2007年7月7日土曜日

アンリ・ルイ・ド・ラ・グランジュ「マーラー」第1巻(フランス語版, 1979)第1章(p.9)より

アンリ・ルイ・ド・ラ・グランジュ「マーラー」第1巻(フランス語版, 1979)第1章(p.9)より
Il n'avait pas cinq ans lorsqu'on lui demanda ce qu'il rêvait de devenir plus tard. La réponse de Gustav Mahler fut aussi surprenante que la question avait été banale : « Je veux être un martyr ! »
Sans doute Arnold Schoenberg ne connaissait-il pas cette anecdote et pourtant il allait s'exclamer, après la mort de Mahler : « Ce martyr, ce saint ... peut-être était-il écrit qu'il nous quittât? ... » Certes, l'histoire de sa vie suffit à détruire la légende aussi absurde que tenace d'un Mahler crucifié par les tragédies personnelles, les deuils, les drames et toutes les catastrophes qui forgent l'âme romantique. Quoi qu'il en soit, Mahler fut réellement un martyr et cela au sens littéral du mot, c'est-à-dire un homme qui met sa vie, toute sa vie en jeu pour sa croyance, un homme pour qui le sacrifice est accomplissement. Sa religion de la musique, son douloureux idéal de la perfection devaient en faire la victime désignée des philistins de la tradition, de la routine et de la facilité. Pour lui, l'acte de musique passait par la contrainte de soi-même, par la souffrance. Il sera donc un martyr de la musique au même titre que Flaubert un martyr des lettres.

大人になったら何になりたいかと尋ねられたとき、彼はまだ5歳にもなっていなかった。グスタフ・マーラーの答えは、問いが平凡であったのと同じくらい驚くべきものだった。「ぼくは殉教者になりたい!」 
アルノルト・シェーンベルクは恐らくこの逸話を知らなかったでしょうが、にも関わらず、マーラーの没後、「この殉教者、この聖人…我々のもとを去ってしまった…」というように述べています。 確かに、彼の人生の物語は、個人的な悲劇、喪、ドラマ、そしてロマンチックな魂を鍛え上げるあらゆる大惨事によって十字架につけられたマーラーという、執拗で馬鹿げた伝説を破壊するのに十分です。とはいえマーラーは実際に殉教者であり、言葉の文字通りの意味でのそれ、つまり自分の信念のために自分の命、全生涯を賭け、犠牲を成し遂げた人でした。音楽という彼にとっての宗教、完璧さという痛みを伴う理想は、彼を伝統、ルーチンワーク、安易さに埋もれたペリシテ人たちの餌食にしました。彼にとって、音楽という行為は苦しみと自己抑制を伴うものでした。それゆえフローベールが文学の殉教者であるのと同様、彼は音楽の殉教者なのです。 

同じくアンリ・ルイ・ド・ラ・グランジュのマーラー伝の今度は本文の冒頭である。子供の頃何になりたいかと聞かれて、殉教者になりたいと答えた このエピソードもまた有名なものだが、これを冒頭に置き、またしてもシェーンベルクの言葉を引きながら、マーラーが結局、音楽の殉教者であったという 規定をするところから、この長大な伝記が始まるのである。(なお、恐らくこのシェーンベルクの言葉の引用とされるものは、マーラーの思い出に捧げられた『和声学』から採られたものに違いないのだが、上記フランス語版の引用は断片的過ぎて、実質的に彼がマーラーを殉教者と呼んだということしかわからないし、典拠の記載も為されていない。この点はド・ラグランジュ没後に刊行された、英語版第1巻の改訂版では改善されていて、ここに引用したパラグラフはより詳細な記述によって大幅に増補されていて、更に典拠が注記されているのが確認できるが、ここでは、本稿執筆当時に参照したフランス語版を引き続き参照することにする。なお、フランス語版に先行する英語版の最初の版では、最初のアルマの語るアネクドットこそほぼそのままだが、次のパラグラフは全く異なるものであった。)

個人的なことになるが、もう20年ちかく前に、このアンリ・ルイ・ド・ラ・グランジュの伝記ではなく、ドナルド・ミッチェルの研究の最初の巻を読んだ時に、 膨大な伝記的情報が、音楽を聴くことで自分の中に勝手に作り上げていたマーラーのイメージと一致せず、身勝手な親近感に冷水を浴びせかけ、 距離感をもたらすことになった経験がある。だから伝記には楽聖伝説の類を破壊する効果があるという言葉には頷けるものがある。否、楽聖伝説の 類には興味がなくても同じことだ。同じ中部ヨーロッパに住んでいるならまだしも、それは自己の想像力を遙かに超えた距離の向こう、時空の彼方にあるのだ。 評伝を幾つかと、とりわけアルマの回想録を、その内容をそらんじられるほど読んで、すっかりマーラーを「わかった」気になっている愚かな若造に対して、 自分の知らぬ人、自分の知らぬ土地やものをこれでもかとばかりに延々と提示することで、自分がわかったと思ったのがどんなに浅はかな思い込みに 過ぎないかを思い知らせる効果が、このような伝記には確かにあるのだ。量はここでは質的な効果を持っていて、結局、ある人の生の厚みを そのまま追体験することなど勿論出来はしない、そのわかりきったことを、ともすれば忘れてしまう浅慮を粉砕する強度は、まさにその量に由来するのだろう。

それでは、音楽の殉教者という規定の方はどうか?それは間違いではないのだろうと思うが、こちらもまた、私にとってはマーラーという人の「理解しがたさ」を 象徴するようにさえ感じられる。そうした人間の書いた音楽が自分を惹きつけるのは何故なのだろうか、あるいはまた、自分は本当にその音楽を 理解しているのだろうか、という問いは恐らくなくなることはないのだろうと思う。マーラーのような「時代の寵児」の伝記であれば、恐らく別の読み方― 時代を知るためのコーパスとして用いるような―もまた可能なのだろうが、残念ながら私にはそうした視点の移動はできそうにない。 私にとっては、マーラーの音楽の特異性がまずもって問題なのだから。それゆえ私にとって、伝記というのは直接謎に答えてくれる情報を提供してくれるものではない。 そもそも伝記もまた、「客観的な事実」を伝えるものではなく、ある人物の生の軌跡を浮び上がらせるために、できるだけ多くの視点を提供することに あるのだし。それゆえ必要に応じて伝記を参照することは、寧ろ、過度の熱中による思い込みを防ぎ、適当な距離感を持つために必要なものと 感じている。(2007.7.7マーラーの誕生日に, 2024.8.12 邦訳を追加し、ド・ラ・グランジュの伝記の各版による記述の相違について追記。)

アンリ・ルイ・ド・ラ・グランジュ「マーラー」第1巻(フランス語版, 1979)序文(p.5)より

アンリ・ルイ・ド・ラ・グランジュ「マーラー」第1巻(フランス語版, 1979)序文(p.5)より
« Si l'on savait comment Mahler nouait sa cravate, on apprendrait plus qu'en trois années de contrepoint au Conservatoire » : cette boutade d'Arnold Schoenberg suffira, nous l'espérons, à justifier aux yeux du lecteur la démesure de notre entreprise biographique.

「マーラーがどのようにネクタイを締めたかがわかれば、音楽院で3年間の対位法を学ぶよりも多くのことを理解できるだろう。」 アルノルト・シェーンベルクのこのジョークが、読者の目に映る我々の伝記的企ての行き過ぎを正当化するのに十分であることを願っています。

マーラーの伝記的研究の金字塔とされるアンリ・ルイ・ド・ラ・グランジュの「マーラー」はまず第1巻のみ英語で1973年に出版されたが、続巻が 刊行されること無く、増補改訂版第1巻が今度はフランス語で1979年に出版される。上記はこのフランス語版の第1巻の序文の最初の一文である。
フランス語版は結局3巻本、総ページ数で3000ページを超える大著となるが1984年に一旦完結する。しかし、その後更に増補・改訂の作業が 行われ、再び英語版で全4巻のうち第3巻までが現在刊行済み、最後の1冊もすでに刊行予告はされていて、その完結が待たれている状態にある。 永らく参照されてきたフランス語版も新しい英語版の完結によりその使命を終えることになるのだろう。その膨大な分量から、マーラー文献として 必ず言及されはしても、これまで日本語訳が刊行されたことはなかったが、そうこうしているうちに結局翻訳はなされずじまいになりそうである。
この大著の冒頭、このような大部な伝記を書くことの意義を述べるために、いきなりシェーンベルクのことばが引用されるのは非常に印象深い。 今日的な冷静な視点からは、この言葉はマーラーの「神格化」の証拠扱いされるのであろうし、アンリ・ルイ・ド・ラ・グランジュ自身の時折あまりにも素朴な 伝記主義に留保がつくのもわからなくもないが、いずれにせよ、ある個人についてこれだけのドキュメントが書かれたという事実に対する驚きがそれに よって減殺されることはないだろうし、マーラーの音楽の魅力が、その生き様との密接な、そして(時として、あまりに)「誠実な」関係にあることも 否定することはできないだろう。(2007.7.7マーラーの誕生日に, 2024.8.12 邦訳を追加。)

リヒャルト・バトカ宛1896年11月18日付けハンブルク発の書簡にあるマーラーの来歴についての言葉

リヒャルト・バトカ宛1896年11月18日付けハンブルク発の書簡にあるマーラーの来歴についての言葉(1924年版書簡集原書197番, p.213。1979年版のマルトナーによる英語版では185番, p.197, 1996年版に基づく邦訳:ヘルタ・ブラウコップフ編, 『マーラー書簡集』, 須永恒雄訳, 法政大学出版局, 2008 では195番, p.189)
(...)
Ich bin 1860 in Böhmen geboren, habe den größen Teil mainer reiferen Jugend in Wien verlebt. Seit meinem 20. Lebensjahre gehöre ich meiner äußeren Tätigkeit nach, dem Theater an. Ein Jahr hindurch (85--86) war ich auch als Kapellmeister in Prag tätig, wie Sie sich vielleicht noch erinnern werden. Als schaffender Künstler trat ich zum ersten Male mit der Ausarbeitung und Vollendung der "drei Pintos" von Weber vor die Öffentlichkeit; ein Werk, das seinerzeit auch in Prag unter meiner Leitung in Szene ging.
Komponiert habe ich seit meiner frühesten Jugend alles, was man nur komponieren kann. -- Als meine Hauptwerke bezeiche ich meine drei großen Symphonien, von denen die beiden ersten schon zu verschiedenen Malen, die letze (III.) nur mit einem Bruchstück -- eben dieses "in Schwung gekommen" (Blumenstück) -- zu Gehör gekommen sind. (...)

(…)
1860年ボヘミアに生まれ、青春期の後半は大部分をウィーンに過ごしました。20歳から世に出て職業に就き、すなわち劇場に所属いたしました。1年間(85ー86年)プラハにも学長として活動いたしましたが、これについてはおそらくご記憶のことかと存じます。創作に携わる者といたしましてはウェーバーの《3人のピント》の補筆完成によって初めて公衆の前に登場いたしました。これは当時プラハでも小生の指揮の下に上演されました。
作曲家といたしましてはごく若い頃から作曲できるかぎりのものをすべて作曲しておりました。――主要作品といたしましては小生の3曲の大交響曲を挙げたいと思います。そのうちはじめの2曲はすでに何度か、最新作(《第3》)はその一部のみ――まさしく「弾みがついた」(花の曲)――が公衆の耳に届いております。(…) 

この書簡はマーラー自身による簡単な自伝的紹介とともに、当時の自己認識が伺える貴重な資料である。 Willi Reich編の1958年のアンソロジーGustav Mahler : Im eigenen Wort -- Im Worte der Freunde (Die Arche)では2月18日付けとされている。どうやら ローマ数字なのか、アラビア数字なのかの解釈の違いで2月説と11月説があるようだが、ここでは第3交響曲の完成時期(同年の夏)や第2楽章の部分演奏の 時期(同年11月9日、ニキシュ指揮ベルリン・フィル)などを考慮して、マルトナー版に従う。
宛先のリヒャルト・バトカはプラハのPrager Neue Musikalische Rundshauの編集者で、マーラーについての紹介記事を書くことを企画してマーラーに問い合わせを してきたものに応じたのが上記引用を含むこの書簡である。 すでにブダペスト、ハンブルクとキャリアを重ね、前年末には第2交響曲の全曲初演を成功させたマーラーが、すでに10年近く前のにヴェーバーのオペラの補作と 自分自身による上演について書いているのは、この書簡の背景を考慮すべきであろう。
マーラー自身がこの時点で自分を交響曲作家として認識していることはその後に続く文章より明らかであり、第3交響曲をその夏に完成させ、 第2楽章の部分上演がつい10日前に行われたばかりの時期であることを考え合わせるとマーラーの意気込みが伝わってくるように感じられる。
この書簡では、この後に第3交響曲の全曲演奏への期待とともに、有名な「ディオニュソスの神、偉大な牧神を誰も知らない」という言葉を含む解説が 続くのであるが、それはまた別の機会に紹介することとしたい。(2007.7.7 マーラーの誕生日に, 2024.8.12 邦訳を追加。)