2018年10月14日日曜日

石倉小三郎「グスターフ・マーラー」(1952)より

 
 近代の音楽史上にマーラー問題という言葉がある。それほど彼は問題の人であった。それは凡ての偉人芸術家たちの運命であると云えばそれまでであるが、彼についてはそれが格別に烈しかった。一方に熱狂的頌歌があれば、他方には永罰を課せんとする冷酷があり、それが彼に対する批判の全貌をなしている。その風当たりはシュトラウス、レーガー、プィッナーに比して、はるかに強かった。それは彼の作品からも来ているが、その性格にねざしている処も大きい。彼は創作する人の熱に於て一生を狂い進んだ。遠慮なく熱烈に凡てを敢行した。劇場の改革に熱中すると共に、九つの大がかりな交響曲を世界に送った。しかも凡てを矢つぎ早に、飛ぶような態度に於て。彼の作品はやむ間なき緊張を示しており、最も深い意味に於て刺激的である。その上に彼はユダヤ人である。新時代のユダヤ人が、大規模な交響曲作家として登場したのであった。まだヒットラー時代ではなかったから目だった迫害は受けはしなかったが、ベートーヴェンによって神性的なものにされ、しかも一時は衰退の途を辿りつつあったような交響楽が、一ユダヤ人によって復活されるのである。音楽創作の上に於ての人種問題が新しく掘りかえされ、意地わるく曝し物にされた。彼の理想的傾向が疑の目を以て批判された。
 このような問題を含む彼の音楽も、今では改めて正当な批判を受けてその評価もほぼ定まったと云えるであろう。彼の音楽は吾々の未来を担うものではないかも知れないが、その真剣さ・鋭さ・健康な素朴さ・と同時に、近代的な神経的ないらだたしさ・神のような純真さ・魔人的な力の感じ等は、正しく研究さるべき価値は充分備えていると思う。数は少ないが重要さに於ては交響楽に劣らないところの歌曲は、わが国に於ても既に紹介されているが、交響曲の凡てが、世界的にいつでもきかれるとまではなっていないであろう。私がその昔、滞独中にきき得たものも僅少であるし。今はその記憶も茫としており、また文献も充分でないから、私の研究も万全を期することは出来ないが、今手許にあるところのシュペヒトの「マーラー研究」、シュトルクの現代音楽史及びニューマンの現代音楽史、ワイスマンの「世界危機時代に於ける音楽」等の諸書に従ってマーラーの全貌をうかがい伝えることも死後四十年の今日に於て大に意義あることと思って私はここに筆をとってみた。楽曲の解説はシュペヒトを祖述したものであるが、シュペヒトはマーラーと親交があり、その所説は他人から自作の解説の試みられることを特にきらっていたマーラーからも自然に承認されていたものであろう。その他にもこの書に負うところ最も多いことを述べて謹んで感謝の意を表する。
 千九百五十一年五月十九日
      マーラー終焉満四十年の日に於て
 (石倉小三郎「グスターフ・マーラー」, 音楽之友社(音楽文庫42), 1952, pp.1-2) 


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 日本語で読むことのできるマーラーに関する書籍がまとまった形で現われるのは、マーラー生誕百年の1960年より後のこと、その嚆矢となったワルターの回想の翻訳(1960)を除けば、実際にはようやく1970年代になってからであると言ってよいだろう。翻訳ではなく、邦語による単行本ということであれば、音楽之友社の大音楽家・人と作品というシリーズの1巻として1971年に刊行された張源祥「ブルックナー/マーラー」があり、これはアルマの回想と書簡の邦訳(1973)、ヴィニャルやブラウコップフ、マイケル・ケネディ等の評伝の邦訳(それぞれ1970、1974、1978)と並んで、マーラーを聴き始めたばかりの中学生が本屋の書棚で目にすることができた書籍の一つであった。そして、それ以前にマーラーについて言及された著作があったとしても、その当時の書棚からは姿を消してしまっていて、その存在を知る術はなく、ずっと後、マーラーがブームになった1980年代後半から1990年代前半にかけて大量に出版されたマーラーに関する文献を介して、ようやくその存在を知ることになる。これはマーラーのみを扱ったモノグラフではないが、既に戦前にパウル・ベッカーの「ベートーヴェンからマーラーまでの交響曲」の翻訳が出ている。マーラーを音楽史の中に位置づけるにあたり、この著作に現われたベッカーの主張の影響力はかなりのものがあったように見えるが、ベッカーのマーラーのみを扱った大部のモノグラフは結局翻訳されることはなかった。モノグラフということであれば唯一、1952年に音楽之友社から音楽文庫の42冊目として刊行された石倉小三郎「グスターフ・マーラー」があるのみである。上に引用したのはその序であり、その日付は刊行の前年、マーラー没後四十年となっている。
 巻末には音楽文庫の既刊の目録が確認できるが、その中には、同じ著者による「バッハ父子」の翻訳、マーラーについての著作と同年刊行の「ゲーテと音楽」が確認できるほか、この後1954年にも「音楽史概説」が刊行されているようである。(なお、別のところで引用したマーラーの第八交響曲の1923年(大正12年)ベルリンでの実演に接した記録を含む兼常清佐「音楽巡礼」もやはり音楽文庫の一冊である。)

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 石倉小三郎といえば、近年どうであるかは知らないが、私の世代においてはシューマンの「流浪の民」の訳詩が何と言っても著名であろう。文学上のいわゆる古典の翻訳に関しては、定期的に新訳が出て新陳代謝が行われても、レコードやCDに添付される意味を知ることを第一義とした歌詞対訳ではなく、実際に歌われる歌詞となると、今や聞いても直ちに意味がわからないのではと思われるような古めかしい訳で未だに歌われることは珍しいことではないようだが、まさにその典型とでも言うべきその訳詩は、実際にはシューマンが曲をつけたガイベルのそれを、本来備えている文化的・歴史的な含意をばっさり切り捨てて意訳したもののようである。それだけでなく石倉は、既に学生時代にグルックの歌劇「オルフェオとエウリディケー」の本邦初演にあたって(共同であるようだが)訳詩を提供するといったこともしているようで、いわゆる本業のゲーテを中心としたドイツ文学だけではなく、音楽の受容にも少なからぬ足跡を残した人のようだ。
 そうした著者の手になるマーラーに関するモノグラフの内容はどうかといえば、上に見るように自身も序で断っているとはいうものの、著作というよりはシュペヒトのモノグラフをベースにした翻案に近いというのが実態のようだ。特に作品解説は、自分でもそう断っているようにほぼシュペヒトの「祖述」といって良いのだが、それもかなり自由なものというべきだろう。私が実際にシュペヒトの原著との比較を一文一文してみたのは第9交響曲についての章のみだが、シュペヒトの原文が全て翻訳されている訳でもなく、適当に切り取られた原文の自由訳を繋ぐようにして、石倉自身の文章が挟み込まれているという方が正確に思われる。
 尤も、翻訳も含めた著作権についての意識が高くなかったのは石倉個人というよりは、時代の制約と考えるべきであって、明治期の翻案と翻訳が入り混じった状況、つまり今日的には「盗作」と判定されても仕方ないような翻案があるかと思えば、抄訳といえば聞こえはいいが、原作を正しく伝えているとは到底言い難い、恣意的なカットが断りもなく行われているものが翻訳として流布したりといったことが当たり前だった時代の産物であると考えるべきなのであろう。上でも触れた目録でモノグラフを探せば、バッハ、モーツァルト、ベートーヴェン、ワグナー、シューベルト、シューマンにようやくチャイコフスキーが加わったところでマーラーのモノグラフが上梓されるということが如何に破格のことであったかは、当時一般に流布していた音楽史の通念の圧倒的な影響の下で初等教育を受けた私のような世代にはそれなりに理解できることでもあり、まずもってその志を評価するのが正当な姿勢なのかも知れない。

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 とはいうものの、この著作には、今日見れば明らかな誤認が含まれるのも事実であって、1881年というからバルトークと同じ年に生れた著者がマーラー・ルネサンスが到来して間もなく(1965年)没したこともあり、この貴重な文献がその後陽の目を見ることもなく埋もれてしまったのも仕方ないのかも知れない。上に記したように私は小倉がベースとしたシュペヒトの著作との比較を第9交響曲の部分について行ったのだが、その理由は、「この曲は三つの楽章から成っている」(p.261)という文章にぶつかったからであった。勿論、この文章はシュペヒトの文章を気儘に切り取って繋いだ際に石倉が付加した文章なのだが、それにしてもどうしてこんな勘違いが生じたのかを確認しようと思い立ったからに外ならない。その結果を報告することにさほどの意味があるとも思えないのでここでは割愛するが、上記の事実誤認を含む石倉の繋ぎの文章に後続する「全体を通じて格別な新しさは認められない」(同)をシュペヒトのオリジナルと照合し、更には当該の文章に先行する、石倉が省略した箇所を注意深く読めば、それはシュペヒトが第1楽章を高く評価しているのに対して、後続の3楽章は「全体を通じて格別な新しさは認められない」と述べている文脈であることが直ちにわかるから、石倉が果してどこまでシュペヒトの文章をきちんと読んでいたかについて疑いを差し挟むことも可能かも知れない。
 ただしそれも、時代の制約というのを考慮してみれば、止むを得ない誤りかも知れない。石倉は序文で、滞独中にマーラーの実演に接しはしたが、それは一部であったと述べているし、日本で第9交響曲が初演されるのは、遥かに後年、1967年4月16日、東京文化会館でのキリル・コンドラーシン指揮モスクワ・フィルハーモニー管弦楽団の演奏迄待たなくてはならないのだから。既に戦前にSPレコードが輸入されてはいたけれど、戦前のワルターの録音のうち、1936年5月24日の「大地の歌」こそ全曲を聴くことができたものの、1938年1月16日の、あの異様な緊張を孕んだ第9交響曲の録音の方は当時まだレコードになっていなかった筈である。クロノロジカルには第9交響曲の次の録音は1950年のシェルヘンとウィーン交響楽団の演奏のようだが、これが聴けるのはずっと後、1990年代になってからだし、その次のホーレンシュタインとウィーン交響楽団の演奏は1952年6月だから小倉の著作の刊行後なのだ。従って、実演に接することも、レコードで接することもできない未聴の作品についての、必ずしも分りやすいとはいえないシュペヒトの叙述を読み誤ることがあったとしても、それを今日の基準で批判するのは酷というものであろう。更に言えば、シュペヒトの著作の刊行はマーラー没後間もない1913年だが、その初版は90もの図版が含まれ、楽曲解説には譜例がふんだんに入っているのに対して、1918年の再版―シュペヒトの再版への序文は1918年6月ベルリンとなっているから、第1次世界大戦の末期、決定的転機となる第二次マルヌ会戦とそれに後続する百日攻勢の直前の時期であり、出版はドイツの敗戦が決定的になってからベルサイユ条約に至るまでの混乱の時期にあたる可能性が高いようだ―となると図版のみならず、譜例も凡て削除されながら文章はそのままとなっていて、こちらの文章だけ読む限り、どこの部分を述べているのかを正しく言い当てるのはちょっとしたパズルである。私は永らく再版を参照してきたのだが、ようやく最近初版を入手することが出来、その違いに驚いた次第なのだが、もし石倉が手許において参照していたのが再版であるとするならば尚更のこと、一度も耳にしたことのない音楽についての記述についての多少の誤解は仕方ないようにさえ感じる。

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 石倉は1965年10月に没しているが、その晩年には繰り返し「ファウスト解説」と題する著作が出版され没後に及んでいる。そのうちの一つ、上述の「ゲーテと音楽」と同年の1954年に出版された版は、「ゲーテの到達点はなんであったのか」という副題を持っているようだ。マーラーがゲーテを特に愛読していたことは、アルマやワルターの回想により良く知られているが、シュペヒトの祖述に紛れ、未だ未知の作曲家を紹介するという役割の自覚の下に書かれているこの著作からゲーテの研究者としての石倉自身の思いを読み取ることは容易ではない。だが、この著作を執筆するにあたり、果して彼は、少し前、1949年12月の山田一雄指揮、日本交響楽団(当時:現在のNHK交響楽団)による第8交響曲の日本初演を聴いたであろうか?ゲーテのファウスト第2部の終幕に基づく第8交響曲についての記述が大幅に拡張され、シュペヒトの著作にはない歌詞の翻訳が冒頭に挿入され、更に以下のような確信めいた言葉が記されているのを読むと、彼が件の初演に立ち会い、そのことがこの著作の執筆を後押ししたのではという想像は抑え難い。曰く、

 「ゲーテのこの難解な神秘極まる終りの言葉の含蓄するところを説明し理解するには、この曲をきくことが最もよい。この音楽による解説がそれの最捷径であると云っても過言ではないであろう。」(p.227)

 誰かがこの極東の島国におけるマーラー受容史を企てるとするならば、この著作を無視して通り過ぎるのは不当ではないだろうか?没後100年も過去のこととなった今日、石倉が参照したシュペヒトにせよ、ベッカーにせよ、既にマーラーの受容における過去の一齣ということになってしまっているようだし、マーラー・ルネサンスに先立つ時期に書かれた石倉の著作の意義も限定されたものにならざるを得ないことは止むを得まい。だけれども、ここには今日の、いとも容易くマーラーの音楽に接することができる環境では却って得難いものとなっているものが存在するのではなかろうか?柴田南雄さんにとって決定的な経験となった、戦前のプリングスハイムによる東京音楽学校における第6交響曲の初演と同じく、技術的な完成や、情報の正確さといった点では制限があっても、人の心を動かさずにはおかない何かが宿っているのではなかろうか?そしてそうした何かを無視し、時としてその技術的な未熟や情報不足による誤りを難じて軽んじ、蔑みさえしかねない受容というのは、それ自体、決定的な何かを取りこぼしているということはないのか?
 仕事柄、知的財産権について、相対的には敏感にならざるを得ないということもあり、個人的な嗜好からすれば、「祖述」という在り方自体に生理的に近い抵抗感を覚えるし、その時代がかった文体にも時として拒絶反応が起きるのは避け難いのではあるけれど、マーラー・ルネサンス後、バブルの時期を通過して今日に至るまで、この著作が等閑視されていることに対しては違和感を感じずにはいられない。マーラーを聴くことを単なる消費で終わらせることなく、更に半世紀の厚みを加えた隔たりを通じて、マーラーから受け取った何かを継承しようとしたとき、そこには未だ汲み尽くされていない何かが存在するという感覚は、単なる思い込み、錯覚に過ぎないのだろうか?マーラーを受け継ぐためには、それこそ、石倉のような先駆者たちよりもより一層大胆でなくてはならないのではないか?
 否、こと我が事に限定するならば、「私の意見」、「私固有の声」などといったものが、そもそも一体何処に在るのか?「私」とは、せいぜいが他者達の声の交響する場、結節点の如きもの、継電器(パトチカ)、配電盤(エリアス)、あるいは有機交流電灯の照明(宮澤賢治)に過ぎないのではないか?祖述とは明確に異なり、紛れもない自分の言葉で語ったとしても、だがその「自分」自体、摂取して来た様々な先人達の声のエコー、良くても変奏、大抵は劣化したコピーのようなものではないと言い切れるのか?
 更に言えば、何とも驚くべきことに、マーラー・ルネサンスに先立つ石倉のこの著作の時代には、いまだマーラーの音楽を、オリジナリティーの欠如、借り物であるとして否定する見解は決して少数派ではなかったのだ。よりによってマーラーの音楽さえもそうなのだ。勿論、影響関係、借用や引用を実証的に解き明かすこともまた、学問的には紛れもない業績であり、貴重な貢献であろう。だけれども、本当に言い当てたいのは、マーラーが如何にユニークであるかであり、そのオリジナリティの在り処の方ではなかったのか?
 そうした状況を忘れてしまったかのように、今やマーラーはますます普通に、当たり前のように消費されつつあるかに見える。だがマーラーの音楽はそうした状況から常に逸脱し、存在しない彼方を目がけるものではなかったのか?マーラーの音楽は、アドルノが見事に言い当てたように、ほんとうはほとんど慣用的な響きを、あたかもそれまでまったくなかったかのような新鮮さで耳にする子供の信頼を裏切らないようなものではなかったか?
 マーラーに後続する前衛がそれを目指して錯誤に陥った後、AIが人間の創造性にまで踏み込むかに見える今日においてこそ、「はじめて」であることや「新しさ」の感覚の由来についてマーラーから学び取ることができるのではないか?複雑性を語る語彙を手にし、決定論的でありながら予測ができない事象を扱うカオス理論が登場し、因果性や時間についての洗練された理論が出現しつつある今日、かつては否定神学のような語り方によってしかアプローチできなかった出来事を実質的な仕方で語ることができるようになりつつあるに見える。スタニスワフ・レムが「ビット文学の歴史」でさる哲学書の読解に関してイロニカルに書いたのと同様に、ある側面においてはマーラーの音楽の複雑さ、豊饒さを本当に読み解くのはAIにしかできないのかも知れないが、それでもなおマーラーの音楽は、シンギュラリティの手前の、ポスト・ヒューマンならぬ「人間」、ジュリアン・ジェインズの言う「二分心」崩壊後の神なき時代に、「隠れたる神」を求めずにいられない種族の末裔たる私たちのものであり続けるであろう。

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 石倉の著作を前にして、第2交響曲の終楽章、復活の合唱(それもまたクロップシュトックの讃歌に対する簒奪の嫌疑をかけられたものであったが)の手前で、暁を待ちかねて啼く鳥の声のことが思い浮かぶ。シュペヒトの時代から四半世紀以上も遅れて、だがマーラー・ルネサンスの夜明けの光が射すに先立って書かれた著作は、それゆえに忘却の中に埋没してしまった。だが、その著作の末尾に置かれた文章、明らかにゲーテのファウストの終幕の神秘の合唱を踏まえた言葉を確認するとき、石倉は自分の立ち位置というのを、控え目に言っても予感していたのではないかと思わずにはいられない。そしてそれがマーラーという対象に相応しいものであり、のみならず、実は「二分心」崩壊とシンギュラリティに挟まれたエポックに生きる我々にとって相応しいものであることをも。

「重ねていう。彼は現象である。実現ではない。完成ではない。併し大いなる感激なしに、人は彼を考えることが出来ない。凡ては未来が決定する。」(p.299)

(2018.10.14/15)