1. 序論
1.1 背景と目的
本レポートは、方法論レポートI(五度圏重心分析、段階1〜3)で確立された指標体系を、55楽章コーパスに適用して得られた実質的知見をまとめるものである。指標群の内部構造(新規指標群だけで見た主成分構造)から出発し、旧9指標との統合による全体像、作曲家間比較、個別事例、そして原点PC-set構造の直接分解へと、発見の階層をたどる構成をとる。
1.2 対象コーパスと分析条件
ハイドン・モーツァルト・ブラームス・ブルックナー・マーラー・シベリウス・ショスタコーヴィチ(DSCH)・ペッテションの計55楽章。作曲家によりサンプル数が大きく異なり(ハイドン8、モーツァルト4、ブラームス4、ブルックナー8、マーラー11、シベリウス7、DSCH 2、ペッテション11)、特にDSCH(n=2)・ブラームス・モーツァルト(各n=4)については統計的解釈に注意を要する。
1.3 応用編の位置づけ
本編の範囲:PCセットの離散フーリエ変換(DFT)への一般化(段階4)は含まない。DFTスペクトル指標(f₁〜f₆、Fourier_Concentration)を用いた分析、および三輪眞弘《虹機械》との比較は、別途Report II、およびDFT応用編・三輪作品応用レポートで扱う。
方法論I(五度圏重心分析)+方法論II(PC-set/DFT体系)
↓
応用編:五度圏重心分析の実質的知見(本レポート)
├─ 新規指標群の内部構造
├─ 統合PCA
├─ 作曲家比較
├─ ブルックナー/ペッテション
└─ Origin_PCSet frequency
応用編:DFT応用編(別レポート)
2. 55楽章コーパスの全体構造――まず統合PCAで位置を定める
本章では、個別指標をばらばらに列挙するのではなく、まず新規指標群の内部構造を確認し、その後に旧9指標との統合によって55楽章コーパス全体の位置関係を定める。これを以後の作曲家比較・作品比較の基準面とする。 ### 2.1 5指標PCA——新規指標群の内部構造
旧9指標を含めず、原点分解能・三和音検出に関わる新規指標5つ(Exact_Triadic_Ratio、Triadic_Neighborhood_Ratio、Triadic_Nearest_Distance_Mean、Dominant_Peak_Ratio、Origin_PCSet_Ratio)のみでPCAを行うと、新規指標群がそれぞれ異なる変動パターンを持つ複数の情報層として整理できることが分かる。
(注:本レポートで示すPCAローディングは、いずれもPCA成分行列=固有ベクトル(単位ノルム)の値である。変数と主成分得点との相関係数に相当する「構造loading」(固有ベクトル×√固有値)とは数値が異なるため、他資料と照合する際は規約の違いに注意されたい。)
主成分 | 寄与率 | 累積寄与率 | 主導変数(ローディング) |
|---|
PC1 | 71.37% | 71.37% | Exact_Triadic_Ratio (+0.516)、Triadic_Neighborhood_Ratio (+0.515)、Triadic_Nearest_Distance_Mean (−0.512) |
PC2 | 20.00% | 91.37% | Origin_PCSet_Ratio (+0.934) |
PC3 | 7.66% | 99.02% | Dominant_Peak_Ratio (+0.850) |
PC1は三和音そのもの、およびその近傍構造(三和音への距離の近さ)に関わる3変数がほぼ同じ重みで揃って効く軸であり、「三和音性」と呼べる。PC2はOrigin_PCSet_Ratio単独がほぼ全体を占め、「原点構造」として三和音性とは異なる主成分軸を形成する。PC3はDominant_Peak_Ratio単独が支配的な、残余的な「ピーク構造」軸である。
5変数の変動の99.02%が上位3主成分によって説明され、三和音性・原点構造・ピーク構造という3つの主要な変動軸として整理できる。特に注目すべきは、Origin_PCSet_Ratio(原点構造)がExact_Triadic_Ratio(三和音性)とは異なる主成分軸を形成した点である。実際の相関係数はr=−0.167であり、三和音性の他の指標(Triadic_Neighborhood_Ratio等)同士の相関(r=0.98程度)と比べて明確に弱い。ただしOrigin_PCSet_RatioはTriadic_Nearest_Distance_Meanとはr=0.398とやや相関を持ち、完全に無相関というわけではない。この、原点着地(対称和音への収束)が三和音的安定性とは異なる軸として現れるという知見は、5節で扱うOrigin_PCSet frequency分析——その軸の具体的中身——を読み解く前提となる。
 |
| Fig. 2-1 PCA Biplot(5指標PCA, PC1×PC2)】 Exact_Triadic_Ratio・Triadic_Neighborhood_Ratio・Triadic_Nearest_Distance_Mean・Dominant_Peak_Ratio・Origin_PCSet_Ratioの5変数によるPC1×PC2バイプロット。上表のローディングを視覚的に裏付け、「三和音性」(PC1)と「原点構造」(PC2)が別方向のベクトルとして分離していることが確認できる。 |
2.2 13変数統合PCA——コーパス全体の主成分構造
旧9指標+新4指標(Anisotropy_Ratio、Rbar_full、Origin_PCSet_Ratio、Exact_Triadic_Ratio)の計13変数を標準化してPCAを行った結果、上位3主成分で全分散の78.4%を説明する。
主成分 | 寄与率 |
|---|
PC1 | 51.95% |
PC2 | 16.76% |
PC3 | 9.67% |
PC1:Avg_r(+0.347)・Tonal_Focus(+0.287)・Rbar_full(+0.293)・Exact_Triadic_Ratio(+0.331)が正に、Avg_Step・Step_Rate_100・PC_Density・Texture_Volatility・Anisotropy_Ratioが負に効く軸。高PC1は調的凝集と三和音的安定を、低PC1は複雑性・非三和音化・方向的異方性の増大を意味する。「調的凝集の崩壊度」を表す軸。
PC2:Spatial_Dispersion_old(+0.622)が突出して支配的であり、Tonal_Focus(−0.314)・Rbar_full(−0.353)が負に効く。高PC2は空間分散の増大と方向集中度の低下を意味する。「空間的散逸度」を表す軸。
PC3:Origin_PCSet_Ratio(+0.747)が最も強く主導するが、SD_r_old(+0.470)・Exact_Triadic_Ratio(+0.190)・Anisotropy_Ratio(+0.182)も無視できない寄与を持つ。2.1節の5指標PCAでは三和音性とは異なる主成分軸を形成していたOrigin_PCSet_Ratioが、旧9指標と統合されるとSD_r等の影響を受けた複合軸に組み込まれる。したがって「PC3=Origin_PCSet_Ratioそのもの」と同一視せず、Origin_PCSet_Ratioを主要な構造変数とする複合軸として扱う。
Fig. 3-4 Combined PCA (old 9 + new 4 metrics)】 統合PCAの3面散布図。ここでは本図を55楽章コーパスの全体地図として用い、以後の作曲家比較・個別事例を読む基準を与える。
2.3 作曲家別分布
ハイドン・モーツァルトの古典派クラスタ:両者はPC1が高く(平均:ハイドン3.36、モーツァルト2.92)、PC2が低い(平均:ハイドン−1.31、モーツァルト−1.14)位置に一貫してまとまる。調的凝集が強く、空間分散も小さいという、両条件を満たす唯一の作曲家群である。
ペッテション:PC1で著しく左(負)に拡散する(平均−3.44、範囲−5.68〜−0.61)。特にSym11(−5.68)・Sym10(−5.47)が最も左に位置する。
DSCH(Sym9・10、n=2):PC2でコーパス中最も高い値を示す(Sym09: 3.44、Sym10: 2.68)。一方PC1方向では相対的に穏やかである(平均−0.90、ペッテション平均−3.44と対照的)。
2.4 調性希薄化の少なくとも二つの様式
以上から、単一の「凝集⇔希薄化」という軸だけでなく、質的に異なる2種類の希薄化様式が識別できる。両者は、それぞれ異なる構造変数群が主導する別個の主成分軸に沿った希薄化として現れる。
この2軸区別自体は、新指標を加えて初めて見えるようになったものではない。旧9指標のみ(Anisotropy_Ratio等の新指標を含まない)でPCAを行っても、ペッテションのPC1拡散(平均−3.12)とDSCHのPC2拡散(平均2.85)は、13変数版とほぼ同じ規模で既に観察される。すなわち、この2軸区別は旧9指標の構造の中に既に存在していた。新指標(Anisotropy_Ratio、Rbar_full、Origin_PCSet_Ratio、Exact_Triadic_Ratio)が実質的に付け加えたのは、PC1・PC2の基本構造そのものではなく、Origin_PCSet_Ratioが主導する独立した第3の軸(PC3)である。この点は2.1節の5指標PCAでOrigin_PCSet_Ratioが三和音性とは異なる主成分軸を形成することとも整合的であり、新指標体系の主要な貢献は「PC1・PC2の発見」ではなく「原点構造という新しい情報次元(PC3)の追加」にあると位置づける方が正確である。
なお、PC3軸ではDSCHが平均−1.42でコーパス中最低、ブラームスが平均+1.38で最高という対照を示す。ただし、ペッテションはPC3で全作品が負の値(−1.17〜−0.20)を取り、DSCHに近い側に位置する。PC3の高低を「対称和音への収束/非収束」という形でペッテション型・DSCH型の対比に組み込むことはできない。ペッテションに固有の対称和音(減七和音)への強い収束は、PC3スコアとは独立した原点分解能の直接的な知見として5節で別に扱う。
3. 作曲家別プロフィール――三段階の指標を横断して読む
第3章では、Stage 1〜3の指標を作曲家別に並べ、平均値だけでなく分布の広がりを含めて比較する。個別指標を順に説明するだけでなく、三段階が一つのプロフィールとしてどう組み合わさるかを確認する。
3. 作曲家単位の主要指標プロファイル
3.1 Anisotropy_Ratio——空間的等方性・異方性
中央値で見ると、ブルックナー(0.819)・ブラームス(0.799)・ペッテション(0.793)・DSCH(0.761)が高い群を形成し、ハイドン(0.518)が最も低い。古典派ではAnisotropy_Ratioが比較的低く、ロマン派後期以降の一部作曲家では高い値を示す傾向が確認される。
3.2 Rbar_full——方向集中度
作曲家 | Rbar_full 平均 |
|---|
ハイドン | 0.734 |
モーツァルト | 0.733 |
シベリウス | 0.458 |
ブラームス | 0.382 |
マーラー | 0.329 |
ブルックナー | 0.257 |
ペッテション | 0.246 |
DSCH | 0.092(n=2、要注意) |
古典派2人が突出して高く、他の作曲家では相対的に低い値にとどまる。ただし、この並び自体は厳密な作曲年代順ではなく(例えばブラームスとブルックナーはほぼ同時代である)、これを「時代とともに単調に低下する」直線的な史的トレンドとして提示するのは慎重であるべきである。また、Rbar_fullが直接測定しているのは五度圏上の特定方向への集中度であり、「主音への指向性」そのものと同一視すべきではない。この指標はTonal_Focusとほぼ同じ情報をより解釈可能な形で言い換えたものに近く、独自の新規性は限定的である点にも注意する必要がある。
3.3 Origin_PCSet_Ratio——原点構造
シベリウスの分布が突出して広い(0.005〜0.168)。最大値を牽引しているのは交響曲第2番第1楽章(0.168)であり、次いで交響曲第6番第4楽章(0.120)、《タピオラ》(0.105)の順である。全音音階的書法を多用する複数の楽章がこの指標を押し上げている。
3.4 Exact_Triadic_Ratio——三和音性
ペッテションが中央値0.114で明確に最低であり、他のすべての作曲家(マーラー0.347〜モーツァルト0.539)から乖離している。三和音的な調的骨格そのものがペッテションにおいて希薄であることを直接示す。
3.5 作曲家間比較の総合的整理

Fig. 5-1 boxplots_stage1_stage3: Stage 1・Stage 3の主要指標を作曲家別箱ひげ図で比較することにより、平均値だけでは見えない作品間分散が確認できる。

Fig. 5-3 composer_tonal_dynamics_profile:Stage 1〜3の代表指標を全作品基準のz-score平均でまとめた作曲家プロフィール。三段階の情報層を横断して比較するための中心図とする。
4指標を横断すると、作曲家ごとの「調性希薄化」の質的な違いが浮かび上がる。
作曲家 | Anisotropy_Ratio | Rbar_full | Exact_Triadic_Ratio | 特徴 |
|---|
ハイドン・モーツァルト | 低 | 高 | 高 | 等方的凝集・三和音的安定 |
ブルックナー | 高 | 中低 | 中〜高 | 方向拡散、局所的凝集は保持(4節参照) |
ペッテション | 高 | 低 | 最低 | 方向拡散+三和音骨格の希薄化(真の調性的弱体化) |
DSCH(n=2) | 高 | 最低 | 中 | 空間的散逸が突出(2.4節参照) |
シベリウス | 中 | 中 | 中 | Origin_PCSet_Ratioの分散が突出(全音音階書法) |
注意:n=2のDSCH、n=4のブラームス・モーツァルトは、他作曲家(n=8〜11)と並列した統計的解釈には注意を要する。
4. 調性希薄化の空間構造と滞在構造――ブルックナーとペッテション
ここでは、作曲家平均の比較から一歩進み、Stage 1の空間構造とStage 2の滞在構造を組み合わせて、似た異方性を持つ作曲家が同じ力学を持つとは限らないことを示す。

Fig. 5-2 Avg_r vs Anisotropy_Ratio: Avg_rとAnisotropy_Ratioの組み合わせによって、方向的には似ていても半径方向の凝集度が異なるブルックナーとペッテションを分離する。
4.1 Avg_rと空間的広がり
Avg_r(半径方向の凝集度)で見ると、ブルックナー(全8楽章:0.529–0.597)とペッテション後期(Sym9–16:0.316–0.426)は完全に無重複(ブルックナー最小0.529 > ペッテション後期最大0.426)で分離できる。
4.2 Anisotropy_Ratio
一方Anisotropy_Ratioは、ブルックナー(0.690–0.873)とペッテション後期(0.716–0.954)でほぼ同じ高い異方性域に重複して分布する。両者とも方向的には等方的に崩壊している。
4.3 PC1・PC2による位置づけ
2章で見た通り、ペッテションはPC1(調的凝集崩壊軸)で著しく左に拡散する一方、ブルックナーはPC1・PC2いずれにおいてもペッテションほど極端な値を取らない。ブルックナーの希薄化は、Avg_r・Anisotropy_Ratioという方向性指標の組み合わせによって初めて明確に検出される、より繊細な現象である。
4.4 二つの「調性希薄化」
Avg_rとAnisotropy_Ratioを組み合わせると、両者とも方向集中を失っているが、ブルックナーは局所的な調的凝集を保持し、ペッテション後期では半径方向の凝集そのものが大きく低下するという質的な違いが定量的に裏付けられる。これは3.5節の整理(ペッテションのExact_Triadic_Ratioが最低である一方、ブルックナーは中〜高水準を保つ)とも整合的である。
Fig. 5-6 Bruckner–Pettersson Two-Stage Comparison: 左パネルでStage 1のAvg_r×Anisotropy_Ratio、右パネルでStage 2のDominant_Residence_Ratio×Residence_Entropyを比較し、二者の差を空間構造と滞在構造の双方から確認する。4.1〜4.4節で個別に示したStage 1・Stage 2それぞれの分離を、両段階を並べた形でまとめて確認する図として、本節の締めに置く。
4.5 発達的時間構造
ブルックナーの交響曲番号(作曲年代の代理指標)とRbar_fullの間には強い負の相関が確認できる(Spearman ρ = −0.833、p = 0.010、n=8)。
番号 | Rbar_full |
|---|
0番 | 0.445 |
2番 | 0.335 |
3番 | 0.237 |
4番 | 0.336 |
5番 | 0.192 |
7番 | 0.271 |
8番 | 0.177 |
9番 | 0.062 |
これは旧9指標体系では不可視であり、方向性指標(Rbar_full)によって初めて捉えられた、ブルックナーにおける発達的な方向集中度の低下である。ペッテションについては後期作品群(Sym9–16)を一括りにした横断的比較(4.1–4.4節)に留めており、同様の年代内単調性が存在するかは今後の課題とする(8節)。
5. アトラクターと作品内部の時間的差異
Stage 2の情報は、作曲家平均だけでなく「いくつの領域に滞在し、どの領域が支配するか」という分布形として読む必要がある。ここでは二つのLandscape図を用いて、アトラクター数・滞在エントロピー・支配率の関係を明示する。

5-4a Attractor Landscape I: Attractor_NumberとResidence_Entropyを基本軸とし、Dominant_Residence_Ratioをバブルサイズで表現したLandscape I。滞在領域の数と分布集中の関係を概観する。

Fig. 5-4b Attractor Landscape II:Attractor_NumberとDominant_Residence_Ratioを軸に、Residence_Entropyを色で表現するLandscape II。単一アトラクター支配と多峰的滞在をより直接に比較する。
作曲家内部の個別事例
5.1 ハイドン83番・88番の対比——「単峰的」の内実の違い
ハイドン後期交響曲群の中で、83番(G短調)と88番(G長調・単一主題)は、いずれもAttractor_Number上は「単峰的」に分類されるが、その内実は異なる。
| Dominant域 | Second域 | Peak_Ratio_1st_2nd | 解釈 |
|---|
Haydn_83(G短調) | A | C | 1.65 | 二極が緩やかに拮抗 |
Haydn_88(G長調・単一主題) | A | G | 4.97 | 一極が圧倒的優勢——単一主題ゆえの対立の不在と整合 |
Peak_Ratioで見ると、88番(4.97)は55楽章中でも最も極端な一極集中を示す部類である。この二極の拮抗/一極集中という違いは、付録Eのヒートマップ+分散楕円図(Haydn_83・Haydn_88パネル)でも視覚的に確認できる。83番は分散楕円が横に伸びて二つの滞在域にまたがるのに対し、88番は単一領域に鋭く集中した楕円を示す。
主調からの乖離角度による検証(両楽章ともRbar_full値が55楽章の中央値0.380を上回る安定した推定であることを確認済み:83番0.530、88番0.643)。
| 名目主調 | 期待角度 | 実測Home_Angle | 乖離 | 信頼性 |
|---|
Haydn_88 | G(maj) | 135.0° | 130.5° | 4.47° | high_confidence |
Haydn_83 | G(min) | 195.0° | 178.4° | 16.56° | high_confidence |
88番は理論的に期待される長調的重心にほぼ完全に一致し、単一主題ゆえに教科書的な長調的重心に終始収まっていることを示す。一方83番は、短調の理論的期待値よりもむしろ裸のトニック自体(G, 180°)に近い挙動を示しており、通常の短調に較正された理論的重心よりもトニックへの張り付きが強い、という非典型的な安定性を持つ。ただしHome_Angle(全体平均的重心)がトニック近傍にあるのに対し、Dominant_Tonal_Regionは”A”(上主音方向)であり、平均としてはトニック近傍に留まりながら個々の小節としては最も頻繁にA方向を訪れるという、単純な単峰性では説明しきれない構造を示す。
なお、83番はハイドン全8楽章の中で唯一、旧9指標体系のPCA空間(PC1・PC2)においてブルックナー作品群の重心に突出して近接する外れ値であることが方法論レポートIで確認されている。これはハイドン・コーパス中唯一の短調作品であることと符合しており、短調であることが調的プロットの形状そのものに系統的な影響を与えている可能性を示唆する(この観察は旧9指標PCAに基づくものであり、2章の13変数統合PCAとは別分析である点に留意)。
なお、原点分解能(5.3節)で見ると、83番は{Es,G,H}型(増三和音)が最頻出originであり、55楽章の多数派(減七和音型)から外れる少数派に属する。短調・少数派origin類型・旧PCAでの外れ値という3つの特異性が同一作品に集中している点は、今後さらに検討する価値がある。
5.2 ショスタコーヴィチ(DSCH、Sym9・10)の特異性
DSCHは、PC2(空間分散主導)でコーパス中最も極端な外れ値を示す(2.3節)。PC3(Origin_PCSet_Ratio主導の複合軸)でも最も低い値を取るが、これは「対称和音へ収束しない」ことを積極的に意味するものではなく、他の作曲家と比べて相対的に低い値というにとどまる。ペッテション型(PC1方向の調的凝集崩壊)とは異なる軸(PC2:空間的散逸)に沿った、質的に異なる調性希薄化の様式を示唆する。
原点PC-set構造(5.3節)で見ると、DSCH第9番は検出された原点着地のすべてが単一の増三和音{C,E,A♭}であり、少数派である増三和音型に完全に収束するという、コーパス全体の傾向(減七和音型優勢)とは異なる独自のパターンを示す。ただしn=2であり、この解釈は仮説の域を出ない。DSCHコーパスの拡張が今後の課題である。
5.3 ブルックナー7番・8番
ブルックナー7番は、Tonal_Focusからの予測に反してRbar_fullが低く、凝集はしているが方向は分散している。これは「局所的な調的焦点を保ちつつ全体方向性が散逸する」というブルックナーの一般的特徴(4節)の中でも、7番が特に強くこの傾向を示すことを意味する。
Exact_Triadic_Ratioの下方外れ値について:ブルックナー群の中の最小値は第8番(0.301)であり、第9番(0.399)ではない。三和音的骨格の希薄化という観点では、ブルックナーの中で特異なのは第9番ではなく第8番である。
5.4 ペッテション内部の作品差
減七和音型への収束度(回転同値類レベルのratio)は、ペッテション後期作品の中でも一様ではない。第13番(62.1%)・第10番(36.4%程度、詳細は5.2節参照)が高い収束を示す一方、第8番・第12番・第15番は相対的に収束度が低い。また第9番・第11番は減七和音型ではなく増三和音型が最頻出origin PC-setであり、後期作品群の中でも「減七和音への収束」が一枚岩ではないことを示している。
まとめ 各作曲家の代表作品のプロフィール

Fig. 5-7 Representative Tonal-Dynamics Fingerprints:各作曲家の代表作品をStage 1〜3の8代表指標でz-score化し、作品ごとの多層的プロフィールを比較する。作曲家平均と個別作品の差を橋渡しする総合図。
6. 原点PC-set構造の直接分解――PCAでは見えない質的内訳
6.1 コーパス全体における原点PC-setの頻度構造
全55楽章にわたって原点として検出されたPC-set(Origin_PCSet)を集計すると、作品×PC-setの組み合わせで425件のレコードが得られ、固有のPC-setとしては66種、総頻度は1182件である。Rotation_Class(回転同値類、全17種)単位で集計すると:
Rotation_Class | 総頻度 | 割合 |
|---|
{0,3,6,9}(減七和音型) | 632 | 53.5% |
{0,4,8}(増三和音型) | 242 | 20.5% |
{0,2,6,8} | 84 | 7.1% |
{0,1,4,7,8} | 76 | 6.4% |
{0,2,4,6,8,10}(全音音階型) | 22 | 1.9% |
その他12クラス | 126 | 10.7% |
減七和音型と増三和音型で全体の73.9%を占める。作品単位で見ても、55楽章42楽章が減七和音型を最頻出origin、8楽章が増三和音型を最頻出originとしており、この2類型がコーパス全体における原点収束の圧倒的多数を占める。全音音階型を最頻出originとするのは《タピオラ》1曲のみである。
6.2 回転同値類から見た原点PC-setの階層構造
{0,3,6,9}(減七和音)は移調によって3種類({0,3,6,9}, {1,4,7,10}, {2,5,8,11})しか異なる集合を持たない。同様に{0,4,8}(増三和音)は4種類、{0,2,4,6,8,10}(全音音階)は2種類しか存在しない。すなわち、内部対称性が高いPC-setほど、移調によって生じる異なる具体的音高集合の数(移調群の軌道サイズ)は少なくなる——これは群作用に関する数学的事実である。この事実自体は、実際の頻度分布において少数の集合に頻度が集約されることを直接には意味しないが、本コーパスでは実際にそのような集中が観察される。
例えばペッテション交響曲第13番では、原点として最頻出の単一PC-set{D,F,A♭,H}は全origin着地の36.9%を占めるにとどまるが、これと同一の回転同値類{0,3,6,9}に属する他の2つの移調({D♭,E,G,B}=16.5%、{C,E♭,G♭,A}=8.7%)を合わせると62.1%に達する。つまり、ペッテションの「減七和音への収束」は特定の1つの移調に固定されているのではなく、減七和音という構造そのもの(3種類の移調間を横断しながら)に収束していることを意味する。
6.3 作品別のOrigin_PCSet構造
楽章ごとの最頻出originを一覧すると、コーパスの大部分(42/55楽章)が減七和音型に収束する中で、増三和音型を示す楽章(ブルックナー第0番、ハイドン83番・104番、マーラー《大地の歌》・第2番・第6番・第9番、DSCH第9番)が一定数存在する。特にDSCH第9番は、検出された原点着地のすべて(比率1.000)が単一の増三和音{C,E,A♭}であり、少数の着地事例ながら完全な収束を示す点は注目に値する。
6.4 ペッテション後期——減七和音型
ペッテション交響曲第6・10・12・13・14・15・16番では、単一の減七和音{D, F, A♭, H}(回転同値類{0,3,6,9})が繰り返し最頻出origin PC-setとなる。回転同値類レベルの収束率は第13番で最大62.1%に達する(5.2節)。この収束はSym9・Sym11のみ例外であり(両曲とも{Des,E,G,B}系=増三和音型が最頻出)、後期作品群の中でも一様ではない。
6.5 シベリウス《タピオラ》——全音音階型
《タピオラ》では、全音音階そのものである原点PC-set{D♭,E♭,F,G,A,H}({1,3,5,7,9,11})が原点着地の中で最頻出の単一PC-set(18.6%)である。これとは別に、元データのRotation_Classフィールドで見ると、{0,2,6,8}という別の対称集合クラスへの着地が約39%を占めており、全音音階(6音)とは要素数の異なる、もう一つの対称性の高い着地先が存在することが分かる。両者は同一の回転同値類ではなく、それぞれ独立した対称和音の実現形として並存している。コーパス全体では全音音階型({0,2,4,6,8,10})は1.9%と希少であるにもかかわらず、《タピオラ》という単一作品では複数の対称和音類型が支配的な原点構造をなしており、作品固有の書法的選択が原点分解能に鮮明に刻まれる好例である。
6.6 原点収束とPC-set種別の関係
2.1節で示した通り、Origin_PCSet_Ratio(原点着地の「頻度」)は三和音性(Exact_Triadic_Ratio等)とは異なる主成分軸を形成する。本節(5.1–5.5)の分析はこれをさらに一段深め、「原点にどれだけ着地するか」という頻度の背後にある「どの対称和音類型に着地するか」という質的内訳を明らかにした。減七和音型・増三和音型・全音音階型という複数の対称和音類型が、作曲家・作品ごとに異なる比重で原点収束を構成しており、「原点」は単一の和音ではなく、複数の対称性クラスからなる階層的な構造であることが、頻度分析によって直接示された。
本章は、統合PCAで確認されたOrigin_PCSet_Ratioを、そのままPC3の意味へ還元するのではなく、原点に着地したPC-setを直接分解して、その質的内訳を明らかにするものである。
7. 総合考察
7.1 調性力学の多層構造
2.1節の5指標PCAは、新規指標群が「三和音性」「原点構造」「ピーク構造」という3つの主要な変動軸に分かれることを示した。2.2節の13変数統合PCAでは、これらが旧9指標と結合し、「調的凝集崩壊」(PC1)・「空間的散逸」(PC2)・「原点構造を主とする複合軸」(PC3)という3軸に再編される。さらに5節では、Origin_PCSet_Ratioという「頻度」の背後にある「対称和音の種別」という、PCAでは捉えられない質的内訳を直接分解によって明らかにした。指標→PCA→PC-set直接分解という3つの解像度が、互いに補完しながら調性力学の多層構造を描き出している。
7.2 「調性希薄化」の二つの様式
ペッテション型(PC1主導:調的凝集崩壊)とDSCH型(PC2主導:空間的散逸、n=2の仮説)という、質的に異なる2つの希薄化様式が識別された(2.4節)。
7.3 Origin_PCSet構造の意味
「原点」は単一の和音ではなく、減七和音型・増三和音型・全音音階型という複数の対称性クラスからなる階層的構造であり(6.6節)、その内部対称性の高さが移調群における軌道サイズを規定する(6.2節)。
7.4 ブルックナーとペッテションの分岐
両者はAnisotropy_Ratioでは類似した高い異方性を示すが、Avg_rによって明確に分離され、ブルックナーは局所的な調的焦点を保持する希薄化、ペッテションは真の調性的弱体化という異なる機序を持つ(4節)。さらにブルックナーには作曲年代とRbar_fullの強い負の相関という、独自の発達的時間構造が見出される(4.5節)。
7.5 作曲家平均を超える作品内部の多様性
ハイドン83番・88番の対比、ブルックナー7番・8番、ペッテション内部の減七和音収束度のばらつきなど、作曲家単位の平均像だけでは捉えられない作品ごとの多様性が、方向性指標・原点分解能によって初めて可視化される(6節)。
7.6 本研究から得られた実質的知見(要約)
調性希薄化には少なくとも2つの質的に異なる様式(PC1主導・PC2主導)が存在する。
ブルックナーとペッテション後期は、方向的等方性は類似するが半径方向の凝集度で明確に分離される、機序の異なる調性希薄化である。
原点分解能は、作曲家・作品固有のPC-set構造の指紋(減七和音型・増三和音型・全音音階型等)を可視化するが、これは統合PCAのPC3スコアとは独立した観察である。
ブルックナーには作曲年代とRbar_fullの強い負の相関という、旧指標体系では不可視だった発達的パターンが存在する。
作曲家単位の平均像を超えた作品内部の多様性(ハイドン83/88番、ブルックナー7/8番等)が複数確認される。
8. 限界と今後の課題
8.1 コーパス上の制約
DSCH(n=2)、ブラームス・モーツァルト(各n=4)は、他作曲家(n=8〜11)と統計的に並列に扱うことができない。特にDSCH型の希薄化様式(2.4節)・DSCH第9番の増三和音完全収束(6.2節)に関する解釈は仮説の域を出ず、コーパス拡張による検証が必要である。
8.2 PCA解釈の制約
13変数統合PCA(2.2節)のPC3は、Origin_PCSet_Ratio単独ではなくSD_r等を含む複合軸であるため、原点構造の解釈にあたっては常に5節の直接分解と併読する必要がある。
8.3 PC-set分析の課題
ペッテション内部(6.4節)における減七和音収束度のばらつきの要因、Sym9・Sym11のみが増三和音型を示す背景については、本編では記述にとどまり、要因分析は行っていない。
8.4 DFTとの接続
PCセットDFTへの一般化(段階4、f₁〜f₆モードプロファイル)による分析はReport IIおよびDFT応用編で扱う。特に5節で明らかにした対称和音クラスの階層構造は、DFT係数(特にf₄・f₅)の対称性検出パターンと理論的に対応することが予想され、両者の接続は重要な今後の課題である。
8.5 三輪作品への展開
本編の枠組み(統合PCA・原点PC-set頻度分析)を三輪眞弘《虹機械》に適用した結果は、別レポートで報告する。
付録
付録A:指標一覧
分類 | 指標 |
|---|
旧9指標 | Avg_r、Avg_Step、SD_r、Step_Rate_100、PC_Density、Tonal_Focus、Spatial_Dispersion、Harmonic_Coverage、Texture_Volatility |
方向性指標 | Anisotropy_Ratio、Rbar_full、Peripheral_Circular_Concentration、Residence_Entropy、Attractor_Number、Dominant_Residence_Ratio |
原点・三和音指標 | Origin_PCSet_Ratio、Exact_Triadic_Ratio、Triadic_Neighborhood_Ratio、Triadic_Nearest_Distance_Mean、Dominant_Peak_Ratio |
付録B:PCA寄与率・ローディング一覧
(下表はいずれもPCA成分行列=固有ベクトルの値。構造loading(固有ベクトル×√固有値)ではない。2.1節の注記を参照。)
5指標PCA(2.1節)
変数 | PC1 | PC2 | PC3 |
|---|
Exact_Triadic_Ratio | 0.516 | 0.134 | −0.208 |
Triadic_Neighborhood_Ratio | 0.515 | 0.055 | −0.316 |
Triadic_Nearest_Distance_Mean | −0.512 | 0.131 | 0.258 |
Dominant_Peak_Ratio | 0.421 | 0.300 | 0.850 |
Origin_PCSet_Ratio | −0.168 | 0.934 | −0.261 |
寄与率 | 71.37% | 20.00% | 7.66% |
13変数統合PCA(2.2節):寄与率PC1=51.95%/PC2=16.76%/PC3=9.67%。主要ローディングは本文2.2節を参照。
付録C:Origin_PCSet frequency 集計表
Rotation_Class | 総頻度 | 割合 | コーパス中の最頻出作品数 |
|---|
{0,3,6,9}(減七和音型) | 632 | 53.5% | 42/55 |
{0,4,8}(増三和音型) | 242 | 20.5% | 8/55 |
{0,2,6,8} | 84 | 7.1% | 2/55 |
{0,1,4,7,8} | 76 | 6.4% | 1/55 |
{0,2,4,6,8,10}(全音音階型) | 22 | 1.9% | 1/55 |
その他12クラス | 126 | 10.7% | 1/55 |
合計 | 1182 | 100% | 55/55 |
詳細な作品別・PC-set別の頻度データは origin_pcset_frequency_v3.csv(425行)を参照。
付録D:作品別詳細データ
主要指標の作品別一覧は merged_with_pca_combined_13var.csv、directional_metrics_results_v3_v3origin.csv を参照。
付録E:全55楽章ヒートマップ+分散楕円一覧
本文中の個別事例(5節)で言及する分散楕円の形状は、全55楽章分のヒートマップ+分散楕円図(グレー破線=全点版、青実線=頻度フィルタ版の楕円、黒矢印=原点からhome方向へのベクトル)として以下に示す。








(2026.9.13 公開)