2010年11月6日土曜日

 かつてパウル・ツェランはブレーメン講演において、マンデリシュタムが「対話者について」で述べた「投壜通信」を引用して、 詩を、必ずしも希望に満ちてはいなくても、いつかどこか、心の岸辺に打ち寄せると信じ、流される投壜通信であるとした。 航海者が遭難の危機に臨み壜に封じて海原に投じた、己れ名と運命を記した手紙。誰も聞いてくれないのに 小声で語られる末期の言葉は、だが、彼が去ったのちに、どこかの砂浜に打ち上げられ、砂に埋もれた壜に偶然気づいた人に 拾い上げられて読まれることはないのだろうか。
 
 マンデリシュタムはやはり「対話者について」において、そうした手紙を読むことが 自分の権利であると言っている。壜を見つけたものこそが手紙の名宛人なのだと。 かくしてある時には人の一生を超える時間の隔たりと、地球を半周の場所の隔たりを乗り越えて、 だが、実際にはそうした距離の測定を無効にする印刷技術が可能にした記譜法のシステムと 録音・再生のテクノロジーに支えられて、ふとした偶然によって耳にすることによって、詩のみならず、 ある音楽が拾い上げられ、読まれる。それらは事後的に差出人を指示するが、それは常に痕跡としてでしかない。 私の裡にこだまするのは常に既に幽霊の声なのだ。
 
 ある作品の持つ「深さ」はどのようにして測る事ができるのか。伝記主義的な実証はそれが生み出された背景をなす 環境を指し示しはするが、作品を、作品から受け取ることができるものを何ら明らかにしない一方で、形式的な分析もまた、 それ自体「痕跡」であるメッセージの、情報伝達の形態のみを問題にし、ノーレットランダーシュの言うところのexformation、 メッセージが生み出される際に処分され、捨てられた情報(更にはベネットの「論理深度」とか、 セス・ロイドの「熱力学深度としての複雑性」もまた思い浮かべていただきたい)を扱うことができない。 勿論、形態の美しさ自体が、その深さと密接に関係するということもあるだろう。マックスウェル方程式にたいしてボルツマンが 発したことば、ゲーテのファウストの引用、更にはマクスウェル自身の言葉「私自身と呼ばれているものによって成されたことは、 私の中の私自身よりも大いなる何者かによって成されたような気がする」ということばを思い浮かべるべきだろう。 そのとき差出人たる幽霊とは一体何者だろうか。ダイモーンの声、ジュリアン・ジェインズの二院制の心の「別の部屋」からの声。 情報を捨てるプロセスそのものを事後的に物象化したものを幽霊と呼んでいるのだろうか。「抜け殻」としての作品。 そして捨てられた情報の大きさは、受け取るものがそこから引き出すことができる情報の豊かさに対応しているに違いない。
 
 だが、読まれたことは如何にして知られるのか、事実性の水準での認識の問題としてではなく(なぜなら既に差出人はいないから、 配達証明は無意味なのだ)、投壜通信が読まれることと読まれないことの価値論的な差はどこにあるのか。拾った主が拾ったことを 更なる(ということは差出人と受取人以外の)他者に伝えることなくして、投壜通信が読まれたことにはならない。 拾った者の個別的な有限性の中で受け取ったものを朽ちさせてはならないのだ。だがそれではどのようにして受信を証することが可能になるのか。 お前もまた「作品」を生み出すことができるのであればともかく、受け取るばかりの者はじきに支払うことができなくなり、 破産する他なくなるだろう。だが、そうした贈与の経済は「世の成り行き」とは異なる時空間に場を持つ 遭難者の論理にそぐわないのではないか。自分自身の力では打ち勝つことのできない悲しみゆえ、壜は投じられ、 あるいは果て無き砂浜を彷徨いつつ、己れ宛の壜を探し求めるのだというのに。
 
 「作品」の存在論が必要なのだろうか。広義での人工物に属し、記譜法のシステム、演奏されたものを記録する 様々な方式や媒体といったものを質料的な基盤として備えた、だが道具連関には回収しきれない存在。 そしてここにまた、普通にはコミュニケーションの道具と見做されながら、「世の成り行き」における規範に抗いつつ、 口ごもり、何度となく言い直され、但し書きが付けられ、何重にもモダリティを担わせられたことば。あえて「とおまわり」を、 迂回をすることを選んだことば。過去化し、存在化した沈殿物としての「作品」、抜け殻としての「作品」を連関から 切り離し、抽象して扱うのではなく、それ自体、何者かに向かっての語りかけとして、何者かに促されての構築としての、 「世の成り行き」の目的連関から逸脱した、経済的には単なる蕩尽であるような無為の営み。深さの次元として、 exformationとして、捨てられた情報としてしか事後的には観測できない豊饒。
 
 ことばは、私のそれであるはずのことばが発しているはずの私に対してこのように語りかける。他人からみれば不毛な独語に 見えるだろうが私にとってそれは独語であろう筈はなく、むしろ私を通して語ろうとしていることばが私を諭すかのようだ。 お前は水路、通り道、拡声器に過ぎない。おまえのことばなどないし、お前の作品の固有性などありはしない。
 
 例えばどの音楽を己の裡に埋め込み、どの音楽を拒絶するかは、その人の特殊性の一部である。 もっと言えばそうすることそのものが都度、個体化の過程であり、個体化はその脈絡によって制約されるだけでなく、 常に既に、選択であり排除である。そしてそうした過程の描き出す軌道を事後的に観察するとき、やっとそこに 「主体」が過去化の結果として、存在する。個性とは、そうした選択のもたらす特殊性の沈殿した結果に過ぎない。 (ホワイトヘッドの抱握の理論を思い浮かべていただければよい。)
 
 勿論「主体」は己の来歴のある部分を否定し、抑圧することもありうる。 抑圧されたものが何であるかは、事後的に推測することもある程度は可能だろうが、潜在性のまま現勢化することなく 去ったものがそうであるように、実際にそれを言い当てることは困難だろうし、そうした作業が意味を持つのは、その 「主体」が否定しなかったもの、「作品」として遺したものの裡に沈殿したもの価値如何だろう。大抵の場合、 そんなことに関心を持つものはいない。個体化がありふれた事象であるように、個性の多様性の海の中で、 ある特殊性が価値を持つことは稀である。そしてそれが特異点であるかどうかは、事後的にしか、巨視的な 観測によってしかわからない。
 
 そしてまた引用の織物そのものが、ある星座を描き出すかもしれない。主体が黙しても、他者の声の重なりが、 交響が、沈黙を引き受ける。誰もいない空間、現象から身を引き、「世の成り行き」から退いた空間の中を、 だが己に埋め込まれた他者達の声が交わる。お前は無だが、お前の裡に響き渡る他者の声はそうではない。 お前はあるベクトルを備えた軌道を寄せ集めるアトラクターなのだ。
 
 その一方で、それと同時に自分の中にあるもの、逆説的に、抑圧によって破壊されず護られた空間が、 ふとしたきっかけで顕れる。今なお恐らく呼びかける相手はある。それは自分を超えた何者か。 自分の内に在り、けれども、それを単なる幻影とは呼んでしまえない外性。
 
 心理学的-生物学的には単なる投射ということなのか?(例えば臨死経験の報告例の間に見られる類似性は、 その時に置かれた脳の状態の共通性に由来するだろう。差異の方はといえば、各人が埋め込まれた文化的・ 宗教的脈略に応じて、具体的なイメージとして把握されたものには違いが生じるのだ。結局のところ 生理的・生物学的基盤の共通性が、異なる文化的伝統に属する対象の享受の同型性を保証するということは 確認されるべきだろう。ことさら共役不可能性を言挙げするのは控えめに言ってもバランスを欠いている。) けれども、それに還元できない何かがまだ残っている。
 
 心の中には、どこか懐かしい、だが徹底した闇に包まれた、それでいて同時にその裡に光を閉じ込めた満天の星降る夜、 あるいは慈しみに満ちた雨の夜が封じ込められてはいないだろうか。自ら選択して抑圧し、その結果二重・三重にも隔離された空間。 きっと誰もが心のどこかに潜ませていて、だから決して未知ではなく、けれども常には安全に閉じ込めておける感情、 けれどもそれゆえに祈りが、救済が必要とされる動因となるような心の動き。その向こうには明るい夜が開けている。
 
 意識は明るい夜の裡に睡み、夢見ることで、だが私の中の誰かは目覚めている。 「世の成り行き」とは別の何かの幻影の裡でその誰かは涙し、安らう。 そして雨の夜は奥底の別の部屋(ここで私はまたしても、ジェインズの二院制の心を思い浮かべている) に繋がっているに違いない。覚醒し続け、外の暴力に抗い続け、告発を続けること、 現実を見つめるシビアな姿勢は顕揚さるべきだろうが、それはまずもって自ら「世の成り行き」と 化すことに繋がりはしないかという懸念もあれば、それ以上に、意識の賢しらさが嘲笑される瞬間に ふと垣間見える深淵、意識の手前にある領域の存在を私は知っているゆえ、 そうした「別の部屋」への通路を持たない音楽は、それが非人間的で超越的な秩序の反映だろうが、 人間の愚行と野蛮の歴史の告発であろうが、結局のところ、自分の外で響くものでしかない。
 
 「別の部屋」からの展望は、「世の成り行き」からすれば非-場所であるだろう。 それが「世の成り行き」に対する退行であるとしても否定はすまい。病理学的な標本でも結構である。私は 己が抑圧したその空間を、結局のところ否定しきれないようなのだ。それは「世の成り行き」と直接触れれば、 炉心融解によって水蒸気爆発が惹き起こされるような崩壊が起きるだろう。だからそれは何重にも閉じ込めて おかねばならない。だが、愚かな意識は、己に課された監視の務めを良く全うし得えずして、時おり、そうした 崩壊が生じ、その後には長い麻痺状態が続き、「世の成り行き」から落伍する。
 
 だがその別の部屋に住まうのは私ではない。寧ろ私という部屋に辿り着いた音楽やことばがそこで響きあい、 わたしに命じておりふしに、外に向かって溢れ出る。その流れを私が調整することはできない。自分の心の中の ある地層が大規模な落盤を起こし、その影響を「世の成り行き」に晒さずに措くために、何重もの無感動の ヴェールで覆い、凍りつかせることによって界面を辛うじて保護しようとする過程において、一緒に堰き止められたと 思われた、あるいは今度こそ涸れ果てたと思われた泉は、だが断層によって思いもよらぬ方向に浸透し、しばらくの 沈黙の時を経て、その浸透がある瞬間に相転移を惹き起こし、外に溢れ出ようとする。 その水圧は私の心の中の地形を元のままにはしておかない。変形によって生じた空間の歪みが、 今までとは異なった反響を惹き起こし、音楽やことばの交響もまた変容する。
 
 わたしの中に潜んだあなたがた、わたしの中から時おりこみ上げ、立ち尽くすわたしを、だが、そうして支え 生かしている、それゆえに辛うじてわたしが生きている所以である「あなたがた」にとっては私は楽器なのだ。 沈黙の中、あるいは饒舌の支配するなか、私は「あなたがた」を担い、運び、溶け合わせ、響かせ、 流れ出させる、固有の方向づけをもって、永遠には辿り着かずとも、あたかもそれを希求するかのように、 時を通って、だれかのもとに届けられることを希って。私は「あなたがた」の記憶であり、私の歩み、たどたどしく、 覚束無い、時には蹲ることもある歩みのその方角、それは「あなたがた」の定める力学によっている。 声の複数性、複数の声の反響、共鳴の場である私は、「あなたがた」の示す方角に歩むほかない。 こうして語ること、ことばを紡ぐことは、別の部屋に住まう「あなたがた」が、まだ私という搬体を捨てず、 私のなかで結晶し、析出しようとすることの現象でなくてなんであろう。
 
 私はそうした「あなたがた」の運動の痕跡、私が発したと思いなされたことばは「あなたがた」の軌跡、 「私の作品」は「あなたがた」の抜け殻に過ぎない。私という意識は、そうした空間を照らし出す照明に 過ぎない。擁護されるべきは意識そのものではなく、意識が照らし出すわたしではないのに、外からは わたしと見做されるところの、だがむしろ「あなたがた」の相貌であるところの結晶の構造、結晶が形成される 空間の地形そのものなのだろう。
 
 もちろん慧眼な人たちはここに或る種の自家中毒の危険、自己正当化の匂いを嗅ぎつけることだろう。 おまえの無価値を、おまえの無能を、営為の麻痺を「他者達」の価値によって代償させることは許されることでは ないという告発に対して、私は否認のことばを持たない。そればかりか、私が無であること、無価値であることを 認めよう。だが、私を形作っている「他者達」についての判断を、それゆえに誤らないで欲しい。「他者達」が 流れ出し、あるいは結晶として析出することを妨げて欲しくない。私の意識は、「別の部屋」の声に耳を澄ます。 いつしか「別の部屋」が空となり、もはや誰も棲まない場所となるかも知れない。だがそのときは恐らく、 私もまた、このように語ることもないだろう。いつしか相転移の起きる臨界の領域を、豊饒なカオスの縁から 軌道は離れ、あるいは沈黙の支配する冷たい秩序に、あるいはカオスのざわめきの中に落ち込んでしまうかも 知れないが、そのときにはそもそも「私」そのものが最早存続していないだろう。
 
 そう、これは私の「投壜通信」である。だが、より正確には、私の奥底の誰かが私を介して投じたものと言うべきだろう。 それは私の内なる「別の部屋」に響く他者達の声を「外に」伝えるために為される必要がある。そしてそれは己が 投壜通信の受信者であることを証することでもある。このようにして時間のなかを他者達の声は伝わっていく。 私のたどたどしいことばは、勝りたるものの仮晶、私の個性そのものが、あるいはまた個別性そのものもまた、 そうした他者達の声の交響が浮かび上がらせるホログラムなのだ。意識である私はそうした他者達に耳を傾け、 それを書き留めることでしか存在し得ない。かくしてことばを綴ること、誰に宛ててでもなく、だが、決して独語ではなく、 誰かにあてて自分が聴き取ったものを書き記すことこそ、崩壊した私の修復の営みに等しく、そうやって ばらばらになった断片が拾い集められ、貼り合わされて私が恢復されるのだ。そう、私とは他者達の幽霊に他ならない。 かつまた他者達にとって私は私ではない私のうちなる他者達のことばから事後的に構成されるほかない(まずもって 私自身に対してもそうなのだ)という意味合いでも幽霊でしかありえない。(2010.11.6/10, 2011.9.12)