残念ながら時間の制約が厳しく、現在の私に調べがつき、コメントできたのはやっと以下のようなものに過ぎなかったので、 あくまでも後日のための備忘といったレベルに過ぎない内容ではあるが、記録をしておくことにする。
問い合わせを頂いた方にとっては、あまりお役には立なかったのではないかと懸念しているが、その一方で私自身はと言えば、 久し振りにマーラーのために時間を使うことができて非常に新鮮に感じられた。この場を借りて、ご連絡頂いたことに感謝したい。
近年、図書館や博物館における資料のデジタルアーカイブ化の進展は著しく、また、何度か紹介しているように、 Web上でもIMSLP(国際楽譜ライブラリープロジェクト)にて、版権の切れた印刷譜や自筆譜がpdf化され公開されている。 マーラーの自筆譜に関しても、この文章を書いている時点で、第1交響曲のハンブルク稿(「花の章」を含む)、 第5交響曲のアダージエット、第4交響曲、第10交響曲について一般に利用可能となっている(第10交響曲については、 1924年に出版されたファクシミリ版のデジタル化も含まれている)。
ほんの少し前までは、そうした資料にアクセスすることができる研究者の文献を介した間接的な情報しか 知る手段がなく、良くてそうした文献に図版として収められた一部のみを確認するのがせいぜいであったことを 考えれば、こうした変化は画期的な事である。第2交響曲や第7交響曲、第5交響曲のアダージエットや第10交響曲の 一部、更には「大地の歌」のピアノ伴奏版はファクシミリが市販されたこともあるのだが、市井の愛好家が入手したり 参照したりする機会は限定的なものであり、私自身、手元にあるのは第7交響曲のみに過ぎない。今後はそれらも含めて、 これまで一般に公開されて来なかったものが電子化されて公開され、参照できるようになることを期待せずにはいられない。
さて、ここでの対象は「大地の歌」の管弦楽版なのであるが、結論から言うと、管弦楽版「大地の歌」の自筆譜については、 部分的に色々な書籍で見ることはできるものの、全体のファクシミリが一般に入手できる状態ではないようである。 公共性の高い場所に所蔵されているようなので、もしかしたら既に閲覧を請求したり、場合によっては手続きなしでWebで 閲覧できたりするかも知れないが、現時点での状況について調査する時間は取れていない。
以下、手元にあってすぐに確認でき典拠とすることができたた文献を掲げる。
- a, Stephen E. Hefling, "Mahler : Das Lied von der Erde", (Cambridge Univ. Press 2000)
- b, Henry-Louis de la Grange, "Gustav Mahler: Chronique d'une vie, III, Le génie foudroyé", (Fayard, 1984)
- c, Henry-Louis de la Grange, "Gustav Mahler: volume 4, A new life cut short (1907-1911)", (Oxford Univ. Press, 2008)
- d, Peter Revers u. Oliver Korte, "Gustav Mahler: Interpretation seiner Werke", Band 2, (Laaber, 2011)
①自筆管弦楽草稿
- 第1, 第2楽章は所在不明(一部のみ幾つかの書籍の図版等にて確認可能)。
- 第3楽章 Wien, Gesellshaft der Musikfreunde
- 第4楽章 New York, Pierpont Morgan Library, Robert Owen Lehman Deposit(アルマのコレクションから)
- 第5楽章 Wien, Stadt- und Landesbibliothek
- 第6楽章 Den Haag, Gemeentemuseum, Willem Mengelberg Stichting(aの記述による)
→ Den Haag, Koninklijke Bibliotheek, Netherlands Muziek Institut, Willem Mengelberg Archief(dの記述による)
②自筆フルスコア
Pierpont Morgan Library, Robert Owen Lehman Deposit(アルマのコレクションから)③コピイストによるフルスコアの写譜(マーラーの訂正書き込みを含む)
Stichvorlage. Kopist:Johann Forstik,Wien, Stadt- und Landesbibliothek(Universal Editionが寄託)
「大地の歌」の場合、従来知られてきた管弦楽版とは別に、マーラー自身がピアノ伴奏版を 作成していたことが知られるようになり、ファクシミリ版の出版、国際マーラー協会の全集補巻への収録、 更には既に幾つか存在する演奏の録音については良く知られていることだろうが、いわゆるピアノ伴奏版 というのは、上記の管弦楽版においては①自筆管弦楽草稿とほぼ同じ時期の自筆譜が残っている。 他方でマーラーがこの作品の初演を自ら指揮することなく没してしまったこと、従ってそれ以前の 作品には多少なりとも存在する、出版後の修正・改訂を経ていないこともまた良く知られているだろう。
「大地の歌」は昔から、それが交響曲であるかどうかといったジャンルの問題が取り沙汰されることが多いが、 そうした側面から見た場合、自筆譜は一体何を物語っているのだろうか。近年、国際マーラー協会が出した 「大地の歌」管弦楽版の新版は、上記ピアノ版の検討結果を管弦楽版に反映させるといった 方向性のものであったようだが、管弦楽版自体の生成プロセスについてはどうか?
「大地の歌」を管弦楽伴奏歌曲として見ると、最終的な管弦楽配置の規模は大き過ぎ、室内交響曲的な ものを着想することはなかったし、その後(といってもあと2曲しかないが)も概ね3管編成以上の規模の 管弦楽を交響曲において使ったマーラーの場合、管弦楽配置の規模というのは、それが「交響曲」と 見做されていることの裏づけになる事実であろう。そしてそれは出版譜からさかのぼって、少なくとも ②自筆フルスコアの段階で既に確認できることのようである。
演奏する現場にとっては大変な難物で、勿論、特に第1楽章のテノールをはじめとして、先ずは歌手にとって 苛酷な作品なのだろうが、聞くところによれば、当然のことながら指揮者にとっても「大地の歌」は 非常に厄介な存在であるらしい。前作の第8交響曲もまた、特にソロを歌う歌手と指揮者にとって は難物のようだが、それとは勿論、技術的な難しさの方向性は随分と異なるものなのであろう。
だが更に管弦楽版の生成過程について実証的な裏づけをとるべく調査を企てた場合、 上記の調査結果が現在も尚続いているとすれば、とりわけ①自筆管弦楽草稿の第1,2楽章が 所在不明なのが致命的な障碍となってしまうように思われる。
と言うのも、既に述べた通り、②自筆フルスコアは、例えばDonald Mitchellの"Gustav Mahler : Songs and Symphonies of Life and Death", (The Boydell Press, 2002)などで 確認できるわけだが、上掲の第1楽章冒頭をざっと確認する限り、初版譜との 異同は部分的なもののようだからだ。勿論違いがないわけではなく、例えば、フルートの Flatterzungeがまるまる存在せず、これは更に後の段階で追加されたものらしい。 一方、強弱法の方はトランペットのZungenstoßに付されたデクレシェンドが ないことが目立つくらいで、想定されている管弦楽の編成も変わらないように見える。
現在所在不明になっている①自筆管弦楽草稿についてもその第1頁だけは、 例えばKurt Blaukopfの"Gustav Mahler oder der Zeitgenosse des Zukunft"に 収められているのが有名であろうが、これを確認する限りでは、以下の点に 留意すべきように思われる。
- ホルンは4本(譜表上、2段とっているが1,2/3,4の使い分けは②自筆フルスコアの ように明確ではなく、冒頭は1段目に a 4 で4本の斉奏であることが示されている ように私には見える。こうした記譜の仕方は、作曲のこの段階では普通のことだと思われる。
- ②自筆フルスコアでは初めから登場しない、バスチューバやコントラファゴット用の 段が用意され、のみならず当初は音が書き込まれた上で抹消されていて、かつチューバは(第1楽章)全曲通して削除という書き込みが見られることから、この段階で管弦楽配置の重心を上げる作業が行われていることが窺える。(なおコントラファゴットは、第5、第6楽章、チューバは第4楽章では用いられているわけで、全曲通して完全に削除されることはなかった。)
以下、上記を踏まえ、何点か感じたことを備忘のために記しておきたい。
- 上記のアルマのエピソードのところには、マーラーがピアノで大地の歌を弾くという 表現が出てくるのだが、これは「ピアノ伴奏版」なのだろうか、という疑問が湧く。正直なところ、35年も前にこの回想録を最初に読んだ時以来、当然これは自筆のスコアを見て弾いているのだろうと思い込んでいて、ピアノ伴奏版の存在が知られるようになってからも、そちらの可能性は考えたことはなかった。
- こちらは完全な「たられば」の空想だが、マーラーが「大地の歌」を自分で初演したら、その後の管弦楽配置はどうなっただろう、という点。アルマは中期の交響曲とは異なって、後期作品ではマーラーはオーケストレーションについて迷いがなくなったといったことを述べているが、この点については、私はアルマの考えには与しない。現場の人間であったマーラーは、必ずや、実演に接して、うまく鳴らなかった部分をいじったに違いないと思う。
- それでは更に進んで、編成を縮小するようなところまで行く可能性はなかっただろうか?もっと大胆に「もし」を続ければ、マーラーが第1次世界大戦後も生き延びたら、ウェーベルンのOp.6におけるような2管編成への縮小とそれに伴う改訂作業のようなものをすることはなかったか。
- 尤も、シェーンベルクの室内交響曲をマーラーは生前に聴いていて、編成は大きくても、時間的経過の個個の場所での鳴らし方は室内楽的である、というような発想は、 既に、「大地の歌」「第9交響曲」そして不確定ながら「第10交響曲」の遺された姿にもはっきりと現れているのだから、編成自体の縮小ということをマーラーが試みたかどうかは何とも言えないように思う。
- ただし、クックは4管編成で第10交響曲の管弦楽配置をしたが、マーラーは第1楽章を3管編成で管弦楽配置しているし、「大地の歌」「第9交響曲」も基本は3管編成と言えるので、ショスタコーヴィチのように作品によって大きく編成を変える中で、室内管弦楽編成に近いものをマーラーが採用する可能性はあっただろうと思う。
- 上記のようなこともあり、私は個人的にはアルマの「交響曲への成長」というのは、 主として①自筆管弦楽草稿より手前でおきたことではないだろうかと、漠然と感じている。というより、以前より漠然とそう思い込んできた、それはアルマの回想録のクロノロジーを無意識に前提としている可能性はあるわけだが、その後1908年の①自筆管弦楽草稿の時点では、既に管弦楽版とピアノ版が並行して存在しているのは実証的に裏付けられていることだから、そうしたことも含めて、①自筆管弦楽草稿以前の段階では、あるいはKindertotenliederのようなものの延長として構想されていたのではなかろうか。
- しかしこれらは、もっと早い時期のスケッチ(第1楽章は一部残されているようだが)を参照して、他の交響曲と歌曲のそれを比較検討して、というプロセスを踏むことが必要となるのだろうから、「大地の歌」管弦楽版自筆譜に関しては、今のところ一般に公開されている資料はないようだが、いずれ状況が変わったら、調べてみたいと思う。
(2015.4.24)