2023年10月16日月曜日

吉田秀和「マーラー」(1973-74)より(2023.10.16更新)

吉田秀和「マーラー」(1973-74)より(「吉田秀和作曲家論集1」p.151)
「(...)
 そういうこととならんで、というより、それよりもまず、私は寿命が数えられたと知ったときの人間が、生活を一変するとともに、新しく、 以前よりもっと烈しく、鋭く、高く、深く、透明であってしかも色彩に富み、多様であって、しかも一元性の高い作品を生みだすために、自分のすべてを 創造の一点に集中しえたという、その事実に感銘を受ける。
 こういう人間が、かつて生きていたと知るのは、少なくとも私には、人類という生物の種族への、一つの尊敬を取り戻すきっかけになる。死を前にして、 こういう勇気をもつ人がいたとは、すばらしいことではないかしら?(...)」
このマーラー論は、私にとっては、日本語で書かれたものとしては最も感銘の深いものである。どういう点に感銘を受けたかについては、 参考文献の紹介のページに既に記したのでここでは繰り返さないが、 「自分がまだやれる間に、私の今の力が許される限りでのマーラーとの決着をつけておく」(p.126)という 決意のもとに書かれた50ページ近いマーラー論は、その決意に見合っただけの充実したものであると感じられる。

上の文章は、その中でマーラーの後期作品―「大地の歌」、第9交響曲、第10交響曲―を巡って書かれたものであるが、特に最後の一文、これには 付け加えるべき言葉が思いつかない。それでも一言だけ、これはこの文章を出発点として自分が行うべき宿題という意味で、敢えてこの上に何を付け加えることができるのかについて、自分なりに答えるとしたならば、それは「死」だけではなく、「老い」について語ることが、まだ残されているし、それが自分が果たすべき課題であるということだろうか。死を前にして、 こういう勇気をもつ」というのは「老い」の一つの在り方であり、「死」に対してというよりは、(アンチ・エイジングや「不老不死」の追求とは異なって)「老い」に抵抗するのではなく、「老い」を受容し、更にそうすることによって、その向こう側に控えている「死」を受容することによって、生物として人間に課された宿命に対して「反逆」する勇気を持つことに他ならないのだ私は考えている。だからこの文章に対して異を唱えるというのではなしに、寧ろここから出発して、ゲーテ=ジンメルを参照しつつアドルノがマーラーに適用した「後期様式」の概念を導きの糸としつつ、私はマーラーの後期作品を「老い」の相において捉えてみたいと思っている。例えば、トルンスタムの「老年的超越」は、それ自体をそのままマーラーの「後期様式」に適用してしまえるかどうかについて議論の余地があるにしても、マーラーが後期作品において到達した地点を正確に同定する上で重要な参照点になるだろう。加えて言えば、例えば柴田南雄さんが「大地の歌」の演奏に具現されるべきと考えた「東洋的無常感」への架橋すら可能な射程をも「老年的超越」が含んでいる点も指摘しておきたい。(そのための準備作業を、本ブログの別の記事で継続的に行っている(その最初の記事は備忘:マーラーの音楽における「老い」についての論考に向けての準備作業 (0)であり、これまでの検討のまとめは、備忘:マーラーの音楽における「老い」についての論考に向けての準備作業 (16):ここまでのまとめと補足である)ので、その具体的な内容についてはそちらを参照頂きたい。)

引用した部分のみを読まれた方は、あるいはこのような「主観的な」発言が評論のかたちで為されたことに、留保をつけたくなるかも知れない。 そういう方は、どうかこの「マーラー」論の全体をお読みいただきたいと思う。決して、ひとりよがりに思いつきで情緒的な発言をしているのではないことが おわかりいただけることだろう。私としては、1973年の時点―私は、まだマーラーに出会ってすらいない―で、 既に日本でこうした発言が為されたことを、それをごく最近まで知らなかった不明を恥じる気持ちとともに、銘記しておこうと思う。

勿論、この「マーラー論」で展開される各論について個別に異論を唱えることは可能だろうし、すでに30年以上の歳月を経た今日では、 また別の視点が可能だろうとは思う。だが、作者は自分の立ち位置を明確に意識し、マーラーとの距離感を正確に測りながら、 それでも自分をひきつけてやまない対象について、自分の経験に忠実に語っている。 そして恐らくはそれもあって、その内容は今日でも意義を喪っていないし、その説得力もまた些かも損なわれていないように思われる。 否、マーラーが「当たり前」になった近年の方が、かえってマーラーをこのように語ることについては困難になっているようにすら感じられる。

私は私なりに、マーラーとの決着をつけたいと思っていることもあって、この文章に非常に大きく勇気づけられた。たとえ拙いものになってしまっても、それでもなお上述のように「老い」という視点を加えて上で自分なりの結論を出し、それを自分の言葉でまとめることこそ意義あることのように思えるし、それがこの「マーラー」論に対して、 そして何よりマーラーの人と音楽に対して自分が為しうることなのだと思う。そしてまた、そうするにあたってこの「マーラー」論は、ふらふらと彷徨いがちな 自分にとっての貴重な参照点になると感じている。(2007.7.2, 2023.10.12,16加筆)

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