マーラー祝祭オーケストラ第25回定期演奏会
2025年10月11日 ミューザ川崎シンフォニーホール
ベルク 初期の7つの歌
マーラー 第9交響曲
井上喜惟(指揮)
日野祐希(ソプラノ)
マーラー祝祭オーケストラ
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井上喜惟さんとマーラー祝祭オーケストラによる第25回定期演奏会に立ち会うべく、雨が降りしきる中、午前中、所用あって訪問した先から直接ミューザ川崎を訪れました。以下、演奏に接した感想を書き留めて置きたく思います。演奏に圧倒されてしまえばどんな言葉も無力に感じられてしまうもので、今の私はまさにそれを痛感している状態なのですが、その一方で、このような経験をしたからには、それを証言することは立ち会った者の義務の如きものとも感じられ、如何に拙いものであったとしてもその義務を最低限果たすべく、一先ずは感じたままを記すことにします。
今回のプログラムは最初に日野祐希さんのソプラノ歌唱でのベルクの初期の7つの歌が置かれ、休憩を挟んでマーラーの第9交響曲という構成でした。普段ベルクの作品をほとんど聴かない私にとっては初めて接する作品ということもあり、その演奏の素晴らしさは充分に感じ取れたものの、その演奏が備えていた価値に相応しい仕方で受け止めることができずに、忸怩たる思いに囚われざるを得ませんでした。それ故、適切に演奏を語ることが私にはできず、言いうるのはごく皮相な印象にしかならないことから、これまでも多くのそのような作品の演奏についてそうしてきたように、客席におられた他の有識の方々にお任せすることにして、ここでは専ら休憩後のマーラーの第9交響曲に限定して感想を記すことにします。
今回の演奏会の印象を一言で言えば、「圧倒的」という言葉に尽きるでしょう。マーラーの作品には数えきれない程接してきていますし、私の場合には様々な制約もあって実演に接する機会は限られるものの、それでも作品によっては複数の実演に接しているものもあり、今回の第9交響曲の場合もそうですが、その中には(前身のジャパン・グスタフマーラー・オーケストラの時代も含め)同じ指揮者・オーケストラで複数の実演に接することができている作品もあります。
実際、前回私が接した第23回の定期演奏会では、今回の第9交響曲同様10年程の歳月を隔てて第10交響曲のクック版の再演に接し、とみに最近井上喜惟さんとマーラー祝祭オーケストラの演奏の解釈の徹底と演奏の集中力・燃焼度が増し、接する度に圧倒されるようになってきていることをそこでも再認したのでしたが、今回の演奏は、その解釈、リアライズともにこれまでのそのような蓄積を経た、頂点に位置づけられるような素晴らしいものだったと思います。
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特に今回強く感じたのは、他に比較すべき対象が思い当たらない、井上喜惟さんの全くユニークな解釈が画期的な達成に至り、この上ない説得力を以て実現されたことです。私が初めてその実演に接して以来、常にはっきりと感じ取れ、また遡っては録音等でも確認できる、井上喜惟さんの解釈における一貫したアプローチは、敢えて単純化を懼れずに一言で要約するならば、基本的には流れの重視というように一先ずは特徴づけうるだろうと思います。私がこの点について思い浮かべるのは、井上喜惟さんがチェリビダッケに師事していることであり、そのチェリビダッケが、現象学的な音楽的時間について述べ、それを実演において実践している点です。とは言っても、それは井上喜惟さんの演奏がチェリビダッケのそれに似ていると言う意味では全くありません。そもそもチェリビダッケはマーラーをレパートリーとしておらず、チェリビダッケにおけるその考えの中心的な実践の場であったブルックナーとマーラーとでは音楽的経過の実質が全く異なるが故に、その解釈はマーラーのあの錯綜とした総譜を徹底的に読み込むことにより、井上喜惟さんがオリジナルに一から築き上げて来たものに他なりません。
そしてマーラーの、特に交響曲作品において音楽的時間の流れを重視するというのは、伝統的な楽式の図式論に囚われず、音楽自体が生み出す時間性を重視するということに他なりません。それは寧ろアドルノがマーラー・モノグラフ(アドルノ『マーラー 音楽観相学』)で述べたカテゴリの如きものを音楽から読み取り、唯名論的に形式を編み上げていく作業に他ならず、音楽が自ら形式を生み出していく現場に接するという稀有な経験を可能にしているものなのです。
流れの重視はまた、結果的に、音楽が止まる「息継ぎ」、ヘルダーリンの「休止」(チェズーア)、パウル・ツェランの「息の転回」の箇所を浮かび上がらせることにも通じます。それは単なる休符ではなく、音楽の流れが自己創発的に編み上げる構造を浮かび上がらせるものとなるのです。
今回演奏された第9交響曲の場合であれば、例えば、第1楽章練習番号13の直前のフェルマータ、そしてその後の「影のように(Schattenhaft)」音楽が進みだす手前の2度の「息継ぎ」がそれで、それまでダイナミクスの点からも表情やニュアンスの点からも長くて複雑な経路を辿り、だが途絶えることなく連綿と続いて来た音楽の流れは、ここに至って一時中断するのですが、楽譜をそのつもりで追えばごく当たり前のことを、けれども構造的な仕方でかくも明晰に感じ取ることができ、のみならず、それがアドルノが言語的に言い当てようとしたことを実現したものであるということに思い当たったのは、恥かしながら今回が初めてでした。
練習番号13から再開し、2度の休止を経て「影のような」領域を経た音楽が、「だんだんと音調が内側から広がっていっ(Allmälich an Ton gewinnend)」た果てに決定的な複縦線で区切られて辿り着くのは、Tempo I Andanteと明記された冒頭の再現であり、ここで音楽が冒頭に回帰する、その折り返し点を告げるのが、くだんの「息継ぎ」に他ならない訳ですが、今回の演奏では、その音楽的な移ろいがごく自然な流れで、それでいてこの上ない説得力を以て実現するのを聴くことができ、圧倒的な印象が残った箇所でした。
ちなみにこの楽章の基本的構造をソナタ形式と捉える伝統的な楽式論に従った形式分析においては、上記の部分は単なる展開部の途中に過ぎません。展開部の後続部分で「崩壊」が起き、鐘を伴う葬送行進曲を経た後、ようやく347小節に至って「始めのように(Wie von Anfang)」再現部が始まることになります。そのような理解に基づけば、この日演奏された解釈は稍々もすれば構造的な把握を欠いたものと見做され兼ねません。しかしながらエルヴィン・ラッツが夙に指摘しているように、この楽章の構造は単純な伝統的な楽式論的分類を寄せ付けないものであり、既存の形式は、それを謂わば換骨奪胎してオリジナルな形式を実現するために鋳型のようなものに過ぎないのであれば、この日の演奏ではっきりとした形で実現された流れこそが、作品自身の持つ力学に忠実なものだと考えることができるでしょう。或る意味では安直で与しやすい伝統的楽式に従った解釈を離れ、アドルノの言うところの下から上へ向かう唯名論的な性格に忠実な演奏は、言うに易く行うに難いものであり、斯く言う私自身、今回の演奏に接して漸く井上喜惟さんがチェリビダッケから汲みとったアプローチを全く独自のやり方でマーラーの音楽に適用して音楽的に実現しようとしていたものが、まさにアドルノが指摘し、私自身、追及してきたものに他ならないことを遅ればせながら明確に自覚し、驚嘆するとともに自らの不明を愧じたような次第です。
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その後の音楽はまたしても複雑で変化に富んだ経過を経て、「ここで全く遅くなって(Schon ganz langsamer)」いよいよ終結に達する訳ですが、胸が締め付けられるようなホルンによる歌が「非常に躊躇い(Sehr zögend)」がちな木管の対話で引き取られ、フルートがたゆとうように高音域で「宙に浮いた(Schwebend)」ままになると、再び音楽は停止する。再開する度に下降して音楽が着地するのは、またしても、何度目かの冒頭の回帰なのですが、楽章冒頭に持っていた先に向かって歩む(Andante)力は最早なく、最後はフルートとハープ、弦のフラジオレットで停止し、もう再開することはありません。
しばしばここは音楽は「解体」していくプロセスとして記述され、時として「死」の形象化とされることもありますが、今回の演奏では、長く、途中では苦痛に満ちたプロセスを経て、音楽的主体が再び出発点に立ち戻り、音の消え去った虚空を眺めているのに立ち会い、その眼差しを共にしているかのように感じられました。風景の中には最早主体はいないが、その風景を眺める眼差しが残っている、ここでは主体は最早ドラマの主人公ではなく、そこから身を退いて眺める存在であるという確固とした印象が残ったのでした。
勿論これらは全て楽譜に書かれていることであり、それを楽曲解説よろしく辿るだけならば、改めて私が今ここで繰り返す迄もないことでしょう。けれどもそうした音楽の流れが、今回の演奏において、この上もない自然さと自在さを以て、絶えず移ろいゆき、変化していく情動の動きを伴って流れていくのに立ち会って、まるで音楽がその場で生成するのを初めて経験するような新鮮さに満ちた体験をすることができたように感じたことを書き留めて置きたく思ったのでした。
この交響曲の第1楽章に、今回のような演奏によって接すると、所詮は音響の継起に過ぎない音楽にこんな事迄可能なのかという驚きを改めて感じ、マーラーの天才に圧倒される思いがします。特にその調性の変容のプロセスは単なる調的スキーマ内の遍歴に留まらず、調性自体が不安定になり、ほぼ無調に近づいたかと思えば安定した調的領域に回帰するというその精妙にして無限のニュアンスを孕んだプロセスは空前にして絶後のもので、西洋の音楽がその長い歴史の果てに到達した、意識の流れの音楽化の最高の達成の一つであることを再認識させられた次第です。
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第2楽章は伝統的楽式では舞曲的な性格の「中間楽章」ということになりますが、このような舞曲的な楽章でのリズム処理の冴えは、井上喜惟さんのいわば「十八番」のようなもので、身体的、生理的なドライブはこの日の演奏でも健在でした。ただしこの楽章には三部形式のような静的な性格はなく、所謂「展開するスケルツォ」としての構造を持っていますし、その内実は一筋縄ではいかない屈折を孕んでいます。始まりではくっきりと対比的な性格を持つ主部の朴訥としたレントラー、イロニカルな表情を持ち、最後には野卑にさえ近づく急速なワルツ、非常にゆったりとして夢見るような2つ目のレントラーの3つの異なるテンポが切り替わって、再開される度に表情を変えてゆく有り様が、これもまた自然な経過としてリアライズされ、交替によって前の部分が後の部分に影響を与えていく具体的な経過の実質に重きが置かれていることが手に取るように感じ取れます。
ここでも特に印象的なのは冒頭のレントラーのブロックへの何度かの突然の回帰で、それがここでは構造的な句読点を与えるのですが、ブロックが賽の目に区切られたように切り替わるのではなく、それまでに経てきた音楽的脈絡がもたらす経験によりニュアンスがその都度異なったものになる音楽の一貫した流れがごく自然に感得されるものとなっていました。
しばしばこの楽章は、第9交響曲の中では比較的「弱い」楽章として問題になることがあり、ともすれば些か冗長であるとされたり、テンポも性格も異なる3つの舞曲のブロックの順列組み合わせ的な機械的なモンタージュといったメタ音楽的名人芸として説明が為されることもあるようですが、この日の演奏はそうした方向性とは無縁であり、これもしばしばそのように解釈されがちな、第1楽章に対する「息抜き」のようなものではなく、第1楽章で展開されたドラマと同じ主体の経験であり、その生の現実の異なった側面の音楽化であると感じられました。
第3楽章は「ロンド・ブルレスケ」と題され、「とても反抗的に」という些かエキセントリックな発想表示を持つことで有名なロンド形式の楽章で、対位法的アクロバットが主体を否応なく巻き込んで押し流してゆく「世の成り行き」の容赦なさを示すものとなっていますが、この日の演奏解釈でこの楽章に関して特筆されるのは、そのユニークでありながら実は楽譜に忠実な解釈が、オーケストラの凄まじい集中力によって十全にリアライズされたことが圧倒的な効果もたらしていた事です。
井上喜惟さんのこの楽章の解釈において特に重要なのは、中間部後半とコーダのテンポ設定です。まず中間部後半のテンポ設定について言えば、多くの演奏では練習番号39あたりから突然ギアチェンジし、音価を半分に切り詰め、譜面上からは恰も倍の速度になったかのような解釈が採られることが多いようです。しかし実際には楽譜にはそのような指示はなく、この日の演奏におけるように、逆にそうした恣意的な変化を持ち込まないことによってこそ、522小節からのロンド主部回帰の箇所のTempo I subitoが意味を持つのであり、急に再び「世の成り行き」の奔流の最中に立ち戻ったかのような突然の変化がもたらされることになるのです。ちなみにこの点に関して同様な解釈が為された例としては、個人的には井上さんが師事したベルティーニの演奏が思い浮かびます。
コーダについて言えば、こちらは最後のPresto(641小節)からはっきりとギアチェンジが行われ、その後の9小節間、恰も1小節1拍、3小節で3拍子のひとまとまりが3回繰り返され、その後それがそのまま1小節1拍の2拍子に変化して最後まで辿り着くという楽節構造の把握が卓越しており、ここでもその解釈が徹底されたリアライズにより、それまでの奔流に更に加わる突然の変化が眩暈のような効果を惹き起こし、恰も突風に巻き込まれ、翻弄されたまま末尾に至る、凄まじいドライブに聴き手は打ちのめされたかのような印象を受けることになります。だがしかし、これも井上さんの指摘する通り、マーラー自身が楽譜に書き込んだ指示(3 taktig)の忠実なリアライズなのです。
第4楽章として全曲の最後に置かれたアダージョは、作品全体の冒頭の調性であるニ長調から半音下降した変二長調を基調としており、大きくフラットに偏って赤味がかった色合いの中、調性格論的にも穏やかで退いた薄明の仄かな光に充たされた音楽であり、全体が回顧的な色合いを帯びて響きます。
この日の演奏では、ここでもまた音楽の流れは淀んで停滞することなく、終わり近くに至るまで音楽が止まることはありません。特に鮮明な記憶として残っているのは、常に同じ色合いを帯びて回帰する主部に対して、11-12小節で仄めかされ、28小節に至って本来の姿を現す、音域的に大きく乖離した二声の対位法が印象的な対比部分の変化です。ここは主部の変二長調に対して異名同音の短調である嬰ハ短調(この作品冒頭のニ長調との対照という点では、末尾に二長調で終結する第5交響曲の冒頭がこの調性であったことが思い出されます)の領域なのですが、その後再現する時にはそれまでの音楽的経験の結果として蒙る変容により、最初の提示の無表情なたどたどしさと打って変わって、既に主部から流れ込む時から俄かに温もりを帯び、ひととき「大地の歌」のフィナーレの小川の情景がフラッシュバックしたかのような印象を与えます。
その後大きく高潮した音楽がようやく歩みを止めるのはコーダに至ってからで、何度も立ち止まっては再開する音楽は、だが最後に至って再び流れを取り戻してフェードアウトしていきます。これは第1楽章の末尾と照応したものですが、この日の演奏から受けた印象は、第1楽章の末尾に似て否なる効果を生み出しているように私には感じられました。ここでも第1楽章と同じで、主体は出来事から身を退いて、それを外から眺める視線としてのみ残っているのですが、そうした主体の位置は、第4楽章では始めから一貫したものであり、第1楽章におけるように遍歴の過程を経て最後に獲得されるものではありません。そして第4楽章の音楽の経過の全体は寧ろ、近づいてくる夜明けの予感であり、寧ろ主体はこの音楽を通じて蘇生の歩みを辿り、勿論、己の行く末をはっきりと認識しつつ(有名な「子供の死の歌」の引用)、だがそのことも含め「一切をかくも新たな光の中にみる」境地へと到達するように私には感じられてならないのです。従って第4楽章末尾のersterbendは「死」を示唆するものではありません。寧ろ或る種の「超越」であり、開けであるという揺るぎない印象こそが、聴いていて私が感じ取ったものでした。
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そしてこのこともまた、この第9交響曲という作品全体についての井上喜惟さんの解釈が十全にリアライズされた結果なのかも知れません。曽雌さんによる、いつもにも増して詳細を極めたプログラムノートに記されているように、井上喜惟さんは今回、この曲の再演にあたっての楽譜の読み直しの過程で、この曲にファウスト的なものを感じ取り、この第9交響曲全体を、第8交響曲第2部でその構造上も尽くすことができなかったファウストについての語り直しと捉えておられるようなのですが、そのことは、音楽の一貫した流れを重視し、その中から自ずと形式が浮かび上がる様子を開示した今回の演奏解釈に通じるものであり、巨視的にも第一楽章を残りの三楽章が取り囲む遠心的な構造という通常受ける印象ではなく、四つの楽章が四枚続きのタブローとなり、ファウストの生の経験の異なる相を音楽化したものとして、対等な重みを持ちつつ、一貫した流れを形づくることに繋がり、それがここまで述べてきた音楽的流れについての実際の聴体験の印象とも一致するように感じられるからです。例えば第4楽章のあの有名な「子供の死の歌」の引用も、既に第8交響曲において第1部でも第2部でも繰り返し参照されていることを、その引用箇所とともに歌われる言葉(Virtute firmans perpeti / Der ewige Liebe nur Vermag’s in scheiden)も併せて思い浮かべても良いでしょう。
実は井上喜惟さんが示唆している第8交響曲第2部との繋がりについては今回の演奏会に因んでプログラムに寄稿させて頂いた小文「一切をかくも新しい光の中にみる」にも記載した通り、第4楽章のMolto Agadio subitoから7小節目(55小節)のヴィオラの下降音型が第8交響曲の第2部の練習番号170から171にかけて、かつてグレートヒェンと呼ばれた女が歌う部分の結びを強く連想させるものであり、ここがまさにファウストの蘇りが述べられる決定的な部分で、更にこの音型には "neue Tag"という言葉があてられていることが指摘できます。
拙文のタイトルはマーラー自身のワルター宛の書簡に記された言葉に由来するものですが、そのマーラーの言葉もまた、意識的なものであれ無意識的なものであれ、ファウストの蘇りとの関連を感じさせ、第8交響曲第2部の位置づけの見直しと、第9交響曲の読み直しを促すものと思っていたのですが、この日の演奏はそうした私の漠然として印象を、確たる認識にまで高めてくれるものであったと思います。
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ここまで、この日の演奏を通じて明確に感じ取れた井上喜惟さんの解釈について述べてきました。この日の演奏ではっきりとした形で実現された流れこそが、作品自身の持つ力学に忠実なものであり、それ故に全く自然に淀みなく音楽的時間が展開していくことを聴き手は経験することになるのですが、既に述べたように、或る意味では安直で与しやすい、伝統的楽式に従った解釈を離れ、アドルノの言うところの下から上へ向かう唯名論的な音楽の在り方に忠実な今回のような演奏は、言うに易く行うに難いもので、全くオリジナルな達成としてマーラーの作品の演奏解釈の画期を為すものではないかとさえ感じました。
既に述べている通り、そうした解釈も繰り返されるリハーサルによる徹底的な共同作業によってオーケストラによって共有されなければ、充分なリアライズが達成できないことは明らかなことでしょう。特に今回強く感じたのは、解釈もまたそうであるように、そのリアライズもこれまで以上に自在さを増し、音楽が自らの論理に従って発展していく力動を強く感じ取る事ができたことでした。
そしてそれは、これまでの他の作品の演奏でも感じ取れ、今回もはっきりと感じ取ることができた、マーラー祝祭オーケストラの個性とでも言うべき独特の手応えのある響きについても同様に言えることだと思います。私見では、演奏が録音を通じて拡散され、共有されることが普通になってから以降、このような響きは録音向きではないものとして寧ろ排除されてきたもののように感じられてなりません。私の乏しい聴経験の範囲で、強いて似たような印象を持つものを挙げるとするならば、世代を遥かに遡って、丁度アドルノと前後する世代の、一例のみ挙げるならば、例えばホーレンシュタインの演奏に聴きとれるようなものに通じるものを感じます。
それは音色についても言えて、とりわけマーラーおいて頻発する、特に金管においてミュートした楽器を強奏することの効果も、近年の多くの演奏でそうであるような、角が取れて鮮明でありつつ美的な調和を損なわない音色のパラメータの一つとしてではなく、寧ろ、美的な面からは醜さも厭わない、邦楽で言うところの「さわり」を持った、強い表出力と緊張感を備えたものであり、音楽の実質に適ったものに思えます。これは打楽器の騒音的な音響についても同様の事が言えて、特に今回は鐘(舞台上ではなく、舞台裏で鳴らされたようです)についてそのような印象を受けました。
そのことはパートのバランスについても同様で、これもマーラー祝祭オーケストラの常でマーラー自身が想定していた両翼配置が採用されているのですが、今回はそのことにより特に第2ヴァイオリンの重要性が際立っていたように思います。そもそもこの第9交響曲の第1楽章冒頭で旋律を弾きだすのは第2ヴァイオリンなのです。それ以降も左右のヴァイオリンパートの掛け合いの効果も鮮やかで、マーラー自身が意図した空間性についても申し分のないものだったと感じます。
更に特筆すべきは中・低声部の充実であり、例えばヴィオラならば第1楽章展開部の129小節からなど重要な旋律がしばしば割り当てられていますし、チェロとコントラバスには、余りに有名な第1楽章コーダにおけるフルート、ホルンとの協奏的なアクロバティックなパッセージがあります。また協奏的ということで言えば、頻出するソロ、パートソロも重要で、特にホルン、木管、ヴァイオリン、ヴィオラ、チェロにはここぞいう部分でのソロの旋律が割当てられていますが、それらの悉くが集中力と大きな表現意欲を伴って十全に実現されていることに感銘を受けました。
もう一点、楽器のバランスに関連して今回特に強く印象に残ったこととして特記しておきたいのが、この第9交響曲のスコアに特徴的な線の錯綜のリアライズに関してです。この作品のスコアを開いて見たことのある方は良くご存じのように、この作品における対位法的な線の重畳とその絡み合いの複雑さは例外的で、或る種極限的なものと言って良く、しかもそれは、例えば後年のミクロフォニーのようなマスとしての効果ではなく、あくまでも線がびっしり絡みあって蠢く様子が聴き取れるように書かれています。その重層と複雑さは臨界的な領域にあって、人間の認知機構の制約を超えるもので、ここでは各声部は同時に聴き取れはするけれども全てを対等にという訳にはもはや行かず、全てを受け止めきれないという認知的な飽和状態の如きものが生じることになります。認知実験等の結果によれば、ゲシュタルト的な図として同時にパラレルに把握できるのは3声部くらいが限界であるとのことで、通常の演奏ではメインのラインのようなものを設定して聞きやすくしてしまうことが多いですし、特に録音で聴く場合には結果的にそのような聴取になるのが普通ですが、実際には楽譜ではそういう指定はなく、今回のような素晴らしい音響を持ったホールでの楽譜に忠実な徹底的なリアライズに接することによって初めて、マーラーが意図していたことが十全に了解できたように感じました。
それが特に顕著に感じられたのは、例えば第1楽章展開部前半の「激しい怒りを込めて(Mit Wut)」奏される音楽が崩壊した後、211小節からの「苦悩に満ちた(Leidenschaftlich)」箇所であり、デネットの多元草稿モデルのように(但し、デネットのような情報処理モデルでは抜け落ちてしまう強く複雑な情動を常に伴うものであるということは幾ら強調しても足らないのですが)、人間の心はもともとポリフォニックなものであって、それを意識が辛うじて統制しているかのように感じられるに過ぎず、時としてそれは破綻するということさえ感じる取ることができ、常には「情熱的な」といった訳され方をするLeidenschaftlichという言葉のニュアンスを十全に感じ取れたように思いました。
その他個別に印象に残った所を逐次挙げて行けば際限なく、それだけで紙数が尽きてしまうことからそれは割愛させて頂き、最後に全般的な印象を記してこの感想を終えたく思います。
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これは繰り返しになりますが、楽譜の徹底的な読み直しによって井上喜惟さんが把握し、音楽自体が持つ時間性の流れに逆らうことなくその自発性に従って構築したものは、通常この第9交響曲の解釈として宛がわれる伝統的な楽式論をベースにし、せいぜいがそこからの逸脱を測るような解釈とは無縁ですし、多く伝記的事実との単純な重ね合わせに由来する標題音楽的、図像学的解釈とも異なっており、それらを拒絶するものでした。それは第8交響曲第2部のファウストの蘇りの語り直しとして、マーラー自身が「一切を新しい光の中にみる」と述べたような心性の蘇生の歩みの音楽化ではなかったかと思えます。しかもそれは、交響曲という伝統的な形式に依拠した単なる主観的心情の告白ではありません。この作品の手前において認識態度の変更があり、この作品は、これもまたアドルノが的確に指摘しているように、ゲーテ=ジンメル的な晩年の音楽なのであり、主観的なあり方がそのまま形式となるというジンメルの「老齢芸術」の理念の最上の実現の一つであるということが、この日の演奏を通じて確認できたように思います。そしてそれはそのまま、シェーンベルクのプラハ講演の言葉にある、作曲家をメガホン替わりにして語る存在の示唆にも通じ、この作品の「客観性」と彼が呼んだものにも通じているのではないでしょうか。
そして改めて、ある面では音響の継起に過ぎない音楽においてこのような精神的なものに到達することができたマーラーの天才には只々圧倒される他ないように感じます。勿論、このようなあり方が音楽の唯一の在り方である訳では決してありませんが、それでも尚、シュトックハウゼンが指摘した通り、「人間」というものが解体し断片化する手前で、二分心崩壊以降の意識の歴史の蓄積の末に到達された「意識の時代」の最高の達成の一つであり、その後はもうこのような形での達成は不可能になったのだという認識を新たにしました。マーラーはどんなに偉大な芸術作品とて「抜け殻」に過ぎないと述べたことがありますが、その言葉もまた、この音楽にファウスト的なものを読み取ろうとする井上喜惟さんの見方と響き合うものがあります。作品が「抜け殻」であるというのは「たゆまぬ努力によって生れ出た彼の姿は、不滅のものだ」という考え方と対のものとして理解されるべきだからです。
そのような解釈の投影という面もあるのかも知れませんが、今回の演奏は自分がそこに価値を見出した何かを音響としてリアライズしようという指揮者・音楽監督の井上喜惟さんの確固たる意志をいつになく強く感じさせるもので、オーケストラはそれに対して、驚異的な集中力と共感を以て十全なリアライズを成し遂げたものと感じられました。演奏が終わった後の、得難い何者かが達成され、成就されたというはっきりとした感じがかけがえのないものに感じられ、そうした場に聴き手の1人として立ち会うことができた幸運を噛み締めずにはいませんでした。更に加えて、改めて最近の演奏の充実を振り返り、その上でそれらの蓄積が可能にした一層の自在さをもって達成された今回のような演奏を目の当たりにした時、ふとした偶然によるきっかけから、微力ながらかれこれ10年以上に亙ってお手伝いさせて頂くことができている幸運についても感謝したい気持ちになりました。
到底言葉で尽くすことは叶わぬにせよ、結局のところ言葉で伝えるしかない最高度の感謝を井上喜惟さんとマーラー祝祭オーケストラの皆さん、また今回のコンサートの企画に携わられた皆さんにお伝えして、この拙い感想の結びとさせて頂きたく思います。(2025.10.13初稿)