2008年12月13日土曜日

フローロスのマーラー論第3巻中の第7交響曲第1楽章331小節のシンバルについてのコメント

フローロスのマーラー論第3巻中の第7交響曲第1楽章331小節のシンバルについてのコメント(Constantin Floros, Gustav Mahler III : Die Symphonien (1985) p.191, 邦訳(英訳からの重訳)『マーラー 交響曲のすべて』, 前島良雄・前島真理訳, 藤原書店, 2005, p.249)
Mahler überschrieb den eigentlichen Sonatensatz Allegro con fuoco - eine Bezeichnung, die sich nicht nur auf den ersten Hauptthemenkomplex bezieht. Symptomatisch für den überaus feurigen Charakter weiter Strecken des Satzes ist ein Detail der Instrumentation: die Becken ertönen wohl nirgends so oft bei Mahler wie in diesem Allegro con fuoco. Takt 331 schreibt Mahler sogar beim Beckenschlag "mit Feuer" vor!

 マーラーは事実上のソナタ楽章にアレグロ・コン・フォーコと名づけたが、これは最初の主題群のみを表しているわけではない。楽器編成の内容は、長く引き伸ばされたこの楽章の性格が「強烈な」ものであることを予示しているようだ。他のどの作品よりも頻繁にシンバルが用いられており、331小節目でシンバルを打ち鳴らす部分では、マーラーは「燃え上がるように!」とさえ書いている。

フローロスのマーラー論の上掲部分を備忘のためにここに記録しておくのは、フローロスがこの後「超長調」(Über-dur)に言及しつつ参照しているアドルノがラッツにあてた1960年5月30日付け書簡において、まさにフローロスが 上掲部分で述べている第7交響曲第1楽章の331小節のシンバルについて、ラッツに対して照会をしているのを見つけたからである(Reinhold Kubik & Erich Wolfgang Partsch (hrsg.), Mahleriana : Vom Werden einer Ikone, p.82を参照)。 1960年といえばアドルノがマーラーについてのモノグラフを出版した年だが、アドルノは自著にとって重大な意味を持つことを強調しつつ、当該箇所が古いスコア(49ページ)では"mit Feuer"となっているのが、ラッツが会長を務め、編集をしていたマーラー協会 全集版においては"mit Teller"に変わっていることに関連して、それが単なる誤植なのか、それともマーラーが後にそのように修正したのをラッツが採用したのか、いずれであるかを問い合わせているのである。

私はアドルノのその文章を読んだ時に、反射的に、そう言えばそのことに言及した文章があったなと思って、アドルノの文章をまずはモノグラフ、ついでウィーン講演と順にあたってみて、そうした記述が見つけられないことに当惑した。別の誰かが 言及していたのを勘違いしていたのかと思い、詮索しているうちに、それがフローロスのコメントであることに思い当たり、確認をして備忘のために今こうしてその事実を記録しているのである。

ところでアドルノの照会についてのラッツの返答は掲載されていないので知るべくもないが、実際のところはどうであったのだろう、と思い、手元にある第7交響曲のスコアやファクシミリを調べてみたので、その結果についても書き留めておくことにしたい。 まず音楽之友社刊行のフィルハーモニア版のリプリント(改訂版と銘打たれている)はラッツ編集のマーラー協会全集と同様"mit Teller"が採られている。アドルノの言う「古い版」とおぼしきDoverのリプリント版ではまさにアドルノが 言及している49ページに"mit Feuer"と記されているのが確認できる。一方、ラッツの編集方針に批判的であったことで知られるレートリヒ校訂のEulenburg版はといえば、こちらもまた"mit Teller"を採用している(p.74)。 レートリヒの版は1962年1月に出版され、1960年に刊行された協会全集版を踏まえたものであることがレートリヒの序文に記載されている。

それではファクシミリはどうであろうか。確認したところでは明らかにマーラー本人は"mit Teller"と記入していて、アドルノの照会への答は「"mit Feuer"は単なる誤植である」が正しそうである。"mit Teller"であれば単なる奏法の指示であり、 周辺に頻出する撥で打つ奏法と区別するために注記したものに過ぎず、"mit Feuer"なら主張できるような、そして実際フローロスがしているような、表現とか意味に関する読み込みをするのは明らかに勇み足であったことになる。 もっともこのことは単に傍証としては用いることができないというだけで、フローロスの主張の本筋の妥当性とは一応は区別すべきではあろう。マーラーのスコアの指示の中には、「影のように」とか「嘆くように」といったようなものもあるけれど、 実はそれ以上に演奏上の細かい指示が多く、特に私にとって印象的なのは、指揮者に振り方の注文を事細かにしていることだろうか。「まだ2つ振りで」とか「気付かれないように2拍子に移行する」とかいう指示はマーラー自身が指揮者であり、 自作の初演を行った経緯を物語る。(それを裏付けるように、マーラー自身が演奏することのなかった「大地の歌」「第9交響曲」にはそうした指示がほとんど現れない。)

ともあれちょっとした偶然で判明した本件は、実証的なアプローチを採り自筆譜にもかなりあたっているらしいフローロスとしては珍しく、自筆譜はおろか新しい出版譜の照合すら行わずに古い版のスコアのみにより論旨を組み立てたケースのようなので 備忘として残しておくことにしたい。(2009.12.13)

作品覚書(12)嘆きの歌

「嘆きの歌」を作品1である、とマーラー自ら語ったのはよく知られた話だが、この作品が マーラー自身にとって気になる存在であり続けたのは確かなようだ。これまた有名な、 ベートーヴェン賞への応募と落選の逸話の細部には実はマーラー自身による脚色が含まれる ようなのだが、いずれにしても、その落選の後も、全ドイツ音楽協会の会長であり、 当時のマーラーが己が属している陣営の代表者と考えていたに違いないフランツ・リストに 楽譜を送って評価を請うたりもしている。リストの返事は色よいものではなく、特に マーラー自作の歌詞に疑問を呈する内容であり、マーラーは再度、「嘆きの歌」を しまいこみ、時期を窺わざるをえなくなる。

その時期は、マーラーが王室・宮廷歌劇場監督としてウィーンに戻ってようやく 訪れた。だがマーラーは、ようやく訪れた機会に、「嘆きの歌」を改訂した上で 初演したのである。1880年の初稿では3部構成であったものを、第1部の 「森のメルヒェン」をカットして2部構成とし、歌手も含めた編成をより「現実的」な ものにしたのだ。出版もされたこの形態が、永らく「嘆きの歌」の確定形態と見做されて きたが、「森のメルヒェン」を含む初期稿も喪われたわけではなく、ようやく近年、 初期稿での演奏が可能になったのはまだ記憶に新しい。

マーラーは同時期にオペラの企画を幾つかしているが、どれも実現せず、結局、その後行った ヴェーバーの「三人のピント」の補作のみが残った。そのかわりこのカンタータは自ら「作品1」と呼ぶ、 思い入れのある作品で、彼自身の認識の通り、ここにはマーラーの個性がはっきりと現れているのは 確かなことだと思う。私にとって興味深いのはマーラーのジャンルの選択で、その出発点がカンタータで あったのは注目されていいように考えている。結局彼は交響曲と歌曲のみを作り続けたが、 交響曲には歌曲楽章が取り込まれたり、合唱が用いられたりと声楽的な要素が進入し、 一方で歌曲は連作形式をとることにより、ソロ・カンタータ、さらには交響曲の構造を備えるようになる。 前者の到達点は、実質的にはカンタータである第2部を持つ第8交響曲であり、後者の到達点は これまた実質はソロ・カンタータである「大地の歌」である。その一方で後年「標題音楽」的な側面を 「撤回」した結果、わかりにくくなっているけれども、交響曲のうち少なくとも最初の2曲は、ジャンル上の 揺れを示している。第1交響曲が2部5楽章からなる交響詩として初演されたのは現在では良く知られているし、 交響詩「葬礼」は、もともと交響曲の冒頭楽章として書かれた楽章が経た紆余曲折の一齣に過ぎないかも 知れないが、それでも一旦はそのような形態が考慮されたという事実がなくなるわけではない。 同時進行的な視点からすれば、第2交響曲が「交響曲」として完成した時点あたりでようやく彼は 「交響曲」を選択したのであって、どんなに破天荒な形態をとっても第3交響曲は最早交響詩ではなく、 「交響曲」として構想されたし(とはいうものの、1896年夏の時点では、第3交響曲もまた「交響詩 パン(牧神)」と 名付けようといったマーラー自身の発言がバウアー=レヒナーの回想録には記録されていることは、第3交響曲について 語られるときには決まって言及される各楽章の標題のプランの変遷とともに銘記されるべきだろう。邦訳p.123参照)、 その余禄というか、補遺とでもいうべき起源を持つ第4交響曲では古典派交響曲の擬態が生じていて、 ベクトルは、本来交響曲というジャンルでなくても良かったかも知れないものを交響曲という形式を借りて 実現するという方向性を持っているのである。

そうしたマーラーの道程の出発点、まだその後自分が交響曲作曲家になるという自覚が明確に あったとは到底思えない時期の作品として「嘆きの歌」を捉えたら、一体どのような展望が得られるのだろうか。 さすがにこの曲を「交響曲」と見做すことはマーラー自身はしなかったし、それには勿論、正当な理由も あるのだが、そうしたマーラーにはまだあった理屈すらなくなって、今度は「交響曲」というジャンルの定義が 極限まで曖昧なものとなってしまった今日の視点で「嘆きの歌」を捉えたら、一体どのような展望が得られるのだろうか。 ソナタ形式こそ採らないものの、第1部を含めた構想ではイ短調で始まりイ短調のトゥッティで終わる調性配置を持つ この作品は、同時期の歌曲との素材の相互利用という点なども含めて、マーラー初期の「交響曲」というジャンルに 到達する道程の出発点たるプレ交響曲とでもいうべきものとして考えることができるのではという気がしてならないのである。 (2008.12.13, 2010.5.5)


形式の概略(長木「グスタフ・マーラー全作品解説事典」所収のもの。初稿第1部、決定稿第I,II部からなる折衷版による)
初稿第1部<森のメルヒェン> 序奏「ゆっくりと、夢見るように」125a-c
「より速く」2669-f-Des-D
「マエストーソ~より快活に~etc.」7087
「激して」88114b-Es-B
「優しく」115126Es
詩節第1節「非常に優しく」127149G
第2節「落ち着いて、夢見るように、少しゆっくりと」150192E-C-e
第3節193241A-F
第4節「より快活に」242302f-e-es-as-f
第5節「より快活に」303368F-B-Es-As-C-f
第6節「より動きをもって」369419c-a-C
第7節「非常に中庸に」420463F
第8節464519f-d-es-b
間奏「非常に落ち着いて」520567Ges-es
第9節「ゆっくりと」568605Cis-a-fis
決定稿第I部<吟遊詩人> 序奏「非常に控え目に」148c
4992C
93125F
詩節第1節126175es
第2節「テンポはやや荘重に、殊にリズミカルに」176248Es-B-Ges-b-cis
第3節「テンポI」249331des-f-F
第4節332390es-D-c-es
第5節391506As-Es-as-c
決定稿第II部<婚礼の出来事> 序奏「激しく動いて」112B/b
「少し速くして」1335es
詩節第1節3694B/b-fis-cis-C
(遠くに置かれたブラス・オーケストラ)(79)(92)
第2節95133-fis/Fis-H
第3節「非常にゆっくりとして」134213-E-
(<森のメルヒェン>回想)(150)(170)
間奏(<吟遊詩人>の冒頭部)213252As
第4節「非常に控え目に」253316cis-f-c
(遠くに置かれたブラス・オーケストラ)(302)(316)
第5節「常に同じテンポで、少し速めて」317356cis
第6節「よりゆっくりと」357422a
第7節「テンポI」423510