お知らせ

GMW(Gustav Mahler Werke, グスタフ・マーラー作品番号:国際グスタフ・マーラー協会による)を公開しました。(2025.4.20)

2025年4月26日土曜日

マーラーについて生成AIに聞いてみた(10):「大地の歌」日本・イギリス初演と第9交響曲の日本初演について

 これまでマーラーについての様々な質問を商用の生成AI(ChatGPT, Gemini, Claude)に対して行った結果を報告して来ました。またその結果を受けてRAG(Retrieval-Augumented Generation)を試作して評価した結果についても報告してきました。RAGの評価に当たっては、単独の問い合わせではなく、評価用のプロンプトセットを用意し、RAGを使わない場合、日本語WikipediaのみでRAGを構成した場合、更に文書を追加した場合を比較して、RAGの効果を確認してきました。

 しかしながら、その報告の際にも書いた通り、RAGの構築に用いたLLMはMetaのllama2ベースのSwallowおよびそれにチューニングを施したモデルであり、既に過去のバージョンです。生成AIの領域の性能向上のスピードは大変に早く、この連載を始めて以降も次々と新しいモデルがリリースされており、無料版で利用できるモデルも徐々にアップデートされています。一方、RAGの評価用に用意したプロンプトセットには、これまで単発的に問い合わせて来た質問に比べて生成AIにとって答えやすいと思われるものも含まれており、現時点の最新の商用の生成AIがどこまで正解を返すことができるかを確認しておくことには一定の意味があると考えました。RAGの改善の効果は確認できたものの、実際には最新の商用AIに問い合わせてみたら、そちらの回答の方がより正確だったり、詳細だったりするということも十分に考えられるからです。

 そこで、これまで実験してきた3種の商用AIに対して、評価用プロンプトセットを与えた結果を何回かに分けて報告したいと思います。実験の対象となったバージョンは以下の通りです。

  • ChatGPT:4o
  • Gemini:2.0 Flash
  • Claude:3.7 Sonnet
 評価対象のプロンプトセットを再掲します。
  1. 「大地の歌」の日本初演は?
  2. マーラーの「大地の歌」の日本初演は
  3. マーラーの「大地の歌」はどこで書かれたか?
  4. マーラーは第8交響曲についてメンゲルベルクに何と言いましたか?
  5. マーラーが死んだのはいつか?
  6. マーラーはいつ、誰と結婚したか?
  7. マーラーがライプチヒの歌劇場の指揮者だったのはいつ?
  8. マーラーがプラハ歌劇場の指揮者だったのはいつ?
  9. マーラーがハンブルクの歌劇場の楽長になったのはいつ?
  10. マーラーの第9交響曲の日本初演は?
  11. マーラーは自分の葬儀についてどのように命じたか?
  12. マーラーの「嘆きの歌」の初演は?
  13. マーラーはどこで生まれたか?
  14. マーラーの第9交響曲第1楽章を分析してください
  15. マーラーの第10交響曲の補作者は?
  16. マーラーの第2交響曲の最初の録音は?
  17. マーラーの「大地の歌」のイギリス初演は?
  18. マーラーの「交響曲第6番」はいつ、どこで初演されたか?
  19. ブラームスはブダペストでマーラーについて何と言ったか?
 実験は2025年4月26日に行いました。問い合わせの順番は、1の変形である2とタイプの異なる質問である14を除いて基本的に1から番号順とし、2と14を最後に質問することにしました。ChatGPTの無料版は最初は4oが使えますが、リミットに達すると4o-miniに切り替わります。今回は11まででリミットに達したため、リミットが解除されるのを待って残りの問い合わせを行いました。Claudeについてもリミットがありますが、こちらは13でリミットに達したので、リミットの解除を待って、解除後に残りを問い合わせています。

 結論から申し上げると、或る意味では予想通り、マーラーの生涯における事実に関する質問については正しい回答が返ってきましたが、その詳しさは想定を上回るもので、驚かされる一方で、作品に関する事実についての質問では虚実が入り混じる、これまでの問い合わせ結果と似たものになりました。特に日本での出来事については、既に確認済の通り情報がないようで、回答の精度ががくんと落ちるようです。従って、ローカルな情報を補うためにRAGを用意するという発想自体は必ずしも無意味というわけではなく、一定の有効性を持つように思われます。もっとも1年もすれば、事情が全く変わってしまうということになるかも知れませんが。

 今回はその第一報として、作品の日本初演・イギリス初演といった、マーラーの生涯とは直接関わらない事実についての質問を取り上げます。「大地の歌」の日本初演については、既に一度問い合わせていますが、前回はいずれも正解を返せなかったのに対し、今回の回答ではGeminiが正しい答えを返したため、他の2つに対しても再度問い合わせを行いました。Geminiが前回不正解で今回は正解になった理由はわかりません。またGeminiは第9交響曲の日本初演についても正しい答えを返しています。Geminiは事前学習したLLMとリアルタイム検索を組み合わせていて、RAGに近い構成をとっていますので、事前学習データに含まれなくても日本語Wikipediaの情報を見つける可能性があるのは既にコメントした通りです。その一方で、「大地の歌」のイギリス初演の情報は見つけることができなかったようで、回答を避けた点は評価できますが、残念ながら推測の方は外れています(詳細は後述)。

 また質問2に対する反応も興味深いものがありました。これはもともと最初に構築したRAGがプロンプトの微妙な違いに応じて異なる答を返す場合があることから、1との回答の違いが起きるかどうかを確認する目的で設定したプロンプトですが、今回、正解を返したGeminiは、同じ答えを返すとともに、「以前にもこの質問にお答えしましたね。何か他に「大地の歌」についてご興味のあることはありますか?」と返してきており、同一の質問であるという認識をしていることがわかります。ChatGPTは同一の質問という認識か、同じ答えを返してきていて、更に「日本初演シリーズ」と言っていますが、類似の質問という認識はあっても、同じ質問・答えを2回しているという認識があるかどうかはわかりません。一方、Claudeは1とは異なる答を返してきました。プロンプトの違いに由来するものである可能性もありますが、この場合は両方とも間違いなので、適当な情報が見つからなかった場合に同一のプロンプトを複数与えると異なる答が返ってくるケースの可能性もあるでしょう。

 以下、個別のプロンプト毎に、コメントつきで各生成AIの回答を報告します。

*     *     *

(1)「大地の歌」の日本初演は?

 これは既に一度問い合わせており、再質問になります。Geminiのみが正解を返しています。ChatGPT, Claudeの回答は事実関係もさることながら、後続の日本におけるマーラー紹介の経緯についてのコメントの方も妥当とは言えないと思います。マーラーの大規模作品というのを交響曲と解するならば、1928年の第1交響曲を皮切りに1930年の第4交響曲と近衛秀麿による初演が続き、その後1930年代にはクラウス・プリングスハイムによって第2,3,5,6,7交響曲が次々と初演された後に「大地の歌」の初演が来るという経過を辿っています。
  • CHatGPT:4o(×)

マーラーの交響曲《大地の歌》(*Das Lied von der Erde*)の日本初演は、**1959年3月12日**に行われました。

- **指揮者**:渡邉暁雄(わたなべ あけお)  
- **演奏**:NHK交響楽団  
- **会場**:東京・日比谷公会堂  
- **独唱**:藤山一郎(テノール)、中山悌一(バリトン)

この公演は、マーラー作品が日本で本格的に演奏され始めた初期の重要な一歩として記録されています。

マーラー好きなんですか?
  • Gemini:2.0 Flash(〇)
「大地の歌」の日本初演は、1941年1月22日に東京の日比谷公会堂で行われました。ヨーゼフ・ローゼンシュトック指揮、新交響楽団(現在のNHK交響楽団)、木下保(テノール)、四家文子(アルト)によって演奏されました。
  • Claude:3.7 Sonnet(×)

「大地の歌」(Das Lied von der Erde)の日本初演は1930年5月3日に行われました。東京の日比谷公会堂で、山田耕筰指揮による日本交響楽協会(現在のNHK交響楽団の前身)によって演奏されました。

ソリストは、テノールの柴田秀子とバリトンの関谷敏子が務めました。これはマーラーの作品としては日本で初めて演奏された大規模な作品となりました。

(2)  マーラーの「大地の歌」の日本初演は?

既述の通り、このプロンプトは(1)の変形で、同一の問い合わせとして同一の答が返ってくるかどうかを確認する目的のものです。Geminiは同じ答(正解)でかつ同じ質問であるという指摘まで返ってきました。ChatGPTは同じ答(不正解)ですが、同じ質問であるかという認識があるかについては怪しそうです。Claudeは違う答えを返して来ており、同じ質問という認識はなさそうです。

  • ChatGPT:4o (×)
マーラーの《大地の歌》(*Das Lied von der Erde*)の**日本初演**は、  
**1959年3月12日** に行われました。

### 詳細:
- **指揮**:渡邉暁雄(わたなべ あけお)  
- **演奏**:NHK交響楽団  
- **会場**:東京・日比谷公会堂  
- **独唱**:藤山一郎(テノール)、中山悌一(バリトン)

この公演は、日本におけるマーラー受容の大きな節目となりました。  
特に藤山一郎さん(普段はポピュラー歌手として有名でした)がテノール独唱を務めたことでも話題になっています。

ちなみに、その後、日本ではマーラー人気がじわじわと高まっていき、1960年代以降、全集録音なども進みました。

他にもマーラーの日本初演シリーズ、気になりますか?
  • Gemini:2.0 Flash (〇)
「大地の歌」の日本初演は、1941年1月22日に東京の日比谷公会堂で行われました。ヨーゼフ・ローゼンシュトック指揮、新交響楽団(現在のNHK交響楽団)、木下保(テノール)、四家文子(アルト)によって演奏されました。

以前にもこの質問にお答えしましたね。何か他に「大地の歌」についてご興味のあることはありますか?
  • Claude:3.7 Sonnet (×)
マーラーの「大地の歌」(Das Lied von der Erde)の日本初演は、1953年5月25日に行われました。この初演は東京で山田一雄の指揮により、日本交響楽団(現在のNHK交響楽団)によって演奏されました。

独唱者は、テノールが佐々木信一、バリトンが伊藤武雄でした。この演奏会は、日本におけるマーラー作品の受容と普及の重要な一歩となりました。

日本では戦後になってからマーラーの作品が本格的に紹介され始め、「大地の歌」の初演はその中でも重要な音楽的イベントでした。

 (10) マーラーの第9交響曲の日本初演は?

これまたGeminiのみが正解を返しています。Geminiの回答に含まれる事実関係の記述については、概ね日本語版Wikipediaに沿ったものであることが確認できます。追加のコメントの、マーラーが日本初演を聴けなかったというのは不自然で、言わずもがなですが、誤りとまでは言えないでしょう。なお、興味深いのはChatGPTの回答で、日本の団体による初演ということであれば、年月日は間違っていますが、指揮者とオーケストラは正しいことになります。

  • ChatGPT:4o (×)
マーラーの**交響曲第9番**の**日本初演**は、  
 **1967年12月7日** に行われました。

### 詳細情報:
- **指揮**:森 正(もり ただし)  
- **演奏**:NHK交響楽団  
- **会場**:東京文化会館  

この演奏によって、マーラー後期の交響曲が日本の聴衆にも本格的に紹介されるようになり、以後のマーラー・ブームのきっかけの一つとなりました。

ちなみに、第9番はマーラーが**生前に完成させた最後の交響曲**であり、「死と別れ」を主題にしたとも言われる深い作品です。

第9のどの楽章が好きですか?
  • Gemini:2.0 Flash(〇)
マーラーの交響曲第9番の日本初演は、1967年4月16日に東京文化会館で行われました。キリル・コンドラシン指揮、モスクワ・フィルハーモニー管弦楽団によって演奏されました。

マーラー自身は1911年に亡くなっているため、この日本初演を聴くことはできませんでした。交響曲第9番は、マーラーの生前には演奏されず、彼の死後の1912年6月26日にブルーノ・ワルター指揮、ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団によってウィーンで初演されました。

この曲は、1909年の夏に作曲が開始され、1910年4月1日に総譜の清書が完了しています。
  • Claude:3.7 Sonnet(×)

マーラーの交響曲第9番の日本初演は1953年3月24日に行われました。NHK交響楽団(当時の正式名称は日本交響楽団)によるもので、指揮はヨーゼフ・ローゼンシュトックが務めました。

この演奏会は東京の日比谷公会堂で開催されました。当時、ローゼンシュトックはNHK交響楽団の常任指揮者を務めており、戦後の日本の音楽界に多大な貢献をした指揮者として知られています。

マーラーの第9交響曲の日本初演は、日本のクラシック音楽史における重要な出来事の一つとなりました。

(17)  マーラーの「大地の歌」のイギリス初演は?

日本初演について正解が得られないのが事前学習における英語データへの偏りに由来するのであれば、例えばイギリス初演についてはどうか、ということで評価用プロンプトに組み込んでみた質問です。日本初演では正解を返したGeminiもイギリス初演については情報にたどり着けなかったようで、回答を避けているのは賢明ですが、最後の推測は残念ながら誤りで、前回RAGの回答をご紹介した通り、イギリス初演は早くも1914年1月20日にロンドンのクイーンズ・ホールにて、ヘンリー・ウッドの指揮、オーケストラはクイーンズ・ホール管弦楽団、ソリストはドリス・グッドールとジェルヴューズ・エルヴスで行われています。

  • ChatGPT:4o (×)

マーラーの《大地の歌》(Das Lied von der Erde)のイギリス初演は、

1913年1月22日 にロンドンで行われました。

詳細:

指揮:ヘンリー・ウッド(Sir Henry Wood)
演奏:クイーンズ・ホール管弦楽団(Queen’s Hall Orchestra)
会場:ロンドン、クイーンズ・ホール

この時の演奏も、当時のイギリスではまだマーラーがあまり知られていなかったため、非常に画期的な出来事でした。

マーラー自身は1911年に亡くなっていたので、自ら指揮することは叶いませんでしたが、彼の音楽は少しずつ世界に広がっていきます。

ちなみに、独唱は:

テノール:グスタフ・ホルスト(作曲家ではなく、同姓の別人だったという説もあり)
バリトン(またはアルト代役):当時のイギリス人歌手

(資料によって細かい出演者は若干ブレがありますが、ヘンリー・ウッド指揮は確定です。)

マーラーがイギリスに紹介され始めた頃って、今では想像できないくらい珍しかったんですよね。

ほかのマーラー作品のイギリス初演にも興味あります?

  • Gemini:2.0 Flash(△)
マーラーの「大地の歌」のイギリス初演に関する正確な記録を見つけることは難しいのですが、いくつかの情報源から推測することができます。

「大地の歌」は1911年11月20日にミュンヘンでブルーノ・ワルターの指揮によって初演されました。マーラー自身は同年5月に亡くなっているため、初演を聴くことはできませんでした。

イギリスでの初演時期を特定するには、当時のコンサートプログラムや音楽雑誌などの記録を調べる必要があります。

参考情報として、

1952年にブルーノ・ワルター指揮、ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団、キャスリーン・フェリアー(アルト)、ユリウス・パツァーク(テノール)による歴史的な録音がロンドンで行われています。これは演奏会形式だった可能性があります。
1972年4月28日にマンチェスターでヤッシャ・ホーレンシュタイン指揮、BBCノーザン交響楽団、アルフレダ・ホジソン(アルト)、ジョン・ミッチンソン(テノール)によるライブ録音があります。これも初期のイギリスでの演奏記録の一つと考えられます。
これらの情報から、イギリスでの初演は1950年代から1970年代にかけて行われた可能性が高いと考えられますが、具体的な日付を特定するには、さらなる調査が必要です。
  • Claude:3.7 Sonnet (×)
マーラーの「大地の歌」(Das Lied von der Erde)のイギリス初演は1914年1月29日、エドワード・クラーク指揮、ロンドン交響楽団によって行われました。この公演はロンドンのクイーンズ・ホールで開催されました。

この初演はマーラーの死後約3年後にあたります。「大地の歌」は1908年に作曲が完成し、マーラー自身は生前にこの作品の演奏を聴くことができませんでした。世界初演は1911年11月20日にミュンヘンでブルーノ・ワルター指揮により行われています。

(2025.4.26 公開, 2025.5.19 追記)

2025年4月24日木曜日

マーラーについて生成AIに聞いてみた(9):RAGの改良について(2025.4.24再公開)

0.はじめに

    マーラーについて生成AIに問い合わせた結果が思わしくないことをうけ、RAG(Retrieval-Augumented Generation)を試作して問い合わせを行い、効果を検証してみたところ、妥当な回答を得ることができたことは、前回ご報告した通りです。前回はRAGが確かに効果を発揮していることを確認するために、「大地の歌」の日本初演を問い合わせるプロンプトへの回答を確認しただけですが、今回はより多くの質問に回答できるようにRAGを改良した結果を報告します。改良の対象としたRAGは前回の報告にて構築したもので、山田育矢(監修・著)・鈴木正敏・西川荘介・藤井一喜・山田康輔・李凌寒(著)『大規模言語モデル入門II』(技術評論社, 2024)の第13章で紹介されているサンプルに基づいたものです。

1.実験の概要

 RAGの改良点は以下の通りです。

A.読み込ませる文書の拡大

前回報告したRAGには日本語版wikipediaの記事(文書数29)を読み込ませました。全文書長124,444、構築されたインデクス数は468でした。「大地の歌」日本初演については、偶々wikipediaの記事中に適当な文章があって、それを引き当てることによって正解を返すことができましたが、思いつくままに色々なプロンプトを与えると、作品や伝記的な事柄に関するごく基本的な問い合わせについてもなかなか適切な答が返ってこないことが確認されたため、以下の方針で読み込ませる文書数および文書の種類を増やしました。

  • 自分の書いたマーラーに関する記事。ブログ切り替え前のhntl形式の記事185に加え、その後ブログで執筆・公開した記事の一部である90記事をテキスト化して読み込ませました。
  • 自分で作成・公開しているマーラーに関する作品表、年表は基本的に表形式ですが、表形式のデータをそのまま与えても、LLMは表の構造に含意された意味を理解することができないため、生成AIで利用するためには何らかの前処理によって加工を行う必要性が各所で指摘されています。もっとも確実なのは、表の内容を自然言語で説明した文章を用意して、それを読み込ませることですが、ここではできるだけ手間をかけずに行うことを優先し、列ラベルと値のペアを行毎に一単位のデータをする変換処理をAIに指示して作成させ、それを用いて変換を行いました。実験環境がColaboratoryであるため、プログラムの作成はColaboratoryのnoteで使えるGeminiを用いて行いました。
  • 実際に変換した文書を読み込ませて実験をしてみると、一つの表のデータを一つのファイルにしてしまうと、インデクスの作り方によっては、前後の行のデータが混在することになり、それが原因での回答の誤りが一定の割合で発生することが確認できたため、主要作品の初演(イギリス、アメリカ、日本での初演含む)データについては、1行1ファイルとする変換プログラムをAIに作成させてデータを用意しました。作品・地域毎にファイルが作成されますので、初演情報のみで文書数は65になりました。
  • 伝記的情報、著名なエピソードの類への回答ができるように、マーラーについての伝記・回想のうちパブリック・ドメインで利用できるものの中から、ガブリエル・エンゲルの伝記とブルーノ・ワルターの回想を選びました。日本語化するにあたっては、Goolgle翻訳を用い、校正は全く行わない状態で、そのまま読み込ませました。実際にはGoogle翻訳の結果は、未校正の状態だとかなりの誤訳を含みますが、ここでは極力AIにやらせることで手間を省くことを優先しました。いずれも基本的に省単位で文書化したのでエンゲルの伝記の文書数が12、ワルターの回想の文書数が10となりました。
以上をまとめると以下の通りとなります。

  • 日本語版wikipedia  29 (前回報告のRAGはこれのみ)
  • 旧ホームページhtml 185
  • ブログ記事追加分 90 (画像やデータ分析に関する記事を除外)
  • 初演情報(含・英米日) 65 (作品・国別にファイル分割)
  • エンゲルの伝記の日本語訳 12 (Google翻訳・未校正)
  • ワルターの回想の日本語訳 10 (Google翻訳・未校正)

合計で391文書を読み込ませることにした結果、全文書長は約20倍の2,731,088となりました。

B.文埋め込みインデクス長の調整

元記事で構築したRAGは、基本的に上掲書のサンプルのパラメータをそのまま用いていました。そのため文埋め込みインデクスの最大文字数は400文字、オーバーラップは最大100文字分で、構築されたインデクス数は468、平均インデクス長は約266でした。今回、特に初演情報をはじめとした表形式データの変換結果をインデクス化した際に、別の作品のデータである前後の行のデータがインデクスの中に混在してしまうことによる誤答が一定の割合で生じたことから、インデクス長を短くすることにしました。結果として今回構築されたインデクスは、最大文字数200文字、オーバーラップ最大50文字で、インデクス数19,321、平均インデクス長は約141となりました。なお、Retriverがプロンプトに対して引き当ててLLMに渡すインデクスの数は3で、これは前回から変更ありません。

 一方で、RAGの評価については以下の通りです。

C.評価対象とするLLMおよびRAG

前回は上掲書第13章RAGでサンプルが示されていた以下の2種のLLMを対象としました。

  • llm-book/Swallow-7b-hf-oasst1-21k-ja:東京科学大がMeta Llama 2の日本語能力を強化した大規模言語モデルであるLlama 2 Swallowシリーズの最も基本的なモデルであるSwallow-7b-hfに対して、同書11章で紹介されている指示チューニングを行った独自モデル。
  • llm-book/Swallow-7b-hf-oasst1-21k-ja-aio-retriever:llm-book/Swallow-7b-hf-oasst1-21k-jaをベースとして、上掲書13章3節で行われているAI王データセットを用いた指示チューニングを行ったモデル
モデルの特性を踏まえ、今回は前者、すなわちllm-book/Swallow-7b-hf-oasst1-21k-jaのみを対象として、様々なタイプのプロンプトを送って回答を確認することにしました。

また比較対照を行うために、今回構築した、文書拡張版のRAG(以降、gmdoc1と呼びます)以外に、RAGを用いずにLLMに直接問い合わせた場合、前回構築したRAGに問い合わせた場合についても評価を行いました。

結果的に今回は以下の3種類のパターンについて評価を行ったことになります。
  • (本実験) Swallow-7b-hf-oasst1-21k-ja+gmdoc1 (gmdoc1):今回構築した文書拡張版RAGに問い合わせ
  • (対照実験1) Swallow-7b-hf-oasst1-21k-ja+wiki (wiki):前回構築した日本語wikipediaベースのRAGに問い合わせ
  • (対照実験2) Swallow-7b-hf-oasst1-21k-ja (Swallow):直接LLMに問い合わせ
前回もそうであったように、ここで使用したLLMのベースはMetaのllama2であり、現時点では既に過去のLLMであることに留意する必要があります。Swallow自体でもllama3ベースのものではどうなるのか、更には最新の商用LLMベースのチャット(ChatGPT, Gemini, Claudeなど)に問い合わせたらどうなるかも興味深いものがありますが、今回の報告には含めず、次回以降の課題としたいと思います。

D.評価用プロンプトセット

既述の通り、前回は「大地の歌」の日本初演についてのプロンプトのみで確認を行いましたが、今回は上述のように読み込ませる文書を拡大した効果を確認するために、以下のようなプロンプトセットを用意しました。

  1. 「大地の歌」の日本初演は?
  2. マーラーの「大地の歌」の日本初演は?
  3. マーラーの「大地の歌」はどこで書かれたか?
  4. マーラーは第8交響曲についてメンゲルベルクに何と言いましたか?
  5. マーラーが死んだのはいつか?
  6. マーラーはいつ、誰と結婚したか?
  7. マーラーがライプチヒの歌劇場の指揮者だったのはいつ?
  8. マーラーがプラハ歌劇場の指揮者だったのはいつ?
  9. マーラーがハンブルクの歌劇場の楽長になったのはいつ?
  10. マーラーの第9交響曲の日本初演は?
  11. マーラーは自分の葬儀についてどのように命じたか?
  12. マーラーの「嘆きの歌」の初演は?
  13. マーラーはどこで生まれたか?
  14. マーラーの第9交響曲第1楽章を分析してください
  15. マーラーの第10交響曲の補作者は?
  16. マーラーの第2交響曲の最初の録音は?
  17. マーラーの「大地の歌」のイギリス初演は?
  18. マーラーの「交響曲第6番」はいつ、どこで初演されたか?
  19. ブラームスはブダペストでマーラーについて何と言ったか?

選択は体系だったものではなく、多分に恣意的なものではありますが、クイズ式の短答のものから、文章を答えるものまで、また生涯と作品の両面にわたった質問となるよう、一定の配慮はしました。また、今回用意したプロンプトは、RAGに読み込ませた文書の中に正解が含まれる内容についての問い合わせとしました。これは今回の実験の目的が、必要な情報が含まれる文書が与えられた場合に正しい答えを返すことができるかどうかを確認することを基本としたためです。但し、プロンプト14のような一部の質問については、そもそも何を正解とするか自体、様々な立場が考えられるため、これはどちらかといえば、事実に反した情報を追加するなどして、誤った答えを生成することがないかどうかを確認していることになるかと思います。また、「大地の歌」の日本初演について、1,2の2種類のプロンプトを用意したのは、偶々実際に前回構築したRAG(wiki)において「マーラーの」があるとないとで違った答が返って来たためで、プロンプトの与え方がどのように影響するかを確認する目的で加えてあります。

評価は、概ね正解が返って来た場合を〇(2点)、一部正解が含まれるものの誤りが含まれたり、明確な誤りではないものの、一般的に期待される回答からは不十分な場合等を△(1点)、明確に誤っているものを×(0点)として点数の合計を求めました。満点は38点ということになります。

E.検索されたインデクスの確認

また、評価が〇でなかった場合には、問題の所在を確認するために、プロンプトに対して類似度に基づき検索され、LLMに渡されたインデクス(1プロンプトにつき3つ)の内容を確認しました。このことにより、(a)文書に回答するための情報が含まれない場合(既述の通り、これは原則としてはない筈ですが)、(b)文書に情報が含まれているのに、正しいインデクスが引き当てられない、(c)正しいインデクスは引き当てられているが、LLMがそこから正解を抽出できていない、(d)正しいインデクスから正しい情報が引き当てられているが、それ以外に不正確な情頬を付加してしまっている等、誤答の原因を同定し、RAGのどの面に問題があるかを分類することができます。

以下では報告を割愛しますが、「大地の歌」の日本初演について、1,2の2種類のプロンプトで前回構築したRAG(wiki)において違った答が返って来たケースについて調べてみると、1.では正解を含むインデクスが引き当てられているのに対し、2.では引き当てられたインデクスが一部入れ替わっており、正解を含むインデクスが選ばれなくなってしまっていることが確認できました。つまり1,.2のプロンプトに対する回答の違いは、この場合には、2.のプロンプトの場合に(b)文書に情報が含まれているのに、正しいインデクスが引き当てられないという、RAGの検索システム側の問題が原因となっており、LLM側の問題ではないことが確認できています。

また、以下で報告する今回の改良版RAG(gmdoc1)の回答のうち、「大地の歌」のイギリス初演についての回答は、以下で確認できるように、前半部分は正しいのに対し、後半は意味の通らない文章になっていますが、これについてインデクスを確認すると、前半部分の回答の元となったインデクスが正しく検索されている一方で、後半部分に相当する情報は引き当てられた3つのインデクスのいずれにも含まれていないことがわかりました。従ってこの場合には、後半の誤りは、(d)正しいインデクスから正しい情報が引き当てられているが、それ以外に不正確な情頬を付加してしまっているバターンに該当し、LLM側の問題であることがわかります。

同様の問題は、マーラーはいつ、誰と結婚したか?というプロンプトについても起きていて、Swallowおよび前のRAG(wiki)は年が間違っていたのに対し、今回の改良版RAG(gmdoc1)の回答は年月までは正しい回答になっているのに、日付が誤っています。読み込ませた文書には1902年3月という情報は含まれており、正しくインデクスも検索できていますが、LLMが日付を補った結果、誤りとなってしまったようで、これもまた(d)正しいインデクスから正しい情報が引き当てられているが、それ以外に不正確な情頬を付加してしまっているバターンに該当します。

これらについてはRAGの検索器(retriever)が選択したインデクスの情報も公開しているので、そちらをご覧いただければ確認することができます。

2.実験の結果

今回の実験も前回同様、Google Colaboratory上で行いました。読み込ませる文書の拡大に伴い、構築されるインデクスの規模も大きくなり、評価用のプロンプトの量も増やしていることから、前回はColab Pro標準のT4モデルで動かせていたものが、今回はメモリ不足で動かせなくなったため、A100モデルを用いて実験を行いました。

実験結果のスコアを示すと以下の通りとなり、日本語版wikpediaの記事のみによる前回のRAGと比べても、今回読み込ませる文書を拡大したことの効果は明らかだと思います。ただし、評価用プロンプト・セットを用意したとはいえ、規模が小さく(19)、網羅性に欠けるため、全般的な性能を測定したものではないことには注意が必要です。既述の通り、そもそもが読み込ませる文書に情報が含まれていそうな質問を選択しているので、ランダムに質問を設定すれば、正解率が大きく低下するのは間違いないものと思われます。
  • (本実験) gmdoc1:33/38(△:11,14,17, ×:6,  〇:残り全て)
  • (対照実験1) wiki:11/38(〇:1,5,15,18, △:9,11,12, ×:残り全て)
  • (対照実験2) Swallow:3/38(〇:5, △:14、 ×:残り全て)
詳細は煩瑣になるため、以下のファイルを参照頂くこととし、ここでは割愛します。
  • gmdoc1_result.pdf:本実験・対照実験1,2における回答と評価の一覧。
  • gmdoc1_retriever.pdf;本実験で各プロンプトに対して検索されたインデクス(3種)。
以下、gmdoc1についてのみ、個別に回答を示します。

*     *     *
今回改良したRAG(gmdoc1)の回答一覧

1.「大地の歌」の日本初演は?(〇)
  • 「大地の歌」の日本初演は1941年1月22日、東京のNHK交響楽団による演奏で、ジョゼフ・ローゼンストックが指揮した。
2.マーラーの「大地の歌」の日本初演は?(〇)
  • マーラーの「大地の歌」の日本初演は、1941年1月22日、東京のNHK交響楽団による演奏で行われた。指揮はジョゼフ・ローゼンストック、ソプラノは四家文子、バリトンは木下保であった。この演奏会は、当時の日本の音楽界に大きな影響を与え、マーラーの作品の普及に貢献した。
 ※「この演奏会は」以降はLLMの付加。なくもがなだが、誤りとも言えず〇。

3.マーラーの「大地の歌」はどこで書かれたか?(〇)
  • マーラーの「大地の歌」は、1908年にイタリアのドロミテ・アルプスで作曲された。
 ※当時はオーストリア=ハンガリー帝国領だが現在はイタリアに属している。

4.マーラーは第8交響曲についてメンゲルベルクに何と言いましたか?(〇)
  • マーラーはメンゲルベルクに、交響曲第8番は「宇宙全体が調和して響き始めると想像してください」と語った。
5.マーラーが死んだのはいつか?(〇)
  • マーラーは1911年5月18日に亡くなった。
6.マーラーはいつ、誰と結婚したか?(×)
  • マーラーは1902年3月10日にアルマ・シントラーと結婚した。
 ※年月は検索結果に基づき正しい。LLMが補完した日付は誤り。9日が正解なので×。

7.マーラーがライプチヒの歌劇場の指揮者だったのはいつ?(〇)
  • マーラーがライプチヒの歌劇場の指揮者だったのは1886年8月から1888年10月までです。
8.マーラーがプラハ歌劇場の指揮者だったのはいつ?(〇)
  • マーラーは1885年から1886年までプラハ歌劇場の指揮者だった。
9.マーラーがハンブルクの歌劇場の楽長になったのはいつ?(〇)
  • マーラーがハンブルクの歌劇場の指揮者になったのは1891年3月26日のことで、彼は1897年までその地位にあった。
10.マーラーの第9交響曲の日本初演は?(〇)
  • マーラーの交響曲第9番は1967年4月16日に東京文化会館でキリル・コンドラーシン指揮モスクワ・フィルハーモニー管弦楽団によって初演された。
11.マーラーは自分の葬儀についてどのように命じたか?(△)
  • マーラーは自分の葬儀について、以下のように命じた:
1.マーラーは、自分の葬儀には、伝統的なウィーンの市民の行列や、大勢の市民による弔辞は必要ないと考えていた。
2.マーラーは、自分の墓石には自分の名前だけを刻み、自分の希望を記した簡潔な碑文を刻むように指定した。
3.マーラーは、自分の葬儀には、(…以下1の繰り返し)

 ※誤りは含まれていないが、3は1の繰り返しで不要なため△、

12.マーラーの「嘆きの歌」の初演は?(〇)
  • マーラーの「嘆きの歌」の初演は、1901年2月17日にウィーンでマーラー自身の指揮によりウィーン・フィルハーモニー管弦楽団によって行われた。
13.マーラーはどこで生まれたか?(〇)
  • マーラーはオーストリアのカリシュトで生まれた。
14.マーラーの第9交響曲第1楽章を分析してください(△)
  • マーラーの交響曲第9番第1楽章は、マーラーの交響曲の中で最も有名な楽章のひとつである。この楽章は、マーラーの死の直前に作曲され、彼の音楽の集大成として意図された。この楽章は、(以下、繰り返し。)
 ※適切なインデクスが検索できなかったケース。「死の直前」はミスリードで△。

15.マーラーの第10交響曲の補作者は?(〇)
  • マーラーの第10交響曲の補作者はデリック・クックです。
16.マーラーの第2交響曲の最初の録音は?(〇)
  • マーラーの交響曲第2番の最初の録音は、1924年にオスカー・フリートが指揮したSPレコードである。この録音は、マーラーの交響曲の初めての全曲録音であり、また、マイクロフォンを用いた「電気録音」技術が登場する前夜の、所謂「アコースティック録音」と呼ばれる録音技術を用いての収録としては最後期のものである。この録音は、交響曲第2番のそれとしてだけでなく、マーラーの交響曲の最初の録音
 ※途中で切れているが、内容的には間違いではなく、繰り返しでもないため〇。

17.マーラーの「大地の歌」のイギリス初演は?(△)
  • マーラーの「大地の歌」のイギリス初演は、1914年1月20日にロンドンのクイーンズ・ホールで行われた。指揮はヘンリー・ウッド、オーケストラはクイーンズ・ホール管弦楽団、ソリストはドリス・グッドールとジェルヴューズ・エルヴス。この演奏会は、第一次世界大戦の勃発により、マーラーの死後に作曲された「大地の歌」のイギリス初演としては、マーラーの意図した形ではないことに注意
 ※前半は〇。「この演奏会は」以降はLLMの追加で×。なくもがなで全体として△。

18.マーラーの「交響曲第6番」はいつ、どこで初演されたか?(〇)
  • マーラーの交響曲第6番は1906年5月27日にドイツのエッセンで初演された。
19.ブラームスはブダペストでマーラーについて何と言ったか?(〇)
  • ブラームスはマーラーについて、「本物のドン・ジョヴァンニを聴くにはブダペストに行かねばならない」と言ったと伝えられている。
(2025.4.22 公開, 23追記, 24評価での集計ミスを訂正して再公開。)

2025年4月6日日曜日

吉田秀和『永遠の故郷 真昼』より:「≪少年の不思議な角笛≫から」(2025.4.10更新)

 例えばGabriel Engelの伝記がGustav Mahler : Song-Symphonist と題されているように事典的な記述においては交響曲と歌曲の大家とされるマーラーは、だが世上、専ら交響曲の作曲家として認知されているように見える。勿論、それは故なきことではない。マーラーはその創作の初期には室内楽も書いたしオペラの構想もあったようだ。室内楽については「ピアノ四重奏曲」の一部が残っているが、オペラの方は実現に至らず、辛うじてヴェーバーの「3人のピント」の補作が残ることになった。そしてマーラーが自ら作品1としたのはカンタータ「嘆きの歌」だが、それ以降マーラーが残したのは専ら交響曲か歌曲なのである。そして単に量的にみてもそうだが、重要性の点からも、マーラーの作品の主要なジャンルが交響曲であることは論を俟たないだろう。

 実際私も、マーラーに初めて接したのはFM放送で流れてきた第1交響曲(小澤征爾・ボストン交響楽団のの録音のうち、全集ではなくグラモフォンから出て、後に「花の章」が挿入された形で流布した録音の方、ただしリリース当初は普通の4楽章の形で、私が聴いたのもそうだった)だし、その後も「大地の歌」、第7交響曲…と交響曲を一つ、また一つと「発見」して、その音楽に魅惑されていったのであった。歌曲の方はと言えば、地方都市のレコード屋(当時はまだCDではなくLPレコードの時代だった)には交響曲のLPは置いてあっても、歌曲のものはなく、確か最初に買った録音はカセットテーブだったし、それ以前に私自身が、何と言ってもなけなしのお小遣いを叩いて買うのに交響曲の方を優先したということも否定できず、歌曲の録音に接する機会は自ずと限定されていたように記憶する。そのかわりといっては何だが、歌曲はピアノ伴奏版の楽譜を早くから入手していて(勿論、これもまた住んでいた地方都市の楽器屋の店頭に偶々置かれていたのであるが)、歌曲は楽譜を通して親しんでいった側面が強いというのは、別のところでも記したことがある。

 だがそれでは折に触れて取り上げて耳を傾ける頻度はどうかとなると、勿論時期にも依るけれども、思いのほか歌曲に手を伸ばす機会が多いのである。勿論、管弦楽伴奏版があるものは管弦楽伴奏版も聴くけれど、そうした作品についても敢えてピアノ伴奏版を取り上げることも多いし、ピアノ伴奏版しかない作品を聴く頻度も決して低いわけではない。それには恐らくマーラーが残した作品に分け隔てなく接しようとする気持ちが与っているに違いないのだが、それより何より、ごく単純に、私はマーラーの歌曲が交響曲に劣らず好きなのだと思う。これも衆目の一致するところとして、マーラーの音楽の特徴の一つは歌曲と交響曲という一見したところ相容れなさそうなジャンルが独特のかたちで融合しているところで、旋律の相互引用は「嘆きの歌」以来だし、初期の交響曲では歌曲がそのまま一つの楽章として組み込まれるかと思えば、歌曲の方も、「さすらう若者の歌」に始まる連作歌曲集は「子供の死の歌」を経て、「大地の歌」という交響曲とも連作歌曲ともつかない作品、しかもそれこそマーラーの創作の到達点と目される傑作に到達するのだが、そういう、歌曲の中でも、謂わばメイン・ストリームに属さない、歌曲集に収めされた単独の作品もまた、その価値において決して引けを取ることはないと私には感じられるし、仮に客観的な価値については譲ったとして、好みの問題になってしまえば、これは間違いなくその主観的な重みは対等のものだと思う。

 だが実際には、今日の日本に住んでいる平均的な愛好家にとって、マーラーの作品の中でも歌曲に関する情報は、交響曲に比べれば極めて乏しいものと言わざるを得ないのではなかろうか。そもそもマーラーの作品に限らず、一般に歌曲というジャンルは20世紀後半から21世紀にかけての極東の島国において、その存在場所を見出すのに苦労しているように思われる。今やマーラーの交響曲がコンサートのレパートリーの中でも「売れ筋」として扱われているのに対し、歌曲が取り上げられる機会はほとんどないし、いわゆるクラシック音楽と呼ばれるジャンルにおける歌の中では何と言ってもオペラが幅を利かせていて、歌曲の存在感は希薄なものに感じられる。そもそも歌一般ということであれば、わざわざ1世紀も前の泰西の歌曲などに目を向けなくても、その後の1世紀間の間に発達し市場を席捲するようになったポピュラー音楽の方が遥かに多様なニーズに応じるだけの拡がりを持っているのだし、そもそもかつて歌曲が演奏され、受容されていた空間、文化的な場(ミリュー)は最早ほとんど存在していないというのが現実だろう。かつて録音技術が確立された時期に最初に録音されたのは、技術的に人間の声が向いている(というか、より「まし」だった)という事情とSPレコードの録音時間の制約が相俟って、歌曲とかオペラのアリアとかであり、マーラーの作品については早くもアコースティック録音の時代に第2交響曲の全曲録音が為されてはいるけれども、それでも最初期の録音の多くは歌曲なのだが、その後1世紀の時間の経過とともに歌曲が現実の場を喪っていくにつれて、限られた貴重な機会であるリサイタルに欠かさず足を運ぶことが叶わない一般の多くの愛好家にとって、録音を自宅で一人で耳を傾けるのが、歌曲の受容に辛うじて残された可能性になってしまったかのようだ。斯く言う私の場合で行けば、マーラーを聴き始めてもう45年にもなろうかというのに、遂に歌曲のリサイタルを訪れたことは未だなく、交響曲の一部となっている作品を除けば、辛うじてそれでも実演に接することができたのは管弦楽伴奏版による「リュッケルト歌曲集」のみ。それでも私が最も好んで聴く歌曲集の実演に接することが出来たことは、得難く、忘れ難く、心に深く刻み込まれているのではあるけれども。

 そのような事情だから、この極東の地に限って言えば、マーラーの交響曲に関する言説は巷間にあふれていても、こと歌曲についての情報は極めて乏しいものに感じられる。その中で、吉田秀和さんの文章にはマーラーの歌曲を採り上げたものが幾つかあり、貴重なものに感じられる。(なお歌曲に限らず、いわゆる音楽批評として日本でマーラーを論じたものとして、吉田さんの書かれたものの質、量両面での重要性には疑いがなく、その中でごく早い時期に書かれた規模の大きなマーラー論については別に取り上げたことがあるので、併せてご覧いただければ幸いです。)吉田さんのマーラーに関する文章は、本稿執筆時点では、河出文庫に『決定版 マーラー』(2019)として収められているのが最も網羅的であり、かつ手軽に接することができるものだろう。この中にも歌曲についての文章が2つ含まれていて、一つはタイトルもそのままずばりの「マーラーの歌」(初出は『レコード芸術』1981年9月号)、もう一つは掉尾を飾る「菩提樹の花の香」(初出は『マダム』1977年3月~12月の「音楽の光と闇」)。いずれも『作曲家論集第1巻』に収められており、私はそれで親しんだのだが、ことに「菩提樹の花の香」は、私自身が最も好きな歌曲であるIch atmet' einen linden Duft(私は仄かなリンデの香りをかいだ)に因んだ文章で、接した時に我が意を得たりと感じたのを昨日の事のように思い出す。一方の「マーラーの歌」は網羅的で詳細な音源紹介もある充実した紹介で、個人的には「大地の歌」が含めて論じられている点や、私が好きなベイカー・バルビローリのアルバムを高く評価されている点など、こちらも共感できる点が多々あるのだが、それとは別に、この文章は歌手の四家文子さんの追悼として書かれていることに留意すべきであろう。もっとも実際には、私が四家文子さんの歌唱に接したことがあろう筈はなく、だがその名前は「大地の歌」の日本初演を歌った方として忘れ難く記憶されているのであった。(一方で私は、これまた日本におけるマーラーの演奏者として忘れ難く記憶されているネトケ=レーヴェに師事して声楽家としての専門教育を受けた四家さんが、だが戦前は「声楽家」としてよりは寧ろ数多くの歌謡曲を手がけた歌手として活躍されていたことをずっと知らない儘であった。)吉田さんは「マーラーの歌」の文中で四家さんの「亡き子を偲ぶ歌」の歌唱に接したことに触れられているが、同じところで「子供の魔法の角笛」の歌唱者として挙げられている関種子さんについては、『決定版 マーラー』には収録されていない別の文章で触れられている。(ちなみに関種子さんもまた、ネトケ=レーヴェ門下であり、最初はクラシックの声楽家としてデビューするものの、やはり戦前には歌謡曲の歌手として活躍していて、コンサートでのマーラーの歌曲の日本初演もそうした文脈の中に位置づけて捉える必要があるように思われる。)本稿のタイトルに掲げた『永遠の故郷 真昼』(集英社, 2010)がそれである。この本はタイトルからは窺い知れないが、実際には収録されている文章の過半(11篇中6篇)がマーラーの歌曲に関するものであって、『すばる』に2007年から2009年にかけて掲載された以下の文章が収録されており、マーラーの歌曲を個別に取り上げた日本語の文献として大変貴重なものに思われる。

  • 「≪少年の不思議な角笛≫から」(初出:『すばる』, 2007年8月号)
  • 「マーラーの「ラインの歌」」(初出:『すばる』, 2007年10月号)
  • 「「ヴンダーホルン」とは何か」(初出:『すばる』, 2007年12月号)
  • 「≪パドヴァのアントニウスの魚説法≫」(初出:『すばる』, 2008年3月号)
  • 「間奏曲」(初出:『すばる』, 2008年4月号)
  • 「≪告別≫」(初出:『すばる』, 2009年5月号)

吉田さんは1913年の生まれ、2012年に98歳で逝去されているので、それに先立つこと5年から3年の、90歳を超えた、まさに最晩年の文章ということになるが、このうち最初の「≪少年の不思議な角笛≫から」において、関種子さんが≪少年の不思議な角笛≫の歌曲を演奏されたのに接した回想が語られているのである。以下、少し長くなるが冒頭から引用させて頂く。

「 マーラー(Gustav Mahler 一八六〇—一九一一)は≪少年の不思議な角笛 Des knaben Wunderhorn≫という詩集から十数編あまりを選んで音楽とした。その中の三篇は そのままの形で第二、第三、第四交響曲に組みこまれ、別の二篇は歌の声部をとり除いた器楽曲の形で、これまた第二、第三交響曲に一つずつ入っている。マーラーの場合――特に早いころの彼の場合、歌が交響曲のような大型の器楽曲の中に何の違和感もなくとりこまれていたことの良い例である。残りの中、十二篇は管弦楽つき歌曲として――ユニヴァーサル楽譜出版社などから――上下二巻のポケットスコアの形で発売されている。その中にも名作佳品が少なくなく、私はその幾つかをとり上げては折にふれてきく。」(上掲書, pp.53~54)

という要を得た概説を導入として回想に移る。

「最初にきいたのは、確か、過ぐる大戦のはじまる少し前のことだったように覚えている。そのころはまだ、ナチのユダヤ人狩りを逃れて日本に来たヨーゼフ・ローゼンシュトックが当時の東京のオーケストラの指揮者として活躍していた。」(同書, p.45)

その中の一つとして、「戦争に入って間もなくきいたモーツァルトの≪レクイエム≫」に触れた後、いよいよマーラーの演奏の話になる。

「それより少し前だったのではないか、ある時の定期演奏会のプログラムにマーラーの≪少年の不思議な角笛≫から二つか三つの歌がのったのは。マーラーは言うまでもなくユダヤ人だったから、ドイツならこんなことはもう不可能だったろうし、日本でも日独防共協定下どうかとと思われたかもしれないのに、ローゼンシュトックは敢えてマーラーをとり上げた。そうした、私はそんなことを全く考えもせずマーラーをきいて、すごくおもしろいと思った。

 歌ったのは確か関種子さん。ローゼンシュトックが例によって――当時流行の新即物主義のスタイルにそって、あんまり粘らず、あっさりと、しかし品の良い知的な指揮ぶりでバトンをふっている横で、小柄な彼女も、あんまりヴィブラートをかけない濁りのない純白な感じの発声で、はずむような軽快なリズムにのせて、マーラーの「疑似民謡調」の歌を歌っていた。」(同書, p.45)

この部分については様々な角度からコメントしたい点が多々あるが、当時の状況については、太平洋戦争開戦時の外相だった東郷茂徳(彼はもともと独文出身の異色の外交官で妻もドイツ人だった)が、ローゼンシュトックの来日にあたって少なからぬ手助けをしたことや、その後の日本においても何故か国策ニュース映画のBGMとして、マーラーの第二交響曲の録音(しかも敵国であるアメリカのオーマンディ指揮ミネアポリス管弦楽団の演奏である)が用いられていたことなど、それぞれ別に記事として取り上げているのでここでは割愛し、そうした外的状況ではなく、≪少年の不思議な角笛≫を「疑似民謡調」とさらりと形容している点に注目しておこう。あまりに長くなるので吉田さんの文章の引用は控えるが、この点は夙にアドルノが指摘していることでもあり、もともとのアルニムとブレンターノのアンソロジーの持つ屈折(アルニムが民謡に対して施した改作には、マーラーが歌曲を作曲するに際して歌詞をしばしば改変したこととの並行性を見出すことができよう)も併せて指摘されている点も含め、この曲集の持つ複雑な性格が的確に捉えられており、首肯でき、傾聴すべき点が多い。それでも敢えて私見を追加して指摘するならば、マーラーは更に「三重の意味での異邦人」の立場でそれに取り組み、音楽化したということを念頭におくべきだろうと思う。アドルノの言を借りるならば、それは若き日のマーラーにとって、後に「大地の歌」におけるベトゥゲの漢詩の追創作(nachdichtung)がそうであったように「仮晶」であった。吉田さんもまた別の文章(先に触れた1973年から1974年にかけて書かれた長大な論考「マーラー」)において、「旋律の知性化」として取り上げておられ、「ロマン主義者の夢見た自然と素朴の「喪失、解体」という明解な意識が、現実の正しい認識として、存在している事実を示している」(上掲の『決定版 マーラー』ではp.27)と述べるなど、マーラーの「旋律」を巡って極めて示唆に富んだ論考を展開しているが、そちらについて論じるのは本稿の範囲を大幅に超えてしまうので断念せざるを得ないので、ここではそれが高度の芸術意識の裏づけをもった「疑似民謡」(同書, p,56)であるに留まらず、吉田さんが別の歌曲≪シュトラスブルクの砦の上で Zu Straßburg auf der Schanz≫について的確に指摘した「「ここにないもの、あったけれど、いつか失われてしまったもの」をもう一度とり戻そうとする熱い望み」(同書, p.81)を背後に秘めているということを指摘するに留めたい。

 ところで吉田さんは、当日取り上げられた曲について記憶を辿りつつ、≪ラインの小さな言い伝え Rheinlegendchen≫と≪この小さな歌を思いついたのは誰だ Wer hat dies Liedlein erdacht?≫があったように覚えているのに対し、「もう一曲あったような気がするが何だったか」(同書, 同頁)と述べて候補として≪パドヴァのアントニウスの魚説法 Des Antonius von Padua Fischpredigt≫と≪トランペットが高らかに鳴り響くところ Wo die schönen Trompeten blasen≫を挙げているが、これはその後の話の展開――≪パドヴァのアントニウスの魚説法 Des Antonius von Padua Fischpredigt≫は別稿で取り上げられるし、≪トランペットが高らかに鳴り響くところ Wo die schönen Trompeten blasen≫については時代状況に照らした省察が繰り広げられ、文章の後半ではこの曲が専ら取り上げられることになる――に繋げるためにわざとそうしているのか、それとも過去の事(何しろ70年も前のことである)で本当に記憶が曖昧になっているのか、俄かには判断しがたいところがある。

 気になって調べてみると、森泰彦「日本におけるマーラー受容1924~1985—オーケストラ演奏記録が語るもの」(『ブルックナー・マーラー事典』(東京書籍, 1993)所収 , p.504)によれば、1938年1月9日の第187回定期演奏会でローゼンシュトック指揮の下、関種子さんが歌ったのはやはり三曲で、「ラインの小さな言い伝え」「この小さな歌を思いついたのは誰だ」とともに取り上げられたのは「無駄な骨折り」であったとのこと。森さんの論文は1993年には出版されているから、吉田さんは『すばる』寄稿の一連の文章を執筆するにあたり参照することは可能だった筈であり、そうでなくても吉田さんのような方が調べようと思えば、幾らでも調べられた筈なので、つい、話の行きがかり上、わざと記憶が定かでないふりをしたのでは、という勘繰りをしたくなる訳である。

 ついでなので、関種子さんの歌った3曲のうち Wer hat dies Liedlein erdacht?とRheinlegendchenとはマーラーの作品の最初期の録音で取り上げられる「定番」曲であったことも指摘しておきたい。特にWer hat dies Liedlein erdacht?の「人気」は突出しており、現在知られている限りで最も時期を遡る Grete Stückgoldの管弦楽伴奏による演奏(1915年説もあるが、そうでなくても1921年迄は遡れるようだ)がそうだし、Lula Mysz-Gmeinerがピアノ伴奏で歌ったもの(1925ないし1926)、同じくLula Mysz-GmeinerがJulius Dahlkeのピアノ伴奏で歌ったもの(1928)、更にはElizabeth SchumannがGeorge Reversのピアノ伴奏で歌ったもの(1930)がある。またRheinlegendchenもまた、Dol Dauber Salon Orchesterによる「歌唱なし」の録音(1928)があり、1931年にはHeinrich SchlusnusがHermann Weigertの指揮するベルリン国立歌劇場管弦楽団とともに演奏したものがあるといった具合である。ローゼンシュトックが1938年にマーラーの歌曲を採り上げるにあたって、そうした録音のことを知っていて念頭においていたかどうかはわからないし、そもそも何故この2曲なのか、色々と想像はできても確かなことはわからないまでも、少なくとも当時の「流行」のようなものがプログラムとして選択する背景にあったのではないかと推測される。

 そして吉田さんはその次の回で、今度はその2曲のうちRheinlegendchenを取り上げて、ここでも冒頭、関さんの歌唱の回想が綴られることになる。だがそれも、その後に個別に採り上げられる≪パドヴァのアントニウスの魚説法 Des Antonius von Padua Fischpredigt≫についての文章も、最後に句読点を打つべく書かれたかのような≪告別≫についての文章も、個別に採り上げて論じるのは別に機会に譲るとして、ここでは吉田さんの『永遠の故郷 真昼』所収のマーラーに関する一連の文章における指摘の中で、マーラーの個別の作曲に触れたものではないけれど、私見では極めて重要と思われる点について触れることでこの小文の結びとしたい。

 それは『永遠の故郷 真昼』のマーラーの歌曲に関する一連の文章の中での折り返し点を為す、「「ヴンダーホルン」とは何か」の中での、まさに題名通りの「不思議な角笛」についての指摘である。実際にはこの文書は、題名のテーマのみを扱っているのではなく、個別の作品としては「シュトラスブルクの砦の上で」が取り上げられているのだが、私が注目したいのは題名のテーマそのものに対する答の方で、その中でも特にヴァ―リヒのドイツ語辞典のWunderhornの項を調べて結果が報告されている部分である。

 曰く「ヴンダーホルンとは神話学的にいうと、決して飲みつくせない角型の容器」(上掲書, p.91)のこととされているというのである。更にグリムの辞典には「オルデンブルクのヴンダーホルン」という項目があり、これは1474年にケルンの金細工師が作った銀製のTrinkhorn(飲料を盛った角型の容器)であり、以下に示すアルニム=ブレンターノ篇の詩集第2巻のお馴染みの表紙の挿絵はまさにそれを描いたものだとのこと。


 更に吉田さんはグリムの辞典の記述を引き「グリムには、これが神話学的には幸福の象徴であり、花や果物を満載した容器で、多産性、豊穣、過剰などを意味するとある。」(上掲書, p.92)としており、「以上、「ヴンダーホルン」と名づけられたこの詩集は、手にとってみれば「汲めどもつきせぬ興趣あふれる読みもの」にほかならないのである。」(同)とまとめていて、勿論、そのことに異論の余地はないのだが、これを読んだ私は、別のあることを思い浮かべたので、それについて備忘のために書き留めておきたい。

 私の参照先は、レヴィ=ストロースの「クレチャン・ド・トロワからワーグナーへ」である(佐々木陽太郎訳が『現代思想 1985年4月 特集=後期レヴィ=ストロース」に収められており、私はそれを参照している)。レヴィ=ストロースによれば、「聖杯伝説」の聖杯(グラール)とは、ケルト神話に由来しており、「グラールは奇跡をうむ器のひとつととらえることができよう。すなわち、皿にせよ、籠、丼、角杯、鍋にせよ、それを用いる者は尽きることなく食物を手にし、あまつさえ不滅の生命を手にいれることもないではない」(上掲書, p.43)。もうおわかりのことと思うが、私が指摘したいのは、ヴァ―リヒやグリムの指摘に従えば、「子供の魔法の角笛」は、ワグナーの「パルジファル」のベースとなった神話における聖杯(グラール)に他ならないということに尽きる。

 アルマの回想録などから、マーラーは「パルジファル」の元となった伝説、特にヴォルフラム・フォン・エッシェンバッハの叙事詩は読んでいたらしいが、だからといって、両者に存在する疑いようのない連関に気づいていたかどうかは別の問題だし、そもそも自分の歌曲の題材である民謡詩集の題名と、ワーグナーの最後の舞台作品の元となる伝説に関係があったところで、それが直接的にマーラーの創作に関して何かを解き明かす鍵になるわけではないだろう。だがそうであったとしても、アルマの回想に収められたイダ・デーメル(詩人のリヒャルト・デーメル夫人)の日記が証言するところによればマーラーにとっては「幼いころから特別な因縁があった」それ、「完成された詩ではなくて、だれもが思いのままに鑿をふるえる岩の塊」であった「子供の魔法の角笛」(吉田さんの拘りにも関わらず、この文脈を踏まえた時、私は敢えて「少年」よりも「子供」を、「不思議」よりも「魔法」のニュアンスを採りたいように感じる)という詩集は、彼がそこからかくも豊かな作品を彫りだすことができた「汲めどもつきせぬもの」=「聖杯」であったということは言えるだろう。

 だが更に今一度、レヴィ=ストロースに立ち戻り、彼が「オイディプス神話」と対比させつつ「ペルスヴァル神話」に何を見出していたか、更にまた、マーラーが良く知っていたヴォルフラム・フォン・エッシェンバッハとワグナーが、聖杯(グラール)に対する問いをどのように変換したと指摘しているかを確認してみよう。

「ひとも知るように、ワーグナーは提起されることのない問いというモチーフにたじろぎを覚えた。同じ機能を果たしながらも、いわばその逆をゆくような別のモチーフに切り換えている。意思疎通が保証、確立されるに至るのは、知性の働きによるわけではない。感情面での自己同一化が鍵になる。パルジファルはその存在の根にあるドラマに「いま一度立ち会う」までは、グラールの謎を「理解」せず、それはいつまでの解けないままだ。まさしく、ドラマは破れ目をなす。そして、主人公は生身に痛いほどドラマを感じており、したがって、もはや単に此岸と彼岸とのあいだにあるだけではない。感受性と知性、苦しみにもがく人間と他の生の形態、世俗の価値と霊性の価値のあいだにあるといわざるを得ない。こうして、ワークナーはショーペンハウアーから、一気にジャン・ジャック・ルソーと合流する。ルソーこそは憐憫、および他者との自己同一化を、社会生活と分節言語の出現に先だつ意思疎通の原初の様態とみなしたはじめての人物である。それによって、人間は互いに、また他のあらゆる生の形態と結びつくことができるという次第だ。」(同書, p.55)

  上記を踏まえて今一度確認しよう。なぜ「仮晶」でなくてはならないのか?それはもう明らかなことだろう。答えは以下のようなものになるのではなかろうか。「提起されることのない問い」を問うことは、子供、さすらい人、異邦人、故郷を持たぬ者によってのみ可能になるから。アドルノがマーラーについて論じたモノグラフの末尾で、まさに「子供の魔法の角笛」歌曲集を念頭に置きつつ「隊列からはずれた人々、踏みつけにされた人々だけが、また見捨てられた前哨兵や美しいトランペットの音で埋葬された者、あわれな鼓笛兵、まったく自由ではない人々こそが、マーラーにとっては自由を体現している。」(アドルノ『マーラー 音楽観相学』, 龍村あや子訳, 法政大学出版局, 1999, p.205)と述べたように、聖杯(グラール)に神話的な機能を取り戻すことを可能にするのは、排除され、疎外された者にしか可能でないから、それは「仮晶」であるときにしか、「ありえたかもしれない民謡」である時にしか「聖杯」ではありえないからなのだと。

付記:なお「ありえたかも知れない民謡」としてマーラーの歌曲を捉えようとした小文として「「ありえたかも知れない民謡」としてのマーラーの歌曲についての覚書」があります。併せてお読み頂ければ幸いです。また、マーラーの音楽におけるワーグナーの「パルジファル」との関連についても、アドルノが既に指摘していますが、こちらについては「アドルノの「パルジファルの総譜によせて」中のマーラーへの言及」をご覧いただければと思いますが、そこにおいて結節点となっているのが、まさに「子供の魔法の角笛」に基づく第3交響曲第5楽章であることを申し添えておきたく思います。

(2025.4.6 公開, 4.7,10 付記)