2011年5月29日日曜日

マーラーの音楽の「サウンドスケープ」

マーラーの音楽から聴こえてくる風景には当然のことながら、マーラー自身の生きた風景が映りこんでいるといって良いだろう。 勿論、聴き手が受け止めるものは聴き手の側の生きている風景の影響を受けて変容する。マーラー自身の生きた時代に関する知識が 無くてもそれなりに、その音楽から聴き取り、聴き手が構成する風景というのはあるだろう。マーラーの音楽自体が聴き手の生きている風景の 一部であるという視点は無視できないだろうし、そのようにして別の時空を生きた他者の風景を自分の風景に取り込むことが、聴き手の 風景を、同じことだが風景の感受の様態を変容させることは確実であろう。一方で、聴き手がもともと備えている風景の感受のあり方が音楽の嗜好に 影響し、マーラーのように風景の感受に対して肯定的であったり否定的であったりというのもあるだろう。また、こうした作用は何もマーラーにのみ 固有の事態ではなく、他の音楽作品についても起きることかも知れないし、或る種の音楽ではそうした事は起きないかも知れない。 だが、最後の点についてはいつもの通り、それによって音楽を定義することや音楽の類型を括りだすことには関心はなく、 個別のこの音楽(ここではマーラーのそれ)の個別性を突き止めることにあるので、ここでは専らマーラーの場合に絞ることにしよう。

マーラーの音楽から聴こえてくる風景といった時、そこで問題になっているのは、マーラーの音楽で用いられている「素材」としての音響だけではなく、 マーラーがそれをどのように音楽として組織化したかという形式化のあり方そのものである。実際にはこの両者は相関していて単純に分離することは できない。しばしば言及される「自然の音のように」というマーラーの指示も、それによってマーラーが「自然」の風景を音画的に描き出しているという のは(ヘーゲル的な意味合いで)抽象的な把握であって、その手前にはマーラーの「自然観」が横たわっているだろうし、それと表裏を為すように マーラーの「音楽」のありようが炙り出されてくる様相を捉えるべきなのだ。マーラーの場合には文化史的な視点での優れた研究というのが存在しており、 マーラーの「自然観」がどのような文化的背景を持つのかを重層的に把握する試みも行われている。だが「自然の音のように」と楽譜に書き込んだとき、 そのようにして形作られる「音楽」と「自然」との関係もまた問われなくてはならない。それをわざわざ混乱しきった「標題」の問題に還元するのは、 あまり粗雑な抽象、却ってマーラーの場合の特殊性を取りこぼし兼ねない誤った一般化ではなかろうか。それに比べれば、シェーファーの 「サウンドスケープ」を手がかりに、ベルンハルト・アッペルの「マーラーの交響曲における大都市型の知覚パターン―社会学的研究―」を紹介しつつ、 マーラーの音楽に、彼の生きた時代にまさに進んでいた「都市化」の力が映りこんでいることを示した渡辺裕さんの「文化史のなかのマーラー」の 第8章「都市の音の知覚」は遥かに多くのことをマーラーの場合について示唆しているように私には思われる。

とはいうものの、実を言えば、マーラーの音楽を「都市の喧騒」を映し出しているという主張そのものには単純に首肯し難いものを感じるし、 アッペルの挙げている「大都市型」の音の知覚に基づくとされる音楽書法「偶発的ポリフォニー」「異種並列様式」「主題の断裂」「モチーフの モンタージュ」の四つについても、個別の特徴が傾向としてマーラーの音楽に見られることについては同意できても、それを「大都市型」の音の知覚に 基づける点については違和感無しとはしない。残念ながらきちんとした議論をするだけの余裕がないので、ここでは後日の議論のための備忘として、 私の感じる違和感をごく素朴に書き留めておくことにしたい。

1.マリー・シェーファーの「世界の調律」の中の「記憶のホルン」について。ここではまさに「自然の音のように」という指示のあるあの第1交響曲第1楽章 の序奏のホルンが扱われているようだ。シェーファーによればそれは風景の変質を映し出しており、都市化の進展により喪われた田園風景を ノスタルジックに振り返るものだという。マーラーの時代に都市化が進展したのは間違ってはいないだろうし、各地を転々としつつ歌劇場でのキャリアを 積み重ねていったマーラーの居宅はほとんどの場合都市部にあったのは事実だ。「自然の音のように」という指示の裏側に、「自然」ではないものの 存在を意識するが故に、あえて恰も改めて模倣されるべきものとしてそのように書き込まなければならなかったという消息を関知するのも間違いでは なかろう。だが、ここで「自然」と対立するのは実のところ何なのか?第一義的にはそれは「音楽」という「人工物」と考えるべきではなかろうか。 些事に拘泥するならば、「記憶のホルン」の記憶は誰の記憶なのか。マーラーの幼年時代のそれなのか。あるいは「子供の魔法の角笛」歌曲集に おけるような幽霊的にしか存在したことのない偽りの過去なのか。それとも(夏の作曲家マーラーが作曲小屋で創作に励むのは少し先の話だが) 休暇に訪れる郊外の風景の記憶なのか。昨日、あるいは数時間前に訪れた郊外の風景の記憶としての「音楽」ということはないのか。 ハイドンとマーラーの間に、シューマンを、あるいはマーラーと時代と場所を共有した、だが、明らかに前の世代に属するブラームスを置いて、 そこでの「狩のホルン」の位置づけを問うた時、「記憶のホルン」はマーラー固有のものなのか。マーラー固有のものであるという強い主張が為されている 訳ではないことを認めたとして、ではそのことを殊更マーラーの場合に結びつけるのは、どのような事情によるのか。

2.ベルンハルト・アッペルの「大都市型」の音の知覚に基づく音楽書法をマーラーの音楽の特徴とすること自体に大きな異論はない。だが、 実際にはそれもまた程度の問題で、マーラーの音楽はそれらの特徴を、過去の音楽に比べて、あるいは同時代の他の音楽に比べて豊富に 備えているのは確かだとしても、或いはまた、非常に的確に渡辺さんがマーラーの音楽に対する同時代のカリカチュアによって例証しているように、 同時代の人々にとって顰蹙の種となる程にまでその特徴が際立っていたとしても、その後の音楽におけるほどそれらの書法は徹底されているわけ ではなく、寧ろ、マーラーの音楽の特異性は、そうした書法を伝統的な音楽の枠と対決させた点にあったのではないのか。渡辺さんもまた、第8章の結びの 部分で、ウィーンという都市そのものが「都市化」のベクトルと、それに抗する「伝統の力」の拮抗の場であり、マーラーはその「二つの力の狭間に あって激しく引き裂かれた」と書いているが、マーラーが「伝統の力」に敗れてウィーンを去ったというのを、この状況に重ね合わせるのには違和感を 感じずにはいられない。仮に歌劇場監督としてのマーラーが「伝統の力」に敗れてウィーンを去ったというのが事実だとしても(この点については私は 判断を留保する。判断するだけの材料の持ち合わせもないし、実のところそれ自体には興味もないので)、作曲家マーラーは本当に敗れたのだろうか。 そのように捉えることは、マーラーの音楽を一方的に「都市化」のベクトルの側のみに与するものとして捉えることになり、マーラーの音楽そのものが その拮抗の場であったという視点を損なってしまうことにはならないだろうか。

ここで例として、マーラーとやはり時代と場所を共有するが、マーラーとは 異なった文化的伝統にあり、かつ世代的にも後の世代であるチャールズ・アイブズの場合を思い浮かべてみよう。そしてまた、アイブズの場合と マーラーの場合とを比較して、「現実音」の使用に対する共通性のみならず両者の差異にも目配せしたドナルド・ミッチェルの「角笛交響曲の時代」の 記述を思い浮かべてみよう。この場においてはアッペルの取り上げる書法はそれ自体としては寧ろ、アイブズの方によりぴったりと当て嵌まる。 そして更にシェーファーに戻れば、「記憶のホルン」もまた寧ろアイブズにこそ相応しいようだし、「自然の音のように」などアイブズは書かなかっただろうが、 それはハイドンがそう書かなかったのと同じ理由によるのではなく、マーラーを挟んで両者がそれぞれの反対側にいるからなのだということ、「伝統の力」を それまた一つの(まさにアドルノ的な意味での)「素材」としたマーラーの音楽の立ち位置(それは境界を侵犯しつつ確定しているかのようだ)が 「自然の音のように」という指示に照応するのだということを、ここでは論証抜きで主張しておくに留める。

3.渡辺さんが「都市の喧騒」をきらって大自然の中の作曲小屋にこもったはずのマーラーのもっている別の一面をかいま見させてくれる例として 挙げている2つのエピソードについて。一つはアルマの回想の「新世界 1907~08年」の章に出てくる、マーラーがニューヨークのマジェスティックホテルに 滞在しているときのバレル・オルガンにまつわるエピソードであり、もう一つはバウアー=レヒナーの回想の「1900年夏」の章の「ポリフォニー」と題された 有名なエピソードであるが、これらを渡辺さんはウィーンのプラーター公園の遊園地における音知覚に結びつけ、第4交響曲が「街角の音楽」として 批難されたという同時代の反応に繋げていく。これらはアッペルの主張の紹介の所謂露払いのような位置づけの部分であり、シェーファーの 「記憶のホルン」から始まって、総じてマーラーの音楽を「都市の音の知覚」に基づくものとする主張を形作っている。だが、あえて些事に拘泥するならば、 バレル=オルガンのエピソードは摩天楼の聳える近代都市の中に突然侵入してきた「過去」の「記憶」が問題になっているのであって、それは寧ろシェーファーの 「記憶のホルン」に照応するもので、「自然」の側にあると考えるべきなのではないか。バレルオルガンのようなメディアが「自然」の側にあるというのは、 それ自体何某かの問題を孕んでいるかも知れないし、例えば人が似たような認識・知覚の様態を第9交響曲のハ長調の第2楽章に見出したとしたら、 それはそれで基調をなす「世の成り行きの喧騒」の側について、もう一度「都市の喧騒」との関係を問うのは全く正当なことだと思うのだが。

「ポリフォニー」のエピソードについても基本的には同じことが言えるだろう。つまりそこでの「ポリフォニー」は両義的なものであって、それが発生させる 喧騒・騒音は、「自然」のそれであり、同時に「世の成り行き」のそれでもあるという点にこそ、マーラーの音楽の、マーラーの音楽に刻印された 認識の様態の独自性が存するのではないのか。マーラーの都市型ポリフォニーの最も顕著な例として、人はまたもやハ長調の第7交響曲の ロンド=フィナーレを挙げるかも知れない。それを肯定的に評価するのであれ、否定的に評価するのであれ、あるいはそこでの「失敗」を 評価するといったアドルノ的な立場をとるにせよ、アドルノでさえ遊園地の喧騒を見出しているこの音楽こそ「都市の音の知覚」のもっとも端的な反映が 見られる範例であるといった主張がなされるかも知れない。だが、またもや些事に拘泥すれば、件のエピソードはオフ・シーズンの避暑地での出来事で あったのだし、第7交響曲のロンド=フィナーレの末尾では、先行する楽章では遠くから聞こえていたカウベルが舞台の上でガラガラと響きわたるのである。 第3交響曲の第1楽章でもそうだが、寧ろここでは「自然」そのものが大都市さながらの喧騒の巷と化していると言うべきではないのか。

勿論、オフ・シーズンの避暑地での出来事は、マーラーの時代ならではのもので、それもまた広義で「都市の音の知覚」の一部を為すという言い方もできるかも知れない。 だがそもそも、角笛もカウベルも「自然」そのものではない。(「ポリフォニー」のエピソードの末尾でマーラーが、またもや「過去」に遡行して、イーグラウの 森の中での経験を語ることに留意しよう。)第3交響曲第3楽章のポストホルンが人間の存在を告げ、自然の中に無自覚に埋め込まれているのではなく、 自然の中で、田園の風景の真っ只中で、だが距離をおいて(「遠くから」聴こえるのだから、聴き手の方が遠く離れているのだ)自然を眺める眼差しの存在を 証言するように、ここではそれが「都市」であれ「自然」であれ、自分が埋め込まれた環境に対する現象学的還元にも比せられるような括弧入れが 行われている、そうした態度変更が問題なのだ。(翻って、ハイドンの音楽には彼の生きた時代の「都市」の方は映りこんでいないのだろうか。決して そんなことはあるまい。)確かにマーラーの「自然」への態度には或る種の反省的な意識の介在が認められるし、それが文化的な背景を持つものであることも 間違いではなかろう。だが、マーラーは同じ眼差しを「都市」に対しても投げかけているのではなかろうか。彼の同時代の、もしかしたら「都市の音の知覚」に もっと(無意識、無自覚であるが故に)忠実かも知れない他の音楽と比較してマーラーの音楽を特徴づけるのは、それが「都市の音の知覚」の様態を 反映している点ではなく、「都市」も「自然」も含めた「世の成り行き」に対する反省的な視点であり、それらの手前、ないし彼方にあって(ということは その場には現れていないということだが)それらを根拠づけ、価値づける筈の(なぜならそれらはその場には現れていないのだから、それは実現はしていないし、 実現する保証もないのだ)ものに対する探求の姿勢ではないのかと思われてならない。そうした姿勢が音を聴く態度にも映りこむ。その結果として その音楽は(マーラー自身がそう語ったと伝えられるように)「憧れ」を含むのだ。「憧れ」は決して音楽の「標題」でもないし、「素材」ですらなく、 寧ろマーラーの姿勢や態度の結果として音楽が孕み、聴き手に伝播するものなのだ。

そしてもう一度。マーラーの時代の風景には、それがマーラーの音楽に直接映りこんでいるかどうかとは別に、「都市」的なものが含まれているのは確かだ。 渡辺さんが引いたカリカチュアに「4度で鳴く」カッコウとともに、蒸気機関車が含まれている点は、私が蒸気機関車をマーラーの音楽に見出すかどうかとは 別として、興味深い。私は蒸気機関車をごく例外的にしか知らない「から」、聞き取れないという可能性を否定しない。マーラーの時代の「都市」と 私が知っている「都市」は同じものではないから、私はそれを「都市の音の知覚」として聞き取れないという可能性もまた。マーラーの時代、馬車はまだ 走っていたが同時に市電が走り始め、自動車もまだ珍しいものであったけれど、既に走っていた。鉄道網、蓄音機、写真、記録装置としてのプレイヤーズ・ピアノ、 白熱電球といった技術がまさにマーラーの生きている時代に発明され、その後の普及を待っている状態にあった。電力を用いた様々なメディア普及の前夜に 書かれた「音楽」。実のところ私にはマーラーを聴いても「都市の喧騒」はちっとも響いてこない一方で、公式な(だが如何なる権威によってか?)マーラーの後継者、 息子たちとは隔たって、20世紀のメディアの揺籃期に生み出された作品としての位置づけを確認する作業を行い、その上で今・ここで自分に呼びかけられているものに答え、 記憶の継承への関与していかなくてはならないように感じている。ここでも別のところで別のある人物によって、ある別の人物について(ああ、だが、ここに或る種の並行 関係を認めるのは決して不当ではないだろう)の講演の冒頭で掲げられた奇妙なスローガンが木霊しているかのように。あなたでも私でもいい、 誰かが進み出て以下のように言う。「生きることを学びたい、終に」、と、、、(2011.5.29初稿)