お知らせ

アマチュア・オーケストラ演奏頻度を2025年の公演の集計を追加して更新しました。(2025.12.25)

2025年7月17日木曜日

ヴィーチェスラフ・ノヴァークから見たマーラー(2025.7.16-17, 8.5改訂)

 南ボヘミア出身の後期ロマン派の作曲家、ヴィーチェスラフ・ノヴァークの音楽に接したのは、音楽の録音の記録媒体がLPレコードからCDに替わってしばらくしてからの頃のことだったと記憶する。そもそも私がノヴァークの音楽を聴いてみようと思ったのが、中学生の子供の頃から私の偶像=アイドルであったマーラーの音楽のあまりの「流行」現象に嫌気がさして、マーラーの音楽を聴くのを一時期すっかり止めてしまったことに起因するので、1990年代に入って間もなくくらいの頃だったのではなかったか。頼まれもしないのにマーラー自身の、妻に宛てた書簡(1902年2月ゼメリング発)に記された、極めて限定された文脈で発せられた負け惜しみの類に過ぎない言葉を乗っ取った「私の時代が来た」などというコピーの下、コマーシャリズムに担ぎ出されるという状況に嫌気がさし、地方都市の中で生きていた時代から、地方都市から都心に通う大学生活、更にその後は通勤圏内の独身者寮から都心のオフィスに通うようになった環境の変化があって、ようやくコンサート会場でマーラーの音楽に接することができるようになったはものの、バブル期の世相もあって音響的にクオリティの高いコンサートホールが競うように出現した時期でもあり、マーラーは恰好の集客=動員の素材とされ、それまでは西欧音楽の主流からは奇異の目をもって見られた傍流の、今日風には「オタク」が聴くものであったのが、既にマーラーその人の時代に彼の地ではそうであったように、一世紀遅れてようやく極東の島国でも「社交場」に鳴り響くこととあいなって、マーラーの音楽がまさにそのために書かれたにも関わらずコンサートの雰囲気に堪え難さを感じたことが決定的だった。

 当時は日本マーラー協会という団体があって、時折送られてくる会報を読むだけの幽霊会員に過ぎなかったとはいえ、私も一応会員ではあったのだが、会長の山田一雄さんが亡くなられ、事務局長をやっておられた桜井健二さんが退かれるとともに活動があっという間に停滞し休止に至ったのもその時期だったのではなかったか。マーラー像も時代に応じて変わっていく訳で、当時のマーラーは19世紀末の退廃の中、悲劇的な生涯を送り、厭世観に満ち、己れの弱みをさらけ出す自伝的な音楽を書いた二流の作曲家というかつてのイメージから脱して、19世紀円熟期のウィーンの文化を代表し、その中心に位置する宮廷・王室歌劇場のスター指揮者であり、ウィーン分離派のサークルの中で育ち、作曲さえ試みた美貌の妻の存在もあって同時代の文化史におけるアイコンとして位置づけられ、新ウィーン楽派に精神的な指導者として仰がれて20世紀を予言するような音楽を書いた予言者で、時代がやっと追いついたといった持ち上げれ方をしたのだったが、そうした見方にも一理はあって、マーラーが自己の能力を恃んで信念を貫き通して達成した成果は凡人の能くするところではないし、芸術的な成果は措いて世間的に見てもセレブリティ、成功者であることは疑いない。子供の頃とは違って、自分の能力や気質について否応なく自覚的にならざるを得なくなった私にとってマーラーはあまりに偉大過ぎて、その「公的な」人物像と音楽の間に謎めいたギャップのある、距離感の測り難い存在となっていたのである。

 だがそれだけでは、辿り着いた先が他ならぬヴィーチェスラフ・ノヴァークの音楽であることに理由にはならないだろう。では何故ノヴァークだったのかという最大の理由が、スプラフォンの国内盤のCD(だからリーフレットも当然日本語である)で丁度その頃、どういう偶然によってか纏まってリリースされたノヴァークの音楽そのものから受けた印象であることは当然のことだが、特にその中でも『南ボヘミア組曲』Jihočeská svita, op.64 に定着された風景が、その頃の自分にはその中にいることで静けさに満ちた深い慰めを得ることのできるかけがえのないものであったことが決定的であった。

 私は作品を、その作品が生まれた社会的・文化的文脈に還元して事足れりとする立場には明確に反対である(そもそも一世紀近く後の異郷の人間である私がそれを聴くからにはそれは明らかなことで、一世紀分遅れて地球半周分隔たった位置に自分がいることもそっちのけで異郷の過去についての蘊蓄を垂れる等、笑止の沙汰ではなかろうか)一方で、作品だけが重要でその作品を書いた人間のことなどどうでもいいとも全く思わず、恐らくはゲーテの考え方に影響されたマーラーの、作品を生み出す人間の行為の方が大切であって作品は謂わば抜け殻のようなものに過ぎないという考え方(1909年6月27日付、トーブラッハ発の妻宛て書簡)に寧ろ共感するし、そのことは全てを作者の伝記的な出来事に還元してしまう伝記主義を意味するわけではない、そればかりか伝記的事実に勝って作品自体こそが、痕跡としてであれ、或いは痕跡であるからこそマンデリシュタム=ツェランの言う「投壜通信」の媒体として、時間を超えるのではなく時間の中を通り抜けて或る日、それが打ち寄せられた波辺で拾い上げた者こそが名宛人であるという主張に通じるものと考えてきたから、ノヴァークの場合も例外ではなく、その作品への興味は直ちにノヴァークその人への関心へと繋がったのだが、今でこそWeb上で様々な情報にアクセスできるとはいえ、当時は未だその発達の初期にあってノヴァークについての情報は乏しく、紙媒体のニューグローヴ世界音楽大事典のノヴァークについてのエントリがほぼ唯一の情報だったと記憶する。かなり長いことコピーとして持っていたが今は既に手元にはないその記述には、幼い日に父を喪ってからの経済的な苦労や、その後の精神的な危機、それに対する救いとなったチェコ各地を巡っての民謡採集についての言及があったと記憶するが、13歳の時からの偶像=アイドルであったマーラーを聴くことを止め、盲目的な熱中の最中では気付くことのなかったマーラーと自分の間の途轍もない距離、比類ない能力とそれを十分に発揮する気質を備え持ち、世俗的な意味合いでもセレブリティとなったマーラーと己の間に広がる深淵に今更ながらに気付くといった己の愚かさに絶望さえしていた私は、そうした伝記的記述から垣間見えるノヴァークが被った傷の痕跡をその作品に見出し、森や池や草原といった風景にノヴァークが感じ取った慰藉を作品を聴くことを通じて我が事ととして感じ取ったのだと思う。

 ノヴァークはドヴォルザークの弟子であり、ヨゼフ・スークとマスタークラスでの同門ということになる。初期の室内楽はドヴォルザーク・ブラームス的で和声的にも保守的である一方、自分が採集した民族音楽を素材として使用し、雰囲気には寧ろスメタナの室内楽を思わせる切迫感があるが、その後の作品となると、2曲のバレー・パントマイムのための音楽に代表されるようなフランス印象派の影響が感じられる作品があるかと思えば、交響詩等では寧ろシュトラウスを思わせるような響きの作品もあって多様性に富む。共通するのは形式の面で堅固で構築的であることで、素材の節約の下でも音楽が弛緩することはない。人口に膾炙しているのはもともとピアノ連弾のための作品として作曲されたものを作曲家自身が小管弦楽用に編曲した『スロヴァツコ組曲』であろうが、音画風でわかりやすく曲ごとの変化に富んだこの作品よりも、同じCDに併録された『南ボヘミア組曲』のユニークな時間の流れ方、単なる雰囲気の変化や対比ではない、組曲を構成する楽曲の間にある意識の位相の違い(組曲前半の直接経験される現在と回想される過去に対して、組曲後半の社会的・理念的なものの侵入、即ち歴史的過去と未来への眼差しという重層性)など、ノヴァーク独自の音調が聞き取れるのは明らかにこちらであろう。

 だがそれにしても何故、19世紀末から20世紀前半にかけてのチェコの作曲家なのかという問いに答えるのは今度は比較的容易い。既述の通り子供の頃の私の偶像=アイドルはマーラーだったが、マーラーは自らについて三重の意味で異邦人であると述べている。曰く、オーストリアの中のボヘミア人、ドイツの中のオーストリア人、世界の中のユダヤ人。一般にはマーラーがユダヤ人であり、生前既にウィーンで活発であった反ユダヤ主義に遭って本人が辛酸を舐めたのみならず、死後はその作品がナチスによって非アーリア音楽として演奏禁止となる時期もあった点に強調が置かれがちだが、その一方でマーラーを巡る議論の中では、マーラーの音楽とボヘミアの音楽の親近性についての指摘もしばしば為されている。LPレコードの時代の到来、ステレオ録音の普及と時を同じくして競うようにして始まったマーラー交響曲全集録音のプロジェクトの中には、チェコ出身で第二次世界大戦後のチェコの共産化に反対して亡命し、晩年になってビロード革命による共産党政権の崩壊により劇的な里帰りを果たし、一旦引退した後にも関わらずプラハの春音楽祭でカムバックしてスメタナの『我が祖国』を指揮したラファエル・クーベリックが西側にあって首席指揮者を勤めて以降、長きにわたって良好な関係にあったバイエルン放送交響楽団によるものがあるし、その後を追うようにして、当時は「東側」であったチェコスロヴァキアでもチェコ・フィルハーモニーがヴァーツラフ・ノイマンの指揮の下でマーラー交響曲全集を完成させている。これは良くある話でクラシックの聴き始めにドヴォルザークの『新世界』交響曲を聴いて魅了された子供であった私は、父親がFM放送をエアチェックしながら録音したカセットテープの中に同じドヴォルザークの『アメリカ』弦楽四重奏曲を発見し、こちらにもすっかり馴染んでいた一方で、その後しばらくしてフランクの晩年の数曲、更にシベリウスの特に後期交響曲や『タピオラ』を聴くようになった子供が、上記のクーベリック指揮バイエルン放送交響楽団の演奏による第6交響曲と第10交響曲のアダージョのLPを、次いで第3交響曲のLPを、更にFM放送で第7交響曲の録音を聴いてマーラーに親しむようになったが故に、マーラーの音楽の中にボヘミア的なものを聴きとるのは難しいことではなかった。

 ノヴァークは当時のいわゆる「国民楽派」の作曲家にしばしば見られたように、実際に現地に足を運んでボヘミア、モラヴィア、スロヴァツコ、スロヴァキアといった地域の民謡を採集してまわったとされる。学術性の高い取り組みとして有名なのは何といってもコダーイとバルトークの取り組みだろうが、ノヴァークの貢献はとりわけボヘミアとははっきりと音楽的様式を違えるモラヴィア地方の民俗音楽を世に知らしめたことにあり、その限りではこちらは自分自身がモラヴィアの生まれであるヤナーチェクの果たした役割と並んで評価されるもののようである。実はノヴァークはボヘミア人とは言いながら、ボヘミア南部のモラヴィアとの境界に程近いカメニツェ・ナト・リポウ Kamenice nad Lipou の生まれであることもあって、ボヘミアのそれとともにモラヴィアの民俗にも触れうる環境にあったのだが、実はこの点がマーラーの生まれ育った環境と共通するということに気づいたのはずっと後になってのことだった。地図を開いてイフラヴァ Jihlava(往時のドイツ語地名ではイーグラウ Iglau)とカメニツェ・ナト・リポウの位置を確かめるべく、今ならGoogle Mapsで両者を結ぶルートを検索してみるとわかることだが、その間の距離は道沿いに測っても50kmに満たないのである。さすがに今日その距離を徒歩で踏破する人がいるとも思えないが、最も直線に近いルートで道なりに44.5km(直線距離では38km)、所要時間9時間12分というから、朝起きて出発して夕方には辿り着ける距離には違いなく、途中緩やかな起伏はあるものの周囲の風景も大きく変わるわけではなさそうである。マーラーから距離を置くべく見出した筈の音楽が、その表面的な様式的な差異や作曲者の意識の様態の相関物であろう音楽の経過が纏う性格の違いにも関わらず、その客観的な極を構成する風景において相似することにある折にふとに気づいた時、我が事ながら苦笑せざるを得なかったのを思い出す。違いはと言えば、ユダヤ人であったマーラーがドイツ系の同化ユダヤ人の家に生まれたのに対してノヴァークはチェコ人の民族意識が高揚した時期にボヘミアに生まれたチェコ人であったから、両者の間には風景の中の自分の身の置き場所についての感覚の方には大きな違いがあって、マーラーが直面したような水準での疎外にノヴァークが苦しむことは恐らくなかったであろう。但しそれはノヴァークが疎外と無縁であったことを意味する訳ではなく、その気質も手伝って、別の理由による疎外感や絶望感に苛まれることになったようであり、その傷跡は彼の遺した音楽にはっきりと聴きとることができると私には感じられる。

 かくしてマーラーと同様、ノヴァークもオーストリア=ハンガリー帝国の辺境であるボヘミアの中でも更に地方都市の生まれということになろうが、西欧の音楽の伝統におけるボヘミアの位置づけはそれほど単純なものとは言えない。フス戦争後カトリックに支配される時代は、チェコの歴史においては文化的にも民族的なものが抑圧された暗黒時代として捉えられるが、こと音楽について言えば、例えば大バッハと同時代では、その時代のカトリックの宗教音楽の頂点の一つと目される多数のミサ曲で著名な(その作品には大バッハも注目し、高く評価していたことが知られている)作曲家ゼレンカがチェコ人だし、その後の前古典派の時期からマンハイム楽派、更にウィーン古典派の最盛期に至るまでの時期に活躍した作曲家達の中にボヘミア出身者を見つけることは、しばしばチェコ語の名前ではなくドイツ語の名前で知られていることからボヘミア出身であることに気づき難いという事情を踏まえたとして尚、容易いことであろう。直接古典期の音楽様式の確立に寄与した彼ら「旧ボヘミア楽派」と呼ばれる作曲者に対し、19世紀のボヘミア楽派は自分達の民族性・地域性の重視によって特徴づけられる。当時はオーストリア=ハンガリー二重帝国領に含まれる一地域の中心都市の扱いであったプラハでは、かつてモーツァルトが当地で大当たりをとった『フィガロの結婚』を自ら指揮するために訪れて、『プラハ』のニックネームを持つ第38番のニ長調交響曲(K.504)を初演した地であることから窺えるように、永らくドイツ系の作品が上演されていたのだが、19世紀も半ば近くになると自分たちのための劇場を造ろうという機運がチェコ人の間に生じて、まず仮劇場が1862年に設立されるとそこの首席指揮者となったのがスメタナ、そこのオーケストラでヴィオラを弾いていたのがドヴォルザークであり、1881年にようやく落成なった国民劇場の杮落しに上演されたのがスメタナのオペラ『リブシェ』Libuše (1872)である(なお、その直後に一旦火災に見舞われた劇場が1883年に再開された時にも『リブシェ』が上演された)といった具合で、永らく辺境と見なされ、抑圧されたマイノリティであったボヘミア人が、急速な工業化の進展もあって経済的に豊かになったことを背景としたナショナリズムの高調と分かち難い関りを持ち、ドイツ・オーストリア的なものとは対立的であるというのが一般的な認識であろう。(なお1992年以降日本語で「プラハ国立歌劇場」と呼ばれるのは、プラハにおいてドイツ・オーストリア的な作品の上演が行われた新ドイツ劇場のことで、現在は国民劇場の下部組織という位置づけにあるようだ。)

 だがより細かく見れば19世紀のボヘミア楽派との関係とて、決して単純なものではない。当時のボヘミア領の小さな村カリシュトに生まれたマーラーは生後程なくして、ボヘミアとモラヴィアの境に存在するドイツ人の街イーグラウに家族とともに移り住む(田代櫂『グスタフ・マーラー 開かれた耳、閉ざされた地平』には「モラヴィアへの境界を越え」(p.11)とあり、またイグラウを「モラヴィア第二の町」(p.13)としているが、そうであるとして、モラヴィアから見てボヘミアとの境にあるには違いないし、寧ろ社会言語学でいうところの「言語島」(Sprachinsel)、ここではドイツ語のそれであった点の方が重要だろう)のだが、それは同化ユダヤ人が、シナゴーグには依然として通ったとしても、日常はドイツ語を話しドイツ人のコミュニティの中で身を立てることが普通であったことの一例であるようだ。成功した酒造業者であったマーラー家には近郊のボヘミア人、モラヴィア人が使用人として出入りしていたようだから、マーラーは母語として家庭でドイツ語を話し、ドイツ語で読み書きを学ぶ教育を受ける一方で、チェコ語もある程度は理解できただろうし、ボヘミアとモラヴィアの両方の民謡を聞く機会もあって、「神童」マーラーのエピソードとして、与えられたアコーディオンで、自分が耳にした音楽を片っ端から弾いてしまったというものがあるが、その中にはボヘミアとモラヴィアの民族音楽が含まれていたに違いないのである。後年のマーラーがピアノ連弾でチェコの民族舞踏であるポルカを上機嫌で弾いていたというエピソードもあって、チェコの音楽がマーラーにとって極めて身近なものであったことを感じさせる。勿論、マーラーの作品とチェコの民俗音楽の直接的な関わりについての研究もあって、特にVladimir Karbusicky, Gustav Mahler und seine Umwelt は重要な成果とされている。日本語で読める文献としては、ヘンリー・A・リー『異邦人マーラー』(渡辺裕訳, 音楽之友社)の第2章「プラハとウィーンの間に」特にその中の「2. チェコとの結び付き」を挙げることができよう(勿論、カルブシツキの上記研究も頻繁に参照されている)。より直接的な音楽作品間の影響関係としては、例えばドナルド・ミッチェルがスメタナとの関係について論じたものが、Mahler Studiesに含まれるのが比較的アクセスしやすいだろうか。(Donald Mitchell, Mahler and Smetana:significant influences or accidental parallels? , in Stephan E. Hefling, Mahler Studeis, Cambridge University Press, 1997)

 更に後年のマーラーは、ウィーンの宮廷・王室歌劇場監督に至るキャリア・パスの途中で、短期間ではあるけれどプラハの劇場の指揮者を務めることになるが、ワーグナーの楽劇とモーツァルトの歌劇の解釈者として既に名声を確立しつつあった彼の職場は当然ながら落成して間もない国民劇場ではなくて、ドイツ・オペラを主要なレパートリーとする、アンゲロ・ノイマンが初代の監督を勤める新ドイツ劇場であった。その彼がハンブルクに移って親交を結んだのは、くだんのボヘミア楽派の一人である作曲家・批評家のフェルステル(ちなみに妻のベルタはフェルスター=ラウテラーの名で知られたオペラ歌手であり、マーラーの下で歌ったこともあった)であり、彼には自分がボヘミア生まれであって、チェコ語を話せることをアピールしたようだ。何より興味を惹かれるのは、マーラーがウィーンの宮廷=王室歌劇場の監督を勤めていた時代1892年に、スメタナのオペラ『ダリボル』Dalibor (1868) を取り上げたことで、15世紀末のプロスコヴィツェでの反乱に参加した騎士ダリボルの物語が、マーラーが得意とする『フィデリオ』と筋書きにおいて類似していることや、ワグナーの影響が顕著な音楽を持つことから、チェコで物議を醸したのと逆にウィーンでは取り上げやすかったという事情も寄与したのではあろうけれども、当時の状況を考えるに、チェコの伝説に基づく歌劇を帝国の首都で取り上げることは何某かの政治的な意味合いを帯びてしまうことが避けられたなったであろうことを思えば、マーラーのこの作品への愛着がひとしおであったことが窺える。だがオペラ指揮者マーラーのお気に入り、十八番ということであれば『売られた花嫁』Prodaná nevěstaを挙げない訳にはいかないだろう。ローカル色豊かなこの作品は、オーストリア=ハンガリー帝国内では人気があり、それは今日に至るまでドイツ語によるこのオペラの上演が引きも切らない点にも窺える一方で、例えばアメリカでは受け入れられなかったらしいのだが、晩年のマーラーがニューヨークで上演した演目の一つとして『売られた花嫁』が含まれていて、マーラーの熱の入れようはアルマが回想でわざわざ記している程であって、こちらもまたこのチェコの国民的オペラへのマーラーの愛着を窺い知ることができるように思う。一方コンサート指揮者としてのマーラーはドヴォルザークの交響曲をあまり評価していなかったらしいが、交響詩については別であり、『野鳩』Holoubek,op.110を取り上げている他、『英雄の歌』Píseň bohatýrská, op.111については初演者として名を残している。初演ということであれば、既述のフェルステルの第3交響曲の初演もまたマーラーがタクトをとっている。

 彼が指揮者としても高く評価していたツェムリンスキーはマーラーの没後1911年から1927年まで、前任者でマーラーとも関係のあったアンゲロ・ノイマンの後を継いでプラハの新ドイツ劇場の音楽監督として活動したが、そのツェムリンスキーと協力関係にあって、1920年以降は同じ劇場の首席指揮者を勤めたのは、これまたボヘミア楽派の主要メンバーの一人であり、ノヴァークにとってはライヴァルであった作曲家オタカル・オストルチルであった。指揮者としてのオストルチルはベルクの『ヴォツェック』のプラハ初演を実現したことを始めとして、シュトラウスやドビュッシー、ストラヴィンスキーやミヨーを取り上げたことでも知られるモダニズムの擁護者として知られるが、作曲家としてのオストルチルは、スメタナの流れを継ぐフィビフの弟子であった。その芸術的姿勢の支持者の一人に微分音音楽のパイオニアの一人として著名なアロイス・ハーバがいるが、オストルチルとのライヴァル関係もさることながら、ノヴァークの作風からすると意外に思えるかも知れないことに、ハーバは最初はノヴァークの弟子であった。モラヴィアの出身で幼い時から民謡に親しんだハーバは民俗音楽への興味からノヴァークに師事したようだし、そうした来歴から窺えるように、その微分音の使用は、例えば同じく微分音楽の提唱者・理論家として著名なヴィシネグラツキーとは異なって、特にモラヴィアの民謡に見られるオクターブを十二に分割する音階には含まれない音程や、半音以下の微妙な音程の変化から抽象されたものであり、それ故に単なる理論に基づく実験以上の作品を数多く作曲したことや、微分音音楽を演奏するための楽器制作や教育にも意欲的であり、実践的な側面での数多くの成果を挙げたことが知られているが、そうした彼の微分音音楽の実践を支持したのは、こちらは理論上で微分音音楽の可能性を示唆するに留まったとはいえ、その影響力には絶大なものがあったフェルリッチオ・ブゾーニであるが、そのブゾーニもまた熱烈なマーラーの信奉者として(アルマの回想録での印象的な描写も相俟って)有名であろう。

 そうした潮流の中でノヴァークは、既述の通り、一時期は印象派やシュトラウスのような時代のトレンドの影響を受けはしたものの、寧ろその後は時代の流れから身を退いてしまったかのように見える。とはいえ勿論それは出発点への単純な回帰、逆行という訳ではない。一見それは反動に見えるかも知れないが、寧ろ私がそこに見出すのは、気どりや飾り気の無さ、敢えて洗練とか流麗さとかを拒むようなたどたどしくさえある朴訥さである。その表情は寧ろ若き日の室内楽に見られた些か不器用なまでの率直さに再び近づいているようで、確かに自己の基本的な性格に立ち戻ったという点ではその通りであるとしても、ここでは最早現象そのものに無自覚に対峙するのではなく、ゲーテの箴言に言うところの「現象から身を退く」(Zurücktreten aus der Erscheinung) ことに近接するような、自己の主観の働きを客観化するような働きを感じずにはいられない。

 さて、それではヴィーチェスラフ・ノヴァークとマーラーとの間の直接的な関わりについてはどうだったのだろう。年代的には確認できた限りでは1860年生まれのマーラーに対してノヴァークは10年遅れの1870年の生まれ、マーラーはようやく50歳に達した1911年には没しているのに対して、後述するようにノヴァークは第2次世界大戦後まで生き延びて第一次世界大戦後のオーストリア=ハンガリー帝国の終焉とともに誕生したチェコスロヴァキア第一共和国がナチスドイツにより蹂躙されたのが第二次世界大戦後に「解放」される迄を目にすることになるが、おおまかに言ってマーラーの生涯はその前半生と重複するに過ぎない。マーラーがドヴォルザークの交響詩を評価していたのは既に記した通りだが、確認できた限りでは、その弟子筋にあたるノヴァークと直接やりとりをしたという記録はないようである。しかしながら間接的なものならば、日本語訳でも読むことができる1996年版の書簡集の末尾に収められた、1911年2月21日にニューヨークにて書かれたと推測される、ウニフェルザール出版社主のエミール・ヘルツカ宛のマーラーの書簡(464番、邦訳ではpp.464~5)において、マーラーがスークとともにノヴァークに言及していることが確認できるのである。その背景としては、ある時期以降マーラーの作品の出版を集中して引き受けることになったウニフェルザール出版社は或る時期以降(正確には契約の調印は1910年4月20日ないし24日で、期間はその後10年間)のノヴァークの作品の出版にもまた携わっていたという事情がある。実際には書簡の内容のうちノヴァークに関わるのはその冒頭の部分だけなのだが、そこでは恐らくマーラーがヘルツカから借りていたノヴァークとスークの作品のスコアが、手違いによって誤って返却されてしまったことを、事情の説明とともに詫びている。そしてその事情の説明から、スコアを借りていた理由が、ニューヨークでのコンサートのプログラムで取り上げる作品の検討であったことが窺えるのである。マーラーは次のコンサートのプログラムに「ボヘミアの夕べ」という企画を入れ、そこでノヴァークとスークの作品を取り上げる予定であった。書簡集の注釈によれば、返却されたスコアはノヴァークの交響詩「タトラ山にて」とスークの「夏の御伽噺」であり、いずれも前年の1910年に出版されたばかりの新作であった。良く知られているようにこの書簡を書いて間もなくマーラーは、2月21日のカーネギー・ホールのコンサートに熱を押して臨んだのが生涯最後の舞台となり、当時は不治の病であった連鎖球菌による感染性心内膜炎に罹患してしまうので、「次のコンサート」は開かれることなく、この企画は幻のものとなってしまったのである。マーラーがもし存命であれば取り上げられる予定だった作品としては、シベリウスのヴァイオリン協奏曲やアイヴズの第3交響曲「キャンプ・ミーティング」が著名だが、かくしてノヴァークの代表作の一つである交響詩「タトラ山にて」もまたそうした作品の一つだったことが確認できるのである。

 それではノヴァークの側からのマーラーに関する記録の方はどうであろうか?こちらについては、そもそもノヴァークについての邦語資料がほとんどないこともあり、情報は非常に限定されているのだが、私が調べ得た範囲でも、ノヴァークがその晩年に記した回想『自身と他者について(O sobě a o jiných)』の中にマーラーについてのノヴァークの以下のようなコメントが含まれていることが、Lubomír Spurný, "Vítězslav Novák in the Context of Czech Music as a Whole: Thoughts about the Composer’s Fate( Vítězslav Novák v kontekstu češke glasbe kot celote: Nekaj misli o skladateljevi usodi)", 2013という論文を通して知ることができるようだ。

「ドヴォルザークの言葉を使えば、私はマーラーが好きだが、我慢できない。その音楽のどこが好きなのか?それは彼の誠実さだ。彼がどんな感情を表現する場合でも、すべてが強烈に感じとれる。マーラーの二つ目の長所は、旋律の才能だ。彼の提示部は途切れ途切れの動機に依存することは決してない。彼の主題のいくつかは無言歌と呼べるだろう。[…] もう一つ、私が彼について好きな点は、人間としてのマーラーだ。ハンブルク、そして後にウィーンのオペラハウスの監督だったから、それを作曲する能力もあれば宣伝だって出来た筈なのに、彼はオペラを1曲も作曲しなかった。彼はそれを非標題的ないくつかの交響曲で補った。[…] 私が彼の嫌いなところは?それは自己批判の欠如だ。彼は適切なタイミングで曲を終えることは滅多にない。悲しんでいようが、歓喜していようが、彼は止まることを知らない。この過剰さの結果、聴き手は疲れてしまう。これらの作品は長大な上にリズムへの関心と転調が不十分なため疲労感を増大させてしまう。マーラーはしばしば楽章全体を通して同じリズム、時には同じテンポに固執するが、これはリヒャルト・シュトラウスとは対照的だ。[…] マーラーの楽譜を一瞥しただけで、セクション全体が同じ調で統一され、逸脱することがないことがわかる。調号のせいで楽譜は読みやすい。」(引用者による試訳)

 ちなみに上記論文は、ノヴァークの音楽の受容と今後の可能性について考察した Jiří  Fukač の論文「ノヴァークの時代は来るだろう(V.ノヴァーク―様式と受容の問題)(Novákova doba musí ještě přijít (V. Novák – problémy stylu a recepce)」を踏まえ、その問いに対する答を検討するといった枠組みの論文だが、そのきっかけとしてマーラーに関する優れた伝記『グスタフ・マーラー 未来の同時代者』の著者である音楽社会学者クルト・ブラウコップフによる、マーラーに関するシンポジウムの場での発言があったことに言及されている。ブラウコップフは若い頃にノヴァークの弦楽四重奏曲を弾いた経験もあり、 そうした経験を踏まえてマーラーに対するのと同じコメントをノヴァークについてもしたということのようなのだが、上記の引用はそれを踏まえて、だがノヴァークの音楽はマーラーとは異なって、世界的な注目を集めることなく、チェコの音楽の歴史の周縁に位置づけられるに留まっていることの理由として、ノヴァークの音楽がマーラーの音楽と異なって「時代を超越した」ものではないことを指摘した後で、ノヴァーク自身のマーラーとの関係を確認する目的で為されているのである。そして上記引用に続いて、ノヴァークとマーラーにおける引用技法の違いについての比較検討が為される。ノヴァークは引用を行う場合でも徹底した動機的・主題的発展と対位法によって構造の奥深くに織り込むというやり方を採るが、それが彼の音楽の知的な性格をもたらすとともに、その音楽に明確な伝記的な色合い与えるのに対し、引用によって現代的な実存的疎外感を喚起するようなマーラーの音楽におけるあり方とは異質である点が指摘されている。私見によれば、その内容についてはかなり行間を補って敷衍を行う必要があるとは思うが、確かに両者の引用技法の「効果」の違いは明らかだし、分析の方向性には首肯できるものがあり、非常に興味深い内容を含んでいる。

 一般にはチェコのモダニズムの世代におけるマーラー擁護者としては、寧ろノヴァークのライヴァルであったオタカル・オストルチル(既述の通り、プラハの新ドイツ劇場においてツェムリンスキ―の同僚であった)が有名だが、オストルチル自身の音楽は寧ろ新ウィーン楽派に近接し、マーラーの音調とは異質なものであるのに対し、ノヴァークの音楽にはマーラーの音楽との比較対照を誘うものがあるのは確かだと思うし、演奏家の立場からとはいえ、マーラーの側からもノヴァークの作品に関心を示していた証拠が残っているのは、両者の間の関係を考える上で非常に興味深く感じられる。

 いずれにしても、かくしてマーラーの側からも作曲家ノヴァークを評価していたことが確認でき、ノヴァークの側も幾つかの留保を付けつつも、マーラーの作品の或る側面を好んでいたことが窺えるのである。

*     *     *

 今、こうして遅ればながらノヴァークについて書き留めておこうとする私の記述内容は、だがしかし私という個人限定の私的な「感受」の内容を書き留めたに過ぎないのではなかろうか?またその内容は、それは曾ての私がノヴァークの音楽に聴きとったものと同じだろうか?マーラーから距離を置くための拠点のようなものとしてノヴァークの音楽に接した私は、だがしばらくして後、再びマーラーの音楽への立ち戻った。そしてそうしたことの全てが起きてから最早四半世紀の時が経とうとしていることに気付いて、私はその間に広がる時間の隔たりを前に言葉を喪ってしまう。既述のようにボヘミアの音楽はかつての私にとってごく当たり前のものだったし、ボヘミアの音楽との接触は一度切りのものではなくて断続的なものであった。例えば中学生の私は合唱部に属していたが、(まさか当時私のマーラーへの熱中がその原因とも思えないので)どういう経緯でかコンクールの舞台で合唱指揮をすることになり、その時に選ばれたのが(というからには私が主体的に選曲する自由は与えられておらず、私に合唱指揮をするよう指示した音楽教師による選曲だったのだが)スメタナの『モルダウ』を合唱用に短くアレンジしたものだった。後の私は、既述の「ビロード革命」後の「プラハの春」音楽祭での『我が祖国』に接したことが直接的なきっかけで、それまで腑に落ちなかった「国民楽派」の音楽に漸く自分なりの実感をもって接することができるようになるのだが、中学生の私はそうした思いを抱くこともなく、情けないことには『我が祖国』全曲を聴くことすらない儘、辛うじて原曲の交響詩『モルダウ』のみに接した限りで自分なりの解釈をもってコンクール本番に臨んだのであった。中学生の合唱部で中学生自身に指揮をさせることが珍しかったためか、偶々そのコンクールに審査員として立ち会っていたらしい作曲家の中田喜直さんが、中学生ながらそれなりの解釈を施しての指揮であったことを評価して下さり、指揮の勉強を続けるようにとの言葉を下さったというのを後日、くだんの音楽教師の伝言経由で聞いたのだったが、特段音楽的な環境にいるわけでもない地方都市に住む平凡な中学生にとって、間接的にであれ受け取った高名な(中学の音楽の教科書に必ず載っている合唱曲の作曲家だったから勿論、名前を知らない筈はない)作曲家の言葉は、自分の生きているちっぽけな生活世界の中でリアリティを持つことはなく、後に苦々しい思いとともに思い起こすエピソードの一齣となる他なかった。とまれ偶然の産物とはいえ、ここでもチェコの音楽との例外的な接触があって、私がマーラーへの熱中の背後で後年ノヴァークに出会うことになる背景を形成したことは間違いない。

 更に言えば、こちらはノヴァークの音楽を聴くようになったのと相前後するような時期のことだが、当時石川達夫さんが精力的に翻訳・紹介をしていたカレル・チャペックの作品をかなり纏めて読んだことや、ビロード革命の立役者である劇作家、ヴァーツラフ・ハヴェルが獄中から妻宛てに書いた膨大な書簡(『プラハ獄中記―妻オルガへの手紙』)を読んだり、現象学の研究者としてフッサール、ハイデガーに師事しながら、晩年になってハヴェルとともに「憲章77」Chartě 77 の代表として活動をした結果、官憲に拉致されて長時間の尋問を受けた後に心臓発作を起こして逝去した哲学者、ヤン・パトチカの『歴史哲学についての異端的論考』Kacířské eseje o filosofii dějin (邦訳:みずず書房, 2007)をやはりこれも石川達夫さんの翻訳を通じて接したこと、こちらは美術になるが、偶々チェコの画家フランチシェク・クプカFrantišek Kupka (1871~1957)だけにフォーカスした展覧会(1994年、愛知県美術館・宮城県美術館・世田谷美術館を巡回。私は世田谷美術館で作品に接した)があり、その作品にある程度網羅的な仕方で接する機会があったこともまた、チェコについての関心を広げる役割をしたと記憶する。音楽についても同様で、フィビフ、フェルステル、スーク、マルティヌー、ヤナーチェク、オストルチルやハーバといったチェコ人の作曲家の作品に接するなど、チェコの音楽に接する機会が何故か相対的に多かったことを考えれば、ノヴァークの音楽との出会いもまた、チェコの文化との遭遇の一齣に過ぎなかったという見方も可能だろう。

 既述のようにノヴァークは、本人の誕生からの前半生を、ドイツ人のための神聖ローマ帝国の後継国家であるオーストリア=ハンガリー帝国内においてチェコのナショナリズムが高まっていく中で過ごした。一時取り沙汰されたこともあったらしいチェコ人の自治権を認めた三重帝国こそ実現しなかったが、第一次世界大戦にオーストリア=ハンガリー帝国が敗れて解体することの結果として、チェコ人はひととき独立を獲得する。マサリクに率いられた所謂チェコスロヴァキア第一共和国の成立である。だが第一共和国は、東方からの脅威を防くことを目論むヒトラーのオーストリア併合の次の餌食となってしまい、まずドイツ人が多く居住するズデーテンが割譲され、次いで全体が併合されてしまって第一共和国は消滅する。(この時のヒトラーのやり方は、今まさに起きているプーチンのロシアによるクリミア半島の割譲とドンバス地方への傀儡政権の樹立というプロセスの仕上げとしてのウクライナ侵攻を彷彿とさせる。そのことを考えればプーチンの侵攻の口実がネオナチからの解放を目的とした自称「特別軍事作戦」であることは悪い冗談としか感じられない。)

 第一共和国はミュンヘン協定により戦争回避の生贄として見殺しにされ、おしまいにはチェコ地域(ボヘミアとモラヴィアの主要部分)はベーメン・メーレン保護領として併合されてしまうのだが、『南ボヘミア組曲』はそうした一連の出来事に先立つ1936年から1937年にかけて作曲された。1930年、日本風には還暦を迎えたノヴァークは生誕の地であるカメニツェ・ナト・リポウを訪れる。そのことをきっかけにして、彼は自分が南ボヘミアの田園風景、とりわけ森や池から自分が受け取ったものを改めて認識し、それらに対する応答として『南ボヘミア組曲』を作曲したというのが経緯となる。既に述べたこの作品の特質、即ちユニークな時間の流れ方、単なる雰囲気の変化や対比ではない、組曲を構成する楽曲の間にある意識の位相の違い(組曲前半の直接経験される現在と回想される過去に対して、組曲後半の社会的・理念的なものの侵入、即ち歴史的過去と未来への眼差しという重層性)に関連した、抒情的・印象的な前半2曲と3曲目に置かれたフス教徒の聖歌(『イステブニツェ聖歌集』Jistebnický kancionál 所収で、スメタナの『我が祖国』Má vlast やドヴォルザークの劇的序曲『フス教徒』Hustiská dramatická ouvertura, op.67 で用いられたことで余りに有名な「汝ら、神の戦士よ」Ktož jsú boží bojovníci)との対比もさることながら、この作品が或る種未来を先取りした作品である点に留意すべきであろう。勿論、作品創作の時期には既に後のカタストロフの予兆はあちらこちらに伺えたに違いないが、それにしても、かの白山の戦いでフス派が壊滅してからというものの、或る種黙示録的な予言の如きものとして伝えられ、スメタナの『我が祖国』Má vlast の末尾の連続して奏される2曲「ターボル」Tábor と「ブラニーク」Blaník によって余りにも有名になったあの伝説がここで暗示されているのは、その後のチェコの運命を思えば、予言的とでもいうべきか。

 だが白山の騎士達が現実に出現することはなく、その後のズデーテン割譲から保護領化に至るまでの期間ひととき沈黙するものの、『深淵から』De profundis (1941) と題された交響詩とオルガンと管弦楽のための『聖ヴェンツェラス三部作』Svatováclavský triptych (1941)で作曲を再開したノヴァークは、ナチスの支配下では音楽によるレジスタンスを展開したのであった。よもや待ち望んだ白山の騎士と勘違いしたわけではなかろうが、そうしたノヴァークにとってスターリンが解放者として映ったのは間違いないことなのだろう。1943年に作曲された『五月の交響曲』Májová symfonie と題された独唱、合唱つきの長大な管弦楽曲はスターリンに献呈されており、ナチスの壊滅から7か月後の1945年12月に初演された。戦後まもなく1949年には没するノヴァークが共産党政権に対して親和的であり、「人民芸術家」の称号を得たことについて今日の視点から後知恵で批判することは容易いことだが、ここではその事実を述べるに留めて当否を論じることは控えたい。 

 それとともに、マーラーがチェコ人ではなく、チェコ生まれのユダヤ人であり、ナチスによって「退廃音楽」として演奏を禁止されたという点を踏まえるならば、一頃日本でも話題になった姪アルマ・ロゼの名の傍らに、ホロコーストの犠牲となり、強制収容所でその生を断たれた一連のチェコ生まれのユダヤ系の作曲家の名前を挙げないでいるのはバランスを欠くことになるだろう。シェーンベルクの門下でプラハのドイツ劇場でツェムリンスキーの計らいで指揮者を務める一方で、ハーバにも師事したヴィクトル・ウルマン、やはりハーバの門下であるギデオン・クライン、更にはヤナーチェクの門下であったパヴェル・ハース、ハンス・クラーサといった、テレージエンシュタット強制収容所に送られた後、アウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所で殺害されるという運命を辿った作曲家達、同じくナチスにより「退廃音楽」として迫害され、ホロコーストの犠牲となったエルヴィン・シュルホフといった作曲家の存在を忘れてはなるまい。一方で、ノヴァークの弟子であり、微分音音楽の開拓者として当時の前衛であったハーバもまた、ナチス支配下では作品演奏を禁じられ、プラハ音楽院に自ら設けた微分音学科での教育も禁じられることになる。戦後一旦は復帰するものの、今度はスターリニズムの影響下にあった共産党政権によって「形式主義者」として迫害を受け、微分音学科は廃止され、強制的な引退に追い込まれることになる。尤も引退後の彼は作曲の自由を回復することになって逆に本来の前衛的な作風を取り戻し(彼の最後の弦楽四重奏曲である第16番は五分音による)、半ば忘れ去られつつ1973年に世を去る迄実験的な探求を続けたのであったが。

 勿論、だからといって私にとってチェコはまずもってマサリクとチャペックのそれであり、パトチカとハヴェルのそれであることには些かも変わりはない。ハヴェルには「力なき者たちの力」Moc bezmocných (1978)と題された論考があるけれど、まさに「力なき者たちの力」こそが拠って立つべき根拠であるという思いも変わることはない。またチャペックの作品の持つ、後年のSFを遥かに凌ぐ透視力への感歎の思いは、原子力(『絶対子製造工場』や『クラカチット』)、感染症の蔓延と戦争(『白い病』)、ロボットや遺伝子工学、人工知能、人工臓器(『ロボット』、『山椒魚戦争』)や老化(『マクロプーロスの処方箋』)といったシンギュラリティ(「技術的特異点」)を目前にした今日の問題をチャペックが全て予感しているのであれば、寧ろ強まるばかりである。不覚にもごく最近気づいたのだが、「分解」「腐敗」を切り口とするという卓抜な着想と歴史学者としての実証によって今日の問題に対して最も鋭く批判的な応答をしている藤原辰史先生の『分解の哲学』は一章をチャペックに割いており、一読してチャペックと藤原先生双方の着眼の卓抜さに圧倒される思いがしたことを鮮明に記憶している。

 だがもしそうだとして、ビロード革命後にプラハで鳴り響いた『我が祖国』のもたらす感動、チェコ人でもないし、チェコに暮らしたこともない人間の、恐らくは少なくない誤解を孕んだ身勝手な共感は、一体何に対するものなのだろうか?それは幾らでも暴力的に成り得て、「浄化」という名の他者に対する排除、他者の絶滅を正当化する論理が依拠する類の排外的で独善的なナショナリズムとどのように区別されうるというのだろうか?

 勿論そうした問いに対して簡単に答えられる筈もなく、だがだからといってそうした問いを回避して済むわけでもないのだけれども、私にとってのノヴァークの音楽は、出会ってから四半世紀が過ぎた今もかつてと同じ風景を私に見せてくれる。そして四半世紀も遅れてノヴァークの音楽との遭遇についての証言を書き留めておきたいという思いをようやくこのように果たそうと試みた時、自分にとってノヴァークの音楽は或るタイプの「生」のモードに結びついていることを認識せざるを得ない。そしてそのモードはボヘミア楽派のメンバーの一人としてのノヴァークのそれではなく、更にまたその生涯を通じて幾多の変遷を遂げたノヴァークその人のそれですらなく、端的に『南ボヘミア組曲』を作曲した折のノヴァークのそれであることに気付くのである。最初に述べたことの繰り返しになるけれど、ノヴァークに出会った頃の私は、その音楽に彼の蒙った傷と絶望と、森や池や草原の風景から受け取ることのできる深い慰藉とを感じ取り、内向的でぶっきらぼうで非社交的な彼の性格を受け止め、共感したのだったと記憶するが、今そうであるのと同様、当時の私にとっても最も深く心の中に染み透る作品である『南ボヘミア組曲』にかつて見たものは、今にして思えば稍々位相のずれたものであったかも知れないと思う。

 既に記した通り、ノヴァークは60歳に到達した折の「帰郷」をきっかけにこの作品を創り出した。組曲を構成する楽曲の間にある意識の位相の違い、即ち組曲前半の直接経験される現在と回想される過去に対して、組曲後半の社会的・理念的なものの侵入、即ち歴史的過去と未来への眼差しという重層性そのものが物語る通り、瞑想的で流れ込む外の風景の「感じ」と外に沁み出していく「私」という意識の構造とその移ろいの過程の様態が克明に定着された前半の2曲もまた、若き日の作品群とは異なって、直接的な体験の印象主義的な音楽化ではなく、それ自体がフッサール現象学でいうところの第二次的な把持のレベルにある。(それに対し後半2曲についてスティグレールを援用するならば、更にテクノロジーに補綴された第三次的な把持の水準、アンディ・クラークの言う「生まれながらのサイボーグ」としての「人間」の水準にあると言えるだろう。)それは既に「回想」の相をも含んでおり、「回想」の意識内容と、今、改めて己れをその中に浸す風景の直接的「感受」(ここでの感受は、ホワイトヘッドのプロセス哲学的な意味合いで用いている)の二重性を帯びたものなのである。今の私が『南ボヘミア組曲』に見出すのは、これもノヴァークの後期作品の特徴と私が感じていることとして既に記したことの繰り返しとなるが、若き日の室内楽に見られた些か不器用なまでの率直さに再び近づき、気どりや飾り気の無さ、敢えて洗練とか流麗さとかを拒むようなたどたどしくさえある朴訥さが感じられるとはいえ、現象そのものに無自覚に対峙するのではなく、ゲーテの箴言に言う「現象から身を退く」ことに近接するような、自己の主観の働きを客観化するような働きである。ゲーテはそれを「老年」に結びつけて語ったのだっだが、アドルノはジンメルのゲーテ理解を受け継ぐような形で「現象から身を退く」点を重視して「後期様式」を、マーラー、シェーンベルク、ベートーヴェンといった具体的な作曲家を対象として論じている。それを単純にノヴァークに敷衍することが正当化できるかどうかについての判断は専門の研究者でもない私の能くするところではないが、そうであったとしても、ノヴァークに対して遅ればせの応答をかくして試みることで確認したのは、それが実は最初から「老い」に、アルフレッド・シュッツの指摘をうけてより正確に言うならば、「老い」ていくという事実よりもより多く「老いの意識」に関わっていたし、今よりのち、ますますそうなっていくのだということであった。

 関わっていたというのが言い訳でないというのは、ノヴァークを良く聴いた同じ時期に、ノヴァークに対してではなかったし当時の私の年齢相応の仕方ではあったが、自分が既に「老い」について幾つかの対象を媒介にして考えていたことに思い当たったからである。それは生物学的・生理的な老いそのものではなく、アドルノとは別の仕方によって「後期様式」とは別の選択肢に辿り着くというような認識の様態を巡ってであった。ここでそれらを繰り返すことはしないが、そのきっかけは、或る日自分がダンテの『神曲』冒頭に記されたような人生の折り返し点を気づかずに既に通り過ぎて了ったという認識を抱いたことだったように記憶する。その辺りの消息は、このブログの記事の中で、一見したところマーラーとの関連が稀薄そうに見える身辺雑記(1) 序に記録している通りである。人生の折り返し点を過ぎたということは、ダンテの定義によれば老年に差し掛かったということであって、そうした自己認識の下、アルヴォ・ペルトの言う「偉大な芸術家にとって、もう芸術を創造しようとしたり、創造したりする必要のないとき」という言葉を導きの糸としたシベリウスの晩年の沈黙やデュパルクの断筆についての思考、ジッドの「狭き門」におけるアリサの「私は年をとってしまった」というジェロームへの言葉を巡っての思考、ヴァルザーがブレンターノを主人公にして書いた散文にあらわれるあの薄暗い大きな門、その向こう側には沈黙が広がる相転移の地点についての思考は、その時期の私なりの「老い」についての思考であった。その時は寧ろ、相転移の向こう側の沈黙の方にフォーカスしていたので、恐らくはその手間に位置づけられる「後期様式」についての思考との両方を「老い」を媒介とした一つのパースペクティブの下で捉えるという発想を持つことはなかったのだが、今やそれにこそ取り組むべきなのだと感じている。そのことはパスカルに関して数学者をやめたことを惜しむのか、「沈黙」の替わりに『パンセ』を遺したことすら問いに付すのかとの間の二者択一を意味しない。寧ろ相転移の向こう側でなお、何が可能なのかが問われているのかも知れない。更に言えば「老い」の意識は暦年に基づく年齢とも生理的な年齢とも関わりなく、寧ろ病とか身体的な衰えや、そうしたことに媒介された死への意識とともに主体に到来するものなのだろうが、さりとて暦年に基づく年齢や生理的な年齢に伴う老化自体を無視することなど出来はすまい。

 「老い」について語られることは、「死」について語られることの多いのに比べて余りに少なく、仮に語られても、それは「死」との関りにおいてのみ論じられることが常であるように感じられる。だが、ジュリアン・ジェインズの言う「二分心」崩壊以降、ダマシオの言う延長意識が立ち上がると「自伝的自己」が確立され、生涯に亘って維持されるようになったのだが、逆にそうなってみると生物学的な「死」の手前に、その前駆としてではない「自伝的自己」の消滅が、「老い」によってもたらされることになった。ダマシオの記述を参照するならば、認知症の代表的な原因であるアルツハイマー病では「初期では記憶喪失が支配的で、意識は完全だが、この破壊的な病が進むと、しばしば進行的な意識低下が見られる。(…)この意識低下はまず延長意識に影響し、事実上、自伝的自己の様相がすっかり消えてしまうまで延長意識の範囲を徐々に狭めていく。そして最終的には中核意識も低下し、もはや単純な自己感さえなくなる。」(ダマシオ『無意識の脳 自己意識の脳』, 田中三郎訳, 2003, 講談社, p.138)

 ジャンケレヴィッチの『死』は死そのものと同様、その手前と向こう側についても延々と語っており、その中で勿論「老い」についても「死の手前」の中の一つとして論じている(ジャンケレヴィッチ『死』, 仲澤紀雄訳, みすず書房, 1978, 第1部 死のこちら側の死, 第4章 老化)が、無い物ねだりとは言い乍ら、やはり「老い」そのものについて論じているとは言い難い。勿論こうした次元での「老い」は直接には「現象から身を退く」ことをその定義とする「後期様式」とは無関係であるということになろうけれど、こうした次元の「老い」と切り離してそれらを論じることは、こちらはこちらでもともとのゲーテの言葉を軽んじていることになるのではなかろうか。

 「老い」についての大著というと、邦訳で上下巻、二段組で700ページにもなるボーヴォワールの『老い』(朝吹三吉訳, 人文書院, 1972)があって、膨大な資料を渉猟し、その記述は多面的で、生理的側面、心理的側面、社会的側面の全てに亘り、客観的・対象的な了解と主観的・体験的な了解の両方を扱っており、かつそれらそれぞれの面のいずれについても充実したものだが、余りに経験的な次元に限定されている感じもある。一方でその限りにおいて、作家や学者に比べて芸術家(画家と音楽化)の晩年についての評価は高いのだが、その理由が特殊な技能を習得することから習熟に時間を要するという稍々皮相な指摘(「(…)このように彼ら(=音楽家:引用者注)が上昇線をたどるのは、音楽家が服さなねばならない拘束の厳しさによる、と私は解釈している。音楽家は自分の独創性を発揮するには高度の熟達がなければならず、これを獲得するには長い時間が必要なのである。(…)」, 邦訳下巻, p.479)に留まっている。何よりも「老い」が単なる「長い時間」と同一視されていて、「老い」の固有性が顧慮されていない点が致命的に感じられ、これではゲーテの「現象から身を退く」に基づくジンメルやアドルノの議論との間尺がそもそも合いようがない。ボーヴォワールが「老い」というものが様々なレベルで複合的に決定されているものであるが故に明確に定義することが困難であることを認識した上で、「老い」というものの固有性について理解しているだけに、個別の例における上記のような評価は寧ろ腑に落ちない感もあるが、ここでこれ以上立ち入ることは控えることにして後日を期することにしたい。

 その点で留意するに値するのは、世阿弥が『風姿花伝』において能役者の生涯における三回の「初心」について述べる中で「老年の初心」について述べていることだろう。そもそも能楽には「老体」の能と称される演目があり、「老女物」の能を演じるのは能役者にとっての生涯の目標であり、かつては奥伝として特に許された者以外は生涯演ずることが叶わなかった程である。そしてそうした最終目標の演目において能役者が演じるのは、小野小町の老残の姿と心持ちを扱った作品(『卒塔婆小町』を始めとする所謂「小町物」)であったり、棄老伝説を踏まえた、今日的には残酷ともとれる状況を扱った作品(『伯母捨』)なのであって、役者として「老年の初心」を経て初めて到達できる境地と、そうした「老い」を主題とした演目との間に深い関りが存在することは、そうした作品の最高の上演に幾度か接すれば自ずと得心されるもので、そうした観能の経験もまた、私がそうとは気づかずに断続的に行ってきた「老い」についての思考の枢要な導き手であったことを今、改めて認識し、そうした上演に立ち会うことができた僥倖に感謝せずにはいられない。ここでは「死」とは異なる「老い」の固有性が、そのマイナス面も含めて決して否定的に扱われることなく、だがそこから目を背けることもなく、真っ向から取り上げられているのである。

 であるとするならば、要するに求められているのは、『分解の哲学』において遂行されているように「分解」「腐敗」を正面から取り上げること、そしてその顰に倣いつつ、だが、こと「老い」を扱うのであれば、『分解の哲学』が謂わば「死の向こう側」における「分解」に目を背けることなく取り上げたのに呼応して、「死の手間」における「分解」を取り上げることなのだと考える。

 だが「老い」について上記のような議論をすることはそれ自体、最早ノヴァークその人への「応答」としては過剰であり、逸脱であるというのが客観的な判断としては妥当だろう。既述の通りノヴァーク自身はその後しばらくの沈黙の時期はあったけれども断筆に至ったわけではないし、その後は、抵抗としての音楽の創作に向かったのだから、ノヴァークその人の総体を論じるのであれば、そこに上述した意味合いでの「老い」を見出すのは無理筋ということになるに違いない。けれども私にとってのノヴァークは何よりもまず『南ボヘミア組曲』に映り込んだ彼なのであり、(『シニョリーナ・ジョヴェントゥ』のように素材として若さ/老いを扱った作品があるとは言え)もしかしたらノヴァークにおいて一度切り、そこに限ってということであれば、ここで考えているような「老い」を論じることは許容されるのではなかろうか。だが寧ろ、今やそのことをこうして確認したからには、かつての自分がノヴァークから明確に離れたという訳ではないにせよ、その後再びマーラーに立ち戻ったように、今度はマーラーと「老い」について、マーラーにおける「老い」について、必ずしもアドルノのようではなく自分なりの認識を整理することに向かうべきなのだと感じている。そしてそれはかつて『南ボヘミア組曲』に出会った折の仕方と同じ仕方でなく、上でラフにその輪郭を辿ったことの延長線で「老い」について考えることに通じるのであろう。(2022.12.7オリジナル版, 2023.2.8マーラーに関連する部分を編集し、若干の加筆の上公開、2.16, 3.7更新, 3.8改題, 4.30,5.4加筆修正, 2025.7.16-17, 8.5改訂)

2025年7月16日水曜日

生涯についての覚書(2008/2025, 2025.7.16改訂)

マーラーの場合、その人の生涯の軌跡を辿ることには、他の作曲家の場合とは些か異なった事情があるようだ。 作品と作曲者の生の軌跡との関係は、時代により、人によりまちまちだが、マーラーの場合にはその間に密接な 関係があるのは明らかであるように思われるからだ。勿論、狭義に解された意味合いでの「伝記主義」、その作品の 「内容」を、作曲者の人生のある出来事に還元しようとする姿勢は、マーラーの場合においてすら妥当ではないだろう。 マーラーの場合は、そうした短絡がしばしば起き勝ちであるためか、作品と作曲者の関係については、他の作曲家の 場合に比しても随分と慎重で繊細な取り扱いがなされる場合が増えているように思えるが、結局のところそれもこれも 作品と作曲者との関係の密接さを物語っているのだろう。

だが、その一方でマーラーその人の生きていた時代は遠くなりつつある。ましてや極東の僻遠の地に住むものにとって、 マーラーその人の生きた環境を思い浮かべるのには困難が伴う。幸いマーラーの場合には、ド・ラ・グランジュの浩瀚な 伝記をはじめとして、伝記、評伝の類は数多くあるし、邦訳が存在するものもあるし、日本人の手による伝記・評伝も 存在する。それらを読むことで、このような音楽を書いた人間がどのような人で、どのような時代に生きたのかを間接的では あるが知ることができる。写真・図録の類も少なからずあるから、それらによって視覚的な情報を補うこともできるだろう。

従って、ここでマーラーの生涯についてまとめることが、そうした数多い評伝に伍する意図から発しているのであるとすれば、 私がマーラーの研究者でも、歴史学者でもない以上、まずもってその資格無しの烙印を押されておしまいになってしまうだろう。 所詮は直接一次資料にあたることができず、所蔵している幾つかの文献を元に、「自分の目に映ったマーラー」を描き出すのが せいぜいなのだ。文献に誤りがあれば、「私のマーラー像」はその誤りの上に作り上げられるのだ。

その一方でWebで簡単に入手できる情報には、思いのほか間違いや、控えめに言っても誤解を招くような記述が少なくない。 比較的正確な情報があっても、それが日本語でなければその情報を利用できない場合もあるだろう。 勿論それはマーラーに限ったことではなく、一部の「恵まれた」作曲家を除けば、Webで入手できる情報は、多くの場合には 断片的だ。寧ろマーラーは量的にも質的にも恵まれた方であると言っていいかも知れない。問題は、客観性を装った 記述の中に、筆者の予断が入り込んでいたり、古い文献では事実として書かれていても、少なくとも現時点では信憑性を 疑われている内容がそのまま、注釈もなしに記述されていることがあることだろう。勿論、学問的に正確で厳密な記述は、 専門家の領分であり、Webで私のようなマーラーの音楽の一享受者が云々することではないのは確かだが、素人目に見ても 首を捻るようなケースもあるので厄介なのだ。もっとも、そうしたケースでも「私のマーラー像」との懸隔に苛立ちを感じているだけではないか、 という批判の前には沈黙せざるを得ない。せいぜいがある文献に従えば、それは事実ではないというのが関の山なのであって、 真偽の判定をする最終的な材料を私が持っているわけではないのだ。その点をはっきりさせるべき、記述にあたっては、 私自身が伝記作者を僭称することなく、自分が参照可能な伝記やドキュメントなどの文献に語らせる方法を採用すべきだろう。 実際そうでしかありえないのであれば、伝記やドキュメント類の引用の集積たる「メタ伝記」とでも言うべき体裁が、実質に 見合ったありように思われるからである。そして、それが不可能なのであれば、これを伝記と呼ぶのを止めるべきだろう。 せいぜいがそうした伝記的資料を渉猟していて自分が気になった点を断片的に記すといってレベルの備忘、覚書というのが 実質に見合っているのだ。

ここにまとめるのは、従ってあくまでも「自分の目に映ったマーラー」像である。ド・ラ・グランジュの伝記に含まれる情報量は 膨大だが、それを全て等しく記憶してマーラー像を作り上げている訳ではない。結局、伝記の類というのは、事実の選択と 系統付けの作業の結果であって、書く人の数だけマーラー像というのは存在するのだ。そして、ここに記載されたマーラー像が、 Webの他所で入手できる情報に比べて真正なものである保証はない。その点では、Web上に存在する他の情報に比べて 優位を主張するつもりはない。私はただ単に、「自分の目に映ったマーラー」がどんな人であったかを書きとめておきたいだけである。 勿論、主観的に判断した限りでは虚構を書くつもりはないが、それでもなお、間違いや、間違いではなくても、事実の取捨選択や 出来事の解釈に恣意が入り込むのを避けることができる自信が私には全く無い。従って、ここでのマーラー像は、寧ろフィクションだと 思って読んでいただいた方が誤解がないかも知れない。あったことを無かったこと同然に言いくるめる相対主義は危険であり、 強い反撥を覚えるし、ここでもそうした相対主義を主張しているわけではない。ことマーラーの生涯については、私は所詮、 あっとことと無かったことを厳密に判定する基準を自分の中には持っていないということと、自分の作り上げるマーラー像が、 今日の日本に住み、音楽を専門とせずに、マーラーの音楽をそれなりに聴いている私を形作る様々な文脈、環境に拘束された 一つの展望、星座に過ぎないのだということを言いたいだけである。

率直に言えば、かつて熱中していた頃にはその人にも夢中になったものだが、現時点では、その人に対して距離感を感じずには いられない部分も多いし、何よりも、時代と場所の隔たりの大きさを感じずにはいられない。そして、そうした感覚が記述に 反映するのは避け難いことだし、あえて言えば、避けようとも思っていない。寧ろそうした距離感と共感のない交ぜとなった感じを 書き残して置きたい、というのが本音なのだ。マーラーの音楽を享受することに関しては、それが紛れもなく自分の固有の経験 だが(勿論、そうした「自分」が、様々な環境、文脈に拘束された、不安定なものであること、そして自分には己の全てが 見えているわけではないことは当然だが)、マーラーその人については決してそうではない。かつての私は、そこの部分の遠近感に ついて明らかに錯視を起こしていた。音楽から人を眺める倒錯が、外挿する過誤がそこには確実に含まれていた。マーラーが 自分にとって、「他者」であること、これは恐らくはほとんどの人にとっては、はじめから明らかなことなのだろうが、私にとっては 必ずしもそうではない、それは苦々しい感覚を伴う、後成的な認識だったのであって、もしかしたら、今なおそれを意識的に 確認せずにはいられない心的なメカニズムが私の自己の、私からは見えないどこかで働いているようなのだ。恐らく実のところ、 ここで行うのはその確認作業に違いないのである。私の場合には、興味がある作品を書いた人に対する関心は必ずつきまとう (作品と作曲者を切り離して、作品を自律的なものとして捉えることがどうしてもできない)のだが、それでも他の作曲家については、 その人の生涯を自分の手で確認するような、このような作業をしたいという欲求そのものをほとんど感じないのだ。結局のところ、 私にとってマーラーは、その音楽もだが、その人そのものも、未解決の問題なのだろう。

*  *  *

マーラーが誕生したのは1860年7月7日、没したのは1911年5月18日であることは周知の事実であるが、 ではマーラーが生きた時代がどんな時代であったかを想像することができるかといえば、それは 実際には容易なことではないだろう。とりわけ19世紀末のウィーンに関しては色々な書物によって 情報を入手することが可能であって、そうした知識の集積により自分の中に一定のイメージを作り出すことは 可能だが、そうした情報にはどうしても偏りがあって、その歪みが、例えばマーラー自身が眺めていた 風景の持つ歪みと一致することを期待することは望み薄である。否、そういう意味ではマーラーの音楽を 聴き、それと同化することによっての方が確実ではないかとさえ思える。だが、そうしたアプローチは 時間と空間を越えた「近さ」を感じさせはしても、現実は画然として存在しているはずの距離感を 測るには適さない。そういう点では(強烈なバイアスによって歪められてはいても)生き生きとした アルマの回想に現れるマーラーのイメージもまた同様で、そらんじる程にその内容に親しんでしまった 子供は、自分が頭の中に作り上げたイメージが如何に身勝手な空想であるかに気付くのが困難になる。

距離感の測りがたさの一因は、逆説的にもそれが想像を絶するほど異なった過去ではない、という点にあるの かもしれない。しばしば当たり前のことだと思っているが、マーラーの姿を定着させた数多くの写真、 マーラー自身が書いた夥しい量の書簡、そしてアルマのエピソードに出てくる鉄道、自転車、電話、電報、 そして自動車といった輸送・通信手段は勿論、自明のものではない。同じことは例えばもう100年前の モーツァルトには全く当て嵌まらないことを考えれば、マーラーの生きた時代との距離感の微妙さを 大まかではあっても測ることができるだろうか。今日のスター指揮者であれば、大西洋を往来するのには 船ではなく、飛行機が使われるだろうが、とはいえ、発達しつつある交通網を利用して、客演を定期的に 行うというスタイルは今日と大きくは変わらない。ウィーンが再開発によって近代都市に生まれ変わったのは、 マーラーがウィーンの音楽院に在籍した時期(1875年~1878年)と重なっており、アルマの回想録に 生き生きと描き出されている壮年期のマーラーが闊歩したウィーンの街の景観は、まさにマーラーの時代に 出来上がって、その後基本的には現在まで引き継がれているのである。またウィーン以外の、マーラーが キャリアを積み重ねていった各都市の歌劇場もまた、まさにマーラーの活躍した時代にそのあり方を 変えつつあり、まさにマーラーのような能力の持ち主が何時になく嘱望されていた時期なのである。 ウィーンの宮廷歌劇場こそその典型であって、宮廷歌劇場の新築はウィーンの都市改造の目玉の一つであった。 今日のウィーン国立歌劇場にはロダン作のマーラーの像が置かれているようだが、第2次世界大戦の惨禍に 巻き込まれ、現在の建物は戦後再建されたものではあるが、デザインが踏襲されたこともあって、基本的には 場所も含めて、マーラーが仕事をした歌劇場と今日のそれとの連続性を認めることは可能だろうし、 しかもその建物はマーラーが生まれる前には存在しなかったのである。同様のことはブダペストについても ハンブルクについても言えて、ブダペストの王立歌劇場の開場はマーラーの赴任の4年前の1884年、1991年に マーラーが赴任したハンブルクの市立劇場は1874年に大改造を経て新規に開場している。もっともハンブルクの 歌劇場は第2次世界大戦で破壊されて戦後に再建される際にデザインも一新されたため、往時の姿を 知るには過去の写真などによる他ないのだが。

マーラーは職業という観点から見れば何よりもまず時代を代表する歌劇場の監督・あるいはコンサート 指揮者であり、作曲は専ら余暇に無償で行った。ところで、歌劇場という施設やコンサートという制度は それを支える経済的な側面も含めて、上述のようにまさにマーラーの時代に確立し、その後若干の変遷はあったものの、 基本は大きく変わらずに今日に至っているのであるし、マーラーが音楽教育を受けたのはウィーンの音楽院であるが、 そうした音楽教育の制度の面でも、まさにマーラーの時代に今日まで続く仕組みが確立していったのである。 そういう意味ではマーラーの時代と今日の間には大きな断絶はないと言っても良いかもしれない。 ちなみに音楽院という教育機関による教育の開始は、フランス革命が契機であり、パリの音楽院を嚆矢とする。 ウィーンの音楽院は楽友協会により1810年代に設立され、公立になったのはマーラーの晩年1909年の ことである。従って音楽院自体はマーラーの時代の成立ではないのだが、カリキュラムや学科の確立、 教授陣の充実、それによる優秀な人材の輩出によって、音楽院の名声と権威が確かになるには当然それなりの 時間が必要であり、それはマーラーが入学する頃には確かなものになっていたと言いうるようである。

それだけではなく、上述したウィーン市の大規模な改造計画に伴って、ウィーン音楽院が歌劇場近くの現在の所在地に移転したのは、 マーラーが入学する直前の1870年だった。 例えばバロック期や古典期、更にはロマン派前期の音楽は今日でもよく聴かれるにも関わらず、それが受容された 環境、演奏の前提となる設備や演奏家を養成する教育の制度の面では何某かの断絶があったのに比べれば、 マーラーの音楽を取り囲む環境との連続性は明らかであろう。勿論、その後の音楽の大衆化の進展の大きさや、 あるいは演奏を記録する技術の急速な進展などを考えれば、第1次世界大戦前に没したマーラーは、いわば 「少し前の時代」を生きたというようにもいえるだろうが、マーラーの同時代の演奏家の録音記録もわずかながら 残されており、マーラー自身のピアノ演奏の記録さえ残っていることを考えると、この点についても状況の変化を 過大視することはできないだろう。確かにLPレコードの普及以降のマーラー受容の質的な変化には留意する 必要があるだろう。けれどもマーラー時代と基本的には変わらない仕方で、演奏会場で実演に接することも 依然として可能だし、寧ろ頻度だけを問題にすればその機会は拡大しているといっても良いかも知れないのである。


誕生から音楽院卒業まで(1860~1878)

マーラーが生まれたのは、オーストリア・ハンガリー帝国領、現在のチェコ共和国内のボヘミア地方のカリシュトという村であった。 その後ただちに、マーラーの一家は近くのイーグラウという街に引っ越すことになる。イーグラウもまた、現在の チェコ共和国の領内、ボヘミアとの境にあるモラヴィアの中心都市のひとつである。(なお村井翔『マーラー』, 音楽之友社, 2004の巻末の年表では、イーグラウが「モラヴィアの中心都市のひとつ」「今日のスロヴァキア共和国イフラヴァ」とコメントされているが、前者は正しく、後者は誤りである。モラヴィアはボヘミアとは異なるアイデンティティを持つとされるが、伝統的にチェコの一部であるし、繰り返しになるが、イーグラウはモラヴィアの中でもボヘミアとの境に位置している。またモラヴィア内の南東部にもスロヴァツコ地方と呼ばれる地域があるが、これは所謂スロヴァキアとは異なる。)一般にはマーラーはチェコの作曲家ではなくオーストリアの作曲家ということに なっているようだし、それには勿論妥当性があるのだが、それでもマーラーがチェコでもボヘミアおよびモラヴィアと呼ばれる 地域に生まれ、育った点は留意されて良い。マーラーがユダヤ人であることを知らぬ人はいないが、それに 加えて、ボヘミアの生まれであること、更にイーグラウという街の性格、すなわちそれが帝国直轄都市であり、 街ではドイツ語が話され、街を取り囲むチェコ語が話される地域の中の「言語島」であったことが、 マーラーが幼少期を過ごした環境に幾重もの複合性をもたらしているからである。後年マーラーが言ったとされる アルマの回想に書き留められた有名な言葉「オーストリアの中のボヘミア人、ドイツの中のオーストリア人、世界の中でのユダヤ人」という言葉に象徴される彼の「異邦人性」、或いは 社会学で言う「マージナル・マン」といった性格付けは、このような環境が前提となっているのだ。ついでに言えば、カリシュト、 イーグラウという都市名はドイツ語のものであり、チェコ語での名と同じわけではない。同様の書き方を 敷衍すると、スロヴァキアのブラチスラヴァはプレスブルクと呼ばなくてはならないし、後にマーラーが指揮者として 赴く、スロヴェニアのリュブリャナもライバッハと呼ばなくてはならない、といったことが果てしなく続くのだ。

これに関連して興味深いテーマとして、マーラーの言語的アイデンティティの問題がある。後年の書簡などから わかるように、マーラーの「母語」がドイツ語であったのは間違いなく、それはドイツ語圏の教養を身につけようと 努めた同化ユダヤ人であった父の用意した環境でもあった。イーグラウという街の性格は既述の通りだが、 マーラーが通ったイーグラウのギムナジウムではドイツ語で授業が行われたし、読書の虫であったマーラーが 読みふけった書物もドイツ語で書かれたものであったに違いない。だが、マーラーが生まれた直後の1860年10月に 皇帝が出した声明により、ユダヤ人にもようやく国内移住の自由が認められたのに乗じて、12月に直ちにカリシュトからイーグラウに移住した父ベルンハルト・マーラーも、ユダヤ人としての信仰を放棄することは無く、シナゴーグには 通っていたし、マーラーにも引き継がれた勤勉さもあって経済的に成功するとイーグラウのユダヤ人社会の 名士になるわけで、ドイツ人相手の商売をしてはいても、ユダヤ人としてのアイデンティティは保ち続けていた。 ボヘミアのユダヤ人の言語については、イディッシュ語のような独自の言語が存在していたわけではないが、 ユダヤ教の礼拝ではヘブライ語が用いられたに違いない。そしてイーグラウを取り囲む地域からやってくる人びとはチェコ語を 話しただろう。マーラーが幼少期に憶えたボヘミアやモラヴィアの民謡の歌詞はもちろんチェコ語であっただろう。

これらのうち、シナゴーグの中で使われていたであろうヘブライ語については、マーラーが幼少期より、 シナゴーグではなく、教会聖歌隊に参加するというかたちで寧ろカトリックの教会を訪れていたらしいことを 考えると、マーラーが日常的に接していたと考えるのは無理があろうが、ドイツ語のみならず、チェコ語については恐らく身近に接する機会が多かったに違いなく、積極的に習得しないまでも、聞けば何となくわかる 程度には知っていた可能性は充分にあるだろう。ドイツ語のみならず、チェコ語については恐らく身近に接する機会が多かったに違いなく、積極的に習得しないまでも、聞けば何となくわかる 程度には知っていた可能性は充分にあるだろう。言葉だけではない。その後のマーラーの音楽の基本となった ドイツ・オーストリアの音楽の伝統の基層に、ボヘミアやモラヴィアの民謡、更にはユダヤ人の歌や踊りが、それらが用いられる行事など とともに存在しているに違いないのである。(実際、後にハンブルク時代に親交を持つようになるプラハ出身のチェコ人の作曲家・批評家フェルスターの回想ではこうした経緯をマーラーから聞いたことが綴られていたりもするようである。)

その後のマーラーの軌跡を辿ると、11歳の年、1871年9月には、一時期プラハのギムナジウムに「転校」するものの、成績不振やいじめのために、翌年3月にイーグラウに戻った後、1875年9月、15歳でウィーン音楽院に入学し、その後はウィーンで生活するようになる。そして1878年7月のウィーン音楽院卒業に至るのである。マーラーの家も成功した商人であり、決して貧困の中で育ったわけではないのだが、一部の金銭的にも全く不自由なく、糊口を凌ぐべく定職につく必要のない身分・階級の子弟は別とすれば多くの平凡な人間がそうであったように、マーラーもまた、どの職業で身を立てるかの選択を迫られることになる。特にマーラーは生まれて間もなく没した兄はいたが実質的に長男であったから、当時の社会的な規範の中で(特に伝統的なユダヤ人家庭においてはそうであったようだが)将来の家長としての役割を期待されていたことであろう。、マーラー自身にもその自覚はあったように見受けられる。


移行期(0):音楽院卒業後(1878~1880)

マーラーの生涯というのは、記念碑的なアンリ・ルイ・ド・ラグランジュの伝記に代表されるように、微に入り細に至る迄、実によく調べられているのだが、その中でほぼ唯一、その足跡を辿るのが困難な時期が音楽院卒業直後のこの時期であるらしい。ブダペスト近郊でピアノの家庭教師をする以外はアルバイトで糊口を凌いでいたようだが、詳細は資料の欠如により不明なようである。(ピアノ家庭教師を終えた後はウィーンに戻り、その後マーラーに少なからぬ影響を与える友人たちと出会ったことは確実なようだが。)あまりに有名な友人ヨーゼフ・シュタイナー宛の書簡(近年は書かれた場所をとって「プスタ・バッタ書簡」と呼ばれる)が書かれたのはこの時期で、また「3つの歌曲」もこの時期の作品だが、特に重要なのはマーラー自身が自分の作品1であると見做した「嘆きの歌」の作曲であろう。そして「嘆きの歌」の完成がこの移行期の終わりを徴づけることになる。結果として職業として劇場の指揮者となることを選んだ彼は、それに少し先立つ1880年5月にエージェントのレヴィと契約し、手始めに保養地バート・ハルの夏の劇場の指揮者となることでキャリアを開始する。マーラーは勿論、完成させた「嘆きの歌」を上演させるべく試みるが、この時期のマーラーは実現のための術を持たなかった。それを果たすのは遥か先、指揮者としてのキャリアの頂点となるウィーン宮廷・王室歌劇場に就任して後まで待たなくてはならなかった。


遍歴時代(バート・ハルからライプツィヒ時代まで)(1880~1888)

保養地バート・ハルの夏の劇場を皮切りに、マーラーは劇場の指揮者としてのキャリアを積み重ねる「遍歴時代」に入る。ライバッハ(現在のスロヴェニア共和国リュブリャナ)、オルミュツ(同じくチェコ共和国内、モラヴィア中部の都市オロモウツ、なお何故か村井『マーラー』の年表では、オロモウツもスロヴァキア共和国にあるとされているが、これも誤りである。)を経て、1882年9月にはカッセルの王立劇場に就任する。それまではオーストリア=ハンガリー帝国内を移動していたのが、ここに至って初めて「国外」であるプロシアに居を定めることになるのだ。その後は一旦、プラハのドイツ劇場に戻るが、直ちにライプツィヒに就任した後、再びオーストリア=ハンガリー帝国領に戻ってハンガリー王立劇場でいよいよトップである監督に就任するのが1888年の12月、28歳の時であった。


移行期(1):ブダペスト時代(1889~1890)

マーラーにとって20歳代後半のブダペスト時代は色々な意味での転機だった。ここでマーラー自身にとっての「本来」の仕事であった創作活動を振り返るならば、幾つかのオペラ創作の試みを経て、前の移行期(1)においてカンタータ「嘆きの歌」を完成させた彼は、続く遍歴の時代にあっては、後にその一部が「花の章」として交響詩「巨人」に組み込まれることになる「ゼッキンゲンのラッパ手」の劇付随音楽を作曲した後、ウェーバーの「三人のピント」の補作を経て、いよいよ2部よりなる交響詩(後に「巨人」と命名)の作曲に取り掛かり、これを完成させた上で上演にまで漕ぎつける。ただしブダペストでの初演時点では、この作品は(その作曲の経緯がどのようなものであったにせよ、結果だけ見れば)「交響曲」ではなく、「交響詩」として上演されていることに一定の留意をすべきだろう。要するに、交響曲作家マーラーは、この時点では未だ姿を現していないのである。その一方、私生活においては、王立歌劇場監督になって間もなくの翌1889年の2月にまず父を、続いて9月に妹レオポルディーネを、そして10月には母を相次いで亡くしているのである。交響詩の初演がその後の11月末であることに留意しておくべきだろうか。翌年の1890年にはその後のマーラーの言行の記録者となるナターリエ・バウアー=レヒナーがブダペストにやってくるといった具合に、この時期に次の時期の歩みを準備する様々な出来事が次々と起きているのである。


シュタインバッハ=ハンブルク時代(1891~1898)

ハンブルク市立劇場に 就任するのは1891年3月26日だが、ハンブルクに移ってから、マーラーの歩みは或る種の確固とした リズムと音調を持つようになる。

ハンブルク時代の最大の出来事は、やはり1894年のハ短調交響曲、 こんにち2番の番号が与えられている交響曲の完成だろう。この、最初に完成した「交響曲」は そのまま翌年12月13日にマーラー自身の手によりベルリンで初演され、最初に演奏された「交響曲」になる。 翌年3月16日には、永らく5楽章の交響詩「巨人」であった、創作時期としてはハ短調交響曲に先行する作品が4楽章の(標題なしの)「交響曲」として同じベルリンで初演される。今日第1交響曲として知られる作品である。これらを以て、今日知られる交響曲作家としてのマーラーがようやく世に現われたことになると言って良いだろう。

一方で、ハ短調交響曲の初演に先立つ1895年の夏は第3交響曲第2部の作曲にあてられており、 翌年に第1部となる第1楽章を完成したマーラーは、1897年にはカトリックに改宗し、ハイネに倣うように 「入場券」を手にして、ウィーン王室・宮廷歌劇場に「凱旋」するのだ。夏の作曲家マーラーの作曲小屋での 創作というパターンが確立するのもハンブルク時代であって、1892年の夏をシュタインバッハで過ごし第2交響曲の第2、第3楽章と「子供の魔法の角笛」による歌曲を作曲したのがその端緒であった。そしてこの時期のマーラーの言行は、その際にマーラーの二人の妹、ユスティーネ、エマとともにシュタインバッハに同行したナターリエ・バウアー=レヒナーによって詳細に記録されることによって今日の我々が知るところとなる。また、ブルーノ・ワルター、オットー・クレンペラーといった、マーラーに直接接し、回想を遺し、更にマーラーの没後の長いキャリアを通じてマーラーの作品を演奏した記録が残っている「弟子」達に出会うのもこの時期である。


移行期(2):ウィーン前期(1899~1901)

ウィーンに移ったマーラーは夏の作曲の場をシュタインバッハからマイヤーニッヒに移し、そこで第4交響曲を 作曲すると、別荘を構えることを決める。すると今度はアルマ・マリア・シントラーが現われ、マイヤーニッヒの 別荘で第5交響曲の完成に立ち会うのは、それまでのマーラーの言行を忠実に記録してきた「マーラーのエッカーマン」こと、ナターリエ・バウアー=レヒナーではなく、妻となったアルマになる。ウィーンへの進出は勿論、 生涯の大事件、マーラーにとってはもしかしたら最大の快挙であったかも知れない。だが、ここではそれより 少し遅れて起きた、作曲の場の移動と、それに呼応するようにして起きたプライヴェートなパートナーの 交替の完了までを「ウィーン前期」と便宜的に呼ぶことにして一区切りとしたい。

実際にはマーラーの生涯に対する適切な展望は、このように幾つかの時点で以て単純に幾つかのフェーズに分割することではなく、 その前後に或る種の相転移のようなものが起きる領域・時期があって、それを経て次のフェーズに移行する、という ものであろう。その前の移行の領域は既に述べた様に、ハンブルク時代に先立つ1888年末から1891年初頭の ブダペスト時代であり、ハンブルク時代の後は、ここで扱うウィーン前期、即ち1897年から1901年までがそうした移行の時期にあたる。 分割をそうした移行期の後に設定してみたわけである。ただしこのやり方は、次の移行期には当て嵌まるかどうかがそもそも判断できなくなるのだが。

なお、この時期についてもう一つ特筆すべきこととして、1901年2月24日の公演後に起きた出血性ショックとその後の手術・療養がある。前の移行期には家族の相次ぐ死に接したマーラーが、今度は自分自身、瀕死の経験をすることになる。そしてこの移行期を証言する作品こそ、第5交響曲なのである。とはいっても、これは作品と生涯を単純に同一視する「伝記主義」などではない。何ならマーラーを作品を生成するオートマトンに擬しても良いのだが、そのオートマトンの側に起きた出来事がその出力に影響しているということであって、この「一人称的な死」への接近の経験は、明らかにその後のマーラーの作品の音調に変化をもたらすことになった。所謂「晩年」は、マーラーの短い生涯の中においてそもそもそれが存在しないという立場を採るのでなければ、より後の時期に位置づけるのが適当だろうが、その上で、マーラーが「老い」というのを意識した時期として、この移行期を位置づけることには一定の妥当性があるだろう。ダンテ的な老年観における下り坂は、ことマーラー自身の主観的な展望においては既にこの時期に始まっていたのではないか。楽壇の頂点に上り詰め、20年も年若い女性を娶ったマーラーは、妻あての手紙に「老グストル」と自署するようになる。それは「子供の魔法の角笛」の世界から、リュッケルト、ゲーテを経て、最後には中国の詩の翻案に至る「東洋的な」世界への移行の開始でもあった。


マイアーニヒ=ウィーン時代後期(1902~1907)

ここでいうウィーン時代後期というのは、ウィーン時代前期の作曲パターンや プライヴェートなパートナーの交替といった移行が済み、アルマを妻として マイアーニッヒで交響曲を立て続けに作曲した時期を指す便宜的な呼び名である。作品としては、移行期に着手された第5交響曲、第6交響曲、第7交響曲、第8交響曲とリュッケルトによる歌曲が含まれることになる。マーラーは、その創作態度もあって、作品を誰かに献呈するということをほとんどしていないが、リュッケルト歌曲集の中で唯一管弦楽による伴奏が残されていない(今日、管弦楽伴奏版として演奏されるのは、マックス・プットマンによる編曲である)「美しさゆえに愛するなら」はアルマに対する私信のような性格を持った作品であり、「第8交響曲」がアルマに献呈されていることは、通常あまり注意を払われることはないようだが、その作品のおかれた社会学的な位置づけを考える上では一定の留意がされてしかるべきではないかと思われてならない。

この時期のマーラーの姿は、妻となったアルマの回想によって記録されている。アルマの回想の事実関係には多くの問題が指摘されており、彼女が自分にとって都合が悪い事実を隠蔽したり、事実としては確認できなかったり、或いは知ってか知らずか事実を甚だしく歪曲したアネクドットの類が数多く含まれることは良く知られるようになっているし、マーラーの書簡すら、一部は彼女が恣意的な編集を施した形態で最初に世に出たことも判明しているが、それでもなお、彼女の主観をフィルターを通したものであれ、二人称的にマーラーと生を共にした彼女の回想には余人を以て替えがたい貴重なものがあると私は考える。


移行期(3?):トーブラッハ=ニューヨークでの晩年(1907~1911)

 1907年以降の「晩年」は、それ自体が一つの 移行期を形成する可能性があり、移行期における「相転移」の後、次フェーズが始まった可能性があると考えられる。だが事実としてマーラーには 次のフェーズはもう無かったし、最後の「移行期」にはあまりに色々なことが起きたから、この最後の時期は「移行期=晩年」として扱うことにしたい。創作の拠点としては、子供の死に遭遇したマイアーニヒを離れて南チロルのドロミテ山中にその場を求め、結局トーブラッハ(現在はイタリア共和国のドッビアーコ、但し、イタリア領ではあるものの、現在も現地ではドイツ語の話者が優位を占めているようである)に落ち着くことになる。

マーラーの晩年は、歌劇場監督を辞任しウィーンを去る頃より始まると考えて良いだろう。 長女の猩紅熱とジフテリアの合併症による死、自分自身に対する心臓病の診断という、 アルマの回想録で語られて以来、第6交響曲のハンマー打撃とのアナロジーで「3点セット」で 語られてきた出来事は、それを創作された音楽に単純に重ね合わせる類の素朴な 伝記主義からはじまって、これも幾つものバージョンが存在する生涯と作品との関係をひとまずおいて、 専ら生涯の側から眺めれば、確かに人生の転機となる出来事だったと言えるだろう。 これを理解するのには別に特別な能力や技術どいらない。各人が自分の人生行路と重ね合わせ、 自分の場合にそれに対応するような類の出来事が起きたら、自分にとってどういう重みを持つものか、 あるいはマーラーの生涯を眺めて、マーラーの立場に想像上立ってみて、上記の出来事の重みを 想像してみさえすれば良いのだ。それが音楽家でなくても、後世に名を残す人物ではなくてもいいのである。 逆にこうした接点がなければ、私のような凡人がマーラーの人と音楽のどこに接点を見出し、どのように 共感すれば良いのかわからなくなる。

だが、その一方で、マーラーがそれを転機と捉えていたのは確かにせよ、己が「晩年」に 差し掛かったという認識を抱いていたかについては、後から振り返る者は自分の持っている 情報による視点のずれに注意する必要はあるだろう。マーラー自身、自分の将来に控える 地平線をはっきりと認識したのは間違いないが、それがどの程度先の話なのか、それが あんなにもすぐに到来すると考えていたのかについては慎重であるべきで、この最後の 設問に関しては、答は「否」であったかも知れないのである。もしマーラーがその後4年を 経ずして没することがなかったら、という問いをたてても仕方ないのだが、もしそうした 想定を認めてしまえば、今日の認識では「晩年」の始まりであったものが、深刻なものでは あっても、乗り越えられた危機、転機の一つになったかもしれないのである。丁度30歳を 前にしたマーラーが経験したそれのように。だとしたら現実は、そうした転機の危機的状況から 抜け出さんとする途上にマーラーはあったと考えるのが妥当ではないかという気がする。

要するに、ここで「晩年」として扱う時期は、その全体がブダペスト時代や、ウィーンの前期の ような移行期、「相転移」の時代であったかもしれず、この時期を過ぎれば新しいフェーズが 待ち受けていたかも知れないのだ。だが、実際には次のフェーズはマーラーには用意されて おらず、移行の只中で、それを完了することなくマーラーは生涯を終えてしまったように 私には感じられる。「嘆きの歌」、第1交響曲(当時は5楽章の交響詩)、第5交響曲がそれぞれ 移行の、相転移の終わりを告げる作品であったように、第10交響曲がその終わりを告げる 作品であったかも知れないが、第10交響曲は遂に完成されることはなかった。 

(2008.10.11 初稿, 2025.7.16加筆・改訂)

2025年7月4日金曜日

シュニトケから見たマーラー(2025.7.4 更新)

  シュニトケにはマーラーの初期の習作、ピアノ四重奏曲断片に基づく作品があるけれど、シュニトケであるかどうかより手前で、私はマーラーの作品の一部を引用したり、素材として利用する(リミックスであれ、映画音楽としての利用であれ)こと(加えて言えば、マーラー自身を映画の素材とすることも含めてだが)に対しては全く関心がないので、そういう意味合いで他のマーラー・ファンなら感じるであろう結びつきを意識することはなかった。勿論、シュニトケの場合には彼のある時期を特徴づける「多様式主義」がそうした引用や様式的な模倣といった「手法」を意識的に利用しているではないかと問い返すことが可能だし、マーラーの側では、では習作のピアノ四重奏断片ではなく未完成で遺された第10交響曲ではどうなのかといった問いは成立しうるだろう。(第10交響曲の補作の中には、補作者本人の言い分とは別に、私の主観では「補作」で許容される限度を逸脱しているように感じられるバージョンもあるわけだし。)

 更に言えば、マーラーこそ件の「多様式主義」の先駆であるというような主張すら出て来かねないだろう。この最後の点については、私見では一応は両者は区別可能だし、区別されるべきものであるように思われるのだが、実はこの点は、私が最初に実演で接して以来、シュニトケに対して感じていた違和感のようなものに直接関わってもいるようだ。マーラーを比較対象として用いれば、マーラーが行った民謡や行進曲の模倣を始めとする様々な「卑俗」と言われもする音楽様式の取り込み、ファンファーレや鳥の鳴き声の素材としての利用、Es管のクラリネット、スコルダトゥーラのヴァイオリン、ポストホルンといった、所謂「芸術音楽」以外の他のジャンルとの結びつきを持つ楽器、更には鐘や鈴、カウベル、ハンマー、ルーテ、調律されていない金属の棒のような特殊な打楽器の利用はどうなのか、ということになるだろう。更には、例えば古典派の音楽が民謡を素材とするような場合、典型的には変奏曲の主題とするような場合とは異なって、それが伝統的な「交響曲」というジャンルにとって異質であるという意識をもって、つまり様式的に変換してから取り込むのではなく、様式ごと素材として持ちこむことによって或る種の「異化」を企図したとさえ見做されるのであるから、シュニトケの立場との区別は付け難い面があることは否定できないだろう。にも関わらず私には、両者には素材としての扱い方に感覚的にはっきりと区別できる違いがあるように感じられる。程度の問題といってしまえばそれまでなのだが、この点は、恐らくマーラーの音楽への適用が盛んな文学理論におけるナラトロジーの適用の是非の問題と密接に関わっているのではなかろうか?そうした素材の取り込みが、言語記号との類比を可能にするようなメタな操作であり、従ってそこには記号論的な概念、例えばコノテーションのような概念が適用可能なのだというようには、ことマーラーの場合には思えないのである。裏返せばシュニトケの場合には、そうした適用が可能な場合があるかもしれないと思う、ということになるだろう。

 勿論これは、私がマーラーが生きた100年前のオーストリア=ハンガリー帝国に生きているわけではなく、そうした素材の元々の文脈の生々しさから疎外されているからという事情が関わっているに違いないし、一方のシュニトケの場合であれば、場所の隔たりはあれど、同じ時代の一部を共有し(大まかにはシュニトケの後半生30年間と私の前半生30年間が重なっているわけだから)、しかも文化的にはいわゆる「国際化」が遥か極東まで及んで均質化が進んだ時代ということもあり、その素材の持つ文脈の生々しさの度合いが遥かに強いことは否定できない。だが、例えばシュニトケの「レクイエム」の「クレド」におけるリズム・セクションの扱いが私のように(能楽や義太夫節を除けば)他のジャンルをほとんど聴かない人間にとって強烈な違和感をもたらすのは、そうした素材が、取り込まれた側の文脈の中でどのように用いられるかに拠っているように思われるのである。

 つまりマーラーの場合とシュニトケの場合とを比べると、素材の機能の仕方の向きが異なるように思えるのだ。マーラーの場合それは世界を構築する素材であり、素材は取り込まれる前の文脈を交響曲の中に持ちこむことによって、世界の構成要素となり、新しい層を産み出す働きをしているのに対して、シュニトケの場合には、持ち込まれた素材は、予めある文脈と競合し、攪乱する働きをしているということになるだろうか。マーラーのポストホルンやファンファーレは、それが素材として既成のものであるとしても、マーラーの音楽の脈絡そのものの構成要素であるのに対し、シュニトケにおける様式の混在は、基層の音楽の脈絡の中に、それとは異質のものとして、いわばメタレベルで「音楽というもの」として侵入するかのように感じられることすらある。同様にして、素材となった音楽は、その様式の由来となったもともとの脈絡では受ける筈のない加工や変形を、いわば外部から、同様にメタレベルの操作として受けることになる。映画音楽において音楽がモアレのように朧にかすんでしまったりフェードアウトしたりするのは、音楽自体の動力学によってではなく、音楽を「利用する」側のメタレベルでの要請に基づくものだが、そういう意味で、シュニトケの場合には音楽が恰もオブジェのように外から操作されてしまう(それが音楽的主体によっては受動的な経験であるかのように)といった印象がある。マーラーの場合にも第4交響曲における擬古典様式についての有名なアドルノの指摘があるが、これは、仮に様式模倣であることは認めたとしても「引用」ではないし、アドルノの「昔…があったとさ」という言い方は、強いて言えば聴き手たるアドルノの恣意的な読み取りに過ぎず、控え目に言ってもミスリィーディングであって、これは第1交響曲や「さすらう若者の歌」の民謡調であったり、より直接的には第3交響曲の中間楽章、更には当初は第3交響曲のフィナーレであった第4楽章のフィナーレの様式との脈絡で考えられるべきであろう。それがフェイクであるというのなら、マーラーの初期交響曲はその総体がフェイクであるということになりかねないし、実際にはフェイクに感じられた音楽は、それが展開するに従って、フェイクであるという最初の見かけの方がフェイクであることがわかるのではなかったか。かくしてこの最後の場合もまた、ポストホルンやファンファーレと同様にマーラーの音楽の脈絡そのものの構成要素に他ならず、それが文化的・社会的な「記号」として機能するというのは、マーラーその人の作曲とは一先ず無関係なことである。そのことは既に同時代にあって、マーラー自身がこの作品が「誤解」されることに酷く傷ついたことからも窺えるだろう。序でに言えば、してみるとそうした、聴き手の都合による「勝手読み」は、マーラーの同時代以来、常に付き纏ってきたものであり、マーラー・ルネサンス以降の時代固有の現象というわけではないようだ。

 シュニトケにおいての方がマーラーよりも音楽が恰も記号であるかのように操作・編集される度合いが高いことは感じられるし、そこで音楽は、自分自身の内在的な論理によって展開するのではなく、外在的な要因によって編集される対象の如き様相を呈している。或いは同じことを逆向きに述べることになるのだが、主体の回想そのものが音楽化されるのではなく、主体の回想の中に流れる音楽が、回想の音楽化の裡に二次的に埋め込まれて響くかのようなのだ。かくして古典派の音楽が、定型的な韻文、或いは語り方自体も高度に様式化されている昔話や民話のような定型的なプロットを備えた叙述に構造的に類比できるとするならば、マーラーは、アドルノの言うように「意識の流れ」的な小説の叙述に構造的に類比できるのに対し、シュニトケは、実際に彼がそのための音楽をたくさん作曲した映画、ないしは映画をノベライズしたものに構造的に類比できるように思われる。

(そのことは、所謂「映画的」な手法ということになるのであろう、フェード・アウトの技法のような音響的処理に関する両者の立ち位置の違いとなって表れていると私には感じられる。「映画」以前に生きたマーラーの音楽におけるフェード・アウト(例えば、第3交響曲第1部の展開部末尾にいきなり舞台裏で、舞台のオーケストラのテンポとは全く別のテンポで突然鳴り出してはしばらくすると遠ざかるようにディミヌエンドしていく小太鼓、あるいはリゲティが指摘したことで有名な、第5交響曲第1楽章末尾の、トランペットからフルートに音色が変化することが、音源があたかも遠ざかって音が霞んでいくかのような効果を出している箇所が挙げられるだろう)は、敢えてそういう言い方をすれば「自然音」の様相の一種であり、実際にサウンドスケープとして、マーラーが演奏会場の外で経験した音の知覚に由来するのに対して、「映画」以降に生きたシュニトケの場合には、それは音楽に対して後から加えられたエフェクトであり、それは現実の音知覚の経験ではなく、「あたかもそうであるかのように」後から擬装されたもの、フェイクであり、音楽に対して「後から」加えられる「効果」なのだ。音楽が「本当に」近づいたり遠ざかったりすることはなく、そのためにわざわざコンサートホールの舞台裏や離れたところに楽器が置かれて、「生演奏」でそのシミュレーション=世界制作が行われることもない。寧ろ、全く別の文脈で、全く別の目的で為された、ラッヘンマンのAccantoにおいてスピーカーから聞こえてくるモーツァルトのクラリネット協奏曲のようなケースに繋がっていく側面を有するように思われるのである。仮にアドルノの言うことを認めて、マーラーの第4交響曲が「昔々、交響曲というものがあったとさ…」であるとしても、マーラーの音楽は紛れもなく「交響曲」そのものであり、例えば全く異なる歴史的・文化的伝統に連なる、地球の反対側に住む子供が一世紀後に、その歴史的文脈に対して無知なまま無媒介に接した時に、それは端的に「音楽」であり、「交響曲」であるのに対して、シュニトケの交響曲はそうではなく、何かかつてあったものの残骸、遠いこだまを聞いていることを意識せざるを得ないという点に端的に表れていると私には感じられる。マーラー自身は、新ウィーン楽派以降の意識でその音楽に接するアドルノのように自分の音楽を捉えていない。寧ろそうしたアドルノの態度はシュニトケのそれに通じているのだ。)

 要するに、両者の間には音楽によって構築される世界のビジョンに対する認識の違いが横たわっているのではなかろうか?シュニトケも交響曲というジャンルの作品を残しているが、それらを聴くと、最早マーラーのような交響曲を書くことはできないという認識の下にあることがはっきりと読み取れる。シュニトケにとってより相応しいのは寧ろ協奏曲という形態ではなかったかと思えるし、実際に彼はかなりの数の様々な協奏曲を書いているが、それは名称だけからは同じに見えても、かつての新古典主義の作曲家達が量産したそれとは全く異なった音調と脈絡(のなさ)を備えている。いや、この点だけとれば、交響曲だってそうなのだが、コンチェルト・グロッソにせよ、ソロのコンチェルトにせよ、そうしたフォーマットが借り物であることが明らかである一方で、その内実自体もかつての文脈からそのまま借用するのではなく、いわば換骨奪胎することによって世界認識のあり方の例示たりえているように思えるのだ。

 もう一つ見逃せない点は素材の扱いで、未だアコースティックの時代に生き、ようやくプレイヤーズ・ピアノ(ピアノ・ロール)には接しても、演奏の録音には関わることのなかった(従って、大指揮者マーラーの演奏記録は遺憾ながら一つとして残っていないのだが)マーラーとは異なって、シュニトケが録音・再生・編集テクノロジーの浸蝕を蒙っている点は直ちに見てとれるであろう。シュニトケの態度はこちらについても或る意味では誠実なものであったと言える。即ち、そうしたテクノロジーの侵入を恰もなかったかの如くの「昔ながらの」音楽を書くのではなく、素材の扱いの点で、はっきりと知覚がテクノロジーの影響を受けて変容していることを示すような手法を用いている。それが時としてその作品にいかがわしさやフェイクのような印象をもたらし、シニカルで時として絶望的な印象を与えることにもなる。正直に言えば、それ故にシュニトケの音楽を聴くことは決して楽ではなく、寧ろ抵抗感さえ覚えることも多いのだが、前段において述べた素材の機能の仕方の向きの件ともども、それが「現実」の反映であることは否定すべくもなく、テクノロジーの都合良い面のみを見て、後は恰も存在しないかの如くに過去の追憶に耽る態度に比べれば、仮にそれが時として顰蹙や反発を買うにしても、シュニトケの音楽の(アドルノ的な意味合いでの)批判的な意義は疑うべくもないものに思われる。マーラーの音楽と同様に、シュニトケの音楽も「意識の音楽」といって良いだろうが、その意識は、マーラーのそれに比べて、テクノロジーの侵入を受け、支配されていて、結果として知覚そのもののあり方が変容してしまっているのだが、音楽のそうした相貌は我々が今日まさにその中で生きている現実を映したものなのだから。これはつまるところ、ベルナール・スティグレールの言う第三次把持の侵入の度合い、特に録音・再生・編集のテクノロジーによる記憶の外在化=制度化の反映の有無の違いということになるだろう。繰り返しになるが、この点で時代を画する大指揮者でもあったマーラーが指揮した演奏の録音が全く残されておらず、辛うじてピアノ・ロールに記録された交響曲第5番第1楽章や第4交響曲第4楽章、幾つかの歌曲の演奏が残っているだけであることは示唆的に感じられる。その一方で「大地の歌」の作曲に関して、中国の音楽を記録した蝋管を聞いたというエピソードもあり、マーラーは、録音・再生・編集のテクノロジーによる記憶の外在化=制度化という点において、辛うじて分水嶺の手前に位置づけられる存在なのである。第三次把持を成り立たせる媒体としては記譜法とシステムと言語的伝承に限られていて、それ以外の伝承は専ら記憶に拠るという点では従来と同様とは言え、マーラーの時代において既に、音楽は同時代的に消費されるばかりのものではなく、時代を隔てた過去の音楽の再発見が行われ、コンサートのプログラムも歴史的意識に基づいて組み立てられるようになった(マーラー自身が、バッハの管弦楽組曲の抜粋に基づく編曲を行い、演奏を行ったのもその一例と見ることができるだろうし、第7交響曲におけるバロックの組曲形式への参照や、第8交響曲におけるヴェネチアの二重合唱の様式の参照も同様に考えることができるだろう)が、録音メディアが発達し、演奏が一回性のものではなくなり、同一の演奏を好きなだけ繰り返し聴くことができるようになり、更には同じ作品についての時代を異にする様式の演奏記録を比較できるような状況、更には、「自然の音」さえも記録され、編集・加工されて再生されるようは状況は、伝統や自然に対する意識を全く異なったものに変えてしまわずにはおかない。

 因みにマーラーの音楽が「意識の音楽」であるという見方は、これまたアドルノがマーラーに関して述べた様々な観点に通じるのだが、それ故両者の間に存在する断絶の方に対しても目を瞑るわけにはいかないだろう。そもそもシュニトケ本人がマーラーに関して強い共感を表明する一方で、相違点として『さすらう若者の歌』や『子供の魔法の角笛』のような民謡のような作品を書く能力の有無を挙げているくらいであって、これは正しくシュニトケが置かれた環境のマーラーとの違いに由来するものであろうし(言ってみれば、それが佯りのものであるかどうかは措いて、シュニトケにはマーラーにはあった「自然」が最早存在しないのだ)、何より象徴的なのはファウストに対する姿勢の違いであろう。シュニトケはマーラーとは異なって、ゲーテのファウストではなく(それを彼は「理想化された」と見做しているようだ)、伝説の描く魔術師としてのファウスト、悪魔に魂を売ったファウストに向かうのだが、それは彼自身も述べているように、世界に対する認識、人類史に対する展望の違いに根差しているのである。

 だがしかし、それ故に逆説的にシュニトケは、マーラー的な精神のある側面の、彼の生きた時代における後継者であったということはできるだろう。例えばシュニトケ自身は高く評価しているらしいシルヴェストロフの交響曲はしばしば「マーラー的」と言われるようだが、私見ではそれは寧ろ、マーラーを受容する現代の消費者の態度との共通性を示唆するものでこそあれ、マーラー自身の志向との共通性を些かも意味していない。クレーメルだか誰だかが件の交響曲を「キエフに死す」と綽名したらしいが、さもありなん、それはヴィスコンティの映画『ヴェニスに死す』がマーラーを「利用する」姿勢との共通性はあっても、マーラーその人とその作品の志向とは凡そ懸け離れたものであろう(当時、マーラーを知る人々がどれだけ激しくヴィスコンティの挙措に対して反撥したかは既に忘却されてしまっているかのようだが…)。ハンス・マイヤーはマーラーのテキストの使い方を巡って彼を簒奪者であると批判したが、『ヴェニスに死す』におけるアダージェットの「読み替え」こそ、簒奪という形容に相応しいものに私には思われる。たとえそれが、第5交響曲自体が持っているかも知れない側面、クレンペラーがそれをもって作品の演奏を拒絶するような契機に通じるところがあるかも知れないにしてもなお、そうであると考える。

 一方、シュニトケの方はと言えば、晩年に近付くに従って徐々に「多様式主義」の装いを脱ぎ捨てて行ったように見える。だが、そこで残ったものは、実は「多様式主義」の作品の中にも基調の響きとして流れていて、それゆえ外からやってくる素材に対して抵抗し、文脈の競合を起こし、或いは逆に素材に攪乱されるものではなかったか。シュニトケの音楽にほぼ一貫して流れている暗澹とした音調は、それが借り物の様式を身に纏うかどうかに関わらず、外部からの暴力によって時としてシニカルな、時として絶望的な、悲劇的なトーンを帯びる点でもマーラーと軌を一にするかに見える。マーラーがそうであるように、シュニトケも「世の成り行き」から身を引き離し、閉じ籠もることはしなかった(シュニトケが、シルヴェストロフについて「自分に投げつけられる「日々の石」を欠いている」と述べつつ、彼は「人間は石を投げつけられる必要がある」と述べていること、そしてシルヴェストロフの側はともかく、シュニトケ自身の側についてはそれが単なる言葉の上でのことではなかったことを思い起こそう)。ショスタコーヴィチのそれと比較されることの多いその後期様式についても、マーラーのそれとの比較は興味深い課題だろう。ショスタコーヴィチは無神論者であったようだが、シュニトケはそうではなかった。「クレド」を書けないからという理由で「ミサ曲」を断念したマーラーは、実はこの点では両者の中間に位置づけられるのではないか。(2019.11.2-4初稿・公開, 11.16加筆修正, 2025.7.4 加筆)