お知らせ
2006年9月30日土曜日
マーラーの音楽へのアプローチについての架空の問答
作曲者は歴史的に拘束されている。だから、創作にあってはアドルノが指摘するような力学が存在する。 だが音楽は残る。残って享受される音楽は必ずしも創作時の力学における作用の記憶をすべて保持しているとは限らないし、作曲の姿をそうした記憶に基づいてのみ解釈する必要も無い。出来上がった音楽は、静的な構造(生成論的に扱わないと言う意味で)を持っている。その構造の動態を記述したり解析したりすることも可能だ。その際、記述レベルの問題があるから、要素に還元するやり方は成功しないだろう。(物理的な音響のレベルetc.)ここでも適切な記述言語を見つける事が必要なのだ。その言語では、「個性」のようなものを区別できる必要がある。自然言語はかなり有効だが、多分、万全ではない。(Husserlにおける、3つのレベルの最後のレベルが自然言語のレベルだ。)「形式分析でも標題の記述でもない」はOKだが、アドルノの途が唯一では勿論ない。また観相学を全く別の目的で(創作極における基層の発掘の考古学ではなく)別の言語でやることは可能な筈だ。
―現象学は?そのつもりではなかったのか?
その通りだ。現象学的なアプローチが可能であると考えていた。GreeneのMahler : Cosciouness & Temporalityを読もうとしたのはそのためだ。だが、アナロジーやメタファーを超えるような記述言語としての実質を如何にして備えることが可能なのか、問題視することはできるだろう。現象学は狭義には、意識に現れたものについての構造や条件を探求するものだろう。とすると、音楽を対象とすると、創作の極で創作行為の最中に生起している事象についての記述か、あるいは演奏者や享受者が(勿論、創作者と同じ人格であっても良い)作品を聴くという行為の最中に生起している事象についての記述になるだろう。 前者について、内観を方法論としてやるというのは、(あなたが、件の大作曲家「である」というなら別だが)方法論的にはナンセンスだろう―もっとも「普遍的な方法論がある」とあくまで主張するなら論理上は別だが―。だとしたら、後者についてのみが私には可能だ。 志向的対象として(いわば理念的に)音楽を考えるというのはインガルデンの受容美学の基底に存在する立場だろう。だが、一般に聴取の(音楽であるかを問わない)現象学を目指しているのでも、はたまた音楽一般の現象学を目指しているのでもないのだ。(そうした一般を目指す試みはうまく行かない。定義で躓いて、先に進まないのだ。)
―理念的対象としての音楽?
私の内側に、享受のときに起きている事象。確かにある音楽がもたらす固有の「効果」というのは存在する。クオリアの問題にも通じる。音楽を対象とするときクオリアというのは、非常に複合的な事象で、あたかもそれを単独で扱える単位として捉えることが出来るかの様に扱うことが無理なことに気付く。もし、クオリアを単位としたければ、それはここで問題にしているものではない。区別すべきだ。
文化的に何重にも規定された対象ではあるが、例えば脳の活動と意識との距離に比べれば、そこから先は大したことはない、とも言える。そこから先は可塑性が個別性を可能にする、といえるからだ。享受は伝達である。(ただし単純な伝達ではない。Whiteheadの言う感受の意味では、享受は複合的な感受だ。)こちら側に(大まかには脳に)或る種の写像が行われるのだ。その過程で生じる変換の始端と終端には大きなぶれがある。(例えば、演奏の享受形態―コンサートホールで、CDで―の多様性、そして聴き手の脳の内部状態、私とあなたの違い、私もまた移ろってゆく、、、)だが、変換の過程で保存される構造があるだろう。構造の存在までは一般的だが、具体的な構造自体は個別的だ。勿論、切断の与え方は幾通りもある。ここでは暗黙的に「私」と明示的には作品を固定した切断を与える。作品と言ったが、作曲者を、とただちに言い直すべきだろう。そして、作品―これは相対的には扱いやすいかたちをしている、少なくとも現象学的な対象として扱えるだろう―とその作者との関係は必ずしも明らかではない。ここでは、作品間で保存される構造を見つける事がやりたい事だろう。(その保存される構造が、作者の個性と言うわけだ。)勿論、ここでは作者当てのコンテストをやる事が目的ではないから(クラスタ分析や、自己組織化マップにより、特徴ベクトルによる分類をし、それを作曲者の名前のラベルと対応付けられるようにしようと試みているわけではない。)、その構造が他の作曲家の作品にも出現することは考えうる―作者の名前はあらかじめ明かされた上で、その構造を探索するものとする。だが、無論のこと、発見された構造は作曲家の独自性を証するものであればある程良い。つまり「個性」を、自然言語とは別の記述言語で記述したいのだ。更にその「個性」は、動的に、享受の際に感じられるクオリアの記述でもあって欲しい、という訳だ。印象批評は前者により、記号論的アプローチや音楽の形式分析は―道具として用いることは出来るだろうが―後者により、充分な手段ではない。
アドルノ的な批判理論は、創作の極の構造の記述に、実際のところ限定されていて、ここで目指している特性には―少なくとも直接には―貢献しえない。また「音楽の現象学」式の一般的なスキーマは、具体的な事象についての具体的なモデルを提示しようとする試みには、やはり直接には貢献し得ない。せいぜい議論の枠組みを作り、探求に見通しを与えるくらいのものだろう。
音楽は多様で、音に対する姿勢と言うのも多様だ。だが結局自分にとって関心のある領域は「自我の音楽」のいわば周縁部分ということになるだろう。これは価値論的な優劣の問題にはあらず、ただ単にそうした創作と、そうした創作の享受に、私が意義を感ずるということだ。音楽家は音「について」思索することも可能だろう。「自我の音楽」とて、素材に対して全く無頓着という訳にはいかないから、音についての思考も含まれるだろう。だが、自我の音楽の無自覚な前提―「内容」についての確信―を私は否定したくない。自我の音楽を論じるにあたって、その「内容」を否定してしまったら、それは、その音楽の持つ特性の有意味なモデルではないだろう。「個性」はそれ自体「内容の否定」という形も取りうるが、そういったレベルよりも一つ下のレベルで「内容」にあらわれた個性、で良いのだ。-というより、そちらの方が探求は困難だろう。勿論、今のところ「内容」の定義は曖昧で充分だ。それはいわゆる「標題」ではない。その内容こそが、件のモデルに表現されていれば良いのだ。内容を通り過ぎてしまえば、価値論的な領野は閉ざされてしまうだろう。音楽の認識論、時間論というのがあっても良いが、私は時間一般の構造には興味が無い。時間を主題的に扱ってしまうと、具体的な話ができなくなる。時間を議論するのに好適な音楽というのもあるだろう。抽象的な音の構造や、音の知覚を主題的に扱った音楽もまた、あるが。
ただ、そうした音楽では充分なレベルは「自我の音楽」では不十分になる。多分、記述の水準が異なるのだ。勿論音と音との関係でしかないのはわかっている。問題はそれが、何故、「自我の音楽」たりうるかではないか。しかもここでは「自我の音楽」の成立の一般的条件を問題にしている訳でもなく、その個別のモデルが作りたいだけなのだ。だから時間一般の理論というのは、ここではやはり答えそのものではない。
―どのレベルをモデル化の対象とするのか?
勿論、脳内事象をモデル化することはできない。創作と聴取(勿論演奏も)の極での事象を直接扱うことは、少なくとも現時点での私には出来ない。論理的には、いずれは可能になるかも知れないが。とすれば、いわゆる中立レベル、一見ただの楽曲分析をすることになるようにも思われる。実際、個性があるとしたら、とりあえずマーラーのような時代の作曲家ならまずは楽譜に記載されたうちにあると言って差し支えない。
アドルノの分析は明らかに創作の極に重点があるが、しかし、結局のところ楽譜を手がかりにして考えていくしかない。寧ろ楽譜の手前の素材(伝記的事実を含む)の分析なしでそれを行おうとしている様に思える。マーラーの場合には、素材の次元での情報も多く、また言うべきことも多いから、一般にはそうなる。しばしば見られるように、分析、記述とはいいながら、実際には聴取の印象を書いていることがほとんどであるしかないなら、楽譜のこちら側については更に当てに出来ない。マーラーの場合、ショスタコーヴィチの場合ほど暗号解読ゲームの傾向は強くないが、そのかわり一見して明示的なプログラムの紹介―何しろ、分析が必要な程の豊かな構造がある訳ではないから―になるか、ショスタコーヴィチよろしく、アイロニーの有無、パロディー性の有無についての論争になるか(作者の意図という正解を探すクイズ)であって、これらのいずれをもアドルノがとりあえず拒否したのはもっともな事だ。
だが、アドルノの分析の道筋も、決して自明のものとは言われえないだろう。アドルノ自身がマーラーの弟子筋の―マーラー(―シェーンベルク)―ベルク―アドルノという―系譜に連なって、作曲の心得のある人物であるからと言って、マーラーの作品の創作の極で起きたことが透明に認識できることが保証されている訳ではない。アドルノの評価の恣意性は、楽譜を手がかりにして言いうるモデルと、アドルノがしばしば結論づける価値論的な位置づけとの間の連絡が透明でない限りは、決して免罪になることはないだろう。その作品が歴史的文脈で「どのように機能するか」という事になれば、享受の極へと問題が送り返されかねないのである。(受容の問題そのものではないか。)
勿論ここでも受容の問題は消滅したということはない。(そもそもアドルノ自身が、マーラー論のまさに冒頭から始まって、何度も受容について、「世間の」評価について言及しているではないか。)マーラーの音楽をnegativeに評価する人はいるだろうし、ここで問題にしたいのは、そうした評価が誤っている、ということの論証ではない。だが、だからいって、価値論的中立を装ったり、主張することもしない。そもそも、楽曲の分析自体、「客観的」ということはありえない。それは必ずしも自明ではない構造や規則性を明らかにすることにより、結局その分析対象を弁論するapologieなのだ。
では、楽曲分析とは何が違うか、といえば、言語が違う、記述のレベルが違う、ということになる。楽曲分析のdeviceは多く、特にマーラーの場合なら、(調性分析を含む)和声学であり、楽式論であろう。これは言ってみれば、脳の生理学的な水準での記述に相当する訳だ。勿論、生理学がそうであるように、和声学も、それの機能や意味をも捉えようと試みていない訳ではなかろうが、それにしても、マーラーの音楽のように、公理論的であったり分析的な方法論で特定のパラメータに集中して作曲を行っている(この場合にはパラメータの張る空間は簡略化されうるだろう)わけではない場合、パラメータ空間の次元の高さにより、各次元の要素の和が全体の適切な記述になり得ない、という問題は起きそうである。
またしても、音楽一般について語るのではないので、では次元の数の閾値は?とか、他のどの作曲家が同じ分類に入るのか?とか、歴史的な位置づけ、流派との関係は?といった問いには答えようとはしない(それをやるのは、少なくとも、今、手に負えるようなレベルの難しさではないと考える。無理だし、やるつもりもないのだ。)あくまでマーラーの場合に、そうである、という前提で議論をしよう。無論、これは作業仮説に過ぎない。うまく行かなければ不適切として撤回されるべきであり、その前提の当否は作られたモデルの適切さ、有効性によって判断されるべきなのである。ア・プリオリに論理的に正しい、などということはない。これは一般理論ではなく、個別の現象のモデルだからである。むしろ自然科学的なアプローチが適切なのだ。
―形式分析は無効?
形式分析は全く無効だという訳ではない。少なくとも、個別の「この」マーラーのケースについて言えば、それは寧ろ必要なことでさえある。言ってみれば、脳内をモデル化するにあたって、生理学的な知見が最低限必要であるようなものだ。だが、何故IXの1やVIの4の様な楽章の形式分析が分析者によって異なった結果になるのだろう?それは多分、分析手段が対象(つまりマーラーの音楽)にぴったりとしていないからなのではないだろうか?形式分析の手段は、或る種の図式であって、それと逸脱を起こしている現象との距離を(ただし定量的、というわけには行かない様だ)記述することしかできない。(勿論、それを目的にやるのであれば構わないし、そうした距離を測る作業は必要ですらある。)
楽譜は?楽譜は、理念的対象としての音楽を想定すれば、不完全な記録手段に過ぎない。記録手段という点では、ある奏者(それが作者自身であるようなケースを考えよ)の演奏の記録と変わるところはない。-「本人」が書いたということを除けば。楽譜が読めず、LPレコードが一枚しかない様なケースを考えよ。それでも、音楽の経験は可能だ。否、寧ろその方が、―特に、演奏者を除けば―多いのではないか?楽譜が読めない聴き手を排除する理由は全く見当たらない。多様な演奏は、だが、別の誰かの作品と誤認してしまうような決定的な幅を持つことはない。ここでは音楽一般の話をしている訳ではないので、とりあえず、その不変性を支えているのは、楽譜であるといって良いだろう。不完全だろうが、それを単なる伝達の手段とするのは、実は転倒を含んでいると言わなくてはならないだろう。事実上、それが(この場合は)音楽なのだ。ただし、それはdecodeされる必要があって、なおかつ、それは、人間が百人と集まった管弦楽という媒介によるdecodeが要求されているのだ。(勿論、シンセサイザの様な手段による再現も、考えられない訳ではないが。また、他者による、あるいは作曲家自身による、管弦楽版/ピアノ版の並存にも注意。あるパラメータのみ置き換える。それ以外は不変性が保たれる。)
―或る種の価値論的転倒?
これは~についての作品であるとか、特徴を2つか3つの形容詞で要約して事足れりとする評言よりも、作品の経過によりそって、ここは何の表現云々と「翻訳」をする類の標題音楽的解釈の方が作品の変換としては意味がある場合もあるだろう。~について語っている、という文脈無しで、つまり語られる対象を知らない聴き手にとって、前二者のような要約(?)はほとんど内容を持たない。
歌詞の問題、歌つき交響曲というのは、少なくとも作者の意図の次元では、種が半ば明かされているようなものだ。ただし、歌詞はあくまで素材に過ぎないには違いないが。それにしても、ある歌詞に音楽をつけた途端、音楽にまとわりついてしまうものというはあるだろう。例えば、それがあからさまな皮肉やパロディであったとしても。少なくとも「~について」のレベルでは間違いなく語ることができる。
だが、歌詞により文脈が与えられているからといって、例えば大地の歌、VIの中間部分の経過を言語に翻訳することができるだろうか? 物理的な数分間の持続を文章の長さに対応させる、といった類のやり方はナンセンスだ(ナレーションではないのだし、、、)しばしば葬送の歩みと語られる。 だが、それは、歌詞からすれば不適切な近似だ。別れはあっても(まだ)死は無い。しかもその歩みの後、「友を待つ」場面がやってくる。 「模様」ということを言いうるなら、これは道行なのだ。だが、どういったところで、曲の細部を言語に翻訳することは難しい。
あるときは月が小川に映る描写であるにも関わらず、描写に近づき、また遠ざかる、ということだろうか。少なくとも三味線の手のように「記号化」されている訳ではない。(バロック時代や古典期ではないのだ。)
感情の表現、xの表現ということで19世紀の音楽が手にした拡大は実に驚異的だ。いずれにしても歌詞は解釈の流れを作ってしまう。伝記的事実なしに作品を聴いたら?マーラーのある意味では素直なところは、年齢相応だ、ということだ。だが、そうした時間軸を作品自体から定量的に抽出することができるだろうか?
(2006.9未定稿, 2025.1.16 改題)
2006年4月3日月曜日
近藤譲を通して見たマーラー
近藤譲が武満徹について書いた文章でマーラーに触れている。それはマーラーをジェスチュアの音楽の典型として捉えるという見解であって、 そういう視点では武満の音楽もまた、マーラーと同じ範疇に属するというような主張ではなかったか。私個人としてはその文章での主題であった はずの武満の音楽に関する当否よりも、マーラーの音楽の捉え方の方に関心を覚えたのを記憶している。 一つにはその指摘は大筋において正しく、それをジェスチュアという言葉に端的に集約した鮮やかさのためであり、それと同時に、実はマーラーの 音楽の個性なり固有性なりがあるとするならば、それがジェスチュアの音楽でありつつ、それを踏まえた上でそこからずれていくという点に存するように 思われ、その限りにおいて違和感を感じたからでもあり、そして何より近藤譲の音楽は、そうしたマーラーや武満に対する批判的な姿勢から 生まれているという主張が潜ませてあるように感じられたからである。実際には私は近藤譲の音楽の熱心な聴き手とはいえないし、その音楽の 比類ない質の高さには瞠目しても、身近には感じられない。にも関わらず、あるいはそうした親近感のようなものも含めて、近藤譲の音楽を通して マーラーを眺めた場合の展望には示唆的なものがあるように感じられてならない。
近藤譲の音楽を初めて聴いたときの印象は、それがこれまで聴いた音楽よりは、寧ろ抽象絵画に近いというものだった。音による抽象的なコンポジションとしての作曲。何かを表現しようとしたり模倣したりしようとするのではなく、構築することなく、音を並べ、組み合わせ、編み上げることによって生まれる抽象的な質そのものを享受する経験。西欧の音楽が蓄積してきた、それなりに強力な、いわば「手垢のついた」パターンに依拠することなく、音どうしの関係をオリジナルなやり方で作り上げていく。それが目的であったのかどうかはともかく、音のパターンが感情や情緒、気分を表現するための記号として機能することは避けられる。思想や人生観(なんなら、世界観でも宇宙観でも、、、)を伝えることもまた、意図されていない。ある文化的な伝統への帰属や、東洋と西洋の出会いといったことも問題になっていない。それらはある伝統の中で機能する語法なり、楽器なりを記号として使用することによって可能になるのだが、ここではそうしたレディメイドの記号の体系を利用することは避けられていて、そのような場合には素材であったり媒体であったりする音の動きは、余計な意味付けをされることなく聴き手の前に現れることができるし、自由に振舞うことができるようだ。
音と音の関係を見つける作業は、予め与えられた方法によらずにその都度手探りで行われるのだろう。既存のパターンに従うことはないから、それは創作の過程においても、結果として出来上がった作品を聴取する過程においても、或る種の冒険であり、新しさの経験が、発見がある。だが、繰り返される冒険はあてのない彷徨ではなく、試行錯誤は局所的には極めて論理的に一貫した意図をもって行われるので、結果的に、そうした試行を繰り返した後には確固とした方法が浮び上がることになる。法則性も語法も、そうした冒険の軌跡を後から眺めたときに現れるのだ。
勿論、こうした方法論自体がある文化の産物であることは事実だし、完全に無色透明な立場というのはありえない。近藤譲の音楽は、もしそれを音楽史的な観点で分類するのであれば、アメリカのケージ達の、なかんずくフェルドマンの実験主義の立場の正当な継承と徹底として位置づけられるだろう。だが、その立場が「実験的」なのは音と音の関係を扱う際のスタンスに限定されるようだ。音響面についていえば、異化効果としてであれ単なる新奇な音響としてであれ、特殊奏法に対するこだわりはあまり感じられないし、いわゆる電子音楽よりは伝統的な楽器を人間が演奏する際の奏者間の関係性への関心が勝っているようだ。音楽が制作される現場の制度に対する態度についても、制度的な問題を主題とすることはなく、寧ろそうした制度を所与としてその枠組みの中での可能性を追求する職業的な作曲家としての姿勢が意識的に選択されているようにうかがえる。作品リストを見ればわかるとおり、その作品はほとんど何らかの委嘱に応えるかたちで作曲されていて、おおむねコンサートホールという場所でコンサートという形態の枠組みの中で演奏されることを目的としており、そのことは作品の長さや楽器編成に端的に現れている。作品概念についての姿勢も含めて、結果としての作品のありようは実験音楽の中では寧ろ保守的といっても良いかもしれない。絵画にたとえれば、普通の絵具を用いて普通のカンバスに描かれた作品で、その実験性は描かれた内容にある、といった感じか。
音と音との関係を、伝統的な型によらずに探求する姿勢から産み出される音響は、ややもすれば現代音楽にありがちな、貧血症におちいった無味乾燥で退屈なものに聴こえてしまうかも知れない。しばしばアイデアの新規性に大きな価値をおかれがちで方法論やコンセプトで差別化しようとする前衛音楽の行きかたは、結果としての音楽の貧しさをどうすることもできない場合が多い。あるいは行為自体に価値がおかれ、あまつさえ失敗自体に価値を見出す立場すらありうるだろう。だが私見では、近藤譲の音楽はそれらには該当しない。寧ろ結果としての作品に定着された音楽の疑いようのない豊かさ、作品を聴く経験の新鮮さと興味深さが、その冒険の成功を告げている稀有な例であるように思われる。それを完成度と呼ぶこともできるかもしれないし、そういう言い方をするのであれば、完成度は高いのだろうが、時折、職業的な作曲家が大量の注文をこなす際に陥いるとして非難されるある種の自己模倣と似たような印象を覚えることもあっても、いわゆるマニエリスムとは無縁で、行き止まりの感じを受けることはない。それぞれの作品はその都度のとりあえずの結論であり、どこか安定し、定着しきれないような動性を帯びているように見える。その点は実験という言葉にいかにも似つかわしいが、それでいて決して中途半端な感じを受けることはなく、寧ろ、風通しの良さに通じているように感じられる。 1曲聴けば後は同じの金太郎飴ではなく、紛れの無い個性の刻印はあるけれど1曲1曲がすこしずつ異なっていて、次がどうなるのかが楽しみなのだ。まるで、予想もつかない何かが起きることはないが、どこに行くかはわからないという、作品の内部構造におけるの音と音の間の関係に似たような関係が作品と作品の間にも働いているかのようだ。それゆえ私には、近藤譲の音楽が今後どのように展開していくのか、興味が尽きることはなさそうに思える。
一方で、もしその姿勢を批判するとしたら、どのような立場からが考えうるだろうか。 例えば以下のような見方が可能だろうか。
近藤は美を再定義して、作曲する己自身にとっても「謎」であるものを美と呼ぼうとする。彼の音楽の抽象的な音の空間は、本人にとってもそれ以外の聴き手にとっても「謎」だ。しかもそれは通常音楽の持つ音楽外的なものへの参照、行為へのいざないの側面を、あえて遮断したものだ。ここでは音を手段とするのではなく、自由に振舞わせよう、音固有の価値を尊重しようという精神が存在する。だがそれは、ある種の自閉ではないか。音を手段とすることの拒否は、音を目的とする、芸術の自己崇拝によくにた構造をもたないか?もっともここには神秘主義もなければ、超越への衝迫もない。音楽を啓示の媒体であり高度な認識への道、手段と見做しつつ、同時に、啓示される超越的なものの表現、認識されるべき当の対象そのものの現れと見做す自己中毒もないのだが。そしてまた彼は美的な判断を作品以外のものに拡張することの危険を説く。確かにそれは危険だし、倫理的に許されないという主張は正しそうに見える。だが、それは結局美的なものの囲い込みではないのか?本当に、音楽は、美は倫理と独立の価値を持つのか。ここでは音楽をする行為の倫理性を問うこともまた禁じられているのではないか。その姿勢は美を自閉させ、結果的に倫理的に不適切な場面で美的な価値判断がなされてしまうような倫理と美学の分離の補強をしていることにはならないのか。
近藤の音が響く空間には、音の自律性を尊重する聴き手しかいない。そしてその聴き手というのは、トータルな意味での人間ではない。それは人間のある一部分。断片化された耳だ。世の成り行きの喧騒から遮断された防音室で響く音楽。だから、あるとき聴き手は、退屈する。それは近藤の音楽が退屈だからではない。人間は気が散りやすい動物なのだ。常に、自分が埋め込まれた環境のあれこれに意識を向けてしまう。もともと彼は音だけが存在する世界に生きているわけではない。だから遮断は時折うまくいかない。知覚はもともと環境世界についての情報を与えるものであり、反応を引き起こす信号の如きものではないのに、そうした側面を遮断するためにわざわざ環境を設定しているように見える。その環境の枠が曲であり、だからこれは認知実験に似る。それを聴く人間も抽象化されて「耳」に、あるいは実験の効果を測定する装置に還元されるかのようだ。実験音楽という呼称もむべなるかな。
確かにそれは、近藤の音楽だけの問題ではない。いわゆる西欧のクラシック音楽はコンサートホールで聴くようにほぼ決まっていて、結局のところ近藤の音楽はそうした伝統に属している。コンサートホールはいわば公的な防音室だ。そこでは演奏者がステージの上で作曲者の指示に従い音楽を演奏する。聴き手はそこに入るためにはお金を払い、音楽が始まって終わるまで沈黙を守り、身じろぎせずに狭い座席で己れを耳に還元し、終われば拍手をするきまりになっている。そこでは様々な時代の色々な美的価値観に基づく音楽が演奏されるが、結局のところ、音楽が提供される場の性格が、そうした多様性を超えてその音楽を性格づけてしまう。そうした防音室の中の経験が、その外の成り行きとどう関わるというのだろう。そこで提示されるのが「謎」であるのは、それが文脈をはぎとられ、外部の環境から遮断され、意味を剥ぎ取られていることの裏返しではないのか。 (実際には私が「謎」に向き合うのは、コンサートホールよりは寧ろ、自宅で、CDに収められた録音を聴きながらの方が遥かに多いのだけれど。) その「謎」はスフィンクスとは異なって、謎を突きつけられた人間を脅かすこともない。美術は美術館の中に、音楽はコンサートホールの中に隔離されて純粋培養される。それらは独自で固有の価値を持つものとされる。そうした考え方の極北が、抽象化された音や色彩、形態の組み合わせ。それは別に何かを変えるわけではない。いつもの風景の中に収まる。
だが、批判はある意味ではたやすく、制作の営みの行く末を見極めることは困難だ。また、こうした批判が想定できるにも関わらず、私にとってその音楽を聴き続けることを促す何かが、その音楽にあるのは確かだ。そして、結局のところ私もまたそれを、さしあたり「謎」と呼ぶほかないのである。
さて、そうした検討の上でもう一度マーラーを振り返ってみた場合の展望はどうだろうか。「謎」という点ではマーラーもまた私にとって「謎」ではあるが、 その理由は全く異なる。マーラーの場合の謎は、その人と音楽の関係のそれであり、寧ろ人間の営みの結果たる作品に析出したマーラーという人間の 姿勢なり態度に関する謎なのである。人間としてのマーラーを作品と区別して考えることは、作品を通じて人間についての 外挿を行う姿勢の持つ危険性に引き比べれば一見したところ遙かに優れた態度に見えて、実際にはありもしない分離を仮構し、 現実には不可分のものであった両者を抽象することに起因する具体性の履き違えの誤謬を犯しているのである。否、その音楽と人間との 結びつきそのものが「謎」の一面に他ならないのだ。
一方で、コンサートホールという制度への依存や音楽の自律性の尊重という点では、実際にはマーラーと近藤は決して疎遠な存在ではない。 勿論その音楽の実質は大きく異なる。要するに近藤の音楽は何かを表現しようとしているわけではなく、音自体の振る舞いに関心が集中しているのに 対し、マーラーにとって音楽は、そういう意味では決して自律的な存在ではなかったようだ。マーラーの音楽は音楽に纏わりつく脈絡やら文脈を 拒絶しない。しかしそれに対して意識的である点では近藤と一致していて、マーラーの場合はそうした脈絡に対する意識が音楽の中に投影される ことで、その音楽に微妙な陰影をもたらしているようだ。それはある意味では「世界観」音楽なのかも知れないが、マーラーの場合にはそれは 少なくとも出発点においては本人の意図ではなかったことに注意すべきだろう。音楽が先にあって、脈絡は後から析出されていくかのようなのだ。 シェーンベルクはプラハ講演において、第9交響曲を念頭においてメガフォンに喩えたが、第9交響曲のみならずマーラーの音楽にあって作曲家は音楽が現実の領域に 進入するための媒体であるかのようだ。音楽が「世界観」を作曲家が表現するために利用されるのではない。世界観の方が作曲家を媒体にして 音楽として己を実現していると言ったほうが良い。だからマーラーの音楽を典型的なロマン派の世界観音楽と見做したり、こちらもまた毎度おなじみの 標題音楽と見做す議論は、マーラーの場合を扱い得ないように感じられてならない。マーラーが音楽を世界と見做し、作曲を世界の構築と 見做した発言は、「文字通り」にとられるべきなのだ。世界観の表明、標題・プログラムの実現が問題なのではない。文字通り音楽によって 世界を構築することが問題であり、標題は常に後付けの不完全で色褪せた説明に過ぎない。
だからマーラーをジェスチュアの音楽であると捉える考え方に関してはこのように言いたい気がするのだ。確かにそれはジェスチュアの音楽だが、 私が関心があるのは、そのジェスチュアの背後にある意識の働きがその音楽に自らの影を落とすその有様なのである、と。「意識の音楽」という のはまさにそうした捉え方が可能な類の音楽のことである。そこでは対象自体ではなく、対象に対する態度、対象に接する経験の側に 注意が移動している。いわば反応や経験の情態性の記述が中心になる。無論、音楽を外からそのように読み取ることは一般に可能かも 知れず、近藤の音楽に対してすら可能かも知れない。だが近藤の音楽は、それが成功しているが故になお一層、生の経験や意識は 音楽の外部にあるのだ。それは意識の音楽ではない。
勿論、「意識の音楽」であるかどうかと作品の出来不出来は全く独立の事柄だ。だが、どちらにより一層興味があるかと言えば、私個人としては 興味は「意識の音楽」の側にある。その意味では近藤の音楽は、ちょうど自分の関心を裏から批判的にあぶりだすような位置づけにあるのだろう。 一方で、一旦音楽の内側からは表現や感性のごときものを徹底して排除した上で、もう一度人間の営為として音楽を捉えるようなアプローチも 可能であり、そういった方向にはこれはこれで強い共感を覚えている。そこでは「人間」そのものも相対化されていて、それゆえ他ならぬ人間の 営みとしての音楽は、その音楽が埋め込まれる脈絡や音楽の外部に対する価値といったものをもう一度改めて引き受け直さざるを得ない。そこでは 聴き手すら耳に還元されることはなく、音楽をトータルな仕方で受け止めざるを得なくなる。かくして一見したところ懸け離れた存在である 筈の三輪眞弘の音楽とマーラーの音楽は、私の中では不思議な感じで、だが明確なかたちで同居しているのである。 (2006.4.3-8 / 2008.6.21)