Als Oskar Fried um 1906 in Berlin Mahlers Zweite Sinfonie aufführte, war Mahler bei der Generalprobe anwesend. Er saß in Parkett. Fried hatte drei Werke auf den Programm : eine Kantate von Max Reger, Orchesterlieder von Franz Liszt und eben die Zweite Sinfonie. Da Fried sich viel zu lange bei der Reger-Kantate aufgehalten hatte, war er erst beim zweiten Satz der Mahler-Sinfonie angelangt, als die dreistündige Probe schon beendet war. Als er hörte, daß er aufhören müsse, geriet er in einen furchterlichen Zorn, packte einen ihm mit aller Kraft ins Publikum. (Er ist ein Zufall, daß niemand verletzt wurde.) Mahler blieb ganz ruhig und gelassen, nahm Fried mit in sein Hotel und besprach dort alles mit ihm.
Am nächsten Abend ging Fried vor Anfang des Konzertes zu den Orchestermusikern und sagte zu ihnen : "Meine Herrn, es war alles falsch, was ich gemacht und probiert habe. Ich werde heute abend ganz andere Tempi nehmen, bitte gehen Sie mit mir." Nicht nur die Philharmoniker gingen mit Fried, sondern auch das Publikum. Es wurde ein ganz großer Erfolg. Wie hätten sich andere Komponisten verhalten : Sie hätten wohl gelogen und gesagt:"So habe ich mein Werk noch nie gehört." Mahlers Haltung war gerade entgegengesetzt, er sagte dir Wahlheit, nicht die Unwahrheit. Er fand es schlecht, aber er wußte, daß es mit seiner Belehrung gut werden konnte, und so wurde es auch.
(aus : Otto Klemperer, Erinnerungen an Gustav Mahler, Atlantis Verlag, 1960, SS.15-16)
オスカー・フリートが、1906年ベルリンでマーラーの《第2交響曲》を指揮したとき、マーラーはその総練習に立会い、前方の特別観覧席に坐っていた。フリートのプログラムは、マクス・レーガーのカンタータ、フランツ・リストのオーケストラ伴奏付歌曲、そしてマーラーの《第2交響曲》と、3つの作品からなっていた。フリートは、レーガーのカンタータに時間をかけすぎ、三時間と定められたリハーサルが終っても、まだ《第2交響曲》の第2楽章にたどりついただけであった。中止するように言われると、彼は激怒して手近の椅子を掴み、渾身の力で観客席に投げつけた(幸い怪我人は出なかったけれども)。マーラーこのとき少しも騒がず、フリートをホテルまで連れ戻し、彼と作品全体について論じあった。
翌日の晩、コンサートに先立って、フリートはオーケストラの団員たちにこう告げた―「諸君、リハーサルで私がやったことは、全部間違っていた。今晩私はまったく別のテンポを使うことになるだろう。どうか私に従っていただきたい。」 オーケストラだけでなく、聴衆も彼の要求を充たした。つまり《第2交響曲》を大成功とみなしたのである。他の作曲家だったら、まず言葉をにごして、自分の作品がそんな風に演奏されるのは聴いたこともない、と言うところだった。マーラーの態度はその正反対で、むしろ真実を語ろうとしたのである。彼はフリートの解釈が間違っているのに気付いた。しかし自分が導いてやれば、その解釈も正しくなることを知っていた―そして実際に正しくなったのだ。
(オットー・クレンペラー『グスタフ・マーラーの思い出』河野徹訳、『音楽の手帖』, 青土社, 1980所収, p.67より)
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オスカー・フリートはマーラーとの関わりにおいては、1924年に22枚組のSPレコードとしてリリースされた第2交響曲の演奏の指揮者としてまず記憶されているのではなかろうか。この録音は、第2交響曲のそれとしてだけではなく、マーラーの交響曲の初めての全曲録音であり、かつ、マイクロフォンを用いた「電気録音」技術が登場する前夜の、所謂「アコースティック録音」と呼ばれる録音技術を用いての収録としては最後期の成果として著名なようだ。フリートはマーラーの第2交響曲だけに限らず、例えばブルックナーの第7交響曲やシュトラウスのアルプス交響曲のような、管弦楽作品としても極めて編成が大きく、演奏時間の長い作品の録音をアコースティック録音の末期にしており、その後すぐに電気録音が始まる直前の録音の記録として異彩を放っており、また貴重なものでもある。
マーラーの作品の演奏者として、フリートはメンゲルベルクやワルター、クレンペラーと並び称される存在だが、この4人のうち、フリートとメンゲルベルクは、理由は違えど第二次世界大戦後には活動しなかった。結果として、ワルター、クレンペラーがその後、ステレオ録音が始まる時期まで演奏活動を続け、歴史的録音という枠を超えて、マーラー直伝の指揮者による演奏記録として、マーラーの録音の標準的なレバートリーの一翼を今なお占めているのと比較すると、フリートとメンゲルベルクの方は、マーラーの交響曲全曲の録音として残っているのはそれぞれ1種類ずつに過ぎず、歴史的な価値の文脈で語られることの方が多いように思われる。だが更に言えば、メンゲルベルクについてはマーラーが高く評価し、信頼していたことが良く知られ、従って当否は措くとしても、マーラー自身の演奏スタイルをその録音記録を介して想像するといったことがしばしば行われている。これも良く知られているようにワルターとクレンペラーが、その長いキャリアの中で、当然のこととして演奏様式を変化させていることや、それぞれの音楽家としての個性の違いもあってか、彼らの演奏をして、マーラー自身の演奏を彷彿とさせるものといった捉えられ方をすることがないことの裏返しとして、メンゲルベルクの演奏は、マーラー直伝の中でも、記録の乏しさを超えて第一人者の地位を占めるものと一般に了解されているように見えるのである。それに比べるとフリートの録音の置かれた立場は、あくまでも録音のテクノロジーの歴史という文脈での記録といった扱われ方が多く、その演奏解釈自体の評価の方は些か影が薄いように見える。その傍証というわけでもないが、例えばマーラーに関するムックの一つである『マーラーのすべて』(音楽之友社, 1987)所収の「指揮者・歌手たちにみるマーラー像」の中においても、ワルター、クレンペラーは当然として、メンゲルベルクの名前はあってもフリートの名前は見いだせない。
だがそれもフリートが遺した録音が、上述のようにアコースティック録音であるが故に音質等の制限が大きく、その後の電気録音の時代の録音と同列に論じることができないことを考えれば、仕方のない部分もあるのだろう。更に言えば、第2交響曲はその編成の大きさや演奏時間の長さにも関わらず、比較的初期の時期にあっても録音に恵まれた作品であり、早くも1936年にはユージン・オーマンディが指揮したミネアポリス交響楽団による演奏の録音がリリースされている。これは電気録音による最初期のレコードということになるが、アコースティック録音と比較しての録音技術の違いによる音質の向上は著しく、このような大曲としては例外的なことにSPレコードの初期の時代、他の作品の全曲録音がまだようやく出始めたばかりの時期に、既に聴き比べができる状況にあったにも関わらず、すぐにオーマンディの演奏が専ら選択されるようになっていたという回想を、平林直哉さんが「マーラー主要作品全録音データ集」という記事に書いている(レコード芸術編『コンプリート・ディスコグラフィー・オブ・グスタフ・マーラー』(音楽之友社, 2010 所収, p.109)。ちなみに柴田南雄さんはこのオーマンディの演奏について、「もちろん当時としては唯一のレコードだったが印象に残る演奏ではなかった。」(柴田南雄『グスタフ・マーラー』, はじめに―われわれとマーラー, 岩波新書版ではp.21-2)と回想しており、ワルターの1936年の「大地の歌」、1938年の「第9交響曲」というマーラーの演奏史上の画期となった2つのレコードと並んで、当時聴くことのできたマーラーの交響曲作品の全曲録音の一つとして紹介している一方で、フリートの演奏の録音についての言及は全くない。柴田さんの言及されている時期の日本国内のSPレコードのカタログには既に記載されていなかったということだろうか?この辺りの状況は、当時の資料で確認ができるのであろうが、現時点での私は詳らかにしないし、それを調べるだけの余裕もない。識者のご教示を仰ぎたく思う。)
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そうしたマーラーの交響曲の録音の黎明期に関する資料の中でも、上に引用したクレンペラーの回想は、フリートの第2交響曲の録音が、いわば「直伝」であることの証拠として、必ずと言って良い程言及されるものであるようだ。何しろクレンペラーは、―これは上記とは別の回想で語っていることであるが―、上の回想で言及されているコンサートにおいて、終楽章のオフステージのバンダの指揮を担当しており、それゆえその回想は当事者の証言といった性質を備えているからである。(ちなみに、そちらの1961年の回想は、ライナー・ヴンダーリッヒ編の『マーラー論集』(1966)所収で、邦訳は酒田健一編・訳『マーラー頌』(白水社, 1980)で読むことができる。)なお、クレンペラーはいずれの回想においても、自分がバンダの指揮を担当したコンサートを1906年のこととしているが、これは1905~6年のシーズンという意味であって、正確な日付は1905年の11月8日のことであった。従って、以下では単純な暦上の日付を優先して、1905年と書かせて頂くことを予め御了承頂きたい。
フリートとマーラーとの交流については、それぞれマーラーについての初期の基本文献であるモノグラフの著者でもあるパウル・シュテファンとパウル・ベッカーが、いずれも短いものではあるが、フリート自身を主題としたモノグラフを上梓しており、そうした文献に遺されたフリート自身の回想からも窺うことができるし、また例えば、これもまた上記『マーラー頌』に収録されている、デチャイの回想に出て来るドロミテでのエピソードに登場する「彼(=マーラー:引用者注)がひじょうに高く買っていたあるベルリンの音楽家」というのはフリートのことらしく、ド・ラ・グランジュの浩瀚なマーラー伝でもフリートの名前は最初に彼等が出遭った1905年以降、頻繁に登場するのが確認でき、特にクレンペラーが回想する第2交響曲の演奏のみならず、中期の交響曲も積極的に取り上げていたことがわかる。(なお、パウル・シュテファンとパウル・ベッカーのモノグラフというのは、それぞれ、Paul Stefan, Oskar Fried Das Wenden eines Künstlers, Erich Reiss Verlag, 1911およびPaul Bekker, Oskar Fried Sein Weden und Schaffen, Harmonie Verlag, 1907のことであり、何れも現在はWeb上でpdf等のフォーマットで読むことができる。)
にも関わらずフリートの影が薄いのは、一つにはアルマの回想における描写のされ方の影響があるのではなかろうか。明らかにアルマはフリートを評価しておらず、その評価が、マーラー自身も含めた夫婦共通の招かれざる客というような、フリートが登場するエピソードでの描写におけるバイアスとして、かなり露骨に表れていることが読み取れる。しかしながらアルマの主観はともかく、マーラーがフリートを高く評価していたことは、例えば上で参照したデチャイの証言などからしても間違いないだろう(あえてデチャイが匿名にした理由は判然としないが、匿名にしておいた上での形容であることを考慮すれば、デチャイがマーラーから直接そうした評価を耳にしていたか、或いは少なくともデチャイが信頼する筋からの伝聞として、つまりマーラーの周辺の人々の了解であったと考えてもよさそうに思える)。一方クレンペラーの回想は、フリートが少なくともリハーサルにおいてはマーラー自身が是としない解釈を行っていたことを証言しており、そこにフリートの能力に対する留保を読み取る向きもあるかも知れないが、クレンペラーの回想を信じる限り、フリートはマーラーの意見を受け止め、ぶっつけ本番で違った解釈での演奏を実現するだけの能力があったのは確かなことのようである。
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その上で、冒頭に引用したクレンペラーの回想の後半部分のマーラーの行動に関するコメントについては、若干の文脈の補完をする必要を感じる。というのも40年前にこのクレンペラーの回想を読んだ私は、当然そうした文脈を知る由もなく、些か短絡的にマーラーの取った行動を受け止めてしまったからである。後述のように、文脈が追加されることでここでのクレンペラーのコメントが無効となるわけではないにせよ、それを知っていると知らないとでは、マーラーがどのような人物であったかについての了解について少なからぬ違いが生じると思われると私は考える。
そしてその文脈を証言する資料はと言えば、ヘルタ・ブラウコップフ編『グスタフ・マーラー 隠されていた手紙』(Herta Blaukopf (hrsg.), Gustav Mahler : unbekannte Briefe, Paul Zsolnay, 1983)所収のフリート宛のマーラー自身の書簡であり、極めて信頼性の高いものなのだ。ルドルフ・シュテファンの解説が付されたフリート宛書簡は12通収録されている。末尾にはマーラーの没後間もなくに書かれたフリートによるマーラー追悼のオマージュ(1911年6月1日の『パン』誌第1年第15号所収)が付けられており、マーラーとフリートの間の繋がりの強さを窺わせるものになっている(邦訳は中河原理訳、音楽之友社、1988年刊)。そしてその書簡のうち最初の6通は、まさにクレンペラーの回想するコンサートに直接関わるものだし、7通目もまたその公演からしばらく後、演奏会の成功の余韻を伝える内容のものである。
この書簡群からわかることは、ベルリンでの第2交響曲の演奏は、マーラー自身が強く望み、そのタクトを託す存在として自らフリートを選び、公演に向けてマーラー自身が強くコミットしたものであるという事実である。バウアー=レヒナーの回想を紐解けば直ちに読み取れることであるが、作曲家マーラーは、特にその若き日々において、自分の作品を公演に漕ぎ付けるためにその費用を実質的に自費で負担するなどの大きな苦労を重ねてきた。1905年といえば5月には第5交響曲の初演を自分自身の指揮で行い、そしてまさにフリート宛の4番目の書簡でマーラー自身がフリートに報告している通り、第7交響曲を完成させた時期にあたるが、この時期においてもマーラーは、自分の作品を上演するにあたって追加リハーサルのための費用を捻出してさえいることが書簡から読み取れるのである。
そうしたことを背景としてクレンペラーの回想におけるマーラーのフリートに対する態度や行動を改めて見直してみれば、中立的な立場で自作の解釈に対して歯に衣着せずに物申す作曲家の姿ではなく、自分の作品を自分の意図通りに世の中に送り出すことに対して労力を厭わない作曲家の姿が浮かび上がって来るように私には感じられる。少なくともマーラーは、フリートの解釈が妥当でないことを認識した時においてさえ、それ故にフリートの能力に疑問を抱いたり、自分の目標の達成に向けての信頼できるパートナーとしてフリートを見ることを止めたりはしなかった。クレンペラーの「自分が導いてやれば、その解釈も正しくなることを知っていた」というのは、そのように読むべきだと思うのである。そして演奏会はクレンペラーが報告する通りの大成功であった。マーラー自身もまた演奏会当日の演奏の出来に満足していたことは演奏会後の書簡の文面からはっきりと読み取ることができる。
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ところで、その演奏会後の書簡の末尾でマーラーは「リハーサルのとき私がいったすべてのことをどうぞお忘れなく!( Bitte, erinnern Sie sich während der Probe nur recht oft an Alles, was ich Ihnen gesagt! 」(個人的には細部において必ずしも異論なしとはしないけれど、ここでは一旦訳は中川原理さんのものを用いることにする)と記している。それではそれから20年近い歳月を隔て、マーラー自身が没した後に訪れた第2交響曲の録音の機会に際して、フリートはマーラーの助言に忠実だったのだろうか?勿論、1905年のコンサートの録音記録があって比較ができるわけではないから、事実に即してそれを判断することはできない。だがその録音からも更に100年近い歳月を隔て、SPレコードから起こしてCDに記録されたその演奏に接する、縁も所縁もない聴き手たる私が感じ取った印象に即して言えば、ここでフリートは、マーラーの助言に対して技術的な限界の範囲内で許容される限りにおいて忠実であろうとしたのではという気がするのである。
例えば田代櫂さんのマーラー伝では、フリートとの1905年の出逢いについて触れたところで後年のこの録音について言及し、「演奏も録音もむろん貧しいが、最初期のマーラーの解釈のドキュメントとして興味深い。」(田代櫂『グスタフ・マーラー 開かれた耳、閉ざされた地平』,p.258)とコメントされているが、このうち録音の貧しさの方は、アコースティック録音の技術上の制約に起因するものとして了解できるにせよ、演奏の貧しさの方については、それが何を指しているのか判然としないように私には思われる。仮にそれが異常な編成とか楽器法の変更といったことに由来するものだとすれば、実際にはそれは寧ろアコースティック録音の技術上の条件に由来するものであり、本来的な演奏技術の欠如や演奏解釈の貧しさではない筈である。そうではなくて、それがフリートの解釈とオーケストラの技術を指しての評言なのだとしたら、私は必ずしもその見解に与しないということである。
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ところでトーマス・マンの『魔の山』には、当時最新のテクノロジーであった蓄音機で音楽を聴く場面が、その長大な作品の末尾近く、これまた当時流行した降霊会の場面のいわば伏線のような形で挿入されている(第7章の最後から4つ目の節、高橋義孝訳では「妙音の饗宴」と訳されている箇所)が、そこで登場するレコードは、時代設定からは確実にアコースティック録音の時代と考えられるし、執筆時期からも電気録音より前であることは確実であろう(『魔の山』の出版は1925年。舞台設定は第1次世界大戦前のサナトリウムである)。そこで紹介されるレパートリーは声楽曲がほとんどで、管弦楽曲は「牧神の午後への前奏曲」くらいというのも、アコースティック録音における曲目選択の傾向に合致している。その周波数特性の音域の制約から、辛うじてそれらしく聴こえるのがまず人間の声だということで、アコースティック録音の時代のレパートリーの中心は声楽曲であったようで、管弦楽の演奏の録音に関しては、『魔の山』にも登場する「牧神の午後への前奏曲」のような小編成のものから徐々に試みられるようになるものの、大規模な作品になると、丁度『魔の山』の出版時期と重なるアコースティック録音時代も末期に近づいてから、ようやく録音が試みられるようになるのである。そして試みられるようになったとは言え、技術上の制約から、ダイナミクスの幅が取れず、バランスも人工的で、弦楽器のプルト数は限られるなど、通常のコンサートホールでの演奏とは全く異なる条件での演奏を余儀なくされたことは、収録の様子を記録した文章からも、残された録音からも窺い知ることができる。
ことマーラーの作品に関して言えば、頻繁に用いられる各種の打楽器は、アコースティック録音が、その記録装置の機構上、特に苦手とするものだったようだ。とりわけてもアタックが強く、波形の振幅が大きい打楽器は録音装置の材質といった物理的条件からも敬遠されたようだが、フリートの第2交響曲の場合では、タムタムやシンバルはしばしば省略されるか、トライアングルやルーテ同様、本来とはやや異なった音色で代替されているように聴こえる一方で、ティンパニはダイナミクスの制限を措けば比較的はっきりと収録されており、低弦の音もしっかりと聴き取ることができて、『魔の山』でいけば、その舞台となった時期ではなく、出版の時期に重なる、アコースティック録音の中では最も技術的に進歩した最後期の録音であることを告げている。
フリートの第2交響曲の収録自体の具体的な詳細は、戦災によって記録資料が喪われたことにより不明のようだが、一般的に知られるアコースティック録音技術に関する情報に基いて想像する限り、拾った音が雲母板を振動させ、雲母板に固定されたブリッジを経由してカッティング針に伝わった振動を増幅した上でディスクに音溝を刻むという仕組みを持ったカッティングマシーンに繋がっているホーンが壁に穴を穿っている演奏室に閉じこもり、普通のコンサートホールでの演奏とは異なったバランスやダイナミクスでの演奏を強いられるといった、特殊な環境下であることを前提にして耳を傾けてみれば、寧ろ聴き取れる演奏の質の高さに瞠目させられさえするというのが私の率直な印象である。
一部は時代様式もあって時折大きく揺れ動くテンポや、微細なアゴーキクに機敏に対応するアンサンブル、丁寧でありながらしなやかさを備えたフレージングや細部の表現の彫琢は、音質の制限を超えてはっきりと聴き取ることができ(もっと言えば、音質やダイナミクスの制限を、そうしたディティールが相当程度補って、本来あるべき筈の限界を超えた表現の幅を感じさせさえするようにさえ私には聴こえるのだが)、この録音にかける奏者達の意気込みと、その背後に存在したであろうフリートのこの作品に対する深い思い入れを感じ取ることができると私には思われる。
例えばポルタメントの多用はそれ自体は時代の様式のせいかも知れないが、それが表現として成立しているかどうかはまた別の問題だし、テンポの変動についても同様のことが言えて、そのいずれについても今日時折見られる、ことさら復古的なスタイルの模倣を企図した演奏とは異なって、ここではそれらは表面的な効果に留まることなく、慣れてしまえば自然にさえ感じられるし、時折見られる、現在の通常の演奏(それは概ね、楽譜に書かれていることに忠実に、逆に楽譜に書かれていないことは原則としてやらないという、それはそれで一つの演奏様式に属するといって良いだろうが)からすれば特異に感じられるアゴーギクにさえ、そこに恣意を見出すところか、逆にマーラーが「あなたのリハーサルのとき私がいったすべてのことをどうぞお忘れなく!」と語りかけた言葉に、フリートが20年近い年月の経過の後、尚も忠実であり続けた証しを読み取ることだって可能ではないかと思えるのである。
総じて私の耳には、このフリートの第2交響曲の演奏の録音記録は、1905年の公演がマーラー自身をも満足される出来となったことを彷彿とさせる演奏、否、もっと端的に言って、時として音質の制約を超えて、感動し、圧倒されさえする、極めて優れた演奏に聴こえるのである。フリート自身がこの録音をどう評価していたかは詳らかにしないが、恐らく私の想像では、「その時に利用可能なありとあらゆる手段を総動員して、一つの世界を作り上げる」(ちなみにこれはマーラーが自らの交響曲の創作に関して述べた言葉だが)試みの成果として、それなりに納得し、満足し、既に逝って久しいマーラーからの様々な助言や助力に対する遅ればせながらの応答を果たし得た、マーラーが自分に伝えたことを、すべてではないにせよ、その場で可能な限り記録として留めることができたと感じていたのではないかという気さえするのである。
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だがその一方で、新型コロナウィルス感染症の影響が長期化し、コンサートホールでの演奏については、無観客での演奏のオンデマンド配信の試みはあるものの、その本来の規模からすれば小編成の作品を、これまた何分の一かに絞られた聴き手の前で演奏するのがせいぜいであり、コンサートホールの性能を目一杯活用する必要のあるマーラーのような作品の実演の再開の見通しは立っていない現下の状況において、私がこの古びた演奏記録を久し振りに聴いてみて感じたことの中には、フリート自身の思いであるとか、記録された演奏のユニークな価値といった、本来論じられるべき観点とは些か異なった側面もまた含まれることを否定できない。最後にそのことを記して、この文章を終えることにしたいと思う。
(なお、ホールの音響を設計するような精緻な耳からすれば、舞台の上の演奏者の人数もさることながら、コンサートホールの客席が埋っていない状態での音響は、目標として想定されたそれではないということになるだろう。また、実際にこれは様々に試行されて、その結果の証言も目にすることができるようだが、奏者間の距離が普段と異なるということがアンサンブルの細部に意図せずして影響することは避け難い。更にまた、コンサートの公演というのは一度きりの実演だけの問題ではなく、上で参照したマーラーの書簡にもあったようなプローベのスケジュール他、コンサートを成り立たせるために必要な、準備作業・後作業の全てが影響を受けることになることに聴き手は思いを致すべきだと考える。4月にマーラー祝祭オーケストラの公演の延期の折に記した通り、この状況が続く限り、事実上マーラーの作品の実演は不可能となり、マーラーの演奏の伝統は断絶することになりかねないのだという点について、現時点で再度、認識を新たにすべきように感じる。)
そこでまず、もう一度フリートの演奏の録音の位置づけを確認すると、レコード自体は既に発明されていたにも関わらず、本格的な商用の録音が行われる時代を迎えることなく1911年に没したマーラー自身の演奏の痕跡は、彼が当代きっての大指揮者であったにも関わらず、自他の作品を問わず、かろじてウェルテ・ミニヨンのピアノロールに記録された自作作品のピアノ演奏のみである。そしてそれ以降の電気録音による1世紀にわたる膨大な演奏の録音とフリートの演奏の録音が異なるのは、既に述べたように、技術的にこれが電気信号を媒介としていないという点である。実際に聴いてみても、後の電気録音と比較したとき、(三輪眞弘さんの言葉をお借りすれば)同じ「録楽」とはちょっと呼び難いような独特のクセがあって、それ故に、通常の音楽の音響的な側面に関するドキュメントというよりも寧ろ「音楽の化石」とでも呼びたいような気がしてくるのを抑え難い。
同じく電気信号を媒介としないピアノロールとはポジとネガのような関係にあるとでも言うべきだろうか。ピアノロールと違って、再生のために改めて楽器を媒介させる必要はないが、結果として音質が今そこにある楽器によってリアルに補綴されることなく、寧ろ、あたかも別の聴覚器官を備えた生物が聴き取ったであろう音をヴァーチャルに再構したものを聴いているような感覚に捉われる。
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既に述べたようにアコースティック録音は、後のスタジオ録音と大きく異なり、通常のコンサートとは全く異なった、極めて人工的な環境でしか収録ができなかった。シュトロー・ヴァイオリンのようにそれ専用の楽器も用いられたし、繰り返しを厭わずに言えば、プルト数の調整、省略されたパート、他の楽器で代替されたパート、録音されたものを再生した結果から逆算して原音のバランスを変えるといった「逆イコライゼイション」とでも言うべき作業を行った上で、ようやくより「自然な」音質が得られるといった具合であり、その点もまた、別の聴覚器官を備えた生物向けの解釈の印象を強めているのかも知れない。シュトックハウゼンが想定した宇宙人に聴かせるマーラー作品の演奏記録の候補リストの中からは、このフリートの演奏は真っ先に除外すべきだということになるのだろが、一方でその宇宙人が、もしこの録音記録に気づいてしまったら、その時彼はどのようにこれを受けとめるのだろうかということも考えてしまう。
その一方で、今や仮想現実とか拡張現実と呼ばれる技術が急速な進展を示している昨今、そうした技術のみならず、コンサートホールでの実演の代替としてのストリーミングにせよ、ここで取り上げた記録媒体への収録にせよ、それらはすべて電気録音の開始以降、電気信号を媒介としたものになったということに思いを致さずにはいられない。勿論、アコースティック録音の装置とて、その機構の一部には電気が用いられていたわけだが、一方で再生装置の方についても『魔の山』でハンス・カストルプが操作するように、その初期には機械仕掛けが用いられた時期もあったわけで、フリートの演奏の録音はそういう意味において電気仕掛け以前の機械仕掛けによる産物という特殊な位置を占めているということが言えそうである。
そしてそこから更に思いを拡げると、マーラーの交響曲に関しては、電気録音の時代になってからしばらくもその長大さが制約となり、いわゆる「鑑賞」における制約が大きかったことに思い至る。フリートの録音は最初に述べたようにSPレコードで何と22枚組、オートチェンジャーのようなものがあれば別なのだろうが、4分おきくらいにレコード盤を替える必要があり、従ってマーラーの交響曲楽章のほとんどについて一楽章通して聴くことが、そもそも不可能だったのである。その意味では、CDに復刻された録音を連続再生させて聴いている私は、かつてのSPレコードの聴き手とは根本的に異なった条件で聴いていることになる。(だからこそ、録音の際にも恐らく細切れにされたテイクのことを考えれば、それらを通して聴いた時の音楽の流れの自然さと解釈の一貫性への驚きを禁じ得ないのでもあるが。)
もう半世紀前のことになるマーラー・ルネサンスの時期において、クルト・ブラウコップフが社会学者としての視点でLPレコードの寄与の大きさを指摘したことは、私のような世代の聴き手にとっては常識に属する事柄であったのだが、その一方で、レコードによる作品の聴取が当たり前になったことで重要度が低下していったものとして、ピアノ連弾や2台ピアノ、あるいは独奏への編曲や、室内楽編成への編曲を通じてのマーラー作品へのアクセスがあるであろう。恐らくマーラーが生きていた時代には、時折ヨーロッパのどこかの街で上演される、マーラー信奉者の指揮者(その中にはフリートも含まれていたのだ)がマーラーの作品を取り上げるコンサートに、(今まさにコロナ禍の最中、それを介した感染拡大が問題視され、自粛を要請されているのと何ら違いはないのだが)当時急速な発達を見せていた鉄道網を駆使しておっつけ馳せ参ずるのでなければ、スコアを研究する以外には、そうした編曲を通じて作品に接する他手段がなかった。シェーンベルクのサークルで同時代の作品の分析や研究のために実演に接しようとしても、コストの制約からフル編成のコンサートを催すことができなかったことから、かの有名な「私的演奏協会」での演奏に用いるべく、マーラー作品のピアノ編曲、室内楽編曲が行われ、演奏されていったことは良く知られているであろう。
興味深いのは、マーラーがオーケストラの主要レパートリーとしてすっかり定着し、年間に何種類もの新しいマーラー作品の演奏の録音がリリースされるようになった近年になって、そうした編曲への注目が再び高まっているように見えることである。良く知られたところでは、ツェムリンスキーによる第6交響曲、カゼッラによる第7交響曲のピアノ用編曲やエルヴィン・シュタインによる第4交響曲の室内楽編曲、或いはシェーンベルクが企図して未完のままとなった「大地の歌」の室内楽編曲が補筆されて演奏されるようになったかと思えば、新しい編曲が行われ、それが録音されてリリースされるといったことも一般的になってきた。日本国内では少し前になるが、大井浩明さんがマーラーの交響曲のピアノ編曲版の演奏のツィクルスを開催されており、注目を集めたことは記憶に新しい。
ちなみに第2交響曲についてはワルターの2台ピアノ編曲が有名で、演奏の録音も存在している。その一方、最初に引用したクレンペラーも第2交響曲のピアノ編曲を行ったことを回想の別のところで本人が記しているが、管見ではクレンペラーの編曲というのは目にしたことがなく、当然、その演奏に接したこともない。(今後、発掘されて、演奏されたりすることがあるのだろうか?)他方、小管弦楽編成への編曲としては、写真資料の集成であるMahler Albumや、上でも触れたマーラーの残したピアノロールを再生した記録のCD、或いは第2交響曲の自筆譜ファクシミリの出版等を行ってきたことで知られるキャプラン財団のオーナーで、かつての1980~90年代のマーラーブームの折にはロンドン交響楽団を指揮したアルバムをリリースし、その後2002年にはウィーンフィルを指揮した第2交響曲の演奏がドイツ・グラモフォンレーベルからCDとしてリリースされるなどしてマーラーの世界では恐らく知らない人はいないであろう、かのギルバート・キャプランがロブ・マテスと共同で編曲したものがあり、それまた同様に自ら指揮したアルバムが2014年にリリースされている。最後のキャプランの編曲は小管弦楽とはいいながら、所謂2管編成への編曲であり、やはり4管編成で書かれたヴェーベルンの大管弦楽のための6つの小品op.6に対して後年、こちらは作曲者自らの手によって2管編成版が作成されたのに近いだろう。(オリジナルのマーラーの編成が4/4/5/4-10(バンダ含む)/10(同左)/4/1-2(Harp)/2(Pauke)/3(Perkussion)/1(Orgel)に対して、キャプランの編曲の編成は2/2/2/2-3/3/2/1-1/1/2/1。)
だが現下の状況でマーラーの作品のオリジナルの編成での上演が事実上不可能なのであれば、せめて編曲版でもというのはマーラー・ファンとして思わずにはいられない。ピアノ編曲、室内楽編曲はまた別だろうが、管弦楽でということであれば、キャプランの編曲であれば、弦楽器のプルト数も合唱団も大幅に編成を絞ることができ、最近はすっかり普通になったピリオドスタイルの古典派交響曲の演奏と同程度の規模での演奏が可能であろう。既にベートーヴェンの第9交響曲では緊急事態宣言後にそうしたスタイルで国内での演奏が試みられているわけだから、編曲の上演権などの権利関係は詳らかにしないけれども、少なくとも物理的には演奏可能な規模に何とか収められそうである。
実際にキャプランさんが、コロナ禍のような状況を予測して編曲を行ったというわけではないだろうが、マーラー作品の受容の在り方を振り返ってみたとき、そうした方向でのアプローチがあっても良さそうな気がするのである。知る限り、交響曲の小管弦楽・室内楽向けの編曲は既に第1,2,4,5,6,7,9,10番と「大地の歌」の存在を確認しており、権利上の問題等がクリアできれば、室内楽編成でのツィクルスという企画さえ可能だろう。リュッケルト歌曲集を筆頭に、「子供の死の歌」など、管弦楽伴奏歌曲の管弦楽編成はもともと小さいから、それらを組み合わせるプログラム・ビルディングも可能ではなかろうか。
もっとも、この文章を記している直近について言えば、再び感染者の顕著な増加が見られ、その傾向から判断するに、一旦再開しかけた公演も再び中止になる可能性が高まっており、今後については予断を許さない状況に再び陥りつつあるが、いずれ再度、再開の可能性を探る時の選択肢として考慮されてもいいように思われる。幸いにして我々は、過去の記憶ということについては、既に十分すぎる程のものを持つに至っていて、その中には、その時々の状況に対してどのように対峙したかについての記録もまた膨大に含まれている。ことマーラーの場合には、全く異なる理由での不幸な中断の記憶さえ含まれており、我々がそこから学ぶべきことは、数限りなくあるように感じられる。
(ちなみにこちらはコロナ禍と直接関係なく、近年の動向から将来への方向性として注目されるのは、最近は下火になってしまっているが一時期流行したDTMの流れでのMIDIファイルの作成と、こちらは最近ますます盛んになっているかに見えるヴァーチャル歌手によるマーラーの歌曲作品の歌唱であろう。こちらは人間の手による実演という「音楽」が備えているべき必須の要件からの逸脱となるが、それでもなお、特に今回のコロナ禍における状況を踏まえれば、ありうべき「上演」の形態の可能性の一つとして捉えなおすべきなのではないだろうか。)
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さて随分とフリートの録音から遠ざかって回り道をしたように見えるが、ここまで来て突然、フリートがアコースティック録音にまつわる様々な技術的制約の中で、「その時に利用可能なありとあらゆる手段を総動員して、一つの世界を作り上げる」ことを試みた記録として、新型コロナウィルス感染症が蔓延する現在の状況において可能性を探る作業のすぐ隣に、だが自分が生まれるより遥か以前から永らく存在していることに気づくのである。
繰り返しになるが、技術的な詳細は措いて、基本的には舞台の上での上演をマイクで拾い、それを後で調整すれば良いという、近年の完成された録音技術と同じ前提に立ってフリートの試みを評価するのは不当なことでさえあろう。寧ろそれはキャプランが試みた、編成の縮小以上の大胆で困難な編曲の試み、アコースティック録音用の機械という奇妙な別種の「生物」に向けてマーラーの作品を演奏するための、前代未聞の編曲だったというように捉えるのが妥当に感じられる。
これは伝聞だが、緊急事態宣言の最中においては、ネットワーク上でビデオチャットのようなツールにより接続した奏者達が、その場で「合奏」を試みるといったことも試みられたらしい。だがそれは概ね「合奏」というものが持つ本質にそぐわないものとならざるを得なかったと聞く。恐らくそこで本来的に求められていたのは、常には当然のように成り立っている「合奏」のための基本的な条件を充足させることの妨げとなる、ネットワークでの接続に伴う様々な技術的な問題を一つ一つクリアしていくような緻密で綿密な作業を通して、在るべき「合奏」の姿から「逆算」した上で演奏を作り上げていくといった作業である筈で、だから即興的にその場に集まったからといってどうなるものでもなかったのではなかろうか。つまりそこで求められていたのは、アコースティック録音という条件の下で、「リハーサルのとき私がいったすべてのことをどうぞお忘れなく!」というマーラーの言葉に応答しようとしたフリートの試みに寧ろ近しいものなのではなかろうか。
そしてそれは専ら演奏する側の問題であるというわけではない。聴き手は単に提供される音響を消費し、複数の演奏記録を演奏時間の長さやら、ある細部の再現の正確さを比較して点数付けをしたりするような立場にいるのではない筈である。目下のような状況で、どのような演奏が可能で、どのような聴取が可能なのかは、聴き手である私にも課された問題である。それを思えば、例えばフリートの試みに接した時、それに対して開かれた耳を持ち、マーラーの「リハーサルのとき私がいったすべてのことをどうぞお忘れなく!」という言葉へのフリートの応答をそこに聴き取り、それを通してマーラーが我々に語ることを聴き取り、我々もまた応答することこそ、今、ここで求められていることに本質的に関りのあることなのではないかということに思い至った次第なのである。
(2020.7.17 初稿公開, 8加筆, 8.27室内管弦楽編曲について加筆)