例えばGabriel Engelの伝記がGustav Mahler : Song-Symphonist と題されているように事典的な記述においては交響曲と歌曲の大家とされるマーラーは、だが世上、専ら交響曲の作曲家として認知されているように見える。勿論、それは故なきことではない。マーラーはその創作の初期には室内楽も書いたしオペラの構想もあったようだ。室内楽については「ピアノ四重奏曲」の一部が残っているが、オペラの方は実現に至らず、辛うじてヴェーバーの「3人のピント」の補作が残ることになった。そしてマーラーが自ら作品1としたのはカンタータ「嘆きの歌」だが、それ以降マーラーが残したのは専ら交響曲か歌曲なのである。そして単に量的にみてもそうだが、重要性の点からも、マーラーの作品の主要なジャンルが交響曲であることは論を俟たないだろう。
実際私も、マーラーに初めて接したのはFM放送で流れてきた第1交響曲(小澤征爾・ボストン交響楽団のの録音のうち、全集ではなくグラモフォンから出て、後に「花の章」が挿入された形で流布した録音の方、ただしリリース当初は普通の4楽章の形で、私が聴いたのもそうだった)だし、その後も「大地の歌」、第7交響曲…と交響曲を一つ、また一つと「発見」して、その音楽に魅惑されていったのであった。歌曲の方はと言えば、地方都市のレコード屋(当時はまだCDではなくLPレコードの時代だった)には交響曲のLPは置いてあっても、歌曲のものはなく、確か最初に買った録音はカセットテーブだったし、それ以前に私自身が、何と言ってもなけなしのお小遣いを叩いて買うのに交響曲の方を優先したということも否定できず、歌曲の録音に接する機会は自ずと限定されていたように記憶する。そのかわりといっては何だが、歌曲はピアノ伴奏版の楽譜を早くから入手していて(勿論、これもまた住んでいた地方都市の楽器屋の店頭に偶々置かれていたのであるが)、歌曲は楽譜を通して親しんでいった側面が強いというのは、別のところでも記したことがある。
だがそれでは折に触れて取り上げて耳を傾ける頻度はどうかとなると、勿論時期にも依るけれども、思いのほか歌曲に手を伸ばす機会が多いのである。勿論、管弦楽伴奏版があるものは管弦楽伴奏版も聴くけれど、そうした作品についても敢えてピアノ伴奏版を取り上げることも多いし、ピアノ伴奏版しかない作品を聴く頻度も決して低いわけではない。それには恐らくマーラーが残した作品に分け隔てなく接しようとする気持ちが与っているに違いないのだが、それより何より、ごく単純に、私はマーラーの歌曲が交響曲に劣らず好きなのだと思う。これも衆目の一致するところとして、マーラーの音楽の特徴の一つは歌曲と交響曲という一見したところ相容れなさそうなジャンルが独特のかたちで融合しているところで、旋律の相互引用は「嘆きの歌」以来だし、初期の交響曲では歌曲がそのまま一つの楽章として組み込まれるかと思えば、歌曲の方も、「さすらう若者の歌」に始まる連作歌曲集は「子供の死の歌」を経て、「大地の歌」という交響曲とも連作歌曲ともつかない作品、しかもそれこそマーラーの創作の到達点と目される傑作に到達するのだが、そういう、歌曲の中でも、謂わばメイン・ストリームに属さない、歌曲集に収めされた単独の作品もまた、その価値において決して引けを取ることはないと私には感じられるし、仮に客観的な価値については譲ったとして、好みの問題になってしまえば、これは間違いなくその主観的な重みは対等のものだと思う。
だが実際には、今日の日本に住んでいる平均的な愛好家にとって、マーラーの作品の中でも歌曲に関する情報は、交響曲に比べれば極めて乏しいものと言わざるを得ないのではなかろうか。そもそもマーラーの作品に限らず、一般に歌曲というジャンルは20世紀後半から21世紀にかけての極東の島国において、その存在場所を見出すのに苦労しているように思われる。今やマーラーの交響曲がコンサートのレパートリーの中でも「売れ筋」として扱われているのに対し、歌曲が取り上げられる機会はほとんどないし、いわゆるクラシック音楽と呼ばれるジャンルにおける歌の中では何と言ってもオペラが幅を利かせていて、歌曲の存在感は希薄なものに感じられる。そもそも歌一般ということであれば、わざわざ1世紀も前の泰西の歌曲などに目を向けなくても、その後の1世紀間の間に発達し市場を席捲するようになったポピュラー音楽の方が遥かに多様なニーズに応じるだけの拡がりを持っているのだし、そもそもかつて歌曲が演奏され、受容されていた空間、文化的な場(ミリュー)は最早ほとんど存在していないというのが現実だろう。かつて録音技術が確立された時期に最初に録音されたのは、技術的に人間の声が向いている(というか、より「まし」だった)という事情とSPレコードの録音時間の制約が相俟って、歌曲とかオペラのアリアとかであり、マーラーの作品については早くもアコースティック録音の時代に第2交響曲の全曲録音が為されてはいるけれども、それでも最初期の録音の多くは歌曲なのだが、その後1世紀の時間の経過とともに歌曲が現実の場を喪っていくにつれて、限られた貴重な機会であるリサイタルに欠かさず足を運ぶことが叶わない一般の多くの愛好家にとって、録音を自宅で一人で耳を傾けるのが、歌曲の受容に辛うじて残された可能性になってしまったかのようだ。斯く言う私の場合で行けば、マーラーを聴き始めてもう45年にもなろうかというのに、遂に歌曲のリサイタルを訪れたことは未だなく、交響曲の一部となっている作品を除けば、辛うじてそれでも実演に接することができたのは管弦楽伴奏版による「リュッケルト歌曲集」のみ。それでも私が最も好んで聴く歌曲集の実演に接することが出来たことは、得難く、忘れ難く、心に深く刻み込まれているのではあるけれども。
そのような事情だから、この極東の地に限って言えば、マーラーの交響曲に関する言説は巷間にあふれていても、こと歌曲についての情報は極めて乏しいものに感じられる。その中で、吉田秀和さんの文章にはマーラーの歌曲を採り上げたものが幾つかあり、貴重なものに感じられる。(なお歌曲に限らず、いわゆる音楽批評として日本でマーラーを論じたものとして、吉田さんの書かれたものの質、量両面での重要性には疑いがなく、その中でごく早い時期に書かれた規模の大きなマーラー論については別に取り上げたことがあるので、併せてご覧いただければ幸いです。)吉田さんのマーラーに関する文章は、本稿執筆時点では、河出文庫に『決定版 マーラー』(2019)として収められているのが最も網羅的であり、かつ手軽に接することができるものだろう。この中にも歌曲についての文章が2つ含まれていて、一つはタイトルもそのままずばりの「マーラーの歌」(初出は『レコード芸術』1981年9月号)、もう一つは掉尾を飾る「菩提樹の花の香」(初出は『マダム』1977年3月~12月の「音楽の光と闇」)。いずれも『作曲家論集第1巻』に収められており、私はそれで親しんだのだが、ことに「菩提樹の花の香」は、私自身が最も好きな歌曲であるIch atmet' einen linden Duft(私は仄かなリンデの香りをかいだ)に因んだ文章で、接した時に我が意を得たりと感じたのを昨日の事のように思い出す。一方の「マーラーの歌」は網羅的で詳細な音源紹介もある充実した紹介で、個人的には「大地の歌」が含めて論じられている点や、私が好きなベイカー・バルビローリのアルバムを高く評価されている点など、こちらも共感できる点が多々あるのだが、それとは別に、この文章は歌手の四家文子さんの追悼として書かれていることに留意すべきであろう。もっとも実際には、私が四家文子さんの歌唱に接したことがあろう筈はなく、だがその名前は「大地の歌」の日本初演を歌った方として忘れ難く記憶されているのであった。(一方で私は、これまた日本におけるマーラーの演奏者として忘れ難く記憶されているネトケ=レーヴェに師事して声楽家としての専門教育を受けた四家さんが、だが戦前は「声楽家」としてよりは寧ろ数多くの歌謡曲を手がけた歌手として活躍されていたことをずっと知らない儘であった。)吉田さんは「マーラーの歌」の文中で四家さんの「亡き子を偲ぶ歌」の歌唱に接したことに触れられているが、同じところで「子供の魔法の角笛」の歌唱者として挙げられている関種子さんについては、『決定版 マーラー』には収録されていない別の文章で触れられている。(ちなみに関種子さんもまた、ネトケ=レーヴェ門下であり、最初はクラシックの声楽家としてデビューするものの、やはり戦前には歌謡曲の歌手として活躍していて、コンサートでのマーラーの歌曲の日本初演もそうした文脈の中に位置づけて捉える必要があるように思われる。)本稿のタイトルに掲げた『永遠の故郷 真昼』(集英社, 2010)がそれである。この本はタイトルからは窺い知れないが、実際には収録されている文章の過半(11篇中6篇)がマーラーの歌曲に関するものであって、『すばる』に2007年から2009年にかけて掲載された以下の文章が収録されており、マーラーの歌曲を個別に取り上げた日本語の文献として大変貴重なものに思われる。
- 「≪少年の不思議な角笛≫から」(初出:『すばる』, 2007年8月号)
- 「マーラーの「ラインの歌」」(初出:『すばる』, 2007年10月号)
- 「「ヴンダーホルン」とは何か」(初出:『すばる』, 2007年12月号)
- 「≪パドヴァのアントニウスの魚説法≫」(初出:『すばる』, 2008年3月号)
- 「間奏曲」(初出:『すばる』, 2008年4月号)
- 「≪告別≫」(初出:『すばる』, 2009年5月号)
吉田さんは1913年の生まれ、2012年に98歳で逝去されているので、それに先立つこと5年から3年の、90歳を超えた、まさに最晩年の文章ということになるが、このうち最初の「≪少年の不思議な角笛≫から」において、関種子さんが≪少年の不思議な角笛≫の歌曲を演奏されたのに接した回想が語られているのである。以下、少し長くなるが冒頭から引用させて頂く。
「 マーラー(Gustav Mahler 一八六〇—一九一一)は≪少年の不思議な角笛 Des knaben Wunderhorn≫という詩集から十数編あまりを選んで音楽とした。その中の三篇は そのままの形で第二、第三、第四交響曲に組みこまれ、別の二篇は歌の声部をとり除いた器楽曲の形で、これまた第二、第三交響曲に一つずつ入っている。マーラーの場合――特に早いころの彼の場合、歌が交響曲のような大型の器楽曲の中に何の違和感もなくとりこまれていたことの良い例である。残りの中、十二篇は管弦楽つき歌曲として――ユニヴァーサル楽譜出版社などから――上下二巻のポケットスコアの形で発売されている。その中にも名作佳品が少なくなく、私はその幾つかをとり上げては折にふれてきく。」(上掲書, pp.53~54)
という要を得た概説を導入として回想に移る。
「最初にきいたのは、確か、過ぐる大戦のはじまる少し前のことだったように覚えている。そのころはまだ、ナチのユダヤ人狩りを逃れて日本に来たヨーゼフ・ローゼンシュトックが当時の東京のオーケストラの指揮者として活躍していた。」(同書, p.45)
その中の一つとして、「戦争に入って間もなくきいたモーツァルトの≪レクイエム≫」に触れた後、いよいよマーラーの演奏の話になる。
「それより少し前だったのではないか、ある時の定期演奏会のプログラムにマーラーの≪少年の不思議な角笛≫から二つか三つの歌がのったのは。マーラーは言うまでもなくユダヤ人だったから、ドイツならこんなことはもう不可能だったろうし、日本でも日独防共協定下どうかとと思われたかもしれないのに、ローゼンシュトックは敢えてマーラーをとり上げた。そうした、私はそんなことを全く考えもせずマーラーをきいて、すごくおもしろいと思った。
歌ったのは確か関種子さん。ローゼンシュトックが例によって――当時流行の新即物主義のスタイルにそって、あんまり粘らず、あっさりと、しかし品の良い知的な指揮ぶりでバトンをふっている横で、小柄な彼女も、あんまりヴィブラートをかけない濁りのない純白な感じの発声で、はずむような軽快なリズムにのせて、マーラーの「疑似民謡調」の歌を歌っていた。」(同書, p.45)
この部分については様々な角度からコメントしたい点が多々あるが、当時の状況については、太平洋戦争開戦時の外相だった東郷茂徳(彼はもともと独文出身の異色の外交官で妻もドイツ人だった)が、ローゼンシュトックの来日にあたって少なからぬ手助けをしたことや、その後の日本においても何故か国策ニュース映画のBGMとして、マーラーの第二交響曲の録音(しかも敵国であるアメリカのオーマンディ指揮ミネアポリス管弦楽団の演奏である)が用いられていたことなど、それぞれ別に記事として取り上げているのでここでは割愛し、そうした外的状況ではなく、≪少年の不思議な角笛≫を「疑似民謡調」とさらりと形容している点に注目しておこう。あまりに長くなるので吉田さんの文章の引用は控えるが、この点は夙にアドルノが指摘していることでもあり、もともとのアルニムとブレンターノのアンソロジーの持つ屈折(アルニムが民謡に対して施した改作には、マーラーが歌曲を作曲するに際して歌詞をしばしば改変したこととの並行性を見出すことができよう)も併せて指摘されている点も含め、この曲集の持つ複雑な性格が的確に捉えられており、首肯でき、傾聴すべき点が多い。それでも敢えて私見を追加して指摘するならば、マーラーは更に「三重の意味での異邦人」の立場でそれに取り組み、音楽化したということを念頭におくべきだろうと思う。アドルノの言を借りるならば、それは若き日のマーラーにとって、後に「大地の歌」におけるベトゥゲの漢詩の追創作(nachdichtung)がそうであったように「仮晶」であった。吉田さんもまた別の文章(先に触れた1973年から1974年にかけて書かれた長大な論考「マーラー」)において、「旋律の知性化」として取り上げておられ、「ロマン主義者の夢見た自然と素朴の「喪失、解体」という明解な意識が、現実の正しい認識として、存在している事実を示している」(上掲の『決定版 マーラー』ではp.27)と述べるなど、マーラーの「旋律」を巡って極めて示唆に富んだ論考を展開しているが、そちらについて論じるのは本稿の範囲を大幅に超えてしまうので断念せざるを得ないので、ここではそれが高度の芸術意識の裏づけをもった「疑似民謡」(同書, p,56)であるに留まらず、吉田さんが別の歌曲≪シュトラスブルクの砦の上で Zu Straßburg auf der Schanz≫について的確に指摘した「「ここにないもの、あったけれど、いつか失われてしまったもの」をもう一度とり戻そうとする熱い望み」(同書, p.81)を背後に秘めているということを指摘するに留めたい。
ところで吉田さんは、当日取り上げられた曲について記憶を辿りつつ、≪ラインの小さな言い伝え Rheinlegendchen≫と≪この小さな歌を思いついたのは誰だ Wer hat dies Liedlein erdacht?≫があったように覚えているのに対し、「もう一曲あったような気がするが何だったか」(同書, 同頁)と述べて候補として≪パドヴァのアントニウスの魚説法 Des Antonius von Padua Fischpredigt≫と≪トランペットが高らかに鳴り響くところ Wo die schönen Trompeten blasen≫を挙げているが、これはその後の話の展開――≪パドヴァのアントニウスの魚説法 Des Antonius von Padua Fischpredigt≫は別稿で取り上げられるし、≪トランペットが高らかに鳴り響くところ Wo die schönen Trompeten blasen≫については時代状況に照らした省察が繰り広げられ、文章の後半ではこの曲が専ら取り上げられることになる――に繋げるためにわざとそうしているのか、それとも過去の事(何しろ70年も前のことである)で本当に記憶が曖昧になっているのか、俄かには判断しがたいところがある。
気になって調べてみると、森泰彦「日本におけるマーラー受容1924~1985—オーケストラ演奏記録が語るもの」(『ブルックナー・マーラー事典』(東京書籍, 1993)所収 , p.504)によれば、1938年1月9日の第187回定期演奏会でローゼンシュトック指揮の下、関種子さんが歌ったのはやはり三曲で、「ラインの小さな言い伝え」「この小さな歌を思いついたのは誰だ」とともに取り上げられたのは「無駄な骨折り」であったとのこと。森さんの論文は1993年には出版されているから、吉田さんは『すばる』寄稿の一連の文章を執筆するにあたり参照することは可能だった筈であり、そうでなくても吉田さんのような方が調べようと思えば、幾らでも調べられた筈なので、つい、話の行きがかり上、わざと記憶が定かでないふりをしたのでは、という勘繰りをしたくなる訳である。
ついでなので、関種子さんの歌った3曲のうち Wer hat dies Liedlein erdacht?とRheinlegendchenとはマーラーの作品の最初期の録音で取り上げられる「定番」曲であったことも指摘しておきたい。特にWer hat dies Liedlein erdacht?の「人気」は突出しており、現在知られている限りで最も時期を遡る Grete Stückgoldの管弦楽伴奏による演奏(1915年説もあるが、そうでなくても1921年迄は遡れるようだ)がそうだし、Lula Mysz-Gmeinerがピアノ伴奏で歌ったもの(1925ないし1926)、同じくLula Mysz-GmeinerがJulius Dahlkeのピアノ伴奏で歌ったもの(1928)、更にはElizabeth SchumannがGeorge Reversのピアノ伴奏で歌ったもの(1930)がある。またRheinlegendchenもまた、Dol Dauber Salon Orchesterによる「歌唱なし」の録音(1928)があり、1931年にはHeinrich SchlusnusがHermann Weigertの指揮するベルリン国立歌劇場管弦楽団とともに演奏したものがあるといった具合である。ローゼンシュトックが1938年にマーラーの歌曲を採り上げるにあたって、そうした録音のことを知っていて念頭においていたかどうかはわからないし、そもそも何故この2曲なのか、色々と想像はできても確かなことはわからないまでも、少なくとも当時の「流行」のようなものがプログラムとして選択する背景にあったのではないかと推測される。
そして吉田さんはその次の回で、今度はその2曲のうちRheinlegendchenを取り上げて、ここでも冒頭、関さんの歌唱の回想が綴られることになる。だがそれも、その後に個別に採り上げられる≪パドヴァのアントニウスの魚説法 Des Antonius von Padua Fischpredigt≫についての文章も、最後に句読点を打つべく書かれたかのような≪告別≫についての文章も、個別に採り上げて論じるのは別に機会に譲るとして、ここでは吉田さんの『永遠の故郷 真昼』所収のマーラーに関する一連の文章における指摘の中で、マーラーの個別の作曲に触れたものではないけれど、私見では極めて重要と思われる点について触れることでこの小文の結びとしたい。
それは『永遠の故郷 真昼』のマーラーの歌曲に関する一連の文章の中での折り返し点を為す、「「ヴンダーホルン」とは何か」の中での、まさに題名通りの「不思議な角笛」についての指摘である。実際にはこの文書は、題名のテーマのみを扱っているのではなく、個別の作品としては「シュトラスブルクの砦の上で」が取り上げられているのだが、私が注目したいのは題名のテーマそのものに対する答の方で、その中でも特にヴァ―リヒのドイツ語辞典のWunderhornの項を調べて結果が報告されている部分である。
曰く「ヴンダーホルンとは神話学的にいうと、決して飲みつくせない角型の容器」(上掲書, p.91)のこととされているというのである。更にグリムの辞典には「オルデンブルクのヴンダーホルン」という項目があり、これは1474年にケルンの金細工師が作った銀製のTrinkhorn(飲料を盛った角型の容器)であり、以下に示すアルニム=ブレンターノ篇の詩集第2巻のお馴染みの表紙の挿絵はまさにそれを描いたものだとのこと。
更に吉田さんはグリムの辞典の記述を引き「グリムには、これが神話学的には幸福の象徴であり、花や果物を満載した容器で、多産性、豊穣、過剰などを意味するとある。」(上掲書, p.92)としており、「以上、「ヴンダーホルン」と名づけられたこの詩集は、手にとってみれば「汲めどもつきせぬ興趣あふれる読みもの」にほかならないのである。」(同)とまとめていて、勿論、そのことに異論の余地はないのだが、これを読んだ私は、別のあることを思い浮かべたので、それについて備忘のために書き留めておきたい。
私の参照先は、レヴィ=ストロースの「クレチャン・ド・トロワからワーグナーへ」である(佐々木陽太郎訳が『現代思想 1985年4月 特集=後期レヴィ=ストロース」に収められており、私はそれを参照している)。レヴィ=ストロースによれば、「聖杯伝説」の聖杯(グラール)とは、ケルト神話に由来しており、「グラールは奇跡をうむ器のひとつととらえることができよう。すなわち、皿にせよ、籠、丼、角杯、鍋にせよ、それを用いる者は尽きることなく食物を手にし、あまつさえ不滅の生命を手にいれることもないではない」(上掲書, p.43)。もうおわかりのことと思うが、私が指摘したいのは、ヴァ―リヒやグリムの指摘に従えば、「子供の魔法の角笛」は、ワグナーの「パルジファル」のベースとなった神話における聖杯(グラール)に他ならないということに尽きる。
アルマの回想録などから、マーラーは「パルジファル」の元となった伝説、特にヴォルフラム・フォン・エッシェンバッハの叙事詩は読んでいたらしいが、だからといって、両者に存在する疑いようのない連関に気づいていたかどうかは別の問題だし、そもそも自分の歌曲の題材である民謡詩集の題名と、ワーグナーの最後の舞台作品の元となる伝説に関係があったところで、それが直接的にマーラーの創作に関して何かを解き明かす鍵になるわけではないだろう。だがそうであったとしても、アルマの回想に収められたイダ・デーメル(詩人のリヒャルト・デーメル夫人)の日記が証言するところによればマーラーにとっては「幼いころから特別な因縁があった」それ、「完成された詩ではなくて、だれもが思いのままに鑿をふるえる岩の塊」であった「子供の魔法の角笛」(吉田さんの拘りにも関わらず、この文脈を踏まえた時、私は敢えて「少年」よりも「子供」を、「不思議」よりも「魔法」のニュアンスを採りたいように感じる)という詩集は、彼がそこからかくも豊かな作品を彫りだすことができた「汲めどもつきせぬもの」=「聖杯」であったということは言えるだろう。
だが更に今一度、レヴィ=ストロースに立ち戻り、彼が「オイディプス神話」と対比させつつ「ペルスヴァル神話」に何を見出していたか、更にまた、マーラーが良く知っていたヴォルフラム・フォン・エッシェンバッハとワグナーが、聖杯(グラール)に対する問いをどのように変換したと指摘しているかを確認してみよう。
「ひとも知るように、ワーグナーは提起されることのない問いというモチーフにたじろぎを覚えた。同じ機能を果たしながらも、いわばその逆をゆくような別のモチーフに切り換えている。意思疎通が保証、確立されるに至るのは、知性の働きによるわけではない。感情面での自己同一化が鍵になる。パルジファルはその存在の根にあるドラマに「いま一度立ち会う」までは、グラールの謎を「理解」せず、それはいつまでの解けないままだ。まさしく、ドラマは破れ目をなす。そして、主人公は生身に痛いほどドラマを感じており、したがって、もはや単に此岸と彼岸とのあいだにあるだけではない。感受性と知性、苦しみにもがく人間と他の生の形態、世俗の価値と霊性の価値のあいだにあるといわざるを得ない。こうして、ワークナーはショーペンハウアーから、一気にジャン・ジャック・ルソーと合流する。ルソーこそは憐憫、および他者との自己同一化を、社会生活と分節言語の出現に先だつ意思疎通の原初の様態とみなしたはじめての人物である。それによって、人間は互いに、また他のあらゆる生の形態と結びつくことができるという次第だ。」(同書, p.55)
上記を踏まえて今一度確認しよう。なぜ「仮晶」でなくてはならないのか?それはもう明らかなことだろう。答えは以下のようなものになるのではなかろうか。「提起されることのない問い」を問うことは、子供、さすらい人、異邦人、故郷を持たぬ者によってのみ可能になるから。アドルノがマーラーについて論じたモノグラフの末尾で、まさに「子供の魔法の角笛」歌曲集を念頭に置きつつ「隊列からはずれた人々、踏みつけにされた人々だけが、また見捨てられた前哨兵や美しいトランペットの音で埋葬された者、あわれな鼓笛兵、まったく自由ではない人々こそが、マーラーにとっては自由を体現している。」(アドルノ『マーラー 音楽観相学』, 龍村あや子訳, 法政大学出版局, 1999, p.205)と述べたように、聖杯(グラール)に神話的な機能を取り戻すことを可能にするのは、排除され、疎外された者にしか可能でないから、それは「仮晶」であるときにしか、「ありえたかもしれない民謡」である時にしか「聖杯」ではありえないからなのだと。
付記:なお「ありえたかも知れない民謡」としてマーラーの歌曲を捉えようとした小文として「「ありえたかも知れない民謡」としてのマーラーの歌曲についての覚書」があります。併せてお読み頂ければ幸いです。また、マーラーの音楽におけるワーグナーの「パルジファル」との関連についても、アドルノが既に指摘していますが、こちらについては「アドルノの「パルジファルの総譜によせて」中のマーラーへの言及」をご覧いただければと思いますが、そこにおいて結節点となっているのが、まさに「子供の魔法の角笛」に基づく第3交響曲第5楽章であることを申し添えておきたく思います。
(2025.4.6 公開, 4.7,10 付記)