2024年7月15日月曜日

MIDIファイルを入力とした分析:五度圏上での和音重心の原点からの距離の遷移のリターンマップ(改訂版:2024.7.15 )

1.はじめに

 これまで、マーラーの音楽の構造を把握するアプローチの一つとして、MIDIファイルを入力としたデータ分析を行ってきました。その振り返りは、

において行っています。大黒達也『音楽する脳』(朝日新書, 2022) でも例示されているように、MIDIファイルなど用いる音楽情報処理分野における分析では、単一の旋律線を時系列データと見做した分析結果が数多く報告されていますが、上記記事に記載の通り、ここでは和音(厳密に言うとピッチクラス・セットです。詳細は上記記事参照。)の出現頻度や状態遷移についての集計と集計結果に基づく作品間の比較、他の作曲家の作品との比較を中心に行ってきました。直近の一連の分析では、和音の状態遷移パターンの出現頻度からエントロピーを求めたり、マルコフ過程と見做した場合のエントロピーの計算を行ったり、カルバック・ライブラー・ダイバージェンスのような情報量で作品間の比較をしたりといったことも行って来ましたが、和音の状態遷移系列そのものを用いる分析は、ごく初期に和音の(ピッチクラスをビット列と見做した場合の数値に基づく)番号列を直接用いて、時系列データの比較手法(具体的にはDTW(Dynamic Time Warping))を用いたクラスタリングを行い、結果としてはうまく行かなかったその結果を公開しただけで、その後は長短三和音の交替にフォーカルしたものも含め、頻度や出現確率といった或る種の集約値に基づく分析を行って来ており、状態遷移系列そのものを扱うことになかなかアプローチできていませんでした。


2.本稿の主旨

 過去に行った内容を改めて振り返り、和音の状態遷移系列そのものを扱ったものはないかと探してみると、頻度や出現確率を用いた分析を行う前段階として、得られた和音の遷移系列の可視化を試みていることに思い当たりました。具体的には、ピッチクラスのセットとしての和音について、五度圏上でその構成音の重心を計算し、重心の移動の軌跡を五度圏上に重ね書きした結果や、時系列方向にもプロットした結果を3Dグラフィックツールで表示したものを公開しています(記事:MIDIファイルを入力としたマーラー作品の五度圏上での重心遷移計算についてを参照)。

 五度圏上の重心計算結果の系列は、ピッチクラスをビット列と見做した場合の数値に基づく番号の系列とは異なって、こちらは(結果を報告した上記の記事に書いた通り)、構成するピッチクラスの重心を計算することから、距離空間の定義に稍々直観に反する部分はあるものの、一応、距離が入った位相を持っています。但し、二次元のデータである上に、もともと調的な遷移の様子を確認する目的で作成したものであることもあり、調の違いに関する対称性を含んでいます。そこで、和音パターンの状態遷移系列の近似として、五度圏の空間における原点座標からの距離を求め、この距離の系列のリターンマップを書いてみることにしました。これは丁度、五度圏のサークルの原点から円周に向かって直線を引き、重心の計算結果について円周に沿って移動してその直線上の点に帰着させる操作を行っていることになります。同一の和音の原点からの距離は同じであり、直線上の一点に帰着できます。ピッチクラスセット上は区別される和音でも、重心計算した結果の原点からの距離が同じになってしまうと区別ができないという問題はありますが、直線の上で、五度圏の中心(原点)に近い方向にたくさんの構成音からなる複雑な和音がプロットされ、円周に近い方向に、構成音の少ない和音、重音がプロットされ、円周上の点に単音がプロットされることになり、かなり肌理は粗いものの、和音構成音の複雑さに概ね対応する距離空間上での和音の遷移の様子をリターンマップとして眺めることができることになります。

 計算に用いたデータですが、和音の遷移系列の各時点の五度圏上の重心計算の結果を、五度圏のサークル上に重ね書きした結果を踏まえて、各拍単位での系列(A系列)ではなく、各小節単位(各小節の頭拍)での系列(B系列)の重心計算結果を対象として、原点からの距離を計算することにしました。もともとB系列は、小節の頭拍の和音の系列は、系列全体の和音の遷移の粗視化として自然であり、勿論例外はあるものの、相対的に重要な和音がサンプルされることを期待して設定したものですので、今回の目的にも背馳しないものと考えます。

 対象する作品・MIDIデータについては、従来よりマーラーの作品間の比較やマーラーの作品と他の作曲家の作品との比較をするに当たって、所謂「実験群」として用いてきたものを用います。これは記事:MIDIファイルを入力としたマーラー作品の五度圏上での重心遷移計算についてで説明・公開している和音の重心遷移計算の対象となった作品・MIIDデータと同一で、具体的に作品とラベルの対応を示すと以下の通りとなります。
  • 第1交響曲~第9交響曲:mX_Y(X:交響曲通番、Y:楽章)
  • 大地の歌:erde_1~erde_6
  • 第10交響曲(クックによる5楽章版):m101~m105
  • さすらう若者の歌全曲(4曲):ges1~ges4
  • リュッケルト歌曲集(5曲):blicke, duft, liebst, gekommen, mitternacht
  • 子供の死の歌第1曲:nunwill
  • 子供の魔法の角笛による歌曲
  •     夏の交替:mahler-jugent11
  •     ラインの小伝説:rheinlegendchen
  •     魚に説教するパドヴァの聖アントニウス:antonius
  •     美しいトランペットの鳴るところ:trompeten
なお、多楽章形式の作品、連作歌曲については、楽章毎、曲毎に計算・描画を行いました。


3.公開するデータの見方の説明

公開しているアーカイブファイル:returnmap_experimental_B_out.zip を解凍すると
Excel ブック形式のファイル returnmap_experimental_B _out.xlsx が出てきます。このファイルは、シート毎に、上記の分析対象となった作品(交響曲は楽章毎、歌曲は曲毎)についての結果が収めされています。(2024.7.15追記:散布図のリターンマップを更新したため、アーカイブファイルを差し替えました。理由は以下の説明の末尾に記載してあります。)

以下に各シートの内容を記載します。ここでは、これまでの分析でも基準サンプルとして用いてきた、リュッケルト歌曲集の1曲、「私はやわらかな香りをかいだ」(Excelファイルでのシート名=ラベル:duft)を例として示します。


MIDIファイルから抽出した各小節頭拍の音の分布(音高の違いは無視して1行目の音が鳴っているパートの数を数えたもの)が中央にあり、五度圏上での音の座標の定義が左側3列(上半分は1列目の単音のx,y座標が2,3列目に、1列目の音を基音とする主三和音の重心のx,y座標が2,3列目に定義されています)、中央の数値を入力とし、左側の座標定義に基いた重心計算の結果が右側Q,Rの2列(x,y座標)となります。


S列からZ列にかけて、計算結果を時間方向を潰して軌道を平面に重ねたグラフで、ここまでは、記事:MIDIファイルを入力としたマーラー作品の五度圏上での重心遷移計算についてで公開した内容と同一です。

その右側のAB列からAM列にかけてが、今回のリターンマップ作製で追加された部分になります。


AC列が、Q列R列の座標と原点との距離の計算結果です。上記の例の場合であれば、Q,R列と同様に39行目の0.667が曲の末尾であり、それ以降の0は意味を持ちません。従って次のAC列・AD・AE列の作成・計算についてもAC列の39行目までが対象となります。

AB列はAF列からAM列の上のグラフのうち、下の散布図のリターンマップを書くために、(AB列,AC列)が時系列の現時点と次の時点(t, t+1)の関係になるように生成した列で、1行ずれている以外はAC列と同一です。

AD列・AE列はAC列に基づき、AF列からAM列の上のグラフのうち、上の遷移軌道を線で示したリターンマップを描画するために計算した座標値の一部のみを表示しています。描画用の系列長は、元の系列(ここではAB列)の倍になります。

その右AF列からAM列の上のグラフがAD列・AE列に基づき、遷移軌道を線で表示したリターンマップ、下のグラフはAB列,AC列に基づいた座標値の散布図です。なお、一般的にリターンマップの多くがそうであるように、上記のグラフはいずれも、X軸(横軸)が現時点(今見ている小節)、Y軸が直後の時点(次の小節)の状態を表しています。X軸、Y軸とも主三和音は0.644、末尾の0.677は付加六の和音となります。

なお、公開当初はAF列からAM列の下のグラフ、すなわち散布図のリターンマップも、遷移起動描画用に用意したAD列・AE列に基づいてプロットしていましたが、それだと遷移軌道を書くためにAD列・AE列で追加した座標がプロットしたグラフに含まれてしまいます。追加した座標は全て左下から右上のy(=x+1)=xの対角線上に乗り、かつまたこれは隣接した時点で同じ和音パターンに留まる場合と同じなので、分析対象となっている系によっては時系列のサンプルを細かくした場合に相当すると考えることもできますが、もともとここでの時系列は音楽作品の各小節の頭拍をサンプリングしたもので、小節の途中の和音の現実の音楽作品での遷移は、各小節の頭拍の和音が持続するわけではないため、今回の場合には適切でなく、オリジナルのAB列,AC列をプロットした散布図を示すのが適当と考え、差し替えさせて頂くことにしました。

[ご利用にあたっての注意] 公開するデータは自由に利用頂いて構いません。あくまでも実験的な試みを公開するものであり、作成者は結果の正しさは保証しません。このデータを用いることによって発生する如何なるトラブルに対しても、作成者は責任を負いません。入力として利用させて頂いたMIDIファイルに起因する間違い、分析プログラムの不具合に起因する間違いなど、各種の間違いが含まれる可能性があることをご了承の上、ご利用ください。

(2024.7.14 公開, 7.15 改訂版公開)

2024年7月12日金曜日

1896年6月18日付アンナ・フォン・ミルデンブルク宛書簡に出てくる作品創作に関するマーラーの言葉

1896年6月18日付アンナ・フォン・ミルデンブルク宛書簡に出てくる作品創作に関するマーラーの言葉(1924年版書簡集原書153番, pp.162-3。1979年版のマルトナーによる英語版では174番, p.190, 1996年版書簡集に基づく邦訳:ヘルタ・ブラウコップフ編『マーラー書簡集』, 須永恒雄訳, 法政大学出版局, 2008 では180番(1896年6月28日付と推定), pp.173-4。なお1996年版では、1924年版書簡集原書153番は180番を始めとする幾つかの書簡の「コラージュ」であるとしている。詳細は1996年版書簡集180番の出典情報を参照されたい。)
(...) Nun aber denke Dir ein so großes Werk, in welchem sich in der Tat dir ganze Welt spiegelt - man ist sozusagen selbst nur ein Instrument, auf dem das Universum spielt. (...) In solchen Momenten gehöre ich nicht mehr mir. (...) Die ganze Natur bekommt darin eint Stimme und erzählt so tief Geheimes, das man vielleicht im Traume ahnt! Ich sage Dir, mir ist manchmal selbst unheimlich zumute bei manchen Stellen, und es kommt mir vor, als ob ich das gar nicht gemacht hätte. Wenn ich nur alles so fertig bekomme, wie ich mir vornehme.

(…) さていま考えてもらいたいが、そのなかではじっさい全世界を映し出すような大作なのだよ、――人は、言ってみれば、宇宙を奏でる楽器なのだ、(…)このような瞬間には僕ももはや僕のものではないのだ。(…)森羅万象がその中で声を得て、深い秘密を語るが、これは夢の中でしか予感できないようなものなのだ!君だから言うが、自分自身が空恐ろしくなってくるようなところがいくつかあって、まるでそれはまったく自分で作ったものではないような想いがする。――すべては僕が目論んだままにもうすっかり出来上がっているのを僕は受け取るばかりだったのだから。

この書簡もまた、第3交響曲誕生の消息を告げる資料として、あるいはアンナ・フォン・ミルデンブルクについて、あるいはまた「天才」のエゴイズムについて 言及されるときに決まって引用される非常に有名なものである。ここでは、作品創作に関するマーラーの姿勢を告げるマーラー自身の言葉として、 その一部を引用した。ここで注目したいのは、マーラーが自分の世界観なり宇宙観なりを表現するとか、自分の印象や感情を表現するとか いったいわゆる一般に「ロマン主義的」とされる姿勢とは些か異なったニュアンスで、自身の創作過程について語っている点である。作曲者は最早 一楽器、媒体に過ぎず、語りの主体は宇宙・世界そのものなのだ。結果として書き留められた作品が自分が書いたものとは思えない、とすら 語っているのだ。あるいは精神分析学的な立場からは、ここで夢や不気味なものに言及されていること、無意識の活動にマーラーが耳を 澄ませている点が注目されるのかも知れない。第3交響曲の、マーラー自身による陳腐な標題が、それでも「~について私が語ること」ではなく 「~が私に語ること」であったことは、この手紙の文章と正確に対応する。要するに、それは一過性のレトリックではなく、もっと根本的な スタンスの事実(といって問題あるなら、少なくとも本人の「実感」)に忠実な記述であることはまず認めて良いのではなかろうか。先に語りたいことが あって、媒体として音楽が選択されているのではない。音楽が先にあって、こともあろうに、それを後づけで作曲者自身が「解釈」している有様なのだ。
 
無論それらを、結局は「霊感」に突き動かされる天才作曲家の肖像であるとして、あるいはこれこそロマン主義的誇大妄想の典型として 考えることも可能だろうし、一般にはそのように見做されることが多いのかも知れない。だが壮年期に差し掛かったマーラーのこうした言葉は、 晩年のマーラーが遺した第9交響曲について述べたあのシェーンベルクの言葉、作曲家はもはや個人としては語っていない、メガフォン=代弁者に過ぎず、 隠れた作者がいるに違いない、という言葉と突き合せて検討すべきなのだ。一体、何が変わって、何が変わっていないのか。シェーンベルクの 述べる非人称性、客観性は、「霊感」に突き動かされる天才作曲家像とどのように関係するのか。無意識の、夢の過程との関係は晩年にはどうなったのか。 マーラーに外から「標題音楽」のカテゴリを押し付け、断片的な証言という「事実」を担保に、「隠されたプログラム」とやらを作り上げ、それを知らずに マーラーの音楽は理解できないと言ってのける姿勢は、マーラー自身の創作のスタンスとどう関係するのか。私の様な一愛好家が出る幕はないのだろうが、 個人的な感慨として、マーラーが後に、一旦は自分でつけた標題を削除し、他人による後付けの標題や解説の類を酷く嫌ったというのは、ある時期に 作曲観の変化があったから、というより、時代の風潮に対して無意識であったマーラーが、徐々に自分の創作のありように自覚的になった結果ではないか、 と思えてならない。変わったのはマーラーの自覚の水準で、背後で動き続けている創作の姿勢は一貫していたのではなかろうか。
 
音楽史や楽曲解説の類は、後から理解のための分類を提案し、典型を設定する。年表の中に収まった作曲者は類型化され、あたかも差異はなかった かの如くになる。だがその音楽が、時代を超えて、文化的文脈を超えて聴き手に訴える力をもっているとき、その力の源泉は、そうした記述・解説に よって説明されるようなものなのだろうか。マーラーの音楽は私にとって文化財ではない。博物館に陳列された観賞の対象ではない。学問的には 取り扱い不能な、排除されるべきものなのだろうが、厄介なことに、私にはマーラーが上述の書簡で表明したようなスタンスが、その音楽を介して 理解できる「気がする」のだ。取るに足らない、錯覚、思い込みかも知れない、けれども一貫して、変わることのない強い印象。マーラーの音楽は、 私に対して、デイヴィッドソンの言う「根源的解釈」の音楽版を要求するかのようだ。寛容の原理に基づく、当座理論による合意の最大化。 勿論、言語と音楽を単純に置き換えることはできない。コミュニケーションのモデルを単純に音楽に持ちこむことはナンセンスだ。だが、現実に 既存の音楽の解説や説明において、何と多くの寄生が生じていることか。デイヴィッドソンの展望は言語によるコミュニケーションの説明としては 随分と挑発的な部分があるが、音楽においてはコミュニケーションのモデル自体が問い直されなければならない。だとしたら、一体どんな展望が 開けるのだろうか。いずれにせよ、マーラーの音楽の特質の説明は、そうした未聞の展望の裡にこそあるのでは、という印象は拭い難い。 (2008.10.4, 2024.7.10 1996年版書簡集の情報について付記するとともに、邦訳を追加。)

1906年8月18日付ウィレム・メンゲルベルク宛書簡に出てくる第8交響曲に関するマーラーの言葉

1906年8月18日付ウィレム・メンゲルベルク宛書簡に出てくる第8交響曲に関するマーラーの言葉(1924年版書簡集原書306番, pp.331-2。1979年版のマルトナーによる英語版では338番, pp.293-4, 1996年版に基づく邦訳:ヘルタ・ブラウコップフ編, 『マーラー書簡集』, 須永恒雄訳, 法政大学出版局, 2008 では360番, pp.326-7)
(...) Ich habe eben meine VIII. vollendet - es ist das Größte, was ich bin jetzt gemacht. Und so eigenartig in Inhalt und Form, daß sich darüber gar nicht schreiben läßt. - Denken Sie sich, daß das Universum zu tönen und zu klingen beginnt. Es sind nicht mehr menschliche Stimmen, sondern Planeten und Sonnen, welche krisen.(...)

(…)ちょうど私の《第八》が完成したところです。ーこれは今まで作曲した内で最大のものです。また内容も形式もあまりに独特のもので、ちょっとそれについて手紙に記すことができないほどです。―ご想像いただきたいが、宇宙が音を立てて、鳴り響き始めるのです。もはや人間の声ではありません。公転する惑星の、太陽の、声なのです。(…)
 第8交響曲について語る時、決まって引かれるこの文章は、確かに第8交響曲の音楽に相応しいに違いない。そしてマーラーの作品の中で「最大」のものである ことは事実だろうし(ただしこれは単純な演奏時間の長さについては当て嵌まらないが、ここでマーラー自身が言いたいのがそんなことではないことくらい、 明らかなことだろう)、内容的にも形式的にも全く独自であるということもあながち誇大な主張ともいえまい。確かにこれは交響曲としては異形の作品だろう。

だが第8交響曲の価値について疑念を抱くものにとっては、「宇宙そのものが轟き、響く」やら、「もはや人間の声ではない」やら、「惑星や太陽が回転する」など といった言葉は、そのまま第8交響曲の疑わしさを証するものになりかねない。第8交響曲自体がそうであるのと同じように、作曲者の意識の上でも、 後期ロマン派の肥大した自己の誇大妄想がここに極まったと見做すことさえありえるに違いないのである。音楽は所詮は仮象に過ぎない。 音楽において何かが成就されたからといって、現実の何が変わるというのか、思い違いも甚だしい、という訳だ。クロノロジカルにも後続する、ヘルシンキでの シベリウスとの会見での交響曲に対する見方の「対立」なるもののマーラーの側の立場が、この書簡の言葉の延長線上にあるのは確かなことだ。マーラーの 拡大とシベリウスの圧縮という図式は、確かに見取り図として決して不当なものではないだろう。
第8交響曲は時代の産物であった、賞味期限の限定つきの作品であり、今や骨董品、博物館に陳列されるのが適切な文化財に過ぎない、今日の 日本に、聖霊降臨祭の賛歌とゲーテを歌詞にもつ100年前の作品が一体どう関係するのか、という疑問には妥当性を認めねばなるまい。だが、それでは すっかり展望の変わってしまった進化論のもとで第3交響曲がどういう今日的意義を持つのか、東洋趣味を反対側から眺めざるを得ない日本人に とって大地の歌はどういう作品なのか、という具合に、その音楽の「内容」を問題にした途端、幾らでも問いを続けることができるだろう。十年一日どころか 百年前と何も変わっていないかの如く、マーラーの音楽の「標題」を、その「内容」としての「世界観」を議論すれば事たれりという姿勢は、 自分の立ち位置の、展望の相対性に関しては全く無批判で、実は自分の身の丈に対象を合わせて歪めていることはないのだろうか。一方で この曲の価値に関する留保が、コンサートホールでの経験に裏打ちされているものであるならば、それには一定の批判力が担保されているだろうが、 いくら録音・再生の技術が発達したとはいえ、この作品を実演を介さずして議論することに疑問を呈するのは正当な見識であろう。
だがそれでも、この音楽の持つ力に触れた人の幾ばくかは、時代と場所の、つまりは文化的・社会的な展望の相違を超えて、この音楽から何かを 受け取るだろう。そしてそれは、上掲のマーラーの言葉を比喩であったり、誇張を伴った修辞であると見做すことなく、それをありのままに受け止める ことを選ぶであろう。仮象であることを認めつつも、音楽の力を全くの無ではないと、自らの経験に照らして断言するであろう。マーラーが全曲を通じて 人間の声を徹底して用いた異形の交響曲であるにも関わらず、よりによってその曲に限って「もはや人間の声ではない」と言い、まるでピタゴラス派の 天球の音楽よろしく「惑星や太陽が回転する」と述べた逆説は、時代の中に奇妙な形態で埋め込まれた、だがそれ自体は恐らくは時代を超えた 音楽のありようを示唆しているに違いない。情報の伝達、転記という言葉から「心から心へ」のメッセージ伝達の言語としての音楽を考えるのは そうしたマーラーのスタンスに相応しくないし、当時最先端の物理学や生物学にすら強い関心を示したマーラーを、過去の文化史の文脈に 位置づけ、今日の座標に変換する作業はそっちのけで済ませることが適当だとは思えない。聴き手が本来は自分が生きている時空とは別の 過去の文脈に自らが居ると勘違いすることに何の意義があるのか。しかもそれは選び取られたアナクロニスムですらなく、そうすることがモードの先端で あると喧伝されることすらあるのだ。だが今日、これと同じことが企てられたら、それは疑わしいものではないか。同じ意図を実現は、時代と場所が 違えば異なった形態をとらざるを得ないのではないか。現在に引き付けて聴くということは、横たわる距離を無かったことにすることではなく、逆に これをどうしようもなく距離あるものとして、だが、その距離を超えて伝わってくるものを聴き取ることではないか。そんな面倒なことをするなら、 過去のものなど相手にしなければ良いという批判があるかも知れないが、そこにしかない何かを認めてしまえば、それがどこにでもあるような ものではないということを知るにつけ、それがかつてあったということの重みが単純な同時代性を凌駕するのは明らかだ。
音楽を創るとき、音楽を聴くとき、主体は一体どこにいるのだろうか。情報が変換され、別の媒体に転記されるプロセスは確かに 「主体」を巻き込んで生じているが、「主体」はそれを遅れて観察するのがせいぜいだ。勿論そこにはそうした「主体」の活動の痕跡も また書きこまれていることだろう。デコードを行う私は、一体それをどうしようというのか。一体何を読み取り、どのように加工・変換して、 最終的に情報をどう処理しようというのか。そもそもこれらの過程において聴く「主体」たる私は一体どういう役割を果たしているのか。 終状態はどのようなものなのか。そのプロセスの「価値」は一体何によって測られるのか。
こうして考えてみると、音楽を聴くことが「消費」の同義語になっている事態が異様なことに思えてくる。 それでは一体「消費」とは何なのだろうか。それは単純に受け取ったものを全て捨てることなのか。捨てた後の状態は一体どのような ものなのか。またもや「主体」は「消費」にどう関わるのか。財(CDや楽譜など)の購入や蓄積、サービス(例えばコンサート)の購入という観点で 消費を記述することは可能だろうが、それは「私」におきたこと、「私」が経験したことと無関係ではありえない一方で、 その関係はごく間接的なものでしかない。それでは私の脳内に形成されたあるパターンが問題だというのか。そのパターンは私を利用する 遺伝子の搬体の生命維持機構の停止とともに消滅する。否、それ以前に私というユーティリティ・プログラムが機能しなくなれば、 アクセス不可能になってしまう。楽譜として書き留められた情報、CDに記録された情報の末路として、それはあまりにinertではないか。 「消費」とはそうした情報のinertiaに至るプロセスを指し示しているのだろうか。
第8交響曲は確かに色々な意味で躓きの石なのかも知れないが、それは両義的な存在なのではないか。少なくともそれを素通りして事足れりと することは私にはできそうにない。Veni Creator, Spiritusに対して、「ところでそれが来なければ」という冷静で意地悪なまぜかえしによって マーラーの熱狂を批判するのにも確かに一理はあるのだろう。だが、私個人についていえばそんなことはしたくない。そんなことをする「権利」が 私にあるとも思えない。否、その熱狂の根拠こそがかけがえのないものではないか。この音楽がマーラーの作品中の特異点であることは 間違いないだろう。だが、この特異点を無視した記述が十全なものであることはないだろう。この特異点を取り扱うことのできる記述こそが 自分の必要としているものであることを、上掲の書簡の言葉を読み返して改めて認識せざるをえないのだ。(2008.10.19, 2024.7.10 邦訳を追加。)

ブルノ・ヴァルター宛1909年12月19日付の書簡にある第1交響曲に関するマーラーの言葉

ブルノ・ヴァルター宛1909年12月19日付の書簡にある第1交響曲に関するマーラーの言葉(1924年版書簡集原書383番, p.419。1979年版のマルトナーによる英語版では407番, p.346。1996年版書簡集邦訳:ヘルタ・ブラウコップフ編『マーラー書簡集』, 須永恒雄訳, 法政大学出版局, 2008 では429番, pp.390-1)
... Ich brachte vorgestern hier meine Erste ! Wie es scheint, ohne besondere Resonanz. Dagegen war ich mit diesem Jugendwurf recht zufrieden. Sonderbar geht es mir mit allen diesen Werken, wenn ich sie dirigiere. Es kristallisiert sich eine brennend schmerzliche Empfindung : Was ist das für eine Welt, welche solche Klänge und Gestalten als Wiederbild auswirft ! So was wie der Trauermarsch und der darauf ausbrechende Sturm scheint mir wie eine brennende Anklage an den Schöpfer. Und in jedem neuen Werk von mir (wenigstens bis zu einer gewissen Periode) erhebt sich dieser Ruf von neuem : "Daß du ihr Vater nicht, daß du ihr Zar"

…おとといはここで私の《第一》をやりました。みたところ、さしたる反応なし。それにひきかえ私はこの若書きに心から満足しました。こうした作品はどれも、指揮するといつでも、妙な気分になる。燃えるような痛切な感情を結晶化している。すなわち、こんな響きと形姿を鏡像として投げかけるとは、これはいったいなんという世界なのか。葬送行進曲とそにつづいて勃発する嵐のようなものが、私には、あたかも造物主への嘆願のような立ち現れてくるのです。そして私が新作を作るたびごとに(少なくともある時期までは)この嘆願の叫びが毎回沸き起こるのです――「汝は彼らの父に非ず、汝は彼らの暴君なり!」  

この一節は、最後のミッキェヴィチの「葬礼」のリーピナーによる独訳の引用により有名かもしれない。 言うまでも無くリーピナーはマーラーの友人であり、とりわけアルマと結婚する以前のマーラーへの影響は大きかったと言われている。 「葬礼」は最終的に第2交響曲第1楽章となった交響曲ハ短調の第1楽章が一時とった形態である交響詩のタイトルである。 従って、この文章は第2交響曲の「葬礼」が第1交響曲のフィナーレで倒れた英雄の葬礼であるという標題的な解釈の裏づけとして意味を持つわけである。 (ちなみに、あれほどリーピナーを嫌っていたアルマが、この引用についてはちゃんと注をつけているのは興味深い。もっとも「回想と手紙」でも、 この翻訳だけはその価値を認めていたようなので、首尾一貫した評価なのだろうが。 ―邦訳では「慰霊祭」(酒田訳, p.37)「祖先の祭」(石井訳, p.51)となっているので注意。)
だが、それよりも私はこの文章を読んだ時に寧ろ、晩年のマーラーが自分の若き日の作品を改めて指揮した際に、 その若き日の衝動をなおも我が事として見出すことが出来たことや、この不遇な作品―少なくともマーラーその人は、 自ら指揮したその演奏がまたしても聴衆に理解されなかったと感じていることは、文章から読み取れる―に対する愛着に感動したことを覚えている。 当たり前の事だと思われるだろうか? 私にはそうは思えない。20年も前の作品なのだ。 この書簡が書かれた日付を見るに、この時分にマーラーが取り組んでいたのは第9交響曲なのである。 感じ方は人それぞれとは思うが、いずれにせよ「あれは若書きで」などとは言わないところが如何にもマーラーであると私は思う。 (そういう弁解が必要な作品は、彼は公開しなかったのだが。)いずれにせよ第1交響曲がマーラーにとってどんなに大事な作品であったか、 そしてあのフィナーレを聴く者が受け止めなくてはならないものの重みを感じずにはいられない。 個人的な経験になるが、私がバルビローリの第1交響曲の録音を聴いたときに、ふとこの書簡の言葉を思い出したのをはっきりと記憶している。
ちなみに、この後に続く文章は、芸術と実生活の関係について書かれていて、これはこれで興味深いものがあるが、 別に扱うだけの内容があると思われるので、別項を立てて扱うことにしたい。(2007.5.15, 2024.7.10 邦訳を追加。)

2024年7月7日日曜日

MIDIファイルを入力とした分析:エントロピー計算結果の同時代以降の作品との比較について

1.はじめに

  マーラーの交響曲のエントロピー計算結果についてマーラーの同時代以降の作品との比較の可能性について検討した結果を公開します。本件については、2023年11月の最初の公開後直ちに、比較対象とした同時代以降の作品の集計結果に重大な制限があり、比較分析を行うには適当でないと判断し、記事を撤回することにしましたが、その後の検証で、判断の材料とした未分析の和音の出現頻度の集計に問題があり、必ずしもそこで不適当と判断した作品の全てについて判断が妥当であった訳ではないことを確認しました。

 具体的には判断の材料とした未分析の和音の出現頻度の集計は、マーラーの作品における未分析の和音を解消した時点の集計ではなく、マーラーの作品においてすら、特に後期作品に未分析の和音が残る状態で分析を行っていた事典(記事MIDIファイルを入力とした分析:データから見たマーラーの作品 和声出現頻度の分析のまとめを参照)での集計でした。その後マーラーの作品については未分析の和音が解消されましたので(記事MIDIファイルを入力とした分析:データから見たマーラーの作品 補遺(1):未分析和音の解消を参照のこと)、現時点ではマーラーの作品については、出現する全てのピッチクラスの集合を扱った集計・分析が可能であり、そのことを踏まえた上で、既に後期作品にフォーカスした分析を行った結果を報告してきた(記事2つの旋法性?:MIDIデータを入力とした分析続報(2):全音階・五音音階・全音音階を巡って参照)訳ですが、他の作品についても、改めてマーラーの作品における未分析の和音を解消した時点での集計を用いると、未分析の和音の出現頻度が分析に支障ない程度にまで下がっている作品もあることがわかりました。

 そこで撤回の記事の方を改めて撤回し、以下では未分析の和音の出現頻度の変化についての報告をした上で、状態遷移パターンの比較に用いた作品についての集計結果のみを公開し、それ以外の同時代以降の作品との比較については、改めて後日を期することにします。

 なお、今後、これらの作品の未分析和音を解消すべくパターン・マッチング処理を拡張するかどうかについては否定的であるという判断の方には変化はありません。あくまでも本ブログでの集計・分析はマーラーの作品を対象としたものであり、他の作曲家の作品は比較対象としてのみ意味を持つこと、マーラーの作品について、更に集計・分析をすべき課題は山積しており、そちらを優先して実施する関係上、他の作曲家の作品には手が回らないことがその理由です。

2.未分析の和音の出現頻度

 以下、

作曲家、作品:マーラーの作品に未分析の和音が残る状態の時点での未分析の和音の出現頻度/系列長 (出現頻度の順位/パターン数) →マーラーの作品については未分析の和音が解消された時点での未分析の和音の出現頻度/系列長 (出現頻度の順位/パターン数) 

という書式で記載します。なお、未分析の和音という定義上、その中に、何種類の和音が区別されて含まれるのかはわかりませんので、その点はご了承頂けるようお願い致します。(仮にそれが単一の種類の和音であるならば、エントロピーの計算上も問題ないことになりますが、頻度が高い場合については、その確率は極めて低いものと思われます。逆に、全てが互いに異なる和音で、それぞれの出現頻度は1であるというケースについても同様です。)

  • マニャール、歌劇「ベレニス」序曲:1/367 (38/42)→0/367(-/42)
  • ヴェーベルン、パッサカリア:49/411 (1/46)→0/427(-/127)
  • ストラヴィンスキー、詩篇交響曲:65/901 (1/100)→1/916(106/146)
  • †シュトラウス、アルプス交響曲:407/2459 (1/115)→76/2679(6/281)
  • シェーンベルク、「浄夜」:9/1754 (34/90)→0/1754(-/93)
  • スクリャービン、交響曲第3番:20/1776 (17/77)→0/2478(-/102)
  • †シュニトケ、交響曲第5番=合奏協奏曲第4番第1楽章:93/359 (1/84)→32/543(1/204)
  • ?アイヴズ、「答えのない質問」:21/123 (1/39)→2/144(15/72)
  • ホルスト、「惑星」組曲:86/2898 (8/90)→0/2910(-/119)
  • ショスタコーヴィチ、交響曲第10番:50/1867 (7/104)→1/2526(120/154)
  • ?バルトーク、オーケストラのための協奏曲:150/2065 (2/113)→10/2189(42/198)
  • ?ペッテション、交響曲第6~16番、ヴァイオリン協奏曲第2番、交響的断章: 8760/65405 (1/121)→651/73694(24/317)
 マーラーの作品に未分析の和音が残る状態では、マニャールの「ベレニス」序曲とシェーンベルクの「浄夜」以外は未分析の和音の割合が高く、未分析の状態を解消しなければエントロピーや状態遷移パターンの集計・分析を行うことが難しそうですが、マーラーの作品については未分析の和音が解消された時点では、大幅に未分析の和音の出現頻度は低下していることがわかります。
 シュニトケは未分析の和音の頻度が順位でももっとも高く、数としても1割弱を占めていますし、シュトラウスもまだ数にして3%弱が未分析ですので、依然としてエントロピーや状態遷移パターンの集計・分析を行うことについては慎重であるべきでしょうが、アイヴズ、バルトーク、ペッテションについては、以下の比較分析対象としているラヴェルの「ダフニスとクロエ」第2組曲と同程度まで下がっていますし、他の作品についてはエントロピーや状態遷移パターンの集計・分析を行っても支障ない結果と考えられます。
 特にまとまった数の作品数があり、マーラーの交響曲との比較を検討していたペッテションについては、未分析の割合が全体の1%を切ったこともあり、比較分析を試みてもいいように感じており、改めて後日の課題ということで判断を訂正したいと思います。

3.状態遷移パターンの比較対象のうちマーラーの作品と同時代以降の作品との比較

 状態遷移パターンの比較に用いた作品について、未分析和音の頻度の集計結果を記載し、その上で、MIDIファイルを入力とした分析:状態遷移パターンの出現確率に注目した予備分析にて比較対照した結果を、マーラーの作品と同時代以降の作品に絞って再掲します。

  • ヤナーチェク、シンフォニエッタ:0/1412 (-/78)
  • タクタキシヴィリ、ピアノ協奏曲第1番:0/1804 (-/114)
  • ラヴェル、左手のためのピアノ協奏曲:1/1290 (103/140)
  • ラヴェル、ピアノ協奏曲ト長調:1/1150 (106/137)
  • ラヴェル、優雅で感傷的な円舞曲:1/1289 (141/186)
  • ラヴェル、「ダフニスとクロエ」第2組曲:14/1737 (32/241)
  • シベリウス、交響曲第2番:0/2763 (-/121)
  • シベリウス、交響曲第7番:0/2072 (-/171)
  • シベリウス、「タピオラ」:2/1780 (109/170)
 MIDIファイルを入力とした分析:状態遷移パターンの出現確率に注目した予備分析にて比較対照した他の作曲家の作品のうち、マーラーの作品と同時代以降の作品との比較
  • 単純マルコフ過程としてのエントロピーおよび状態遷移パターン出現確率分布のエントロピー(深さ0~5)

  • 状態遷移パターン数/系列長比率(深さ0~5)


公開したアーカイブファイル gmsym_control_cdnz3_pcls.zip には以下のファイルが含まれます。
  • 入力ファイル(比較対照の作品のみ)
    • *_A_cdnz3_pcl.csv:状態遷移パターン出現頻度(深さ0~5)
    • *_A_cdnz3_pcl_transition,csv:単純マルコフ過程としての状態遷移マトリクス
  • 結果ファイル(マーラーの交響曲および比較対象の作品の集計結果)
    • _control_pcl_summary.xlsx
      • 単純マルコフ過程としてのエントロピー
      • 状態遷移パターン出現確率分布のエントロピー(深さ0~5)
      • 総拍数
      • 状態遷移パターン数(深さ0~5)
      • 系列長(深さ0~5)

[ご利用にあたっての注意] 公開するデータは自由に利用頂いて構いません。あくまでも実験的な試みを公開するものであり、作成者は結果の正しさは保証しません。このデータを用いることによって発生する如何なるトラブルに対しても、作成者は責任を負いません。入力として利用させて頂いたMIDIファイルに起因する間違い、分析プログラムの不具合に起因する間違いなど、各種の間違いが含まれる可能性があることをご了承の上、ご利用ください。
(2023.11.9, 2024.7.7 記事撤回の判断に誤りがあったことが判明したため全面改訂して再公開)

2024年7月6日土曜日

アドルノのマーラー論末尾の引用 "Nacht ist jetzt schon bald."について

アドルノ「マーラー」の末尾の引用(Taschenbuch版全集第13巻p.309,邦訳新版(龍村訳), p.215)
Ohne Verheißung sind seine Symphonien Balladen des Unterliegens, denn »Nacht ist jetzt schon bald«.

 約束を与えることなく、彼の交響曲は支配されている者の物語詩(原文ルビ:バラード)となっている。なぜなら、「夜はもうすぐそこだ」からである*23。

 アドルノのマーラー論の末尾は、Nacht ist jetzt schon bald.という言葉が引用されて終わる。 これに対する新しい邦訳(龍村訳)に付せられた訳注が、あまり適当とは思えないので、 備忘のため私見を記載して置くことにしよう。その訳注というのは以下のようなものである。

*23「夜はもうすぐそこだ」という言葉は、ゲーテの『ファウスト』第二部第一章「夜はもうやってきた」を思わせる。ここでは、迫りくるナチズムとユダヤ人の悲劇を暗示しているようである。

ちなみに古い竹内・橋本訳はそもそも訳注を付けていない。 これはJephcottの英訳、Leleu/Leydenbachの仏訳も同じであり、些か不親切な感じがしなくもない。 とりわけ書かれて半世紀後の日本で読まれることを考えた場合、訳注を付けようとする新訳の姿勢自体は 適切だと思うのだが、専門のアドルノ研究者の手になる注に対して、時間的余裕においても、取得できる情報量 においても大人と子供のようなハンディキャップを負っているはずの市井の一マーラー愛好家がこのような コメントを付することについては、いつもながら複雑な気持ちにならざるを得ない。

ただし、インターネットが 普及した今日では、かつてに比べて、このような疑問を持った時の調査は遥かに容易になっており、 今回も私見の傍証となる情報がないか調べてみれば、瞬く間に入手することができた。玉石混淆、必ずしも 信頼できる情報ばかりとは言い切れず、その点の確認も求められるから、そんなに簡単ではないとはいえ、 学術論文を書くわけではなく、自分の疑問をプライベートに解消することに限れば、今後は寧ろ読み手が 自分で自己の疑問を調べて解明して行くような姿勢が求められているのだろう。

まず手短に事実を述べると、"Nacht ist jetzt schon bald."は、ベルトルト・ブレヒトの "Das Lied vom achten Elefanten"のルフランにあたる部分であり、アドルノの引用は恐らく間違いなく、 このブレヒトの詩の引用だろう。 この歌はブレヒトの『セチュアンの善人』という劇の中で歌われるソング・ナンバーの一つとして 作られた。初演は第二次世界大戦下の1943年2月、スイスのチューリヒ。ドイツの初演は戦後、1952年になって フランクフルトで行われ、パウル・デッサウが曲を付けている。(アドルノが評価していたブレヒト・ワイルの 組み合わせは事情あって実現しなかった由。)なお、この詩は日本でも別段未知なものではなく、 長谷川四郎さんの訳に林光さんが曲を付けた「八匹目の象の歌」という歌がある。

詩の内容、さらには劇についての情報はインターネットでも得られるし、デッサウ版の歌も林光版の歌も聴くことが できるようだからここでは詳細は割愛しよう。『セチュアンの善人』にせよ、「八匹目の象の歌」にせよ、 アドルノのこのマーラー論の結末の文章に語られている内容に応じたものであることは間違いなく、 半世紀後の21世紀の今日において、それをどのように読むにせよ、ひとまずはアドルノの「引用」を、 恐らくは本来あったであろう位置に置き直してみることには、訳者の言う「まともな理解」のためにも一定の 意義があると信じたい。

ちなみに、訳者が参照しているゲーテの『ファウスト』第二部第一章の 「夜はもうやってきた」というのは、恐らく4642行目のNacht ist schon hereingesunken のことではないかと思われる。勿論、訳者もはっきりと「思わせる」と書いているのであって、そのものであるとは言っていないが、hereingesunkenだと語感もかなり異なる上、(例えば相良守峰訳では、「夜は早や地上にくだりぬ」である。以下、『ファウスト』への参照は相良訳に従う。)この合唱の歌う「夜」は、その文脈から言っても「迫りくるナチズムとユダヤ人の悲劇の暗示」からは遠く隔たっているようにしか感じられない。ここでの「夜」は、第一部の悲劇の後で「疲れたる人」ファウストを「心ゆすりて稚児の熟睡(うまい)にさそ」い、「ふかき憩いの幸(さち)」をもたらすものではなかったか。私見では、ゲーテの『ファウスト』第二部第一章を連想するのはそれはそれで構わないとして、それを「迫りくるナチズムとユダヤ人の悲劇の暗示」を思わせる何か別の文献の引用の注に敢えて記す意味合いが率直に言って全く理解できないのである。

そんなことは些事拘泥ではないかとする向きには、アドルノがここで言い当てようとしたのとは別の何かとして マーラーの音楽が響いているに違いない。 Der muß vor Nacht gerodet sein / Und Nacht ist jetzt schon bald! と嗾けられ、その挙句に落伍し、 踏みつけにされ、見捨てられ、あまつさえ断罪され、有責とさえされかねない状況、真理がファンタズマゴリー としてしか経験できない状況は過去のものであるどころか、今日、他人事とも感じられない。研究の対象でもなく、 趣味の対象でもなく、まさに生きるための糧としてマーラーの音楽を必要としている、私と同じような境遇の Unterliegen、アドルノの別の講演によれば「レヴェルゲ」達のために、上記の事実を記しておきたい。(2014.11.02, 2024.7.6 邦訳および訳注を付加してコメントを追記。)

2024年7月1日月曜日

Google Street Viewによるヴァーチャル・ツアー(番外編):東京都町田市三輪沢山荻野邸の壁画(作:原田和枝)

 東京都町田市三輪沢山荻野邸の壁画(作:原田和枝)

Bei Regen, Wind, Schnee oder klarem Himmel - immer mit Mahler

(雨でも、風でも、雪でも、晴れた空でも、常にマーラーとともに)

2017年9月および2020年5月に本ページ作成者が撮影した写真をこちらのページで公開しています。