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2024年7月12日金曜日

1906年8月18日付ウィレム・メンゲルベルク宛書簡に出てくる第8交響曲に関するマーラーの言葉

1906年8月18日付ウィレム・メンゲルベルク宛書簡に出てくる第8交響曲に関するマーラーの言葉(1924年版書簡集原書306番, pp.331-2。1979年版のマルトナーによる英語版では338番, pp.293-4, 1996年版に基づく邦訳:ヘルタ・ブラウコップフ編, 『マーラー書簡集』, 須永恒雄訳, 法政大学出版局, 2008 では360番, pp.326-7)
(...) Ich habe eben meine VIII. vollendet - es ist das Größte, was ich bin jetzt gemacht. Und so eigenartig in Inhalt und Form, daß sich darüber gar nicht schreiben läßt. - Denken Sie sich, daß das Universum zu tönen und zu klingen beginnt. Es sind nicht mehr menschliche Stimmen, sondern Planeten und Sonnen, welche krisen.(...)

(…)ちょうど私の《第八》が完成したところです。ーこれは今まで作曲した内で最大のものです。また内容も形式もあまりに独特のもので、ちょっとそれについて手紙に記すことができないほどです。―ご想像いただきたいが、宇宙が音を立てて、鳴り響き始めるのです。もはや人間の声ではありません。公転する惑星の、太陽の、声なのです。(…)
 第8交響曲について語る時、決まって引かれるこの文章は、確かに第8交響曲の音楽に相応しいに違いない。そしてマーラーの作品の中で「最大」のものである ことは事実だろうし(ただしこれは単純な演奏時間の長さについては当て嵌まらないが、ここでマーラー自身が言いたいのがそんなことではないことくらい、 明らかなことだろう)、内容的にも形式的にも全く独自であるということもあながち誇大な主張ともいえまい。確かにこれは交響曲としては異形の作品だろう。

だが第8交響曲の価値について疑念を抱くものにとっては、「宇宙そのものが轟き、響く」やら、「もはや人間の声ではない」やら、「惑星や太陽が回転する」など といった言葉は、そのまま第8交響曲の疑わしさを証するものになりかねない。第8交響曲自体がそうであるのと同じように、作曲者の意識の上でも、 後期ロマン派の肥大した自己の誇大妄想がここに極まったと見做すことさえありえるに違いないのである。音楽は所詮は仮象に過ぎない。 音楽において何かが成就されたからといって、現実の何が変わるというのか、思い違いも甚だしい、という訳だ。クロノロジカルにも後続する、ヘルシンキでの シベリウスとの会見での交響曲に対する見方の「対立」なるもののマーラーの側の立場が、この書簡の言葉の延長線上にあるのは確かなことだ。マーラーの 拡大とシベリウスの圧縮という図式は、確かに見取り図として決して不当なものではないだろう。
第8交響曲は時代の産物であった、賞味期限の限定つきの作品であり、今や骨董品、博物館に陳列されるのが適切な文化財に過ぎない、今日の 日本に、聖霊降臨祭の賛歌とゲーテを歌詞にもつ100年前の作品が一体どう関係するのか、という疑問には妥当性を認めねばなるまい。だが、それでは すっかり展望の変わってしまった進化論のもとで第3交響曲がどういう今日的意義を持つのか、東洋趣味を反対側から眺めざるを得ない日本人に とって大地の歌はどういう作品なのか、という具合に、その音楽の「内容」を問題にした途端、幾らでも問いを続けることができるだろう。十年一日どころか 百年前と何も変わっていないかの如く、マーラーの音楽の「標題」を、その「内容」としての「世界観」を議論すれば事たれりという姿勢は、 自分の立ち位置の、展望の相対性に関しては全く無批判で、実は自分の身の丈に対象を合わせて歪めていることはないのだろうか。一方で この曲の価値に関する留保が、コンサートホールでの経験に裏打ちされているものであるならば、それには一定の批判力が担保されているだろうが、 いくら録音・再生の技術が発達したとはいえ、この作品を実演を介さずして議論することに疑問を呈するのは正当な見識であろう。
だがそれでも、この音楽の持つ力に触れた人の幾ばくかは、時代と場所の、つまりは文化的・社会的な展望の相違を超えて、この音楽から何かを 受け取るだろう。そしてそれは、上掲のマーラーの言葉を比喩であったり、誇張を伴った修辞であると見做すことなく、それをありのままに受け止める ことを選ぶであろう。仮象であることを認めつつも、音楽の力を全くの無ではないと、自らの経験に照らして断言するであろう。マーラーが全曲を通じて 人間の声を徹底して用いた異形の交響曲であるにも関わらず、よりによってその曲に限って「もはや人間の声ではない」と言い、まるでピタゴラス派の 天球の音楽よろしく「惑星や太陽が回転する」と述べた逆説は、時代の中に奇妙な形態で埋め込まれた、だがそれ自体は恐らくは時代を超えた 音楽のありようを示唆しているに違いない。情報の伝達、転記という言葉から「心から心へ」のメッセージ伝達の言語としての音楽を考えるのは そうしたマーラーのスタンスに相応しくないし、当時最先端の物理学や生物学にすら強い関心を示したマーラーを、過去の文化史の文脈に 位置づけ、今日の座標に変換する作業はそっちのけで済ませることが適当だとは思えない。聴き手が本来は自分が生きている時空とは別の 過去の文脈に自らが居ると勘違いすることに何の意義があるのか。しかもそれは選び取られたアナクロニスムですらなく、そうすることがモードの先端で あると喧伝されることすらあるのだ。だが今日、これと同じことが企てられたら、それは疑わしいものではないか。同じ意図を実現は、時代と場所が 違えば異なった形態をとらざるを得ないのではないか。現在に引き付けて聴くということは、横たわる距離を無かったことにすることではなく、逆に これをどうしようもなく距離あるものとして、だが、その距離を超えて伝わってくるものを聴き取ることではないか。そんな面倒なことをするなら、 過去のものなど相手にしなければ良いという批判があるかも知れないが、そこにしかない何かを認めてしまえば、それがどこにでもあるような ものではないということを知るにつけ、それがかつてあったということの重みが単純な同時代性を凌駕するのは明らかだ。
音楽を創るとき、音楽を聴くとき、主体は一体どこにいるのだろうか。情報が変換され、別の媒体に転記されるプロセスは確かに 「主体」を巻き込んで生じているが、「主体」はそれを遅れて観察するのがせいぜいだ。勿論そこにはそうした「主体」の活動の痕跡も また書きこまれていることだろう。デコードを行う私は、一体それをどうしようというのか。一体何を読み取り、どのように加工・変換して、 最終的に情報をどう処理しようというのか。そもそもこれらの過程において聴く「主体」たる私は一体どういう役割を果たしているのか。 終状態はどのようなものなのか。そのプロセスの「価値」は一体何によって測られるのか。
こうして考えてみると、音楽を聴くことが「消費」の同義語になっている事態が異様なことに思えてくる。 それでは一体「消費」とは何なのだろうか。それは単純に受け取ったものを全て捨てることなのか。捨てた後の状態は一体どのような ものなのか。またもや「主体」は「消費」にどう関わるのか。財(CDや楽譜など)の購入や蓄積、サービス(例えばコンサート)の購入という観点で 消費を記述することは可能だろうが、それは「私」におきたこと、「私」が経験したことと無関係ではありえない一方で、 その関係はごく間接的なものでしかない。それでは私の脳内に形成されたあるパターンが問題だというのか。そのパターンは私を利用する 遺伝子の搬体の生命維持機構の停止とともに消滅する。否、それ以前に私というユーティリティ・プログラムが機能しなくなれば、 アクセス不可能になってしまう。楽譜として書き留められた情報、CDに記録された情報の末路として、それはあまりにinertではないか。 「消費」とはそうした情報のinertiaに至るプロセスを指し示しているのだろうか。
第8交響曲は確かに色々な意味で躓きの石なのかも知れないが、それは両義的な存在なのではないか。少なくともそれを素通りして事足れりと することは私にはできそうにない。Veni Creator, Spiritusに対して、「ところでそれが来なければ」という冷静で意地悪なまぜかえしによって マーラーの熱狂を批判するのにも確かに一理はあるのだろう。だが、私個人についていえばそんなことはしたくない。そんなことをする「権利」が 私にあるとも思えない。否、その熱狂の根拠こそがかけがえのないものではないか。この音楽がマーラーの作品中の特異点であることは 間違いないだろう。だが、この特異点を無視した記述が十全なものであることはないだろう。この特異点を取り扱うことのできる記述こそが 自分の必要としているものであることを、上掲の書簡の言葉を読み返して改めて認識せざるをえないのだ。(2008.10.19, 2024.7.10 邦訳を追加。)

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