ジャンケレヴィッチの『死』の中の「老化」についての章(ジャンケレヴィッチ『死』, 仲澤紀雄訳, みすず書房, 1978, 第1部 死のこちら側の死, 第4章 老化)について読解を試みた結果については、既に備忘:マーラーの音楽における「老い」についての論考に向けての準備作業(7)にて報告しています。そこでは章のタイトルにも関わらず、だが死を扱った本の一部であることを考えれば仕方ないことながら、「死」とは異なった「老い」の固有性についてはきちんと扱われていない印象がありました。
しかしながら、上記はあくまでも「老化」についての章に範囲を限定してのものであって、実際には――ジャンケレヴィッチの叙述スタイルからすればありがちなことですが――「老化」について語られているのは「老化」の章だけではありません。もともとが『死』という著作における「老化」の扱いを検討することを目的としていた訳ではなかったため、他にどれくらい「老化」について語られ、どのように語られているかを逐一検証することはしませんでしたし、ここでそれを行うつもりもありませんが、ふとしたきっかけで「老化」について、その「固有性」を捉えた記述が為されている箇所があることを確認したので、補遺としてその個所を報告するとともに、些かの覚えを記すことにします。
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まずは端的に、「老化」(vieillissement) についての言及を含む該当の箇所を示します。それは、第3部 死のむこう側の死 , 第3章 虚無化の不条理さ, 2 連続の当然さと停止の非道さ に含まれていました。邦訳では445ページです。該当箇所を含め、少し広い範囲を引用します。
「ところが、死すべき存在の停止が連続の当然さに皮肉なことにも――説明のつかないことだが――挑戦するのは、一つの事実だ。限りなく延ばすことができ、本質的には避けることができる停止の偶発的性格についてわれわれは語った。なぜ他の瞬間ではなくて、ある瞬間におこるというのだろう。状況と偶然がこれを決定する。だが、連続はいわばその体質をなくしている一種の欠陥と呪いとを蒙っていなかったならば、状況のほしいままにはならないことだろう。持続の作用のもとに、連続は質の悪化、老化と呼ばれる衰頽をこうむる。生きた存在にとって、存在するとは、変わらずに時の外で存在し続けることではない。存在するとは変化することだ。その根源的なもろさが連続を傷つけやすく、脆弱なものとし、連続を数多くの危険にさらして、それらの危険がたえず生きた存在を狙い、生きた存在を僥倖に依存せしめる。ある状況のもとでの連続とは、つまり、脅かされている連続だ。連続に課せられ、その未来を危うくする根源的欠陥、先験的ハンディキャップをただ単に有限性と呼ぼう。こうして、あらゆる連続にとって、有限性とは停止の可能性を表象する。存在の連続は当然のことだが、身体の生存は(というのは、実際には測れないことが問題なのだから)射幸的連続だ。」
文脈としては、節のタイトルに示されている通り、そして前後の部分でも述べられている通り、「連続の当然さ」というのが生きた存在については成り立たない由縁を述べるところで、変化していく生きた存在においては、「老化」によって連続の「当然さ」が成り立たず、傷つきやすく、脆弱なものであって、常に停止の可能性に脅かされていることを述べているのが確認できます。そしてここでの「老化」の定義は、「老化」の章の読解においても参照した、以下のような「老化」のシステム論的定義と極めて親和性が高く、「死」とは(勿論、密接に関わっていはしますが)区別される「老化」の固有性を捉えたものとなっていることに留意しておきたく思います。
「「老化」は、ロバストネスが変移して、最終的に崩壊する」過程であるというものでした。つまり老化の定義は、「生物がもつロバストネスの変移と崩壊」だと。単なる崩壊ではなく、「変移と崩壊」というところに注目してください。歳を取っても人の体はロバストなのです。(…)ロバストであることに変わりはありませんが、定常の位置が推移していきます。だんだんずれていって、最後に全体としてシステムのロバストネスを保つことができなくなるとついにシステムが崩壊する、つまり「死」に至る、ということになります。」(今井眞一郎『開かれれたパンドラの箱 老化・寿命研究の最前線』, 朝日新聞出版, 2021, pp.230)
従って「老化」の章に限れば、「死」を論じるにあたっての補助線のようなものとして触れられているに留まっているとはいえ、著作全体を通してみれば「老化」の定義として妥当と思われる記述が含まれていることに触れなければ公平を欠くことになるため、ここで補遺として報告することにした次第です。
但し注意すべきは、「老化」について述べた後の部分で更にジャンケレヴィッチが「連続に課せられ、その未来を危うくする根源的欠陥、先験的ハンディキャップ」を「有限性」としているのは、これは文字通り「生きた存在」は有限な存在であり、だから常に停止する可能性を孕んだ存在であるということですが、有限性そのものは、それが「死」と密接に結びつくものである一方で、「老い」とは独立に論じうるという点です。それは「停止」たる「死」が、必ずしも「老化」を介さずにも(例えば突発的な事故とか、病気とかによって)起きうることを考えれば明らかでしょう。
更に一つ手前に戻って、「根源的なもろさが連続を傷つけやすく、脆弱なものとする」点においても、それが存在することが変化することであるということに由来する限りにおいて、その由来を「老い」のみに限定することはできないことにも注意すべきでしょうか。変化もまた、「老化」がそれであるとされる衰頽、質の悪化という方向性のみに限られるわけではありません。勿論「根源的なもろさ」や「傷つきやすさ」という言葉で書き手が想定していたのは、第一義的には「老化」の持つベクトルなのかも知れませんが、ジャンケレヴィッチの思惑はそれとして、ここでもまた何らかの怪我とか病気による変化を思い浮かべれば、「もろさ」「傷つきやすさ」に繋がる変化には、ベクトルの向きは同じ方向を向いているとはいえ、必ずしも「老化」には由来しないものが含まれうることに容易に思い当たるでしょう。逆に「根源的なもろさ」や「傷つきやすさ」をあまりに安易に「老化」に結びつけてしまうと、比喩としては有効であったとしても、「老化」の固有性を見誤るだけではなく、「老化」以外の側面が見えなくなってしまう危険があるのではないでしょうか。
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実は、上で引用した記述があることに気づいたのは、特に後期レヴィナスにおいて「老い」についての言及が存在することを思い出し、レヴィナスの著作を読み返しながら、レヴィナスの思想における「老い」を扱った研究がないかとWebを検索して行き当った、古怒田望人さんの論文「 老化の時間的構造 : レヴィナスの老いの現象学の解明を通して」を通してでした(当該論文は、浜渦辰二編『傷つきやすさの現象学』に第6章として所収)。この論文はタイトルが示す通り、まさにレヴィナスの思想における「老い」を論じたものですが、その中で、「『死』(1966)においてジャンケレヴィッチは老化を「傷つきやすさ」の経験とみなして」いる」(同書, p.114)として、上に引用した箇所が参照されているのです。そしてこの指摘をいわば補助線として、この論文では、それ以降、思想史的な影響関係を踏まえた上で、レヴィナスの著作における「老化」についての記述をジャンケレヴィッチにおける老化を通じて解明していきます。その道筋を私なりに要約するならば、概ね以下のようになります。
まず、私もまた『死』の「老化」の章の読解で参照した
「老化は漸進的なものだが、老化の意識はそうではない。」(ジャンケレヴィッチ, 『死』,,仲澤紀雄訳,みすず書房, p.231)
に言及し、
「通常は潜在的である「時間」が、身体(「人体」)の断続的な変化を通して意識させられる現象が、老化なのである。」(古怒田望人「 老化の時間的構造 : レヴィナスの老いの現象学の解明を通して」, 浜渦辰二編『傷つきやすさの現象学』所収, p.115)
という指摘を行った上で、だがその後は専ら、そうした「老化」の意識ではなく、「老化が関わる「時間」の本質」(同書、同頁)の側が分析されていきます。私が限定的に些事拘泥的に読解を試みた『死』の「老化」の章は勿論のこと、『死』以外のジャンケレヴィッチの様々な著作やジャンケレヴィッチに関する研究文献が縦横無尽に参照され、まず時間の本質として「不可逆性」が取り出され、ついで「過去の実在そのもの、「過去全体」、つまりその「事実=コト(fait)」は時間の不可逆性において反復不可能であるがゆえに、唯一かつ永遠のものとなる」(同書, p.117)という現象を通じて「コト性(quoddité)」が取り出され、「老化の時間性」について以下のように分析されることになります。
「老化の時間性、ひいては時間の本質である不可逆的時間性は、抗いがたく消えゆく存在者の有限性の悲劇であると同時に、その構造において、死によって消し去られない過去の実在そのものの唯一性と消失不可能性を当の存在者に残す時間性なのである。有限的な時間は、老化という不可逆的時間性として現実化することで、その有限性に抗した肯定的な過去の水準を残すものとなるのだ。 」(同書, p.119)
そして上記のような分析に基づき、「後期レヴィナスはジャンケレヴィッチの老化の解釈を経由することで、老化の不可逆性の過去の意義を見出すことができたのだ。」(同書, pp.119-120)と結論づけられるのです。
この論文は、――タイトルからは予想しづらいのですが――そもそもの構想として、レヴィナスの著作における「老化」についての記述を、思想史的な影響関係を踏まえた上で、ジャンケレヴィッチにおける老化を通じて解明するという仕立てのものですから、特にレヴィナスに対するジャンケレヴィッチの影響の事実関係について教えられる点は多いですし、ジャンケレヴィッチの時間論については、様々な著作やジャンケレヴィッチに関する研究文献が縦横無尽に参照された周到なもので、勿論その当否について、専門の哲学研究者ならぬ私が判断することなど出来ないですが、そうした私にもわかりやすく説得力のあるものに感じられます。
しかしその一方で、ジャンケレヴィッチの思想の紹介としては要を得た、申し分ないものであったとしても、それが実際にレヴィナスの思想の組み立ての細部にわたってそのまま適用できるかどうかについては、直ちに幾つかの疑問が思い浮かびますし、レヴィナスがどう言っているのかという点の是非は、これもまた専門の哲学研究者の領分であって、素人が異議を挿し挟むものではなく、素朴な疑問を提示する以上のことは控えるべきとしても、「老化」という事象そのものの分析としてみた場合、自分が実生活で経験し、直面することを余儀なくされた事柄に即した時にも、直ちに幾つかの違和感が湧き上がってくることを禁じ得ません。
その疑問点、違和感の由来を突きとめることは、マーラーの音楽における「老い」についての論考に向けての準備作業という本稿にとって密接な関わりを持つものとは思うものの、哲学の専門的な文献を扱うだけの資格も時間も今の私にはなく、ここでは備忘として、極めてシンプルな仕方で疑問点、違和感を列挙した覚えをしたためるに留める他ありません。そこで以下では、ラフでインフォーマルなかたちではありますが、疑問点・違和感を記しておくことにします。
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1.ジャンケレヴィッチの老化の時間論において、「傷つきやすさ」というのは結局どのような位置づけを持つのでしょうか?
まず最初は、事柄そのものに即したというよりは、議論の組み立てに関わる点なのですが、何よりも一読者として当惑させられるのは、(こちらの読み落としがないとして、)「「傷つきやすさ」から事象の記述を試みた後期レヴィナスと呼応する」(同書, p.114)ものとして、『死』の邦訳p.445(上に引用した、第3部 死のむこう側の死 , 第3章 虚無化の不条理さ, 2 連続の当然さと停止の非道さ の中の記述)を指摘しつつも、その後のジャンケレヴィッチの議論の紹介・分析において、ついに「傷つきやすさ」について言及されることがないという点です。
上にも述べた通り、「老化」の章の読解を通して、ジャンケレヴィッチが「死」との関わりにおいてしか「老化」を扱っていないと感じた私にとっては、寧ろ、指摘の箇所こそが「老化」の固有性を捉え得たものと感じられたのでしたが、論文ではその後、指摘箇所の記述に触れられることはありません。専門的な見地からは、そもそもが当該箇所の「傷つきやすさ」が、確かに単語としては同じであるとしても、レヴィナスの思想における「可傷性=傷つきやすさ」と単純に同一視できるものなのかと言う点についての議論もあるでしょう(素人目には、ことこの点に限っては、寧ろジャンケレヴィッチの方が「老化」固有の相を捉えており、レヴィナスの「可傷性」は、必ずしも「老化」に限定されない幅広い含意を持つものに思われます)し、それとは別に、事柄に即して考えた場合に、「傷つきやすさ」を専ら「老化」という点から捉えたものと見做すことについては既に留保を記した通りでありますが、「老化」が「傷つきやすさ」と関わるという点については何ら異存はなく、繰り返しになりますが、寧ろジャンケレヴィッチの当該箇所はその点を極めて的確な仕方で指摘したものに思われただけに、はぐらかされた感じが否めないというのが率直な感想です。逆にジャンケレヴィッチの「老化」に関する「傷づきやすさ」への言及が当該箇所に留まり、概念的な広がりを持たないものだとするならば、今度は、それを梃にしてジャンケレヴィッチを通してレヴィナスを読み込むことの妥当性の方が問われるようにも思えます。
その一方で、レヴィナスの側の文脈からすれば、「老化」の時間論的構造としてまず思い浮かぶのは「隔時性」と呼ばれる構造です。但し、「隔時性」は「老化」固有の構造という訳ではなく、寧ろ「隔時性」の構造を持つ一例として「老化」が例示されています。そこで思い浮かぶのは、隔時性」の特徴である自己に遅れるという時間論的構造が、『実存から実存者』におけるような初期のレヴィナスにおいては専ら「疲労」や「怠惰」といった事象を通じて分析されていたということです。そして「疲労」と言えば、ジャンケレヴィッチも「老化」を論じるにあたり、「疲労」を比較の材料として取り上げていました。こうした事情を踏まえるのであれば、(なぜ後期に至って「疲労」や「怠惰」に代わって「老化」が取り上げらるようになったのか、という思想史的な興味は一先ず措くとして、)「隔時性」と「傷つきやすさ」との関係がどうなっているのかについても気になるところではありますが、その点についても論じられることはありません。「隔時性」についても、専ら倫理的次元への通路として言及されるだけで、その時間論的構造の面、特に「老化」固有のものを取り出そうと考えれば当然問題になるであろう、「疲労」「怠惰」等との違いについて論じられることもまたありません。勿論、この点について古怒田さんの論文に答えを求めるのは無いものねだりで筋違いであるとしても、「老化」の時間性の解明という問題一般としては依然として疑問のまま残されているように思います。この点は実は、そもそもレヴィナスが「老化」固有の時間性の分析を行っているのか?という疑問にも繋がっていくのですが、本稿で扱うには大きすぎる問題ですので、ここでは問題の提起に留め、最後の点についての私なりの見通しのみ、後で再度簡単に触れたいと思います。
2.「コト性」「事実性」へ依拠して、「老化」に「人間性を確保する」ような側面を見出そうとするのは「老化」の固有性を損なうことにならないでしょうか(2a)。また「老化」との関わりとは独立に、「コト性」「事実性」へ依拠して「人間性を確保する」ことはレヴィナスの思想の枠組みの中において妥当なのでしょうか(2b)。 更に、レヴィナスがどう言っているかとも独立に、事象そのものの分析としてどうでしょうか(2c)。
こちらの問いは厳密にはa,b,cの3つの異なった問に分けられ、それぞれを区別して論じるべきでしょうが、ここでは厳密な議論による論証は意図しておらず、単なる疑問の提示に留まることから、3つの問いの絡み合いを示すという意味合いでも、敢えて一体のものとして述べることにします。
「コト性」「事実性」への依拠というのは、『死』という著作においてもジャンケレヴィッチの「結論」であり、ジャンケレヴィッチの思想の重要なポイントなのだとは思いますが、「何性」と区別される限りでの「コト性」として「事実性」を捉えて、そこに価値を見出すというのは、私には哲学者ならではの極めて抽象的な発想のように感じられ、実際に生きている人間の経験や実感とはずれているように感じられます。仮にその点は譲ったとしても、それは「死」に対する態度の拠り所とはなりえたとして、「老化」に結びつけるのには飛躍があるように感じます。
この論文は、その結論部分において「老化」というのは否定的なものであるけれど、その構造には「人間性を確保する」ような側面があるのだとして、それを人が生きてきた過去「全体」、生きてきたという事実の「こと性」そのものに基づけようとしています。そして死を目の前にした臨床現場の分析を通した村上靖彦さんの以下のような議論を引用しています。
「死が近づくなかで自己を支えるのが、過去を思い出して肯定することなのである。過去の対人関係が、かすかに残っている現在の自分を支える。目の前の世界が身体の衰弱によって縮小していったとしても、過去の地平は縮小することがないからだろうか。あるいは行為が不可能になったときに、対人関係こそが自己性の核であることが浮かび上がるからであろうか。」(村上靖彦,『摘便とお花見: 看護の語りの現象学』, 医学書院, p.233)
「「死が近づくなかで自己を支えるのが、過去を思い出して肯定すること」「過去の対人関係が、かすかに残っている現在の自分を支える」というのは、分析というよりは臨床的な次元での事実に属することなのだと思いますし、特に「対人関係こそが自己性の核である」という点については全くその通りで、それまで身体の衰えとともに交流範囲が狭まって、孤独感が強まり、更に独力でできていた身の回りのことができなくなっていって、独居が困難となり施設に入居するようになると、その結果として、それでもそれまで維持されていた交流関係さえも断たれてしまうことが避け難く、それまで自明であった自己性の維持が困難となるというのは私の経験に即しても事実だと思います。
しかしまずそれが「過去全体」の「こと性」への依拠であるという点には疑問を感じます。生きてきたことそのものを肯定する、というのは頭の良い哲学者が思いつく抽象で、多くの人はそんな風には考えないし、寧ろ支えとなるのは豊かな情動に彩られた具体的な対人関係の記憶なのではないでしょうか。だからこそ具体的な個々の対人関係の断絶に苦しむのであって、それはその後、施設の中で構築される対人関係である程度補われるものであるにしても、決して代替が効くものではありません。いや、事実性とはまさにその代替不可能性なのだ、ということなのかも知れませんが、それでも「過去全体」、「事実性」そのものへの依拠ではなく、あくまでも個々の事実が持つ情動的な側面こそが支えになっているのでは、というのが私の素朴な感覚です。勿論これは感じ方の問題かも知れず、であれば論証によりどちらが正しいという次元のものではないので、あくまでも違和感を述べているだけであって、誤りの指摘ではないことは強調しておきたく思います。
(この点に関連してもう一言付け加えるならば、村上さんの引用における「過去の地平は縮小することがない」という言い方を理解するにあたっては、幾つかの留保が必要ではないかと思います。特にここで言う「過去の地平」というのが「過去全体」の「コト性」を指しているのかどうかについては議論があるのではないでしょうか。少なくともここでの「地平」概念は、通常の現象学におけるそれとは異質のものであって、2004年に現象学年報に掲載された村上さんの論文「方法としてのレヴィナス―情動性の現象学における自己の地平構造―」で素描されたそれを踏まえたものでしょうし、この論文でも確かに「事実性」という用語は出て来ますが、寧ろ極限値として、空虚な空想として作動しているものとされる「事実性」が果たしてベルクソン=ジャンケレヴィッチ的な「過去全体」と同じものなのかについては、疑念の余地なしとはしません。しかしながら、村上さんの上記論文の重要性については疑う余地がなく、自分なりに理解できた限りにおいて、その主張に賛同するが故に、その理路を明らかにしたいものと思いつつも、この点を論証するのは(遥か昔にごく短期間、期限付きで哲学研究に携わったことはあっても、事情あってその後継続すること能わず、何十年の歳月の隔たりを経て今や素人に過ぎない)現在の私の手に余ることなので、この点についてもここでは疑問の提示に留めざるを得ません。また同時に、レヴィナスのいう絶対的過去というのが、形而上の抽象ではない事実の次元においては生理学的基盤を持つ記憶に関わらざるを得ない想起可能な過去に対応しうるのかもまた確認が必要なことに思えます。「地平」の定義次第の感じはありますが、寧ろそれは現象学における一般的な「地平」すら形成することのない「地平」の向こう側、だけれどもそれによって主体が形成された根拠(そうした領域があることは何か神秘のようなものでは全くなく、ごく普通に、意識主体が経験できる領域の外側(ここでは手前)で起きた出来事のうち、主体の形成に関与したものということに過ぎません)であると考えるのが普通の受け止め方ではないでしょうか。一方では一般には個人の前史に関わるものと了解されるフロイト的な「エス」「超自我」や、前意識、無意識的な水準との関わり、他方ではフッサールであれば『幾何学の起源』等で問われているような個人を超えた共同体的な地平も含め、一般に潜在性というのをどこまで認めるかについて、村上さんの論文で提起されている情動性の現象学における「地平」や「事実性」は極めて広大な問題領域を覆うものであることが素人目にも容易に想像され、私の手には余るので、これについても指摘に留めざるを得ませんが。)
しかしここでの議論においてより本質的なのは、「過去全体」の「こと性」というのが、果たして「老い」固有のものなのかという点に対する疑念です。論文の結論では、「老化は、その時間的構造においてはそのような消滅に抗う意味、そして倫理すらも基づける現象なのである。」(同書, p.123)と述べられるのですが、そこには重大な錯誤、でなければすり替えがあるのではないでしょうか。
レヴィナスが言う「老い」の時間論的構造が、倫理的なものに通じるという点は、実際にレヴィナスがそう言っているので間違いはありませんが、 それは「消滅に抗う意味」ではないと私は考えます。寧ろ意味の手前にあって、主体が能動的に意味付けできないもの、寧ろそれこそが主体を意味づける当のものとしての倫理的なものである筈ではなかったでしょうか。主体は他者との関わりによってしか確立されません。予め返すことのできない負債を負っているようなもので、レヴィナスが言っているのは、そうした主体の生成に纏わる構造のことではないでしょうか。そしてそれが「老化」とか「疲労」とか「怠惰」のような主体にとって受動的、自分自身に対する「遅れ」を伴うような事象を通して垣間見られるということが述べられているに過ぎないのではないでしょうか。
ここで詳細に述べることはできませんが、私見では時間論的構造としては、「老化」の時間性は、全き受動として、寧ろ意味の「消滅」であると端的に言うべきでしょう。それは構造的に主体が受動的でしかない点において「疲労」とか「怠惰」と類比可能ですが、だからといって「老化」は「疲労」でも「怠惰」でもありません。寧ろ「老化」固有の時間性は、実はレヴィナスの分析によっても汲み尽くせていないと言うべきではないか、具体的に如何なる点で「老化」が他の受動的な事象と区別されるかについては述べられていないのではないかと思います。(それはレヴィナスが「他者」や「倫理」を語るゆきずりに「老化」について語っているのであって、「老化」を主題として語っているのではないことを思えば仕方ないことで、無いものねだりなのだと思いますが。)
いわば、ここで問題にされている抽象的な構造は、それが「老化」にも当て嵌まるとしても、必要条件であるだけで十分条件ではないのです。「老化」のある面が「疲労」や「怠惰」と同型の時間的構造をもたらしているだけで、「老化」固有の時間性は別の次元にあるのだと思います。村上さんの文章にある「目の前の世界が身体の衰弱によって縮小していったとしても、過去の地平は縮小することがない」というのは、それ自体の適否については措いたとしても、こと「老化」には直接関わらないものではないでしょうか。「死」に向かう際の拠り所となる筈の記憶さえ喪われ、認知的に過去の地平もまた縮小していくのが、「老化」の現実ではないでしょうか?だからその意味では「老化」は「死」に立ち向かうことそのものを困難に、否、もっと言えば無意味なものにしていくという点で、人間性を確保しようとする立場にとって限りなく苛酷なものなのではないでしょうか。「人間的」な「主体」が本質的に社会的な存在で、他者との関わりにおいてしか維持できないものだとしたら、「老化」によって「私ができる」の範囲が縮小していくだけでなく、他者との関わりもまた、身体的にも認知的にも限定されていくことによって、「人間性が確保」できなくなるというのが寧ろ「老化」の実質ではないでしょうか。(記憶が損なわれ、地平が損なわれるのは、病の結果であり「老い」とは区別されるべきだ、という見解もあるかもしれませんが、記憶の障害の原因の判別は現実には困難で、従って認知症は事実上、原因に基づくものではなく、症状に基づくものであることを踏まえれば、様々な認知的な障碍に見舞われて、過去へのアクセスが困難になるというのは「老い」という事象に関わるものと見なすのが妥当だという立場を私は採りたく思います。)仮に、「老化」が過去へのアクセスを困難にすると同時に、にも関わらず、その過去を価値あるものにする当のものなのだというパラドクスが言いたいのだとして、現実に「老化」によって、「老化」が価値を担保している筈の過去へのアクセスが困難になってしまうのだとしたら、そのパラドクスは一体誰にとってどのような意味を持つのでしょうか?理論上はどうであれ、事実としては「老化」は自らが担保している価値すら破壊してしまうような厄介なものであると寧ろ言うべきなのではないでしょうか?
更に言えば、「老化という不可逆的時間性として現実化すること」により確保され、「死によって消し去られない過去の実在そのものの唯一性と消失不可能性」により担保されるものとされる「その有限性に抗した肯定的な過去の水準」は本当にその有限性を乗り越えられるのだろうか、という疑問も浮かびます。形而上学的な「過去全体」ならぬ、有限性に限定づけられた生きた存在の「過去の全体」は、本当に「死によって消し去られない」のでしょうか?素朴に考えれば、その個体が死んでしまえば、唯一のものであり取り換えの効かない、その個体の「過去の全体」は、寧ろその唯一性故に消滅するのではないでしょうか?そして普通の人間の感覚では、まさにそのことこそが危惧されているのではないでしょうか?そしてもしそれが個体の有限性を超えて存続しうるとしたら、それはまさにその個体にとっては「他者」である「私」に対してその事実を語り、それを受け止めた「私」がその個体が生きたことを証言することによる他ないのではないでしょうか?「過去全体」の事実性の存続は、それ自体によって可能になるのではなく、寧ろ「証言」こそが存続の、ひいては「人間性の確保」の必須の要件であり、「証言」はその構造上、「他者」を必須のものとして必要としている、従って寧ろ(その場にいるかどうかは措いて、可能性としてであれ)「他者」こそが事実性の条件であるということはないのでしょうか?ツェランが述べたように、時間を乗り越えることなどできない、時間を通って、他者のもとに届くことによって、他者がそれを拾い上げて解読することによってしか可能ではないように私には思えてなりません。更に「老い」の現場に即して言うならば、当の「過去」を生きた本人は、記憶も損なわれ、認知機能が損なわれ、最早「語る」ことができない状況におかれているとしたらどうでしょうか?その「過去」は、「他者」である「私」が証言しないことには永久に、決定的に喪われてしまう。事実性はそれ自体の構造により保証された自足的なものなどではなく、常に「他者」の支えを必要としているのではないでしょうか?逆にだからこそ多くの「私」が「証言」を残す止み難い衝動に駆られて言葉を綴るのではないでしょうか?
話を「老化」に関わる論点に戻しましょう。まぜっかえすようですが、仮に「過去の全体」の「コト性」に価値があるのなら、哲学的な抽象の水準(そこでは権利上、アプリオリに保障されるので、実際にある個別の人間の「過去の全体」がどうであるかは問題にならない)ではなく、実際の生の経験の場面においては、それが喪われず、もしかしたら更に増大していくことに価値があることになるのであって、その価値の最大化は、寧ろ「不老不死」によって実現することになってしまわないでしょうか?「老人の智慧」が長く生きたことの累積によって生じるものだとすれば、端的に長く生きることに価値の淵源があるのであって、「老化」にあるのではありません。同様に、「事実性」は不可逆性、反復不可能性に基づくものであるという時、実は不可逆性も、反復不可能性も、生きられた時間の様態ではあっても、「老化」そのものとは一先ず別であることに気づきます。勿論、「老化」の過程が持つ「衰頽」のベクトル性が巨視的に見て不可逆なものであることは(少なくとも今生きている人間に関しては)確かですが、不可逆性、反復不可能性自体は「老化」ではなく、例えば「誕生」の、或いは「成長」の相についても同様に当て嵌まる筈ではないでしょうか。従って、生きられた時間一般についての議論としては妥当でも、「老化」という事象の分析としては不適切なのではないか、「老化」固有の時間性を特徴づけるものは、もっと他の側面に存するのではないか、というのが素人なりの素朴な反応ということになるでしょうか。
最後に今一度「老化」とは離れて、「何性」を持たない純粋な「コト性」を単なる抽象的な思弁の産物としてではなく、具体的な経験として、なおかつレヴィナスの思想の文脈に位置づけてみたらどうなるかについて、素人なりに考えたことを記しておきます。私が思いつくのは寧ろ初期レヴィナスにおいて重要な位置づけを占める「ある(il y a)」です。この点については、例えば斎藤慶典さんの『レヴィナス 無起源からの思考』の第1章 糧と享受の第1節 端的な存在―空 における記述が興味深く、かつ私の捉え方に親和的であるように思われます。更に同書第2節 存在に走る亀裂-ー無 の節においては、「何性」をもたらすものは「空」とは区別される「無」であるとされます(これはレヴィナスの文脈では「位相転換」(hypostase)と呼ばれる相に相当するのではないかと思います)。それを踏まえて言うならば、ジャンケレヴィッチの文脈においてどうかは措いて、レヴィナスの思想の枠組みにおいては、倫理的な次元というのは、斎藤さんの記述における「空」(=レヴィナスにおける「ある(il y a)」)ではなく「無」に、起源の向こう側にある無起源に由来するものではないかと私には思えるのです。(「他者」はその「無」をもたらすもので、時間論的には主体が辿り着くことが原理的に不可能な「絶対的な過去」なのだと思います。そしてそれは「過去全体」とは異なるもの、寧ろ次元を異にするものなのではないかと思います。)斎藤さんは「何かが無い」という可能性の開けが「意識」の成立であると述べています(同書, p.52)が、私もその捉え方には全面的に同意しますし、「意識」の覚醒を錯誤の可能性に見る点も、それを言い替えて「幽霊を見てしまう可能性が「意識」の覚醒なのだ」(同書, p.53)というのも全くその通りだと思います。(「幽霊」と「意識」の関わりについては、『配信芸術論』に寄稿した論考でも触れたことがありますが、そこで述べた事柄とここでの斎藤さんの議論とは共鳴関係にあると感じます。)そして更に言えば、村上さんが「方法としてのレヴィナス」で取り出した地平構造は、寧ろこちらの文脈に置くのが適切と感じられたが故に、上に記したような違和感が生じたのではないかと思うのです。「事実性」が地平を形成するのだとして、それが他ならぬ情動的な意味を持つ根拠を問うならば、それは「こと性」に帰着するのではなく、寧ろ自己の(自己にとっては存在せず、遡行不可能な)手前に「別の仕方で」遡行することになるのではないでしょうか?情動は、「感じ」は、「他者」(ただし私個人としては、これを「人間」に限定したくはなく、この点では恐らくレヴィナスの思想から逸脱していくことになるのですが)の触発によって、そしてそれによってのみ主体に到来するのではないでしょうか?直接的には「老い」についての議論からは外れますし、論証抜きの素人の印象ですが、この点は恐らく議論の要点に繋がるもののように感じられることもあり、追記しておくことにします。
以上、思いつくままに記しましたが、それでもなお、厳密には区別されるべき3つの問い、即ち、(a)「コト性」「事実性」へ依拠して、「老化」に「人間性を確保する」ような側面を見出そうとするのは「老化」の固有性を損なうことにならないか。(b)「老化」との関わりとは独立に、「コト性」「事実性」へ依拠して「人間性を確保する」ことはレヴィナスの思想の枠組みの中において妥当か。 (c)レヴィナスがどう言っているかとも独立に、事象そのものの分析としてどうか。のそれぞれについて、私が疑問に感じている点を示すことはできたと思います。
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以上、インフォーマルな仕方ではありますが、率直な仕方で疑問や違和感を書き綴ってみました。これらが哲学的な議論に資することはなくても、本稿で課題としている、マーラーの音楽における「老い」の時間性について考える上では決して回り道ではなかったというのがここ迄辿り着いての感想です。「老い」の時間性とは、時間性一般の持つ特徴の一つではないし、一般的構造から直接導かれるものではなく、より実質的・具体的なベクトル性を備えたものであり、寧ろそれは従来、マーラーの音楽の構造を捉えるべく用意されたカテゴリに近いものであるのではないでしょうか。但し、既に提出された具体的なカテゴリにぴったり該当するものがあるという訳ではなく、寧ろこれからそうしたカテゴリを構成しなくてはならないように思います。例えば「崩壊」(Sponhauer)や「解体」(Revers)といったカテゴリはその候補になりうるように見えるかも知れませんが、実際にはそれは「老い」と接点はあっても、別のもので、単なる物理的な「解体」「崩壊」とは異なる、「老い」固有の性格づけが如何にして可能かを検討すべきなのだと思います。従って取り組むべきは、そうしたカテゴリを分類のための「ラベル」の如きものとして扱うのではなく、そのカテゴリの時間論的構造をより具体的に記述することにあり、それについてのヒントが今回の検討を通じて幾つか得られたように感じます。
その一方で、ゲーテ=ジンメル=アドルノの「現象からの退去」としての「老い」についても、例えばレヴィナスの「隔時性」を手がかりにして、だが「老い」の固有性を踏まえつつ、(準)現象学的時間論的な記述を試みたらどうかというようにも思います。「後期様式」というのは、そうした時間性が作品に反映されたものとして、カテゴリを取り出すことができるのではないでしょうか?或いはまた、トルンスタムの「老年的超越」の時間性について同様な問いを立てることもできそうです。時間論的な構造を比較することで、「後期様式」を可能にする「現象からの退去」と「老年的超越」との関係についての示唆が得られることも期待できそうです。「現象からの退去」にしても、「老年的超越」にしても、それが単なる時間経過の蓄積としての「加齢」と関わるものではないのは自明なことであり、「老化」の進行が人により異なるのに対し、「現象からの退去」や「老年的超越」は「加齢」に伴って必ず生じるものではないけれど、だが「老化」と完全に独立のものと捉えられているわけでもなく、「老化」の時間性の或る側面がその基盤となっている、「老い」の時間性のうちの或るタイプとして考えるのが自然であるように思われます。そしてそうした時間性の反映を音楽作品の時間論的構造に見出すことができれば、それがすなわち「後期様式」に固有のカテゴリということになるのではないでしょうか?
ここまでの検討で既に明らかなこととして予想されるのは、そうした時間性は、生理的な「老化」そのものの時間性ではなく、それを意識することを含めた「老い」の意識の時間性であり、複合的なものであるということです。それは「幽霊を見る能力」としての「意識」を必要条件として要求するのみならず、自伝的自己を備えた高度な意識に固有の構造であり、言ってみれば「時間性に関する意識の時間性」とでも言うような複合的で重層的なものということになるように思われます。一体、そのような複合的・重層的な時間論的構造が、音楽作品の持つ時間論的構造に反映しうるものかという疑問が生じる向きもあるでしょうが、私見では、水平的にも垂直的にも極めて複雑で、複合的・重層的な構造を備えたマーラーの音楽には、そうした時間性を容れる余地があるものと私は考えます。例えば第9交響曲の多楽章の複合体全体は勿論、第1楽章の内部構造に限定してさえ、そこには「意識の音楽」と呼ぶに相応しい、極めて複雑で精妙な時間の流れがあることが感じ取れるように私には思えます。そしたその第1楽章と後続の3楽章の関係、一見したところアンバランスに感じられる全体の構成もまた、どこかで「老い」の意識の重層的で複合的な性格と、その構造が変容していくプロセスの反映であったり、或いはまた、(準)現象学的な「地平」構造に基づく、別の角度からの捉え直しであったりを作品として定着させてものであり、マーラーが「交響曲」という多楽章形式を必要とし続けたのも、そうした構造の複雑さとそれがもたらすプロセスの精妙さに応じたものであったのだと考えたいように思うのです。そしてこうしてみた時、「崩壊」なり「解体」なりのカテゴリを単独で取り出して論じることが、「老い」の時間性を捉える上では不十分であることもまた明らかになるのではないかと考えます。それは(レヴェルの違いはありますが)本稿前半の議論において、「老い」の意識を捨象して、意識の対象となる時間論的構造のみを取り上げることの抽象性や、「隔時性」のみをもって「老い」の時間論的構造を捉えようとすることが困難であることに通じるものがあるのではないでしょうか?
こうしてプログラムの輪郭を書き出しただけで、その解明の困難さは容易に想像でき、それは私の能力では及ばないものにも思えてきますが、どこまで到達できるについて問うことは一旦止めて、とにかくこうしたことが今後の課題であることを確認して、一旦ここで本稿を閉じたいと思います。
(2025.5.2-4)