2021年5月9日日曜日

第3交響曲が私に語ること(2021.5.9 マーラー祝祭オーケストラ第18回定期演奏会によせて:初期稿)

第3交響曲はマーラーの音楽の特徴が様々な側面で最も顕著に表れた作品であるといって良いだろう。この作品に限れば後付けの説明ではなく、複雑な変遷を経て1902年のクレーフェルトでの初演のプログラムにその最終形が掲載された標題のみならず、マーラー自身の書簡、ナターリエ・バウアー=レヒナーやブルノ・ワルターの回想等に残された証言も豊富であるが故に、この作品は、マーラーの作品を巡ってしばしば生じる、音楽の実質から遊離した言説の最大の被害者であると同時に、音響外の要素を一切捨象して最終的な音響態のみを自律的、自足的なものとして取り出そうとする姿勢の抽象性を暴き立てるという点で最も雄弁な証言者でもあろう。更にマーラーの交響曲の形式的な面での伝統的な交響曲形式からの逸脱の具体的な様相として思い浮かぶ、作品の長大化、楽章数の拡大、「部」(Teil)という階層の導入、楽章間の長さのコントラストの拡大、管弦楽編成の拡大、特殊楽器の使用や声楽の導入、そして空間的な次元の導入(舞台裏や「高いところから」といった指示)といった特徴の悉くが当て嵌まるこの作品は、それが生まれた時代にほぼ今日の姿になった巨大なコンサートホールでの演奏会という制度の中で、その可能性を極限まで追求した試みという見方もできるだろう。2部6楽章からなる重層的な全体構想における楽章間の調的な配置、そして各楽章の構造、中でも巨大で複雑な第1楽章の構造については、規範からの逸脱という見方ではその独創性を汲み尽くし難く、安易な分析を受け付けない。

調的な構想について見ると、「夏の朝の夢」という標題とともにヘ長調という調性を記された草稿が遺されているかと思えば、ニ短調としているオスカー・フリート宛書簡もあり、全体の調性がニ短調かヘ長調に関して諸家の意見は分かれるようだ。実際、第1楽章はニ短調で始まりヘ長調で終わり、イ長調の第2楽章の後、第3楽章はハ短調だがポストホルンの長大なエピソードはヘ長調、続く第4楽章はニ長調、第5楽章はニ短調のエピソードを持つヘ長調であり、第6楽章に至ってニ長調となるのであり、ヘ長調とニ長調の葛藤・対立があって、フィナーレではニ長調が主調として確証されるという構想が読み取れる。そこから逆算するように第1楽章は提示部末尾で一旦ニ長調に到達しながら、末尾のみならず楽章全体としてもヘ長調が優位であり、最初にトニックとして確立されたかに見える調性が実はドミナントであったというサブドミナント方向への三度関係の動力学が読み取れよう。

作品の成立過程については、構想上の紆余曲折を経て、フィナーレとして、アドルノの言う「充足」カテゴリのアダージョを持ってくることにより、いわゆる「フィナーレ問題」に回答を与える見通しがついた地点に至って、それまでに書かれていた楽章すべてを第2部とし、第1部として、それと釣り合う破格の規模を持ち、当初は2つの別々の部分として構想された序奏とソナタ楽章本体を一つに融合した第1楽章を持ってくるという構想が定まったと考えることができるようだ。そして「フィナーレ問題」の解決とともに、当初の構想の要石であった歌曲「天上の生活」がはみだしてしまい、そちらは第4交響曲として別に作品化されることになる。マーラー自身が弄り回した挙句、昇ったら不要になった梯子のように 最後には放棄してしまったとはいえ、様々なバージョンが遺されている標題の変遷過程は、完成した狭義での第3交響曲についてのそれではなく、こうした動的で流動的な創作過程の軌道の痕跡であり、最終的な2部6楽章の形態を、結果として第4交響曲のフィナーレに収まった歌曲をフィナーレとする構想のような幾つかの疑似的なアトラクタを経て辿り着いた不動点と捉えることを要求しているようだ。

第1楽章はその調的プロセスから、序奏が埋め込まれ、行進曲を主部とするソナタと捉えることができるが、それは、やはり第1部としてこちらは強い素材連関を持つ独立の2つの楽章を擁する第5交響曲、序奏が埋め込まれ、行進曲を主部とするソナタという構想をフィナーレに適用した第6交響曲を経て、序奏が回帰しつつ2つの対比的な主要主題が変形を繰り返す側面がソナタ形式を内側から圧倒してしまう第7交響曲の第1楽章を通って、第10交響曲のあの無比の構造を持つアダージョに至るマーラーの絶えざる試行の最初の一里塚ともいうべき成果であり、創作の巨大な過程の一部として捉えることができるであろう。

更に書簡や回想等に遺された言葉から窺えるのは、マーラーが音楽によって「ひとつの世界を構築」しようとしたことと同時に、何物かに命じられて書きとらされるかのような姿勢をもっていたことである。ここで注意すべきはベクトルの向きで、 稚拙な標題にしてからが「~が私に語ること」であり、作曲する「私」が聴き手の立場になっていることである。 マーラーの音楽を単純に主観的な独白と見做すのは、それを世界観なり思想なりの表明と見做すのと同様、実質を損なう捉え方で、作曲する主体と作品との関係についてロマン主義的な単純化した見方をしている点では共犯関係にある。際立って意識的な人間だったマーラーは、そうした点に自覚的だったようだし、作品が常に 自分をはみ出していくことについても充分に意識的であったようだ。であってみれば、大言壮語の類として片付けられがちな「君はもう何も見る必要はないのだ。僕が音楽に皆、使い尽くし、又、描き尽くしてしまったのだから」というワルターに向けた言葉についても、そこに自然に対する芸術の優位を主張する芸術至上主義的な傲慢さよりも、音楽作品の在り方の不思議さこそを見るべきなのではないか。作曲はマーラーにとって「神の衣を織ること」であったが、だとしたら音楽作品は「神の衣」であり、「ひとつの世界」は閉じた自足的な全体ではなく多世界の中の「ひとつ」であり、複数の可能世界の中の一つのバージョンと考えるべきだろう。

マーラーの作品群はしばしば連作として捉えられるが、第3交響曲は、それ自身には含まれない集積点の如きものとして、自らの外部に第4交響曲のフィナーレである歌曲「天上の生活」を持っている。独立した作品でありながら単純な作品の内側と外側という図式に収まらない内部構造を持ち、かつそれが作品の外部にも繋がっているというクラインの壺のようなトポロジーによって、「作品」を箱庭の如きものとして外部から眺めるのではなく、「世界」に対してそうであるように「作品」の中に棲み、内側から眺めることを求めているかのようだ。第3交響曲のような多元的・重層的な作品はそれ自体多重の時間の流れを含み持っているが、聴く「私」もまた別の時間の流れの一つであり、聴取によって複数の層の間の干渉・同調・引き込みが起きる。「作品」は仮想現実であり、「世界」のシミュレータなのである。聴取の行為は「世界」の経験のシミュレーションに他ならず、そうすることにより我々もまた、マーラーがそうしたように「世界=作品」の「語ること」に耳を傾けるのである。そしてそれは、マーラーがそう意図したように、世界の構築に、「神の衣を織る」ことに通じるのである。演奏者も聴き手も、交響曲という「世界」の多元性を、事後的な結果としてではなく、まさに今・ここで生じている「出来事」として経験すべきなのだ。作品は、それが生み出された時代の文脈から逃れられないけれど、時代を通じて継承されることにより存続する。そのためには新たな聴き方を可能にする新たな文脈を聴き手が用意する必要があるのではなかろうか?

だとしたら、今、第3交響曲が我々に語ることは何だろうか?

それを考える上で、マックス・テグマークが汎用人工知能について語るフレームとして提示したLife3.0を取り上げてみよう。するとマーラーの時代は、まずもってLife1.0に関する今日的な認識の基本が形成された時代であることに気づく。例えば伝染病の流行が珍しいことではなかったことはマーラーの伝記を紐解けばすぐにわかることだ。コッホによるコレラ菌の発見は1884年であり、今日当然のこととされる、細菌が伝染病の原因であるという認識すらまだその確立の途上にあった。その一方でLife2.0は生物学的な「ヒト」ではなく、ジュリアン・ジェインズのいう「二分心」の崩壊以降、レイ・カーツワイルの言う「シンギュラリティ」以前のエポックの存在様態を指していると解釈するならば、それは「ニーチェ」が「神の死」という形で言い当てた「隠れたる神」の時代に生きる存在ということになろう。

勿論そのことがマーラーの創作に直接影を落としているわけではないが、第3交響曲のフィナーレが「私の傷を見てください」というモットーを持つことを思えば関連は明らかだし、のちに長女を亡くす原因やマーラー本人の死因にしても今日ならペニシリンで治療可能であることも含め、一世紀経って進歩はしたとはいえ、今まさに新型コロナウィルスの猛威に晒されていることを思えば、相変わらず状況には変わりなく、二分心以降・シンギュラリティ以前という同時代にマーラーも我々も生きていることを再認させられずにはいられない。

してみれば第3交響曲はLife1.0の誕生からLife2.0の先までの展望―そこではLife3.0は、Life2.0の人間に続くものとして天使や神として形象化され、子供や超人もまた含まれている―を示したものであり、今ならLife2.0が産み出したシミュレーション・ソフトウェアの設計図と見做すことができるだろう。それを思えば、マーラーの作品の中でも優れて第3交響曲は、自分の生きる世界にどう向き合うか、どのように認識し、感じ、行動し、変わっていくのかについて示唆を与えてくれる存在ではなかろうか。

新型コロナウィルス禍において、ウィルスというLife1.0の手前にある存在が、Life3.0への越境へと向かいつつあるLife2.0たる人間の持つ基本的な性向である社会性、模倣し共感し協力する性向に襲いかかり、集い、役割分担することで新たな「現実」を生み出し、今・ここで生じている「出来事」として共有することを妨げ、未来を目がけて構築したもう一つの現実としての「作品」の上演と継承を困難にしてしまった。とりわけてもこの第3交響曲の上演には、巨大なコンサートホールの舞台に溢れんばかりの大編成の管弦楽に加え、独唱と児童合唱、女声合唱が必要であり、更にまた客席を満たす聴き手が必要であることを思えば、公演の度重なる延期は、まさに我々が置かれた状況を最も雄弁に証言するものであり、無作為ではなく、存続に向けての抵抗の一つのかたちであろう。であればこそ、今、ここで第3交響曲が上演されることの意義は大きい。第3交響曲は、このような状況の下で聴き手の一人ひとりがそれぞれ「~が私に語ること」に耳を傾け、自分が受け止めたものを語り、行動することへと私たちを誘っているように私には思われるのである。(2021.3.17)

[後記]上掲の文章は 2021年5月9日のマーラー祝祭オーケストラ第18回定期演奏会のプログラムに寄稿させて頂いた文章の初期稿です。諸般の事情により公演に立ち会うことが叶わず大変に残念でしたが、そのことのお詫びとともに、初期稿の掲載を以て、書き記すことができなかった演奏会の記録のせめてもの替わりとし、今回の公演が目下の困難な状況の下で実施されたことに対する敬意の表明とさせて頂きたく思います。(2021.5.9)

マーラー祝祭オーケストラ(音楽監督・井上喜惟)第18回定期演奏会(2021年5月9日)