2019年9月29日日曜日

アドルノ「エピレゴメナ」(『幻想曲風に』所収)に寄せて

(…)
 マーラーの内実はごく簡単に言い当てられると人は思いがちだ。絶対的なものが考えられ、感じられ、憧憬されながら、しかし存在しないという風に。彼以前のほとんどすべての音楽がお経のように繰り返してきた存在論的な神の証明を、マーラーは信じていない。すべて正しいのかもしれない、しかしその中身は失われている―彼の痙攣的な身振りはこのことに対応している。しかしながら、まさにそれ故にこそ、彼の作品を前にしたとき〔神は存在するという〕不毛のお題目は、何と惨めで、抽象的で、誤ったものに見えることか。マーラーの音楽においては、世界観的スローガンが釘付けにしようとして取り逃がすものが、個々の点しか見えていない判断などには決して明かされることのない経験の全体の中で開花し、獲得される。これがあるからこそ彼の真理内実は、人々の心情を揺さぶることが出来る。生の意味についての空疎な決まり文句が、ただ無力に生の背後に取り残されるしかないのと同様、判断もまたその背後に取り残されるしかない、そういう心情を。
(…)
アドルノ「エピレゴメナ」より(『アドルノ音楽論集 幻想曲風に』, 岡田暁生・藤井俊之訳, 法政大学出版局, 2018 所収)

ようやくにして待望の翻訳の成った『幻想曲風に』には、マーラーに関連した文章として、従来より別の訳で読むことのできた有名なウィーン講演の他にもう一つ、「エピレゴメナ」、つまりウィーン講演の補足として書かれた文章が収められており、これをようやく正確な日本語で読むことができるようになった価値は計り知れないものがある。

勿論、『幻想曲風に』には他にも重要な論文が並んでおり、翻訳の価値の総体は、それら総体を踏まえて測られるべきであるけれど、マーラーという文脈に限って、更に「エピレゴメナ」一篇に限っても、その意義の大きさは、恐らく一読すれば明らかなことであろう。特にマーラーの作品に固有の音楽的時間の解明という観点から眺めた時、この「エピレゴメナ」には、音楽的時間の問題として扱われるべきほぼ全てが出揃っていると、そのように私には思えるのである。休止然り、逆行や回顧然り、リズムと同期の問題も登場している。小説的時間、絵画や映画との比較もまた然り。

だが一読して改めて感じる事は、問題は巨視的な、いわゆる楽式のレベルの持続(と断絶・再開)の構成にあるということにある。この翻訳では「キャラクター」と訳されているものも、そうした持続の中でのヴァリアンテとの関わりで捉えられるべきだし、それに関連して、これまたモノグラフで取り上げられ、ウィーン講演でも言及される突破や停滞・充足や解体といったカテゴリもまた然りであろう。

別のところにも書いた通り、20世紀以降の音楽が拒絶したものとして、「人間的」な時間経過、「物語的」「小説的」な時間の流れ方があり、かつまたそれは「うたうこと」の拒絶とどこかで通じているように感じられる。そして勿論そうした音楽的時間の獲得なり生成なりというのはAIには困難なこと、できないことでもあるだろう。AIによる自動作曲ではなくても、アルゴリズミック・コンポジションのような立場からしても、数理的な扱いやすさという観点から見た場合、小説的な時間というのは扱い辛いもののようである。そこではそもそも伝統的な楽式というのが極めて恣意的なものとなってしまう訳だが、一つには自然言語にもある階層的な構造を考慮しなくてはいけないということがあるにしても、それだけで問題が解決する訳では勿論なく、言語を用いた作品で行けば、文のレベルではなく、文を繋いでテキストを編んでいくための原理というのが必要なのだということになるだろう。意味が通る、文法的にも正しい文章を連ねることはできるだろうし、それなりにコヒーレンスのある文の連なりを生成することだって可能かも知れないが、それでもなお、それと小説を書くこととの間の径庭は未だ大きなものがあると言わねばなるまい。

だが一方で、そうした楽式論を規範とする通常の音楽分析が、マーラーの作品のような音楽的時間の流れをどう扱うかと言えば、それを伝統的な図式からの偏倚としてしか記述できないのは、アドルノがマーラーモノグラフの冒頭で述べている通りである。もしそれがアドルノの言うとおり「唯名論的」に実質的なものであるならば、規範からの距離としてではなく、そこに固有の力学が読み取れる筈だし、それを試みるべきなのではないかというように思われるのである。

他方において、アドルノの言っていることは斯くも「まっとう」で悉く正鵠を射ているように思えるけれど、それをボトムアップに、例えばMIDIデータの分析によって裏付けるということを考えると、途轍もない懸隔を感じてしまうのもまた事実である。一つだけ例を挙げれば、マーラーの音楽が強い「形而上学的」志向を備えているというアドルノの指摘は、感覚的には首肯できても、それでは「形而上学性」がMIDIデータの分析で「検出」できるものなのか、一体、音の並び・組み合わせのどこがどうなると、音楽が「形而上学的」になったり、ならなかったりするのかというように問題を設定してしまうと、そもそもが音楽的時間に関する実質的で内容的な分析、つまり「意味」についての分析というのは実は全く手つかずなのではないか、というようにさえ思えてならないのである。

勿論上記のような問いは、それが余りに性急な、短絡的な問いであろうことは自分でも想像できるのだが、さりとて、ではどのようにしてそのギャップを埋めることができるのかの具体的な方策について言えば、その見通しがあるわけではないことを率直に認めざるを得ない。

ただ、このように考えることはできるのではないか。些か無茶な定義であることは承知の上で、何時の日かAIがマーラーの音楽を聴いて、「エピレゴメナ」のような指摘をすることができるようになった折には、AIが音楽を(人間にとってのそれとして)「理解した」ことを認めるに吝かではないと。

既述の通り、アドルノの指摘は私には正鵠を射たものであると感じられるが、このような指摘をAIができるようになるのか?そのためにはAIに必要なものは何か?その時AIは、比喩でなく、「人間」そのものにならなくてはいけないのではないか?折も折、9月25日付朝日新聞夕刊の記事で、『幻想曲風に』の訳者の一人である岡田先生が指摘されているように、逆に人間がAIのようになっていくのであるとしたら、人間は、自分のための「音楽」を自ら手放すことになってしまうのではないか、というようにさえ思えるのである。

その一方で、AIは措くとして、MIDIデータに基づく分析に限定してみるとしても、それはつまるところ単なる音響態だけに分析の対象を限定していることになり、三輪眞弘さんが逆シミュレーション音楽の定義で明らかにした「音楽」を成り立たせている条件からすればそれは既に抽象を経たものに過ぎないのだが、それでもなお、その音響態の構造なりパターンなりから、アドルノの指摘に対応する何かが抽出できるのでは、という問題設定は有効だし、有効でなくてはならないように思う。

勿論、「絶対的なものが考えられ、感じられ、憧憬されながら、しかし存在しない」というような言葉が妥当と感じられる音響態とは?いや、百歩譲って「彼の痙攣的な身振り」とは一体音響態のどこに、どのような分析によって検出できるのか?といった問いに対して、具体的な見通しがあるわけではないのだが、それでもなお、もしアドルノの分析を真に受けて、それを引き継ごうとするならば、このような問いを避けて通るべきではないのではないかと思えてならないし、「エピレゴメナ」はそうしたアプローチのための具体的な手掛かりを与えてくれるものに思えるのである。

「エピレゴメナ」の末尾は、マーラーのあの有名なデスマスクについての言葉で終わる。
ここを読んでいて、実は私は、デスマスク(その実物に接したことは私はないが)ではなく、今年の春に乃木坂で接したロダン作の塑像のことを思い浮かべた。その時の感想は若干の付記をした上で別に公開済なのでここでは繰り返さないが、それを踏まえた上で、そしてデスマスクに関する「エピレゴメナ」末尾の記述をも踏まえた上で、私は以下のようなことを思わずにはいられなかった。

ボルヘスの短編に、ドンキホーテを「再創作」するという趣向の作品がある(『伝奇集』(Ficciones)所収の「『ドン・キホーテ』の著者、ピエール・メナール」(Pierre Menarrl, autor de Quijote))。そこでのボルヘスの意図は措いて、まさにピエール・メナールのようにマーラーの作品をAIが「再創作」したとしよう。その時、音響態としては同一なわけだから、チューリングテストのような問題設定では、作者の区別はつかないことになる。AIはチューリングテストにパスすることになるだろう。だが作者が人間なのかAIなのかで、音響態としては同一の作品の「意味」は変わるとしてはいけないのだろうか?勿論これは工学的には反則だろうが、こと「音楽」に対する接し方としては、実はそちらの方が正当なのではないか?

これは一見したところかなり極端な立場に見えるかも知れない。別にAIを持ち出すまでもなく、いわゆる自律主義的な美学とは相容れないのは明らかであるわけだし。だがここで主張されているのは単に、テキスト至上主義に対する作者の復権などではない。一見そう見えたとしても、作品をそれが成立した文化的・社会的文脈(作者もまたそうした「環境」の一部に過ぎず、特権的なものではないとする立場もあるだろう)に還元しようとしている訳ではない。寧ろそれは、AIがマーラーの作品の「聴き手」たりうるかという問いの変形なのだ。或いは同じことだが、AIをマーラーの作品の分析者の位置に据えた時、一体「何を目的に分析を行うのか」という問いの変形なのだ(因みにこれは、岩崎秀雄さんが『BioRealityをめぐる生命美学的遍歴』(日本ヴァーチャルリアリティ学会誌第23巻3号, 2018年9月)で提起された視点そのものである)。言い換えれば、記号論的三分法における「作者」というのは理論的な抽象に過ぎず、既に音楽記号論の不毛が示しているように、そうした抽象によって「音楽」を捉えることはできないし、音楽の「制作」を捉えることはできないのだ。

一昨年物故したアンリ・ルイ・ドラグランジュのマーラー伝の序文においてシュトックハウゼンが想定した、マーラーの音楽を通じて「人間」を理解しようとする宇宙人は、既にアントロポモルフィズムの産物ではないだろうか?(例えば久保田晃弘さんが『他者のためのデザイン』で想定する「他者」を思い浮かべてみよう。)だが、或る意味ではシュトックハウゼンは正しかったという見方もできるだろう。マーラーの音楽こそ、良きにつけ悪しきにつけ、「人間」による「人間」のための「音楽」の一つの極限であるという意味合いにおいて。それは丸山桂介さんが指摘したように「隠れたる神」の時代の「音楽」、ジュリアン・ジェインズの言う「二分心」以後の、自伝的自己=延長意識を備えた「人間」の、アドルノの言う「形而上学が不可能であるということが最後の形而上学」となった「人間」の「音楽」、つまりシンギュラリティ(「技術的特異点」)を前にし、シンギュラリティの向こう側に辿り着くことなき我々のための「音楽」なのだから。(2019.9.29公開, 30加筆, 10.20加筆訂正)

2019年9月24日火曜日

マーラーに関連した2つの展覧会について:マーラー愛好家の専門家への手紙より

(…)今年はオーストリアと日本の外交関係のアニヴァーサリーとのことで、クリムトの名を冠した展覧会が上野と乃木坂で2つ並行して開催されているようです。

まずGWの前半に上野の方に行ったのですが、これは率直に言ってがっかりさせられました。マーラーの関連で良く知っているという意味では(クリムトの周辺とか、社会的文化的背景にあたるものも含めて)良く知っているのがマイナスに作用しているのかも知れませんが、クリムトの作品が出展の半分にも満たないのに「クリムト展」と銘打つのもおかしいし、サブタイトルで日本趣味を持ち出している割には展示はほとんど無関係。GW中であったこともあってか、開場から30分程度なのに入場するのに並ばないとならないので、「興行」としてはうまくいっていたんでしょうが…

ベートーヴェン・フリーズの原寸大複製なるものが展示されたブロックではベートーヴェンの第9交響曲の録音がBGM…。分離派展ではマーラーが合唱をあえてブラスの合奏に編曲して、ウィーンフィルのメンバーを呼んでその場で演奏したとのことですが、そういう経緯を思い浮かべるにつけ、当時持っていた「意味」は勿論、その微かなアウラまでもが既に消し飛び、まるで骨董品をその由来書に従って「演出」して見せるかのような頼りなさ(これくらいのことならバブル期に流行ったCMでも可能だったろうと思えます)に、一体何を意図してこれを100年後の日本に持ってきたのか私には理解できませんでした。単に企画側が見せたいと思い、会場を訪れた夥しい人達が見たいと思ったものに対して私が独り盲目であったに過ぎないのかも知れませんが。

それに対して一昨日の乃木坂の方は、「ウィーン・モダン展」と銘打たれた展覧会の全体がどうというよりも(こちらも目玉の一つらしいクリムトは、油彩の大作はパラス・アテネとエミリエ・フレーゲくらい)単に、マーラーの周辺の(画家としての)シェーンベルク、ゲルストル、ココシュカ、ロダンといった人たちの作品を集めた区画が最後にあったことが私にとってはとても有難かったということかと思います。先生は現物にウィーンで接しておられるでしょうから、改めて足を運ばれる程のものではないかも知れませんが。

シェーンベルクの絵(あの有名なベルクの肖像画とか、私にとっては馴染み深い「マーラーの葬儀の印象」)が来ていて、これも有名なゲルステルのシェーンベルクの肖像画やロダンのマーラーの塑像とかと一緒に、永らく写真でのみ親しんできた作品の現物に接することができたのが良かったです。(ココシュカの連作版画の方は、これはPHILIPSが企画して、中途で頓挫してしまったハイティンク/ベルリン・フィルのマーラー全集――従って、残されたものは選集ということになりますが――で組織的に取り上げたことを、熱心なマーラー・ファンなら思い出したことでしょう。)

シェーンベルクの絵は実物の方が遥かに素晴らしいし、ロダンの塑像は、3次元の現物をじっくり眺めて、その出来のあまりの素晴らしさに驚かされました。写真では感じ取れないマーラーの「精神」とでも言う他ないものが、ロダンの像からは伝わってくるように思えたし、マーラーが歴史上の過去の記号としてではなく、確かにその場に居たという感覚を持ちました。

我が家には、1910年に出版された例のマーラー生誕50周年の記念文集があって、これには図版が2つ、ロダンの塑像とクリムトのベートーヴェンフリースのマーラーがモデルであると伝わる騎士像の写真が収められていて、ロダン作の塑像の写真を保護するパラフィン紙には、ロダンの直筆のサインがあって、自宅にあってマーラーの生前に直接繋がる貴重な接点なのですが、ロダンの塑像も、シェーンベルクの絵などと一緒におかれた現物を見て、その総体を介して、時空を超えて繋がっているという確かな感覚を持ちました。

上野のクリムト展が、徹底的に過去の、外国のものであるという断絶の印象であったのに対して、クリムトはともかく、ココシュカ、ゲルストル、シェーンベルク、ロダンの作品がある乃木坂の展覧会の最後の一室だけは、奇妙な形で自分と繋がっている感じがして、それが錯覚であったとしても、稀有な経験であったと思います。そこにマーラーがいるわけではなくても、確かにマーラーが生きていたアウラが残っていることを感じとることができる空間に足を踏み入れたような気が致しました。

勿論、上に述べたようなことは私の個人的な印象、極めて限定された文脈からの展望に過ぎないですし、それを一般化しようというつもりも毛頭ありません。そもそもがマーラーに引き付ける見方自体、展覧会の見方としては甚だ偏向しており、それをもって客観的な判断とすることができないのは明らかなことです。一方で、にも関わらず、それでもなお私の印象には毫のぶれもないのも動かせない事実です。つまるところそれは、1世紀前のウィーンの文化的・社会的文脈一般に、その中で産み出されながら、その後の時代の変遷に耐えて存続している、否、それどころかますます輝きを増しているかにさえ見える作品の持つ「何か」、つまり(パウル・ツェランの言葉の通り)、時間を超えてではなく、時間を通して送り届けられた投壜通信の価値を還元することの不可能性を告げているように私には感じられます。

無論のこと、時代の中で求められ、時代の中で受け入れられるべくして創作され、受容された作品にもまた固有の価値はあるでしょう。だけれども、時代と場所を隔たりを経て受け取る場合の受け取り方がそれと同じ筈がありません。例えば、その部屋には、その背景を思わせる写真があったわけでもなく、幸いないことに(!)BGMとして彼等の音楽がかかっていたりもしませんでしたが、そういう「演出」を考えてみれば、そうしたことが、ここで経験したことと如何に無関係であるかを感じることができるかも知れません。

上で私は、「マーラーが生きていたアウラが残っている」という言い方をしましたが、それは、見かけ上そのように見えたとしても、自分の経験したことのない過去にマーラーを位置づける操作ではないのです。常には作品を通して、或いは書簡とか証言とかを通して知る他なかったマーラーその人のアウラに別の仕方、或る意味では直接その人物に接するような仕方で、不遜な言い方を御赦し頂きたいのですが、例えばシェーンベルクが接した彼に、その傍らで私もまた接しているかのような印象を抱いたと言えばいいでしょうか?シェーンベルクのかのプラハ講演の言葉が一切の誇張のない、掛け値なしの彼の気持ちであったことをまざまざと感じたように思えるのです。そう、それは或る種の精神的な「圏」の中に足を踏み込んだかのような圧倒的な経験でした。(…)

(2016.5.28執筆、9.24加筆・修正の上公開)

2019年9月1日日曜日

「時の逆流」および時間の「感受」のシミュレータとしての「音楽」に関するメモ

 私は以前より「時の逆流」に関心を持ってきました。これはもともとは、ホワイトヘッドのプロセス哲学の拡張の議論の中で出てきたアイデアで、プロセス神学的な枠組みでフォードが提示したものを意識の場に移し、意識の解明に寄与すべく修正することを試みた遠藤弘「時の逆流について―フォード時間論の批判的考察―」で検討が行われているものです。これを出発点として、私が試みたいのは、自伝的自己のような高度な心性を備え、(やまだようこさんの質的心理学における意味において、或いはまた、藤井貞和さんの物語理論における意味において)「うたう」こと、「ものがたる」ことができる「人間」が経験する時間性の中における「時の逆流」を、超越とか創造性とかの経験、そしてそのその背後にある他者との出会いの経験に関わる時間的構造として提示することです。

一方で「時の逆流」を一般的に捉えれば、そうした自己意識のような高度な心性を想定せずとも、まずもってエントロピーによる時間の矢の向きの議論の場で考えることができるでしょう。時間の方向は、熱力学の第二法則におけるエントロピーの増大によって定義されますが、そこでは「時の逆流」はエントロピーの縮小として捉えることができます。直ちに思い浮かぶのは、今日、複雑系の理論を背景に深化が試みられている「生命」を巡る議論です。微視的に可逆な過程から、どのように巨視的な不可逆な過程が生じるかについては、カオスを媒介とする説明が試みられています(田崎秀一『カオスから見た時間の矢』)し、より「生命」を意識した議論なら、プリゴジーヌの「散逸構造」論であったり、アトランのノイズによる秩序の形成を「時間の逆行」として捉えた議論(『結晶と煙のあいだ』所収の「時間と不可逆性について」)といった、ゆらぎによる秩序形成についての理論にまずは関わると考えられます。

私は形而上学的な議論というのが苦手ですので、私にとっては時間とは常に、時間の経験(時間の「感じ」)が出発点となります。(そういう意味では、哲学では「現象学的」な志向なのだと思います。)直線的時間・円環的時間といった時間表象は、そこから出発して抽象を経て得られるもので、二次的なものです。多くの場合、遠近法的倒錯によって、既に手にした抽象から出発して、背後を覗き込もうとするから話が錯綜とするわけですが、私は(「発生論的」に、あるいは「構成論的」に)、ある系が時間の「感じ」をもつことが如何にして可能になるかを出発点にとりたいと思います。勿論「感じ」はホワイトヘッド的な意味合いにおけるfeeling(「感受」)として一般化されて、高度な意識を持つ主体限定のそれではなく、意識を持たないシステムの外部との相互作用をも記述する用語として類比的に拡張して用いられ、そのことによって「脱人間化」が可能となり、更には方法論上、数理を背景にした理論との関連付けの可能性も出てくると考えています。

大急ぎでそうした数理を背景にした理論で、いわばボトムアップに「生命」の時間に、果ては自己意識のような高度な心性を備えた「人間」の時間に辿り着くための基礎となるようなアイデアとして思いつくものを列挙すれば、まずは同期現象、引き込み現象などについての力学系理論が出発点となるでしょう。(脳の活動に関して、この方向から探求したものとしてブサーキ『脳のリズム』が挙げられると思います。)また、今、我々が現実に目の当たりにしている唯一の「生命」の事例たる地球上の生物の場合には、それがタンパク質を素材としている点に留意する必要が、こと時間を扱う場合には欠かせないと考えます。生物固有の(例えばシリコンチップによりできているデジタルコンピュータとは異なる)基本的な速度があり、例えば、抽象化されると無時間的に行われると前提される論理的な演算すら、有限時間で、遅延を伴って行われることにより生じてくる違いを無視することはできません(この方向性では津田一郎『複雑系脳理論』の中の「ステップ推論」が重要と考えます)。同じ理由で、同期/非同期性に注目すべきであるということにもなります(非常に単純な系でさえ、セル・オートマトンの計算・状態書換えを非同期的に行うことで、複雑系的な挙動を示す割合が増加するという実験結果が郡司幸夫さんにより示されています)。

永遠とか瞬間とかといった語彙で語られることの多い、「永劫回帰」とか「悟り」の瞬間とかにしても、私はそれらを高度な意識を持つ生物たる「人間」が含まれるシステムの構造の上に成り立つものと捉えたい。そしてそれがどのように可能になっているかは、「人間」の心の成立ちの理解を通してしかわからない。意識・無意識を始めとする語彙に基づき、論理的に矛盾しているとして性急に否定したり、逆にそこにパラドクスを見出して、そのパラドクスから理論を構築するといったアプローチはいずれも私には適切な道筋には感じられません。さりとて勿論、現象学的なアプローチ「のみ」では限界があり、脳神経科学でも、精神病理学でもいいですが、そうした知見を参照して、心のモデルを組み立てて(ヴァレラの「神経現象学」はそうしたアプローチの一例でしょう)、シミュレーションするといった形でしかアプローチできないと考えています。

ただし、そうしたシミュレーションが現時点での知見で一足とびにできるとは思えないので、構成主義的に現在でもトライすることが可能なのは、「感じ」を上記のように一般化した上で、意識を持たない非常に単純なシステムの外部との相互作用の中で、時間の「感じ」が出てくることをモデル化することだろうと思います。(そしてこれは、バクテリアの生物時計のような時間生物学的研究や、人工生命における時間発生のシミュレーションと繋がっていると考えます。)

一方で、もう一つのアプローチとして、音楽を(「人間」が)聴いてうける「感じ」から、音楽の構造の側に折り返すこと、音楽自体が、時間の「感じ」(feeling)についてのシミュレータであるという発想をとって、音楽の構造に「感じ」を引き起こすシステムの構造のある部分がマップされていると考えて、音楽の構造を分析することが考えられます。(単に「時間のシミュレータ」と呼んだ方がすっきりするのでしょうが、最初に述べた通り、私は時間を物象化したり、形而上学的な概念として、主体の経験としての時間の「感受」の相を抽象化することに抵抗感を覚えます。誰かが聴かない音楽というものがあり得ないように、体験されない時間というものもない、言い替えれば、時間というのは常に主体の構造や体験の内容に相関的なものであって、経験不可能な超越論的な時間というものはない、というのが私の立場です。抽象を経た時間の表象に関心があるのではなく、アウグスティヌス以来の時間のパラドクスも、それ自体には関心はなく、寧ろそれを疑似問題として解消する説明を探したいと思っています。)

音楽の構造を心理的な含意を持つ図式で捉える試み、或いは例えば詩学や物語論(ナラトロジー)の成果を応用して音楽の構造を捉える試みは、20世紀の音楽学の領域で試みられてきています。他方では、20世紀の言語学の大きな成果である生成文法理論を音楽の構造に適用するような試みも為されてきました。ただし管見では、それらはあくまでも音楽学者の分析の方法論として提案・実践されたものです。それが作品に対する卓越した理解を背景にした直観によって適用された場合には大きな成果に繋がる点を認めるに吝かでなくとも、そうした手法を、いわば天下りに押し付けるのではなく、楽曲そのものを或る切り口で眺めた時に対象の側が持っている数理的な構造を取り出すような、いわばボトムアップのアプローチの方が、ここでの方法論としては適切に思われるのです。そこで伝統的な楽曲分析手法でないやり方で、データの方からボトムアップに音楽を眺めてみようということになります。

冒頭の「時の逆流」に関連した側面のみに限定するならば、そのような分析を通して、恐らくは、なんらかの「特異点」のような構造が、音楽を三輪さんの定義する意味での「音楽」たらしめるものとして浮かび上がってくるような筋道が想定できますが、仮説と呼べるようなものすらない現時点で先に進むことは慎むべきと考え、これは今後に期することにし、ここでは最後に、手持ちのリソースを用いて先ずは感触を掴むためといったレベルのささやかな試み、仮説を立てる前段階の、一先ずは事象を眺めてみようといったレベルのアプローチの一つのサンプルを以下に示して終わりたいと思います。

データからのボトムアップの分析のとっかかりとして、例えば全音階的な和声法ベースで作曲された(20世紀的な意味合いでのいわゆる「現代音楽」ではないという意味で)伝統的な音楽の時間方向の変化を見ていくのに、調的中心のようなものを手掛かりにするようなことが考えられると思います。もっとも楽曲分析の真似事をすべく、ちょっと齧ってやってみるとすぐにわかることなのですが、自動的にプログラムで処理することを前提として調的中心の決定のためのアルゴリズムを書き出すことは簡単なことではありません。そこで差し当たりは簡単に取り出せる調的中心の類比物の時間経過における軌道を眺めてみて何かわかることがないだろうか、ということになります。

そもそも西洋音楽の和声学は、いみじくも「機能和声」と呼ばれるように、それを「人間」が利用するということを前提にした「美的規範」を目がけた合目的性のシステムであり、製作者の利便性に配慮した或る種のヒューリスティクスの集合であると見做せます。「音楽」に対してそうした合目的性を完全に排除できるかどうかという点については実は個人的に私は懐疑的なのですが、それでもなお、「音楽」をそうした「規範」に捉われることなく、一つのシステムとして眺めようとしたとき、前了解的に仮定されてしまっている「機能」を一旦括弧に入れて、音の集合の遷移パターンを眺めてみる、という操作を行ってみることには一定の価値があるように思えます。

そしてそれは、これがまだ初歩の初歩、第一歩に過ぎないとは認識しているものの、直観的には人間的なドラマとは相性が悪そうな「数理的なもの」を敢て用いて、「人間的なドラマ」側に分類されるような音楽の時間的な経過を見つけ出す、ささやかな試みと看做せないだろうか、ということでもあります。

その具体的な実践については(あまりに初歩的なものである上に、未だに最初の試行錯誤の段階にあって、ここでの議論に寄与するような何かが見えてきた訳ではないので)ここでは割愛させて頂きますが、個人的な能力や時間の制約の限界は措くとすれば、音楽的な時間に対するアプローチの仕方として、MIDIファイルを始めとしたデータを入力として、プログラムを用いた「アルゴリズミックな」分析を行うことが、いつの日か、音楽を聴く「主体」と「音楽」の間に生じているプロセスの記述を通じて、「音楽」を創り、演奏し、聴取する、高度な心性を備えた「人間」の構造を解明することに、翻って「音楽的時間」の解明に最終的には繋がると夢想することはできないものかと思わずにはいられません。それはまた副産物的に、「深層学習」などの技術的ブレイクスルーを背景に喧しく論じられている「AI芸術」なるものの現時点での水準での不可能性の説明にも資することになると思われます。

ただし現時点でやるべきは、手当たり次第の展望なきデータ分析ではなく、ここでこれまで書いてきた「思いつき」を仮説と呼べるレベルにするための理論的な枠組みの整備であるという指摘については、素直にその通りであるということを認めざるを得ません。また現時点において、具体的にどのようにデータを分析していけば、そうした構造が取り出せるのかについて私に見通しがあるわけではないし、限られた能力と時間を思えば、それを自分ができると考えているわけではありません。寧ろ、私が此処に思い描いた通りでなくても良いので、誰かが此処に記載した内容をきっかけにして、岩崎秀雄さんがその刺激に満ちた著作『〈生命〉とは何だろうか 表現する生物学、思考する芸術』で取り上げておられる「システム生物学」と類比されるような「システム音楽学」とでも呼べるような領域をまずは開拓して頂けたら、更にその先で「合成生物学」に対応するであろう「人文工学」へと歩みを進めて頂けたらというように願っているのです。(2019.9.1公開、9.7加筆)

MIDIファイルを入力としたマーラー作品の五度圏上での重心遷移計算について(2021.8.23更新)

1.背景:「時の逆流」と「時間の感受のシミュレータ」としてのマーラーの音楽

私は以前より「時の逆流」に関心を持ってきました。これはもともとは、ホワイトヘッドのプロセス哲学の拡張の議論の中で出てきたアイデアで、プロセス神学的な枠組みでフォードが提示したものを意識の場に移し、意識の解明に寄与すべく修正することを試みた遠藤弘「時の逆流について―フォード時間論の批判的考察―」で検討が行われているものです。これを出発点として、私が試みたいのは、自伝的自己のような高度な心性を備え、(やまだようこの質的心理学における意味において、或いはまた、藤井貞和の物語理論における意味において)「うたう」こと、「ものがたる」ことができる「人間」が経験する時間性の中における「時の逆流」を、超越とか創造性とかの経験、そしてそのその背後にある他者との出会いの経験に関わる時間的構造として提示することです。

一方で「時の逆流」を一般的に捉えれば、そうした自己意識のような高度な心性を想定せずとも、まずもってエントロピーによる時間の矢の向きの議論の場で考えることができるでしょう。時間の方向は、熱力学の第二法則におけるエントロピーの増大によって定義されますが、そこでは「時の逆流」はエントロピーの縮小として捉えることができます。直ちに思い浮かぶのは、今日、複雑系の理論を背景に深化が試みられている「生命」を巡る議論です。微視的に可逆な過程から、どのように巨視的な不可逆な過程が生じるかについては、カオスを媒介とする説明が試みられています(田崎秀一『カオスから見た時間の矢』)し、より「生命」を意識した議論なら、プリゴジーヌの「散逸構造」論であったり、アトランのノイズによる秩序の形成を「時間の逆行」として捉えた議論(『結晶と煙のあいだ』所収の「時間と不可逆性について」)といった、ゆらぎによる秩序形成についての理論にまずは関わると考えられます。

私は形而上学的な議論というのが苦手で、それゆえ私にとって時間とは常に、時間の経験(時間の「感じ」)が出発点となります。(そういう意味では、哲学では「現象学的」な志向なのだと思います。)直線的時間・円環的時間といった時間表象は、そこから出発して抽象を経て得られるもので、二次的なものです。多くの場合、遠近法的倒錯によって、既に手にした抽象から出発して、背後を覗き込もうとするから話が錯綜とするわけですが、私は(いわば発生論的、ないし構成論的に)、ある系が時間の「感じ」をもつことが如何にして可能になるかを出発点にとりたいと思います。勿論「感じ」はホワイトヘッド的な意味合いにおけるfeeling(「感受」)として一般化されて、高度な意識を持つ主体限定のそれではなく、意識を持たないシステムの外部との相互作用をも記述する用語として類比的に拡張して用いられ、そのことによって「脱人間化」が可能となり、更には方法論上、数理を背景にした理論との関連付けの可能性も出てくると考えています。

大急ぎでそうした数理を背景にした理論で、いわばボトムアップに「生命」の時間に、古果ては自己意識のような高度な心性を備えた「人間」の時間に辿り着くための基礎となるようなアイデアとして思いつくものを列挙すれば、まずは同期現象、引き込み現象などについての力学系理論が出発点となるでしょう。(脳の活動に関して、この方向から探求したものとしてブサーキ『脳のリズム』が挙げられると思います。)また、今、我々が現実に目の当たりにしている唯一の「生命」の事例たる地球上の生物の場合には、それがタンパク質を素材としている点に留意する必要が、こと時間を扱う場合には欠かせないと考えます。生物固有の(例えばシリコンチップによりできているデジタルコンピュータとは異なる)基本的な速度があり、例えば、抽象化されると無時間的に行われると前提される論理的な演算すら、有限時間で、遅延を伴って行われることにより生じてくる違いを無視することはできません(この方向性では津田一郎『複雑系脳理論』の中の「ステップ推論」が重要と考えます)。同じ理由で、同期/非同期性に注目すべきであるということにもなります(非常に単純な系でさえ、セル・オートマトンの計算・状態書換えを非同期的に行うことで、複雑系的な挙動を示す割合が増加するという実験結果が郡司幸夫さんにより示されています)。

永遠とか瞬間とかといった語彙で語られることの多い、「永劫回帰」とか「悟り」の瞬間とかにしても、私はそれらを高度な意識を持つ生物たる「人間」が含まれるシステムの構造の上に成り立つものと捉えたい。そしてそれがどのように可能になっているかは、「人間」の心の成立ちの理解を通してしかわからない。意識・無意識を初めとする語彙に基づき、論理的に矛盾しているとして性急に否定したり、逆にそこにパラドクスを見出して、そのパラドクスから理論を構築するといったアプローチはいずれも私には適切な道筋には感じられません。さりとて勿論、現象学的なアプローチ「のみ」では限界があり、脳神経科学でも、精神病理学でもいいですが、そうした知見を参照して、心のモデルを組み立てて(ヴァレラの「神経現象学」はそうしたアプローチの一例でしょう)、シミュレーションするといった形でしかアプローチできないと考えています。

ただし、そうしたシミュレーションが現時点での知見で一足とびにできるとは思えないので、構成主義的に現在でもトライすることが可能なのは、「感じ」を上記のように一般化した上で、意識を持たない非常に単純なシステムの外部との相互作用の中で、時間の「感じ」が出てくることをモデル化することだろうと思います。(そしてこれは、バクテリアの生物時計のような時間生物学的研究や、人工生命における時間発生のシミュレーションと繋がっていると考えます。)

一方で、もう一つのアプローチとして、音楽を(「人間」が)聴いてうける「感じ」から、音楽の構造の側に折り返すこと、音楽自体が、時間の「感じ」(feeling)についてのシミュレータであるという発想をとって、音楽の構造に「感じ」を引き起こすシステムの構造のある部分がマップされていると考えて、音楽の構造を分析することが考えられる。(単に「時間のシミュレータ」と呼んだ方がすっきりするのでしょうが、最初に述べた通り、私は時間を物象化したり、形而上学的な概念として、主体の経験としての時間の「感受」の相を抽象化することに抵抗感を覚えます。誰かが聴かない音楽というものがあり得ないように、体験されない時間というものもない、言い替えれば、時間というのは常に主体の構造や体験の内容に相関的なものであって、経験不可能な超越論的な時間というものはない、というのが私の立場です。抽象を経た時間の表象に関心があるのではなく、アウグスティヌス以来の時間のパラドクスも、それ自体には関心はなく、寧ろそれを疑似問題として解消する説明を探したいと思っています。)

それは例えば、マーラーに関連したところで行けば、アドルノがマーラーに関するモノグラフにおいて、マーラーの作品を分析する時に、既存の楽曲分析の道具立てとは別に提示する幾つかの「カテゴリ」、即ちDurchbruch(突破) / Susupension(停滞) / Erfuellung(充足) といったカテゴリを、「小説」形式との関連を意識しつつ心理学的に捉えるのではなく、一旦、数理的な構造に「翻訳」することに繋がると考えます。

アドルノはそれらのカテゴリのそれぞれについて具体的な作品における該当箇所の例示はしますが、定義の方は明確に示していません。強いて言えばErfuellung の説明でバール形式の後段が参照されるくらいで、総じて例示から雰囲気はわかるといった程度だと思います。同じ著作で出てくる「小説」形式と上記のカテゴリの関係もまた、明示されません。ではありますが、実際のマーラーの音楽の構造的な急所が伝統的な楽式論とずれていて、伝統的な楽式を換骨奪胎して、独自の構造を「唯名論的」に都度産出していったという把握の仕方には説得力を感じます。そこに独自の時間論的構造があるだろう、そしてそれが私が外ならぬマーラーの音楽に特異的に惹かれる理由なのではないだろうか、とも思うのです。


2.目的:「時の逆流」を数理的なアプローチで見出す探求の第一歩として

アドルノの提示したカテゴリを、「小説」形式との関連を意識しつつ心理学的に捉えるのではなく、一旦、数理的な構造に「翻訳」することは、(勿論、アドルノは、それを十二分なマーラー作品の分析に基づく、卓越した理解を背景にした直観によって言い当てているのですが、それでもなお)そうしたカテゴリを天下りに押し付けるのではなく、楽曲そのものを或る切り口で眺めた時に、対象の側が持っている構造として取り出すことができないだろうかという疑問に繋がってきます。そこで伝統的な楽曲分析手法でないやり方で、データの方からボトムアップにマーラーの音楽を眺めてみようということになりました。

そしてその最初の切り口として、マーラーの音楽が全音階的な和声法ベースであることから、時間方向の変化を見ていくのに、調的中心のようなものを手掛かりにしてみようと思い立ったわけです。もっとも、楽曲分析の真似事をすべく、ちょっと齧ってやってみるとすぐにわかることなのですが、自動的にプログラムで処理することを前提として、調的中心の決定のためのアルゴリズムを書き出すことは簡単なことではありません。そこで差し当たりは簡単に取り出せる調的中心の類比物の時間経過における軌道を眺めてみて何かわかることがないだろうか、ということになります。そしてそれは、これがまだ初歩の初歩、第一歩に過ぎないとは認識しているものの、直観的には人間的なドラマとは相性が悪そうな「数理的なもの」を敢て用いて、「人間的なドラマ」側に分類されるような音楽の時間的な経過を見つけ出す、ささやかな試みと看做せないだろうか、ということでもあります。

具体的に、先行する分析を参照して述べるなら、例えば上記のような分析を介して、アドルノがマーラー・モノグラフで述べている「未来完了性」を捉えるといったことは考えられないでしょうか?(具体的には、Taschenbuch版で300ページ、VIII. Das lange Blickの第9交響曲に関する叙述に”Im Fururum exactum steht auch der Bau des Hauptthemas.”といったようなかたちで登場します。 定義は例によってさほど明快とは言い難い感じがしますが、要するに、最初に主題が「決定的な形態で」提示されるのではなく、暗示されるように出てきて、後になって(例えばソナタ形式なら、提示部の確保の時、あるいは再現の時に)決定的な形態での提示が行われるようなあり方を指しているとここでは捉えたいです。(ことここでアドルノが直接言及している第9交響曲の第1楽章に限って言えば、確保の際に本来の姿を現すというシンプルな捉え方も可能だと思いますが。)すると「主題提示・展開・再現」ならぬ「主題予示・発展・提示」という図式となるということでしょうか?でも、そこまで行くなら更に、再現が主調への回帰という意味合いで、系の軌道の収束であるという本来の機能が弱まるのと対応するように、コーダ(およびコーダを準備する推移の部分)が、何らかのかたちで「充足」となっていること、言い替えれば、それがダメ押し的な再認であれ、解体であれ、そこでようやく系が安定を取り戻す動きをしているという点を加えることができるかも知れません。マーラーの楽式を論じる際に、ソナタ形式の換骨奪胎という見方をするのは、今や常套的なアプローチですが、にも関わらず、換骨奪胎の具体的なやり方をアドルノのカテゴリと突き合わせるようなことが行われているという話は寡聞にして知りませんが、そうしたことは寧ろ、従来の図式を適用してはみ出す部分を見るのではなく、端的に軌道の動きをトレースすることでより良く把握できてくる側面を持っているように思います。

更にはまたいわゆるナラトロジー系の音楽分析というのがあって、例えば手元には Vera Micznik, Music and Narrative Revisited: Degree of Narrativity in  Beethoven and Mahler, Journal of Royal Musical Association, 126 (2000)  というのがありますがが、この手の分析についても、そこで主張されているベートーヴェンとマーラーのナラティヴィティの程度の違いなるものがデータ分析ではどのように検出できるものなのか?という問いも成り立つかも知れません。

マーラーはゲーテの愛読者で「原植物」のようなゲーテの発想を音楽に当て嵌めるようなこともしていますが、その意味での理想はバッハの音楽あたりになる一方で、自分の音楽は必ずしもそうではなく、(バフチン的な意味合いで)ポリフォニックであるという自覚を持ってもいました。実際には後者の認識の方が先行して初期の「角笛交響曲」に強く表れ、前者が意識されてくるのは中期以降であって、その到達点が、アドルノが「一つの旋律から成り立っている」というヴィンフリート・ツィリッヒの評言をモノグラフで引いている第9交響曲の第1楽章ということになるのでしょうが、その第9交響曲の第1楽章ですら「他者(との遭遇)の痕跡」があると言えると思います。アドルノのカテゴリのうち、特に「突破」は、そうした音楽的出来事を捉えようとしたものではないでしょうか?そして、もしそうであるとするならば、それはデータ分析では、どのようにして突きとめることができるでしょうか?

マーラーが「世界を構築する」と言うとき、それは恰も神様が世界の外側にいて創造行為そのものや被造物との関わり合いに巻き込まれることなく創造するような仕方でやるわけではない。マーラーの音楽は、外から覗き見る世界のミニチュアではなく、その中を奏者や聴き手(勿論、マーラー本人も)が動き回って、色々な出来事に遭遇するような世界のシミュレータなのだと思います。それ故、その音楽には世界の内側からの視点が映り込んでいるし、その音楽の時間性の分析は、アプリオリに「人間のドラマ」と決めつけずに「数理的な」道具立てのみを敢て用いたとしても、高度な心性を備えた複雑なシステム固有の「時の逆流」の構造を浮かび上がらせるものとなるように思うのです。

ただし、現時点において、具体的にどのようにデータを分析していけば、そうした構造が取り出せるのかについて私に見通しがあるわけではないし、限られた能力と時間を思えば、それを自分ができると考えているわけではありません。寧ろ、私が此処に思い描いた通りでなくても良いので、誰かが此処に記載した内容をきっかけにして、岩崎秀雄さんがその刺激に満ちた著作『〈生命〉とは何だろうか 表現する生物学、思考する芸術』で取り上げておられる「合成生物学」の先蹤としての「システム生物学」と類比されるような「システム音楽学」とでも呼べるような領域を開拓して頂けたら、というように願っているのです。


3.アプローチ

マーラーの作品はMIDI化がかなりされているようなので、MIDIファイルを入力として、まずは各拍、各小節頭拍の位置で鳴り響いている音を抽出し、その結果に基づき五度圏上で重心を計算してプロットするというのをやってみることにしました。

以下はマーラーの第8交響曲第1部での実施例の一部です。

MIDIファイルから抽出した各小節頭拍の音の分布(音高の違いは無視して1行目の音が鳴っているパートの数を数えたものの冒頭からの一部)が中央にあり、五度圏上での音の座標の定義が左側3列(上半分は1列目の単音のx,y座標が2,3列目に、1列目の音を基音とする主三和音の重心のx,y座標が2,3列目に定義されています)、中央の数値を入力とし、左側の座標定義に基いた重心計算の結果が右側2列(x,y座標の冒頭からの一部)となります。

データとしてMIDIファイルを利用することについては、三輪眞弘さんに示唆して頂きました。MIDIファイルは上記の意図であれば十分な情報を持っていると期待できます。(実際にやってみると、個人が手で入力したそれは、ここでの意図でも色々と問題を持っていることがわかってきます。それゆえ国際マーラー協会は、MIDIのような機械可読のフォーマットについてもクリティカル・エディションを出してくれたらいいのに、と思わずにはいられません。演奏にあたっての利用料を請求するようなことが出来ないが故にビジネスとしての旨味はないのでしょうし、バカ高い値段をつけられたら結局私のようなアマチュアの個人は手も足も出なくなってしまうような気がするので、そもそもこういう期待は見当外れであって、まずは今日のWebの状況に感謝すべきだとは思いますが…)

なお、上記のような問題点も含め、マーラーのMIDIファイルの状況についてはWebで作成状況を調査した結果を公開したことがあります。

https://gustav-mahler-yojibee.blogspot.com/2016/01/midi.html#!/2016/01/midi.html

MIDIファイルを解析して音を取り出し、重心計算をする一連のプログラムは自作です。一方で、五度圏の重心計算そのものは、三輪さんの作品のアイデアからの借用で、重心計算のプログラムについて三輪さんから質問されてお答えしたのがきっかけです。

但しここでは、重心計算の対象は三輪さんの場合とは異なり(三輪さんの場合は単旋律で、状態遷移系列の各時点で鳴っている音(実際には時点には幅があって、計算された音が継起するわけですが)が対象でした)、基準となる拍(ここでは小節の頭の拍)で、鳴り始める音+前から鳴り続けている全ての音を拾ってその重心を計算しています。


4.結果の図示:共感覚(色聴)の活用

以下は第8交響曲第1部の計算結果を時間方向を潰して軌道を平面に重ねたもの。試しに、楽式論的なセクション毎に色を変えたりしています。
まずは提示部。

次いで展開部。

再現部。

最後がコーダです。

更に同じ結果について、フリーの3Dグラフ表示ソフト(RineanGraph3D)で時間方向を残して図示したものが以下のものです。横軸が小節数、断面が五度圏上の重心になります。小節数についてはMIDIデータのものですので、楽譜上と1小節ずれています。

何箇所かでこれまでも書いている通り、私は調性に関する色聴を持っていて、古典派では特にモーツァルト、ロマン派では、 アナクロニックに全音階的であるが故に調性格論が特に有効と個人的に私が考えているマーラーについては、聴いていて色が比較的はっきりと見えます。

それとぴったり対応、というわけではないのですが、折角なので、重心と色聴で見える色との対応を確認するために色を付けています。黄色がフラット3つ(Es-dur)あたり、 青がシャープ4つ(E-dur)あたりです。数が減ると白色に近付き、増えると暗くなるのですが、それは表現できていません。また短調はくすんだり赤味がかるのですが、これも表現できていません。もっとも私の場合には、いつもそんなに色彩がヴィヴィッドに見えているわけでもないので、細かいところに拘ることに意味があるとも思えません。




5.関連研究・課題など

試行にあたり、一応、簡単にではありますがWebで文献調査を行い、コンピュータを用いた音楽学の分析についての論文にもあたりました(例えばS.ケルシュ『音楽と脳科学』(佐藤正之編訳, 北大路書房, 2016)の第2章、Tonal Theory for the Digital Age, Computing inMusicology 15 (2007-08)、Elaine Chew, Towards a Methematical Model of Tonality, (MIT, 2000), など)。調的関係の表示の仕方については古典的なものも含めて色々と提案されているものの、これで決まり、というものがあるようには見えませんでしたが、単なる調査不足かも知れません。

一方、実際にやってみて、現在の素朴なやり方には色々な問題があることは認識しています。ここでの重心は、西洋の和声学上の調的中心の近似としてはかなり粗いものに過ぎません。単純なところでは、同時になっている音が2つ以下の時は重心は五度圏の円周に近づく一方、中心からの方向が、三和音(I)からずれていく点が、伝統的な調的中心への近似としては問題があるでしょう。(いや、これは逆立ちした言い方で、ある音の五度圏上の座標の円中心からの方向に対して、その音を主音とする調の主和音の座標の円中心からの方向がずれてしまうという言い方をすべきかも知れません。)それも含めて、ざっと考えただけでも以下のような問題が思い浮かびます。

・和声→重心が一対一対応ではなく、逆写像が単射にならない。つまり幾つかの異なる音の組み合わせが同一の重心を持ちます。これは伝統的な和声の構造上は問題がある性質です。
・サンプリングする時刻において同時に1音、2音しか鳴っていない時、1音、2音で重心計算した結果を、3つ以上の場合と混在させることの問題。伝統的な発想では、1音、2音の時も常に3和音のどれかに帰着させるはず。また、トニカと空虚5度、根音のみの重心は、θがずれてしまう。θのずれ自体には何等かの意味があるかも知れませんが、伝統的な和声機能で考えるときにはこのθのずれは、中心からの距離の関数で補正した方が自然に感じられます。
・上記を考慮しなくても、3つ以上の音の重なりの和声機能の候補は常に複数あり、調的文脈なしでは決定できません。しかも長調・短調の区別も文脈なしではできません。
・五度圏に帰着させる際に音高を捨象してしまうため、根音がどれか、転回の有無の情報がなくなりますこれも伝統的な和声機能の判定上は必要な情報の欠落です。
・和声の推移のパターンの抽出をしようとすると、同一和声が複数時区間にわたって持続する情報はパターン抽出の邪魔(同じ音の連続というパターンとして扱ってもいいが、分類の観点からはノイズにすぎない。)

ただ、ここで重心が意味しているものが全く無意味なわけではないと思うので、西洋音楽の和声学に合わせた補正をすべきかどうかについては議論の余地があるかも知れません。そもそも西洋音楽の和声学は、いみじくも「機能和声」と呼ばれるように、それを「人間」が利用するということを前提にした「美的規範」を目がけた合目的性のシステムであり、製作者の利便性に配慮した或る種のヒューリスティクスの集合であると見做せます。「音楽」に対してそうした合目的性を完全に排除できるかどうかという点については実は個人的に私は懐疑的なのですが、それでもなお、マーラーの音楽を「規範」からの逸脱の度合いという観点ではなく、一つのシステムとして眺めようとしたとき、一旦そうした「機能」を括弧に入れて、音の集合の遷移パターンを眺めてみる、という操作を行ってみることに一定の価値があるように思えるからです。

それでもなお、マーラーの音楽が西洋音楽の和声学に準拠している点を踏まえ、マーラーの聴き手は、それゆえ、そうした規範に一定程度馴化されることをも考慮して、上記のずれを補正をしようとすると、和声学上の主音の認識が必要になり、和声学的な分析を事前に行うことが前提となってしまいます。勿論、それがある程度自動的にできるのであればそれでも構わないのですが、音楽学者の分析結果が必ずしも一致したものにならないことなどを見るにつけ、簡単にできるようには思えず、現実的な問題として、こちらの方向への改良の方針が立たないことも与かって、一旦は重心計算の結果をそのまま公開することにした次第です。

ここでは結果を図示したものを幾つか示しましたが、公開する意味があるのは重心計算の結果そのものと思われますので、こちらについては以下からダウンロードできるようにしました。
小節毎の重心計算結果
https://drive.google.com/file/d/13_6xfAykk0gdRSf4UOjh6kS3MXdrJs3-/view?usp=sharing
拍毎の重心計算結果
https://drive.google.com/file/d/109iHIi88f_xiMfht--SYLydRCCrEO6Q2/view?usp=sharing

小節頭毎の重心計算結果のうち交響曲(「大地の歌」含む)の3Dグラフ表示結果のファイルはは以下からダウンロードできます。(bmp形式)
https://drive.google.com/file/d/1siyeAbOjIHybNNTq1WgKXcZqXbWGXy0x/view?usp=sharing

また、重心計算の元となったMIDIファイルから抽出した基本データは以下においてあります。
https://gustav-mahler-yojibee.blogspot.com/p/midi_7.html

基本データによるクラスタリング結果は以下においてあります。
https://gustav-mahler-yojibee.blogspot.com/p/httpsbox_7.html

更に、本稿執筆後に行った和声の分類とパターンの可視化の試みについての記事を以下で公開しています。
https://gustav-mahler-yojibee.blogspot.com/2019/11/midi2020128.html

上記の和声の分類結果を基にして、マーラーの作品(楽章毎)に加えて他の作曲家の作品も併せて和音の出現傾向を分析し、マーラーの作品の特徴づけを試みた結果を以下の記事で公開しています。
https://gustav-mahler-yojibee.blogspot.com/2020/02/midi.html(その1)
https://gustav-mahler-yojibee.blogspot.com/2020/02/midi2.html(その2)
https://gustav-mahler-yojibee.blogspot.com/2021/07/midi6.html (その6)

[ご利用にあたっての注意] 公開するデータは自由に利用頂いて構いません。あくまでも実験的な試みを公開するものであり、作成者は結果の正しさは保証しません。このデータを用いることによって発生する如何なるトラブルに対しても、作成者は責任を負いません。入力として利用させて頂いたMIDIファイルに起因する間違い、分析プログラムの不具合に起因する間違いなど、各種の間違いが含まれる可能性があることをご了承の上、ご利用ください。

(2019.9.1公開。9.6,7,13追記。11.19基本データ、クラスタリング結果、和声の分類とパターンの可視化の試みへのリンクを追加。11.25画像が誤っていたため差し替え。2020.1.28 重心計算結果データ改訂版に差し替えし、データをダウンロードするのみに変更。1.29 重心計算結果の3D表示ファイルを改定版に差し替えし、データをダウンロードするのみに変更。2.1 ご利用にあたっての注意を追加。2.26,27分析結果へのリンクを追加・差し替え。2021.8.22 和音の出現傾向の分析について、補遺(その3)および最新の分析結果(その4~6)を追加。8.23和声の分類とパターンの可視化のページへのリンクを修正。)