2016年2月28日日曜日

第8交響曲という「謎」 (2016.2.28 マーラー祝祭オーケストラ特別演奏会によせて)

肯定的であれ、否定的であれ、第8交響曲がマーラーの交響曲作品における或る種の特異点であることに異論はないであろう。更には最大の「謎」であることもまた。

第1部では聖霊降臨祭の賛歌が、第2部では『ファウスト』第2部の終幕の場が、オルガンを伴う4管編成の大管弦楽と共に8人の独唱者、2群の混声合唱と児童合唱により全曲通して歌われ、作曲者自身により「惑星や太陽の運行」に喩えられたこの曲が、もう一方の極である『大地の歌』と共にマーラーの声楽作品の到達点の一つであることは疑いない。

マーラーの作品の受容に大きく貢献したとされる録音技術の発達の恩恵という点でも、この作品は特殊な地位を占めているかに見える。実演に接する機会の制限を補うのみならず、バランス調整は勿論、離れた場所で別々に収録されたパートの合成さえ可能にするマルチマイク技術は、実演では聞き取りにくい細部を明らかにすると喧伝されたし、同一の演奏録音の繰り返しの聴取のみならず、ヘッドフォンを用いて自宅で一人で、あるいは移動中に、更には何かをしながらBGM的に、または一部だけ選択してといった断片的な聴取さえ可能にしたことが、功罪はあれ作品を身近にするのに寄与したことは確実であろう。

だが一方で、例えばハンス・マイヤーが提起した、この作品を含めたマーラーのテキストの扱いに関する痛烈な批判のみならず、それに対しては擁護の論陣を張ったアドルノを初めとするマーラー音楽の擁護者の少なからぬ人々もまた、ことこの作品に対しては否定的な評価や留保の姿勢を示している事実がある。大成功を収めた1910年9月12,13日の作曲者自身の指揮による初演が、列席した著名人の顔ぶれなどもあって、しばしば文化史的なイヴェントと見做されさえするこの作品は、ダーウィンの進化論、ニーチェの「神の死」、フロイトの精神分析などに代表される、自然科学の急速な発展を背景とした、既存の宗教が備えていた力の喪失過程を背景としており、かつては典礼と不可分であった音楽が、特にフランス革命後、世俗化の傾向を強めた果てに、例えばワグナーの『パルジファル』やスクリャービンの『プロメテ』のように、今度はその上演がいわば疑似宗教として、かつての典礼の代理をすることが企図されるようになった時代の潮流の産物としてしばしば位置づけられるが、常には時代に批判的であったマーラーが、この作品においては無批判に「肯定的」であり、そうした時代の潮流に服従していると見做されるのである。

作品自体についても、第1部ではソナタ形式の図式に合わせて聖歌を裁断し尽くす一方で、ゲーテのテキストへの付曲である第2部は、仮にそこにアダージョ、スケルツォ、フィナーレという区分を認め得たとしても、交響曲と呼ぶには構成的にあまりに弛緩しているし、同時期の他の作品に比して全音階的な和声法における主和音への固執が、この巨大な作品を、わかりやすくはあっても単調なものにしているという批判が存在する。

そして21世紀の日本において改めて振り返ってみた時、この作品がどこまで理解され、どのような意義を持ちうるかを問えば、直ちに幾つもの疑念に取り囲まれることになる。西欧においてすら保護の対象である文化財と見做されかねない今日、日本において多大な困難に立ち向い、この作品を上演する意義に対して疑念を抱く人が居ても不思議ではない。

しかしながら強い留保を示すアドルノの判断が最後のところで奇妙な躊躇いを示すのは、ヴェーベルンが指揮した第8交響曲の実演での経験に彼が忠実であり続けたからに違いない。その躊躇いが自分の理論に合せて対象を扱う愚から彼を救い、その発言を信ずるにたるものとしているように思われるのだが、他方でそこから、論理の力に屈することなきこの曲の並外れた力を読み取ることも可能ではなかろうか。この作品に対する批判が注意深いスコアの分析や、録音技術の発達が可能にした、繰り返しての聴取に基づくものであることを思えば、実演という契機は、ここでは他の作品にも増して極めて本質的なのであろう。勿論それはアドルノが批判する集団性の魔力、疑似宗教的なまやかしと紙一重であり、アドルノがこの曲の際どさを「救い主の危険」と述べたのは正当なことではあるが、それでも尚、性急な「失敗作」という判断は留保さるべきではなかったのかという疑問は残る。

この作品の持つ謎は、それが孕む危険ともども、創作後1世紀を経た、「技術的特異点」の直前の時代にありながら、相変わらず個体としての有限性に束縛されたままの今日の人間にも無縁なものではありえない。作品を過去の異国の文化的コンテクストに埋め戻して事足れりとせず、危険を引き受けつつもその「謎」に向き合うことは、マーラーと同じエポックの末裔たる我々にとっても喫緊の課題であり続けているし、なおかつそうした探究にあたっては、実演に接することが必須の契機を為すように思われるのである。

総じてこの作品を、アドルノの「突破」(Durchbruch)の時間性を音楽化したものと捉えることが「謎」を解く鍵ではなかろうか。プラハ講演でシェーンベルクが述べた、第1部での変ホ長調の主和音第二転回形への頻繁な回帰(規則違反であっても「正しい」のだから寧ろ規則を変えるべきだと彼は言うのだが)を初めとする規範からの逸脱も、作品の特異な時間性故のものなのだ。ソナタ形式として、提示部が主調の変ホ長調で閉じられるのも異例なら、展開部の中央(練習番号38)でのAccende lumen sensibusの「侵入」(ヴェーベルンの指摘の通り第2部との橋渡しを担っており、そのホ長調は第4交響曲同様「天国」の調性であり、ここでは栄光の聖母の調性でもある)も、そのAccendeに挟まれる主要主題の複数の動機を重ね合せた二重フーガ(同46)が展開部の只中であるにも関わらず変ホ長調であることも異例であろう。本来は提示部で調的緊張をもたらし、再現部で解消する機能を果たすべき副主題(Imple superna gratia)はここでは寧ろ充足的な性質の変ニ長調で提示され(同7)、再現部では省略されてしまう代わりに遥か後になって、第2部においてファウストの復活をかつてのグレートヒェンが歌う箇所(同165)において、ようやく「本来の」ドミナント(変ロ長調)で「再現」し、第1部冒頭の「来たれ」(Veni)に対応する栄光の聖母の「来たれ」(Komm)の主調による提示(同172)を用意するのである。

全曲の終結が「天国」の調性であるホ長調ではなく変ホ長調であるのは、この作品が「神秘の合唱」が告げるかに見える成就の音楽化ではなく、作品を支える意識は寧ろ「過ぎゆくもの」の側に留まること、「成就」は意識ある主体にとっては仮象に過ぎず、そこに向かって漸近はできても決して到達はできないことを示唆しているのではないか。

この作品においても「離れて配置される」金管群による「空間性」は重要だが、第1部末尾でAccendeが遠くから響くのに呼応して、全曲の末尾では曲頭のVeniが遠くで響くのは、そこが人間の超越の運動としての「突破」の起源であることを告げているかのようだ。「突破」を時間論的に解釈すれば、あたかも未来が現在に目的を示して導くかのような「創発」の瞬間であり、通常の時間性から見れば「時の逆流」に他ならないのである。

更には『ファウスト』第2部終幕が、意識ある主体が到達できない「死後の世界」である点を忘れてはなるまい。第1部にも出現する「子供の死の歌」の引用の意味は、第2部において誤解しようのない迄に明確になる。第9交響曲の暗示もあり、一見して正反対で異質と捉えられがちであるにも関わらず、この曲の他の後期作品への隣接は明らかなのだが、それもまた「突破」の超越が意識ある主体の「消滅」と表裏の関係にあるが故なのだ。

Veni Creator, Spritusに対する「ところでそれが来なければ」という、一見したところ冷静で、一分の理があるかに見える混ぜ返しもまた、曲頭のVeniで露わなのがインスピレーションを受けた主体の受動性であり、それが「既に到来している」のであれば、妥当ではあるまい。作品自体が到来に対する応答なのであり、ここで音楽は、実際には実現していないことを恰も実現したかのように見せかける詐術では決してないのではないか。

個人的経験を超えて「客観的」たろうとしたマーラーからのこの「贈物」を、その価値に相応しく受け止め、「応答」する義務が我々にはあり、その義務を果たすためには、アドルノが留保として述べた言葉を寧ろ逆転させた上で、それに伴う様々な危険を引き受けつつ、この曲の実演によって一体何が達成できるのかを自ら問うべきなのではなかろうか。

時代と場所の隔たりを超え、現実的な数多くの困難を乗り越えてこの作品を上演することは、まさしく「応答」の、優れて具体的な実践であろう。音楽監督の井上喜惟さんを初めとするマーラー祝祭オーケストラ・合唱団の方々、上演を支えて下さる方々の「壮挙」に対し敬意を表するとともに、私は聴き手の一人として、単に演奏を消費(それは情報論的には情報を単に捨てることに他ならない)することなく、マーラーの遺した「謎」に向き合い、自らも何かを生み出すことによって自分なりに「応答」するよう努めたい。