(承前)
勿論、こうした問いに対して一度にすべて答えを出すことはまだできないけれども、未だ漠然としたものでありながら、朧気に浮かび上がって来ている構造の輪郭を素描する事はできるだろう。それは3つの水準から構成されるものだろう。即ち、「老い」のシステム論的定義が対象とする生物学的・生理学的な水準、「老い」についての意識を対象とする現象学的な水準、更にその2つ目の構造が産出する「作品」の水準を区別することができるだろう。そしてこれまで本論で取り上げてきた様々な見解は、それぞれどの水準を対象にしているかにより分類することも可能だろう。就中、本稿で取り上げているアドルノやジンメルのそれは、「作品」の水準を対象としたものだが、それは当然作品を生み出す「意識」の在り様と無関係ではありえないから、自ずと両者の関係を問うものになる一方で、「老い」の意識が対象としている「老い」そのものを問い直すという視点は希薄のように思われる。ところがマーラー自身は老いにフォーカスしている訳ではないが、その替わりに、当時の科学的知見を背景にした有機体論的な発想から、3つの水準を横断するような把握をしていて、それ故に、マーラーの作品において「老い」を問うについても3つの水準を横断することを求められているということなのではなかろうか。
だが、ここではそうした整理を踏まえ、性急にその3つの水準を一度に捉えるのではなく、今一度アドルノやジンメルの視点に立ち戻り、「老い」そのものへの問い直しが始まる地点を見極めておくことにしよう。その手がかりとして、ここではまず、アドルノが依拠しているとされるジンメルの「老齢藝術」(上で引用した木村訳の『ゲエテ』の訳語による)についてもう少し細かく見てみたい。
ジンメルが「老齢様式」について集約的に述べているのは、『ゲエテ』第八章 発展のp.381の「予は今や、遂に色々の方面から暗示せられた点に到着した。」で始まる段落以降ということになろうが、その前後の記述を確認すれば、実はジンメルにおいても「老齢藝術」に主観と客観の破綻を見ていないわけではないことが確認できる。「形式とは常に客観の原理の謂」という点を踏まえるならば、「強い波動をなして高まる主観と綜合的統体形式の破裂」という表現は、まさに主観の客観の破綻について述べていることになるし、「形式原理の断絶克服」や形式に対する「一種の無頓着、否恐らく拒否と反撥」を指摘してもいる。
またジンメルがゲーテ以外に「老齢藝術」の例として挙げる中には後期ベートーヴェン、具体的には弦楽四重奏曲とチェロソナタが含まれるが、ゲーテにおける「決定的徴候」として指摘されるのは、「ファウスト第二部に於て殊に現れる用語上の合成の無理」であったり、「これよりも一層決定的なのは、個々の表出が脈絡なく投出された様に見える句」であり、これもまたアドルノの後期ベートーヴェンについての先に引用した記述と共鳴するものであろう。(なおこの指摘はアドルノのヘルダーリン論におけるパラタクシスへ補助線を引くことが考えられるものだと思うが、この点を論じることは別に機会に譲らざるを得ない。)
そうした分裂を議論の余地がない事実として確認しつつ、ジンメルは、「歴史的に鋳造された形式に対して形式原理の拒否をその主権内に蔵する老齢藝術が、何故に単純なる主観に堕する様に見えるかという理由」を問うているのである。そしてそれを「恰も一の統体を統一構成する力が老人に失われ、主観の域を脱しない個々の契機の頂点を示し得るに過ぎないかの如く考へ、その理由としては、老人は、個々の衝動、思想、見解が中断なく相互に働き合う連続としてのみ現るる独自の形式には到達し得ない」というような、或る種の衰頽によるとする見方を「皮相的」として退け、その上で既に引用した「現象からの漸次の退去」に関連付けた説明を行っているのである。そしてそこでは「絶対的内面化が存在し、それに依つて主観が純粋な客観的精神上の存在となり、従つて彼には外存相が謂はば全く存在せぬ結果になる。」かくして「全対立の克服」が実現されるというのである。(但しジンメルは「恐らく」という留保をつけて、それが完全に実現されているについては留保を行っているが。)
そして「現象からの退去」は、作品のみならず老齢の人間の生そのものを「象徴的」なものにするという。高齢者の生そのものが物象に対する「記号」であり「代理比喩」であり、「象徴」であるというのである。
「併し、かかる高齢の人間から世界の個々相と外存相とが如何に遠ざかっても、やはり此の世界に生活し、芸術家として此の世界並に世界に存する物象に就いて述べねばならぬから、彼の陳述、否彼の全精神的存在は象徴的となる事、換言すれば彼の物象を最早その直接性、その独自存在のままに掴み述べる事はせずして、唯彼自身とのみ生き、彼自らの世界である内面の脈拍が物象に対する記号であり得る限り、乃至脈拍そのものが物象の代理比喩である限り、物象を掴みこれを表現し得る事は理解が出来る。」(ジムメル『ゲエテ』, 木村訳, p.385。引用に当たっては原訳書の旧字旧かなを適宜改めた。)
この点についてジンメルは、高齢のゲーテが「凡ての自己の活動、成業を常に象徴的にのみ見ていた」という言葉を引いて傍証とする。そして更にジンメルはゲーテが、自分自身に関係づけて「静寂観」と「神秘」とが老齢の特質であると言ったことに触れ、ここでの「神秘」を上述の「象徴」と見做し、『ファウスト』第2部の末尾の神秘の合唱の「一切の無常相は一の比喩に過ぎない」に結びつけつつ、「ゲーテは、老齢期の要素が特に彼の早期の存在様式と異れる限りに於て、明確に、かの二性質を以て老齢期を説明した。」とするのである。かくしてジンメルの結論は以下のようなものとなる。
「此の「静寂観」はかの「現象よりの退去」に他ならず、主観が自己と対立する客観を有する場合とは全く異れる意味、即ち相対的の意味を持たない主観の自性的存在に他ならぬ。今やゲーテ自身世界の一切であり、世界に関して知り得る一切である。従って所謂世界に対しては、「象徴」の関係を有するに止まる。それで、此の主観と客観的「形式」との間には全対立が消滅する。蓋し、曾ては或る仕方で先在し、主観自らの所産内であるにしても、主観の彼方に存在した形式を主観に齎し来った客観化は、今や主観の自己開放と自性帰還との結果、主観の直接なる生活と自己表現裡に現るる事になった。」(同書,pp.385~6)
このジンメルの結論については、幾つもの角度からコメントすることが可能だろうが、何よりもまず、『ファウスト』第2部末尾の「神秘の合唱」を、「老齢期」を特徴づけるものとしている点が挙げられるだろう。勿論、『ファウスト』を「晩年様式」の作品であるとすることに異論はなく、また、「一切の無常相は一の比喩に過ぎない」がゲーテがその晩年にようやく到達した認識であるということであれば、それもまた問題にはならないだろう。だがこの「一切の無常相は一の比喩に過ぎない」という余りに有名な章句は、通常はどちらかといえば普遍的、一般的な真理を捉えたものと考えられているのに対して、それが「老齢期」の特質であり、「老齢期」固有のものであるとするとなれば、これは些か別の話になる。寧ろ例えばトルンスタムの「老年的超越」のような、「老い」に固有のものとの突き合わせをすることが相応しいものであることになる。
一方でここでジンメルが語るような事態、「ゲーテ自身世界の一切であり、世界に関して知り得る一切」であるといったことが現実に生じうるものなのかを疑問視する向きもあるだろう。この点について言えば、既に述べたようにジンメルは、「老齢に於ては、偉大な創造的人物は―予は茲で勿論純粋の原理、理想に就いて述べるが―自己内に、自己自らに形式を具へてゐる。即ち、今や<絶対に彼自らのものである形式>を所有する。」(p.383)というように或る種の原理的な極限形態である理想であると断っているし、ゲーテにおいてすら「無形式、結合の分裂は、彼の偉大なる生涯の努力、即ち主観の客観化が彼の最高齢に於て、新しい、神秘絶対的完成段階に達したとは云わぬ迄も、その直前に来ていた徴候であると言えよう。」(p.386)というように、完成については留保はつけている。だがそれが現実には完全な形では到達し難い理念的なものであったとしても、そうした傾向を現実に認めることについては可能だろうし、寧ろそうした認識を「悟り」の如き到達点、ゴールとして捉えるのではなく、寧ろ漸近的な絶えざる運動として捉えるという、本稿では特に道元を参照しつつ述べた「老年的超越」の捉え方と親和的なものとして考えることも可能であるから、現実の「老い」の説明として一定の有効性を認めることができるように思われる。
またここでの主観と客観的「形式」との対立の消滅は、主観が絶対的内面化によって客観化することによって可能となるとされるのであるが、少なくともマーラーにおいてこれを可能にするものとして、アドルノが指摘している「唯名論的」な性格、ボトムアップにその都度素材から形式が作り出されるという点が思い浮かぶ。実際、マーラーの後期作品の形式は極めてユニークであり、伝統的な楽式論を単純に適用してその構造を説明することができないことは、例えばエルヴィン・ラッツが具体的に第9交響曲の第1楽章を取り上げて分析することによって明らかにしている。片や「老齢」によって実現されるものとされ、片やその作品全体を通じての傾向として述べられているという違いはあるけれど、実際にはアドルノの指摘する「唯名論的」性格は、とりわけ後期作品において著しいものであることは、例えばラッツが分析の対象としたもう一つの楽章である第6交響曲の第4楽章との比較において第9交響曲が既存の形式から隔たっている度合いを確認すれば明らかであろう。従ってマーラーの作品の「唯名論的」な性格については、「老年的超越」が必ずしも老年期のみに限定されるものではなく、「基本的に、青年期以降の老年的超越へと向かうプロセスは、一生涯連綿と続いていくものであると仮定することができる(トルンスタム,『老年的超越』,冨澤・タカハシ訳, 晃洋書房, p.41)という点に通じていると考えるべきなのかも知れない。更に言えば、マーラーの作品に「唯名論的」性格が備わっていることが、マーラーを発展的な作曲家たらしめ、ひいては「マーラーだけに、アルバン・ベルクの言葉によれば、作曲家の威厳の高さを決定するところのあの最高の品位の後期様式というものが与えられる」(アドルノ『マーラー 音楽観相学』, 龍村あや子訳, 法政大学出版局, 1999, p.112)ことを可能にしているのだという見方もまた、可能ではなかろうか。
一方でこれを文字通りにとるならば、最早「作品」を創ることもまた相対化されてしまい兼ねず、トルンスタムの「老年的超越」のような「老年期」の生き方そのものとの突き合わせは出来たとしても、こと「芸術作品」の様式の説明として考えた場合には、それを逸脱してしまうことはないのかという疑念が湧いてくる。寧ろここで思い浮かべるのは中島敦の『名人伝』の弓の扱いを忘れた弓の名人であり、或はまた或る種の断筆こそが相応しいのではないか。
だがここまで辿り着いた時に直ちに思い浮かぶのは、まさにマーラーが「作品」は「抜け殻」に過ぎず、作品を生み出す人間の生以上のものではないと述べていたことである。一見したところ謎めいたマーラーのこの言葉は、寧ろゲーテ=ジンメルの「老齢様式」を念頭におくことで了解可能なものになるではなかろうか。しかもマーラーの発言の文脈を捉えるならば、まさにゲーテの『ファウスト』を、就中その第2部末尾の「神秘の合唱」の「うつろいゆくものは比喩に過ぎない」を恐らくは念頭において語っていることとも対応するようにさえ見える。つまりくだんのマーラーの「作品」(および「作品」を生み出す人間の生)についての認識は、マーラー自身はそれを「老い」や「後期様式」と結びつけているわけではないにせよ、上記のようなジンメル的に解釈されたゲーテの「老齢期」についての考え方、「老齢藝術」の考え方に極めて親和的であり、こちらもまた一般的な「作品」観としてではなく(勿論、『ファウスト』第2部末尾の章句がそうであるように、その次元で論じることも可能なのだが、とりわけここでは)、マーラー自身の「後期作品」についての認識として捉え直すことも可能なのではなかろうか。要するにマーラーの作品観は彼のゲーテ理解と、更にはマーラーがベートーヴェンの作品の中でも後期作品を評価していたという点と緊密に関わり合った、一貫したものであるということが言えるように思われるのである。
勿論ジンメルのこの著作はあくまでも第一義的にはゲーテ論であり、従ってここでの「老齢様式」もまた、第一義的にはゲーテのそれについてであるし、ジンメルが傍証として持ち出すのもゲーテ自身の「老い」についての認識であり、作品である。ジンメル自身はそれをベートーヴェン、レンブラント、更にはワグナーの「パルジファル」といった対象に拡張しているが、それを安易に一般化して良いかについては少なくとも検証を要する事柄であって、無条件に首肯できるものではないとする向きもあるだろう。またこれをもう一度アドルノの「晩年様式」と突き合わせた時に、やはりそこに依然として存在する懸隔について、その距離を測る作業は別途必要であろう。マーラーに関して言えば、マーラーの作品観については上記のように、ゲーテ=ジンメルのそれと親和的であったとして、その作品そのものにについてどうかは、独立ではないにしても、また別の事柄であろう。
それにしても、それではジンメルの言うところの「絶対的内面化」による「全対立の克服」はどのような機序により可能になるのだろうか?更に、ここでの問に即して言えば、それが他ならぬ「老齢」において可能になるのは、「老い」のどのような点に基づいているのだろうか?既に述べたように、ここまで具体的に検討はしてこなかったが、ジンメルやアドルノの議論の枠組みにおいては「老い」の意識と「作品」との関わりについては論じられても、「老い」そのものについて主題的に論じられることはない。そのためこちらの問いについては、未だその答えが得られた訳ではなく、依然として問は開かれたままということになる。既に見たように、ジンメルは「破綻」を説明するについて老人の力の衰頽を以てすることを退けたのであったが、「破綻」の理由としてではなく、例えば「現象からの退去」を或る種の力の衰頽によるバランスの変化と捉え、その原因を生物学的・生理学的な「老い」とそれを意識することに求めることは果たして不当なのだろうか?
そしてマーラーに関してもまたアドルノにより、「すでにベッカーは、五十歳を過ぎたばかりのこの作曲家の最後の諸作品がすぐれた意味での後期作品である、ということを見逃さなかった。そこでは非官能的な内面のものが外へと表出されているというのだ。」(アドルノ『マーラー 音楽観相学』, 龍村あや子訳, 法政大学出版局, 1999, p.112)と言われているのであれば、「非官能的な内面のものが外へと表出され」うるための条件への「老い」の関与は、マーラーの作品における「老い」について考える上で極めて重要な位置を占めているに違いない。
従って、ゲーテ=ジンメルの「老齢期」観、「老齢藝術」観は、恐らくは暗黙裡に含意されているように、結果としてそれが「老い」によって得られたものであり、かつ「老い」なくして得られないものであるとして、具体的に「老い」がどのように関わっているのかについて考えようとすれば、いよいよ「老い」と「老いの意識」と「後期作品」の3つの水準からなる構造を素描することを試みることになるだろう。即ち、生物学的・生理学的な「老い」のシステム論的定義とこの水準の構造がもたらす時間性、現象学的な「老い」の意識とそれがもたらす時間性、更にその2つが「作品」にどのように影響するのかといった3つのレベルを区別しつつ、そのレベル間の関わり合いを明らかにすることによって、未だ漠然としたものでありながら朧気に浮かび上がって来ている構造の輪郭を辿ることがマーラーの音楽における「老い」についての論考に向けての準備作業としての本論に残された課題となるだろう。そしてその構造は、シェーンベルクがプラハ講演において第9交響曲に関して語った以下の指摘を説明しうるものでなくてはならないであろう。
「そこ(=第9交響曲)では作曲者はほとんどもはや発言の主体ではありません。まるでこの作品にはもうひとりの隠れた作曲者がいて、マーラーをたんにメガフォンとして使っているとしか思えないほどです。この作品を支えているのは、もはや一人称的音調ではありません。この作品がもたらすものは、動物的なぬくもりを断念することができ、精神的な冷気のなかで快感をおぼえるような人間のもとにしかみられない美についての、いわば客観的な、ほとんど情熱というものを欠いた証言です。」(シェーンベルク「プラハ講演」, 酒田健一編,『マーラー頌』, 白水社, 1980 所収, p.124)
(2025.5.14)
0 件のコメント:
コメントを投稿