2006年10月31日火曜日

古典としてのマーラー

アドルノ的な弁証法の枠組みのうちでは、おそらくは特異な楽器法や異化はちょうどラッヘンマンについて語るときそうであるように、マーラーを語るときに欠かせない「キャッチコピー」なのだろう。ところで、異化というのは文脈を必要とする。文脈を共有できるかどうかは実際のところ程度問題であるのだが、例えば一時期「モード」になったとまで言われた、かの「黄昏の地」における「形而上学の歴史の脱構築」とやらにしてもそうであるように、全く無関係であると言い切ることもまた困難であるにしても、ではそれが自分の喫緊の問題であるかといえば、自分が持つ文脈の頼りなさを思うにつけ、決してそうとはいえない、と言わざるを得ないのが正直なところだろう。ましてや対象領域は自分が専門的・職業的に関わっているわけではない音楽である。

特殊奏法というのも、「普通の奏法」というのがあって特殊が定義されるような捉え方をされる場合には、同じことが言えるだろう。例えば自分が演奏者であるならば、自分が習得してきた楽器の演奏法というのもあるし、それを抜きにしたとしても、指定されたやり方と物理的に格闘せざるを得ないわけで、そこに生じる抵抗というのが実現される音楽と不即不離なものであるというのは確かなことであろうが、現実にはここでは私は単なる享受者に過ぎず、せいぜいが実現された音響の新奇さを追っかけるくらいが関の山である。マーラーの音楽だって、ヴェーベルンの音楽だって、かつては随分と新奇な音響に満ちていたに違いないし、自分もまた、その新奇さに一度は魅了されたに違いないが、そうした新奇さは、異化がそうであるように摩滅してしまう賞味期限つきのものなのだ。

無論、賞味期限つきと割り切った聴き方があっても良いし、とりわけ同時代の音楽であればそれもまた大切なことではあるのだろうが、同時代であれば問題意識が共有できるとは限らない。賞味期限という意味ではとうに切れて、当時の文脈を再現することが覚束ない作品が「古典」として享受されるのは音楽だけに限った話ではない。そして実際のところ、同時代性が担保するかも知れない文脈の共有の頼りなさと比べたとき、そうした「古典」が持つ力の大きさは歴然としているように感じられる。私が同時代のものを積極的に渉猟する気になれないのは、それよりも、たとえ勝手読みでも誤読でも、そこから多くのものを得られる古典が幾らでもあるからだ。個人的な事情になってしまうが、その古典にしても、歴史的なパースペクティブを己のものとするように幅広くとか、あるいは演奏史や享受史を俯瞰できるほど深く、というわけには残念ながらいかない。時間にも能力にも限界がある身であれば、自ずと選択と集中が必要となるのであって、熱心なコンサートゴーアーの方々や膨大なコレクションを作り上げる方々を羨んでみても仕方ないと思うほかない。私にはそれだけのキャパシティがないのである。

もっともマーラーの場合には、特異な楽器法も、異化効果も、それとして意図されたものではない。マーラーは自分が表現したいものを表現する手段を探していて、そうした奏法や発想に辿り着いたのだ。予め弁証法的なシェマがあり、コンセプトがあってそれ自体を目的として異化が、特殊な奏法による伝統の相対化が、騒音と楽音の境界の再設定や、ひいては美と醜の弁証法的な運動が目指されているのではない。そうしたこと自体が目的として意味を持つようになるのは、もっと後のこと、まさにマーラーを歴史的に振り返って、自分達の先行者として位置づけることのできる文脈でのことだ。

だが、それは「私の」文脈ではない。私は音楽家ではないし、そこに微妙ではあっても決して瑣末ではない転倒を感じずにはいられない。誠実さを疑うわけではなくても、そうした転倒は或る種の袋小路に行き着くのでは、それは例えばヴェーベルンの後期の音楽に対してなされた転倒と良く似た構造を持っていないか、という疑念は拭い難い。音楽家であればこの疑念自体を己の課題としてしばらくそこで立ち止まることも意義のあることであったかもしれないが、私には結局、それに時間をかけるだけの意義は見出し難いということなのだと思う。私にとっての問題は、そうした表現媒体における弁証法的な運動そのものにはない。専ら、マーラーが見出した世の成り行きと「私」との関係、世界と私との関係の方なのだ。それとて文脈からは自由ではありえない、というのが冷静な見方なのかもしれないが、寧ろ、音楽を聴くことでそのような関係の様態を同化し、我が物とすることが可能である以上、文脈の相対性を声高に主張する賢しらさは、音楽が時代を超えて持つ力に対してあまりに無頓着に思われる。それですむならマーラーの音楽など聴かなければよい。マーラー自身もきっとそう思ったであろうと、マーラーに関しては少なからぬ「文脈」についての知識を持った上で、ある程度の確信を持って言うことができる。所詮はまだ、100年程度しか経っていないのだし、決してマーラーの生きた環境と、自分の生きる環境が共役不可能なほどに隔たってしまっているとは思えない。

だからマーラーとの関係は、幾重にも屈折したものとなる。文脈を共有できていないという面と、同時代性がとっくに喪われているという点で、マーラーの音楽の弁証法的な機能は私にとって疎遠なものだ。寧ろマーラーは私にとってははじめから「古典」なのだ。私にとっては、それはその音楽の側が持っていた様々な文脈を知らずとも、反省的に演奏史や享受史に己を位置づけることをしなくても、そして後になって、最初に抱いていた思い込みや誤解に気づくことがあったとしても、それゆえに自分の奥底まで届くような聴取の質が損なわれることはないような音楽なのだ。そういう意味でマーラーの音楽は、私にとっては自分の思いや気持ちをぶつけ、自分の問題意識を突き合わせることができる「古典」、自分にとって欠かすことのできない存在なのだ。(2006.10/2007.7)

2006年9月30日土曜日

マーラーに近づくために(未定稿)

―歴史的なアプローチとは異なったアプローチ。音楽の構造を捉える別の仕方?

作曲者は歴史的に拘束されている。だから、創作にあってはアドルノが指摘するような力学が存在する。 だが音楽は残る。残って享受される音楽は必ずしも創作時の力学における作用の記憶をすべて保持しているとは限らないし、作曲の姿をそうした記憶に基づいてのみ解釈する必要も無い。出来上がった音楽は、静的な構造(生成論的に扱わないと言う意味で)を持っている。その構造の動態を記述したり解析したりすることも可能だ。その際、記述レベルの問題があるから、要素に還元するやり方は成功しないだろう。(物理的な音響のレベルetc.)ここでも適切な記述言語を見つける事が必要なのだ。その言語では、「個性」のようなものを区別できる必要がある。自然言語はかなり有効だが、多分、万全ではない。(Husserlにおける、3つのレベルの最後のレベルが自然言語のレベルだ。)「形式分析でも標題の記述でもない」はOKだが、アドルノの途が唯一では勿論ない。また観相学を全く別の目的で(創作極における基層の発掘の考古学ではなく)別の言語でやることは可能な筈だ。

―現象学は?そのつもりではなかったのか?

その通りだ。現象学的なアプローチが可能であると考えていた。GreeneのMahler : Cosciouness & Temporalityを読もうとしたのはそのためだ。だが、アナロジーやメタファーを超えるような記述言語としての実質を如何にして備えることが可能なのか、問題視することはできるだろう。現象学は狭義には、意識に現れたものについての構造や条件を探求するものだろう。とすると、音楽を対象とすると、創作の極で創作行為の最中に生起している事象についての記述か、あるいは演奏者や享受者が(勿論、創作者と同じ人格であっても良い)作品を聴くという行為の最中に生起している事象についての記述になるだろう。 前者について、内観を方法論としてやるというのは、(あなたが、件の大作曲家「である」というなら別だが)方法論的にはナンセンスだろう―もっとも「普遍的な方法論がある」とあくまで主張するなら論理上は別だが―。だとしたら、後者についてのみが私には可能だ。 志向的対象として(いわば理念的に)音楽を考えるというのはインガルデンの受容美学の基底に存在する立場だろう。だが、一般に聴取の(音楽であるかを問わない)現象学を目指しているのでも、はたまた音楽一般の現象学を目指しているのでもないのだ。(そうした一般を目指す試みはうまく行かない。定義で躓いて、先に進まないのだ。)

―理念的対象としての音楽?

私の内側に、享受のときに起きている事象。確かにある音楽がもたらす固有の「効果」というのは存在する。クオリアの問題にも通じる。音楽を対象とするときクオリアというのは、非常に複合的な事象で、あたかもそれを単独で扱える単位として捉えることが出来るかの様に扱うことが無理なことに気付く。もし、クオリアを単位としたければ、それはここで問題にしているものではない。区別すべきだ。

文化的に何重にも規定された対象ではあるが、例えば脳の活動と意識との距離に比べれば、そこから先は大したことはない、とも言える。そこから先は可塑性が個別性を可能にする、といえるからだ。享受は伝達である。(ただし単純な伝達ではない。Whiteheadの言う感受の意味では、享受は複合的な感受だ。)こちら側に(大まかには脳に)或る種の写像が行われるのだ。その過程で生じる変換の始端と終端には大きなぶれがある。(例えば、演奏の享受形態―コンサートホールで、CDで―の多様性、そして聴き手の脳の内部状態、私とあなたの違い、私もまた移ろってゆく、、、)だが、変換の過程で保存される構造があるだろう。構造の存在までは一般的だが、具体的な構造自体は個別的だ。勿論、切断の与え方は幾通りもある。ここでは暗黙的に「私」と明示的には作品を固定した切断を与える。作品と言ったが、作曲者を、とただちに言い直すべきだろう。そして、作品―これは相対的には扱いやすいかたちをしている、少なくとも現象学的な対象として扱えるだろう―とその作者との関係は必ずしも明らかではない。ここでは、作品間で保存される構造を見つける事がやりたい事だろう。(その保存される構造が、作者の個性と言うわけだ。)勿論、ここでは作者当てのコンテストをやる事が目的ではないから(クラスタ分析や、自己組織化マップにより、特徴ベクトルによる分類をし、それを作曲者の名前のラベルと対応付けられるようにしようと試みているわけではない。)、その構造が他の作曲家の作品にも出現することは考えうる―作者の名前はあらかじめ明かされた上で、その構造を探索するものとする。だが、無論のこと、発見された構造は作曲家の独自性を証するものであればある程良い。つまり「個性」を、自然言語とは別の記述言語で記述したいのだ。更にその「個性」は、動的に、享受の際に感じられるクオリアの記述でもあって欲しい、という訳だ。印象批評は前者により、記号論的アプローチや音楽の形式分析は―道具として用いることは出来るだろうが―後者により、充分な手段ではない。
アドルノ的な批判理論は、創作の極の構造の記述に、実際のところ限定されていて、ここで目指している特性には―少なくとも直接には―貢献しえない。また「音楽の現象学」式の一般的なスキーマは、具体的な事象についての具体的なモデルを提示しようとする試みには、やはり直接には貢献し得ない。せいぜい議論の枠組みを作り、探求に見通しを与えるくらいのものだろう。

音楽は多様で、音に対する姿勢と言うのも多様だ。だが結局自分にとって関心のある領域は「自我の音楽」のいわば周縁部分ということになるだろう。これは価値論的な優劣の問題にはあらず、ただ単にそうした創作と、そうした創作の享受に、私が意義を感ずるということだ。音楽家は音「について」思索することも可能だろう。「自我の音楽」とて、素材に対して全く無頓着という訳にはいかないから、音についての思考も含まれるだろう。だが、自我の音楽の無自覚な前提―「内容」についての確信―を私は否定したくない。自我の音楽を論じるにあたって、その「内容」を否定してしまったら、それは、その音楽の持つ特性の有意味なモデルではないだろう。「個性」はそれ自体「内容の否定」という形も取りうるが、そういったレベルよりも一つ下のレベルで「内容」にあらわれた個性、で良いのだ。-というより、そちらの方が探求は困難だろう。勿論、今のところ「内容」の定義は曖昧で充分だ。それはいわゆる「標題」ではない。その内容こそが、件のモデルに表現されていれば良いのだ。内容を通り過ぎてしまえば、価値論的な領野は閉ざされてしまうだろう。音楽の認識論、時間論というのがあっても良いが、私は時間一般の構造には興味が無い。時間を主題的に扱ってしまうと、具体的な話ができなくなる。時間を議論するのに好適な音楽というのもあるだろう。抽象的な音の構造や、音の知覚を主題的に扱った音楽もまた、あるが。
ただ、そうした音楽では充分なレベルは「自我の音楽」では不十分になる。多分、記述の水準が異なるのだ。勿論音と音との関係でしかないのはわかっている。問題はそれが、何故、「自我の音楽」たりうるかではないか。しかもここでは「自我の音楽」の成立の一般的条件を問題にしている訳でもなく、その個別のモデルが作りたいだけなのだ。だから時間一般の理論というのは、ここではやはり答えそのものではない。

―どのレベルをモデル化の対象とするのか?

勿論、脳内事象をモデル化することはできない。創作と聴取(勿論演奏も)の極での事象を直接扱うことは、少なくとも現時点での私には出来ない。論理的には、いずれは可能になるかも知れないが。とすれば、いわゆる中立レベル、一見ただの楽曲分析をすることになるようにも思われる。実際、個性があるとしたら、とりあえずマーラーのような時代の作曲家ならまずは楽譜に記載されたうちにあると言って差し支えない。
アドルノの分析は明らかに創作の極に重点があるが、しかし、結局のところ楽譜を手がかりにして考えていくしかない。寧ろ楽譜の手前の素材(伝記的事実を含む)の分析なしでそれを行おうとしている様に思える。マーラーの場合には、素材の次元での情報も多く、また言うべきことも多いから、一般にはそうなる。しばしば見られるように、分析、記述とはいいながら、実際には聴取の印象を書いていることがほとんどであるしかないなら、楽譜のこちら側については更に当てに出来ない。マーラーの場合、ショスタコーヴィチの場合ほど暗号解読ゲームの傾向は強くないが、そのかわり一見して明示的なプログラムの紹介―何しろ、分析が必要な程の豊かな構造がある訳ではないから―になるか、ショスタコーヴィチよろしく、アイロニーの有無、パロディー性の有無についての論争になるか(作者の意図という正解を探すクイズ)であって、これらのいずれをもアドルノがとりあえず拒否したのはもっともな事だ。
だが、アドルノの分析の道筋も、決して自明のものとは言われえないだろう。アドルノ自身がマーラーの弟子筋の―マーラー(―シェーンベルク)―ベルク―アドルノという―系譜に連なって、作曲の心得のある人物であるからと言って、マーラーの作品の創作の極で起きたことが透明に認識できることが保証されている訳ではない。アドルノの評価の恣意性は、楽譜を手がかりにして言いうるモデルと、アドルノがしばしば結論づける価値論的な位置づけとの間の連絡が透明でない限りは、決して免罪になることはないだろう。その作品が歴史的文脈で「どのように機能するか」という事になれば、享受の極へと問題が送り返されかねないのである。(受容の問題そのものではないか。)
勿論ここでも受容の問題は消滅したということはない。(そもそもアドルノ自身が、マーラー論のまさに冒頭から始まって、何度も受容について、「世間の」評価について言及しているではないか。)マーラーの音楽をnegativeに評価する人はいるだろうし、ここで問題にしたいのは、そうした評価が誤っている、ということの論証ではない。だが、だからいって、価値論的中立を装ったり、主張することもしない。そもそも、楽曲の分析自体、「客観的」ということはありえない。それは必ずしも自明ではない構造や規則性を明らかにすることにより、結局その分析対象を弁論するapologieなのだ。
では、楽曲分析とは何が違うか、といえば、言語が違う、記述のレベルが違う、ということになる。楽曲分析のdeviceは多く、特にマーラーの場合なら、(調性分析を含む)和声学であり、楽式論であろう。これは言ってみれば、脳の生理学的な水準での記述に相当する訳だ。勿論、生理学がそうであるように、和声学も、それの機能や意味をも捉えようと試みていない訳ではなかろうが、それにしても、マーラーの音楽のように、公理論的であったり分析的な方法論で特定のパラメータに集中して作曲を行っている(この場合にはパラメータの張る空間は簡略化されうるだろう)わけではない場合、パラメータ空間の次元の高さにより、各次元の要素の和が全体の適切な記述になり得ない、という問題は起きそうである。
またしても、音楽一般について語るのではないので、では次元の数の閾値は?とか、他のどの作曲家が同じ分類に入るのか?とか、歴史的な位置づけ、流派との関係は?といった問いには答えようとはしない(それをやるのは、少なくとも、今、手に負えるようなレベルの難しさではないと考える。無理だし、やるつもりもないのだ。)あくまでマーラーの場合に、そうである、という前提で議論をしよう。無論、これは作業仮説に過ぎない。うまく行かなければ不適切として撤回されるべきであり、その前提の当否は作られたモデルの適切さ、有効性によって判断されるべきなのである。ア・プリオリに論理的に正しい、などということはない。これは一般理論ではなく、個別の現象のモデルだからである。むしろ自然科学的なアプローチが適切なのだ。

―形式分析は無効?

形式分析は全く無効だという訳ではない。少なくとも、個別の「この」マーラーのケースについて言えば、それは寧ろ必要なことでさえある。言ってみれば、脳内をモデル化するにあたって、生理学的な知見が最低限必要であるようなものだ。だが、何故IXの1やVIの4の様な楽章の形式分析が分析者によって異なった結果になるのだろう?それは多分、分析手段が対象(つまりマーラーの音楽)にぴったりとしていないからなのではないだろうか?形式分析の手段は、或る種の図式であって、それと逸脱を起こしている現象との距離を(ただし定量的、というわけには行かない様だ)記述することしかできない。(勿論、それを目的にやるのであれば構わないし、そうした距離を測る作業は必要ですらある。)
楽譜は?楽譜は、理念的対象としての音楽を想定すれば、不完全な記録手段に過ぎない。記録手段という点では、ある奏者(それが作者自身であるようなケースを考えよ)の演奏の記録と変わるところはない。-「本人」が書いたということを除けば。楽譜が読めず、LPレコードが一枚しかない様なケースを考えよ。それでも、音楽の経験は可能だ。否、寧ろその方が、―特に、演奏者を除けば―多いのではないか?楽譜が読めない聴き手を排除する理由は全く見当たらない。多様な演奏は、だが、別の誰かの作品と誤認してしまうような決定的な幅を持つことはない。ここでは音楽一般の話をしている訳ではないので、とりあえず、その不変性を支えているのは、楽譜であるといって良いだろう。不完全だろうが、それを単なる伝達の手段とするのは、実は転倒を含んでいると言わなくてはならないだろう。事実上、それが(この場合は)音楽なのだ。ただし、それはdecodeされる必要があって、なおかつ、それは、人間が百人と集まった管弦楽という媒介によるdecodeが要求されているのだ。(勿論、シンセサイザの様な手段による再現も、考えられない訳ではないが。また、他者による、あるいは作曲家自身による、管弦楽版/ピアノ版の並存にも注意。あるパラメータのみ置き換える。それ以外は不変性が保たれる。)

―或る種の価値論的転倒?

これは~についての作品であるとか、特徴を2つか3つの形容詞で要約して事足れりとする評言よりも、作品の経過によりそって、ここは何の表現云々と「翻訳」をする類の標題音楽的解釈の方が作品の変換としては意味がある場合もあるだろう。~について語っている、という文脈無しで、つまり語られる対象を知らない聴き手にとって、前二者のような要約(?)はほとんど内容を持たない。
歌詞の問題、歌つき交響曲というのは、少なくとも作者の意図の次元では、種が半ば明かされているようなものだ。ただし、歌詞はあくまで素材に過ぎないには違いないが。それにしても、ある歌詞に音楽をつけた途端、音楽にまとわりついてしまうものというはあるだろう。例えば、それがあからさまな皮肉やパロディであったとしても。少なくとも「~について」のレベルでは間違いなく語ることができる。

だが、歌詞により文脈が与えられているからといって、例えば大地の歌、VIの中間部分の経過を言語に翻訳することができるだろうか? 物理的な数分間の持続を文章の長さに対応させる、といった類のやり方はナンセンスだ(ナレーションではないのだし、、、)しばしば葬送の歩みと語られる。 だが、それは、歌詞からすれば不適切な近似だ。別れはあっても(まだ)死は無い。しかもその歩みの後、「友を待つ」場面がやってくる。 「模様」ということを言いうるなら、これは道行なのだ。だが、どういったところで、曲の細部を言語に翻訳することは難しい。
あるときは月が小川に映る描写であるにも関わらず、描写に近づき、また遠ざかる、ということだろうか。少なくとも三味線の手のように「記号化」されている訳ではない。(バロック時代や古典期ではないのだ。)
感情の表現、xの表現ということで19世紀の音楽が手にした拡大は実に驚異的だ。いずれにしても歌詞は解釈の流れを作ってしまう。伝記的事実なしに作品を聴いたら?マーラーのある意味では素直なところは、年齢相応だ、ということだ。だが、そうした時間軸を作品自体から定量的に抽出することができるだろうか?
(2006.9未定稿)

マーラーの音楽の特性を巡る覚書

行進曲、カッコウの鳴き声、ファンファーレ、聖歌は記号として、そしてそれ以上に文脈を引き込むものとしてアトラクタの様なものとして、存在する。単なる記号ではないのは、それが実際に行進、野原、祈りという「内容」を形作るからで、単に~をあらわす記号、~というものをピンで留めている訳ではないからだ。
それは多分、音楽の「意味」といってしまって良い。意味の領野が成立しうる様な音楽、自我の音楽。 意味は目的であったり、方向であったりしなくても良い。意味と前意味のあわい、記号の持つ意味とは異なった。 だが、単純な感覚質に比べたらはるかに構造化されたものの構造。
それは創作の極における形式への批判的取り組みや、調性についての批判的な見直しでは直接にはない。それらもまた、実現された音楽のうちに刻印されていなければ、単なる作者の意図と言う名の素材に過ぎない。

音楽的な経過を言語による物語に「翻訳」してしまうこと。近似的変換として、あっても良いが、しかし、それでは恣意性が高すぎる(もっとも、劇音楽における描写のように、そのような翻訳がなされるべきであることも、正解が存在することもあるだろうが。) また、或る種の分析のように、結局のところ「~的」という特徴のリスト(しかもしばしば驚くほど短いものでありうる。)に還元することにしかならない分析もまた、不毛であろう。そうしたリストは―それが数十から数百にもなれば、そして測度が適切に入るならば、有効なものになりうる可能性だってあるのだが―一般には、印象批評と結果だけ見れば変わるところはない。

それでは音楽的時間の擬人化についてはどうか。音楽はオブジェだから、根源的時間そのものではありえない。擬人化の由来は、音楽に対するTriebの結果だという主張は?音楽的時間の「理想化」、人間に―日常的時間に―喪われた時間の意味を返してくれる擬似根源的な時間?
多分、擬人化は正しい。だが理由は安直に一般化できない。それは享受の極で(そして恐らく自我の音楽なら、創作の極でも)行われうる、或る種の代償行動(現実には実現可能でないことをfictionの中で実現することで満足を得るといった類の説明)に還元してしまうことになる。 それが全く無とは言わないまでも、それは起こりうる事態のほんの一部でしかないだろう。そもそも人は、そのように音楽に出会うとは限らないし、仮にそれに現実を代替する機能を認めたとして、その代替は必ずしも代償として機能する訳ではない。
そもそもその光景は初めて聴き入る子供にとって未聴のものであるかも知れないではないか、、、(アドルノがマーラー論で語っているあの経験を参照せよ。)

また近代音楽の批判、現代音楽の近代音楽に対する批判的機能についても留保が必要だ。確かに現代音楽は、自明性の前提を崩すから、批判的な機能は持ちうる。だが、それが近代音楽の持ちえた豊かさと同等のものを保証するわけでも、それ替わる、それに釣り合う別の何かを自動的に保証するわけではない。 (だいたい、ここでいう批判の機能は、近代音楽であるマーラーの音楽が、その時代に持ちえた機能と何ら変わることはないではないか?本当に、近代と現代の対比は意味を持つのか?ここでいう批判の機能は、或る種の音楽が時代を問わずに持ちえる、などということは考えられないのか?近代批判を近代に無批判にのっかってやっていることにはならないだろうか?)そもそも、その批判は人を「音楽ではないもの」に向かわせる可能性だってある。それはそれでも構わない。だが、これはまた、一つのイデオロギーに過ぎない。

不思議なのは、もし「世の成り行き」との葛藤がなかったとして、あるいはそこから逃避したとして、そこで表現するものがまだ残っているという事だ。―勿論、理想的な、あるいは理念的な秩序、法則性を、世の成り行きから抽象して表現する、ということがあるのかも知れない。例えばそれが「自然」であったりする、、、逃避の対象が実現される当のものである、という循環は、どこにでもあるようだ。一方で、作曲家はやはり音という素材に向き合うという側面がやはりあるようだ。構築するにせよ、構築することを拒んで、寧ろ「見つける」という姿勢をとる(cf.Feldmanの場合がわかりやすい)にせよ、音に対峙するという位相、表現云々の問題以前に、素材として目の前に音がある、という側面が在る様だ。特に「世の成り行き」から身をひいた音楽の場合には、そういう契機があらわになるようだ。―例えばオペラのために脚本に音楽をつけるという場合と異なって―「何のために」が与件として存在するわけではない。音を手段として、表現する何かがあるわけでもない。そういった意味合いでは、それが「世の成り行き」から強いられた―注文による―のではないとはいえ、マーラーの場合には「何のために」は、多くの場合、暗黙の与件だったように思われる。―つまり、世界を包含することがそれだ。音楽は「手段」である、という意識があった。ところが「現代音楽」の場合、音楽は手段ではなく、それ自体、目的のようだ。だが、それはやはり危ういものではないか?

そもそも語りの衝動はどこから来るのか?そして聴取の衝動は?―これは「まずは」心理学的な問題だろう。現代音楽こそ、「世の成り行き」からの逃避ではないか?と疑ってみることは不当なことだろうか。あるいは、さまざまな逃避のかたちだけではないのか?、と。音の聴取そのものを問うラディカリズムもまた、「世の成り行き」との関わりからすれば、ある種の逃避、疎外の果ての姿ではないのか?
だとしたら、単純に、近代音楽を批判することはできないし、マーラーのようなあり方(「世の成り行き」との関わりに満ちている)を、時代遅れといって批判するのは見当はずれだ。

別に「現代音楽」が聴き手から遊離していることを問題にしているのではない。音に対する姿勢へのこだわりという位相に自明の事として―あるいは積極的にラディカルな立場と自分で思い込んで―住まうこと、それが寧ろ逃避の極限として、だから対立するものというよりは寧ろ、同じもののより徹底された姿として映るということだ。そこには、セリエリズムか、それの否定かという区別は大して意味をもたらさない。音に対するつきつめが、どのような社会的条件のもとで可能になるのか、あるいはどういった心理的機制のもとで生じるのか。(セリエリズムに疲れ、音を聴くことを選んだシェルシを思い浮かべても良いだろう。あるいは―全く別の事例として、ティンティナブリに至ったペルトを考えても良いだろう。一方の極として、FeldmanやCageのようなアメリカの、アメリカならではの実験的なスタンスを考えても良い。)

一方、例えばマーラーにおける世界の暴力的な相貌は、自我の、主体の側の態度のエコーではないのか? マーラーの場合は、世界は、彼が世界に対して暴力的な分だけ暴力的なのではないか?と疑ってみることもまた、可能だろう。 (だが多分、これは言いすぎだ。常に世界の方が主体より強く、主体は敗北するのだから。)

「うた」の問題はマーラーの歌曲において躓きの石となる。本来「うた」は主体の側にあるはずだからだ。そして、「うた」はバルビローリの演奏の特徴でもある。結局、 マーラーの場合は「うた」の優位は一貫しているといって良い。マーラーの場合、主観が没落するのは、「うた」の圏内でなのだ。だからバルビローリは多分正しい。実際に世界との関係は破綻しない。破綻は楽曲においても表現の対象だ。破綻は形成自体には起こらない。破綻が形式化される。カオスや相転移が記述されるように。そして暴力に満ちた客観ということでいけば、マーラーとXenakisの距離を考える必要がある。そこには法則がある。だが、主体は安全ではない。 ―まるでその都度賭けが行われているかのようだ。「世の成り行き」に対する「別の仕方で」の関わりとして、Xenakisを考えることができるだろう。

いずれにしても、音楽を聴くとき、何が起こっているのか、音楽の個性とは何かを、具体的な事象に対する具体的なモデルによって記述することは、全く手付かずで残っている。でもだからといって形而上学的な時間論に耽っていて良いということにはならない。 様々な時間論を渉猟して博学をひけらかしたり、レトリックを連ねて気の利いたことを言ったところで、実質的には何も進まない。 (そもそも「音楽的時間」という切り出し方そのものがすでに抽象的だ。重要なのは個別の時間の分析なのに。) 単純化も不可能だ。それはマーラーのような極めて多くの文脈の上で成り立ち、それ自体が複雑な脈略を持つような音楽の説明になりうる保証がない。 勿論認知的なモデルを作ること自体は必要だが、一般的なモデルで十分だというわけではないだろう。

例えばマーラーの場合なら、「世の成り行き」との関係の転送とか感受の伝達というのを想定することができるだろう。
だがそれは、どこで起きたのか、本当に創作の極で起きたのか?(何も起きなかったということはあるまい。)いずれにせよ、「作品」には刻印されている。(ところで、作品についてはLevinasのoeuvreの概念を参照せよ。)世の成り行きから身を離すこともできる。しかも色々な仕方で。勿論、身を浸すこともできる。(オペラの作曲を考えてみれば良い。ドニゼッティのように良心的に注文に応じて音楽を量産しつづけた人もいるのだ。)マーラーが興味深いのはその「世の成り行き」との関係の作品上の表われだろう。そして件の不変項、取り出されるべき構造には勿論、この「世の成り行きとの関係」が捉えられているべきである。世界と自我の関係といい、意識の音楽といい、そのような言語で記述しようとしてきた側面こそ、取り出さなくてはならない当のものだ。

脳の可塑性、文化の相対性からいっても「自我」というのは普遍的なものではありえない。それは、ある文明の、ある歴史的エポックに固有の、ある組織化の様態なのだ。だが、それを認めたところで、ここでの問題は変わらない。何も一般的な図式、普遍的な構造が手に入れたい訳ではないので。
ここでの目標は、物理学のそれに近いといって良い。雲や水流のような現象の記述と同じような姿勢で、音楽、しかも個別の、外延が定義された音楽についての記述を探求するのが課題なのだ。文化的な対象について、一般的な学を構想すると、途端に対象の範囲の曖昧さが出現して、それに足をとられてページ数を費やすことが多いが、ここでは、まずは対象は比較的良く定義されている。(それでも版の問題や未完成のXの問題等もあるが。)

クオリアというのは狭義の感覚質を指してしまう様で、些か問題がある。音楽が惹き起こすのはより身体的、情態的な反応だ。そうした反応パターンを含めて質を考えてやる必要がある。クオリアを、音響を聴覚で知覚することに限定するのは、多分抽象なのだ。そもそも喜び悲しみetc.というのは、狭義のクオリアとは別の、身体的、生理的な反応だ。だが問題は、音楽を聴く、特にマーラーのような音楽を聴くということが、あるレベルで何であるかを示すことだ。音楽が「思想」を表すことは可能か?何か法則性を表すことができるだろうか?(法則に従うこととは別だ。)音楽が、何かを伝達するという言い方がされる。けれどもここでは、送り手、受け手は必ずしも明らかではない。 恐らく音楽は、言葉を使ってのように思想を表すことはない。(あくまでマーラーの場合は) だが直接に、何か感受の様式を、ある情態性を、転送する。あるいは聴き手の裡に構成することを可能にする。 感受の伝達の媒体なのだ。 例えば、音楽外のある出来事の経験をしたとき、その経験の構造、感受の様式のあるパターンがある音楽によって構成されたものに近い、ということはあるだろう。 自我の形成期に音楽を聴くことによって、脳内にあるパターンが形成されると、それが音楽外の経験をしたときにアトラクタとして働く、ということは大いにありえそうだ。 勿論、新たなパターンが作られることの方が多いだろうし、音楽の作るパターン自体も、安定したものであり続けるわけではないだろう。 だが、そうした経験の空間の形成の初期条件、canalizationとして、ある他者(=マーラー)の感受の伝達の結果が用いられるというのはあるだろう。 逆にショスタコーヴィチのように、後から、自己の経験の対応パターンを音楽の聴取に見出すこともある。

さまざまな音楽。ある個体の受容についていうのであれば、いつその音楽に出会ったのか? 音楽には言語における母語と第2言語の習得のような差異はないのだろうか? 新しい音楽、異なるタイプの音楽に出会い、その仕組みを理解し、そこから何かを学ぶことはできる。 だが、それを表現の媒体とすることについてはどうだろうか?あるいは表現されたものを受容するという過程については?

一方で、可塑性を信頼する立場もある。何歳になったら言語の習得が困難になるのか、 母語・第2言語の差異というのは結局、一般には程度の問題ではないか(私の場合はそうではないが) 母語以外を表現の媒体とすることだって可能ではないか、と考えることもできる。

その一方で、あるシステムが他のシステムよりも合理的で強力だ、ということはないだろうか。 そうだとしたら、これはどちらを先に受容して、内部のネットワークを形成したか、という問題ではない。 今度は可塑性が力を発揮する。そして、あるシステムはその可塑性をより発揮させやすいシステムを持っている、etc. あるいは、作品を作る仕組みとして強力であるがゆえに、より力を持つ作品が作られやすい。 ある文脈、ある目的のためでない音楽、というのが可能なこと自体、そのシステムの強力さを表していないか?

勿論、ある個体がそうした強力なシステムを受け容れるか、拒絶するかは別の問題だ。
(2006.9)

マーラーを何故聴くのか

なぜ私はマーラーの音楽を聴くのか? なぜ(辛うじて生きる時代の一部を共有しはしていても)過去の、しかも文化的な環境も社会体制も全く異なる場所の作曲家の音楽を聴くのか? 何に惹かれ、何をそこから引き出そうとしてその音楽を繰り返し聴くのか? マーラーを聴くのは、知的な関心からではないし、娯楽としてでもない。 CDを買って聴く、(滅多にないことだが)コンサートに行く、というのは経済的な観点からいけば消費には違いない。 だが、それは暇つぶしではない。それを楽しみといってよいかどうかもわからない。

確立された権威、文化財としての音楽?作品が作られた状況や環境とは切り離して 残された作品と向き合う姿勢?だが、必ずしもそうでもない。なぜなら、マーラーの音楽に 関して言えば、その音楽に刻印された状況とそれに対する主体の反応の刻印が、 その音楽に惹きつけられる原因となっているからだ。勿論、こうした見方は、 音楽家なら持ちえたであろう制作の現場の視点を取りえない。だが、マーラーの 音楽を聴くのは、それと結びついた自分の経験を反芻するためではない。 きしみ、奇妙に歪んではいるけれど、時折はくつろいだ表情も見せるその音楽は、 私にとっては他者であり、そこからある種の姿勢であるとか、態度であるとかを 感じ取り、それに自分を同調させたりずらしたりしながら、何かを受け取っているのは 確かなのだ。

幾つかの演奏を聴くというのは大切なことだ。 どんなに優れた演奏であったとしても、ある演奏は切断面の一つに過ぎない。 勿論可能であれば自分で楽譜を読み、演奏するのが望ましいのだろうが、 それをしないまでも、別の演奏を聴くことで作品の持つ別の側面に気付く ことができる。だが、究極の演奏に辿り着くことはまさに同じ理由によって不可能だ。 結局は、あなたが指揮者でなくても、楽譜を読み、音を想像して自分なりの像を掴むしかないのだ。 結局、アドルノのいうところの星座の見え方は、各人固有のものであり、 他の誰も、その人の代わりにそこに立つことはできないのだ。

勿論、作品は作者ではない。作曲家の伝記を紐解いたところで、音楽自体は 変わることがない。だが、その音楽はいわゆる「個性」の刻印を紛れもなく帯びている。 技術的に言い当てることができなくても、その「個性」を認めることは難しくない。 そして、その「個性」に惹かれて、ある作曲家の作品を聴くのであれば、作者なしの 作品自体というものを考えるのは、少なくともマーラーの場合にはナンセンスだ。 作品自体が、作者を指し示している、その限りでの作者はここには確実に存在するのだ。

音楽の表現するものは、言葉の側から見れば本質的に曖昧だ。 一方で、音楽の表現するものを言葉が正確に言い当てることはできない。 音楽は容易にある体験、ある情態、ある雰囲気を探り当てる。 だから、人はしばしば音楽よりも音楽を聴いた時に我が身に起きた事を書いてしまう。 それが本当にその音楽でなくては不可能であったのかどうかを検証することは難しい。

或る種のスタンス、呼吸やリズム、反応様式に同調すること。それを思想と呼ぶのは適切ではない。もっと身体的で具体的なもの。 記号としての感情ではなく、情態や気分の反映を聴き取ること。 あるいは、これもひねくれた快楽なのかも知れない。だが、それは無くてもいいものではない。 社会的な機能という観点ではなく、個人が、ちっぽけな意識が生き延びるために必要な糧。 もしかしたら、そうした切実さが、創作の極においてもあったのではないか、だからこそ、それを欲する聴き手にとって、 他に代え難い価値を持つのではないか?

芸術を求めているのか、モラルを求めているのか? これを二者択一にすることは難しい。 ちなみに芸術の方は、学問なり知識なりに置き換えても良い。 もっともこれは、キリスト教文化圏と仏教的な文化の圏とではことなるだろう。 一方が他方に比べて優位ということはない、というのは多分、半分は間違いだ。 文化も進化論的な視点から見れば生存競争をしている。

だが、個人的には多分、モラルのない芸術や知識は受け入れることができない。 ならば逆は?美的な観点から、あるいは知的な観点からは全く凡庸だが、 モラルの観点から見たら非の打ち所の無いもの。 それを受け入れることはできるだろうが、我が物とすることには多分抵抗がある。 だが、それが実際には両立しえないとしたらどうなのか?

はっきりしていること。
同時代性やリアルタイムな問題意識、環境という点では、やはり日本のものに どうしても関心がいくことになる。勿論音楽家の問題意識は音楽家でない人間にとっては 疎遠には違いない。だから程度の問題なのだが、それでもやはり、環境の違いというのは 存在する。勿論、それを音として聴くのであれば、同じように聴くことができるだろう。 だから近藤譲のようなタイプの音楽であれば、別にそうした地域性のようなものは 問題にならない。だが、音楽をするということはどういうことか、とか媒体との関係などと いった実践の側面が入るとそうはいかなくなる。

一方で、音楽を聴くということについていえば、私の心を打つのはいわゆるクラシック音楽 なのだ。いわゆる現代音楽ではない。例えばマーラーの音楽を聴きたいと思う。 関心という点では、何人かの現代作曲家の動向には注目はしているし、 また能や義太夫節だって心を打つには違いない。だが、自分が親しみを覚え、 心を開くことができる音楽は、結局クラシック、例えば今ならマーラーの音楽なのだ。 これはどうしようもないことだ。それは歌があるかどうかとか、美しいかどうか、といった 問題ではない。一部は「刷り込み」に近い、自己形成の問題だろうし、 (結局同じことだが)自己を表現する、生のあり方、或る種の生きる姿勢や態度を 反映した音楽というものが、自分にとっての基準になっているのは間違いない。 音楽は心の安らぎのためにある。だがそれは娯楽と言い切ることはできない。 もう少し切実なものだ。
そうした聴き方はせいぜいヴェーベルンまでで、クセナキスは例外的にそれに近い感じ方が できる音楽だが、やはり、同じように聴くことはできないし、もともとそういう種類の音楽ではない。 心の「表現」としての音楽、ヴェーベルンで恐らく終わりを告げる主観的な音楽こそ、 私が一番聴きたい音楽なのだ。
結局、他の音楽はなくなっても、そうした主観的な音楽との対話なしで生きていくのは困難だろう。

記憶のし易さ、というのがあるかも知れない。 勿論、記憶のし易さは、作品の価値を測る尺度にはなりえない。 あえて記憶できないように構成された音楽というのも存在するし、それはそれで意義がある。

だが、類別の尺度としては存在するし、文化依存、より個別的にはその個体の学習の蓄積により、 何が記憶しやすいかは異なりうるだろう。記憶のし易さ、どのような作品が記憶しやすいかは、 記憶するシステムの側の特性だろう。
どれも同じに聞こえるというのは、類別のために必要なだけのパラメータの次元数を獲得していないだけ という事に由来する。記憶が可能であるのも、そのパラメータ空間の形成のし易さの程度の問題 だから、記憶が精密になるのは、異なりをより多く検出することのできる空間の豊かさが増している という事に他ならない。

音の構造への抽象的な関心も、それを音の認知の、記憶の、時間意識の問題と考えれば、 大変に興味深い。
だが、方法論的な自覚がなくても、音楽は、そういった知覚の、時間意識の変容をシステムに 引き起こす力がある。少なくともマーラーの場合にはそうした変容それ自体が目的であるわけではない。 そしてどちらがより優れているかはいちがいには言えない。 それ自体が目的でない場合には、そうした変容は文化的な沈殿物を引きずっている、というより そうした文化的な沈殿物(それは「思想」なり「世界観」なりということばで語られるかも知れない)の 姿をして現れる。
そしてその姿自体もまた、決して瑣末な飾りではない。

結局、個人的な問題を言えば、なぜ私は音楽を聴くのか、音楽を聴くことで何を得ているのか、 ということになるだろう。そしてそれが何故音楽でなくてはならないのか。 端的に言えば、私は生きる姿勢のようなものをそこに求めている。 出来上がった作品も、その姿勢の中に含まれるから、作品はどうでもいい、というようには 考えない。作品は抜け殻に過ぎない、という考え方もあるだろうし、作品と演奏の間の問題が 「向こう側の事情として」あるのも理解しているが、私は、作品を作り上げること、をその生き方の 姿勢の不可欠の要素として考えている。
もし、倫理的な振る舞いだけを考えれば、偉大と呼ばれる音楽家ですら、極めて不徹底な 存在になるだろう。欠点のない聖者を求めているのではない。だが、それでも作品だけで 作者はどうでもいい、とは考えない。
作品は作者の主観の表現であるといったたぐいのロマン主義的な発想に作品が基づくか (少なくとも作者の主観的意図として)どうかによらず、やはり作品と作者を切り離して考えたくはない。 それはやはり生き物の行動とその結果に違いなく、そういう視点を放棄することは考えたくない。 行為だけで結果はどうでもいいわけでもなく、結果がよければ意図はどうでもいいわけでもない。

そして最後に、できればその音楽は音楽自体が、私の感じ方や考え方、生きる姿勢にアフェクトを もって欲しいのだ。そういう意味では、ロマン主義的な音楽は、私の場合という個別のケースでは 少なくとも結果的に、優位にある。そのように感受が組織されてしまっているという結果論で あっても、仕方ない。少なくとも、実験的な音楽は、マーラーの音楽が与えてくれるものと 等価なものを与えてくれない(し、それはないものねだりなのである。そのかわり別のものを 与えてくれる。)そして、私にはマーラーの音楽のようなタイプの音楽が必要なのだ。

意識という存在の宿命なのだ。意識とは目覚めであり、見張ることなのだ。 不思議なことに、意識は眠りの安らぎを我が事のように思い、望みもする。 だが、眠りは意識には属していない。意識は己からはみ出すものを、知っているだけではなく、 それに対する情態をも備えるようになっている。 だが意識は、定義上それ自身は眠らない。夢見る意識に覚醒時の意識との連続性が あるとしたら、眠りの幕を抜けて、こちら側に移動するだけ。意識は夢の中で、 目覚めている。眠っている自分を見ている意識は眠っていない。

マーラーはショスタコーヴィチと異なって、しばしば眠りに近づく。 とことん、覚醒の音楽というわけではない。 これはこれで大事な特徴だ。
(2006.9)

2006年4月3日月曜日

近藤譲を通して見たマーラー

近藤譲が武満徹について書いた文章でマーラーに触れている。それはマーラーをジェスチュアの音楽の典型として捉えるという見解であって、 そういう視点では武満の音楽もまた、マーラーと同じ範疇に属するというような主張ではなかったか。私個人としてはその文章での主題であった はずの武満の音楽に関する当否よりも、マーラーの音楽の捉え方の方に関心を覚えたのを記憶している。 一つにはその指摘は大筋において正しく、それをジェスチュアという言葉に端的に集約した鮮やかさのためであり、それと同時に、実はマーラーの 音楽の個性なり固有性なりがあるとするならば、それがジェスチュアの音楽でありつつ、それを踏まえた上でそこからずれていくという点に存するように 思われ、その限りにおいて違和感を感じたからでもあり、そして何より近藤譲の音楽は、そうしたマーラーや武満に対する批判的な姿勢から 生まれているという主張が潜ませてあるように感じられたからである。実際には私は近藤譲の音楽の熱心な聴き手とはいえないし、その音楽の 比類ない質の高さには瞠目しても、身近には感じられない。にも関わらず、あるいはそうした親近感のようなものも含めて、近藤譲の音楽を通して マーラーを眺めた場合の展望には示唆的なものがあるように感じられてならない。

近藤譲の音楽を初めて聴いたときの印象は、それがこれまで聴いた音楽よりは、寧ろ抽象絵画に近いというものだった。音による抽象的なコンポジションとしての作曲。何かを表現しようとしたり模倣したりしようとするのではなく、構築することなく、音を並べ、組み合わせ、編み上げることによって生まれる抽象的な質そのものを享受する経験。西欧の音楽が蓄積してきた、それなりに強力な、いわば「手垢のついた」パターンに依拠することなく、音どうしの関係をオリジナルなやり方で作り上げていく。それが目的であったのかどうかはともかく、音のパターンが感情や情緒、気分を表現するための記号として機能することは避けられる。思想や人生観(なんなら、世界観でも宇宙観でも、、、)を伝えることもまた、意図されていない。ある文化的な伝統への帰属や、東洋と西洋の出会いといったことも問題になっていない。それらはある伝統の中で機能する語法なり、楽器なりを記号として使用することによって可能になるのだが、ここではそうしたレディメイドの記号の体系を利用することは避けられていて、そのような場合には素材であったり媒体であったりする音の動きは、余計な意味付けをされることなく聴き手の前に現れることができるし、自由に振舞うことができるようだ。

音と音の関係を見つける作業は、予め与えられた方法によらずにその都度手探りで行われるのだろう。既存のパターンに従うことはないから、それは創作の過程においても、結果として出来上がった作品を聴取する過程においても、或る種の冒険であり、新しさの経験が、発見がある。だが、繰り返される冒険はあてのない彷徨ではなく、試行錯誤は局所的には極めて論理的に一貫した意図をもって行われるので、結果的に、そうした試行を繰り返した後には確固とした方法が浮び上がることになる。法則性も語法も、そうした冒険の軌跡を後から眺めたときに現れるのだ。

勿論、こうした方法論自体がある文化の産物であることは事実だし、完全に無色透明な立場というのはありえない。近藤譲の音楽は、もしそれを音楽史的な観点で分類するのであれば、アメリカのケージ達の、なかんずくフェルドマンの実験主義の立場の正当な継承と徹底として位置づけられるだろう。だが、その立場が「実験的」なのは音と音の関係を扱う際のスタンスに限定されるようだ。音響面についていえば、異化効果としてであれ単なる新奇な音響としてであれ、特殊奏法に対するこだわりはあまり感じられないし、いわゆる電子音楽よりは伝統的な楽器を人間が演奏する際の奏者間の関係性への関心が勝っているようだ。音楽が制作される現場の制度に対する態度についても、制度的な問題を主題とすることはなく、寧ろそうした制度を所与としてその枠組みの中での可能性を追求する職業的な作曲家としての姿勢が意識的に選択されているようにうかがえる。作品リストを見ればわかるとおり、その作品はほとんど何らかの委嘱に応えるかたちで作曲されていて、おおむねコンサートホールという場所でコンサートという形態の枠組みの中で演奏されることを目的としており、そのことは作品の長さや楽器編成に端的に現れている。作品概念についての姿勢も含めて、結果としての作品のありようは実験音楽の中では寧ろ保守的といっても良いかもしれない。絵画にたとえれば、普通の絵具を用いて普通のカンバスに描かれた作品で、その実験性は描かれた内容にある、といった感じか。

音と音との関係を、伝統的な型によらずに探求する姿勢から産み出される音響は、ややもすれば現代音楽にありがちな、貧血症におちいった無味乾燥で退屈なものに聴こえてしまうかも知れない。しばしばアイデアの新規性に大きな価値をおかれがちで方法論やコンセプトで差別化しようとする前衛音楽の行きかたは、結果としての音楽の貧しさをどうすることもできない場合が多い。あるいは行為自体に価値がおかれ、あまつさえ失敗自体に価値を見出す立場すらありうるだろう。だが私見では、近藤譲の音楽はそれらには該当しない。寧ろ結果としての作品に定着された音楽の疑いようのない豊かさ、作品を聴く経験の新鮮さと興味深さが、その冒険の成功を告げている稀有な例であるように思われる。それを完成度と呼ぶこともできるかもしれないし、そういう言い方をするのであれば、完成度は高いのだろうが、時折、職業的な作曲家が大量の注文をこなす際に陥いるとして非難されるある種の自己模倣と似たような印象を覚えることもあっても、いわゆるマニエリスムとは無縁で、行き止まりの感じを受けることはない。それぞれの作品はその都度のとりあえずの結論であり、どこか安定し、定着しきれないような動性を帯びているように見える。その点は実験という言葉にいかにも似つかわしいが、それでいて決して中途半端な感じを受けることはなく、寧ろ、風通しの良さに通じているように感じられる。 1曲聴けば後は同じの金太郎飴ではなく、紛れの無い個性の刻印はあるけれど1曲1曲がすこしずつ異なっていて、次がどうなるのかが楽しみなのだ。まるで、予想もつかない何かが起きることはないが、どこに行くかはわからないという、作品の内部構造におけるの音と音の間の関係に似たような関係が作品と作品の間にも働いているかのようだ。それゆえ私には、近藤譲の音楽が今後どのように展開していくのか、興味が尽きることはなさそうに思える。

一方で、もしその姿勢を批判するとしたら、どのような立場からが考えうるだろうか。 例えば以下のような見方が可能だろうか。

近藤は美を再定義して、作曲する己自身にとっても「謎」であるものを美と呼ぼうとする。彼の音楽の抽象的な音の空間は、本人にとってもそれ以外の聴き手にとっても「謎」だ。しかもそれは通常音楽の持つ音楽外的なものへの参照、行為へのいざないの側面を、あえて遮断したものだ。ここでは音を手段とするのではなく、自由に振舞わせよう、音固有の価値を尊重しようという精神が存在する。だがそれは、ある種の自閉ではないか。音を手段とすることの拒否は、音を目的とする、芸術の自己崇拝によくにた構造をもたないか?もっともここには神秘主義もなければ、超越への衝迫もない。音楽を啓示の媒体であり高度な認識への道、手段と見做しつつ、同時に、啓示される超越的なものの表現、認識されるべき当の対象そのものの現れと見做す自己中毒もないのだが。そしてまた彼は美的な判断を作品以外のものに拡張することの危険を説く。確かにそれは危険だし、倫理的に許されないという主張は正しそうに見える。だが、それは結局美的なものの囲い込みではないのか?本当に、音楽は、美は倫理と独立の価値を持つのか。ここでは音楽をする行為の倫理性を問うこともまた禁じられているのではないか。その姿勢は美を自閉させ、結果的に倫理的に不適切な場面で美的な価値判断がなされてしまうような倫理と美学の分離の補強をしていることにはならないのか。

近藤の音が響く空間には、音の自律性を尊重する聴き手しかいない。そしてその聴き手というのは、トータルな意味での人間ではない。それは人間のある一部分。断片化された耳だ。世の成り行きの喧騒から遮断された防音室で響く音楽。だから、あるとき聴き手は、退屈する。それは近藤の音楽が退屈だからではない。人間は気が散りやすい動物なのだ。常に、自分が埋め込まれた環境のあれこれに意識を向けてしまう。もともと彼は音だけが存在する世界に生きているわけではない。だから遮断は時折うまくいかない。知覚はもともと環境世界についての情報を与えるものであり、反応を引き起こす信号の如きものではないのに、そうした側面を遮断するためにわざわざ環境を設定しているように見える。その環境の枠が曲であり、だからこれは認知実験に似る。それを聴く人間も抽象化されて「耳」に、あるいは実験の効果を測定する装置に還元されるかのようだ。実験音楽という呼称もむべなるかな。

確かにそれは、近藤の音楽だけの問題ではない。いわゆる西欧のクラシック音楽はコンサートホールで聴くようにほぼ決まっていて、結局のところ近藤の音楽はそうした伝統に属している。コンサートホールはいわば公的な防音室だ。そこでは演奏者がステージの上で作曲者の指示に従い音楽を演奏する。聴き手はそこに入るためにはお金を払い、音楽が始まって終わるまで沈黙を守り、身じろぎせずに狭い座席で己れを耳に還元し、終われば拍手をするきまりになっている。そこでは様々な時代の色々な美的価値観に基づく音楽が演奏されるが、結局のところ、音楽が提供される場の性格が、そうした多様性を超えてその音楽を性格づけてしまう。そうした防音室の中の経験が、その外の成り行きとどう関わるというのだろう。そこで提示されるのが「謎」であるのは、それが文脈をはぎとられ、外部の環境から遮断され、意味を剥ぎ取られていることの裏返しではないのか。 (実際には私が「謎」に向き合うのは、コンサートホールよりは寧ろ、自宅で、CDに収められた録音を聴きながらの方が遥かに多いのだけれど。) その「謎」はスフィンクスとは異なって、謎を突きつけられた人間を脅かすこともない。美術は美術館の中に、音楽はコンサートホールの中に隔離されて純粋培養される。それらは独自で固有の価値を持つものとされる。そうした考え方の極北が、抽象化された音や色彩、形態の組み合わせ。それは別に何かを変えるわけではない。いつもの風景の中に収まる。

だが、批判はある意味ではたやすく、制作の営みの行く末を見極めることは困難だ。また、こうした批判が想定できるにも関わらず、私にとってその音楽を聴き続けることを促す何かが、その音楽にあるのは確かだ。そして、結局のところ私もまたそれを、さしあたり「謎」と呼ぶほかないのである。

さて、そうした検討の上でもう一度マーラーを振り返ってみた場合の展望はどうだろうか。「謎」という点ではマーラーもまた私にとって「謎」ではあるが、 その理由は全く異なる。マーラーの場合の謎は、その人と音楽の関係のそれであり、寧ろ人間の営みの結果たる作品に析出したマーラーという人間の 姿勢なり態度に関する謎なのである。人間としてのマーラーを作品と区別して考えることは、作品を通じて人間についての 外挿を行う姿勢の持つ危険性に引き比べれば一見したところ遙かに優れた態度に見えて、実際にはありもしない分離を仮構し、 現実には不可分のものであった両者を抽象することに起因する具体性の履き違えの誤謬を犯しているのである。否、その音楽と人間との 結びつきそのものが「謎」の一面に他ならないのだ。

一方で、コンサートホールという制度への依存や音楽の自律性の尊重という点では、実際にはマーラーと近藤は決して疎遠な存在ではない。 勿論その音楽の実質は大きく異なる。要するに近藤の音楽は何かを表現しようとしているわけではなく、音自体の振る舞いに関心が集中しているのに 対し、マーラーにとって音楽は、そういう意味では決して自律的な存在ではなかったようだ。マーラーの音楽は音楽に纏わりつく脈絡やら文脈を 拒絶しない。しかしそれに対して意識的である点では近藤と一致していて、マーラーの場合はそうした脈絡に対する意識が音楽の中に投影される ことで、その音楽に微妙な陰影をもたらしているようだ。それはある意味では「世界観」音楽なのかも知れないが、マーラーの場合にはそれは 少なくとも出発点においては本人の意図ではなかったことに注意すべきだろう。音楽が先にあって、脈絡は後から析出されていくかのようなのだ。 シェーンベルクはプラハ講演において、第9交響曲を念頭においてメガフォンに喩えたが、第9交響曲のみならずマーラーの音楽にあって作曲家は音楽が現実の領域に 進入するための媒体であるかのようだ。音楽が「世界観」を作曲家が表現するために利用されるのではない。世界観の方が作曲家を媒体にして 音楽として己を実現していると言ったほうが良い。だからマーラーの音楽を典型的なロマン派の世界観音楽と見做したり、こちらもまた毎度おなじみの 標題音楽と見做す議論は、マーラーの場合を扱い得ないように感じられてならない。マーラーが音楽を世界と見做し、作曲を世界の構築と 見做した発言は、「文字通り」にとられるべきなのだ。世界観の表明、標題・プログラムの実現が問題なのではない。文字通り音楽によって 世界を構築することが問題であり、標題は常に後付けの不完全で色褪せた説明に過ぎない。

だからマーラーをジェスチュアの音楽であると捉える考え方に関してはこのように言いたい気がするのだ。確かにそれはジェスチュアの音楽だが、 私が関心があるのは、そのジェスチュアの背後にある意識の働きがその音楽に自らの影を落とすその有様なのである、と。「意識の音楽」という のはまさにそうした捉え方が可能な類の音楽のことである。そこでは対象自体ではなく、対象に対する態度、対象に接する経験の側に 注意が移動している。いわば反応や経験の情態性の記述が中心になる。無論、音楽を外からそのように読み取ることは一般に可能かも 知れず、近藤の音楽に対してすら可能かも知れない。だが近藤の音楽は、それが成功しているが故になお一層、生の経験や意識は 音楽の外部にあるのだ。それは意識の音楽ではない。

勿論、「意識の音楽」であるかどうかと作品の出来不出来は全く独立の事柄だ。だが、どちらにより一層興味があるかと言えば、私個人としては 興味は「意識の音楽」の側にある。その意味では近藤の音楽は、ちょうど自分の関心を裏から批判的にあぶりだすような位置づけにあるのだろう。 一方で、一旦音楽の内側からは表現や感性のごときものを徹底して排除した上で、もう一度人間の営為として音楽を捉えるようなアプローチも 可能であり、そういった方向にはこれはこれで強い共感を覚えている。そこでは「人間」そのものも相対化されていて、それゆえ他ならぬ人間の 営みとしての音楽は、その音楽が埋め込まれる脈絡や音楽の外部に対する価値といったものをもう一度改めて引き受け直さざるを得ない。そこでは 聴き手すら耳に還元されることはなく、音楽をトータルな仕方で受け止めざるを得なくなる。かくして一見したところ懸け離れた存在である 筈の三輪眞弘の音楽とマーラーの音楽は、私の中では不思議な感じで、だが明確なかたちで同居しているのである。 (2006.4.3-8 / 2008.6.21)