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GMW(Gustav Mahler Werke, グスタフ・マーラー作品番号:国際グスタフ・マーラー協会による)を公開しました。(2025.4.20)

2025年10月13日月曜日

マーラー祝祭オーケストラ第25回定期演奏会を聴いて(2025年10月11日 ミューザ川崎シンフォニーホール)

 マーラー祝祭オーケストラ第25回定期演奏会

2025年10月11日 ミューザ川崎シンフォニーホール

ベルク 初期の7つの歌
マーラー 第9交響曲

井上喜惟(指揮)
日野祐希(ソプラノ)
マーラー祝祭オーケストラ

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井上喜惟さんとマーラー祝祭オーケストラによる第25回定期演奏会に立ち会うべく、雨が降りしきる中、午前中、所用あって訪問した先から直接ミューザ川崎を訪れました。以下、演奏に接した感想を書き留めて置きたく思います。演奏に圧倒されてしまえばどんな言葉も無力に感じられてしまうもので、今の私はまさにそれを痛感している状態なのですが、その一方で、このような経験をしたからには、それを証言することは立ち会った者の義務の如きものとも感じられ、如何に拙いものであったとしてもその義務を最低限果たすべく、一先ずは感じたままを記すことにします。

今回のプログラムは最初に日野祐希さんのソプラノ歌唱でのベルクの初期の7つの歌が置かれ、休憩を挟んでマーラーの第9交響曲という構成でした。普段ベルクの作品をほとんど聴かない私にとっては初めて接する作品ということもあり、その演奏の素晴らしさは充分に感じ取れたものの、その演奏が備えていた価値に相応しい仕方で受け止めることができずに、忸怩たる思いに囚われざるを得ませんでした。それ故、適切に演奏を語ることが私にはできず、言いうるのはごく皮相な印象にしかならないことから、これまでも多くのそのような作品の演奏についてそうしてきたように、客席におられた他の有識の方々にお任せすることにして、ここでは専ら休憩後のマーラーの第9交響曲に限定して感想を記すことにします。

今回の演奏会の印象を一言で言えば、「圧倒的」という言葉に尽きるでしょう。マーラーの作品には数えきれない程接してきていますし、私の場合には様々な制約もあって実演に接する機会は限られるものの、それでも作品によっては複数の実演に接しているものもあり、今回の第9交響曲の場合もそうですが、その中には(前身のジャパン・グスタフマーラー・オーケストラの時代も含め)同じ指揮者・オーケストラで複数の実演に接することができている作品もあります。

実際、前回私が接した第23回の定期演奏会では、今回の第9交響曲同様10年程の歳月を隔てて第10交響曲のクック版の再演に接し、とみに最近井上喜惟さんとマーラー祝祭オーケストラの演奏の解釈の徹底と演奏の集中力・燃焼度が増し、接する度に圧倒されるようになってきていることをそこでも再認したのでしたが、今回の演奏は、その解釈、リアライズともにこれまでのそのような蓄積を経た、頂点に位置づけられるような素晴らしいものだったと思います。

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特に今回強く感じたのは、他に比較すべき対象が思い当たらない、井上喜惟さんの全くユニークな解釈が画期的な達成に至り、この上ない説得力を以て実現されたことです。私が初めてその実演に接して以来、常にはっきりと感じ取れ、また遡っては録音等でも確認できる、井上喜惟さんの解釈における一貫したアプローチは、敢えて単純化を懼れずに一言で要約するならば、基本的には流れの重視というように一先ずは特徴づけうるだろうと思います。私がこの点について思い浮かべるのは、井上喜惟さんがチェリビダッケに師事していることであり、そのチェリビダッケが、現象学的な音楽的時間について述べ、それを実演において実践している点です。とは言っても、それは井上喜惟さんの演奏がチェリビダッケのそれに似ていると言う意味では全くありません。そもそもチェリビダッケはマーラーをレパートリーとしておらず、チェリビダッケにおけるその考えの中心的な実践の場であったブルックナーとマーラーとでは音楽的経過の実質が全く異なるが故に、その解釈はマーラーのあの錯綜とした総譜を徹底的に読み込むことにより、井上喜惟さんがオリジナルに一から築き上げて来たものに他なりません。

そしてマーラーの、特に交響曲作品において音楽的時間の流れを重視するというのは、伝統的な楽式の図式論に囚われず、音楽自体が生み出す時間性を重視するということに他なりません。それは寧ろアドルノがマーラー・モノグラフ(アドルノ『マーラー 音楽観相学』)で述べたカテゴリの如きものを音楽から読み取り、唯名論的に形式を編み上げていく作業に他ならず、音楽が自ら形式を生み出していく現場に接するという稀有な経験を可能にしているものなのです。

流れの重視はまた、結果的に、音楽が止まる「息継ぎ」、ヘルダーリンの「休止」(チェズーア)、パウル・ツェランの「息の転回」の箇所を浮かび上がらせることにも通じます。それは単なる休符ではなく、音楽の流れが自己創発的に編み上げる構造を浮かび上がらせるものとなるのです。

今回演奏された第9交響曲の場合であれば、例えば、第1楽章練習番号13の直前のフェルマータ、そしてその後の「影のように(Schattenhaft)」音楽が進みだす手前の2度の「息継ぎ」がそれで、それまでダイナミクスの点からも表情やニュアンスの点からも長くて複雑な経路を辿り、だが途絶えることなく連綿と続いて来た音楽の流れは、ここに至って一時中断するのですが、楽譜をそのつもりで追えばごく当たり前のことを、けれども構造的な仕方でかくも明晰に感じ取ることができ、のみならず、それがアドルノが言語的に言い当てようとしたことを実現したものであるということに思い当たったのは、恥かしながら今回が初めてでした。

練習番号13から再開し、2度の休止を経て「影のような」領域を経た音楽が、「だんだんと音調が内側から広がっていっ(Allmälich an Ton gewinnend)」た果てに決定的な複縦線で区切られて辿り着くのは、Tempo I Andanteと明記された冒頭の再現であり、ここで音楽が冒頭に回帰する、その折り返し点を告げるのが、くだんの「息継ぎ」に他ならない訳ですが、今回の演奏では、その音楽的な移ろいがごく自然な流れで、それでいてこの上ない説得力を以て実現するのを聴くことができ、圧倒的な印象が残った箇所でした。

ちなみにこの楽章の基本的構造をソナタ形式と捉える伝統的な楽式論に従った形式分析においては、上記の部分は単なる展開部の途中に過ぎません。展開部の後続部分で「崩壊」が起き、鐘を伴う葬送行進曲を経た後、ようやく347小節に至って「始めのように(Wie  von Anfang)」再現部が始まることになります。そのような理解に基づけば、この日演奏された解釈は稍々もすれば構造的な把握を欠いたものと見做され兼ねません。しかしながらエルヴィン・ラッツが夙に指摘しているように、この楽章の構造は単純な伝統的な楽式論的分類を寄せ付けないものであり、既存の形式は、それを謂わば換骨奪胎してオリジナルな形式を実現するために鋳型のようなものに過ぎないのであれば、この日の演奏ではっきりとした形で実現された流れこそが、作品自身の持つ力学に忠実なものだと考えることができるでしょう。或る意味では安直で与しやすい伝統的楽式に従った解釈を離れ、アドルノの言うところの下から上へ向かう唯名論的な性格に忠実な演奏は、言うに易く行うに難いものであり、斯く言う私自身、今回の演奏に接して漸く井上喜惟さんがチェリビダッケから汲みとったアプローチを全く独自のやり方でマーラーの音楽に適用して音楽的に実現しようとしていたものが、まさにアドルノが指摘し、私自身、追及してきたものに他ならないことを遅ればせながら明確に自覚し、驚嘆するとともに自らの不明を愧じたような次第です。

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その後の音楽はまたしても複雑で変化に富んだ経過を経て、「ここで全く遅くなって(Schon ganz langsamer)」いよいよ終結に達する訳ですが、胸が締め付けられるようなホルンによる歌が「非常に躊躇い(Sehr zögend)」がちな木管の対話で引き取られ、フルートがたゆとうように高音域で「宙に浮いた(Schwebend)」ままになると、再び音楽は停止する。再開する度に下降して音楽が着地するのは、またしても、何度目かの冒頭の回帰なのですが、楽章冒頭に持っていた先に向かって歩む(Andante)力は最早なく、最後はフルートとハープ、弦のフラジオレットで停止し、もう再開することはありません。

しばしばここは音楽は「解体」していくプロセスとして記述され、時として「死」の形象化とされることもありますが、今回の演奏では、長く、途中では苦痛に満ちたプロセスを経て、音楽的主体が再び出発点に立ち戻り、音の消え去った虚空を眺めているのに立ち会い、その眼差しを共にしているかのように感じられました。風景の中には最早主体はいないが、その風景を眺める眼差しが残っている、ここでは主体は最早ドラマの主人公ではなく、そこから身を退いて眺める存在であるという確固とした印象が残ったのでした。

勿論これらは全て楽譜に書かれていることであり、それを楽曲解説よろしく辿るだけならば、改めて私が今ここで繰り返す迄もないことでしょう。けれどもそうした音楽の流れが、今回の演奏において、この上もない自然さと自在さを以て、絶えず移ろいゆき、変化していく情動の動きを伴って流れていくのに立ち会って、まるで音楽がその場で生成するのを初めて経験するような新鮮さに満ちた体験をすることができたように感じたことを書き留めて置きたく思ったのでした。

この交響曲の第1楽章に、今回のような演奏によって接すると、所詮は音響の継起に過ぎない音楽にこんな事迄可能なのかという驚きを改めて感じ、マーラーの天才に圧倒される思いがします。特にその調性の変容のプロセスは単なる調的スキーマ内の遍歴に留まらず、調性自体が不安定になり、ほぼ無調に近づいたかと思えば安定した調的領域に回帰するというその精妙にして無限のニュアンスを孕んだプロセスは空前にして絶後のもので、西洋の音楽がその長い歴史の果てに到達した、意識の流れの音楽化の最高の達成の一つであることを再認識させられた次第です。

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第2楽章は伝統的楽式では舞曲的な性格の「中間楽章」ということになりますが、このような舞曲的な楽章でのリズム処理の冴えは、井上喜惟さんのいわば「十八番」のようなもので、身体的、生理的なドライブはこの日の演奏でも健在でした。ただしこの楽章には三部形式のような静的な性格はなく、所謂「展開するスケルツォ」としての構造を持っていますし、その内実は一筋縄ではいかない屈折を孕んでいます。始まりではくっきりと対比的な性格を持つ主部の朴訥としたレントラー、イロニカルな表情を持ち、最後には野卑にさえ近づく急速なワルツ、非常にゆったりとして夢見るような2つ目のレントラーの3つの異なるテンポが切り替わって、再開される度に表情を変えてゆく有り様が、これもまた自然な経過としてリアライズされ、交替によって前の部分が後の部分に影響を与えていく具体的な経過の実質に重きが置かれていることが手に取るように感じ取れます。

ここでも特に印象的なのは冒頭のレントラーのブロックへの何度かの突然の回帰で、それがここでは構造的な句読点を与えるのですが、ブロックが賽の目に区切られたように切り替わるのではなく、それまでに経てきた音楽的脈絡がもたらす経験によりニュアンスがその都度異なったものになる音楽の一貫した流れがごく自然に感得されるものとなっていました。

しばしばこの楽章は、第9交響曲の中では比較的「弱い」楽章として問題になることがあり、ともすれば些か冗長であるとされたり、テンポも性格も異なる3つの舞曲のブロックの順列組み合わせ的な機械的なモンタージュといったメタ音楽的名人芸として説明が為されることもあるようですが、この日の演奏はそうした方向性とは無縁であり、これもしばしばそのように解釈されがちな、第1楽章に対する「息抜き」のようなものではなく、第1楽章で展開されたドラマと同じ主体の経験であり、その生の現実の異なった側面の音楽化であると感じられました。

第3楽章は「ロンド・ブルレスケ」と題され、「とても反抗的に」という些かエキセントリックな発想表示を持つことで有名なロンド形式の楽章で、対位法的アクロバットが主体を否応なく巻き込んで押し流してゆく「世の成り行き」の容赦なさを示すものとなっていますが、この日の演奏解釈でこの楽章に関して特筆されるのは、そのユニークでありながら実は楽譜に忠実な解釈が、オーケストラの凄まじい集中力によって十全にリアライズされたことが圧倒的な効果もたらしていた事です。

井上喜惟さんのこの楽章の解釈において特に重要なのは、中間部後半とコーダのテンポ設定です。まず中間部後半のテンポ設定について言えば、多くの演奏では練習番号39あたりから突然ギアチェンジし、音価を半分に切り詰め、譜面上からは恰も倍の速度になったかのような解釈が採られることが多いようです。しかし実際には楽譜にはそのような指示はなく、この日の演奏におけるように、逆にそうした恣意的な変化を持ち込まないことによってこそ、522小節からのロンド主部回帰の箇所のTempo I subitoが意味を持つのであり、急に再び「世の成り行き」の奔流の最中に立ち戻ったかのような突然の変化がもたらされることになるのです。ちなみにこの点に関して同様な解釈が為された例としては、個人的には井上さんが師事したベルティーニの演奏が思い浮かびます。

コーダについて言えば、こちらは最後のPresto(641小節)からはっきりとギアチェンジが行われ、その後の9小節間、恰も1小節1拍、3小節で3拍子のひとまとまりが3回繰り返され、その後それがそのまま1小節1拍の2拍子に変化して最後まで辿り着くという楽節構造の把握が卓越しており、ここでもその解釈が徹底されたリアライズにより、それまでの奔流に更に加わる突然の変化が眩暈のような効果を惹き起こし、恰も突風に巻き込まれ、翻弄されたまま末尾に至る、凄まじいドライブに聴き手は打ちのめされたかのような印象を受けることになります。だがしかし、これも井上さんの指摘する通り、マーラー自身が楽譜に書き込んだ指示(3 taktig)の忠実なリアライズなのです。

第4楽章として全曲の最後に置かれたアダージョは、作品全体の冒頭の調性であるニ長調から半音下降した変二長調を基調としており、大きくフラットに偏って赤味がかった色合いの中、調性格論的にも穏やかで退いた薄明の仄かな光に充たされた音楽であり、全体が回顧的な色合いを帯びて響きます。

この日の演奏では、ここでもまた音楽の流れは淀んで停滞することなく、終わり近くに至るまで音楽が止まることはありません。特に鮮明な記憶として残っているのは、常に同じ色合いを帯びて回帰する主部に対して、11-12小節で仄めかされ、28小節に至って本来の姿を現す、音域的に大きく乖離した二声の対位法が印象的な対比部分の変化です。ここは主部の変二長調に対して異名同音の短調である嬰ハ短調(この作品冒頭のニ長調との対照という点では、末尾に二長調で終結する第5交響曲の冒頭がこの調性であったことが思い出されます)の領域なのですが、その後再現する時にはそれまでの音楽的経験の結果として蒙る変容により、最初の提示の無表情なたどたどしさと打って変わって、既に主部から流れ込む時から俄かに温もりを帯び、ひととき「大地の歌」のフィナーレの小川の情景がフラッシュバックしたかのような印象を与えます。

その後大きく高潮した音楽がようやく歩みを止めるのはコーダに至ってからで、何度も立ち止まっては再開する音楽は、だが最後に至って再び流れを取り戻してフェードアウトしていきます。これは第1楽章の末尾と照応したものですが、この日の演奏から受けた印象は、第1楽章の末尾に似て否なる効果を生み出しているように私には感じられました。ここでも第1楽章と同じで、主体は出来事から身を退いて、それを外から眺める視線としてのみ残っているのですが、そうした主体の位置は、第4楽章では始めから一貫したものであり、第1楽章におけるように遍歴の過程を経て最後に獲得されるものではありません。そして第4楽章の音楽の経過の全体は寧ろ、近づいてくる夜明けの予感であり、寧ろ主体はこの音楽を通じて蘇生の歩みを辿り、勿論、己の行く末をはっきりと認識しつつ(有名な「子供の死の歌」の引用)、だがそのことも含め「一切をかくも新たな光の中にみる」境地へと到達するように私には感じられてならないのです。従って第4楽章末尾のersterbendは「死」を示唆するものではありません。寧ろ或る種の「超越」であり、開けであるという揺るぎない印象こそが、聴いていて私が感じ取ったものでした。

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そしてこのこともまた、この第9交響曲という作品全体についての井上喜惟さんの解釈が十全にリアライズされた結果なのかも知れません。曽雌さんによる、いつもにも増して詳細を極めたプログラムノートに記されているように、井上喜惟さんは今回、この曲の再演にあたっての楽譜の読み直しの過程で、この曲にファウスト的なものを感じ取り、この第9交響曲全体を、第8交響曲第2部でその構造上も尽くすことができなかったファウストについての語り直しと捉えておられるようなのですが、そのことは、音楽の一貫した流れを重視し、その中から自ずと形式が浮かび上がる様子を開示した今回の演奏解釈に通じるものであり、巨視的にも第一楽章を残りの三楽章が取り囲む遠心的な構造という通常受ける印象ではなく、四つの楽章が四枚続きのタブローとなり、ファウストの生の経験の異なる相を音楽化したものとして、対等な重みを持ちつつ、一貫した流れを形づくることに繋がり、それがここまで述べてきた音楽的流れについての実際の聴体験の印象とも一致するように感じられるからです。例えば第4楽章のあの有名な「子供の死の歌」の引用も、既に第8交響曲において第1部でも第2部でも繰り返し参照されていることを、その引用箇所とともに歌われる言葉(Virtute firmans perpeti / Der ewige Liebe nur Vermag’s in scheiden)も併せて思い浮かべても良いでしょう。

実は井上喜惟さんが示唆している第8交響曲第2部との繋がりについては今回の演奏会に因んでプログラムに寄稿させて頂いた小文「一切をかくも新しい光の中にみる」にも記載した通り、第4楽章のMolto Agadio subitoから7小節目(55小節)のヴィオラの下降音型が第8交響曲の第2部の練習番号170から171にかけて、かつてグレートヒェンと呼ばれた女が歌う部分の結びを強く連想させるものであり、ここがまさにファウストの蘇りが述べられる決定的な部分で、更にこの音型には "neue Tag"という言葉があてられていることが指摘できます。

拙文のタイトルはマーラー自身のワルター宛の書簡に記された言葉に由来するものですが、そのマーラーの言葉もまた、意識的なものであれ無意識的なものであれ、ファウストの蘇りとの関連を感じさせ、第8交響曲第2部の位置づけの見直しと、第9交響曲の読み直しを促すものと思っていたのですが、この日の演奏はそうした私の漠然として印象を、確たる認識にまで高めてくれるものであったと思います。

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ここまで、この日の演奏を通じて明確に感じ取れた井上喜惟さんの解釈について述べてきました。この日の演奏ではっきりとした形で実現された流れこそが、作品自身の持つ力学に忠実なものであり、それ故に全く自然に淀みなく音楽的時間が展開していくことを聴き手は経験することになるのですが、既に述べたように、或る意味では安直で与しやすい、伝統的楽式に従った解釈を離れ、アドルノの言うところの下から上へ向かう唯名論的な音楽の在り方に忠実な今回のような演奏は、言うに易く行うに難いもので、全くオリジナルな達成としてマーラーの作品の演奏解釈の画期を為すものではないかとさえ感じました。

既に述べている通り、そうした解釈も繰り返されるリハーサルによる徹底的な共同作業によってオーケストラによって共有されなければ、充分なリアライズが達成できないことは明らかなことでしょう。特に今回強く感じたのは、解釈もまたそうであるように、そのリアライズもこれまで以上に自在さを増し、音楽が自らの論理に従って発展していく力動を強く感じ取る事ができたことでした。

そしてそれは、これまでの他の作品の演奏でも感じ取れ、今回もはっきりと感じ取ることができた、マーラー祝祭オーケストラの個性とでも言うべき独特の手応えのある響きについても同様に言えることだと思います。私見では、演奏が録音を通じて拡散され、共有されることが普通になってから以降、このような響きは録音向きではないものとして寧ろ排除されてきたもののように感じられてなりません。私の乏しい聴経験の範囲で、強いて似たような印象を持つものを挙げるとするならば、世代を遥かに遡って、丁度アドルノと前後する世代の、一例のみ挙げるならば、例えばホーレンシュタインの演奏に聴きとれるようなものに通じるものを感じます。

それは音色についても言えて、とりわけマーラーおいて頻発する、特に金管においてミュートした楽器を強奏することの効果も、近年の多くの演奏でそうであるような、角が取れて鮮明でありつつ美的な調和を損なわない音色のパラメータの一つとしてではなく、寧ろ、美的な面からは醜さも厭わない、邦楽で言うところの「さわり」を持った、強い表出力と緊張感を備えたものであり、音楽の実質に適ったものに思えます。これは打楽器の騒音的な音響についても同様の事が言えて、特に今回は鐘(舞台上ではなく、舞台裏で鳴らされたようです)についてそのような印象を受けました。

そのことはパートのバランスについても同様で、これもマーラー祝祭オーケストラの常でマーラー自身が想定していた両翼配置が採用されているのですが、今回はそのことにより特に第2ヴァイオリンの重要性が際立っていたように思います。そもそもこの第9交響曲の第1楽章冒頭で旋律を弾きだすのは第2ヴァイオリンなのです。それ以降も左右のヴァイオリンパートの掛け合いの効果も鮮やかで、マーラー自身が意図した空間性についても申し分のないものだったと感じます。

更に特筆すべきは中・低声部の充実であり、例えばヴィオラならば第1楽章展開部の129小節からなど重要な旋律がしばしば割り当てられていますし、チェロとコントラバスには、余りに有名な第1楽章コーダにおけるフルート、ホルンとの協奏的なアクロバティックなパッセージがあります。また協奏的ということで言えば、頻出するソロ、パートソロも重要で、特にホルン、木管、ヴァイオリン、ヴィオラ、チェロにはここぞいう部分でのソロの旋律が割当てられていますが、それらの悉くが集中力と大きな表現意欲を伴って十全に実現されていることに感銘を受けました。

もう一点、楽器のバランスに関連して今回特に強く印象に残ったこととして特記しておきたいのが、この第9交響曲のスコアに特徴的な線の錯綜のリアライズに関してです。この作品のスコアを開いて見たことのある方は良くご存じのように、この作品における対位法的な線の重畳とその絡み合いの複雑さは例外的で、或る種極限的なものと言って良く、しかもそれは、例えば後年のミクロフォニーのようなマスとしての効果ではなく、あくまでも線がびっしり絡みあって蠢く様子が聴き取れるように書かれています。その重層と複雑さは臨界的な領域にあって、人間の認知機構の制約を超えるもので、ここでは各声部は同時に聴き取れはするけれども全てを対等にという訳にはもはや行かず、全てを受け止めきれないという認知的な飽和状態の如きものが生じることになります。認知実験等の結果によれば、ゲシュタルト的な図として同時にパラレルに把握できるのは3声部くらいが限界であるとのことで、通常の演奏ではメインのラインのようなものを設定して聞きやすくしてしまうことが多いですし、特に録音で聴く場合には結果的にそのような聴取になるのが普通ですが、実際には楽譜ではそういう指定はなく、今回のような素晴らしい音響を持ったホールでの楽譜に忠実な徹底的なリアライズに接することによって初めて、マーラーが意図していたことが十全に了解できたように感じました。

それが特に顕著に感じられたのは、例えば第1楽章展開部前半の「激しい怒りを込めて(Mit Wut)」奏される音楽が崩壊した後、211小節からの「苦悩に満ちた(Leidenschaftlich)」箇所であり、デネットの多元草稿モデルのように(但し、デネットのような情報処理モデルでは抜け落ちてしまう強く複雑な情動を常に伴うものであるということは幾ら強調しても足らないのですが)、人間の心はもともとポリフォニックなものであって、それを意識が辛うじて統制しているかのように感じられるに過ぎず、時としてそれは破綻するということさえ感じる取ることができ、常には「情熱的な」といった訳され方をするLeidenschaftlichという言葉のニュアンスを十全に感じ取れたように思いました。

その他個別に印象に残った所を逐次挙げて行けば際限なく、それだけで紙数が尽きてしまうことからそれは割愛させて頂き、最後に全般的な印象を記してこの感想を終えたく思います。

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これは繰り返しになりますが、楽譜の徹底的な読み直しによって井上喜惟さんが把握し、音楽自体が持つ時間性の流れに逆らうことなくその自発性に従って構築したものは、通常この第9交響曲の解釈として宛がわれる伝統的な楽式論をベースにし、せいぜいがそこからの逸脱を測るような解釈とは無縁ですし、多く伝記的事実との単純な重ね合わせに由来する標題音楽的、図像学的解釈とも異なっており、それらを拒絶するものでした。それは第8交響曲第2部のファウストの蘇りの語り直しとして、マーラー自身が「一切を新しい光の中にみる」と述べたような心性の蘇生の歩みの音楽化ではなかったかと思えます。しかもそれは、交響曲という伝統的な形式に依拠した単なる主観的心情の告白ではありません。この作品の手前において認識態度の変更があり、この作品は、これもまたアドルノが的確に指摘しているように、ゲーテ=ジンメル的な晩年の音楽なのであり、主観的なあり方がそのまま形式となるというジンメルの「老齢芸術」の理念の最上の実現の一つであるということが、この日の演奏を通じて確認できたように思います。そしてそれはそのまま、シェーンベルクのプラハ講演の言葉にある、作曲家をメガホン替わりにして語る存在の示唆にも通じ、この作品の「客観性」と彼が呼んだものにも通じているのではないでしょうか。

そして改めて、ある面では音響の継起に過ぎない音楽においてこのような精神的なものに到達することができたマーラーの天才には只々圧倒される他ないように感じます。勿論、このようなあり方が音楽の唯一の在り方である訳では決してありませんが、それでも尚、シュトックハウゼンが指摘した通り、「人間」というものが解体し断片化する手前で、二分心崩壊以降の意識の歴史の蓄積の末に到達された「意識の時代」の最高の達成の一つであり、その後はもうこのような形での達成は不可能になったのだという認識を新たにしました。マーラーはどんなに偉大な芸術作品とて「抜け殻」に過ぎないと述べたことがありますが、その言葉もまた、この音楽にファウスト的なものを読み取ろうとする井上喜惟さんの見方と響き合うものがあります。作品が「抜け殻」であるというのは「たゆまぬ努力によって生れ出た彼の姿は、不滅のものだ」という考え方と対のものとして理解されるべきだからです。

そのような解釈の投影という面もあるのかも知れませんが、今回の演奏は自分がそこに価値を見出した何かを音響としてリアライズしようという指揮者・音楽監督の井上喜惟さんの確固たる意志をいつになく強く感じさせるもので、オーケストラはそれに対して、驚異的な集中力と共感を以て十全なリアライズを成し遂げたものと感じられました。演奏が終わった後の、得難い何者かが達成され、成就されたというはっきりとした感じがかけがえのないものに感じられ、そうした場に聴き手の1人として立ち会うことができた幸運を噛み締めずにはいませんでした。更に加えて、改めて最近の演奏の充実を振り返り、その上でそれらの蓄積が可能にした一層の自在さをもって達成された今回のような演奏を目の当たりにした時、ふとした偶然によるきっかけから、微力ながらかれこれ10年以上に亙ってお手伝いさせて頂くことができている幸運についても感謝したい気持ちになりました。

到底言葉で尽くすことは叶わぬにせよ、結局のところ言葉で伝えるしかない最高度の感謝を井上喜惟さんとマーラー祝祭オーケストラの皆さん、また今回のコンサートの企画に携わられた皆さんにお伝えして、この拙い感想の結びとさせて頂きたく思います。(2025.10.13初稿)


「一切をかくも新しい光の中にみる」—第9交響曲と「老い」について(2025.10.11 マーラー祝祭オーケストラ第25回定期演奏会によせて)

 マーラーの第9交響曲はしばしば「大地の歌」と一括りにされ、「死」と「告別」という内的プログラムを持つものとして語られる。パウル・ベッカーは「死が私に語ること」を第9交響曲の暗黙の標題とし、メンゲルベルクは自分のスコアに「愛する者たちからの告別」(第1楽章)「白鳥の歌」(第4楽章)と書き込んだ。前作の「大地の歌」のみならず、ベートーヴェンの「告別」ソナタの引用、終楽章における「原光」や「子供の死の歌」第4曲の引用も「死」や「告別」と作品との結び付きを裏付けるかに見える。

 その一方で、素材に過ぎないものを作品のイデーとしての「標題」と見做す立場に対する批判があり、伝記的事実との作品の安易な結びつけを戒め「人生と芸術」の関係を相対化する立場も存在する。しかし心の状態ではなく、現実性に対する態度が問題であるならば、例えば「大地の歌」のマクロな構成が「死の受容」のプロセスと類比的であるとする説にも妥当性を認められようし、その傍証としてならば、長女の死、自身の病の宣告という伝記的事実を持ち出すのは構わないだろう。その一方で音楽を「死のイメージ」の表現と見做し、或いは「死との対決」というプログラムに縛り付けておきながら、その創作の時期にマーラーが既に「危機」を克服していたという事実をもって「人生と芸術」との関係を相対化する主張には一抹の違和感が残る。

 確かにマーラーは既に「大地の歌」と第9交響曲の作曲の間の時期にあたる1909年初頭のワルター宛ニューヨーク発の書簡で「一切をかくも新しい光の中にみている(Ich sehe alles in einem so neue Lichts)」と語り、自分が第8交響曲第2部で音楽化した『ファウスト』第2部終末のファウストの蘇りにさえ言及している。だがだとしたら寧ろ第9交響曲は「死」と無関係ではないにせよ、「死」そのもののイメージとも「死の受容」とも異なった、現実的なものの経験において生じる別の反応形態と関わるのではないか?

 この問いに答えるにあたっては、マーラーの作品における「後期様式」についての議論が手がかりとなるだろう。マーラー論においてアドルノは「後期様式」に関してゲーテの「現象からの退去」を参照するが、これはジンメルの『ゲーテ』での「老齢芸術」論に基づいたものとされる。ジンメルは「老い」によって外部世界から内なる経験へ焦点が移行し、既存の形式に依拠した全体的統合に無頓着になり、作品や作者の世界との関係が象徴的なものとなると指摘している。アドルノはジンメルの見解を継承しつつ、調和や有機的統合性の放棄を強調しているが、そのアドルノの衣鉢を継いだサイードもまた伝記的事実への安易な照会を戒めているとはいえ、五十歳にも満たないマーラーが「後期様式」を獲得したことは、二人称的な死との直面や一人称的な死の予告としての病の宣告、社会的水準で「老い」との関りが深い「退職」といった出来事との対峙により自らの有限性を意識し、「老い」を意識することにより現実への態度を更新したことと無関係ではあるまい。

 今井眞一郎によれば「老い」のシステム論的定義は「生物が持つロバストネスの変移と崩壊」であり、単なる「崩壊」=「死」ではないことが強調されるが、それを踏まえるとすれば、「後期様式」とは、端的に「老い」と「老いの意識」の様式であり、それを通じて「一切をかくも新しい光の中にみる」試みではないだろうか。

 斯くして実現した音楽は、シェーンベルクが「プラハ講演」で指摘する、「恰も作曲家が隠れた作者のメガホン替わりであるかの如き」、「美についての客観的で、ほとんど情熱を欠いた証言」となる。アドルノの指摘する「間接話法」での語りも、シェーンベルクの指摘も「現象からの退去」と関連づけることが可能であり、第9交響曲は「大地の歌」の「死の受容」のプロセスに続く「老い」の時間性の音楽化と捉えることができる。

 従ってその徴候は音楽の形式的、構造的側面においてこそ明らかなものとなる。全曲のニ長調→変ニ長調という下降する調的プラン、ニ長調・ニ短調の対比を構成原理とし、ソナタ形式を基本としながら変形の技法の限りを尽くして絶えず主題が変容しつつ回帰する第1楽章の独自の構造、通常の意味合いでの解決が絶えず宙吊りにされ、時として調性の感覚が曖昧になりさえする独特の和声進行や、規範に囚われない斬新な音響に富んだ器楽法は「後期様式」の特徴を典型的に体現している。その第1楽章を後続の楽章が遠心的に取り囲む、アンバランスで統合性に欠くと見做されるかもしれない破格な楽章配置もまた然りだし、各楽章におけるアイロニー、反抗と諦観も、ハ長調-イ短調-変ニ長調という調性格論に拠る基本的性格に基づきつつ、現実に対する「老い」固有の反応の様態を色濃く反映したものとなっている。更に第9交響曲に関して指摘される「崩壊」や「溶解」といった局所的な構造的性格も、「老い」のシステム論的定義に照らせば、「死」そのものではなく、寧ろ「死」へのベクトル性を帯びた「老い」の時間性を反映していると見るのが妥当ではなかろうか。長調と短調の二元論にせよ、変形の技法、形式の唯名論的性格、或いは「仮晶」にせよ、それら自体としてはマーラーの作品全体を通して指摘でき、必ずしも「後期様式」固有のものではないけれども、それらが「老い」の意識を通じて機能することによって「後期様式」の実現に本質的に寄与していることは間違いないだろう。

 それを思えば「大地への未聞の愛の表現」というベルクの言葉も、第1楽章におけるシュトラウスの「楽しめ、人生を」の引用とともに「死の受容」を経た老境の生に対する態度の反映と捉えられるだろう。更にファウストの蘇りへのマーラーの言及について言えば、「子供の死の歌」第4曲の引用とされる音型が既に第8交響曲にも確認できること、第4楽章のMolto adagio subitoから7小節目(55小節)のヴィオラの下降音型が第8交響曲第2部で、かつてグレートヒェンと呼ばれた女がファウストの蘇りを歌う部分の結びの引用であり、"neue Tag"という言葉が充てられていたことを思えば、常には対照的なものと位置づけられることが専らの第8交響曲第2部を、寧ろ「後期様式」の予告として位置づけ直し、翻って第9交響曲を読み直すことが求められているのではなかろうか。

 「老い」を前面に立てたとて、その内実が「死」との関わり、生からの「告別」であるとするならば結局は同じことであり、殊更異を唱える迄もないという見方もあるかも知れない。だが私見によれば「老い」についての言い落しはマーラーの「後期作品」の捉え方に無視できぬ歪みをもたらしている。そのことは西欧的主体観にとっては「死」への覚悟よりも、主体自体の衰頽・崩壊の過程である「老い」の方が厄介なものであり、それは「死」についてならかくも饒舌に多くが語られるのに対し、寧ろ「老い」を取り上げることの方がタブーであり、スキャンダルですらあることと関わっていよう。しかし東洋の伝統では事情が異なる。思いつく限りでも、例えば能の老女物における「老い」の受容もそうだし、世阿弥の「老年の初心」を思い浮かべることもできよう。西欧でもその周縁からなら、トルンスタムの「老年的超越」といった、禅を参照するなど東洋的な考え方に親和的な概念が提唱されている。ゲーテの「現象からの退去」も、静寂観と神秘に重きをおく老年観についても東洋的なものとの親和性を指摘することができようし、それはまたゲーテのみならず、ショーペンハウアー、東洋学者でもあったリュッケルト、更にはフェヒナーの自然哲学に親炙し、漢詩の翻案に惹き付けられたマーラー自身のものでもあろう。「一切をかくも新しい光の中にみる」という言葉は、例えば世阿弥の「老年の初心」の表明ではないだろうか?こうした点を踏まえてマーラーの音楽に虚心坦懐に向き合うことは、西欧的な主体観や能力主義に相当程度侵蝕されている今日の日本の我々にとって、寧ろ自己の奥底に潜む伝統を再認識する契機にすらなり得るのではなかろうか。

 今日であれば、生成AIがマーラーの「後期様式」を論じ、第9交響曲の分析レポートを作成することすら可能になっている。だが生成AIは問われた対象についての言説の空間の内部を情動的反応なしで動き回り、「他人の噂」に基づいて回答を返すことしかできない。AIは「老い」を感じず、音楽を聴くことで引き起こされる反応とは無縁で、第9交響曲を聴いて共感することもない。井上喜惟さんとマーラー祝祭オーケストラにとって第9交響曲は2012年以来の再演になるが、前回の演奏が東日本大震災のために延期され、会場を変更して翌年実現したこともまた、その事実を指摘することなら可能であっても、公演がおかれた未聞の状況、演奏においてこれ一度きり実現した、異様とも言える雰囲気から受ける「感じ」を10年以上隔てて今なお生々しく想起するといったことは、少なくとも現在の生成AIにとっては無縁の事柄なのである。既に生成AIが自己の「死」を認識し、それを避けようとするという報告があるが、どこまで行っても「老い」とは原理的に無関係である以上、AIが「一切をかくも新しい光の中にみる」ことはないだろう。

 今や現実味を帯びて来たシンギュラリティ(技術的特異点)の彼方では、人間もまた「老い」から解放されるのかも知れず、もしかしたら私たちはジュリアン・ジェインズの「二分心」崩壊以降、シンギュラリティ以前のエポックを生き、単に生物として「老い」を生きるのみならず、「老い」を意識し、経験する最後の世代なのかも知れない。そしてシンギュラリティの彼方でマーラーの音楽は、今から半世紀以上も前にシュトックハウゼンが想定した、地球を訪れた宇宙人にとってのように、かつて「人間」と呼ばれた種族を知るための考古学的な手がかりに過ぎなくなるかも知れない。しかしシンギュラリティの手前に生きて老いてゆく私たちにとってマーラーの第9交響曲を聴くことは、自らもまた自己の有限性を自覚しつつ、まさにそのことによって「一切をかくも新しい光の中にみる」ことに誘われるかけがえのない経験であり続けるだろう。(2025.6.18初稿, 7.2最終稿, 10.13公開)


2025年10月1日水曜日

[お知らせ] マーラー祝祭オーケストラ(音楽監督・井上喜惟)第25回定期演奏会(2025年10月11日)

  マーラー祝祭オーケストラ(音楽監督・井上喜惟)第25回定期演奏会が2025年10月11日にミューザ川崎 シンフォニーホールにて開催されます(12:45開場、13:30開演)。以下のマーラー祝祭オーケストラの公式ページもご覧ください。

Mahler Festival Orchestra Offcial Site (https://www.mahlerfestivalorchestra.com/)

チラシのpdf版は以下のリンクからダウンロードできます。

マーラー祝祭オーケストラ第25回定期演奏会.pdf




プログラムはベルクの7つの初期の歌とマーラーの第9交響曲より構成されます。第9交響曲はマーラー祝祭オーケストラがまだジャパン・グスタフマーラー・オーケストラという名称であった2012年6月24日に、文京シビックホール大ホールで行われた第9回定期演奏会で取り上げられており、今回は13年ぶりの再演となります。13年前の公演に接した本ブログ管理人の感想は、ジャパン・グスタフ・マーラー・オーケストラ第9回定期演奏会を聴いてという記事として本ブログで公開しています。第9回定期演奏会は本来、2011年に行われる予定でしたが、東日本大震災被災により当初予定されていたミューザ川崎シンフォニーホールでの公演ができなくなったこともあり、1年延期の上、会場を変更しての公演となりました。今回は改めて、ミューザ川崎シンフォニーホールでの公演となります。

第9交響曲について、これまでの公演で取り上げられてきた交響曲同様、プログラムノートに寄稿させて頂いておりますので、是非ともご一読頂ければ幸いです。

また本ブログでは、上記の公演の感想以外にも、第9交響曲に関連して以下のような記事を執筆・公開していますので、併せてご覧頂ければ幸いです。

(2025.5.31 公開, 6.18 更新)


マーラーを考える上での主題系

 本来は相関図を用いるべき。

  • 識・無意識・自己・心・他者:現象学、初期ハイデガー、批判理論、解釈学、認知科学、プロセス哲学、脳科学、神経生理学、進化論(ミーム含む)、発達心理学、精神病理学、精神分析学。フリストンの理論(自由エネルギー原理・能動推論・マルコフブランケット。)
    • 「二分心」(ジュリアン・ジェインズ)崩壊以降、シンギュラリティ(カーツワイル)以前の「意識」の時代。「延長意識」「自伝的自己」(ダマシオ)「自己意識」の成立と維持の仕組み。
    • フィクションとしての「私」。「意識が一つ続きのものであること」(兼本浩祐)が如何にして可能になるか。時間をまたぐ構造保持のメカニズム。「自伝的自己」の生成機序と構造。
    • 表象の同一性維持機構としての「ことば」。
    • 「私」を立ち上げる必須の契機としての「他者」。他者の声の交響の場としての「私」。やまだようこ「ことばの前のことば」における「うた」。
  • 時間性:意識=時間性の起源としての他者の(原)触発。「隔時性」(レヴィナス)。リベットの実験における意識の「遅れ」=差延(デリダ)。プロセス哲学における「時の逆流」、推移の時間と超越(ホワイトヘッド=遠藤)。不可逆性、未来完了性(ジャンケレヴィッチ/アドルノ)。Varianteの技法(アドルノ)。他者への「応答」への遅れ⇒「投壜通信」としての「作品」。
  • 音楽作品と意識との関係。結節点としての自由エネルギー原理(フリストン):「感じ」としての意識(ソームズ、パンクセップ、ダマシオ)/「図式的期待」(ナームア、マイヤー)⇒「意識の音楽」・「時間の感受のシミュレータとしての音楽作品」・「マーラー・オートマトン」。MIDIデータを用いた調的軌道の可視化。和音の出現頻度分析。状態遷移の多様性の分析。標題性、「ことば」による表象の安定化。ジェスチャーとしての音楽(近藤譲)。
  • 意識「からの」眺め:超越・不滅性/有限性・老いと死、倫理や価値、反逆、憧憬、懐疑と矛盾、イロニー、夢、自然、自然の音と「世の成り行き」、音の風景・空間性(「遠くから」)。ヴァ―チャリティ(風景の、そして意識そのものの)。想像力、仮想性:「ありえたかも知れない民謡」(三輪眞弘)、仮晶(アドルノ)、疎外。様々な異化(「うた」の媒介性、屈折。作品における男女の声の交替、歌と器楽の往還。幼少期のアコーディオン)。
    • ⇒ 「老い」:「現象からの退去」(ゲーテ=ジンメル)としての「老い」=「後期様式」(アドルノ)。「かけがえのないものが移ろいゆくものであること」の受容。Erdeの多義性。。「個別的なものの学(mathesis singularis)」(ロラン・バルト)。
    • ⇒「子供」:自伝的自己の成立機序。「新しさ」の感じが生じる条件としての「他者」との遭遇。「出会い」の時間論的構造、「再会」によって「出会い」が事後的・未来完了的に認識されること。
  • シンギュラリティ(カーツワイル)からの視点:Life3.0(テグマーク)。惑星としての地球(Erde)。宇宙人からの展望(シュトックハウゼン)。人工知能による補筆(第10交響曲)。
  • (未完成を含む)作品の存在論。「幽霊性」。「再演」による継承の意味。「書き取らされている」という感じについてのジェインズの「二院制の心」による説明、世界制作(グッドマン)、「神の衣を織る」(ゲーテ『ファウスト』)。ポリフォニー:「子午線」を介した「対話」としての「詩」(パウル・ツェラン)。「投壜通信」(ツェラン=マンデリシュタム)。他者の声の交響の場としての作品(バフチン)。「うた」の起源におけるポリフォニーの優位(ジョルダーニア)
  • 個別的なものの学(mathesis singularis)」(ロラン・バルト)としての「マーラー学」:儚く有限な「意識」と「主観性」の擁護。「投壜通信」(パウル・ツェラン=マンデリシュタム)。「コミットメント」(マイケル・ポランニー)。

(2002執筆, 2007加筆, 2008.5.27初稿公開, 2025.10.1 身辺雑記から独立させて公開。ワーク・イン・プログレス)

2025年9月30日火曜日

意識の構造と音楽:フリストンの自由エネルギー原理とマーラーの作品の時間性(2025.9.30更新)

 1. はじめに

本稿は、カール・フリストンの自由エネルギー原理を中心とした現代の意識理論と、音楽、特にマーラーの交響曲における時間構造との関係を考察し、アドルノの音楽分析における「未来完了性」概念およびVarianteの技法を重要な分析視点として、意識と音楽の構造的類似性の探究の方向性を示すこと、マーラーの音楽を「意識の音楽」「<感じ>の時間性のシミュレータ」として捉えることに一定の妥当性があることを示そうと試みたものです。


2. フリストンの自由エネルギー原理と意識理論

2.1 基本概念

自由エネルギー原理は、生物システムが環境との相互作用において、予測誤差(サプライズ)を最小化しようとする基本的な動作原理を示しています。脳は常に感覚入力を予測し、その予測と実際の入力との差異を最小化することで、世界の内部モデルを更新し続けます。

2.2 意識との関連

予測処理と意識 フリストンの理論では、意識は階層的な予測処理システムの産物として捉えられ、脳の異なる階層レベルで行われる予測とその更新のプロセスが、私たちの主観的体験を生み出すとされます。

注意と意識の関係 予測誤差が大きい情報に注意が向けられ、それが意識的な経験として現れる仕組みも、自由エネルギー原理で説明される可能性があります。それによれば、予測できない、つまり情報価値の高い刺激が意識の前景に現れやすいとされます。これは意識が無意識的な処理では対応しきれないような環境の変化に対応するために進化的に生み出された仕掛けであるという考え方や、ウィノグラード=フローレスのように意識を「ブレイクダウン」に関連付けて考える立場と親和的です。

2.3 情動の理論と自由エネルギー原理の統合

内受容感覚と予測処理 ソームズが重視する内受容感覚(体内からの感覚)は、フリストンの枠組みでは身体状態の予測処理として理解されます。脳は常に身体の内部状態を予測し、その予測誤差を最小化することで恒常性を維持します。この過程で生じる予測誤差が「感じ」として体験されると考えられています。

情動の予測符号化 パンクセップの情動システム理論における基本情動(恐怖、怒り、探索など)も、進化的に発達した、生存のために重要な状況における予測処理システムとして再解釈可能です。これらの情動は、環境や身体状態の変化を予測し、適応的な行動を準備するための進化的に古い神経システムに由来するものと考えられます。

注意すべきなのは、ソームズやパンクセップの理論は、感情一次過程(Primary Process Emotion)理論であり、脳幹・辺縁系レベルの内的な状態としての感情を対象にしていること、それに対応してあくまでも生命維持や自己調節に根ざした脳内のホメオスタシス的機構のレベルでの感情の機能にフォーカスされており、実質的にはダマシオの言う「中核意識」以下のレベルに限定されていることです。

2.4.意識の階層構造

原始意識と高次意識 両者の理論は、意識の階層性について補完的な視点を提供します。パンクセップの「原始意識」(情動的意識)は、フリストンの枠組みでは低次の予測処理レベルに対応し、ソームズの言う「感じ」は身体状態の予測誤差として説明されます。一方、ソームズは高次の意識についても述べており、フリストンにおける階層的なモデルに対応するとされています。ただしそこでの感じや情動の扱いは限定的であり、高次の意識は「思考」として扱われている点には注意が必要です。

脳幹から皮質への情報流 ソームズやダマシオが強調する脳幹の重要性は、フリストンのモデルでは身体調節的な予測の最下層として位置づけられます。脳幹での予測処理が上位の皮質レベルに影響を与え、複雑な意識体験を形成するという統合的な理解が可能になります。特に皮質レベルでの高度な「思考」においては海馬が果たす役割が重要であり、ソームズの指摘するように、通常は無意識的である皮質の記憶プロセスに、視点を持った「わたしというもの」の質を注入するのに重要な役割を果たし、そのことによってシャクターの言うところの「建設的なエピソードシミュレーション」を支えています。

価値と動機の統合 パンクセップの情動システムが示す「欲求」や「価値」は、フリストンの能動的推論において、行動選択の基準となる事前期待として組み込まれます。生物は単に予測誤差を最小化するだけでなく、進化的により生存に適した状態を求める傾向があります。

この統合的アプローチは、意識を純粋に計算論的な現象としてではなく、身体に根ざした情動的・評価的なプロセスとして理解する新しい枠組みを提供することから、意識の構造と音楽との間の橋渡しをする可能性を持つものと考えられます。ただしパンクセップやソームズの情動についての理論は、フリストンの階層的な意識モデルにおいては、主としてその下層に関連づけられる点、あくまでも生命維持や自己調節に根ざした脳内のホメオスタシス的機構の解明に特化しており、そのために他者との相互作用によって生じる複雑な社会的感情や、情動のダイナミクスについては、十分な説明がされていない点については別に補完する必要があります。

2.5 音楽心理学における図式的期待(schematic expectation)との関連

フリストンの「サプライズ最小化(自由エネルギー原理)」と、音楽心理学における図式的期待(schematic expectation)は、両者とも予測とその誤差処理を中心に据えているという点で深い関係性があると考えられます。

音楽心理学における「図式的期待」ナームアの「含意ー実現」モデル、マイヤーの期待理論などでは、聴取者は過去の音楽経験や文化的学習によって、調性・旋律進行・リズムに関する「スキーマ」を持ち、それに基づいて「次にどうなるか」を予測し、実際の音楽進行が予測と一致すれば「充足感」や「安定」を、逸脱すれば「驚き」や「緊張」を感じるとされます。

予測と誤差処理 フリストンの理論では、能は外界からの入力を受けるとき、内部モデル(生成モデル)を用いて予測を立て、実際の感覚入力との差(予測誤差、≒「サプライズ」)が最小になるように行動・知覚・学習を調整します。これは認知・行動を統一的に説明する一般的・原理的枠組みであり、音楽心理学における「図式的期待」はその枠組みの音楽に特化した一例として位置付けられます。

音楽は「サプライズ」を意図的に操作する芸術と見ることができ、予測通りであれば安心、予測が裏切られれば驚きや緊張が生じ、それが新たな期待の更新につながるという意識の流れを生み出していきます。音楽は脳の自由エネルギー原理を活用した、仮想的なシミュレーションという捉え方が可能です。ただしここでも情動の理論について指摘したものと並行的な制限があることに注意する必要があります。つまり図式的期待のモデルは、その単純なものについて言えば、意識のレベルとしては中核意識のレベルを大きく超えることはなく、フッサールの内的時間意識の現象学においては第一次の把持のレベルに留まります。勿論それを「今ここ」の統合を超えた時間をまたいだレベルに拡張することは可能ですが、モデルとしての実質を持たせるためには時間をまたぐ構造保持のメカニズムが別途必要になると考えられます。フリストンの理論は過去・現在・未来を含む生成モデルを扱えるので、長期的安定性を定式化することは自然に行えますが、ダマシオの言う「延長意識」の水準や「自伝的自己」を扱うためには階層的なモデルが必須となり、特に上位階層の機能が重要となるのは既述の通りです。


3. 音楽と意識の構造的類似性

3.1 予測処理としての音楽体験

時間的予測とサプライズ 音楽に関わる様々な行為は、全体として時間的な予測処理システムと見做すことができます。私たちは聴きながら次の音やリズム、和声進行を無意識に予測し、その予測が裏切られたり確認されたりすることで音楽的体験が生まれます。フリストンの枠組みにおいて予測誤差の最小化プロセスと捉えることができるこの過程は、音楽の理解と楽しみの重要な源泉の一つとなると考えられます。

意識と音楽における階層構造 音楽の構造には意識と構造と並行的な階層性が見られます。音楽の聴取においては、音高、リズム、フレーズ、楽章といった異なるレベルで同時に予測処理が行われ、それぞれが相互作用しながら統合された音楽体験を生み出します。これは意識の階層的な予測処理モデルと類似しています。

3.2 身体的・情動的基盤

内受容感覚との共鳴 ソームズが重視する内受容感覚は、音楽体験の核心部分です。例えばリズムは心拍や呼吸と同期しますし、低音は身体の深部感覚との共鳴を惹き起こすと考えられます。音楽は身体状態の予測処理システムを直接的に活性化し、「感じ」の絶えまない変化としての音楽体験を生み出します。

基本情動システムの活性化 パンクセップの基本情動(探索、遊び、恐怖、愛着など)は、音楽の異なる要素によって直接的に喚起されると考えることができるかも知れません。例えば上行するメロディーは探索システムを、不協和音は警戒システムを、反復的なリズムは愛着システムを活性化する可能性があります。

3.3 音楽の意識への作用メカニズム

注意の誘導と統合 音楽は予測可能性と驚きのバランスを通じて注意を誘導し、変転し流動する意識内容を統合する力を持ちます。このことが音楽療法や瞑想において音楽の使用が有効である理由かも知れません。

時間意識の構造化 音楽は時間の流れを構造化し、意識の時間的展開パターンを調整します。拍子やテンポは時間予測のリズムを設定し、フレーズ構造は意識の注意サイクルと同期します。音楽は意識の流れを誘導し、調整する働きをすると考えることができます。

3.4.創造性と自己組織化

能動的推論としての作曲・演奏 音楽の創造は、内的な音楽モデルと実際の音響出力との間の予測誤差を最小化する能動的推論プロセスとして理解できます。演奏者は意図した音楽表現を実現するために、身体動作を通じて環境(楽器)を制御します。

集合的意識としてのアンサンブル 複数の演奏者によるアンサンブルは、個々の予測処理システムが相互作用し、より大きな予測システムを形成する例として興味深いモデルを提供します。これは意識の社会的側面に通じ、集合的認知の理解に繋がっていく可能性を含みます。


4. マーラーの交響曲における意識構造の音楽化

4.1 多層的な予測処理システム

同時進行する複数の時間スケール マーラーの交響曲では、短いモチーフ、中規模なフレーズ、長大な楽章、そして全体の交響曲という異なる時間スケールが同時に展開されます。これは意識における多層的な予測処理そのものと見做すことができ、私たちの意識も、瞬間的な知覚、短期記憶、長期的な目標や人生の物語といった異なる時間軸で同時に機能していることとの並行性が見い出せます。マーラーの音楽はしばしば「小説」に喩えられる、長大で複雑な時間的構造を持ちますが、それはダマシオの定義する「中核意識(Core consciousness)」(「今ここ」の統合)の繰り返しでは説明しきれず、自己史や未来予測を含む「延長意識(Extended consciousness)」や自伝的自己の水準に対応すると考えるべきです。

階層間の相互作用 マーラーの音楽では、小さなモチーフの絶えざる回帰と変形のプロセスが楽章全体の構造を決定し、同時に巨視的な楽式レベルで設計された全体の流れが局所的な展開に、時として遡及的に意味を与えます。これは意識の階層的予測処理において、上位レベルの予測が下位レベルの知覚を制約し、下位レベルの予測誤差が上位レベルの信念を更新するプロセスと対応しています。

4.2 情動と認知の統合

身体的共鳴の複雑性 マーラーの音楽は、パンクセップの基本情動システムを複雑に織り交ぜます。例えば第5交響曲の第1部では悲しみや恐怖が活性化され、第3部では愛情や喜びが活性化されますが、これらは単純に継起するのではなく、重層的に組み合わされており、まさに人間の意識における情動の複雑に入り混じった状態を音楽化したものと言えます。更に言えば、マーラーの音楽における感情のレパートリーは、一次過程理論で重視されるような、主に情動(Emotion)や動機づけ(Motivation)としての感情に限定されません。マーラーの音楽は、持続的な状態としての感情、即ち自伝的自己が関わる水準の「気分(Mood)」や「情動気質」といった、より持続的で自己全体に影響を及ぼす感情の状態が重要になります。

内受容感覚の精緻化 マーラーの音楽は聴き手の呼吸、心拍、筋緊張を微細にコントロールします。例えば長大な弦楽器のクレッシェンドは交感神経系を段階的に活性化するでしょうし、突然の静寂は副交感神経系への急激な切り替えを促します。こうした単独の例であれば、他の音楽にも見出せるものですが、これらを高度に複雑に組み合わせたマーラーの音楽は、意識における身体状態の予測処理の複雑さを反映していると見ることができます。それは二次過程(学習・記憶)や三次過程(高次認知・社会的機能)と呼ばれるより高次の脳システムとの相互作用のメカニズムをも考慮して理解すべきものではないでしょうか?

4.3.記憶と予期の織物

循環的な時間構造 マーラーは同一の主題を異なる文脈で繰り返し登場させ、それぞれに新たな意味を付与します。これは意識における記憶の働き—過去の経験が現在の知覚を予測的に形作り、同時に現在の経験が過去の記憶に新たな意味を与えるプロセス—と同一の構造です。

遠大な予期と局所的サプライズ 交響曲全体を通じて、聴き手は遠い未来の解決(例えば終楽章の勝利的な結末)を予期しながら、局所的には予想外の転調や楽器法に驚かされ続けます。これは人生における長期的な目標設定と日常的な予期の裏切りという、意識の時間的構造そのものです。

4.4.統合と分裂の動的平衡

複数の視点の同時存在 マーラーの音楽では、異なる楽器群が異なる「声」や「視点」を表現し、それらが対話し、競合し、最終的に統合されます。これは意識における複数の心的内容の競合と統合、そして統合情報理論で言うところの意識の統一性の動的な実現過程と対応しています。更に言えば、一般にフリストンの自由エネルギー原理は、単独の個体の知覚・行為の予測誤差最小化をモデル化したものですが、それを社会的相互作用や他者モデルの生成・更新まで拡張して解釈する必要が出てくるかも知れません。これは情動理論についても同様であり、生命維持や自己調節に根ざした脳内のホメオスタシス的機構の解明に特化した情動の理論を拡張し、他者との相互作用によって生じる複雑な社会的感情や、情動のダイナミクスを扱えるようにすること、他者との共感や、感情が他者の触発によって起きることや、同期や引き込みのような感情ならではの現象を扱えるようにする必要が出てくるものと考えられます。

意識の流れの音楽化 ウィリアム・ジェームズの「意識の流れ」概念は、マーラーの音楽において具現化されています。絶え間ない変化の中にある継続性、断絶のない移行、過去・現在・未来の融合といった意識の基本特性が、音楽的時間として展開されています。ここでいう意識の時間性は、現象学的時間論においては第二次把持の水準(想起や予期)を扱えることは必須ですし、マーラーの音楽における民謡や行進曲などといった文化的沈殿物の再利用のような側面を扱うのであれば、更にスティグレールの言う第三次の把持まで考慮する必要があるかも知れません。

4.5.意識の音楽としてのマーラーの交響曲

マーラーの交響曲は、単に美的体験を提供するだけでなく、意識の構造そのものを時間芸術として展開した、意識の現象学的地図とも呼べる存在なのです。聴き手はその音楽的体験を通じて、自らの意識の複雑な構造を内側から体験し、理解することができるのです。なお、ここでいう意識は「今ここ」の統合としてのダマシオの中核意識だけではなく、時間をまたぐ構造保持のメカニズムに支えられた、「物語」の主人公たりうる、それ自体フィクションである「一続きの私」に対応する延長意識のレベルをも含みます。それは「自己についての予測」が行われ、「自分がどのような存在であるか」についての予測を実現しようとする行動が行われる水準であり、最低でも自己モデルに基づく、自己の状態についてのメタレベルの認知が、時としては自己言及的な構造がその実現のための条件となります。


5. 自己言及性と予測処理

5.1 予測的自己モデリング

自己についての予測 フリストンの枠組みでは、脳は環境だけでなく自分自身についても予測モデルを構築します。この「自己についての予測」が自己言及性の基盤となります。脳は自分の感覚、行動、さらには自分の思考プロセスまでも予測しようとし、その予測誤差を最小化することで自己理解を深めていきます。

メタ認知としての階層化 自己言及性は、予測処理の階層構造において上位レベルが下位レベルの予測プロセス自体を予測することとして理解できます。「私は今何を考えているか」「私はなぜこう感じるのか」といった内省は、認知プロセスについての予測処理として機能します。

5.2.能動的推論における自己

自己実現的予測 フリストンの能動的推論では、生物は世界を変化させることで自分の予測を実現しようとします。自己言及的な場合、これは「自分がどのような存在であるか」についての予測を実現しようとする行動となります。アイデンティティの形成や維持は、自己についての予測を能動的に実現するプロセスとして理解できます。

循環的因果性 自己言及系では、システムが自分自身を参照し、その参照が再びシステム自体を変化させるという循環が生じます。フリストンのモデルでは、これは予測と行動の循環として表現することが考えられ、自己モデルの更新が新たな自己モデルの予測を生み出す無限の再帰的過程と見做すことが可能です。

5.3 マーラーの音楽における自己言及性

音楽的自己意識 マーラーの交響曲にもし「音楽について語る音楽」という側面があるとしたならば、フリストンの枠組みではそうした側面を、音楽システムが自分自身の構造を予測し、その予測を音楽的に実現するプロセスとして理解することができます。作曲家は音楽の効果を予測し、その予測を音楽そのものに組み込むことで、自己言及的な構造を創造します。マーラーの音楽における引用やパロディをこの枠組みに基づいてモデル化する可能性があると考えます。

聴取における再帰的体験 聴き手がマーラーの音楽で体験する自己言及性は、音楽が聴き手の予測プロセスについての予測を誘発することです。「この音楽は私にどう感じさせようとしているのか」という意識が、実際にその感情体験を変化させる循環的なプロセスが生まれます。

5.4 自由エネルギーの最小化と自己言及のパラドックス

予測の不可能性 自己言及系には根本的なパラドックスがあります。システムが自分自身を完全に予測できれば、その予測可能性自体が新たな予測不可能性を生み出します。ただしこのレベルのパラドクスが常に問題になるわけではありません。一般に予測が不可能なのは、予測の対象となる世界が複雑で確率的なゆらぎを持っている上に、常に部分的な情報しか得られないことから、無意識的・自動的なシステムの反応ではブレイクダウンを起こすような状況が起こりえることに起因すると考えられます。結果としてフリストンの理論では、予測誤差は完全には解消できず、持続的な「自己についての不確実性」が意識の動的な性質を生み出すと考えられます。そうした状況に対応するためには、一見すると非効率である意識的な認知の仕組みが必要となります。つまり意識的な認知は、複雑で変動する世界において、自動化されたシステムが破綻するリスクに対する、進化的に獲得された階層的な適応メカニズムであり、その実装には深い自己言及的構造が必要であり、これが構造的な「非効率性」と「不確実性」を生むが、それは長期的生存確率を最大化するための合理的なコストであると考えられます。

創発的複雑性 自己言及的な予測処理システムでは、単純な規則から複雑で予測困難な行動パターンが創発します。これは意識の豊かさや創造性の源泉となり、同時に完全な自己理解の不可能性の根拠ともなります。ソームズは自由エネルギー原理が、意識、覚醒の否定であり、認知の理想形は自動的なものであり、ある種のゾンビ状態を目指していると結論づけながら、その一方で、私たちの頭の中で起こっていることの多くが、情報効率や熱力学的効率の理想とは一致しにくいことを指摘し、一見したところ自由エネルギー理論への挑戦に見える活動として、マインドワンダリング、熟慮型の想像、言葉による抽象化を挙げていますが、これらはいずれも自己言及的な予測処理システムの持つ創発的特性と関連づけて理解することができるでしょう。そしてそれは同時に「一続きの私」が成立し、維持されるための構造的条件にも関わるものと考えられます。

5.5.意識の統合と分裂

統合情報としての自己言及 統合情報理論との関連で言えば、自己言及性は意識システム内での情報統合の特殊なケースです。システムが自分自身についての情報を統合することで、より高次の統合情報が生成され、それが自己意識の基盤となります。自己の統合は常にうまくいくとは限らず、離人症的な経験のような、病理的な自己感の喪失や分裂が経験されることもありえます。また正常な場合でも、「自我経験」と呼ばれる対自的な自己意識についての経験が生じることもあります。モデルはこうしたケースも含めて説明できる必要があります。マーラーの音楽もまた、「一続きの私」の維持が自明なことではなく、時としてそれが不安定になり、破綻に瀕することさえ生じることを音楽的にシミュレートしていると見做すことができるでしょう。

自己の境界の動的構成 フリストンのモデルでは、「自己」の境界は固定的ではなく、マルコフブランケット(システムと環境の境界)として動的に構成されます。自己言及性は、この境界の内側で自分自身を予測するプロセスとして、自己の境界設定そのものに影響を与えます。

この自己言及的な予測処理の循環こそが、意識の最も特徴的な性質—自分自身について意識する能力—を生み出し、同時にその完全な理解を永続的に困難にする源泉となっているのです。マーラーの音楽はこの循環の美的な表現として、意識の自己言及的な構造を時間芸術として具現化している可能性があり、その検証は大きなチャレンジであると考えられます。


6. アドルノの未来完了性とVariante技法

6.1 Varianteと予測処理の逆転

変形としての主題認識 通常のソナタ形式では「主題提示→展開→再現」という線形的な時間が想定されますが、マーラーのVariante技法では、最初に現れるものは実は「変形」であり、「真の主題」は後に現れます。これは予測処理において、最初の知覚が実は「予測の変形」であり、後にその「元となる予測モデル」が明らかになるプロセスと対応しています。

予告としての最初の提示 フリストンの枠組みでは、脳は常に階層的な予測を行いますが、マーラーの技法では音楽的な「予測」が時間的に逆転します。最初に聞こえるのは結果(変形)であり、原因(主題)は後から明らかになる。これは予測誤差の解決が遡及的に行われる特殊なケースです。

6.2 記憶と予測の時間的錯綜

既知感の創出 Variante技法により、聴き手は「初めて聞くはずの主題」を「既に知っている」かのように体験します。これは予測処理システムが、まだ完全には提示されていない情報に対して「記憶的親和性」を感じる現象です。脳は断片的な情報から全体像を予測し、その予測が後に確認される構造です。

遡及的な意味付与 主題の「実現」が起こったとき、それまでの変形部分が遡及的に新しい意味を獲得します。これはフリストンの理論における「事後的な予測更新」の音楽的実現です。新しい情報(真の主題)が過去の体験(変形部分)の解釈を根本的に変更するのです。

6.3 自己言及的な予測構造

予測モデルの自己生成 マーラーの音楽では、主題が自分自身の変形から生まれ出るという自己言及的構造が生じます。これは予測処理システムが自分自身の予測誤差から新しい予測モデルを生成するプロセスの音楽的な表現です。

循環的な因果関係 変形(Variante)→主題(実現)→新たな変形という循環において、どこが「始まり」でどこが「終わり」かが不明確になります。これは自由エネルギー原理における予測と更新の循環的プロセスが、時間軸上で複雑に折り畳まれた状態として理解できます。

6.4 意識の未来完了性との対応

体験の事前構造化 この技法は、意識が体験を事前に構造化する仕組みを音楽的に実現しています。私たちは出来事を体験する前に、すでにその出来事の「型」や「枠組み」を持っており、実際の体験はその予期された枠組みの「実現」として経験されます。

自己実現的予測の音楽化 マーラーのVariante技法は、フリストンの「能動的推論」における自己実現的予測の音楽的表現でもあります。予告された主題は、その予告によって実現へと向かう必然性を獲得し、音楽自体が自分の予測を実現していくプロセスとなります。

この「予告—実現」構造は、単なる音楽技法を超えて、意識が時間を体験し、記憶と予測を統合する根本的なメカニズムの芸術的な開示と捉えることができないでしょうか。マーラーは、私たちの意識が持つ「未来を既に知っている」かのような時間体験を、音楽的時間として具現化している可能性があります。


7. マーラーの作品における具体的な音楽体験での実現例(ラフスケッチ)

第1交響曲の序奏 第1楽章冒頭の自然音の模倣から徐々に主題が浮かび上がる過程は、環境音(変形)から音楽的主題(実現)への変容として、まさに予告→実現の構造を示しています。聴き手は「何か重要なことが起ころうとしている」という予期を持ちながら聴き進みます。第1楽章冒頭の自然音の模倣から徐々に主題が浮かび上がる過程は、環境音(変形)から音楽的主題(実現)への変容として、まさに予告→実現の構造を示しています。聴き手は「何か重要なことが起ころうとしている」という予期を持ちながら聴き進みます。因襲的なソナタ形式からは大きく逸脱して、決定的な出来事、アドルノいう「突破」が生じるのは展開部の最後、展開部冒頭で最後に導入されたモチーフによって再現部に入るところで、再現部はそれまでのプロセスを足早に逆回しで遡及するようなユニークな構造を持っています。

第2交響曲の終楽章 復活の主題は、実は前楽章や前半部での断片的な「予告」を経て、最終的に合唱で「実現」されます。この構造により、実現の瞬間は「初めて聞く新しい主題」ではなく「ついに到達した既知の目標」として体験されます。

第9交響曲第1楽章 冒頭は幾つかの動機が断片的に提示され、その後旋律がためらいがちに、断片的に姿を現しますが、最初の提示は予備的な性質のものであり、完全な姿ではありません。そして通常は主題が反復され、確保される箇所で漸く主題が完全な形で提示される構造になっており、「未来完了」的な構造の典型となっています。またその後の主題は絶えず変形を受けながら回帰し、最後には再び断片となって解体していきます。これは意識の様々な様態の遍歴のプロセスと見做すことができます。またソナタ形式として捉えた場合の展開部の最中においても主要主題は主調で回帰するなど、調的遍歴の過程として見た場合でも、因襲的な図式を離れたユニークなプロセスを有しており、優れて「意識の音楽」としての特徴を有していると考えられます。


8. まとめ

フリストンの自由エネルギー原理と情動中心の意識理論の統合により、音楽と意識の構造的類似性を理解する枠組みを提供できる可能性があります。それに基づき、マーラーの交響曲における未来完了性とVariante技法は、意識の時間的構造の複雑さ—予測と記憶の相互浸透、自己言及的な循環、階層的統合—を音楽的に具現化しているという仮説を構成できます。

アドルノの未来完了性は「予告→実現」構造として分析され、意識が体験を事前に構造化し、自己実現的予測を通じて現実を構成する仕組みの音楽的表現として理解でき、これは単なる美的現象を超えて、意識の根本的なメカニズムの芸術的開示であると捉えることが可能かも知れません。

音楽と意識は、時間的で階層的で身体に根ざした予測処理システムとして根本的な類似性を持ち、マーラーの音楽は意識の構造そのものを時間芸術として展開した「意識の現象学的地図」であり、「意識の音楽」「<感じ>の時間性のシミュレータ」として機能していると考えることには一定の妥当性があると考えられます。

[後記] 本稿は著者が基本的な着想や理論構成を与え、研究パートナーとしてClaude Sonnet 4ないし4.5やChatGPT-5, Gemini 2.5 Flashとの対話を繰り返すことを通じて作成されました。上記のテキスト中には、Claude Sonnet 4やChatGPT-5, Gemini 2.5 Flashが生成した文章およびそれを編集したものが含まれます。


(2025.9.26 noteにて公開, 9.28加筆, 9.30加筆)

2025年9月21日日曜日

所蔵録音覚書:第6交響曲 (2025.9.21 更新)

  • 第6交響曲(第2楽章アンダンテ),アドラー, ウィーン交響楽団, 1952, (18:25, 15:36, 12:55, 33:21), ウィーン, MONO, Conifer Classics
  • 第6交響曲(第2楽章アンダンテ), ファン・ベイヌム, アムステルダム・コンセルトヘボウ管弦楽団, 1955.12.7(Live), (16:36, 13:55, 12:16, 30:22), アムステルダム、コンセルトヘボウ, MONO, Tahra
  • 第6交響曲(第2楽章アンダンテ), ミトロプーロス, ニューヨーク・フィルハーモニー管弦楽団, 1955.4.10(Live), (17:59, 15:15, 11:27, 28:46), ニューヨーク、カーネギー・ホール, MONO, New York Philharmonic
  • 第6交響曲, ミトロプーロス, ケルン放送交響楽団, 1959.8.31(Live), (18:40, 11:37, 14:26, 29:20), ケルン, MONO, Hunt
  • 第6交響曲(カットあり, 第2楽章アンダンテ), シェルヒェン, ライプチッヒ放送交響楽団, 1960.10.4(Live), (14:03, 12:35, 6:26, 20:41), ライプチッヒ、コングレスハレ, MONO, Memories reverence
  • 第6交響曲, ラインスドルフ, ボストン交響楽団, 1965.4.20,21, (18:20, 11:51, 14:53, 28:31), ボストン、シンフォニーホール, STEREO, RCA
  • 第6交響曲, ラインスドルフ, バイエルン放送交響楽団, 1983.6.10(Live), (17:31, 11:46, 14:47, 29:20), ミュンヘン、ヘラクレス・ザール, STEREO, Orfeo
  • 第6交響曲(第2楽章アンダンテ), ゴールドシュミット, BBC交響楽団,  1961.11.25, (1:28:39), ロンドン, MONO, BBC transcription service
  • 第6交響曲(第2楽章アンダンテ), フリプセ, ロッテルダム・フィルハーモニー管弦楽団, 1954.7.3(Live), (17:37, 14:27, 11:46, 30:51), アムステルダム、オランダ・フェスティバル, MONO, Epic
  • 第6交響曲, ロスバウト, 南西ドイツ放送交響楽団, 1961.4.6(Live), (19:21, 13:56, 15:22, 32:37), バーデン・バーデン, MONO, SWR Classics
  • 第6交響曲, ロスバウト, 南西ドイツ放送交響楽団, 1961.4.7(Live), (19:02, 13:45, 15:19, 33:05), バーデン・バーデン, MONO, Datum
  • 第6交響曲, ドラティ, イスラエル・フィルハーモニー管弦楽団, 1963.10.27(Live), (17:54, 12:21, 12:27, 27:25), テルアヴィヴ、マン・オーディトリウム, MONO, helicon
  • 第6交響曲, セル, クリーヴランド管弦楽団 1967.10(Live), (17:45, 13:10, 13:31, 28:57), クリーヴランド、セヴェランスホール, STEREO, SONY
  • 第6交響曲(第2楽章アンダンテ), バルビローリ, ベルリンフィルハーモニー管弦楽団, 1966.1.13 (Live), (18:39, 14:08, 12:11, 29:09), ベルリン、フィルハーモニー, MONO, Testament
  • 第6交響曲(第2楽章アンダンテ), バルビローリ, ニュー・フィルハーモニア管弦楽団, 1967.8.16 (Live), (19:08, 14:00, 12:08, 29:23), ロンドン、ロイヤル・アルバート・ホール, STEREO, Testament
  • 第6交響曲(第2楽章アンダンテ), バルビローリ, ニュー・フィルハーモニア管弦楽団, 1967.8.17-19, (21:19, 16:03, 13:59, 32:47), ロンドン、キングズウェイ・ホール, STEREO, EMI
  • 第6交響曲, ホーレンシュタイン, ストックホルム・フィルハーモニー管弦楽団, 1966.4.15,17(Live), (23:42, 12:57, 16:15, 33:30), ストックホルム、ストックホルム・コンサート・ホール, STEREO, Unicorn-Kanchana
  • 第6交響曲, ホーレンシュタイン, ボーンマス交響楽団, 1969.1.10, (23:09, 12:44, 15:26, 33:12), ボーンマス、ウィンター・ガーデンズ, MONO, BBC legends
  • 第6交響曲, ヴァーツラフ・イラーチェク, チェコ放送交響楽団, 1970(Live), (18:34, 15:54, 12:14, 32:38), , MONO, Olympic
  • 第6交響曲, アブラヴァネル, ユタ交響楽団, 1974.5, (17:37, 11:43, 13:49, 27:24), ソルト・レイク・シティー、モルモン・タバナクル公会堂, STEREO, Vanguard / Musical Concepts
  • 第6交響曲, バーンスタイン, ニューヨーク・フィルハーモニー管弦楽団, 1967.5.2/6, (21:28, 12:25, 15:20, 28:40), ニューヨーク、リンカーン・センター、フィルハーモニー管弦楽団・ホール, STEREO, CBS-Sony
  • 第6交響曲, バーンスタイン, ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団, 1976.10.22-23, (21:33, 13:16, 16:28, 31:36), ウィーン、楽友協会ホール, STEREO, Deutsche Grammophon/Unitel
  • 第6交響曲, バーンスタイン, ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団, 1988.9.24-25(Live), (23:17, 14:16, 16:19, 33:10), ウィーン、楽友協会ホール, STEREO, Deutsche Grammophon
  • 第6交響曲, クーベリック, バイエルン放送交響楽団, 1968.12.7-8, (21:07, 11:41, 14:39, 26:37), ミュンヘン、ヘルクレス・ザール, STEREO, Deutsche Grammophon
  • 第6交響曲, クーベリック, バイエルン放送交響楽団, 1968.12.6(Live), (20:30, 11:34, 14:32, 26:03), ミュンヘン、ヘルクレス・ザール, STEREO, audite
  • 第6交響曲, ハイティンク, アムステルダム・コンセルトヘボウ管弦楽団, 1968.11.7(Live), (18:05, 12:42, 16:58, 28:29), アムステルダム、コンセルトヘボウ, STEREO, Concertgebouw Orkest
  • 第6交響曲, ハイティンク, アムステルダム・コンセルトヘボウ管弦楽団, 1969.1.29/2.1, (22:07, 13:16, 15:47, 29:38), アムステルダム、コンセルトヘボウ, STEREO, Philips
  • 第6交響曲, ハイティンク, ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団, 1989.4.4-6,  (22:52, 21:52, 16:10, 33:07), ベルリン、フィルハーモニー, STEREO, Philips
  • 第6交響曲, ハイティンク, シカゴ交響楽団, 2007.10.18/19/20/23(Live), (25:56, 14:23, 16:12, 34:10), シカゴ、シンフォニーセンター・オーケストラルホール, STEREO,CSO Live
  • 第6交響曲, ノイマン, ライプチヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団, 1966.6.6/10, ライプチヒ, (25:12, 12:52, 14:53, 29:48), STEREO, Berlin Classics
  • 第6交響曲, ノイマン, チェコ・フィルハーモニー管弦楽団, 1979.4.24-28, (22:00, 12:00, 14:05, 30:30), プラハ、ルドルフィヌム, STEREO, Supraphon
  • 第6交響曲, タバコフ, ソフィア・フィルハーモニー管弦楽団, 1993.10, (23:24, 13:20, 14:53, 28:46), ソフィア、コンサート・ホール, STEREO, Capriccio
  • 第6交響曲, ヘンヒェン, オランダ・フィルハーモニー管弦楽団, 1989.10.8-12, (23:13,12:55, 17:38, 28:53), アムステルダム、コンセルトヘボウ, STEREO, Capriccio / Brillant Classicals
  • 第6交響曲, ショルティ, シカゴ交響楽団, 1970.4.2/6/8, (21:06, 12:33, 15:30, 27:40), シカゴ、メディナ・テンプル, STEREO, Decca
  • 第6交響曲, カラヤン, ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団, 1975.1.20/2.17-20/1977.2.18-19, (22:20, 13:24, 17:10, 30:03), ベルリン、フィルハーモニー, STEREO, Deutsche Grammophon
  • 第6交響曲, レヴァイン, ロンドン交響楽団, 1978.2.7/9-10, (22:38, 13:40, 15:06, 30:02), ロンドン、ウォルサムストウ・タウン・ホール, STEREO, RCA
  • 第6交響曲, アバド, ウィーン交響楽団, 1967.5.24(Live), (23:23, 11:45, 15:20, 29:00), ウィーン、コンツェルトハウス大ホール, MONO, Memories Reverece
  • 第6交響曲, アバド, シカゴ交響楽団, 1979.2.3-6/1980.2.6, (22:31, 13:13, 15:53, 30:51), シカゴ、オーケストラ・ホール, STEREO, Deutsche Grammophon
  • 第6交響曲(第2楽章アンダンテ), アバド, ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団, 2004.6.3-5(Live), (22:48, 13:57, 12:43, 29:44), ベルリン、フィルハーモニー, STEREO, Deutsche Grammophon
  • 第6交響曲, テンシュテット, ロンドン・フィルハーモニー管弦楽団, 1983.4.28-29/5.4/9, (24:36, 13:04, 17:21, 32:58), ロンドン、キングズウェイ・ホール, STEREO, EMI
  • 第6交響曲, テンシュテット, ロンドン・フィルハーモニー管弦楽団, 1991.11.4/7(Live), (25:33, 14:12, 17:45, 33:33), ロンドン、ロイヤル・フェスティバル・ホール, STEREO, EMI
  • 第6交響曲, コンドラシン, レニングラード・フィルハーモニー管弦楽団, 1978.5, (16:28, 11:47, 12:40, 24:50), レニングラード, STEREO, Melodiya
  • 第6交響曲, コンドラシン, 南西ドイツ放送交響楽団, 1981.1.13/15, (17:02, 12:09, 13:26, 25:25), バーデン・バーデン、ハンス・ロスバウトスタジオ, STEREO, hänssler
  • 第6交響曲, インバル, フランクフルト放送交響楽団, 1986.4.24/26, (24:22, 14:46, 14:34, 30:02), フランクフルト、アルテ・オーパー, STEREO, Denon
  • 第6交響曲, ヘルビヒ, ザールブリュッケン放送交響楽団, 1999.11.26, (17:51, 13:02, 14:39, 28:45), ザールブリュッケン、コングレスハレ, STEREO, Berlin Classics
  • 第6交響曲,プレートル, ウィーン交響楽団, 1991.10.10(Live), (22;52, 13:21, 15:17, 30:16), ウィーン、楽友協会大ホール, STEREO,Weitblick
  • 第6交響曲, マゼール, ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団, 1982.9.30-10.4, (23:35, 12:47, 16:05, 29:54), ウィーン、楽友協会ホール, STEREO, Sony
  • 第6交響曲, マゼール, フィルハーモニア管弦楽団, 2011.4.19(Live), (25:58, 13:28, 16:47, 32:54), ロンドン、ロイヤルフェスティバルホール, STEREO, Sigum
  • 第6交響曲, 小澤, ボストン交響楽団, 1992.1.30-2.4(Live), (23:40, 13:38, 15:06, 30:43), ボストン、シンフォニー・ホール, STEREO, Philips/Decca
  • 第6交響曲, 若杉弘, 東京都交響楽団, 1989.1.26(Live), (22:43, 12:02, 13:38, 30:43), 東京、サントリーホール, STEREO, fontec
  • 第6交響曲, ドホナーニ, クリーヴランド管弦楽団, 1991.5, (23:04, 12:27, 14:45, 29:36), クリーヴランド、クリーヴランド、セヴェランス・ホール, STEREO,Decca
  • 第6交響曲, シノーポリ, フィルハーモニア管弦楽団, 1986.9.25-27, (25:08, 13:40, 19:53, 34:29), ロンドン、ワトフォード・タウン・ホール, STEREO, Deutsche Grammophon
  • 第6交響曲, ベルティーニ, ベルリン・ドイツ交響楽団, 1973.4.30(Live), (16:55, 13:18, 15:39, 27:53), ベルリン、フィルハーモニ, STEREO, weitblick
  • 第6交響曲, ベルティーニ, ケルン放送交響楽団, 1984.9.21, (24:04, 13:33, 16:16, 29:12), ケルン、西部ドイツ放送局, STEREO, EMI
  • 第6交響曲, シャイー, ロイヤル・コンセルトヘボウ管弦楽団, 1989.10.23-25, (25:35, 13:20, 14:47, 31:00), アムステルダム、コンセルトヘボウ, STEREO, Decca
  • 第6交響曲(第2楽章アンダンテ), ラトル, バーミンガム市交響楽団, 1989.12.14-16, (25:35, 16:33, 13:21, 30:34), ワトフォード、タウン・ホール, STEREO, EMI
  • 第6交響曲, ティルソン=トーマス, サンフランシスコ交響楽団, 2001.9.12-15(Live), (24:33, 14:02, 17:27, 31:22), サンフランシスコ、デイヴィス・シンフォニー・ホール, STEREO, SFSMEDIA
  • 第6交響曲, ブーレーズ, BBC交響楽団, 1973(Live), (23:12, 12:36, 12:36, 26:35), ロンドン, STEREO, Artists
  • 第6交響曲, ブーレーズ, ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団, 1994.5, (23:06, 12:19, 14:47, 29:10), ウィーン、楽友協会大ホール, STEREO, Deutsche Grammophon
  • 第6交響曲, スヴェトラーノフ, ロシア国立交響楽団, 1990, (22:59, 12:25, 15:37, 29:49), モスクワ、チャイコフスキー音楽院大ホール, STEREO, Warner
  • 第6交響曲, メータ, イスラエル・フィルハーモニー管弦楽団, 1995.7, (21:54, 12:40, 14:47, 28:30), テルアヴィヴ、マン・オーディトリウム, STEREO, teldec
  • 第6交響曲(第2楽章アンダンテ), レーグナー, ベルリン放送交響楽団, 1981.1,2, (24:52, 14:52, 12:00, 30:33), ベルリン、イエス・キリスト教会, STEREO, Deutsche Schallplatten
  • 第6交響曲, ツェンダー, ザールブリュッケン放送交響楽団, 1973.4.4-7, (17:35, 12:13, 12:51, 27:17), ザールブリュッケン、コングレス・ハレ, STEREO, cpo
  • 第6交響曲, ギーレン, 南西ドイツ放送交響楽団, 1999.9.7-10, (24:54, 14:31, 14:46, 30:40), バーデン・バーデン、フェストシュピールハウス, STEREO, hänssler
  • 第6交響曲, エッシェンバッハ, フィラデルフィア管弦楽団, 2005.11, (23:38, 13:19, 17:32, 30:53), フィラデルフィア、ヴェライゾンホール, STEREO, Ondine
  • 第6交響曲(第2楽章アンダンテ), ヤンソンス, ロンドン交響楽団, 2002.11.27-28(Live), (23:01, 15:13, 12:55, 30:43), ロンドン、バービカン・ホール, STEREO,LSO Live
  • 第6交響曲(第2楽章アンダンテ), ヤンソンス, ロイヤル・コンセルトヘボウ管弦楽団, 2005.12.22-23(Live), (23:45, 15:35, 13:15, 31:12), アムステルダム、コンセルトヘボウ, STEREO,RCO Live
  • 第6交響曲(第2楽章アンダンテ), ゲルギエフ, ロンドン交響楽団, 2007.11.22(Live), (21:59, 13:53, 12:34, 28:45), ロンドン、バービカン, STEREO, LSO Live
  • 第6交響曲(第2楽章アンダンテ), ジンマン , チューリヒ・トーンハレ管弦楽団, 2007.5.14-16, (23:15, 14:04, 13:56, 29:49), チューリヒ、トーンハレ, STEREO, RCA
  • 第6交響曲, 井上喜惟, ジャパン・グスタフ・マーラー・オーケストラ, 2001.11.25(Live), (26:52, 15:54, 16:09, 33:29), 横浜、神奈川県民ホール, STEREO, Tomei Electronics
  • 第6交響曲(第2楽章アンダンテ), 井上喜惟, ジャパン・グスタフ・マーラー・オーケストラ, 2009.7.12(Live), (27:38, 18:16, 16:08, 37:51), 川崎、ミューザ川崎シンフォニーホール, STEREO, 
  • 第6交響曲, ハジメ・テリ・ムライ, ピーボディ交響楽団, 2005.4.30(Live), (23:53,13:38,16:49,30:36), STEREO, peabody symphony orchestra
  • 第6交響曲(第2楽章アンダンテ), シュテンツ, ケルン・ギュルツニッヒ管弦楽団, 2013.11.10-12(Live), (23:40, 14:47, 12:47, 29:49), ケルン、ケルン・フィルハーモニー, STEREO, OEHMS Classics
  • 第6交響曲, クルレンツィス, ムジカ・エテルナ, 2016.7.3-9, (24:57, 12:49, 15:39, 31:06) モスクワ、Dom Zvukozapisi, STEREO, Sony
  • 第6交響曲(第2楽章アンダンテ), アバド, ルツェルン祝祭管弦楽団, 2006.8.10(Live), (23:52, 14:58, 13:03, 33:16), ルツェルン、文化・会議センターコンサートホール, STEREO, EuroArts
  • 第6交響曲, ルイジ, 中部ドイツ放送交響楽団, 1998.2.7-8(Live), (24:09, 13:52, 18:14, 31:56) ライプチヒ、ゲヴァントハウス大ホール, STEREO, Querstand Records
  • 第6交響曲, ノット, バンベルク交響楽団, 2008.10.27-31, (22:56, 13:04, 14:52, 29:29), バンベルク、コンツェルトハレ、ヨーゼフ・カイルベルト・ザール, STEREO, TUDOR
  • 第6交響曲(第2楽章アンダンテのみ),ゴルトシュミット, BBC交響楽団, 1963.1.20, (16:30), MONO, Internationale Gustav Mahler Gesellschaft, Mahleriana : Vom Wenden einer Ikone, Mandelbaum, 2006 に添付のCD
  • 第6交響曲(第2楽章アンダンテ:ツェムリンスキー編4手ピアノ版), ツェンカー、トレンカー, 1991.4.9-10, (19:54, 16:15, 12:02, 26:53), バート・アロルゼン、フュルストリッヒ・ライトバーン, STEREO, Dabringhaus und Grimm
第6交響曲の演奏記録の他の作品にない特徴として、楽章排列の問題がある。年代順に録音記録を追えばわかることだが、初期の録音は第2楽章にアンダンテを置いたものが多いのだが、ラッツの校訂したマーラー協会全集版が第2楽章スケルツォ、第3楽章アンダンテの配列を採用したことから、それ以降はこのマーラー協会全集版に従った演奏が主流になる。ところがその後、マーラー協会がラッツの方針を撤回し、第2楽章アンダンテの排列を正としたため、その後は再び第2楽章アンダンテの演奏が多くなっている。とはいえラッツの判断が広く受け入れられていた時代にも独自の見解から第2楽章アンダンテの排列を固持した演奏記録もあり、その中には印象的なものの少なくない。
バルビローリのベルリンでの演奏は、演奏会のライヴだが、第2楽章アンダンテ、第3楽章スケルツォの順序で、3度目のハンマーが聴かれるなど、ラッツ校訂のマーラー協会全集によらない演奏。ニュー・フィルハーモニア管弦楽団とのスタジオ録音は、第2楽章スケルツォ、第3楽章アンダンテの順序で発売されたこともあるようだが、版の問題は微妙で、3度目のハンマーは採用されず、チェレスタに置き換えられている一方で、ラッツの校訂に従っていない箇所もあるように聞こえる(つまり第3版による)。ニュー・フィルハーモニア管弦楽団とのプロムスでのコンサートのライヴ録音はスタジオでの録音とほぼ同時期に収録されたものだが、解釈やテンポ設定は、寧ろ前年のベルリンでのライブに近い。ただし楽譜については中間楽章の順序も含め、スタジオ録音と同様(ラッツ校訂の全集版ではなく)第3版を用いている。なおバルビローリの録音に共通しているのは第1楽章の提示部反復を行わないことで、これは第1交響曲でもそうだし、マーラーに限らず、他の作曲家の作品の場合でもバルビローリは提示部の反復を行わない場合が少なくない。一方、マーラー協会全集版を忠実にリアライズしたインバルの演奏では第1楽章提示部の反復は勿論行われている。ゴルトシュミットがBBC交響楽団を演奏した録音の第2楽章というのはアンダンテ楽章である。ゴルトシュミットは第10交響曲の演奏会用バージョンの編者の一人として著名だが、このアンダンテ楽章の解釈も卓越しており、マーラーの音楽に対する理解と思い入れの深さを感じさせる名演で、抜粋なのが惜しまれるほどである。またゴルトシュミットは第6交響曲の楽章排列に関して第2楽章アンダンテ・第3楽章スケルツォの順序が正しいと考えていて、順序を入換えたラッツとは意見を異にしていた。この演奏が収録されたCDは国際マーラー協会による「マーレリアーナ」の付録なのだが、関連するゴルトシュミットのラッツ宛書簡が本文のp.84に収められていて、この演奏はまさにそれに対応する記録となっている点でも興味深い。なお、その後同じ指揮者・オーケストラによる別の日(1961年11月25日)の演奏記録が、こちらは全曲通して聴けるようになった。
ファン・ベイヌムはマーラー演奏の長い伝統を持つコンセルトヘボウ管弦楽団の、メンゲルベルクとハイティンクというマーラー指揮者に挟まれたシェフだが、スタジオ録音以外にも幾つかマーラーの演奏記録が復刻されており、第6交響曲の演奏もその中に含まれる。時期的にも早く、第2楽章アンダンテの排列による演奏だが、それよりも最初にそのスケルツォを聴いた時に、マイケル・ケネディがその著書で参照していたレートリヒのスケルツォ楽章に対する印象(お化けのような、幽霊めいた、悪魔的な、異国風な、破局的な、いかめしい、火のような、不気味な、デモニアックなといった形容詞の使用)のことを思わず思い起こして、実際にそうした情調を備えた演奏があったのだと感心した記憶がある。ファン・ベイヌムの解釈は、他の作品とも共通して、すっきりとした造形の、どちらかといえば客観的なタイプの演奏だが、その中でもスケルツォ楽章に上記のような、昨今の演奏では聞き取れない音調が感じ取れることや、フィナーレの各部分のテンポ設計なども手作りのオリジナルなもので、録音状態は悪いが、近年の標準化、平均化してしまった演奏’(勿論、個性というのはあるのだけれども、不思議とどれも似たような感じのものになってしまっているように感じられる)では聴くことができないユニークな演奏の記録である。
コンドラシンの録音は2種類とも第1楽章の提示部反復を行っていないが、いずれも協会全集版による演奏である。南西ドイツ放送交響楽団との 1981年の演奏記録は当初FM放送で聴いて大変に深い感銘を受けた思い出深い演奏記録だが、幸いにもCDとして復刻されて聴くことができるようになった(放送されたのは1月18日の演奏だった記憶するが、CDは15日、18日の演奏を編集したものとのことだから厳密には同一ではないのかも知れないが)。こちらは録音状態も申し分なく、改めて聴き直しても、極めて緻密で知的に設計された、一貫性のある解釈に基づく演奏でありながら、非常に速いテンポで推進力に富み、だが例えば第1楽章の第2主題部前半、展開部後半のアドルノの言う「停滞」の部分のテンポの切り替えや、淀みなく寛いだアンダンテ楽章の美しさ、或いは各所に見られるスマートだが感情の籠ったアゴーギクなど豊かな表情にも事欠かない演奏で、この演奏に同時代に接することができた幸運を感じずにはいられない。

備忘:時間性 (2025.9.21 更新)

マーラーの音楽は、何も未聞の宗教的経験の音楽化などではない。確かに音楽の持つ時間の構造は独特だが、 それはマーラーの場合について言えば、寧ろ現象学的な時間に近い。ただし日常生きられる時間性という意味合いで。 (例えば死の受容といったイベントも、ここではあえて「日常」の側に含める。それだけを特権化する理由がないので。)
音楽の研究者が「日常の時間」というとき、あまりに物象化されすぎた時間表象にとらわれすぎている。 ―これは現象学が見出した領域をまるまる無視してしまっている。日常の時間「表象」と日常生きられる時間性との 区別は必要で、後者は自明でない。少なくともSein und Zeitが持つインパクトはそれを明らかにしたことに あるのだから。例えば椎名の分析もそうだ。還元を持ち出す必要などない。音楽的経験の時間は日常的なそれと 異なるには違いない。だが、まずはそれは経験の素材の特殊性によるので、それ以外については―Greeneの transfigured同様―慎重であるべきだ。
勿論音楽が非日常的な経験への通路たりうることを否定するのではないが、それがどう可能かを説明するのに― こちらでは真木悠介、木村敏、九鬼そして道元だ―様々な説をその相互関係に留意せずに並べることが実質的に 貢献するとは思えない。
Greeneにせよ、椎名にせよ、「日常性」という言葉を自分の立場のオリジナリティを強調するために 利用しているのでは、という疑いを否定することは困難だ。
日常という言葉で一体どういう時間性を含意しているのか、例えばHeideggerが分析した豊かな領域は 一体どういった扱いを受けるのか、日常性の豊かさこそが音楽的経験を可能にする前提のはずなのに、ただちに 特異な、特殊な経験を持ち出し、それを可能にすることがあたかも「価値」であるかの様な主張はどこか転倒している。 もっとも、こうした「日常的時間」の用法は、それなりに一般的ではある。 そして計測可能な、量化された時間というのがある事自体は否定しがたい。 ポイントは、それらがいわゆる本当の意味での日常的な時間意識とはまた異なった、それなりにelaborateされた 表象であることだ。
だから、日常性を批判するなら相手が違うし、そうした表象の批判は日常性の批判にならない。 もう一つは時間性に「限定」してしまうことで、体験の質を逃してしまう危険。これは「時間性」を扱うといったときに 用意される道具立ての貧しさに由来する。例えばGreeneの分析を見よ。
一方で椎名の方は、―彼が顕揚したい実験音楽の時間性についてはおくとして―これほど複雑な構造を持っている ロマン主義の音楽、例えばマーラーの音楽の複雑さを目的論的という言葉で片付けてしまうのは、些か不当に 感じられる。意地悪な見方をすれば、実験音楽の時間性の方が、(時として、それ自体が作者の問題意識でもあるゆえ) より単純で分析しやすい、それについて語ることが容易であるに過ぎないのでは、という疑いを払いのけるのは難しい。 実際のところどうなのかはわからない。なぜなら椎名の議論は両者を具体的に分析してみせた結論ではないから。 Greeneの分析の結果の貧しさは、マーラーの音楽の時間性の貧しさではない。それは分析の手段の貧しさに過ぎない。 椎名の近代音楽の時間性についての議論がそうでないといいのだが、私はあまり納得できていない。 音楽記号学が(少なくとも、私が関心を持っているタイプの音楽に限って言えば)どうやら不毛らしいことについては あまり異論はないのだが、では音楽的時間論の方はどうなのかといえば、こちらもまた、私が関心を持っているタイプの音楽 についてどうなのだろうか。些か腑に落ちないものがある。
あるいは、近代音楽の時間性を日常的時間と切り離された閉じたものとして捉え、一方でその裏返しとして日常的時間の 貧困と無意味を指摘し、それらの両方に対峙するものとして実験音楽的な時間性を置くという図式は、今ここで マーラーという近代音楽の典型のことを思い浮かべている私には、全く現実離れしたものに感じられる。 実験音楽が切り開く時間性が、日常の豊かさを回復させるとは、日常生活の如何なる瞬間においてなのか? 一方で、マーラーの音楽の時間性が、ある時には「世の成り行き」の時間性であるとしたら、それは控えめに言っても、 「日常的時間と切り離された閉じたもの」ではない。寧ろ、日常の「貧困と無意味」を逃れえるとされる実験音楽の 方が日常的な時間性に対して閉じていると言えないのはどうしてなのか、、、
否、ひとがみなCageのように生きることができるのであれば、話は違うだろう。だが、一瞬だけ実験音楽を聴いて、 その場限り体験できる日常の豊かさとは何なのか?所詮は、コンサートホールで演奏され、CDに収められて 流通している点で何ら変わるところはないというのに。著者はCageのような生き方を実践されているかも知れないが、 残念ながら、日常的時間の貧困と無意味から逃れられない私には実験音楽のありがたみはわかることはなさそうだ。 まあ、今頃マーラーみたいな音楽を聴いている人間のことなど、どうでもいいのかも知れないが、だったら、 「実験音楽における」という制限をつけて欲しい気もする。そうすればはじめから期待せずに済むわけなのだから。
日常性を本当に問題にして、それに対する音楽の機能を考えるなら、作品の内部構造のみを問題にするのは 不十分だろう。演奏の次元は、作品に最もよりかかった部分であり、それよりはせめて創作の次元や受容の次元の 議論をしなければ片手落ちだと思うし、音楽を聴いている瞬間だけを問題にするのは、この議論の枠組みを 考えれば不十分なはずだ。(風呂敷を広げたのは論者の方であって、読み手の私ではないので、読み手の 私はすっかり戸惑うことになる。)否、そもそも、こうした話をしだしたら、最後までそれは音楽の時間論で あり続けることができるだろうか。

*

音楽的時間論というのは一見したところ魅力的な領域に見えるが、そこでの議論のいい加減さにはうんざりする。 フッサールを、ベルクソンを持ち出して、音楽の時間はそれとは違います、というのが一体何の説明になっているのか? 音楽的時間論を具体的な音楽に適用して成功した例というのがあるのだろうか?(Greeneのような、その実何の時間論 にもなっていないような空疎なものは除外する。)いい加減な2項対立をでっち上げて、一方を非本来的だ、と批判して、 果ては、色々な哲学者の時間についての議論の摘み食い、というのがお定まりのコースのようだ。
これでは時間を直接扱わない心理学的な議論の方がまだしもだ。恐らくそうなのだろう。時間そのものを扱うのが 恐ろしく難しいのは、専門的な哲学的な訓練を受けた人間なら、身に沁みてわかっていることだろう。 結局、具体的な何かを手がかりにせずに時間を論じることはできない。にも関わらず、音楽学者というのは、自分だけは 特権的にそれができると思っているらしい。だったら、哲学者の分析を摘み食いせずに、自前でやればいいのに。 個別の音楽という具体的な検証対象を持っているのに、そのくせ具体的な分析はやらない。(いわゆる楽曲分析ではなく、 時間論的な音楽の個別分析というのが問題なのだ。もし普通の楽曲分析で済むなら、わざわざ哲学者を連れ出す 必要も、ことさら音楽の時間論をぶつ必要もないだろう。―Greeneの場合がまさにそうなってしまっているように見受けられるが) だからたいていの場合には気の利いた比喩程度にしかなっていない。
そもそも哲学的な時間論は、私が多少はそれに関わった経験からすれば、具体的な適用において検証されない限り、 信用してはならない、とさえ考えるべきだと思われる。それを思えば、哲学的な時間論を、その時間論が論じられた 本来の狙いや意図もお構いなしに音楽という対象に引き込んで、しかも自分でも哲学者に劣らないほど抽象的なレベルでの 時間論を展開してしまう音楽学者の態度には全くもって感心してしまう。
(一部の哲学者がその思想との連関が全く明らかでない数学(もどき)を濫用した廉で、「知の欺瞞」という著作で 批難されたことは記憶に新しいが、音楽学者が時間論を展開する上で哲学に対してとっている態度の方は、批難されることは無いようだ。 連関は全く明らかではないし、哲学もどきである可能性だってあるような気がするのだが、、、まあ外部から見れば、 どちらも怪しげな学問(もどき)に過ぎず、とりわけ哲学者は自業自得だということにされてしまうのだろうが、とりわけ いわば「踏み台」にされた一部の個別の哲学者にとってみれば、気の毒な話ではある。)
しかも、音楽的時間論においては作品の価値というのがどのように考えられているのかもわからない。時間論的に興味深い 構造を持つ音楽が「優れた」音楽なのか(だとしたらこれは美学と共犯関係にある)、あるいは無関係なのか(こちらは心理学に 接近するだろうか)、あるタイプの音楽を取り出すとき、その音楽の価値と、そこで議論されている時間性との関係は 全く明らかではないはずだ(少なくともベルクソンやフッサールにおいては、それは音楽の価値とは無関係だったはずだし、 そもそも彼らは「音楽的」時間を解明するために音楽の時間的な分析をしたわけではないだろう)。 だが、私にとって自明でないこうした溝は音楽学者にとっては自明のことらしい。あるいは断りも無く、いつの間にか、 ある時間性を体現している音楽が顕揚されてみたりして、読み手はあっけにとられることになるのである。
勿論、こうしたことはすべて、具体的な楽曲についての時間論的分析(とやら)を提示してもらえば済むのである。 実験音楽でもロマン主義の音楽でも何でもいいが、それらにおける凡庸な作品と優れた作品の違いは何か。それが 時間論的な議論とどう関係する(あるいは無関係なの)か。そうしてみれば貴重な筈のGreeneの分析は、しかし、 この観点からはほとんど何も得るものがない。結局のところ、それは分析ではなく、自分の貧困な(自称)時間論的図式の マーラーの音楽への押し付けに過ぎないから。具体的な分析と、時間論的な議論は結局噛み合っていないようにしか見えない。

*

にも関わらず、具体的な場面についていえば音楽は時間論的な装置の適用可能性を試すための格好の材料になっているのは 確かなことのように思われる。(向きが逆になっていることに注意。寧ろ哲学的な概念装置の方が検証される仮説なのだ。)

例えばマーラーの作品における「決定的な瞬間」について考えてみること。
恐らくアドルノの聴取の類型論からすれば、こうした瞬間に拘泥する聴き方は軽蔑の対象になるのだろう。 だけれども、そうした瞬間があることは、アドルノですら否定できなかったに違いない。 勿論その瞬間の「質」を決定するのは、全体の脈絡であり、作品の構造的な全体の形態なのだ。 そもそもアドルノその人の「突破」もまた、そうした特異点を言い当てようとする類概念に違いない。 あるいはまた、第8交響曲の児童合唱の「ぞっとする」瞬間(練習番号155番の少年合唱(Selige Knaben)の入り)…

例えば第4交響曲第3楽章のあの中間部分。
第9交響曲第4楽章の弦による歌のフレーズの閉じる部分(その後はいわゆる「充足」にあたる後楽節だ。)
第3交響曲第6楽章の最後の変奏の回帰部分(コルネットで主題を弱音で吹かせる部分。)
「決定的な瞬間」を決定的たらしめている要因は何なのかを考えることは意味のないことではないだろう。
あるいは「時間の逆流」(ここではホワイトヘッドのエポック時間論のある解釈で見られるそれのこと。)
時間の逆流が見られるのはマーラーの際立った特徴である。他にはちょっと思いつかない。
第2交響曲第5楽章、第3交響曲第6楽章、大地の歌第6楽章、第9交響曲第1,4楽章、否、第8交響曲第2部すらそうした「恐るべき」瞬間を持つゆえにかけがえがない。

「構築する」「編む」というメタファー。
音楽的時間の流れ、経過は、その目的論的性格(とその否定)は、少なくとも、メタファーとして機能しうる。
第9交響曲第4楽章における死、解体、停止。
アドルノ的なDurchbruch / Suspension / Eefuellungは時間論的であると同時にほとんど心理学的な図式だ。
「心理的」音楽外事象とのアナロジー。

(2007以前のメモ, 2025.9.21 更新)