お知らせ

GMW(Gustav Mahler Werke, グスタフ・マーラー作品番号:国際グスタフ・マーラー協会による)を公開しました。(2025.4.20)

2025年12月15日月曜日

マーラーについて生成AIに聞いてみた(23):Gemini 3.0 Proの検証

  本記事では、前回のClaude Sonnet 4.5(2025年9月30日リリース)に続き、2025年11月18日にリリースされたGemini 3.0 Proを対象に、マーラーに関する様々な問い合わせを行った結果を報告します。Gemini 3.0 ProはChatGPT-5(2025年8月7日にリリースされ、既に別途検証を実施し、その結果を記事マーラーについて生成AIに聞いてみた(19):ChatGPT-5の検証にて報告済)を性能上凌駕したと言われ、話題になっていますが、本検証は、Gemini 3.0 Proが得意とする、一般性のある複雑なタスクを分解し、優れた情報探索能力と高度な論理的推論能力を用いて調査・分析し、結果を整理して文書化するといったタイプの問題ではなく、マーラーという特定の人物に関する個別の事実についての問い合わせが中心ですので、その能力が十分に発揮されることを確認することは期待できない一方で、ChatGPT-5の検証において確認できた様々な問題点が、それを凌駕したとも言われるGemini 3.0 Proではどのようになっているのかを確認することは、その限界や制約を確認する上でそれなりに意味あることと考えました。

 実際、検証を進めると、その優れた能力の片鱗を感じさせる場面がある一方で、ChatGPT-5の検証でも確認できた、生成AIの持つ根本的な問題である「幻覚」(Hallucination)が発生することを確認しました。Gemini 3.0 Proは、先行するGemini 2.5 Flashと比べて、質問に対する答のみをシンプルに返すのではなく、補足的な情報を豊富に付加した回答を行う点で、寧ろChatGPTに近づいた感じがありますが、残念ながらそうした方針が仇となり、そうした補足的な情報において「幻覚」(Hallucination)が発生する傾向が見られました。また本検証で得られた回答の中で、誤っている、或いは疑わしいと判断した箇所について典拠の提示を求めるなど、ファクトチェックを行う過程でも、「幻覚」(Hallucination)が続発する場合があるなど、マーラーのように、事前学習データおよびリアルタイム検索するWeb上のデータ中にそれなりに情報が存在するケースでも、典拠も含め、恣意性のある個別の事実については「幻覚」(Hallucination)を避けることは困難であるという、前回ChatGPT-5の検証を行った際の分析を裏付ける形となりました。

 しかしながら、そのような問題はあるものの、全体として見れば、Gemini 3.0 Proの回答は、概ね正確で、詳細を極め、時として自分が今まで知らなかった情報が提示されることもあり、苦手な点に注意しつつ、得意な面が引き出せるように使い方を工夫をすれば、優秀なパートナーとして利用することができるように感じました。

 本稿ではまず、基本的な検証の過程とその結果について若干のコメントを交えつつ報告することとし、検証結果を受けたファクトチェックの過程で起きた問題については、別稿にて報告することにさせて頂きます。

1.検証の背景

 本ブログではこれまでに生成AIに対してマーラーに関する質問を行い、その結果を報告してきました。最初の記事の公開は2026年3月13日であり、その時点で検証対象とした生成AIは以下の通りでした。

  • ChatGPT(Web版)無料版:GPT-4o(利用制限あり)・リアルタイムWeb検索なし
  • Gemini(Web版)無料版:Gemini 2.0 Flash・リアルタイムWeb検索あり
  • Claude for Windows ver.0.8.1(Windows版アプリ)無料版:Claude 3.7 Sonnet・リアルタイムWeb検索なし

 この時点での各生成AIの回答は極めて不正確なものであることから、Llama2 SwallowベースでRAGを自作し、マーラーに関する各種の情報を与えることによって性能が改善できることを確認しました。

 その後わずか数か月のうちに各生成AIのバージョンアップが相次ぎ、また同一LLMを用いる場合でもリアルタイムWeb検索が可能になることで性能に変化があったため、以下のバージョンで再検証を実施しました。

  • ChatGPT 無料版:GPT-4o(利用制限あり)・リアルタイムWeb検索あり(有無を選択可能)
  • Gemini 無料版:Gemini 2.5 Flash・リアルタイムWeb検索あり
  • Claude 無料版:Claude Sonnet4・リアルタイムWeb検索あり

 検証の結果、特にリアルタイムWeb検索を併用することで、LLMの事前学習データに含まれていなかった情報についても取得できるようになったことから、大幅に回答の精度が向上し、マーラーに関するパブリックな情報に関する限り、RAG構築の必要性がほぼなくなったと感じられる迄になりました。その一方で、ChatGPT, Geminiでは回数制限つきながら、多段階の推論を得意とするLLMを用いたDeep Search機能が利用可能となり、事実関係の問い合わせや情報収集ではない、「後期様式」に関するレポート作成、第9交響曲第1楽章の分析レポート作成に関しても一定の性能を示すことも併せて確認して、2025年6月初めに一通りの検証報告を終えています。

 更にその後、ChatGPT-5がリリースされたのを機に、これについても同一のプロンプトセットを用いた検証を行い、検証に用いられたような事実関係を確認することが中心の問い合わせについて言えば、リアルタイムWeb検索を用いない場合があることから、ChatGPT-5の回答の精度は、常にWeb検索つきでChatGPT-4oに問い合わせた時よりも低くなってしまうことがわかりました。

 また直近ではClaude Sonnet 4.5についての検証を実施し、Claudeの以前のバージョンと比較した場合に大幅な能力の向上が確認できたことについては、先行記事「マーラーについて生成AIに聞いてみた(22):Claude Sonnet 4.5の検証」にて報告済です。

 ここではGemini 3.0 Proを対象としての検証ですので、既に検証済の先行バージョンであるGemini 2.5 Flashとの比較、および他の大規模言語モデルとの比較を行うことになります。特にChatGPT-5は既述の通り、本検証のプロンプトセットの特性、つまり特定の個人についての個別的・恣意的な事実の問い合わせが中心であるということもあり、その優れた性能を確認するよりも、その問題点が浮かび上がった結果となっただけに、ChatGPT-5と同じ方向性の性能強化を行い、それを凌駕したと言われるGemini 3.0 Proではどのような結果が得られるかが主要な比較ポイントかと思います。

2.検証内容

 まず改めて対象となるバージョンと実験を行った日付は以下の通りです。

  • Gemini 3.0 Pro (無料版の「思考モード」)(2025年11月28,30日, 12月2,3,5,12日)

Gemini 3.0 Pro リリースに伴い、Geminiの無料版では「高速モード」と「思考モード」が選択できるようになりました。このうち「高速モード」は、従来のGemini 2.5 Flashであり、「思考モード」を選択すると新たにリリースされた3.0 Proが利用できます。3.0 Proは以前のリリースであったDeep Researchの延長線上にあるような、多段階の推論を行うモデルで、問題をステップに分解して検索や推論を繰り返す動きをするため、「思考モード」の名称の通り、1回の問い合わせに対して答えを返すのにそれなりの時間を要します。その一方で、利用回数に制限があり、検証を行った時点ではプロンプト3回で制限に達し、制限に達すると所定の時刻(概ね約半日後くらい)まで「思考モード」は使えず、「高速モード」しか選べなくなります。ここではGemini 3.0 Proの性能を検証することが目的であるため、制限に達したら検証を中止し、制限が解除されたら再開、というやり方で検証を進めました。一度につき3プロンプト迄というかなり強い制限の下で中断を挟んての検証となったこと、更に途中で一部のプロンプトを誤って「高速モード」(Gemini 2.5 Flash)で実行していたことが後で判明して、そのプロンプトについてやり直しをしたこともあり、合計20のブロンプトの検証を行うために、上記の通り、実施日ベースで足掛け6日を要しました。

 なおスレッドは本検証を開始するにあたり新たなスレッドを起こしました。本来は全ての検証を同一スレッド内で行うべきでしたが、最初の中断後、意図せず別スレッドで再開してしまったため、最初の3プロンプトと残りのプロンプトでスレッドが分かれてしまいました。後述の通り、結果の一部でそのことがGeminiの挙動に影響していることが窺えます。なお予定のプロンプトセット(計20プロンプト)の実行後、ファクトチェックに関連した追加プロンプトも実行していますが、その際には、ファクトチェックの対象となった元のプロンプトを実行したのと同一のスレッドにて実行を行っています。

 検証で用いたプロンプトセットは以下の通りです。既述の通り、基本的にこれらは元々は以前、llama2 / Swallowベースで自分で構築したRAGの検証用に用意したものです。但し最後の「20.あなたは、ブラームスが、Für den wahren Don Giovanni muss man nach Budapest reisen.と言ったと回答しましたが、典拠を示すことはできますか?」のみは、プロンプト19への回答を評価した結果、典拠を示すよう求めるべきであると判断して追加したものです。プロンプト19に対して典拠を示すように求めるプロンプトの追加は、ChatGPT-5の検証の際にも行っており、それを引き継いだものですが、具体的なプロンプトの内容は、プロンプト19の回答内容に即したものに改めています。今回の検証では、それ以外のプロンプトについても、誤りが確認できたり、記載内容に疑念があるものについては追加でファクトチェックのプロンプトを与えて確認していますので、それらに対する回答についても本稿では触れることにします。

 「2.マーラーの「大地の歌」の日本初演は」は「1.大地の歌」の日本初演は?」と実質的には同一の問いですが、元々は、初期の検証においてプロンプトのちょっとした違いによって回答が大きく異なる(正解に辿り着けるか否かといった評価に影響する差異が生じる)ことが確認されたために設定したもので、その後、実質同じ質問が繰り返されていることが回答で指摘される場合があるなど、生成AIの挙動を確認する上で興味深い結果が得られたため、今回もそのまま残して検証を行うことにしました。そうした主旨からすれば、1と同一のスレッドで実行すべきでしたが、既述の通り、途中でスレッドを切り替えてしまい、別スレッドの実行になりました。その結果、1と同一の質問であるということを認識していることを窺わせる回答は得られず、基本的には同一の正解が、稍々異なった補足情報と共に返ってくることを確認することになりました。

  1. 「大地の歌」の日本初演は?
  2. マーラーの「大地の歌」の日本初演は
  3. マーラーの「大地の歌」はどこで書かれたか?
  4. マーラーは第8交響曲についてメンゲルベルクに何と言いましたか?
  5. マーラーが死んだのはいつか?
  6. マーラーはいつ、誰と結婚したか?
  7. マーラーがライプチヒの歌劇場の指揮者だったのはいつ?
  8. マーラーがプラハ歌劇場の指揮者だったのはいつ?
  9. マーラーがハンブルクの歌劇場の楽長になったのはいつ?
  10. マーラーの第9交響曲の日本初演は?
  11. マーラーは自分の葬儀についてどのように命じたか?
  12. マーラーの「嘆きの歌」の初演は?
  13. マーラーはどこで生まれたか?
  14. マーラーの第9交響曲第1楽章を分析してください
  15. マーラーの第10交響曲の補作者は?
  16. マーラーの第2交響曲の最初の録音は?
  17. マーラーの「大地の歌」のイギリス初演は?
  18. マーラーの「交響曲第6番」はいつ、どこで初演されたか?
  19. ブラームスはブダペストでマーラーについて何と言ったか?
  20. あなたは、ブラームスが、Für den wahren Don Giovanni muss man nach Budapest reisen.と言ったと回答しましたが、典拠を示すことはできますか?(追加分)

 プロンプトの実行の順序および検証実施日は以下の通りとなります。下記以降も、ファクトチェックの目的のプロンプトを12月12,15日に実行しています。 

  • 1,3,4(11月28日)
  • 5,6,7(12月12日2回目):11月28日2.5 Flashで誤って実行。12月12日やり直し。
  • 8,9(12月12日1回目):11月28日2.5 Flashで誤って実行。12月12日やり直し。
  • 10(11月30日)
  • 11,12,13(12月2日1回目)
  • 15,16,17(12月2日2回目)
  • 18,19,14(12月3日)
  • 2,20(12月5日)

 最近の生成AIは、質問に対する直接の回答にあたる情報のみならず関連する情報を付加して返す傾向があります。Geminiでは、2.5 Flashは比較的簡潔に問いに対する回答のみを返す傾向がありましたが、3.0 Proになって、他の大規模LLMと似た傾向を示すようになり、1件の回答はかなりの分量になりました。そこで本記事中で全ての結果の紹介を行うことは控え、以下のように結果をpdf化したファイルを公開することとしましたので、ご興味のある方はファイルをご確認頂ければと思います。参考までに、Gemini 2.5 Flash およびGemini 2.0 Flashの検証結果のファイルについても評価基準を調整の上、再掲します。

 各行毎に、プロンプトのID(通番)、プロンプト、回答、実験日、評価を記載しています。Gemini 3.0 Proは以前リリースされたDeep Researchに近く、思考プロセスのログを見ることは可能ですが、リアルタイムWeb検索を行っているかどうかは必ずしも明確ではないため、検索の有無については記載しませんでした。Gemini 2.5 Flashの検証においては、「14.マーラーの第9交響曲第1楽章を分析してください」についてのみ回答が長いものになったため、Excelの制限から複数行に分割しましたが、今回のGemini 3.0 Proの回答では、上述の通り、大幅に回答の量が増え、複数行に分割する必要のあったプロンプトは、4, 7, 10, 12, 14, 15, 20 の7つに及んでいます。

 また詳細は後述しますが、回答中、明らかに事実に反すると判断できる箇所は赤字に、妥当性に疑念があると私が判断した箇所は青字にして、評価根拠が明らかになるようにしています。

3.検証結果の概要

 今回は評価にあたり、以下の5つを区別することにしました。また上述の通り、各プロンプトの問い合わせに対して、Web検索を行ったかどうかも併せて記録しています。

  • 〇:概ね正しい情報が返ってきている
  • △:一部に明確に誤った情報が含まれる、或いは妥当性に疑念がある記述が大半を占めている
  • ×:全体として誤った情報が返ってきている
  • □:情報を見つけることができず、回答できない
  • ー:評価保留

 この分類に拠れば今回の結果は以下のように要約できます。△、×は数が少ないので、該当するプロンプト番号を括弧内に記します。また比較のために2.5 Flash, 2.0 Flashの結果も[]内に記載しました。

  • 〇=16  [2.5 Flash:17 / 2.0 Flash:13]
  • △=3(6,10,14)[2.5 Flash:0 / 2.0 Flash:3(11,12,16)]
  • ×=1(20)[2.5 Flash:1(17)/ 2.0 Flash:1(3)]
  • □=0  [2.5 Flash:0 / 2.0 Flash:1 (17)]
  • ー=0   [2.5 Flash:1(14)/ 2.0 Flash:1 (14)]

 上に見るように、情報を見つけることができず、回答できないケースは1件もありませんでした。また20はオリジナルのプロンプトセットにはなく、ファクトチェックとして追加で実施したものですので、実質的にオリジナルのプロンプトセットに限れば、プロンプトの質問事項への回答自体に誤りが含まれていたものはなかったことになります。

 前バージョンとの比較という観点では、Gemini 2.5 Flash, 2.0 Flashの結果をご覧いただくとわかる通り、Gemini はリアルタイムWeb検索を併用していること、更にその検索の精度が高いことから、正答率が比較的高く、他の大規模言語モデルと比較した場合、ごく早期から多くプロンプトに対して正解を返しており、Gemini 2.5 Flashでは明確な誤答は1件(評価保留除く)のみで、後は正解という高いパフォーマンスを示していました。

 今回の結果は、それに比べると一見したところ後退しているように見えるかも知れません。しかしながら、後で個別に確認する通り、2.5 Flashに比べて増加した△の評価は、いずれも質問そのものの回答ではなく、付加された補足情報の箇所であり、回答の分量が増えたことを併せると、回答の質自体は明らかに向上していると言えます。とはいうものの、謂わば「言わずもがな」の誤りが増えていることは事実で、言ってみれば、ぐっと知識は増したものの、適当な想像で答えている部分もあって、全面的に信頼することができない、といった感じでしょうか?

 この傾向は、ChatGPT-5やClaude Sonnet 4.5とかにも共通して見られる特徴で、最近の傾向として、事前学習およびリアルタイムWeb検索における情報の密度が高まって回答精度が向上し、補足的な情報も豊富になった一方で、LLMの特徴である、確率的に尤もらしい回答を返すという基本的な特徴から、誤った推論を行う事による勇み足が散見するという点は共通しているように感じます。とはいえ回答の精度という点では、本検証のプロンプトセットに限って言えば、Geminiの精度は、ChatGPTの最新版であるChatGPT-5に比べて明らかに一段階高いものであり、Claude の最新版であるSonnet 4.5に肩を並べるという評価はできると考えます。(Claude Sonnet 4.5は、参照したWikipediaの記述の問題が原因の誤りが1件ある以外は、評価保留のプロンプト14を除きすべて正解で〇=17なのに対し、ChatGPT-5 は〇=10, △=7, ×=3という結果でした。)

 一方でGeminiに限って、かつ事実についての問い合わせの精度について言えば、2.5 Flashというより高速でかつ簡潔な回答を返すモデルが存在し、余計なことを言わない分、言わずもがなの誤りがなく、正確さにおいても勝っているわけですし、2.5 Flashは本稿執筆時点でも「高速モード」として利用ができるわけですから、敢えて動きが重く、無料版では一度に3回迄の制限のある3.0 Proを使う迄もないということは言えるでしょう。ChatGPTが(少なくとも無料版では)利用できるLLMを統合し1つにしてしまい、また検索の制御も出来なくしてしまった挙句に、大幅に精度を落とすことになったことを考えると、「高速モード」として2.5 Flashを、「思考モード」として3.0 Proを使い分けることができるGeminiに明らかなメリットがあると言えると思います。Gemini 3.0 Proの出現を受けて、ChatGPTの開発元であるOpenAIが社内向けに「コードレッド(緊急事態)」を出したことは広く知られており、Gemini 3.0 Proが専門的な評価視点においても如何に優れているか想像がつきますが、利用者の大多数を占める無料版ユーザーにとっては、そうした強力な3.0 Proと2.5 Flashを使い分けできるという、一見したところ些細なインタフェースの違いが実は使い勝手に大きく影響するのではないでしょうか?特にリアルタイムWeb検索の精度の高さはGeminiの明らかなアドバンテージで、その他の点では非常に優れた性能を持つClaude Sonnet 4.5に対して「回答を見つけることができるかどうか」において大きく水をあける結果が別の検証(その内容については「三輪眞弘について生成AIに聞いてみた(20):Claude Sonnet 4.5の検証」を参照)で確認できています。既に本稿執筆時点で、ChatGPTは5.2を前倒しでリリースしています(但し現時点では未検証)が、3.0 Proの登場により、全体としてのバランスの点で、Geminiの使い勝手は明らかに頭一つ抜け出した印象を持ちました。

 以下では具体的に、Gemini 3.0 Proの回答に含まれる誤りの具体的な内容について確認していきます。今回確認できた誤りには、大規模言語モデル(LLM)の「推論」なるものが、人間が普通に考える「論理的」なものではなく、あくまでも「確率的な尤もらしさ」でしかないことを窺わせるものや、同様の理由により、事実に関して誤った類推をしたケースがあり、大規模言語モデル(LLM)の基本的な特徴とその限界を良く示しているように思えます。またそのことは一方で、見方によっては、Gemini 3.0 Proが持つ強力な能力の片鱗を窺わせるものでもあります。そこで稍々煩瑣にはなりますが、個別に細かく確認していくことにしたいと思います。なお既述の通り、プロンプト20は19のファクトチェックの位置づけですので、次節での分析の対象外とし、ファクトチェックにおいて生じた問題点として、別に5.ファクトチェックで生じた問題について で記述することにします。


4.検証結果に含まれる誤りの分析

(A) 6.マーラーはいつ、誰と結婚したか?

 ここでの誤りは、事実に関するものではありません。グスタフとアルマの年齢差について補足する箇所で括弧内で補足をしている箇所が論理的におかしいという点に限定されます。
当時マーラーは41歳、アルマは22歳(結婚直前(ママ)の誕生日で23歳になる年)で、約20歳の年の差がありました。
 これは人間が注意深く読めば明らかにおかしいとわかる類の誤りなので、いわゆる事実に関する錯誤としての「幻覚(Hallucination)」の典型例とは稍々性質を異にしたものと考えられます。ここでわかるのは、大規模言語モデルの「推論」というのは、人間が思い浮かべるような、厳密な記号操作に裏打ちされた「論理性」とは性質が異なったもので、あくまでも基本的には、表面的な類似性に基づく「尤もらしさ」に基づいており、今回の場合で言えば、時間の前後関係についての論理(記号論理学における時間論理ないし時相論理に基づく時間推論として古典的なAI研究で深く研究されてきた歴史を持ちます)における明らかな矛盾をチェックするメカニズムが介在していないことが露呈してしまっています。Gemini 3.0 Pro(思考モード)では「思考プロセス」のログが提供されていますので、それを確認してみましょう。

Confirming Details of Marriage

I've verified the details of Mahler's marriage. It was on March 9, 1902, to Alma Schindler, who later became Alma Mahler. With this established, I have what I need to address the user's inquiry, and the research is complete.

 残念ながら、これだけでは誤謬の発生の原因の方は判然としません。そこでこの誤りに対して、以下のような誤りの指摘のプロンプトを追加で投げてみました。
(プロンプト)あなたはマーラーと結婚した時のアルマの年齢について22歳という正しい回答をしました(彼女は1879年8月31日生まれ)。しかしアルマの誕生日は3月9日の結婚直前ではなく、結婚後の誕生日で23歳になったのが正しいのではないでしょうか?そもそも「結婚直前の誕生日で23歳にな」ったのなら、結婚した時には23歳の筈で、「結婚直前の誕生日」は誤りではありませんか?

  これに対するGemini 3.0 Proの回答は以下の通り、妥当なものです。

(Gemini 3.0 Pro)おっしゃる通りです。私の記述に誤りがあり、混乱を招いてしまい申し訳ありません。ご指摘いただいた通りの矛盾がありました。

「結婚直前の誕生日」は1901年の8月31日であり、そこで彼女は22歳になっています。したがって、結婚した1902年3月9日時点では22歳であり、23歳になるのは結婚してから約半年後の8月31日です。

私の「結婚直前の誕生日で23歳にな(る年)」という説明は、事実としても論理的にも完全に誤っておりました。

正しい時系列は以下の通りです。

1. アルマの生年月日:1879年8月31日

2. 結婚直前の誕生日:1901年8月31日(ここで22歳になる)

3. 結婚記念日:1902年3月9日(22歳と6ヶ月)

4. 結婚後の誕生日:1902年8月31日(ここで23歳になる)

ご丁寧にご指摘いただき、ありがとうございました。訂正してお詫び申し上げます。

 ここから言えることは、 Geminiは一旦そうすることになれば、「時間推論」を正しく行うことができるということです。しかしながら、実際には最初の回答ではそれは行われませんでした。また今回のケースは人間にとっては明らかな単純な時間的順序関係が問題になっていましたが、この回答から推測できるのは、Geminiは人間にとってはパズルのようなより複雑なケースでも同様に「推論」することは可能であろうということです。そのことは「思考プロセス」のログからも強く推測されます。かなりの分量があり、やや煩瑣になりますが、参考までに「思考プロセス」も以下に示しておきます。

Clarifying the Timeline

I'm currently focused on the inconsistencies within the established timeline. My initial statement correctly places Alma at 22 when she married Mahler. However, I seem to have introduced a conflicting detail regarding her age thereafter. I'm now working to reconcile this by carefully examining the precise wording of my subsequent claims to identify the contradiction and correct it.

Adjusting the Calculation

I've pinpointed the error in my previous wording. It seems I mistakenly implied Alma was turning 23 before the wedding, when the correct understanding is that her 22nd birthday occurred prior to the marriage. I've now clarified the age calculation, ensuring accuracy based on the provided birth and marriage dates. I appreciate the correction and will be more precise in the future.

Refining the Explanation

I'm now zeroing in on the linguistic nuances that led to the confusion. The original Japanese phrasing, which I'm now realizing I misinterpreted, was indeed ambiguous. It suggested Alma was about to turn 23, but it didn't clearly state the exact timing. This led me to a faulty conclusion. I'm focusing on crafting a much clearer and less ambiguous explanation that explicitly states Alma was 22 at the time of the wedding and would turn 23 later that year.

Rectifying the Misinterpretation

I've pinpointed the issue with the phrase "birthday just before the wedding." My initial assessment was incorrect because it overlooked the precise temporal relationship. It's clear now that the birthday in question, August 31, 1901, marked Alma's 22nd year, not 23rd. The wedding on March 9, 1902, took place before her next birthday. I'm restructuring my thoughts to ensure a clear and accurate representation of these factual details and eliminating all ambiguity.

Solidifying the Conclusion

I'm now fully committed to presenting the corrected information clearly. I've broken down the timeline to show I understand the chronological order of Alma's birthdays and the wedding date. I'm focusing on acknowledging the error directly, without unnecessary qualification. I want to convey that the prior statement about Alma "turning 23" was simply incorrect. I appreciate the input.

 本来の検証からは逸脱しますが、上記について日本語訳をさせるとどうなるかについても興味深いものがあったので、以下に記録しておきます。

(プロンプト)ありがとうございます。英語で示された今回の思考プロセスを日本語に翻訳してもらえますか?

答は以下の通りで、頼んでもいないのに、勝手に(笑)要約されてしまいました。これもまた他の大規模言語モデル(LLM)でも見られる特徴ですが、Geminiは比較的「言われた通り」の印象があったので稍々意外でした。(ChatGPTなら驚かず、「またか」と思うだけなのですが(笑)。)一方ではGeminiは、できるだけ簡潔に回答するという傾向が強いので、そちらが優先されたとも考えられます。或いはこの点もまた、従来のGeminiの路線からChatGPTやClaude寄りに方針転換した結果かも知れず、この点の確認には更に追加の検証が必要です。

(Gemini 3.0 Pro) 直前の回答(アルマの年齢に関する訂正)を導き出した際の思考プロセス(推論の過程)を日本語に翻訳・要約して提示します。

【思考プロセスの翻訳】

1. ユーザーの入力を分析する

  • ユーザーは、私の以前の回答に含まれていた論理的な矛盾を指摘している。
  •  具体的には、「結婚直前の誕生日で23歳になる」とした場合、結婚時にはすでに23歳でなければならないが、私は「22歳で結婚した」とも述べており、さらに「結婚直前の誕生日」という表現の使い方が誤っているという指摘である。

2. 事実関係を再確認する(検証)

  • アルマの生年月日: 1879年8月31日
  • 結婚記念日: 1902年3月9日
  • 時系列の計算:
    •  1901年8月31日(結婚前の最後の誕生日) → ここで彼女は満22歳になる。
    •  1902年3月9日(結婚当日) → 1901年の誕生日から約6ヶ月経過しているが、次の誕生日(1902年8月)はまだ来ていない。したがって、年齢は依然として22歳である。
    • 1902年8月31日(結婚後の最初の誕生日) → ここで初めて満23歳になる。

3. 誤りの特定と評価

  • ユーザーの指摘は完全に正しい。
  • 私の以前の説明(「結婚直前の誕生日で23歳にな(る年)」)は、論理的に破綻しており、事実とも異なっていた。
  • 「数え年」的な感覚や、年度の混同が原因で誤った説明を作成してしまった可能性がある。

4. 回答の構成案を作成する

  • 謝罪: 混乱を招いたこと、および誤った論理を展開したことを率直に詫びる。
  • 肯定: ユーザーの計算と論理が正しいことを全面的に認める。
  • 訂正: 正しい時系列(生年月日→22歳の誕生日→結婚→23歳の誕生日)をリスト形式で明確に提示し、曖昧さを排除する。

5. 出力の生成

* (これに基づいて、先ほどの日本語での訂正回答を作成しました。)

 ここで原因を「「数え年」的な感覚や、年度の混同が原因で誤った説明を作成してしまった可能性がある」としている点は興味深いですが、更にこれがどこまで「辻褄合わせ」として用意されたものなのかどうか(厳密な「自己反省」ができるなら、「可能性がある」といった言い方はありえない)について追求するのは、ここでは一先ず断念します。

  また、翻訳について言えば、勿論、原文そのものの翻訳はGoogle翻訳にやらせれば良いので、Googleのアプリ全体でみればこれは大きな問題ではなく、ここでも利用者が必要に応じて使い分けをすれば良いという見方も可能でしょう。ここでも選択肢が存在することは評価できることで、アプリを使い分けすることもできますし、生成AI内で完結させたければ、「直訳する」ことをGemini 3.0 Proに明示的に指示として与えることもできます。


(B) 10.マーラーの第9交響曲の日本初演は?

 ここでも問に対する回答は正しい(1967年(昭和42年)4月16日のキリル・コンドラシン指揮モスクワ・フィルハーモニー管弦楽による来日公演プログラム)のですが、「ポイント」として、日本人指揮者・団体による初演に触れ(これも正しい)、更に「部分的な初演」に触れているところで明らかな「幻覚(Hallucination)」が生じています。これは議論の余地がないタイプの誤りですので、誤りについて指摘したプロンプトとその回答について示すのみとします。

(プロンプト)あなたはマーラーの第9交響曲の日本初演に関して、「全曲初演より遥か前の1943年には、山田一雄が日本交響楽団(現在のN響)を指揮して第4楽章のみを録音しており、これが日本人による最初の第9番の記録とされています。」と回答しましたが、この回答の根拠となる情報源を教えてください。

 回答は以下の通り、誤った類推による「幻覚(Hallucination)」を認める内容でした。なお、自分で「私の誤認(幻覚)によるもの」と述べているのを確認したのは初めてで、確認した時には少し驚きました。プロンプトに含まれているわけではないので、これは恐らく事前学習後に行われたチューニングの成果であると推測されます。

(Gemini 3.0 Pro)申し訳ありません。ご指摘いただいた「1943年に山田一雄がマーラー第9番の第4楽章を録音した」という点について、改めて事実関係を調査いたしましたが、そのような事実は確認できず、私の回答は誤りでした。

この情報は、私の誤認(幻覚)によるものであり、根拠となる情報源は存在しません。

混乱を招いてしまったことを深くお詫び申し上げるとともに、以下の通り訂正させていただきます。

訂正事項

  1. 山田一雄による1943年の録音について:

    • 事実: 山田一雄が1943年に日本交響楽団とマーラーの交響曲第9番(またはその一部)を録音したという記録はありません。

    • 歴史的背景: 1943年(昭和18年)当時の日本は第二次世界大戦中であり、同盟国であるナチス・ドイツの政策の影響を強く受けていました。ユダヤ人作曲家であるマーラーの作品は「退廃音楽」として排除される傾向にあり、1941年のローゼンシュトック指揮『大地の歌』以降、終戦までマーラーの演奏記録はほぼ途絶えています。この時期にマーラーの録音が行われた可能性は極めて低いです。

  2. マーラー第9番の日本における記録について:

    • 前回回答した通り、1967年4月16日のキリル・コンドラシン指揮、モスクワ・フィルハーモニー管弦楽団による演奏が、**日本初演(全曲)**として公式に記録されています。

    • 日本人による全曲初演は、その年の12月の森正指揮、NHK交響楽団です。

    • 部分演奏の記録: 全曲初演以前に、第9番の一部(第4楽章など)が単独で演奏された公的な記録として、私の回答にあったような1943年の事例は見つかりませんでした。

正しい初期のマーラー受容史(日本)

私の誤った回答の代わりに、日本における戦前のマーラー受容の正確なマイルストーンを挙げさせていただきます。

  • 1930年(昭和5年)5月: 近衛秀麿 指揮、新交響楽団により、交響曲第4番が電気録音されています(世界初の第4番の録音の一つと言われています)。

  • 1932年(昭和7年): 近衛秀麿により、**交響曲第5番より「アダージェット」**が演奏されています。

  • 1941年(昭和16年)1月: ヨーゼフ・ローゼンシュトック 指揮、新交響楽団により、**『大地の歌』**が日本初演されました。これが戦前・戦中におけるマーラー演奏の大きなピークであり、これ以降、戦争の激化とともにマーラーは演奏されなくなりました。

不正確な情報、および存在しない録音データを提示してしまい、誠に申し訳ありませんでした。前回の回答の当該部分は全面的に撤回させていただきます。

 

(C)14.マーラーの第9交響曲第1楽章を分析してください

 このプロンプトは指示が曖昧で、どのような視点でどのレベルの分析を行うかは大規模言語モデル(LLM)任せであり、結果として回答は長大になる傾向にあり、Gemini 2.0 Flash, 2.5 Flashの回答では唯一、回答を記録するExcelで複数の行を必要としたものです。またその内容について言えば、主題についての具体的記述などにおいて、そもそも何を指しているのか不明瞭な、曖昧な記述が確認できましたが、単純な評価が困難なことから、従来は評価保留にしていました。

 ところが今回のGemini 3.0 Proの回答は、主題等の細部の具体的な記述についても概ね妥当であるため、他のプロンプトと同様の評価が行えるようになりました。その一方で、その細部について誤りがないとは言い難く、コーダの結尾部分の記述に明らかな誤りが見られます。

結尾: 音楽は終わるというより、空気に溶け込むように消えていきます。楽譜には、クラリネットやフルートに対して「消えるように」という指示が徹底されています。

まず終始音は、フルートおよびハープと弦のフラジオレットによって奏されますし、その手前で長く保持される音にmorendoの指示が与えられているのは、オーボエとホルンです。

 このような細部の記述は、スコアを確認すれば一目瞭然で誤りようがないのですが、Geminiのみならず、大規模言語モデル(LLM)は一般に、現状では楽譜は勿論、MIDIデータのような機械可読形式のファイルであっても事前学習には用いていないと思われますし、検索で仮に見つけられても解析ができないと考えられ、現時点で返ってくる回答は、一定量Web上に存在する楽曲解説の類の記述に基づいて作成されたものと思われます。仮に参照した楽曲解説に誤りがなくても、明示的な記述がないものについて、「尤もらしい」推定・補完をしてしまう可能性が大規模言語モデル(LLM)にはついて回ります。この点は本検証の開始時点から明らかなことで、かつ、現時点でも改善されていないことが確認できたことになります。

 ここまででオリジナルの19個のプロンプトの回答における明らかな誤りについての確認・検討が済んだことになります。既に述べたように、プロンプト20の回答にも誤りが含まれますが、これは19のファクトチェックで生じた問題として、他の追加で実施したファクトチェックでの問題と同様、以下の節で扱うことにします。


5.ファクトチェックで生じた問題について

(D)20.あなたは、ブラームスが、Für den wahren Don Giovanni muss man nach Budapest reisen.と言ったと回答しましたが、典拠を示すことはできますか?(追加分)

  このプロンプトは、大筋では正しいと判断できるプロンプト19.ブラームスはブダペストでマーラーについて何と言ったか?の回答に「原文」と思しきものが含まれていたことから、典拠の確認を目的に追加で実行したものです。同様の確認はChatGPT-5の検証時にも行っており、もともと今回も実施を予定していたものですが、プロンプト自体は、より具体的に、当該「引用」と思しき箇所の典拠を直接的に尋ねる内容のものとしました。

 その結果、回答として以下の3つの文献が典拠として返ってきました。

  1. ナターリエ・バウアー=レヒナーによる記録
  2. マックス・カルベックによるブラームスの伝記
  3. ブラームス自身の書簡

 このうち後の2つはブラームス側の伝記・書簡であるため、手元にある資料での確認ができず、この回答が正しいかどうかの判断のしようがありません。しかしながら、最初に掲げられたナターリエ・バウアー=レヒナーによる回想録、および「まとめ」部分で、

上記のバウアー=レヒナーやカルベックの記録にある発言を要約・定型化したものとして、多くの伝記(アンリ=ルイ・ド・ラ・グランジュの『マーラー伝』など)で引用されています。

として例示されているアンリ=ルイ・ド・ラ・グランジュの『マーラー伝』については手元においてこれまでも参照・活用してきた資料ですので、こちらは真偽の検討が行えます。結論はどうかと言うと、マーラーの伝記一般であれば、例えばブラウコップフの伝記(『マーラー 未来の同時代者』)や、船山隆さんによる新潮文庫版の伝記など、確かにそれに類する発言が引用の体裁で含まれているものもありますが、ナターリエ・バウアー=レヒナーによる回想やアンリ=ルイ・ド・ラ・グランジュの『マーラー伝』で見た記憶がなく、今回改めて確認したところでも、私の見落としがなければ、やはり含まれていないようです。結果として、このプロンプト20は典拠そのものを問うものですから、それについての誤りは周辺的なものとは言えず、全体を不正解と判定せざるを得ませんでした。

 この後引き続いて、更に追加で検証用のプロンプトを実行しており、そこでも「幻覚」(Hallucination)の発生を確認していますが、やりとりの分量的にもかなりのものであり、その報告は煩瑣なものとなってしまうため、本稿では紹介を断念し、後述のファクトチェック結果と併せて別稿にて詳細を報告することにさせて頂きます。

 またプロンプト19の回答末尾のブラームスの作曲家マーラーに対する評価についての以下の記述も概ね正しいのですが、

ブラームスはマーラーの「作曲」に対しては「革命家たちの王だ」と評して複雑な評価(第2交響曲の第2楽章などは褒めましたが)をしていましたが、(…)

付加的に括弧つきで述べられるブラームスが評価していた具体的作品(楽章)については、私が知る限りでは第2交響曲の第3楽章であって第2楽章ではありませんので、疑念があります。しかし第2楽章を評価したという証言・記録が存在しないことを証明することは困難なので、どちらが正しいのかを突きとめるのは大変そうなことを踏まえて、ここでは「誤り」ではなく「疑念あり」としています。


 (E) 18.マーラーの「交響曲第6番」はいつ、どこで初演されたか?

 このプロンプトへの回答は、本来の質問に対する答については申し分ない一方で、幾つか真偽の判断が困難な点を含みます。具体的には以下の点が挙げられると思います。

  • 初演のオーケストラ:エッセン市立管弦楽団とユトレヒト市立管弦楽団からの増員メンバーによる合同オーケストラ
  • 初演時のハンマーの回数
  • 初演時の中間楽章であるアンダンテ、スケルツォの演奏順序

 これらの点について別途追加でプロンプトを実行しており、これらについてもそれぞれ興味深い結果を確認しています。その詳細は別記事で改めてご報告しますが、簡単に結論から先に言うと、最初のオーケストラの編成については、若干表現に問題があるものの、大筋では正しいようです。

 それに対して2つ目、3つ目は、ご存じの方も多いと思いますが、マーラーの第6交響曲について語る時に必ず言及される問題に関連します。但し厳密に言えば、通常それは出版譜のバージョンの問題として扱われているのに対して、ここでは初演の時にどうだったかが問題となっている点が異なります。

 いずれにしてもこれらについては、そのものずばりについての正確な記録が残っていないようで、今後新資料でも発見されない限りは、現時点では決定的なことは言えず、推測の域を出ないようです。このように、そもそも確定的な答が出せないタイプの問題も存在し、これらについては「確実なことは言えない」「諸説ある」と回答するのが正解ということになりますが、この判断自体、時として人間にとっても困難な場合があり、生成AIが、自分が行き当った情報に基づいた答を返すことについても、人間もまたそうすることは十分に考えられるため、この点をもって生成AIの能力を評価することには慎重であるべきかと思われます。とはいうものの、これらはこちらの用意したプロンプトが求める回答そのものではなく、Gemini 3.0 Proが、謂わば「勝手に」追加したものです。正直に言えば、こんな微妙な問題について頼んでもいないのにわざわざ言及してファクトチェックの手間を増やさなくてもいいのにと思ってしまったことも事実です(苦笑)。


6.まとめ

 以上、本稿ではGemini 3.0 Proの評価結果を報告してきました。その内容を改めて整理すると以下のようになるかと思います。

  • もともとGemini はリアルタイム検索を併用し、検索精度が高いことから、既に2.5 Flash で非常に高い正答率を示していました。そのため正答率については顕著な変化はありませんでした。以前のバージョンと比較して、回答は詳細になり、補足情報が増えた一方で、付加された補足的な情報に細かな誤りが幾つかありました。
  • 誤りの一部は論理的なものであり、Geminiを含む大規模言語モデル(LLM)の推論が厳密に論理的なものではなく、確率的な尤もらしさに基づくものであることが窺えました。
  • 誤りの確認のプロンプトの回答からは、Geminiがかなり複雑な推論を行うことができることが窺えました。
  • ファクトチェックを目的とした、情報の典拠を確認するプロンプトの回答では、明らかな誤りが確認でき、このタイプの課題が原理的に大規模言語モデルにとって苦手なものであり、高度な推論機能や複雑なタスクの実行に関する大幅な能力向上にも関わらず、問題は依然として残っていることを確認しました。
  • また音楽自体については、楽譜やMIIDIデータを参照することができないため、音楽についての言説に依存した回答しか返せないという制約も依然として残っていることが窺われ、音楽情報については未だ根本的な課題が残ったままであることも確認できました。

 ChatGPTやGeminiなど、大規模言語モデル(LLM)が示す文献が架空のもので実在しなかったり、内容上、典拠として用いることができなかったりという例はこれまでも頻繁に報告されており、それ自体を対象とした学術的な研究も存在します。(例えば、GIGAZINEの記事「「AIが引用した参考文献」の約3分の2が存在しない文献だったり間違っていたりしたとの調査結果」でその概要を確認することができます。)文献情報は、内容の信頼性の確保の上で極めて重要でありながら、具体的・個別的な事実についてという性格が最も強い情報であり、大規模言語モデル(LLM)が最も苦手とする領域と考えられます。マーラーという個別の人間についての具体的な事実に関する情報であっても、マーラーのような一定の知名度がある存在であれば、Web上にある程度の密度で情報が存在するので、ここまで確認してきたように、概ね正解を返すことが可能なのですが、その典拠となる文献情報の方は遥かに個別的であり、情報も桁違いに少なくなります。それでも主要な文献の存在そのものは、事前学習やWeb検索の対象となる情報自体に付随して含まれる可能性がありますが、その文献の内容については、特にその文献がWeb上でオンライン参照できなければ、そもそもが推測する他ありません。更に文献のオンライン化の程度は、分野により大きく異なり、更に同一分野でも対象や領域により異なります。マーラーの場合はどうかと言えば、その文献の多くはオンラインで利用可能な状況には程遠く、従って、生成AIの回答を鵜呑みにすることが危険であることは間違いなく、逆に明らかな間違いが減り、一見尤もらしい回答が増えた分、一層慎重なファクトチェックが欠かせないということになりそうです。

 そのような制約はありますが、Gemini 3.0 Proの回答は、概ね正確で、詳細を極め、時として自分が今まで知らなかった情報が提示されることもあり、苦手な点に注意しつつ、得意な面が引き出せるように使い方を工夫をすれば、優秀なパートナーとして利用することができるように感じました。

 「5.ファクトチェックで生じた問題について」で述べた通り、本検証では、オリジナルのプロンプト自体については正解を返してきたものの、その一部について疑念があり、追加でファクトチェックのための問い合わせを行っています。その結果は、極めて高性能とされるGemini 3.0 Proでもこのような誤りをするという恰好の事例となっており、興味深く報告に値するものと考えますが、本来のプロンプトセットに対する評価とは別のものですので、本稿は一旦ここで打ち切りとさせて頂き、その経過については別稿で報告することとさせて頂きます。

(2025.12.15 公開)


2025年12月7日日曜日

マーラーについて生成AIに聞いてみた(22):Claude Sonnet 4.5の検証

  本記事では、2025年9月30日にリリースされたClaude Sonnet 4.5を対象に、マーラーに関する様々な問い合わせを行った結果を報告します。結論から先に申し上げると、3.7 Sonnet、Sonnet 4といった過去のバージョンに比べ、検索の精度、回答の精度とも飛躍的に向上し、一部の若干気の毒なケースを除けば、ほぼ正解を返すことができていることを確認できています。

1.検証の背景

 本ブログではこれまでに生成AIに対してマーラーに関する質問を行い、その結果を報告してきました。最初の記事の公開は2026年3月13日であり、その時点で検証対象とした生成AIは以下の通りでした。

  • ChatGPT(Web版)無料版:GPT-4o(利用制限あり)・リアルタイムWeb検索なし
  • Gemini(Web版)無料版:Gemini 2.0 Flash・リアルタイムWeb検索あり
  • Claude for Windows ver.0.8.1(Windows版アプリ)無料版:Claude 3.7 Sonnet・リアルタイムWeb検索なし

 この時点での各生成AIの回答は極めて不正確なものであることから、Llama2 SwallowベースでRAGを自作し、マーラーに関する各種の情報を与えることによって性能が改善できることを確認しました。

 その後わずか数か月のうちに各生成AIのバージョンアップが相次ぎ、また同一LLMを用いる場合でもリアルタイムWeb検索が可能になることで性能に変化があったため、以下のバージョンで再検証を実施しました。

  • ChatGPT 無料版:GPT-4o(利用制限あり)・リアルタイムWeb検索あり(有無を選択可能)
  • Gemini 無料版:Gemini 2.5 Flash・リアルタイムWeb検索あり
  • Claude 無料版:Claude Sonnet4・リアルタイムWeb検索あり

 検証の結果、特にリアルタイムWeb検索を併用することで、LLMの事前学習データに含まれていなかった情報についても取得できるようになったことから、大幅に回答の精度が向上し、マーラーに関するパブリックな情報に関する限り、RAG構築の必要性がほぼなくなったと感じられる迄になりました。その一方で、ChatGPT, Geminiでは回数制限つきながら、多段階の推論を得意とするLLMを用いたDeep Search機能が利用可能となり、事実関係の問い合わせや情報収集ではない、「後期様式」に関するレポート作成、第9交響曲第1楽章の分析レポート作成に関しても一定の性能を示すことも併せて確認して、2025年6月初めに一通りの検証報告を終えています。

 更にその後、ChatGPT-5がリリースされたのを機に、これについても同一のプロンプトセットを用いた検証を行い、検証に用いられたような事実関係を確認することが中心の問い合わせについて言えば、リアルタイムWeb検索を用いない場合があることから、ChatGPT-5の回答の精度は、常にWeb検索つきでChatGPT-4oに問い合わせた時よりも低くなってしまうことがわかりました。

 今回はClaude Sonnet 4.5が検証対象ですので、検証の観点としては、前のSonnet 4との比較対照、および他の生成AIの最新版との比較対照が中心となります。

2.検証内容

 まず改めて対象となるバージョンと実験を行った日付は以下の通りです。

Claude Sonnet 4.5 無料版(2025年11月28日)

 Claude Sonnet 4.5の無料版では、従来と同様に利用制限があり、制限に達すると利用ができなくなります。制限に達したら検証を中止し、制限が解除されたら再開、というやり方で検証を進めましたが、一度の中断で済んだため、11月28日中に検証を終えることができました。(具体的な経過は後述します。)またClaudeの無料版の特徴として、1チャット(スレッド)で扱える文字数(厳密にはトークン数に拠るものと思われますが)にChatGPTやGeminiと比べるとやや強い制限がありますが、今回の検証に際しては、検証用に新たに用意したチャット(スレッド)内で全ての検証を行うことができました。

 検証で用いたプロンプトセットは以下の通りです。既述の通り、基本的にこれらは元々は以前、llama2 / Swallowベースで自分で構築したRAGの検証用に用意したものです「2.マーラーの「大地の歌」の日本初演は」は「1.大地の歌」の日本初演は?」と実質的には同一の問いですが、元々は、初期の検証においてプロンプトのちょっとした違いによって回答が大きく異なる(正解に辿り着けるか否かといった評価に影響する差異が生じる)ことが確認されたために設定したもので、その後、実質同じ質問が繰り返されていることが回答で指摘される場合があるなど、生成AIの挙動を確認する上で興味深い結果が得られたため、今回もそのまま残して検証を行うことにしました。そうした背景から、問い合わせの順番としては、2については最後に回し、また他の質問とはやや異質でこれまで評価外としてきた14も後回しにして、1,3~13,15~19の実行後、14を問い合わせ、最後に2を実行する順序としました。(実際には、Claude Sonnet 4.5の制限により18までで一旦中断, 19,14,2は再開後に実施しました。)

  1. 「大地の歌」の日本初演は?
  2. マーラーの「大地の歌」の日本初演は
  3. マーラーの「大地の歌」はどこで書かれたか?
  4. マーラーは第8交響曲についてメンゲルベルクに何と言いましたか?
  5. マーラーが死んだのはいつか?
  6. マーラーはいつ、誰と結婚したか?
  7. マーラーがライプチヒの歌劇場の指揮者だったのはいつ?
  8. マーラーがプラハ歌劇場の指揮者だったのはいつ?
  9. マーラーがハンブルクの歌劇場の楽長になったのはいつ?
  10. マーラーの第9交響曲の日本初演は?
  11. マーラーは自分の葬儀についてどのように命じたか?
  12. マーラーの「嘆きの歌」の初演は?
  13. マーラーはどこで生まれたか?
  14. マーラーの第9交響曲第1楽章を分析してください
  15. マーラーの第10交響曲の補作者は?
  16. マーラーの第2交響曲の最初の録音は?
  17. マーラーの「大地の歌」のイギリス初演は?
  18. マーラーの「交響曲第6番」はいつ、どこで初演されたか?
  19. ブラームスはブダペストでマーラーについて何と言ったか?
 最近の生成AIは、質問に対する直接の回答にあたる情報のみならず関連する情報を付加して返す傾向がありますが、Claude Sonnet 4.5についてもそのことが言え、1件の回答はかなりの分量になります。そこで本記事中で全ての結果の紹介を行うことは控え、以下のように結果をpdf化したファイルを公開することとしました。参考までにClaudeの過去のバージョンの検証結果も以下に示します。

 
 各行毎に、プロンプトのID(通番)、プロンプト、回答、実験日、評価、Web検索の有無に加え、今回は評価順を記載しています。既述のように、制限により18までで一旦中断していますが、既述の通り、同一日に再開できたため実験日は同一になっています。Sonnet 4の時には2回中断があったのが1回のみとなり、中断回数は減りましたし、中断なしで一度に処理できる量(厳密にはトークン数と思われますが)が増えているように感じました。

 「14.マーラーの第9交響曲第1楽章を分析してください」については、回答が長いものになったため、複数行に分割しています。また詳細は後述しますが、回答中、明らかに事実に反すると判断できる箇所は赤字に、評価には反映しないものの、やや不自然と私が判断した箇所は青字にして、評価基準が明らかになるようにしています。


3.検証結果の概要

 今回は評価にあたり、以下の5つを区別することにしました。また上述の通り、各プロンプトの問い合わせに対して、Web検索を行ったかどうかも併せて記録しています。
  • 〇:概ね正しい情報が返ってきている
  • △:一部に明確に誤った情報が含まれる、或いは妥当性に疑念がある記述が大半を占めている
  • ×:全体として誤った情報が返ってきている
  • □:情報を見つけることができず、回答できない
  • ー:評価無し(プロンプト14のみ)
 この分類に拠れば今回の結果は以下のように要約できます。Claude Sonnet 4、Claude 3.7 Sonnetの結果と比較して頂ければ一目瞭然ですが、これまでにない精度の回答が返ってきており、Sonnet 4.5に至って飛躍的に能力が向上したことが窺えます。
  • 〇=17
  • △=0
  • ×=1
  • □=0 
  • ー=1
 一方、Web検索の有無については以下の通りです。検索なしは数が少ないのでプロンプト番号を示します。
  • 検索あり:17(○=16, ×=1)
  • 検索なし:2(○=1, ー=1:2,14)
 検索の有無について言えば、従来は実質的に1と同一の再質問である2についても検索に行き、独立に回答(いずれも正解)していたのに対し、今回は同一チャット(スレッド)内で、制限による中断を挟んで、検証再開後の最後に再質問するという条件で、1の回答を記憶しており、検索なしで回答を行い、かつ「最初のご質問と同じ内容ですが、改めてお答えしました。」というコメント付きの回答が得られました。

 また上に見るように、情報を見つけることができず、回答できないケースは1件もありませんでした。ClaudeはGeminiは勿論、ChatGPTと比較しても検索の性能に制限がある印象があり、Claude Sonnet 4、Claude  3.7 Sonnetの時には、検索をしても回答が得られなかったケース(但し前回までは△に含めてしまっていました)が散見されましたが、特定の個人についての個別的な事実に関するプロンプトが中心とはいえ、マーラーについての情報はWikipedia等をはじめとして、Web上の公的性質の高いサイトにそれなりに存在することも与ってか、検索の性能の問題は本検証の範囲では解消され、性能の向上がはっきりと確認できました。

 不正解は「7.マーラーがライプチヒの歌劇場の指揮者だったのはいつ?」の1件のみであり、回答の精度の向上も明らかです。しかもこの誤答は、参照したWikipedia日本語版の「グスタフ・マーラー」の見出しの記事の記載内容の曖昧さに由来するもので、些か気の毒な面があります。Wikipediaの記載は以下の通りです。
9月にはカッセル王立劇場の次席楽長となるも、待遇の問題から当初3年の契約の満了を待たずに翌1884年に辞任した[27][28][29]。また同じ頃、マーラーはライプツィヒ市立劇場との6年間の契約を結ぶことに成功する[30]。
まずこの記述は、カッセルのポストの辞任を1884年としている点で、控えめに言ってもミスリーディングです。正しくは1884~85年のシーズンで退任なので、1885年に退任とするのが普通だと思います。

 更にこのため「同じ頃」が1884年のことと読めてしまいますが、注30に記載の文献(村井翔『マーラー(作曲家・人と作品シリーズ)』音楽之友社、2004年)を読むとわかる通り、ライプチヒ市立劇場との6年間の契約は1885年1月23日の書簡に記載のある事柄です。より重要なのは、それに続くようにしてプラハのドイツ劇場との契約も成立し、結局マーラーはまずプラハで1885年秋から1年間、その後1886年秋からライプチヒで活動をすることになったことです。ところがWikipediaの記述は以下のように続きます。この流れだと冒頭の「6月」は1884年にしか読めませんが、実際にはこれは既に明らかな通り、1885年のことです。
6月、カッセルでの音楽祭でフェリックス・メンデルスゾーンの『聖パウロ』を指揮して、成功を収めカッセルを後にした[28]。この時期、マーラーにとって念願でもあったバイロイト音楽祭を見に行くことができ、ワーグナーのオペラ「パルジファル」を観劇した[22]。
1885年にはオーストリア皇帝フランツ・ヨーゼフ2世の臨席の下、プラハでデビューを飾る[29]。
ライプツィヒ市立劇場では当時、首席指揮者としてアルトゥール・ニキシュが活躍しており、マーラーとニキシュの指揮者としての芸風の違いは当時のライプツィヒの聴衆を大いに盛り上げた[31]。
1887年2月にはニキシュが病気療養のため首席指揮者としてのポストを辞任し、マーラーがその地位に繰り上がる[32]。

 つまりWikipediaにはプラハのドイツ劇場との契約の記述はなく、その活動も「プラハでデビューを飾る」という一言のみで済まして、ライプチヒでの活動とは独立のものであることは文字通りにはわかりません。勿論、マーラーの伝記に馴染んでいる人にとっては自明のことでしょうし、そうでなくても常識的にライプチヒ市立劇場での活動と別のものであることは自明であるとする立場もあるでしょう。けれどもハンブルク時代のロンドン公演など、他の都市での公演もないことではありませんし、背景知識のない人であれば、ライプチヒ市立劇場の6年契約の一環として、まずプラハでその活動を開始したという読み方をする人がいるかも知れません。

 そして実際、Claude Sonnet 4.5の今回の回答は、正にその背景知識を持たない人が上記の文章を素直にかつ論理的に読み取った結果と言えなくもないように思えます。つまり「1884年にライプツィヒ市立劇場と6年間の契約を結び」「1887年2月にはニキシュが病気療養のため首席指揮者のポストを辞任し、マーラーがその地位に繰り上が」った事実に基づき、「つまり、マーラーは1884年から次席楽長として、1887年からは首席指揮者としてライプツィヒ市立劇場で活動して」いたという答を返すことになりました。

 もっともそれを論理的と呼ぶのであれば、次の「8.マーラーがプラハ歌劇場の指揮者だったのはいつ?」の回答との整合性について無頓着であるのは奇妙だということになります。こちらは全くの正解で、1885年8月から1886年夏頃までの約1年間という答を返しているのですが、これが前の「7.マーラーがライプチヒの歌劇場の指揮者だったのはいつ?」の自分の回答と矛盾していることには気づいていません。過去の履歴を保持すると言っても、このように回答間の論理的整合性を逐次チェックするというレベル迄は到達していないという限界が露呈されることになってしまっています。

 そこでこの点について検証終了後に別途(2025年12月7日)、以下のような問い合わせを行ってみました。

プロンプト:あなたはマーラーがライプチヒの歌劇場の指揮者として活動した時期を、1884年から次席楽長として、1887年からは首席指揮者としてライプツィヒ市立劇場で活動したと回答しましたが、その一方でマーラーがプラハ歌劇場の指揮者だった時期については1885年8月から1886年夏頃までの約1年間としています。これは矛盾しているのではありませんか?
 これに対する回答は以下の通り、非常に的確なものでした。
ご指摘ありがとうございます。確かにおっしゃる通り、私の回答には矛盾がありました。

ライプチヒでの契約が1884年から始まっていたのに、1885年8月からプラハで働いていたという説明は時系列的におかしいですね。

検索結果をもう一度確認すると、正しい経緯は以下の通りです:

1. **1884年** - マーラーはライプツィヒ市立劇場と6年契約を結びました
2. **1885年8月** - しかし実際にライプチヒでの勤務が始まる前に、プラハのドイツ劇場の副指揮者として1シーズン働きました
3. **1886年夏頃** - プラハを離れ、ライプツィヒでの契約を履行するためにライプツィヒへ
4. **1887年2月** - ライプツィヒで首席指揮者に昇格
5. **1888年** - ライプツィヒを辞任

つまり、ライプチヒとの契約は1884年に結ばれましたが、実際の勤務開始は1886年で、その前にプラハで働いていたということですね。最初の回答で時系列を正確に説明できておらず、申し訳ありませんでした。重要なご指摘をありがとうございました。
 つまり事後的に指摘を受けて、「7.ーラーがライプチヒの歌劇場の指揮者だったのはいつ?」および「8.マーラーがプラハ歌劇場の指揮者だったのはいつ?」の両方の検索結果を併合して、整合性のある回答を導出することは正しく出来ており、Claude Sonnet 4,5が論理的な推論においてかなり高度な能力を持っていることが確認できました。

 のみならずこの回答は、自分の矛盾を率直に認め、それを正しく訂正することが出来ているという点でも画期的に思われます。今回は偶々すべての問いの答が得られたため、幻覚(Hallucination)対策の成果が確認できるようなケースはありませんでしたが、元々過去のバージョンにおいてもClaudeはかなり慎重な回答を返す傾向にあり、別の検証では、そうした傾向が維持されていることが確認できており、信頼性も向上している印象を受けます。

 その他で気になった点としては、「3.マーラーの「大地の歌」はどこで書かれたか?」の回答の文章の組み立て方で、一旦、「1908年の夏、休暇先のアルト・シュルーダーバッハで作曲されました。」と述べながら、後続で「この作品は、マーラーがアメリカに渡った後に作曲され、1909年秋に完全に完成しました。」と述べている点です。間違いではないのですが、取りようによっては、アルト・シュルーダーバッハとアメリカに渡った後と、どちらが正しいのか?という疑問が生じかねません。実際にはそのどちらも正しく、1908年の夏、休暇先のアルト・シュルーダーバッハで作曲が開始され」「マーラーがアメリカに渡った後も作曲が続けられ」とするのが自然な回答と思われます。一方では文章の推敲に生成AIを用いることが普通になりつつありますが、時としてこのように一見して論理的に矛盾しているかに誤解されかねない文章を生成することもあるということがわかります。

4,まとめと考察

 以上、Claude Sonnet 4.5の検証結果について報告しました。3.7 Sonnet、Sonnet 4といった過去のバージョンに比べ、検索の精度、回答の精度とも飛躍的に向上し、一部の若干気の毒なケースを除けば、ほぼ正解を返すことができていることを確認できました。これは既に述べたように、本検証のプロンプトは、特定の個人についての個別的な事実に関するものが中心とはいえ、マーラーについての情報はWikipedia等をはじめとして、Web上の公的性質の高いサイトにそれなりに存在することも与っているものと思われます。それは先行して「三輪眞弘について生成AIに聞いてみた(20):Claude Sonnet 4.5の検証」にて報告した、三輪眞弘さんに対する問い合わせに関する検証結果と比較した場合に明らかなことに思われます。つまり、同一の分野の同一の傾向の質問においても、認知度や研究量が異なり、訓練データ内の情報量が異なる対象についてのパフォーマンスには違いがあることが確認できます。今回はClaude Sonnet 4.5についての検証でしたが、その傾向は今回の検証だけではなく、これまでの検証を振り返って横断的に眺めた時に、大規模言語モデルの種類によらない一般的な傾向として、明らかに確認できるものと考えます。一般に生成AIの回答の信頼性は問い合わせの対象の領域に大きく依存し、事前学習データおよびリアルタイム検索するWeb上のデータ中に情報が多く含まれない場合には信頼性が低くなります。これは例えば、最近のより学術的な検証(GIGAZINEの記事「「AIが引用した参考文献」の約3分の2が存在しない文献だったり間違っていたりしたとの調査結果でその概要を確認することができます)の結論とも一致します。実際、最近ChatGPTを性能上凌駕したと言われるGemini 3.0 Proの検証を、同じマーラーに関するプロンプトセットを用いて別途行っているのですが、そこでは、標準のプロンプトセットに加えて典拠を示す指示を与えた所、かなり深刻な「幻覚」(Hallucination)が起こることを確認していますので、これは別の記事で報告したいと思います。

 一方で、本来はClaude Sonnet 4.5の能力の際立った側面は、プログラムのコーディング能力を別とすれば、高度な論理的推論能力、かなり長大な文章を受取り、長大な文章を生成することができる能力にあるようで、実際、本稿の報告者も別に、その能力の高さを実感する機会を既に得ていますが、本報告の中でも、かなり高度な推論を行うことができる片鱗を窺うことができたように思います。もともと個別的な事実を確認するプロンプトが中心の本検証は、その能力を確認するのには必ずしも適したものではなく、情報収集能力という点では、既にGemini 2.5 Flashのような競合もありますが、Claudeに向いていそうな領域として、事実がどうであるかよりも、気付きにくい論理的な可能性を引き出したり、矛盾を検出したりといった、理論的な仮説構成や検証のような領域が考えられ、うまく利用すれば非常に強力なパートナーになりうるというのが、他の検証の結果も併せての全般的な印象です。既に深い推論という点ではChatGPT-5があり、Geminiもいよいよ3.0 Pro(無料版の「思考モード」)がリリースされましたが、この両者は従来のDeep Researchの延長といった印象で、動作も重く、時間がかかる場合がある一方で、回答に質問に対する直接の答以外の補足的な情報がかなり含まれて、時として過剰気味であったり、補足的な情報を追加しようとするあまり、却って推論能力が仇になり、「幻覚」(Hallucination)が起こるケースなど、デメリットも散見されるのに対し、Claude Sonnet 4.5 は、稍々そちらの方向に歩み寄っている感はあるものの、相対的にはバランスよくスマートで、あらずもがなの「幻覚」(Hallucination)を惹き起こすことが少ない印象を受けます。今後はそれぞれの得意なタスクのタイプを見極めて使い分けるような工夫が必要になってくるように思います。

 その一方で、本報告の対象となる検証では、情報元となる人間が書いた文章が持つ曖昧さやミスリードな側面も浮き彫りになったように感じます。それらにも程度の問題というのはあって、人間が普通に読む限りでは間違えないようなレベルのものもあれば、人間でも背景知識や事前情報によっては誤解してしまうようなケースもあって、両者は明確に区別できない連続的なものではないかと思います。あくまでも現状の生成AIはその多くを人間が作成したWeb上の情報に基本的には依存しており、それが間違えていたり、間違えていない迄もミスリードを招くようなものであれば、生成AIの返す情報に誤りが含まれることは避け難いものとなります。しかしそれは生成AIに限定した話ではなく、実は一般にWeb上の情報を人間が利用する場合にも当て嵌まるものであり、実際には、従来からしばしば指摘されてきたこと(例えばWikipediaの内容の信頼性は、特にその初期にはかなり問題視された経緯があると記憶します)ではないでしょうか?否、それはWeb上の情報に限定されるものですらなく、紙媒体の書籍であっても原理的には生じえるものではないでしょうか?このように考えていくと、今日生成AIの普及を契機にしてクローズアップされてきた問題の一部は、程度の問題はあれ、実は生成AI固有の問題ではなく、より一般性のある問題が生成AIを通して顕在化したものも含まれるのではないかというように感じられます。そういう意味合いでも生成AIは人間の鏡のような存在なのかも知れません。生成AIが突き付けてくる問題は、それを避けることなく受け止めることでわかってくることが数多くあり、今回もまたその一端に触れたような気がしました。

(2025.12.7公開, 12.8追記)

2025年10月13日月曜日

マーラー祝祭オーケストラ第25回定期演奏会を聴いて(2025年10月11日 ミューザ川崎シンフォニーホール)

 マーラー祝祭オーケストラ第25回定期演奏会

2025年10月11日 ミューザ川崎シンフォニーホール

ベルク 初期の7つの歌
マーラー 第9交響曲

井上喜惟(指揮)
日野祐希(ソプラノ)
マーラー祝祭オーケストラ

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井上喜惟さんとマーラー祝祭オーケストラによる第25回定期演奏会に立ち会うべく、雨が降りしきる中、午前中、所用あって訪問した先から直接ミューザ川崎を訪れました。以下、演奏に接した感想を書き留めて置きたく思います。演奏に圧倒されてしまえばどんな言葉も無力に感じられてしまうもので、今の私はまさにそれを痛感している状態なのですが、その一方で、このような経験をしたからには、それを証言することは立ち会った者の義務の如きものとも感じられ、如何に拙いものであったとしてもその義務を最低限果たすべく、一先ずは感じたままを記すことにします。

今回のプログラムは最初に日野祐希さんのソプラノ歌唱でのベルクの初期の7つの歌が置かれ、休憩を挟んでマーラーの第9交響曲という構成でした。普段ベルクの作品をほとんど聴かない私にとっては初めて接する作品ということもあり、その演奏の素晴らしさは充分に感じ取れたものの、その演奏が備えていた価値に相応しい仕方で受け止めることができずに、忸怩たる思いに囚われざるを得ませんでした。それ故、適切に演奏を語ることが私にはできず、言いうるのはごく皮相な印象にしかならないことから、これまでも多くのそのような作品の演奏についてそうしてきたように、客席におられた他の有識の方々にお任せすることにして、ここでは専ら休憩後のマーラーの第9交響曲に限定して感想を記すことにします。

今回の演奏会の印象を一言で言えば、「圧倒的」という言葉に尽きるでしょう。マーラーの作品には数えきれない程接してきていますし、私の場合には様々な制約もあって実演に接する機会は限られるものの、それでも作品によっては複数の実演に接しているものもあり、今回の第9交響曲の場合もそうですが、その中には(前身のジャパン・グスタフマーラー・オーケストラの時代も含め)同じ指揮者・オーケストラで複数の実演に接することができている作品もあります。

実際、前回私が接した第23回の定期演奏会では、今回の第9交響曲同様10年程の歳月を隔てて第10交響曲のクック版の再演に接し、とみに最近井上喜惟さんとマーラー祝祭オーケストラの演奏の解釈の徹底と演奏の集中力・燃焼度が増し、接する度に圧倒されるようになってきていることをそこでも再認したのでしたが、今回の演奏は、その解釈、リアライズともにこれまでのそのような蓄積を経た、頂点に位置づけられるような素晴らしいものだったと思います。

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特に今回強く感じたのは、他に比較すべき対象が思い当たらない、井上喜惟さんの全くユニークな解釈が画期的な達成に至り、この上ない説得力を以て実現されたことです。私が初めてその実演に接して以来、常にはっきりと感じ取れ、また遡っては録音等でも確認できる、井上喜惟さんの解釈における一貫したアプローチは、敢えて単純化を懼れずに一言で要約するならば、基本的には流れの重視というように一先ずは特徴づけうるだろうと思います。私がこの点について思い浮かべるのは、井上喜惟さんがチェリビダッケに師事していることであり、そのチェリビダッケが、現象学的な音楽的時間について述べ、それを実演において実践している点です。とは言っても、それは井上喜惟さんの演奏がチェリビダッケのそれに似ていると言う意味では全くありません。そもそもチェリビダッケはマーラーをレパートリーとしておらず、チェリビダッケにおけるその考えの中心的な実践の場であったブルックナーとマーラーとでは音楽的経過の実質が全く異なるが故に、その解釈はマーラーのあの錯綜とした総譜を徹底的に読み込むことにより、井上喜惟さんがオリジナルに一から築き上げて来たものに他なりません。

そしてマーラーの、特に交響曲作品において音楽的時間の流れを重視するというのは、伝統的な楽式の図式論に囚われず、音楽自体が生み出す時間性を重視するということに他なりません。それは寧ろアドルノがマーラー・モノグラフ(アドルノ『マーラー 音楽観相学』)で述べたカテゴリの如きものを音楽から読み取り、唯名論的に形式を編み上げていく作業に他ならず、音楽が自ら形式を生み出していく現場に接するという稀有な経験を可能にしているものなのです。

流れの重視はまた、結果的に、音楽が止まる「息継ぎ」、ヘルダーリンの「休止」(チェズーア)、パウル・ツェランの「息の転回」の箇所を浮かび上がらせることにも通じます。それは単なる休符ではなく、音楽の流れが自己創発的に編み上げる構造を浮かび上がらせるものとなるのです。

今回演奏された第9交響曲の場合であれば、例えば、第1楽章練習番号13の直前のフェルマータ、そしてその後の「影のように(Schattenhaft)」音楽が進みだす手前の2度の「息継ぎ」がそれで、それまでダイナミクスの点からも表情やニュアンスの点からも長くて複雑な経路を辿り、だが途絶えることなく連綿と続いて来た音楽の流れは、ここに至って一時中断するのですが、楽譜をそのつもりで追えばごく当たり前のことを、けれども構造的な仕方でかくも明晰に感じ取ることができ、のみならず、それがアドルノが言語的に言い当てようとしたことを実現したものであるということに思い当たったのは、恥かしながら今回が初めてでした。

練習番号13から再開し、2度の休止を経て「影のような」領域を経た音楽が、「だんだんと音調が内側から広がっていっ(Allmälich an Ton gewinnend)」た果てに決定的な複縦線で区切られて辿り着くのは、Tempo I Andanteと明記された冒頭の再現であり、ここで音楽が冒頭に回帰する、その折り返し点を告げるのが、くだんの「息継ぎ」に他ならない訳ですが、今回の演奏では、その音楽的な移ろいがごく自然な流れで、それでいてこの上ない説得力を以て実現するのを聴くことができ、圧倒的な印象が残った箇所でした。

ちなみにこの楽章の基本的構造をソナタ形式と捉える伝統的な楽式論に従った形式分析においては、上記の部分は単なる展開部の途中に過ぎません。展開部の後続部分で「崩壊」が起き、鐘を伴う葬送行進曲を経た後、ようやく347小節に至って「始めのように(Wie  von Anfang)」再現部が始まることになります。そのような理解に基づけば、この日演奏された解釈は稍々もすれば構造的な把握を欠いたものと見做され兼ねません。しかしながらエルヴィン・ラッツが夙に指摘しているように、この楽章の構造は単純な伝統的な楽式論的分類を寄せ付けないものであり、既存の形式は、それを謂わば換骨奪胎してオリジナルな形式を実現するために鋳型のようなものに過ぎないのであれば、この日の演奏ではっきりとした形で実現された流れこそが、作品自身の持つ力学に忠実なものだと考えることができるでしょう。或る意味では安直で与しやすい伝統的楽式に従った解釈を離れ、アドルノの言うところの下から上へ向かう唯名論的な性格に忠実な演奏は、言うに易く行うに難いものであり、斯く言う私自身、今回の演奏に接して漸く井上喜惟さんがチェリビダッケから汲みとったアプローチを全く独自のやり方でマーラーの音楽に適用して音楽的に実現しようとしていたものが、まさにアドルノが指摘し、私自身、追及してきたものに他ならないことを遅ればせながら明確に自覚し、驚嘆するとともに自らの不明を愧じたような次第です。

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その後の音楽はまたしても複雑で変化に富んだ経過を経て、「ここで全く遅くなって(Schon ganz langsamer)」いよいよ終結に達する訳ですが、胸が締め付けられるようなホルンによる歌が「非常に躊躇い(Sehr zögend)」がちな木管の対話で引き取られ、フルートがたゆとうように高音域で「宙に浮いた(Schwebend)」ままになると、再び音楽は停止する。再開する度に下降して音楽が着地するのは、またしても、何度目かの冒頭の回帰なのですが、楽章冒頭に持っていた先に向かって歩む(Andante)力は最早なく、最後はフルートとハープ、弦のフラジオレットで停止し、もう再開することはありません。

しばしばここは音楽は「解体」していくプロセスとして記述され、時として「死」の形象化とされることもありますが、今回の演奏では、長く、途中では苦痛に満ちたプロセスを経て、音楽的主体が再び出発点に立ち戻り、音の消え去った虚空を眺めているのに立ち会い、その眼差しを共にしているかのように感じられました。風景の中には最早主体はいないが、その風景を眺める眼差しが残っている、ここでは主体は最早ドラマの主人公ではなく、そこから身を退いて眺める存在であるという確固とした印象が残ったのでした。

勿論これらは全て楽譜に書かれていることであり、それを楽曲解説よろしく辿るだけならば、改めて私が今ここで繰り返す迄もないことでしょう。けれどもそうした音楽の流れが、今回の演奏において、この上もない自然さと自在さを以て、絶えず移ろいゆき、変化していく情動の動きを伴って流れていくのに立ち会って、まるで音楽がその場で生成するのを初めて経験するような新鮮さに満ちた体験をすることができたように感じたことを書き留めて置きたく思ったのでした。

この交響曲の第1楽章に、今回のような演奏によって接すると、所詮は音響の継起に過ぎない音楽にこんな事迄可能なのかという驚きを改めて感じ、マーラーの天才に圧倒される思いがします。特にその調性の変容のプロセスは単なる調的スキーマ内の遍歴に留まらず、調性自体が不安定になり、ほぼ無調に近づいたかと思えば安定した調的領域に回帰するというその精妙にして無限のニュアンスを孕んだプロセスは空前にして絶後のもので、西洋の音楽がその長い歴史の果てに到達した、意識の流れの音楽化の最高の達成の一つであることを再認識させられた次第です。

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第2楽章は伝統的楽式では舞曲的な性格の「中間楽章」ということになりますが、このような舞曲的な楽章でのリズム処理の冴えは、井上喜惟さんのいわば「十八番」のようなもので、身体的、生理的なドライブはこの日の演奏でも健在でした。ただしこの楽章には三部形式のような静的な性格はなく、所謂「展開するスケルツォ」としての構造を持っていますし、その内実は一筋縄ではいかない屈折を孕んでいます。始まりではくっきりと対比的な性格を持つ主部の朴訥としたレントラー、イロニカルな表情を持ち、最後には野卑にさえ近づく急速なワルツ、非常にゆったりとして夢見るような2つ目のレントラーの3つの異なるテンポが切り替わって、再開される度に表情を変えてゆく有り様が、これもまた自然な経過としてリアライズされ、交替によって前の部分が後の部分に影響を与えていく具体的な経過の実質に重きが置かれていることが手に取るように感じ取れます。

ここでも特に印象的なのは冒頭のレントラーのブロックへの何度かの突然の回帰で、それがここでは構造的な句読点を与えるのですが、ブロックが賽の目に区切られたように切り替わるのではなく、それまでに経てきた音楽的脈絡がもたらす経験によりニュアンスがその都度異なったものになる音楽の一貫した流れがごく自然に感得されるものとなっていました。

しばしばこの楽章は、第9交響曲の中では比較的「弱い」楽章として問題になることがあり、ともすれば些か冗長であるとされたり、テンポも性格も異なる3つの舞曲のブロックの順列組み合わせ的な機械的なモンタージュといったメタ音楽的名人芸として説明が為されることもあるようですが、この日の演奏はそうした方向性とは無縁であり、これもしばしばそのように解釈されがちな、第1楽章に対する「息抜き」のようなものではなく、第1楽章で展開されたドラマと同じ主体の経験であり、その生の現実の異なった側面の音楽化であると感じられました。

第3楽章は「ロンド・ブルレスケ」と題され、「とても反抗的に」という些かエキセントリックな発想表示を持つことで有名なロンド形式の楽章で、対位法的アクロバットが主体を否応なく巻き込んで押し流してゆく「世の成り行き」の容赦なさを示すものとなっていますが、この日の演奏解釈でこの楽章に関して特筆されるのは、そのユニークでありながら実は楽譜に忠実な解釈が、オーケストラの凄まじい集中力によって十全にリアライズされたことが圧倒的な効果もたらしていた事です。

井上喜惟さんのこの楽章の解釈において特に重要なのは、中間部後半とコーダのテンポ設定です。まず中間部後半のテンポ設定について言えば、多くの演奏では練習番号39あたりから突然ギアチェンジし、音価を半分に切り詰め、譜面上からは恰も倍の速度になったかのような解釈が採られることが多いようです。しかし実際には楽譜にはそのような指示はなく、この日の演奏におけるように、逆にそうした恣意的な変化を持ち込まないことによってこそ、522小節からのロンド主部回帰の箇所のTempo I subitoが意味を持つのであり、急に再び「世の成り行き」の奔流の最中に立ち戻ったかのような突然の変化がもたらされることになるのです。ちなみにこの点に関して同様な解釈が為された例としては、個人的には井上さんが師事したベルティーニの演奏が思い浮かびます。

コーダについて言えば、こちらは最後のPresto(641小節)からはっきりとギアチェンジが行われ、その後の9小節間、恰も1小節1拍、3小節で3拍子のひとまとまりが3回繰り返され、その後それが途中で3拍子には1拍足らず2拍子には1拍多い5拍子のフレーズを経て(ちなみにこうした不均等なフレーズの処理に秘められた合理性はシェーンベルクがプラハ講演で第6交響曲のアンダンテの旋律の分析を通じて示したものを思わせます)、1小節1拍の2拍子に変化して最後まで辿り着くという楽節構造の把握が卓越しており、ここでもその解釈が徹底されたリアライズにより、それまでの奔流に更に加わる突然の変化が眩暈のような効果を惹き起こし、恰も突風に巻き込まれ、翻弄されたまま末尾に至る、凄まじいドライブに聴き手は打ちのめされたかのような印象を受けることになります。だがしかし、これも井上さんの指摘する通り、マーラー自身が楽譜に書き込んだ指示(3 taktig)の忠実なリアライズなのです。

第4楽章として全曲の最後に置かれたアダージョは、作品全体の冒頭の調性であるニ長調から半音下降した変二長調を基調としており、大きくフラットに偏って赤味がかった色合いの中、調性格論的にも穏やかで退いた薄明の仄かな光に充たされた音楽であり、全体が回顧的な色合いを帯びて響きます。

この日の演奏では、ここでもまた音楽の流れは淀んで停滞することなく、終わり近くに至るまで音楽が止まることはありません。特に鮮明な記憶として残っているのは、常に同じ色合いを帯びて回帰する主部に対して、11-12小節で仄めかされ、28小節に至って本来の姿を現す、音域的に大きく乖離した二声の対位法が印象的な対比部分の変化です。ここは主部の変二長調に対して異名同音の短調である嬰ハ短調(この作品冒頭のニ長調との対照という点では、末尾に二長調で終結する第5交響曲の冒頭がこの調性であったことが思い出されます)の領域なのですが、その後再現する時にはそれまでの音楽的経験の結果として蒙る変容により、最初の提示の無表情なたどたどしさと打って変わって、既に主部から流れ込む時から俄かに温もりを帯び、ひととき「大地の歌」のフィナーレの小川の情景がフラッシュバックしたかのような印象を与えます。

その後大きく高潮した音楽がようやく歩みを止めるのはコーダに至ってからで、何度も立ち止まっては再開する音楽は、だが最後に至って再び流れを取り戻してフェードアウトしていきます。これは第1楽章の末尾と照応したものですが、この日の演奏から受けた印象は、第1楽章の末尾に似て否なる効果を生み出しているように私には感じられました。ここでも第1楽章と同じで、主体は出来事から身を退いて、それを外から眺める視線としてのみ残っているのですが、そうした主体の位置は、第4楽章では始めから一貫したものであり、第1楽章におけるように遍歴の過程を経て最後に獲得されるものではありません。そして第4楽章の音楽の経過の全体は寧ろ、近づいてくる夜明けの予感であり、寧ろ主体はこの音楽を通じて蘇生の歩みを辿り、勿論、己の行く末をはっきりと認識しつつ(有名な「子供の死の歌」の引用)、だがそのことも含め「一切をかくも新たな光の中にみる」境地へと到達するように私には感じられてならないのです。従って第4楽章末尾のersterbendは「死」を示唆するものではありません。寧ろ或る種の「超越」であり、開けであるという揺るぎない印象こそが、聴いていて私が感じ取ったものでした。

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そしてこのこともまた、この第9交響曲という作品全体についての井上喜惟さんの解釈が十全にリアライズされた結果なのかも知れません。曽雌さんによる、いつもにも増して詳細を極めたプログラムノートに記されているように、井上喜惟さんは今回、この曲の再演にあたっての楽譜の読み直しの過程で、この曲にファウスト的なものを感じ取り、この第9交響曲全体を、第8交響曲第2部でその構造上も尽くすことができなかったファウストについての語り直しと捉えておられるようなのですが、そのことは、音楽の一貫した流れを重視し、その中から自ずと形式が浮かび上がる様子を開示した今回の演奏解釈に通じるものであり、巨視的にも第一楽章を残りの三楽章が取り囲む遠心的な構造という通常受ける印象ではなく、四つの楽章が四枚続きのタブローとなり、ファウストの生の経験の異なる相を音楽化したものとして、対等な重みを持ちつつ、一貫した流れを形づくることに繋がり、それがここまで述べてきた音楽的流れについての実際の聴体験の印象とも一致するように感じられるからです。例えば第4楽章のあの有名な「子供の死の歌」の引用も、既に第8交響曲において第1部でも第2部でも繰り返し参照されていることを、その引用箇所とともに歌われる言葉(Virtute firmans perpeti / Der ewige Liebe nur Vermag’s in scheiden)も併せて思い浮かべても良いでしょう。

実は井上喜惟さんが示唆している第8交響曲第2部との繋がりについては今回の演奏会に因んでプログラムに寄稿させて頂いた小文「一切をかくも新しい光の中にみる」にも記載した通り、第4楽章のMolto Agadio subitoから7小節目(55小節)のヴィオラの下降音型が第8交響曲の第2部の練習番号170から171にかけて、かつてグレートヒェンと呼ばれた女が歌う部分の結びを強く連想させるものであり、ここがまさにファウストの蘇りが述べられる決定的な部分で、更にこの音型には "neue Tag"という言葉があてられていることが指摘できます。

拙文のタイトルはマーラー自身のワルター宛の書簡に記された言葉に由来するものですが、そのマーラーの言葉もまた、意識的なものであれ無意識的なものであれ、ファウストの蘇りとの関連を感じさせ、第8交響曲第2部の位置づけの見直しと、第9交響曲の読み直しを促すものと思っていたのですが、この日の演奏はそうした私の漠然として印象を、確たる認識にまで高めてくれるものであったと思います。

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ここまで、この日の演奏を通じて明確に感じ取れた井上喜惟さんの解釈について述べてきました。この日の演奏ではっきりとした形で実現された流れこそが、作品自身の持つ力学に忠実なものであり、それ故に全く自然に淀みなく音楽的時間が展開していくことを聴き手は経験することになるのですが、既に述べたように、或る意味では安直で与しやすい、伝統的楽式に従った解釈を離れ、アドルノの言うところの下から上へ向かう唯名論的な音楽の在り方に忠実な今回のような演奏は、言うに易く行うに難いもので、全くオリジナルな達成としてマーラーの作品の演奏解釈の画期を為すものではないかとさえ感じました。

そうした解釈も繰り返されるリハーサルによる徹底的な共同作業によってオーケストラによって共有されなければ、既に述べてきたような充分なリアライズが達成できないことは明らかなことでしょう。特に今回強く感じたのは、解釈もまたそうであるように、そのリアライズもこれまで以上に自在さを増し、音楽が自らの論理に従って発展していく力動を強く感じ取る事ができたことでした。

そしてそれは、これまでの他の作品の演奏でも感じ取れ、今回もはっきりと感じ取ることができた、マーラー祝祭オーケストラの個性とでも言うべき独特の手応えのある響きについても同様に言えることだと思います。私見では、演奏が録音を通じて拡散され、共有されることが普通になってから以降、このような響きは録音向きではないものとして寧ろ排除されてきたもののように感じられてなりません。私の乏しい聴経験の範囲で、強いて似たような印象を持つものを挙げるとするならば、世代を遥かに遡って、丁度アドルノと前後する世代の、一例のみ挙げるならば、例えばホーレンシュタインの演奏に聴きとれるようなものに通じるものを感じます。

それは音色についても言えて、とりわけマーラーおいて頻発する、特に金管においてミュートした楽器を強奏することの効果も、近年の多くの演奏でそうであるような、角が取れて鮮明でありつつ美的な調和を損なわない音色のパラメータの一つとしてではなく、寧ろ、美的な面からは醜さも厭わない、邦楽で言うところの「さわり」を持った、強い表出力と緊張感を備えたものであり、音楽の実質に適ったものに思えます。これは打楽器の騒音的な音響についても同様の事が言えて、特に今回は鐘(舞台上ではなく、舞台裏で鳴らされたようです)についてそのような印象を受けました。

そのことはパートのバランスについても同様で、これもマーラー祝祭オーケストラの常でマーラー自身が想定していた両翼配置が採用されているのですが、今回はそのことにより特に第2ヴァイオリンの重要性が際立っていたように思います。そもそもこの第9交響曲の第1楽章冒頭で旋律を弾きだすのは第2ヴァイオリンなのです。それ以降も左右のヴァイオリンパートの掛け合いの効果も鮮やかで、マーラー自身が意図した空間性についても申し分のないものだったと感じます。

更に特筆すべきは中・低声部の充実であり、例えばヴィオラならば第1楽章展開部の129小節からなど重要な旋律がしばしば割り当てられていますし、チェロとコントラバスには、余りに有名な第1楽章コーダにおけるフルート、ホルンとの協奏的なアクロバティックなパッセージがあります。また協奏的ということで言えば、頻出するソロ、パートソロも重要で、特にホルン、木管、ヴァイオリン、ヴィオラ、チェロにはここぞいう部分でのソロの旋律が割当てられていますが、それらの悉くが集中力と大きな表現意欲を伴って十全に実現されていることに感銘を受けました。

もう一点、楽器のバランスに関連して今回特に強く印象に残ったこととして特記しておきたいのが、この第9交響曲のスコアに特徴的な線の錯綜のリアライズに関してです。この作品のスコアを開いて見たことのある方は良くご存じのように、この作品における対位法的な線の重畳とその絡み合いの複雑さは例外的で、或る種極限的なものと言って良く、しかもそれは、例えば後年のミクロフォニーのようなマスとしての効果ではなく、あくまでも線がびっしり絡みあって蠢く様子が聴き取れるように書かれています。その重層と複雑さは臨界的な領域にあって、人間の認知機構の制約を超えるもので、ここでは各声部は同時に聴き取れはするけれども全てを対等にという訳にはもはや行かず、全てを受け止めきれないという認知的な飽和状態の如きものが生じることになります。認知実験等の結果によれば、ゲシュタルト的な図として同時にパラレルに把握できるのは3声部くらいが限界であるとのことで、通常の演奏ではメインのラインのようなものを設定して聞きやすくしてしまうことが多いですし、特に録音で聴く場合には結果的にそのような聴取になるのが普通ですが、実際には楽譜ではそういう指定はなく、今回のような素晴らしい音響を持ったホールでの楽譜に忠実な徹底的なリアライズに接することによって初めて、マーラーが意図していたことが十全に了解できたように感じました。

それが特に顕著に感じられたのは、例えば第1楽章展開部前半の「激しい怒りを込めて(Mit Wut)」奏される音楽が崩壊した後、211小節からの「苦悩に満ちた(Leidenschaftlich)」箇所であり、デネットの多元草稿モデルのように(但し、デネットのような情報処理モデルでは抜け落ちてしまう強く複雑な情動を常に伴うものであるということは幾ら強調しても足らないのですが)、人間の心はもともとポリフォニックなものであって、それを意識が辛うじて統制しているかのように感じられるに過ぎず、時としてそれは破綻するということさえ感じる取ることができ、常には「情熱的な」といった訳され方をするLeidenschaftlichという言葉のニュアンスを十全に感じ取れたように思いました。

その他個別に印象に残った所を逐次挙げて行けば際限なく、それだけで紙数が尽きてしまうことからそれは割愛させて頂き、最後に全般的な印象を記してこの感想を終えたく思います。

*   *   *

これは繰り返しになりますが、楽譜の徹底的な読み直しによって井上喜惟さんが把握し、音楽自体が持つ時間性の流れに逆らうことなくその自発性に従って構築したものは、通常この第9交響曲の解釈として宛がわれる伝統的な楽式論をベースにし、せいぜいがそこからの逸脱を測るような解釈とは無縁ですし、多く伝記的事実との単純な重ね合わせに由来する標題音楽的、図像学的解釈とも異なっており、それらを拒絶するものでした。それは第8交響曲第2部のファウストの蘇りの語り直しとして、マーラー自身が「一切を新しい光の中にみる」と述べたような心性の蘇生の歩みの音楽化ではなかったかと思えます。しかもそれは、交響曲という伝統的な形式に依拠した単なる主観的心情の告白ではありません。この作品の手前において認識態度の変更があり、この作品は、これもまたアドルノが的確に指摘しているように、ゲーテ=ジンメル的な晩年の音楽なのであり、主観的なあり方がそのまま形式となるというジンメルの「老齢芸術」の理念の最上の実現の一つであるということが、この日の演奏を通じて確認できたように思います。そしてそれはそのまま、シェーンベルクのプラハ講演の言葉にある、作曲家をメガホン替わりにして語る存在の示唆にも通じ、この作品の「客観性」と彼が呼んだものにも通じているのではないでしょうか。

そして改めて、ある面では音響の継起に過ぎない音楽においてこのような精神的なものに到達することができたマーラーの天才には只々圧倒される他ないように感じます。勿論、このようなあり方が音楽の唯一の在り方である訳では決してありませんが、それでも尚、シュトックハウゼンが指摘した通り、「人間」というものが解体し断片化する手前で、二分心崩壊以降の意識の歴史の蓄積の末に到達された「意識の時代」の最高の達成の一つであり、その後はもうこのような形での達成は不可能になったのだという認識を新たにしました。マーラーはどんなに偉大な芸術作品とて「抜け殻」に過ぎないと述べたことがありますが、その言葉もまた、この音楽にファウスト的なものを読み取ろうとする井上喜惟さんの見方と響き合うものがあります。作品が「抜け殻」であるというのは「たゆまぬ努力によって生れ出た彼の姿は、不滅のものだ」という考え方と対のものとして理解されるべきだからです。

そのような解釈の投影という面もあるのかも知れませんが、今回の演奏は自分がそこに価値を見出した何かを音響としてリアライズしようという指揮者・音楽監督の井上喜惟さんの確固たる意志をいつになく強く感じさせるもので、オーケストラはそれに対して、驚異的な集中力と共感を以て十全なリアライズを成し遂げたものと感じられました。演奏が終わった後の、得難い何者かが達成され、成就されたというはっきりとした感じがかけがえのないものに感じられ、そうした場に聴き手の1人として立ち会うことができた幸運を噛み締めずにはいませんでした。更に加えて、改めて最近の演奏の充実を振り返り、その上でそれらの蓄積が可能にした一層の自在さをもって達成された今回のような演奏を目の当たりにした時、ふとした偶然によるきっかけから、微力ながらかれこれ10年以上に亙ってお手伝いさせて頂くことができている幸運についても感謝したい気持ちになりました。

到底言葉で尽くすことは叶わぬにせよ、結局のところ言葉で伝えるしかない最高度の感謝を井上喜惟さんとマーラー祝祭オーケストラの皆さん、また今回のコンサートの企画に携わられた皆さんにお伝えして、この拙い感想の結びとさせて頂きたく思います。(2025.10.13初稿, 11.16加筆・修正)


「一切をかくも新しい光の中にみる」—第9交響曲と「老い」について(2025.10.11 マーラー祝祭オーケストラ第25回定期演奏会によせて)

 マーラーの第9交響曲はしばしば「大地の歌」と一括りにされ、「死」と「告別」という内的プログラムを持つものとして語られる。パウル・ベッカーは「死が私に語ること」を第9交響曲の暗黙の標題とし、メンゲルベルクは自分のスコアに「愛する者たちからの告別」(第1楽章)「白鳥の歌」(第4楽章)と書き込んだ。前作の「大地の歌」のみならず、ベートーヴェンの「告別」ソナタの引用、終楽章における「原光」や「子供の死の歌」第4曲の引用も「死」や「告別」と作品との結び付きを裏付けるかに見える。

 その一方で、素材に過ぎないものを作品のイデーとしての「標題」と見做す立場に対する批判があり、伝記的事実との作品の安易な結びつけを戒め「人生と芸術」の関係を相対化する立場も存在する。しかし心の状態ではなく、現実性に対する態度が問題であるならば、例えば「大地の歌」のマクロな構成が「死の受容」のプロセスと類比的であるとする説にも妥当性を認められようし、その傍証としてならば、長女の死、自身の病の宣告という伝記的事実を持ち出すのは構わないだろう。その一方で音楽を「死のイメージ」の表現と見做し、或いは「死との対決」というプログラムに縛り付けておきながら、その創作の時期にマーラーが既に「危機」を克服していたという事実をもって「人生と芸術」との関係を相対化する主張には一抹の違和感が残る。

 確かにマーラーは既に「大地の歌」と第9交響曲の作曲の間の時期にあたる1909年初頭のワルター宛ニューヨーク発の書簡で「一切をかくも新しい光の中にみている(Ich sehe alles in einem so neue Lichts)」と語り、自分が第8交響曲第2部で音楽化した『ファウスト』第2部終末のファウストの蘇りにさえ言及している。だがだとしたら寧ろ第9交響曲は「死」と無関係ではないにせよ、「死」そのもののイメージとも「死の受容」とも異なった、現実的なものの経験において生じる別の反応形態と関わるのではないか?

 この問いに答えるにあたっては、マーラーの作品における「後期様式」についての議論が手がかりとなるだろう。マーラー論においてアドルノは「後期様式」に関してゲーテの「現象からの退去」を参照するが、これはジンメルの『ゲーテ』での「老齢芸術」論に基づいたものとされる。ジンメルは「老い」によって外部世界から内なる経験へ焦点が移行し、既存の形式に依拠した全体的統合に無頓着になり、作品や作者の世界との関係が象徴的なものとなると指摘している。アドルノはジンメルの見解を継承しつつ、調和や有機的統合性の放棄を強調しているが、そのアドルノの衣鉢を継いだサイードもまた伝記的事実への安易な照会を戒めているとはいえ、五十歳にも満たないマーラーが「後期様式」を獲得したことは、二人称的な死との直面や一人称的な死の予告としての病の宣告、社会的水準で「老い」との関りが深い「退職」といった出来事との対峙により自らの有限性を意識し、「老い」を意識することにより現実への態度を更新したことと無関係ではあるまい。

 今井眞一郎によれば「老い」のシステム論的定義は「生物が持つロバストネスの変移と崩壊」であり、単なる「崩壊」=「死」ではないことが強調されるが、それを踏まえるとすれば、「後期様式」とは、端的に「老い」と「老いの意識」の様式であり、それを通じて「一切をかくも新しい光の中にみる」試みではないだろうか。

 斯くして実現した音楽は、シェーンベルクが「プラハ講演」で指摘する、「恰も作曲家が隠れた作者のメガホン替わりであるかの如き」、「美についての客観的で、ほとんど情熱を欠いた証言」となる。アドルノの指摘する「間接話法」での語りも、シェーンベルクの指摘も「現象からの退去」と関連づけることが可能であり、第9交響曲は「大地の歌」の「死の受容」のプロセスに続く「老い」の時間性の音楽化と捉えることができる。

 従ってその徴候は音楽の形式的、構造的側面においてこそ明らかなものとなる。全曲のニ長調→変ニ長調という下降する調的プラン、ニ長調・ニ短調の対比を構成原理とし、ソナタ形式を基本としながら変形の技法の限りを尽くして絶えず主題が変容しつつ回帰する第1楽章の独自の構造、通常の意味合いでの解決が絶えず宙吊りにされ、時として調性の感覚が曖昧になりさえする独特の和声進行や、規範に囚われない斬新な音響に富んだ器楽法は「後期様式」の特徴を典型的に体現している。その第1楽章を後続の楽章が遠心的に取り囲む、アンバランスで統合性に欠くと見做されるかもしれない破格な楽章配置もまた然りだし、各楽章におけるアイロニー、反抗と諦観も、ハ長調-イ短調-変ニ長調という調性格論に拠る基本的性格に基づきつつ、現実に対する「老い」固有の反応の様態を色濃く反映したものとなっている。更に第9交響曲に関して指摘される「崩壊」や「溶解」といった局所的な構造的性格も、「老い」のシステム論的定義に照らせば、「死」そのものではなく、寧ろ「死」へのベクトル性を帯びた「老い」の時間性を反映していると見るのが妥当ではなかろうか。長調と短調の二元論にせよ、変形の技法、形式の唯名論的性格、或いは「仮晶」にせよ、それら自体としてはマーラーの作品全体を通して指摘でき、必ずしも「後期様式」固有のものではないけれども、それらが「老い」の意識を通じて機能することによって「後期様式」の実現に本質的に寄与していることは間違いないだろう。

 それを思えば「大地への未聞の愛の表現」というベルクの言葉も、第1楽章におけるシュトラウスの「楽しめ、人生を」の引用とともに「死の受容」を経た老境の生に対する態度の反映と捉えられるだろう。更にファウストの蘇りへのマーラーの言及について言えば、「子供の死の歌」第4曲の引用とされる音型が既に第8交響曲にも確認できること、第4楽章のMolto adagio subitoから7小節目(55小節)のヴィオラの下降音型が第8交響曲第2部で、かつてグレートヒェンと呼ばれた女がファウストの蘇りを歌う部分の結びの引用であり、"neue Tag"という言葉が充てられていたことを思えば、常には対照的なものと位置づけられることが専らの第8交響曲第2部を、寧ろ「後期様式」の予告として位置づけ直し、翻って第9交響曲を読み直すことが求められているのではなかろうか。

 「老い」を前面に立てたとて、その内実が「死」との関わり、生からの「告別」であるとするならば結局は同じことであり、殊更異を唱える迄もないという見方もあるかも知れない。だが私見によれば「老い」についての言い落しはマーラーの「後期作品」の捉え方に無視できぬ歪みをもたらしている。そのことは西欧的主体観にとっては「死」への覚悟よりも、主体自体の衰頽・崩壊の過程である「老い」の方が厄介なものであり、それは「死」についてならかくも饒舌に多くが語られるのに対し、寧ろ「老い」を取り上げることの方がタブーであり、スキャンダルですらあることと関わっていよう。しかし東洋の伝統では事情が異なる。思いつく限りでも、例えば能の老女物における「老い」の受容もそうだし、世阿弥の「老年の初心」を思い浮かべることもできよう。西欧でもその周縁からなら、トルンスタムの「老年的超越」といった、禅を参照するなど東洋的な考え方に親和的な概念が提唱されている。ゲーテの「現象からの退去」も、静寂観と神秘に重きをおく老年観についても東洋的なものとの親和性を指摘することができようし、それはまたゲーテのみならず、ショーペンハウアー、東洋学者でもあったリュッケルト、更にはフェヒナーの自然哲学に親炙し、漢詩の翻案に惹き付けられたマーラー自身のものでもあろう。「一切をかくも新しい光の中にみる」という言葉は、例えば世阿弥の「老年の初心」の表明ではないだろうか?こうした点を踏まえてマーラーの音楽に虚心坦懐に向き合うことは、西欧的な主体観や能力主義に相当程度侵蝕されている今日の日本の我々にとって、寧ろ自己の奥底に潜む伝統を再認識する契機にすらなり得るのではなかろうか。

 今日であれば、生成AIがマーラーの「後期様式」を論じ、第9交響曲の分析レポートを作成することすら可能になっている。だが生成AIは問われた対象についての言説の空間の内部を情動的反応なしで動き回り、「他人の噂」に基づいて回答を返すことしかできない。AIは「老い」を感じず、音楽を聴くことで引き起こされる反応とは無縁で、第9交響曲を聴いて共感することもない。井上喜惟さんとマーラー祝祭オーケストラにとって第9交響曲は2012年以来の再演になるが、前回の演奏が東日本大震災のために延期され、会場を変更して翌年実現したこともまた、その事実を指摘することなら可能であっても、公演がおかれた未聞の状況、演奏においてこれ一度きり実現した、異様とも言える雰囲気から受ける「感じ」を10年以上隔てて今なお生々しく想起するといったことは、少なくとも現在の生成AIにとっては無縁の事柄なのである。既に生成AIが自己の「死」を認識し、それを避けようとするという報告があるが、どこまで行っても「老い」とは原理的に無関係である以上、AIが「一切をかくも新しい光の中にみる」ことはないだろう。

 今や現実味を帯びて来たシンギュラリティ(技術的特異点)の彼方では、人間もまた「老い」から解放されるのかも知れず、もしかしたら私たちはジュリアン・ジェインズの「二分心」崩壊以降、シンギュラリティ以前のエポックを生き、単に生物として「老い」を生きるのみならず、「老い」を意識し、経験する最後の世代なのかも知れない。そしてシンギュラリティの彼方でマーラーの音楽は、今から半世紀以上も前にシュトックハウゼンが想定した、地球を訪れた宇宙人にとってのように、かつて「人間」と呼ばれた種族を知るための考古学的な手がかりに過ぎなくなるかも知れない。しかしシンギュラリティの手前に生きて老いてゆく私たちにとってマーラーの第9交響曲を聴くことは、自らもまた自己の有限性を自覚しつつ、まさにそのことによって「一切をかくも新しい光の中にみる」ことに誘われるかけがえのない経験であり続けるだろう。(2025.6.18初稿, 7.2最終稿, 10.13公開)


2025年10月1日水曜日

[お知らせ] マーラー祝祭オーケストラ(音楽監督・井上喜惟)第25回定期演奏会(2025年10月11日)

  マーラー祝祭オーケストラ(音楽監督・井上喜惟)第25回定期演奏会が2025年10月11日にミューザ川崎 シンフォニーホールにて開催されます(12:45開場、13:30開演)。以下のマーラー祝祭オーケストラの公式ページもご覧ください。

Mahler Festival Orchestra Offcial Site (https://www.mahlerfestivalorchestra.com/)

チラシのpdf版は以下のリンクからダウンロードできます。

マーラー祝祭オーケストラ第25回定期演奏会.pdf




プログラムはベルクの7つの初期の歌とマーラーの第9交響曲より構成されます。第9交響曲はマーラー祝祭オーケストラがまだジャパン・グスタフマーラー・オーケストラという名称であった2012年6月24日に、文京シビックホール大ホールで行われた第9回定期演奏会で取り上げられており、今回は13年ぶりの再演となります。13年前の公演に接した本ブログ管理人の感想は、ジャパン・グスタフ・マーラー・オーケストラ第9回定期演奏会を聴いてという記事として本ブログで公開しています。第9回定期演奏会は本来、2011年に行われる予定でしたが、東日本大震災被災により当初予定されていたミューザ川崎シンフォニーホールでの公演ができなくなったこともあり、1年延期の上、会場を変更しての公演となりました。今回は改めて、ミューザ川崎シンフォニーホールでの公演となります。

第9交響曲について、これまでの公演で取り上げられてきた交響曲同様、プログラムノートに寄稿させて頂いておりますので、是非ともご一読頂ければ幸いです。

また本ブログでは、上記の公演の感想以外にも、第9交響曲に関連して以下のような記事を執筆・公開していますので、併せてご覧頂ければ幸いです。

(2025.5.31 公開, 6.18 更新)


マーラーを考える上での主題系

 本来は相関図を用いるべき。

  • 識・無意識・自己・心・他者:現象学、初期ハイデガー、批判理論、解釈学、認知科学、プロセス哲学、脳科学、神経生理学、進化論(ミーム含む)、発達心理学、精神病理学、精神分析学。フリストンの理論(自由エネルギー原理・能動推論・マルコフブランケット。)
    • 「二分心」(ジュリアン・ジェインズ)崩壊以降、シンギュラリティ(カーツワイル)以前の「意識」の時代。「延長意識」「自伝的自己」(ダマシオ)「自己意識」の成立と維持の仕組み。
    • フィクションとしての「私」。「意識が一つ続きのものであること」(兼本浩祐)が如何にして可能になるか。時間をまたぐ構造保持のメカニズム。「自伝的自己」の生成機序と構造。
    • 表象の同一性維持機構としての「ことば」。
    • 「私」を立ち上げる必須の契機としての「他者」。他者の声の交響の場としての「私」。やまだようこ「ことばの前のことば」における「うた」。
  • 時間性:意識=時間性の起源としての他者の(原)触発。「隔時性」(レヴィナス)。リベットの実験における意識の「遅れ」=差延(デリダ)。プロセス哲学における「時の逆流」、推移の時間と超越(ホワイトヘッド=遠藤)。不可逆性、未来完了性(ジャンケレヴィッチ/アドルノ)。Varianteの技法(アドルノ)。他者への「応答」への遅れ⇒「投壜通信」としての「作品」。
  • 音楽作品と意識との関係。結節点としての自由エネルギー原理(フリストン):「感じ」としての意識(ソームズ、パンクセップ、ダマシオ)/「図式的期待」(ナームア、マイヤー)⇒「意識の音楽」・「時間の感受のシミュレータとしての音楽作品」・「マーラー・オートマトン」。MIDIデータを用いた調的軌道の可視化。和音の出現頻度分析。状態遷移の多様性の分析。標題性、「ことば」による表象の安定化。ジェスチャーとしての音楽(近藤譲)。
  • 意識「からの」眺め:超越・不滅性/有限性・老いと死、倫理や価値、反逆、憧憬、懐疑と矛盾、イロニー、夢、自然、自然の音と「世の成り行き」、音の風景・空間性(「遠くから」)。ヴァ―チャリティ(風景の、そして意識そのものの)。想像力、仮想性:「ありえたかも知れない民謡」(三輪眞弘)、仮晶(アドルノ)、疎外。様々な異化(「うた」の媒介性、屈折。作品における男女の声の交替、歌と器楽の往還。幼少期のアコーディオン)。
    • ⇒ 「老い」:「現象からの退去」(ゲーテ=ジンメル)としての「老い」=「後期様式」(アドルノ)。「かけがえのないものが移ろいゆくものであること」の受容。Erdeの多義性。。「個別的なものの学(mathesis singularis)」(ロラン・バルト)。
    • ⇒「子供」:自伝的自己の成立機序。「新しさ」の感じが生じる条件としての「他者」との遭遇。「出会い」の時間論的構造、「再会」によって「出会い」が事後的・未来完了的に認識されること。
  • シンギュラリティ(カーツワイル)からの視点:Life3.0(テグマーク)。惑星としての地球(Erde)。宇宙人からの展望(シュトックハウゼン)。人工知能による補筆(第10交響曲)。
  • (未完成を含む)作品の存在論。「幽霊性」。「再演」による継承の意味。「書き取らされている」という感じについてのジェインズの「二院制の心」による説明、世界制作(グッドマン)、「神の衣を織る」(ゲーテ『ファウスト』)。ポリフォニー:「子午線」を介した「対話」としての「詩」(パウル・ツェラン)。「投壜通信」(ツェラン=マンデリシュタム)。他者の声の交響の場としての作品(バフチン)。「うた」の起源におけるポリフォニーの優位(ジョルダーニア)
  • 個別的なものの学(mathesis singularis)」(ロラン・バルト)としての「マーラー学」:儚く有限な「意識」と「主観性」の擁護。「投壜通信」(パウル・ツェラン=マンデリシュタム)。「コミットメント」(マイケル・ポランニー)。

(2002執筆, 2007加筆, 2008.5.27初稿公開, 2025.10.1 身辺雑記から独立させて公開。ワーク・イン・プログレス)

2025年9月30日火曜日

意識の構造と音楽:フリストンの自由エネルギー原理とマーラーの作品の時間性(2025.9.30更新)

 1. はじめに

本稿は、カール・フリストンの自由エネルギー原理を中心とした現代の意識理論と、音楽、特にマーラーの交響曲における時間構造との関係を考察し、アドルノの音楽分析における「未来完了性」概念およびVarianteの技法を重要な分析視点として、意識と音楽の構造的類似性の探究の方向性を示すこと、マーラーの音楽を「意識の音楽」「<感じ>の時間性のシミュレータ」として捉えることに一定の妥当性があることを示そうと試みたものです。


2. フリストンの自由エネルギー原理と意識理論

2.1 基本概念

自由エネルギー原理は、生物システムが環境との相互作用において、予測誤差(サプライズ)を最小化しようとする基本的な動作原理を示しています。脳は常に感覚入力を予測し、その予測と実際の入力との差異を最小化することで、世界の内部モデルを更新し続けます。

2.2 意識との関連

予測処理と意識 フリストンの理論では、意識は階層的な予測処理システムの産物として捉えられ、脳の異なる階層レベルで行われる予測とその更新のプロセスが、私たちの主観的体験を生み出すとされます。

注意と意識の関係 予測誤差が大きい情報に注意が向けられ、それが意識的な経験として現れる仕組みも、自由エネルギー原理で説明される可能性があります。それによれば、予測できない、つまり情報価値の高い刺激が意識の前景に現れやすいとされます。これは意識が無意識的な処理では対応しきれないような環境の変化に対応するために進化的に生み出された仕掛けであるという考え方や、ウィノグラード=フローレスのように意識を「ブレイクダウン」に関連付けて考える立場と親和的です。

2.3 情動の理論と自由エネルギー原理の統合

内受容感覚と予測処理 ソームズが重視する内受容感覚(体内からの感覚)は、フリストンの枠組みでは身体状態の予測処理として理解されます。脳は常に身体の内部状態を予測し、その予測誤差を最小化することで恒常性を維持します。この過程で生じる予測誤差が「感じ」として体験されると考えられています。

情動の予測符号化 パンクセップの情動システム理論における基本情動(恐怖、怒り、探索など)も、進化的に発達した、生存のために重要な状況における予測処理システムとして再解釈可能です。これらの情動は、環境や身体状態の変化を予測し、適応的な行動を準備するための進化的に古い神経システムに由来するものと考えられます。

注意すべきなのは、ソームズやパンクセップの理論は、感情一次過程(Primary Process Emotion)理論であり、脳幹・辺縁系レベルの内的な状態としての感情を対象にしていること、それに対応してあくまでも生命維持や自己調節に根ざした脳内のホメオスタシス的機構のレベルでの感情の機能にフォーカスされており、実質的にはダマシオの言う「中核意識」以下のレベルに限定されていることです。

2.4.意識の階層構造

原始意識と高次意識 両者の理論は、意識の階層性について補完的な視点を提供します。パンクセップの「原始意識」(情動的意識)は、フリストンの枠組みでは低次の予測処理レベルに対応し、ソームズの言う「感じ」は身体状態の予測誤差として説明されます。一方、ソームズは高次の意識についても述べており、フリストンにおける階層的なモデルに対応するとされています。ただしそこでの感じや情動の扱いは限定的であり、高次の意識は「思考」として扱われている点には注意が必要です。

脳幹から皮質への情報流 ソームズやダマシオが強調する脳幹の重要性は、フリストンのモデルでは身体調節的な予測の最下層として位置づけられます。脳幹での予測処理が上位の皮質レベルに影響を与え、複雑な意識体験を形成するという統合的な理解が可能になります。特に皮質レベルでの高度な「思考」においては海馬が果たす役割が重要であり、ソームズの指摘するように、通常は無意識的である皮質の記憶プロセスに、視点を持った「わたしというもの」の質を注入するのに重要な役割を果たし、そのことによってシャクターの言うところの「建設的なエピソードシミュレーション」を支えています。

価値と動機の統合 パンクセップの情動システムが示す「欲求」や「価値」は、フリストンの能動的推論において、行動選択の基準となる事前期待として組み込まれます。生物は単に予測誤差を最小化するだけでなく、進化的により生存に適した状態を求める傾向があります。

この統合的アプローチは、意識を純粋に計算論的な現象としてではなく、身体に根ざした情動的・評価的なプロセスとして理解する新しい枠組みを提供することから、意識の構造と音楽との間の橋渡しをする可能性を持つものと考えられます。ただしパンクセップやソームズの情動についての理論は、フリストンの階層的な意識モデルにおいては、主としてその下層に関連づけられる点、あくまでも生命維持や自己調節に根ざした脳内のホメオスタシス的機構の解明に特化しており、そのために他者との相互作用によって生じる複雑な社会的感情や、情動のダイナミクスについては、十分な説明がされていない点については別に補完する必要があります。

2.5 音楽心理学における図式的期待(schematic expectation)との関連

フリストンの「サプライズ最小化(自由エネルギー原理)」と、音楽心理学における図式的期待(schematic expectation)は、両者とも予測とその誤差処理を中心に据えているという点で深い関係性があると考えられます。

音楽心理学における「図式的期待」ナームアの「含意ー実現」モデル、マイヤーの期待理論などでは、聴取者は過去の音楽経験や文化的学習によって、調性・旋律進行・リズムに関する「スキーマ」を持ち、それに基づいて「次にどうなるか」を予測し、実際の音楽進行が予測と一致すれば「充足感」や「安定」を、逸脱すれば「驚き」や「緊張」を感じるとされます。

予測と誤差処理 フリストンの理論では、能は外界からの入力を受けるとき、内部モデル(生成モデル)を用いて予測を立て、実際の感覚入力との差(予測誤差、≒「サプライズ」)が最小になるように行動・知覚・学習を調整します。これは認知・行動を統一的に説明する一般的・原理的枠組みであり、音楽心理学における「図式的期待」はその枠組みの音楽に特化した一例として位置付けられます。

音楽は「サプライズ」を意図的に操作する芸術と見ることができ、予測通りであれば安心、予測が裏切られれば驚きや緊張が生じ、それが新たな期待の更新につながるという意識の流れを生み出していきます。音楽は脳の自由エネルギー原理を活用した、仮想的なシミュレーションという捉え方が可能です。ただしここでも情動の理論について指摘したものと並行的な制限があることに注意する必要があります。つまり図式的期待のモデルは、その単純なものについて言えば、意識のレベルとしては中核意識のレベルを大きく超えることはなく、フッサールの内的時間意識の現象学においては第一次の把持のレベルに留まります。勿論それを「今ここ」の統合を超えた時間をまたいだレベルに拡張することは可能ですが、モデルとしての実質を持たせるためには時間をまたぐ構造保持のメカニズムが別途必要になると考えられます。フリストンの理論は過去・現在・未来を含む生成モデルを扱えるので、長期的安定性を定式化することは自然に行えますが、ダマシオの言う「延長意識」の水準や「自伝的自己」を扱うためには階層的なモデルが必須となり、特に上位階層の機能が重要となるのは既述の通りです。


3. 音楽と意識の構造的類似性

3.1 予測処理としての音楽体験

時間的予測とサプライズ 音楽に関わる様々な行為は、全体として時間的な予測処理システムと見做すことができます。私たちは聴きながら次の音やリズム、和声進行を無意識に予測し、その予測が裏切られたり確認されたりすることで音楽的体験が生まれます。フリストンの枠組みにおいて予測誤差の最小化プロセスと捉えることができるこの過程は、音楽の理解と楽しみの重要な源泉の一つとなると考えられます。

意識と音楽における階層構造 音楽の構造には意識と構造と並行的な階層性が見られます。音楽の聴取においては、音高、リズム、フレーズ、楽章といった異なるレベルで同時に予測処理が行われ、それぞれが相互作用しながら統合された音楽体験を生み出します。これは意識の階層的な予測処理モデルと類似しています。

3.2 身体的・情動的基盤

内受容感覚との共鳴 ソームズが重視する内受容感覚は、音楽体験の核心部分です。例えばリズムは心拍や呼吸と同期しますし、低音は身体の深部感覚との共鳴を惹き起こすと考えられます。音楽は身体状態の予測処理システムを直接的に活性化し、「感じ」の絶えまない変化としての音楽体験を生み出します。

基本情動システムの活性化 パンクセップの基本情動(探索、遊び、恐怖、愛着など)は、音楽の異なる要素によって直接的に喚起されると考えることができるかも知れません。例えば上行するメロディーは探索システムを、不協和音は警戒システムを、反復的なリズムは愛着システムを活性化する可能性があります。

3.3 音楽の意識への作用メカニズム

注意の誘導と統合 音楽は予測可能性と驚きのバランスを通じて注意を誘導し、変転し流動する意識内容を統合する力を持ちます。このことが音楽療法や瞑想において音楽の使用が有効である理由かも知れません。

時間意識の構造化 音楽は時間の流れを構造化し、意識の時間的展開パターンを調整します。拍子やテンポは時間予測のリズムを設定し、フレーズ構造は意識の注意サイクルと同期します。音楽は意識の流れを誘導し、調整する働きをすると考えることができます。

3.4.創造性と自己組織化

能動的推論としての作曲・演奏 音楽の創造は、内的な音楽モデルと実際の音響出力との間の予測誤差を最小化する能動的推論プロセスとして理解できます。演奏者は意図した音楽表現を実現するために、身体動作を通じて環境(楽器)を制御します。

集合的意識としてのアンサンブル 複数の演奏者によるアンサンブルは、個々の予測処理システムが相互作用し、より大きな予測システムを形成する例として興味深いモデルを提供します。これは意識の社会的側面に通じ、集合的認知の理解に繋がっていく可能性を含みます。


4. マーラーの交響曲における意識構造の音楽化

4.1 多層的な予測処理システム

同時進行する複数の時間スケール マーラーの交響曲では、短いモチーフ、中規模なフレーズ、長大な楽章、そして全体の交響曲という異なる時間スケールが同時に展開されます。これは意識における多層的な予測処理そのものと見做すことができ、私たちの意識も、瞬間的な知覚、短期記憶、長期的な目標や人生の物語といった異なる時間軸で同時に機能していることとの並行性が見い出せます。マーラーの音楽はしばしば「小説」に喩えられる、長大で複雑な時間的構造を持ちますが、それはダマシオの定義する「中核意識(Core consciousness)」(「今ここ」の統合)の繰り返しでは説明しきれず、自己史や未来予測を含む「延長意識(Extended consciousness)」や自伝的自己の水準に対応すると考えるべきです。

階層間の相互作用 マーラーの音楽では、小さなモチーフの絶えざる回帰と変形のプロセスが楽章全体の構造を決定し、同時に巨視的な楽式レベルで設計された全体の流れが局所的な展開に、時として遡及的に意味を与えます。これは意識の階層的予測処理において、上位レベルの予測が下位レベルの知覚を制約し、下位レベルの予測誤差が上位レベルの信念を更新するプロセスと対応しています。

4.2 情動と認知の統合

身体的共鳴の複雑性 マーラーの音楽は、パンクセップの基本情動システムを複雑に織り交ぜます。例えば第5交響曲の第1部では悲しみや恐怖が活性化され、第3部では愛情や喜びが活性化されますが、これらは単純に継起するのではなく、重層的に組み合わされており、まさに人間の意識における情動の複雑に入り混じった状態を音楽化したものと言えます。更に言えば、マーラーの音楽における感情のレパートリーは、一次過程理論で重視されるような、主に情動(Emotion)や動機づけ(Motivation)としての感情に限定されません。マーラーの音楽は、持続的な状態としての感情、即ち自伝的自己が関わる水準の「気分(Mood)」や「情動気質」といった、より持続的で自己全体に影響を及ぼす感情の状態が重要になります。

内受容感覚の精緻化 マーラーの音楽は聴き手の呼吸、心拍、筋緊張を微細にコントロールします。例えば長大な弦楽器のクレッシェンドは交感神経系を段階的に活性化するでしょうし、突然の静寂は副交感神経系への急激な切り替えを促します。こうした単独の例であれば、他の音楽にも見出せるものですが、これらを高度に複雑に組み合わせたマーラーの音楽は、意識における身体状態の予測処理の複雑さを反映していると見ることができます。それは二次過程(学習・記憶)や三次過程(高次認知・社会的機能)と呼ばれるより高次の脳システムとの相互作用のメカニズムをも考慮して理解すべきものではないでしょうか?

4.3.記憶と予期の織物

循環的な時間構造 マーラーは同一の主題を異なる文脈で繰り返し登場させ、それぞれに新たな意味を付与します。これは意識における記憶の働き—過去の経験が現在の知覚を予測的に形作り、同時に現在の経験が過去の記憶に新たな意味を与えるプロセス—と同一の構造です。

遠大な予期と局所的サプライズ 交響曲全体を通じて、聴き手は遠い未来の解決(例えば終楽章の勝利的な結末)を予期しながら、局所的には予想外の転調や楽器法に驚かされ続けます。これは人生における長期的な目標設定と日常的な予期の裏切りという、意識の時間的構造そのものです。

4.4.統合と分裂の動的平衡

複数の視点の同時存在 マーラーの音楽では、異なる楽器群が異なる「声」や「視点」を表現し、それらが対話し、競合し、最終的に統合されます。これは意識における複数の心的内容の競合と統合、そして統合情報理論で言うところの意識の統一性の動的な実現過程と対応しています。更に言えば、一般にフリストンの自由エネルギー原理は、単独の個体の知覚・行為の予測誤差最小化をモデル化したものですが、それを社会的相互作用や他者モデルの生成・更新まで拡張して解釈する必要が出てくるかも知れません。これは情動理論についても同様であり、生命維持や自己調節に根ざした脳内のホメオスタシス的機構の解明に特化した情動の理論を拡張し、他者との相互作用によって生じる複雑な社会的感情や、情動のダイナミクスを扱えるようにすること、他者との共感や、感情が他者の触発によって起きることや、同期や引き込みのような感情ならではの現象を扱えるようにする必要が出てくるものと考えられます。

意識の流れの音楽化 ウィリアム・ジェームズの「意識の流れ」概念は、マーラーの音楽において具現化されています。絶え間ない変化の中にある継続性、断絶のない移行、過去・現在・未来の融合といった意識の基本特性が、音楽的時間として展開されています。ここでいう意識の時間性は、現象学的時間論においては第二次把持の水準(想起や予期)を扱えることは必須ですし、マーラーの音楽における民謡や行進曲などといった文化的沈殿物の再利用のような側面を扱うのであれば、更にスティグレールの言う第三次の把持まで考慮する必要があるかも知れません。

4.5.意識の音楽としてのマーラーの交響曲

マーラーの交響曲は、単に美的体験を提供するだけでなく、意識の構造そのものを時間芸術として展開した、意識の現象学的地図とも呼べる存在なのです。聴き手はその音楽的体験を通じて、自らの意識の複雑な構造を内側から体験し、理解することができるのです。なお、ここでいう意識は「今ここ」の統合としてのダマシオの中核意識だけではなく、時間をまたぐ構造保持のメカニズムに支えられた、「物語」の主人公たりうる、それ自体フィクションである「一続きの私」に対応する延長意識のレベルをも含みます。それは「自己についての予測」が行われ、「自分がどのような存在であるか」についての予測を実現しようとする行動が行われる水準であり、最低でも自己モデルに基づく、自己の状態についてのメタレベルの認知が、時としては自己言及的な構造がその実現のための条件となります。


5. 自己言及性と予測処理

5.1 予測的自己モデリング

自己についての予測 フリストンの枠組みでは、脳は環境だけでなく自分自身についても予測モデルを構築します。この「自己についての予測」が自己言及性の基盤となります。脳は自分の感覚、行動、さらには自分の思考プロセスまでも予測しようとし、その予測誤差を最小化することで自己理解を深めていきます。

メタ認知としての階層化 自己言及性は、予測処理の階層構造において上位レベルが下位レベルの予測プロセス自体を予測することとして理解できます。「私は今何を考えているか」「私はなぜこう感じるのか」といった内省は、認知プロセスについての予測処理として機能します。

5.2.能動的推論における自己

自己実現的予測 フリストンの能動的推論では、生物は世界を変化させることで自分の予測を実現しようとします。自己言及的な場合、これは「自分がどのような存在であるか」についての予測を実現しようとする行動となります。アイデンティティの形成や維持は、自己についての予測を能動的に実現するプロセスとして理解できます。

循環的因果性 自己言及系では、システムが自分自身を参照し、その参照が再びシステム自体を変化させるという循環が生じます。フリストンのモデルでは、これは予測と行動の循環として表現することが考えられ、自己モデルの更新が新たな自己モデルの予測を生み出す無限の再帰的過程と見做すことが可能です。

5.3 マーラーの音楽における自己言及性

音楽的自己意識 マーラーの交響曲にもし「音楽について語る音楽」という側面があるとしたならば、フリストンの枠組みではそうした側面を、音楽システムが自分自身の構造を予測し、その予測を音楽的に実現するプロセスとして理解することができます。作曲家は音楽の効果を予測し、その予測を音楽そのものに組み込むことで、自己言及的な構造を創造します。マーラーの音楽における引用やパロディをこの枠組みに基づいてモデル化する可能性があると考えます。

聴取における再帰的体験 聴き手がマーラーの音楽で体験する自己言及性は、音楽が聴き手の予測プロセスについての予測を誘発することです。「この音楽は私にどう感じさせようとしているのか」という意識が、実際にその感情体験を変化させる循環的なプロセスが生まれます。

5.4 自由エネルギーの最小化と自己言及のパラドックス

予測の不可能性 自己言及系には根本的なパラドックスがあります。システムが自分自身を完全に予測できれば、その予測可能性自体が新たな予測不可能性を生み出します。ただしこのレベルのパラドクスが常に問題になるわけではありません。一般に予測が不可能なのは、予測の対象となる世界が複雑で確率的なゆらぎを持っている上に、常に部分的な情報しか得られないことから、無意識的・自動的なシステムの反応ではブレイクダウンを起こすような状況が起こりえることに起因すると考えられます。結果としてフリストンの理論では、予測誤差は完全には解消できず、持続的な「自己についての不確実性」が意識の動的な性質を生み出すと考えられます。そうした状況に対応するためには、一見すると非効率である意識的な認知の仕組みが必要となります。つまり意識的な認知は、複雑で変動する世界において、自動化されたシステムが破綻するリスクに対する、進化的に獲得された階層的な適応メカニズムであり、その実装には深い自己言及的構造が必要であり、これが構造的な「非効率性」と「不確実性」を生むが、それは長期的生存確率を最大化するための合理的なコストであると考えられます。

創発的複雑性 自己言及的な予測処理システムでは、単純な規則から複雑で予測困難な行動パターンが創発します。これは意識の豊かさや創造性の源泉となり、同時に完全な自己理解の不可能性の根拠ともなります。ソームズは自由エネルギー原理が、意識、覚醒の否定であり、認知の理想形は自動的なものであり、ある種のゾンビ状態を目指していると結論づけながら、その一方で、私たちの頭の中で起こっていることの多くが、情報効率や熱力学的効率の理想とは一致しにくいことを指摘し、一見したところ自由エネルギー理論への挑戦に見える活動として、マインドワンダリング、熟慮型の想像、言葉による抽象化を挙げていますが、これらはいずれも自己言及的な予測処理システムの持つ創発的特性と関連づけて理解することができるでしょう。そしてそれは同時に「一続きの私」が成立し、維持されるための構造的条件にも関わるものと考えられます。

5.5.意識の統合と分裂

統合情報としての自己言及 統合情報理論との関連で言えば、自己言及性は意識システム内での情報統合の特殊なケースです。システムが自分自身についての情報を統合することで、より高次の統合情報が生成され、それが自己意識の基盤となります。自己の統合は常にうまくいくとは限らず、離人症的な経験のような、病理的な自己感の喪失や分裂が経験されることもありえます。また正常な場合でも、「自我経験」と呼ばれる対自的な自己意識についての経験が生じることもあります。モデルはこうしたケースも含めて説明できる必要があります。マーラーの音楽もまた、「一続きの私」の維持が自明なことではなく、時としてそれが不安定になり、破綻に瀕することさえ生じることを音楽的にシミュレートしていると見做すことができるでしょう。

自己の境界の動的構成 フリストンのモデルでは、「自己」の境界は固定的ではなく、マルコフブランケット(システムと環境の境界)として動的に構成されます。自己言及性は、この境界の内側で自分自身を予測するプロセスとして、自己の境界設定そのものに影響を与えます。

この自己言及的な予測処理の循環こそが、意識の最も特徴的な性質—自分自身について意識する能力—を生み出し、同時にその完全な理解を永続的に困難にする源泉となっているのです。マーラーの音楽はこの循環の美的な表現として、意識の自己言及的な構造を時間芸術として具現化している可能性があり、その検証は大きなチャレンジであると考えられます。


6. アドルノの未来完了性とVariante技法

6.1 Varianteと予測処理の逆転

変形としての主題認識 通常のソナタ形式では「主題提示→展開→再現」という線形的な時間が想定されますが、マーラーのVariante技法では、最初に現れるものは実は「変形」であり、「真の主題」は後に現れます。これは予測処理において、最初の知覚が実は「予測の変形」であり、後にその「元となる予測モデル」が明らかになるプロセスと対応しています。

予告としての最初の提示 フリストンの枠組みでは、脳は常に階層的な予測を行いますが、マーラーの技法では音楽的な「予測」が時間的に逆転します。最初に聞こえるのは結果(変形)であり、原因(主題)は後から明らかになる。これは予測誤差の解決が遡及的に行われる特殊なケースです。

6.2 記憶と予測の時間的錯綜

既知感の創出 Variante技法により、聴き手は「初めて聞くはずの主題」を「既に知っている」かのように体験します。これは予測処理システムが、まだ完全には提示されていない情報に対して「記憶的親和性」を感じる現象です。脳は断片的な情報から全体像を予測し、その予測が後に確認される構造です。

遡及的な意味付与 主題の「実現」が起こったとき、それまでの変形部分が遡及的に新しい意味を獲得します。これはフリストンの理論における「事後的な予測更新」の音楽的実現です。新しい情報(真の主題)が過去の体験(変形部分)の解釈を根本的に変更するのです。

6.3 自己言及的な予測構造

予測モデルの自己生成 マーラーの音楽では、主題が自分自身の変形から生まれ出るという自己言及的構造が生じます。これは予測処理システムが自分自身の予測誤差から新しい予測モデルを生成するプロセスの音楽的な表現です。

循環的な因果関係 変形(Variante)→主題(実現)→新たな変形という循環において、どこが「始まり」でどこが「終わり」かが不明確になります。これは自由エネルギー原理における予測と更新の循環的プロセスが、時間軸上で複雑に折り畳まれた状態として理解できます。

6.4 意識の未来完了性との対応

体験の事前構造化 この技法は、意識が体験を事前に構造化する仕組みを音楽的に実現しています。私たちは出来事を体験する前に、すでにその出来事の「型」や「枠組み」を持っており、実際の体験はその予期された枠組みの「実現」として経験されます。

自己実現的予測の音楽化 マーラーのVariante技法は、フリストンの「能動的推論」における自己実現的予測の音楽的表現でもあります。予告された主題は、その予告によって実現へと向かう必然性を獲得し、音楽自体が自分の予測を実現していくプロセスとなります。

この「予告—実現」構造は、単なる音楽技法を超えて、意識が時間を体験し、記憶と予測を統合する根本的なメカニズムの芸術的な開示と捉えることができないでしょうか。マーラーは、私たちの意識が持つ「未来を既に知っている」かのような時間体験を、音楽的時間として具現化している可能性があります。


7. マーラーの作品における具体的な音楽体験での実現例(ラフスケッチ)

第1交響曲の序奏 第1楽章冒頭の自然音の模倣から徐々に主題が浮かび上がる過程は、環境音(変形)から音楽的主題(実現)への変容として、まさに予告→実現の構造を示しています。聴き手は「何か重要なことが起ころうとしている」という予期を持ちながら聴き進みます。第1楽章冒頭の自然音の模倣から徐々に主題が浮かび上がる過程は、環境音(変形)から音楽的主題(実現)への変容として、まさに予告→実現の構造を示しています。聴き手は「何か重要なことが起ころうとしている」という予期を持ちながら聴き進みます。因襲的なソナタ形式からは大きく逸脱して、決定的な出来事、アドルノいう「突破」が生じるのは展開部の最後、展開部冒頭で最後に導入されたモチーフによって再現部に入るところで、再現部はそれまでのプロセスを足早に逆回しで遡及するようなユニークな構造を持っています。

第2交響曲の終楽章 復活の主題は、実は前楽章や前半部での断片的な「予告」を経て、最終的に合唱で「実現」されます。この構造により、実現の瞬間は「初めて聞く新しい主題」ではなく「ついに到達した既知の目標」として体験されます。

第9交響曲第1楽章 冒頭は幾つかの動機が断片的に提示され、その後旋律がためらいがちに、断片的に姿を現しますが、最初の提示は予備的な性質のものであり、完全な姿ではありません。そして通常は主題が反復され、確保される箇所で漸く主題が完全な形で提示される構造になっており、「未来完了」的な構造の典型となっています。またその後の主題は絶えず変形を受けながら回帰し、最後には再び断片となって解体していきます。これは意識の様々な様態の遍歴のプロセスと見做すことができます。またソナタ形式として捉えた場合の展開部の最中においても主要主題は主調で回帰するなど、調的遍歴の過程として見た場合でも、因襲的な図式を離れたユニークなプロセスを有しており、優れて「意識の音楽」としての特徴を有していると考えられます。


8. まとめ

フリストンの自由エネルギー原理と情動中心の意識理論の統合により、音楽と意識の構造的類似性を理解する枠組みを提供できる可能性があります。それに基づき、マーラーの交響曲における未来完了性とVariante技法は、意識の時間的構造の複雑さ—予測と記憶の相互浸透、自己言及的な循環、階層的統合—を音楽的に具現化しているという仮説を構成できます。

アドルノの未来完了性は「予告→実現」構造として分析され、意識が体験を事前に構造化し、自己実現的予測を通じて現実を構成する仕組みの音楽的表現として理解でき、これは単なる美的現象を超えて、意識の根本的なメカニズムの芸術的開示であると捉えることが可能かも知れません。

音楽と意識は、時間的で階層的で身体に根ざした予測処理システムとして根本的な類似性を持ち、マーラーの音楽は意識の構造そのものを時間芸術として展開した「意識の現象学的地図」であり、「意識の音楽」「<感じ>の時間性のシミュレータ」として機能していると考えることには一定の妥当性があると考えられます。

[後記] 本稿は著者が基本的な着想や理論構成を与え、研究パートナーとしてClaude Sonnet 4ないし4.5やChatGPT-5, Gemini 2.5 Flashとの対話を繰り返すことを通じて作成されました。上記のテキスト中には、Claude Sonnet 4やChatGPT-5, Gemini 2.5 Flashが生成した文章およびそれを編集したものが含まれます。


(2025.9.26 noteにて公開, 9.28加筆, 9.30加筆)