2019年7月刊行ということなので、もう2年半も前のことだが、 EMI(Experiments in Musical Intelligence)システムという自動作曲のコンピュータ・プログラムの開発者であるデイヴィッド・コープの著書Computer Models of Musical Creativity(音楽的創造性のコンピュータモデル)の邦訳が出版されていることに最近気づいて、慌てて取り寄せてざっと一読したのは既に1ヵ月程前のことになる。その全体を紹介するだけの余裕はそもそもなく、仮に出来たにせよこのブログはそれに相応しい場ではなかろうが、MIDIデータを用いたマーラー作品の分析を少しずつ進め、その結果を公開したり、第10交響曲の補筆完成に関連して人工知能に言及してきたこともあって、上掲書についてもマーラーとの関わりに限って今までに知りえたことについての紹介をしておきたい。
邦題は『人工知能が音楽を創る 創造性のコンピュータモデル』(音楽之友社)で、原著の題名は邦訳では副題の方で言及されていることになる。自動作曲は、人工知能の研究が始まったばかりの頃以来の研究テーマであり、人工知能で用いられる手法もルール・ベースのアプローチから、蓄積された事例に基づくデータ駆動型プログラム、生物の進化における選択・淘汰のモデルのアナロジーに基づく遺伝的アルゴリズム、ニューラルネット、更にはファジー論理のような確率モデル、力学系に基づくシステムに至るまで様々であるから、自動作曲を行うコンピュータ・プログラム=人工知能と考えれば、邦題は非の打ちどころなく正当なものだということになろうが、深層学習がもたらしたブレイクスルーによって到来した今日の何度目かの人工知能ブームにおいて流布しているイメージからすれば、ミス・リーディングとまでは言わないまでも、マーケットを意識したキャッチ―な題名のように感じられる。
ただしこの印象は、私がかつての人工知能、ブルックスによってGOFAI(Good Old-Fashoned AI)と呼ばれた記号処理ベースの人工知能システムに、産業応用を生業とするエンジニアとして多少なりとも関わったことがあって、その時に人工知能研究に対して抱いた違和感に似た感覚を、今頃になって感じることになったという個人的な事情による部分が大きいように感じる。それにしてもブルックスがサブサンプション・アーキテクチャをもって記号処理ベースのAIに異議申し立てを行ってからでさえ既に四半世紀が過ぎようとしており、その間にそれまではタブーとされた意識や心について論じることが当たり前になっていることを思えば、ここでのコープの立場は情報工学的研究としては申し分ないかもしれなくとも、些か保守的であるという印象を拭い難い。注意深く選択されたコープによる創造性の定義は或る意味では非の打ちどころがないが、チェスのようなゲームを例として説明される創造性が、音響のパターンの組み合わせ方の選択という、多くの場合、必要条件ではあることは認められるかもしれなくても十分条件であるかどうかは極めて疑わしい側面に「音楽」を還元してしまっていることがもたらすであろう帰結についてコープは無頓着に見える。彼によれば創造性には意識は勿論、知性も不要だし、生命すら不要であるというのだが、それは検証可能な仮説というよりは、寧ろ信念に近いものに感じられる。結果としてコープがやっていることは、創造性を自分の信念によって定義して、その定義に沿った出力を計算するシステムを開発し、動作させた結果をもともとの信念による定義に照らして創造的であると言い募ることとの区別が限りなく曖昧になってしまっているように感じられてならない。コープはコンピュータが生成した作品を人は真っ当に聴こうとさえしないと不満を募らせるが、そうした態度を招来する原因の一端は明らかに、特定の作曲家の様式の模倣を行うという彼が自ら選んだやり方に起因している筈である。コープは模倣の元となった作品と生成された作品を比較すれば、生成された作品のオリジナリティがわかるという言い方をするが、端的に言って、そういう比較を聴取に持ち込むこと自体が対象を「音楽」として受容することと相容れないことにコープは気が付いていないようだ。
だがそうしたコープの見解について検討を行い、きちんとした批判を行う作業を行うだけの余裕が今はないので将来の課題とせざるを得ず、そのかわりにここでは端的に、コープが開発したEMI(Experiments in Musical Intelligence)によるマーラー作品の模倣について、後日の検討のための覚えを記しておくことにしたい。非常に肌理の粗い言い方になるのを承知の上で敢えて言えば、コープのような立場は、或る様式に従った音響パターンとしての作品の職人芸的な生産という音楽制作の或る局面においては一定の有効性を持つだろうが、それはマーラーの作品が位置づけられる局面とは最も疎遠であると私は以前より考えてきたし、今でもそう考えている。であるが故に、コープがよりによってマーラーを様式模倣の対象として選択したことに酷く驚き、『人工知能が音楽を創る』に付録Aとして付されたEMIによる作品リストに含まれる様式模倣の作曲家の中で、マーラーが特別な地位を占めていることに当惑し、その理由を突き止めようという衝動を覚えたのであった。以下は将来その作業に着手するための備忘として書き留めておくものである。
『人工知能が音楽を創る』の中で最初にマーラーが取り上げられるのは、第5章、コープが創造性の一翼を担っていると考えている「引喩」についてのところである。最初に「フレームワーク」の節で第4交響曲第1楽章の冒頭主題の上部構造としてヘンデルのメサイア中の或る旋律を指摘するレオナルド・マイヤーの見解が参照され、続いて第9交響曲第4楽章の序奏部分の音型、ドレスデン・アーメンの例としての第1交響曲第4楽章の一部、第5交響曲第1楽章冒頭のファンファーレ、「子供の死の歌」第2曲のトリスタン音型が参照される。マーラーの音楽に様々な先行作品の「引用」を指摘すること自体は寧ろありふれたことであるから、ここでマーラーがサンプルとして取り上げられること自体に不思議はない。一方で、コープの定義する創造性の観点からすると、ここで「引喩」と呼ばれているものが或る既存の特徴的な音響パターンの再利用以上のものであるかどうかは自明ではないだろう。コープは最後の「子供の死の歌」第2曲の引用に関して、よりによって(と私には思えるのだが)マーラーの伝記的事実を参照してみせるが、それがコンピュータの創造性の探求という文脈においてどう正当化されるのかについては些かも明らかには見受けられない。繰り返しになるが、何しろコープによれば創造性には生命は不要なものなのだから、子供の死など関係がない筈だし、ましてや作曲者の娘の死が作曲者に与えた影響を論じることが創造性の構成要素としての「引喩」に関わる筈がないではないか。そのレッテルの正当性についての議論を一先ず措けば、或る種の誤解に基づくにせよ「自伝的作品」といったような規定が為される類の音楽は、コープの定義する創造性からすれば最も縁遠いものの筈である。
だがコープのEMIによる模倣においてマーラーが単なるサンプルに留まらない或る種特別な地位を占めていることが、最終章である12章「美学」に至って明らかになる。この章の冒頭では、コンピュータが作曲したという知識が聴衆の作品の受容の態度を予め規定してしまい、まともに評価されないのはどうしてかについての検討が行われる。そこで例として取り上げられるのがEMIによるマーラーをタイトルロールに持つ「オペラ」の自動作曲なのだ。そしてそれが美学的インタラクションとどう関係するかは措いて、コープはオペラ「マーラー」についての説明を(コープ自身の並々ならぬ思い入れも含めて)延々と行い、その中のアリアの1曲についてはヴォーカルスコアではあるが、まるまる1曲全体の譜面を提示しさえするのである。ここでのコープの議論の進め方について気になる点を書き出し始めればきりがないことになるので、ここでは控えることにするが、例えば、
「(…)オリジナル曲とオペラ中のパッセージとを比べると、後者は引用というよりは言い換えに近い。私は通常このような模倣は好まないが、マーラー自身は好んで自作を引用したから、ここでは気にしないことにする。」(邦訳 p.366)
という一節を取り上げると、「引用というよりは言い換えに近い」模倣が、マーラー自身の(言い換えならぬ)自己引用によってどうして正当化されるのか、読み手は途方に暮れることになる。これだけなら単なる揚げ足取りの類と見做されてしまうかも知れないが、少なくとも私には、コープのようなアプローチを採ることと、その素材としてバロックや古典期のような一定の様式に基づく作品が職人芸によって量産された時代の作品ではなく、よりによってマーラーの作品を取り上げることの間には乗り越え難いギャップがあるように感じられる。
これも皮相な一例に過ぎないかも知れないが、歌劇場監督、オペラ指揮者としてあれほど優秀であったマーラーが、最初期の学生時代の試みと、ヴェーバーのオペラの補筆を除けばオペラの作曲を手掛けることが決してなかったことは良く知られているし、そのことの理由についても繰り返し考察されてきた事柄であり、コープ自身「彼自身オペラを作曲することはなかった」(p.365)と認めながら、そうしたマーラー本人をタイトルロールとしたオペラを、「自分自身の特別な好み」(ibid.)に基づき、「自分が聴きたかった」(ibid.)から作ろうと思いつくこと自体私には理解し難い。百歩譲って或る種のアイロニーとしてとか、或いは返す刀でオペラのコンセプト自体も脱構築する(これも前世紀ならともかく、21世紀の今日では今更な感じが否めないが)とかいう観点でもあれば別だが、何より決定的なのはそうしたオペラをよりによってマーラーの書法の模倣によって作ろうというのだから最早返す言葉がない。序でだからもう一言だけ言えば、これも物議を醸す材料に事欠かないマーラーにおける音楽とテキストの関係を知っている者は、コープが、
「コンピュータの作曲した曲に歌詞をつけるのは、興味ある挑戦である」(p.366)
と事も無げに言い出すのを目の当たりにしてあっけに取られてしまうだろう。
実はオペラ《マーラー》の存在自体については、楽譜が売られているのを見かけたことがあるので知っていたのだが、それがマーラーの様式模倣を行う自動作曲システムによる作品だということに気付かず、ここで初めて知って大変に驚いたのだった。かてて加えて既に触れたように付録としてつけられたEMIによる作曲リスト(pp.399-400)を確認する限り、マーラー作品の模倣は10作品にも及び、作品数だけとればバッハやモーツァルトを上回って最多であることがわかって更に困惑は深まるばかりとなる。
David Cope の歌劇「マーラー」のヴォーカルスコア |
既述の通りコープの主張には理解に苦しむ点が多々あるが、それについて理路を整えて批判する作業は後日を期することとして、ここでは(或る意味ではコープがそう望んでいる通り)、コープの語っていることではなく、自動作曲の出力そのものを聴取した印象を、しかもマーラーの作品の模倣、およびそれとの対比の目的で聴いたモーツァルトの作品の模倣に限って書き留めておくことにしたい。(実は個人的には模倣作品のリスト中にペルゴレージの名前があれば、多少はコープのことを見直したに違いないのだが、生憎ペルゴレージはコープの関心の対象外なようだ。大量の偽作やストラヴィンスキーの「プルチネッラ」のような事例を考えれば寧ろペルゴレージこそ格好の「ネタ」に違いないのにどうして?という気がするが、コープにとってはこういう事情は恐らく関心の外なのだと思う他ない。)
Amazonで確認した限り、本稿執筆時点でそのうちの7曲の楽譜が入手可能であることが確認できた。更には邦訳書の冒頭に記載の通り、著者のWebページおよびyoutubeの著者のアカウントでは、自動作曲システムを用いて生成した「マーラーもどき」の作品の幾つかを(全て断片ではあるが)聴くことができる。
参考までに、以下に『人工知能が音楽を創る 創造性のコンピュータモデル』の付録Aに記載されているマーラーの作品の模倣による作品を、2022年4月の本稿執筆時点で日本のAmazonで楽譜が入手できるかどうかの対応つきで一覧しておくことにしよう。以下で(*)が付されている作品は楽譜の入手が可能なようである。
- アダージョ Adagio, 弦楽オーケストラ, 8分
- 4つの歌 Four Songs, ソプラノ、アンサンブル, 28分 (*ピアノ伴奏版および室内アンサンブル版)
- 生と死の歌 Lieder von Leben und Tod , 独唱(複数)、オーケストラ, 25分 (*ヴォーカルスコア)
- オペラ《マーラー》Mahler (opera), 独唱(複数)、合唱、オーケストラ, 4時間 (*ヴォーカル・スコアおよび3分冊のフルスコア)
- オペラ《マーラー》(短縮版)Mahler (opera)(short version), 独唱(複数)、合唱、オーケストラ, 2時間
- 歌の交響曲 A Symphony of Songs, オーケストラ, 30分 (*)
- 管楽器のための組曲 Suite for Winds, 管楽8重奏, 40分30秒 (*)
- マーラー・カンティクル Mahler Canticles, 合唱、吹奏楽, 14分 (*ヴォーカルスコアおよびフルスコア)
- 3つの歌 3 Songs, テノール、ピアノ, 12分
- 3つの二重唱 3 Duets, 20分, アルト、テノール、合唱、ピアノ, 20分 (*)
「《大地の歌》という題名は、もしこの作品の内容がその並々ならぬ要求を正当化し、悲しみの真理によって大げささを払拭していなければ、新ドイツ派の「自然交響曲」や「生と死に関する高尚な歌曲」といった範疇との絡みが疑われるかもしれない。」(アドルノ『マーラー』, 邦訳 pp.197-8)
- ・オペラ《マーラー》に関するもの
- 間奏曲
- David Cope Emmy Mahler (6:43):David Cope's Experiments in Musical Intelligence Program's composition, an intermezzo from the opera Mahler, in Mahler's style.
- Mahler opera Emmy David Cope (2:59):Portion of an intermezzo from Mahler (opera) by Experiments in Musical Intelligence computer program created by David Cope.
- アリア
- Mahler opera aria Emmy David Cope (2:59):Portion of an aria from Mahler (opera) by Experiments in Musical Intelligence computer program created by David Cope.
- Mahler opera Emmy aria (2:04):Portion of aria from Mahler (opera) by Experiments in Musical Intelligence computer program created by David Cope.
- Mahler Opera Emmy David Cope (1:22):Portion of another aria from Mahler (opera) by Experiments in Musical Intelligence computer program created by David Cope.
- Mahler opera fragment Emmy David Cope (6:43):Fragment of an aria from Mahler (opera) by Experiments in Musical Intelligence computer program created by David Cope.
- 二重唱
- MAhler opera Emmy David Cope (2:07):Portion of a duet from Mahler (opera) by Experiments in Musical Intelligence computer program created by David Cope.
- 四重唱
- Mahler opera quartet Emmy David Cope (1:24):Portion of a vocal quartet from Mahler (opera) by Experiments in Musical Intelligence computer program created by David Cope.
- レシタティーブ
- Mahler opera recit Emmy David Cope (1:56):Portion of a recitative from Mahler (opera) by Experiments in Musical Intelligence computer program created by David Cope.
- 断片
- Mahler opera fragment Emmy David Cope (3:07):Fragment from Mahler (opera) by Experiments in Musical Intelligence computer program created by David Cope.
- 管楽合奏用編曲の断片
- Mahler opera emmy frag (4:09):Fragment From the Experiments in Musical Intelligence opera Mahler arranged for wind ensemble by David Cope.
- ウィンド・オーケストラ版(?)
- Mahler Emmy Opera (4:17):From Mahler's opera for Wind Orchestra by David Cope's Experiments in Musical Intelligence.
- アダージョに関するもの
- Mahler Adagio Emmy David Cope (1:57):Mahler Adagio for Strings fragment by Experiments in Musical Intelligence (Emmy) programmed by David Cope.
別段それを誇るとかいうのではなしに、交響曲だけではなく、歌曲についても子供の頃から繰り返し聞いてきたが故に、私はマーラーの作品はほとんどすべて(完璧に暗譜しているわけではないにせよ、不完全ながら頭の中で概ね再生できる程度には)記憶しているので、ある部分のネタがどの作品なのか嫌でも気づいてしまう。これがモーツァルトとかだと、私が知らない作品、聴いたことがない作品、聴いたことを覚えていない作品もたくさんあり、かつモーツァルト自身にも他者の様式模倣のような作品が少なからずあるので、そういう意味では「らしさ」を感じる余地が相対的にはあるのだろうが、やはり「劣化した」モーツァルトにしか聞こえない。古典期の忘れられた作曲家の作品だと言われたら、そうかなと思ってしまう程度の出来のものはあるように思うが。だがマーラーに関してはそうではない。そもそもマーラーは自己引用はしても様式的な自己模倣というのとは最も縁遠い作曲家で、言ってみればどの曲も他の曲と似ておらず、それぞれが特殊なものなのだ。だからコープがやっているようなアプローチはそもそもマーラー的ではない。時折、ある交響曲が先行する交響曲の二番煎じであるという批判があるにしても、それはよりマクロな構想に関して言われるのであって、個別の楽曲の様式の水準においては既成の自分の作品に似た作品というのをマーラー自身が決して書かないので、ここで行われているような模倣そのものが、そもそも着想の時点で非マーラー的に思えてしまうということなのだと思う。(岡田暁生は『音楽と出会う 21世紀的つきあい方』, 世界思想社, 2019において、AIによる自動作曲に一章(第7章 AIはモーツァルトになれるのか?)を割いて音楽学的な観点から批判をしている中で「偉大な芸術家は絶対に自分のコピーはしない―これをどれだけ強調してもしすぎではない」(p.166)と述べているが、少なくともマーラーに関しては、私はその見解に全面的に賛成である。)
それ以外にも、恐らくコープがそれによってマーラーに似せることができる、あるいはできたと思っているに違いない特徴は、私に言わせると確かに表面的にはある作品のある部分に実際に存在するけど、だけれどもそれを使ったらマーラー的に聞こえるというと全くピント外れに思えるのだ。素人が偉そうにとは思うけど、私にはコープは、マーラーのマーラーたる所以が全く分かっていないとしか思えなかったというのが正直な印象である。
勿論、こうした印象が私の方が間違っているせいで生じている可能性もあり、コープのマーラー作品の模倣に接した他の人の印象がないかと思って少しだけ探してみると、日本語で読めるものとしては、以下のような記事が確認できた。
森田浩之「ヒトの知能とキカイの知能」⑧ (https://www.jihyo.co.jp/topics/hitonotinoutokikainotinou8.html)
ここで参照されている「マーラースタイル・アダージョ」は、付録Aの作品目録より判断する限り、弦楽合奏向けの8分程の長さのアダージョと思われるが、それに対応すると思われるyoutubeの2分程度の長さを持つ音源を聴く限り、上掲記事にある「交響曲第9番の第4楽章を基礎にした別の曲」ではなく第3交響曲第6楽章のアダージョに基づく模倣にしか私には聞こえない。(以下に現時点でアクセスできるyoutubeのコンテンツのURLを再掲しておく。)
Mahler Adagio Emmy David Cope (https://www.youtube.com/watch?v=oPcaGlaROjA)
この点について現時点で考えられる可能性としては、上掲記事が参照しているものと、現時点でyoutubeに公開されているもののいずれもが8分程ある長さの作品の一部ではあるけれども、作品中の異なった部分である可能性があるだろう。第3交響曲第6楽章と第9交響曲第4楽章のキメラと言えば人間には想像もつかないが、プログラムにとってはそうしたキメラの合成が難しくないことは、例えばホフスタッターが『ゲーデル・エッシャー・バッハ』の中で紹介している(邦訳 pp.596~7)人工知能による自動作曲のごく初期の成果、即ちマックス・マシューズが作成したプログラムが「ジョニーが凱旋するとき」と「イギリス擲弾兵」を入力として出力した「作品」等によって良く知られていることであろう。せめてアダージョのスコアが入手できれば確認ができるのだが、残念ながら既述のAmazonで購入可能なスコアのリストにはアダージョは含まれないので、ここでは推測に留める他ない。
だがその点を措けば、局所的な素材だけとれば「そのまま」だけれども、全体としては如何にもAIが生成したらしい、みすぼらしい継ぎ接ぎにしか聞こえないという点や、にも関わらず、もし知らない人が聴けば本物との区別がつかない可能性を否定しない点も含めて、上掲記事の著者と私とは概ね似たような印象を受けたものと想像される。
なお上掲記事では第10交響曲の別バージョンを機械に作らせたらというアイデアも披露されており、この点について既に私自身、後述の通り、過去に書いてWebで公開している幾つかの記事の中で、特にスタニスワフ・レムの「ビット文学の歴史」(『虚数』所収)を参照にしたりしつつ何度か取り上げていることもあって、大筋において首肯できるものがある。(但し上掲記事では、「横」=メロディー、「縦」=オーケストレーションとした上で、デリック・クックによる補筆完成の経緯を踏まえた説明が為されているが、ここでオーケストレーションという言葉で包括されているものの実質は、アドルノがマーラー・モノグラフ第2版の後書きに記した通り、寧ろ和声づけおよび対位法的な補完であることを指摘しておきたい。無論のこと管弦楽法についてもマーラーの断片的な指示に基づく補完作業が行われたのは事実だが、クックの補筆の寄与の最も大きい部分は垂直方向の和声と対位法の次元の補完であり、だからこそクック版とカーペンター版やホイーラー版といった他の補筆完成版との相違が顕著になるのがその次元なのだし、他方でアドルノ他の論者が第10交響曲の補筆完成を不可能と判断した理由も、まさに垂直方向の和声と対位法の次元の補完をマーラー本人以外が行うことを越権と見做したが故の筈なのである。)
既述の通り、実は私自身、第10交響曲の人工知能による補筆の可能性について、過去の記事において何度か触れているのだが、その度に繰り返し、その結果に対して悲観的であることを記してきたのだった。一つだけ例を挙げるならば記事「第10交響曲への言及1件(アルフ・ガブリエルソン「強烈な音楽経験による情動」)」(https://gustav-mahler-yojibee.blogspot.com/2019/07/101.html)においては以下のように記したのであった。
(…)今日の展望からすれば、例えば第10交響曲の補筆をAIにやらせたらどうなるのか、というような問いを立てることができるだろう。かつてスタニスワフ・レムは「ビット文学の歴史」において、ドストエフスキーの翻訳をしていたコンピュータが、空き時間を使って、「未成年」と「カラマーゾフの兄弟」の間を埋める「ありえたかも知れない」作品を産み出すといった状況を提示してみせた。加えて、カフカの「城」の未完成部分の補完には失敗したという「オチ」さえ用意しているのだが、それらに比べれば、ほぼ完成した第1楽章があって、その他の楽章も粗密はあっても水平的には最後までドラフトが遺された作品の補完作業は遥かに可能性が高そうに見えるかも知れない。おまけに今なら、クック以外にも存在し、かつますます増え続けているかに見える様々な補完のヴァリアントを機械学習の素材とできるわけである。既に機械学習技術が、バッハのコラールもどきを人間を騙せる程度にまで自動生成できるのであれば、遥かに長大で複雑な作品であっても、様々な補完作業の良いとこ取りなら技術的に不可能とは言えないだろう。完成された部分は遥かに多くても、フィナーレのコーダが全く欠落し、かつフィナーレのための試行錯誤に費やされた余りに長い時間故に、先行する3楽章との間に様式のギャップが生じてしまっているかに見えるブルックナーの第9交響曲に比べても、有利な条件は揃っていそうではないか。
だが、現状の機械学習の能力を前提にする限り、その試みは大して興味の持てる結果をもたらさないであろうことは、予め決まっているのだ。それは、最大限に成功して、極めて巧妙な折衷に過ぎないのだ。もしかしたら、過去のマーラーの作品の側により引き摺られた結果が得られる可能性はあるだろうが、マーラーその人が切り開きつつあった「未来」の方向に踏み出した結果が得られることは、原理的に言ってあり得ない。マーラー以降の様々な傑作をサンプルとして与えたところで、それはマーラーの「ありえたかも知れない未来」とは無縁のものであり続けるのは明らかなことだ。古典派以前の、作曲家が音楽職人であり、消費財としての作品を、固定化されたパターンを再利用して、コピーするようにして生産する時代であれば事情は異なるだろうが、(今は価値の優劣は一先ず措くとして)マーラーのように一作、一作毎に発展し続けた作曲家においては最後の作品が目指していた「未来」が含み持つ、未聞の「新しさ」の理解抜きに補筆はあり得ない。そして「新しさ」と「例外」の区別は、つまるところ創造性は、少なくともシンギュラリティの手前の現時点では未だに「人間」のものであるようだ。レムの「ゴーレムXIV」におけるゴーレムやオネスト・アニーの「旅立ち」は未だ暫らく先のことだし、有性生殖と有限の寿命といった生物学的な拘束条件を持たない彼らにとっては、そもそも第10交響曲の「遠く」など全く無縁のものだろう。(…)
AIがクラシックの巨匠と肩を並べた? マーラー未完の曲を「完成」2019年9月10日 14:34 発信地:リンツ/オーストリア(https://www.afpbb.com/articles/-/3243774)
日本語で読める記事としては、音楽之友社のサイトの類家利直さん執筆の以下の取材記事が確認できた。
メディア・アートの祭典「Ars Electronica2019」レポート:AIが学習し、再現するブルックナー、マーラー、グレン・グールドたちを観る(https://ontomo-mag.com/article/report/arselectronica2019-20191211/)
Ars Electronicaと言えば、メディアアートの世界的なイベントとして有名で、本ブログの姉妹ブログで紹介している三輪眞弘さんが2007年にデジタルミュージック部門の最高賞であるゴールデン・ニカ賞を受賞していることもあって、決して疎遠な世界ではないのだが、よりによって2年前の2019年のArs Electronicaでこのようなことが行われていたことにようやく気づき、汗顔の至りである。これもまた本来ならば気づいてすぐに紹介すべきところ、デイヴィッド・コープのマーラー作品の模倣の紹介ともども多忙に紛れて1ヵ月以上が経過してしまった。
いずれについても備忘がわりの覚え書で済ませるような内容ではなく、そもそもが上に自己引用した私の見解を検証する格好の素材なのだから、機会があればいずれ改めて取り上げたいが、現時点では調べた限り、演奏の断片的な映像を除けば、人工知能が補作した作品を聴いて確かめることはできないようでもあり、最後にArs Electronica自体の紹介ページ(英語)とブログ記事(ドイツ語)へのリンクを紹介して覚え書を一旦終えることで当座の責めを塞ぐこととしたい。
Mahler-Unfinished(https://ars.electronica.art/futurelab/de/projects-mahler-unfinished/)
Mahler-Unfinished : Wenn Mensch und Maschine Musik machen
(https://ars.electronica.art/aeblog/de/2019/09/02/mahler-unfinished/)
[付記]本稿の内容とは直接関係ないが、『人工知能が音楽を創る』における創造性についての議論の中で非常に気になる記述があるので、備忘のためにここで指摘をしておきたい。以下に引用する記述は第2章背景の先行研究の節の冒頭の部分である。
「創造性研究の歴史はたいてい上下二院制(原文では点による強調)の精神から始まる。上下二院制の精神とは、我々の精神は2つの部屋から成るという初期ギリシア時代の概念である。一方の部屋は、ムーサの神々を通して創造の神によってもたらされる新しいひらめきを創り出す部屋と考えられた。ムーサの神々とは叙事詩のカリオペ―、歴史のクレイオ、愛詩(原文ママ)エラト、音楽と抒情詩のエウテルペ、悲劇のメルポメネ、神々への讃歌のポリヒュムニア、舞踏のテルプシコレ、喜劇のタレイア、天文のウラニアの9人の女神を指す。彼女らは超自然的イノベーションを起こし、それをもう一方の受動的な精神の部屋に注入する。面白いことに、プラトンはこの新しいひらめきを創り出す部屋を狂気の源として、つまり高度な創造性は狂気と表裏一体であると考えていた。しかしアリストテレスは、連想説(原文では点による強調)として知られるプロセスをもって上下二院制の考え方に反対した。一般に、連想説は、創造的な思考を無意識あるいは潜在意識化の連想として特徴づけるものである。アリストテレスの見方では、思考とアイデアの結びつき、イメージと経験の結びつき、原理と方式の結びつきから類推が導かれ、それがさらに創造的な思考法を生みだすとされている。」(邦訳pp.45-46)
そして連想説に関する考察の参考文献として、John S. Dency & Kathleen H. Lennon, Understanding Creativity, San Francisco, Jossey Bass, 1998のpp.15-41を示しているのだが、上記の記述は、本ブログの記事でも何度となく参照してきたジュリアン・ジェインズの<二分心>(bicameral mind:二院制の心)の仮説を想起させずにはおかない。但し、ジェインズの仮説はあくまでも近年の心理学や脳科学の知見と言語学・考古学的な傍証に基づいた、神の住まう部屋が右脳、それを受け取るのが左脳であるとするジェインズ自身の仮説であるのに対して、ここでは初期ギリシアにそういう概念があったと述べられている点が異なる。(ちなみにジェインズは、そういう概念が初期ギリシアにあったというように述べてはいない。)連想説についての文献は掲げられているが、上下二院制の精神に関する参考文献の指示はないこともあり、どこまで追跡できるかはわからないし、この点がコープの創造性についての主張と直接関係を持つわけでないが、機会があれば更に調べてみたい。
[付記その2] John S. Dency & Kathleen H. Lennon, Understanding Creativity, San Francisco, Jossey Bass, 1998を取り寄せて確認したところ、第2章 A brief history of the concept of creativityの最初の節(p.16)の見出しがずばり The Bicameral Mind であり、それがジュリアン・ジェインズの命名であること、学術的な仕方でこの見方を取り上げたのがジェインズが最初であることが明記されているのを確認できた。詳細については別途報告するが、取り急ぎ現時点で確認できたことを報告しておくことにする。
(2022.4.10暫定版公開, 4.11付記を追加, 4.13付記その2を追加, 4.24作品リストなど追加。5.9 作品のタイトルについてのコメントおよびyoutubeで聴けるサンプルの情報を追記。5.14,16 「模倣」に関する箇所に対して参照文献についての情報を付記した上で補筆)