2013年4月28日日曜日

マーラーの音楽が私に語ること:「時の逆流」について

マーラーの音楽を聴く時、一体何が起きているのだろうか。マーラーの音楽が私に語ることは何か。

現前している楽音の内に、先行する楽音が留置されることをフッサールは第一次過去把持と呼ぶ。 かくして保持された先行する楽音の直接的記憶は次の楽音への期待を産み出す。 こちらはフッサールの内的時間意識の現象学の枠組みでは未来把持と呼ばれる。 第一次過去把持が知覚の現在の内部構造であるのに対し、想像力に属し、過去を(再)構成 するのが第二次過去把持である。第二次過去把持により所謂「記憶」の「想起」が可能になる。 ブレンターノが第一次過去把持もまた想像力によるものであるとし、第二次過去把持との区別を しなかった点にこうしてフッサールは異議申し立てをするわけだが、では本当に第一次過去把持は 想像力の産物ではないのかといえば、それはそれで単純化のしすぎであろう。実際には第二次 過去把持は第一次過去把持と「ともに」しか成立しえないし、第一次過去把持は第二次 過去把持の影響なしには成立し得ない。

そこでフッサールにおける第一次過去把持と第二次過去把持の関係を考えてみよう。 実際には程度の差はあれ、第二次過去把持は、第一次過去把持の中に常に埋め込まれた 状態でしか成立しないことに注目しよう。すなわち、過去における事象の想起において、 まずはかつて第一次的に把持された意識の現在における想起が含まれており、 把持の想起自体がかつての把持の生々しさを帯びることもありえる。その一方で、第二次 過去把持は知覚に由来するものではなく、想像力に由来するものであるが故に、 知覚に由来する現在における地平の様々な意味付与の動機付けから全く自由というわけには いかない。記憶を第一次的に把持しなおすことは原理的にできないのだ。それゆえ想起には 現在の把持に由来する変様が伴う。 一方で、第二次過去把持なくしては、睡眠や失神による意識の中断を乗り越えた流れの 同一性を確保することができないから、結局「私」を成り立たしめているのは、第二次過去把持の 働きに他ならない。

音楽を聴くというとき、直接的には第一次過去把持のレベルで音楽対象の時間の流れが 形作られる。では第二次過去把持が音楽にどのように影響するだろうか。 音楽作品の巨視的な構造、流れの脈絡の把握やこれから起きる音楽的事象への期待の 地平の構築には第二次過去把持が不可欠である。つまり今聴いている部分の受容に 極限せずに、作品の全体像を把握しながら聴こうと思えば、第二次過去把持は欠かせない。 とりわけマーラーの交響曲のような長大な作品、単一の楽章が長大であるのみならず、 複数の楽章から構成される作品、更には作品間に主題的・動機的連関のネットワークが 張り巡らされているような作品群を対象としたとき、第二次過去把持の蓄積の豊かさが 第一次過去把持における聴取の豊かさを可能にするという傾向は著しいものになる。

録音技術の登場により、全く同じ演奏を繰り返し聴くことが可能となった時、その都度の聴取の方は 同一なものではありえない。この同一物の差異の由来は先行する聴取の経験の記憶への沈殿物 (一般に「知識」と呼ばれるもの)の作用であり、あるいは都度の聴取の際の周辺の文脈の違いである。 ここでいう周辺の文脈には、自己の身体内事象や心理状態から始まって、自己を取り巻く環境の ありとあらゆる側面における差異が含まれる。ところが周囲の文脈もまたそれぞれ、過去の来歴に よって用意されたものである。(ただし、その全てが「私」にとって遡及可能なものであるわけではない。 相対性の原理により、同時に生起した事象の直接的経験が不可能であるのに対応して、 私の経験していない過去が私が属する「世界」には沈殿しており、私は私の知らない過去からの 影響を間接的なかたちであれ受けているのである。) 第二次過去把持は、第一次過去把持を選択するための基準、音楽の場合なら、音楽的対象を 構築していく条件を規定する「期待」の「地平」としての役割を果たす。だがそうした第二次過去把持の 背後にある録音技術による同一演奏の反復の可能性は、まずは事実問題として第二次過去把持の あり方に無視できない影響を及ぼしている。その点に注目したのが、スティグレールの第三次過去把持である。

スティグレールの第三次過去把持は、レコードやCDのような録音・再生技術の発達によって可能になった ものであり、意識とともに無意識をも構成する。そして同一対象の権利上無限の反復の可能性を、 単一の私に対してのみならず、我々に対して可能にする点にポイントがある。 第三次過去把持は、私的なものを超えた、私の遡行できない過去から到来したものであり、同時にそれは 「我々」を規定し、もう一度、今度は未来に向けて私的なものを超えた、私の到達できない未来への 地平を構成する。それが可能になるのは技術を媒介にしてであり、私が自分の個体としての限界を超えて 理念的なものに到達するためには技術の媒介が必要なのだ。マーラーの音楽であれば、まずは「楽譜」が そうした(スティグレールならオルトテティックな記憶技術と呼ぶであろう)媒介であり、録音された演奏の記録も また、それらの集積の結果として理念的対象としてのマーラーの音楽「そのもの」を仮構する契機となる。 更にレコードやCDのような録音・再生技術の発達により、知覚は映画的なものでしかなくなる。 メディアが可能にする時間的対象の同一の反復の経験によって、カント的主体の意識の流れ、 超越論的な枠組みへの踏みとどまりは最早不可能となり、カントにおいては超越論的枠組みで 考えられていた想像力=構想力の働きは外在化され、物象化されたとスティグレールは述べる。 それは意識の個別性を毀損する可能性を秘めている。

そもそも想像力=構想力は、カントの「純粋理性批判」の第1版において純粋悟性概念の超越論的演繹の 部分における3段階の「綜合」をになう能力(生産的構想力)として、超越論的統覚に先行する 「すべての認識、特に経験の可能性の根拠」(A118)として提示されながら、ハイデガーが「カントと形而上学の 問題」で指摘するように第2版における当該箇所の全面的な書換えによりその役割を制限され、「悟性の一つの機能」 として位置づけられることになった。

既にイエナ期の若きヘーゲルがカントの「綜合」における想像力=構想力の役割に注目し、 これを「信仰と知」において直感的知性と同一視することにより、カント自身は人間の認識の限界として、 いわば極限として無限の彼方に設定したものをあっさり踏み越えてしまう。そして このヘーゲルとカントの立ち位置のずれは「判断力批判」における「崇高」の問題でもそのまま 繰り返されることになる。

カントは「崇高」(das Erhabene)について「超感覚的」であると語っている。カントにおいては「美と崇高」が 対比され、美が感覚的なものに、崇高が超感覚的なものに対応づけられる。 カントにおいて超感覚的なものは理性の理念であり、ふさわしい表現はないが、 ふさわしい表現がないことの感覚的な表現は可能なので、心情にはたらきかけることが できると述べる(「判断力批判」第23節)。ヘーゲルは「美学講義」の「崇高の象徴論」において このカントの「崇高」論の批判的展開を試みており、そこでヘーゲルは、「崇高の表現」とは 表現に相応しい対象を見出しえぬまま無限なるものを表現する試みと言っている。 ヘーゲルの批判のポイント自体は、カントが主観の側からしか崇高を見ていないことだが、ここでも カントはもともと主観の限界を見極める「批判」を企図しており、ヘーゲルが前提にしてしまっているものは カントにとっては「人間」には到達できないものなのだ。

想像力=構想力を巡るカントの逡巡に対するハイデガーの「カントと形而上学の問題」に おける批判を、フッサールの時間論のプロセス哲学的な解釈によって引き受けることによって、 一般には「現実」として了解されている、「意味」として「現象」する「世界」の虚構性が明らかにされ、 そこにおいて想像力=構想力の役割は適切な位置づけを見出すことになる。即ちそれが既に述べたような、 「現在」としての把持を背後から規定し、意味づける「想起」を可能にするものとしての想像力= 構想力の役割である。

想像力=構想力による「想起」が「現実」をいわば仮構するものであるとして、更にそれを根拠 づける「外部」、私からは絶対的に到達できない過去があり、私が決して到達することのできない未来が あることもまた、上述の分析は明らかにしている。それはカントがそこで踏みとどまったように権利問題と しては問うことのできない領域であり、地平の更に彼方を、無限を思惟することに他ならない。それは カントが超越論的弁証論において論じた超越論的仮象、「純粋理性批判」第1版序文冒頭で 「人間的理性」の「特異な運命」と述べた問い、「現象」の手前ないし彼方についての問いである。 それはいわば起源への問いが停止した更に手前を問うことなのだが、そうした個体としての「人間」の 在り方を、個体を超えて、いわば背後から規定しているのが、世代を超えて継承される文化的なものであり、 それを支える媒体として生物学的な身体を補綴する「道具」であり、その基盤としての「技術」なのである。 「技術」は個体にとって生成の根拠である一方で、常にその個体の特異性を脅かすといった構造もまた、 「人間的理性」の「特異な運命」なのであり、マーラーの音楽はそうした運命の中で創造され、 演奏され、記録され、聴取されているのである。

マーラーをCDで繰り返し聴くことをもう一度考えてみよう。誰かのいつぞやのマーラー演奏記録 (それは一回性の出来事であるとしよう)を繰り返し聴くことは、 だが、ライブ録音と呼ばれているものも、しばしば同一プログラムの複数回の演奏を編集 することがあるし、セッション録音の場合はそもそも「演奏の一回性」自体が虚構となってしまっている。 だが、ここで問題にしたいのは演奏の地平ではなく、マーラーの作品というもう一つ手前のレベルなのだ。 CDによる記録だけでなく、コンサートホールでの実演の聴取の記憶、或いはピアノでトランスクリプションの 一部や歌曲のピアノ伴奏を弾いてみる経験といったもの、更には様々な楽曲分析や背景についての 研究等も含めたマーラーの作品にまつわる「私」の経験の総体が投影されるスクリーンに映し出される 或る種理念的な対象としてのマーラーの作品のレベルを問題にしたいのである。

マーラーの創作過程を知る者は、記譜法のシステムというのが単に出来上がった作品を記録する といった保存の水準のみならず、創作の方法自体に本質的に組み込まれていることに気づかざるを 得ない。マーラーの作曲の仕方は記譜法のシステムに根本的に依存していて、それはあらゆる 場面で登場する。記録された楽譜もまた決して完全に安定した状態にはならない。作曲家=指揮者 であったマーラーは、自分で演奏をするたびに管弦楽法に手を入れたとは良く知られているし、 後世の指揮者にも改変の権利を与えたという証言が伝わっているが、そうであれば一体どれが 「本物」なのかという問いを立てることにはあまり意味がなくなることになろう。 寧ろ、作品が享受される限りにおいて準安定状態にありつつも絶えず微少な調整を行いながらの 利用は常に行われているばかりか、そうした調整作業の継続こそが作品の受容を促進し、 絶えさせないための条件とすら言いうるのではなかろうか。

そしてそうした準安定状態の中での常に更新される受容が、私を成立させる。それは私の生成 そのものなのだ。 人間の個体的・集団的時間性(シモンドン的な意味合いにおいての)は、人間が後成的系統発生的な 存在であるが故に可能となる「幽霊性=再来性」と反復によって構成される時間性である。 全く孤立した「我」がまず発生し、その後で他者と出会うことで「我々」になるのではない。 フッサールが「デカルト的省察」の第5省察以来、膨大な間主観性についての草稿群で分析したように、 間主観性的な構造の発生の方が個体の 発生を規定するのであって、実際には我と我々は同時に一気に生成すると考えるべきなのだ。

であるとしたならば、デリダのいかんともし難い「運命」としていわば構造的に宿命づけられた「反復可能性」と コミットメントへの倫理的要請としての「反復」への誘いの「差異」を、マーラーを聴くという場面に適用してみたら どういうことになるだろうか?

他者への応答は、応答の内容が如何に否定的なものであったとしても、コミュニケーションが成立する以上、 最初に根源的な他者に対する肯定があって成立する。このいわば先行する肯定もまた、第二の肯定によって 確証され、反復されることなしには成立しえない。第二の肯定による確証の要請は、反復可能性が 構造的なものであるとするならば、それは確証を伴わない機械的な反復の可能性が常に存在するからだ。 寧ろ記号によってそうした機械的な反復が可能になるのであり、それを支えるのが技術である。 想像力に由来する第二次過去把持である想起によって、かつてあった/今は不在の対象が仮構され、 そうした仮構された想像的な媒介物がそれ自体自律した対象として予め存在していたかの如く 措定されたとき、理念的な同一性が確保される。ここまでは第二次過去把持による記憶が抽象化され、 個別性を喪失し、反復可能な「存在」として沈殿することで、ホワイトヘッド的には客体的不滅性を帯びる 過程を記述しているのだが、その沈殿物を生物学的な人間が備えている記憶媒体たる脳の中ではなく、 自分の身体の外側に、いわばそれを補綴するものとして物質的な媒体に記録したとき、第三次過去把持の 領域が開かれる。第三次過去把持によって「私」なしの反復可能性はいわば完成する。

その一方でデリダが要請する「反復」、確証を伴った第二の肯定としてのそれを先の第二次過去把持が 常に第一次過去把持の中に埋め込まれているという事態に照らして考えてみると、こちらもまた、必ずしも 能動的で主体的な選択としてではなく、現在の地平にいわば誘われるようにして変様が起きてしまうという 傾向を認めなくてはならない。反復の方が自動化される一方で、反復を損なう契機が常にあって、 積極的に反復しなければ、自動化された反復はいわば毀損したものとなってしまうということなのであろう。 だが逆に積極的な反復は、新たな地平における都度新たな「歓待」であり、そこに創造の可能性もまた 存しているのだ。理念的なものはアプリオリに与えられるものではない。それは第三次過去把持により、 私に先行して事前に存在しているかの如き現れ方をするが、理念的なものは未来に向けて、常に未完了の 状態で開かれたまま、繰り返し投射されることで準安定的な状態を維持できるのだ。創造は一回性の出来事だが、 再創造が行われなければ創造の結果は維持し得ない。

そしてそうした再創造の可能性はどこにあるのかと言えば、身体的できごとを外部の記号に 変えてしまう意識ではなく、意識下の無意識のレベルでも機能している心的機能の働きに注目すべきであろう。 主体の不在においても反復可能でなければ、それが記号として意味を持つことも、理解することも 使用することもできないという事態は、上述の意識の時間論的構造と関連しており、 意識は身体的なできごとを記号として解釈してしまう。しかし記号は現実を抽象した結果であり、その一部を 為すに過ぎないものであって、無意識のレベルでは意識が捨象してしまう様々な因果的な効果が働いている。 そして意識主体の選択には、そうした背後で働いている効果が影響せざるを得ない。第二次過去把持まで ではなく、更に第三次過去把持を考える必要があるのは、そうした意識の領野外で意識に影響を及ぼしている 対象の機能を解明するためである。それは技術的なものと無関係ではありえないが、技術的なものに 全く従属的というわけでもない。否、技術的なものによって可能になりつつ、技術的なものが含み持つ 共時化による意識の個体性の消滅に抵抗する契機として、ベイトソンが「われわれの無意識の層を伝え合う エクササイズである」という芸術の存在意義がある。芸術が、意識を持ってしまった有機体の、その意識が 己の構造上の制約の中で、それでも精神の全体を垣間見ようとする営みであるという規定を考えたとき、 「世界を構築しなければならない」と作者自らが規定するマーラーの交響曲こそが、この定義に最も相応しい ものの一つであるように私には思われる。

人間の意識の構造は可塑的なものであり、ジュリアン・ジェインズが示したように、数千年という 文明的な時間スケールにおいては、意識の様態は変化しうるし、意識が発生したり、 消滅したりということも起きえる。 理性的存在者の存在と、その同型性、構造的な一意性をア・プリオリに主張することはできない。 一方でフッサールが分析したような内的時間意識の構造もまた、少なくとも現在に至るまでの 「この」場、即ちマーラーの音楽が演奏され、聴かれるような場においては、準安定状態にあると 言って良いだろう。長大な持続を結するだけでなく、多様な時間性を内包するマーラーの音楽は まさにそうした意識構造が可能にするものであり、同時に、そうした意識構造により可能になる 世界に対する態度(認識のみならず、行動の面でも)の様態の或る種の「結晶」の如きものとして 考えられる。「世界を構築すること」というマーラーの自分の創作(直接には第3交響曲)に 対する良く知られたテーゼは、自分が作曲するのではなく、背後に居る何者かに書き取らされて いるような感覚の証言とともに、マーラーの音楽が優れてある時代と場所における意識構造と 不可分の関係にあることを告げている。

そしてそれは同時に、そうした意識固有の想像力の場、ヴァーチャリティの時空間を内包している。 そればかりではなく、第三次過去把持としての記憶技術によって、遺伝子の複製・交差によって 世代交替が起きるせいで、個体の経験が継承されることがないという制限を超えた理念的なもの へと関与することを可能にしている。そうした音楽にとって、ファウスト第2部の終幕の場はまさに 自己言及的な内容であるだろう。そこではファウストの甦生が語られ、比喩的な仕方で語られた 理念的なものの客体的不滅性が意識を超越を経て、新たな甦生に誘うという機制が 表現されている。マーラーの音楽の単なる文字通りの反復を嫌い、だが、 主題を再現させるときに、紛れもなくそれがかつて提示されたものの再現でありながら、 かつてとは最早同じではなく、非可逆的な過程を過ぎ越してしまい、もう元には戻れないと いう印象を強くもたらし、更にそのことによって、再現されることによって初めて主題が確保されたかの ような印象を与えるとともに、未だに生成の途上にあるといった様相を呈するという時間的な 構造はそうした「作り=為す」ことの衝動に見合っている。

創造は一回性の出来事であるが、反復し、常に動き続けることにより安定状態は維持されるので あり、目的論的図式から出発して錯覚されるように安定状態において動きが停止するわけではない。 エントロピーの極大の状態をではなく、エントロピーを減少させることによって準安定状態を維持し続けるためには、 系は閉鎖系ではなく開放系でなくてはならず、常に外部からエネルギーの供給を受ける必要がある。 そして系に新しさをもたらすのは、系を破壊する可能性のある偶然的なもの(ノイズ)であり、ノイズを いわば「消化する」ことによって自己組織化システムは維持されるのである。このときシステムは外部を持ち、 内部には多層的な部分構造を備え、安定化機構としての記憶を保持する必要がある。 そこでは偶然やノイズや死のプロセスが、組織化や学習の中で創造の契機となっているのである。 そしてマーラーの音楽はそうした高度な自己組織化システムである意識の構造を反映した意識の音楽なのだ。

その軌道は複雑で、簡単に記述することを拒むけれど、一例を挙げれば第3交響曲の終楽章の 練習番号26番におけるような、あるいは第8交響曲第2部の練習番号156番におけるような マーラーの音楽のあの強烈な「再現」に匹敵するものを私は他の音楽に見つけることができない。 それは単純な反復ではないのだ。

例えば第8交響曲第2部の練習番号165番の第1部の第2主題(Imple superna gratia)の再現。 主題が再現するということの持つ圧倒的な力をここまで徹底的に感じさせる瞬間というのは、なかなかない。 最早これは日常的な時間意識の裡にない、というのは確かなように思える。仮に第1部を聴かずにいた 場合であっても、私はこの作品を(楽譜によって、あるいはCDのような記録媒体の助けをかりて、何度も 繰り返し聴くことにより)記憶してしまっているので、記憶と知識によって、それを補うことができるのが、 この部分は、マーラーの決定的な主題再現がいつもそうであるように、それが単純な反復ではない 「再現」であるという徴を帯びている。或る種の時間的な感覚を呼び起す何かがあるのだ。 「かつてあった」という感覚、そこから遙かに遠くに至ったという感覚。目も眩むような 距離感が「再現」には含まれている。 マーラー自身、ここの箇所にetwas frischer als die betreffende Stelle im 1. Teilと記しているのだ。 歌詞もまた、Er ahnet kaum das frische Leben,...と、ファウストの再生を歌う。)

あるいはまたマーラーの音楽においては枚挙に暇がない、「後戻りができないポイント」の存在。またしても第8交響曲 第2部から例示すれば、まずは練習番号155番の少年合唱(Selige Knaben)の入りが挙げられる。 アドルノとは異なって、私が一瞬何が起きたかと思い、ぞっとするのはここだ。このあたりから音楽は少なくとも 私にとって未知の、未聞の領域に入っていくのを感じる。何度聴いてもそうなのだ。何か、人間が、この儚い、 有限の生命しか持たない生物が、そしてその生物に進化の悪戯によって備わった、さらに取る足らない意識が 到達することのできない場所に、自分がそのままでは見てはいけない何かに近づいている気がする。同様に、 練習番号176のマリア博士の歌唱の部分には「到達した」という非常に強い感覚を呼び起すものがある。 またしてもずっと遠くに来てしまった、そしてもう引き返すことなく、決して戻れないのだという感覚。 ちょっとした戦慄、軽い恐慌状態。

更にはアドルノがマーラーの第9交響曲について述べた未来完了的な主題提示の問題、再現と提示の問題を 考えて見ることもできるだろう。第9交響曲に限らず、マーラーが主題の再現を強調する時、実は再現こそが 真の提示であり、最初の提示はその予告に過ぎないという見方はできないだろうか。 再現の聴取において何が生じているのか。それは単なる再認ではなく、その間に横たわる時間の厚みを 通した再認の持つベクトル性の深みを感受しつつ、そこに単なる反復ではなく、冗長性という意味での 秩序に収まらない新しさを経験するという事態が生じているのではないだろうか。この事態こそまさに、 既に述べたあの、フッサールの時間論のプロセス哲学的な解釈によって引き受けることによって、 一般には「現実」として了解されている、「意味」として「現象」する「世界」の虚構性が明らかにされ、 そこにおいて想像力=構想力の役割は適切な位置づけを見出すことになる場面そのもの、 「現在」としての把持を背後から規定し、意味づける「想起」を可能にするものとしての想像力=構想力の 役割が確認できるような場面、高度な有機体における(再)創造の過程を定着させたものではなかろうか。

そしてプロセス哲学における「時の逆流」はそうした高度な有機体における(再)創造の過程の時間性を 捉えたものなのである。 プロセス哲学的な超越は創造性の否定であり、2つの生成の間を越えるだけではなく、可能的世界を事実 性によって限定することを通じて現実性から可能性への永遠的客体へと超えることでもあるとされる。 そして時の逆流とは、 「意識の生成の中で配景を形成している諸事象―当然のことながら、この中にたったいま過ぎ去った 根源的現在が含まれる―の死としての自己疎外を体験しつつ、その意味でそれらの事象の心性の滅した 未来を体験しつつ全体としては永遠の客体との関わりが不確定から確定への進む、心性の甦生への歩みである。」 (遠藤「時の逆流について」pp.39-40)

勿論、上述のプロセス哲学的な「時の逆流」は、事象連鎖を通じての対象の生成のレヴェルではなく、 実体体属性という永遠的対象に関わるレヴェルでの一事象の生成の時間を捉えようとしたものであることに 留意すべきだろう。具体的な聴経験について考えるとき、確定的な部分事象の連鎖の中での事象の生成に 基づく対象の生成を考えるならば、これは「時の逆流」が問題にしているレヴェルから見れば、いわば二次的で 派生的なレヴェルを扱っていることになる。だがその一方で、そのような二次的なレヴェルで時が恰も 逆流しているように感じられるとするならば、それはいわば幻想であって、実際には時の逆流自体を経験している わけではないにせよ、その感じの根拠を問うことはできるだろう。或る種の目的論的な発想は、それ自体が 意識がそれと気づかずに構成してしまうフィクションであるにしても、それを可能にするメカニズムが存在し、 まさにそれが意識を生じさせているのであれば、そうしたメカニズムの働きが「時の逆流」の「感じ」のいわば 原因となっているのだ。いわば自分自身を支える背後の機制を垣間見るようにして、二次的に「感じ」としての 「時の逆流」の経験が生じるのであろう。

あたかも生成する事象が、先行する過去の事象よりも、これから起きるであろう未来の事象によって 決定されるかのように思われるとき、現在の生成の創造性の源泉は過去ではなく未来にあると考えられる。 これはいわゆる目的性に従った行動の連鎖において、あたかも意図に添って事象が生じるかのような 幻想(というのは実際の出来事の系列は因果決定論を覆すものではなく、そうした意図そのものが 過去の出来事の結果に過ぎないからである)が生じるケースとは区別される。勿論、この場合でも そうした幻想が生じるのは何故かをなおも問うことはできるだろう。音楽作品のようないわゆる人工の 産物においても、結末に向かうようにいわば「仕組まれて」いる場合にそのような感覚が生じることが あるだろう。

だがそれとは異なったケースがある、それは予示されていたものが今これから実現する瞬間、 しかもその瞬間になってはじめてそれが予め可能性として示されていたことが、いわば事後的に 判明するような場合、つまるところ「新しい秩序」がもたらされたように感じられるような瞬間、 後成説的に潜在的であったものが成長して発現したかのような、不可逆的な過程が生じた ことがわかり、その時点から過去を回想したときに、その過去は最早遡及不可能なもの、 あたかも前生での出来事であるかに感じられる瞬間において感じられる「時の逆流」もある。

そうした瞬間はどんな音楽にも生じるというわけではない。それは或る種の時間的構造の下で しか生じないし、そうした時間的構造が生じるために作品が備えていなくてはならない構造的な 条件があるだろう。すなわちそれは、秩序に傾斜したあからさまな人工物ではなく、だが 自然現象の中でも物質的、無機的な構造(結晶構造のような秩序を思い浮かべれば良い)に 似たものではなく、さりとて無秩序でもない、エントロピーや情報量という尺度では単純に測れない 秩序と無秩序の中間領域にある「複雑性」の領域にある作品の場合、言い換えれば、 有機的な生命現象の模倣に近い、層的で内部構造を持ち、固有の時間を持つ複数の部分よりなる、 複雑さを備えた後成説的発達が可能な、自己組織化に類比できるような作品において感じられる場合である。

「時の逆流」が感じられるのは、そうした作品の中のある瞬間においてなのだ。それは明確な目的に 向かって進んでいくべく、隅々まで意識的に作曲しつくされた作品ではなく、寧ろ作曲する主体の 背後にあって主体の志向を定めている無意識的なものの声に従い、夢に見られるようなプロセス、 つまるところ内的時間意識を備えた主体のものではあるけれど、寧ろそれを支える背後の 自己組織化の過程によって形式そのものがその都度形作られる作品において感じ取ることができる 「時の逆流」があり、マーラーの音楽におけるそれはこちらの方なのだ。意識が決して見ることのできない 自己の起源を覗き込む瞬間、それは現在の延長としての未来把持ではない、これまた意識がそのまま 自己を滅することなく到達することが不可能かも知れない未来への超越の瞬間である。

そうした瞬間は構造的に定められるものなので、構造的な聴取を行っている限りは、それが起きることを 知っていたとして印象が薄れることはない。逆に「時の逆流」を感じ取るためには、その作品の膨大な 脈絡を記憶し、何が潜在的に用意され、何が実現可能かを(無意識的にであれ)押さえている 必要があるのだ。まさに音楽としての経過を知覚するために最低限必要な第一次過去把持の レヴェルではなく、それを背後から規定する第二次過去把持は勿論、第三次過去把持のレヴェルに 及ぶ広範な綜合作用を行うスティグレール的な意味での想像力、ベンヤミン=アドルノ風には 想起ではなく追憶、即ち想起する主観に先立つ客観についての回想が必要とされるのである。

具体的な経験のレベルに移せば、マーラーのような長大で複雑な作品を想起するための手段として 複製技術による記憶媒体による録音は有効であり、同じ録音を何度も反復する可能性、しかも 「私」だけではなく、誰に対しても同一の音楽を提示することの可能性が獲得されるが、その一方で、 常に聴取はその都度毎に一回性のものであることから逃れることはできないのである。そしてその都度の 聴取の態度は様々でありうる。ベンジャミン・リベットの実験が明らかにしたとおり、受動的な経験であると 意識が思いなす楽曲の聴取のプロセスは、実際には意識の背後における前意識的・無意識的な 活動により編集されたものであり、同一の演奏の繰り返しの聴取は、そうした編集の地平を形成し、 その地形を変化させるだろう。変化に富んだマーラーの音楽の脈絡は、一回性の受動的な聴取においても 聴き手を厭きさせることはないだろうが、その巨視的な設計や、マーラー自身の創作のプロセスにおいて 既に「書き取らされた」ものである精緻を極める動機の相互連関のネットワークや変形の技法を 把握するためには、演奏の次元においても指揮者による緻密な事前の総譜研究が欠かせないように、 聴き手も総譜を参照しつつ、繰り返して聴くことにより、自分自身にとってのマーラーの個別の作品の像を 構築していかなくてはならない。

しばしば議論の的になる、長大な経過における巨視的なシェマの知覚の 問題、例えば発展的調性の知覚の問題も、そうした反復に支えられた聴取の前では、問題設定そのものの 抽象性を露呈することになる。しかるべき事前条件下での心理学実験ならぬ現実の聴取においては、 総譜研究を通した知識すら、楽曲の把握の地平として動員されて当然であるし、絶対音感の有無は おくとしても(調性と色彩の共感覚とともに、あった方がより容易なのは明らかなことと思われし、逆に事実として それがある場合にはその効果は本人にとっては明らかなのだが)、相対的な音高を想起できるほどに 楽曲を自分の中に定着させた聴き手にしてみれば、巨視的なシェマもまた、都度の聴取にとって単なる 知識としての地平であるのみならず、身体的できごとを外部の記号に変えてしまう意識のレベルではなく、 意識下の無意識のレベルでも機能している心的機能の働きに関わるものとなるであろう。かくしてマーラーの 作品が産み出す(比喩的な意味での)「風景」は、聴き手自身の(現象学的存在論的な意味合いでの) 「世界」のそれとなり、聴き手の意識を含めた「心」の構造そのものを構成する素材となるのだ。

それゆえ常に聴き手は新たな聴き方をすることによって、理念的で 無時間的に凝固した作品を都度新たに(再)賦活しつつ、応答しなくてはならないという要請が生じる。 ここで注意すべきは、そうして再創造されるのは作品だけではなく、そのようにして「私」の側もまた 再創造されるのだということである。私が事前に存在して、作品を待ち受けるのではない。作品を 受け取りつつ、同時に私もまた都度生成するのである。そしてそうした記憶媒体の助けをかりることに よって、マーラーの音楽は私固有の身体そのものになる。私の頭の中でそれは物質的な音響を経ずに鳴り響く までに至る。それは私の経験しなかった過去の風景であり、私の中に住まう他者、私をも「作り=為す」 ことにいざなうべく語りかけるのである。(2013.4.28, 29, 5.1,3,12,21)

2013年4月23日火曜日

音楽が未来を予言する?

人はとかく音楽を未来を予言する書物に比し、作曲家を未来の預言者に仕立て上げたがるかのようだ。 さながらマーラーの音楽の場合なら、西欧の近代的な文化の没落を予見していた、みたいな ことがまことしやかに主張されることになる。 更には、例えばことばに比べて音というのはそれが何かは定かではないながらもある種の空気を察知する面が あるということを根拠に音楽が他の媒体に比べたとき、優れて予言に適した媒体ではないのかという 問いが為されることがある。

だがいわゆる表現媒体の違い、意味作用や享受者への働きかけ、創作のプロセスの違いによって 「時代を予見する」という点について音楽が特権的な地位を占めているというようには思えない。 個別の作品を創作する行為はあらゆる人間の活動を包含するような 意味合いでの「世界」において時間的・空間的な特定の座標において行われる ものだから、そうした文脈の側からの影響に対して無縁ではありえない。 それは創作者の立場(時代に意識的にコミットしようとするのか、超然とした 或る種の普遍性を希求するのが、そもそもそうした立場の決定自体に無頓着 なのか)とは独立に言えることだろう。文脈というのは、同じジャンルの 先行作、同時代の作品から始まって、社会的・経済的・政治的なものも含まれうる。

ところで「予見性」についての評価は事後的なものにならざるを得ないが、だとしたら幾らでも 後付の理屈がつけられてしまうのは避け難い。 けれども、そもそも時間的にいって後に起きることを字義通りに予見する というのは恐らくどのジャンルでもありえないだろうから、まずは同時代の 空気をどの程度反映しているか、更にはその空気が後続する時代との ある種の連続性を帯びたものであるのか、といった点が議論になるというのが 実態なのではないか。

実際には人間の活動は、どんなものでもある種の目的論的な図式が後から 適用できるような、いわば過去に基づき、未来に向けて現在のあり方を (受動的な場合も含め)選択していくという側面を持つ。 そしてそれは作品としての文化的な「遺産」の蓄積、書籍他の記録媒体、 文字や楽譜のような記録のための手段といったものがいわば「前提」と なって、その上で可能になっていると考えられる。(両者は独立ではない。) 従って、文化的な活動が優れた意味で何らかの「未来」をめがけたもので あるということは、程度の差はあれ(仮に創作者本人はひたすら過去を向き、 時流に反したアナクロニズムを実践していると自己了解している場合も含めて) 言いうるのではと思われるが、その一方で、こうした機制は非常に一般的な ものだと思われるので、個別のジャンルには依らないだろう。

勿論だからといって ジャンルによる違いがないことにはならないが、個別と一般のどこに区切りを入れるのが 適当かについての基準を仮にであれ設定するのは如何にして可能だろうか。 それ自体が歴史的・文化的な事後的な或る種の解釈を前提とした、いわば先行的 解釈を孕んでしまうのは避け難い。そもそも「音楽」にしても決してその内実は一義的ではなく、 マーラーの音楽をもって音楽一般を語ることが出来ないことは当然だが、では「音楽」一般を 語らなければマーラーの場合について語ることができないかといえば、そういうわけでもなかろう。 だからここではジャンルへの依存といった水準の議論はひとまずおいて、マーラーの場合 という個別のケースについて見ていくことにしたい。それによって明らかになるのは、 音楽が未来を予言するといった発想自体がある種の錯視の上に成立している有様ということになるだろう。

ある人が音楽を未来を予言する書物に比し、作曲家を未来の預言者に仕立て上げようと企図するとき、 実はその人は彼自身がその未来に住まっていて、いわば事後的に同時代者を過去に 見つけようとしているに過ぎない。勿論、作曲者自身が預言者を気取り、自己の音楽の進歩性を、前衛性を 自ら唱導することもあろうし、作曲者の同時代人が彼の音楽にいわば「新しい道」を見出し、その先に未来を 思い描くことの方もまた、ありふれた光景には違いない。そして未来に居る人の審判を待つこともなく、確かなものに 思われた多くの道が実は作曲者とともに瞬く間に消滅することもまた、ありふれた事態であり、未来に居る人間は、 そんな道があったことすら忘れてしまって、少なくとも出発点においては、偶々自分の時代にまで延びている 道のみを頼りに過去への遡行を始めることになるのであってみれば、残った音楽の裡に、自分の時代に繋がる 何かを事後的に発見するのは、寧ろ約束されたことなのかも知れない。だが、それが進化を支配する淘汰の原理を 目的論的に解釈してしまう錯誤と異なるものであることの方もまた、ほぼ確実なことだろう。けれども注意しなくては ならないのは、もしかしたら文化的な領域というのは、そもそもがそうした過誤と不可分で、そうした過誤を惹き起こす 構造にいわば基礎付けられているかも知れないという点であろう。それが優れて「人間」の営みである由縁こそ、 そうした「目的論的図式」を支える時間性に存するからである。

それにしてもマーラーの場合は極端であったということはできるのではないか?クルト・ブラウコップフのあまりに 有名なマーラーの評伝は「未来の同時代者」という副題を持っていた。それ以外にもマーラーを未来の預言者に 見立てるキャッチフレーズは枚挙に暇がないだろう。バーンスタインは「彼の時代はやってきた」と題する文章を書き、 その冒頭を「マーラーの時代はやってきたのだろうか?」という問いで始めている。クーベリックはより端的に、 「マーラーの時代は来た。」と冒頭で宣言する。ブーレーズは「マーラーは今日的か?」という問いをタイトルに 掲げる文章を書き、その末尾で「音楽の未来についての今日的な反省にとって欠くことのできない存在」として マーラーを位置づけて文章を結んでいる。いわゆる流行現象を事後的に確認するというよりは、そうした身ぶりを 装って、実は対象としている流行現象の一部を為しているに過ぎない類の広告紛いのコピーや、そうした流行に 対して一見距離を装って、既に四半世紀も前から判りきった認識を今更のように唱導してみせることで、実際には そうした流行の後追いをしているに過ぎないような論説の類はおくとしても、マーラーの音楽が未来を予言する ような類のものであるというのは、広く共有された認識であるかのようだ。

予言という言葉の持つ或る種のいかがわしさには、予言の「内容」というのが、とりわけてもそれが現時点において 未来の事象を扱うものである場合、はなはだ曖昧で、事後的にその内容を評価しようとした時に、どのようにでも とれるようなレトリックが潜ませてあることが多いことに由来する側面があるだろう。だが、事後的な後追いの理屈の 場合ですら、多くの場合には流行現象を説明するべく、或る種の時代の雰囲気の如き、甚だ曖昧なものが 予めその音楽に表現されているといった類のものが多い。より具体的なものでは、恐らくはアルマの第6交響曲に纏わる 回想がいわば連想の起点となって、その音楽が象徴するものというより寧ろ解釈者がその音楽に象徴させたがっている ものをかわるがわるにあてがうことが繰り返し行われている。内容は家族やマーラー自身に起きた不幸といった私的な ものから、広島・長崎への原爆投下に至るまで様々で、不毛な「標題音楽」についての議論はおいて、それ自体は 紛れもないマーラーの音楽の音楽外のものへと関わろうとする志向がそうした解釈を呼び寄せていることは確かなことに見える。

何よりも生誕100年以降今日までのマーラー受容に決定的な役割を果たしたことについては議論の余地のない、 アドルノのマーラー論は音楽社会学的な視点を備えた内容であったし、既に触れたマーラー評伝の著者である クルト・ブラウコプフもまた音楽社会学者であり、下ってマーラー事典を編んだアルフォンス・ジルバーマンもまた然りで、 アドルノの視点が一般的な了解における音楽社会学の枠組みを逸脱するものであるとはいえ、単純な反映理論では ないにせよ、音楽作品が窓のないモナドのように時代を反映させるという発想に基づいてその音楽の観相学を 試みるという志向自体、音楽作品がそれを生み出した時代と無関係でありえないという了解に基づいたもので あるのを考えれば、マーラーの音楽自体にそうした解釈を誘う傾向があるのではと考えるのはごく自然な発想であろう。 勿論、そうした事態は別にマーラーの場合にのみ生じている訳ではなく、それは他の音楽についても言えることである という反論が一方では想定され、他方では、そこで問題になっているのは専ら音楽作品の(アドルノ的な意味での) 「素材」の音楽作品への影響であり、成立した音楽作品の持つ影響であったり社会的な機能ではないという 反論もまた可能だろうが、そうした反論を一旦認めてなお、マーラーの音楽に顕著な何らかの傾向が、 マーラーの音楽を「予言的」たらしめているということは言いうるであろう。

その一方で、狭義での音楽の歴史の展望の下においてもまた、マーラーと新ウィーン楽派とのある種特権的な 関係をもって、マーラーの音楽に次の世代の音楽の予兆を読み取ろうとする傾向が存在する。音楽そのものにとっては外的な 人的な交流の水準のみならず、マーラー自身の音楽の発展史を俯瞰してみれば、その中期以降の作品に新ウィーン楽派を 準備する要素を見出すことはそんなに難しいことではないだろう。そしてその影響の範囲は新ウィーン楽派に留まる わけではなく、新ウィーン楽派に由来するセリエルな発想に対する代替として出てきたコラージュ的な作曲法、 層的な作曲法、空間性の重視、音色の多様性や調律されていない雑音的な音響の組合せなど、マーラーとの影響 関係が議論される手法は少なくない。これまた後付けの理屈ではあるけれど、そうした作曲法のいわば先駆として マーラーを発見することは、そのままマーラーの音楽の「未来性」の証言であるという認識に繋がっていく。

マーラーの音楽そのものの時間性の方はと言えば、それは目的論的な構造を持っているが、外から与えられた(ということは 既に使い古された、ということでもあるが)図式が無批判に利用されることはなく、唯名論的にその都度形式が吟味され、 時には破綻が生じたようにも見え、時にはそれが或る種の別の構造へと作り変えられるといったことが生じる。 だが、目的論的な構図がなければそれらはそもそも機能しない。そして目的論的な構図というのは、少なくともマーラーの時代以降、 21世紀の現在に至るまで、マーラーが聴かれるような文化的・社会的な空間における存在論的な基本構造である。 ジュリアン・ジェインズが構想したような意識の考古学のような射程においては、それは必ずしもある時代の反映ではなく、 もっと長期的な(ただしそれが地球上の人間の在り方として多数派であるというのは、単なる思い込みである可能性が 高いことは念頭においておいた方がいいだろう)存在論的な「時代」を通じて見られる一般的な構造であるだろうが。 だが、ある時期以降、マーラーははっきりとアナクロニスムになった可能性もまた考えてみるべきだろう。確かにある文化に属する あるジャンルの中の展望としては、それはこの半世紀、流行現象と言って良いほどの受容がなされたのは確かだろう。 だが、その外部の広がりの大きさを考え、更にそれがマーラーの時代以降、だんだんと大きくなり、ますます大きくなっていくで あろうことを思えば、マーラーの音楽を聴くこと自体が最早時代にそぐわない、アナクロニックな行為と見做されるのではないか。 確かにいわゆるコンサートのレパートリーとしてはある時期以降、あくまでも相対的に順位を上げ、演奏頻度が上がってきている のは確かだが、それが今日演奏されるの意義が、マーラーの生前、例えば1910年の第8交響曲の初演の持つ意義と 比べて、あるいはまた、第二次世界大戦後のウィーンで再びマーラーの作品が鳴り響いた折の意義と比べて、その頻度と アクセスのし易さに応じて大きくなったとはいえないのではなかろうか。そもそも自分は何故マーラーの音楽を聴くのか? もしかしたらそれは、今や絶滅に危機に瀕しているかも知れない存在の様態を擁護し、その意義を信じて投壜通信を 行うためではないのか?

勿論、マーラーの音楽が聴かれなくなる未来というのを想定することはできるだろう。否、同じ時代に生きていながら、 マーラーの音楽とは無関係に生きている人間の方が圧倒的に多いことを考えれば、マーラーの音楽が聴かれる場というのは、 常に既に極めて限定されたものであったし、今でもそうだし、恐らく将来もそうであるに違いない。ジュリアン・ジェインズの二院制の心に おける意識の考古学が告げるように、マーラーの音楽は、過去のある時期より遡っては存在しえなかっただろうし、未来のある時点、 ポスト・ヒューマンの時代には、マーラーの音楽は既に絶えて久しい、かつて「人間」と自己規定した存在の在り方を証言する 考古学的な遺物となる可能性だってあるだろう。だがその時には、そもそも音楽自体が今のままではありえないのではなかろうか。 例えば三輪眞弘さんが「感情礼賛」で仮構したような事態を思い浮かべてみれば良い。そこでは「音楽を一人きりで聴く」という こと自体が最早不可能であるに違いないのだ。そしてその時は、同時にマーラーの音楽は最早如何なる意味においても 「未来」とは関わりのない、化石のような記録に過ぎないものとなるだろう。だが、その時にはこの私は、マーラーの音楽よりも更に 儚く堆積の下に埋もれ、かつてあった痕跡すら喪われ、端的に無に帰しているに違いない。マーラーの音楽なき未来は、だから 私にとっては端的に存在しない。私よりもマーラーの音楽の方が永続的なのだ。してみれば、マーラーの音楽は、こと私に限って言えば、 常に未来に在るといってもいいのかも知れない。ただしそれは、マーラーの音楽が、かつて未来であった今日を予言していたという意味合いでは 全くない。寧ろマーラーの音楽は、その個別の作品の時間性の裡においてそれ自身の未来を(仮にある時には幻滅の下、断念されたものとして であったとしても)志向するのだ。(2013.4.23,27)

音の身ぶりの変形とモンタージュ:マーラーから見たシューマンについて

マーラーがシューマンの交響曲のオーケストレーションに手を入れたことは今日では良く知られていて、その楽譜をリアライズした演奏の CDすら存在するのもまた、マーラーに親しんでいる人であれば周知のことであろう。マーラーの研究が進んだ今日では、マーラーの 発想を知るためのよすがとして、自作よりも寧ろ他人の作品の編曲を調べるといったアプローチが取られることもしばしばで、 シューマンの管弦楽法の手直しは、恰好の資料を提供していることになるのだろう。いわばそれはマーラーをより良く知るための或る種の 迂回路の如きものというわけだ。

翻ってシューマンの側から見た時に、マーラーの手直しはシューマンのオリジナリティを損なう余計な作業ということになるのかも知れない。 皮肉なことにこちら側からの風景でも、そこに見出されるのはシューマンよりはマーラー自身の姿のようなのだ。だが、人によってはそこに マーラーがシューマンの交響曲をある意味で(ベートーヴェンと並んで)特別扱いする思い入れのようなものを見出し、マーラー化された シューマンではなく、シューマンをいわば自分の原点の一つとして、いわばシューマン的なものを継承しようとするマーラーを見出すことも 可能ではなかろうか。

更に言えば、シューマンの作品の中での交響曲の位置づけの方も微妙であって、コンサートのレパートリーとして定着し、新しい録音も 絶え間なくリリースされるとはいうものの、やはり本領は初期のピアノ曲にあるという見方は根強いものがある。形式上の独自性という点でも、 初期のピアノ曲の方のそれの無比の独創性をまずは評価すべきなのは論を俟たないだろう。それ比べれば交響曲は或る種の退行である と見做されたり、そうではなくてもこちらは形式的に難ありとして留保がつくこともあれば、自分に向かない方向に向かう自滅的なプロセスを 辿ったサンプルとして否定的な評価をされることもあるようだ。実際にはシューマンの交響曲にも形式上の独創を見出す見解もないではなく、 実は個人的には寧ろそうした見解に共感することが多いのだが、シューマン自身がそこに「新しい道」を見出したブラームスの交響曲の評価と 比べれば、シューマンの交響曲の評価は毀誉褒貶相半ばするといったところだろう。ピアノ作品の独創性が顕揚されるあまり、シューマンは シンフォニックな発想を得意をしなかったかのような評価が為されることもめずらしくない。

ところでその形式についての評価が毀誉褒貶相半ばするという点では、マーラーもある意味では同じという見方も出来るだろう。 特にマーラーの交響曲を成立順に眺めていったときに、特に後期の作品の形式は旧来の図式論ではいわば出発点をしか言い当てる ことができない程、形式原理の換骨奪胎が進んでおり、従来とは異なりつつも、その後の音楽が放棄してしまったかに見える大規模な作品を 構成する原理を見出すことに成功しているように見える。巨視的な形式に関するカテゴリとしては、アドルノはそのマーラー論において示した 3つないし4つのカテゴリーが著名だろう。

一方でいわば微視的な構成の原理としてアドルノが指摘するのが、変奏ならぬ変形(ヴァリアンテ)の技法であるのだが、例えば第4交響曲 第1楽章の分析を追っていると、それが道化師の鈴で始まる作品であることも相俟ってか、どことなく、シューマンの作品における音の身ぶりの 変形とモンタージュという構成原理のことを思い浮かべてしまうのは私だけだろうか。

勿論、巨視的な構成原理もそうだし、それ以外のトピックでも、リゲティ等が指摘するコラージュ性や複数の時間の流れは一見したところ シューマンの音楽の性格とは異なったものに見えるが、フモールやイロニーの存在や或る種のカーニヴァル性、更には音響的な実現の仕方は異なるとは いいながら、発想としては類縁のものを感じさせる空間性に対する意識というように、直接的な影響ではなくても、その志向においてマーラーが シューマンと共通する部分は少なくないように感じられる。「遠くから」という指示は、マーラーの場合には実際に舞台裏や舞台から離れた高いところで 演奏する指示であり、コンサートホールにおける音響の効果を狙ったものである、というのが一般的な了解だろう。だが、マーラーの場合においても それはリアルな音響空間のそれであると同時に理念的な空間性への意識とも無関係ではありえない。第6交響曲のカウベルや低音の鐘のように、 マーラー自身も警戒して述べているが如く、一見すると標題音楽的な描写的なものと受け取られがちな指示は、寧ろ音楽自体が切り開く ヴァーチャルな空間の質に対する形容なのである。一方のシューマンの場合の「遠くから」は、それがピアノ曲の楽譜に書き込まれているからには、 或る種の発想指示と捉えられるのが普通であり、こちらは実際の奏法上の具体的な対応物を持つわけではなく、けれどもやはり音楽が自ら 産み出し、その中で展開される空間の質に対する指示なのであって、超越性なり彼方への一般的にはロマン主義的という言葉で一くくりに されるであろう共通の志向を見てとることは寧ろ自然なことにすら感じられる。否、冒頭で言及したシューマンの交響曲へのマーラーの改訂作業は、 まずは演奏現場での解釈者としての作業であるという点を忘れるわけにはいかないにせよ、そうした点での共感に基づいたもののように思われる。 (一例だけ挙げれば「ライン」交響曲第1楽章に出現するホルンのシグナルは、明らかに空間的な質を担ったものだが、その質を確保すべく、 マーラーは、自作で行うようなゲシュトップフ奏法を指定している。実現される音響はこれはシューマン的というよりはあからさまにマーラー自身の ものに近づくこの改変は、見方を変えればマーラーがシューマンの音楽に、自分の音楽に通じる質を見出していたが故のものであると私は思われる。)

いや、そもそももっと状況証拠的なところでの接点なら幾らでもあると指摘する人もいるかも知れない。ジャン・パウルやホフマンへの傾倒、 子供の魔法の角笛や、リュッケルトといった詩人への嗜好、ヘルダーリンに対する高い評価、更にはゲーテに対する傾倒(「ファウスト」の 終幕に音楽をつけたという点でも両者は共通点を有する)というように、文学的嗜好の面での共通性は小さくない。更には音楽外的な 伝記的な出来事が音楽を語るときに絶え間なく進入する点でも共通しているといえるかも知れない。

だがここではもう一度、音楽そのものの構成原理に立ち返って、音の身ぶりの変形とモンタージュというシューマンにおける主要原理と マーラーのそれ、そして交響曲の形式原理に関して、シューマンを通してマーラーを眺めることを追求してみたいような気がする。 一般にはマーラーはワグナー派に分類されているし、交響曲においてもブルックナーと対にして語られることが多く、(パウル・ベッカーの 分類によれば)オーストリア的な交響曲の流れとしてシューベルトの系譜に位置づけられることはあっても、シューマンと比較して 論じられることはほとんどないと言って良い。そして勿論、一見して明らかな違いを等閑視しようというわけではないのだが、 にも関わらず、全く恣意的な比較に留まるわけでもないのではないかというように思えてならないのである。(2013.4.23,27)

音楽を一人きりで聴くこと:マーラーの場合

アンソニー・ストー「音楽する精神」(原題:"Music and the Mind", 1992)には、「音楽を一人きりで聴くこと」と 題された章がある。音楽を一人きりで聴くというのは、音楽の聴取の側面における様態を問題にしているのであって、 なかんずく対比されているのは、音楽を誰か「とともに」聴くことであろう。後者の様態の例としてすぐに思い浮かぶのは 例えばコンサートホールにおける聴取だろう。今日の一般的なコンサートのあり方においては、自分の住まいからは 離れた場所にある専用のコンサートホールで、決められた日時に、決められた演奏者が決められた曲目を演奏するのを、 複数の人間がその場を訪れて聴くことになっている。理由はさておき事実として演奏会場では、その演奏会を聴くという 目的を同じくすること以外にはほとんどの場合接点のない、見ず知らずの数多くの人間とともに演奏を聴くことになるわけだ。 予め定められた(プログラムされた)曲目・演奏家の演奏を同時に不特定多数が同じ場所で聴くという点で、複数の 意識の時間的・空間的な同期が生じているわけである。移動するための公共輸送機関の利用といった間接的な側面は 無視できないかも知れないし、演奏会場を支える電気や上下水道といったインフラの存在を閑却することもできないが、 聴取の現場では、アコースティックな楽器の発する音響を直接自分の耳で聴くという昔ながらの状況が辛うじて 保持されているとは言いうるだろう。

一方で、例えばラジオ放送を介して音楽を聴くときはどうだろうか。予め定められた(プログラムされた)曲目・演奏家 の演奏を同時に不特定多数が聴く点までは同じだが、「同じ場所で」という側面が脱落していることがわかる。更に演奏が録音された 記録媒体の再生装置による再生によって音楽を聴く場合は、「同時に」という側面すら脱落してしまう。と同時に、演奏が、 翻って演奏の聴取が備えていたはずの「1回性」という特性すら失われてしまう。勿論聴取そのものは都度異なったもので ありうるだろうが、「再生」される音楽は「同じもの」の「再生」であり、同一のプログラムを何度か演奏するのに立ち会うのとは 根本的に異なった事態が生じていることは否めない。

音楽を一人きりで聴くことの方を考えてみると、厳密には誰かの生演奏の聴き手が私一人であるといったケースを考えれば、 メディアの介在なしには絶対に成立しえない訳ではないように見える。だがしかし、ストーの言う音楽を一人きりで聴くことには、 演奏者が場所と時間を同じくしないという条件が含意されているのである。人は音楽を一人きりで聴くとき、そこには 再生装置こそあれ、他者は不在なのである。更に言えば再生装置というのは、演奏家のような存在とは異なって、いわば その存在の対象的性格が希薄な存在、ハイデガーの道具的存在であり、更には或る種の透明性を帯びているのは メディア(媒体)という規定が端的に示すとおりである。人は自分の目前に演奏者(達)を想像することができるだろうが、 それはメディアが生み出す虚像に過ぎない。そしてその行き着く果ては、演奏者(達)も消えてしまい、端的にそこに音が 鳴り響いている場に一人で立ち会っている、という構図であり、恐らくはストーが言い当てたかった事態もまた、この 最後のケースであろうと思われる。それは従って、メディアによって可能になった聴取であり、メディアなしでは成立しえない タイプの聴取のあり方なのだ。

このとき「音楽を一人きりで聴く」私は、端的に「音楽」に対面することになる、と言えるだろう。勿論人はそれを誰が演奏したかを知っている。同じ演奏を何度も繰り返し聞くことや、いろいろな演奏を何度でも聞き比べることが できることによって、一度きりの演奏に立ち会うことでは困難な演奏解釈についての反省的な把握というのも、 メディアの介在によって可能になった聴取のあり方の一つであろう。他方で人は、誰が演奏したかを知らずにある作品に 端的に接することも可能だし、演奏者を意識することなく作品そのものを聴くといった姿勢をとることが少なくとも 可能にはなっている。あたかも作曲家との「個人的な」対話が成り立っているかの如き感覚に捉われることも不可能では なかろう。音楽がある種の情動を伴いつつ、具体的な風景や光の調子、空気感や色彩感といったものを聴き手に伝達する ものであるとするならば、「音楽を一人きりで聴く」時、聴き手は寧ろ端的にそうした音楽が浮かび上がらせる想像上の 風景の中に居るのであって、決してコンサートホールに居るのではない。逆にコンサートホールでの聴取においても コンサートホールに居ることをしばし忘れて音楽に聴き入り、音楽が描き出す想像上の空間の中に身を置くような 聴き方だって可能であろう。だがその時、演奏者とのコミュニケーションはどうなるのであろうか。そもそも音楽に没入し、 演奏者をいわば「消去」してしまった聴き手は演奏が終わった後、拍手をするだろうか。

コンサートホールに おける際立って感動的な経験は、演奏者と聴き手との間の或る種の交感による一体感がもたらすものだ。 コンサートホールでの聴取は実際には単なる聴覚に限定された経験ではない。演奏を視るという視覚的な 側面も重要だし、演奏者が演奏する楽器から直接伝わる空気の振動を感じ取るといった側面も際立って 強い作用を聴き手にもたらすだろう。 他方において今日のコンサートホールでの演奏においてすら、演奏は超越的な何物かに対する奉納でありえるし、 聴き手も含めての礼拝たりうる。勿論、代替物は他にも幾らでもあるし、そうした集合的な熱狂、共同体的な 一体性の経験が危険と隣り合わせであることもまた確かなのだが。ましてやマーラーの場合には、 そうしたことが作曲者の企図でもあったらしい第8交響曲以外の作品においても、演奏の場は孤独ではありえない。 指揮者の存在はあるが、オーケストラは集団的なものであり、ピアノ・ソロのリサイタルのような個人の 声に満場の聴衆が聞き入るといった事態からも程遠い。

コンサートホールで指揮を「視る」とき、解釈している指揮者が現前していて、 解釈が提示されているのであって、作曲者が現前している のではない。あたかもマーラー自身が語っているかのように、あたかもマーラーの声を聴くかの ように、あたかもそこでマーラー(の幽霊)と対話するかのように音楽を聴こうとするとき、 人は、自ら奏者になるか、あるいは演奏という媒介を括弧入れする操作をしなくてはならない。 前者の場合には、楽譜が作曲者の代補となり、後者の場合には録音技術による演奏を記録 した物理的媒体、即ちレコードやCDといったもの、本来は演奏の代補であるはずのものが、 或る種のショートカットによってあたかも作曲者の代補であるかのような思いなしが可能となる。

いずれにせよ確実なことは、投壜通信の媒体としての楽譜・レコード・CD等を介して、一人で自宅で マーラーの作品を聴くような聴取の在り方は、恐らくはマーラーの同時代には想像もつかない、想定外の ものであっただろうということだ。好きなときに、好きなだけ、何度でも聴くことが可能で、実演の経験では 到底不可能な様々な解釈の比較も可能だ。じきに音楽を楽譜もなしに思い浮かべることも可能になるだろう。 そして不完全で薄れがちな記憶の頼りなさは、何度でも繰り返し再生可能な記録媒体によって都度修復し、 記憶の中に「作品そのもの」を構成することをさえ可能にするかに見える。マーラーの音楽はLPレコードの普及の 恩恵を最も受けた代表的な存在であるという言われ方が何度となくされてきたが、マーラーの音楽のような長大で 複雑な作品の場合、場所を選ばずに何度も聴けること、場合によっては自分が聴きたい部分のみの部分的な 聴取すら可能にすることだけでも、その作品の受容にとっての寄与は大きなものであっただろう。

あたかも 演奏の個別性・恣意性をフィルターして、「作品そのもの」に辿り着けるかの如き錯覚が生じ、ことマーラーの場合なら、 マーラー自身(の幽霊)と直接対話しているかの如き錯覚が生じるのだが、例えばそれはスコア・リーディングによって 音楽を構成していく作業でも生じうるという点で、同じくスティグレールの第三次過去把持の水準にあるもので ありながら、仮構の具体的な在り方は異なって、鳴り響くであろう音を自ら想像するのではなく、 既にその場に響く音を受容するという仕方でまず大きく異なる。そこでは端的に音楽が「彼方」から私を 目がけて到来する。コンサートの経験というイヴェントにおいて演奏という媒介の働きを共時的に体験するのと 異なった、無媒介な音楽自体との遭遇が可能であるかの如き錯覚が成立する。CD等の記憶媒体を介しつつ、 こうして記憶され内面化されるうちに媒体の外部性は忘却され、恰も音楽が自分の内側で鳴り響き、 自分の奥底から響いてくるようになっていく。勿論、マーラーの音楽が鳴り響く仮想の空間の広がりは確保 されるのだが、それは現実の空間ではない、内面に穿たれた想像上の可能世界の中に響きわたることで実際には 仮想的なものであれ、空間そのものを構成するのである。これはマーラー自身の言った「一つの世界を構築すること」の実現ではないのか? 一匹の生物のちっぽけな脳の中での出来事、それ自体は個体の死によって無に帰してしまう、世代を超えて継承されることないエフェメールな出来事に 過ぎず、世代を超えた連続性は、実はそれを事前に可能にしていたCDや楽譜といった媒体によって 保証されているのだが、マーラーの音楽が頭の中に鳴り響く瞬間、そこにはその生物の生涯の持続を超えた 時間的な広がりが可能となり、物理的な制約を超えた空間的な広がりの展望とその中での自由な時空間の (仮想的な想像上の)移動が可能になるのだ。

その一方で、そうした「私的」な聴取とまさに呼応するかのように、「私的」な交響曲という逆説が存在する。 古典派までの交響曲は明らかにそうではなかったし、時代を下って例えばソヴィエトで生きたショスタコーヴィチの 場合もまた、別の意味合いで交響曲には公的な性格がいわば強制されたのだが、マーラーのそれについて言えば、 交響曲という形態が、例えばコンチェルトのような「パフォーマンス性」を持たず、歌劇やバレエのための音楽のように 音楽外的なものと関連するわけでもなく、宗教音楽のような儀礼のための機会音楽でもないというその抽象性によって、 作曲家の最も私的な領域に通じ、いわば個人としての作曲者にとって自由に筆を揮うことのできるキャンバスの ようなものであることが、聴き手の側の聴取の「私性」と呼応しているかのようだ。協奏曲や室内楽が、歌曲や場合によっては 歌劇すらも、特定の奏者が演奏することを想定して作曲されることがしばしばあるのに対し、ロマン派の交響曲の作曲は 無益な営みといった趣があり、それがゆえに生前は第一義的には有名な指揮者、楽長であったマーラーの場合であれば、 歌劇場監督の余技の類、道楽だと揶揄されもすることに繋がる。その一方で、その作品はバロックや古典期の作品が そうであったように、或いは今日なおそうした目的で大量の作品が生産され、消費されているのだが、大量に生産し、 一度だけ消費されれば使い捨て、といった消費のされ方を自ら拒絶する志向を備えているに違いない。勿論、繰り返し 演奏されるか、とりわけても作曲者の没後に繰り返し演奏され、録音され、レパートリーとして、あるいはカタログの上に 定着して残っていくのは莫大な作品の中のほんの一部に過ぎないのだが、マーラーの音楽が、そうなることを期待して 作曲され、そして実際に未来に生き延びたことは確かなことだろう。

そもそもマーラーの交響曲は「私的」な心境の表白ではなく、マーラー自身が言ったように一つの世界を構築することであり、 発想的にもポリフォニックな傾向を本質的に備えているとはいえ、その作品の世界に聴き手があたかも一人で歩み入り、 その世界を自己のものとすること、言い換えればその世界に触発されて一つの主体として生成することを可能にするかのようだ。 「音楽を一人きりで聴く」のはだからマーラーのケースに限って言えば、その作品そのものがそうした聴取を要請するとまでは 言えなくても、少なくとも許容するような契機を孕んでいるからであるといえるかも知れない。それを誇大妄想的な巨大な独白と 見做さずとも、その音楽の持つ時間性は、マーラーの時代の、更にはマーラー以後、21世紀の現在に至るまでの主体の、 意識の在り方のあるタイプのそれそのものと言って良く、まさに楽譜の形で、あるいは録音媒体を通じて記録されたマーラーの 作品を受容することによって、文字通りに人は或る仕方で存在するように自己を形成するのである。従って音楽を聴くことは 主体の行為というよりは、それを通じて主体が形成される過程であり、どのように形成されるかについてプログラムされた回路の 作動であるというべきなのだ。

勿論、マーラーの音楽が聴かれなくなる未来というのを想定することはできるだろう。否、同じ時代に生きていながら、 マーラーの音楽とは無関係に生きている人間の方が圧倒的に多いことを考えれば、マーラーの音楽が聴かれる場というのは、 常に既に極めて限定されたものであったし、今でもそうだし、恐らく将来もそうであるに違いない。ジュリアン・ジェインズの二院制の心に おける意識の考古学が告げるように、マーラーの音楽は、過去のある時期より遡っては存在しえなかっただろうし、未来のある時点、 ポスト・ヒューマンの時代には、マーラーの音楽は既に絶えて久しい、かつて「人間」と自己規定した存在の在り方を証言する 考古学的な遺物となる可能性だってあるだろう。だがその時には、そもそも音楽自体が今のままではありえないのではなかろうか。 例えば三輪眞弘さんが「感情礼賛」で仮構したような事態を思い浮かべてみれば良い。そこでは「音楽を一人きりで聴く」という こと自体が最早不可能であるに違いないのだ。そしてその時は、同時にマーラーの音楽は最早如何なる意味においても 「未来」とは関わりのない、化石のような記録に過ぎないものとなるだろう。 (2013.4.23,27,28)