2008年2月11日月曜日

アルマの「回想と手紙」にある「大地の歌」の題名に関するコメント

アルマの「回想と手紙」にある「大地の歌」の題名に関するコメント(アルマの「回想と手紙」原書1971年版pp.168--169, 白水社版邦訳pp.162--163)
Den ganzen Sommer arbeitete er fieberhaft an den Orchesterliedern, mit den von Hans Bethge übersetzen chinesischen Gedichten als Texten. Die Arbeit vergrößerte sich unter seinen Händen. Er verband die einzelnen Texte, machte Zwischenspiele, und die erweiterten Formen zogen ihn immer mehr zu seiner Urform - zur Symphonie. Als er sich darüber klar war, daß dies wieder eine Art Symphonie sei, gewann das Werk schnell an Form und war fertig, ehe er es dachte.
Es Symphonie zu nennen, getraute er sich aber nicht aus dem Aberglauben, den ich schon angedeutet habe; und so glaubte er, unsern Herrgott überlistet zu haben.
All sein Leid, seine Angst hat er in dieses Werk hineingelegt: » Das Lied von der Erde « ! Es hieß im Anfang: Das Lied vom Jammer der Erde.

 この夏いっぱい、彼は熱に浮かされたようにハンス・ベートゲの翻訳による中国の詩集をテキストにしたオーケストラ伴奏付き歌曲の創作に没頭した。仕事が進むにつれて、この作品はしだいに大がかりなものになっていった。彼は個々の独立した詩をつなぎ合わせたり、間奏を入れたりした。こうして規模が拡大してゆくにつれて、彼はますます彼本来の根元形式すなわち交響曲へと引き寄せられていった。そして彼がこれもまたあきらかに一篇の交響曲だと自覚した瞬間から、作品は急速に形を成しはじめ、予想したよりもはやく完成した。
 だが、私がすでに述べたような例の迷信から、彼はこの作品を交響曲と呼ぶ勇気がなかった。そう呼ばすにおくことで、彼はわが主なる神を出し抜いたつもりでいたのだ。
 彼は自分の苦悩と不安のすべてをこの作品のなかに注ぎこんだ。それが『大地の歌』なのだ!当初の標題は『大地の嘆きの歌』だった。 

この文章はアルマの「回想」の1908年夏の章の始まってすぐに出てくるものであるが、ここでは最後の文章で「大地の歌」の題名についての言及がなされている 点が特に注目される。1971年版では脚注がついていて、このタイトルと第1楽章の最終的な曲名との関連に触れているが、この点は全曲の構想を考える上で、 示唆的であるように思われる。
一方、近年研究が進んでいる実証的な草稿の調査結果を含めて題名のプランの変遷を辿ると、"Die Flöte der Jade"「翡翠の笛」(de La Grangeの伝記第3巻p.1123参照)、"Das Trinklied von der Erde"(これはSusanne Villの"Vermittelungsformen verbalisierter und musikalischer Inhalte in der Musik Gustav Mahlers"のp.155が詳しい)などの形態もあったようだ(Danuserのモノグラフのp.26参照)。
最初のものはde La Grangeも言及しているように、Bethgeの詩集の源泉の一つであるユディト・ゴーティエの詩集の題名(「翡翠の書」)を思わせるが、それをマーラーが知っていたかはともかく、かつてDer Pavillon aus Porzellanが「誤訳」に基づくものであるという考証が為され、それなりに話題になったことが思い出される。誤訳は紛れもない事実なのだろうし、陶器の亭というイメージの非現実性もその通りには違いないが、それを言い出せば「翡翠の笛」だって劣らず不自然には違いなく、要するにマーラーの想像力の領域におけるイメージの体系を受け止めるにあたっては、そうした実証的な事情は大きな意味を持たないということを告げているように思われてならない。
一方"Das Trinklied von der Erde"の方は、"Das Lied vom Jammer der Erde"と丁度対をなすように、これもまた最終形態における第1楽章の題名と関連している 点が興味深い。草稿ではTrinkという語が後で書き足されたような形跡があるようだが、開始調の同主調を取る第5楽章がこれまた酒にちなんだ題名を持っていることや、第5楽章のみ成立過程がわからないことなどを考えると、色々と想像力をかき立てられる。いずれにせよ最終的には重心の移動が起こり、JammerもTrink-も冒頭楽章の題名に収まり、全曲はそれらなしの» Das Lied von der Erde «になったわけである。(2008.2.11 執筆・公開, 2024.8.11 邦訳を追記。)

アルマの「回想と手紙」にある「大地の歌」作曲のきっかけに関するコメント

アルマの「回想と手紙」にある「大地の歌」作曲のきっかけに関するコメント(アルマの「回想と手紙」原書1971年版pp.151--152, 白水社版邦訳p.144)
Vor Jahren hatte ein lungenkranker alter Freund meines Vaters, der seine ganze Liebe jetzt auf Mahler übertragen hatte und an nichts anderes dachte als daran, für seinen Liebling Liedertexte und Anregungen jeder Art zu finden, ihm die neuübersetzte » Chinesische Flöte « gebracht (Hans Bethge). Diese Gedichte gefielen Mahler außerordentlich, und er hatte sie sich für später zurechtgelegt. Jetzt - nach dem Tod des Kindes, nach der furchtbaren Diagnose des Arztes, in der schrecklichen Stimmung der Einsamkeit, fern von unserem Hause, fern von seiner Arbeitsstätte ( die wir geflohen hatten ), jetzt überfielen ihn diese maßlos traurigen Gedichte, und er skizzierte schon in Schluderbach, auf weiten einsamen Wegen die Orchesterlieder, aus denen ein Jahr später » Das Lied von der Erde « werden sollte !

私の亡き父の友人に肺結核を病む老人がいて、故人への友情をいまではそっくりマーラーに傾けていた。そしてこの寵児のためにいろいろな詩をさがし出してきては、手をかえ品をかえ作曲への意欲をそそり立てるのが、唯一のたのしみになっていた。この老人が何年かまえに『中国の笛』という当時はじめて翻訳された(ハンス・ベートゲによる)詩集を届けてくれた。マーラーはこの詩がことのほか気に入り、将来にそなえてあたためていた。そしていま――子供に死なれ、医者には残酷な宣告を受け、恐ろしい孤独にさいなまれ、わが家からは遠く離れ、仕事小屋(そこを捨てて私たちは逃げてきたのだった)とも訣別したいま、このかぎりない憂愁をたたえた詩集が忽然として彼の心によみがえってきた。彼はシュルダーバッハに滞在中、はてしないさびしい散歩のあいだに想をねり、はやくもこのオーケストラ付き歌曲のスケッチを書きあげていた。そしてそれは一年後に『大地の歌』として完成するのだ! 

「大地の歌」の成立に関する混乱は、アルマの「回想と手紙」の上掲の記述に起因するようだ。これの真偽については諸説あるようだが、現時点では、ベトゥゲの詩集の最初の出版が1907年10月5日であるという記録から、マーラーが詩に出会ったのが1907年であったにしても、それはその年の夏の休暇の間のことではないし、1907年の夏にシュルダーバッハでスケッチが開始されたというのはありえないというのが一般的な見方のようだ(例えばHeflingのモノグラフのp.31を参照)。
アルマの回想の次章は「秋 1907年」と題されるが、そういうわけで1907年というのはアルマの(あるいは故意の?)記憶違いであったとしても、その一方で大地の歌の作曲がまさに「秋」の雰囲気の中で始められたということは間違いではないようだ。残された草稿の日付から推測するに、マーラーは恐らく第2楽章を最初に書いたらしいからである(1908年7月)。そしてその後の急速の作曲の進展の方については次に紹介するアルマの「回想」の1908年の章の記述の通りで、およそ6週間のうちに次々と6つの楽章の草稿が産み出されたようである。
ところで、その草稿の成立順序が完成した作品での楽章順と一致しないのは、一般には不思議でもなんでもないのだが、こと「大地の歌」については、その構成を死の受容のプロセスとして捉える考え方もあるのであれば、寧ろこの不一致にこそ人生と芸術の微妙な関係を見るべきなのではなかろうか。それをどの程度重視するかはおくとして、草稿の日付の順を書いておくと、日付のない第5楽章を除いて2-3-1-4-6とのことである(Heflingのモノグラフp.35の記述、またpp.47--48の表2も参照)。勿論、残された草稿の日付が何を物語るかについては慎重であるべきで、それとマーラーの心の中で起きたプロセスもまた、単純に同一視すべきではないかも知れないが、いずれにしても、(あるいはそうであればなお一層)、完成した作品の持っている内的な論理と創作のプロセス、そして「死の影の谷」を通過する心的なプロセスとの間の関係を解き明かす作業がそんなに単純ではないことを、この事実は物語っているように感じられる。(2008.2.11 執筆・公開, 2024.8.11 邦訳を追記。)