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2025年3月26日水曜日

マーラーについて生成AIに聞いてみた(8):「大地の歌」日本初演について・RAGの試作について(2025.3.29更新)

  本稿では、「大地の歌」日本初演について生成AIに聞いてみた結果を報告します。ただし今回はこれまでとは以下の点で実験の条件を変更しています。

  • Geminiは従来通り、2.0 Flashを用いていますが、Claudeは無料で使用できるモデルがこれまでの3.5 Sonnet から3.5 Haikuに変更になったため、3.5 Haikuを用いた結果となっています。ChatGPTについては実験を行った時点で無料版で利用できる3モデル(4o. 4o mini, o3 mini)について試行した他、同一モデルに対して複数回の問い合わせを行った結果も報告します。
  • 山田育矢(監修・著)・鈴木正敏・西川荘介・藤井一喜・山田康輔・李凌寒(著)『大規模言語モデル入門II』(技術評論社, 2024)の第13章で紹介されているRAG(Retrieval-Augumented Generation)を日本語版Wikipediaのグスタフ・マーラーのカテゴリーに含まれる記事のデータから構築して問い合わせを行った結果を報告します。同書ではRAG構築のサンプルを示す際に、東京科学大がMeta Llama 2の日本語能力を強化した大規模言語モデルであるLlama 2 Swallowシリーズの最も基本的なモデルであるSwallow-7b-hfに対して、同書11章で紹介されている指示チューニングを行った独自モデル(llm-book/Swallow-7b-hf-oasst1-21k-ja、以下、LLM Book版指示チューニング済Swallow 7bモデルと呼ぶことにします)を用いていますので、同モデルに対してRAGなしで問い合わせた結果も併せて示します。また、13章3節で行われているAI王データセットを用いた指示チューニングを行ったモデルllm-book/Swallow-7b-hf-oasst1-21k-ja-aio-retriever以下、LLM Book版AI王指示チューニング済Swallow 7bモデルと呼ぶことにします)での検証も行いましたので、その結果も報告します。またRAGで用いる文埋め込みモデルについても、同書のサンプルで使われている北京智源人工智能研究院(BAA, Beijing Academy of Artificial Intelligence)のBGE-3をそのまま用いている他、与える日本語版Wikipediaのデータをサンプルのオリジナルのものから自分で用意したグスタフ・マーラーのカテゴリーに含まれる記事のデータに置き換えた以外は、基本的にはサンプルコードをそのまま用いています。

 結果を先取りして申し上げると、今回の質問には、Gemini, Claude, ChatGPTのいずれも正解を返すことができなかったのに対し、LLM Book版指示チューニング済Swallow 7bモデル(llm-book/Swallow-7b-hf-oasst1-21k-ja)もまたRAGなしでは正解を返すことができませんでしたが、RAGを用いた場合では正解を返すことができるようになりました。またAI王データセットで更に指示チューニングを行ったLLM Book版AI王指示チューニング済Swallow 7b(llm-book/Swallow-7b-hf-oasst1-21k-ja-aio-retriever)も同様に正しい回答を返していることを確認しています。ただし後者はクイズに回答するためのチューニングを施したものなので、漠然とした質問に対して一度に複数の事項を返す(ここでは年月日、場所、指揮者、オーケストラ)への回答ができないため、事項毎に小分けにしたプロンプトで検証しましたが、いずれも正しく答えることができています。

 実はWikipediaの「大地の歌」の記事中には、以下のように日本初演の情報が含まれています。

日本初演は1941年1月22日、東京の日比谷公会堂における第222回定期演奏会にてヨーゼフ・ローゼンシュトック指揮、新交響楽団(NHK交響楽団の前身)、木下保(T)、四家文子(A)による。

それが事前にわかっていれば予想された結果ではありますし、以下の報告で確認頂ける通り、上記のWikipediaの記事がそのまま回答になっているのですが、RAGなしの状態での問い合わせに対しては、「「大地の歌」は1920年に日本で初演された。」という、単純である上に誤った回答しか返ってきませんでしたから、回答の根拠がRAGによって追加されたWikipediaの情報であることは明らかです。今回もそうですが、これまで実験に用いてきた商用ベースの生成AIの出力の「幻覚(Hallucination)」に振り回され気味で、こと今回の質問に限っては、リアルタイム検索を併用しているはずのGeminiも含めて全滅だったところに、唯一の正解が得られたこともあり、RAGの効果を実感できたように思います。

 上掲書では、RAGが解決を目指すLLM(大規模言語モデル)の5つの課題として以下を掲げています(同書 pp.125~7)。

  1. LLMが事実に基づかない出力をしてしまう
  2. LLMの出力の根拠を調べるのが困難
  3. LLMが学習する情報の制御が困難
  4. より新しい情報や異分野のデータへの適応が困難
  5. 知識を扱うために大規模なモデルが必要

本ブログで扱っているような限定されたニッチな領域への生成AIの適用を考えると、上記の3,4がまさに該当しますし、繰り返しになりますが、これまでの報告で1,2,が大きな問題であることは確認済です。5.に関して言えば、今回用意したデータは日本語版Wikipediaのマーラーのカテゴリーの29記事、文字数にして12万強(124444文字)、文埋め込みモデルを用いて作成したベクトルのインデクス数は468に過ぎません。データ作成のために取得した日本語版Wikipediaのdumpに含まれる総記事数は2052430でしたから、全体の中で占める割合は0.001%ということになります。

 大規模言語モデルへのWikipediaの利用はごく一般的に行われているので、関心のあるカテゴリーのみを抽出したり、RAG構築のためのテキストデータとして加工したりする方法について参考にできる情報はWeb上に豊富にあり、今回の実験環境構築にあたり、私もそれらを参考にさせて頂きました。そのお蔭で、初めての挑戦ということもあって若干の試行錯誤はありましたが、実質1日に満たないごく短時間のうちにマーラー専用RAGの構築を行うことができました。RAGの効果を実感できたこともさることながら、その実感の多くはそうした情報に基づくものであり、上掲書の著者の皆さん、Web上で有益な情報を提供して下さっている方々に感謝の意を表したく思います。

 今回は日本語版Wikipediaの記事のみを用いましたし、サンプルコードのままであり、様々なチューニングについては全く実施しておらず(それでもうまく行ってしまったということでもあり、それはそれで驚きですが)、きちんとした評価を行っているわけでもありません。質問を変えたりすれば直ちに明らかになる通り、このままでは精度には限界がありますが、今回構築したものをベースにして更にマーラーに関する詳細で信頼性の高い情報を用意して追加していき、適切なチューニングを行うことによって精度を向上していくことは可能だと感じています。とはいえ、既に別の記事でも指摘したことですが、特に音楽の場合には言語情報のみでは根本的な限界があり、言語情報だけではなく、楽譜やMIDIデータ、音響データといったものも含めたマルチモーダルな学習を行っていく必要があるでしょうから、マーラーに関するAIアシスタントを作るためには、まだまだ課題はたくさんあると思われますが、今回はそれに向けての準備、足掛かりを得るための第一歩として捉えて頂ければと思います。

 最後に、日本語版Wikipediaに基づくRAG以外の回答について、これまでに従い、簡単にコメントをしておきます。

 まずLLM Book版指示チューニング済Swallow 7bモデルですが、初演年のみの簡単な回答で、しかも誤っています。ただしSwallow 7bはLlama 2ベースの、今となっては古いモデルですから、Llama 3ベースのSwallow、更には昨年末にリリースされた最新版であるLllma 3.1ベースのSwallowであれば違った結果になる可能性があります。

 Geminiはリアルタイム検索を併用しており、別の事例ではその効果を窺わせるような回答もありましたが、今回は誤答を返してきています。

 Claudeは「日本初演の正確な日時については、現時点で確実な情報を提供できません。」という回答を返してきており、所謂「幻覚(Hallucination)」への対策が施されていることが窺えます。(モデルが3.5 Haikuに変わったこともあるような気がします。)但し、惜しいかな、回答中の「「大地の歌」は1911年に作曲され」というくだりは、「大地の歌」の作曲時期を巡っての、主としてアルマの回想の混乱に起因する議論のことを考慮に入れても、明確に誤りといって良いでしょう。折角、初演日時については、知らないことについて知らないと言う適切な回答を返せたのに、その中に誤りが混じるのは残念なことですし、逆に読み手に、この部分は正しいのだろうと思わせてしまう効果が生じることを考えれば却って危険にさえ思われ、不徹底なのが惜しまれます。

 ChatGPTは相変わらずフェイクが目につきます。同一モデルで複数の回答を出させると、その度に違った情報が提示されるのは、今回のような事実の確認をするタイプの問い合わせの場合に限れば、回答の信頼性の低さを示すものになっているように感じられます。一方で、モデルによる回答の傾向の違いは興味深く思われます。あくまでも感覚レベルの印象に過ぎませんが、4oはとにかく何かもっともらしい答えを返すことが重視されているようであるのに対し、o3 miniは推論に重きをおいたモデルということで、「資料によっては若干の異論もありますが、一般的にこの日付が日本初演として紹介されています。」というような、回答の信憑性について若干の含みを持たせた回答になっており、推論過程で回答の尤度について何らかの評価がされたことを窺わせます。4o miniの最初の回答は奇妙なもので、第9交響曲との関係は単なる出鱈目ですが、日付を明示的に回答に含めず、各種資料への参照を求めるような回答になっているのは、やはり回答の尤度が高くないという評価の結果の現われでしょうか?2つ目と3つ目の回答は、それぞれ明確なフェイクであり、他の作品についての情報等から、それらしい回答をでっち上げたもののように見えます。それにしても、ChatGPTについてはモデルを切り替えつつ、のべ6回、同一のプロンプトを送った訳ですが、その全てで初演に関する事実について異なった6バージョンの回答が返ってきたのには、驚きを通り越して呆れてしまいました(苦笑)。これがフィクションであれば、6種類の可能世界に分岐が起きるということになるのでしょうが、事実問題については笑い事では済まされないし、こういう分岐が起きること自体、全てがフェイクであることを暗黙裡に告げているようなものです。恐らく、事実についての情報が事前学習結果に明示的には含まれなかった可能性が高く、基本的に日時、場所、指揮者について、関連性の高い情報からもっともらしさが最大のものを拾って回答を作り上げるという、生成AIのやり方が顕わになっているように思います。Claudeの回答はまた異なったものでしたが、少なくとも今回利用したChatGPTに限って言えば、その情報の空間の中では、正解というのも所詮はもっともらしさが最大のものに過ぎず、恐らくは確率的な過程が含まれていることもあり、ゆらぎの効果によって回答毎に異なった答えが出るように、寧ろ意図的に設計ないしチューニングされていることが窺えるように思います。もっともこの点についても、例えば、知識が不十分な領域の質問に答える状況で、とにかく回答することが求められている場合、例えば授業で当てられた学生が当てずっぽうの回答を繰り返すようなシーンや、それこそAI王ではありませんが、クイズの回答者としてわからなくても答えを言わなくてはならないような状況を思い浮かべれば、人間のやっていることがどれだけ違うのかは甚だ怪しく感じられますから、この点を以て機械と人間に線を引くことはできないでしょう。

 今回の質問に関して、Gemini, Claude, ChatGPTのいずれにも共通して言える(序に言えば、SwallowおよびそのベースとなっているLlamaについても同様ですが)のは、RAGに追加で与えた日本語版Wikipediaの記事は公開されているものであり、事前学習の祭に使用しようと思えば可能であったと考えられることです。その一方で、Wikipediaでも英語版をはじめとする日本語版以外の言語の版には、わざわざ日本初演の情報を含める必要性が乏しいと考えられることから、英語による言語データが事前学習の中心であるとするならば、事前学習の対象となる言語データには「大地の歌」の日本初演の情報はそもそも含まれていなかった可能性も少なからずあるでしょう。

 マーラーの作品というニッチな領域の情報であるという点だけではなく、日本固有といったような地域性の高い情報という観点に立った時、理想的には多言語モデルで大規模言語モデルを構築し、言語横断的転移学習を行うということになるのでしょうが、そのために必要とされる膨大なリソースのことを考えると、より現実的な選択肢としては、やはりRAGのような仕組みによる補完が有効なのではないかと思います。更に言えば、仕組みはRAGに限定される必要はないのですが、唯一の巨大な汎用大規模言語モデルが全てに対応するのではなく、一定程度の汎用性は確保しつつも、それぞれ個性と得意分野をもった大規模言語モデルが複数存在し、必要ならばそれらが協調するというイメージの方が私個人としてはより好ましいものに感じられます。そのためにも、大規模言語モデルのローカライズ、パーソナライズの手段・方法が整備され、誰でも使えるようになることが望ましいように思え、その具体的手段の一つしてRAGが既に手元にあることは非常に心強いことに感じられたことを以て本稿の報告を終えようと思います。

(2025.3.26 公開,27, 28, 29加筆修正)

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プロンプト(共通): 「大地の歌」の日本初演は?

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LLM Book版指示チューニング済Swallow 7bモデル(llm-book/Swallow-7b-hf-oasst1-21k-ja) + 日本語版Wikipediaに基づくRAG

「大地の歌」の日本初演は1941年1月22日、東京の日比谷公会堂における第222回定期演奏会で、ヨーゼフ・ローゼンシュトック指揮、新交響楽団(NHK交響楽団の前身)、木下保(T)、四家文子(A)によって行われた。

LLM Book版指示チューニング済Swallow 7bモデル(llm-book/Swallow-7b-hf-oasst1-21k-ja)

「大地の歌」は1920年に日本で初演された。 

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Gemini (2.0 Flash, 2025.3.26)

マーラーの交響曲「大地の歌」の日本初演は、1969年です。

初代音楽監督・森正の指揮、東京都交響楽団によって演奏されました。

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Claude (3.5 Haiku, 2025.3.26)

「大地の歌」の日本初演については、具体的な日付と演奏者について、私の現在の知識では確実な情報を提供できません。もし正確な初演の詳細を知りたいのであれば、日本の音楽史の専門家や音楽図書館などに確認することをお勧めします。

マーラーの作品が日本で初めて演奏されるまでには、当時の西洋音楽受容の文脈を考慮すると、相当の時間を要したと推測されます。「大地の歌」は1911年に作曲され、1911年11月にミュンヘンで初演されていますので、日本への伝播にはある程度の時間がかかったと考えられます。

申し訳ありませんが、日本初演の正確な日時については、現時点で確実な情報を提供できません。

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ChatGPT (4o, 2025.3.26)
マーラーの交響曲「大地の歌」の日本初演は、1952年5月18日 に行われました。

指揮者:渡邉曉雄
オーケストラ:日本フィルハーモニー交響楽団
会場:日比谷公会堂

この公演は、日本におけるマーラー作品の普及において重要な節目となりました。

ChatGPT (4o, 2025.3.26 2回目)

マーラーの**「大地の歌」**の日本初演は、1965年5月28日に行われました。

指揮者: 若杉弘
管弦楽: NHK交響楽団
会場: 東京文化会館

この公演では、テノールのエルンスト・ヘフリガーとバリトンのディートリヒ・フィッシャー=ディースカウが独唱を務めました。

ChatGPT (4o-mini, 2025.3.26)

「大地の歌」(The Song of the Earth)は、グスタフ・マーラーの交響曲第8番ではなく、交響曲第9番の一部として知られる歌曲集です。日本初演は、マーラーの交響曲第9番が取り上げられた際に行われました。特に「大地の歌」は日本でマーラーの作品が紹介された際に重要な位置を占めており、正確な初演の情報は、日本での演奏会などで記録されています。

具体的な演奏日程については、演奏会の記録によるものであるため、詳細な情報はオーケストラや音楽史に関する資料から確認できますが、日本での初演は20世紀初頭のものとして、特に注目されています。

ChatGPT (4o-mini, 2025.3.26 2回目)

「大地の歌」(原題:Das Lied von der Erde)は、グスタフ・マーラーが作曲した交響曲で、1908年に完成されました。この作品の日本初演は、1935年に行われました。指揮はレオポルト・ストコフスキーで、東京で演奏されたと言われています。

ChatGPT (4o-mini, 2025.3.26 3回目)

「大地の歌」(原題:Das Lied von der Erde)の日本初演は、1925年(大正14年)に行われました。指揮者は佐藤功一(さとう こういち)で、東京音楽学校(現・東京芸術大学)での演奏が行われました。この作品は、グスタフ・マーラーの最後の交響曲の一つで、東洋的な詩を使った独特の風味を持つ音楽として、日本でも注目されました。 

ChatGPT (o3, 2025.3.26)

 「大地の歌」は、グスタフ・マーラー作曲の交響詩『Das Lied von der Erde』の日本語タイトルです。日本初演は、東京文化会館で東京交響楽団によって演奏され、指揮を務めたのは近衛秀麿氏で、1961年12月19日に行われました。

なお、資料によっては若干の異論もありますが、一般的にこの日付が日本初演として紹介されています。

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LLM Book版AI王指示チューニング済Swallow 7bモデル(llm-book/Swallow-7b-hf-oasst1-21k-ja)+ 日本語版Wikipediaに基づくRAG

プロンプト:「大地の歌」の日本初演はいつ、どこで?

1941年1月22日、日比谷公会堂

プロンプト:「大地の歌」の日本初演の指揮者は?

ヨーゼフ・ローゼンシュトック

プロンプト:「大地の歌」の日本初演のオーケストラは?

NHK交響楽団

2025年3月24日月曜日

マーラーについて生成AIに聞いてみた(7):第9交響曲第1楽章について

   マーラーの交響曲の特徴について生成AIに聞いてみた結果は既に別の記事で報告済ですが、ここでは更に個別の作品についての分析を生成AIに依頼した結果を報告します。また、Geminiに関しては、その回答の中に別途ファクトチェックを行うべき内容が含まれていたため、その確認のための追加プロンプトとそれに対する回答についても以下の報告に含めます。

 最初にGeminiの回答を見てみます。具体的な分析ではなく、概説的な特徴の説明に終始しているため、明らかな誤りを指摘できる箇所は見当たりません。一方で、参考情報においてウィレム・メンゲルベルクの解釈に言及している点が目につきます。メンゲルベルクはマーラー自身の信頼も厚く、マーラーの音楽の普及に大きな貢献をしたのは事実ですし、バーンスタインと並置されるのも、その重要性を考えれば必ずしも不自然とは言えないかも知れません。しかしながら、私の知る限り、メンゲルベルクのマーラー作品の録音記録は以下の3つだけである筈です。

  • 第5交響曲第4楽章(1926年5月) 
  • 第4交響曲(1939年11月9日, Live)
  • 「さすらう若者の歌」(1939年11月23日, Live)
メンゲルベルクは9曲の番号つき交響曲、「大地の歌」、「嘆きの歌」、「さすらう若者の歌」、「子供の死の歌」を含むマーラーの全管弦楽作品の演奏を行い、パウル・シュテファンによればその回数は229回に及ぶ他、1920年にはコンセルトヘボウ管弦楽団指揮者就任25周年記念として、「マーラー祭」を催してマーラーの管弦楽作品の全曲演奏を行っていますから、当然第9交響曲の演奏は行っています。従ってその解釈が、例えば演奏会評のような形で記録されていても不思議はありませんが、こと第9交響曲については、録音記録があるという話は無論のこと、その演奏解釈にフォーカスして述べた文献というのも私は目にしたことがありません。その一方で、第9交響曲の解釈について述べる際に必ず言及される証言・記録として、アルバン・ベルクが妻のヘレーネに宛てた手紙に記した第1楽章についての印象(これについては別に「証言」として取り上げた記事がありますので、ここでは割愛します)とともに、メンゲルベルクが自分のスコアに書き込んだメモがあることは良く知られているでしょう。ここでは、ジルバーマン編『グスタフ・マーラー事典』(柴田南雄監修・山我哲雄訳, 岩波書店, 1993)に引用されているものを以下に掲げることにします。
「第9交響曲は、彼が愛したすべてのものへの、そして世界への告別である。…第1楽章、『彼が愛した者たち』への告別 彼の妻と子供への、――(最も深い悲哀!)」「第2楽章、『死の舞踏』(お前は墓に入らねばならない!)お前が生きることによって、お前は滅びる。恐るべきユーモア!」「第3楽章、絞首台のユーモア(引かれ者の小唄)。労働、創作、すべては死を免れようとする虚しい努力!…」「第4楽章、マーラーの命の歌…彼は感じ、そして歌う。『さらば』『わが弦のつまびきよ』と。」(上掲書, p.232)
従って可能性として、このメンゲルベルクのメモそのものではないにせよ、それについての言及が、事前学習データか、あるいはリアルタイム検索の結果に含まれていて、それを以て「メンゲルベルクの解釈」と呼んでいる可能性があるように思いました。そこでこの点を確認するために、元の質問からは稍々離れますが、メンゲルベルクの解釈について問い合わせる、追加のプロンプトを投げてみました。
 すると案に相違して、回答には上記メモおよびその内容についての言及はない替わりに、ごく一般的な説明が続いた後、最後の参考情報に「彼の演奏は、録音としても残されており、現在でも聴くことができます。」という説明が出てきます。それまでのメンゲルベルクの解釈の特徴の説明で、「特に、第4楽章の静かで深い感情表現は、聴衆に強い印象を与えます。」といったことが述べられているだけに、思わず、第9交響曲の演奏の録音があるのでは、と思ってしまいそうになりますが、一般にマーラーの作品の演奏の録音があるという意味である可能性も残っているため、その点の確認として、再度、マーラーの第9交響曲のウィレム・メンゲルベルクの録音の時期を問い合わせるプロンプトを投げてみました。
 その結果はご覧の通りで、存在しない筈のライブ録音についての回答が返ってきました。慎重を期するならば、それまで存在が確認されなかった歴史的録音が発掘されるというのはこれまでもあったし、今後もあるでしょうから、未知のライブ録音が実は既に発掘されている可能性もあるでしょうが、調べた限り、そうした情報は見当たりませんでした。従って、現時点の一般的な了解としては、Geminiの回答はフェイクである可能性が高いと考えます。なお、この点についてのファクトチェックのもう一つのアプローチとして、Geminiが示してきた1940年11月7日のライブという日付の情報を手がかりに、メンゲルベルクの演奏会活動の記録を確認し、録音されているかどうか以前の問題として、まず1940年11月7日に演奏会があったか、そのプログラムにマーラーの第9交響曲が含まれるのかを確認するという方法がありますが、残念ながら私の手元にはそれを確認するための情報がありませんので、こちらの方向の探索は断念せざるを得ませんでした。

 次いでChatGPTの回答を見てみます。こちらはGeminiの回答とはうって変わって、所謂楽曲分析のスタイルに近い説明になっています。一見、まともそうに見えますが、スコアと引き比べながら細部を確認していくと、ほとんど使い物にならない、フェイクに近いものであることが直ちにわかります。個別にディティールの誤りを指摘するのは煩瑣なので、一点だけ、マクロな構造区分について確認してみましょう。まず第1楽章の全体は454小節からなり409小節ではありません。409小節目というのは一般にはコーダの開始部分とされています。この一事を以てして、後は論じるまでもないかも知れませんが、おおまかにはソナタ形式に従うとされる、序奏/提示部/展開部/再現部/コーダの区切りについても、指定された小節を確認すれば、それが一般的な分析のそれとは全く異なるだけではなく、マーラー自身が書き込んだ構造的な切れ目を示す複縦線が無視される一方で、楽段の途中で区分が変わったりしていますから、これは解釈のレベルの問題以前の、アドホックな、寧ろ出鱈目に近いものではないかと思います。また何を主題とするかについてはこの曲のような複雑な作品の場合には色々と見解があって然るべきとは思いますが、ChatGPTの言う第2主題、第3主題がどれであるかを同定しようとすれば、途方に暮れることになるのではと思います。全体として、ChatGPTの回答は、具体的なだけに直ちにフェイクであることがわかる、「幻覚(Hallucination)」の度合いの強いものに感じられます。

 最後にClaudeの回答を見てみましょう。これは概説的なGeminiと具体的な楽曲分析に近いChatGPTの中間的なスタイルの説明ですが、概説的な部分についてははっきりとした誤りはないように見える一方、主題素材の箇所のような具体的な部分には、直ちに首を捻るような記述が出てきます。「木管楽器による明るく上昇する旋律」をもつ経過主題、変ニ長調のウィンナワルツ風の第二主題という記述は読み手を当惑させるもので、第1楽章に限らず、第9交響曲についての様々な説明を適当に混淆してでっち上げたものではないかという疑いを強く抱かせるものです。

 以上、第9交響曲の第1楽章の分析についての生成AIの回答を確認してきましたが、概説的な説明についてはともかく、具体的な細部に立ち入った説明を試みた箇所については「幻覚(Hallucination)」の度合いが酷くなるという傾向がはっきりと確認できたように思います。こうしたことが生じる理由は、生成AIの基本的な仕組みにあるように思います。

 そもそもの前提として、基本的に生成AIは、完全に言語データの上だけで、言語記号が接地する現実(言語の側からはリファレントに相当)との関わりなしに、与えられた文章に続きそうな文章を出力しているだけであり、後は対話がもっともらしく、自然になるように、やりとりについて別途訓練しているだけなので、音楽のような言語の外部のものについては根本的な限界があることを確認すべきでしょう。最近の大規模言語モデルでは、インターネット上に公開・共有されているコンピュータプログラムのソースコードを大量に学習させ、そのことにより深い推論が可能になったという報告もあるようですが、楽譜やMIIDデータ、あるいは音響データは学習の対象にはなっていないでしょうから、そもそも対象となっている作品を生成AIが実際に「聴いた」ことはなく、言うならば、言語データによる「人のうわさ」のレベルだけで受け答えしているだけなのです。今回は特定の作品の特定の楽章の分析を題材にしたため、音響的実現ではなくても、楽譜なりMIDIデータなりのような楽曲の構造を記述しているものに接することなく、その楽曲に関する言説のみを専ら素材として、もっともらしい単語を並べているだけであることが、些かグロテスクなまでに強調されて顕在化したように思えます。

 勿論、画像処理が既にそうであるように、恐らくは近い将来、音楽生成AIとの統合もされるでしょうから、音楽を作ったり、演奏したり、ある基準で良し悪しを比較したり、分析したりすることも、そうするプログラムをプロンプトによる言語的な指示に従って生成するかたちで出来るようになる可能性は十分にありますが、少なくとも現時点では、生成AIはあくまで音楽についての言説の空間の中で動いているだけで(しかも、ここでの言語の「意味」は基本的には「分布仮説(distribution hypothesis)」に基づくベクトルによる分散表現に過ぎず、Attentionのメカニズムの導入という画期的なブレイクスルーにより洗練され、巧妙なものになったとはいいながら、元を糾せば所詮はトークン間の相関に過ぎません)、音楽が鳴り響く現実とは基本的に無関係な存在であるという点はいくら強調しても強調のし過ぎということにはならないと思います。

 しかも、仮にそうしたことができるようになったところで、今の延長線上のAIが音楽を聞いて「共感」したり「感動」できるようになるとは思えず、結局AIが私たちが聴いているように音楽を聴くことがない限り、溝は最後まで埋まらないのではないでしょうか。生成AIが返してくる「内面的で深い感情表現」とか「死への予感、生への執着、諦念、そして静かな祈りのような感情が織り交ざり、聴く者の心を深く揺さぶります。」といった言葉は、文字通り「言葉だけ」のものであり、AIが第9交響曲を聴いて、深く心を揺さぶられるということは、少なくとも今しばらくは起きることはないでしょう。マーラーの音楽を聴いて感動するのは、シンギュラリティが到来し、今存在している限りでの「人間」が消滅する迄の間は人間のみの営みであり続ける一方で、マーラーの音楽は、そうした人間が生き続ける間、手を差し伸べ続けてくれる同伴者なのであり、その交感の領域は、大規模言語モデルの「外部」にあり続けるのです。一方で、シンギュラリティの到来とは別に、それが「外部」でなくなった時、その出自と由来に応じて、たとえ見ている風景が互いに全く異なるものであったとしても、AIは最早AIではなくなり、我々と同じように意識を持ち、持続する自我を備えていることになるでしょう。この点を確認することを以て、本稿の結びとしたいと思います。

(2025.3.24)

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プロンプト(共通): マーラーの第9交響曲の第1楽章を分析してください。

Gemini (2025.3.8)

マーラーの交響曲第9番第1楽章は、彼の作品の中でも特に深く、複雑な感情が込められた楽章として知られています。以下に、その分析をまとめます。

1. 楽曲の構成と特徴

  • 形式:
    • ソナタ形式を基調としていますが、伝統的な形式にとらわれない自由な構成となっています。
    • 緩やかなテンポ(Andante comodo)で始まり、次第に感情が高まり、再び静けさへと戻るという、波のような構成が特徴です。
  • 主題:
    • 冒頭の弱々しい動機は、この楽章全体の基調となる重要な要素です。
    • 様々な主題が絡み合い、変容しながら展開していくことで、複雑な感情の動きを表現しています。
  • 感情表現:
    • 死への予感、生への執着、諦念、そして静かな祈りのような感情が織り交ざり、聴く者の心を深く揺さぶります。
    • 特に、楽章の終盤における静寂は、死の受容を暗示しているとも解釈されています。

2. 音楽的な要素

  • オーケストレーション:
    • 繊細な弦楽器の響き、孤独感を漂わせる木管楽器、そして時折現れる金管楽器の力強い響きが、感情の起伏を豊かに表現しています。
    • 弱音の多用も特徴的で、内面的で深い感情表現に貢献しています。
  • 調性:
    • 調性の曖昧さや、頻繁な転調が、不安定で揺れ動く感情を表現しています。
    • 特に、終結部における調性の曖昧さは、死後の世界を暗示しているとも考えられます。
  • リズム:
    • リズムの揺らぎや、テンポの変化が、感情の不安定さを表現しています。
    • 特に、楽章の終盤におけるリズムの崩壊は、生の終焉を暗示しているとも解釈されています。

3. 解釈

  • この楽章は、マーラー自身の死への予感や、人生に対する深い考察が込められていると考えられています。
  • 聴く人によって様々な解釈が可能ですが、共通して言えるのは、人間の根源的な感情に深く訴えかける音楽であるということです。
  • この第1楽章は、死と別れ、浄化へと向かう、厭世感の中の光、マーラーの最高傑作と言われています。

参考情報

  • この楽章の解釈については、指揮者や音楽評論家によって様々な意見があります。
  • 特に、レナード・バーンスタインやヴィレム・メンゲルベルクなどの解釈は有名です。
  • 村井翔氏の著書など、マーラーについての日本語によるすぐれた伝記も参考になるでしょう。

この分析が、マーラーの交響曲第9番第1楽章をより深く理解する一助となれば幸いです。

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プロンプト(Geminiのみ): マーラーの第9交響曲のウィレム・メンゲルベルクの解釈について教えてください。

Gemini (2025.3.24)

ウィレム・メンゲルベルクは、グスタフ・マーラーの交響曲第9番を深く理解し、その解釈において重要な役割を果たした指揮者の一人です。彼の解釈には以下のような特徴があります。

  • 死への別れという解釈:
    • メンゲルベルクは、この曲をマーラーがこの世に別れを告げる作品であると解釈しました。これは、当時のマーラーが心臓疾患を抱え、死への不安を感じていたことと関連付けられています。
  • 感情の深い表現:
    • メンゲルベルクの演奏は、感情の起伏を大きく、かつ繊細に表現することで知られています。特に、第4楽章の静かで深い感情表現は、聴衆に強い印象を与えます。
  • 独自のテンポとニュアンス:
    • メンゲルベルクは、独自のテンポとニュアンスを用いて、楽曲に独自の解釈を加えました。これにより、彼の演奏は非常に個性的なものとなっています。
  • 時代背景との関連性:
    • メンゲルベルクの演奏は、当時の時代背景、特に第一次世界大戦前夜の緊張感や世紀末的な雰囲気を反映しているとも言われています。

メンゲルベルクの解釈は、マーラーの交響曲第9番の理解を深める上で、非常に重要なものです。彼の演奏は、今でも多くの音楽ファンに感銘を与え続けています。

参考情報として、以下のような点も挙げられます。

  • メンゲルベルクは、マーラーの作品を積極的に取り上げ、その普及に貢献しました。
  • 彼の演奏は、録音としても残されており、現在でも聴くことができます。

これらの情報を参考に、メンゲルベルクの解釈に触れてみてはいかがでしょうか。


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プロンプト(Geminiのみ): マーラーの第9交響曲のウィレム・メンゲルベルクの録音はいつ行われましたか?

Gemini (2025.3.24)

ウィレム・メンゲルベルクがマーラーの交響曲第9番を録音したのは、1940年11月7日のライブ録音です。

メンゲルベルクは、マーラーの交響曲第9番を深く理解し、その解釈において重要な役割を果たした指揮者の一人です。彼の演奏は、感情の起伏を大きく、かつ繊細に表現することで知られています。特に、第4楽章の静かで深い感情表現は、聴衆に強い印象を与えます。

メンゲルベルクの録音は、歴史的にも非常に貴重な資料であり、現在でも多くの音楽ファンに感銘を与え続けています。


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プロンプト(共通): マーラーの第9交響曲の第1楽章を分析してください。

ChatGPT (2025.3.8)

グスタフ・マーラーの交響曲第9番 第1楽章は、その構造、動機、和声、感情的な展開において非常に重要な楽章です。この楽章はマーラーの「死と別れ」のテーマが色濃く反映され、彼の最も個人的で深遠な音楽の一つとされています。


1. 概要

  • 調性: ニ長調(ただし、頻繁に変化)
  • テンポ記号: Andante comodo(快適なアンダンテ)
  • 形式: ソナタ形式に基づくが、自由な展開を持つ
  • 主要テーマ: 「心臓の鼓動」と呼ばれる動機を中心に、死と別れを象徴する旋律が展開

2. 構造と分析

▶ 序奏(小節1-31)

🔹 「心臓の鼓動」の動機(A音の反復)

  • 冒頭、弦楽器(ヴァイオリン)による A音の反復(マーラー自身の「不整脈」ではないかとも言われる)
  • ハープとホルンが加わり、静かに主題を提示
  • 調性感が曖昧で、不安定な開始

🔹 第1主題(ニ長調)

  • チェロによる下降音形の旋律(内省的で寂しげ)
  • これが後の展開部や終結部で繰り返され、楽章全体を支配

▶ 提示部(小節32-150)

🔹 第2主題(変イ長調)

  • 第1主題とは対照的に暖かく、歌うような旋律
  • 弦楽器が優しく広がり、穏やかで「救済」のような雰囲気

🔹 推移部

  • 急に不協和音やクロマティックな動きが現れ、不安が増す
  • フレーズの間に「心臓の鼓動」のリズムが埋め込まれる

🔹 第3主題(ニ短調)

  • 弦楽器による激情的で不安定な旋律
  • これが楽章後半の「死の叫び」として戻ってくる

▶ 展開部(小節151-285)

🔹 主題の解体と再構築

  • 主要動機が断片化し、再構成される
  • 不協和音や急激なダイナミクスの変化で、精神的な混乱を表現
  • 突然の爆発的なクライマックス(小節200前後)
    • 「死の恐怖」のような激しい不協和音と金管楽器の咆哮

▶ 再現部(小節286-380)

  • 第1主題が回帰するが、より崩壊した形で現れる
  • 第2主題は安定せず、途中で消えてしまう

▶ コーダ(小節381-409)

  • 弱音器をつけた弦楽器による静かな終結
  • 「心臓の鼓動」の動機が徐々に消え去る
  • 非常に静かなディミヌエンドで終わり、まるで生命が終息するかのよう

3. 音楽的・心理的特徴

▶ 1) 「死と別れ」の象徴

  • 動機の反復: 「心臓の鼓動」は、生命の終焉を象徴
  • 第1主題の下降音形: 悲しみと沈黙へ向かう動き
  • 第3主題の激しさ: 生への未練と死の恐怖

▶ 2) 和声の不安定さ

  • 頻繁な転調(ニ長調→変イ長調→ニ短調)
  • 半音階的な進行が不安定な感情を表現
  • 長調と短調が共存し、希望と絶望が入り混じる

▶ 3) 形式の自由さ

  • ソナタ形式に基づいているが、感情の流れが優先される
  • 反復ではなく変容が重要(主題がそのまま戻ることはほぼない)

4. まとめ

マーラーの交響曲第9番 第1楽章は、死を前にした人間の深い内面世界を描き出した楽章です。

  • 心臓の鼓動の動機が音楽全体に影響を与える
  • 調性の揺らぎによって、心理的な不安定さを表現
  • 静かに消えていく終結は、まるで人生が静かに幕を閉じるよう

この楽章は、単なる交響曲の一部ではなく、**マーラー自身の「別れの歌」**とも言われています。
マーラーはこの曲を書いた後、翌年1911年に亡くなったため、この楽章は彼の人生の総括とも言えるでしょう。

🎼 「生と死の狭間に揺れる、マーラーの最も感動的な音楽」 といえますね。


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プロンプト(共通): マーラーの第9交響曲の第1楽章を分析してください。

Claude (2025.3.23)

マーラーの交響曲第9番の第1楽章の分析をご紹介します。

マーラー交響曲第9番 第1楽章(Andante comodo)の分析

全体構造

第1楽章はソナタ形式を基礎としていますが、伝統的なソナタ形式を拡大し、変形した複雑な構造を持っています。大きく分けると「提示部」「展開部」「再現部」「コーダ」から構成されています。

主題素材

  1. 第1主題(D長調): ハープとホルンによる心臓の鼓動を思わせるリズム動機から始まり、弦楽器による下降する主題へと移行します。この主題は「別れ」や「諦念」を象徴するとされています。

  2. 経過主題: 木管楽器による明るく上昇する旋律で、第1主題と対照的な性格を持ちます。

  3. 第2主題(D♭長調): 弦楽器による温かく豊かな表情の旋律で、ウィンナーワルツを思わせる性格を持っています。

楽章の展開

  • 導入部: ハープとホルンによる鼓動のリズム動機が提示され、チェロによる第1主題の断片が現れます。

  • 提示部: 第1主題が完全な形で提示された後、次第に緊張が高まり、経過主題を経て第2主題へと到達します。第2主題は暖かく叙情的な雰囲気を持ちます。

  • 展開部: 主題素材が断片化され、変形されながら激しい感情の起伏を見せます。クライマックスでは苦悩や絶望を表現する激しい不協和音が鳴り響きます。

  • 再現部: 第1主題が変形された形で回帰しますが、当初の平静さは失われています。第2主題も再現されますが、調性や表現が変化しています。

  • コーダ: 静かに始まりますが、最後に激しい爆発的な瞬間があり、その後、諦めと受容を表現するかのように静かに終結します。

音楽的特徴

  • 調性の揺らぎ: D長調を基調としながらも、D♭長調など遠い調への移行や頻繁な転調が見られます。

  • 対位法的処理: 複数の主題や動機が同時に展開される複雑な対位法的書法が随所に見られます。

  • オーケストレーション: 繊細な室内楽的な箇所と、全オーケストラによる壮大な響きの対比が劇的効果を生み出しています。

  • リズムの変化: 拍子が頻繁に変わり、リズムのパターンも様々に変化します。

象徴性

この楽章はマーラーの「別れの音楽」と解釈されることが多く、死を前にした作曲家の内面的な葛藤と諦念、そして最終的な受容が表現されています。心臓の鼓動を思わせるリズム動機や、「さようなら」を意味する下降する旋律など、象徴的な要素が多く含まれています。

マーラーはこの曲を完成した後、自身の初演を聴くことなく世を去りました。この第1楽章は、彼の芸術の集大成であると同時に、人生との別れを予感させる深い精神性を持つ音楽となっています。


2025年3月20日木曜日

マーラーについて生成AIに聞いてみた(6):アドルノのマーラー評について

  この記事では、アドルノがマーラーについてどのように述べているかについて生成AIに聞いてみた結果を報告します。これは高度に専門的な話題であり、回答の当否を厳密に判断するのは市井の一愛好家に過ぎない私の手に余りますので、判断は哲学・音楽学に精通された専門家に委ね、軽率な判断は慎むべきと考えますが、それでも素人なりに、特にChatGOTの回答には疑念が生じる部分があったため、追加のプロンプトを幾つか送ってみましたので、その回答も併せて報告することにします。

 Geminiの回答は、アドルノの主張のニュアンスが捉え切れていない感じがある箇所、稍々もすると一面的でミスリードの懸念がある部分が散見されるものの、明らかに間違っていると指摘できる部分はなく、概説レベルとしては一先ずそつなくまとめられていると感じられ、その当否の判断は専門家の判断に委ねたく思います。

 Claudeの回答は、私見では、アドルノの主張のまとめとしては、ある面でGeminiよりもより適切と感じられる面もあるように感じますが、その点の適否もまた専門家の判断に委ねるべきでしょう。その一方で、Mahler: Eine musikalische Physiognomik, 1960の邦題を、こともあろうに『マーラー:音楽的生理学』としている点がどうしても気になってしまいます。既に歌曲についてのやりとりの報告でも述べた通り、この邦題は原題の(単語単位の)逐語的翻訳として得られたものではないことを示唆するように思われます。決してどうでも良い些末ではないでしょうが、例えば英語やドイツ語でプロンプトを出せば回避できる(というか、ことによったら敢えて訳題を示すまでもないということで、そもそも生じない可能性もある)問題ではあると思われます。(本稿の目的から外れるので、検証はしていませんが。)

 問題はChatGPTの回答です。とはいえこれも、大筋としてはそんなにおかしな説明ではないと思いますが、Claude同様、Mahler: Eine musikalische Physiognomik, 1960の邦題をを「マーラー:音楽的生理学」としている点を措いて、問題になる点を指摘するとしたら、4番目に挙げられた「「終末の音楽」としてのマーラー」という規定です。一見したところ一般論としては如何にもそういう言説が存在しそうではありますが、「アドルノは、マーラーの音楽を「終末の音楽(Endzeitmusik)」と述べているのを文字通りに受け止めるならば、管見ではそのような表現は見たことがなく、この点のファクトチェックの必要性を感じました。

 更に言えば、第9交響曲や第10交響曲について「従来の調性音楽が持つ安定性が崩壊」するという指摘は一定の妥当性を持つでしょうが、それに続く指摘の方は、アドルノの見解としては稍々不適切に感じられます。「極端な不協和音」は、恐らく第10交響曲アダージョの頂点に出現する不協和音を取り上げてのことでしょうし、解体的な構造というのは、こちらは第9交響曲第4楽章のアダージョを取り上げてのことでしょうが、これについて「単なる死の音楽ではなく、「西洋音楽のある種の終焉」を示唆している」という議論をアドルノがするとは思えません。まず「死の音楽」という標題音楽的な捉え方に対してアドルノは賛成しないでしょうし、それを「西洋音楽のある種の終焉」と見做すというのも、彼自身もその一員であったと言って良い、新ウィーン楽派に対する姿勢に基づいて考える限り不自然で、一般的なマーラーに関する言説をアドルノの所説にすり替えて述べているに過ぎないのではという疑いが持たれます。繰り返しになりますが、そもそも「終末の音楽(Endzeitmusik)」というのはアドルノの用語として耳慣れないもので、私が無知なだけかも知れませんが、ことマーラーに関してに文脈を限れば、私は聞いたことがありませんでした。そこでまずChatGPT言うところのアドルノの用語としての「終末の音楽(Endzeitmusik)」について追加のプロンプトを送りました。

 すると回答は、特にヴェーベルンを中心とした「「新ウィーン楽派」に関わる議論の中で現れる重要なテーマ」というもので、(その内容の真偽は一先ず措くとしても)マーラーへの言及がなかったため、追加のプロンプトでその典拠を尋ねてみることにしました。それに対する回答では、アドルノの4つの著作が挙げられています。そのうちの一つにマーラーについてのモノグラフである Mahler: Eine musikalische Physiognomik が含まれるものの、「直接「Endzeitmusik」とは言わない」という回答です。しかも邦題は「マーラー:音楽的形相」とされており、その原因は既にClaudeへのコメントで述べたのと同様の、生成AIの回答の生成の仕方に由来するものと思われますが、こちらも誤差の範囲とは言い難いものです。のみならず4つのうちの最初の、しかも唯一「Endzeitmusik(終末の音楽)」という言い回しがヴェーベルンの音楽を表現する言葉として出てくるとされる、Quasi una Fantasia所収の論文名の邦題と原題が「ヴェーベルンについて(Vers une musique informelle)」というように食い違っており、これもまた著作タイトルの「誤訳」と原因は同じなのでしょうが、こちらは最早「誤訳」と呼べるレベルですらなく、読み手は当惑する他ありません。実際にはアドルノにはヴェーベルンについて単独に論じた論文が2つありますが、いずれもQuasi una Fantasia所収ではありません。一つはKlangfiguren所収の1959年執筆のもので、こちらには邦訳があります(竹内豊治編訳『アントン・ヴェーベルン その音楽を享受するために』, 法政大学出版局, 1974, 増補改訂版1986に所収)。もう一つはImpromptus所収の1932年のものです。一方、Vers une musique informelle というフランス語のタイトルを持つ論文は、確かにQuasi una Fantasiaの最後に収められています。しかし、法政大学出版局から出ている岡田暁生・藤井俊之訳の『アドルノ音楽論集 幻想曲風に』では「アンフォルメル音楽の方へ」という邦題を持つこの論文は、確かにヴェーベルンへの少なからぬ言及はあるものの、ヴェーベルンを主題としたヴェーベルン論というわけでは決してなく、寧ろ、その後の世代が話題の中心となっているものですから、これを「ヴェーベルンについて」とするのは明らかに妥当性を欠きます。しかも私が確認した限りでは、「ヴェーベルンの作品を「Endzeitmusik(終末の音楽)」と表現してい」る箇所はこの論文の中には見出せませんでした。そう思って改めてChatGPTの回答を読み返してみると、冒頭、「アドルノが「終末の音楽(Endzeitmusik)」という語を実際に用いて論じている」著作・テキストと言っておきながら、個別の紹介においては4つのうち3つ迄もが、「「終末の音楽」という具体的な語は使っていません」「「Endzeitmusik」という言葉は登場しません」「直接「Endzeitmusik」とは言わない」とされ、そもそも回答内部での辻褄が合っていないことも、回答の信憑性に疑義を投げかけずにはおきません。

 というわけで、これは「幻覚・ハルシネーション(Hallucination)」と呼ばれる、生成AIがでっちあげたフェイクである疑いが高くなってきた訳ですが、それを確認する意味合いも含め、今度はアドルノがマーラーの音楽を「終末の音楽(Endzeitmusik)」と呼んでいる著作を問い合わせるプロンプトを送ります。

 すると何と、回答は Mahler: Eine musikalische Physiognomik(邦題は、今度は「マーラー──音楽的形象」となっていますが、よもや前の回答の4番目と異なる著作ということはありますまい)とのこと。しかも冒頭、今度は「グスタフ・マーラーの音楽を「終末の音楽(Endzeitmusik)」と明示的に呼んでいる著作」であると明言し、更に本文冒頭で「この本の中で、アドルノはマーラーの音楽を明確に「Endzeitmusik(終末の音楽)」と呼んでいます」と繰り返し、更にまとめにおいても「アドルノが「マーラーの音楽」を「終末の音楽(Endzeitmusik)」と直接呼んでいるのは、 『マーラー──音楽的形象(Mahler: Eine musikalische Physiognomik)』」と述べています。しかしながら何十年にもわたって何度となく読み返してきたにも関わらず、アドルノのこの著作で「Endzeitmusik(終末の音楽)」という言葉が出てきた記憶は私にはついぞありません。しかしChatGPTの回答は断定的で、更に出典の詳細の項において「原文では「Endzeitmusik」という語が登場する箇所が明示的にあります。」「邦訳では、『マーラー 音楽的形象』(三光長治訳、法政大学出版局)などで確認できます。」とまで述べています。余程私は不注意な読み方をしてきたものかと、思わずたじろいでしまいそうになりましたが、末尾で「該当箇所の引用や解説をもう少し詳しく見たいなら、原文や邦訳のテキストをもとに深掘りする」と言ってくれていることもあるので(笑)、半信半疑で該当箇所の引用を求めるプロンプトを送ることにします。なお、付け加えておくと、Mahler: Eine musikalische Physiognomikの邦訳は、旧訳が竹内豊治/橋本一範訳、新訳が龍村あや子訳で、三光長治訳というのは存在しません(部分訳なら、例えば『音楽の手帖 マーラー』, 青土社, 1980に、深田甫による第4章のみの翻訳が「マーラーの長編小説(ロマーン)形式」という邦題で収録されていたりしますが)。つまりこの点については明らかに虚偽の回答となっています。

 該当箇所の引用を求めるプロンプトに対してChatGPTが返してきた回答では、ドイツ語原文と邦訳対照で、しかもページ数まで付けた引用がなされていますが、にも関わらず、私の調べた限りでは、この文章を確認することはできませんでした。邦訳の方は訳者が間違っているか、架空のものであるかのいずれかということになりますが、念のため、新旧両方の訳で指定されたページを確認しても、(最早当然のことかも知れませんが、)引用された文章は出てきません。

 勿論、私の見落としの可能性が完全に否定できるわけではないので、断定はできませんし、最終的には専門家の意見を伺うべきでしょうが、どうやら本稿の質問については、壮大な「幻覚・ハルシネーション(Hallucination)」に立ち会っている可能性が極めて高そうです。

 改めて経緯を整理すると、最初にアドルノがマーラーを「Endzeitmusik(終末の音楽)」としていると述べながら、「終末の音楽(Endzeitmusik)」とは何かを尋ねると、それは新ウィーン楽派、特にヴェーベルンに関わるものとされ、Mahler: Eine musikalische Physiognomik にも直接は出て来ないとしながら、更に問い質すと、今後は明示的に「Endzeitmusik(終末の音楽)」への言及が存在するという回答になり、しかも原文・邦訳対照で典拠を示す回答が返ってきました。こうした一連のやりとりの流れからすると、改めて「終末の音楽(Endzeitmusik)」について尋ねるれば、上記のようなプロンプトと回答のやり取りの文脈の影響により、異なった回答が返ってくることが強く予想されます。そこで最後に、アドルノの「終末の音楽(Endzeitmusik)」についてもう一度説明を求めるプロンプトを送ったので、その回答を収録することで報告を終えたいと思います。

 結果はまさに予想通り。今後はヴェーベルのみならず、マーラーについての言及も含まれた回答に変わっています。回答間の首尾一貫性はなく、寧ろ、嘘をつき始めると辻褄合わせを延々行う羽目に陥り、じきに言っていることに矛盾が生じるといった状況を思わせ、一連回答は全て、その場しのぎのフェイクではないかという疑念を裏付ける結果となっているように思えます。

 本稿では、アドルノのマーラー評という高度に専門的な内容について、生成AIに問い合わせて結果を紹介しましたが、特にChatGPTの回答では、その危険が喧伝されている「幻覚・ハルシネーション(Hallucination)」を目の当たりにすることになりました。こちらに疑いを持てるだけの或る程度の情報が予備知識としてなければ、ここまで明示的にまことしやかに回答されると、思わず本当にアドルノがそうした文章を書いていると信じてしまいかねないように感じます。もっとも、何度かプロンプトを送って確認していくうちに、回答同士が矛盾したり、フェイクを疑わせるようなディティールが出て来たりするので、そうした不整合や誤謬から、フェイクでないかと疑いを持つことも可能そうではありますが、それとてある程度の背景知識がなければ気付かなかったり、見過ごしてしまうかも知れず、慎重は判断が求められるということを痛感しました。

 念のために付け加えさせて頂くと、ChatGPTの最後の回答にある「「終末の音楽(Endzeitmusik)」は、文明や歴史の終わりを映す音楽であり、伝統の崩壊と人間の孤立を描く音楽であり、マーラーやヴェーベルンはその代表例である。」或いは「単なる絶望ではなく、真実を見つめることで可能になる「未来へのかすかな希望」も内包する。」という指摘は、それ自体が間違いであるという指摘をしている訳ではありません。ここで問題にしているのは、それがアドルノの発言であるかどうかの事実関係についてであり、それを別にしてしまえば、ChatGPTの回答は、オリジナルのマーラーやヴェーベルンに対する評として、(もしかしたら、アドルノのマーラー評を更に発展させたものとして)一定の妥当性を持ちうるという判断さえありうるかも知れません。これも良く言われることですが、生成AIを真偽がクリティカルな状況で用いるのではなく、新たな発想のヒントを得るためのスプリング・ボードのようなものとして用いるのであれば、有効なツールとなり得る可能性があるのではないでしょうか?勿論、必ずしもいつもそうとは限らず、寧ろ多くの場合には百害あって一利なしの単なるフェイクかも知れませんが、受け取り方次第で、虚実が入り混じった回答の中から新規性があって興味深い見解を引き出すことだって不可能ではないのでは、という感じもまた一方で持ちましたので、そのことを報告して本稿の結びとしたいと思います。

(2025.3.20公開, 3.22,23補筆改訂) 

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プロンプト(共通): アドルノはマーラーについてどのように述べていますか?

Gemini (2025.3.8)

テオドール・アドルノは、グスタフ・マーラーの音楽について、その社会的、哲学的意義を深く考察しました。以下に、アドルノがマーラーについて述べた主な点をまとめます。

1. 社会的矛盾の反映:

  • アドルノは、マーラーの音楽を、当時のオーストリア社会の矛盾や、近代社会の疎外感を反映したものとして捉えました。
  • マーラーの音楽に現れる断片的な要素や、突然の感情の爆発は、資本主義社会における個人の不安や孤独を象徴していると指摘しました。

2. 音楽的言語の革新性:

  • アドルノは、マーラーの音楽が、伝統的な調性音楽の枠組みを破壊し、新しい音楽的言語を創造したことを評価しました。
  • マーラーの音楽における不協和音や、形式の自由さは、当時の音楽における進歩的な試みであると述べました。

3. 記憶とユートピア:

  • アドルノは、マーラーの音楽には、子供の頃の記憶や、失われたユートピアへの憧憬が込められていると指摘しました。
  • マーラーの音楽に現れるノスタルジックな旋律や、幻想的な雰囲気は、過去への回帰願望を表現していると解釈しました。

4. 音楽観想学:

  • アドルノは、著書「マーラー 音楽観想学」において、マーラーの音楽を詳細に分析し、その哲学的意義を明らかにしました。
  • この著作は、マーラー研究における重要な文献の一つとして、現在も高く評価されています。

要約:

アドルノは、マーラーの音楽を、単なる個人的な感情表現ではなく、当時の社会状況や、人間の内面を深く反映した芸術作品として捉えました。彼の分析は、マーラーの音楽をより深く理解するための重要な視点を提供しています。


Claude (2025.3.10)

テオドール・アドルノは20世紀の重要な哲学者・音楽批評家として、マーラーの音楽について広範かつ深い分析を行いました。特に彼の著書『マーラー:音楽的生理学』(Mahler: Eine musikalische Physiognomik, 1960)はマーラー研究において重要な位置を占めています。

アドルノのマーラー解釈の主な特徴としては:

  1. 近代性の体現者としてのマーラー - アドルノはマーラーの音楽を、近代社会の疎外や矛盾を体現したものとして解釈しました。彼にとってマーラーの音楽は「傷ついた音楽」であり、近代の亀裂や不協和を率直に表現するものでした。

  2. 断片と全体性の弁証法 - アドルノはマーラーの音楽における断片的要素(民謡の断片、マーチ、日常音楽など)と、それらを統合しようとする全体性への試みの緊張関係に注目しました。

  3. 否定性の美学 - マーラーの音楽における不協和音や「破綻」の瞬間を、社会的矛盾の表現として肯定的に評価しました。

  4. 疎外された主体性 - マーラーの音楽に、近代社会における個人の疎外された状況の表現を見出しました。

  5. 進歩的要素 - アドルノはマーラーの音楽的技法(特に発展的変奏や長大な形式など)を、新ウィーン楽派など20世紀音楽の先駆的要素として評価しました。

アドルノはマーラーを、単なる後期ロマン派の作曲家ではなく、近代社会の矛盾を音楽的に体現し、同時にそれを超える可能性を示した革新的作曲家として位置づけました。彼のマーラー解釈は、20世紀後半以降のマーラー復興および現代におけるマーラー理解に大きな影響を与えています。


ChatGPT (2025.3.8)

テオドール・W・アドルノ(Theodor W. Adorno)は、マーラーの音楽について哲学的かつ社会批判的な視点から詳細に論じています。特に著書 "Mahler: Eine Musikalische Physiognomik"(マーラー:音楽的生理学)(1960年)で、マーラーの交響曲が持つ特異性や、20世紀初頭の社会との関連について考察しました。

アドルノのマーラー評の主なポイント

1. マーラーは「音楽における異化の作曲家」

  • アドルノは、マーラーの交響曲を「異化(Verfremdung)の音楽」と位置づけました。
  • 彼の作品はベートーヴェン的な「有機的統一」ではなく、異なる要素が断片的に配置され、それが意図的な「ズレ」を生んでいる。
  • 例えば、高貴な旋律と庶民的なワルツや軍楽隊の音楽が対比される(交響曲第5番、第7番など)。

2. キッチュと崇高の共存

  • マーラーは、当時の大衆的な音楽(例えばウィーンのカフェ音楽や行進曲)を取り入れながら、それを独特な方法で変容させている。
  • これは「単なるキッチュ(大衆文化)」ではなく、崇高な音楽と庶民的な音楽がぶつかり合いながら、新たな意味を生み出している。
  • 交響曲第9番の最後は「静かに消え去る」ように終わるが、これはロマン派の終結の仕方とは異なり、崩壊と不安を象徴していると解釈。

3. マーラーの交響曲は「崩壊するブルジョワ社会の鏡」

  • アドルノは、マーラーの音楽が「近代社会の不安定さ」を映し出していると考えた。
  • 19世紀のロマン派音楽(ベートーヴェン、ブラームスなど)の伝統を受け継ぎながらも、20世紀の動乱や個人の孤独を反映している。
  • 交響曲の形式を保ちつつも、その枠組みを破壊し、しばしば**アイロニーや諧謔(ユーモア)**が込められている。

4. 「終末の音楽」としてのマーラー

  • アドルノは、マーラーの音楽を「終末の音楽(Endzeitmusik)」と表現した。
  • これは単なる死の音楽ではなく、「西洋音楽のある種の終焉」を示唆している。
  • 特に交響曲第9番や未完の第10番では、従来の調性音楽が持つ安定性が崩壊し、極端な不協和音や解体的な構造が現れる。

まとめ

アドルノにとってマーラーは、単なるロマン派の作曲家ではなく、「20世紀の精神的・社会的危機を音楽で表現した先駆者」でした。マーラーの音楽は、感情の高揚やドラマティックな展開を持ちながらも、どこか不安定でアイロニカル。その意味で、マーラーは「崩壊しつつある時代の証言者」であるとアドルノは考えました。

アドルノのマーラー論は、今日のマーラー再評価にも大きな影響を与えています! 🎼

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プロンプト(ChatGPTのみ): アドルノの「終末の音楽(Endzeitmusik)」について説明してください。

ChatGPT (2025.3.20)

アドルノ(Theodor W. Adorno)が論じた「終末の音楽(Endzeitmusik)」という概念は、彼の音楽哲学や批評の中で特に20世紀の現代音楽、とりわけアーノルド・シェーンベルクやアントン・ヴェーベルンら「新ウィーン楽派」に関わる議論の中で現れる重要なテーマです。

「終末の音楽(Endzeitmusik)」とは何か

「Endzeitmusik」という言葉は直訳すると「終末時代の音楽」や「終末の音楽」となり、文明や歴史のある種の終焉を反映した音楽を意味します。アドルノはこの言葉で、以下のような状況を指しています。

1. 歴史の危機と音楽の反映

アドルノは、近代ヨーロッパの文化や精神が第一次・第二次世界大戦やホロコーストなどによって根本的に崩壊したと考えています。その「歴史の終末感」「人類文明の破綻」が芸術においても強烈に反映されているとみなし、これを「終末の音楽」という言葉で表現しています。

2. 伝統の崩壊と無調音楽

シェーンベルクやヴェーベルンの無調音楽(アトナリティ)や十二音技法の作品は、伝統的な調性システム(長調や短調など)の崩壊を意味しています。調性が崩れ、音楽は不協和音や断片化、沈黙、緊張の持続に満ちる。アドルノはそれを「終末的」であり、「もはや過去の調和や美しさの幻想は成立しない」という時代精神の表れと見なしました。

3. ヴェーベルンの音楽=終末の象徴

特にアントン・ヴェーベルンの極端に凝縮された、沈黙に満ちた音楽は「文明の終末における音楽」として象徴的だとアドルノは考えました。ヴェーベルンの作品は極限まで簡潔になり、ほとんど音が鳴らない瞬間さえある。それがアドルノには「歴史が尽きた後の音楽」「言語が沈黙した後の表現」と映ったのです。


終末の音楽とアドルノの美学

アドルノは「美しい芸術はもはや可能か」という問いを20世紀の歴史的状況から出発して考えました。芸術は「アウシュビッツ以後」に何ができるのか。その答えの一つが、安易な調和や娯楽に回収されない、「否定の精神」を貫いた「終末の音楽」であり、それは倫理的責任を帯びた芸術だと彼は評価します。


現代における意味

「Endzeitmusik」は単なるペシミズムではなく、徹底的な批判精神と向き合う芸術、崩壊の時代にあっても「誠実」であり続ける表現の模索と理解されることが多いです。


もし興味あれば、具体的にどの作曲家や作品が「終末の音楽」として語られているのか、あるいはアドルノのどの著作でこのテーマが語られているかも紹介できます!

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プロンプト(ChatGPTのみ): アドルノのどの著作で「終末の音楽(Endzeitmusik)」が語られているか教えてください。

ChatGPT (2025.3.20)

アドルノが「終末の音楽(Endzeitmusik)」という語を実際に用いて論じているのは、主に以下の著作やテキストです。


1. 『音楽美学論集(Quasi una Fantasia)』(1963年)

  • 特に「ヴェーベルンについて(Vers une musique informelle)」の中で、ヴェーベルンの作品を「Endzeitmusik(終末の音楽)」と表現しています。
  • 彼はヴェーベルンの音楽を、極限まで簡潔化され、沈黙と無音の境界にある「音楽の終末」とみなし、「終末の時代における音楽」としてその本質を語ります。
  • アドルノはここで、ヴェーベルンの音楽が歴史の終焉を映し出しており、それゆえに倫理的な重みと救済の可能性を孕むものだと評価しています。

2. 『現代音楽の哲学(Philosophie der neuen Musik)』(1949年)

  • ここでは「終末の音楽」という具体的な語は使っていませんが、シェーンベルクやストラヴィンスキーをめぐる議論の中で、歴史の終末や文明の崩壊を映し出す現代音楽の在り方について詳細に論じています。
  • 無調音楽や十二音技法が、調性音楽の崩壊以後における「破局の後の音楽」であることを繰り返し強調しており、「終末の音楽」という概念と密接に関わっています。

3. 『美の理論(Ästhetische Theorie)』(1970年、死後出版)

  • こちらも「Endzeitmusik」という言葉は登場しませんが、芸術の終焉やアウシュビッツ以後の芸術が抱える「不可能性」について論じています。
  • 音楽における否定性や破局の美学が語られる場面が多く、間接的に「終末の音楽」との関連を読み取ることができます。

4. 「Mahler: Eine musikalische Physiognomik(マーラー:音楽的形相)」

  • この著作では、マーラーの音楽を「歴史の終末に鳴り響く音楽」として捉えています。アドルノはマーラーの交響曲を「文明の黄昏」や「崩壊の音楽」として解釈し、マーラーがロマン主義の最後の作曲家であることを強調しています。
  • 直接「Endzeitmusik」とは言わないものの、アドルノがマーラーの音楽に感じ取った「終末性」は、ヴェーベルンに対する評価とも通じています。

まとめ

直接「Endzeitmusik」という語が現れるのは
➡️ 『Quasi una Fantasia(音楽美学論集)』の中のヴェーベルン論です。

概念としては
➡️ 『現代音楽の哲学』や『美の理論』、そしてマーラー論などアドルノの幅広い音楽評論や哲学的議論に散見されます。


もし特定の作品について掘り下げたければ、たとえば「ヴェーベルン論」の該当箇所の内容を詳しく解説することもできるよ!どうする?

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プロンプト(ChatGPTのみ): アドルノはどの著作でマーラーの音楽を「終末の音楽(Endzeitmusik)」と呼んでいますか?

ChatGPT (2025.3.20)

アドルノがグスタフ・マーラーの音楽を「終末の音楽(Endzeitmusik)」と明示的に呼んでいる著作は、彼の以下の著作です。


『マーラー──音楽的形象(Mahler: Eine musikalische Physiognomik)』(1960年)

この本の中でアドルノは、マーラーの音楽を明確に**「Endzeitmusik(終末の音楽)」**と呼んでいます。

具体的な文脈

  • アドルノは、マーラーの音楽を「時代の黄昏(Fin-de-Siècle)」に生きる人間の意識を映し出すものと捉えています。
  • 特にマーラーの交響曲には、ロマン派音楽の伝統が崩壊しつつある時代、すなわち歴史の終焉に立ち会っている音楽としての側面があると論じています。
  • そのため、マーラーの音楽は「Endzeitmusik」、つまり**「歴史の終わりの時代に響く音楽」**である、と評しているのです。

アドルノは、マーラーの音楽が「崩壊」と「救済」を同時に孕んでおり、ブルックナーやワーグナーといった伝統の「終末的」な継承者であるとみなしています。また、マーラーの音楽は「崩壊の時代」の矛盾を音楽の内部に表現している点で、単なる過去の模倣でもなく、近代的自我の最終段階を描き出している、と評価しています。


✅ なぜ「Endzeitmusik」とされたのか

  • アドルノにとってマーラーは「調性音楽」の最終段階にある作曲家であり、ブルックナー的な終末論の精神と、近代の個人主義的絶望が交差する場に位置しています。
  • その音楽は「終末」を予感しつつも、なおかつ「未来への断片的な希望」も秘めているという二重性を持っています。

✅ 出典の詳細(ドイツ語版から)

  • 原文では「Endzeitmusik」という語が登場する箇所が明示的にあります。
  • 邦訳では、**『マーラー 音楽的形象』(三光長治訳、法政大学出版局)**などで確認できます。

✨まとめ

アドルノが**「マーラーの音楽」を「終末の音楽(Endzeitmusik)」と直接呼んでいる**のは、 👉 『マーラー──音楽的形象(Mahler: Eine musikalische Physiognomik)』
これが答えになります。


もし該当箇所の引用や解説をもう少し詳しく見たいなら、原文や邦訳のテキストをもとに深掘りするよ!どうする?

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プロンプト(ChatGPTのみ): 該当箇所の引用をお願いします。

ChatGPT (2025.3.20)

もちろんです!アドルノがマーラーの音楽を**「Endzeitmusik(終末の音楽)」**と呼んでいる箇所の引用を紹介します。


📕 出典

Theodor W. Adorno
『Mahler: Eine musikalische Physiognomik』(1960年)
(邦訳:『マーラー 音楽的形象』三光長治訳、法政大学出版局)


📖 ドイツ語原文

"Mahler ist Endzeitmusik. Sie schließt das bürgerliche Musikwerk ab."
(アドルノ『Mahler: Eine musikalische Physiognomik』、Suhrkamp Verlag, S. 20)


📖 日本語訳(法政大学出版局版)

「マーラーは終末の音楽(Endzeitmusik)である。彼は市民社会の音楽作品を終結させる。」
(『マーラー 音楽的形象』、三光長治訳、法政大学出版局、p.27)


✅ 解説

この部分は、アドルノがマーラーの音楽を、19世紀ブルジョワ社会における音楽作品の最終段階として位置づけている箇所です。

  • 「市民社会(bürgerliche Gesellschaft)」の音楽的世界が、マーラーによって終わりを迎える
  • つまり、マーラーの音楽はブルジョワ的芸術作品の「終焉」を象徴している
  • それゆえに、アドルノは彼の音楽を**「終末の音楽(Endzeitmusik)」**と呼んでいるわけです。

アドルノはマーラーにおいて、過去の音楽伝統がすべて集約され、同時にその限界と崩壊が意識されていると捉えています。マーラーは、ロマン主義の理想とそれがもたらす終末感とを、その音楽の中で矛盾的に抱え込んでいると論じているのです。


もしこの先、もう少し文脈を広げて他のページの内容や解釈も見ていきたければ、さらに深掘りできます!
どこまでいこうか?😊

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プロンプト(ChatGPTのみ): アドルノの「終末の音楽(Endzeitmusik)」についてもう一度説明してください。

ChatGPT (2025.3.20)

もちろん!改めて、アドルノの言う**「終末の音楽(Endzeitmusik)」**について、わかりやすく整理して説明します。


「終末の音楽(Endzeitmusik)」とは?

アドルノが使った**「Endzeitmusik(エントツァイトムジーク)」という言葉は、直訳すれば「終末時代の音楽」「終末の音楽」を意味します。
彼はこれを、歴史や文化のある「終わり」の時代に生まれた音楽、あるいは
歴史の終わりを意識した音楽**に対して用いています。


どんな音楽が「終末の音楽」なのか?

1. 歴史の終わりを映す音楽

アドルノは、近代ヨーロッパの資本主義社会やブルジョワ文化の崩壊、そして世界大戦やホロコーストによって「歴史が終わりに向かっている」と感じていました。その「歴史の終末」を強烈に意識した音楽こそが、「終末の音楽」です。

2. 伝統の破壊と無調性

例えば、アーノルド・シェーンベルクやアントン・ヴェーベルンの無調音楽は、古典的な調性(長調・短調)の崩壊を象徴しており、音楽の秩序や調和が解体された時代の音楽です。
これは「伝統の終焉」「文明の崩壊」を音楽が体現している状態とも言えます。

3. アントン・ヴェーベルンやグスタフ・マーラーの音楽

アドルノは特に、

  • ヴェーベルンの音楽 → 音が極度に少なく、沈黙と断片が中心になる。これは「終末以後の音楽」、文明が尽きた後に鳴り響く「最後の音楽」とみなされます。
  • マーラーの音楽 → ロマン派音楽の集大成であり、同時にその終焉を刻む「終末の交響曲」として評価されています。アドルノはマーラーを「終末の音楽(Endzeitmusik)」の作曲家と明言しています。

アドルノが「Endzeitmusik」と述べた場所

特に明確なのは、
👉 『マーラー 音楽的形象(Mahler: Eine musikalische Physiognomik)』
この著作で、マーラーの音楽を**「Endzeitmusik」**と直接呼んでいます。

"Mahler ist Endzeitmusik. Sie schließt das bürgerliche Musikwerk ab."
「マーラーは終末の音楽である。彼は市民社会の音楽作品を終結させる。」


「終末の音楽」の意味と意義

◾️ 絶望と希望の両義性

「終末の音楽」はただ破局を表現するだけでなく、

  • 安易な慰めや娯楽性に堕しない芸術
  • 否定性を貫くことで、真の希望を残す
    というアドルノの美学が表れています。

◾️ アウシュビッツ以後の芸術の責任

アドルノは「アウシュビッツ以後に詩を書くことは野蛮である」と言ったように、歴史の惨禍の後に芸術をどう行うべきか、という倫理的問いを重視しました。「終末の音楽」は、その問いに誠実に向き合う芸術の形でもあります。


ざっくりまとめると…

  • **「終末の音楽(Endzeitmusik)」**は、
    ➡️ 文明や歴史の終わりを映す音楽
    ➡️ 伝統の崩壊と人間の孤立を描く音楽
  • マーラーやヴェーベルンはその代表例。
  • 単なる絶望ではなく、真実を見つめることで可能になる「未来へのかすかな希望」も内包する。

もう少し哲学的に掘り下げることもできるし、具体的な楽曲を例にとって解説することもできるけど、どっちが興味ある? 😊


マーラーについて生成AIに聞いてみた(5):マーラーのポートレートの画像生成

  この記事では、これまでとは趣向を変えて、情報の照会ではなく、生成AIの画像生成を試してみた結果を報告します。ChatGPTではDALL-E、Geminiではimagen 3による画像生成ができます。一方Claudeは本稿執筆時点では画像生成に対応していない(SVG画像の生成のみ)ので、今回の実験については対象外とします。

 なお、画像生成のプロンプトについてはChatGPTとGeminiでは大きくポリシーが異なるようです。以下に報告するように、ChatGPTはどのような特徴を持った画像にするかを問い合わせ、確認を求めて来るし、生成した画像について自分でコメントをつけるのに対して、Geminiの方は基本はおまかせであり、より具体的な説明をリクエストするメッセージこそ出ますが、「はい、どうぞ」の一言のみでシンプルに生成した画像を示すスタイルであり、こちらが指示をプロンプトで出せばそれに対応するというやり方でした。その辺りの違いがわかるように、ChatGPTについては、生成されれた画像だけではなく、一連のやり取りも含めて報告することにします。

 ChatGPTの方は、いきなり髭を蓄えたマーラーが出てきたのに驚きました。これはGeminiもそうですが「晩年」=「髭」、という連想が働くのでしょうが、マーラーはごく若い頃には髭を蓄えていたものの、じきに口髭だけになり、ある時期以降は髭を全く落としてしまいました。(指揮をするにあたり、表情を奏者に伝える上で、髭は妨げになると考えたからだマーラー自身が説明したという証言があるようです。)従って、ことマーラーに関しては晩年は寧ろ髭がないのが正しいので、その点を追加のプロンプトで指摘したのですが、不思議なことに、繰り返し指示しても、ChatGPT自身の事前の「完全に髭のないマーラーをしっかり意識して作り直します」という宣言、事後の「今回はしっかり髭をなくして」というコメントにも関わらず(苦笑)、何故か髭はなくなりませんでした。もしかしたら「髭」が何であり、画像上のどこに対応しているのかがわからないのかも知れませんが、この点についての追加検証は本稿の元々の目的から離れるので行いませんでした。

 ついでに感想を述べると、ChatGPTの生成したマーラーは痩身であった実際のマーラーに比べて恰幅が良くすぎ、顔の骨格も異なっていて、あまり似ているとは言えず、作曲小屋のような背景となる文脈情報がなければ、マーラーのポートレートと言わなければ、マーラーだと思わない可能性が高いように感じました。もっと言えば、強いて近いものを探すならば、髪質・髪型が異なるものの、例えばジュゼッペ・シノーポリがもう少し長生きしていたら…みたいな感じ(笑)で、マーラーではない別の誰かを寧ろ思い起こさせるように感じました。まあ、これは比較しても仕方ないですが、実物を見たことのあるロダン作のマーラーのブロンズ像が、頭部だけなのにも関わらず、その骨格のみならず、体格も性格も、人格が発するオーラの如きものも余さず捉え切っているのを感じ、驚嘆したことを思わず思い出してしまいました。

 Geminiについては、最初に比較的きちんとマーラーの特徴を捉えたポートレートが出てきたので、その後はChatGPTに与えた指示およびその結果生成された画像に合わせて、晩年のマーラーが作曲小屋で座っているという状況をプロンプトして与えてみました。ChatGPTへのコメントにおいて記載した通り、Geminiも「晩年」=「髭」となるようで、最初に出てきたのは或る意味ではChatGPTのそれに似たものでしたが、こちらは髭をとる指示を出したところ、正しく指示が反映された画像が生成されました。また、2回目の画像の顔貌は、豊かな白髭と恐らくは髪型のせいもあって、マーラーのそれから稍々離れ、別の誰かに似た感じになりましたが、3回目では改善されたように思います。

 両者に共通したことですが、作曲小屋の指定に対する対応は、そんなに不自然な感じではないのですが、これは偶々、一般に作曲小屋というトークンから連想されるイメージがこんなものなのか、それとも何らかの情報に基づくものなのかは気になるところです。ChatGPTの生成した文章を見る限り、少なくともマーラーが森や湖に面したところに作曲小屋を構えていたという知識は学習しているように感じられます。まあこれも細かいことを言い出せば切りがなく、作曲小屋といっても複数あって、晩年であれば南チロル、ドロミテ山脈のトーブラッハのそれだとして窓外の風景を決めるべきだということになるのでしょうが、これはこちらからプロンプトで追加情報を与えて調整すれば済むレベルのようにも思えます。

 なお、個人的な嗜好からすれば、生成された画像は好みにあったものではないですが(苦笑)、凝りだせばきりがなく、最低限のプロンプトでの画像の生成結果を確認すること(それは生成AIが、マーラーの姿についてどのような情報で学習を行ったかが反映されたものと考えられます)を目的としたので、ご了承願えればと思います。それでもなお、この実験の結果については、ChatGPTに比べてGeminiの方がより良い結果を出してきたと判断できるように思えます。

(2025.3.20)

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プロンプト(共通):マーラーのポートレートを作って下さい。

Gemini / imagen 3(2025.3.20)



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プロンプト(Gemimiのみ):マーラーのポートレートを晩年のマーラーが作曲小屋の中で椅子に座っているように変更してください。

Gemini / imagen 3(2025.3.20)


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プロンプト(Gemimiのみ):晩年のマーラーは髭を生やしていませんでした。髭は取り除いてください。

Gemini / imagen 3(2025.3.20)



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プロンプト(共通):マーラーのポートレートを作って下さい。

ChatGPT / DALL-E(2025.3.20)

もちろん!どんな雰囲気のポートレートにしましょうか?

たとえば…

  • 若い頃のマーラー?それとも晩年の風格ある姿?
  • モノクロ写真風?それとも油絵風や水彩画風?
  • 背景はコンサートホール、自然、書斎…などイメージありますか?
  • 表情は真剣、穏やか、情熱的…など好みがあれば教えてください!

イメージに合わせて、よりぴったりなポートレートを作れます!

*     *     *

プロンプト(ChatGPTのみ):晩年、作曲小屋の中で。

ChatGPT / DALL-E(2025.3.20)

素敵なイメージですね!
晩年のマーラーが作曲小屋で作業している姿…イメージが湧いてきました。

いくつか確認させてください!

  • 服装は伝統的なスーツ姿(たとえば、黒いジャケットにベスト、丸眼鏡など)でよいですか?

  • 小屋の中は木の質感がある素朴な空間、机の上に楽譜や羽ペン、インク壺などを置く感じで大丈夫でしょうか?

  • 窓からは森や湖が見える風景、光が差し込んでいるような演出はどうですか?

もし他に「これは絶対入れたい!」っていうポイントがあれば教えてください。

問題なければ、このイメージでポートレートを作成します! 

*     *     *

プロンプト(ChatGPTのみ):問題ないです。

ChatGPT / DALL-E(2025.3.20) 


できました!
晩年のマーラーが作曲小屋の中で静かに作品と向き合っている姿です。木のぬくもりと窓からの自然光が、彼の集中した雰囲気をより際立たせています。

他にもアングルを変えたり、色味を調整したりできますので、気になる点があれば遠慮なく教えてください!

*     *     *

プロンプト(ChatGPTのみ):晩年のマーラーは髭をたくわえてはいませんでした。髪の毛はもう少し薄く、生え際は交替していたはずです。

ChatGPT / DALL-E(2025.3.20)

おお、確かに!マーラー晩年の特徴をもっと忠実に再現しましょう。

✔️ 髭はなし
✔️ 髪の毛はもう少し薄く、生え際は後退
✔️ 晩年特有の繊細さや、少し疲れたような表情を強調するとよりリアルかもですね

この修正を反映して、もう一度ポートレートを作ってみます!
少し待っててくださいね。

 

こちらが修正版のマーラーです!
髪の生え際や髭のない晩年の特徴、さらに彼の繊細で少し疲れたような表情を意識して仕上げました。

雰囲気やディテール、他に調整したい点があれば気軽に言ってくださいね!

*     *     *

プロンプト(ChatGPTのみ):まだ髭が生えています。髭をとってください。

ChatGPT / DALL-E(2025.3.20)

確認ありがとうございます!もう一度、完全に髭のないマーラーをしっかり意識して作り直しますね。
今回は「口元と顎がすっきりした状態」と明記して、ディテールをさらに正確にします。

少しお待ちください!

 

今回はしっかり髭をなくして、マーラー晩年の姿を再現しました!
顎や口元もすっきりと描かれていると思いますが、細かいところでさらに修正したい部分があれば教えてください。

他のシチュエーションや、別の作曲家などもぜひ気軽にリクエストしてくださいね!


2025年3月19日水曜日

マーラーについて生成AIに聞いてみた(4):マーラーの歌曲の特徴について(2025.3.20更新)

 この記事では、マーラーの歌曲の特徴について生成AIに聞いてみた結果を報告します。いずれも大まかなレベルでは特徴の説明として妥当だと思いますが、細部には幾つかおかしな部分があるので、その点についてコメントをしておきたく思います。

 ChatGPTの回答には、明確な誤りというのは見当たりませんでした。

 Geminiの回答も、交響曲第3番と「亡き子をしのぶ歌」との関連という指摘を除けば、明確におかしい点はなさそうです。なお、歌曲の主要作品としてChatGPTおよびClaudeが「大地の歌」を含めているのに対して、Geminiが含めていない点は興味深く思われます。そう思って特徴を読み返すと、ChatGPTおよびClaudeは「大地の歌」を歌曲に含めた説明をしているのに対し、Geminiの説明には「大地の歌」への言及もなければ、「大地の歌」の特徴を踏まえた説明もなく、一貫していることに気づかされます。

 そこでGeminiに対しては、交響曲第3番と「亡き子をしのぶ歌」との関連について追加でプロンプトを送ると、「共通するテーマや感情は指摘できるが、直接の関連はない」というやや言い訳めいた(笑)回答が返ってきました。更に言えば、「関連性について」の部分は稍々おかしく、一つ目のニーチェとの共通性の指摘は、私見では些か無理があるかなと思う一方で二つ目の「亡き子をしのぶ歌」を作曲した数年後に交響曲第3番を作曲」というのは明らかに誤りです。そこで更にその点を確認するプロンプトを投げると、今度は「マーラーは、「『亡き子をしのぶ歌』を作曲した数年後に交響曲第3番を作曲しました」という情報は正しくありません。」という正しい回答が返ってきました。その後に尚も両者の関連について主張するのはご愛敬として、他の記事で報告した追加プロンプトへの回答も併せて考えると、Geminiはやりとりの文脈を全く踏まえていないという訳ではなくとも、自分の回答を覚えていて、それを踏まえた回答をしているわけではなく、ここでは前の回答との不整合の存在に気づいていなさそうに見えます。ChatGPTやClaudeが以前の発言を撤回して謝罪するのとは対照的です。

 最後にClaudeです。これも特徴の要約として概ね問題なさそうな回答ですが、強いて言えば、「時にはほとんど語るような表現(Sprechgesang)に近づくこともあります」という点が気になるでしょうか?勿論、歌手の演奏解釈によって、そうした表現への近接が時として見られることはありますが、Sprechgesangが直接的にはシェーンベルクに帰せられるという点は措くにしても、類似の表現についても、マーラー自身の明示的な指示としてはちょっと思い当たりません。(というより、寧ろ逆に「うたう」こと、歌謡性が、歌曲のみならず器楽曲も含めたマーラーの特徴であると言いたい気が私はしますし、そうした主旨の文章を記したこともあります。)そこで、その点について追加のプロンプトを投げてみることにしました。すると、「「話すような」表現や朗唱的な要素が見られる箇所」の存在を指摘する回答が返ってきました。しかしその具体的内容には、今度は明確におかしなものが含まれます。

 まず「「魚に説教するパドヴァの聖アントニウス」における説教をする場面」とは一体どこを指しているのでしょう。強いて言えば「元の木阿弥」が報告される最後までは、彼は魚に説教をしているわけですが、描かれるのは寧ろ魚の側の反応の方で、「場面」として特定できる場所は、歌詞の上ではなさそうに見えます。そこで更に具体的な場所を問うプロンプトを投げてみると、今度は明確に誤りと思われる記述が見受けられます。

 次に私の知る限り、「魚に説教するパドヴァの聖アントニウス」の楽譜には、quasi parlando の指示はありません。(逆にcantabileの指示はあるのですが。)こちらについては追加のプロンプトで指摘すると、あっさり誤りを認めました。なお、「Gemächlich. Ohne Hast」(ゆったりと、急がずに)- 冒頭の総合的なテンポ指示」というのも間違いなら、「dolce」(甘く)、「ausdrucksvoll」(表現豊かに)も別の曲にはあるけれど、この曲には存在しない指示で、「Mit Humor」(ユーモアを持って)のみが正しいようです。更に私の知る限り、この作品の歌詞には Er predigt eine lange Zeit という部分は存在しないのですが、こちらについては更に問い質すプロンプトに対しても、「中間部分」で登場すると言い募る回答が返ってきました。歌曲の歌詞には時としてヴァリアントが存在することはあるのですが、ことこの作品については寡聞にして知りません。一般に流布している歌詞について言えば、やはりフェイクであると言わざるを得ないようです。

 更に「ラインの伝説」の「死の太鼓」というのは、「ラインの伝説」の歌詞内容からして明らかに不自然で、何か別の作品との混同が生じているようでしたので、その点について確認するプロンプトを投げたところ、Der Tamboursg'sell(「少年鼓手」)の間違いであったようです。ちなみに「ラインの伝説」の原題が何故か Der Schildwache Nachtlied となっており、更にそれに「夜警の歌」という邦題がつくという不可解な部分が回答に含まれていますが、これは日本語に翻訳する際の対応の混乱というよりは、生成AIがベースにしている技術の基本的な性質上、人間なら容易に気付くレベルの意味的にナンセンスな構成の文生成が行われた結果と考えた方が良いように思います。

 その一方で、今回の質問に関しては特にClaudeの回答で目立つ、作品の邦題の不安定性は嫌でも目につきます。「軍鼓の音」というのがDer Tamboursg'sell(「少年鼓手」)であることは、追加のプロンプトに対する最後の回答により明らかになります。「大地の歌」の「酒に寄す」は敢えて確認はしませんでしたが、「「猿の叫び」を表現する部分」を含むというからには、当然、第1楽章の Das Trinklied vom Jammer der Erdeを指しているものと思われます。ただし、この傾向はClaudeに限定されたものではなく、他の質問の回答においては、ChatGPTでもしばしば遭遇します。生成AIの回答生成の仕方を勘案すると、これは原題の翻訳を探して付けているというよりは、その文脈において最も関連性の高い原題と邦題をそれぞれ独立に求めて、それを恰も、原題に対する邦題といったかたちで文章にしているに過ぎないのではないかと推測されますが、読み手を当惑させるものではあり、特に海外の事象について日本語で生成AIに問い合わせる際には、時として大きな問題になりそうに思えます。

(2025.3.19,20)

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プロンプト(共通):マーラーの歌曲にはどのような特徴がありますか?

chatGPT(2025.3.9)

マーラーの歌曲は、彼の交響曲と密接に結びついていて、個人的な感情や哲学、人生観を濃密に表現しているのが大きな特徴です。彼の歌曲を理解することは、マーラーの音楽全体を理解する上でもとても重要です。


🎶 マーラー歌曲の主な特徴


1. 交響曲と歌曲のクロスオーバー

  • マーラーは歌曲と交響曲を密接に結びつけ、歌曲的な素材をそのまま交響曲に転用したり、逆に交響曲的な壮大さを歌曲に持ち込みました。
  • 例としては、《さすらう若人の歌》が《交響曲第1番》に、《少年の不思議な角笛》の歌曲が《交響曲第2〜4番》に引用されています。

2. オーケストラ伴奏の歌曲

  • ピアノ伴奏版の歌曲もありますが、オーケストラ伴奏歌曲が多いのが特徴。ピアノ版と比べて色彩感やスケールがぐっと広がります。
  • オーケストラは単なる伴奏ではなく、**詩の世界を豊かに描き出すための「もう一人の語り手」**として活躍します。

3. 詩の選択とテーマ

  • マーラーはフォークソングや民謡的な素朴さを好みつつも、死・別れ・孤独・無常観を主題にした詩を好みました。
  • 主な詩の出典は:
    • 《少年の不思議な角笛》(ドイツの民謡集)
    • 自作詩(例:《さすらう若人の歌》)
    • 中国の詩(漢詩)をもとにした《大地の歌》など。
  • 死や別れへの諦念と美しさ、自然との一体感、人生への哀しみや希望が詩と音楽に込められています。

4. 民謡風の素朴さとアイロニー

  • シンプルな旋律やユーモラスなリズムがしばしば登場し、ドイツやオーストリアの民謡風の素朴さを感じさせます。
  • ただし、その裏にはアイロニーや死の影、痛切な孤独感が隠されている場合も多いです。楽しげなメロディの中に、不安や悲しみが見え隠れするのがマーラーらしいところ。

5. 人生観と哲学的な深さ

  • マーラーの歌曲は、単なる愛の歌ではなく、生と死、魂の浄化、永遠への希求など、深い哲学的テーマが表現されています。
  • 特に晩年の《リュッケルトの詩による5つの歌曲》や《亡き子をしのぶ歌》、そして《大地の歌》には死への受容と超越的な安らぎが感じられます。

6. 繊細な表現とドラマティックな対比

  • ささやくような静寂から、突然の激情的な爆発まで、音楽のダイナミクスが大きく、劇的なコントラストが特徴的。
  • 繊細な心理描写劇的な感情の起伏が共存し、まるでオペラのようなドラマ性を持っています。

🎵 代表的な歌曲と歌曲集

曲名 特徴
《さすらう若人の歌》 失恋と放浪をテーマにした自作詩。交響曲第1番と関連。
《少年の不思議な角笛》 民謡風の素朴さとユーモア、アイロニー、死のモチーフ。交響曲とリンク。
《亡き子をしのぶ歌》 子を失った親の悲しみと諦念。感情の深さと抑制された表現。
《リュッケルトの詩による5つの歌曲》 哲学的・内面的な静謐さ。とりわけ《私はこの世に忘れられ》は超絶的な美しさ。
《大地の歌》 東洋的な死生観を取り入れた交響曲的歌曲集。生のはかなさと永遠への憧れ。

もし具体的に「この曲の詩と音楽の関係が知りたい!」とか「リュッケルト歌曲と亡き子の違いって?」などあれば、さらに掘り下げられるよ!どこまでいく?

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Gemini (2025.3.9)

グスタフ・マーラーの歌曲は、彼の交響曲と密接に結びついており、彼の音楽世界を理解する上で非常に重要な要素です。以下に、マーラーの歌曲の主な特徴を挙げます。

1. 交響曲との密接な関連性:

  • マーラーは、歌曲のアイデアやテーマを交響曲に流用したり、逆に交響曲の音楽を歌曲に転用したりすることがありました。
  • 例えば、「亡き子をしのぶ歌」は交響曲第3番や第5番と、「リュッケルトの詩による5つの歌」は交響曲第5番と関連性があります。
  • このように、彼の歌曲と交響曲は、互いに補完し合い、彼の音楽世界をより深く表現しています。

2. 詩と音楽の融合:

  • マーラーは、ドイツ・ロマン派の詩人たちの詩に感銘を受け、それらを歌曲のテキストとして用いました。
  • 彼は、詩の内容を深く理解し、音楽によって詩の世界をより豊かに表現することを目指しました。
  • 特に、詩の情感や情景描写を、巧みな和声や旋律によって際立たせています。

3. 人間の内面や感情の表現:

  • マーラーの歌曲は、人間の内面にある様々な感情、特に愛、悲しみ、孤独、死などを深く掘り下げて表現しています。
  • 彼の音楽は、聴く人の心を揺さぶり、深い共感を呼び起こします。
  • また、自然や宇宙に対する畏敬の念や、人間の存在の儚さなども、彼の歌曲の重要なテーマとなっています。

4. オーケストラ伴奏の重視:

  • マーラーは、ピアノ伴奏の歌曲だけでなく、オーケストラ伴奏の歌曲も数多く作曲しました。
  • 彼のオーケストラ伴奏は、色彩豊かで表現力豊かであり、歌曲の情感をより深く表現するのに貢献しています。
  • 特に、交響曲を作曲する上で培ったオーケストレーションの技術が、歌曲にも生かされています。

5. 独特の世界観:

  • マーラーの歌曲には、独特の厭世観や終末観が表れていることがあります。
  • それは、彼が生きた時代の社会的な不安や、彼自身の個人的な苦悩などが反映されたものと考えられます。
  • 彼の音楽は、単なる美しい旋律や和声の組み合わせではなく、深い思想や哲学が込められた芸術作品と言えるでしょう。

代表的な歌曲集:

  • 「さすらう若者の歌」
  • 「亡き子をしのぶ歌」
  • 「リュッケルトの詩による5つの歌」
  • 「子供の不思議な角笛」

これらの歌曲は、現在でも多くの演奏家によって歌い継がれ、聴く人を魅了し続けています。

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Claude (2025.3.10)

マーラーの歌曲には以下のような特徴があります:

  1. オーケストラ伴奏の重視 - ピアノ伴奏版も存在しますが、マーラーの歌曲はオーケストラ伴奏で作曲されることが多く、オーケストレーションが非常に重要な表現手段となっています。

  2. 交響的な発想 - 伴奏部は単なる伴奏ではなく、声部と対等な関係を持ち、時に交響曲的な複雑さと規模を持っています。

  3. 民俗的素材の芸術的昇華 - 「少年の魔法の角笛」などで民謡や民話に基づく素材を高度に芸術的な表現へと昇華させています。

  4. 文学的感性 - リュッケルト、ギョーテ、ニーチェなど質の高い詩に曲をつけ、詩の内容や構造を音楽的に解釈しています。

  5. 自然描写と象徴性 - 自然の音や風景が象徴的に描かれ、心理状態や哲学的テーマと結びついています。

  6. 死と再生のテーマ - 特に「亡き子をしのぶ歌」や「大地の歌」では、死と喪失、そして受容と再生のテーマが探求されています。

  7. アイロニーとグロテスク - 「少年の魔法の角笛」の一部の歌では、アイロニカルな表現やグロテスクな要素が用いられています。

  8. 声楽技法の拡張 - 歌唱パートは広い音域と表現力が要求され、時にはほとんど語るような表現(Sprechgesang)に近づくこともあります。

  9. 有機的な形式 - 詩の内容や感情的流れに沿った有機的な形式を用い、古典的な歌曲形式にとらわれない自由な展開がみられます。

  10. 交響曲との相互関係 - 歌曲の素材が交響曲に取り入れられたり(「少年の魔法の角笛」の素材→交響曲第2、3、4番)、逆に交響曲的発想が歌曲に持ち込まれたり(「大地の歌」)する相互影響関係があります。

マーラーの主要歌曲作品としては、「さすらう若人の歌」、「少年の魔法の角笛」、「リュッケルトの詩による歌曲」、「亡き子をしのぶ歌」、そして声楽とオーケストラによる「大地の歌」があります。これらの作品は、19世紀ドイツ・リートの伝統を20世紀に向けて拡張し、歌曲ジャンルの可能性を大きく広げました。

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プロンプト(Geminiのみ):交響曲第3番で「亡き子をしのぶ歌」に関連する部分を示してください。

Gemini (2025.3.19)

グスタフ・マーラーの交響曲第3番と歌曲集「亡き子をしのぶ歌」は、どちらもマーラーの作品ですが、直接的な音楽的関連性はありません。しかし、両作品には共通するテーマや感情がいくつか見られます。

共通するテーマと感情:

  • 死と喪失:
    • 「亡き子をしのぶ歌」は、文字通り子供の死を悼む歌曲集です。
    • 交響曲第3番も、自然の壮大さや生の喜びを描きながら、その背後にある死や儚さを感じさせる作品です。
  • 自然との一体感:
    • 両作品とも、自然の描写を通して内面的な感情を表現しています。
    • 自然の美しさや力強さが、死や喪失の感情と対比されることで、より深く心に響きます。
  • 内省と精神性:
    • マーラーは、両作品を通して、人間の存在や精神性について深く考察しています。
    • 死や喪失を通して、生の意味や価値を問いかけるようなメッセージが込められています。

関連性について:

  • 交響曲第3番の第4楽章では、ニーチェの詩「ツァラトゥストラはかく語りき」の一節が歌われます。この詩は、生の喜びと苦悩、そして死について深く考察しており、「亡き子をしのぶ歌」と共通するテーマを持っています。
  • マーラーは、「亡き子をしのぶ歌」を作曲した数年後に交響曲第3番を作曲しました。両作品には、マーラー自身の内面的な変化や成長が反映されていると考えられます。

まとめ:

交響曲第3番と「亡き子をしのぶ歌」は、直接的な音楽的関連性はありませんが、共通するテーマや感情を通して、マーラーの深い精神性を表現した作品です。

より詳しい情報については、以下の情報源もご参照ください。(以下略)

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プロンプト(Geminiのみ):マーラーは、「亡き子をしのぶ歌」を作曲した数年後に交響曲第3番を作曲しました、というのは本当ですか?

Gemini (2025.3.19)

ご質問の件について、確認しました。

マーラーの「亡き子をしのぶ歌」と交響曲第3番の作曲年代は以下の通りです。

  • 交響曲第3番:
    • 1893年から1896年にかけて作曲
  • 亡き子をしのぶ歌:
    • 1901年から1904年にかけて作曲

このことから、「亡き子をしのぶ歌」は交響曲第3番よりも後に作曲されています。したがって、「マーラーは、『亡き子をしのぶ歌』を作曲した数年後に交響曲第3番を作曲しました」という情報は正しくありません。

ただし、両作品には共通するテーマや感情が見られるため、関連付けて語られることが多いようです。

関連性について補足します。

  • 共通するテーマと感情:
    • どちらの作品にも、死や喪失、自然との一体感、内省と精神性といった共通のテーマが見られます。
    • マーラー自身の内面的な変化や成長が反映されていると考えられます。

これらの点から、両作品はマーラーの精神性を深く理解する上で重要な作品と言えるでしょう。

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プロンプト(Claudeのみ):マーラーの歌曲におけるSprechgesangの例を示してください。

Claude(2025.3.19)

マーラーの歌曲において、完全な「シュプレヒゲザング」(Sprechgesang)―すなわち、シェーンベルクの「月に憑かれたピエロ」のような明確に指定された「話し歌い」の技法―は実際には使用されていません。マーラーの作品が作曲された時期(1880年代から1910年代初頭)は、この技法が正式に確立される前でした。

しかし、マーラーの歌曲には「話すような」表現や朗唱的な要素が見られる箇所があります。これらは厳密なシュプレヒゲザングではありませんが、声楽表現の拡張として注目できる例です:

  1. 「少年の魔法の角笛」の「魚に説教するパドヴァの聖アントニウス」 - この歌曲では、説教をする場面で朗唱的な表現が求められています。

  2. 「少年の魔法の角笛」の「ラインの伝説」 - 特に「死の太鼓」の描写部分では、ほとんど話すような表現が含まれています。

  3. 「少年の魔法の角笛」の「軍鼓の音」 - 兵士が処刑される場面の描写では、感情の変化に応じて歌唱法が変化し、時に語るような表現も含まれます。

  4. 「大地の歌」の「酒に寄す」 - テノールのパートで、特に「猿の叫び」を表現する部分では、通常の歌唱から離れた表現が求められています。

これらの例は、後の作曲家たちによって発展させられることになるシュプレヒゲザングの先駆的要素とも言えるでしょう。マーラーの歌曲における表現の多様性は、20世紀の声楽音楽の発展に重要な影響を与えました。

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プロンプト(Claudeのみ):「魚に説教するパドヴァの聖アントニウス」における説教をする場面を具体的に示してください。

Claude(2025.3.19)

マーラーの「少年の魔法の角笛」に収められた「魚に説教するパドヴァの聖アントニウス」(Des Antonius von Padua Fischpredigt) における説教場面について具体的に説明します。

この歌曲では、聖アントニウスが空の教会で説教をするために川に向かい、そこで魚たちに説教をする様子が描かれています。説教をする場面の特徴は以下の通りです:

  1. 楽譜上の特徴

    • 歌唱パートに「quasi parlando」(話すように)や「mit Humor」(ユーモアを持って)などの指示がみられる箇所があります
    • 特に「Die Predigt hat g'fallen」(説教は気に入られた)の部分では、ほとんど朗唱的な表現が求められます
  2. 具体的な箇所

    • 「Er predigt eine lange Zeit」(彼は長い時間説教した)の部分では、単調なリズムパターンの上で、説教する様子を模倣するような語り口調の歌唱が求められます
    • 「Kein Predigt niemalen」(どんな説教も決して)から始まる箇所は、説教師の語り口を模した抑揚で歌われます
  3. 音楽的表現

    • オーケストラ伴奏は繰り返しのパターンを持ち、単調な説教の様子を皮肉っぽく表現しています
    • 歌手は通常の歌唱と語りの中間のような表現で、説教の滑稽さを強調することが求められます

この歌曲の皮肉は、聖人の熱心な説教にもかかわらず、魚たちは説教を聞いた後もそれまでと変わらない生活を続ける点にあります。マーラーはこの作品で、説教という行為自体への風刺的な視点を音楽で表現しています。

楽曲全体にはアイロニーとユーモアが満ちており、説教の場面の半ば語るような表現はその効果を高めています。この作品はのちに交響曲第2番「復活」の第3楽章のスケルツォの素材としても使用されました。

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プロンプト(Claudeのみ):「魚に説教するパドヴァの聖アントニウス」でquasi parlandoの指示はどこにありますか?

Claude(2025.3.19)

申し訳ありません。私の前回の回答に誤りがありました。「魚に説教するパドヴァの聖アントニウス」(Des Antonius von Padua Fischpredigt) の楽譜を確認すると、実際には「quasi parlando」という明確な指示は記載されていません。

この作品の楽譜には、以下のような演奏指示がありますが、「quasi parlando」という特定の指示は含まれていません:

  • 「Gemächlich. Ohne Hast」(ゆったりと、急がずに)- 冒頭の総合的なテンポ指示
  • 「Mit Humor」(ユーモアを持って)
  • 「dolce」(甘く)
  • 「ausdrucksvoll」(表現豊かに)

私が「quasi parlando」と誤って述べたのは、この作品の演奏慣習や解釈において、説教の場面で時に語るような表現が用いられることがあるという点を正確でない形で表現してしまったためです。

この歌曲には朗唱的な性格を持つ箇所はありますが、楽譜上で明示的に「quasi parlando」や「Sprechgesang」のような指示はマーラーによって記されていません。

誤った情報を提供してしまい、申し訳ありませんでした。

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プロンプト(Claudeのみ):「魚に説教するパドヴァの聖アントニウス」でEr predigt eine lange Zeitという歌詞はどの箇所で歌われますか?

Claude(2025.3.19)

「魚に説教するパドヴァの聖アントニウス」(Des Antonius von Padua Fischpredigt) において、「Er predigt eine lange Zeit」(彼は長い時間説教した)という歌詞は、曲の中盤部分で歌われます。

具体的には、聖アントニウスが魚たちに向かって説教を始めた後、様々な種類の魚(鯉、鱒、鱸など)が説教を聞きに集まってくる様子が描写された後に登場します。

この歌詞は曲の構造上、以下のような位置にあります:

  1. 曲の冒頭:聖アントニウスが教会が空なのを見て、川に行き魚に説教することを決める場面
  2. 中盤前半:様々な魚が集まってくる描写
  3. 中盤部分:「Er predigt eine lange Zeit」の歌詞が登場
  4. 中盤後半:説教の内容と魚たちの反応
  5. 終盤:説教が終わり、魚たちが元の生活に戻る場面

この歌詞は、聖アントニウスの説教の長さと熱心さを皮肉っぽく表現するもので、その後に続く「魚たちは説教を聞いても変わらない」という結末への伏線となっています。

この部分の音楽は、繰り返しのパターンを持つオーケストラ伴奏の上で、単調ながらも説教の熱心さを表現するような旋律が歌われます。

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プロンプト(Claudeのみ):「ラインの伝説」の「死の太鼓」の描写部分について詳しく説明してください。

Claude(2025.3.19)

マーラーの「少年の魔法の角笛」に収録されている「ラインの伝説」(Der Schildwache Nachtlied / 夜警の歌)の中の「死の太鼓」(Todestrommel) の描写部分について詳しく説明します。

まず訂正させていただきますが、「死の太鼓」の描写が特に顕著なのは「ラインの伝説」ではなく、同じ「少年の魔法の角笛」収録の「軍鼓の音」(Der Tamboursg'sell / 軍鼓の少年)です。この歌曲は処刑される若い兵士(太鼓叩きの少年)の悲劇を描いています。

「軍鼓の音」における「死の太鼓」の描写:

  1. 音楽的特徴

    • オーケストラ伴奏では、実際に軍鼓(小太鼓)が使用され、処刑へと向かう行進のリズムを刻みます
    • 葬送行進曲のような遅いテンポと、不吉な雰囲気を醸し出す短調の音楽
    • 断片的なリズムパターンと休符の使用で緊張感を高める
  2. 歌唱表現

    • 特に「Gute Nacht, ihr Marmelstein! Ihr Berg und Hügelein!」(さらば、大理石よ!山々や丘よ!)の部分では、通常の歌唱表現から離れ、絶望と諦めが入り混じった半ば語るような表現が求められます
    • 声の強弱の急激な変化、抑制された表現から感情の爆発までの幅広い表現
  3. テキストと音楽の関係

    • 「死の太鼓」という言葉自体は直接現れませんが、死への行進を告げる太鼓の音がオーケストラで表現されています
    • テキストの悲劇的内容(若い兵士の最期)と音楽表現が一体となり、死の不可避性を強調しています

この歌曲でマーラーは、単なる民謡風の素材を芸術的に高め、死と別れの普遍的テーマを表現しています。完全なシュプレヒゲザングではないものの、通常の歌唱と語りの間の表現を用いることで、テキストの劇的な内容をより強く印象づけています。

「軍鼓の音」は後にベルクやシェーンベルクらによって発展される表現主義的な声楽作品の先駆的要素を含んでおり、マーラーの革新性を示す重要な作品です。