2015年8月29日土曜日
Google Street Viewによるヴァーチャルツアー(7):オルミュッツ劇場時代にマーラーが住んだ家(チェコ共和国オロモウツ)
マーラーは1882年にオルミュッツ(現・チェコ共和国オロモウツ)の歌劇場の指揮者を勤めていた時期に、劇場近くのホルニー広場にある黄金のカワカマスの家(現在はカフェー・デスティニー) に住んでいた。
現在でもカフェ・デスィニーの入り口の右斜め上方の建物の壁に、黄金のカワカマスが嵌め込まれているの確認できる。
Labels:
Google Street View,
ヴァーチャル・ツアー,
地図
2015年8月23日日曜日
マーラー祝祭オーケストラ特別演奏会を聴いて(2015年8月22日 ミューザ川崎シンフォニーホール)
マーラー祝祭オーケストラ特別演奏会
2015年8月22日 ミューザ川崎シンフォニーホール
ハチャトゥリアン ピアノ協奏曲変ニ長調
井上喜惟(指揮)
カレン・ハコビヤン(ピアノ)
マーラー祝祭オーケストラ
(アンコール)ハコビヤン バッソ・オスティナート
カレン・ハコビヤン(ピアノ)
マーラー 交響曲「大地の歌」
井上喜惟(指揮)
今尾滋(テノール)
蔵野蘭子(アルト)
マーラー祝祭オーケストラ
マーラー祝祭オーケストラ(旧・ジャパン・グスタフ・マーラー・オーケストラ)の特別演奏会を聴きにミューザ川崎を訪れた。曲目はハチャトゥリアンのピアノ協奏曲変ニ長調と「大地の歌」であったが、 ピアノ協奏曲の演奏後、休憩を挟んでプログラム後半の「大地の歌」が演奏される前には、 ハチャトゥリアンのピアノ協奏曲変ニ長調でソロを弾いたカレン・ハコビヤンさんがアンコール曲として、 自作のバッソ・オスティナートを披露した。 プログラムの構成の意図に関しては、音楽監督の井上喜惟さんがプログラムノートに書かれているが、 とりわけ「20世紀に入り、オスマン帝国領内におけるジェノサイド、ナチスドイツのホロコーストによる民族離散」 という共通性に関しては、ハコビヤンさんが自ら、アルメニア人ジェノサイドの追憶のために書いたと日本語で 紹介して演奏した「バッソ・オスティナート」が加わることで、その意図が一層明確になり、「大地の歌」を 受容する際の文脈が与えられたことを明記しておく必要があると考え、そのことを最初に記載しておきたい。
アルメニアの歴史についての私の知識はささやかなものではあるけれど、 ノアの方舟の辿り着いた土地に住む人々が、とりわけてもオスマン・トルコとの 関係で恐るべき苦難を味わったこと、しかもジェノサイドの計画性・組織性については未だに トルコは認めようとしていないことは以前に調べたことがあり、それらを思い起こさずにはいられない。 マーラーに関連した文脈に限っても、例えば妻アルマの後の伴侶であるフランツ・ヴェルフェル(ちなみに 彼もまたユダヤ人であり、そのせいもあってアルマはナチスに追われ、ヴェルフェルとともにアメリカに 脱出することを強いられる)の代表作が1915年のアルメニア人ジェノサイドに取材した、 「モーセ山の四十日」(Die vierzig Tage des Musa Dagh)という1933年に書かれた小説であることが想起されよう。 ヴェルフェルの作品の主題は、まさにハコビヤンさんの追憶の対象のそれであり、今年がまさにその出来事から 100年の節目の年であることを、私はここで記録しておかずにはいられない。
そうしてまた更に不可避的に、マーラーの没後にユダヤ人が経験することになり、一例を挙げれば、 パウル・ツェランの詩作によって、その言語を絶する傷が証言されているホロコーストについては勿論のこと、 日本人もまた、太平洋戦争末期の無差別都市爆撃、広島と長崎の原爆を経験する一方で、 南京事件(規模はともかく、それが事実であることを否定することはできないだろう)をはじめとする 侵略行為については加害者の立場にあることを意識せざるを得ない。中国の詩を素材とした 「大地の歌」を、日本において受容するにあたり、仮にそうしたことを抜きにしたいと考える人がいたとして、 寧ろ目をそむけるべきではないのではないかと思われるし、更には今日の中国と日本の関係をも加えた文脈の中で、1世紀前に異郷のユダヤ人が書いた音楽を、今、此処で演奏し、聴取するのだという ことに対しては意識的であるべきだと考える。
勿論そうしたことは、音楽を享受することについて必ずしも直接的な理由や動機となるべきでは ないかも知れないし、かつまた、そうした文脈に限定して音楽を聴くというのは極論でもあり、実際には抽象に過ぎないが、 逆に、無菌室よろしく、あらゆる文脈を剥ぎ取った防音設備の中で純粋に音響として音楽作品を享受する というのもまた、抽象に過ぎない。実際には演奏者も聴き手も、それぞれの多層的な文脈の中で音楽を 経験するわけだし、(拒絶も含めて)聴き手は与えられた文脈を、自分の展望の中で受けとめた上で 音楽に接すれば良いのだと思うが、私個人について言えば、 自分にとって初めての「大地の歌」の実演に接するにあたり、 このような文脈の下で「大地の歌」を聴くことは、非常に貴重な経験であったと思う。
私自身もまた、戦前及び戦後すぐの「大地の歌」の受容に纏わるエピソードについて、 自分の知る若干の事柄をまとめた文章を公開しているが、それらを踏まえた上で、折りしも戦後70年、 アルメニア人ジェノサイドから100年の節目に、かくの如き文脈を与えられた今回のコンサートは、 「大地の歌」の受容において、重要な意義を持つものであると考える。 今回のコンサートを、とりわけても「大地の歌」を、現在の日本で演奏し、それを聴くことに対して、 このような文脈づけをした音楽監督の井上喜惟さんの企画に対して、まずは敬意を表したい。
以下、コンサートの感想としては、いつもの通り、マーラーの作品のみに限り、かつ、 「大地の歌」の実演に接するに際しての考えについては、今回はプログラムノートに記載させていただく 機会を得たので、実演に接して受けとめたものに限って記録しておくことにする。「大地の歌」の 実演に何度も接している方にしてみれば、何とも拙いものと映るであろうが、それは仕方があるまいし、 いわゆる(客観性を旨とする)演奏会批評が目的ではなく、自分がコミットメントしている対象についての ドキュメントに過ぎないことは、これまでの感想と同様である。
それでも敢て、マーラー以外に関して感じたことを一言 書き加えておくならば、これまでの他の交響曲の演奏でも感じていた井上さんの、特にスケルツォ楽章や 変拍子の箇所におけるテンポやフレージングの把握の的確さには、地理的に重なり合い、影響しあう 部分があったであろう、東欧系の音楽に関する経験があるのではということに、ハチャトゥリアンの演奏を 聴いていて思い当たった。そしてこのことは、井上さんの企画が、単なる理念のレベルのみならず、 音楽的な経験の水準での蓄積に裏打ちされたものであることを雄弁に物語っているように思われた。
既述の通り、聴き始めて35年近くを経ているにも関わらず、私が「大地の歌」に接するのは今回が 初めてであったのだが、その上でまず何よりも強く感じたのは、 実演に接しなければ決してわからないことがたくさんあることは事前に想像していたものの、 ここまでとは思わなかったということである。この作品の演奏頻度は、マーラーの交響曲が頻繁に 演奏されるようになった今日においては、今や相対的には低いものになっているように思われるが、 ビジネスとしての収支計算はおくとしても、この曲の実演にあたっての 歌手も含めた各奏者の技術的な困難は推し量れるし、そうした困難の中で演奏解釈を一つのビジョンにまとめあげる 指揮者の困難も大変なものと思われ、この作品をルーチンのコンサートで、2,3度のプローベで 取り上げるのでは、仮に技術的に破綻のないレベルの演奏は可能としても、作品の実質に釣り合った 十分な演奏をすることは至難の業であるろうことが、はっきりと認識できたように思える。
勿論、演奏における細部の精度については、今回の演奏においても 演奏者の理想とするところからの乖離が無かった訳ではなかろうし、 特に、特別な編成で、一部についてはマーラー自身が意図したよりも更に規模が大きい (しかもオペラの場合と異なって、ピットに入っているわけではなく、 背後から覆いかぶさるように鳴る)オーケストラを バックに歌う歌手の負担の大きさ、それを配慮して演奏を設計する指揮者のコントロールの 困難の大きさを感じる瞬間もあった。同じメンバーで再演する機会があれば、更に精度の高い、 完成された演奏になることは間違いないことであろう。
だが私が強く感じたのは、「大地の歌」には、本当にこの作品にしか存在せず、この作品を 通してしか垣間見ることができないかけがえのない瞬間がいたるところにあり、 そうした瞬間の備えているある種の経験の質とても言うべきものを実現することは、単なる 演奏精度の尺度で測ることができないものだということである。そしてそうした質の把握において、 この演奏は卓越したものがあって、圧倒されることが何度となくあったのである。そうした質の把握が あればこそ、人によっては、より緻密なアンサンブルの精度を期待したくなるような箇所でも、 音楽の質が損なわれることはない。特にこの作品は、西欧音楽の枠組みの範囲内ではあるけれど、 単純な比例関係にない拍節の交替や重ね合わせによって、西欧音楽の均等なリズム感から 逸脱する傾向や、ヘテロフォニー的な側面をはっきりと備えていることもあって、寧ろ音響的な滲みや 暈のようなものを感じられることさえあり、気にならないどころか、寧ろ「あるべき響き」をそこに聴き取る ことができて感動する瞬間に事欠かなかったのである。
オーケストラの演奏に関して感じたのと同じことは歌唱のアプローチにも感じられ、とりわけアルトの歌唱は、 きれいに破綻無く歌うことよりも、寧ろ、歌詞に寄り添って、語りであれば文字通り囁きから叫びに至る、 表現のパレットを歌唱としてのぎりぎりの限界まで使い切ろうとするかのような歌い方で、 聴いていて肺腑がえぐられるように感じる瞬間が、これまた何度となくあった。 その感触は私の個人的な経験の範囲では、西欧音楽よりも、 寧ろ能楽における謡が高潮したときに受ける印象に近く、これもまた「大地の歌」という作品に 相応しく感じられた。(勿論これは、実際の歌唱の方法が非西欧的であったのでは全くない。 西欧の伝統的に依拠する申し分ない歌唱から、「大地の歌」という作品を介して、私が受け取ったものが、 単に表現豊かであったり、あるいはジャンルが違えば「ソウルフル」とでも形容されたかも知れない ものあるに留まらず、そうしたものにまで及んだいうことに過ぎず、こうした聴き方が私の全く個人的な ものであることを否定するつもりもないし、その当否を議論するつもりもない。他方で仮に私のような聴き方が 間違っていたとしても、私が歌唱から受け取った感動は些かも変わることはない。)
備忘のために、歌唱において特に印象的だった箇所を列挙しておけば、テノールでは、 第1楽章の第3部分の埋め込まれた「酒宴の歌」の部分、第5楽章の中間の色合いがくすんでテンポが緩み、 響きに温かみが差す部分などが印象に残った。アルトの歌唱は既述のように素晴らしく、枚挙に暇がないが、 第2楽章では、第3節、Ohne Ausdruckという指示のある"Mein Herz ist müde"という呟きから始まる部分 (突飛な連想だが、パルジファル第1幕のクンドリの歌唱パートが思い浮んだ)、第4楽章の音響上の ピークが過ぎて音楽が静まった後の部分、特に最後の詩節において 語り手の心情が映りこむことによって差し込む影と悲しみを語る部分。 第6楽章は、どこか一つというのは困難だが、強いて挙げれば、歌ではなく、語りが求められ、 またしてもOhne Ausdruck / Ohne Expressivoの指示があるレシタティーヴォ、特に中間の 器楽の葬送行進曲の後のレシタティーヴォの原調での再現以降、 とりわけてもEr sprach以降の歌詞上、「くぐもった(umflort)声」で語られたとされる部分。 ここもまた、マーラーの再現の常で、 特異点を通り過ぎ、不可逆な相転移が生じ、最早元には戻れないという徴を帯びている決定な箇所だが、 そうした時間性がもたらす音調を過たず捉えていたように感じられた。 繰り返しになるが、ここではいわゆる正確で美しい、高精度な歌唱とは些か異なる質が、音楽と歌詞によって 求められているのだと思うが、それに十全に応える素晴らしい歌唱であったと思う。
また、アルトの語りに伴うフルートもまた、西欧音楽のフルートであるよりは、葦笛や能管を思わせるような 音色と間合いを感じさせ、「大地の歌」の風景を、マーラーの音楽を生み出した側からではなく、 まさに日本の側から浮かび上がらせていて、それゆえこの作品を西欧の演奏家の演奏で聴くときに感じる 違和感のようなものを感じることなく、作品の生み出す風景の中に入り込むことができたように感じられた。 勿論、それは西欧の演奏が間違っているということではなく、とりわけ「大地の歌」のような作品にあっては、 それが生み出された伝統とは異なったパースペクティブから作品を捉える余地があり、この日を演奏は その可能性を汲みつくしているように思われたということである。
再び歌唱から管弦楽に戻って、「あるべき響き」をそこに聴き取れたと感じた瞬間を備忘のために書き留めておくならば、 第1楽章ではまず冒頭の響きが素晴らしく、あっという間に「大地の歌」の舞台である仮想的な空間に聴き手を引き込んでいく。 恥ずかしながら、開曲から1分と経たないというのに、もう感極まってしまって、不覚にも涙が出てしまった程、 その響きは壷に嵌ったものだった。 そして第3節のへ短調による紋中紋(mise en abyme)のように埋め込まれた「酒宴歌」の部分の空気感。 これまでの他の交響曲の演奏でも 感じたことだが、手にとれば重みを感じ取れそうな響きの充実があり、そのせいで、 調性が切り替わることに遷移していく色彩(私個人について言えば、共感覚により具体的に色彩が 感じられるのだが)の鮮やかさが一層鮮明なものになる。
第2楽章も冒頭の鈍く冷えた金色がかった風景が、途中で暗い寒色の空間に移り(そこにランプが灯るのである)、 それが再び暖色の風景に戻って、太陽を歌う部分では陽光の温もりさえ感じられるが、それが冒頭の 霧の中に再び沈んでいく過程の鮮明さ。そうした色彩の変化、温度や光の加減の変化は、中間の 第3,4,5楽章では一層鮮明になるが、特に圧倒されたのは第4楽章で、ト長調の青みがかった透明な風景が、 転調を繰り返す毎に光の調子と色合いを変えていく過程は、音楽を聴くことを通してその風景を見る 人間の心を掻き毟るような効果を持っている。 その過程の頂点でハ長調のまばゆい白色の光に到達するのだが、印象的なのはその後、 音楽が静まったところで、一旦、変ロ長調の暖色系の光の中で最初の雰囲気の再現が始まる(この変ロ長調が、 第6楽章ではまさに「美」に酔いしれた世界を歌うブロックに対応していることにも留意すべきだろうか)のが、 冒頭の調性に戻っていき、再びまた光の調子と色合いを変えかかって、だが今度は主調に落ち着くプロセスがまた、 あまりに鮮烈で、思わず涙なくして聴けないものであった。
第6楽章については、アルトの歌唱とフルートについては既に記したが、それ以外のところについて 書き留めておこうと思ったところで、個別にどこをどうと言っても仕方ないように感じられる。 自分が受けとめた印象の深さに比べて、感想を書きつける言葉が、 あまりに色褪せたものでしかないことを確認することにしかならないのは明らかだからだ。 恐らくは疑いなく、奏者も同じ思いであったと確信しているが、聴き手たる私もまた、 このような音楽を遺してくれたマーラーの天才に脱帽し、感謝する以外にないように思えるのである。
もう一点、特筆しておきたいのが、マーラーの作品の先駆性、その後の音楽がそこから影響を受けた 側面は、やはり実演によってしか十全に把握することができないということである。 この作品が要求する室内楽的な繊細なバランスは、工芸品のような完成度を追求すれば、 録音技術が可能にする調整を介した方がよりよく実現できるという側面もあろうが、 その一方で、特にこの作品で追求されている、単純な比例関係にない異なる音価の重ね合わせがもたらすゆらぎや、 ミュートの使用やベルアップ、あるいは複数のパートへの振り分けや重ね合わせによって もたらされる空間的な厚みや距離感の効果、より「絵画的」な効果としては、例えば第二楽章において両翼配置の ヴァイオリンが描き出す霧の渦が重なり合っては消えてゆく様、更には第6楽章において、非常に 低い音域を用いることによって、日本の伝統音楽で言うところの音の「さわり」が引き出される点などは、 その場で奏者が楽器を鳴らし、音響がホールの空間を介して直接聴き手に届く環境でないと、 十分に感じ取ることができないように思われるし、実際に実演に接してみれば、例えばリゲティやラッヘンマンが マーラーに見出したものが何であるかがごく感覚的に直接に把握できるように思われるのである。 勿論この演奏において、作曲者の意図に忠実な徹底したリアリゼーションが為されたことが、そうした 印象を可能にしているのは言うまでもないことであろう。
そこで音が鳴っているのを直接経験しつつ、だが、それとは異なる仮想的な空間で音が響いている、 その仮想的な空間こそが、「大地の歌」においては歌詞によって語られる場であり、その場もまた 単一ではなく、重層的・複合的なものであるということを、再生装置を介した聴取でそれを予感しつつ 聴くのとは全く異なって、直接的に「体験」するのは、この上なく魅惑的な経験であり、 恐らく聴き手自身が作曲家であれば、この作品は、そこから自分が取り込むことのできる アイデアが溢れんばかりの存在なのではないかだろうかというようなことを思わずにはいられなかった程だったのである。
勿論、これまで30年以上にわたって録音媒体を介して、或は楽譜を読む事を通して、 この作品の凄さは十二分に知っているつもりでいたけれど、実演に接してみれば、 そうした理解が、この音楽のもつ力の本当の凄みを全く捉えられていなかったことを 感じずにはいられない。マーラー自身はこの作品をあまりに絶望的で、聴いた人が 自殺するのではないかと語ったとワルターが伝えているが、 その音楽が聴き手に働きかける力の大きさについては、掛け値なしに、比喩でなく、 そうしたものであったと感じる一方で、その方向性については、マーラーの言葉には反して、 この音楽は、(後に録音媒体でそのような聴取が可能になったように)それを一人で、 しかもどこでもない場所、どこでもない時から響いてくる、幽霊的なものとして聴くのではなく、 実演によって接してみれば、或る意味では逆説的に、この音楽の持つ徹底的に個人的な性格と、 そこに篭められた悲しみと絶望の深さ故に、有限の生命に限界付けられ、容赦ない環境の猛威の中で立ち尽くし、 あるいは蹲って耐える他ない、寄る辺なき弱者が生きていくための希望を与えてくれるものであることを はっきりと感じることができたように思える。アドルノがマーラーの音楽を、虐げられた者に対して手を 差し伸べるのだと言っているが、そうした側面は実演を通してこそ、実感できるもののように思われる。
この音楽は、このように時間と場所の隔たりを超えて、 繰り返し実演されることによって、世代を超え、狭い意味での文化的伝統の差異さえ超えて、 継承されなくてはならないし、この作品が他ならぬ自分に対して手を差し伸べているのを感じ、 この音楽から力を受けとった者は、そうした継承に寄与すべきなのだというように感じられ、 それ故に、聴き手として実演に関わることで、自分もまた、ごく僅かであっても、 そうした継承に寄与できたことを嬉しく感じたのである。そして勿論、そうした機会を提供し、 そうした経験を聴き手に贈与してくれた、井上さんをはじめとする奏者の方々、のみならず、 この演奏会の企画、運営に携わった方々への感謝の思いを強くしたのであった。
このような演奏を実現するには、本番の集中も勿論だが、徹底した研究の上に、 幾度もの徹底したプローベが必要であったこと、更には、そもそもこのような演奏会を 企画し実現するためには私などには及びもつかないような、大変なパワーが必要と されることを痛感し、音楽監督の井上喜惟さんをはじめとする 奏者の方々には只々敬服するばかりである。 このような貴重な経験をさせていただいたことに対して、 改めて感謝の意を表するとともに、いよいよ最後となる次回の第8交響曲の演奏の 成功を祈念しつつ、この感想を終えたい。(2015.8.23初稿公開, 24修正)
2015年8月22日 ミューザ川崎シンフォニーホール
ハチャトゥリアン ピアノ協奏曲変ニ長調
井上喜惟(指揮)
カレン・ハコビヤン(ピアノ)
マーラー祝祭オーケストラ
(アンコール)ハコビヤン バッソ・オスティナート
カレン・ハコビヤン(ピアノ)
マーラー 交響曲「大地の歌」
井上喜惟(指揮)
今尾滋(テノール)
蔵野蘭子(アルト)
マーラー祝祭オーケストラ
マーラー祝祭オーケストラ(旧・ジャパン・グスタフ・マーラー・オーケストラ)の特別演奏会を聴きにミューザ川崎を訪れた。曲目はハチャトゥリアンのピアノ協奏曲変ニ長調と「大地の歌」であったが、 ピアノ協奏曲の演奏後、休憩を挟んでプログラム後半の「大地の歌」が演奏される前には、 ハチャトゥリアンのピアノ協奏曲変ニ長調でソロを弾いたカレン・ハコビヤンさんがアンコール曲として、 自作のバッソ・オスティナートを披露した。 プログラムの構成の意図に関しては、音楽監督の井上喜惟さんがプログラムノートに書かれているが、 とりわけ「20世紀に入り、オスマン帝国領内におけるジェノサイド、ナチスドイツのホロコーストによる民族離散」 という共通性に関しては、ハコビヤンさんが自ら、アルメニア人ジェノサイドの追憶のために書いたと日本語で 紹介して演奏した「バッソ・オスティナート」が加わることで、その意図が一層明確になり、「大地の歌」を 受容する際の文脈が与えられたことを明記しておく必要があると考え、そのことを最初に記載しておきたい。
アルメニアの歴史についての私の知識はささやかなものではあるけれど、 ノアの方舟の辿り着いた土地に住む人々が、とりわけてもオスマン・トルコとの 関係で恐るべき苦難を味わったこと、しかもジェノサイドの計画性・組織性については未だに トルコは認めようとしていないことは以前に調べたことがあり、それらを思い起こさずにはいられない。 マーラーに関連した文脈に限っても、例えば妻アルマの後の伴侶であるフランツ・ヴェルフェル(ちなみに 彼もまたユダヤ人であり、そのせいもあってアルマはナチスに追われ、ヴェルフェルとともにアメリカに 脱出することを強いられる)の代表作が1915年のアルメニア人ジェノサイドに取材した、 「モーセ山の四十日」(Die vierzig Tage des Musa Dagh)という1933年に書かれた小説であることが想起されよう。 ヴェルフェルの作品の主題は、まさにハコビヤンさんの追憶の対象のそれであり、今年がまさにその出来事から 100年の節目の年であることを、私はここで記録しておかずにはいられない。
そうしてまた更に不可避的に、マーラーの没後にユダヤ人が経験することになり、一例を挙げれば、 パウル・ツェランの詩作によって、その言語を絶する傷が証言されているホロコーストについては勿論のこと、 日本人もまた、太平洋戦争末期の無差別都市爆撃、広島と長崎の原爆を経験する一方で、 南京事件(規模はともかく、それが事実であることを否定することはできないだろう)をはじめとする 侵略行為については加害者の立場にあることを意識せざるを得ない。中国の詩を素材とした 「大地の歌」を、日本において受容するにあたり、仮にそうしたことを抜きにしたいと考える人がいたとして、 寧ろ目をそむけるべきではないのではないかと思われるし、更には今日の中国と日本の関係をも加えた文脈の中で、1世紀前に異郷のユダヤ人が書いた音楽を、今、此処で演奏し、聴取するのだという ことに対しては意識的であるべきだと考える。
勿論そうしたことは、音楽を享受することについて必ずしも直接的な理由や動機となるべきでは ないかも知れないし、かつまた、そうした文脈に限定して音楽を聴くというのは極論でもあり、実際には抽象に過ぎないが、 逆に、無菌室よろしく、あらゆる文脈を剥ぎ取った防音設備の中で純粋に音響として音楽作品を享受する というのもまた、抽象に過ぎない。実際には演奏者も聴き手も、それぞれの多層的な文脈の中で音楽を 経験するわけだし、(拒絶も含めて)聴き手は与えられた文脈を、自分の展望の中で受けとめた上で 音楽に接すれば良いのだと思うが、私個人について言えば、 自分にとって初めての「大地の歌」の実演に接するにあたり、 このような文脈の下で「大地の歌」を聴くことは、非常に貴重な経験であったと思う。
私自身もまた、戦前及び戦後すぐの「大地の歌」の受容に纏わるエピソードについて、 自分の知る若干の事柄をまとめた文章を公開しているが、それらを踏まえた上で、折りしも戦後70年、 アルメニア人ジェノサイドから100年の節目に、かくの如き文脈を与えられた今回のコンサートは、 「大地の歌」の受容において、重要な意義を持つものであると考える。 今回のコンサートを、とりわけても「大地の歌」を、現在の日本で演奏し、それを聴くことに対して、 このような文脈づけをした音楽監督の井上喜惟さんの企画に対して、まずは敬意を表したい。
以下、コンサートの感想としては、いつもの通り、マーラーの作品のみに限り、かつ、 「大地の歌」の実演に接するに際しての考えについては、今回はプログラムノートに記載させていただく 機会を得たので、実演に接して受けとめたものに限って記録しておくことにする。「大地の歌」の 実演に何度も接している方にしてみれば、何とも拙いものと映るであろうが、それは仕方があるまいし、 いわゆる(客観性を旨とする)演奏会批評が目的ではなく、自分がコミットメントしている対象についての ドキュメントに過ぎないことは、これまでの感想と同様である。
それでも敢て、マーラー以外に関して感じたことを一言 書き加えておくならば、これまでの他の交響曲の演奏でも感じていた井上さんの、特にスケルツォ楽章や 変拍子の箇所におけるテンポやフレージングの把握の的確さには、地理的に重なり合い、影響しあう 部分があったであろう、東欧系の音楽に関する経験があるのではということに、ハチャトゥリアンの演奏を 聴いていて思い当たった。そしてこのことは、井上さんの企画が、単なる理念のレベルのみならず、 音楽的な経験の水準での蓄積に裏打ちされたものであることを雄弁に物語っているように思われた。
* * *
既述の通り、聴き始めて35年近くを経ているにも関わらず、私が「大地の歌」に接するのは今回が 初めてであったのだが、その上でまず何よりも強く感じたのは、 実演に接しなければ決してわからないことがたくさんあることは事前に想像していたものの、 ここまでとは思わなかったということである。この作品の演奏頻度は、マーラーの交響曲が頻繁に 演奏されるようになった今日においては、今や相対的には低いものになっているように思われるが、 ビジネスとしての収支計算はおくとしても、この曲の実演にあたっての 歌手も含めた各奏者の技術的な困難は推し量れるし、そうした困難の中で演奏解釈を一つのビジョンにまとめあげる 指揮者の困難も大変なものと思われ、この作品をルーチンのコンサートで、2,3度のプローベで 取り上げるのでは、仮に技術的に破綻のないレベルの演奏は可能としても、作品の実質に釣り合った 十分な演奏をすることは至難の業であるろうことが、はっきりと認識できたように思える。
勿論、演奏における細部の精度については、今回の演奏においても 演奏者の理想とするところからの乖離が無かった訳ではなかろうし、 特に、特別な編成で、一部についてはマーラー自身が意図したよりも更に規模が大きい (しかもオペラの場合と異なって、ピットに入っているわけではなく、 背後から覆いかぶさるように鳴る)オーケストラを バックに歌う歌手の負担の大きさ、それを配慮して演奏を設計する指揮者のコントロールの 困難の大きさを感じる瞬間もあった。同じメンバーで再演する機会があれば、更に精度の高い、 完成された演奏になることは間違いないことであろう。
だが私が強く感じたのは、「大地の歌」には、本当にこの作品にしか存在せず、この作品を 通してしか垣間見ることができないかけがえのない瞬間がいたるところにあり、 そうした瞬間の備えているある種の経験の質とても言うべきものを実現することは、単なる 演奏精度の尺度で測ることができないものだということである。そしてそうした質の把握において、 この演奏は卓越したものがあって、圧倒されることが何度となくあったのである。そうした質の把握が あればこそ、人によっては、より緻密なアンサンブルの精度を期待したくなるような箇所でも、 音楽の質が損なわれることはない。特にこの作品は、西欧音楽の枠組みの範囲内ではあるけれど、 単純な比例関係にない拍節の交替や重ね合わせによって、西欧音楽の均等なリズム感から 逸脱する傾向や、ヘテロフォニー的な側面をはっきりと備えていることもあって、寧ろ音響的な滲みや 暈のようなものを感じられることさえあり、気にならないどころか、寧ろ「あるべき響き」をそこに聴き取る ことができて感動する瞬間に事欠かなかったのである。
* * *
オーケストラの演奏に関して感じたのと同じことは歌唱のアプローチにも感じられ、とりわけアルトの歌唱は、 きれいに破綻無く歌うことよりも、寧ろ、歌詞に寄り添って、語りであれば文字通り囁きから叫びに至る、 表現のパレットを歌唱としてのぎりぎりの限界まで使い切ろうとするかのような歌い方で、 聴いていて肺腑がえぐられるように感じる瞬間が、これまた何度となくあった。 その感触は私の個人的な経験の範囲では、西欧音楽よりも、 寧ろ能楽における謡が高潮したときに受ける印象に近く、これもまた「大地の歌」という作品に 相応しく感じられた。(勿論これは、実際の歌唱の方法が非西欧的であったのでは全くない。 西欧の伝統的に依拠する申し分ない歌唱から、「大地の歌」という作品を介して、私が受け取ったものが、 単に表現豊かであったり、あるいはジャンルが違えば「ソウルフル」とでも形容されたかも知れない ものあるに留まらず、そうしたものにまで及んだいうことに過ぎず、こうした聴き方が私の全く個人的な ものであることを否定するつもりもないし、その当否を議論するつもりもない。他方で仮に私のような聴き方が 間違っていたとしても、私が歌唱から受け取った感動は些かも変わることはない。)
備忘のために、歌唱において特に印象的だった箇所を列挙しておけば、テノールでは、 第1楽章の第3部分の埋め込まれた「酒宴の歌」の部分、第5楽章の中間の色合いがくすんでテンポが緩み、 響きに温かみが差す部分などが印象に残った。アルトの歌唱は既述のように素晴らしく、枚挙に暇がないが、 第2楽章では、第3節、Ohne Ausdruckという指示のある"Mein Herz ist müde"という呟きから始まる部分 (突飛な連想だが、パルジファル第1幕のクンドリの歌唱パートが思い浮んだ)、第4楽章の音響上の ピークが過ぎて音楽が静まった後の部分、特に最後の詩節において 語り手の心情が映りこむことによって差し込む影と悲しみを語る部分。 第6楽章は、どこか一つというのは困難だが、強いて挙げれば、歌ではなく、語りが求められ、 またしてもOhne Ausdruck / Ohne Expressivoの指示があるレシタティーヴォ、特に中間の 器楽の葬送行進曲の後のレシタティーヴォの原調での再現以降、 とりわけてもEr sprach以降の歌詞上、「くぐもった(umflort)声」で語られたとされる部分。 ここもまた、マーラーの再現の常で、 特異点を通り過ぎ、不可逆な相転移が生じ、最早元には戻れないという徴を帯びている決定な箇所だが、 そうした時間性がもたらす音調を過たず捉えていたように感じられた。 繰り返しになるが、ここではいわゆる正確で美しい、高精度な歌唱とは些か異なる質が、音楽と歌詞によって 求められているのだと思うが、それに十全に応える素晴らしい歌唱であったと思う。
また、アルトの語りに伴うフルートもまた、西欧音楽のフルートであるよりは、葦笛や能管を思わせるような 音色と間合いを感じさせ、「大地の歌」の風景を、マーラーの音楽を生み出した側からではなく、 まさに日本の側から浮かび上がらせていて、それゆえこの作品を西欧の演奏家の演奏で聴くときに感じる 違和感のようなものを感じることなく、作品の生み出す風景の中に入り込むことができたように感じられた。 勿論、それは西欧の演奏が間違っているということではなく、とりわけ「大地の歌」のような作品にあっては、 それが生み出された伝統とは異なったパースペクティブから作品を捉える余地があり、この日を演奏は その可能性を汲みつくしているように思われたということである。
* * *
再び歌唱から管弦楽に戻って、「あるべき響き」をそこに聴き取れたと感じた瞬間を備忘のために書き留めておくならば、 第1楽章ではまず冒頭の響きが素晴らしく、あっという間に「大地の歌」の舞台である仮想的な空間に聴き手を引き込んでいく。 恥ずかしながら、開曲から1分と経たないというのに、もう感極まってしまって、不覚にも涙が出てしまった程、 その響きは壷に嵌ったものだった。 そして第3節のへ短調による紋中紋(mise en abyme)のように埋め込まれた「酒宴歌」の部分の空気感。 これまでの他の交響曲の演奏でも 感じたことだが、手にとれば重みを感じ取れそうな響きの充実があり、そのせいで、 調性が切り替わることに遷移していく色彩(私個人について言えば、共感覚により具体的に色彩が 感じられるのだが)の鮮やかさが一層鮮明なものになる。
第2楽章も冒頭の鈍く冷えた金色がかった風景が、途中で暗い寒色の空間に移り(そこにランプが灯るのである)、 それが再び暖色の風景に戻って、太陽を歌う部分では陽光の温もりさえ感じられるが、それが冒頭の 霧の中に再び沈んでいく過程の鮮明さ。そうした色彩の変化、温度や光の加減の変化は、中間の 第3,4,5楽章では一層鮮明になるが、特に圧倒されたのは第4楽章で、ト長調の青みがかった透明な風景が、 転調を繰り返す毎に光の調子と色合いを変えていく過程は、音楽を聴くことを通してその風景を見る 人間の心を掻き毟るような効果を持っている。 その過程の頂点でハ長調のまばゆい白色の光に到達するのだが、印象的なのはその後、 音楽が静まったところで、一旦、変ロ長調の暖色系の光の中で最初の雰囲気の再現が始まる(この変ロ長調が、 第6楽章ではまさに「美」に酔いしれた世界を歌うブロックに対応していることにも留意すべきだろうか)のが、 冒頭の調性に戻っていき、再びまた光の調子と色合いを変えかかって、だが今度は主調に落ち着くプロセスがまた、 あまりに鮮烈で、思わず涙なくして聴けないものであった。
第6楽章については、アルトの歌唱とフルートについては既に記したが、それ以外のところについて 書き留めておこうと思ったところで、個別にどこをどうと言っても仕方ないように感じられる。 自分が受けとめた印象の深さに比べて、感想を書きつける言葉が、 あまりに色褪せたものでしかないことを確認することにしかならないのは明らかだからだ。 恐らくは疑いなく、奏者も同じ思いであったと確信しているが、聴き手たる私もまた、 このような音楽を遺してくれたマーラーの天才に脱帽し、感謝する以外にないように思えるのである。
* * *
もう一点、特筆しておきたいのが、マーラーの作品の先駆性、その後の音楽がそこから影響を受けた 側面は、やはり実演によってしか十全に把握することができないということである。 この作品が要求する室内楽的な繊細なバランスは、工芸品のような完成度を追求すれば、 録音技術が可能にする調整を介した方がよりよく実現できるという側面もあろうが、 その一方で、特にこの作品で追求されている、単純な比例関係にない異なる音価の重ね合わせがもたらすゆらぎや、 ミュートの使用やベルアップ、あるいは複数のパートへの振り分けや重ね合わせによって もたらされる空間的な厚みや距離感の効果、より「絵画的」な効果としては、例えば第二楽章において両翼配置の ヴァイオリンが描き出す霧の渦が重なり合っては消えてゆく様、更には第6楽章において、非常に 低い音域を用いることによって、日本の伝統音楽で言うところの音の「さわり」が引き出される点などは、 その場で奏者が楽器を鳴らし、音響がホールの空間を介して直接聴き手に届く環境でないと、 十分に感じ取ることができないように思われるし、実際に実演に接してみれば、例えばリゲティやラッヘンマンが マーラーに見出したものが何であるかがごく感覚的に直接に把握できるように思われるのである。 勿論この演奏において、作曲者の意図に忠実な徹底したリアリゼーションが為されたことが、そうした 印象を可能にしているのは言うまでもないことであろう。
そこで音が鳴っているのを直接経験しつつ、だが、それとは異なる仮想的な空間で音が響いている、 その仮想的な空間こそが、「大地の歌」においては歌詞によって語られる場であり、その場もまた 単一ではなく、重層的・複合的なものであるということを、再生装置を介した聴取でそれを予感しつつ 聴くのとは全く異なって、直接的に「体験」するのは、この上なく魅惑的な経験であり、 恐らく聴き手自身が作曲家であれば、この作品は、そこから自分が取り込むことのできる アイデアが溢れんばかりの存在なのではないかだろうかというようなことを思わずにはいられなかった程だったのである。
* * *
勿論、これまで30年以上にわたって録音媒体を介して、或は楽譜を読む事を通して、 この作品の凄さは十二分に知っているつもりでいたけれど、実演に接してみれば、 そうした理解が、この音楽のもつ力の本当の凄みを全く捉えられていなかったことを 感じずにはいられない。マーラー自身はこの作品をあまりに絶望的で、聴いた人が 自殺するのではないかと語ったとワルターが伝えているが、 その音楽が聴き手に働きかける力の大きさについては、掛け値なしに、比喩でなく、 そうしたものであったと感じる一方で、その方向性については、マーラーの言葉には反して、 この音楽は、(後に録音媒体でそのような聴取が可能になったように)それを一人で、 しかもどこでもない場所、どこでもない時から響いてくる、幽霊的なものとして聴くのではなく、 実演によって接してみれば、或る意味では逆説的に、この音楽の持つ徹底的に個人的な性格と、 そこに篭められた悲しみと絶望の深さ故に、有限の生命に限界付けられ、容赦ない環境の猛威の中で立ち尽くし、 あるいは蹲って耐える他ない、寄る辺なき弱者が生きていくための希望を与えてくれるものであることを はっきりと感じることができたように思える。アドルノがマーラーの音楽を、虐げられた者に対して手を 差し伸べるのだと言っているが、そうした側面は実演を通してこそ、実感できるもののように思われる。
この音楽は、このように時間と場所の隔たりを超えて、 繰り返し実演されることによって、世代を超え、狭い意味での文化的伝統の差異さえ超えて、 継承されなくてはならないし、この作品が他ならぬ自分に対して手を差し伸べているのを感じ、 この音楽から力を受けとった者は、そうした継承に寄与すべきなのだというように感じられ、 それ故に、聴き手として実演に関わることで、自分もまた、ごく僅かであっても、 そうした継承に寄与できたことを嬉しく感じたのである。そして勿論、そうした機会を提供し、 そうした経験を聴き手に贈与してくれた、井上さんをはじめとする奏者の方々、のみならず、 この演奏会の企画、運営に携わった方々への感謝の思いを強くしたのであった。
* * *
このような演奏を実現するには、本番の集中も勿論だが、徹底した研究の上に、 幾度もの徹底したプローベが必要であったこと、更には、そもそもこのような演奏会を 企画し実現するためには私などには及びもつかないような、大変なパワーが必要と されることを痛感し、音楽監督の井上喜惟さんをはじめとする 奏者の方々には只々敬服するばかりである。 このような貴重な経験をさせていただいたことに対して、 改めて感謝の意を表するとともに、いよいよ最後となる次回の第8交響曲の演奏の 成功を祈念しつつ、この感想を終えたい。(2015.8.23初稿公開, 24修正)
Labels:
ジャパン・グスタフマーラー・オーケストラ,
マーラー祝祭オーケストラ,
井上喜惟,
演奏会記録,
大地の歌
2015年8月22日土曜日
『大地の歌』の「今」と「此処」 (2015.8.22 マーラー祝祭オーケストラ特別演奏会によせて)
『大地の歌』が喚起する、眼前に確かに広がると感じられる風景は、一体何処のものなのか? 1世紀以上の時間的な隔たりと地球を1/3周分の空間的な隔たりを介して21世紀の日本でこの作品に接する者にとって、マーラーの作品のみならず、西洋のクラシック音楽の中でも特異な相貌を示すこの作品は、良かれ悪しかれテクノロジーの影響下にある長い受容の歴史を経て尚、未だ謎めいた存在であることを止めないかに見える。
クルト・ブラウコップフ等が指摘するように、マーラーの作品の普及にはLPレコードを代表とする録音技術の発達が大きく寄与してきたが、『大地の歌』に関しては1936年のSPレコードへの収録以来、LPレコードからCDを経て今日に至る迄に膨大なディスコグラフィーが築かれ、過去の歴史的名演の数々を何度も繰り返し聴くことができる替りに、その特異な編成ゆえか、マーラーの演奏が当たり前になった今日となっては、演奏頻度が飛躍的に向上した他の作品に比べ、実演に接する機会は寧ろ相対的に減っているかのようだ。のみならず、ラジオやテレビによる実況放送に加え、Live Streamingのような技術によって「生演奏」自体がますます仮想化しつつあるかに見える。
他方、作曲の当時マーラーが見ていた風景はと言えば、既にマーラーの時代に存在していた写真に加え、現在では例えばGoogle Street Viewを用いれば、(これはマーラーの時代にようやく発明されたばかりで実用化前であった)飛行機に乗り、鉄道や車により現地を訪れることなく、自宅でドロミテの風景の中を仮想的に移動することができる。今や、トーブラッハを訪れたデチャイが書き留めた、マーラーが毎日午後に逍遥したとされる道を逍遥することすらできるのだ。だがだからといって、マーラーがドロミテの風景を通して、アドルノのいう「仮晶(Pseudomorphose)」として構築した風景が其処にあるということはできない。それは端的に、作品の裡に仮想的なかたちでしか存在しえないのだ。
『大地の歌』の歌詞の素材である、漢詩に基づくハンス・ベトゲの追創作(Nachdichtung)を巡っては、オリジナルの漢詩の推定は勿論、エルヴェ・サン・ドニやユディット・ゴーチェの仏訳やハイルマンの独訳を経由したベトゲの追創作の過程が追跡され、誤訳の実証的な指摘さえされてきた。だが既に半世紀近く前に吉川幸次郎が指摘している通り、漢詩はあくまで素材に過ぎず、ベトゲのみならず、マーラー自身による自由な変形を受けている点を見落としてはならず、仮想のものでしかない中国の風景もまた、そうであることにより、吉川の指摘の通りに、中国的であると同時に普遍的なものたり得ているのである。
更に言えば、歌詞に対するハンス・マイヤーの辛辣な評に対しアドルノが述べた通り、素材に過ぎない詩のみを音楽と独立に論ずるのは、文化的な潮流、時代の嗜好としてのオリエンタリズムやら当時流行の世紀末的な「死のイメージ」やらに還元することと同様、マーラーの疎外の意識が「仮晶」としてこの作品に定着したものを損ない、この作品において達成されたものを却って見えなくさせてしまう危険があるだろう。
『大地の歌』が交響曲か否かという問題もまた、「第9の迷信」に関連づけ、単純な二者択一を論じるのは皮相である。コンサートやCD販売といった興行や流通の制度からは厄介者扱いされるであろう、大管弦楽と2名の歌手を必要とする交響曲にして連作歌曲というユニークな形態の作品が、創作の到達点の一つとして産み出されたことこそが、マーラーの創作の特異性を示しているのである。歌詞と音楽との関係は勿論、変形の技法とともに、独自の「調性格論」(Tonartencharakteristik)をベースにした発展的調性によるシンフォニックな作品の設計が実現する6つの楽章間の多層的な構造を、ある時にはその中を逍遥し、ある時には俯瞰しつつ具体的に眺めていくことこそ重要であり、そうしてこそこの作品の無尽蔵の豊饒さに触れ、この形態でのみ実現可能な実質を捉えうるのでないか?
『大地の歌』という作品の実質を把握するにあたり、例えば、題名にも含まれるErdeという単語の孕む、有限で悲惨な「地上」と永遠に輝く「大地」との両義性を、どう訳し分けるかといった翻訳の問題から辿るのは一見したところ本末転倒に見えるかも知れない。
だが上述のような、素材のレヴェルでの、狭義の翻訳には収まらない変形・変換の介在を思えば、ことこの作品に限っては翻訳の問題は決して副次的ではないし、もっと言えば、別にマーラーでなくても、歌詞つきの音楽でなくても、異国の音楽を受容するに際しては、無意識的であれ、何らかの「翻訳」が為されているに違いない。日本人にとっては外国語であるドイツ語の歌詞を十分に身体化できないことの逃げ口上ではなしに、歌詞の注釈として音楽を解釈するような姿勢はこの作品には相応しくないし、楽曲においてもそうであるように、歌詞の水準においても、単なるポプリ、アンソロジーではない、絶えざる変形と複数の層の重ね合わせにより構築される仮想的な世界に端的に向かい合うべきなのだ。
日本から見れば所詮は外国であるけれど、非常に長期に渉って徹底した影響を受け、独特の受容をしてきた経緯から、西洋のオリエンタリズムに対して、謂わば「対偶」の位置から中国に向き合うのであれば、日本において問題となるのは、単純な洋の東西の差異ではありえない。万延元年に生まれ、明治44年に没したマーラーの同時代の、未だ漢詩を自ら作る伝統を受け継いでいた日本人であればともかくも、1世紀後の日本に生きる人間にとって、『大地の歌』の「原風景」にしても、どこか既視感のあるものであり乍ら、最早過去のものであり、かつての日本人に比べてずっと意識的に向き合うものでしかないだろう。
だが逆にそれだけに一層、非本来的なものを擁護する戦略としてマーラーがとった、漢詩を素材とした擬態が孕む屈折により浮かび上がる風景の見え方の面において、不思議な近さ、もっといえば構造的な同型性の如きものを感じずにはいられない。この音楽が指し示す仮想的な場所を、マーラーがドロミテの風景に「仮晶」として見たのと構造的に似た仕方で、我々は日本の風景の中に、やはり「仮晶」として見出すことができる、のみならず寧ろ逆説的に、精神的なLandscapeとしては、本物の中国の風景よりもそちらの方が(非在としての)「真実」と名指すにふさわしいように感じられるのである。
そしてその由来を問うならば、マーラー個人の様式を特徴づける、複合的な楽曲構造の重ね合わせや楽章間の非因習的な関連づけこそが、有限で儚く、永遠性に与れない、過ぎ行くものとしての自己の限界の認識によってもたらされる、かつては憧れの対象であった「愛する大地」の永遠性に対する疎外の意識が生み出すErdeの両義性、単純な対立でもなく、対立の止揚、解消でもないようなErdeに対する見方を導き出すことに気付かされる。
単純な反復を忌避するマーラーの嗜好や、不連続的な相転移も含めて複雑に展開するマーラーの音楽の動的な性格は、単純なシンメトリーや冒頭に回帰する円環的な時間構造と対立し、緊張をもたらす契機であり、東洋的と言われ、内容上、春の訪れの反復による循環のうちに永遠性を見出すかに見える『大地の歌』もまた、地上の悲惨さの認識から自己の有限性への受容へと至る心的過程の音楽的実現こそがその実質であろう。
そのことは例えば、「悲劇」の調であるイ短調で始まる第1楽章において、マーラーがベトゲの詞章を改変し、詩の中で酒杯を干す前に、琴か箜篌か或は琵琶かを弾きつつ歌う歌詞として入れ子状に埋め込んだ、第6楽章末尾の予告であるところの第3連がmemento moriの調であるヘ短調で歌われるのが、一旦、第5楽章末尾で(第6交響曲第1楽章や第10交響曲第1部のように)同主調のイ長調に到達した後、第6交響曲同様ハ短調でフィナーレたる第6楽章が再開し、最後は冒頭の平行調にあたるハ長調に辿り着き、更にそれまでのマーラーのモットーであった長調から短調への推移を宙に吊ってしまうかのように、付加6の和音で作品全体が閉じられるという調的設計自体が物語っているものなのだ。
マーラーがワルターに第3交響曲作曲時に言った「もう作曲してしまったから、現実を見るには及ばない」という、自信過剰な芸術家の大言壮語と見做されかねない言葉を、「作曲とは世界の構築である」という、これまたそれ自体、文学的修辞の類として比喩的に受け止められがちな言葉を文字通りに受け止めることを通じて理解し、必要であれば既存の楽曲分析の枠組みを超え、複製技術を介さない実演という契機を含めた音楽的「出来事」の過程の全体を複雑系としてシステム論的に捉えることによってこそ、マーラーが遺したものを受け止め、未来へと向けて応答することが可能になるのではなかろうか。
今回の実演の企画が、演奏に参加する人のみならず、聴き手も含めて、まさにそうした「今」「此処」における『大地の歌』の生産的な受容にとってのまたとない「出来事」となることを願って止まない。
クルト・ブラウコップフ等が指摘するように、マーラーの作品の普及にはLPレコードを代表とする録音技術の発達が大きく寄与してきたが、『大地の歌』に関しては1936年のSPレコードへの収録以来、LPレコードからCDを経て今日に至る迄に膨大なディスコグラフィーが築かれ、過去の歴史的名演の数々を何度も繰り返し聴くことができる替りに、その特異な編成ゆえか、マーラーの演奏が当たり前になった今日となっては、演奏頻度が飛躍的に向上した他の作品に比べ、実演に接する機会は寧ろ相対的に減っているかのようだ。のみならず、ラジオやテレビによる実況放送に加え、Live Streamingのような技術によって「生演奏」自体がますます仮想化しつつあるかに見える。
他方、作曲の当時マーラーが見ていた風景はと言えば、既にマーラーの時代に存在していた写真に加え、現在では例えばGoogle Street Viewを用いれば、(これはマーラーの時代にようやく発明されたばかりで実用化前であった)飛行機に乗り、鉄道や車により現地を訪れることなく、自宅でドロミテの風景の中を仮想的に移動することができる。今や、トーブラッハを訪れたデチャイが書き留めた、マーラーが毎日午後に逍遥したとされる道を逍遥することすらできるのだ。だがだからといって、マーラーがドロミテの風景を通して、アドルノのいう「仮晶(Pseudomorphose)」として構築した風景が其処にあるということはできない。それは端的に、作品の裡に仮想的なかたちでしか存在しえないのだ。
『大地の歌』の歌詞の素材である、漢詩に基づくハンス・ベトゲの追創作(Nachdichtung)を巡っては、オリジナルの漢詩の推定は勿論、エルヴェ・サン・ドニやユディット・ゴーチェの仏訳やハイルマンの独訳を経由したベトゲの追創作の過程が追跡され、誤訳の実証的な指摘さえされてきた。だが既に半世紀近く前に吉川幸次郎が指摘している通り、漢詩はあくまで素材に過ぎず、ベトゲのみならず、マーラー自身による自由な変形を受けている点を見落としてはならず、仮想のものでしかない中国の風景もまた、そうであることにより、吉川の指摘の通りに、中国的であると同時に普遍的なものたり得ているのである。
更に言えば、歌詞に対するハンス・マイヤーの辛辣な評に対しアドルノが述べた通り、素材に過ぎない詩のみを音楽と独立に論ずるのは、文化的な潮流、時代の嗜好としてのオリエンタリズムやら当時流行の世紀末的な「死のイメージ」やらに還元することと同様、マーラーの疎外の意識が「仮晶」としてこの作品に定着したものを損ない、この作品において達成されたものを却って見えなくさせてしまう危険があるだろう。
『大地の歌』が交響曲か否かという問題もまた、「第9の迷信」に関連づけ、単純な二者択一を論じるのは皮相である。コンサートやCD販売といった興行や流通の制度からは厄介者扱いされるであろう、大管弦楽と2名の歌手を必要とする交響曲にして連作歌曲というユニークな形態の作品が、創作の到達点の一つとして産み出されたことこそが、マーラーの創作の特異性を示しているのである。歌詞と音楽との関係は勿論、変形の技法とともに、独自の「調性格論」(Tonartencharakteristik)をベースにした発展的調性によるシンフォニックな作品の設計が実現する6つの楽章間の多層的な構造を、ある時にはその中を逍遥し、ある時には俯瞰しつつ具体的に眺めていくことこそ重要であり、そうしてこそこの作品の無尽蔵の豊饒さに触れ、この形態でのみ実現可能な実質を捉えうるのでないか?
『大地の歌』という作品の実質を把握するにあたり、例えば、題名にも含まれるErdeという単語の孕む、有限で悲惨な「地上」と永遠に輝く「大地」との両義性を、どう訳し分けるかといった翻訳の問題から辿るのは一見したところ本末転倒に見えるかも知れない。
だが上述のような、素材のレヴェルでの、狭義の翻訳には収まらない変形・変換の介在を思えば、ことこの作品に限っては翻訳の問題は決して副次的ではないし、もっと言えば、別にマーラーでなくても、歌詞つきの音楽でなくても、異国の音楽を受容するに際しては、無意識的であれ、何らかの「翻訳」が為されているに違いない。日本人にとっては外国語であるドイツ語の歌詞を十分に身体化できないことの逃げ口上ではなしに、歌詞の注釈として音楽を解釈するような姿勢はこの作品には相応しくないし、楽曲においてもそうであるように、歌詞の水準においても、単なるポプリ、アンソロジーではない、絶えざる変形と複数の層の重ね合わせにより構築される仮想的な世界に端的に向かい合うべきなのだ。
日本から見れば所詮は外国であるけれど、非常に長期に渉って徹底した影響を受け、独特の受容をしてきた経緯から、西洋のオリエンタリズムに対して、謂わば「対偶」の位置から中国に向き合うのであれば、日本において問題となるのは、単純な洋の東西の差異ではありえない。万延元年に生まれ、明治44年に没したマーラーの同時代の、未だ漢詩を自ら作る伝統を受け継いでいた日本人であればともかくも、1世紀後の日本に生きる人間にとって、『大地の歌』の「原風景」にしても、どこか既視感のあるものであり乍ら、最早過去のものであり、かつての日本人に比べてずっと意識的に向き合うものでしかないだろう。
だが逆にそれだけに一層、非本来的なものを擁護する戦略としてマーラーがとった、漢詩を素材とした擬態が孕む屈折により浮かび上がる風景の見え方の面において、不思議な近さ、もっといえば構造的な同型性の如きものを感じずにはいられない。この音楽が指し示す仮想的な場所を、マーラーがドロミテの風景に「仮晶」として見たのと構造的に似た仕方で、我々は日本の風景の中に、やはり「仮晶」として見出すことができる、のみならず寧ろ逆説的に、精神的なLandscapeとしては、本物の中国の風景よりもそちらの方が(非在としての)「真実」と名指すにふさわしいように感じられるのである。
そしてその由来を問うならば、マーラー個人の様式を特徴づける、複合的な楽曲構造の重ね合わせや楽章間の非因習的な関連づけこそが、有限で儚く、永遠性に与れない、過ぎ行くものとしての自己の限界の認識によってもたらされる、かつては憧れの対象であった「愛する大地」の永遠性に対する疎外の意識が生み出すErdeの両義性、単純な対立でもなく、対立の止揚、解消でもないようなErdeに対する見方を導き出すことに気付かされる。
単純な反復を忌避するマーラーの嗜好や、不連続的な相転移も含めて複雑に展開するマーラーの音楽の動的な性格は、単純なシンメトリーや冒頭に回帰する円環的な時間構造と対立し、緊張をもたらす契機であり、東洋的と言われ、内容上、春の訪れの反復による循環のうちに永遠性を見出すかに見える『大地の歌』もまた、地上の悲惨さの認識から自己の有限性への受容へと至る心的過程の音楽的実現こそがその実質であろう。
そのことは例えば、「悲劇」の調であるイ短調で始まる第1楽章において、マーラーがベトゲの詞章を改変し、詩の中で酒杯を干す前に、琴か箜篌か或は琵琶かを弾きつつ歌う歌詞として入れ子状に埋め込んだ、第6楽章末尾の予告であるところの第3連がmemento moriの調であるヘ短調で歌われるのが、一旦、第5楽章末尾で(第6交響曲第1楽章や第10交響曲第1部のように)同主調のイ長調に到達した後、第6交響曲同様ハ短調でフィナーレたる第6楽章が再開し、最後は冒頭の平行調にあたるハ長調に辿り着き、更にそれまでのマーラーのモットーであった長調から短調への推移を宙に吊ってしまうかのように、付加6の和音で作品全体が閉じられるという調的設計自体が物語っているものなのだ。
マーラーがワルターに第3交響曲作曲時に言った「もう作曲してしまったから、現実を見るには及ばない」という、自信過剰な芸術家の大言壮語と見做されかねない言葉を、「作曲とは世界の構築である」という、これまたそれ自体、文学的修辞の類として比喩的に受け止められがちな言葉を文字通りに受け止めることを通じて理解し、必要であれば既存の楽曲分析の枠組みを超え、複製技術を介さない実演という契機を含めた音楽的「出来事」の過程の全体を複雑系としてシステム論的に捉えることによってこそ、マーラーが遺したものを受け止め、未来へと向けて応答することが可能になるのではなかろうか。
今回の実演の企画が、演奏に参加する人のみならず、聴き手も含めて、まさにそうした「今」「此処」における『大地の歌』の生産的な受容にとってのまたとない「出来事」となることを願って止まない。
Labels:
プログラム・ノート,
マーラー祝祭オーケストラ,
大地の歌
2015年8月9日日曜日
マーラーの音楽における時間性のアナクロニスム
もはやマーラーの音楽におけるような時間性は不可能なのだろうか。
それ以前の音楽は最早、絶滅した時間を今に伝える化石の如きものとしか感じられない。
それ以降の音楽は、作品として際立ったものであれば一層、時間性を放棄して別の次元を探求しているかのように見える。
調性を放棄することは垂直方向の和声における響きの放棄である以上に、カデンツがもたらす緊張と解決の原理の放棄であり、
主調領域の確保、属調領域への推移、主調から遠く離れて転調を繰り返し緊張感を高める展開、その末に主調に回帰する再現と
いったソナタ形式やエピソードを挟んだ主要主題への繰り返しの回帰が主調への回帰でもあるロンド形式とそれらの複合としての
ロンド=ソナタに示されるような調的遷移の遍歴の過程の放棄であった。12音が一度づつ鳴ったら終りになるという
ヴェーベルンの耳が感じとった直観はその極限として正しかったが、それは音楽にとって本質的な次元の縮退をしかもたらさない。
圧縮が限界に達したとき、複雑さを目指そうとしても、音の継起する順序という規則のみからは巨視的な構造は産まれてこない。
結果として得られる筈の複雑さは豊かさからは隔たって、単なる混沌と区別がつかなくなってしまう。
その代わりに巨視的な音群の分布を確率的に決定したところで、設計は音の具体的な細部には及ばない。選択される分布や
作曲者の直観的な恣意に任せられる細部に対する嗜好(それこそが創造性・独創性だというわけだ)の結果として得られる音響は、
多くの場合、音楽というよりは自然音のシミュレーションに似ている。
その後の音楽のあるものは、幾つかのパラメータを捨て、自分の自由になる次元を限定し、自ら課した制限の下での可能性を探求する禁欲的な 姿勢を貫いて、結果として豊かな成果に辿り着いたが、それらは皆、どちらかといえば抽象美術に似ている。 音楽である限り時間の次元はなくせないが、そこでの時間の流れは作品の中に閉じていてそれは時間を封じ込めたオブジェのようだ。 例えばリゲティの言う「凍った時間」、「空間化された時間」というのは自己規定としては際立って正確で、リゲティのそれを含めた圧倒的な説得力を 持つ作品は、鋭利な批判的な知性に裏付けられた創られたことを証言する。 そしてその中で共感覚に裏打ちされた色彩や肌理の連続的な変化が追求され、内側に向かっては大変に豊かな次元を獲得することにも成功する。
その結果として、まるで自由は作品の裡にしか残されていないかのように、時間は作品という閉じた空間の中に封じ込められる。 作品の内部は有機的で豊饒だが、たとえそこに動的な軌道が存在し、周到にもゆらぎさえ与えられ、カオティックな挙動が生じるように 構築されていたとしても、それはあくまでも作品の内部でのことでしかない。 その音楽は寧ろ聴き手を細部の微細な変化に集中するようにいざなう。 非常に長い周期で一致するようなリズムの重ね合わせ、単純な比で表せない複数のテンポ、複数の音律の重ね合わせ、 フラクタル的な自己相同性の導入は複雑で有機的な細部をもたらすが、巨視的にみた時間構造は静的なままだ。 そこには生成があり発展があり、階層分化さえあるかも知れないし、人間が演奏することによるゆらぎの発生は許容されても、 隅々まで決定され、作品として紛うことなく設計され、構築されたものなのだ。 そこでは時間は様々な出来事を内包しつつ、強い志向性を持つことなく、まるで自然を映し出したように緩慢で多元的だ。 複数の中心を持ち、更にそれが時間の経過に連れて変化していき、ある領域が広がったかと思えば別の領域が圧縮され、 ある道は延び、ある道は消滅して2つの領域が接合する、といったように可動的で時々刻々と姿を変えるネットワーク構造。 だがそれは巨視的な推移の構造を、目的論的な到達点を持たない。
(例外と呼べるようなケースが皆無というわけではないことも忘れずに記しておくことにしよう。音楽の経験を「旅」と見做し、 聴く前とは別の場所に連れて行かれるような音楽、それを自覚的に企図し、しかも常にではなく、稀にではあってもそれに成功する ケースがないわけではない。そして恐らくそこでの「旅」とは人生の行路そのものでもあるに違いないことも想像できる。 だがそうして稀有な例外であるラッヘンマンの場合でも、それが騒音的な音素材による音響作法に基づく異化効果という、 いわば「表の顔」とどう結びつくのかの方は、私には良くわからない。あるいは「旅」としての側面は単純に音の時間方向の 組織において彼が反動的であるに過ぎないとして切り捨てる立場もあるであろうこともまた、予想できなくもない。異なる 素材の下、昔ながらに構築的であろうとする姿勢。特殊奏法による挑発は目晦ましに過ぎないのか。だが彼が調的組織 抜きでそうした構築に勤しんでいることもまた間違いないことだ。それ自体が稀有なことではないのか。 それが反動だろうが何だろうが、彼が、もしかしたら例外的に、少なくとも私の知る限り彼のみがそれを達成しているのは確かなことなのだから。 だから私はここで結論を出すことを控えざるを得ない。 だが何故ラッヘンマンの音楽に自分が惹かれ続けてきたのかは、こうして考えれば明らかなように感じられる。)
勿論、伝統を拒絶し、素材を縮減し、単純なパターンの反復、それとすぐにわかる複数のパターンの重ね合わせなどに よって推移を設計することはある意味で容易い。だがそれは作品ですらなく、単なる音の知覚の実験に近づく。 複雑さに飽きた耳にとって、聴き取りやすく理解しやすい単純な音のパターンの変化は一時は新鮮で快いものであっただろう。 だが単純さはここでは可能性の貧しさに直結し、複雑さを求めても硬直した方法論は同一の次元をうろうろするばかりで、 どれも似たような変化になるという結果の貧困をどうすることもできない。
管理された時間を嫌ったところで、偶然の出来事の到来に身をゆだねるのは音楽的時間の放棄だ。 何も時間性を探求するのに音楽が唯一の手段なわけではないから、作品として時間を構築することを拒絶するのは自由だ。 そこでは新たな作品概念が生まれ、新たな実践が生じることだろう。だがそれならばコンサートホールなどに留まるのは場違いだし、 一旦そうした音楽的時間の変容(その結果は最早音楽的という形容すら妥当でないほどに徹底したものであった筈だが)を語りながら、 旧態依然の如く過去の音楽にしがみつく人たちの姿はできれば見たくないものだ。 最早20世紀も過去となったが、更に退行して19世紀末の、しかもマージナルで少なくとも意識の水準では、実験的な姿勢とは縁遠い音楽への郷愁を何故か隠せないように見えるその様は不可解で、 それでいて流行の最先端を標榜し、一方では今やモダンの、前衛の時代は終わった、人間性の地平は乗り越えられるべきだと言いながら、 今こそ癒しを、ノスタルジーを、スローライフを、といった宣伝文句が語られるのはマーケティングの必要性ゆえのことであろうと考えるほかない。
かくして協和音が復活し、旋律が復活する。だが反動を恐れてか時間的構造は打ち捨てられたままだから、単調な反復繰り返しは相変わらずだし、 機能和声の支えを持たない旋律は、微分音的なゆらぎを導入し、ヘテロフォニーによって強度や色彩の変化を求めるが、 こちらもまたどこにも辿り着かずに宙を漂うばかりだ。いずれにしても音楽は、聴き手を どこかに連れ去る力を喪ってしまったように感じられる。そう言うと決まって繰り返されるのは、目的論的な時間の流れの放棄と引き換えに、 永遠の瞬間を手にするといった言い回しだが、所詮は日常的な生活の時間の流れの中に点在して消費される存在でしかない多くの場合、 一時のヒーリング、気分転換に利用されるのが関の山に過ぎない。そうした態度を「頽落」として蔑むのは簡単だが、生活自体を 修行の場よろしく音に没入する(あるいは没入できるとの思いなし、ないし勘違いの)特権は、一部の音楽家にのみ許されているに過ぎない。いわゆる「現代音楽」のスノビズムを指弾するその姿勢は、 こちらはこちらで狂信的な環境保護運動などと共通した特権意識が見え隠れする独善性を感じさせられて辟易させられる。(彼らから見れば疑いなく) 「頽落」した聴き手である私には、それもまた自閉の一つの形でしかないようにしか思えない。
一方で多くの場合には、学問の装いの下、1世紀の歳月とその間に獲得された認識などないかのように、今更100年前の出来事の周囲をうろうろし、既に自明のことで あるはずの観点を恰も独自の新発見であるかの如くに述べ立てる姿勢もまた、そうした行為がそれを巡って為された対象が抱いていた筈の 志向に対する裏切りにしか見えない。100年が経過し、しかも異郷のこの地であれば、いまや舶来の骨董品としての価値も出てきたとばかりに アニヴァーサリーなどにかこつけて、こちらはもう一桁上の1000年の一度のスケールの未曾有の災害に逢ったにも関わらず、そんなことはまるで なかったかのようにおかまいもなしに、私のような門外漢からすれば、身内意識丸出しに、同業者間の棲み分けと共存共栄への配慮ばかりが目立つ状況に吐き気を催すことも一再ならずであった。
だが掟の門前でうろつくばかりしか能のない門外漢にしてみれば、マーラーの音楽にはあれ程豊富に存在した筈の時間方向の構造、 聴き手をもどこか別の場所に連れて行かんばかりの、それが作者の意図するところであるならばその限りにおいて「目的論的」という 形容すら誤りとは言い難い、巨大な時間的持続を支える時間方向の方法論的図式に代替するものが、20世紀の音楽の中では 結局発見されることはなかったのではという感覚は否み難い。否、一例をとればマーラーの作品の長大な時間的経過を支える 音楽的構造と、それを利用する具体的な適用の卓越は非専門家の耳にも明らかで、そうであれば尚更、その後の音楽において かくも生産的な原理が放棄されたのは何故なのか改めて不思議な思いに囚われても不思議はない。 確かに、今この音楽をもう一度創ることの不可能性もまた疑いを容れない事実のように思われる。しかし、過去の遺物を骨董品よろしく品定めして愛でることにあれほど熱心な音楽学や音楽史の研究者も、今ここにスコアとして残されたマーラー作品の構造の分析については、旧態依然の道具立てを用いて、それによっては測りえない逸脱を指摘するのが関の山で、マーラーの音楽の持つ構造の特異性を言い当てる道具を作り上げる努力は、少なくともこの極東の島国からの展望においては一向に行われているようには見えない。 せいぜいが前世紀後半に発達した記号論やナラトロジーのような各種の文学理論の枠組みを借りてきて、音楽にも適用しようという試みが海の向こうで行われていることが窺い知れるくらいなもので、寧ろ音楽を出発点とした新たな構造記述の方法が出てきてもよさそうなものだが、具体的な音楽を前にしたら、あまりに素朴で表層的であると哲学者自らが撤回しかねない哲学的な時間論の分析を持ってきて、目の前の具体的で個別的な音楽作品の豊かさをプロクルステスのベッドのようにそぎ落としてしまうような分析しかできていないように見える。それにしても何故なのだ、という疑問が頭に取り憑いて離れない。それは時代の要請なのか。
逆に言えば100年前の音楽に確実にあって、更には今尚力を喪っていないと感じられる側面が未だにあるというのは、 その音楽の指し示す未来を告げてはいないか。時代の制約の中、所与であった語法を換骨奪胎して提示する、今なお異様な力を 喪わないその音楽の動性、超越への衝動に支配された外への運動、未知の地点に聴き手を運んでいってしまう、暴力的なまでの力。 アドルノは全般としては己が批判的に考えていたマーラーの第8交響曲に対して「救い主の危険」という表現を用いた。 私にはこの言い回しはアドルノの逡巡を、聴経験に忠実なアドルノの論理でもって断定し去ることへの躊躇いを感じずにはいられない。 「救い主の危険」。それは今やマーラーの音楽全体について言いうるように私には感じられる。マーラーの音楽の持つ時間性の アナクロニスムは、だが閉塞した現在の凍りついた時間(その認識の何と正しいことか)にあって、単なる夢想に過ぎないとさえ感じられるし、 そのように断罪されるケースも、しばしば見受けられる。だが、そこには文字通り、未だ来たらざるものとしての未来への途があるのではないか。 それは仮想されたものを恰も現実に実現するかのように見せかける詐術ではない。ポテンシャルとしての未来が、音楽の彼方にあるものとして ヴァーチャリティとして指し示されているのではないか。
だが、今ここにおける私は、これ以上遠くに行くことはもうできない。私にとって確実なのはマーラーの音楽を手放してはならない、ということだ。 異様な力に満ちたその音楽を聴くことが時折困難になるにせよ、自分に向かって手を差し伸べ、自分を幽霊の隊列に加わるよう 誘う音楽に耳を閉ざしてはいけない。生き延びてどこか別の場所に辿り着くことを希求し続けるならば。(2012.5.5, 2015.8.10補筆改訂)
その後の音楽のあるものは、幾つかのパラメータを捨て、自分の自由になる次元を限定し、自ら課した制限の下での可能性を探求する禁欲的な 姿勢を貫いて、結果として豊かな成果に辿り着いたが、それらは皆、どちらかといえば抽象美術に似ている。 音楽である限り時間の次元はなくせないが、そこでの時間の流れは作品の中に閉じていてそれは時間を封じ込めたオブジェのようだ。 例えばリゲティの言う「凍った時間」、「空間化された時間」というのは自己規定としては際立って正確で、リゲティのそれを含めた圧倒的な説得力を 持つ作品は、鋭利な批判的な知性に裏付けられた創られたことを証言する。 そしてその中で共感覚に裏打ちされた色彩や肌理の連続的な変化が追求され、内側に向かっては大変に豊かな次元を獲得することにも成功する。
その結果として、まるで自由は作品の裡にしか残されていないかのように、時間は作品という閉じた空間の中に封じ込められる。 作品の内部は有機的で豊饒だが、たとえそこに動的な軌道が存在し、周到にもゆらぎさえ与えられ、カオティックな挙動が生じるように 構築されていたとしても、それはあくまでも作品の内部でのことでしかない。 その音楽は寧ろ聴き手を細部の微細な変化に集中するようにいざなう。 非常に長い周期で一致するようなリズムの重ね合わせ、単純な比で表せない複数のテンポ、複数の音律の重ね合わせ、 フラクタル的な自己相同性の導入は複雑で有機的な細部をもたらすが、巨視的にみた時間構造は静的なままだ。 そこには生成があり発展があり、階層分化さえあるかも知れないし、人間が演奏することによるゆらぎの発生は許容されても、 隅々まで決定され、作品として紛うことなく設計され、構築されたものなのだ。 そこでは時間は様々な出来事を内包しつつ、強い志向性を持つことなく、まるで自然を映し出したように緩慢で多元的だ。 複数の中心を持ち、更にそれが時間の経過に連れて変化していき、ある領域が広がったかと思えば別の領域が圧縮され、 ある道は延び、ある道は消滅して2つの領域が接合する、といったように可動的で時々刻々と姿を変えるネットワーク構造。 だがそれは巨視的な推移の構造を、目的論的な到達点を持たない。
(例外と呼べるようなケースが皆無というわけではないことも忘れずに記しておくことにしよう。音楽の経験を「旅」と見做し、 聴く前とは別の場所に連れて行かれるような音楽、それを自覚的に企図し、しかも常にではなく、稀にではあってもそれに成功する ケースがないわけではない。そして恐らくそこでの「旅」とは人生の行路そのものでもあるに違いないことも想像できる。 だがそうして稀有な例外であるラッヘンマンの場合でも、それが騒音的な音素材による音響作法に基づく異化効果という、 いわば「表の顔」とどう結びつくのかの方は、私には良くわからない。あるいは「旅」としての側面は単純に音の時間方向の 組織において彼が反動的であるに過ぎないとして切り捨てる立場もあるであろうこともまた、予想できなくもない。異なる 素材の下、昔ながらに構築的であろうとする姿勢。特殊奏法による挑発は目晦ましに過ぎないのか。だが彼が調的組織 抜きでそうした構築に勤しんでいることもまた間違いないことだ。それ自体が稀有なことではないのか。 それが反動だろうが何だろうが、彼が、もしかしたら例外的に、少なくとも私の知る限り彼のみがそれを達成しているのは確かなことなのだから。 だから私はここで結論を出すことを控えざるを得ない。 だが何故ラッヘンマンの音楽に自分が惹かれ続けてきたのかは、こうして考えれば明らかなように感じられる。)
勿論、伝統を拒絶し、素材を縮減し、単純なパターンの反復、それとすぐにわかる複数のパターンの重ね合わせなどに よって推移を設計することはある意味で容易い。だがそれは作品ですらなく、単なる音の知覚の実験に近づく。 複雑さに飽きた耳にとって、聴き取りやすく理解しやすい単純な音のパターンの変化は一時は新鮮で快いものであっただろう。 だが単純さはここでは可能性の貧しさに直結し、複雑さを求めても硬直した方法論は同一の次元をうろうろするばかりで、 どれも似たような変化になるという結果の貧困をどうすることもできない。
管理された時間を嫌ったところで、偶然の出来事の到来に身をゆだねるのは音楽的時間の放棄だ。 何も時間性を探求するのに音楽が唯一の手段なわけではないから、作品として時間を構築することを拒絶するのは自由だ。 そこでは新たな作品概念が生まれ、新たな実践が生じることだろう。だがそれならばコンサートホールなどに留まるのは場違いだし、 一旦そうした音楽的時間の変容(その結果は最早音楽的という形容すら妥当でないほどに徹底したものであった筈だが)を語りながら、 旧態依然の如く過去の音楽にしがみつく人たちの姿はできれば見たくないものだ。 最早20世紀も過去となったが、更に退行して19世紀末の、しかもマージナルで少なくとも意識の水準では、実験的な姿勢とは縁遠い音楽への郷愁を何故か隠せないように見えるその様は不可解で、 それでいて流行の最先端を標榜し、一方では今やモダンの、前衛の時代は終わった、人間性の地平は乗り越えられるべきだと言いながら、 今こそ癒しを、ノスタルジーを、スローライフを、といった宣伝文句が語られるのはマーケティングの必要性ゆえのことであろうと考えるほかない。
かくして協和音が復活し、旋律が復活する。だが反動を恐れてか時間的構造は打ち捨てられたままだから、単調な反復繰り返しは相変わらずだし、 機能和声の支えを持たない旋律は、微分音的なゆらぎを導入し、ヘテロフォニーによって強度や色彩の変化を求めるが、 こちらもまたどこにも辿り着かずに宙を漂うばかりだ。いずれにしても音楽は、聴き手を どこかに連れ去る力を喪ってしまったように感じられる。そう言うと決まって繰り返されるのは、目的論的な時間の流れの放棄と引き換えに、 永遠の瞬間を手にするといった言い回しだが、所詮は日常的な生活の時間の流れの中に点在して消費される存在でしかない多くの場合、 一時のヒーリング、気分転換に利用されるのが関の山に過ぎない。そうした態度を「頽落」として蔑むのは簡単だが、生活自体を 修行の場よろしく音に没入する(あるいは没入できるとの思いなし、ないし勘違いの)特権は、一部の音楽家にのみ許されているに過ぎない。いわゆる「現代音楽」のスノビズムを指弾するその姿勢は、 こちらはこちらで狂信的な環境保護運動などと共通した特権意識が見え隠れする独善性を感じさせられて辟易させられる。(彼らから見れば疑いなく) 「頽落」した聴き手である私には、それもまた自閉の一つの形でしかないようにしか思えない。
一方で多くの場合には、学問の装いの下、1世紀の歳月とその間に獲得された認識などないかのように、今更100年前の出来事の周囲をうろうろし、既に自明のことで あるはずの観点を恰も独自の新発見であるかの如くに述べ立てる姿勢もまた、そうした行為がそれを巡って為された対象が抱いていた筈の 志向に対する裏切りにしか見えない。100年が経過し、しかも異郷のこの地であれば、いまや舶来の骨董品としての価値も出てきたとばかりに アニヴァーサリーなどにかこつけて、こちらはもう一桁上の1000年の一度のスケールの未曾有の災害に逢ったにも関わらず、そんなことはまるで なかったかのようにおかまいもなしに、私のような門外漢からすれば、身内意識丸出しに、同業者間の棲み分けと共存共栄への配慮ばかりが目立つ状況に吐き気を催すことも一再ならずであった。
だが掟の門前でうろつくばかりしか能のない門外漢にしてみれば、マーラーの音楽にはあれ程豊富に存在した筈の時間方向の構造、 聴き手をもどこか別の場所に連れて行かんばかりの、それが作者の意図するところであるならばその限りにおいて「目的論的」という 形容すら誤りとは言い難い、巨大な時間的持続を支える時間方向の方法論的図式に代替するものが、20世紀の音楽の中では 結局発見されることはなかったのではという感覚は否み難い。否、一例をとればマーラーの作品の長大な時間的経過を支える 音楽的構造と、それを利用する具体的な適用の卓越は非専門家の耳にも明らかで、そうであれば尚更、その後の音楽において かくも生産的な原理が放棄されたのは何故なのか改めて不思議な思いに囚われても不思議はない。 確かに、今この音楽をもう一度創ることの不可能性もまた疑いを容れない事実のように思われる。しかし、過去の遺物を骨董品よろしく品定めして愛でることにあれほど熱心な音楽学や音楽史の研究者も、今ここにスコアとして残されたマーラー作品の構造の分析については、旧態依然の道具立てを用いて、それによっては測りえない逸脱を指摘するのが関の山で、マーラーの音楽の持つ構造の特異性を言い当てる道具を作り上げる努力は、少なくともこの極東の島国からの展望においては一向に行われているようには見えない。 せいぜいが前世紀後半に発達した記号論やナラトロジーのような各種の文学理論の枠組みを借りてきて、音楽にも適用しようという試みが海の向こうで行われていることが窺い知れるくらいなもので、寧ろ音楽を出発点とした新たな構造記述の方法が出てきてもよさそうなものだが、具体的な音楽を前にしたら、あまりに素朴で表層的であると哲学者自らが撤回しかねない哲学的な時間論の分析を持ってきて、目の前の具体的で個別的な音楽作品の豊かさをプロクルステスのベッドのようにそぎ落としてしまうような分析しかできていないように見える。それにしても何故なのだ、という疑問が頭に取り憑いて離れない。それは時代の要請なのか。
逆に言えば100年前の音楽に確実にあって、更には今尚力を喪っていないと感じられる側面が未だにあるというのは、 その音楽の指し示す未来を告げてはいないか。時代の制約の中、所与であった語法を換骨奪胎して提示する、今なお異様な力を 喪わないその音楽の動性、超越への衝動に支配された外への運動、未知の地点に聴き手を運んでいってしまう、暴力的なまでの力。 アドルノは全般としては己が批判的に考えていたマーラーの第8交響曲に対して「救い主の危険」という表現を用いた。 私にはこの言い回しはアドルノの逡巡を、聴経験に忠実なアドルノの論理でもって断定し去ることへの躊躇いを感じずにはいられない。 「救い主の危険」。それは今やマーラーの音楽全体について言いうるように私には感じられる。マーラーの音楽の持つ時間性の アナクロニスムは、だが閉塞した現在の凍りついた時間(その認識の何と正しいことか)にあって、単なる夢想に過ぎないとさえ感じられるし、 そのように断罪されるケースも、しばしば見受けられる。だが、そこには文字通り、未だ来たらざるものとしての未来への途があるのではないか。 それは仮想されたものを恰も現実に実現するかのように見せかける詐術ではない。ポテンシャルとしての未来が、音楽の彼方にあるものとして ヴァーチャリティとして指し示されているのではないか。
だが、今ここにおける私は、これ以上遠くに行くことはもうできない。私にとって確実なのはマーラーの音楽を手放してはならない、ということだ。 異様な力に満ちたその音楽を聴くことが時折困難になるにせよ、自分に向かって手を差し伸べ、自分を幽霊の隊列に加わるよう 誘う音楽に耳を閉ざしてはいけない。生き延びてどこか別の場所に辿り着くことを希求し続けるならば。(2012.5.5, 2015.8.10補筆改訂)
2015年7月8日水曜日
2015年5月10日日曜日
『大地の歌』の「風景」について―甲斐貴也さんへ―
20世紀初頭に作曲されて1世紀後の時間的な隔たりと、地球を1/3周分の空間的な隔たりを介して、21世紀の日本で接する時、『大地の歌』の音楽が喚起する、眼前に確かに広がると感じられる風景は、一体何処のものなのか?
マーラーの早すぎる晩年(あくまでも事後的にそう区分されるに過ぎないが)に、ドロミテ・アルプスの風景の中で作曲されたこの作品は、いつもの通り、初演を念頭においた出版の準備が進められていたものの、マーラーの突然の死によって、生前に楽譜が出版されることもなく、彼自身の指揮による初演も行われることがなかった。それゆえこの作品の後世による受容のプロセスは、マーラー没後半年を経た1911年11月20日にウィーンで行われたブルノ・ワルター指揮ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団、シャルル=カイエのアルト、ミラーのテノールによる初演の時から始まったのである。レコードへの録音は、1936年5月24日に収録されたブルノ・ワルター指揮ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団、アルト:トールボリ、テノール:クルマンの演奏を嚆矢とするが、そのSPレコードは戦前の日本にも輸入され、日本初演に先立って聴かれていたことが幾つかの文章で確認できる。その後LPレコードからCDを経て今日に至る迄の膨大なディスコグラフィーについては改めて言うまでもなかろう。ただしその特異な編成もあって、これだけマーラーが頻繁に演奏される今日となっては、実演に接する機会は寧ろ相対的に減っているように感じられる。
大地の歌の演奏記録の中で、1939年10月5日のアムステルダム、コンセルトへボウの演奏会の記録であるシューリヒト指揮、コンセルトへボウ管弦楽団、トールボリとエーマンの歌唱の記録は、まずもって、録音状態の悪さを超えて今尚説得力を喪わないその演奏の卓越について触れるべきだろうが、そればかりではなく、今日我々が耳にするのとは異なった、まさにマーラーの同時代の演奏様式を垣間見ることができる点で際立った記録でもあり、なおかつ演奏中(第6楽章の間奏が終わったタイミング)に発生したハプニングの記録でも有名であろう。実はこの演奏会、本来はメンゲルベルクが指揮する筈であったが、(メンゲルベルクにはしばしば起きたことのようだが、)病気のために指揮ができなくなり、急遽代役を探すことになったのだが、歌手達の意向もあって、ユトレヒトのオーケストラに客演していたシューリヒトが代役を務めることになったという経緯があるらしい。既に前年にオーストリアはナチス・ドイツにより併合され、ドイツ国内ではユダヤ人の音楽を演奏することが禁じられ、オランダの独立ももう間もなく喪われようというこの時期に、ユダヤ人により作曲された「大地の歌」という題名の作品を、ドイツ人の指揮者の指揮によりオランダのオーケストラが演奏するという状況の異様さが、くだんのハプニングを引き起こす原因であったに違いないが、後にはメンデルスゾーン、マイアベーアと並んで”3M”としてナチスより忌避されることになるユダヤ人の、中国の詩に取材した作品の演奏で件のハプニングが起きたことは、この曲の風景とどのように関係していたものだろうか?
日本での初演は1941年1月22日、日比谷公会堂におけるローゼンシュトック指揮新交響楽団(現在のNHK交響楽団)、 四家文子のアルト、木下保のテノールによる演奏であり、楽曲紹介を含む当時の新交響楽団の機関紙(音楽雑誌「フィルハーモニー」第15巻第1号 大地の歌)からは、同じ年の年末には太平洋戦争に突入することになる当時の日本の雰囲気が伝わってくる。ちなみに同年10月成立の東條英機内閣に外務大臣として入閣し、結果的に開戦時の外務大臣となり、そのために後に極東国際軍事裁判の被告となった東郷茂徳は、上記のワルターの演奏のレコード録音の数ヵ月後の1936年8月に、ナチスにより追われたローゼンシュトック(彼はユダヤ系であった)が新交響楽団の指揮者に就任するために来日した際に、当時のドイツの駐日臨時代理大使(大使館参事官)ネーベルが行った干渉に対し、当時の欧亜局長として断固として撥ね付けたという記録が残っている。なお、戦後最初に演奏されたマーラーの作品は恐らくは『大地の歌』ではなかったか。昭和21年(1946)5月1日というから、ポツダム宣言受諾からまだ1年と経過していない時期に、同じくNHK交響楽団の前身であった日響の定期で取り上げられているようなのである。(指揮は山田和男(のち一雄)で独唱者は日本初演時と同じ。)ちなみに奇しくも同じ日に、上述の東郷茂徳は戦犯容疑者として巣鴨拘置所に収監されている。極東国際軍事裁判の開廷は2日後の5月3日である。東郷茂徳は薩摩・苗代川の陶工の家系の出、文禄・慶長の役/壬辰・丁酉倭乱で島津義弘により朝鮮から虜囚として連れてこられた人々の子孫の一人であり、外交官としては異例の、シラーの戯曲についての論考が残る独文学専攻出身であり、ユダヤ系ドイツ人を妻とした人である。そして同時に、前年の1945年9月11日の戦犯容疑者39名の逮捕命令の対象者に自分が含まれていることを知り、静養していた軽井沢を発って東京に赴く際に、陶淵明の「神釈詩」の末尾(「縱浪大化中/不喜亦不懼/應盡便須盡/無復獨多慮」)を墨書して家族に渡した人でもある。このような文脈を備えた彼がもし、自分が救ったローゼンシュトックの演奏する『大地の歌』を聴いたとしたら、そこにどのような風景を見出したであろうか?
一方で、管弦楽伴奏連作歌曲とも交響曲ともつかないこの作品に、ピアノ伴奏版の自筆譜があることが判明し、しかもその世界初演が日本で行われたことを記憶している人も少なくなかろう(1989年5月15日、国立音楽大学講堂において、サヴァリッシュのピアノ、 アルト:リポフシェク、テノール:ヴァンベリ)。それまで知られてきた管弦楽版と比べたとき、各楽章のタイトルや歌詞のみならず、小節数の違いさえ含むこのピアノ伴奏版は、作曲の過程において少なくとも1908年頃の段階までは、管弦楽版とピアノ伴奏版が、いわば並存するような形で存在していたことを告げているが、それだけではなく、現在所在不明になっている同じ時期の日付を持つ管弦楽版草稿の第1,2楽章を補うものとして重要だし、実際に国際マーラー協会のマーラー全集において補巻IIとして出版されただけでなく、1990年出版の管弦楽版の校訂作業のきっかけとなった。ちなみに、ピアノ伴奏版においても依然として題名には「交響曲」と書かれており、この作品について単純に交響曲か否かを論じてみても、ここでマーラーが達成したことの意義を測ることができないは言うまでもないことであろう。
だが何よりも『大地の歌』がハンス・ベトゲの「中国の笛」という漢詩のドイツ語による翻案(追創作:Nachdichtung)の中の幾つかの詩を歌詞として用いている点こそ、この曲が提示する風景を性格づけることにおいて決定的であることは衆目の一致するところだろう。こちらもまた、ドイツ文学の泰斗ハンス・マイヤーの挑発的な論文に対してアドルノが反論をするかと思えば、マーラーが(常に歌詞として用いた原作に対してそうであったように)ベトゲの詩を改変したプロセス(ここでもまた上記のピアノ伴奏版が大きな役割を果すのであるが)は勿論、エルヴェ・サン=ドニやユディット・ゴーチェの仏訳やハイルマンの独訳を経由したベトゲの追創作のプロセスまで追跡され、更には原作である漢詩の推定を音楽学者や中国文学者が試みるといったことが為されてきており、最早、論じつくされたかのような感すらある。
だが問題は単純な洋の東西といったものではない。日本から見れば中国も外国であり、但し非常に長期に渉り、非常に徹底した影響を受け、独特の受容をしてきたという経緯から、幾つかの面で西洋におけるオリエンタリズムと対偶の位置から中国に向き合っているということを先ずは認識すべきであろう。管見では中国文学者は、少なくとも前了解としてそのような姿勢を持っており、従ってオリジナルの漢詩とその西欧の言語への翻訳を比較する際に、単なる正確さの基準のみを以て「誤訳」であるかどうかを云々するといった水準に留まらず、まさに日本人がそうしてきたように、異文化を受容にするにあたり、固有の文脈に埋め込むための変換の作業が存在することを前提とし、その上で何が起きているのかを見極めようとしているように感じられる。
既に半世紀も前の1970年にNHK交響楽団が「大地の歌」をプログラムとしてとりあげた際、機関紙<フィルハーモニー>(同年10月号)に掲載すべく依頼したことによって書かれた、吉川幸次郎氏の『「大地の歌」の原詩について』において既に、オリジナルの盛唐の詩が「素材」に過ぎず、「いろいろと自由な変形をうけている」ことが指摘され、その上で、「西洋のことは耳学問の私には、はっきりとしたことはわからない」と留保つきながらも、「しかし、変形をうけながらも、その感情は依然として、中国的である。あるいは少なくとも唐詩的である。そうしてマーラーの作曲もそれを増幅する」と述べ、更に加えて「新しく接触し発見した異地域の異種の文明、その中にある特殊そうに見えて実は普遍なもの、それをより大きな普遍へと造型しようとするのが、マーラーの努力であったろう」と述べられているのである。
更に近年の例として、やはり中国文学者の市川桃子氏は『中國古典詩における植物描寫の研究―蓮の文化史―』(2007)所収の第三部『「採蓮曲」の系譜』の第三章「樂府詩「採蓮曲」の飛躍」において、李白の「採蓮曲」のマーラーの『大地の歌』の歌詞に至るまでの19世紀半ば以降の西欧での受容の経過を詳細に分析している。(甲斐貴也氏のご教示による。甲斐氏には、貴重な文献のご教示に対して此の場を借りて御礼申し上げる。)ここでは、マーラーの音楽では第4楽章の歌詞である「採蓮曲」一篇に限定してではあるが、ヨーロッパでの受容の過程で起きた変容に対して、「このようにして、李白「採蓮曲」に描かれる情景は歐州で始めて翻譯されたときに、歐州にある情景として無理のない設定に大きく變わったのである。ただし、場所や状況設定は變わっても、若く美しい乙女たちが夏の日差しを浴び、澄んだ水に姿を映して、樂しそうにおしゃべりをしている、その至福の光景を描くという本質的な點は、全く變わっていない。」という指摘がされている。そればかりではなく市川氏は、先行する第二章にて、李白の「採蓮曲」の最後の句に出現する「断腸」という表現に注目し、まずそれを「地上に再現されたこの天上世界から疎外された李白自身の氣持ちを投影したもの」とする解釈を踏まえ、「地上に再現された最上の美の世界は共通であるが、そこから生れた意味は李白とマーラーでは異なってい」るけれど、「しかし、どちらにも、生への、美への、切なる憧憬の念があり、どちらにも、それを手に入れられない絶望的な悲哀がある。地上の人間は、完全なる美の世界を手に入れることは出来なかったのである」との指摘をしているのである。マーラーの『大地の歌』の第4楽章の全曲での位置づけに関し、柴田南雄の「シンメトリー説」を引きつつも、それに対して留保をつけて「この第四楽章もまた『大地の歌』全體を覆っている悲哀に浸されている」という指摘をしている点と並んで、作品の持つ重層的な構造(それは歌詞が単に並置されているのではなく、語りレベルに応じて幾つかに層化された配置されていることに対応している)に対する把握を示しており、そのことによってこの第4楽章においてすら、語り手の哀傷に満ちた視線が潜んでいる点を正確に剔出されている点は見事というほかない。
それでは第1楽章の歌詞に登場する猿の啼声はどうだろうか。人口に膾炙した杜甫の『登高』(風急天高猿嘯哀/渚清沙白鳥飛廻)やら『碧巌録』(羸鶴寒木翹/狂猿古台嘯)をはじめとした漢詩における、特定の情緒の喚起するイメージというのがあって、そうしたものを背景に音楽を聴くことになるのだが、しかしマーラーの音楽によってそれは、所詮素材に過ぎないベトゲの詩の文学的価値とはとりあえず別に、こう言って良ければより「実存的」な、自己の存在なり生に対する人間の認識に深められているという点を見逃してはなるまい。
例えばそれをニーチェの『ツァラトゥストラ』のEinst wart ihr Affen, und auch jetzt ist der Mensch mehr Affe, als irgend ein Affe.を思い起こしつつ聴く人が居たとすれば(実際、甲斐貴也氏が私信でそのような指摘をされている)、其の人の把握にも理があることを認めざるを得ないだろう。ニーチェは当然ここで当時流行の進化論を背景にして書いているわけだが、ニュアンスの無視できない違いはあるものの、洋の東西を問わず、猿と人間が似ているというのは、或る意味では自然な理解なわけであり、だからこそ人間の運命の寓意にもなるのだろう。ショスタコーヴィチもまた、この作品における「猿」の形象に注目したことが知られているが、第14交響曲などから窺えるように、無神論者である彼の認識は寧ろニーチェ直系であると言って良かろう。他方、進化論については受け入れつつ、唯物論的な立場には懐疑的であったらしい、だが、ということはそうした立場を否定できないものと捉えてはいたらしいマーラー自身は、この「猿」をどのように捉えていたものか?
こうした点を考えたときに直ちに気付くことは、マーラーの側の文脈もまた、ベトゲの詩作のみを問題にするのはあまりに皮相であり、マーラーに少なからぬ影響を与えた『意志と表象としての世界』のショーペンハウアーや『ツァラトゥストラ』のニーチェ、更には『ゼンド・アヴェスタ』のフェヒナーにおける東洋を考えるべきだということだろう。(リュッケルトが東洋学者であったことや、ゲーテにおける東洋に思いを致してみても良いだろう。マーラーの思想圏なるものを想定したとき、それは単純なオリエンタリズムには収まらない拡がりを持っているのは間違いない。)
もう一つだけ例を挙げれば、終楽章の歌詞で語られる、行き先の「山」というのは、帰郷を意味しているのではない。(ハイデガーのヘルダーリン読解の問題点が何処にあったかを思い浮かべよ。)かなりの高官顕職に上り詰めたらしい王維も実際にそうしたようだが、「山」というのは陶淵明のような遁世、ただし桃源郷のような神仙思想とも結びついた場所、非在の場所としてのユートピアでもあるような場所のはずで、それはマーラーの音楽が最後に到達する(仮想の、実在しない)場所でもあるのではないか。もちろんマーラーの音楽の「場所」は、東洋思想の桃源郷のイメージそのものではありえないだろうが、ではそれを中国を軸に反対向きから見ている我々日本人が見ているものは、一体、どれくらい近くてどれくらい遠いものなのか。当時の地球に対する認識を踏まえたアドルノの「大地」=「地球」説の後、人工衛星に乗って地球を宇宙から眺めることができるようになって久しく、火星の地表の風景を、あたかもその場を訪れたかのように観察することができる時代に生きる人間、系外惑星の探索が進み、地球とにた条件を持った惑星の探索が行われるようになった時代に生きる人間、マーラーの同時代の1903年に初めて提唱された、生命の起源が地球外にあったかも知れないという「パンスペルミア説」が科学的な検証に耐えうる学説として検討されている時代に生きる人間にとって、「大地」とは、『大地の歌』の終曲が描き出す風景とは、一体どのようなものだろうか?
いずれにしても、以下のようなことは言えるのではなかろうか。『大地の歌』の音楽が指し示す場所、実在のどこかと結びつくわけではない精神的ランドスケープの中を逍遥することがまずは問題なのではないか。現在ではGoogle Street Viewを用いれば、現地を訪れることすらせずに、自宅でドロミテの風景を眺めることができるようになっているが、マーラーがドロミテの風景に、アドルノの言う「仮晶(Pseudomorphose)」として見たものが、そこにあると単純に言うことはできないだろう。
マーラーがワルターに第3交響曲を作曲した時に言ったとされる「もう作曲してしまったから、現実を見るのは及ばない」という言葉、「交響曲とは世界の構築である」という、大言壮語として受け止められがちな言葉は、後年アメリカに渡ったマーラーが、演奏旅行の折、ナイアガラの滝を訪れた後にバッファローでベートーヴェンの田園交響曲を指揮して妻のアルマに語ったとされる「漠然と訴えるばかりの自然よりも明確に訴える芸術の方が偉大だ」という言葉(アルマ・マーラー「グスタフ・マーラー 回想と手紙」酒田健一訳, 1973, p.p.212~3)、一回性の出来事の構造を「作品」としてデジタル化し、再現可能にすることで世代を超え、個体の経験が遺伝することのないという生物学的基盤に対する反逆を可能にした人間の精神の営みの特異な在り方の把握を通して理解すべきであり、それはまた、マーラーが作品として遺してくれたものの質を正しく見極めるためにも必要なのではないか。
ジュリアン・ジェインズの「二院制の心」(bicameral mind)の理論が示唆するように、現在の意識の在り方が、人類史上のあるエポックに固有のものであり、「隠れたる神」が、まさにそうした意識の構造に由来する宿命的なものであるとして(カントが指摘する「理性の宿命」は、この文脈において捉えなおされるべきものに思われる)、そして未来方向には、レイ・カーツワイルのような技術特異点論者が述べるように、技術的特異点の向こう側では、意識の形態自体が変容し、「人間」の概念自体が変わってしまうかも知れないとして、その手前で「隠れたる神」の状況下で生きる人間は、結局のところマーラーの世代の末裔なのだ。
であるとするならば、マーラーの作品を賞味期限切れの過去の遺物としてではなく、「今」、「此処」で受容し、それに応答しようとするならば、彼と彼の作品を彼が生きた時代と環境に還元して、歴史的・考古学的な対象として扱うのではなく、各自が取り組むべき「世界の構築」に向けての「無意識のエクササイズ」(グレゴリー・ベイトソン)として向き合わなくてはならないのではないかと思われてならないのである。『大地の歌』の場所は、実在のどこかと結びつくわけではなく、その意味では場所を持たず、仮想的で非在ではあるけれど、決して無ではない。無ではないどころか、自己の個体としての有限性の認識に裏打ちされたこの作品にこそ、自己の個体としての有限性を超える可能性が存するのではなかろうか。(2015.5.10)
マーラーの早すぎる晩年(あくまでも事後的にそう区分されるに過ぎないが)に、ドロミテ・アルプスの風景の中で作曲されたこの作品は、いつもの通り、初演を念頭においた出版の準備が進められていたものの、マーラーの突然の死によって、生前に楽譜が出版されることもなく、彼自身の指揮による初演も行われることがなかった。それゆえこの作品の後世による受容のプロセスは、マーラー没後半年を経た1911年11月20日にウィーンで行われたブルノ・ワルター指揮ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団、シャルル=カイエのアルト、ミラーのテノールによる初演の時から始まったのである。レコードへの録音は、1936年5月24日に収録されたブルノ・ワルター指揮ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団、アルト:トールボリ、テノール:クルマンの演奏を嚆矢とするが、そのSPレコードは戦前の日本にも輸入され、日本初演に先立って聴かれていたことが幾つかの文章で確認できる。その後LPレコードからCDを経て今日に至る迄の膨大なディスコグラフィーについては改めて言うまでもなかろう。ただしその特異な編成もあって、これだけマーラーが頻繁に演奏される今日となっては、実演に接する機会は寧ろ相対的に減っているように感じられる。
大地の歌の演奏記録の中で、1939年10月5日のアムステルダム、コンセルトへボウの演奏会の記録であるシューリヒト指揮、コンセルトへボウ管弦楽団、トールボリとエーマンの歌唱の記録は、まずもって、録音状態の悪さを超えて今尚説得力を喪わないその演奏の卓越について触れるべきだろうが、そればかりではなく、今日我々が耳にするのとは異なった、まさにマーラーの同時代の演奏様式を垣間見ることができる点で際立った記録でもあり、なおかつ演奏中(第6楽章の間奏が終わったタイミング)に発生したハプニングの記録でも有名であろう。実はこの演奏会、本来はメンゲルベルクが指揮する筈であったが、(メンゲルベルクにはしばしば起きたことのようだが、)病気のために指揮ができなくなり、急遽代役を探すことになったのだが、歌手達の意向もあって、ユトレヒトのオーケストラに客演していたシューリヒトが代役を務めることになったという経緯があるらしい。既に前年にオーストリアはナチス・ドイツにより併合され、ドイツ国内ではユダヤ人の音楽を演奏することが禁じられ、オランダの独立ももう間もなく喪われようというこの時期に、ユダヤ人により作曲された「大地の歌」という題名の作品を、ドイツ人の指揮者の指揮によりオランダのオーケストラが演奏するという状況の異様さが、くだんのハプニングを引き起こす原因であったに違いないが、後にはメンデルスゾーン、マイアベーアと並んで”3M”としてナチスより忌避されることになるユダヤ人の、中国の詩に取材した作品の演奏で件のハプニングが起きたことは、この曲の風景とどのように関係していたものだろうか?
日本での初演は1941年1月22日、日比谷公会堂におけるローゼンシュトック指揮新交響楽団(現在のNHK交響楽団)、 四家文子のアルト、木下保のテノールによる演奏であり、楽曲紹介を含む当時の新交響楽団の機関紙(音楽雑誌「フィルハーモニー」第15巻第1号 大地の歌)からは、同じ年の年末には太平洋戦争に突入することになる当時の日本の雰囲気が伝わってくる。ちなみに同年10月成立の東條英機内閣に外務大臣として入閣し、結果的に開戦時の外務大臣となり、そのために後に極東国際軍事裁判の被告となった東郷茂徳は、上記のワルターの演奏のレコード録音の数ヵ月後の1936年8月に、ナチスにより追われたローゼンシュトック(彼はユダヤ系であった)が新交響楽団の指揮者に就任するために来日した際に、当時のドイツの駐日臨時代理大使(大使館参事官)ネーベルが行った干渉に対し、当時の欧亜局長として断固として撥ね付けたという記録が残っている。なお、戦後最初に演奏されたマーラーの作品は恐らくは『大地の歌』ではなかったか。昭和21年(1946)5月1日というから、ポツダム宣言受諾からまだ1年と経過していない時期に、同じくNHK交響楽団の前身であった日響の定期で取り上げられているようなのである。(指揮は山田和男(のち一雄)で独唱者は日本初演時と同じ。)ちなみに奇しくも同じ日に、上述の東郷茂徳は戦犯容疑者として巣鴨拘置所に収監されている。極東国際軍事裁判の開廷は2日後の5月3日である。東郷茂徳は薩摩・苗代川の陶工の家系の出、文禄・慶長の役/壬辰・丁酉倭乱で島津義弘により朝鮮から虜囚として連れてこられた人々の子孫の一人であり、外交官としては異例の、シラーの戯曲についての論考が残る独文学専攻出身であり、ユダヤ系ドイツ人を妻とした人である。そして同時に、前年の1945年9月11日の戦犯容疑者39名の逮捕命令の対象者に自分が含まれていることを知り、静養していた軽井沢を発って東京に赴く際に、陶淵明の「神釈詩」の末尾(「縱浪大化中/不喜亦不懼/應盡便須盡/無復獨多慮」)を墨書して家族に渡した人でもある。このような文脈を備えた彼がもし、自分が救ったローゼンシュトックの演奏する『大地の歌』を聴いたとしたら、そこにどのような風景を見出したであろうか?
一方で、管弦楽伴奏連作歌曲とも交響曲ともつかないこの作品に、ピアノ伴奏版の自筆譜があることが判明し、しかもその世界初演が日本で行われたことを記憶している人も少なくなかろう(1989年5月15日、国立音楽大学講堂において、サヴァリッシュのピアノ、 アルト:リポフシェク、テノール:ヴァンベリ)。それまで知られてきた管弦楽版と比べたとき、各楽章のタイトルや歌詞のみならず、小節数の違いさえ含むこのピアノ伴奏版は、作曲の過程において少なくとも1908年頃の段階までは、管弦楽版とピアノ伴奏版が、いわば並存するような形で存在していたことを告げているが、それだけではなく、現在所在不明になっている同じ時期の日付を持つ管弦楽版草稿の第1,2楽章を補うものとして重要だし、実際に国際マーラー協会のマーラー全集において補巻IIとして出版されただけでなく、1990年出版の管弦楽版の校訂作業のきっかけとなった。ちなみに、ピアノ伴奏版においても依然として題名には「交響曲」と書かれており、この作品について単純に交響曲か否かを論じてみても、ここでマーラーが達成したことの意義を測ることができないは言うまでもないことであろう。
だが何よりも『大地の歌』がハンス・ベトゲの「中国の笛」という漢詩のドイツ語による翻案(追創作:Nachdichtung)の中の幾つかの詩を歌詞として用いている点こそ、この曲が提示する風景を性格づけることにおいて決定的であることは衆目の一致するところだろう。こちらもまた、ドイツ文学の泰斗ハンス・マイヤーの挑発的な論文に対してアドルノが反論をするかと思えば、マーラーが(常に歌詞として用いた原作に対してそうであったように)ベトゲの詩を改変したプロセス(ここでもまた上記のピアノ伴奏版が大きな役割を果すのであるが)は勿論、エルヴェ・サン=ドニやユディット・ゴーチェの仏訳やハイルマンの独訳を経由したベトゲの追創作のプロセスまで追跡され、更には原作である漢詩の推定を音楽学者や中国文学者が試みるといったことが為されてきており、最早、論じつくされたかのような感すらある。
だが問題は単純な洋の東西といったものではない。日本から見れば中国も外国であり、但し非常に長期に渉り、非常に徹底した影響を受け、独特の受容をしてきたという経緯から、幾つかの面で西洋におけるオリエンタリズムと対偶の位置から中国に向き合っているということを先ずは認識すべきであろう。管見では中国文学者は、少なくとも前了解としてそのような姿勢を持っており、従ってオリジナルの漢詩とその西欧の言語への翻訳を比較する際に、単なる正確さの基準のみを以て「誤訳」であるかどうかを云々するといった水準に留まらず、まさに日本人がそうしてきたように、異文化を受容にするにあたり、固有の文脈に埋め込むための変換の作業が存在することを前提とし、その上で何が起きているのかを見極めようとしているように感じられる。
既に半世紀も前の1970年にNHK交響楽団が「大地の歌」をプログラムとしてとりあげた際、機関紙<フィルハーモニー>(同年10月号)に掲載すべく依頼したことによって書かれた、吉川幸次郎氏の『「大地の歌」の原詩について』において既に、オリジナルの盛唐の詩が「素材」に過ぎず、「いろいろと自由な変形をうけている」ことが指摘され、その上で、「西洋のことは耳学問の私には、はっきりとしたことはわからない」と留保つきながらも、「しかし、変形をうけながらも、その感情は依然として、中国的である。あるいは少なくとも唐詩的である。そうしてマーラーの作曲もそれを増幅する」と述べ、更に加えて「新しく接触し発見した異地域の異種の文明、その中にある特殊そうに見えて実は普遍なもの、それをより大きな普遍へと造型しようとするのが、マーラーの努力であったろう」と述べられているのである。
更に近年の例として、やはり中国文学者の市川桃子氏は『中國古典詩における植物描寫の研究―蓮の文化史―』(2007)所収の第三部『「採蓮曲」の系譜』の第三章「樂府詩「採蓮曲」の飛躍」において、李白の「採蓮曲」のマーラーの『大地の歌』の歌詞に至るまでの19世紀半ば以降の西欧での受容の経過を詳細に分析している。(甲斐貴也氏のご教示による。甲斐氏には、貴重な文献のご教示に対して此の場を借りて御礼申し上げる。)ここでは、マーラーの音楽では第4楽章の歌詞である「採蓮曲」一篇に限定してではあるが、ヨーロッパでの受容の過程で起きた変容に対して、「このようにして、李白「採蓮曲」に描かれる情景は歐州で始めて翻譯されたときに、歐州にある情景として無理のない設定に大きく變わったのである。ただし、場所や状況設定は變わっても、若く美しい乙女たちが夏の日差しを浴び、澄んだ水に姿を映して、樂しそうにおしゃべりをしている、その至福の光景を描くという本質的な點は、全く變わっていない。」という指摘がされている。そればかりではなく市川氏は、先行する第二章にて、李白の「採蓮曲」の最後の句に出現する「断腸」という表現に注目し、まずそれを「地上に再現されたこの天上世界から疎外された李白自身の氣持ちを投影したもの」とする解釈を踏まえ、「地上に再現された最上の美の世界は共通であるが、そこから生れた意味は李白とマーラーでは異なってい」るけれど、「しかし、どちらにも、生への、美への、切なる憧憬の念があり、どちらにも、それを手に入れられない絶望的な悲哀がある。地上の人間は、完全なる美の世界を手に入れることは出来なかったのである」との指摘をしているのである。マーラーの『大地の歌』の第4楽章の全曲での位置づけに関し、柴田南雄の「シンメトリー説」を引きつつも、それに対して留保をつけて「この第四楽章もまた『大地の歌』全體を覆っている悲哀に浸されている」という指摘をしている点と並んで、作品の持つ重層的な構造(それは歌詞が単に並置されているのではなく、語りレベルに応じて幾つかに層化された配置されていることに対応している)に対する把握を示しており、そのことによってこの第4楽章においてすら、語り手の哀傷に満ちた視線が潜んでいる点を正確に剔出されている点は見事というほかない。
それでは第1楽章の歌詞に登場する猿の啼声はどうだろうか。人口に膾炙した杜甫の『登高』(風急天高猿嘯哀/渚清沙白鳥飛廻)やら『碧巌録』(羸鶴寒木翹/狂猿古台嘯)をはじめとした漢詩における、特定の情緒の喚起するイメージというのがあって、そうしたものを背景に音楽を聴くことになるのだが、しかしマーラーの音楽によってそれは、所詮素材に過ぎないベトゲの詩の文学的価値とはとりあえず別に、こう言って良ければより「実存的」な、自己の存在なり生に対する人間の認識に深められているという点を見逃してはなるまい。
例えばそれをニーチェの『ツァラトゥストラ』のEinst wart ihr Affen, und auch jetzt ist der Mensch mehr Affe, als irgend ein Affe.を思い起こしつつ聴く人が居たとすれば(実際、甲斐貴也氏が私信でそのような指摘をされている)、其の人の把握にも理があることを認めざるを得ないだろう。ニーチェは当然ここで当時流行の進化論を背景にして書いているわけだが、ニュアンスの無視できない違いはあるものの、洋の東西を問わず、猿と人間が似ているというのは、或る意味では自然な理解なわけであり、だからこそ人間の運命の寓意にもなるのだろう。ショスタコーヴィチもまた、この作品における「猿」の形象に注目したことが知られているが、第14交響曲などから窺えるように、無神論者である彼の認識は寧ろニーチェ直系であると言って良かろう。他方、進化論については受け入れつつ、唯物論的な立場には懐疑的であったらしい、だが、ということはそうした立場を否定できないものと捉えてはいたらしいマーラー自身は、この「猿」をどのように捉えていたものか?
こうした点を考えたときに直ちに気付くことは、マーラーの側の文脈もまた、ベトゲの詩作のみを問題にするのはあまりに皮相であり、マーラーに少なからぬ影響を与えた『意志と表象としての世界』のショーペンハウアーや『ツァラトゥストラ』のニーチェ、更には『ゼンド・アヴェスタ』のフェヒナーにおける東洋を考えるべきだということだろう。(リュッケルトが東洋学者であったことや、ゲーテにおける東洋に思いを致してみても良いだろう。マーラーの思想圏なるものを想定したとき、それは単純なオリエンタリズムには収まらない拡がりを持っているのは間違いない。)
もう一つだけ例を挙げれば、終楽章の歌詞で語られる、行き先の「山」というのは、帰郷を意味しているのではない。(ハイデガーのヘルダーリン読解の問題点が何処にあったかを思い浮かべよ。)かなりの高官顕職に上り詰めたらしい王維も実際にそうしたようだが、「山」というのは陶淵明のような遁世、ただし桃源郷のような神仙思想とも結びついた場所、非在の場所としてのユートピアでもあるような場所のはずで、それはマーラーの音楽が最後に到達する(仮想の、実在しない)場所でもあるのではないか。もちろんマーラーの音楽の「場所」は、東洋思想の桃源郷のイメージそのものではありえないだろうが、ではそれを中国を軸に反対向きから見ている我々日本人が見ているものは、一体、どれくらい近くてどれくらい遠いものなのか。当時の地球に対する認識を踏まえたアドルノの「大地」=「地球」説の後、人工衛星に乗って地球を宇宙から眺めることができるようになって久しく、火星の地表の風景を、あたかもその場を訪れたかのように観察することができる時代に生きる人間、系外惑星の探索が進み、地球とにた条件を持った惑星の探索が行われるようになった時代に生きる人間、マーラーの同時代の1903年に初めて提唱された、生命の起源が地球外にあったかも知れないという「パンスペルミア説」が科学的な検証に耐えうる学説として検討されている時代に生きる人間にとって、「大地」とは、『大地の歌』の終曲が描き出す風景とは、一体どのようなものだろうか?
いずれにしても、以下のようなことは言えるのではなかろうか。『大地の歌』の音楽が指し示す場所、実在のどこかと結びつくわけではない精神的ランドスケープの中を逍遥することがまずは問題なのではないか。現在ではGoogle Street Viewを用いれば、現地を訪れることすらせずに、自宅でドロミテの風景を眺めることができるようになっているが、マーラーがドロミテの風景に、アドルノの言う「仮晶(Pseudomorphose)」として見たものが、そこにあると単純に言うことはできないだろう。
マーラーがワルターに第3交響曲を作曲した時に言ったとされる「もう作曲してしまったから、現実を見るのは及ばない」という言葉、「交響曲とは世界の構築である」という、大言壮語として受け止められがちな言葉は、後年アメリカに渡ったマーラーが、演奏旅行の折、ナイアガラの滝を訪れた後にバッファローでベートーヴェンの田園交響曲を指揮して妻のアルマに語ったとされる「漠然と訴えるばかりの自然よりも明確に訴える芸術の方が偉大だ」という言葉(アルマ・マーラー「グスタフ・マーラー 回想と手紙」酒田健一訳, 1973, p.p.212~3)、一回性の出来事の構造を「作品」としてデジタル化し、再現可能にすることで世代を超え、個体の経験が遺伝することのないという生物学的基盤に対する反逆を可能にした人間の精神の営みの特異な在り方の把握を通して理解すべきであり、それはまた、マーラーが作品として遺してくれたものの質を正しく見極めるためにも必要なのではないか。
ジュリアン・ジェインズの「二院制の心」(bicameral mind)の理論が示唆するように、現在の意識の在り方が、人類史上のあるエポックに固有のものであり、「隠れたる神」が、まさにそうした意識の構造に由来する宿命的なものであるとして(カントが指摘する「理性の宿命」は、この文脈において捉えなおされるべきものに思われる)、そして未来方向には、レイ・カーツワイルのような技術特異点論者が述べるように、技術的特異点の向こう側では、意識の形態自体が変容し、「人間」の概念自体が変わってしまうかも知れないとして、その手前で「隠れたる神」の状況下で生きる人間は、結局のところマーラーの世代の末裔なのだ。
であるとするならば、マーラーの作品を賞味期限切れの過去の遺物としてではなく、「今」、「此処」で受容し、それに応答しようとするならば、彼と彼の作品を彼が生きた時代と環境に還元して、歴史的・考古学的な対象として扱うのではなく、各自が取り組むべき「世界の構築」に向けての「無意識のエクササイズ」(グレゴリー・ベイトソン)として向き合わなくてはならないのではないかと思われてならないのである。『大地の歌』の場所は、実在のどこかと結びつくわけではなく、その意味では場所を持たず、仮想的で非在ではあるけれど、決して無ではない。無ではないどころか、自己の個体としての有限性の認識に裏打ちされたこの作品にこそ、自己の個体としての有限性を超える可能性が存するのではなかろうか。(2015.5.10)
2015年5月9日土曜日
ある市井のマーラー愛好家のマーラーの専門家宛の手紙より
(…)
宿題になっていた、「神の存在をどう思うか」というご質問に対するお答をしなくてはなりません。 この質問に答えることは大変厄介であると感じていますが、それは一つには、神ということで何を 指し示すかについての了解自体がとりわけ現在の日本では形成し難いということに由来するように 感じています。一つだけ例を挙げれば、「無神論」という言葉の含意が西欧と日本ではかなり異なる のは比較的知られていることと思います。その日本でも嘗ては「神仏をも懼れぬ仕業」といった 言い回しが意味を持っていたわけですが、現在ではこの表現を実生活で聞くことはほとんどないのでは ないかと思います。それでもなお、初詣には行き、墓参りをすることは未だ多くの日本人にとって 自然なことでしょう。他方で「存在する」ということについての了解の方も実際には自明とは 云い難い。フッサール現象学やハイデガーの(中絶しましたが)基礎存在論の企ては、その困難を 物語って余りあります。しかし、ここは予備的な分析する場ではありませんので、 誤解を怖れずに、結論から述べてしまいたいと思います。
端的に言えば、既成の個別の宗教における神を信じるかと問われれば否です。だけれども、 神的なものを否定するかと言えば、これは明確に否ということになるでしょう。 「神の存在」に対する答えからすると、少々遠回りに感じられるかも知れませんが、 先賢の顰に倣って、日常の具体的なところから始めることをお許しください。 恐らくそうすることによってのみご理解いただけることがあろうかと思います。
私はしばしば「祈り」ます。何に対して祈っているのかを突き詰めることを常にしているわけではなく、 けれども「祈り」という行為は私にとって自然な行為です。実家に戻れば仏壇の前で手を合わせるし、 墓参りはするし、初詣もします。のみならず例えば散歩をしている最中に神社や祠を見かければ、 立ち寄って賽銭を投げて祈ることも珍しくはありません。と同時に、そういう場での行為としてではなく、 より私的で内的な行為として、何かをするにあたって、あるいは何かを終えたときに、私は 何者かに対して祈ります。祈りは(内的独語であれ)言葉による語りかけのかたちをしばしばとります。 けれども、祈りの対象を人格を持つ存在として捉えているかといえば、どうもそうではない。 そもそもその対象がどんな姿をしているかを考えたことはありません。言葉が通じると思っているわけでもなく、 寧ろ言葉は自分の思いを固定するために、寧ろ自分向けに用いている道具なのです。何を祈るのかを 自分が確認するために言葉を使っていて、それは「祈り」にとっては入口のインタフェースに過ぎず、 それがその先でどのように変換して、対象に伝達されるかについてはどうやら無頓着で、何故か 通じるものと考えているようなのです。
祈りの対象はどこに存在するでしょうか?そもそもどこかに存在するのでしょうか?私が物理的・ 生物学的に其の中に住んでいる世界の時空の具体的な座標をそれが占めているというようには 考えていないようです。そういう意味では、それは「存在」しません。けれども仮想的なもの、 観念的・理念的なものも含めた現象学的な世界ということであればどうでしょう? 恐らく、語りかけの入口は穿たれている。けれども現象学的な地平の「彼方」にそれは存在するのではないかと 思います。そういう意味合いで、それは超越的な存在であり、端的には非存在だということになるのでは ないかと思います。ではその入口はどこに穿たれているのか、どうやらそれは、自分の心の奥に 穿たれていると考えるのが自然に思えます。例えば神社仏閣のように、一見したところ祈る対象が 物理的に目前にあるように思えるときでさえ、私の祈りは一旦は心の奥に向かい、その上で(もし届くのであれば) 対象に届くと感じているように思えます。路傍で見つけた眼前にある石仏自体は只の石像に過ぎないですが、 その前で祈るとき、それでもなおその石像を或る種の媒介として、祈りはこの世界では端的に不在な なにものかに対して届くと考えているように思います。
私が自分の祈りの構造の良い近似になっていると感じているのは、ジュリアン・ジェインズという心理学者が 提唱した「二院制の心」(bicameral mind)という説です。意識というのが歴史的な産物であり、 その形態は過去においても異なっていて、変化してきたという認識を推し進めると、今度は レイ・カーツワイルのような特異点論者が予測するように、未来にはまた、意識は異なる形態をとる可能性が あるだろうと思います。その時には、祈る対象の方も恐らくは今とは異なった「現れ」方をするのだろうと 思います。けれども差し当たり、技術的特異点の手間で寿命が尽きてしまうであろう世代の人間である私にとっては、 将来生じるであろう意識の変容は、興味深いものであっても、所詮は自分には関係のないものです。
そういう意味では私はマーラーと同じエポックに属する人間であり、自己の存在の有限性を前提として 色々なことを考えざるを得ないと思っています。そしてその音楽を聴くにつけ、超越的なものに対する フィーリングのようなものにおいて、マーラーは自己の同類であると感じています。 もっとも子供の頃に出会ってからこの方、寧ろマーラーの音楽が孕んでいる世界観の方に私の方が 影響されつつ自己形成してきたという見方もでき、そうであれば同類であるのは何か稀有な、 誇るべきものなどではなく、寧ろ当然の結果であることになります。
彼は死後の世界を信じていたでしょうか?第2交響曲フィナーレのプログラムについてのエピソードは、 そのプログラムがそのまま、いつかこの世で生起するとまでは彼が考えていなかったこと示しているように 私には思えます。勿論彼は、精神的なものが物質的なものとは独立に存在し、それが自分の生物的な死を 超えて存続することを信じていたと思いますが、それは例えば、音楽作品というのが、実現にあたって 物理的な音響というかたちで現象するものであったとしても、(もの凄く単純化してしまえば、 )ある音の継起と組合せのパターンの情報をデジタル化して、何度でも再現できるように固定したものであり、 物理的なスコアという手段を通して、だけれどもそれ自体は抽象的な存在として、世代を超えて継承される こと、そしてそうした継承を通して、マーラーの「精神」なるものも継承されていくものであり、それが 仮に進化の偶然の賜物であったとしても(現実には私は、ほぼ間違いなくそうであろうと思っていますが)、 意識を持つことになった人間の精神的な領域における営みは(理念的なものである)無限(への漸近)を 目指すものであるという、今日でも恐らくは十分常識的な見解と接続することが十分に可能なものであったと 私は考えています。マーラーが唯物論者でなかったのと同じ程度に、1世紀後の私も精神的な領域の 自律性を確信していると思います。言い方を替えると、1世紀後の日本にもしマーラーが居れば、 彼の考え方は、私のそれをさほど重大な齟齬を来たすことはないだろうと感じているということです。 (繰り返しになりますが、それは寧ろ彼の遺した音楽を通じて、彼の影響のもとに私が成立していると したら、当然のことではないでしょうか?)
ファウスト第二部終幕の解釈に関連したアルマへの書簡ではっきりとそう書いていたと思いますが、 彼はそれを「比喩」として捉えるだけの批判的な知性を持っていましたし、キリスト教的な伝統に ついても、十分批判的な見方をしていましたが(一部はユダヤ人として、そういう見方をすることを 強いられた部分があるのでしょうが)、その一方で、Veni Creator, spritusを彼なりの捉え方で 音楽化し、「ところでそれが来なければ」という悪意に対しては、断固として、そうした超越的な ものの彼方からの到来が現実に起きること、そしてそれは決して無ではないことに対して、 擁護の論陣を張ったであろうと思いますし、私としては、1世紀後の日本においてなお、 第8交響曲の「理念」は異国の文化史の研究の対象でしかない1世紀前の西欧の世紀末の文化遺産などではなく、 今、此処で擁護可能なものだし、擁護しなくてはならない、そうでなければ、博物館の文化財の陳列を眺めるように、 マーラーの交響曲をコンサートホールで「鑑賞」することになど、意味はないと考えています。
同様に、第8交響曲と「大地の歌」の間にも、両者の世界観や神の存在についての認識に、 分裂や矛盾など無いと考えています。マーラーは意識を備えた人間の精神の飛翔が無限を目がけるもので あることを正しく把握し、音楽化したし、その一方で個体としての、個としての自分が過ぎ行くもの、 仮初めのものの側に属していて、そのままでは永遠に与りえないことも正しく把握していて、それをも 音楽化したのだと私は考えています。
もう一度、最初の問いである「神の存在」に戻りましょう。マーラーの音楽は超越的なものへの志向を 備えているという点で際立ったものですが、それは別に既に解決済みの過去の問題であるわけではなく、 寧ろカーツワイルの言う技術的特異点に達するまでのエポックは、マーラーの音楽の「今」であり 「此処」であると考えるべきであり、マーラーにおける「神の存在」の問題の基本的構造は、 そのまま我々のものであり続けているのだと思います。(繰り返しになりますが、ジェインズの意識の考古学は、 その範囲を最も広くとった場合の「我々にとってもそうである」ことに対する説得力ある説明であると思います。)
否、我々を広くとることは止めてもいいでしょう。我々を、マーラーの音楽を聴く事で「目を覚ます」ことを 余儀なくされた者の集団というように限定してもいいでしょう。(私はここで、アドルノのウィーン講演の 結びの部分を思い浮かべています。)これも今や歴史的文献、過去の世代の証言に属するものとなり、 読み返す人も多くないのかも知れませんが、ワルターの以下の言葉こそが、そうした「幽霊達」、即ち マーラーの音楽にコミットする者達の「神の存在」に対する共通認識ではなかろうかと私には思われるのです。
否、更にそうですらなく、これは私だけの孤立した、例外的な認識なのでしょうか?ワルターすら、マーラーに ついてこのように言うものの、自分は別の世界に生きていたのでしょうか?恐らくそんなことはないと思います。 そうでなければ、彼が殊更にマーラーを選び、傾倒する必要などないのですから。
音楽もまた、総じて仮象に過ぎません。時間の経過とともにそれは過ぎ去り、消えてしまう。 だけれども、そうであるが故に作品の演奏は、その都度、一回性の「出来事」なのですし、 その効果は有限の生命を持つ人間の脳の中の「魂」と呼ばれるものにしか働きかけることができなくとも 決して無ではないし、物理的な音響が消えた後も、その「何か」は存続するし、その価値にコミットする のであれば、その存続に自ら与らなくてはならない、しかも自らの有限性の限界を超えた存続に 与らなくてはならないのだと思います。
恐らく「神」というのはそうした存在と非在の間の領域、精神=聖霊=精霊=亡霊(Geist)の領域の理念的な極限、 超越的な「存在の彼方」の名前なのではないでしょうか?プラトン以来、「存在の彼方」とは善や美といった、 価値に関わる領域を指し示していることを思い起こしてみるべきかも知れません。ともあれ、 それはヒトが現在のような意識の構造を持ってから発見した領域であり、かつ、未だその領域を覗き見た程度であって、 人間が現在の形態である限りは、つまり技術的特異点の手前にいる限りは、それがどれほどの拡がりを 持っているのかを知ることはできず、それゆえ差し当たりは超越的な「存在の彼方」として把握されるほか ないのかも知れません。(カントの言うところの「理性」の宿命は、従ってある意識構造のエポックの 内部でのそれに過ぎないのかも知れません。)個人的にそれをあえて今尚、「神」と呼ぶのが適切かどうかに ついては疑問の余地なしとはしないのですが、一方で、自分が手前に留まる存在であることを前提とするのであれば、 そうした未知の領域のことを従来通り「神」と呼ぶ方が寧ろ一貫するという見方もできるでしょう。 結局のところ、そういうものとして、私は「神の存在」を捉えている、というのがご質問の回答になるかと思います。
漠然としたことを延々と書き連ねてしまい申し訳ありません。しかしながら、私にとってお問い合わせの内容は 簡単な断定で済ませられるようなものではありません。結論が出ているわけでもありません。しかし、 こうした問題に対して、結論めいたことを言うことがそもそも構造的に可能なのかどうか。 聊か言い訳めきますが、そうした点をご考慮いただき、ご勘弁いただけますようお願い申し上げます。(2015.5.9)
(…)
宿題になっていた、「神の存在をどう思うか」というご質問に対するお答をしなくてはなりません。 この質問に答えることは大変厄介であると感じていますが、それは一つには、神ということで何を 指し示すかについての了解自体がとりわけ現在の日本では形成し難いということに由来するように 感じています。一つだけ例を挙げれば、「無神論」という言葉の含意が西欧と日本ではかなり異なる のは比較的知られていることと思います。その日本でも嘗ては「神仏をも懼れぬ仕業」といった 言い回しが意味を持っていたわけですが、現在ではこの表現を実生活で聞くことはほとんどないのでは ないかと思います。それでもなお、初詣には行き、墓参りをすることは未だ多くの日本人にとって 自然なことでしょう。他方で「存在する」ということについての了解の方も実際には自明とは 云い難い。フッサール現象学やハイデガーの(中絶しましたが)基礎存在論の企ては、その困難を 物語って余りあります。しかし、ここは予備的な分析する場ではありませんので、 誤解を怖れずに、結論から述べてしまいたいと思います。
端的に言えば、既成の個別の宗教における神を信じるかと問われれば否です。だけれども、 神的なものを否定するかと言えば、これは明確に否ということになるでしょう。 「神の存在」に対する答えからすると、少々遠回りに感じられるかも知れませんが、 先賢の顰に倣って、日常の具体的なところから始めることをお許しください。 恐らくそうすることによってのみご理解いただけることがあろうかと思います。
私はしばしば「祈り」ます。何に対して祈っているのかを突き詰めることを常にしているわけではなく、 けれども「祈り」という行為は私にとって自然な行為です。実家に戻れば仏壇の前で手を合わせるし、 墓参りはするし、初詣もします。のみならず例えば散歩をしている最中に神社や祠を見かければ、 立ち寄って賽銭を投げて祈ることも珍しくはありません。と同時に、そういう場での行為としてではなく、 より私的で内的な行為として、何かをするにあたって、あるいは何かを終えたときに、私は 何者かに対して祈ります。祈りは(内的独語であれ)言葉による語りかけのかたちをしばしばとります。 けれども、祈りの対象を人格を持つ存在として捉えているかといえば、どうもそうではない。 そもそもその対象がどんな姿をしているかを考えたことはありません。言葉が通じると思っているわけでもなく、 寧ろ言葉は自分の思いを固定するために、寧ろ自分向けに用いている道具なのです。何を祈るのかを 自分が確認するために言葉を使っていて、それは「祈り」にとっては入口のインタフェースに過ぎず、 それがその先でどのように変換して、対象に伝達されるかについてはどうやら無頓着で、何故か 通じるものと考えているようなのです。
祈りの対象はどこに存在するでしょうか?そもそもどこかに存在するのでしょうか?私が物理的・ 生物学的に其の中に住んでいる世界の時空の具体的な座標をそれが占めているというようには 考えていないようです。そういう意味では、それは「存在」しません。けれども仮想的なもの、 観念的・理念的なものも含めた現象学的な世界ということであればどうでしょう? 恐らく、語りかけの入口は穿たれている。けれども現象学的な地平の「彼方」にそれは存在するのではないかと 思います。そういう意味合いで、それは超越的な存在であり、端的には非存在だということになるのでは ないかと思います。ではその入口はどこに穿たれているのか、どうやらそれは、自分の心の奥に 穿たれていると考えるのが自然に思えます。例えば神社仏閣のように、一見したところ祈る対象が 物理的に目前にあるように思えるときでさえ、私の祈りは一旦は心の奥に向かい、その上で(もし届くのであれば) 対象に届くと感じているように思えます。路傍で見つけた眼前にある石仏自体は只の石像に過ぎないですが、 その前で祈るとき、それでもなおその石像を或る種の媒介として、祈りはこの世界では端的に不在な なにものかに対して届くと考えているように思います。
私が自分の祈りの構造の良い近似になっていると感じているのは、ジュリアン・ジェインズという心理学者が 提唱した「二院制の心」(bicameral mind)という説です。意識というのが歴史的な産物であり、 その形態は過去においても異なっていて、変化してきたという認識を推し進めると、今度は レイ・カーツワイルのような特異点論者が予測するように、未来にはまた、意識は異なる形態をとる可能性が あるだろうと思います。その時には、祈る対象の方も恐らくは今とは異なった「現れ」方をするのだろうと 思います。けれども差し当たり、技術的特異点の手間で寿命が尽きてしまうであろう世代の人間である私にとっては、 将来生じるであろう意識の変容は、興味深いものであっても、所詮は自分には関係のないものです。
そういう意味では私はマーラーと同じエポックに属する人間であり、自己の存在の有限性を前提として 色々なことを考えざるを得ないと思っています。そしてその音楽を聴くにつけ、超越的なものに対する フィーリングのようなものにおいて、マーラーは自己の同類であると感じています。 もっとも子供の頃に出会ってからこの方、寧ろマーラーの音楽が孕んでいる世界観の方に私の方が 影響されつつ自己形成してきたという見方もでき、そうであれば同類であるのは何か稀有な、 誇るべきものなどではなく、寧ろ当然の結果であることになります。
彼は死後の世界を信じていたでしょうか?第2交響曲フィナーレのプログラムについてのエピソードは、 そのプログラムがそのまま、いつかこの世で生起するとまでは彼が考えていなかったこと示しているように 私には思えます。勿論彼は、精神的なものが物質的なものとは独立に存在し、それが自分の生物的な死を 超えて存続することを信じていたと思いますが、それは例えば、音楽作品というのが、実現にあたって 物理的な音響というかたちで現象するものであったとしても、(もの凄く単純化してしまえば、 )ある音の継起と組合せのパターンの情報をデジタル化して、何度でも再現できるように固定したものであり、 物理的なスコアという手段を通して、だけれどもそれ自体は抽象的な存在として、世代を超えて継承される こと、そしてそうした継承を通して、マーラーの「精神」なるものも継承されていくものであり、それが 仮に進化の偶然の賜物であったとしても(現実には私は、ほぼ間違いなくそうであろうと思っていますが)、 意識を持つことになった人間の精神的な領域における営みは(理念的なものである)無限(への漸近)を 目指すものであるという、今日でも恐らくは十分常識的な見解と接続することが十分に可能なものであったと 私は考えています。マーラーが唯物論者でなかったのと同じ程度に、1世紀後の私も精神的な領域の 自律性を確信していると思います。言い方を替えると、1世紀後の日本にもしマーラーが居れば、 彼の考え方は、私のそれをさほど重大な齟齬を来たすことはないだろうと感じているということです。 (繰り返しになりますが、それは寧ろ彼の遺した音楽を通じて、彼の影響のもとに私が成立していると したら、当然のことではないでしょうか?)
ファウスト第二部終幕の解釈に関連したアルマへの書簡ではっきりとそう書いていたと思いますが、 彼はそれを「比喩」として捉えるだけの批判的な知性を持っていましたし、キリスト教的な伝統に ついても、十分批判的な見方をしていましたが(一部はユダヤ人として、そういう見方をすることを 強いられた部分があるのでしょうが)、その一方で、Veni Creator, spritusを彼なりの捉え方で 音楽化し、「ところでそれが来なければ」という悪意に対しては、断固として、そうした超越的な ものの彼方からの到来が現実に起きること、そしてそれは決して無ではないことに対して、 擁護の論陣を張ったであろうと思いますし、私としては、1世紀後の日本においてなお、 第8交響曲の「理念」は異国の文化史の研究の対象でしかない1世紀前の西欧の世紀末の文化遺産などではなく、 今、此処で擁護可能なものだし、擁護しなくてはならない、そうでなければ、博物館の文化財の陳列を眺めるように、 マーラーの交響曲をコンサートホールで「鑑賞」することになど、意味はないと考えています。
同様に、第8交響曲と「大地の歌」の間にも、両者の世界観や神の存在についての認識に、 分裂や矛盾など無いと考えています。マーラーは意識を備えた人間の精神の飛翔が無限を目がけるもので あることを正しく把握し、音楽化したし、その一方で個体としての、個としての自分が過ぎ行くもの、 仮初めのものの側に属していて、そのままでは永遠に与りえないことも正しく把握していて、それをも 音楽化したのだと私は考えています。
もう一度、最初の問いである「神の存在」に戻りましょう。マーラーの音楽は超越的なものへの志向を 備えているという点で際立ったものですが、それは別に既に解決済みの過去の問題であるわけではなく、 寧ろカーツワイルの言う技術的特異点に達するまでのエポックは、マーラーの音楽の「今」であり 「此処」であると考えるべきであり、マーラーにおける「神の存在」の問題の基本的構造は、 そのまま我々のものであり続けているのだと思います。(繰り返しになりますが、ジェインズの意識の考古学は、 その範囲を最も広くとった場合の「我々にとってもそうである」ことに対する説得力ある説明であると思います。)
否、我々を広くとることは止めてもいいでしょう。我々を、マーラーの音楽を聴く事で「目を覚ます」ことを 余儀なくされた者の集団というように限定してもいいでしょう。(私はここで、アドルノのウィーン講演の 結びの部分を思い浮かべています。)これも今や歴史的文献、過去の世代の証言に属するものとなり、 読み返す人も多くないのかも知れませんが、ワルターの以下の言葉こそが、そうした「幽霊達」、即ち マーラーの音楽にコミットする者達の「神の存在」に対する共通認識ではなかろうかと私には思われるのです。
否、更にそうですらなく、これは私だけの孤立した、例外的な認識なのでしょうか?ワルターすら、マーラーに ついてこのように言うものの、自分は別の世界に生きていたのでしょうか?恐らくそんなことはないと思います。 そうでなければ、彼が殊更にマーラーを選び、傾倒する必要などないのですから。
「私は、かれが宗教的精神をもち、ときにその高揚があったとはいえ、かれを敬虔な信仰者と呼ぶことはできない。 かれの感動の高揚は、かれを信仰の高みに登らせはしたが、信仰の確固たる安息の保証はえられなかった。 かれの心はあまりに痛ましく、生きるものの苦悩を感じた。動物相互の殺戮、人間同志の悪徳、疾病に対する 肉体の敏感性、間断なき脅威、それらすべてが、いくたびとなくかれの信仰の基底をゆるがせ、そして、 この世の悲哀と悪徳とをいかにして神の親愛と全能との調和せるむるか、それがかれの自覚し、又かれの 一生涯にわたってますます強くなった問題であった。」(村田武雄訳)マーラーは「神を探していた」という評言こそが適切で、彼にとって神は丸山桂介が言う通り 「隠れたる神」であったのだと思います。しかし、それは1世紀後の極東に生きる我々に とってもそうではないかと思うし、少なくとも私にとってはそうなのです。 「隠れたる神」は非存在です。だけれども存在しないものはただちに無であるわけではなく、 仮想的なもの、想像的なものにして創造的なもの、理念的なもの、かつて存在して今はないという形でその記憶が存続しているもの、 言ってみれば「幽霊的なもの」の領域が「在る」のです。勿論、そうした構造を無意識的に、そうとは 気付かずに生きることと、それを意識しつつ生きることは同じことではありません。そしてマーラーは 明らかに後者のタイプに属しているのだと思います。(ちなみに、マーラーの同時代の日本で、この 構造に気づいた先駆者こそ、北村透谷であると私は考えています(彼は文学者であり、ジャンルは異なりますが)。 良く知られているように、その後の日本文学は、透谷の持つ普遍性と超越への志向を引き継ぎませんでした。 そして1世紀の隔たりにも関わらず、時代の意匠を取り払えば、透谷の認識からそれほど遠くに来たとは到底思えません。 彼の見出した問題、とりわけても「信仰なき者の祈り」の問題はそのまま残っていると私には感じられます。 そして、今日のテクノロジーやメディアの環境の文脈の中で、全く別の方法論によってその問いの答えを探求しているのが、 作曲家でメディア・アーティストの三輪眞弘さんであると思います。)
音楽もまた、総じて仮象に過ぎません。時間の経過とともにそれは過ぎ去り、消えてしまう。 だけれども、そうであるが故に作品の演奏は、その都度、一回性の「出来事」なのですし、 その効果は有限の生命を持つ人間の脳の中の「魂」と呼ばれるものにしか働きかけることができなくとも 決して無ではないし、物理的な音響が消えた後も、その「何か」は存続するし、その価値にコミットする のであれば、その存続に自ら与らなくてはならない、しかも自らの有限性の限界を超えた存続に 与らなくてはならないのだと思います。
恐らく「神」というのはそうした存在と非在の間の領域、精神=聖霊=精霊=亡霊(Geist)の領域の理念的な極限、 超越的な「存在の彼方」の名前なのではないでしょうか?プラトン以来、「存在の彼方」とは善や美といった、 価値に関わる領域を指し示していることを思い起こしてみるべきかも知れません。ともあれ、 それはヒトが現在のような意識の構造を持ってから発見した領域であり、かつ、未だその領域を覗き見た程度であって、 人間が現在の形態である限りは、つまり技術的特異点の手前にいる限りは、それがどれほどの拡がりを 持っているのかを知ることはできず、それゆえ差し当たりは超越的な「存在の彼方」として把握されるほか ないのかも知れません。(カントの言うところの「理性」の宿命は、従ってある意識構造のエポックの 内部でのそれに過ぎないのかも知れません。)個人的にそれをあえて今尚、「神」と呼ぶのが適切かどうかに ついては疑問の余地なしとはしないのですが、一方で、自分が手前に留まる存在であることを前提とするのであれば、 そうした未知の領域のことを従来通り「神」と呼ぶ方が寧ろ一貫するという見方もできるでしょう。 結局のところ、そういうものとして、私は「神の存在」を捉えている、というのがご質問の回答になるかと思います。
漠然としたことを延々と書き連ねてしまい申し訳ありません。しかしながら、私にとってお問い合わせの内容は 簡単な断定で済ませられるようなものではありません。結論が出ているわけでもありません。しかし、 こうした問題に対して、結論めいたことを言うことがそもそも構造的に可能なのかどうか。 聊か言い訳めきますが、そうした点をご考慮いただき、ご勘弁いただけますようお願い申し上げます。(2015.5.9)
(…)
Labels:
カーツワイル,
ジュリアン・ジェインズ,
ブルーノ・ヴァルター,
隠れたる神,
丸山桂介,
三輪眞弘,
私のマーラー受容,
北村透谷
2015年4月24日金曜日
大地の歌管弦楽版の自筆譜に関する備忘
最近(といってもこれは年単位くらいのタイムスケールでの話なのだが)多忙で、頭の中ではマーラーの音楽が
しょっちゅう鳴ってはいるものの、なかなかマーラーに対して向き合う時間と取ることが困難な状態であったところに、
管弦楽版「大地の歌」の自筆譜に関する問い合わせを或る方から頂いた。
残念ながら時間の制約が厳しく、現在の私に調べがつき、コメントできたのはやっと以下のようなものに過ぎなかったので、 あくまでも後日のための備忘といったレベルに過ぎない内容ではあるが、記録をしておくことにする。
問い合わせを頂いた方にとっては、あまりお役には立なかったのではないかと懸念しているが、その一方で私自身はと言えば、 久し振りにマーラーのために時間を使うことができて非常に新鮮に感じられた。この場を借りて、ご連絡頂いたことに感謝したい。
近年、図書館や博物館における資料のデジタルアーカイブ化の進展は著しく、また、何度か紹介しているように、 Web上でもIMSLP(国際楽譜ライブラリープロジェクト)にて、版権の切れた印刷譜や自筆譜がpdf化され公開されている。 マーラーの自筆譜に関しても、この文章を書いている時点で、第1交響曲のハンブルク稿(「花の章」を含む)、 第5交響曲のアダージエット、第4交響曲、第10交響曲について一般に利用可能となっている(第10交響曲については、 1924年に出版されたファクシミリ版のデジタル化も含まれている)。
ほんの少し前までは、そうした資料にアクセスすることができる研究者の文献を介した間接的な情報しか 知る手段がなく、良くてそうした文献に図版として収められた一部のみを確認するのがせいぜいであったことを 考えれば、こうした変化は画期的な事である。第2交響曲や第7交響曲、第5交響曲のアダージエットや第10交響曲の 一部、更には「大地の歌」のピアノ伴奏版はファクシミリが市販されたこともあるのだが、市井の愛好家が入手したり 参照したりする機会は限定的なものであり、私自身、手元にあるのは第7交響曲のみに過ぎない。今後はそれらも含めて、 これまで一般に公開されて来なかったものが電子化されて公開され、参照できるようになることを期待せずにはいられない。
さて、ここでの対象は「大地の歌」の管弦楽版なのであるが、結論から言うと、管弦楽版「大地の歌」の自筆譜については、 部分的に色々な書籍で見ることはできるものの、全体のファクシミリが一般に入手できる状態ではないようである。 公共性の高い場所に所蔵されているようなので、もしかしたら既に閲覧を請求したり、場合によっては手続きなしでWebで 閲覧できたりするかも知れないが、現時点での状況について調査する時間は取れていない。
以下、手元にあってすぐに確認でき典拠とすることができたた文献を掲げる。
Wien, Stadt- und Landesbibliothek(Universal Editionが寄託)
「大地の歌」の場合、従来知られてきた管弦楽版とは別に、マーラー自身がピアノ伴奏版を 作成していたことが知られるようになり、ファクシミリ版の出版、国際マーラー協会の全集補巻への収録、 更には既に幾つか存在する演奏の録音については良く知られていることだろうが、いわゆるピアノ伴奏版 というのは、上記の管弦楽版においては①自筆管弦楽草稿とほぼ同じ時期の自筆譜が残っている。 他方でマーラーがこの作品の初演を自ら指揮することなく没してしまったこと、従ってそれ以前の 作品には多少なりとも存在する、出版後の修正・改訂を経ていないこともまた良く知られているだろう。
「大地の歌」は昔から、それが交響曲であるかどうかといったジャンルの問題が取り沙汰されることが多いが、 そうした側面から見た場合、自筆譜は一体何を物語っているのだろうか。近年、国際マーラー協会が出した 「大地の歌」管弦楽版の新版は、上記ピアノ版の検討結果を管弦楽版に反映させるといった 方向性のものであったようだが、管弦楽版自体の生成プロセスについてはどうか?
「大地の歌」を管弦楽伴奏歌曲として見ると、最終的な管弦楽配置の規模は大き過ぎ、室内交響曲的な ものを着想することはなかったし、その後(といってもあと2曲しかないが)も概ね3管編成以上の規模の 管弦楽を交響曲において使ったマーラーの場合、管弦楽配置の規模というのは、それが「交響曲」と 見做されていることの裏づけになる事実であろう。そしてそれは出版譜からさかのぼって、少なくとも ②自筆フルスコアの段階で既に確認できることのようである。
演奏する現場にとっては大変な難物で、勿論、特に第1楽章のテノールをはじめとして、先ずは歌手にとって 苛酷な作品なのだろうが、聞くところによれば、当然のことながら指揮者にとっても「大地の歌」は 非常に厄介な存在であるらしい。前作の第8交響曲もまた、特にソロを歌う歌手と指揮者にとって は難物のようだが、それとは勿論、技術的な難しさの方向性は随分と異なるものなのであろう。
だが更に管弦楽版の生成過程について実証的な裏づけをとるべく調査を企てた場合、 上記の調査結果が現在も尚続いているとすれば、とりわけ①自筆管弦楽草稿の第1,2楽章が 所在不明なのが致命的な障碍となってしまうように思われる。
と言うのも、既に述べた通り、②自筆フルスコアは、例えばDonald Mitchellの"Gustav Mahler : Songs and Symphonies of Life and Death", (The Boydell Press, 2002)などで 確認できるわけだが、上掲の第1楽章冒頭をざっと確認する限り、初版譜との 異同は部分的なもののようだからだ。勿論違いがないわけではなく、例えば、フルートの Flatterzungeがまるまる存在せず、これは更に後の段階で追加されたものらしい。 一方、強弱法の方はトランペットのZungenstoßに付されたデクレシェンドが ないことが目立つくらいで、想定されている管弦楽の編成も変わらないように見える。
現在所在不明になっている①自筆管弦楽草稿についてもその第1頁だけは、 例えばKurt Blaukopfの"Gustav Mahler oder der Zeitgenosse des Zukunft"に 収められているのが有名であろうが、これを確認する限りでは、以下の点に 留意すべきように思われる。
以下、上記を踏まえ、何点か感じたことを備忘のために記しておきたい。
(2015.4.24)
残念ながら時間の制約が厳しく、現在の私に調べがつき、コメントできたのはやっと以下のようなものに過ぎなかったので、 あくまでも後日のための備忘といったレベルに過ぎない内容ではあるが、記録をしておくことにする。
問い合わせを頂いた方にとっては、あまりお役には立なかったのではないかと懸念しているが、その一方で私自身はと言えば、 久し振りにマーラーのために時間を使うことができて非常に新鮮に感じられた。この場を借りて、ご連絡頂いたことに感謝したい。
近年、図書館や博物館における資料のデジタルアーカイブ化の進展は著しく、また、何度か紹介しているように、 Web上でもIMSLP(国際楽譜ライブラリープロジェクト)にて、版権の切れた印刷譜や自筆譜がpdf化され公開されている。 マーラーの自筆譜に関しても、この文章を書いている時点で、第1交響曲のハンブルク稿(「花の章」を含む)、 第5交響曲のアダージエット、第4交響曲、第10交響曲について一般に利用可能となっている(第10交響曲については、 1924年に出版されたファクシミリ版のデジタル化も含まれている)。
ほんの少し前までは、そうした資料にアクセスすることができる研究者の文献を介した間接的な情報しか 知る手段がなく、良くてそうした文献に図版として収められた一部のみを確認するのがせいぜいであったことを 考えれば、こうした変化は画期的な事である。第2交響曲や第7交響曲、第5交響曲のアダージエットや第10交響曲の 一部、更には「大地の歌」のピアノ伴奏版はファクシミリが市販されたこともあるのだが、市井の愛好家が入手したり 参照したりする機会は限定的なものであり、私自身、手元にあるのは第7交響曲のみに過ぎない。今後はそれらも含めて、 これまで一般に公開されて来なかったものが電子化されて公開され、参照できるようになることを期待せずにはいられない。
さて、ここでの対象は「大地の歌」の管弦楽版なのであるが、結論から言うと、管弦楽版「大地の歌」の自筆譜については、 部分的に色々な書籍で見ることはできるものの、全体のファクシミリが一般に入手できる状態ではないようである。 公共性の高い場所に所蔵されているようなので、もしかしたら既に閲覧を請求したり、場合によっては手続きなしでWebで 閲覧できたりするかも知れないが、現時点での状況について調査する時間は取れていない。
以下、手元にあってすぐに確認でき典拠とすることができたた文献を掲げる。
- a, Stephen E. Hefling, "Mahler : Das Lied von der Erde", (Cambridge Univ. Press 2000)
- b, Henry-Louis de la Grange, "Gustav Mahler: Chronique d'une vie, III, Le génie foudroyé", (Fayard, 1984)
- c, Henry-Louis de la Grange, "Gustav Mahler: volume 4, A new life cut short (1907-1911)", (Oxford Univ. Press, 2008)
- d, Peter Revers u. Oliver Korte, "Gustav Mahler: Interpretation seiner Werke", Band 2, (Laaber, 2011)
①自筆管弦楽草稿
- 第1, 第2楽章は所在不明(一部のみ幾つかの書籍の図版等にて確認可能)。
- 第3楽章 Wien, Gesellshaft der Musikfreunde
- 第4楽章 New York, Pierpont Morgan Library, Robert Owen Lehman Deposit(アルマのコレクションから)
- 第5楽章 Wien, Stadt- und Landesbibliothek
- 第6楽章 Den Haag, Gemeentemuseum, Willem Mengelberg Stichting(aの記述による)
→ Den Haag, Koninklijke Bibliotheek, Netherlands Muziek Institut, Willem Mengelberg Archief(dの記述による)
②自筆フルスコア
Pierpont Morgan Library, Robert Owen Lehman Deposit(アルマのコレクションから)③コピイストによるフルスコアの写譜(マーラーの訂正書き込みを含む)
Stichvorlage. Kopist:Johann Forstik,Wien, Stadt- und Landesbibliothek(Universal Editionが寄託)
「大地の歌」の場合、従来知られてきた管弦楽版とは別に、マーラー自身がピアノ伴奏版を 作成していたことが知られるようになり、ファクシミリ版の出版、国際マーラー協会の全集補巻への収録、 更には既に幾つか存在する演奏の録音については良く知られていることだろうが、いわゆるピアノ伴奏版 というのは、上記の管弦楽版においては①自筆管弦楽草稿とほぼ同じ時期の自筆譜が残っている。 他方でマーラーがこの作品の初演を自ら指揮することなく没してしまったこと、従ってそれ以前の 作品には多少なりとも存在する、出版後の修正・改訂を経ていないこともまた良く知られているだろう。
「大地の歌」は昔から、それが交響曲であるかどうかといったジャンルの問題が取り沙汰されることが多いが、 そうした側面から見た場合、自筆譜は一体何を物語っているのだろうか。近年、国際マーラー協会が出した 「大地の歌」管弦楽版の新版は、上記ピアノ版の検討結果を管弦楽版に反映させるといった 方向性のものであったようだが、管弦楽版自体の生成プロセスについてはどうか?
「大地の歌」を管弦楽伴奏歌曲として見ると、最終的な管弦楽配置の規模は大き過ぎ、室内交響曲的な ものを着想することはなかったし、その後(といってもあと2曲しかないが)も概ね3管編成以上の規模の 管弦楽を交響曲において使ったマーラーの場合、管弦楽配置の規模というのは、それが「交響曲」と 見做されていることの裏づけになる事実であろう。そしてそれは出版譜からさかのぼって、少なくとも ②自筆フルスコアの段階で既に確認できることのようである。
演奏する現場にとっては大変な難物で、勿論、特に第1楽章のテノールをはじめとして、先ずは歌手にとって 苛酷な作品なのだろうが、聞くところによれば、当然のことながら指揮者にとっても「大地の歌」は 非常に厄介な存在であるらしい。前作の第8交響曲もまた、特にソロを歌う歌手と指揮者にとって は難物のようだが、それとは勿論、技術的な難しさの方向性は随分と異なるものなのであろう。
だが更に管弦楽版の生成過程について実証的な裏づけをとるべく調査を企てた場合、 上記の調査結果が現在も尚続いているとすれば、とりわけ①自筆管弦楽草稿の第1,2楽章が 所在不明なのが致命的な障碍となってしまうように思われる。
と言うのも、既に述べた通り、②自筆フルスコアは、例えばDonald Mitchellの"Gustav Mahler : Songs and Symphonies of Life and Death", (The Boydell Press, 2002)などで 確認できるわけだが、上掲の第1楽章冒頭をざっと確認する限り、初版譜との 異同は部分的なもののようだからだ。勿論違いがないわけではなく、例えば、フルートの Flatterzungeがまるまる存在せず、これは更に後の段階で追加されたものらしい。 一方、強弱法の方はトランペットのZungenstoßに付されたデクレシェンドが ないことが目立つくらいで、想定されている管弦楽の編成も変わらないように見える。
現在所在不明になっている①自筆管弦楽草稿についてもその第1頁だけは、 例えばKurt Blaukopfの"Gustav Mahler oder der Zeitgenosse des Zukunft"に 収められているのが有名であろうが、これを確認する限りでは、以下の点に 留意すべきように思われる。
- ホルンは4本(譜表上、2段とっているが1,2/3,4の使い分けは②自筆フルスコアの ように明確ではなく、冒頭は1段目に a 4 で4本の斉奏であることが示されている ように私には見える。こうした記譜の仕方は、作曲のこの段階では普通のことだと思われる。
- ②自筆フルスコアでは初めから登場しない、バスチューバやコントラファゴット用の 段が用意され、のみならず当初は音が書き込まれた上で抹消されていて、かつチューバは(第1楽章)全曲通して削除という書き込みが見られることから、この段階で管弦楽配置の重心を上げる作業が行われていることが窺える。(なおコントラファゴットは、第5、第6楽章、チューバは第4楽章では用いられているわけで、全曲通して完全に削除されることはなかった。)
以下、上記を踏まえ、何点か感じたことを備忘のために記しておきたい。
- 上記のアルマのエピソードのところには、マーラーがピアノで大地の歌を弾くという 表現が出てくるのだが、これは「ピアノ伴奏版」なのだろうか、という疑問が湧く。正直なところ、35年も前にこの回想録を最初に読んだ時以来、当然これは自筆のスコアを見て弾いているのだろうと思い込んでいて、ピアノ伴奏版の存在が知られるようになってからも、そちらの可能性は考えたことはなかった。
- こちらは完全な「たられば」の空想だが、マーラーが「大地の歌」を自分で初演したら、その後の管弦楽配置はどうなっただろう、という点。アルマは中期の交響曲とは異なって、後期作品ではマーラーはオーケストレーションについて迷いがなくなったといったことを述べているが、この点については、私はアルマの考えには与しない。現場の人間であったマーラーは、必ずや、実演に接して、うまく鳴らなかった部分をいじったに違いないと思う。
- それでは更に進んで、編成を縮小するようなところまで行く可能性はなかっただろうか?もっと大胆に「もし」を続ければ、マーラーが第1次世界大戦後も生き延びたら、ウェーベルンのOp.6におけるような2管編成への縮小とそれに伴う改訂作業のようなものをすることはなかったか。
- 尤も、シェーンベルクの室内交響曲をマーラーは生前に聴いていて、編成は大きくても、時間的経過の個個の場所での鳴らし方は室内楽的である、というような発想は、 既に、「大地の歌」「第9交響曲」そして不確定ながら「第10交響曲」の遺された姿にもはっきりと現れているのだから、編成自体の縮小ということをマーラーが試みたかどうかは何とも言えないように思う。
- ただし、クックは4管編成で第10交響曲の管弦楽配置をしたが、マーラーは第1楽章を3管編成で管弦楽配置しているし、「大地の歌」「第9交響曲」も基本は3管編成と言えるので、ショスタコーヴィチのように作品によって大きく編成を変える中で、室内管弦楽編成に近いものをマーラーが採用する可能性はあっただろうと思う。
- 上記のようなこともあり、私は個人的にはアルマの「交響曲への成長」というのは、 主として①自筆管弦楽草稿より手前でおきたことではないだろうかと、漠然と感じている。というより、以前より漠然とそう思い込んできた、それはアルマの回想録のクロノロジーを無意識に前提としている可能性はあるわけだが、その後1908年の①自筆管弦楽草稿の時点では、既に管弦楽版とピアノ版が並行して存在しているのは実証的に裏付けられていることだから、そうしたことも含めて、①自筆管弦楽草稿以前の段階では、あるいはKindertotenliederのようなものの延長として構想されていたのではなかろうか。
- しかしこれらは、もっと早い時期のスケッチ(第1楽章は一部残されているようだが)を参照して、他の交響曲と歌曲のそれを比較検討して、というプロセスを踏むことが必要となるのだろうから、「大地の歌」管弦楽版自筆譜に関しては、今のところ一般に公開されている資料はないようだが、いずれ状況が変わったら、調べてみたいと思う。
(2015.4.24)
2015年4月22日水曜日
逍遥の音楽
マーラーは散歩が好きであったという。それは今日であれば差し詰めウォーキングと
呼ばれるもののイメージに近く、(ウェーベルンが愛好したような)登山ほどは本格的ではなく、
だが、長時間に渉り、かなりの距離を踏破するといったものであったらしい。
マーラーの時代は、工業化社会の入口にあたっており、鉄道網が張り巡らされ、
写真は当たり前になりつつあり、自転車、自動車が発明され、電灯が灯り始める時期である。
今日もまた類似の現象が見られるように、リゾートブームがあり、健康ブームもあり、
例えば自転車に乗ることは、当時のモードの最先端という一面を持っていたらしい。
マーラーは自転車にも熱中したらしく、書簡集の中には、いわゆる「サイクリング」
友達宛のものも収められていたりする。マーラーがもう少し長生きして本格的な工業化時代まで
生き永らえたとしたら、どうなったであろう。自動車が個人で所有できるようになり、
飛行機が実用化した暁には、マーラーは自動車や飛行機に熱中しただろうか。だが、
結果としてそのようにはならず、現実に遺された作品に拠る限りは、マーラーの音楽は結局のところ、
「私」の歩行のリズムと移ろう風景が織り成す「逍遥の音楽」ではないだろうか。
マーラーの音楽を聴くとき、そこに逍遥のテンポとリズムが、その中を主体が移動していく 風景が思い浮かぶことは、少なくとも私にとっては、聴き始めの頃からごくありふれた、 当たり前のことであったように思われる。あまりに当たり前過ぎて、あるいはアドレッセンス 特有の性急な熱中の結果として、その音楽があまりに自分の中に埋め込まれてしまったため、 それが音楽的経験として、必ずしも自明なことではなく、マーラーの音楽の受容の仕方としてもまた、 必然でも当たり前でもないかも知れないということに気付くのに、ひどく時間がかかることになる。
ちょっと反省してみれば、それがかなり強引な写像であることに気付きそうなものであるが、私は 当たり前のこととして、自分が住んでいた地方都市近郊の風景を、マーラーの音楽の風景と オーバーラップさせて受け止めていた。勿論、兵営のラッパの音が聴こえるわけでもなく、 ポストホルンが響くこともなく、レントラーやスケルツォが舞曲として、自分の身体性に 接地した訳でもなく、多くはモノクロであったが、写真等を通して、マーラーがその中で 作曲をした場所の風景を知らなかったわけではない。1世紀と地球半周近い隔たりがあることに 対して完全に無意識であるわけもなく、それが異国、過去の音楽であることに思いが 及ばなかった訳でもない。
言ってみれば、(そして、これは今現在でも基本的には変化はないのだが、)私は今、そこで 鳴り響いている音楽を通して、自分の生きている世界を眺めようとしていたのだろうと思う。 それが可能であったことの恐らく最も重要な要件の一つとして、FMラジオやLPレコードから 響いてくる「音響」としてマーラーの音楽を受容し、当時は爆発的なブームになる前であったこともあり、 コンサートホールでマーラーを聴くようになる前に、独りで聴く音楽、更に言えば、自分の中で 鳴り響かせる音楽として受容していたということがあるだろう。
勿論、それ以前の前提条件として、「自然の音」に満ち、それ自体が一つの世界であり、その音楽を聴くことが、 風景の中を逍遥することに近しいだけの空間的な広がりを備えたマーラーの音楽、とりわけても その交響曲作品のありようが与っているのは間違いない。
だがマーラーがかつて歩いた風景は、1世紀後の極東の島国に住んでいる限り、現実のものとなることはない。 勿論これまでも、マーラーの同時代に撮影された写真によって辛うじてかつての風景を伺うことも できたし、その後撮影された写真によって何年か後の同じ場所の風景を知ることもできた。 更に現在では、Google Street Viewのような手段によって、仮想的にその中を動き回ることも できるようになってきてはいる。
しかしだからといって、マーラーが居た同じ場所に(100年以上の隔たりと、何よりそこは、 たとえ浮き草のような関わりであってもなお自分が生活している圏ではない、自分にとっては 他者としての、異質な風景であるという消し難い意識を携えたまま)自分が立ってみたいと思うかと言えば、 私に関しては、実はその気持ちが切実な訳ではない。マーラーは第3交響曲を作曲していた頃に、 弟子のブルノ・ワルターに対して、自分の作品の中で表現してしまったから、現実の山を見るには及ばない、 といったことを述べたそうだが、時間と空間の隔たりを、作品を媒介にして辛うじて通り抜ける私のような聴き手は、 まずは専ら作品の中に封じ込められた風景に慣れ親しんできており、その音楽と共鳴する、 (元々のマーラーの文脈とは全く無関係の)私にとっての現実の風景との連想が形成されたりはするものの、 結局のところ私にとって重要なのは作品の中の風景であるということのようであり、つまるところ、 マーラーの意図は、ここでは申し分なく達成されたということになるのだと思う。
一方でそれが故に、自分が見た現実の風景が、例えば更に1世紀後にどのようなものになってしまうか に関しても無頓着でいられるのであろう。私がその風景の中に都度見出したものは、勿論実際にその風景の 中に存在していたものには違いなかろうが、元はと言えば、それはマーラーの音楽の中に封じ込められた 構造の投影の如きものであって、マーラーの作品が存続する限り、その都度再現可能なものであろうからである。 勿論、他の聴き手ならば、同じ作品から私が見ているのとは 別の風景を読み取ることもあるだろうが、作品の中に封じ込められた風景は、いわば「幽霊」の 如きものであって、「出来事」の痕跡であるとともに、「出来事」の想起の反復を可能にする装置 なのである。それは単にそれがかつてあったという事実を指し示すだけではなく、それがどのようであったかを 再現し、繰り返し経験させるメカニズムなのである。それゆえ、私が最初にマーラーの音楽を聴いたときに 見た風景は、私の経験の個別性を捨象してしまえば、作品が存続する限り、私の有限の寿命を超えて 生き延びて、「出来事」の経験の質を、その都度更新しつつ伝達していくのであって、「幽霊」として、 私よりも寧ろ永続的な存在なのである。
かつてとは異なって、現実の外の風景は、マーラーの音楽と必ずしも共鳴しなくなってきた。 歩行のリズムは残る一方で、風景は内面にしか残らず、外の現実と一致することはない。 本質的に逍遥の音楽としての身体性を帯びているマーラーの音楽は、バルトークを参照して ヴィニャルが言い当てたように、優れて「野外の音楽」なのであり、更にそれは、時折立ち止まったり、 方向を変えたり、速度を緩めたりということはあっても、奥行や広がりのある外部を持ち、風景の中を 移動していく視点を持ち、外と接する皮膚感覚があり、キネティックな身体性を帯びているが故に、 それを同調的に受容する私もまた、そうした場における動性が持つリズムへと引き込まれていく。 (こういうことは言えないだろうか、同じ風景の中の逍遥であっても、それがマーラーの音楽と ともにある場合と、そうでない場合では歩行のリズムが異なり、結果としてそこに異なったものが生じるのだ、と。)
他方で、その音楽の中に記憶された風景は、私がその中に住まう現実の風景と、今なお時折、 緩やかな連想によって繋がることがあるとはいえ、決して一致することがないことに、私は気づいて しまっている。作品にアーカイブされた風景というのは、ある種の「記憶」であって、記憶というのは 常に、何かをきっかけに再構成されるものでしかなく、作品は言ってみれば、そうした記憶を、 時代を超え、場所を変え、主体すら入れ替わって尚、再現することを可能にするだけの情報を 構造化して固定化したメカニズムなのである。寧ろマーラーの音楽は、今や現実の風景の孕む 細部のずれをものともせずに、記憶された風景を、一度もそれを過去に経験したことのない主体に対して さえ正確に提示することができるのだと言うべきだろう。
そしてそこでもう一度、マーラーの音楽の特質として、それが構造的に超越性を孕んでいて、 外部に己を曝すタイプの存在様態のアーカイブなのだということ、つまり外部から到来する出来事の経験の 痕跡なのだということが浮かび上がってくる。同じように優れた音楽であっても、もしかしたら、事実としては 同じような、あるいはより深刻な経験が契機となった作品であっても、常に生じるとは限らない。
例えば、マーラーのライバルと目されたシュトラウスが第二次世界大戦の経験に基づき作曲した 「メタモルフォーゼン」を思い浮かべて見ればよい。経験の深みと重みに思わず思いを致さずにはいられない、 その凄まじいばかりの圧倒的な力にも関わらず、 この音楽はかつての「英雄」の内側で鳴り響いていて、決して外部へとは向かわない。何物も探し求めるわけではなく、 どこにも行かないし、どこにも辿りつかない。それが端的に感じられるのは、例えばマーラーの再現のあの距離感、 もう引き返せないという感覚と比べたときのシュトラウスの再現の持つ時間性だろう。ここではアドルノの カテゴリを用いれば、「突破」は決して生じない。マーラーの音楽におけるような、超越の瞬間における、 絶対的に受動的な主体の没落が生じることはない。
マーラーの音楽は、そういう意味で、内面的の表現という意味合いでのロマン主義とは異質なものだし、 外面的な描写、事前に設定された素材としての標題の音化なのでは全くない。他方で、内的なプログラムとしての 標題を云々することで、標題性を救い出そうする志向は、そうすることで「プログラム」という言葉の持つ 意味を毀損して、陳腐化してしまっているのだ。
音楽作品というのは、それが作品である限りにおいて、何等かの「プログラム」そのものであろう。 音楽作品であればそれは、ある具体的な構造を持った音響を常に同じように構成するための手順書という意味合いで、 すべからく「プログラム」である。(一定の情緒を喚起することを意図したムード音楽はその最たるもので、 それゆえマーラーはしばしばそのように捉えられがちなのだろう。)その上でマーラーの作品=プログラムの特性はと言えば、 それが外部から到来した出来事の経験の反復、超越の経験の再生のための形式的条件を記述した手順書という意味で、 プログラムなのであって、「内的」という言葉で尽くされるようなものではない。寧ろそれは強い 行為遂行性を帯びていて、そこで再現される経験は、ある種の儀礼の如きものに近接する。 寧ろ行動への誘いなのであり、もしかしたら(まさにそのために書かれた筈であるにも関わらず)、 コンサートホールでの演奏会という制度の枠に、防音設備で外部から隔離され、数時間の間、 「芸術鑑賞」というかたちで日常から隔離された環境での「美的感動」には収まりきらず、そうした閉域に 閉じ込められることを拒絶するような類のものかも知れないのだ。丸山桂介が、「隠れたる神」において 示唆しようとしたことは、結局のところ、こうした消息なのではなかろうか。
マーラーの音楽作品は、超越の瞬間における、絶対的に受動的な主体の没落の記録なのであり、 しかもそれは過去に起きたことを事実して記録するのではなく、まさにそうした瞬間にこそ何者かが到来し、 「来たれ」と主体に対して呼びかけるという構造を封じ込めてあり、そうした経験を再現するための メカニズムなのである。それは「外部」を呼び起こし、その作品を受容する主体を外部への連れ出すのだ。 マーラーの音楽のそうした構造は、それを普遍的なものと呼ぶことはできまいが、個別の経験ではなく、 経験の構造を、経験主体の構造とその構造がもたらす宿命を定着したものとして、自伝的自己を備えた 自己意識を持つ主体のプロセスの痕跡であり、そうしたプロセスを可能にする形式的条件を プログラムしたものなのである。
従って、マーラーの音楽に導かれて逍遥することはある種の巡礼であるけれど、それは、 (もちろんそれも意義あることではあろうが)1世紀前にマーラーが実際に見た同じ場所を1世紀後に 訪れて再認することではなく、作品が再現する経験の構造を自らの行動に引き込むことによって マーラーが探した何かを、同じように探すことに他ならず、そうした「出来事の到来」を可能にする 構造を備えているがゆえにそれは「巡礼」たりうるのだ。マーラーの音楽はコンサートホールでの 消費を目的としたものではなく、マーラーがその中を生きた環境の追体験でもなく、寧ろコンサートホールの 外に出た後の主体の行動の様式の変容を強いる類のものであり、「来たれ」という他者の呼びかけに 応えて赴くことへの誘いなのだ。そしてそれゆえにこそ、マーラーの音楽は、自伝的自己を備えた 自己意識を持つ主体の生きる時代の中にあって、ベイトソンの言う意味合いでの「無意識のエクササイズ」に 相応しいものなのではなかろうか。(2015.4.22/23/24)
マーラーの音楽を聴くとき、そこに逍遥のテンポとリズムが、その中を主体が移動していく 風景が思い浮かぶことは、少なくとも私にとっては、聴き始めの頃からごくありふれた、 当たり前のことであったように思われる。あまりに当たり前過ぎて、あるいはアドレッセンス 特有の性急な熱中の結果として、その音楽があまりに自分の中に埋め込まれてしまったため、 それが音楽的経験として、必ずしも自明なことではなく、マーラーの音楽の受容の仕方としてもまた、 必然でも当たり前でもないかも知れないということに気付くのに、ひどく時間がかかることになる。
ちょっと反省してみれば、それがかなり強引な写像であることに気付きそうなものであるが、私は 当たり前のこととして、自分が住んでいた地方都市近郊の風景を、マーラーの音楽の風景と オーバーラップさせて受け止めていた。勿論、兵営のラッパの音が聴こえるわけでもなく、 ポストホルンが響くこともなく、レントラーやスケルツォが舞曲として、自分の身体性に 接地した訳でもなく、多くはモノクロであったが、写真等を通して、マーラーがその中で 作曲をした場所の風景を知らなかったわけではない。1世紀と地球半周近い隔たりがあることに 対して完全に無意識であるわけもなく、それが異国、過去の音楽であることに思いが 及ばなかった訳でもない。
言ってみれば、(そして、これは今現在でも基本的には変化はないのだが、)私は今、そこで 鳴り響いている音楽を通して、自分の生きている世界を眺めようとしていたのだろうと思う。 それが可能であったことの恐らく最も重要な要件の一つとして、FMラジオやLPレコードから 響いてくる「音響」としてマーラーの音楽を受容し、当時は爆発的なブームになる前であったこともあり、 コンサートホールでマーラーを聴くようになる前に、独りで聴く音楽、更に言えば、自分の中で 鳴り響かせる音楽として受容していたということがあるだろう。
勿論、それ以前の前提条件として、「自然の音」に満ち、それ自体が一つの世界であり、その音楽を聴くことが、 風景の中を逍遥することに近しいだけの空間的な広がりを備えたマーラーの音楽、とりわけても その交響曲作品のありようが与っているのは間違いない。
だがマーラーがかつて歩いた風景は、1世紀後の極東の島国に住んでいる限り、現実のものとなることはない。 勿論これまでも、マーラーの同時代に撮影された写真によって辛うじてかつての風景を伺うことも できたし、その後撮影された写真によって何年か後の同じ場所の風景を知ることもできた。 更に現在では、Google Street Viewのような手段によって、仮想的にその中を動き回ることも できるようになってきてはいる。
しかしだからといって、マーラーが居た同じ場所に(100年以上の隔たりと、何よりそこは、 たとえ浮き草のような関わりであってもなお自分が生活している圏ではない、自分にとっては 他者としての、異質な風景であるという消し難い意識を携えたまま)自分が立ってみたいと思うかと言えば、 私に関しては、実はその気持ちが切実な訳ではない。マーラーは第3交響曲を作曲していた頃に、 弟子のブルノ・ワルターに対して、自分の作品の中で表現してしまったから、現実の山を見るには及ばない、 といったことを述べたそうだが、時間と空間の隔たりを、作品を媒介にして辛うじて通り抜ける私のような聴き手は、 まずは専ら作品の中に封じ込められた風景に慣れ親しんできており、その音楽と共鳴する、 (元々のマーラーの文脈とは全く無関係の)私にとっての現実の風景との連想が形成されたりはするものの、 結局のところ私にとって重要なのは作品の中の風景であるということのようであり、つまるところ、 マーラーの意図は、ここでは申し分なく達成されたということになるのだと思う。
一方でそれが故に、自分が見た現実の風景が、例えば更に1世紀後にどのようなものになってしまうか に関しても無頓着でいられるのであろう。私がその風景の中に都度見出したものは、勿論実際にその風景の 中に存在していたものには違いなかろうが、元はと言えば、それはマーラーの音楽の中に封じ込められた 構造の投影の如きものであって、マーラーの作品が存続する限り、その都度再現可能なものであろうからである。 勿論、他の聴き手ならば、同じ作品から私が見ているのとは 別の風景を読み取ることもあるだろうが、作品の中に封じ込められた風景は、いわば「幽霊」の 如きものであって、「出来事」の痕跡であるとともに、「出来事」の想起の反復を可能にする装置 なのである。それは単にそれがかつてあったという事実を指し示すだけではなく、それがどのようであったかを 再現し、繰り返し経験させるメカニズムなのである。それゆえ、私が最初にマーラーの音楽を聴いたときに 見た風景は、私の経験の個別性を捨象してしまえば、作品が存続する限り、私の有限の寿命を超えて 生き延びて、「出来事」の経験の質を、その都度更新しつつ伝達していくのであって、「幽霊」として、 私よりも寧ろ永続的な存在なのである。
かつてとは異なって、現実の外の風景は、マーラーの音楽と必ずしも共鳴しなくなってきた。 歩行のリズムは残る一方で、風景は内面にしか残らず、外の現実と一致することはない。 本質的に逍遥の音楽としての身体性を帯びているマーラーの音楽は、バルトークを参照して ヴィニャルが言い当てたように、優れて「野外の音楽」なのであり、更にそれは、時折立ち止まったり、 方向を変えたり、速度を緩めたりということはあっても、奥行や広がりのある外部を持ち、風景の中を 移動していく視点を持ち、外と接する皮膚感覚があり、キネティックな身体性を帯びているが故に、 それを同調的に受容する私もまた、そうした場における動性が持つリズムへと引き込まれていく。 (こういうことは言えないだろうか、同じ風景の中の逍遥であっても、それがマーラーの音楽と ともにある場合と、そうでない場合では歩行のリズムが異なり、結果としてそこに異なったものが生じるのだ、と。)
他方で、その音楽の中に記憶された風景は、私がその中に住まう現実の風景と、今なお時折、 緩やかな連想によって繋がることがあるとはいえ、決して一致することがないことに、私は気づいて しまっている。作品にアーカイブされた風景というのは、ある種の「記憶」であって、記憶というのは 常に、何かをきっかけに再構成されるものでしかなく、作品は言ってみれば、そうした記憶を、 時代を超え、場所を変え、主体すら入れ替わって尚、再現することを可能にするだけの情報を 構造化して固定化したメカニズムなのである。寧ろマーラーの音楽は、今や現実の風景の孕む 細部のずれをものともせずに、記憶された風景を、一度もそれを過去に経験したことのない主体に対して さえ正確に提示することができるのだと言うべきだろう。
そしてそこでもう一度、マーラーの音楽の特質として、それが構造的に超越性を孕んでいて、 外部に己を曝すタイプの存在様態のアーカイブなのだということ、つまり外部から到来する出来事の経験の 痕跡なのだということが浮かび上がってくる。同じように優れた音楽であっても、もしかしたら、事実としては 同じような、あるいはより深刻な経験が契機となった作品であっても、常に生じるとは限らない。
例えば、マーラーのライバルと目されたシュトラウスが第二次世界大戦の経験に基づき作曲した 「メタモルフォーゼン」を思い浮かべて見ればよい。経験の深みと重みに思わず思いを致さずにはいられない、 その凄まじいばかりの圧倒的な力にも関わらず、 この音楽はかつての「英雄」の内側で鳴り響いていて、決して外部へとは向かわない。何物も探し求めるわけではなく、 どこにも行かないし、どこにも辿りつかない。それが端的に感じられるのは、例えばマーラーの再現のあの距離感、 もう引き返せないという感覚と比べたときのシュトラウスの再現の持つ時間性だろう。ここではアドルノの カテゴリを用いれば、「突破」は決して生じない。マーラーの音楽におけるような、超越の瞬間における、 絶対的に受動的な主体の没落が生じることはない。
マーラーの音楽は、そういう意味で、内面的の表現という意味合いでのロマン主義とは異質なものだし、 外面的な描写、事前に設定された素材としての標題の音化なのでは全くない。他方で、内的なプログラムとしての 標題を云々することで、標題性を救い出そうする志向は、そうすることで「プログラム」という言葉の持つ 意味を毀損して、陳腐化してしまっているのだ。
音楽作品というのは、それが作品である限りにおいて、何等かの「プログラム」そのものであろう。 音楽作品であればそれは、ある具体的な構造を持った音響を常に同じように構成するための手順書という意味合いで、 すべからく「プログラム」である。(一定の情緒を喚起することを意図したムード音楽はその最たるもので、 それゆえマーラーはしばしばそのように捉えられがちなのだろう。)その上でマーラーの作品=プログラムの特性はと言えば、 それが外部から到来した出来事の経験の反復、超越の経験の再生のための形式的条件を記述した手順書という意味で、 プログラムなのであって、「内的」という言葉で尽くされるようなものではない。寧ろそれは強い 行為遂行性を帯びていて、そこで再現される経験は、ある種の儀礼の如きものに近接する。 寧ろ行動への誘いなのであり、もしかしたら(まさにそのために書かれた筈であるにも関わらず)、 コンサートホールでの演奏会という制度の枠に、防音設備で外部から隔離され、数時間の間、 「芸術鑑賞」というかたちで日常から隔離された環境での「美的感動」には収まりきらず、そうした閉域に 閉じ込められることを拒絶するような類のものかも知れないのだ。丸山桂介が、「隠れたる神」において 示唆しようとしたことは、結局のところ、こうした消息なのではなかろうか。
マーラーの音楽作品は、超越の瞬間における、絶対的に受動的な主体の没落の記録なのであり、 しかもそれは過去に起きたことを事実して記録するのではなく、まさにそうした瞬間にこそ何者かが到来し、 「来たれ」と主体に対して呼びかけるという構造を封じ込めてあり、そうした経験を再現するための メカニズムなのである。それは「外部」を呼び起こし、その作品を受容する主体を外部への連れ出すのだ。 マーラーの音楽のそうした構造は、それを普遍的なものと呼ぶことはできまいが、個別の経験ではなく、 経験の構造を、経験主体の構造とその構造がもたらす宿命を定着したものとして、自伝的自己を備えた 自己意識を持つ主体のプロセスの痕跡であり、そうしたプロセスを可能にする形式的条件を プログラムしたものなのである。
従って、マーラーの音楽に導かれて逍遥することはある種の巡礼であるけれど、それは、 (もちろんそれも意義あることではあろうが)1世紀前にマーラーが実際に見た同じ場所を1世紀後に 訪れて再認することではなく、作品が再現する経験の構造を自らの行動に引き込むことによって マーラーが探した何かを、同じように探すことに他ならず、そうした「出来事の到来」を可能にする 構造を備えているがゆえにそれは「巡礼」たりうるのだ。マーラーの音楽はコンサートホールでの 消費を目的としたものではなく、マーラーがその中を生きた環境の追体験でもなく、寧ろコンサートホールの 外に出た後の主体の行動の様式の変容を強いる類のものであり、「来たれ」という他者の呼びかけに 応えて赴くことへの誘いなのだ。そしてそれゆえにこそ、マーラーの音楽は、自伝的自己を備えた 自己意識を持つ主体の生きる時代の中にあって、ベイトソンの言う意味合いでの「無意識のエクササイズ」に 相応しいものなのではなかろうか。(2015.4.22/23/24)
丸山桂介「隠れたる神 第九交響曲の「アダージョ」に寄せて」より
丸山桂介「隠れたる神 第九交響曲の「アダージョ」に寄せて」(in 「音楽の手帖 マーラー」(青土社, 1980))より
(…)
マーラーの音楽、なかでもとりわけ第九終章の「アダージョ」を聴いていると、 ときに私は自分の存在の無限のはかなさを感じる。 そこでは生の意味が徹底的に懐疑され、 ほとんど耐え難いほどの世界苦にマーラーの魂が呻吟しているのが余りにもはっきりと私に伝わってくるからである。 彼の苦悩する精神の現実が私の内に浸透し、私をゆり動かし、共苦させるのである。 マーラーの音楽が、日本のこの現実に生きる私達にも深い感動を呼びおこすのは、 孤独な魂の叫びが私達の存在の基盤をゆさぶるからではないだろうか。 十九世紀末の時代精神に根をおろしたマーラーの芸術は、 その意味では時空を超えているといえるかもしれないが、 私にはしかし彼の音楽ははるかに遠く、歴史的時空との関わりを超越したところに立っているように思われる。 この歴史的現実を超越することによって、かえって私達の現実にもあてはまる存在の懐疑を彼の音楽は私達にもたらすのである。
(…)
マーラーの作品はつまるところ音響態でしかないかもしれないが、しかしその音の響きを背後から支えているこのような 彼の創造理念が私達にも感動を与えるのだといえるだろう。クーベリークも来日時に、第九は終章にさしかかるとそれまでの暗雲が 切れて突然のように青空が拡がり、天使が舞い降りてくるといっていた。もちろんマーラーの音楽を聴くのに天使はいらない といえばそれまでだろう。日本では、あるいはそのような受け取り方がなされていることの方が多いかもしれない。 だが芸術においては、その人間が信じているものは表われるのだ。或る人間が捉え、理解し、自分のものとして身につけているものが表われる。
(…)
既にニーチェが指摘しているのであれば、マーラーの時代にも彼を取り囲んでいたのは神の殺害者であったといえるだろう。 そのなかにあって、彼は神を探し求めた人間のひとりであった。 もちろんルターやバッハにおける隠れたる神と、マーラーにおけるそれとは意味を異にしてはいただろう。 それに実際にヨーロッパの歴史を通じて、キリスト教とユダヤ教がどのような関係にあったのか私には詳らかでないし、 おそらくマーラーにあっても、ニーチェと同様神は超越者一般を指してはいただろう。 ニーチェの「ツァラトゥストラ」の「酔歌」とマーラーの音楽における明るみの、 不思議なほどに一致する感覚の質がそのことを何よりもよく証しているように思われる。 だがそれにもかかわらず「ヨーロッパ文化への入場券」を買うものは、隠れたる神を探したものの仲間に加わらざるを得ないのだ。 何となれば、おそらくはヨーロッパなるものの本源はそこにしかないからなのだ。 しかも神を探すものは、しばしば周囲から嘲けりを受ける運命にあるようにみえる。 マーラーもまた超越者に関わることによって、社会的にも叩きのめされたのではないか。 仕事のうえでのまさつは、彼がユダヤ人だったからであると同時に、 彼が超越者との関わりを芸術の領域に持ちこんで、 周囲の人間には容易に見えない高邁な理念にしたがってことを運ぼうとしたからである。 マーラー自身は、たしかに隠れたる神としての意識をそれほど明確には持っていなかったように思われるけれども、 結局彼もヨーロッパの根源に掉さすことによって、究極的には神の不在の問題に還元されることになる、 人間の生への深い反省や死との対峙を余儀なくされたのである。 彼も本質的に何かを求め探していた人間だったのだ。 だからこそときに烈しく叩きのめされながらも、いや、かえってその故に、 苦難の最中に数々の作品を創造し得たのではなかったのだろうか。
マーラーの「アダージョ」のような作品には、温かい明るみが満ちていると同時に、 私にはまた一方でそこにはしんしんとした孤独が介在しているように思われる。 物狂いの人にのみつきまとっている、これは存在の孤独とでもいったらよいものだろう。
たしかに私達の多くは神の不在にも、神の存在にも関わりをもたない幸福な生活を営んでいるようにみえる。 だがそのような、いわば生なき生の最中にあっても、 マーラーの音楽は突然のように私達に人間の何であるかを開示してみせるようだ。 私達はそれ故に感動し、またそこに社会的疎外感などが加わることによって、 感動はいっそうその振幅をおおきくするのである。 けれども、私達は、というより私はというべきかもしれないが、 その感動を感動として、つまり現実の生活から切り離された次元において、 芸術の鑑賞領域における感動として受け止めているが故に幸福な生活が送れるのかもしれないのだ。 もしマーラーの音楽に真に感動したならば、その人はおそらく何かを探しはじめるだろう。 そしていまの私には、決して不可能であるとはいわないまでも、 そうした何かを探求しつつ生きる生活は、当面日本の現実と決定的に相容れないもののように思われるのである。
丸山桂介の上記の文章に出会ったのは、今から35年前に、音楽の手帖「マーラー」(青土社, 1980)に 掲載されているのを読んだときのことであるが、私見では、日本語で書かれたマーラーを巡る文章の中でも 群を抜いて、圧倒的で永続的な印象を与えられた文章であり、今尚読み直しても、その内容は聊かも古びて いないと思われる。バッハとベートーヴェンの研究者として知られる著者がマーラーを扱ったという点で、 マーラーの文脈ではマージナルな存在かも知れないが、時代を隔てて日本でマーラーを尚、聴くことの意義を 示しているという点では際立った内容だと思う。
その内容をきちんと受け止めて、それに相応しい文章を書くだけの余裕が、残念ながら今の自分には 無いのだが、最小限の応答として、その内容について若干のコメントを記して後日に備えたい。
著者は「彼の音楽ははるかに遠く、歴史的時空との関わりを超越したところに 立っているように思われる。」と述べているが、これは「隠れたる神」が 問題になりうる意識様態の構造というのが、ある特定の文化的・社会的文脈の 更に特定の時点の環境に依存したものではないという点では正しいが、 にも関わらず、権利上、如何なる歴史的時空との関わりを超越したものである という意味合いではありえないだろう。
時間を超えることは端的に不可能であって、作曲者の死後も生き永らえている マーラーの音楽とて、時間を通って存続し続けることで辛うじて永遠に漸近すると 言いうるに過ぎない。それは社会的・文化的な場の歴史的連続性を超えて、 (恐らくは幾分の誤解とともに)1世紀後の極東の島国で受容されているが、 それが、ジェインズ的な意識の考古学におけるホメロス以前の意識の構造にまで 及ぶものなのか、あるいはカーツワイルのような特異点論者の主張する特異点の 向こう側にまで及ぶものなのかは、自明なこととは言えないだろう。
進化生物学的な意識の発達史、あるいはジェインズ的な意識の考古学と、 カーツワイルのような特異点論者の主張する特異点の向こう側の 両方を収めた展望の下では、「隠れたる神」の問題はやはり、 それ自体歴史的な存在である、ある種の意識様態に固有の問題であろうし、 最も外延を広くとっても、遺伝子の搬体としての生物個体の中で 自伝的自己を伴う自己意識を備えた者に固有の問題であろう。
超越性というのは、そうした存在様態固有の認知パターンなのだし、 そうした認知パターンにおいてのみ「隠れたる神」が問題になりうるのだ。 (ただし必要条件であって、十分条件ではないが。) 神を探すことが成立するためには、単に自伝的自己を伴う自己意識を 備えているだけではなく、そうした構造を把握し、境界に身を置かなくては ならないのだろう。カントのいう、アンチノミーに悩むことを宿命づけられている 「理性」が必要なのであり、そうした「理性」が生じるような場所でのみ、 「隠れたる神」が問題になりうるのだ。
勿論それは、西欧固有のものに過ぎず、極東の島国ではア・プリオリに 禁じられているというわけではない。例えば北村透谷が1世紀前、(奇しくも彼の生涯は マーラーのそれにすっぽりと覆われてしまっていて、なおかつお互いに因果的な過去・ 未来に住んでおらず、知り合うことがないという意味において、 本来の意味での「同時性」が成立しているのだが)マーラーの同時代の 日本に生き、やはり或る意味において「ヨーロッパ文化への入場券」を買い、 当時の日本にあっては(もしかしたら、現代の日本においても未だなお) 例外的な出来事であったかも知れないが、彼なりの展望において「隠れたる神」を 探し求めたことが思い浮かぶ。
「もしマーラーの音楽に真に感動したならば、その人はおそらく何かを 探しはじめるだろう。」というのは全くその通りだと思う。 だが何かを探求しつつ生きる生活の不可能性は、 「当面日本の現実」と「決定的に相容れない」だけでなく、 常に既に、何時の時代の何処の文化的環境においてもそうではないのか? また、マーラーがユダヤ人であったことは、リーの指摘するように、 彼が西欧の社会における「マージナル・マン」であるための原因の一つで あるだろうし、具体的なその様態を捨象することは (ここで問題になっているのが音楽作品という感性的なオブジェクトで あることを考えれば特に)できないだろうが、にも関わらず、 唯一の原因ではないし、従って「隠れたる神」の探究に至る唯一の 原因ではないだろう。
寧ろ、マーラーの音楽が鳴り響く文化的環境に生を享け、 ふとした偶然からある日マーラーの音楽を聴いた子供は、その「出来事」を介して、 「隠れたる神」の探究に誘われるのであり、それは恐らく、 自伝的自己を伴う自己意識を備えている存在(それには全ての「ヒト」が 含まれるわけではないかも知れないし、逆に「ヒト」以外の存在が そこに含まれえないと決めつけることもまた、できないだろう)であれば 潜在的に持ちうる可能性であり、それが現勢化するかどうかは、 「出来事」の到来という偶発時にかかっているのだし、逆に一旦 そうした「出来事」が到来してしまえば後戻りはできないのだろう。
著者は「しょせんは音響態に過ぎないかもしれない」としても「芸術」に おいて、「或る人間が捉え、理解し、自分のものとして身につけているものが 表れる」と述べているが、これも全くその通りだろう。ただしその如何にしてを 考えたとき、それは作品の素材に過ぎない標題性などとは別の水準で可能になって いることには留意すべきであろう。作品は(マーラー自身、晩年に妻に対して 書いたように)「抜け殻」に過ぎないだろうし、「出来事」の経験についていえば、 その痕跡に過ぎないだろう。だが一回性で反復不可能な到来としての「出来事」は その痕跡であるところの「作品」なくしては、記憶され、想起され、 反復され、継承されえないのだ。「出来事」の主体の有限性を超えて、 死後の生命を獲得することはできないのである。
作品は活動プロセスの痕跡であり、その定着には記号化・離散化・ デジタル化が不可避である。化石がそうであるように、響きそのものではなく、 響きのパターンが記録される。それは「抜け殻」(マーラー)かもしれないが、 自己を超えて生き延びることとは、そのようにしか可能ではない。 見方を変えれば、そうすることによって生物個体としての有限性を 超えて、遺伝子の複製とは異なった水準での、個体の記憶の継承、一回性の 「出来事」の記憶の継承という「反逆」(ダマシオ『自己が心にやってくる 意識ある脳の構築』)が 可能になるのだ。それは「抜け殻」であると同時に、(マーラーが、これはゲーテの 「ファウスト」第1部の地霊の台詞を引用して述べるように)「神の衣」でもあるのだ。
我知らずして、いわば盲目的に神の衣を織るためには、自伝的自己を 伴う自己意識は必ずしも必要ない。だがある価値にコミットして、 己の出遭った価値あるものの(漸近的な)永続化をめがけ、 そうした出遭いという一回性の出来事を記憶し、出来事の一回性を超え、 自己の有限性をも超え、他者に向けて継承することを目指して、 作品としてデジタル化する意図をもって「衣を織る」ことは、 自伝的自己を伴う自己意識なしには為し得ない。
そして、そのことを「作品」を聴くことによって感じ取るのもまた、 自伝的自己を伴う自己意識なしには為し得ないだろう。否、実際には、 マーラーの音楽を聴くという経験が、意識がある様態を持つように自己 形成することに寄与している筈なのであって、それ自体が或る種の 文化的複製子(ミーム)なのである。自伝的自己を伴う自己意識が 取りうる或る種の意識の様態、超越性、外部からの到来に対する応答と いった出来事が生じるような様態を伝播させる搬体がマーラーの 音楽作品という文化的複製子だ、というわけである。
それはある種の 共進化の如きものとして捉えることができるのかも知れないが、 それよりも私にとって興味深いのは、マーラーの作品の構造が持つ、 意識の様態との構造的な類似性である。マーラーの音楽は、ある種の 意識の様態を別の素材を用いて物質化して定着させたかの如くであり、 それ自体は「生きて」はいなくとも、生がどのような構造を備えて いるかは、それによって推測できるような構造物であり、その限りで カールハインツ・シュトックハウゼンが、宇宙人が「人間」のことを 知ろうと思ったら、マーラーの音楽を調べれば良いといったのは (勿論、その「人間」は、生物学的な意味でのヒトのことではなく、 広くとってもジェインズのいうヒュポスタシス以降、カーツワイルの 特異点以前のエポックの、自伝的自己を備えた意識を持つ存在という ことになろうが)、それなりに正しい直感に基づく発言なのではと思われる。
マーラーの音楽は、優れて「意識の音楽」であり、マーラーの音楽自体が、 自伝的自己を伴う自己意識の「時代」を証言し、その構造を映し出し、 その宿命を示唆する存在、つまり自伝的自己を伴う自己意識の自己認識の 結果であり、尚且つ、そうしたマーラーの音楽を聴き、それによって自己を 形成し、その上でそれについて証言することは、そうしたマーラーの音楽に 対するコミットメントとしての行為遂行性を帯びており、それは自伝的自己を 伴う自己意識の自己の宿命に対する或る種の「反逆」に対するコミットメント でもあるのだ。
それをマーラー音楽というミームの詭計と捉えることも できるだろうし、そうした見方にも一部の理はあるだろうが、もしそうであると するならば、更に一歩進んで、マーラーがこのような音楽を創造したこと自体もまた、 或る種の宿命であり、仕組まれたものなのだということになるだろう。著者の言うように、 マーラー自身が「来たれ」という呼びかけに応答すべく、作品を創造したのだが、 今度はその(作曲者が、ではなくて)作品自体が、聴き手に対して「来たれ」と 誘うことになる。
ここで、シェーンベルクのプラハ講演における第9交響曲に関する コメントを想起してもいいだろう。曰く、作曲者はメガホンに過ぎず、その背後に 真の主体が居るといった見方は、まさにここで問題になっているような構造を 言い当てたものに違いない。その主体はまた、第8交響曲の2つの「来たれ」の 命令を発した存在なのだが、それは一体誰なのか。
進化論についての論争でもそうであるように、そうした詭計を仕組む者を 「神」と呼ぶ立場もあろうし、「隠れたる神」がそうであるように、寧ろそうした 立場こそが伝統的、正統的な立場なのであろう。だが今日であれば、それは或る種の 自己組織化の結果、創発的な現象と見做すべきではなかろうか。マーラーの音楽を 19世紀末の西欧という、歴史的・文化的環境に還元して理解するのではない、別の可能性がここには 開けているように思われる。「神」や「天使」という語彙ではなく、だが、 超越を、出来事の到来を語る別の語彙が必要なのではなかろうか。 神を殺すのではなく、その後の時代に相応しい「隠れたる神」を探す別の仕方が ここでは問題になっているのだ。ドイッチュの言う「無限の探究」もまた、 そのような試みの一つなのだと私には思われる。
神経科学の発達で脳のメカニズムが少しずつ解き明かされ、 意識についての語り方が変わりつつある今、それは、別の仕方で説明し直されることを 求めているのではなかろうか。そしてそれは、まずもってマーラーの音楽を 狭義の音楽学の語彙によってではなく、或る種のシステムとして捉えること、 狭義の美学の語彙によってではなく、情報の観点から捉えることによって可能に なるのではなかろうか。そしてそれはマーラーの音楽を、それ自身そのように 志向していたように、狭義での「芸術」の閉域の境界において考えることを 求めているのではなかろうか。マーラーの音楽はベイトソンの言う 「無意識のエクササイズ」なのであり、超越的なものへの開け、出来事の到来を 記録したアーカイブであり、カーツワイルの言う特異点の手前に居る人間にとって、 差し当たり特異点に達するまでの間は少なくとも意義を持つものに違いないのだから。
(2015.4.22/24)
(…)
マーラーの音楽、なかでもとりわけ第九終章の「アダージョ」を聴いていると、 ときに私は自分の存在の無限のはかなさを感じる。 そこでは生の意味が徹底的に懐疑され、 ほとんど耐え難いほどの世界苦にマーラーの魂が呻吟しているのが余りにもはっきりと私に伝わってくるからである。 彼の苦悩する精神の現実が私の内に浸透し、私をゆり動かし、共苦させるのである。 マーラーの音楽が、日本のこの現実に生きる私達にも深い感動を呼びおこすのは、 孤独な魂の叫びが私達の存在の基盤をゆさぶるからではないだろうか。 十九世紀末の時代精神に根をおろしたマーラーの芸術は、 その意味では時空を超えているといえるかもしれないが、 私にはしかし彼の音楽ははるかに遠く、歴史的時空との関わりを超越したところに立っているように思われる。 この歴史的現実を超越することによって、かえって私達の現実にもあてはまる存在の懐疑を彼の音楽は私達にもたらすのである。
(…)
マーラーの作品はつまるところ音響態でしかないかもしれないが、しかしその音の響きを背後から支えているこのような 彼の創造理念が私達にも感動を与えるのだといえるだろう。クーベリークも来日時に、第九は終章にさしかかるとそれまでの暗雲が 切れて突然のように青空が拡がり、天使が舞い降りてくるといっていた。もちろんマーラーの音楽を聴くのに天使はいらない といえばそれまでだろう。日本では、あるいはそのような受け取り方がなされていることの方が多いかもしれない。 だが芸術においては、その人間が信じているものは表われるのだ。或る人間が捉え、理解し、自分のものとして身につけているものが表われる。
(…)
既にニーチェが指摘しているのであれば、マーラーの時代にも彼を取り囲んでいたのは神の殺害者であったといえるだろう。 そのなかにあって、彼は神を探し求めた人間のひとりであった。 もちろんルターやバッハにおける隠れたる神と、マーラーにおけるそれとは意味を異にしてはいただろう。 それに実際にヨーロッパの歴史を通じて、キリスト教とユダヤ教がどのような関係にあったのか私には詳らかでないし、 おそらくマーラーにあっても、ニーチェと同様神は超越者一般を指してはいただろう。 ニーチェの「ツァラトゥストラ」の「酔歌」とマーラーの音楽における明るみの、 不思議なほどに一致する感覚の質がそのことを何よりもよく証しているように思われる。 だがそれにもかかわらず「ヨーロッパ文化への入場券」を買うものは、隠れたる神を探したものの仲間に加わらざるを得ないのだ。 何となれば、おそらくはヨーロッパなるものの本源はそこにしかないからなのだ。 しかも神を探すものは、しばしば周囲から嘲けりを受ける運命にあるようにみえる。 マーラーもまた超越者に関わることによって、社会的にも叩きのめされたのではないか。 仕事のうえでのまさつは、彼がユダヤ人だったからであると同時に、 彼が超越者との関わりを芸術の領域に持ちこんで、 周囲の人間には容易に見えない高邁な理念にしたがってことを運ぼうとしたからである。 マーラー自身は、たしかに隠れたる神としての意識をそれほど明確には持っていなかったように思われるけれども、 結局彼もヨーロッパの根源に掉さすことによって、究極的には神の不在の問題に還元されることになる、 人間の生への深い反省や死との対峙を余儀なくされたのである。 彼も本質的に何かを求め探していた人間だったのだ。 だからこそときに烈しく叩きのめされながらも、いや、かえってその故に、 苦難の最中に数々の作品を創造し得たのではなかったのだろうか。
マーラーの「アダージョ」のような作品には、温かい明るみが満ちていると同時に、 私にはまた一方でそこにはしんしんとした孤独が介在しているように思われる。 物狂いの人にのみつきまとっている、これは存在の孤独とでもいったらよいものだろう。
たしかに私達の多くは神の不在にも、神の存在にも関わりをもたない幸福な生活を営んでいるようにみえる。 だがそのような、いわば生なき生の最中にあっても、 マーラーの音楽は突然のように私達に人間の何であるかを開示してみせるようだ。 私達はそれ故に感動し、またそこに社会的疎外感などが加わることによって、 感動はいっそうその振幅をおおきくするのである。 けれども、私達は、というより私はというべきかもしれないが、 その感動を感動として、つまり現実の生活から切り離された次元において、 芸術の鑑賞領域における感動として受け止めているが故に幸福な生活が送れるのかもしれないのだ。 もしマーラーの音楽に真に感動したならば、その人はおそらく何かを探しはじめるだろう。 そしていまの私には、決して不可能であるとはいわないまでも、 そうした何かを探求しつつ生きる生活は、当面日本の現実と決定的に相容れないもののように思われるのである。
丸山桂介の上記の文章に出会ったのは、今から35年前に、音楽の手帖「マーラー」(青土社, 1980)に 掲載されているのを読んだときのことであるが、私見では、日本語で書かれたマーラーを巡る文章の中でも 群を抜いて、圧倒的で永続的な印象を与えられた文章であり、今尚読み直しても、その内容は聊かも古びて いないと思われる。バッハとベートーヴェンの研究者として知られる著者がマーラーを扱ったという点で、 マーラーの文脈ではマージナルな存在かも知れないが、時代を隔てて日本でマーラーを尚、聴くことの意義を 示しているという点では際立った内容だと思う。
その内容をきちんと受け止めて、それに相応しい文章を書くだけの余裕が、残念ながら今の自分には 無いのだが、最小限の応答として、その内容について若干のコメントを記して後日に備えたい。
著者は「彼の音楽ははるかに遠く、歴史的時空との関わりを超越したところに 立っているように思われる。」と述べているが、これは「隠れたる神」が 問題になりうる意識様態の構造というのが、ある特定の文化的・社会的文脈の 更に特定の時点の環境に依存したものではないという点では正しいが、 にも関わらず、権利上、如何なる歴史的時空との関わりを超越したものである という意味合いではありえないだろう。
時間を超えることは端的に不可能であって、作曲者の死後も生き永らえている マーラーの音楽とて、時間を通って存続し続けることで辛うじて永遠に漸近すると 言いうるに過ぎない。それは社会的・文化的な場の歴史的連続性を超えて、 (恐らくは幾分の誤解とともに)1世紀後の極東の島国で受容されているが、 それが、ジェインズ的な意識の考古学におけるホメロス以前の意識の構造にまで 及ぶものなのか、あるいはカーツワイルのような特異点論者の主張する特異点の 向こう側にまで及ぶものなのかは、自明なこととは言えないだろう。
進化生物学的な意識の発達史、あるいはジェインズ的な意識の考古学と、 カーツワイルのような特異点論者の主張する特異点の向こう側の 両方を収めた展望の下では、「隠れたる神」の問題はやはり、 それ自体歴史的な存在である、ある種の意識様態に固有の問題であろうし、 最も外延を広くとっても、遺伝子の搬体としての生物個体の中で 自伝的自己を伴う自己意識を備えた者に固有の問題であろう。
超越性というのは、そうした存在様態固有の認知パターンなのだし、 そうした認知パターンにおいてのみ「隠れたる神」が問題になりうるのだ。 (ただし必要条件であって、十分条件ではないが。) 神を探すことが成立するためには、単に自伝的自己を伴う自己意識を 備えているだけではなく、そうした構造を把握し、境界に身を置かなくては ならないのだろう。カントのいう、アンチノミーに悩むことを宿命づけられている 「理性」が必要なのであり、そうした「理性」が生じるような場所でのみ、 「隠れたる神」が問題になりうるのだ。
勿論それは、西欧固有のものに過ぎず、極東の島国ではア・プリオリに 禁じられているというわけではない。例えば北村透谷が1世紀前、(奇しくも彼の生涯は マーラーのそれにすっぽりと覆われてしまっていて、なおかつお互いに因果的な過去・ 未来に住んでおらず、知り合うことがないという意味において、 本来の意味での「同時性」が成立しているのだが)マーラーの同時代の 日本に生き、やはり或る意味において「ヨーロッパ文化への入場券」を買い、 当時の日本にあっては(もしかしたら、現代の日本においても未だなお) 例外的な出来事であったかも知れないが、彼なりの展望において「隠れたる神」を 探し求めたことが思い浮かぶ。
「もしマーラーの音楽に真に感動したならば、その人はおそらく何かを 探しはじめるだろう。」というのは全くその通りだと思う。 だが何かを探求しつつ生きる生活の不可能性は、 「当面日本の現実」と「決定的に相容れない」だけでなく、 常に既に、何時の時代の何処の文化的環境においてもそうではないのか? また、マーラーがユダヤ人であったことは、リーの指摘するように、 彼が西欧の社会における「マージナル・マン」であるための原因の一つで あるだろうし、具体的なその様態を捨象することは (ここで問題になっているのが音楽作品という感性的なオブジェクトで あることを考えれば特に)できないだろうが、にも関わらず、 唯一の原因ではないし、従って「隠れたる神」の探究に至る唯一の 原因ではないだろう。
寧ろ、マーラーの音楽が鳴り響く文化的環境に生を享け、 ふとした偶然からある日マーラーの音楽を聴いた子供は、その「出来事」を介して、 「隠れたる神」の探究に誘われるのであり、それは恐らく、 自伝的自己を伴う自己意識を備えている存在(それには全ての「ヒト」が 含まれるわけではないかも知れないし、逆に「ヒト」以外の存在が そこに含まれえないと決めつけることもまた、できないだろう)であれば 潜在的に持ちうる可能性であり、それが現勢化するかどうかは、 「出来事」の到来という偶発時にかかっているのだし、逆に一旦 そうした「出来事」が到来してしまえば後戻りはできないのだろう。
著者は「しょせんは音響態に過ぎないかもしれない」としても「芸術」に おいて、「或る人間が捉え、理解し、自分のものとして身につけているものが 表れる」と述べているが、これも全くその通りだろう。ただしその如何にしてを 考えたとき、それは作品の素材に過ぎない標題性などとは別の水準で可能になって いることには留意すべきであろう。作品は(マーラー自身、晩年に妻に対して 書いたように)「抜け殻」に過ぎないだろうし、「出来事」の経験についていえば、 その痕跡に過ぎないだろう。だが一回性で反復不可能な到来としての「出来事」は その痕跡であるところの「作品」なくしては、記憶され、想起され、 反復され、継承されえないのだ。「出来事」の主体の有限性を超えて、 死後の生命を獲得することはできないのである。
作品は活動プロセスの痕跡であり、その定着には記号化・離散化・ デジタル化が不可避である。化石がそうであるように、響きそのものではなく、 響きのパターンが記録される。それは「抜け殻」(マーラー)かもしれないが、 自己を超えて生き延びることとは、そのようにしか可能ではない。 見方を変えれば、そうすることによって生物個体としての有限性を 超えて、遺伝子の複製とは異なった水準での、個体の記憶の継承、一回性の 「出来事」の記憶の継承という「反逆」(ダマシオ『自己が心にやってくる 意識ある脳の構築』)が 可能になるのだ。それは「抜け殻」であると同時に、(マーラーが、これはゲーテの 「ファウスト」第1部の地霊の台詞を引用して述べるように)「神の衣」でもあるのだ。
我知らずして、いわば盲目的に神の衣を織るためには、自伝的自己を 伴う自己意識は必ずしも必要ない。だがある価値にコミットして、 己の出遭った価値あるものの(漸近的な)永続化をめがけ、 そうした出遭いという一回性の出来事を記憶し、出来事の一回性を超え、 自己の有限性をも超え、他者に向けて継承することを目指して、 作品としてデジタル化する意図をもって「衣を織る」ことは、 自伝的自己を伴う自己意識なしには為し得ない。
そして、そのことを「作品」を聴くことによって感じ取るのもまた、 自伝的自己を伴う自己意識なしには為し得ないだろう。否、実際には、 マーラーの音楽を聴くという経験が、意識がある様態を持つように自己 形成することに寄与している筈なのであって、それ自体が或る種の 文化的複製子(ミーム)なのである。自伝的自己を伴う自己意識が 取りうる或る種の意識の様態、超越性、外部からの到来に対する応答と いった出来事が生じるような様態を伝播させる搬体がマーラーの 音楽作品という文化的複製子だ、というわけである。
それはある種の 共進化の如きものとして捉えることができるのかも知れないが、 それよりも私にとって興味深いのは、マーラーの作品の構造が持つ、 意識の様態との構造的な類似性である。マーラーの音楽は、ある種の 意識の様態を別の素材を用いて物質化して定着させたかの如くであり、 それ自体は「生きて」はいなくとも、生がどのような構造を備えて いるかは、それによって推測できるような構造物であり、その限りで カールハインツ・シュトックハウゼンが、宇宙人が「人間」のことを 知ろうと思ったら、マーラーの音楽を調べれば良いといったのは (勿論、その「人間」は、生物学的な意味でのヒトのことではなく、 広くとってもジェインズのいうヒュポスタシス以降、カーツワイルの 特異点以前のエポックの、自伝的自己を備えた意識を持つ存在という ことになろうが)、それなりに正しい直感に基づく発言なのではと思われる。
マーラーの音楽は、優れて「意識の音楽」であり、マーラーの音楽自体が、 自伝的自己を伴う自己意識の「時代」を証言し、その構造を映し出し、 その宿命を示唆する存在、つまり自伝的自己を伴う自己意識の自己認識の 結果であり、尚且つ、そうしたマーラーの音楽を聴き、それによって自己を 形成し、その上でそれについて証言することは、そうしたマーラーの音楽に 対するコミットメントとしての行為遂行性を帯びており、それは自伝的自己を 伴う自己意識の自己の宿命に対する或る種の「反逆」に対するコミットメント でもあるのだ。
それをマーラー音楽というミームの詭計と捉えることも できるだろうし、そうした見方にも一部の理はあるだろうが、もしそうであると するならば、更に一歩進んで、マーラーがこのような音楽を創造したこと自体もまた、 或る種の宿命であり、仕組まれたものなのだということになるだろう。著者の言うように、 マーラー自身が「来たれ」という呼びかけに応答すべく、作品を創造したのだが、 今度はその(作曲者が、ではなくて)作品自体が、聴き手に対して「来たれ」と 誘うことになる。
ここで、シェーンベルクのプラハ講演における第9交響曲に関する コメントを想起してもいいだろう。曰く、作曲者はメガホンに過ぎず、その背後に 真の主体が居るといった見方は、まさにここで問題になっているような構造を 言い当てたものに違いない。その主体はまた、第8交響曲の2つの「来たれ」の 命令を発した存在なのだが、それは一体誰なのか。
進化論についての論争でもそうであるように、そうした詭計を仕組む者を 「神」と呼ぶ立場もあろうし、「隠れたる神」がそうであるように、寧ろそうした 立場こそが伝統的、正統的な立場なのであろう。だが今日であれば、それは或る種の 自己組織化の結果、創発的な現象と見做すべきではなかろうか。マーラーの音楽を 19世紀末の西欧という、歴史的・文化的環境に還元して理解するのではない、別の可能性がここには 開けているように思われる。「神」や「天使」という語彙ではなく、だが、 超越を、出来事の到来を語る別の語彙が必要なのではなかろうか。 神を殺すのではなく、その後の時代に相応しい「隠れたる神」を探す別の仕方が ここでは問題になっているのだ。ドイッチュの言う「無限の探究」もまた、 そのような試みの一つなのだと私には思われる。
神経科学の発達で脳のメカニズムが少しずつ解き明かされ、 意識についての語り方が変わりつつある今、それは、別の仕方で説明し直されることを 求めているのではなかろうか。そしてそれは、まずもってマーラーの音楽を 狭義の音楽学の語彙によってではなく、或る種のシステムとして捉えること、 狭義の美学の語彙によってではなく、情報の観点から捉えることによって可能に なるのではなかろうか。そしてそれはマーラーの音楽を、それ自身そのように 志向していたように、狭義での「芸術」の閉域の境界において考えることを 求めているのではなかろうか。マーラーの音楽はベイトソンの言う 「無意識のエクササイズ」なのであり、超越的なものへの開け、出来事の到来を 記録したアーカイブであり、カーツワイルの言う特異点の手前に居る人間にとって、 差し当たり特異点に達するまでの間は少なくとも意義を持つものに違いないのだから。
(2015.4.22/24)
Labels:
カーツワイル,
シェーンベルク,
シュトックハウゼン,
ジュリアン・ジェインズ,
デイヴィッド・ドイッチュ,
隠れたる神,
丸山桂介,
証言,
第9交響曲
登録:
投稿 (Atom)