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2026年1月24日土曜日

自由エネルギー原理による老化と後期様式の統合的理解に向けて:マーラー第9交響曲の解釈(中)

 

5. マーラーの創作における一貫した唯名論性と後期様式

5.1 マーラーと形式の問題:一貫した唯名論性

アドルノが指摘するマーラーの「唯名論的」性格は、必ずしもその後期様式に特有のものではない。マーラーはその初期から、既存の形式に対して批判的であり、各作品において独自の形式的解決を模索してきた。交響曲第3番(1895-96)の極端なまでに独創的な構造、あるいは初期交響曲における試行錯誤と改訂の多さは、マーラーが普遍的な形式規範を前提とせず、常に具体的な表現内容から形式を構築しようとしていたことを示している。

この意味で、マーラーは生涯を通じてアドルノ的な意味での唯名論的作曲家であった。問題は、この一貫した唯名論性が、彼の創作の各段階においてどのように実現されたかという点にある。そしてここに、ジンメルの老齢芸術論が示唆する創作主体の在り方の変容が関わってくる。

5.2 壮年期の達成:交響曲第6番における「崩壊の形式」

5.2.1 第6交響曲の位置づけ

交響曲第6番イ短調(1903-04年作曲、1906年初演)は、マーラーの壮年期、創作力の頂点における作品である。この作品における形式の扱いは、彼の唯名論的態度の一つの到達点を示すと同時に、後期作品との比較において重要な基準点となる。

第6交響曲は、一見すると古典的な交響曲形式に最も忠実な作品に見える。4楽章構成、明確な調性構造(イ短調/イ長調)、主題の循環と展開------これらはすべて、ベートーヴェン以来の交響曲の伝統に則っている。しかしマーラーは、この伝統的形式を「崩壊」の形式として性格付けることに成功している。

5.2.2 終楽章における崩壊の組織化

特に終楽章において、この達成は明確である。終楽章は巨大なソナタ形式として構築されているが、その展開は勝利や達成ではなく、段階的な崩壊の過程として組織されている。ハンマー打撃は、形式外的な「事件」として音楽に介入するが、重要なのは、これらが恣意的な破壊ではなく、形式の論理的展開の内部に組み込まれている点である。ハンマーは、崩壊を「描写する」装置ではなく、音楽形式そのものの崩壊的性格を顕在化させる契機となっている。

長調/短調モットーの機能

第6交響曲全体を貫く構造的核心は、イ長調主和音→イ短調主和音という直接連結のモットーである。このモットーは第1楽章において、第1主題(イ短調)の提示後、第2主題への推移の直前に初めて挿入される。ここでは:

  • イ長調の主和音(明るさ、希望の瞬間的開示)

  • それを即座に否定するイ短調の主和音への転落

  • この対比が、全曲を支配する「勝利の不可能性」を予告

このモットーは全楽章を通じて反復され、特に終楽章において決定的な意味を持つ。伝統的な交響曲では、短調から長調への転換が「勝利」「達成」を象徴する。しかし第6交響曲では、この転換が何度も試みられながら、モットーによって即座に否定される。長調への到達は、常にすでに崩壊の予兆を内包している。

主題の動機的関連

終楽章の主題群は、第1楽章の主題と密接な動機的関連を持つ。特に重要なのは:

  • 第1楽章第1主題と終楽章主要主題:動機的素材を共有し、英雄的性格を継承

  • 第1楽章第2主題と終楽章副次主題:少なくとも同程度、あるいはそれ以上に強い連関を持つ

この動機的連関により、終楽章は第1楽章で提示された主題的世界を、新たな文脈で再解釈し、その帰結を提示する。しかし重要なのは、これらの主題が「そのまま」再現されるのではなく、終楽章固有の運命的・破局的文脈において再構成されている点である。

展開部における闘争の累積とハンマー打撃

展開部は、断片化や減衰ではなく、むしろ絶えざる闘争として展開する。主題素材は激しく展開され、緊張は累積し、葛藤のエネルギーは高まり続ける。これは壮年期マーラーの一人称的能動性の音楽的実現である。

そしてこの緊張の累積が頂点に達したとき、ハンマーの打撃を契機として一気にエネルギーの解放・減衰が生じる。これは第9交響曲における静かな解体とは根本的に異なる、中期交響曲固有の「崩壊の論理の形式化」である:

  • 第6交響曲(壮年期):エネルギーの累積→頂点→劇的崩壊

  • 第9交響曲(後期):エネルギーの不在、崩壊の中での漂流

展開部における一度目、二度目のハンマー打撃は、この闘争の論理における決定的な打撃の瞬間を刻印する。それまで高まり続けた緊張が、打撃によって破壊され、音楽は一気に力を失う。

自由エネルギー原理的解釈(展開部のハンマー)

  • 展開部=予測誤差最小化への持続的試み、高まる自由エネルギー

  • ハンマー打撃=予測軌道の暴力的断絶、システムへの外的打撃

  • 打撃後の減衰=自由エネルギー最小化の試みの挫折

ハンマー打撃と再現部の構造的転倒

二度のハンマー打撃の後、再現部が訪れる。しかしここで決定的な構造的転倒が生じる:

伝統的ソナタ形式の再現部

  • 第1主題(主調で)→第2主題(主調で)

  • 提示部の順序を保持しながら、調性的統一を達成

  • これが「総合」「勝利」を意味する

第6交響曲終楽章の再現部

  • 主題の提示順序が逆転

  • 第2主題群(イ長調、副次的主題)が先に再現される

  • つかの間の希望、勝利への可能性の開示

  • しかし続いて第1主題(イ短調、主要主題)が登場し、この希望を否定する

  • これは長調/短調モットーの拡大版:長調の束の間の輝き→短調による打ち消し

この構造は、ハンマー打撃が単なる外的事件ではなく、形式の論理そのものを組織していることを示している。ハンマー打撃は、再現部において「あるべき」総合を不可能にし、主題の提示順序の転倒という形式的変形を要請する。つまり、崩壊は形式の外部から侵入するのではなく、形式の展開の論理そのものが崩壊を生成する。

コーダにおける最終的崩壊と三度目のハンマー(初演版)

展開部の終わりで音楽はイ長調に到達する。しかしコーダは序奏の再現としてイ短調で開始される。この時点で、すでに崩壊は決定的である。

コーダ自体が最終的なイ短調の確立として機能する。ここで長調/短調モットーが最後に現れるが、イ長調の和音はモットーの冒頭、一瞬響くだけで短調へと戻っていく。これは「イ長調への最後の転換の試み」というよりも、むしろ希望の最後の残滓が消滅する瞬間である。

ハンマー打撃の構想過程と構造的論理

マーラーのハンマー打撃に関する構想の変遷は、「崩壊の形式」という構造的論理の精錬過程を示している。草稿完成後、マーラーは5回のハンマー打撃を追加することを思い立った:

  • 第9小節(1回目)

  • 第336小節(2回目)

  • 第479小節(3回目)

  • 第530小節(4回目)

  • 第783小節(5回目)

しかし初演前に1回目と4回目を削除し、初演時には2回目、3回目、5回目の3回となった。

ここで重要なのは、5回の打点が構造的に二つのタイプに分かれるという点である:

タイプA(1回目・4回目・5回目)

  • 長調主和音→短調主和音連結のモットーの頭で鳴らされる

  • この楽章は提示部に先立って長大な序奏を持つ

  • 序奏は増五六(ドイツの六)の和音で始まり、高音ヴァイオリンの旋律が閉じるタイミングでモットーが鳴らされる

    • 1回目:提示部の序奏のモットー(第9小節)

    • 4回目:再現部の序奏のモットー(第530小節)

    • 5回目:コーダの序奏のモットー(第783小節)

  • つまりタイプAは、各主要セクションの入口において、モットーと一体化してその否定的性格を強調する機能

タイプB(2回目・3回目)

  • 展開部における闘争の頂点

  • エネルギーの累積から解放への転換点

  • モットーとは独立した、展開プロセスそのものへの打撃

構造的機能の差異

  • タイプA:モットー(長調→短調の即座の否定)の象徴的強調、各セクションの開始における「運命の宣告」

  • タイプB:闘争の過程そのものへの介入、緊張の頂点における破壊

マーラーが構想段階で1回目と4回目(ともにタイプA)を削除したということは、彼が:

  1. タイプAとタイプBの構造的機能の質的差異を認識した

  2. タイプAの機能(モットーの強調)は、ハンマーなしでもモットーそのものが十分に果たせると判断した

  3. タイプBの機能(闘争過程への打撃)こそが、ハンマーの本質的役割であると認識した

したがって、改訂版で5回目(初演時の3回目、タイプA)も削除したのは、この構造的論理の最終的な一貫化である:

  • タイプBのみ(展開部の2回)を残すことで

  • ハンマーの機能が「闘争の頂点における決定的打撃」に統一される

  • タイプAの機能(モットーの強調、運命の宣告)は、モットーそのものに委ねられる

  • 特にコーダの5回目は、すでに崩壊が決定した後であり、モットーの一瞬の長調→短調の推移が、ハンマーなしでも十分に希望の最後の消滅を示す

自由エネルギー原理的解釈

  • タイプA:各セクションの開始時における「予測の否定の予告」、長調(希望)→短調(絶望)という予測軌道の即座の反転をハンマーで物理的に刻印

  • タイプB:高まった自由エネルギー(闘争)の暴力的解放、予測誤差最小化の試みの挫折

改訂版の2回のハンマーは、いずれもタイプBとして、形式の論理的展開における同一の構造的機能------闘争の挫折------を果たす。これにより「崩壊の形式」は、より洗練された構造的一貫性を獲得した。

タイプAの削除の意味

提示部、再現部、コーダの各序奏におけるモットーは、ハンマーの打撃なしでも、その構造的機能を十分に果たす。むしろハンマーの打撃を伴わないことで:

  • モットーの音楽的必然性がより明確になる

  • ハンマーが「闘争の挫折」という固有の機能に集中できる

  • 形式全体の構造的明晰さが増す

コーダにおける崩壊の確定は、三度目のハンマーなしに、長調/短調モットーそのもの------増五六の和音で始まる序奏の後、高音ヴァイオリンの旋律が閉じた瞬間に訪れるモットーの、一瞬の長調の輝きとその即座の短調への転落------によって、より音楽的に、より必然的に達成される。

自由エネルギー原理的解釈の全体像

  • 長調/短調モットー:予測(希望)と実際(絶望)の即座の乖離を形式化

  • 展開部の闘争:高まる自由エネルギー、予測誤差最小化への執拗な試み

  • 展開部のハンマー(1・2回目):闘争の挫折、エネルギーの暴力的解放

  • 再現部の主題順序転倒:期待される予測軌道の破壊

  • コーダのイ短調開始:生存可能領域からの逸脱の確定

  • コーダのモットー(±3回目のハンマー):最後の希望の消滅


自由エネルギー原理による「崩壊の形式」の定式化

第6交響曲終楽章は、高い自由エネルギー状態(予測と実際の持続的乖離、激しい闘争)を形式の論理として組織化している。ソナタ形式の目的論的構造は保持されながらも:

  • 展開部は総合ではなく打撃による挫折へ

  • 再現部は統一ではなく順序の転倒へ

  • 終結部(コーダ)は勝利ではなく崩壊の確定へ

形式は機能しているが、その機能は破局を組織化することである。これが「崩壊の形式」の本質であり、第9交響曲の「崩壊の中での展開」とは質的に異なる、壮年期マーラーの達成なのである。

5.2.3 「崩壊の形式」と形式との対決

ここで決定的に重要なのは、マーラーが「形式の崩壊」ではなく「崩壊の形式」を実現している点である。彼は形式を破壊しているのではなく、崩壊そのものを形式の内的論理として組織化している。第6交響曲の終楽章は、ソナタ形式の枠組みを保持しながら、その目的論的構造------提示から展開を経て総合へ------を反転させる。音楽は前進するが、それは達成ではなく崩壊への前進である。形式は機能しているが、その機能は破局を組織化することである。

この達成において注目すべきは、マーラーと客観的形式の緊張関係である。壮年期のマーラーは、形式の伝統を完全に習得した上で、その内的論理と格闘している。彼は形式の可能性を極限まで追求し、その限界において崩壊を実現する。ここには、客観的形式に対する批判的対決の姿勢がある。形式は依然として、乗り越えるべき対象として主観の外部に立っており、この緊張が作品の劇的な力を生み出している。

5.2.4 自由エネルギー原理による解釈

第6交響曲における「崩壊の形式」は、自由エネルギー原理では以下のように理解できる:

形式との対決

  • 伝統的形式=高精度の文化的事前分布(ソナタ形式の目的論)

  • マーラーの内容=この事前分布に反する予測誤差(悲劇的結末)

  • 創作=形式の論理を極限まで追求しつつ、その帰結を反転させる

  • 高い自由エネルギー状態=形式的予測と実際の展開の持続的乖離

崩壊の組織化

  • ソナタ形式の目的論=提示→展開→再現→勝利への予測軌道

  • マーラーの達成=この予測軌道を保持しながら、終点を崩壊に設定

  • ハンマー打撃=予測外の事象だが、形式の論理に統合される

  • これは「予測の裏切り」の形式化

壮年期の主観

  • 一人称的能動性=「私は闘い、私は敗北する」

  • 主観と客観(形式、運命)の明確な対立

  • 情熱の燃焼=高い自由エネルギーを維持する意志

しかし、このような「崩壊の形式」は、いかなる創作主体においても普遍的に成立するわけではない。それは、なお主観が高い能動性を保持し、未来を展望可能なものとして経験し得る時間的位相においてのみ可能な達成である。第6交響曲において前提されているのは、「私は闘い、私は敗北する」という一人称的時間構造であり、そこでは敗北そのものが、なお行為の帰結として意味づけられている。このような主観においては、高い自由エネルギー状態——すなわち予測と実際の持続的乖離——を、闘争の緊張として維持し続けることが可能である。

しかし老いにおいて、時間経験は質的に変容する。未来はもはや開かれた可能性空間としてではなく、縮減しつつある地平として経験され、予測は長期的展望を失い、短期的・断片的な調整へと移行する。このような時間性のもとでは、形式との対決としての闘争は、その前提を失う。したがって、第6交響曲において成立した「崩壊の形式」は、後期作品においてそのまま反復されるのではなく、むしろ不可能となるべきモデルとして、限界を露呈することになる。この限界の自覚こそが、マーラーの創作を後期様式へと不可逆的に押し進める契機となるのである。

5.3 老いの時間性と既存形式の不適切性


前節で見たように、交響曲第6番においてマーラーは、形式と能動的に対決し、その内的論理を極限まで押し進めることによって、「崩壊の形式」と呼ぶべき達成に到達した。しかしこの達成は、主観がなお未来を展望可能なものとして経験し、「闘争」として高い緊張を維持し得る時間的位相を前提としていた。本節で問題となるのは、この前提そのものが崩れる局面である。老いにおいて時間はもはや前進や企投としてではなく、縮減、反復、あるいは消滅への接近として経験される。この質的に異なる時間性のもとでは、既存の形式を対決すべき対象として外在化すること自体が困難となり、結果として、壮年期において有効であった形式的戦略は、そのままでは生きられた時間を表現しえなくなる。本節では、この老いの時間性の変容が、なぜ既存の音楽形式を不適切なものとし、後期マーラーの創作を別様の方向へと押し出したのかを、理論的に検討する。

5.3.1 老いにおける時間経験の質的変化

マーラーの後期作品、特に交響曲第9番ニ長調(1909-10)を理解するためには、まず老いという生の位相における時間経験の質的変化を考慮する必要がある。

老いにおける時間経験は、青年期や壮年期のそれとは根本的に異なる。時間は未来への前進としてではなく、記憶の断片化、現在の引き延ばし、あるいは消滅への接近として経験される。過去の自己と現在の自己の連続性が自明ではなくなり、自己は断片の集積として経験される。そして死が、抽象的な可能性ではなく、具体的な接近として実感される。

5.3.2 形式の目的論的時間構造

古典的なソナタ形式や交響曲形式は、本質的に目的論的時間構造に基づいている。提示部から展開部を経て再現部へ、そして終結部へという進行は、統一的主題の論理的展開と回帰、そして達成という物語を前提としている。これは壮年期の時間経験------未来への企投、目的の追求、自己実現------に対応した形式である。

しかし老いの時間性は、この目的論的構造を裏切る。未来は閉ざされ、展開は解体へと転じ、回帰は同一性の確認ではなく喪失の確認となる。したがってマーラーにとって、既存の形式を「そのまま」用いることは、生きられた時間性を偽ることになる。

5.3.3 自由エネルギー原理による理解

老いの時間性と形式の不適合は、自由エネルギー原理では:

若年期/壮年期の時間モデル

  • 未来=拡張可能な可能性空間

  • 予測=長期的展開への高精度の見通し

  • 古典的形式=この時間モデルに対応した生成モデル

老年期の時間モデル

  • 未来=縮減する可能性空間

  • 予測=短期化、断片化、不確実性の増大

  • 古典的形式=もはや経験される時間性に対応しない

形式の不適切性

  • 古典的形式を用いること=過去の時間モデルへの固執

  • 失調的様態=現在の経験と過去の予測モデルの持続的乖離

  • 高い自由エネルギー=偽りの表現

以上の検討から、老いにおける時間経験の変容は、既存の音楽形式、とりわけ目的論的時間構造を前提とする交響曲形式と、構造的な不適合を生じさせると考えられる。老いにおいては、未来はもはや拡張可能な企投の地平としてではなく、縮減しつつある時間的近接として経験され、予測は長期的展望を失い、断片的・局所的調整へと移行する。このような時間性のもとでは、形式は対決すべき客観的枠組みとして外在化されるのではなく、主観の時間経験そのものが直接的に形式へと流れ込み、その機能を内側から変質させる。


自由エネルギー原理の観点からすれば、これは、過去に有効であった高精度の生成モデルが現在の経験に適合しなくなり、持続的な予測誤差を生み出す状態として理解できる。既存形式への固執は、この予測誤差を増大させ、高い自由エネルギー状態として経験される。したがって老いにおける創作においては、壮年期のように形式との闘争を通じて崩壊を組織化することは困難となり、形式そのものが、老いた意識の時間性に応じて別様に変容せざるを得ないという仮説が導かれる。

5.4 結語


本章では、マーラーの創作に通底する唯名論的態度を確認した上で、壮年期における最大の達成として交響曲第6番を位置づけ、さらに老いにおける時間経験の変容が、既存の音楽形式を不適切なものとする理論的条件を検討してきた。ここで明らかになったのは、後期様式とは、形式の放棄や破壊ではなく、主観の時間性そのものが変容することによって、形式が内側から機能不全へと導かれる事態であるという見通しである。


しかし、この見通しは、なお理論的仮説の段階にとどまっている。次章では、これらの理論的要請が、マーラーの交響曲第9番において、いかなる音楽的時間構造として具体化しているのかを検討する。そこでは、第6交響曲においてなお可能であった形式との能動的対決がいかにして失効し、崩壊が出来事ではなく過程として経験される音楽へと移行していくのかが、楽章ごとの分析を通じて明らかにされるであろう。

6. 交響曲第9番の分析:後期様式における形式との向き合い方の変容


前章では、マーラーの創作に一貫する唯名論的態度を確認した上で、交響曲第6番における「崩壊の形式」を、壮年期における最大の達成として位置づけ、さらに老いにおける時間経験の変容が、既存の音楽形式を不適切なものとする理論的条件を検討した。本章では、これらの理論的要請を踏まえ、マーラーの後期様式が実際にいかなる音楽的時間構造として現れているのかを、交響曲第9番の分析を通じて具体的に明らかにする。そこでは、形式との能動的対決を前提としていた壮年期のモデルがもはや成立せず、崩壊が単一の出来事としてではなく、音楽の進行そのものに内在する過程として経験される事態が、各楽章に異なる相貌をもって現れていることが示されるであろう。

6.1 第6交響曲との根本的差異

交響曲第9番においても、マーラーは伝統的形式の枠組みを完全に放棄してはいない。第1楽章についても構造的にソナタ形式が基本的な枠組みとして採用されていることは認識できる。しかし第6交響曲との決定的な違いは、形式に対する主観の距離感にある。

6.1.1.第6交響曲における形式との関係:対決と緊張

第6交響曲終楽章において、マーラーは伝統的なソナタ形式の枠組みを堅固に保持しながら、その目的論的構造―提示から展開を経て総合へ―を内側から転倒させた。音楽は前進するが、それは達成ではなく崩壊への前進である。形式は機能しているが、その機能は破局を組織化することである(詳細は5.2節参照)。

ここで重要なのは、マーラーが形式の内的論理と格闘していたという点である。壮年期のマーラーは:

  • 形式の伝統を完全に習得した上で、その内的論理を極限まで追求する

  • 形式の可能性を徹底的に探求し、その限界において崩壊を実現する

  • 客観的形式に対する強い批判的緊張関係を維持する

  • 形式は依然として、乗り越えるべき対象、主観の外部に立つ規範として存在する

この緊張が、第6交響曲の劇的な力を生み出している。

6.1.2.第9交響曲における形式との関係:透過と無頓着

第9交響曲では、この緊張関係が根本的に変容している。マーラーは形式と格闘するのではなく、形式を通過するかのように作曲している。ここで言う「透過」とは:

(1)形式の規範性の希薄化

  • 伝統的形式(ソナタ形式等)の枠組みは認識可能だが、その拘束力が弱まっている

  • 形式は厳密に遵守すべき規範ではなく、緩やかな参照枠に過ぎない

  • ジンメル的「形式への無頓着」:老いた芸術家は外的形式規範に対して無関心になる

(2)形式と主観の対立の消失

  • 第6交響曲では、主観(内容)と客観(形式)の緊張・対立が作品の推進力だった

  • 第9交響曲では、この対立自体が消失している

  • 形式は対決すべき対象ではなく、主観の在り方が自然に流れ込む媒体となる

(3)主観の在り方の直接的形式化

  • 第6番:形式の論理を追求し、その帰結を転倒させる=形式への批判的介入

  • 第9番:老いた主観の在り方(時間性、断片化、消滅)が、媒介なしに形式となる

  • ジンメル的「主観の在り方がそのまま形式となる」状態の実現

この変容の具体的様相は、以下の各節で詳細に分析する:

  • 6.2節:第1楽章における「崩壊」の性格の変容(闘争の帰結→内的過程)

  • 6.3節:第2・3楽章における失調的様態

  • 6.4節:第4楽章における再調整された意識と客観性の獲得

  • 6.5節:終楽章アダージョという構造選択の意味

自由エネルギー原理的定式化

この差異は、予測システムの変容として以下のように理解できる:


第6交響曲

第9交響曲

文化的事前分布(形式)

高精度、強い拘束力

低精度、弱い拘束力

主観と形式の関係

対立・緊張

媒介なき透過

創作プロセス

形式の論理を追求→転倒

主観の在り方が直接形式化

自由エネルギー状態

高(持続的緊張)

変動的(終楽章で低)


6.2 第1楽章の構造:ソナタ形式の透過と崩壊の様相の変容

6.2.1 第6交響曲終楽章との根本的対比

第9交響曲第1楽章を理解するためには、まず第6交響曲終楽章における「崩壊の形式」との対比が不可欠である。

第6交響曲終楽章の構造的原理

  • 長調/短調モットー:イ長調主和音→イ短調主和音の直接連結が、全楽章を貫く構造的核心として機能。希望の瞬間的開示と即座の否定を反復する

  • ハンマー打撃:展開部における闘争の頂点での決定的打撃。エネルギーの暴力的解放の契機

  • 崩壊の性格:闘争の累積→頂点→劇的崩壊という一回的、暴力的プロセス。形式の論理の徹底的追求の帰結として崩壊が組織化されている

第9交響曲第1楽章における根本的差異

第9交響曲第1楽章も、長調と短調の対比を構造的原理とするが、その在り方は根本的に異なる:

  • 長調/短調の関係:第6番では瞬間的転換と暴力的反転(対立と闘争)。第9番ではゆっくりとした推移と浸透的変容(交替と漂流)。主要主題(ニ長調、ノスタルジックな過去への郷愁)と副次主題(ニ短調、苦痛に満ちた現在)が、否定ではなく共存と相互変容の関係にある

  • 心臓の鼓動動機:第6番の長調/短調モットーに対応する構造的支柱だが、その機能は異なる。不規則な心臓の鼓動を思わせるこの動機は、生命維持の最も基本的なリズムでありながら、不規則に途絶え、再開する。バーンスタインが指摘した「不整脈」として、すでに病理的・崩壊的要素を内包している

6.2.2 崩壊の三様態と反復的時間構造

第1楽章において確認される複数回の崩壊は、単なる段階的減衰ではない。それぞれが異なる性格を持つ崩壊として現れ、その反復自体が楽章の時間構造を形作っている。

第1の崩壊(提示部末、92-107小節):到達の空虚さ

  • 音楽は頂点へ向かう運動を示すが、情熱的充溢に達することなく、独自の和声進行(ト短調主和音第2転回形)により、情熱を欠いた醒めた到達となる

  • 頂点に達する前に、内側から崩れ落ちる

  • 崩壊後、冒頭動機がホルンの弱音で回帰するが、その雰囲気は「くすんだ冷たい」ものへと変質している

第2の崩壊(展開部前半、練習番号9-11):時間の折り返しと滞留

  • 練習番号9の**Mit Wut(怒りをもって)**以降、暴力的な音楽が展開するが、練習番号11で崩壊

  • 重要なのは、崩壊後に冒頭動機への即座の回帰がないこと。代わりに副主題の展開(Leidenschaftlich)に繋がり、練習番号13直前のフェルマータ(構造的な「息継ぎ」)を経て、Schattenhaft(影のように)の領域を通過し、Tempo I Andanteで冒頭に回帰する

  • この複雑な迂回路こそが、第1の崩壊における即座の回帰とは質的に異なる、有機的な形式生成の契機である

  • (注:伝統的ソナタ形式分析では、この箇所は「展開部の途中」とされ、347小節Wie von Anfangが再現部とされるが、音楽の実質的な流れにおいては、Tempo I Andanteでの回帰こそが真の「折り返し点」として機能している。ラッツが指摘するように、この楽章は単純な形式分類を寄せ付けない構造を持つ)

  • 時間は前進するのではなく、折り返され、滞留する

第3の崩壊(展開部後半):生命の脈動から崩壊の打撃へ

  • 音楽が崩壊していく最中で、最強音でトロンボーン、チューバにより冒頭動機が2度繰り返される

  • ここでの冒頭動機は、もはや「生命の脈動」ではなく、「崩壊の契機」そのものとして機能する

  • これはマーラー固有の「変形の技法」の最も著しい例である。冒頭動機が当初から内包していた病理的・崩壊的性格(不整脈)が、変形を通じて顕在化する過程

  • その後、葬送行進曲風のパートを経て再現部に入る

反復的崩壊の意味

これらの崩壊は、いずれも決定的終止をもたらさない。むしろ崩壊は、楽章を推進する原理として反復され、時間そのものが崩壊の中で経過する

第6交響曲では、崩壊は闘争の帰結として一回的・劇的に生じた。第9交響曲では、崩壊はすでに存在様態そのものであり、上昇の試みそのものが崩壊を内包している。システムは自由エネルギー最小化を試みるが、安定した谷(アトラクター)がすでに希薄化している。

6.2.3 ソナタ形式の機能不全と形式の透過

この反復的崩壊の過程において、ソナタ形式は依然として認識可能な痕跡をとどめている。しかしそれはもはや、主題の対立と総合を組織する枠組みとして機能していない。

第6交響曲との対比

  • 第6交響曲:ソナタ形式の枠組みは堅固。提示部、展開部、再現部、コーダの境界は明確。主題の対立と(転倒された)総合という論理は強固。形式の論理を極限まで追求した上で転倒

  • 第9交響曲:ソナタ形式の枠組みは認識可能だが「緩い」。提示部、展開部、再現部の境界は曖昧。主題の対立と総合という論理は弱まる。音楽は漂流し、停滞し、断片化する

再現部の特徴:老いた姿での回帰

再現部において主題は回帰するが、その回帰は同一性の確認を意味しない。主題は変質し、衰弱し、「老いた姿」で現れる。提示部のような明確さや力を失っており、円環的完結をもたらさない。ここで回帰が示すのは、喪失の確認である。

第6交響曲終楽章の再現部では、主題の提示順序が構造的に転倒され(副次主題→主要主題)、これはハンマー打撃の帰結としての形式的変形であり、形式の論理の転倒であった。第9交響曲では、転倒ではなく、形式の機能不全(機能しないこと)が生じている。

アドルノ的唯名論の実現

第2の崩壊後の迂回路(Leidenschaftlich→「息継ぎ」→Schattenhaft→Tempo I Andante)は、アドルノが述べた唯名論的形式構築の実例である:

  • 伝統的な楽式の図式論(提示部→展開部→再現部)に囚われず

  • 音楽自体が生み出す時間性を重視

  • カテゴリを音楽から読み取り、唯名論的に形式を編み上げる

  • 音楽が自ら形式を生み出していく現場

第6交響曲では、形式との対決的関係があった。第9交響曲では、音楽は形式の図式的枠組みを透過し、自己の固有の時間性に従って展開する。

この点において、本楽章はジンメルが指摘した「老齢藝術」における形式への無頓着、すなわち主観の在り方が媒介なしに形式へと流れ込む状態を、音楽的に体現している。

6.2.4 自由エネルギー原理による位置づけ

第6交響曲終楽章

  • 高い自由エネルギー状態の持続→暴力的解放

  • 闘争=自由エネルギー最小化への能動的試み

  • ハンマー打撃=その試みの挫折

  • 形式=高精度の予測軌道、それを追求しつつ転倒させる

第9交響曲第1楽章

  • 崩壊は闘争の帰結ではなく、すでに存在様態そのもの

  • 予測モデルの低精度化。長期的展望に基づく生成モデルはもはや維持されず、音楽は短期的・局所的予測の反復によって辛うじて進行

  • 自由エネルギーは一方向的に低下するのではなく、反復的な上昇と崩壊を示す。高い緊張の持続も、明確な解放も存在せず、音楽は漂流する

  • 形式=低精度の予測枠組み、その中で音楽が漂流する

この状態は、老いの意識における時間経験――未来が縮減し、近接した現在のみが過剰に意識化される状態――と構造的に対応している。

ジンメル的理解

  • 第6:依然として形式(客観)と主観の対立あり、その対立の帰結としての崩壊

  • 第9:「主観と客観的『形式』との間の全対立の消滅」、崩壊は主観の在り方そのもの

シェーンベルク的理解

  • 第6:一人称的音調、「私は」という主語の明確な語り

  • 第9:客観的な証言、「もうひとりの隠れた作曲者」、主観の脱中心化

6.2.5 小結:第1楽章の限定された役割

交響曲第9番第1楽章は、老いた主観の時間性が、最初に音楽的に露呈する場である。ここでは、崩壊はすでに避けがたいものとして現れているが、なお受容には至っていない。

その意味で本楽章は、全曲の問題系を提示するにとどまり、解決や和解を担うものではない。続く第2・第3楽章において、過去の予測モデルへの固執と失調が経験されることによってのみ、終楽章における再調整と受容は、その必然性を獲得するのである。

6.3 第2・3楽章:舞曲楽章の変容と失調的様態

6.3.1 舞曲形式の残存という問題

交響曲第9番の第2楽章(Ländler)および第3楽章(Rondo-Burleske)は、伝統的舞曲・諧謔的形式を基盤としている点で、マーラーの交響曲群の中でも特異な位置を占める。これらの楽章は、少なくとも局所的には明確な拍節感、反復構造、舞曲的身振りを保持しており、完全な形式崩壊には至っていない。

しかし重要なのは、これらの形式が**「なお認識可能である」**という事実そのものが、すでに問題化されている点である。

第1楽章との対比

  • 第1楽章:ソナタ形式は機能不全に陥り、時間は漂流し、崩壊は内的過程として反復された

  • 第2・3楽章:形式はもはや自然に機能しないにもかかわらず、過去の形式が半ば強迫的に反復される

ここに現れているのは、形式の否定でも解体でもなく、形式への固執である。

6.3.2 第2楽章:Ländlerの歪曲とグロテスク化

Ländlerという舞曲形式の歴史的意味

Ländlerは、オーストリア・南ドイツの民俗舞曲であり、本来は:

  • 共同体的祝祭の場で踊られる

  • 身体的活力と素朴な歓喜を体現

  • マーラーの中期作品(特に第1、第3交響曲)では、生の充溢の象徴として用いられた

第9交響曲第2楽章における変容

マーラーはこの楽章に「Im Tempo eines gemächlichen Ländlers(ゆったりとしたレントラーのテンポで)」と指示し、さらに「Etwas täppisch und sehr derb(いくぶん不器用に、そして非常に粗野に)」と記している。

しかし音楽が示すのは、単なる素朴な粗野さではない:

テンポの不安定性

  • 頻繁なテンポ変化の指示(ritardando, accelerando, Tempo I subito)

  • 舞曲の定常的リズムが、絶えず揺らぎ、中断され、再開される

  • これは身体的リズムの不安定化、老いた身体がもはや一定のテンポを維持できない状態の音楽的投影

ワルツとの交替

  • Ländlerの粗野さと、より洗練されたワルツ的な部分が交替する

  • しかしいずれも、かつての充溢を欠いている

  • ワルツは甘美さを失い、Ländlerは暴力性を帯びる

音響的特徴

  • 極端なダイナミクスの対比(ffからppへの急激な転換)

  • 不協和音の挿入

  • オーケストレーションの粗さ(金管の咆哮、打楽器の乱打)

グロテスクとしての舞曲

これらの変容により、舞曲はグロテスクなものへと変貌する。グロテスクとは、ここでは:

  • 身体性の誇張と歪曲

  • かつて自然であったものが、不自然に見える状態

  • 喜劇的であると同時に不穏、滑稽であると同時に痛切

第2楽章は、老いた身体が、若い頃の身体的記憶(舞曲を踊る身体)を再現しようとして、しかし失敗する過程を音楽化している。

6.3.3 第3楽章:Rondo-Burleskeの暴力性と技巧の空転

Burleskeという形式の意味

Burleske(ブルレスケ)は、諧謔的・道化的性格を持つ音楽形式である。しかしマーラーが第3楽章冒頭に記した指示は:

Allegro assai. Sehr trotzig(極めて速く。非常に反抗的に)

「反抗的」という語は、単なる諧謔を超えた、攻撃性と拒絶を示唆している。

音楽的特徴

対位法的複雑性

  • 多声的テクスチュアの極度の密度

  • フーガ的技法の頻繁な使用

  • しかしこの技巧は、意味の生成ではなく、混乱と暴力性を生み出す

リズムの執拗な反復

  • 付点リズムの強迫的反復

  • 機械的・非人間的な印象

  • 身体的リズムからの乖離

音響的暴力性

  • 全オーケストラによる強音の持続

  • 金管の咆哮、打楽器の乱打

  • 聴き手を圧倒し、疲弊させる音響

中間部のトリオ:束の間の静けさと回想

楽章中間部に、トリオとして静かな部分が挿入される。ここでは:

  • トランペットのソロによる、遠い過去の回想を思わせる旋律

  • しかしこの静けさは長続きせず、すぐに主部の暴力性が回帰する

  • 過去への郷愁と、現在の苦痛との対比が際立つ

技巧の空転

第3楽章の最も痛切な特徴は、高度な作曲技法が、もはや意味を生成しないという点である。

  • 対位法的技巧は、かつてバッハやベートーヴェンにおいて、音楽的意味の最高度の組織化を担った

  • しかしここでは、技巧は自己目的化し、暴力性と混乱を生み出すのみ

  • これは、熟練した技術が依拠してきた予測モデルの時代遅れ化を示している

マーラー自身、この楽章について「自分自身と世界への憤怒」を表現したものと述べたとされる。しかしそれは単なる感情の表出ではなく、形式への固執がもたらす失調の音楽的実現なのである。

6.3.4 階層間ミスマッチとしての失調:自由エネルギー原理的分析

第2・第3楽章において生じているのは、階層間の予測の不整合である。

下位レベル(局所的予測)

  • 拍節、舞曲的リズム、反復パターン

  • これらは高い精度で予測可能

  • 聴き手は次の拍を、次の反復を容易に予期できる

上位レベル(大域的予測)

  • 楽章全体の意味、時間的方向性、形式的必然性

  • これらはもはや把握不可能

  • 音楽は前進しているにもかかわらず、「どこへ向かっているのか」が分からない

予測の不整合の帰結

この状態は、第1楽章における「低精度化による漂流」とは異なる:


第1楽章

第2・3楽章

局所的予測

低精度化

過剰な精度

大域的予測

希薄化

破綻

自由エネルギー

変動的漂流

高い状態の持続

主観的経験

崩壊の中での経過

緊張、苛立ち、暴力性

第2・3楽章では、むしろ局所的予測は過剰な精度を保っている。その結果として、全体的統合の不可能性が、より痛切に露呈する。

この意味で、第2・3楽章は、崩壊の過程ではなく、失調(dysregulation)そのものが音楽化された楽章である。

6.3.5 老いの意識における「誤った高精度」:過去の予測モデルへの固執

この失調は、老いの意識構造と密接に対応している。

老年期における予測モデルの固執

老年期において、主体はしばしば、かつて有効であった身体スキーマや時間モデルを手放すことができない:

  • 若年期・壮年期に形成された予測モデルは、高い精度をもって世界を組織していた

  • しかしそれらはもはや現在の身体的・時間的条件に適合しない

  • にもかかわらず、主体はこの予測モデルに固執する

「まだできるはずだ」という予測

これは、3.4節で論じた老いの意識の精度配分の二重構造と対応する:

  • 「まだできるはずだ」(過去に基づく高精度の事前予測)

  • 「できない」(現在の低精度の感覚入力)

  • この乖離が**持続的な自由エネルギー(緊張)**を生み出す

第2楽章:身体的予測モデルの固執

Ländlerは、身体的活力と共同体的リズムを前提とする。しかしここで鳴り響く音楽は、その前提を支える身体をすでに失っている:

  • 身体は舞曲を踊ろうとする

  • しかしリズムは不安定、テンポは揺らぎ、動きは不器用になる

  • 結果として、舞曲的身振りは歪曲され、誇張され、グロテスクな様相を帯びる

第3楽章:技術的予測モデルの固執

Rondo-Burleskeにおいても同様に、形式的熟練や対位法的技巧は、もはや意味生成へと結びつかない:

  • 高度に洗練された技法が、かえって音楽を暴力的で不穏なものに変貌させる

  • これは技術の不足ではなく、技術が依拠してきた予測モデルの時代遅れ化に由来する

自由エネルギー原理的定式化

第2・3楽章では、誤った高精度の事前分布が維持されている:

  • 過去の予測モデル(舞曲、技巧)=高精度の事前分布

  • 現在の身体的・時間的条件=これと整合しない感覚入力

  • 結果:予測誤差の増大、高い自由エネルギー状態の持続

  • 主観的経験:緊張、苛立ち、暴力性

これは、3.4節で論じた**失調的老いの意識(病理的様態)**の音楽的実現である:

過去中心的な高精度事前分布に固執 新規予測誤差を拒否し続ける 行動の探索性が極端に低下 自由エネルギーが慢性的に高い状態 結果:抑うつ・硬直・絶望

6.3.6 「動物的なぬくもり」の残存と苦闘

シェーンベルクが第9交響曲について「動物的なぬくもりを断念することができ」る人間の美について語ったことは、後続の6.7で論じる。ここで先行して指摘しておきたいのは、この「断念」が終楽章において初めて達成されるということである。

第2・3楽章には、「動物的なぬくもり」――生命力、情熱、身体的エネルギー――の残存がある。しかしそれは、第6交響曲のような充溢ではなく、むしろ苦闘として現れる:

第2楽章

  • 身体的リズムへの固執

  • しかしその身体はもはや舞曲を自然に踊ることができない

  • ぬくもりの残存が、かえってグロテスクさを際立たせる

第3楽章

  • 技術的熟練への固執

  • しかしその技術はもはや意味を生成しない

  • 活力の残存が、かえって暴力性を生み出す

老いの意識の精度配分の二重構造の音楽的実現

第2・3楽章は、3.4節で論じた精度配分の矛盾的構造を音楽化している:

  • ①感覚誤差の精度低下:身体の衰え(音響的歪曲、不安定性)

  • ②高次事前分布の精度上昇:「まだできるはずだ」という信念の硬化(形式への固執)

この二重構造が生み出す**持続的な自由エネルギー(緊張)**こそが、第2・3楽章の情動的コアである。

6.3.7 中間楽章の必然性:全曲構造における位置づけ

このように理解すると、第2・3楽章は単なる性格的対照や諧謔ではなく、交響曲全体において不可欠な位置を占めていることが明らかとなる。

全曲の構造

第1楽章

  • 予測モデルの低精度化と漂流

  • 崩壊はすでに存在様態そのもの

  • しかし受容には至らず

第2・3楽章

  • 過去の予測モデルへの固執による失調

  • 高い自由エネルギー状態の持続

  • 緊張、苛立ち、暴力性

  • 老いの意識が最も苦痛なかたちで自己と向き合う局面

第4楽章

  • 予測誤差の受容と再調整

  • 精度の再配分による低自由エネルギー状態

  • 静けさと知恵

中間段階の不可欠性

この中間段階(第2・3楽章)を欠いては、終楽章における低自由エネルギー状態は、単なる諦念や衰弱として誤解されかねない。

第2・3楽章は、過去への固執がもたらす苦痛を徹底的に経験する場である。この経験を経ることによってのみ、過去の予測モデルを手放すこと――すなわち精度の再配分――が可能になる。

アドルノ的非和解性の位置

アドルノが後期様式に見出した「非和解性」は、第9交響曲においては、特に第2・3楽章に顕著である。終楽章は、ある意味で「和解」に近づくが、その和解は、第2・3楽章における徹底的な非和解を経由して初めて真正なものとなる。

6.3.8 小結

交響曲第9番第2・3楽章において、マーラーは、形式の崩壊ではなく、形式への固執がもたらす失調を描き出した。

そこでは:

  • 局所的予測の成立と大域的意味生成の破綻が並存

  • 過去の予測モデル(舞曲、技巧)への固執が高い自由エネルギー状態を持続させる

  • グロテスクさと暴力性は、この構造から必然的に生じる

この失調の経験――老いの意識における最も苦痛な局面――を経ることによってのみ、終楽章における静かな再調整と受容は、真の必然性を獲得するのである。

6.4 第4楽章:再調整された老いの意識

6.4.1 基本的特徴

形式:自由な変奏
調性:変ニ長調
テンポ:Sehr langsam und noch zurückhaltend(非常に遅く、さらに抑制的に)

テクスチュアの希薄化

  • 極端な透明性

  • 各声部の明瞭な分離

  • 音響的「空虚」

しかしこの「空虚」は、喪失や枯渇ではなく、むしろ選択的注意の結果としての明晰さである。

6.4.2 再調整された老いの意識の音楽的実現

命題10:第4楽章は、再調整された老いの意識――低自由エネルギーだが探索性の低い状態――の音楽的実現である。

これは失調ではなく適応である。第2・3楽章における過去の予測モデルへの固執と高い自由エネルギー状態を経て、終楽章では精度の再配分が達成される。

自由エネルギー原理的解釈

(1)情報密度の低下

  • 予測すべき事象の減少

  • 音符の稀少性

  • しかしこれは貧困ではなく、選択的注意

音楽は「何も語らない」のではなく、語るべきことを厳選している。残された各音は、最大の注意と愛情を込めて配置されている。

(2)精度の再配分

  • 残された各音への注意の集中

  • 未来予測の帯域を意識的に縮小

  • 各瞬間への精度を最大化

  • 結果として、静けさと明晰さ

(3)時間知覚の変容

  • 極端に遅いテンポ=予測の時間スケールの伸張

  • フッサール的「予期の帯域縮小」

  • 未来は遠くまで予測されないが、近い未来への注意は最大化される

  • 時間は前進するのではなく、現在の中で深化する

(4)低自由エネルギー状態の維持

  • 第2・3楽章の高エネルギー(緊張)からの転換

  • 予測と実際の経験の一致

  • しかし探索性は極めて低い(可能性空間の意識的限定)

自由エネルギー原理的解釈

(1)情報密度の低下

  • 予測すべき事象の減少

  • 音符の稀少性

  • しかしこれは貧困ではなく、選択的注意

音楽は「何も語らない」のではなく、語るべきことを厳選している。残された各音は、最大の注意と愛情を込めて配置されている。

(2)精度の再配分

  • 残された各音への注意の集中

  • 未来予測の帯域を意識的に縮小

  • 各瞬間への精度を最大化

  • 結果として、静けさと明晰さ

(3)時間知覚の変容

  • 極端に遅いテンポ=予測の時間スケールの伸張

  • フッサール的「予期の帯域縮小」

  • 未来は遠くまで予測されないが、近い未来への注意は最大化される

  • 時間は前進するのではなく、現在の中で深化する

(4)低自由エネルギー状態の維持

  • 第2・3楽章の高エネルギー(緊張)からの転換

  • 予測と実際の経験の一致

  • しかし探索性は極めて低い(可能性空間の意識的限定)

6.4.3 音響の段階的縮減と知覚の深化

終楽章の最終部では、音楽が段階的に消失していく("Ersterbend"=死にゆくように)。しかしこの指示を、文字通り「死の表現」として理解することは、本論文の中核的主張――第9交響曲は「死と告別」ではなく「老いにおける知覚の変容」の音楽――と矛盾する。

最終部において生じているのは:

  • 音響の段階的縮減:音量の減少、楽器編成の縮小(最終的に弦のみ)、テンポのさらなる減速

  • しかし知覚の深化:音響が減少するほど、残された各音への注意は増大する。聴き手は、わずかな音響的変化に対して極度に敏感になる。沈黙との対比において、音の存在がより鮮明に経験される

自由エネルギー原理的解釈

  • 音響の縮減=予測すべき事象の極限的限定

  • 各残存音への精度の最大化

  • 自由エネルギーは低く保たれるが、ゼロではない(ゼロ=死)

  • これは生の極限的凝縮

重要な洞察:音響がゼロに近づくとき、聴き手の知覚活動はむしろ最大化される。感覚入力(音響)は減少するが、予測活動(次の音への期待)は増大する。沈黙への移行は、知覚の停止ではなく、知覚の最大限の集中である。

最終和音(変ニ長調主和音)は調性的に解決されている(形式的完結)が、音響は消滅していく(開放性)。完全な沈黙へと溶解するこの逆説的共存については、6.5節で詳述する。

6.4.4 小結

終楽章は、再調整された老いの意識の音楽的実現である。第2・3楽章の失調を経て、精度の再配分が達成され、低自由エネルギー状態が実現される。

音響の縮減は、知覚の停止ではなく深化である。沈黙への移行は、死への接近ではなく、現在の各瞬間への精度の最大化である。

この達成の意味――「新しい光」、客観性の獲得、形式の完成の逆説――については、後続節(6.5, 6.7, 6.9)で詳述する。


6.5 終楽章の位置付けの変容

6.5.1 第6交響曲との対比

第6交響曲

  • 終楽章は全曲の目的論的頂点

  • そこで崩壊が「達成」される

  • 形式の伝統的な重力(終楽章を頂点とする)に従いながら、その内容を転倒させる戦略

  • イ短調で開始し、イ短調で終結する構造的統一性

  • 崩壊は明確な終止(強烈なイ短調主和音)をもたらす

第9交響曲

  • 終楽章をアダージョとすることで、重力構造そのものが解体される

  • 終楽章は頂点ではなく、深化と持続の場

  • これは形式の伝統的構造との対決ではなく、その構造からの離脱

  • ニ長調/短調から変ニ長調へという調性の推移

  • 音楽は終止するのではなく、消滅しつつ開かれる

6.5.2 形式の完成の逆説:閉鎖と開放の共存

終楽章アダージョでは、形式的完成と音響的開放性が同時に達成される。

形式的完成(閉鎖)

  • 変ニ長調主和音による調性的解決

  • 不協和の残存なし

  • 伝統的な意味での「終止」は達成されている

音響的開放性

  • 音楽は徐々に音響的実体を失い、沈黙へと溶解していく

  • 最終和音(ppppp)は、フェルマータで延ばされた後、完全な沈黙へと開かれている

  • 音響の消失後も、聴き手の知覚活動は持続する

この共存の意味

従来の解釈では、この共存を「形式が崩壊することによって完成する」という逆説として理解してきた。しかしこれは、アドルノの後期様式論(形式の不可能性)を過度に適用したものである。

むしろここで生じているのは、形式の二重化である:

(1)第6交響曲との対比

  • 第6交響曲:形式を極限まで追求し、その帰結を転倒させる=形式への批判的介入

  • 第9交響曲:形式的閉鎖と音響的開放を同時に達成する=形式の透過と超越

(2)「完成」概念の変容

  • 伝統的完成:調性的・形式的閉鎖による統一性の達成

  • 第9交響曲における完成:形式的閉鎖を達成しつつ、音響的には開かれたまま終わる

これは「崩壊による完成」ではなく、**「完成の二重性」**である。

ジンメル的理解

ジンメルが述べた「主観と客観的『形式』との間の全対立の消滅」は、まさにこの事態を指している:

  • 形式(客観)は達成される(変ニ長調主和音)

  • しかし主観はその形式の内部に留まらず、沈黙へと開かれる

  • 形式は完成されると同時に、透過される

アドルノ的非和解性の再解釈

アドルノが後期様式に見出した「非和解性」は、第9交響曲では以下のように理解すべきである:

  • 形式的完成(調性的解決)と音響的開放(沈黙への溶解)の同時性

  • これは形式の崩壊ではなく、形式の限界の露呈

  • 形式は音楽を完結させるが、老いの時間性を完全には捉えきれない

  • その限界において、音楽は沈黙へと開かれる

しかし重要なのは、この「限界」が否定的なものではないという点である。むしろそれは:

  • 既存の形式では表現しきれない経験内容(「新しい光」による世界の知覚)の存在を示す

  • その表現不可能性が、沈黙という新たな表現様式を要請する

  • 沈黙は音楽の終わりであると同時に、知覚の持続する場である

6.5.3 終楽章アダージョという構造選択の意味

マーラーが終楽章をアダージョとしたことは、交響曲史において画期的であった。

伝統的交響曲の終楽章

  • 速い楽章(Allegro, Presto等)

  • 全曲のエネルギーの解放と達成

  • 勝利、歓喜、あるいは悲劇的崩壊の場

マーラー以前の例外

  • チャイコフスキー《悲愴》交響曲(1893):終楽章Adagio lamentoso

  • しかしこれは明確に「死」と「絶望」の音楽

第9交響曲の独自性

第9交響曲終楽章は、《悲愴》のような絶望の音楽ではない:

  • 遅い楽章であることは共通

  • しかし第9番は「死」ではなく「老いにおける知覚の変容」を音楽化

  • 絶望ではなく、再調整された意識の静けさ

アダージョ選択の構造的帰結

終楽章をアダージョとすることで:

(1)時間の質的変容

  • 速い楽章=前進、達成、目的論的時間

  • 遅い楽章=深化、持続、非目的論的時間

  • 第9番終楽章:時間は前進するのではなく、現在の中で深化する

(2)エネルギーの方向性の転換

  • 伝統的終楽章:蓄積されたエネルギーの解放

  • 第9番終楽章:エネルギーの凝縮と深化

  • 自由エネルギーは低く保たれ、各瞬間への精度が最大化される

(3)聴取経験の変容

  • 伝統的終楽章:聴き手はエネルギーの解放を経験し、カタルシスを得る

  • 第9番終楽章:聴き手は音響の縮減とともに、知覚の深化を経験する

  • 音楽は「聴かれる対象」から「聴く行為そのもの」へと移行する

6.5.4 「終わり」の二重性:音響の終止と意識の持続

終楽章の最終部において、二種類の「終わり」が同時に生起する:

(1)音響的終止

  • 最終和音の消滅

  • 沈黙への移行

  • 物理的音響事象としての音楽の終わり

(2)知覚の持続

  • 音響が消失した後も、聴き手の意識活動は持続する

  • 余韻、記憶、内的予測の継続

  • 「音楽を聴き続ける」意識

この二重性の意味

第6交響曲では、音響の終止と音楽経験の終止は一致していた:

  • イ短調主和音の強烈な打撃

  • 崩壊の確定としての終止

  • 聴き手の経験も、そこで明確に完結する

第9交響曲では、この一致が解体される:

  • 音響は消失するが、音楽経験は持続する

  • 聴き手は沈黙の中で、なお音楽を「聴いている」

  • これは音楽の外延の拡張:音響的境界を超えた音楽の持続

自由エネルギー原理的解釈

  • 音響(感覚入力)はゼロに近づく

  • しかし予測活動(生成モデルの作動)は持続する

  • これは、外的入力が消失しても、内的モデルが世界を構成し続ける状態

  • 老いた意識における内的世界への移行の音楽的実現

6.5.5 小結

第9交響曲終楽章において、マーラーは:

  1. 終楽章アダージョという構造選択により、交響曲の時間性を根本的に変革

  2. 形式的完成と音響的開放の共存により、「完成」概念を二重化

  3. 音響の終止と意識の持続の分離により、音楽の外延を拡張

これは第6交響曲における「形式の転倒」とは質的に異なる達成である。第6番では形式と対決し、その内的論理を転倒させた。第9番では形式を透過し、その限界において新たな音楽的可能性(沈黙、持続、内的世界)を開示した。

そしてこの革新は、「崩壊による完成」という否定的理解ではなく、老いにおける意識の変容が可能にした、新しい音楽的時間性の創出として理解されるべきである。


6.6 総括――後期様式としての第9交響曲と老いの意識構造

本章では、交響曲第9番を、単なる作曲家晩年の作品としてではなく、老いの意識構造が音楽的形式へと直接転写された例として分析してきた。ここで明らかになったのは、マーラーが伝統的交響曲形式と対決し、それを転倒させたのではなく、老いた主観の時間経験そのものが、形式を媒介としてではなく、形式の内側から機能不全へと導いたという事実である。

第1楽章において示されたのは、崩壊の目的論的達成ではなく、崩壊が反復的過程として生起する時間構造であった。そこでは、ソナタ形式はなお痕跡として保持されているものの、主題の対立や総合を組織する力を失い、老いた意識の漂流的時間性を受動的に反映する媒体となる。崩壊はもはや闘争の帰結ではなく、時間が経過する仕方そのものとなる。

第2・第3楽章では、この漂流がさらに別の形で深化する。ここで音楽は、形式の解体へと進むのではなく、むしろ過去に有効であった形式への固執を露呈する。舞曲的身振りや高度な技法は、局所的には精度を保ちながらも、全体的意味生成へと統合されない。この階層間の不整合は、老いの意識において、過去の身体スキーマや時間モデルが現在に適合しなくなる事態と構造的に対応している。結果として生じる高い自由エネルギー状態は、崩壊よりも苦痛な失調として経験される。

これらの過程を経て、終楽章において初めて、予測誤差の受容と再調整が可能となる。ここで音楽は、もはや未来への展開や意味の達成を目指さない。代わりに、近接した現在への注意が最大化され、音楽は次第に音響的実体を手放していく。この低自由エネルギー状態は、探索性の放棄としての諦念ではなく、変容した意識が最後まで世界を知覚し続けた後の、静かな手放しとして理解されるべきである。

このように見ると、交響曲第9番における終楽章は、伝統的交響曲における目的論的頂点ではない。それは、形式の完成の場ではなく、形式がその不可能性を露呈することによって「完成」する逆説的地点である。この点において、第9交響曲は、アドルノが指摘した後期様式の核心――すなわち、調和や総合を拒否し、形式の破綻そのものを真理内容として提示する芸術――を、最も徹底した形で体現している。

自由エネルギー原理の観点から総括すれば、第9交響曲は、老いにおける予測システムの変容を、音楽的時間構造として可視化した作品である。若年期・壮年期において有効であった高精度の事前分布はもはや維持されず、予測は短期化し、断片化する。第1楽章ではその低精度化が漂流として現れ、第2・第3楽章では誤った高精度への固執が失調として経験され、終楽章では予測誤差の受容という新たな最小化様式が獲得される。

この軌道は、老いを単なる衰退としてではなく、意識と世界の関係が再編成される過程として理解する視座を提供する。マーラーの第9交響曲は、老いにおける時間経験、身体感覚、意味生成の変容を、既存の形式がもはやそれに適合しないことを露呈させることによって、音楽的に語ったのである。

以上の分析から明らかなように、第9交響曲における後期様式とは、形式の放棄でも破壊でもない。それは、老いた意識の在り方が、媒介なしに形式へと流れ込み、形式を内側から空洞化させる過程である。この意味でマーラーの後期様式は、近代的主体の歴史的終焉を告げると同時に、変容した意識がなお世界と関わり続ける可能性を、静かに、しかし決定的に証言している。


6.7 主観の脱中心化と客観性の獲得:シェーンベルクの証言

6.7.1 シェーンベルクの同時代的証言

マーラーの後期様式を理解する上で、アルノルト・シェーンベルクによる同時代的証言は決定的な意味を持つ。シェーンベルクは1912年のプラハ講演において、交響曲第9番について次のように述べている。

そこでは作曲者はほとんどもはや発言の主体ではありません。まるでこの作品にはもうひとりの隠れた作曲者がいて、マーラーをたんにメガフォンとして使っているとしか思えないほどです。この作品を支えているのは、もはや一人称的音調ではありません。この作品がもたらすものは、動物的なぬくもりを断念することができ、精神的な冷気のなかで快感をおぼえるような人間のもとにしかみられない美についての、いわば客観的な、ほとんど情熱というものを欠いた証言です。(シェーンベルクのプラハでの講演(1912年3月25日)より, 酒田健一編,『マーラー頌』, 白水社, 1980 所収, p.118)

この証言は、第9交響曲における根本的な様態変化を捉えている。シェーンベルクが指摘する「もはや一人称的音調ではない」「客観的な、ほとんど情熱というものを欠いた証言」という特徴は、ロマン派音楽における主観性の表出とは根本的に異なる様態を示している。

6.7.2 一人称的音調の消失

ロマン派音楽、特にマーラー自身の中期作品においては、作曲家の主観------その情熱、苦悩、歓喜------が直接的に音楽に刻印されていた。第6交響曲における悲劇的な英雄主義は、まさに一人称的な主観の発話である。「私は闘い、私は敗北する」という主語の明確な語りがある。

しかし第9交響曲では、この一人称的語りが消失している。シェーンベルクが「マーラーをたんにメガフォンとして使っている」と表現するのは、作曲家の主観が音楽から撤退したということではなく、主観の在り方そのものが変容したことを意味している。

6.7.3 老いにおける主観の脱中心化

この変容の核心は、老いにおける主観の脱中心化にある。

若年期および壮年期の主観

  • 自己を能動的主体として経験

  • 世界と対決し、目的を追求し、意志を貫徹

  • 主観の自己同一性と能動性を前提

  • 芸術表現において、この能動的主観が「私は語る」という一人称的様態で現れる

老年期における変容

  • 自己が自己の主人であることの喪失を経験

  • 身体の衰弱、記憶の断片化、時間の制御不能性

  • 老いた主観は、もはや世界を支配する中心ではなく、むしろ生起する事態を受容する場

  • 主観は消滅するのではなく、自己からの距離を獲得

  • 自己の経験を「私の」経験としてではなく、生起する出来事として経験

  • これは主観の喪失ではなく、主観の脱中心化

自由エネルギー原理的解釈

壮年期

  • 高精度の自己モデル=「私」という統一的主体

  • 能動的推論=世界を自己の予測に合わせる試み

  • 一人称的様態=「私が」予測し、行動する

老年期

  • 自己モデルの精度低下=統一的「私」の希薄化

  • 時間モデルの再帰化=自己が時間的変化の対象に

  • 脱中心化=自己を「生起する過程」として扱う

  • これは主観の消失ではなく、主観の在り方の変容

6.7.4 客観性と主観性の弁証法

この理解に立てば、ジンメルが指摘した「主観の在り方がそのまま形式となる」ことと、シェーンベルクが指摘する「客観性」は矛盾しない。

ジンメルの洞察: 「主観の在り方がそのまま形式となる」とは、脱中心化された主観の在り方が形式となるということである。老いた主観は、外的形式規範に無頓着になると同時に、自己自身に対しても無頓着になる。主観は、自己を表現しようとするのではなく、自己において生起することを通過させる媒体となる。

シェーンベルクの証言: 「もうひとりの隠れた作曲者」とは、この脱中心化された主観の在り方を指している。マーラーは、自己の意志や情熱を表現しているのではなく、老いという生の位相において生起する事態------時間の解体、記憶の断片化、消滅への接近------を通過させているのである。

したがって「客観性」とは、主観の不在ではなく、一人称的能動性を脱した主観の在り方を意味する。第9交響曲において客観的に語られるのは、まさに老いた主観の在り方そのものなのである。

統合的理解

ジンメル:絶対的内面化→主観が純粋な客観的精神上の存在となる シェーンベルク:一人称的音調の消失→客観的な証言 自由エネルギー原理:主観の脱中心化→自己を生起する過程として扱う推論様式

これらは、後期様式における同一の達成を、異なる角度から証言している。

6.7.5 「動物的なぬくもり」の断念と「精神的な冷気」

シェーンベルクが用いる「動物的なぬくもり」という表現は、生の充溢、情熱の燃焼、身体的エネルギーを指している。これはロマン派音楽の核心にあったものであり、マーラー自身の中期作品、特に第5交響曲や第6交響曲は、この「ぬくもり」に満ちている。

しかし第9交響曲における「精神的な冷気」は、この生命力の減衰を意味すると同時に、別種の明晰さを示している。老いにおいて、生命的エネルギーが減退するとき、主観は情熱の霧から解放され、存在の構造そのものを透視する視線を獲得する。

この「冷気」は、感情の欠如ではなく、感情が距離化された状態である。音楽は、悲しみや苦悩を「表現する」のではなく、悲しみや苦悩が生起するとなる。これは、感情からの疎外ではなく、感情への超越的視線の獲得である。

自由エネルギー原理的解釈

「動物的なぬくもり」:

  • 高い代謝エネルギー=活発な予測誤差の最小化

  • 探索行動=新しい可能性への開放性

  • 情熱=高い自由エネルギー状態を維持する意志

「精神的な冷気」:

  • 低い代謝エネルギー=予測誤差最小化活動の減退

  • 探索性の低下=限定された可能性空間

  • 明晰さ=システムの構造そのものへの注意

  • 距離化=メタ認知的視点の獲得

このシェーンベルクの証言は、ジンメルが述べた「絶対的内面化が存在し、それに依つて主観が純粋な客観的精神上の存在となる」という事態を、音楽的経験として捉えたものと言える。主観の極限的内面化が、「精神的な冷気」として、すなわち客観性として現れる。そして「動物的なぬくもり」の断念とは、ジンメルが言う「現象からの退去」に他ならない。

さらにアドルノが《大地の歌》について述べた「極端に簡潔なイディオムや定式が充実した内容で満たされきっている」という特徴は、まさにこの「冷気」の内実を説明している。表面的には簡素で冷たく見えるものが、実は「その人の全生涯を隠している」。この逆説こそが、老齢芸術における主観の在り方を示している。

6.7.6 客観性としての後期様式の達成

シェーンベルクが指摘する客観性は、後期様式の失敗ではなく、むしろその最高の達成を示している。第9交響曲において、マーラーは次の二重の達成を実現した。

ジンメル的達成: 外的形式規範への無頓着さを通じて、老いた主観の在り方を直接的に形式化した

客観性の獲得: 一人称的能動性を脱することで、老いの時間性を「私の経験」としてではなく、生起する事態として提示した

この二つは矛盾せず、むしろ同一の達成の二つの側面である。主観の在り方が形式となるとき、その主観がすでに脱中心化された主観であるがゆえに、形式は客観的様相を帯びるのである。

これは、アドルノが後期様式において指摘した「形式との和解の拒否」とも整合する。第9交響曲において、主観は形式と和解していない。しかし第6交響曲のような対決もしていない。むしろ主観は、形式の外部に立ち、形式を通過する事態を証言している。シェーンベルクが「証言」(Zeugnis)という語を用いているのは、まさにこの様態を捉えている。主観は、自己を語るのではなく、自己において生起することを証言する。この証言の様態が、「客観的」と呼ばれるものなのである。

6.8 「崩壊」の意味の変容:第6番と第9番の比較

この観点から、「崩壊」という概念の意味も、第6交響曲と第9交響曲で異なることが明らかになる。

6.8.1 第6交響曲における崩壊

性格:崩壊は闘争の帰結である

物語

  • 英雄的主観が世界(運命)と対決し、敗北する

  • ベートーヴェン的な英雄交響曲の伝統を引き継ぎながら、その帰結を反転

  • 崩壊は劇的であり、形式の緊張を最高度に高めた上で訪れる

主観の在り方

  • 依然として、主観と客観(形式、運命)の対立が前提

  • 一人称的能動性=「私は闘い、私は敗北する」

  • 高い自由エネルギー状態=持続的な緊張と対決

形式との関係

  • 形式は対決すべき対象

  • 形式の論理を極限まで追求し、その限界で崩壊を実現

6.8.2 第9交響曲における崩壊(解体・消滅)

性格:崩壊(あるいは解体・消滅)は闘争以前のものである

物語

  • 老いた主観にとって、崩壊は外部からの打撃ではなく、内的な過程

  • 記憶の断片化、時間の非連続性、生の減衰------これらは対決の結果ではなく、存在様態そのもの

  • 音楽は、崩壊へ向かうのではなく、崩壊の中で展開する

主観の在り方

  • 主観と客観(形式)の対立の消失

  • 脱中心化された主観=自己を生起する過程として経験

  • 低い自由エネルギー状態(終楽章)=対決の放棄、受容

形式との関係

  • 形式は対決すべき対象ではなく、通過可能な媒体

  • 形式への無頓着さ

  • 主観の在り方が直接的に形式となる

6.8.3 統合的理解

この差異は、ジンメルが述べた「主観と客観的『形式』との間の全対立の消滅」という観点から理解できる。

第6交響曲

  • 主観と客観(形式、運命)の対立が前提

  • その対立の帰結として崩壊が訪れる

  • ジンメル的には、依然として若年期/壮年期の様態

第9交響曲

  • この対立自体が消失

  • 主観は自己内に形式を具えており、崩壊は外部との対立の帰結ではなく、主観の在り方そのものの形式化

  • ジンメル的な老齢芸術の達成

そしてシェーンベルクが証言した「客観的な、ほとんど情熱というものを欠いた」様態は、まさにこの対立の消失を示している。情熱とは、主観と客観の対立を前提とし、その緊張から生まれる。第9交響曲における「冷気」は、この対立が消失した状態------ジンメルが言う「全対立の消滅」------を示しているのである。

自由エネルギー原理による定式化


第6交響曲

第9交響曲

形式との関係

対決

透過

主観の在り方

一人称的能動性

脱中心化

自由エネルギー

高(持続的緊張)

低(終楽章)/変動(全体)

崩壊の性格

闘争の帰結

内的過程

時間性

目的論的(崩壊への進行)

非目的論的(崩壊の中での経過)

情動

情熱(ぬくもり)

距離化(冷気)

6.9 「蘇り」の第三の形態:マーラーの書簡の解釈

6.9.1 書簡の「謎」

マーラー自身の書簡には、第9交響曲についての興味深い記述がある。

第一の書簡(1909年初頭, 1996年販書簡 404番) ブルーノ・ワルター宛、ニューヨーク発:

「(…)目下のところそれほど無限に多忙を極めているから(ここ一年半以来)、それについて話をする暇がとれません。このとてつもない危機的状況をなんと言い表したらいいか?一切がかくも新しい光の中にみえてきて(Ich sehe alles in einem so neuen Licht)——私はかくも活動のさなかにあるから、突如新たな肉体を得たと気づいてもなんら不思議に思わないかもしれません(さながら最終場面でのファウストのように)。(…)」(ヘルタ・ブラウコップフ編「マーラー書簡集」須永恒雄訳・法政大学出版局, 2008, p.368

さらにマーラーは、第8交響曲第2部で音楽化した『ファウスト』第2部終末のファウストの蘇生に言及している。

第二の書簡(1909年8月, 1996年販書簡 423番) ブルーノ・ワルター宛、トーブラッハ発:

「(…)仕事に忙しく勤しみ、新しい交響曲の最後の仕上げをしているところでした。(…)作品そのものは(…)私のささやかな家庭を良い意味で豊かにしてくれるものです。久しい以前から口にのぼせようと思って果たさずにいたことがここに語られています――あるいは(全体としては)第四の脇に並べられるものかもしれません(だが、まったく別ものです)。(…)」(ヘルタ・ブラウコップフ編「マーラー書簡集」須永恒雄訳・法政大学出版局, 2008, p,386

これらは従来の「死と告別」解釈では説明困難であり、「謎」とされてきた。

6.9.2 「新しい光」の解釈

解釈1:精度の再配分による知覚の変容

自由エネルギー原理では、「見る」とは感覚データそのものではなく、生成モデルを通じた推論である。「新しい光」とは:

  • 先行信念の根本的更新

  • **精度の再配分(precision reweighting)**による知覚の変容

  • 若い頃は背景に退いていた側面が前景化し、重要だったものが後退する

これはジンメル的には:

  • 「現象からの退去」=表面的現象への精度低下

  • 「内面の脈拍」への注意=高次抽象レベルへの精度移行

  • 世界が「象徴」として経験される

解釈2:死の予期による生の変容

「ファウストの蘇り」への言及は:

  • 死の予期(システムの終焉の予測)が、新しい生成モデルを要求する

  • 死を予測すること自体が世界の見え方を変容させる

  • ハイデガー的「死への存在」:死が存在の開示様式を変える

  • これは死後の復活ではなく、死の予期の只中での生の刷新

自由エネルギー的には:

  • メタ予測(予測についての予測)が一次的予測を変容させる

  • 「死ぬと知ること」が「生きることの意味」を変える

  • システムの有限性の認識が、現在の各瞬間への精度配分を最大化する

解釈3:過学習からの解放

老化による予測精度の低下が「新しさ」をもたらす逆説:

  • 若い頃の生成モデルは、社会的期待、慣習的美的規範に過度に適合(過学習)

  • 老いによる精度低下が、強固な先行信念からの解放をもたらす

  • サイード的「時宜を得なさ」は、この過学習からの逸脱

  • これは単なる能力低下ではなく、慣習の制約を超えた表現の可能性

ジンメル的には:

  • 客観的形式規範への「無頓着」

  • 「自己内に形式を具える」状態への到達

6.9.3 「第4に比すべき」の解釈

第4交響曲との類似性

  • ともに4楽章、最終楽章は遅い歌

  • 第4は「天上の生」(子供の視点)、第9は「地上の有限な生」(老いの視点)

命題12:子供の視点と老人の視点は、中間的な社会的・文化的階層の媒介を経ない直接性において共通する。

自由エネルギー原理的解釈

子供

  • 複雑な予測モデルをまだ持たない(未学習)

  • 文化的事前分布の内面化が不完全

  • 世界への直接的接触

老人

  • 複雑な予測モデルを手放しつつある(脱学習)

  • 文化的事前分布への「無頓着」

  • 世界への新たな直接的接触

両者とも:

  • 予測の複雑性が低く、世界への直接的接触が可能

  • 中間層(社会的・文化的階層)の媒介の希薄化

「家庭を豊かにする」発言:

  • 老いにおける社会的世界の縮小

  • 予測可能な環境(親密圏)の価値上昇

  • システムの予測能力低下時、予測誤差の少ない安定環境が求められる

  • これは時間意識の収縮に対応:予期の帯域縮小により、現在と近い未来への注意が集中

6.9.4 「蘇り」の系譜

マーラー作品における「蘇り」の系譜:

  1. 第2交響曲:死後の審判と復活(キリスト教的終末論)

  2. 第8交響曲:愛による霊的上昇(神秘主義的変容)

  3. 第9交響曲:老いによる知覚の刷新(現象学的変容)

第9の「蘇り」の固有性

  • 死後ではなく、死の予期の只中での生の刷新

  • 外的救済ではなく、知覚様式の内的変容

  • 超越ではなく、現在への集中の深化


[後記] 本稿は著者が基本的な着想や理論構成を与え、研究パートナーとしてClaude Sonnet 4.5 やChatGPT 5.2、Gemini 3 Thinkingとの対話を繰り返すことを通じて作成されました。上記のテキスト中には、Claude Sonnet 4.5やChatGPT 5.2が生成した文章およびそれを編集したものが含まれます。 (2026.1.23 公開, 1.24 改稿)

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