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2026年7月14日火曜日

「意識の音楽」としてのマーラーの交響曲を再考する──「共感指差し」から落伍者に手を差し伸べる「絶対的な小説交響曲」へ

 これまで「意識の音楽」という概念を用いてマーラーの音楽を考えてきたが、その意味するところは必ずしも十分に明確ではなかった。「意識の音楽」がマーラー固有の概念なのか、それとも近代音楽一般のある傾向を指す概念なのかについても、なお整理の余地が残されていた。

しかし近年取り組んできた交響曲的主体論、とりわけ自由エネルギー原理(FEP)を参照した主体類型の検討を経ることによって、この問題に対して一つの明確な見通しが得られたように思われる。

重要なのは、「意識の音楽」とは単に近代主体を表現した音楽ではないということである。近代以降の多くの作曲家は、程度の差こそあれ、自律的主体を音楽の中に実現している。しかし、そのことだけではマーラーを特徴づけることはできない。

ここでいう「意識」とは、ダマシオの意味での延長意識、すなわち自伝的自己を備えた自己意識である。それは身体感覚や情動に基づく現在の自己だけではなく、保持された過去と予期される未来とを統合し、一つの物語として自己を構成する主体である。このような理解は、これまで検討してきた意識の階層モデル、亡霊性と情動に関する議論、「二分心崩壊以後、シンギュラリティ以前の〈意識の時代〉」論などによって既に理論的基盤が整えられている。

したがって、本稿において改めてジェインズ、フッサール、ダマシオ、スティグレール、FEPを個別に積み上げ直す必要はない。むしろ、それらを統合した意識論を前提として、「そのような意識はいかなる音楽形式として実現されるのか」という問いから出発することが適切である。

そのとき、「意識の音楽」とは、「自伝的自己を形式化した音楽」と定義することができる。しかし、この定義もなお十分ではない。自伝的自己とは本質的に物語的自己であり、物語とは他者に向かって語られることによって初めて成立するからである。

この点でアドルノのマーラー論における「ねえ、よく聞いて」という指摘は、単なる比喩ではなく、マーラーの主体形式そのものを言い当てているように思われる。マーラーの交響曲には、聴き手に対して世界を「説明する」のではなく、「ともに経験しよう」と呼びかける語りの衝動がある。

このことは、やまだようこの発達心理学における「共感指差し」の概念と深い構造的類似を示している。共感指差しとは、「これが何であるか」を教える行為ではなく、「ねえ、見て」と他者と世界を共有しようとする行為である。それは共同注意の成立であり、自伝的自己や物語主体の発生以前に存在する、他者との世界共有の原初的形式である。アドルノのいう「ねえ、よく聞いて」は、まさに音楽における共感指差しなのである。

この視点から見れば、「絶対的な小説交響曲」というアドルノの規定も、新しい意味を帯びる。小説的であるとは、単に物語的な展開を持つということではない。そこには語る主体が存在している。そしてその主体は、出来上がった内容を語るのではなく、「語りながら次を語ろうとする衝動」の中で生成し続ける主体である。

アドルノが詩は対話であるという詩論を展開したパウル・ツェランのほぼ唯一の散文「山中の対話」への返礼として書き送った書簡で自己引用した、上記の「絶対的な小説交響曲」に関連した、第九交響曲第一楽章終結部についての「主題労作と物語性の統合」に関する記述、或いは「あたかも音楽が語りながら先へと語る衝動をはじめて受け取るように主題が湧き出てくる」というルジツカが自作のヴィオラ協奏曲の銘として引用する記述も、この観点から理解されるべきであろう。ここでは主題が変形するから物語が生じるのではなく、語ろうとする衝動そのものが主題を生成し続けている。

その意味で、マーラーに頻出する expressivo という指示も、単なる奏法上の「表情豊かに」という意味を超えている。それは旋律が、あたかも誰かに向かって語りかけようとする衝動を帯びているかのように演奏されるべきことを意味しているのではないか。

このように考えると、マーラーにおける「表現」の概念そのものも変化する。従来の表現概念は、主体の内面を音楽によって外化するものとして理解されてきた。しかしマーラーでは、表現とは世界を他者と共有する行為であり、共有可能な世界そのものを音楽の中で生成することである。

マーラー自身が「交響曲とは世界のようでなければならない」と述べたとされる言葉も、百科事典的な世界像の提示ではなく、自伝的自己が生きる世界を他者と共有可能なものとして構築するという意味に理解し直すことができる。それは世界の描写ではなく、「世界の共有」である。このような共有への志向は、アドルノがマーラー論の結びで述べる、「落伍者に向かって手を差し伸べる音楽」という特徴とも深く結びついている。それは倫理的付加価値ではなく、主体形式そのものから導かれる帰結である。マーラーの主体は、本質的に他者へ向かって開かれている。作品は自己完結した表現ではなく、他者を自己の世界へ招き入れる行為として成立している。

このような「世界の共有」という契機は、交響曲的主体の類型論から見ても重要な意味を持つ。マーラー的主体は、自由エネルギー原理(FEP)の観点から見れば、世界を予測し、その予測誤差を不断に更新し続ける主体の典型である。しかし同時に、それは動物型FEP主体が最も徹底したかたちで展開され、その内部に潜む限界が露呈する地点でもある。

従来、この主体の「裂開」は、主体内部における予測誤差の累積や自己更新の危機として理解されてきた。しかし、本稿の立場からすれば、その裂開は主体内部の出来事ではない。主体が裂開しているように見えるのは、その主体が本質的に他者との世界共有を志向しているにもかかわらず、その共有の条件そのものが近代において危機に瀕しているからである。したがって、裂開しているのは主体というよりも、主体と他者とを媒介してきた共同世界そのものである。

このことは、「ねえ、よく聞いて」というアドルノの指摘や、「絶対的な小説交響曲」という規定とも一致する。マーラーの語りの衝動は、安定した共同世界の内部で語る衝動ではなく、共有可能な世界そのものが失われつつある時代において、それでもなお他者と世界を共有しようとする衝動なのである。この意味で、マーラーの音楽における「語る」という契機は、単なる自己表現ではない。それは共同世界を再び成立させようとする実践であり、世界共有の再構築へ向けた行為なのである。

このことは、自由エネルギー原理そのものの理解にも修正を迫る。

自由エネルギー原理はしばしば、外界との境界を維持しながら自己保存を図る閉鎖的主体の理論として理解される。しかし、人間の自己は、そのような閉鎖系として理解することはできない。人間の自己は、他者との相互作用を通じて予測誤差を共有し、共生成的に自由エネルギーを最小化する方向へと開かれている。

したがって、マルコフ境界とは、自己を世界から隔てる壁ではなく、他者との触発と共鳴を可能にする膜として理解されなければならない。マーラーの交響曲が聴き手を世界へと招き入れようとする形式をもつのは、このような開かれた主体構造が音楽形式として実現されているからである。

このような主体理解は、主体の存在様式だけでなく、その主体がいかに世界を語るかという表現様式にも帰結する。 結果としてこのことは、交響曲という形式そのものの意味をも変化させる。

ここで問題となっているのは、主体はいかに成立するかという発生論でも、主体はいかなる存在様式をとるかという存在論でもない。そのような主体が、いかに世界について他者へ語るのかという表現論である。 

ロマン派音楽一般にも自己表現や世界表現は存在する。しかし、多くの場合、音楽は主体が表現する内容を担うのであって、主体の語り方そのものを形式化しているわけではない。 マーラーにおいて特異なのは、主体がいかなる存在様式において世界と関わるか、その語り方そのものが交響曲の時間構造へと転化している点である。

交響曲は、主体が世界について語るための器ではない。マーラーにおいて交響曲とは、主体の語り方そのものが音楽形式として実現したものである。作品は主体の思想や感情を表現する媒体ではなく、主体が保持・予持・回想・予測を繰り返しながら世界を他者へ語る、その時間構造そのものを形式化している。

したがって、マーラーにとって交響曲とは選択されたジャンルではない。世界を他者と共有しようとするマーラー的主体の存在様式は、必然的に交響曲という時間形式を要求したのである。

マーラーの交響曲は、自伝的自己が世界について語る音楽ではない。自伝的自己が世界と関わり、他者へ向かって世界を共有しようとする、その〈語り方=生き方〉そのものが交響曲形式として実現した音楽なのである。 

私は以前から、マーラーの音楽には、聴き手の背中をそっと押し、一歩前へ踏み出せるよう支えてくれるような性格があると感じていた。その感覚も、この主体論によって説明できるように思われる。マーラーの音楽は、単に世界を共有するだけではない。そこには、生きることそのものへの「いざない」がある。

このように考えるならば、マーラーは単に近代主体を音楽化した作曲家ではない。むしろ彼は、「意識の時代」において形成された主体が、その極限において自己の条件を問い返し始めた地点を代表している。主体は世界を予測し続ける。しかし、その予測が成立するためには、他者との共同世界が維持されていなければならない。

ところが近代において、その共同世界そのものが揺らぎ始める。マーラーの交響曲は、この危機を描写する音楽ではない。むしろ、失われつつある共同世界をなお他者と共有しようとする音楽である。アドルノのいう「ねえ、よく聞いて」という呼びかけ、「絶対的な小説交響曲」という規定、「落伍者に向かって手を差し伸べる音楽」という評価は、いずれもこの構造を異なる角度から捉えたものと理解することができる。その意味で、「意識の音楽」とは、自伝的自己を形式化した音楽であるだけではない。それは、自伝的自己が他者と共同世界を生成しようとして語る、その語りの行為そのものを音楽形式として実現した音楽である。

マーラーは、「意識の時代」が到達した最も自己反省的な主体を代表する作曲家である。マーラーの主体は、共同世界の危機のなかでなお他者へ向かって語り続けるという存在様式をもち、その語り方そのものが交響曲という時間形式のうちに最も明瞭に実現されている。 この意味において、マーラーは「意識の時代」の極限を代表する作曲家なのであり、「意識の音楽」のプロトタイプなのである。

(2026.7.14 公開)

2026年7月7日火曜日

マーラー全交響曲楽章の五度圏重心軌道の分析(2026.7.14 改訂)

 

序論

研究の背景と問い

交響曲という形式は、しばしば単一の楽章を超えた「全体」としての統一性を志向する。しかし、その統一性を支える主体——作品を貫く一貫した音楽的意識、あるいは生成の原理——は、どのような様態で存在しているのか。本研究は、この「交響曲的思考における音楽的主体の存在様式」という問いを、定量的な調的分析を通じて経験的に検証することを目的とする。

対象とするのはグスタフ・マーラーの全交響曲(第1〜10番、および『大地の歌』)である。マーラーは、19世紀的な調性的統一性から距離を取りながら独自の仕方で交響曲という形式と格闘した作曲家であり、その全作品を通じた調的分析は、「調的溶解」という現象が音楽的主体の存在様式に対して持つ意味を検討するための、豊かな素材を提供する。

なお本研究は、マーラーの音楽的主体のあり方を他の作曲家(ペッテション等)と対比的に検討する、より広い研究プロジェクトの一部をなす。しかし本稿では、作曲家間比較に先立ち、まずマーラー単独のコーパスに対象を絞り、分析の粒度そのものが明かす構造的知見に集中して論じる。作曲家間比較は別稿に譲る。

分析の視座

本研究では、MIDIデータから算出される定量的指標を解釈するにあたり、自由エネルギー原理(Free Energy Principle, FEP)における三層構造——生成モデルの安定性(層1)、状態空間における行動パターン(層2)、感覚入力の複雑性(層3)——を援用する。分析手法の技術的詳細は次章(研究手法)に譲り、ここではその理論的な位置づけのみを述べる。この枠組みは、調的な指標が捉えている現象を、単なる音響的特徴の記述としてではなく、音楽的主体が世界(音空間)をどのように予測し、その予測をどこまで維持できているかという観点から読み替えることを可能にする。

この読み替えが可能になるのは、五度圏上の重心が、ある瞬間に「どの調的仮説が最も支持されているか」を近似的に表現していると見なせるためである。ある瞬間に鳴っている音の集合が五度圏の特定の領域に強く偏っていること(重心の半径rが大きいこと)は、その瞬間、特定の調的領域を中心とする一つの調的仮説――言い換えれば一つの生成モデル――が、他の可能性を排して優勢に立っていることに対応する。逆に重心が中心(r≈0)に近づくということは、単一の調的仮説では説明のつかない、複数の調的可能性が拮抗している状態、すなわち生成モデルが特定の仮説にコミットできず、予測の確信度(精度)が低下している状態に対応すると読み替えられる。

同様に、この重心が時間とともにどれだけ・どのように移動するかという軌道の性質は、その生成モデルが自らの仮説をどれだけ、どのように更新し続けているかに対応する。重心の移動が小さく緩やかであれば、既存の調的仮説の範囲内での微修正(局所的な予測誤差の解消)と見なせるが、重心が大きく、あるいは繰り返し遠方へ跳躍するのであれば、それはより根本的な仮説の書き換え――精度の低い予測を維持するコストが、仮説そのものを放棄し新たな生成モデルへ乗り換えるコストを上回った結果としての転換――に相当すると解釈できる。

このように、五度圏上の重心とその軌道という幾何学的に定義された量は、それ自体としては単なる音響的事実の要約にすぎない。しかし、これを「ある行為主体が、自らの置かれた音空間について抱く予測とその確信度が、時間とともにどのように維持され、あるいは崩れていくか」を表す代理指標として読み替えることで、初めてFEPという理論的語彙で意味づけることが可能になる。なお、この読み替えの妥当性そのものは証明された事実ではなく、本研究が採用する解釈的枠組み(作業仮説)である点には留意されたい。


本研究の構成と方法論的特色

本研究の方法論的な特色は、分析粒度を意識的に複数設定し、それらを横断的に比較する点にある。本論では、マーラーの全交響曲を対象に、(A) 全50楽章を個別のデータ点とする最も細かい粒度、(B) 各曲の全楽章を統合した作品単位の粒度、(C) 各曲のHauptsatz(主要楽章)のみを取り出した粒度、という3つの異なる分析単位でPCAとクラスタリングを実施する。同一の音楽内容に対して異なる粒度で分析を行うことで、得られる知見がどの程度分析単位に依存するか、あるいはどの程度粒度を超えて頑健であるかを検証することができる。

この検証は、単なる方法論的な厳密性の確保にとどまらない。音楽的主体そのものが、観測のスケールに応じて異なる相貌を見せる階層的な存在様式を持つという、本研究の理論的主張と直接結びついている。特に(C)については、単なる中間的な分析粒度としてではなく、ソナタ形式という交響曲的思考の構成原理が最も直接的に担われる場を単離した分析として、独自の理論的意義を持つことをあらかじめ述べておきたい。

本論文の構成

続く各章の構成は以下の通りである。第I章「研究手法」では、五度圏重心の算出方法から特徴量の定義、PCA・クラスタリングの設定に至るまでの分析手法を詳述する。続く各節では、上述の3つの分析粒度を通じて得られた結果を順に報告し、末尾でその含意をまとめる。結論部では、得られた知見を統合し、本研究が「交響曲的思考における音楽的主体の存在様式」という問いに対して提示する回答を述べる。

研究手法

五度圏上の重心という考え方

本研究の分析手法の出発点は、ある瞬間(小節)に鳴っている音の集合を、五度圏上の一点として表現するというアイデアである。五度圏とは、Cから始めてG、D、A……と完全五度ずつ音を並べていくと12音すべてを一周する、調的な近さ・遠さを視覚化した円環である。隣り合う音は調的に近く、円環上で対極に位置する音(例えばCとF♯)は調的に遠い。

ある小節に複数の音が同時に鳴っている場合、それらの音を五度圏上の点として配置し、その「重心」(平均的な位置)を計算する。この重心は、その小節がどの調的領域に位置しているかを要約する一種の座標として機能する。曲全体にわたってこの重心を小節ごとに計算し続けることで、楽曲が五度圏上をどのように移動していくかという軌跡が得られる。この軌跡の形状——どのくらい活発に動くか、どのくらい広い範囲を巡るか、特定の領域に留まりがちか——が、本研究における「調的な安定性」あるいは「調的な溶解」を測る基礎データとなる。

円環上での重心計算には、単純な数値(角度やピッチクラス番号)としての平均では扱えない周期性の問題がある。本研究では、各音を最初から五度圏の単位円上の(x, y)座標として表現することで、この問題を回避している。この座標系においては、複数の音の重心は通常の算術平均(x座標の平均・y座標の平均)としてそのまま計算でき、重心からの距離(半径r)が調的な収束度を表す指標として自然に得られる。

サンプリングの単位と対象範囲

分析はMIDIデータから小節単位で行う。各小節の先頭拍(拍頭)で実際に鳴っている音(ピッチクラス)の集合を五度圏上に投影し、重心とその関連量を計算する。小節内部で生じる経過音・倚音・刺繍音等の非和声音、および四六の和音を含む転回形の違いは、この計算には反映されない(転回形はピッチクラス集合として同一であるため、五度圏上の重心も同一の位置になる)。ただし、単一の音や2音のみで構成される小節は、和声的な情報量が乏しく、テクスチュアの薄さそのものが調的指標を歪めるノイズ源となりうるため、3音以上(PC≥3)を含む小節のみを分析対象とするフィルタを適用している。単音・二音の小節が持つテクスチュア上の特徴は、別途Harmonic_Coverage等の指標で捕捉される。

分析対象となる楽章・作品の範囲は、本研究の各セクションで異なる。全50楽章分析((A))では個々の楽章を、作品分析((B)、2-B)では各曲の全楽章を連結したものを、主要楽章分析((C)、2-C)では各曲のHauptsatz(多くは第1楽章。ただしマーラー第5番は第2楽章Stürmisch bewegtを採用)のみを、それぞれサンプリング単位とする。

拍頭サンプリングの妥当性


本研究は、和声音/非和声音の判定という機能和声的な規範的操作を経由しない。小節先頭拍という拍節構造上の一点のみを機械的にサンプリングするのは、作曲慣習上、拍頭が和声的に最も安定した瞬間になりやすいという統計的傾向に依拠している。経過音・倚音・刺繍音の類は、定義上、拍の弱部や非アクセント位置に置かれる頻度が高く、逆に拍頭には和声の支えとなる音が置かれる頻度が高い。この傾向は例外のない規則ではなく確率的な傾向にとどまるため、個々の小節について見れば、拍頭サンプリングが非和声音を拾ってしまう誤差を含みうる。しかし本研究が対象とするのは数百から数千小節に及ぶ集計値であり、この規模においては、こうした誤差はある程度打ち消し合うと考えられる。

したがって本手法が主張できるのは、個々の小節の重心が和声学的に厳密に正確であることではなく、小節単位で一貫した規則に基づき機械的にサンプリングした値を、交響曲全曲・全楽章にわたって同一基準で集計することで、意味のある巨視的パターン(軌道の形状、収束・拡散の推移)が浮かび上がる、という点である。本研究における「調的重心」は、機能和声における調性中心(トニック、和声進行の目的地としての調)とは別の構成概念であり、ある瞬間に拍頭で同時に鳴っているピッチクラスの集合が、五度圏という調的近接性を表現する空間上のどこに位置するかを示す、より即物的で局所的な指標である。機能和声分析が前提とする文脈依存的判断(和声音か非和声音か、いか なる調のいかなる機能か)を一切経由しない分、作曲者の意図的な和声設計とは独立に、音同士の物理的な近接・遠隔関係だけを機械的に積算できるという性質を持つ。


頑健性チェック:全拍サンプリングとの比較


拍頭サンプリングという設計上の選択が結果の頑健性を損なっていないかを検証するため、同一のMIDIデータに対し、各小節の先頭拍のみではなく各拍で実際に鳴っている音を単位とするサンプリング(全拍サンプリング)を別途実施し、(A) 全50楽章、(B) 全11曲、(C) 主要楽章の3粒度それぞれで比較した。

PCA構造の高い保存性

PC1・PC2スコアの相関(PCAの符号不定性を考慮した絶対値)は、いずれの粒度でも高水準を維持した。

粒度

n

PC1相関

PC2相関

(A) 全50楽章

50

|r| = 0.946

r = 0.812

(B) 全11曲

11

r = 0.993

r = 0.983

(C) 主要楽章

11

r = 0.986

r = 0.962

ローディングベクトルのコサイン類似度も同様に高く(PC1:0.984〜0.997、PC2:0.812〜0.986)、9指標が各主成分に寄与する構造そのものはサンプリング単位に依存しないことが確認された。交響曲重心(各曲の楽章重心を作曲順に結んだ軌道)の順位も、11曲中9曲で完全一致し、入れ替わりは隣接する2曲(5番・7番)にとどまった。以上より、本論で報告する分析結果(経年的トレンド、L字型軌道、クラスタ構造等)は、拍頭サンプリングという設計選択に依存する偶発的産物ではなく、より情報量の多いサンプリング単位でも再現される頑健な構造であると判断できる。

Tonal_Focusの系統的低下と拍頭サンプリングの妥当性


一方で、全拍サンプリングへの切り替えにより、いくつかの指標には系統的なシフトが生じた。特にTonal_Focusは全粒度で一貫して13〜17%低下した((A):−15.1%、(B):−13.2%、(C):−16.9%)。 この低下は、単なる測定誤差ではなく、本研究が採用する拍頭サンプリングの理論的前提——「拍頭は和声的に最も安定した瞬間になりやすく、経過音・倚音・刺繍音等の非和声音は拍の弱部に生じる頻度が高い」——を、独立したデータから裏付ける結果として読み替えられる。全拍サンプリングでは、この弱拍上の非和声的な音が新たに分析対象に加わることになり、その結果としてTonal_Focus(r=0近傍への時間比重を捉える指標)が体系的に低下したと考えられる。すなわち、拍頭サンプリングを外すと調的集中度の指標が予測通りに悪化するという事実そのものが、拍頭という選択が和声的に安定した瞬間を選択的に捉えていたことの経験的な裏付けとなっている。 同様の傾向はAvg_Step・Step_Rate_100(約19〜21%低下)にも見られるが、これは全拍サンプリングにより持続和声の区間が新たに「無変化のステップ」として大量にカウントされることによる、サンプリング密度の増加に伴う機械的な希釈効果であり、Tonal_Focusの低下とは異なる性質のシフトである。

Winding_Rate_100の不安定性の再確認


なお、9指標から既に除外しているWinding_Rate_100は、この比較においても他の指標とは異なる挙動を示した。相関は(A)で0.500、(B)で0.564にとどまり、(C)に至っては−0.305と符号が逆転した。これは、この指標がサンプリング単位の変更に対して極めて脆弱であることを独立に裏付けており、当該指標を9指標から除外した判断の妥当性を補強する。

結論


以上の頑健性チェックの結果を踏まえ、本論で報告する全ての分析は拍頭サンプリングに基づく結果を採用する。全拍サンプリングは、拍頭サンプリングの妥当性を検証する補助的な比較対象として用いるにとどめ、報告対象の指標セットとしては採用しない。

他の調的空間モデルとの関係


五度圏重心という設計は、理論的な比較検討のみから最初に選ばれたものではなく、実際に他の2つのアプローチを試みたうえで、それぞれに固有の理由で退けた結果として採用されたものである。

第一に、クラムハンスル=シュムックラー(K-S)の調的階層モデルによる調性推定を、全50楽章に対して実際に行い、結果を公開している(「MIDIファイルを入力とした分析の準備(2):クラムハンスルの『調的階層』を用いた調性推定と和音のラベリング」)。この方法は各時点について24の調(長調12・短調12)それぞれに対する尤度を与える。ここで得られる出力は24次元の尤度ベクトルであり、これをそのまま一本の連続的な軌道として扱うことはできない。最尤の調を選んで時系列を構成することは可能だが、これは複数の調に対する尤度が拮抗している「調的に曖昧な」瞬間について、その曖昧さの度合いを消去して単一のラベルを強制的に割り当てることを意味する。本研究が捉えようとする調的溶解——複数の調的可能性の間で重心が定まらなくなっていく過程——を、K-Sのカテゴリカルな出力形式は原理的に表現しにくい。

第二に、三度関係(長三度・短三度の隣接性)を五度関係と同時に組み込む、Chewのスパイラル・アレイのようなモデルも検討した。三度関係がロマン派の和声、とりわけマーラーにおいて重要な役割を果たすことは認識しているが、この方向は採用しなかった。三度関係を空間の構成要素として明示的に組み込むことは、それ自体が「三度関係は音楽的に重要である」という音楽理論的主張を空間の定義に埋め込むことになり、機能和声とは異なるが、それによく似た理論的バイアスを持ち込むことになると判断したためである。本研究が最終的に目指すのは、マーラー後期からペッテションに至るまでを同一の枠組みで扱うことであり、古典的な三度堆積の和声語法自体が前提として成立しにくい書法(ペッテション)に対しては、三度関係を軸の一つとして組み込んだ空間は適合しない危険がある。

五度圏重心は、この2つの試行を経たうえで採用された、単一の関係軸のみを用いる最も単純な幾何学的写像である。この単純さは、より精緻な方法を知らなかった結果ではなく、複数作曲家を横断する連続的な調的溶解の軌道を、理論負荷を最小化した形で追跡するという目的に照らして、消去法的に選択された設計である。

9つの基本特徴量


各分析単位(楽章または作品)について、以下の9つの指標を算出する。これらはいずれも、小節ごとの重心座標という一次データ(軌道)を、平均・標準偏差・角度差の平均といった形に要約した二次的な統計量である。これらは軌道の「形状の特徴」を数値化したものであり、軌道そのもの――すなわち、どの小節で、どの方向に、どれだけ急激に重心が動いたかという時間発展の具体的な経路――を保持していない。

9次元のベクトルに要約することで、初めて楽章間・作品間・作曲家間でのPCA・クラスタリングといった比較統計の手法を適用できるようになる。裏を返せば、この要約の過程で、作品内部の急激な転換点がどこにあるかといった、カタストロフィー理論的に興味深い情報は失われる。この点は本研究の限界としても後述するが、軌道内部の時間発展そのものへのカタストロフィー分析(急激な遷移点の検出等)は、追加のデータ収集なしに着手できる今後の課題として位置づけられる。

ここで選択された9つの統計量は、軌道の要約統計量として一般的なもの(平均・分散・変化量の平均等)を機械的に採用したものではなく、前述のFEP三層構造という理論的な問いに対応させる形で、各層に最低3つずつ、意味の異なる統計量を配置している。以下、個別に、なぜこの統計量がこの目的に資するのかを説明する。

層1:生成モデルの安定性(その曲は、自らの調的仮説にどれだけ確信を持ち続けているか)
  • Avg_r(平均重心半径):全小節を通じた重心半径の平均。生成モデルが平均してどれだけ強くコミットした予測(=特定の調的領域)を維持しているかの、いわば「デフォルトの確信度」に対応する。

  • SD_r(重心半径の標準偏差):Avg_rが曲内でどれだけ揺れ動くか。これはAvg_rだけでは捉えられない情報である。同じAvg_rでも、終始一定の確信度を保つ曲と、確信に満ちた瞬間と崩れた瞬間が交互に訪れる曲とは、FEP的には全く異なる主体のあり方を意味する。SD_rはこの一貫性そのものを測る。

  • Tonal_Focus(調的集中度):Avg_r・SD_r的な情報を統合したうえで、r=0近傍(無調的に近い状態)にどれだけの時間比重が割かれているかを重み付けした総合指標である。平均値だけでは希釈されてしまう「特に拡散した瞬間の存在」を強調的に捉える設計になっており、層1の代表的単一スカラーとして機能する。

層2:状態空間における行動パターン(重心はどう動き回るか)

  • Avg_Step(平均ステップ幅):隣接小節間の重心移動角度の平均。FEP的には、一歩ごとにどれだけ予測を更新しているかに対応する。値が大きいほど、調的な文脈の書き換えが頻繁であることを意味する。

  • Step_Rate_100(100小節あたりステップ量):Avg_Stepの曲長正規化版である。マーラーの交響曲は第1番と第3番のように長さが数倍異なるため、正規化を行わないと総移動量が単に曲の長さに比例してしまい、作品固有の「動きの烈しさ」ではなく単なる長さの効果を測ることになる。この正規化は、作品間比較を可能にするための必須の設計である。

  • Spatial_Dispersion(空間分散度):重心が実際に訪れた領域の広がり(分散)。Avg_Stepとは独立の情報である。せわしなく動くが同じ狭い範囲を往復する動きと、歩幅は緩やかだが遠くの領域まで探索する動きは、Avg_Stepの値としては似通いうるが、Spatial_Dispersionはこの違いを弁別する。FEP的には、前者は局所的な予測誤差の微修正、後者はより根本的な生成モデルの書き換え(遠い調的仮説への飛躍)に対応すると解釈できる。

層3:感覚入力の複雑性(拍頭で実際に何が鳴っているか)

  • PC_Density(ピッチクラス密度):拍頭で同時に鳴っているピッチクラス数の平均。瞬間ごとの感覚入力そのものの複雑さを表す、最も直接的な指標である。

  • Texture_Volatility(テクスチュア揺らぎ):PC_Densityが小節ごとにどれだけ変動するか。同じ平均密度でも、常に一定の厚みで鳴り続ける曲と、薄い瞬間と厚い瞬間が激しく交代する曲とでは、感覚入力として与えられる「驚き」の量が異なる。これはPC_Densityの平均だけでは失われる情報である。

  • Harmonic_Coverage(和声被覆率):曲全体を通じて、五度圏上のどれだけの範囲が実際に使用されたか。PC_Densityが瞬間の厚みであるのに対し、Harmonic_Coverageは曲全体を通じた探索範囲の広さであり、時間スケールが異なる。局所的には薄いテクスチュアの曲でも、全曲を通じて五度圏の広い範囲を巡っていれば、この値は高くなる。


まとめると、9指標は「平均・分散・広がり」という統計的操作を無差別に適用したものではなく、各層について「平均的な水準」「その水準の一貫性」「探索・変動の広がり」という異なる情報を最低限セットで揃えるという設計方針のもとに選ばれている。これにより、同じ平均値を持つ2曲でも、変動の仕方や探索範囲の違いによって、PCA空間上では異なる位置に配置されうるという分解能が確保されている。

なお、これらとは別にWinding_Rate_100(五度圏上での回転方向を考慮した累積移動量)という補助指標も算出しているが、複数楽章を連結した際に楽章境界での人為的な接続が値を歪めやすいという性質があるため、PCA本体には含めず、補足的な検証にのみ使用している。

9指標の冗長性・寄与度に関する追加検証

Winding_Rate_100の除外判断が妥当であったことを踏まえ、現行の9指標についても、寄与度が低い、ないし他指標と冗長な指標が存在しないかを別途検証した。全拍サンプリングとの比較で得られたローディングの角度安定性・他指標との相関・PCA構造への寄与という3つの診断軸により、SD_r・Spatial_Dispersion・PC_Density・Texture_Volatilityの4指標を除外候補の初期スクリーニング対象として抽出した。

初期スクリーニングの結果

ローディングベクトルの角度(PC1軸寄りかPC2軸寄りか)が分析条件(サンプリング単位・粒度)間でどれだけ安定しているかを見ると、Spatial_Dispersionが最も不安定であり(角度の標準偏差36.9°、PC1との相関の符号が分析条件によって反転する)、SD_rがこれに次いだ(22.3°)。一方、他の8指標との相関を見ると、SD_rはAvg_r(|r|=0.74〜0.80)・Tonal_Focus(|r|=0.61〜0.74)・Avg_Step/Step_Rate_100(|r|=0.56〜0.62)と高く相関しており、既存指標と情報が重複している可能性が示唆された。対照的にSpatial_Dispersionは他のどの指標とも弱い相関(|r|≤0.52)しか持たず、冗長性ではなく信号の弱さが問題である可能性が高いと判断された。9指標から1指標を除いて主成分分析をやり直したところ、SD_rを除いてもPC1・PC2スコアは6分析全てでほとんど変化しなかった(PC2相関の平均0.987)のに対し、Texture_Volatilityの除外は特に主要楽章分析((C))でPC2構造を大きく損なった(相関0.46〜0.67)。この時点までの結果は、SD_rが最有力の除外候補であることを示唆していた。

ブートストラップ安定性分析による追加検証

しかし、この結論はPC1・PC2という2次元へ射影した後の構造にのみ基づくものであり、実際のクラスタリングは標準化された9次元(またはそれぞれの8次元)空間全体を用いて行われる。そこで、全50楽章データを用い、各候補指標を除いた8指標セットについて、既存の9指標セットと同一の手順(200回のリサンプリングによるブートストラップ安定性分析)でk=3の安定性を再計算した。


除外した指標

k=3 平均ARI

frac(ARI>0.75)

baselineとの差

(baseline・9指標)

0.699

52%

SD_r

0.608

18%

−0.091(最も悪化)

Spatial_Dispersion

0.675

43%

−0.024(やや悪化)

Texture_Volatility

0.733

54%

+0.034(微改善)

PC_Density

0.745

63%

+0.046(改善)


結果、SD_rを除いた場合にk=3の安定性が最も大きく悪化することが明らかになった(平均ARI:0.699→0.608、frac(ARI>0.75):52%→18%)。9指標によるk=3クラスタリングとSD_r除外後の8指標によるk=3クラスタリングを直接比較すると、両者の一致度はARI=0.784にとどまり、全50楽章中4楽章(Mahler_Sym01-4、Mahler_Sym03-2、Mahler_Sym03-3、Mahler_Sym04-1。いずれも初期〜中期のマーラー楽章)が異なるクラスタへ再配置された。Spatial_Dispersionの除外も同様にk=3の安定性をわずかに悪化させた(0.699→0.675)。対照的に、PC_DensityおよびTexture_Volatilityの除外はk=3の安定性をむしろ改善した。

結論:PCA的な冗長性とクラスタリング上の寄与度は必ずしも一致しない


SD_rは、PC1・PC2という2次元の連続的構造に対しては他指標と重複した情報しか提供していないように見えたが、9次元(8次元)空間全体を用いる離散的なクラスタリング構造に対しては、無視できない固有の寄与を果たしていることが判明した。これは、相関の高さのみに基づいて指標の冗長性を判断することの危うさを示す一例であり、Winding_Rate_100のように「除外を正当化できる明確な指標」は、現行9指標の中には見出されなかった。Spatial_Dispersionについても、ローディングの不安定性は確認されるものの、他指標との相関の低さ(=独自の情報を持つこと)およびk=3安定性への悪化という2つの独立した根拠が、除外に対して慎重であるべきことを支持している。 以上より、本研究では現行の9指標セットをそのまま維持する。この検証結果自体は、「相関構造に基づく指標の一見した冗長性」と「クラスタリングという離散的な分類課題における実際の寄与度」とが乖離しうるという方法論的知見として、それ自体価値を持つと判断する。

PCAとクラスタリングの設定


上記9指標(またはその一部)を標準化したうえで、主成分分析(PCA)により2次元(PC1・PC2)に圧縮する。PC1・PC2の意味づけ(何が「正」で何が「負」を意味するか)は、分析対象となるデータセットの構成によって変わりうる。これはPCAという手法自体の性質——主成分の向きは統計的に決まるが、正負の符号は数学的に恣意的である——によるものであり、本研究では各分析セクションの冒頭で、その都度、負荷量(各指標がPC1・PC2にどの程度・どの方向に寄与しているか)を明示することで、符号の意味を確定させている。

作品・楽章のグルーピングには、PC1・PC2平面上でのk-meansクラスタリングを用いる。クラスタ数kは、対象とする作品群の理論的に想定される区分数(作品レベル分析では主にk=4)に基づいて設定することを基本とするが、全50楽章分析((A))については、後述するブートストラップ安定性分析の結果に基づき、k=3を採用している。

統計的検定


作曲年代とPCスコアとの関係は、Pearsonの積率相関係数(線形関係の強さ)とSpearmanの順位相関係数(単調関係の強さ、外れ値や非線形性に頑健)の両方を算出し、併記する。有意水準は特に断りのない限り5%とする。

1. 主要楽章分析(C)

図1:主要楽章の五度圏和音重心軌道のPCAプロット:作曲年代順に有向線分を追加


符号規約に関する注記

本データセットの負荷量は、Avg_Step = +1.015、Step_Rate_100 = +1.015、Avg_r = −0.965、Tonal_Focus = −0.657であり、正のPC1=調的溶解(拡散)、負のPC1=調的安定を意味する。後述する(A)(全50楽章)とは同じ符号方向だが、(B)(全11曲・作品レベル)とは逆になる。複数の分析を通じて参照する際は、その都度この符号方向を確認する必要がある。

手法

各交響曲のHauptsatz(主要楽章、原則として第1楽章。ただし第5番は第2楽章Stürmisch bewegtを採用)を1データ点として、統一9指標セットに基づくPCAを実施した。作品横断比較のための可比性を確保する目的で、従来より用いられてきた分析枠組みである。

PC1:作曲年代との相関

PC1は交響曲番号(作曲順)に対して有意な正の相関を示した(Pearson r = 0.764, p = 0.0062; Spearman ρ = 0.727, p = 0.0112)。この相関強度は、後述する全50楽章分析(ρ = 0.550)と全11曲・作品レベル分析(|ρ| = 0.936)の中間に位置する。すなわち3つの分析粒度を相関強度で並べると、**楽章単位(最弱)<主要楽章単位(中間)<作品単位(最強)**という明確な序列が確認される。これは、分析単位が粗くなるほど楽章内・楽章間の局所的変動が平均化され、経年的な調的溶解トレンドがより明瞭に浮かび上がることを示している(詳細は後述の(A)・(B)を参照)。

PC2:線形相関はないが山型構造を検出

PC2は年代との線形相関を持たない(Pearson r = 0.235, p = 0.486; Spearman ρ = 0.145, p = 0.670)。ただし、線形ではなく二次関数によるフィットを試みると、説明力は大きく改善する(線形回帰R² = 0.055に対し、二次回帰R² = 0.517)。二次曲線の頂点は交響曲番号5.9付近に位置し、中期作品でPC2が最大値をとる山型の軌道を描く。前半区間(第1番→第8番付近)ではPC2が年代と強く有意な正の相関を示す一方(r = 0.855, p = 0.003)、後半区間では負に転じる。この二次曲線としての説明力(R²=0.517)は、後述する(A)(全楽章重心、R²=0.493)や(B)(作品レベル、R²=0.135)と比較しても最も高く、主要楽章の水準においてこそ、山型・屈曲構造がもっとも明瞭に現れることを示している(この粒度間比較の詳細は(A)で論じる)。負荷量を見るとHarmonic_Coverageが支配的(+0.984)であり、Texture_Volatilityが強く負に寄与する(−0.758)。編成・声楽の有無に紐づく和声的密度(層3)を反映する軸という解釈は、後述する(B)の分析とも共通する。

k=4クラスタリング


図2:主要楽章の五度圏和音重心軌道のPCAプロットのk-meansクラスタリング(k=4)結果

クラスタ

作品

PC1平均

PC2平均





1

Sym1, Sym2, Sym3

−2.420

−1.215

0

Sym5, Sym6, Sym7

+1.475

+0.990

2

Sym4, Sym8, 大地の歌

−0.919

+1.235

3

Sym9, Sym10

+2.796

−1.513

後期群(9・10番)が独立クラスタを形成する点は、後述する(A)・(B)の分析でも共通して観察される特徴である(詳細な比較は第1部まとめで行う)。主要楽章分析に特徴的なのは中期・初期の内訳であり、

4番の主要楽章が8番・大地の歌と同じクラスタに合流する点、および5・6・7番の主要楽章が一つのクラスタにまとまる点である。

この構成は、4番の主要楽章(第1楽章)が持つ性格——牧歌的でありながら8番・大地の歌に通じる特有の和声的手触り(高いHarmonic_Coverage方向のPC2値、+0.874)——を反映している。同様に、5・6・7番の主要楽章はいずれもPC2が正の高めの値(0.10〜1.57)で近接しており、単一楽章単位では「中期の力強い高密度和声」という共通性がまとまりやすい。

解釈

主要楽章分析は、単なる中間的な粒度として理解されるべきではない。Hauptsatzは交響曲的思考の構成原理であるソナタ形式——提示・展開・再現という弁証法的プロセス——が直接に担われる場であり、マーラーにおいてはこの原理の継承と同時に、その独自の構造的変容(主題群の拡張、展開部の異形化、再現の非定型化等)が最も集中的に刻印される楽章でもある。したがって(C)が捉えているのは、単なる「代表サンプル」ではなく、音楽的主体が形式原理そのものと直接対峙する場における調的溶解の様態である。

この観点から見ると、4番の主要楽章が8番・大地の歌と同じクラスタに合流するという現象は、単なる偶然の変動ではなく、より積極的な意味を持つ。4番の第1楽章は、ソナタ形式を保持しながらもその内部で牧歌的・室内楽的な音響世界を展開しており、この構造的変容の質が、同じくソナタ原理からの逸脱を特徴とする8番第1楽章(讃歌形式との融合)や大地の歌第1楽章と共鳴していると解釈できる。同様に5・6・7番の主要楽章が一つのクラスタにまとまる現象は、この時期のHauptsatzが共有する、力強く拡張されたソナタ的構築性(層1・2的な安定性を保ちながら層3的密度を高める構造)を反映していると考えられる。

すなわち(C)が明らかにするのは、個々の交響曲がソナタ形式という共有原理をどう変容させたかという、局所的だが理論的に重要な問いへの回答である。この主要楽章の水準で捉えられる「主体が形式原理と対峙する瞬間における状態」が、後述する作品全体の分析((B))が示す「作品全体の総和としての音楽的主体の状態」とどう異なり、あるいは一致するかは、両分析を経たのちに第1部まとめで改めて検討する。

2. 全50楽章分析(A)

図3:全交響曲50楽章の五度圏和音重心軌道のPCAプロット:曲毎に色分けして曲毎のPCA座標重心(×)を中心とした楕円で領域を示す。各曲内は楽章順序を有効線分で示した

符号規約に関する注記

本データセットの負荷量は、Avg_r = −0.854、Avg_Step = +0.882、Tonal_Focus = −0.831であり、正のPC1=調的溶解(拡散)、負のPC1=調的安定を意味する。これは既報の全11曲・作品レベル分析(正のPC1=調的安定)とは符号が逆であり、両者を並べて参照する際は注意を要する。符号自体は主成分分析に伴う恣意的な向きの問題であり、値の相対関係のみが意味を持つ。

手法

マーラー全交響曲(第1〜10番)および『大地の歌』の全50楽章を個別のデータ点として扱い、統一9指標セットに基づくPCAを実施した。

また、このPCAで得られた各楽章のPC1・PC2座標について、交響曲ごとに単純平均を取ることで、各交響曲の「楽章重心」を算出した。これはPCAを交響曲単位で改めて実施したものではなく、全50楽章分析で得られた座標をそのまま交響曲ごとに集約したものであり、既述のC(主要楽章単位)および後述のB(作品全体を連結した指標に基づく独自のPCA)とは異なる第三の交響曲レベル表現として、両者との比較に用いる。

3種類の「交響曲レベル」座標を比較すると以下のように特徴づけがされる。



A楽章重心

B作品レベル

C主要楽章

算出方法

50楽章版PCA空間で各曲の楽章を単純平均

全楽章を連結した軌跡から作品ごとに指標を算出し独自にPCA

主要楽章(Hauptsatz)のみの指標から独自にPCA

楽章の長さ・内部変化

捨象される(ご指摘の通り)

反映される(連結軌跡の重み)

反映されない(単一楽章のみ)

以下にA.各交響曲毎の楽章重心の軌道を示す。50楽章版PCA空間で各曲の楽章を単純平均した座標を、作曲年代順に矢印付きの線分で結んで軌道を示したものである。

図4:各交響曲毎の楽章重心の軌道。50楽章版PCA空間で各曲の楽章重心を単純平均した座標を、作曲年代順に矢印付きの線分で結んだ。


PC1:作曲年代との相関

PC1は交響曲番号(作曲順)に対して統計的に有意な正の相関を示した(Pearson r = 0.521, p = 0.0001; Spearman ρ = 0.550, p < 0.0001)。個々の楽章という最も細かい分析粒度においても、調的溶解が経年的に進行するという中心的知見が再現された。ただし相関の強度は、後述する作品レベル分析(|ρ| = 0.936)と比較すると明確に弱く、楽章単位でのばらつき(同一交響曲内での楽章間variance)が年代トレンドに対するノイズとして作用していることを示している。

PC2:山型パターンと軌道の屈曲構造——粒度による現れ方の違い

PC2は交響曲番号に対する線形相関を持たない(Pearson r = 0.042, p = 0.77)が、二次関数によるフィットでは説明力が改善する(線形回帰R² = 0.002に対し、二次回帰R² = 0.135)。二次曲線の頂点は交響曲番号5.7付近に位置し、第5〜6番あたりでPC2が最大値をとる緩やかな山型傾向が確認される。ただしR²=0.135と説明力自体は限定的であり、単純な二次曲線としての「山」はこの粒度では弱い近似にとどまる。

この挙動をより精緻に捉えるため、各曲の全楽章重心(PC1・PC2平均値)を作曲順に結んだ軌道を検討した。この軌道は単純な一峰性の「山」ではなく、第8番(または大地の歌)を屈曲点とするL字型(鉤型)の構造として記述する方が実態に近い。

前半区間(第1番→第8番):PC1・PC2がともに年代と有意な正の相関を示す(PC1: r = 0.701, p = 0.035;PC2: r = 0.714, p = 0.031)。すなわちこの区間では両軸が同時に・同方向に伸びる対角線的上昇軌道を描く。

後半区間(第8番→第10番):PC2は年代と強く有意な負の相関に転じる(r = −0.986, p = 0.014)一方、PC1は上昇を継続する。

ただし、このL字型構造の明瞭さは分析粒度によって大きく異なる。 同一の分析(前半区間・後半区間への分割、およびPC2の二次曲線フィット)を、後述する(B)(作品レベル、全楽章連結)および(C)で既に確認した主要楽章単位の座標系列に対しても適用し、三者を比較した。

L字型パターン比較


早期区間の傾き

(PC1, PC2)

後期区間の傾き

(PC1, PC2)

PC2の二次曲線R²

B(作品レベル)

r=0.792, r=0.479(非有意, p=0.19)

r=0.847, r=−0.889

0.135(最弱)

A(楽章重心)

r=0.702, r=0.704(p=0.034)

r=0.728, r=−0.994

0.493(中間)

C(主要楽章)

r=0.620, r=0.855(p=0.003

r=0.917, r=−0.785

0.517(最強)

比較の結果、L字型の屈曲は(C)のデータにおいて最も明瞭に現れることが分かった。(C)では前半区間のPC2上昇が強く有意(r = 0.855, p = 0.003)であり、PC2の二次曲線R²も0.517と全楽章重心(0.493)を上回る。これに対し(B)(作品レベル)ではこの構造はほとんど確認できない。前半区間のPC2上昇は有意水準に届かず(r = 0.479, p = 0.192)、二次曲線R²も0.135にとどまる。全楽章重心(本節で扱うデータ)は両者のちょうど中間に位置する。

数値で示すと、前半区間のPC2上昇は(B)(作品レベル)でr=0.479(p=0.192、非有意)、(A)(全楽章重心)でr=0.704(p=0.034)、(C)(主要楽章)でr=0.855(p=0.003)となり、PC2の二次曲線R²も(B)で0.135、(A)で0.493、(C)で0.517と、この順に強くなる。

この結果は、L字型の屈曲構造が「全楽章重心」という本節の分析に固有の発見ではなく、むしろHauptsatz(主要楽章)の軌道においてこそ最も純粋な形で現れる現象であることを示している。主要楽章は交響曲の構成原理であるソナタ形式が直接担われる場であるため((C)で論じた通り)、中期までの調的溶解と和声的密度の同時進行、および晩期における前者への収斂というダイナミクスが、他の楽章による希釈を受けずに最も鮮明に刻まれると考えられる。逆に作品全体を連結する(B)では、緩徐楽章・スケルツォ・声楽楽章等、Hauptsatz以外の多様な楽章がこの構造を平均化・希釈してしまうために、屈曲がほとんど検出されなくなると解釈できる。全楽章の単純平均である(A)(本節)は、両者の中間的な希釈度を示すものとして位置づけられる。

解釈

このL字型の屈曲は、単なる「中期のピーク」という記述以上の構造的意味を持つ。前半区間(第1〜8番)では、調的溶解の萌芽(PC1的成分)と和声的密度・空間分散の増大(PC2的成分)が分かちがたく同時進行する。これに対し後半区間(第8番以降)では、PC2的な変動が反転・収束し、専らPC1軸が示す調的溶解へと収斂していく。すなわち、中期までの「多面的な質的変化」が、晩期にかけて「単一軸(調的溶解)への純化」へと移行するという二段階の発展様式が、作品重心の軌道から読み取れる。

この屈曲点が大編成・声楽作品(第8番、大地の歌)の前後に位置することも注目に値する。声楽・大編成という外的な精度管理(層3)が前景化する局面を境に、その後は生成モデル自体の安定性(層1)の劣化が支配的になっていく、というFEP的三層構造の観点からの読み替えが可能である。

さらに、この屈曲構造がHauptsatz単位((C))で最も明瞭に現れ、作品全体((B))ではほとんど消失するという粒度依存性は、それ自体が独立した知見である。ソナタ形式の弁証法的プロセス(提示・展開・再現)を直接担う主要楽章こそが、マーラーの様式変遷という大きな時間軸上の力学を最も純粋に映し出す場であり、その他の楽章(緩徐楽章・スケルツォ・声楽楽章等)は、それぞれ独自の局所的な変動要因を持ち込むことで、この大局的なパターンを希釈する方向に働くと考えられる。

クラスタ数の選択:ブートストラップ安定性分析

全50楽章を対象としたクラスタリングでは、k-means自体は任意のkについて解を返すため、採用するkの妥当性を別途検証する必要がある。ここでは、統一9指標(標準化済み)を直接用いたk-meansについて、k=2〜5の範囲でブートストラップ安定性分析(200回のリサンプリングによる再クラスタリングと、元のクラスタリング結果とのAdjusted Rand Index [ARI] による一致度評価)を実施した。

k

平均ARI

中央値ARI

シルエット係数

2

0.811

0.919

0.316

3

0.699

0.768

0.194

4

0.615

0.626

0.198

5

0.514

0.525

0.190

結果、kが増えるほど安定性は単調に低下した(平均ARI:k=2で0.811、k=3で0.699、k=4で0.615、k=5で0.514)。特にk=3からk=4にかけて、ARIが0.75を超える試行の割合が52%から16%へと急落しており、k=4への分割はk=3と比較して明らかに不安定である。

さらに、k=3とk=4のクラスタを直接比較すると、完全な入れ子構造が確認された。k=4における4クラスタのうち2つ(安定群・中庸群)はk=3の対応するクラスタとそれぞれ完全に一致し(各14件・17件)、残る1つのk=3クラスタ(n=19、調的に最も溶解した楽章群)が、k=4ではさらに2つのサブクラスタ(n=6, n=13)に分割されるという関係にある。すなわちk=4は、k=3が示す「安定・中庸・溶解」という3類型のうち、溶解群のみをさらに細分化したものであり、この細分化がブートストラップ下で不安定であることは、この細分化自体がデータに内在する頑健な構造というよりk-meansアルゴリズムが強制的に導入する境界である可能性を示唆する。以上を踏まえ、本節ではk=3によるクラスタリングを主たる分析として採用する。なお、この不安定性は理論上の推定にとどまらない。実際に、PC1・PC2平面上でのk=4クラスタリングを異なる乱数シードで独立に実行した結果を比較したところ、両者のAdjusted Rand Indexは0.551にとどまり、ブートストラップ分析が示す不安定性の水準(平均ARI 0.615)と符合する。安定群・溶解群といったクラスタの核となる楽章は両実行で共通する一方、境界付近に位置する楽章(例えば第2番第4楽章、第4番第4楽章、第5番第5楽章、第1番終楽章、第9番第4楽章等)は実行ごとに異なるクラスタへ配属されており、k=4の境界設定が初期値に依存して揺れ動くことが独立に確認された。

k-meansクラスタリング(k=3):否定的知見


図5:全50楽章の五度圏和音重心軌道のPCAプロットのk-meansクラスタリング(k=3)

全50楽章を対象にk=3でのクラスタリングを実施したところ、データ駆動的に得られたクラスタ(3群、所属数19/17/14)は、想定される楽章タイプ区分を回復しなかった。

区分の設定としては以下のものを用いた。

交響曲

楽章1

楽章2

楽章3

楽章4

楽章5

楽章6

第1番

sonata

scherzo

slow

finale



第2番

sonata

slow

scherzo

vocal_slow

finale


第3番

sonata

dance

scherzo

vocal_slow

vocal_scherzo

slow

第4番

sonata

scherzo

slow

vocal_slow



第5番

slow

sonata

scherzo

slow

finale


第6番

sonata

slow

scherzo

finale



第7番

sonata

slow

scherzo

slow

finale


第8番

vocal_hymn

vocal_dramatic





第9番

sonata

dance

scherzo

slow



第10番

slow

scherzo

slow

scherzo

finale


大地の歌

vocal_dance

vocal_slow

vocal_scherzo

vocal_scherzo

vocal_dance

vocal_slow

カテゴリの意味
  • sonata:ソナタ形式の主要楽章(多くは第1楽章)

  • scherzo:スケルツォ・レントラー系の舞曲的楽章

  • dance:スケルツォに準ずるが、より直接的に舞曲的性格を持つ楽章(第3番第2楽章のメヌエット風、第9番第2楽章のレントラー+等)

  • slow:緩徐楽章(アダージョ・アンダンテ等、器楽のみ)

  • finale:大規模な終楽章(器楽的なもの)

  • vocal_slow:緩徐的性格を持つ声楽楽章

  • vocal_scherzo:スケルツォ的・諧謔的性格を持つ声楽楽章

  • vocal_dance:舞曲的性格を持つ声楽楽章

  • vocal_hymn:讃歌的性格を持つ声楽楽章(第8番第1楽章のみ)

  • vocal_dramatic:劇的・多部構成的な声楽楽章(第8番第2楽章のみ)

声楽楽章(第2番第5楽章、第3番第4・5楽章、第4番第4楽章、第8番両楽章、『大地の歌』全6楽章、計12楽章)は、3クラスタに5・4・3という形でほぼ均等に分散しており、特定のクラスタへの集中は見られない。

各曲第1楽章(10楽章)も同様に3クラスタに1・4・6と分散しており、明確な「第1楽章クラスタ」は形成されない。

各曲最終楽章(11楽章)は3クラスタに3・5・3とほぼ均等に分布し、形式的機能による集約は認められない。

なお、この3クラスタは統一9指標のうちAvg_r・Tonal_Focus・Avg_Stepの水準によって明確に序列化されており、調的安定群(n=14、Avg_r最大・Tonal_Focus最大・Avg_Step最小)、中庸群(n=17、いずれも中間的水準)、調的溶解群(n=19、Avg_r最小・Tonal_Focus最小・Avg_Step最大)という、PC1軸に沿った単一の連続的傾向に対応する3類型として解釈できる。

解釈

この否定的知見は、当初の想定に反する結果ではあるが、実質的な知見として積極的に読み替えられる。すなわち、ある楽章がどの程度調的に溶解しているかは、その楽章が交響曲内でどのような形式的役割(第1楽章、フィナーレ、声楽楽章等)を担っているかによっては予測できない。PC1軸が表す調的溶解の進行は、楽章の機能的分類を横断して作動する、より上位の要因——作曲時期に紐づく生成モデルの経年的変化——によって規定されていると考えられる。上記の3クラスタが安定・中庸・溶解というPC1軸上の単純な序列に対応することは、この解釈をさらに裏付けている。

この知見は、(B)で示す作品レベル分析における肯定的なクラスタリング結果(年代・編成タイプの回復)と鋭い対比をなす。この対比の理論的意味づけについては、第1部まとめで改めて論じる。

なお、k=4によって溶解群がさらに2分割される境界(和声的密度あるいはテクスチュア揺らぎの大小に沿った分割で、用いる指標セットや初期値によって境界の位置が変動する)についても、探索的な副次的知見として付言しておく。

図6:全50楽章の五度圏和音重心軌道のPCAプロットのk-meansクラスタリング(k=4)

この分割は前述の通りブートストラップ下で不安定であり、一次的な結論としては採用しないが、「調的溶解」という単一の現象が、疎で揺らぎの大きい崩壊と、密で持続的な高揚という異なる質を伴いうることを示唆しており、今後さらに大きなコーパスで検証する価値のある方向である。この示唆を裏づける一例として、PC1・PC2ベースの独立したk=4実行(前述の安定性検証で言及したもの)における最も疎な楽章群(PC2最小)は第10番第1楽章、第7番第3楽章、大地の歌終曲「告別」であり、いずれも透明で疎な管弦楽書法で知られる楽章である。一方、最も密な楽章群(PC2最大)は大地の歌第5楽章「春に酔える者」、第6番第3・4楽章、第8番の両楽章であり、和声的に密度の高い書法で知られる楽章が並ぶ。実行ごとに境界は変動するものの、両極に位置する楽章の音楽的性格は、疎密という軸の解釈と方向性において一貫している。

交響曲重心のクラスタリング:中間的性質の確認

最後に交響曲毎に含まれる楽章の座標の単純平均により重心を求めて、交響曲毎の重心についてPCAを実施した結果について、k=4のクラスタリングを行った結果を示す。

図7:50楽章版PCA空間で各曲の楽章重心を単純平均した、各交響曲毎の楽章重心のk-meansクラスタリング結果(k=4)


クラスタ

作品

PC1平均

PC2平均

0

Sym2, Sym4, 大地の歌

−0.769

+0.266

1

Sym5,Sym6, Sym7,Sym8

+0.647

+0.529

2

Sym1, Sym3,

−1.928

-0.449

3

Sym9, Sym10

+2.209

−0.579



得られたクラスタは、クラスタ2(第1番・第3番)、クラスタ0(第2番・第4番・大地の歌)、クラスタ1(第5・6・7・8番)、クラスタ3(第9・10番)という4群であった。後期群(第9・10番)が独立クラスタを形成する点は1-B・1-Cと共通するが、初期・中期の内訳は両者のいずれとも異なる。

この楽章重心クラスタと1-B・1-Cそれぞれのクラスタとの一致度をAdjusted Rand Index(ARI)で確認すると、1-Bとの一致度は0.318、1-Cとの一致度は0.471であり、1-Cとの方がより近いが、いずれとも完全には一致しない。特に第1番・第3番のみが単独クラスタとしてまとまる一方、1-Cでは同じクラスタに含まれていた第2番がここでは離脱し、代わりに第4番・大地の歌と合流する点が特徴的である。

この結果は、楽章重心という表現が、単一楽章(1-C)の性格をそのまま保持するのでも、全楽章連結(1-B)の性格に一致するのでもない、両者の中間に位置する独自の集約単位であることを裏付けている。楽章の長さや内部変化の大きさを捨象した単純平均であるがゆえに、1-Cが持つ「代表楽章の際立った個性」も、1-Bが持つ「楽章間の異質性を積算した効果」も部分的にしか反映されず、結果として両者のどちらのクラスタ構造も完全には再現しない、中間的な布置を示すと考えられる。

3. 全11曲(作品)分析(B)


図8:全交響曲11曲の各曲の全楽章を統合した五度圏和音重心軌道のPCAプロット

符号規約に関する注記

本データセットの負荷量は、Avg_r = +0.947、Tonal_Focus = +0.913、Avg_Step = −0.904、Step_Rate_100 = −0.904、Texture_Volatility = −0.706であり、正のPC1=調的安定性(重心半径大・調的集中度高・ステップ幅小)、負のPC1=調的拡散・溶解を意味する。これは(A)(全50楽章分析)とは符号が逆であり、両者を並べて参照する際は注意を要する。符号自体は主成分分析に伴う恣意的な向きの問題であり、値の相対関係のみが意味を持つ。

手法

マーラー全交響曲(第1〜10番)および『大地の歌』について、各曲の全楽章を統合し11データ点として扱い、統一9指標セットに基づくPCAを実施した。

PC1:作曲年代との強い相関

PC1は交響曲番号(作曲順)に対して強く有意な負の相関を示した(Pearson r = −0.862, p = 0.0006; Spearman ρ = −0.936, p < 0.0001)。楽章レベル分析((A))における相関(|ρ| = 0.550)と比較して顕著に強く、作品単位への集約によって楽章間のばらつきというノイズが平均化され、経年的な調的溶解のトレンドがより明瞭に前景化することを示している。

PC2:年代との相関なし——独立した質的軸

PC2は年代との相関を持たない(r = 0.200, p = 0.56)。(A)で見た楽章レベルのPC2(緩やかな山型、二次回帰R² = 0.135)とも、また作品重心軌道分析で見たL字型構造のPC2成分とも異なり、作品単位に集約した場合、PC2はもはや年代の関数ではなく、別の質的軸を反映する。

PC2の負荷量はHarmonic_Coverageに極端に支配されており(+0.992)、SD_r・Spatial_Dispersionが負に寄与する。この軸は編成・声楽の有無と相関する和声的密度(層3=感覚入力複雑性)を表すと解釈される。

k=4クラスタリング:肯定的知見(年代・編成タイプの回復)


図9:全交響曲11曲の各曲の全楽章を統合した五度圏和音重心軌道のPCAプロット のk-meansクラスタリング結果(k=4)

作品レベルでのk=4クラスタリングでは、明瞭な4区分が回復された。

クラスタ

作品

PC1平均

PC2平均

性格

2

Sym1–4

+2.152

−0.162

初期:調的安定群

0

Sym5, Sym7

+0.263

−1.657

中期A:低密度・拡散型

1

Sym6, Sym8, 大地の歌

−0.578

+1.835

中期B:高密度和声型

3

Sym9, Sym10

−3.699

−0.772

後期:調的溶解群

  • 初期群(1〜4番):高い調的安定性で一括

  • 後期群(9・10番):強い調的溶解で一括

  • 中期は2つの質的サブタイプに分岐:年代順では隣接する5・6・7・8番+大地の歌が、PC2によって「6番・8番・大地の歌」(高密度和声型)と「5番・7番」(低密度・拡散型)に分割される

これは(A)で示した否定的知見(全50楽章では楽章タイプが回復されない)と鋭く対照的である。この対比の理論的意味づけは第1部まとめで論じる。

6番の位置づけ

6番はPC1単独で見ると9番・10番に近い溶解度を示す一方、PC2によって8番・大地の歌側にクラスタリングされる。これは「PC1の単調減少」という直線的な物語だけでは捉えきれない、6番の和声的密度の高さという独自性を示している。声楽付き・大編成作品(8番=合唱交響曲、大地の歌=独唱付き)と「悲劇的」6番が一群を成し、純器楽的な5番・7番が対極をなす構図は、声楽・テキスト依存楽章が極値を取るという既存知見の作品レベルでの反映とも整合的である。

方法論的補遺:楽章別加重平均との照合検証

作品レベル分析の各指標が、対応する楽章群から不整合なく導かれているかを検証するため、全50楽章分析における楽章別指標値を各曲のAnalysed_Measuresで重み付け平均し、作品レベルの実測値と照合した。全11曲でAnalysed_Measuresの完全一致を確認したうえで、9指標について加重平均との乖離度を算出したところ、指標群は明瞭に2つの型に分岐した。

加法的指標(Avg_r, Avg_Step, PC_Density, Step_Rate_100, Avg_PC_Count, Terz_Ratio, Harmonic_Coverage, Texture_Volatility)は、いずれも平均絶対乖離が1〜3%程度に収まり、小節数加重平均によってほぼ再構成可能であることが確認された。これらは測度ごとの値を単純平均する性質の指標であり、楽章境界の接続処理が結果に与える影響は無視できる水準にとどまる。

分散型指標(SD_r, Spatial_Dispersion, Tonal_Focus)は、これに対しより大きく、かつ系統的な乖離を示した。SD_rとSpatial_Dispersionはいずれの曲についても作品レベル実測値が加重平均を上回り(符号が全曲で一致)、これは全分散の法則(Var_total = E[Var_within] + Var[E_within])から予測される挙動と整合する。すなわち、楽章ごとに異なる調的領域を経由することで、作品全体として見た分散は各楽章内分散の単純平均よりも必然的に大きくなる。

Tonal_Focusはこの傾向が最も顕著な指標であり、Sym5では加重平均0.093に対し実測値0.036と、−61%という大きな下方乖離を示した。これは、第1楽章(葬送行進曲)と第2楽章以降との調的性格の隔たりが真の楽章間異質性として反映された結果であり、Tonal_Focusが単なる測度平均ではなく作品全体の調的統一度を捉える大域的指標として機能していることの傍証となる。

累積路型指標(Winding_Rate_100)は、乖離の符号が曲によって一致せず、他の分散型指標とは異なる性質を示した。この指標は方向性を持つ回転量の累積であるため、楽章境界における接続ステップが、局所的な鍵の配置に応じて値を任意の方向に歪めうる。

以上より、加法的指標は分析単位(楽章/作品)を問わず頑健である一方、分散型・累積路型指標は作品レベルでの解釈に際して「楽章間の異質性」という固有の意味づけを要することが明らかになった。特にTonal_Focusの大幅な乖離は方法論的な欠陥ではなく、複数楽章から成る交響曲という形式そのものが持つ、単一楽章には還元できない調的多層性を定量的に捉えている可能性がある。

主要楽章分析((C))との対照

(C)で確認した主要楽章単位のクラスタリングと比較すると、後期群(9・10番)が独立クラスタを形成する点は共通するが、中期・初期の内訳は異なる構成を示す。(C)では4番が8番・大地の歌と同じクラスタに合流し、5・6・7番が一つのクラスタにまとまっていたのに対し、(B)では初期群が1〜4番の4曲一括となり、中期が「5・7番」と「6・8番・大地の歌」という異なる形で分裂する。

この差異は、4番の主要楽章(第1楽章)が持つ性格——牧歌的でありながら8番・大地の歌に通じる特有の和声的手触り(高いHarmonic_Coverage方向のPC2値、+0.874)——が、全楽章統合時には他の初期楽章(2・3・4楽章)によって平均化・希釈されるのに対し、単一楽章としてはその性格がそのまま表出することを示唆する。

(B)における4区分がいわば「作品全体の総和としての音楽的主体の状態」を示すのに対し、(C)は「その主体が形式原理と対峙する瞬間における状態」を示す。両者の異同(4番の帰属の相違等)は、作品全体の性格と、その作品がソナタ原理に対して取る態度とが、必ずしも一致しないことを意味しており、これ自体が本研究の理論的枠組み——生成モデルの安定性(層1・2)と感覚入力の複雑性(層3)が独立に変動しうるという知見——のさらなる精緻化を促す。


まとめ:分析粒度が明かす音楽的主体の階層的構造


本研究第1部では、マーラー全交響曲を対象に、(A) 全50楽章、(B) 全11曲(作品単位)、(C) 主要楽章、という3つの異なる分析粒度でPCAとk-meansクラスタリングを実施した。ここでは3者を横断して得られた知見を統合し、分析粒度そのものが「交響曲的思考における音楽的主体の存在様式」に対して持つ方法論的・理論的含意を論じる。

1. PC1相関強度の粒度依存性——集約はトレンドを先鋭化する

分析粒度

データ点数

Spearman ρ(対年代)

p値

(A):全50楽章

50

0.550

< 0.0001

(C):主要楽章

11

0.727

0.0112

(B):全11曲(作品)

11

0.936

< 0.0001

PC1が表す調的溶解の経年的進行は、3つの粒度すべてで統計的に有意という点でロバストである。しかし相関の強度自体は、分析単位が粗くなるほど──すなわち楽章単位から主要楽章単位、さらに作品単位へと集約が進むほど──明確に強まる。これは、個々の楽章が持つ局所的・偶発的な変動(緩徐楽章とスケルツォの対比、特定楽章の性格的異例性等)が、集約によってノイズとして相殺され、生成モデルの安定性という上位の経年的トレンドがより純粋な形で前景化することを示している。

興味深いのは、主要楽章分析(C)が全楽章分析(A)と作品分析(B)のちょうど中間の相関強度を示す点である。単一楽章を代表として抽出する操作は、全楽章統合ほど強力な平均化効果は持たないが、50楽章すべてを個別に扱うよりは局所的変動を抑制する。この段階的な相関強度の上昇は、粒度の粗密が単なる技術的選択ではなく、観測される構造そのものの解像度を規定することを定量的に裏付けている。

2. クラスタリング結果の粒度依存性——否定的知見から肯定的知見への移行、そしてその内部変動

k-meansクラスタリングの結果は、粒度によって質的に異なる相貌を見せた。

  • (A)(全50楽章):声楽楽章・第1楽章・最終楽章といった形式機能カテゴリーは、いずれのクラスタにも均等に分散し、回収されなかった(否定的知見)。

  • (C)(主要楽章):後期群(9・10番)は明確に独立クラスタを形成するが、中期・初期の内訳は「1・2・3番」「5・6・7番」「4番・8番・大地の歌」という、年代順とは部分的にずれた構成を示した。

  • (B)(全11曲):初期(1–4)/中期A(5,7)/中期B(6,8,大地の歌)/後期(9,10)という、年代・編成タイプに沿った明瞭な4区分が回収された(肯定的知見)。

この系列は単純な「粒度が粗いほどクラスタリングが成功する」という一元的な説明では捉えきれない。(C)において4番が初期群から離脱し8番・大地の歌側に合流する現象は、単なる集約以前のノイズではなく、ソナタ形式という共有原理に対してその楽章が取る構造的態度を映し出すものと解釈すべきである。(C)のHauptsatzは、交響曲全体を貫く形式原理が最も集中的に担われる場であり、そこで観測される質的差異は、(B)が示す作品全体の集約的性格とは独立の理論的意義を持つ。(B)で得られる「明瞭な4区分」が作品全体としての音楽的主体の状態を示すのに対し、(C)は主体が形式原理そのものと対峙する瞬間の状態を示しており、両者の異同(4番の帰属の相違に代表される)は、単なる粒度上のノイズではなく、作品全体としての性格と、その作品がソナタ原理に対して取る構造的態度とが必ずしも一致しないという、独立した知見として積極的に評価されるべきである。

3. FEP三層構造による統合的解釈

以上の知見は、FEP三層構造(層1:生成モデルの安定性/層2:状態空間における行動パターン/層3:感覚入力の複雑性)の観点から整合的に統合できる。

**層1・層2(PC1が主に駆動)**は、分析粒度によらず一貫して経年的な単調傾向を示す、最も頑健な構造である。これは生成モデルの劣化過程が、個々の楽章の局所的振る舞いや代表楽章の選択に依存しない、大域的かつ不可逆な過程であることを意味する。

**層3(PC2が主に駆動、Harmonic_Coverage支配)**は、これと対照的に分析粒度に応じて振る舞いを変える。全50楽章では緩やかな山型(二次回帰R²=0.135)としてしか捉えられず、作品重心を結んだ軌道分析では第8番を屈曲点とするL字型構造として、より鮮明に浮かび上がった。この屈曲は、中期までの「調的溶解(層1・2)と和声的密度の変動(層3)が同時進行する多面的な質的変化」から、晩期にかけての「層3的な変動が収束し、専ら層1・2軸の調的溶解へと純化していく」という二段階の発展様式として解釈された。主要楽章分析((C))における中期クラスタの組み替わり(4番の離脱、5・6・7番の結束)は、この層3的な質的差異が代表楽章の選び方に応じて異なる形で表出することの、さらなる証左と言える。

4. 総括

3つの分析粒度を通覧すると、「交響曲的思考における音楽的主体」は単一の記述に還元されない、階層的な存在様式を持つことが示唆される。最も大域的な層(生成モデルの経年的劣化=PC1)は、どの粒度で観測しても一貫して姿を現す不変の構造である。一方、より局所的な層(和声的密度・編成の質的差異=PC2)は、観測の粒度——全楽章か、代表楽章か、作品全体か——に応じて異なる相貌を見せる、可変的でスケール依存的な構造である。

楽章レベルでの否定的知見(形式機能非回収)と作品レベルでの肯定的知見(年代・編成タイプ回収)は、したがって対立する結果ではなく、同一の対象を異なる時間的・空間的解像度から観測した結果として整合的に接続される

結論


本研究が明らかにしたこと

本研究は、「交響曲的思考における音楽的主体の存在様式」という問いに対し、マーラー全交響曲を複数の分析粒度から検討することで接近した。得られた知見を統合すると、以下の二点に集約される。

第一に、音楽的主体の存在様式は単一の記述に還元されない、階層的な構造を持つ。調的溶解という現象を捉えるPC1軸は、全50楽章・主要楽章・全曲統合という3つの分析粒度のいずれにおいても一貫して有意な経年的トレンドを示した一方、その相関強度は粒度が粗くなるほど明確に強化された(ρ=0.550→0.727→0.936)。これは、生成モデルの安定性という大域的な劣化過程(層1・層2)が、観測のスケールによらず存在する頑健な構造でありながら、その現れ方の鮮明さは観測の解像度に依存するという、階層的存在様式の定量的な証左である。

第二に、この階層性は形式原理との関係においてもう一段の複雑さを持つ。全50楽章分析における否定的知見(楽章の形式機能がクラスタリングによって回収されない)と、全曲統合分析における肯定的知見(年代・編成タイプが明瞭に回収される)は、単なる対立ではなく、異なる解像度から見た同一構造の異なる相貌として整合的に接続された。さらに主要楽章分析((C))は、単に両者の中間に位置する粒度ではなく、ソナタ形式という交響曲的思考の構成原理そのものと音楽的主体が対峙する場として、独自の理論的意義を持つことが示された。作品全体としての性格((B))と、その作品がソナタ原理に対して取る構造的態度((C))とが必ずしも一致しない——第4番の帰属の相違に代表される——という事実は、音楽的主体が単一の統一的な「顔」を持つのではなく、どのレベルで問いを立てるかに応じて異なる態度を示す複層的な存在であることを示唆している。

この意味で、本研究の方法論的な教訓は次のように要約できる。音楽的主体の存在様式についての知見は、それが単一の分析粒度からのみ得られたものである限り、常に暫定的なものにとどまる。複数の粒度を通じて再現される構造のみが、音楽的主体の存在様式そのものに根差した知見として主張されうる。 この粒度不変性の検証手続きは、本研究をマーラー以外の作曲家との比較へと拡張する際にも、頑健性を担保する方法論的な基準として機能するはずである。

理論的含意——FEP三層構造による整理

本研究で採用したFEP三層構造は、PC1(層1・層2)とPC2(層3)という異なる主成分が、生成モデルの安定性と感覚入力の複雑性という異なる位相の現象を捉えていることを整理する枠組みとして機能した。これにより、(A)で見出されたL字型軌道——調的溶解と和声的密度の変動が中期までは同時進行し、晩期にかけて前者へと純化していく——という複合的な発展様式を分節化することができた。この軌道が示す屈曲構造は、連続的な変化と不連続な遷移とを区別する、より形式的な理論的枠組み(カタストロフィー理論等)による定式化を促す知見でもあり、この点は今後の課題として後述する。

限界

本研究にはいくつかの限界がある。

第一に、本研究はマーラー単独を対象としており、他の作曲家との比較は行っていない。したがって、ここで見出された階層的存在様式がマーラーに固有のものか、より一般的な現象であるかは、本稿の範囲では判断できない。

第二に、9つの基本特徴量はいずれも五度圏上の重心軌跡から導出されるマクロな統計量であり、軌跡そのものを直接分析対象とするものではない。すなわち本研究は、小節ごとの重心という一次データを持ちながら、それを平均・分散・ステップ幅といった要約統計量に集約したうえで分析しており、作品内部における重心軌跡の時間発展過程そのものには立ち入っていない。

第三に、リズム・オーケストレーション・テクストとの関係といった、調的分析の外側にある要因は本研究の射程に含まれていない。

今後の課題

作曲家間比較については、本研究で確立した粒度比較の枠組みを踏まえたうえで、別稿にて論じる。

第二の限界(マクロな統計量への集約)に応答する方向としては、性質の異なる二つの発展方向が考えられる。

第一の方向は、作品間の軌道分析である。 本研究(A)で示した、各交響曲の重心(PC1・PC2平均値)を作曲順に結んだ際に現れるL字型軌道は、11作品という粗い時間解像度上での経路にすぎない。この軌道を、カタストロフィー理論のcusp(尖点)モデルに定量的にフィッティングする、あるいは屈曲点(第8番付近)の位置づけをより厳密に検証することは、既存のマクロ統計量を用いて追加のデータ収集なしに着手できる、有力な発展方向である。ただしサンプル数(11)の制限からも、単純なカスプ曲面へのフィッテイングは現実的でない。従って、何らかのかたちでカスプが要求する位相構造をどこまで満たしているかを検証する方法を検討する必要がある。 現時点で検討しているのは、別途FEPとの関連を分析するために設定した、ピッチクラスの音数密度、ロバストネス、重み付き予測誤差の3次元からなる相空間での作品内部の軌道について、作品毎の統計量を求めて状態空間軌道を構成し、その軌道のトポロジーを分析することによりアプローチすることである。

第二の方向は、作品内部の軌道分析である。 これは第一の方向とは異なる時間スケールを対象とする。本研究で用いた9指標は、いずれも一曲・一楽章を通じた要約統計量であり、その内部で重心が小節ごとにどのように時間発展していくか——すなわち作品の内部における軌道そのもののダイナミクス——は捨象されている。この内部軌道に対して、外部軌道(作品間比較)とは独立に、カタストロフィー理論的な分析(内部軌道上に急激な遷移点や分岐構造が存在するか、それが楽曲構造上のどの地点に対応するか等)を適用することも、理論的に有望な方向である。既存のMIDIデータは既に小節単位の重心軌跡を含んでおり、この分析も追加のデータ収集を要さない。

両者はいずれも「マクロな統計量への集約」という限界に対する応答でありながら、前者が複数作品を貫く時間発展(マクロな時間スケール)を、後者が単一作品内部の時間発展(ミクロな時間スケール)を扱うという点で、異なる階層に位置する課題である。

(2026.7.7 公開, 7.13,14 序論・研究手法を加筆・改訂)