸に還元されない。
3.2.4 揺らぎと代償の共存
局所的な機能低下や不整合は、代償的再編や一時的回復と併存しうる。
FEP的には、ある機能領域 $i$ の精度 $\pi_i$ が低下しても、別の領域 $j$ の精度 $\pi_j$ を上昇させることで、全体的な自由エネルギーを低く保つことが可能である。
$$\pi_i \downarrow \quad \Rightarrow \quad \pi_j \uparrow \quad \text{(代償的精度再配分)}$$
この意味で老化過程は、単調な劣化ではなく、代償を伴う再編成過程である。
3.3 老いの意識の定義:ヒステリシスを伴う了解構造
3.3.1 老いの意識の定義
老化過程が非出来事的な変移であるのに対し、主体はしばしば老いを「何かが起きた」という形で経験する。この経験様式を記述するために、本研究では「老いの意識」という概念を導入する。
定義2(老いの意識)
老いの意識とは、老化過程において生じる局所的な破綻、不整合、あるいは代償の失敗が、自伝的自己の生成モデルにヒステリシス(履歴効果)を生じさせ、老いが「起こりうるもの」「すでに自分に属しているもの」として了解の地平に不可逆的に組み込まれる推論様式である。
3.3.2 ヒステリシスの意味
ここで言うヒステリシスとは、単なる記憶効果や感情的痕跡ではなく、生成モデルの更新履歴が、その後の推論空間そのものを変形してしまうことを意味する。
カタストロフィー理論における cusp catastrophe は、まさにこのヒステリシス構造を記述する。同じ制御パラメータの値でも、どの履歴を経てきたかによって、システムが落ち着く極小点が異なる。
一度この更新が生じると、主体はもはや「老いを知らなかった主体」として世界を理解することはできない。
3.3.3 不可逆性の性格
ただし、この不可逆性は、老いの意識が常に強く、持続的に前景化されることを意味しない。
老いの意識は、状況や文脈に応じて強まることもあれば希薄化することもある。不可逆なのはその強度ではなく、老いが理解可能性の地平に組み込まれてしまったという構造そのものである。
FEP的に言えば、高次生成モデルにおいて「老い」というカテゴリーが利用可能になり、それを用いた推論が可能になった、という意味での不可逆性である。
3.4 カタストロフィーの再配置:老いの意識の形式として
3.4.1 カタストロフィー理論の位置づけ
以上の区別を踏まえると、カタストロフィー理論の位置づけは次のように再定義される。
本研究において、fold や cusp といったカタストロフィーは、老化過程そのものを直接記述するものではない。それらは、老いの進行に伴って生じる局所的破綻が、主体の推論において出来事として立ち上がる形式を表す。
言い換えれば、カタストロフィーとは、老いが連続的変移としてはもはや扱えなくなり、推論上の位相転換として経験される瞬間の形式である。
3.4.2 Fold catastrophe:機能喪失の出来事化
Fold catastrophe は、次の状況を記述する。
ある機能領域 $i$ において、自由エネルギー地形の極小点が消失する。
$$\nabla_x F_i(x, m_t) = 0 \quad \to \quad \text{極小点なし}$$
これは主観的には、「昨日までできていたことが、今日はできない」という形で経験される。
重要なのは、これが老化過程全体の崩壊を意味しない点である。それは局所的な機能喪失であり、他の領域は維持されている。
3.4.3 Cusp catastrophe:代償の履歴依存性
Cusp catastrophe は、次の状況を記述する。
ある機能領域において、二つの安定状態が共存し、どちらに落ち着くかが履歴に依存する。
これは、代償的再編成の過程に対応する。
従来の方略(極小点A)
新しい代償的方略(極小点B)
どちらが選択されるかは、過去の経験・試行の履歴に依存する。そして一度Bに移行すると、Aには戻れない(ヒステリシス)。
3.4.4 反復的生起の可能性
この形式は、身体的・認知的水準で反復的に生起しうる。
歩行機能の変化(fold)
記憶方略の切り替え(cusp)
視覚補償の成立(cusp)
社会的役割の再定義(cusp)
それらの累積が、老いの意識を深化させ、自伝的自己の了解構造に不可逆的変化をもたらす。
3.5 不可逆性の所在
本研究における不可逆性は、老化過程そのものよりも、老いの意識の水準において本質的である。
3.5.1 老化過程の部分的可逆性
老化過程は、揺らぎや一時的回復を含む長期的変移過程であり、その進行は必ずしも単調ではない。
一時的な体調の回復
代償方略の成功による機能維持
環境・支援の変化による改善
これらは、老化過程の部分的可逆性を示している。
3.5.2 老いの意識の構造的不可逆性
しかし、老いが意識において出来事化され、自伝的自己の生成モデルにヒステリシスを生じさせた後には、主体はその更新以前の理解様式へと回帰することができない。
たとえ一時的に機能が回復しても、それは「回復した」として経験される。すなわち、「老い」という範疇を経由した理解である。
この意味で、老いの意識の不可逆性とは、経験内容の固定ではなく、経験が反復されるたびに前提とされる理解地平の不可逆的変化を指す。
3.6 時間の多層性
前章(第2章)で示した三層時間構造は、老化過程と老いの意識の区別によって、次のように再配置される。
この多層性により、次が説明される。
老化過程は連続的だが、老いの意識は不連続的出来事を含む
老化過程には揺らぎがあるが、老いの意識には不可逆的蓄積がある
両者は独立ではなく、相互に影響を与え合う
3.7 本章の位置づけ
本章で導入した区別により、次章以降で扱われる音楽作品分析は、老化過程そのものの描写としてではなく、老いの意識がとりうる推論様式の形式化として理解されることになる。
この整理は、後期様式を死への物語へと回収する解釈を回避しつつ、その倫理的緊張と時間構造を保持するための理論的前提をなすものである。
第4章 分析方法と理論的位置づけ
4.1 本研究の分析対象
本研究が分析対象とするのは、音楽作品における「老化過程」そのものではない。分析の対象となるのは、老いが意識においてどのような形式で了解されうるか、すなわち「老いの意識」がとりうる推論様式の構造である。
この区別は決定的である。老化過程は、生物学的・時間的に進行する変移過程であり、音楽作品がそれを直接に描写することはできない。一方で音楽作品は、時間構造・反復・期待・破綻といった形式操作を通じて、主体が老いをどのように経験し、理解し、引き受けるかという意識の形式を抽象化し、可聴化することが可能である。
したがって本研究は、音楽作品を老化過程の表象として読むのではなく、老いの意識が作動する形式的条件を検討するためのモデルとして扱う。
4.2 不可逆性の再定義と音楽的時間
4.2.1 不可逆性の二重性
前章で示したように、本研究における不可逆性は、生物学的老化の不可逆性ではなく、意識の了解構造に生じる不可逆性である。
この不可逆性は、時間の一方向的流れそのものではなく、経験が反復されるたびに前提とされる理解地平が更新されてしまうという点に存する。
4.2.2 音楽的時間の特権性
音楽作品は、本来的に反復可能である。
演奏は何度でもなされる
聴取経験もまた反復されうる
同一の楽曲を異なる時点で聴くことができる
しかしその反復は、常に同一の理解地平において生じるわけではない。聴取主体は、すでに聴いたという事実を抱えたまま次の聴取に臨み、その履歴が期待や意味付けの構造を変形する。
この点において音楽的時間は、ヒステリシスを伴う意識の時間構造を可視化する特権的な場である。本研究は、この音楽的時間の性格を、老いの意識の形式的アナロジーとして位置づける。
4.2.3 聴取経験における不可逆性
具体的には、次のような経験が該当する。
展開部で生じた不協和は、再現部の聴取に影響を与える
一度「壊れた」主題は、もはや無垢には聴けない
終楽章を知った後では、第1楽章の聴取が変わる
これらはすべて、了解構造のヒステリシスの例である。
4.3 カタストロフィー理論の方法論的位置
4.3.1 カタストロフィーは図式ではない
本研究においてカタストロフィー理論は、音楽作品に内在する連続的変化を単純化して説明するための図式ではない。
カタストロフィー理論は、連続的な変移が、意識においてもはや連続として扱えなくなる境界条件を記述するための理論的装置として用いられる。
4.3.2 聴取主体の推論破綻
すなわち、fold や cusp といったカタストロフィーは、音楽的進行そのものの崩壊を意味しない。それらは、聴取主体の予測が局所的に破綻し、推論の様式が切り替わらざるをえなくなる瞬間の形式を表す。
FEP的に言えば、
予測誤差が急激に増大する
生成モデルの更新が追いつかない
精度配分の再調整が必要になる
という状況である。
4.3.3 反復的生起の可能性
この切り替えは、単発的で決定的な出来事として生じる場合もあれば、反復的・漸進的に経験される場合もある。
本研究は後者の可能性を重視し、カタストロフィーを老いの意識が深化していく過程の中で反復的に生起しうる形式として捉える。
4.4 楽章順序と了解構造の時間性
4.4.1 楽章順序の問題
以上の方法論的整理を踏まえると、交響曲における楽章順序の問題は、生物学的時間の直線的進行を表象するものとしてではなく、了解構造がどのような順序で変形されていくかという問題として再定式化される。
4.4.2 マーラー第9における必然性
とりわけマーラーの第9交響曲において問題となる楽章配置の必然性は、「死に向かう過程」の描写として理解される必要はない。
本研究ではむしろ、それを老いの意識が不可逆的に深化していく形式的順序として読み解く。
第1楽章: 老いの意識の成立(ヒステリシスの獲得)
第2楽章: 身体的次元での反復
第3楽章: 認知的次元での極限化
第4楽章: 別様の了解様式への転位
4.4.3 終楽章の位置づけ
この理解において、終楽章は時間の終点を意味しない。
それは、すでに変形されてしまった了解構造のもとでのみ成立する聴取様式を提示する場として位置づけられる。
終楽章は「死」ではなく、「老いの意識を経た後の時間」を形式化している。
4.5 分析の具体的手続き
本研究は、音楽作品を自由エネルギー関数そのものとして定式化することを目的としない。しかし同時に、比喩的対応にとどまることも意図していない。本稿で用いられる fold / cusp の概念は、
楽曲全体の巨視的構造
局所的な和声・動機の変化
のいずれにも一対一的に対応づけられるものではなく、聴取主体の生成モデル更新が不可避となる臨界条件の形式として用いられる。
したがって、本研究における数理的対応の粒度は、**「音楽的出来事」ではなく「推論様式の転換」に設定されている。
以上の理論的前提に基づき、次章以降の分析は次の手続きに従う。
音楽的特徴の記述: 形式、和声、動機、リズム、テクスチュアなどの客観的特徴を記述する
聴取経験の現象学: それらが聴取主体にどのように経験されるかを、FEP的語彙(予測、誤差、精度配分)を用いて記述する
カタストロフィーの同定: 予測が破綻し、推論様式の切り替えが生じる局面を、fold/cuspとして同定する
ヒステリシスの分析: それらの経験が、その後の聴取にどのような不可逆的影響を与えるかを分析する
了解構造の変形: 楽章全体を通じて、老いの意識がどのように成立・深化・転位するかを記述する
(続く)
[後記] 本稿は著者が基本的な着想や理論構成を与え、研究パートナーとしてClaude Sonnet 4.5 やChatGPT 5.2との対話を繰り返すことを通じて作成されました。上記のテキスト中には、Claude Sonnet 4.5やChatGPT 5.2が生成した文章およびそれを編集したものが含まれます。
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