2015年5月10日日曜日

『大地の歌』の「風景」について―甲斐貴也さんへ―

 20世紀初頭に作曲されて1世紀後の時間的な隔たりと、地球を1/3周分の空間的な隔たりを介して、21世紀の日本で接する時、『大地の歌』の音楽が喚起する、眼前に確かに広がると感じられる風景は、一体何処のものなのか?

 マーラーの早すぎる晩年(あくまでも事後的にそう区分されるに過ぎないが)に、ドロミテ・アルプスの風景の中で作曲されたこの作品は、いつもの通り、初演を念頭においた出版の準備が進められていたものの、マーラーの突然の死によって、生前に楽譜が出版されることもなく、彼自身の指揮による初演も行われることがなかった。それゆえこの作品の後世による受容のプロセスは、マーラー没後半年を経た1911年11月20日にウィーンで行われたブルノ・ワルター指揮ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団、シャルル=カイエのアルト、ミラーのテノールによる初演の時から始まったのである。レコードへの録音は、1936年5月24日に収録されたブルノ・ワルター指揮ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団、アルト:トールボリ、テノール:クルマンの演奏を嚆矢とするが、そのSPレコードは戦前の日本にも輸入され、日本初演に先立って聴かれていたことが幾つかの文章で確認できる。その後LPレコードからCDを経て今日に至る迄の膨大なディスコグラフィーについては改めて言うまでもなかろう。ただしその特異な編成もあって、これだけマーラーが頻繁に演奏される今日となっては、実演に接する機会は寧ろ相対的に減っているように感じられる。

 大地の歌の演奏記録の中で、1939年10月5日のアムステルダム、コンセルトへボウの演奏会の記録であるシューリヒト指揮、コンセルトへボウ管弦楽団、トールボリとエーマンの歌唱の記録は、まずもって、録音状態の悪さを超えて今尚説得力を喪わないその演奏の卓越について触れるべきだろうが、そればかりではなく、今日我々が耳にするのとは異なった、まさにマーラーの同時代の演奏様式を垣間見ることができる点で際立った記録でもあり、なおかつ演奏中(第6楽章の間奏が終わったタイミング)に発生したハプニングの記録でも有名であろう。実はこの演奏会、本来はメンゲルベルクが指揮する筈であったが、(メンゲルベルクにはしばしば起きたことのようだが、)病気のために指揮ができなくなり、急遽代役を探すことになったのだが、歌手達の意向もあって、ユトレヒトのオーケストラに客演していたシューリヒトが代役を務めることになったという経緯があるらしい。既に前年にオーストリアはナチス・ドイツにより併合され、ドイツ国内ではユダヤ人の音楽を演奏することが禁じられ、オランダの独立ももう間もなく喪われようというこの時期に、ユダヤ人により作曲された「大地の歌」という題名の作品を、ドイツ人の指揮者の指揮によりオランダのオーケストラが演奏するという状況の異様さが、くだんのハプニングを引き起こす原因であったに違いないが、後にはメンデルスゾーン、マイアベーアと並んで”3M”としてナチスより忌避されることになるユダヤ人の、中国の詩に取材した作品の演奏で件のハプニングが起きたことは、この曲の風景とどのように関係していたものだろうか?

 日本での初演は1941年1月22日、日比谷公会堂におけるローゼンシュトック指揮新交響楽団(現在のNHK交響楽団)、 四家文子のアルト、木下保のテノールによる演奏であり、楽曲紹介を含む当時の新交響楽団の機関紙(音楽雑誌「フィルハーモニー」第15巻第1号 大地の歌)からは、同じ年の年末には太平洋戦争に突入することになる当時の日本の雰囲気が伝わってくる。ちなみに同年10月成立の東條英機内閣に外務大臣として入閣し、結果的に開戦時の外務大臣となり、そのために後に極東国際軍事裁判の被告となった東郷茂徳は、上記のワルターの演奏のレコード録音の数ヵ月後の1936年8月に、ナチスにより追われたローゼンシュトック(彼はユダヤ系であった)が新交響楽団の指揮者に就任するために来日した際に、当時のドイツの駐日臨時代理大使(大使館参事官)ネーベルが行った干渉に対し、当時の欧亜局長として断固として撥ね付けたという記録が残っている。なお、戦後最初に演奏されたマーラーの作品は恐らくは『大地の歌』ではなかったか。昭和21年(1946)5月1日というから、ポツダム宣言受諾からまだ1年と経過していない時期に、同じくNHK交響楽団の前身であった日響の定期で取り上げられているようなのである。(指揮は山田和男(のち一雄)で独唱者は日本初演時と同じ。)ちなみに奇しくも同じ日に、上述の東郷茂徳は戦犯容疑者として巣鴨拘置所に収監されている。極東国際軍事裁判の開廷は2日後の5月3日である。東郷茂徳は薩摩・苗代川の陶工の家系の出、文禄・慶長の役/壬辰・丁酉倭乱で島津義弘により朝鮮から虜囚として連れてこられた人々の子孫の一人であり、外交官としては異例の、シラーの戯曲についての論考が残る独文学専攻出身であり、ユダヤ系ドイツ人を妻とした人である。そして同時に、前年の1945年9月11日の戦犯容疑者39名の逮捕命令の対象者に自分が含まれていることを知り、静養していた軽井沢を発って東京に赴く際に、陶淵明の「神釈詩」の末尾(「縱浪大化中/不喜亦不懼/應盡便須盡/無復獨多慮」)を墨書して家族に渡した人でもある。このような文脈を備えた彼がもし、自分が救ったローゼンシュトックの演奏する『大地の歌』を聴いたとしたら、そこにどのような風景を見出したであろうか?

 一方で、管弦楽伴奏連作歌曲とも交響曲ともつかないこの作品に、ピアノ伴奏版の自筆譜があることが判明し、しかもその世界初演が日本で行われたことを記憶している人も少なくなかろう(1989年5月15日、国立音楽大学講堂において、サヴァリッシュのピアノ、 アルト:リポフシェク、テノール:ヴァンベリ)。それまで知られてきた管弦楽版と比べたとき、各楽章のタイトルや歌詞のみならず、小節数の違いさえ含むこのピアノ伴奏版は、作曲の過程において少なくとも1908年頃の段階までは、管弦楽版とピアノ伴奏版が、いわば並存するような形で存在していたことを告げているが、それだけではなく、現在所在不明になっている同じ時期の日付を持つ管弦楽版草稿の第1,2楽章を補うものとして重要だし、実際に国際マーラー協会のマーラー全集において補巻IIとして出版されただけでなく、1990年出版の管弦楽版の校訂作業のきっかけとなった。ちなみに、ピアノ伴奏版においても依然として題名には「交響曲」と書かれており、この作品について単純に交響曲か否かを論じてみても、ここでマーラーが達成したことの意義を測ることができないは言うまでもないことであろう。

 だが何よりも『大地の歌』がハンス・ベトゲの「中国の笛」という漢詩のドイツ語による翻案(追創作:Nachdichtung)の中の幾つかの詩を歌詞として用いている点こそ、この曲が提示する風景を性格づけることにおいて決定的であることは衆目の一致するところだろう。こちらもまた、ドイツ文学の泰斗ハンス・マイヤーの挑発的な論文に対してアドルノが反論をするかと思えば、マーラーが(常に歌詞として用いた原作に対してそうであったように)ベトゲの詩を改変したプロセス(ここでもまた上記のピアノ伴奏版が大きな役割を果すのであるが)は勿論、エルヴェ・サン=ドニやユディット・ゴーチェの仏訳やハイルマンの独訳を経由したベトゲの追創作のプロセスまで追跡され、更には原作である漢詩の推定を音楽学者や中国文学者が試みるといったことが為されてきており、最早、論じつくされたかのような感すらある。

 だが問題は単純な洋の東西といったものではない。日本から見れば中国も外国であり、但し非常に長期に渉り、非常に徹底した影響を受け、独特の受容をしてきたという経緯から、幾つかの面で西洋におけるオリエンタリズムと対偶の位置から中国に向き合っているということを先ずは認識すべきであろう。管見では中国文学者は、少なくとも前了解としてそのような姿勢を持っており、従ってオリジナルの漢詩とその西欧の言語への翻訳を比較する際に、単なる正確さの基準のみを以て「誤訳」であるかどうかを云々するといった水準に留まらず、まさに日本人がそうしてきたように、異文化を受容にするにあたり、固有の文脈に埋め込むための変換の作業が存在することを前提とし、その上で何が起きているのかを見極めようとしているように感じられる。

 既に半世紀も前の1970年にNHK交響楽団が「大地の歌」をプログラムとしてとりあげた際、機関紙<フィルハーモニー>(同年10月号)に掲載すべく依頼したことによって書かれた、吉川幸次郎氏の『「大地の歌」の原詩について』において既に、オリジナルの盛唐の詩が「素材」に過ぎず、「いろいろと自由な変形をうけている」ことが指摘され、その上で、「西洋のことは耳学問の私には、はっきりとしたことはわからない」と留保つきながらも、「しかし、変形をうけながらも、その感情は依然として、中国的である。あるいは少なくとも唐詩的である。そうしてマーラーの作曲もそれを増幅する」と述べ、更に加えて「新しく接触し発見した異地域の異種の文明、その中にある特殊そうに見えて実は普遍なもの、それをより大きな普遍へと造型しようとするのが、マーラーの努力であったろう」と述べられているのである。

 更に近年の例として、やはり中国文学者の市川桃子氏は『中國古典詩における植物描寫の研究―蓮の文化史―』(2007)所収の第三部『「採蓮曲」の系譜』の第三章「樂府詩「採蓮曲」の飛躍」において、李白の「採蓮曲」のマーラーの『大地の歌』の歌詞に至るまでの19世紀半ば以降の西欧での受容の経過を詳細に分析している。(甲斐貴也氏のご教示による。甲斐氏には、貴重な文献のご教示に対して此の場を借りて御礼申し上げる。)ここでは、マーラーの音楽では第4楽章の歌詞である「採蓮曲」一篇に限定してではあるが、ヨーロッパでの受容の過程で起きた変容に対して、「このようにして、李白「採蓮曲」に描かれる情景は歐州で始めて翻譯されたときに、歐州にある情景として無理のない設定に大きく變わったのである。ただし、場所や状況設定は變わっても、若く美しい乙女たちが夏の日差しを浴び、澄んだ水に姿を映して、樂しそうにおしゃべりをしている、その至福の光景を描くという本質的な點は、全く變わっていない。」という指摘がされている。そればかりではなく市川氏は、先行する第二章にて、李白の「採蓮曲」の最後の句に出現する「断腸」という表現に注目し、まずそれを「地上に再現されたこの天上世界から疎外された李白自身の氣持ちを投影したもの」とする解釈を踏まえ、「地上に再現された最上の美の世界は共通であるが、そこから生れた意味は李白とマーラーでは異なってい」るけれど、「しかし、どちらにも、生への、美への、切なる憧憬の念があり、どちらにも、それを手に入れられない絶望的な悲哀がある。地上の人間は、完全なる美の世界を手に入れることは出来なかったのである」との指摘をしているのである。マーラーの『大地の歌』の第4楽章の全曲での位置づけに関し、柴田南雄の「シンメトリー説」を引きつつも、それに対して留保をつけて「この第四楽章もまた『大地の歌』全體を覆っている悲哀に浸されている」という指摘をしている点と並んで、作品の持つ重層的な構造(それは歌詞が単に並置されているのではなく、語りレベルに応じて幾つかに層化された配置されていることに対応している)に対する把握を示しており、そのことによってこの第4楽章においてすら、語り手の哀傷に満ちた視線が潜んでいる点を正確に剔出されている点は見事というほかない。

 それでは第1楽章の歌詞に登場する猿の啼声はどうだろうか。人口に膾炙した杜甫の『登高』(風急天高猿嘯哀/渚清沙白鳥飛廻)やら『碧巌録』(羸鶴寒木翹/狂猿古台嘯)をはじめとした漢詩における、特定の情緒の喚起するイメージというのがあって、そうしたものを背景に音楽を聴くことになるのだが、しかしマーラーの音楽によってそれは、所詮素材に過ぎないベトゲの詩の文学的価値とはとりあえず別に、こう言って良ければより「実存的」な、自己の存在なり生に対する人間の認識に深められているという点を見逃してはなるまい。

 例えばそれをニーチェの『ツァラトゥストラ』のEinst wart ihr Affen, und auch jetzt ist der Mensch mehr Affe, als irgend ein Affe.を思い起こしつつ聴く人が居たとすれば(実際、甲斐貴也氏が私信でそのような指摘をされている)、其の人の把握にも理があることを認めざるを得ないだろう。ニーチェは当然ここで当時流行の進化論を背景にして書いているわけだが、ニュアンスの無視できない違いはあるものの、洋の東西を問わず、猿と人間が似ているというのは、或る意味では自然な理解なわけであり、だからこそ人間の運命の寓意にもなるのだろう。ショスタコーヴィチもまた、この作品における「猿」の形象に注目したことが知られているが、第14交響曲などから窺えるように、無神論者である彼の認識は寧ろニーチェ直系であると言って良かろう。他方、進化論については受け入れつつ、唯物論的な立場には懐疑的であったらしい、だが、ということはそうした立場を否定できないものと捉えてはいたらしいマーラー自身は、この「猿」をどのように捉えていたものか?

 こうした点を考えたときに直ちに気付くことは、マーラーの側の文脈もまた、ベトゲの詩作のみを問題にするのはあまりに皮相であり、マーラーに少なからぬ影響を与えた『意志と表象としての世界』のショーペンハウアーや『ツァラトゥストラ』のニーチェ、更には『ゼンド・アヴェスタ』のフェヒナーにおける東洋を考えるべきだということだろう。(リュッケルトが東洋学者であったことや、ゲーテにおける東洋に思いを致してみても良いだろう。マーラーの思想圏なるものを想定したとき、それは単純なオリエンタリズムには収まらない拡がりを持っているのは間違いない。)

 もう一つだけ例を挙げれば、終楽章の歌詞で語られる、行き先の「山」というのは、帰郷を意味しているのではない。(ハイデガーのヘルダーリン読解の問題点が何処にあったかを思い浮かべよ。)かなりの高官顕職に上り詰めたらしい王維も実際にそうしたようだが、「山」というのは陶淵明のような遁世、ただし桃源郷のような神仙思想とも結びついた場所、非在の場所としてのユートピアでもあるような場所のはずで、それはマーラーの音楽が最後に到達する(仮想の、実在しない)場所でもあるのではないか。もちろんマーラーの音楽の「場所」は、東洋思想の桃源郷のイメージそのものではありえないだろうが、ではそれを中国を軸に反対向きから見ている我々日本人が見ているものは、一体、どれくらい近くてどれくらい遠いものなのか。当時の地球に対する認識を踏まえたアドルノの「大地」=「地球」説の後、人工衛星に乗って地球を宇宙から眺めることができるようになって久しく、火星の地表の風景を、あたかもその場を訪れたかのように観察することができる時代に生きる人間、系外惑星の探索が進み、地球とにた条件を持った惑星の探索が行われるようになった時代に生きる人間、マーラーの同時代の1903年に初めて提唱された、生命の起源が地球外にあったかも知れないという「パンスペルミア説」が科学的な検証に耐えうる学説として検討されている時代に生きる人間にとって、「大地」とは、『大地の歌』の終曲が描き出す風景とは、一体どのようなものだろうか?

 いずれにしても、以下のようなことは言えるのではなかろうか。『大地の歌』の音楽が指し示す場所、実在のどこかと結びつくわけではない精神的ランドスケープの中を逍遥することがまずは問題なのではないか。現在ではGoogle Street Viewを用いれば、現地を訪れることすらせずに、自宅でドロミテの風景を眺めることができるようになっているが、マーラーがドロミテの風景に、アドルノの言う「仮晶(Pseudomorphose)」として見たものが、そこにあると単純に言うことはできないだろう。

 マーラーがワルターに第3交響曲を作曲した時に言ったとされる「もう作曲してしまったから、現実を見るのは及ばない」という言葉、「交響曲とは世界の構築である」という、大言壮語として受け止められがちな言葉は、後年アメリカに渡ったマーラーが、演奏旅行の折、ナイアガラの滝を訪れた後にバッファローでベートーヴェンの田園交響曲を指揮して妻のアルマに語ったとされる「漠然と訴えるばかりの自然よりも明確に訴える芸術の方が偉大だ」という言葉(アルマ・マーラー「グスタフ・マーラー 回想と手紙」酒田健一訳, 1973, p.p.212~3)、一回性の出来事の構造を「作品」としてデジタル化し、再現可能にすることで世代を超え、個体の経験が遺伝することのないという生物学的基盤に対する反逆を可能にした人間の精神の営みの特異な在り方の把握を通して理解すべきであり、それはまた、マーラーが作品として遺してくれたものの質を正しく見極めるためにも必要なのではないか。

 ジュリアン・ジェインズの「二院制の心」(bicameral mind)の理論が示唆するように、現在の意識の在り方が、人類史上のあるエポックに固有のものであり、「隠れたる神」が、まさにそうした意識の構造に由来する宿命的なものであるとして(カントが指摘する「理性の宿命」は、この文脈において捉えなおされるべきものに思われる)、そして未来方向には、レイ・カーツワイルのような技術特異点論者が述べるように、技術的特異点の向こう側では、意識の形態自体が変容し、「人間」の概念自体が変わってしまうかも知れないとして、その手前で「隠れたる神」の状況下で生きる人間は、結局のところマーラーの世代の末裔なのだ。

 であるとするならば、マーラーの作品を賞味期限切れの過去の遺物としてではなく、「今」、「此処」で受容し、それに応答しようとするならば、彼と彼の作品を彼が生きた時代と環境に還元して、歴史的・考古学的な対象として扱うのではなく、各自が取り組むべき「世界の構築」に向けての「無意識のエクササイズ」(グレゴリー・ベイトソン)として向き合わなくてはならないのではないかと思われてならないのである。『大地の歌』の場所は、実在のどこかと結びつくわけではなく、その意味では場所を持たず、仮想的で非在ではあるけれど、決して無ではない。無ではないどころか、自己の個体としての有限性の認識に裏打ちされたこの作品にこそ、自己の個体としての有限性を超える可能性が存するのではなかろうか。(2015.5.10)

2015年5月9日土曜日

ある市井のマーラー愛好家のマーラーの専門家宛の手紙より

(…)

宿題になっていた、「神の存在をどう思うか」というご質問に対するお答をしなくてはなりません。 この質問に答えることは大変厄介であると感じていますが、それは一つには、神ということで何を 指し示すかについての了解自体がとりわけ現在の日本では形成し難いということに由来するように 感じています。一つだけ例を挙げれば、「無神論」という言葉の含意が西欧と日本ではかなり異なる のは比較的知られていることと思います。その日本でも嘗ては「神仏をも懼れぬ仕業」といった 言い回しが意味を持っていたわけですが、現在ではこの表現を実生活で聞くことはほとんどないのでは ないかと思います。それでもなお、初詣には行き、墓参りをすることは未だ多くの日本人にとって 自然なことでしょう。他方で「存在する」ということについての了解の方も実際には自明とは 云い難い。フッサール現象学やハイデガーの(中絶しましたが)基礎存在論の企ては、その困難を 物語って余りあります。しかし、ここは予備的な分析する場ではありませんので、 誤解を怖れずに、結論から述べてしまいたいと思います。

端的に言えば、既成の個別の宗教における神を信じるかと問われれば否です。だけれども、 神的なものを否定するかと言えば、これは明確に否ということになるでしょう。 「神の存在」に対する答えからすると、少々遠回りに感じられるかも知れませんが、 先賢の顰に倣って、日常の具体的なところから始めることをお許しください。 恐らくそうすることによってのみご理解いただけることがあろうかと思います。

私はしばしば「祈り」ます。何に対して祈っているのかを突き詰めることを常にしているわけではなく、 けれども「祈り」という行為は私にとって自然な行為です。実家に戻れば仏壇の前で手を合わせるし、 墓参りはするし、初詣もします。のみならず例えば散歩をしている最中に神社や祠を見かければ、 立ち寄って賽銭を投げて祈ることも珍しくはありません。と同時に、そういう場での行為としてではなく、 より私的で内的な行為として、何かをするにあたって、あるいは何かを終えたときに、私は 何者かに対して祈ります。祈りは(内的独語であれ)言葉による語りかけのかたちをしばしばとります。 けれども、祈りの対象を人格を持つ存在として捉えているかといえば、どうもそうではない。 そもそもその対象がどんな姿をしているかを考えたことはありません。言葉が通じると思っているわけでもなく、 寧ろ言葉は自分の思いを固定するために、寧ろ自分向けに用いている道具なのです。何を祈るのかを 自分が確認するために言葉を使っていて、それは「祈り」にとっては入口のインタフェースに過ぎず、 それがその先でどのように変換して、対象に伝達されるかについてはどうやら無頓着で、何故か 通じるものと考えているようなのです。

祈りの対象はどこに存在するでしょうか?そもそもどこかに存在するのでしょうか?私が物理的・ 生物学的に其の中に住んでいる世界の時空の具体的な座標をそれが占めているというようには 考えていないようです。そういう意味では、それは「存在」しません。けれども仮想的なもの、 観念的・理念的なものも含めた現象学的な世界ということであればどうでしょう? 恐らく、語りかけの入口は穿たれている。けれども現象学的な地平の「彼方」にそれは存在するのではないかと 思います。そういう意味合いで、それは超越的な存在であり、端的には非存在だということになるのでは ないかと思います。ではその入口はどこに穿たれているのか、どうやらそれは、自分の心の奥に 穿たれていると考えるのが自然に思えます。例えば神社仏閣のように、一見したところ祈る対象が 物理的に目前にあるように思えるときでさえ、私の祈りは一旦は心の奥に向かい、その上で(もし届くのであれば) 対象に届くと感じているように思えます。路傍で見つけた眼前にある石仏自体は只の石像に過ぎないですが、 その前で祈るとき、それでもなおその石像を或る種の媒介として、祈りはこの世界では端的に不在な なにものかに対して届くと考えているように思います。

私が自分の祈りの構造の良い近似になっていると感じているのは、ジュリアン・ジェインズという心理学者が 提唱した「二院制の心」(bicameral mind)という説です。意識というのが歴史的な産物であり、 その形態は過去においても異なっていて、変化してきたという認識を推し進めると、今度は レイ・カーツワイルのような特異点論者が予測するように、未来にはまた、意識は異なる形態をとる可能性が あるだろうと思います。その時には、祈る対象の方も恐らくは今とは異なった「現れ」方をするのだろうと 思います。けれども差し当たり、技術的特異点の手間で寿命が尽きてしまうであろう世代の人間である私にとっては、 将来生じるであろう意識の変容は、興味深いものであっても、所詮は自分には関係のないものです。

そういう意味では私はマーラーと同じエポックに属する人間であり、自己の存在の有限性を前提として 色々なことを考えざるを得ないと思っています。そしてその音楽を聴くにつけ、超越的なものに対する フィーリングのようなものにおいて、マーラーは自己の同類であると感じています。 もっとも子供の頃に出会ってからこの方、寧ろマーラーの音楽が孕んでいる世界観の方に私の方が 影響されつつ自己形成してきたという見方もでき、そうであれば同類であるのは何か稀有な、 誇るべきものなどではなく、寧ろ当然の結果であることになります。

彼は死後の世界を信じていたでしょうか?第2交響曲フィナーレのプログラムについてのエピソードは、 そのプログラムがそのまま、いつかこの世で生起するとまでは彼が考えていなかったこと示しているように 私には思えます。勿論彼は、精神的なものが物質的なものとは独立に存在し、それが自分の生物的な死を 超えて存続することを信じていたと思いますが、それは例えば、音楽作品というのが、実現にあたって 物理的な音響というかたちで現象するものであったとしても、(もの凄く単純化してしまえば、 )ある音の継起と組合せのパターンの情報をデジタル化して、何度でも再現できるように固定したものであり、 物理的なスコアという手段を通して、だけれどもそれ自体は抽象的な存在として、世代を超えて継承される こと、そしてそうした継承を通して、マーラーの「精神」なるものも継承されていくものであり、それが 仮に進化の偶然の賜物であったとしても(現実には私は、ほぼ間違いなくそうであろうと思っていますが)、 意識を持つことになった人間の精神的な領域における営みは(理念的なものである)無限(への漸近)を 目指すものであるという、今日でも恐らくは十分常識的な見解と接続することが十分に可能なものであったと 私は考えています。マーラーが唯物論者でなかったのと同じ程度に、1世紀後の私も精神的な領域の 自律性を確信していると思います。言い方を替えると、1世紀後の日本にもしマーラーが居れば、 彼の考え方は、私のそれをさほど重大な齟齬を来たすことはないだろうと感じているということです。 (繰り返しになりますが、それは寧ろ彼の遺した音楽を通じて、彼の影響のもとに私が成立していると したら、当然のことではないでしょうか?)

ファウスト第二部終幕の解釈に関連したアルマへの書簡ではっきりとそう書いていたと思いますが、 彼はそれを「比喩」として捉えるだけの批判的な知性を持っていましたし、キリスト教的な伝統に ついても、十分批判的な見方をしていましたが(一部はユダヤ人として、そういう見方をすることを 強いられた部分があるのでしょうが)、その一方で、Veni Creator, spritusを彼なりの捉え方で 音楽化し、「ところでそれが来なければ」という悪意に対しては、断固として、そうした超越的な ものの彼方からの到来が現実に起きること、そしてそれは決して無ではないことに対して、 擁護の論陣を張ったであろうと思いますし、私としては、1世紀後の日本においてなお、 第8交響曲の「理念」は異国の文化史の研究の対象でしかない1世紀前の西欧の世紀末の文化遺産などではなく、 今、此処で擁護可能なものだし、擁護しなくてはならない、そうでなければ、博物館の文化財の陳列を眺めるように、 マーラーの交響曲をコンサートホールで「鑑賞」することになど、意味はないと考えています。

同様に、第8交響曲と「大地の歌」の間にも、両者の世界観や神の存在についての認識に、 分裂や矛盾など無いと考えています。マーラーは意識を備えた人間の精神の飛翔が無限を目がけるもので あることを正しく把握し、音楽化したし、その一方で個体としての、個としての自分が過ぎ行くもの、 仮初めのものの側に属していて、そのままでは永遠に与りえないことも正しく把握していて、それをも 音楽化したのだと私は考えています。

もう一度、最初の問いである「神の存在」に戻りましょう。マーラーの音楽は超越的なものへの志向を 備えているという点で際立ったものですが、それは別に既に解決済みの過去の問題であるわけではなく、 寧ろカーツワイルの言う技術的特異点に達するまでのエポックは、マーラーの音楽の「今」であり 「此処」であると考えるべきであり、マーラーにおける「神の存在」の問題の基本的構造は、 そのまま我々のものであり続けているのだと思います。(繰り返しになりますが、ジェインズの意識の考古学は、 その範囲を最も広くとった場合の「我々にとってもそうである」ことに対する説得力ある説明であると思います。)

否、我々を広くとることは止めてもいいでしょう。我々を、マーラーの音楽を聴く事で「目を覚ます」ことを 余儀なくされた者の集団というように限定してもいいでしょう。(私はここで、アドルノのウィーン講演の 結びの部分を思い浮かべています。)これも今や歴史的文献、過去の世代の証言に属するものとなり、 読み返す人も多くないのかも知れませんが、ワルターの以下の言葉こそが、そうした「幽霊達」、即ち マーラーの音楽にコミットする者達の「神の存在」に対する共通認識ではなかろうかと私には思われるのです。

否、更にそうですらなく、これは私だけの孤立した、例外的な認識なのでしょうか?ワルターすら、マーラーに ついてこのように言うものの、自分は別の世界に生きていたのでしょうか?恐らくそんなことはないと思います。 そうでなければ、彼が殊更にマーラーを選び、傾倒する必要などないのですから。
「私は、かれが宗教的精神をもち、ときにその高揚があったとはいえ、かれを敬虔な信仰者と呼ぶことはできない。 かれの感動の高揚は、かれを信仰の高みに登らせはしたが、信仰の確固たる安息の保証はえられなかった。 かれの心はあまりに痛ましく、生きるものの苦悩を感じた。動物相互の殺戮、人間同志の悪徳、疾病に対する 肉体の敏感性、間断なき脅威、それらすべてが、いくたびとなくかれの信仰の基底をゆるがせ、そして、 この世の悲哀と悪徳とをいかにして神の親愛と全能との調和せるむるか、それがかれの自覚し、又かれの 一生涯にわたってますます強くなった問題であった。」(村田武雄訳)
マーラーは「神を探していた」という評言こそが適切で、彼にとって神は丸山桂介が言う通り 「隠れたる神」であったのだと思います。しかし、それは1世紀後の極東に生きる我々に とってもそうではないかと思うし、少なくとも私にとってはそうなのです。 「隠れたる神」は非存在です。だけれども存在しないものはただちに無であるわけではなく、 仮想的なもの、想像的なものにして創造的なもの、理念的なもの、かつて存在して今はないという形でその記憶が存続しているもの、 言ってみれば「幽霊的なもの」の領域が「在る」のです。勿論、そうした構造を無意識的に、そうとは 気付かずに生きることと、それを意識しつつ生きることは同じことではありません。そしてマーラーは 明らかに後者のタイプに属しているのだと思います。(ちなみに、マーラーの同時代の日本で、この 構造に気づいた先駆者こそ、北村透谷であると私は考えています(彼は文学者であり、ジャンルは異なりますが)。 良く知られているように、その後の日本文学は、透谷の持つ普遍性と超越への志向を引き継ぎませんでした。 そして1世紀の隔たりにも関わらず、時代の意匠を取り払えば、透谷の認識からそれほど遠くに来たとは到底思えません。 彼の見出した問題、とりわけても「信仰なき者の祈り」の問題はそのまま残っていると私には感じられます。 そして、今日のテクノロジーやメディアの環境の文脈の中で、全く別の方法論によってその問いの答えを探求しているのが、 作曲家でメディア・アーティストの三輪眞弘さんであると思います。)

音楽もまた、総じて仮象に過ぎません。時間の経過とともにそれは過ぎ去り、消えてしまう。 だけれども、そうであるが故に作品の演奏は、その都度、一回性の「出来事」なのですし、 その効果は有限の生命を持つ人間の脳の中の「魂」と呼ばれるものにしか働きかけることができなくとも 決して無ではないし、物理的な音響が消えた後も、その「何か」は存続するし、その価値にコミットする のであれば、その存続に自ら与らなくてはならない、しかも自らの有限性の限界を超えた存続に 与らなくてはならないのだと思います。

恐らく「神」というのはそうした存在と非在の間の領域、精神=聖霊=精霊=亡霊(Geist)の領域の理念的な極限、 超越的な「存在の彼方」の名前なのではないでしょうか?プラトン以来、「存在の彼方」とは善や美といった、 価値に関わる領域を指し示していることを思い起こしてみるべきかも知れません。ともあれ、 それはヒトが現在のような意識の構造を持ってから発見した領域であり、かつ、未だその領域を覗き見た程度であって、 人間が現在の形態である限りは、つまり技術的特異点の手前にいる限りは、それがどれほどの拡がりを 持っているのかを知ることはできず、それゆえ差し当たりは超越的な「存在の彼方」として把握されるほか ないのかも知れません。(カントの言うところの「理性」の宿命は、従ってある意識構造のエポックの 内部でのそれに過ぎないのかも知れません。)個人的にそれをあえて今尚、「神」と呼ぶのが適切かどうかに ついては疑問の余地なしとはしないのですが、一方で、自分が手前に留まる存在であることを前提とするのであれば、 そうした未知の領域のことを従来通り「神」と呼ぶ方が寧ろ一貫するという見方もできるでしょう。 結局のところ、そういうものとして、私は「神の存在」を捉えている、というのがご質問の回答になるかと思います。

漠然としたことを延々と書き連ねてしまい申し訳ありません。しかしながら、私にとってお問い合わせの内容は 簡単な断定で済ませられるようなものではありません。結論が出ているわけでもありません。しかし、 こうした問題に対して、結論めいたことを言うことがそもそも構造的に可能なのかどうか。 聊か言い訳めきますが、そうした点をご考慮いただき、ご勘弁いただけますようお願い申し上げます。(2015.5.9)

(…)