2019年6月29日土曜日

アドルノのウィーン講演で言及されている「ブルーノ・ワルター宛の手紙」についての私見

(…)音楽によって世の成り行きを有意味なものとして確証すること―リヒャルト・ワーグナーの悲劇の形而上学も含めて、かつてはこれはいかなる例外もあり得ない公認の習慣だったわけだが、それがもはや不可能であるという形而上学的否定性の経験が、第8交響曲以降のマーラーの意識にのぼってきた。これを説明してくれるのが有名なブルーノ・ワルター宛の手紙である。〔『マーラー書簡集』ヘルタ・ブラウコップフ編、須永恒雄訳、法政大学出版局、2008年、307頁所収の音楽が味わうのは感じ考え呼吸し悩む人間全体である、しかしそれは画家となることによってではなくあくまで音楽家としてであると力説する書簡を指すと思われる。ただしこれはアドルノが言う第8ではなく、第6交響曲の完成後の文章である。〕あらゆる音楽の足元で大地が揺らぎ始めた表現主義的状況についての、これは最も初期の証言である。マーラーを聴いた際に真に秩序好きの耳にはカオスのように響くものは、ここから生じてくる。彼の音楽は何ら保証された意味を持ってはおらず、またベートーヴェンのように上位の動的かつ建築的な論理によって意味を現前するものとして放電しようともしない故に、マーラーは無防備かつ何の覆いもないまま、個々の衝動に身を任せるしかない。低いものが作曲の層の一つとして入ってくるのを許した彼は、下から上へ向けて作曲する。個々の領野を時間軸上に層のように積み上げることによって浮かび上がってくるそれ以外、この交響法はいかなる全体性もものにすることはない。全体性に文句なしの優位が与えられていたウィーン古典主義音楽の理想を、演劇のそれに譬えることが出来たとするならば、マーラーの理想は叙事的であって長編小説に近い。(…)
アドルノ「ウィーンでの記念講演」より(『アドルノ音楽論集 幻想曲風に』, 岡田暁生・藤井俊之訳, 法政大学出版局, 2018 所収)

モノグラフと並んでマーラーに関連する基本文献の一つと言ってよいマーラー生誕100年を記念したウィーン講演とその補足たる「エピレゴメナ」を収めたアドルノの音楽論集『幻想曲風に』(Quasi una fantasia, 1963, 全集第16巻, Musikalische Schriften I-IIIにIIとして所収)全篇の待望の翻訳が出版された。永らくウィーン講演のみ、酒田健一編『マーラー頌』(白水社, 1980)所収の編者自身による翻訳で接することができたが、これでようやく正副2篇を正確な日本語で読むことができるようになった点は勿論のこと、加えて既訳では一切の訳注がなかったものが新訳では豊富な訳注が埋め込まれており、元々が講演であるという事情もあってか原文には注釈がないことを思えば、一介の愛好家にとっては大変に有難く、その価値は計り知れないものがある。

ところが早速一読してその訳注について一点だけ気になった点があったので、備忘のためにここに私見を記しておきたい。それは上に引用したパラグラフに含まれる「ブルーノ・ワルター宛の手紙」に関してである。

注によれば、邦訳のある1996年版書簡集の334番、1904年夏に書かれた第6交響曲の完成を知らせる書簡が該当するとされている。確かにこの書簡は、アルマが編集した1924年の書簡集にも(日付同定の錯誤はあるけれど)収められており、それなりに「有名」かも知れないが、「第8交響曲以降」という言葉を文字通り受け止めた私が反射的に思いついたのは、1908年にトーブラッハから出された、これはマーラーのファンなら知らぬ者はいないであろう手紙(1996年版書簡集の394番および396番)であった。訳注でもわざわざ断わられている通り、「第8交響曲以降のマーラー」の「形而上学的否定性の経験」というアドルノの文章と照らした時、334番の書簡を思いつくのは難しく、正直に言って、ここで参照されているのがそれであるとは素人目にはなかなか得心することが難しく感じられる。

確かにアドルノの文章では、文脈としては「音楽」が主題となっており、私が上で引いた394番、396番の書簡は音楽そのものがテーマにはなっておらず、アドルノの言っていることとの間に乖離がないとは言えないかも知れない。更に言えばアドルノは手紙を単数で書いているから2つというのは不適切で、どちらかを選ばないといけないというのもあるだろう。そうなると一体どちらがより適切かという問題も出てくることになる。1909年7月18日の日付を持つ396番の書簡は、個人的に思い入れが深く、以下のようなコメントを認めたこともあるくらいなので、個人的には396番の方を採りたいと思うけれど、何ら根拠はなく感覚的なものに過ぎないことを認めざるを得ない。

「ブルノ・ヴァルター宛1908年7月18日トーブラッハ発の書簡にあるマーラーの言葉 」
https://gustav-mahler-yojibee.blogspot.com/2014/09/1908718.html
(文章執筆当時は1924年版と1979年の英訳しか手元になく、書簡の番号は両版に従っている。)

とはいうものの、アドルノもあくまで「形而上学的否定性の経験」の証言者として手紙を参照しており、従って、マーラーにとっては、自明であった世界が崩壊し、一からやり直さないとならない経験から間もない、まさに第8交響曲以降、『大地の歌』が産みだされる時期の証言であることをもって、旧訳で永らく親しんできた私はこれまでずっと上記の手紙のいずれかが念頭にあるものとばかり思ってきたので、訳注を目にして大変に驚いた次第である。

ちなみにウィーン講演のまさにこの箇所でも出てくる「形而上学の不可能性」は、モノグラフでは、それが最後の形而上学となると敷衍され、「長いまなざし」の「大地の歌」を論ずる箇所に出てくるものでもあり、まさに第8交響曲以降というここでの文脈にも適合している。

ただし、訳注の指摘には首肯できる部分も多々あることには注意が必要であろう。まずもってこの文脈は、段落の冒頭からそうであるように「音楽」について語っているわけで、従って、あくまでも個人的な生の経験を述べた書簡が文脈からは相応しくないということで排除されたとして、実証は措いて本質の面においてはその選択は納得が行くものであろう。寧ろ、アドルノ本人よりも訳者の方が引用において適切であろうとしているという、実証性の観点からすれば何とも逆説的な事態が生じているのだと感じられなくもない。

形而上的フォーマットの不在、或いはカオスのように響くもの、がいわゆる後期作品にのみ当て嵌まるものなのか、それは第6交響曲を含む中期にも該当する、とりわけても否定性の経験ということでは334番書簡で言及されている第6交響曲こそが相応しいのではという見解は勿論、更に言えば第3交響曲にような角笛交響曲時代にこそ寧ろ相応しいという考え方すら考慮に値するだろう(だから、ヴァルター宛書簡ではなく、バウアー・レヒナーの証言するあの第3交響曲のポリフォニーを思い浮かべたとしても不思議は無かろう)。確かに楽式論上の「破格」に関して言えば、伝統的なものに無意識に依拠していた初期の方こそ見てとり易く、なおかつ、第4交響曲を経て、第6交響曲のような、一見したところ古典的な装いの作品に一旦到達するというプロセスがあって、だがその内実にこそ「カオスのように響くもの」が存在し、「個々の領野を時間軸上に層のように積み上げることによって浮かび上がってくるそれ以外、この交響法はいかなる全体性もものにすることのない」という事態は、兆候としては後期を待たずして既に至るところで生じているという見方には一定の妥当性を認めざるを得ないだろう。

だが個人的には、最早ソナタ形式が別のものにとって代わられていて、従ってラッツを初めとする楽曲分析において分析者の数だけ異説が並ぶという状況を呈する第9交響曲の第1楽章のようなケースこそを、『大地の歌』の歌曲と交響曲の融合のユニークな実験を経て、形而上学の不可能性が最後の形而上学となった事例として考えることはできまいか、そこではまさに「唯名論的」に、形式が下から上へと鍛造されるのが、ここにきてようやく、上まで届くようになった、というような見方ができまいか、というようなことも考えずにはいられない。

一方で、「非人称的」とシェーンベルクが喝破した第9交響曲まで至れば、そしてあの、どこから響いているのか最早わからないような第10交響曲を併せて、最早それは「破格」と呼ぶのが適当な何かではないし、(数理的な定義上のではない、伝統的な意味での)カオスですらなく、別の未聞の秩序が備わっているという点を重視すれば、そこに到達するまでのプロセスの、とりわけても初期から中期の段階にこそ相応しい言い方をアドルノがしているという訳者の考えはもう一度、全く正当なものとも思えるのである。

ただし上記の引用の末尾でも述べられている小説との類比に基づく物語論的分析(それはアドルノの衣鉢を継ぐとしばしば自称するのだが)も含め、その後の研究でその「未聞の秩序」が解明されたというには未だ程遠い状況にあると私は考える。あくまでも言語を媒体とした記号論ベースの文学理論を音楽に適用することの困難と不毛は既に明らかであるし、さりとて間テキスト性やジャンル間の境界すら乗り越えようとする類の「ポスト・モダン的」な分析も、所詮は音楽の構造的の規範からの偏倚、伝統からの差分を文化的・社会的な文脈における「意味」(結局それは言語化された挙句、陳腐な「標題」と変わるところがないものに過ぎない)に関連づけることに依拠しており、アドルノがモノグラフ冒頭で喝破して見せた桎梏から少しも遁れられていない。

寧ろアドルノが言い当てようとしたマーラーの音楽の「唯名論的」実質とそれを支える様々な技法は、従来の作曲上の規範としての音楽理論を一旦括弧入れして、データ自体から浮かび上がる固有の力学を読み取ることによって音楽の形式的な構造を見出すことによってこそ解明しうるのではないか、そのようにしてのみ「キャラクター」や「カテゴリ」のようなアドルノのアイデアを継承、発展させるうるのではないかというのが現時点での私の立場である。アドルノの立場は一見したところパラドクシカルであり、アドルノ自身が用いた「円積問題」の譬えをそのままアドルノ自身の方法に送り返すこともできるだろうが、必要なのはパラドクスを弄んで空疎なレトリックを氾濫させることではなく、パラドックスの由来を解きほぐし、その構造を解明することであるに違いない。比喩を更に推し進めれば「超越数」の発見に相当するものこそが今求められていることなのではなかろうか。

繰り返しになるが、かくしてここではアドルノ自身が言葉の歪みや曖昧さにやや足を取られていて、言葉で語られた次元に忠実たろうとすれば、実は訳者の解釈の方が(もしかしたらアドルノ本人よりも)筋が通っている、というようなことが起きているのかも知れない。

とはいうものの、アドルノ自身が何を想定していたかという(もしかしたら上述のような議論に比べたら些末かも知れない)実証に限定すれば、1996年版書簡集の394番および396番、特に1908年7月18日トーブラッハ発の書簡が適当に思われるというのが私見であることに変わりはない。ウィーン講演と「エピレゴメナ」の2篇を新訳で読まれる方々の参考になればと思い、備忘を兼ねてここに記す次第である。(2019.6.29初稿, 10.20追記の上公開)


2019年6月27日木曜日

マーラーにおける「うたう」ことについて:ある音楽学者への手紙より

(…)

一方ロマン派というのは或る意味では、「うたう」ことへの回帰といった面があるのでは、と思えるのです。といってもそれは跛行的なものに見えます。他の作曲家について何か断定的なことがいえる程の知見もないので、またもやマーラーを例に出させて頂きますが、この場合、外面的に目立つのは、交響曲への声楽の導入です。但し私がマーラーに「うたう」ことへの回帰を見出すのは、そこではなく、寧ろ器楽が担う旋律、長く長くひき延ばされて白熱するまでになる旋律、ある楽器の「鳴らない」音域をあえて弾かせることによる効果、特殊奏法を含めた音色の拡大、あるいはオクターブを超えるような跳躍音程といった、個々にはマーラーだけの特徴というわけでもないかも知れない、しかもそれ自体は寧ろ人間の声からは離れていくともとらえうるベクトルに、「うたう」ことへの回帰を感じてしまうのです。これは一面で、アドルノがマーラーの「表情豊かに」に関して語っていることと重なるのだと思います。

でもマーラーの「うたう」ことへの執着はそれに留まらない。マーラーは線的な、対位法の作曲家、但し伝統的なカノニカルなテクニックに秀でたというのではなく、もっと土着的にというか、体質的に多声的な作曲家で、これはマーラーが後期ロマン派の、肥大しきった自我の自己耽溺と見做されたことを思えば奇妙ですらあるのですが、寧ろ、マーラーが好んだドストエフスキーの小説のように、バフチン的にポリフォニックだと感じます。しかもそのポリフォニーは、器楽的というよりは「うた」の交錯といった印象が強く感じられるように思います。

いや、もっと素朴な印象に立ち戻れば、まずマーラーの主題は時にあざとさを嗅ぎ付ける人がいる程までに素朴に「歌謡的」で、うたうことができる。そればアリアのように、或いはロマン派の歌謡的な楽章のような意味で「うたえる」わけではないのですが、それでも音楽の脈絡は、物語がリニアと言われるのと類比的な意味で筋が追える。実際には、それは古典的な図式を逸脱して、しかもポリフォニックに入り混じるのですが、それでもトータルな印象として、マーラーは「うたう」ことができるように感じてしまいます(かなり長い楽章を頭の中でリプレイできるのも、そのことが与かっているような気がします。自己を物語として構成する「意識」の構造がそこに潜んでいるように感じます)。

時としてその旋律は通俗的で、高尚な聴き手を鼻白ませるもののようですが、極東の異なる伝統に属する、だが今や表面的には相当程度雑種的な文化に浸かり、西洋の音楽に魅了された子供にとってはそんなことはおかまいなしだったと思います。例えば第7交響曲ではティンパニすら動機とか旋律の断片くらいは「うたって」しまう。更には調律されていない打楽器も含めて普通には「うたう」属性が付与されないものまで、悉く「うたう」存在となってしまうように見えます。神話の世界では動物と人間が自由に交換可能な存在だったりしますが、別に第3交響曲の「森の動物たち」でなくても、とにかく「うた」が累積し、充満して溢れて流れていくように感じられます。まさに「自然」が、「世界」が「うたう」のです。

マーラーにおいて歌っている主体はマーラーじゃないし、それは肥大したロマン派的主体の自己中心的な独白という(もはや過去の?)通念とはあまりに隔たっていると思います。たとえ標題としては撤回され、陳腐なものであるとしても、創作現場の状況証拠の如きものとして「Xが私に語る」とマーラー自身言っています。(撤回された標題の意味に振り回されるより、そこに構造こそを読み取るべきではないかという気がしてなりません。)

それは(シュトックハウゼンがそう言ったように、かつては十全な形で存在しえた)「人間」なのでしょうか?そういう意味では、マーラーの「人間」は、十分に畸形的だし、分裂もしていて、ただ、その多様性の広がりを横断する能力において際立っていたという方が適切ではないか、と言う気がします。そしてその横断する能力、多様化する能力において、それは「人間」を超えている、というか「人間」から「非人間」へと広がっていくことを惧れないし、厭わない。マーラーの自然は(「庭」に例えた作家がいましたが)、制禦され、囲い込まれた公園などではなく、寧ろ、人類学的・民俗学的対象、ただし、エスノサントリスムが暗黙の裡に依拠できる「出自」を持たない、雑種的で根無し草の、「佯りの」「ありえたかもしれない」民族のそれと見立てるのが最も適切に感じられます。

マーラーの時代は、観光というものが確立し、リゾード開発がされ、サイクリングが流行りといった時代だったようだし、都市計画による都市の再開発の時代でもあったようです。でも、そういう時代をマーラーに読み込むことは私には興味がないですし、マーラーが生きた土地を訪れたことのないからか、私にとって、マーラーの音楽は、例えば自分が子供時代を過ごした都市の郊外の田園地帯の風景と結びついてしまったりしています。ファンファーレが鳴るわけでもない、レントラーが聴こえるわけではなく、学校のチャイムと、かなり簡略化しながら未だ存続している地域の祭があって、でも土地に土着していない根無し草にとって、それは「自分固有」のものでは全然なく寧ろ自分を疎外するものであることを皮膚感覚で感じているという状況で、100年前の異郷の音楽が些かもエギゾチックな側面なしに「風景」に馴染んでいたように思います。特にマーラーの場合は「大地の歌」の中国が厄介な筈で、いわば反対側から見ている筈なのに、万葉集とともに李白や杜甫の詩を読んでいた子供にとって、あのいかがわしい東洋趣味は、勿論、気付かないはずなくても、それゆえに拒絶の対象となることはなかった。子供は未開人のように、本来ある筈の距離感などお構いなしに平気で横断してしまうのかも知れません。

(その一方で、マーラーの音楽に対してそういう姿勢でいながら、それが属する伝統におけるいかがわしさ、通俗性とか、感傷性とか、悪趣味といったものに対しては無頓着で、それが本来の文脈で聴かれたようには、決して聴いていなかったし、実は今なおそうに違いないことは認めざるを得ないのですが、そうしたパースペクティヴの錯誤があってなお、その音楽に惹き込まれてしまうのは何故なのか?そこには恐らく何か「構造」が潜んでいて、それが遭遇を可能にしているのではないか、というように思えてならないのです。そもそも、極東の異なる伝統に属する100年後の子供にとって、他者に過ぎない音楽とそれ以外の出遭い方が出来る筈もないと思います。論理的には出遭いは不可能で、誤解や妄想、思い込みの類に過ぎない筈なのです。だけれども、そうした論理に逆らって抵抗する何かがある。それは自分でひねり出した屁理屈であるというより、向こう側から音楽と一緒に降ってきてしまった何かで、だから寧ろ、そこにこそ何かが潜んでいると考えるべきなのでないかとも思えるのです。)

だけれどもマーラーその人もまた、そういう子供のような存在ではなかったか、とも思うのです。そして、そうしたあり方、世界認識のモードのようなものと「うたう」ことに対する姿勢とに、何某か関連があるように私には思えるのです。民俗的なものに対するマーラーの屈折した、或る種疎外された関わり方は、一見したところ、そうした民俗をよそよそしいもの、自分にとって他なるものとして捉えることに繋がるように見えるが故に、マーラーを週末の民俗学者、自然観察者に見立てるといったことも為されてきたようですが、私見では、それは転倒していて、寧ろマーラーの音楽は人類学や民俗学の対象の側にいる他者のように感じられます。マーラーを通して、他者との出合い方を、新しい認識の様態を学ぶ、というのが私のマーラー受容の端的な要約のような気もいたします。

レヴィ=ストロースはオランダの人類学の構造主義について、オランダ人が構造主義者であったと同時に分析対象のインドネシア人が構造主義者であったからだ、といったことをどこかで言っていたと記憶しますが、人類学も、そうした地平にあるものとして捉えるのであれば、必ずしも、前のメールで書いたように「考古学」的と捉えることもないように思えます。それは共時的な構造の分析でもあり、しかもそこには過程が入り込んだ、動的で不均衡な過程的構造とでも言うべきものであって、そこでは分析するものと分析されるものが入れ替わることもありうるような分析のあり方としてみれば、マーラーの音楽は、人類学が分析の対象とする資料体と見做してしまっても差支えない。そこから分析によって読みだされるものは、だけれどもどこかで、分析をしている対象の側からこちら側を分析することによって、自分の構造の分析に(も)なっている。そしてそれは「うたう」ことが「人間」の(もしかしたら超越論的な)基盤であるからこそ成立している、というような関係にあるのではないかというように思うのです。人文学的な対象はどこかで自己参照、自己言及を含んでいて、それは人文学の方法が解釈学的循環を含んでいたり、還元主義的なアプローチに限界があったりということと通じているようにも思います。

何となく自分の子供の頃からの思い込みを正当化して開き直っているだけな感じもしますし、きちんと整理できていない部分もありますが、最初に戻れば、「音楽」の断念の契機がずっと手前から存在していた一方で、「うたう」(それはまたしてもbeschwörenに繋がるはずと思います)ことへの拘りもまた、マーラーのようなアウトサイダーの介在をその一つの例としてしつこく伏流しているとは言えまいか? それともそれは単にマーラーが、そして私もまたアウトサイダー、非西欧人、非人間なので「音楽」の断念に対して無頓着でいられるということなのでしょうか? いや、これは流石に些か単純化し過ぎだと思いますが、いずれにしても、そうした流れにこそ未来への道筋の可能性が含まれるのではないか?ということになるかと存じます。

(…)

(2019.6.26)