マーラーとハイドン。ウィーンで活躍した交響曲作家という点では共通しても、それ以外にこの2人の作品に接点を見出すことは難しいように思われる。前古典期のマンハイム楽派のような先蹤はあるにしても、交響曲という形式が、長きに亘るハイドンの創作期間の中において、数にして100曲を超える作品を通して行われた様々な実験を経て完成されたという見方には一定の正当性はあるだろう。ハイドンはその創作期間のほとんどをハンガリーのエステルハージ侯爵の宮廷で過ごし、若き日を過したウィーンに戻ったのはようやく1790年代の初めのことだが、それ以前にもウィーンを訪れており、多大な刺激を受けた年少の天才モーツァルトとの出会いもウィーンにおいてであり、彼の交響曲創作の掉尾を飾る有名なザロモンセットは、その後にザロモンの招聘を受けて実現した2度のロンドン訪問のために書かれた作品であるから、彼の交響曲創作の頂点をウィーンという場所に結びつけることにも正当性はあろう。注意しなくてはならないのは、人の呼ぶ「交響曲の父」の創作の頂点をなす最後の作品の幾つかは、彼がロンドン訪問を決めると間もなく、第1回の訪問中の1791年12月に世を去ってしまうモーツァルトの没後に書かれた作品だということである。パリセットに刺激を受けたとされるモーツァルトの早すぎる晩年の傑作群に、今度はハイドンが刺激を受けるという往還を経ての到達であり、その後マーラーに至るまで1世紀に渉って試みられる様々な試行の先蹤となったベートーヴェンを前にして、彼等2人の手によって、古典派の交響曲は完成を見ると考えられてよいだろう。実際、ザロモンセットの第1期に含まれる変ロ長調の交響曲第98番は恐らくモーツァルトの死を知った直後の1792年初頭に作曲された作品だが、そこにはモーツァルトへの追憶が含まれると言われているし、翌1793年に戻ったウィーンで書かれた、第2期の最初を飾る変ホ長調の第99番におけるクラリネットの採用とともに、その序奏から同じ変ホ長調のモーツァルトの交響曲第39番のエコーを聞き取ることはそんなに突飛なこととは言えないだろう。
そして間違いなく彼の交響曲の中の頂点をなす交響曲第104番は1795年に旅行先のロンドンで作曲され、その年の4月ないし5月に同じロンドンで初演されたのである。(100年後のマーラーはその前年のハンス・フォン・ビューローの死を契機に年末に、彼が初めて交響曲として完成させたハ短調の第2交響曲を完成させ、1895年3月の最初の3楽章の試演を経て、12月には全曲初演に漕ぎ付けることになる。)既にフランスでは革命が起きており、その影響で歌手を大陸から招聘することが困難となってザロモンのコンサートは最終年に至って中止を余儀なくされ、それに替わって組織されたオペラ・コンサートがハイドンの最後の3曲の交響曲の発表の場となったのだが、その最後を飾る作品を聞くと、時代を超えた天才であるモーツァルトの作品とは異なって、まさに時代が産みだした、だが同時代の限定を超えて、そこに至るまでの西欧の伝統が達成した最高の音楽的知性の成果物を目の当たりにしているような感覚に捉われる。
ハイドンの場合は当時の趣味に合わせた側面というのが確実にあって、パリセットや第1期のザロモンセットが熱狂的に受け入れられたのはそういう側面が強く出ているからだと思われる。そしてそれゆえの限界というのがあるように思え、私見ではそれがザロモンセットの第1期の作品が外面的な効果とは裏腹に稍もすれば退屈に感じられてしまう理由なのだ。勿論それは別段とがめだてされるような側面ではなくて、実際第1期を第2期と同様に評価する向き、あるいはパリセットを或る意味で高く評価する人もいる訳だが、私はそれには与しない。当時はまた、ハイドンの亜流というのも大量生産されたわけだが、それはハイドン自身の発展と達成とは全く無関係の単なる後追いであり、流行の様式に過ぎず、ちょっと聞くと耳に快いけれど、さっぱり面白くない。21世紀の今日なら、AIによる自動作曲がそのレベルの作品であれば産み出しうるだろう。だが、モーツァルトの天才のみが達成できた「例外」は勿論、ハイドンの第104番のような作品も、現在のAIが(模倣することは可能であっても)創り出すことは不可能である。その作品によってのみようやく到達でき、実現した何かは、統計的には天才の「例外」に等しいから、それっぽい亜流のもどきを幾ら大量に作れても、偶然にそれを産み出す確率の低さは宇宙論的なレベルなものとなってしまう。第2期のザロモンセットの初演時には第1期の時程の熱狂はなかったということだが、それは丁度、ある時期のモーツァルトが大いに流行って、でも晩年に行くにつれて、そうでもなくなっていく、今聴いても、こんな音楽がいわば「消費」の対象として流行るわけはないと思ってしまうようなものになっていくのとの並行性を認めることができるだろう。
特にパリセットには顕著に感じられ、第1期ザロモンセットにも明らかに見てとれるのは、実のところハイドンの職人としての非凡さ、その創意の比類ない豊かさの発露に外ならないのかも知れない。委嘱元の管弦楽の編成や技量、聴き手の質や嗜好を踏まえた上で、聴き手を驚かせ、感動させるような工夫がそこかしこに見られ、楽式上の意外性の追求や、大胆な転調の頻出などにこそ、ハイドンの非凡さを見い出し、こちらにこそその本領を見出す見方にも分があるだろう。だが、もしそうならば、いわゆる「疾風怒濤期」の実験についてはどうなるだろうか?突飛な比較に見えるかも知れないが、ブルックナーの初期(といってもそれはハイドンの円熟と同様、50歳を超えてからの成果だが)の交響曲の改訂前の形態の方により多く独創性を、更には或る種の前衛性を見出すこととの並行性を見出すことができるように思われるのだが、私がパリセットや第1期ザロモンセットに感じる退屈さは、ーこれもブルックナーの場合と並行する面があるように感じられるがーまさにそうした創意の或る観点から見た場合の過剰に由来するのではないか、それが抑制されずに発揮されていることにあるのではないかという感じを持つのだ。そして第2期ザロモンセット、中でもその掉尾を飾る104番から受けるのは、それらとは位相を異にする、創意が別の秩序に対して奉仕するかのように、より高度な秩序の裡の調和の形成を目がけて、寧ろ抑制されて用いられているかの如き印象なのであって、それが「完璧」と形容する他ないような質を実現しているように思われるのである。それは最早、最初の一度の、或いは一期一会の驚異を目がけているのではなく、反復の度に累乗される充実を、揺るぎなさ、人間的な地平を超越した無限の可能性を目指していて、それが104番を聴く時に、ここにおいて何か例外的なことが達成されていると感じる理由であると言えば、その一面の説明になりえているだろうか?或る意味ではパリ・セットから第1ザロモン・セットまでの達成は、生物学的基盤の上での社会的知性の延長線上で説明しうるものであったのに対し、第2ザロモンセットに至って、そうした進化論的な基盤を離れ、効用の観点からすればもしかしたら「パンケーキ」(ピンカー)としか捉えられないような領域へ、ドイッチュの言うところの「無限」への飛躍を試みたと言ってもいいのかも知れない。
104番のような作品の完璧さもまた消費にはそぐわないし、ハイドン自身もそれはわかっていたのではなかろうか。第1期の時と違って、もう受けを狙うといった側面は、そもそも古典派のスタイル自体がそういう側面を初めから持っているが故に皆無という訳ではないにせよ大幅に後退していて、何か只管に神様が恵んでくださった才能を、それに相応しく行使することに専念しているといった趣さえ感じるのである。ハイドンのスコアをUrtext で見ると、 In Nomine Domini とか Fine Laus Deo といった言葉が付されているのを確認できるが、それが単に個人的な信仰心の発露を超えて、まさに作曲がそうした行為遂行であったことの証言として読むことができるように思う。こういうことが出来たことを本当に羨ましく思う一方で、そうした人が200年前の異郷の地にいて、その成果物を手に取ることができることは何と素晴らしいことかと思わずにはいられない。
それは寧ろニュートンの発見であるとか、ハイドンの同時代人といって良いカントの批判哲学のようなものに接した時の感動に近い。よく科学は、誰かがやらなければ他の人がやったという意味で、芸術とは異なると言われて、確かにモーツァルトとかマーラーについてはそうだと思う一方で、ハイドンはそういう意味では例外に近いのかも知れない。とはいえ、結局、彼が到達したのだし、そういう彼にしか104番のような完璧さは実現できなかった、それは逆に、或る意味で畸形的な側面のある天才にはできないことではないかとも思う。何かの場面を描写したり、風景を喚起するのではなく、特定の感情を呼び起こされるいうよりは、純粋な形態とリズム、運動と色彩の変化を追っていくうちに感じ取る深い愉悦の感覚は、絵画でいけば抽象絵画から受けるそれに近く、第104番こそは西欧の音楽的知性の頂点の一つと呼びたいように思うのである。それが200年の時間と地球半周分の場所の隔たり故の、聴く私の側の伝統の不在によるものであるとしてもそれは変わらない。そもそも哲学であれ文学であれ、或いは科学でさえも、私はそのように西欧のものを受容してきたのであって、普遍性と云う言葉は今やその使用に限りなく慎重であるべきだとしても、時代を超え、場所を超えた知性の働きをそこに見いだせるという事情に変わるところはない。
ハイドンには第104番以外でもそうした方向性を感じさせる作品の系列というのがあって、私見では、同時期の作品では第99番、第102番(と、その愛称が故に誤解されてしまっているが、その愛称の根拠となった当の第2楽章を除けば、第101番も)がそれに該当するし、少し遡って、エステルハージ宮廷の楽団員であったトストへの餞別として書かれた第88番あたりがそういう方向性での完成の画期であったのではないかと思う。99番は既述の通り変ホ長調、102番は98番に続いて変ロ長調で、これらは(色聴の私にとっては)金色から乳白色の暖色の色彩が実に美しいのに対し、ト長調である88番は色彩があまり感じられないこともあって、特に抽象度という点では際立っているように思われるのである。
ところで交響曲という形式を作り上げる途上で、ハイドンは様々な実験を行っているのであって、到達点のみを見て、それに先行する試みを過渡的なものであったり、登ったら捨ててしまわれる梯子のように見做すのは適切ではないだろう。勿論、104番の達成したものの高みは比類ないものであったから、作品の完成度のような尺度で、若き日の作品を比較の対象としておいて価値の転倒を試みるような近年の研究の動向は、意図は理解できても最終的には首肯しがたいものがあるし、若き日の作品の中には実験に留まった印象のものも含まれるけれど、比較を超えた固有の価値を見出しうる作品を見出すこともまた可能であろう。
後期交響曲の中で先ず思い浮かぶのが当時流行のトルコ軍楽を取り入れたとされる第100番「軍隊」であろう。大太鼓、トライアングル、シンバルといえばマーラーの作品の中ではお馴染みの楽器だが、それだけではなく、トランペットのファンファーレまで取り込まれているし、ト長調という調性にも関わらず、マーラーならば寧ろ第5番とか第6番を思わせるような、行進曲というものが持つある種強制的な性格をふと感じさせるかと思えば、あまりにコントラストが強すぎて深読みを誘う向きもあるメヌエットと、そのポピュラリティにも関わらず一筋縄ではいかない作品だ。マーラーのト長調交響曲である第4番を聴いて、さるウィーンの批評家が「それはあたかも白いかつらをかぶったパパ・ハイドンが、自動車に乗って、ガソリンの煙の中、我々のそばを通り過ぎるかのようだ」と評したらしいが、全く違う性格の作品とはいえ、ハイドン自身の実験精神は、批評家が勝手に被せ続けているかつらを尻目に、寧ろマーラーの精神に親和的な感じさえあるようだ。実際ハイドンは楽章構成から、楽章内の楽式、楽器法(様々な楽器での弱音器の利用、コルレーニョを含む)、引用の技法に至るまで、到達点だけから想像するのは困難な程の、様々な実験を行っているのであるから。
私見では103番はもっと興味深い。この作品は調性格論的には基準からの逸脱の著しい困った作品で、変ホ長調なのに色彩はくすんでしまっている。近年は色々と即興が施されることが多い、題名のもととなった冒頭の太鼓(ただしこれは普通のティンパニ)のロールに続く、ロマン派を通りこしてマーラー以降のモダニスムを思わせるような管弦楽法の序奏からか、色彩のくすみは寧ろ湿度を感じさせ、或る種の不安や予感、幽霊的なものが漂うのが異色で、さしずめアーノンクール風の絵解きならば、遠雷がして、雷雨の忍び寄る予兆を孕んだ空気の中、舞踏会が行われ、、、といったあたりなのだろうが、マーラーならばスケルツォに「影のように」という指示を持ち、若きシェルヒェン(彼がハイドンの交響曲録音のパイオニアであることを思い起こすべきだろうか)を魅惑した7番のような作品に繋がっていく部分があるように感じる。
だが、第104番を頂点とする完成に対する逸脱と言う点では、遡って、いわゆる「疾風怒濤期」と呼ばれる作品群に直接赴くべきであろう。実際第103番に感じるのは、時として感じられなくもない単調さもろとも、その遠い谺のようにも思えるのである。そしてその中で、知名度もさることながら、その異形性と、強烈な感情表現で際立つのは何といっても第45番、「告別」のニックネームを持つ交響曲だろう。今日風にはシアターピース的とでも言うべき趣向が凝らされた終楽章と、その成立に纏わるエピソードについては巷間に流布しているからここでは繰り返さない。寧ろここで注目したいのは、私の色聴が調性格論と関連があるということもあって、その破格の調的配置である。何とこの作品、嬰へ調という、古典期の作品としては稀な調性を持っているのである。
嬰へ調というのは、ハ音に対して悪魔の音程とも呼ばれた中全音にあたる嬰へが基音であり、平均律楽器であるピアノのような鍵盤楽器でこそその後の奏法の発展とともに黒鍵が多くて弾き易い調性として選択されるような例はあるけれど、調弦が固定されている弦楽器、基本的には倍音列に従った共振系を持ち、基音に対して変化記号が増えると正しいピッチの音を出すのが難しくなる管楽器が主体の管弦楽作品では、マーラーと同時代やそれ以降であれば他にも幾つか例はあるとはいえ、嬰へ調の作品はやはり比較的稀である。特に金管楽器が基音にたいする低次の倍音しか出せなかったハイドンの時代、嬰へ調の作品を創ろうものなら、楽器をそのために調達するということにもなりかねず、実際、第45番の場合もfis管のホルンをそのために調達したという真偽不明のエピソードがあるくらいで、少なくともハイドンの同時代にあっては極めて稀な調性に挑んだ破格の作品なのである。
勿論、破格なのは調性だけではなく、嵐のように激動するアレグロ楽章に対して、幽霊的な効果を持つ緩徐楽章での弦楽器における弱音器の使用、長調と短調の頻繁な交替、不協和音の頻用、メヌエットにおける「脱臼」したような奇矯なカデンツの拍節感と、強烈な、あるいは異様なアフェクトを備えており、それに加えてフィナーレの途中で音楽が途切れ嬰へ長調によるゆっくりとした「告別」の音楽が末尾を締めくくるという点も異形である。フィナーレは実質はアッタッカで繋がった2つの楽章と見做すべきで、5楽章形式の作品と見るべきだろう。
さて、マーラーにおける嬰へ調の作品といえば第10交響曲が該当する。勿論、ハイドンの第45番とは似てもにつかないし、影響関係を論じる時に決まって持ち出される引用などの手掛かりがあるわけではなく、寧ろ、両者はそれぞれが際立ってオリジナルな、異なった個性を持つ作品なのだが、にも関わらず、調性の共通性は決して実質のないものではない。マーラーはその同時代の他の作曲家に比べて和声法についてはアナクロニックなまでに全音階的であって、それ故に調性格論が有効な面があるのだが、嬰へ調をオーケストラが鳴らしても、例えばト長調やニ長調のような、ニュートラルだが輝きに満ちた芯のある響きは出ないのである。つまり調性格論は、ことオーケストラ作品においては、マーラーの時代においても(ということは、今日においてもだが)単なるこじつけやメタファーの類ではなく、楽器の音色という物理的な基盤上での認知的な根拠を備えていて、恐らく調性に結びついた色聴のうちの一部(私のそれもそれに属するが)は、そうした点に根拠を持つのではないかと思う。それは神経回路網の馴化と固定の結果(成長に伴う機能分化が途中で止まってしまったという見方があるようだ)なので、結果として絶対音感との対応づけも起きているようだ。その証拠に、私の場合、見える色はモダン・オーケストラのピッチの方が鮮明で、ピリオド奏法の演奏を急に聞くと、ーそのピッチはしばしば半音近く低いことすらあるー色が見えない。ただしばらくそのピッチに慣れれば、色の方も徐々に鮮明になっていくようだから(それでもモダンピッチのそれには及ばないようだ)、絶対的な周波数に対応づいているのではなく、調的組織と、楽器の音色の特性が媒介しているもののように思われるのである。その傍証として挙げられるのは、ピアノではそうした色彩が見えることがない点であり、管弦楽曲でも楽器法により、その鮮明さは随分と異なるのだ。
実は以前マーラーの第10番について考えていて、その調性の特異性に対して、交響曲の歴史の中でも先例のない、例外的なものと一瞬思い込んだ後、あっと思い当たったのが、交響曲の歴史の草創期のエピソードとして語られることの多い、ハイドンの疾風怒濤期の作品、第45番の存在であった。「告別」という内的なプログラムは、マーラーの場合、第10番ではなく、先行する第9番や「大地の歌」に関連づけられることが多いし(動機としての関連で言及されるのは、ベートーヴェンのピアノソナタ「告別」の冒頭の動機であったりする)、マーラーが(まさか知っていなかったとは思わないが)第10交響曲の創作にあたってハイドンの交響曲を参照したという外的な証拠があるわけでもなく、実証のレベルでの関連づけは恐らくは存在しないのであろう。そもそもがハイドンにおける「告別」は、文字通りの「葬送」である第44番とは異なって、マーラーの後期作品におけるそれとは意味が異なるという基本的な違いは無視できないだろうし、更に言えば、後年にはコルンゴルトの交響曲、そしてメシアンのトゥランガリーラー交響曲が嬰へ調の調性を持った作品として存在し、また嬰へ短調であれば、マーラーに先行して、既にリムスキー=コルサコフの「アンタール」のような例もあって、ハイドンの45番も開始の調性ということなら、寧ろこちらに属することになるだろう。(とはいえマーラーだって、出だしだけとればこれはほぼ無調であって、嬰へ長調は寧ろ終結の調性であろうが。)にも関わらず、交響曲の歴史の劈頭と掉尾に聳え、いずれも「告別」を内的なプログラムとして含むハイドンとマーラーの2つの嬰へ調の交響曲は、偶々同じ調性を持った他の作品とは異なって、見かけの様々なレベルの相違を超えて、響きあうものを備えているように感じられてならないのである。
なお私見では、嬰へ調に限らず、調性格論におけるマーラーと古典期の作品との対応は偶然では説明しきれないものがある。例えば変ホ長調を取り上げて、マーラーの8番や2番の末尾に対して、モーツァルトの「魔笛」やハイドンの「天地創造」におけるその扱いを考えてみれば良い。あるいは色彩的に変ホ長調と鮮明なコントラストを持つホ長調が、第4交響曲で、或いは第8交響曲でどういう性格を備えているかを、古典期以前の調性格論と比較しても良いだろう。マーラーの第10交響曲に関連した点に触れるならば、そのフィナーレの後半部分のスケッチには、クックが採用した嬰へ長調のバージョンと、変ロ長調のバージョンが存在するようなのだ。クックは嬰へ調への回帰を選択したが、変ロ調であれば、フィナーレの到達地点で観ることができる風景は些か異なったものになる筈である。勿論マーラーがいずれを選択したかを問うことは原理的に不可能であろうが、この2つの調性が選ばれたことは極めて興味深い。更にハイドンとの関連でもう2点だけ、ハイドンの「天地創造」において変ロ長調が象徴するものを考えてみること、更にモーツァルト追悼として書かれた第98番と同じ変ロ長調(これはモーツァルトにおいて最後のピアノ協奏曲第27番の調性でもある!)で書かれた交響曲第102番の弱音器つきのトランペットとティンパニと独奏チェロのオブリガートで特徴づけられる緩徐楽章の音楽が、「告別」交響曲と同じ嬰へ調で書かれたピアノトリオ第26番の嬰へ長調で書かれた緩徐楽章からの転用であること―ただし交響曲では、その独特の音色の選択に応ずるかのように、主調のドミナントであるヘ長調に移されているのだが―を指摘しておくことにしよう。
最後になるが、指揮者としてのマーラーのハイドンとの関わりは、時代の嗜好を考えれば決して希薄なものではなく、マルトナーの調査結果を信じるのであれば、ハンブルクで99番と101番、ウィーンでは103番と104番、ニューヨークでは「ヒストリカル・コンサート」のフレームにおいて集中的に104番を振っているようである。第104番と並んで(いやそれ以上に)、古典派音楽の頂点を極めたオラトリオ「天地創造」は、不思議なことにこの作品と縁の深いウィーンではなく、ハンブルクで6回指揮しているようだ(抜粋なら、ニューヨークでの「ヒストリカル・コンサート」でも取り上げた記録があるようだが)。だが寧ろ、ウィーンにおけるオラトリオの伝統でハイドンの「天地創造」に呼応してその掉尾を飾る作品は、フランツ・シュミットの黙示録に取材したオラトリオ「七つの封印を有する書」ではなかろうか。さしづめ聖書の劈頭に置かれた創世記に取材したハイドンのオラトリオが、その伝統の開始に位置し、古典派様式の完成を告げるという点でアルファなら、聖書の末尾に位置する黙示録を取り上げたシュミットのオラトリオは、それまでの音楽の歴史を回顧するように、様々な様式が盛り込まれたという点で、その伝統における奥津城たるオメガであろう。ハイドンの「告別」交響曲と第10交響曲に劣らずこちらの対峙も興味深いが、これについては指摘に留めることとして一旦筆を措く事としたい。(2018.11.24公開、25日補筆修正。2019.1.14加筆)
2018年11月24日土曜日
2018年11月4日日曜日
尾野正晴「松本陽子の絵画」より
「 (…)「原空間」とは、ありとある絵画空間が生き死にを繰り返す場所である。そこでは、生成する絵画空間もあれば、死滅する絵画空間もあるが、こうした生と死の果てしない交錯のために、「原空間」は、常に混沌としたものになっているのである。
(…)
拭い取られたり、取って代わられたりすることによって、不吉な輝きを増す色彩、あるいは、面を整えることなく、常にそれをもつれさせる色彩、そういった色彩が干渉し合うとき、「原空間」は、最も語り得ぬものとなる。かつて、ゲルハルト・リヒターは、自分の作品に、語り得ぬものだけがもつ希望を見出したが、それは、似て非なるものとはいえ、松本やフランケンサーラーの作品の希望でもあるだろう(もっとも、見方を変えれば、こうした希望は、今世紀の画家のものというより、十九世紀以前の画家―たとえば、フェルメールやセザンヌ―のものといえるかもしれない)。
語り得ぬ「原空間」のもとで、ふたりの抽象絵画は、ただちに、固有のイメージを育みはじめる。いや、より正確にいえば、抽象絵画そのものが、ひとつのイメージとなってゆく。これまで、抽象絵画は、再現的な絵画の対極に位置づけられてきたが、ふたりの色画抽象にあっては、両者は相容れないものではない。抽象が、自らのうちに再現的なものを見出し得ることを、ふたりの絵画は、美しく例証しているからである。
絵画空間を語ることの困難を諭したふたつの「原空間」を前にして、なおも、それらを語らなければならないとき、思い出す用語がある。それは、テオドール・W・アドルノがマーラーの音楽形式の特質を明かすために見出した三つの用語である。「発現」(Durchburch)、「停滞」(Suspension)、「充足」(Erfüllung)という三つの用語は、「原空間」のありようを示す数少ない言葉とはいえないだろうか。松本やフランケンサーラーの「原空間」も、たしかに「発現」と「停滞」と「充足」を繰り返している。それは、唐突に「発現」し、自由に「停滞」し、そしてまた、唐突に「充足」してゆくのである。」
尾野正晴「松本陽子の絵画」(光琳社, 1990)より
いずれも所詮は「趣味」の範囲を超えないとはいえ、私の場合、美術と音楽とを較べれば、どちらかと言えば音楽との関わりが占める割合の方が大きく、これまたいずれも所詮は自分の嗜好に合ったもののみを恣意的に選択する摘まみ食いには違いなくても、まずは単純にそれに向きあってきた時間の長さの差に起因してであろう、自己が選択した中核となる対象の周辺の広がりについても、音楽の方が遥かに大きなものであることは否定し難い。簡単に言ってしまえば、音楽の方が一般的な意味でより系統的な聴き方を、それでもしてきたことになるだろう。
こんな比較に意味がどこまであるか疑問なしとはしないが、それでもなお、例えば、音楽における演奏録音の記録媒体に相当するものを絵画における画集であるとしたならば、実演に接することは実作品に接するべく美術館を訪れることに対応しそうである。であるとしたら、音楽の側においてはマーラーでさえやっと全交響曲について実演に接しただけであるに過ぎないことを思えば、新作が出るのを待ちかねて画廊に足を運ぶべく自分で積極的に情報収集する程の熱心さはないけれど、美術館で企画される個展、回顧展であればほぼ必ず足を運び、或いは時折は、その作家の作品だけを目当てに、常設展であったりアンソロジー的な趣向の企画展であったりを訪れたりする美術作家が居るとしたら、自分の中での重要度としては決して劣ることはないのかも知れない。松本陽子さんは、そうした意味において自分にとって、難波田龍起さん、中西夏之さんと並んで特別な存在である。更に言えば、これは音楽の場合の適当な等価物が見出せないが、自分の身の丈に合ったレベルではあるけれど、その作品が手許にあるという点で上記の3人は別格ということになるだろうか。
ある作品が産みだされた背景のようなものは寧ろ敢て等閑視すべしとは全く思わないが、さりとてそうした文脈に作品を還元してしまうような視点に対しては拒絶感があって、それ故マーラーが好き「だから」同時代のマーラーの周辺の音楽が好きであるということがないのと同様に、周辺の美術、例えばクリムトや分離派、或いはココシュカ、更にはロダン等についても、一応その存在は知ってはいても、特にそこにマーラーとの共通性を見出すということはない。そもそもマーラー自身、その苗字にも関わらず、そして当時の著名な画家の娘を妻とし、分離派の面々との交流があるのみならず、ロラーの舞台美術のようなコラボレーションさえあり、或いはまたアマチュアの画家でもあったシェーンベルクが描いた絵を匿名で購入したりはしていても、総じて言えば造形芸術への関心は限定的だし、哲学や自然科学に関しては同時代の最新の潮流への関心を怠らない一方で、これまた同時代の作家との交流はあっても、文学の嗜好は寧ろ保守的であることは良く知られている。要するに、マーラーを文化的な潮流の(最も重要なそれであれ)一齣に還元するのでないとしたら、同時代に拘るのはマーラーその人を知る上でさえ役に立たないし、ましてやマーラーの作品を今日、遠く離れた日本で受容することの意義を考える上でも役に立ちはすまい。そしてそれはマーラーに限らず、音楽作品に限らず、美術についても同様ではないだろうか。少なくとも私にとっては、一見時代を隔て、様式の違い、あるいはジャンルの違いがあっても、そうした壁を超えた繋がりを見出すことの方が、断然重要に感じられるのである。
だがしかし、とは言うものの、上記の尾野さんの文章を手許にある松本陽子さんの画集の解説文に見つけた時には、正直に言えば、不意打ちを受け、酷く驚いた。自分の中では、マーラーの音楽と松本陽子さんの絵画というのは、とりあえずは別々の領域にあって、その間に意識的な関連を見出そうとは特段思っていなかったからである。いずれも抽象画家である上記三人の作品に、或る種音楽的なものを感じこそすれ、そして別のところで何度か触れているように、私には色聴があるので、その時に「見える」色の色調に類似のものを感じることは時折あっても、具体的、個別的に、マーラーの作品との構造把握における対応を考えたことがそもそもなかったので、松本陽子さんの絵画の本質にアプローチする上記のような文章の中で、アドルノのモノグラフの「性格」の章に提示される三カテゴリに遭遇することになるとは全く予期していなかったのだ。実際、尾野さんの文章は、ポロックと松本さんの比較から初めて、松本さんのそれが制作手法上「引き算」の絵画である点を指摘し、それが色彩抽象絵画共通のものであることを指摘して、フランケンサーラーを比較の対象に設定し、引用した「原空間」への言及に至るのであって、末尾のパラグラフを除けば、専ら絵画というジャンルの中にある。それも20世紀の抽象絵画の中で専ら論じられているのだ。そして最初の転調がまずフェルメールとセザンヌを例とした19世紀以前の作家への時代を遡行する形で起こるのは興味深い。しかもそれが、引用を割愛させていただいた「原空間」がもつ祝祭的/不吉な質の指摘から、語り得ないものに辿り着き、語り得ないものだけが持つ「希望」への指摘とともに起きている点は特に注目される。
そして末尾においてアドルノのマーラーに関するモノグラフでのカテゴリ、つまり美術ではなく音楽の、しかもよりによってマーラーという個別の作家の作品の性格を規定するために用意された、唯名論的といって良いカテゴリが出てくるのだが、その急激な転調と突然の結びに一旦は驚きはしても、マーラーの音楽が、語り得ないものだけが持つ「希望」という点において親和的であることは疑いなく、一方で、松本さんの作品が極めて動的な質を帯びて、その中に際立って豊穣な多様性と奥行きをもって、描かれたものが出現した現場を遡行的に感じさせることもまた疑いないことに思い当たれば、尾野さんの指摘にはそれを導きの糸として松本さんの絵画を理解する重要なポイントが示されていることに気付かずにはいられない。とはいえ、その作業は専ら読み手に課された形となっているのであるけれど。
従ってここでは上記の文章を紹介するにとどめ、その内容について分析・考察することは控えることにしたい。松本陽子さんの絵画について語りたいことはたくさんあるし、日々その作品に接することが、自分にとって貴重な糧となっている事に対する、或る種の御礼とか恩返しのような気持から、そうすることに義務感の如きものを感じているという点で、マーラーの場合と変わることはないのだが、それには稿を改めるべきであろうし、とりわけても尾野さんの分析については、それについて単なる印象レベルでの貧弱な比較を超えた、それなりに実質的な何か言うだけの準備が今の私にはまだ出来ていないと感じるからである。
とはいうものの、尾野さんが指摘する「原空間」のありようを示す言葉として三つのカテゴリを考えたとき、それがより一般的な絵画と音楽というジャンルを超えた、より高い抽象度の把握の可能性を示唆していることも然り乍ら、他ならぬマーラーの音楽観相学のためのカテゴリが、他ならぬ松本陽子さんの絵画の或る種の「観相学」であろうものに適用される点に、自分でも意識的には気付いていなかった相関の存在が示唆されているように思われる点が非常に興味深く思われる。
実際、松本陽子さんの絵画を見たときの驚き、その絵画から押し寄せてくる光の放射の、その波動のうねりの中に自分が包み込まれ、漂うような感覚、そしてその流れが己の奥底に達した時に、今度は自分の中から湧き上がってきて、自分の中に広がり、あたかも自分を越えて周囲に拡がっていくかにさえ感じられる充足感は、最初に見たとき以来、変わることがない。絵画は音楽のように時間に沿って展開していくものではないけれど、ある水準において絵画についても動力学を考えることは、自分のそうした経験に照らすなら全く自然なことにさえ感じられるのである。
今の私に言えることと言えば、以下のように、自分の経験を拙く、洗練もされていない仕方で語ることくらいなのだが、それでも敢て一言だけ付言すれば、尾野さんの分析は、それが収められた画集が出版された時点までの作品、即ち、松本陽子さんのトレードマークとでもいうべき、ピンクとグレーが主体のアクリルによる絵画のみに恐らくは対象を限定しているという点は、今日以降、それについて語る時に確認しておくべきことであろう。画集に限定するならば、その後2007年に出版された「松本陽子作品集」(ヒノギャラリー,2007)、あるいは国立新美術館での野口里佳さんとの二人展の図録「光 松本陽子」(国立新美術館, 2009)を開けばわかるとおり、2005年以降、緑を基調とした油彩の作品が制作されており、画材も違えば、制作の過程も異なったものであるからだ。
緑の絵画は、まずもって「引き算」の絵画とは言えないだろうし、並行して制作されているドローイングと同様に、遠目に一見してそう見えるのとは異なって、細かい線の積み重ねからなっていて(まるでカオス力学系におけるカオス的遍歴の軌道のようだ)、粗密はあっても隙間があって、異なった色彩のコントラストや緑の中での色調の微細な差異と相俟って、際立って複雑で豊かな空間を内包している。しかもそれは決して静的に析出するといったものではなく、際立って動的で、その前に立つとたじろぐ程なのだが、そうした印象の方は、尾野さんが対象としていた「引き算」の、ピンクの作品群と共通した点もある。とはいえ、アクリルによるピンクの絵画においては絵から放たれる光の散乱が、寧ろ宇宙空間の異なる場所のように、普段人間の意識がその中に埋まっている環境とは異なった空間を感じさせ、時として観る者を脅かすのとは異なって、油彩による緑の絵画はある意味では親しみのある、日常のすぐ隣にある感覚があって、寧ろ観る者をその空間の奥の方へと誘うかにさえ感じられる。ただしそれは一見してそう思われるような、起源としての「自然」への回帰といったベクトルは全く異なった、寧ろ逆向きの経験であるというのが私の偽らざる実感である。それは日常的な経験を一旦括弧入れした上で把握されているかのようであって、極めて意識的に獲得し直された印象を受ける。一見して素材に見える緑色も、実は素材というよりも寧ろ、制作を通じて意識的な仕方で再び獲得しなおされるものに見える。恐らくはそうした媒介性は、ピンクの絵画がキャンバスを床に置いて描かれているのに対し、緑の絵画の場合はキャンバスを垂直に立てて、それに正対して描かれるという制作手法と関係があるのだろうし、松本さんにとって油彩は、一旦離れた後に再び向き合った画材であるという事情も関係しているに違いない。そしてそれはマーラーの音楽が、工芸品的に細工された制作物としてのそれから遠く隔たって、一見、生の素材を「廃物利用」よろしく取り集めているように見えて、そうした素材が芸術音楽に取り込まれた古典派の時期とは異なって、素材との関係が屈折した、媒介を経たものであること、そして、そうした素材を用いて、もう一度新たにヴァーチャルな「世界」の制作であろうとするのとどこかで接しているように感じられるのだ。そしていずれもそうして意識的に掴まれ、定着された音や色の向うに「語り得ぬものだけが持つ希望」を垣間見させるという点において、ジャンルや時代の様式や意匠の違いを超えて、やはり通じるものがあるように感じられる。
実際、松本陽子さんの緑の絵画を初めて見たとき、それがピンクの絵画がそうであるように、絵画としては全くユニークであって、前人未踏の場所に居ることを感じつつ、同時にその質が、どこか別の非日常的な経験において垣間見ることができる印象に通じる点においても共通しながら、より確乎とした仕方で提示されるような感覚に捉われて、深い充足感のようなものを覚えたのを覚えている。そして勿論、そうした感じは、作品に向き合う度に都度新たに、より確かなものとなっていくように感じられるのだ。まるで逍遥しているうちに、気付かずに、自分が朧気に予感していた場所に突然出たような感じと言えば良いだろうか。こうした経験をさせてくれる絵画というのは他になく、作者が「引き算」の、今なお作者のトレードマークのように語られるピンクの絵画の長く深い経験を経て辿り着いた境地に、畏敬の念を覚えずにいられない。これは危険な言い方かも知れないが、或る日、自分がその絵画の空間の中に踏み入って、そのまま消えてしまうといった想像を、緑の絵画を前にしてすることさえあるのだ。繰り返しになるが、勿論それは「回帰」といった類の動きではなく、寧ろ逆に、到達することのないかも知れない未来の彼方に、未だないけれど、今そこにある絵画を見ればこの上もなく確かなものと感じられる「希望」として予感されている(に過ぎない)のであるが。
であるとするならばここでは寧ろ逆に、「原空間」を音楽に適用してみることはできないだろうか?つまるところ、「原空間」というのは、時間と空間が分離された後の空間の謂ではあるまい。そうであるとするならば、それは経験的なレベルで時間に沿って再現される音楽の時間性とは異なった水準の、現象の背後・意識の背後から音楽が湧き出してくる場を指し示しているのであって、その向かう先が、ジャンルを違いを超えて、やはりマーラーにおいても「語り得ぬものだけがもつ希望」に他ならないという構造のアナロジーは極めて確からしいものに思えるのである。(2018.11.3/4)
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