2014年6月16日月曜日

ジャパン・グスタフ・マーラー・オーケストラ第11回定期演奏会を聴いて

ジャパン・グスタフ・マーラー・オーケストラ第11回定期演奏会
2014年6月15日 ミューザ川崎シンフォニーホール

マーラー 交響曲第10番(デリック・クックによる演奏用補筆版)

井上喜惟(指揮)
ジャパン・グスタフ・マーラー・オーケストラ


ジャパン・グスタフ・マーラー・オーケストラの第11回の定期演奏会を聴きにミューザ川崎を訪れる。 曲目は第10交響曲のデリック・クックによる演奏用補筆版。 第10交響曲はクックの補筆によって演奏可能になった5楽章の形態において その価値が闡明されるものであり、未完成であるにも関わらず、 マーラーの作品の中でも最高の力を備えた作品であるというように ずっと考え続けてきたが、初めて聴いてから30年以上の歳月を経て、 初めて接した実演がかくも素晴らしいものであったことを、非常に幸運なことであると感じ、 このような高水準の演奏を達成した音楽監督の井上喜惟さんと楽団の方々にまずは敬意を表したい。
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この曲の主調は嬰へ調で、管弦楽のどのパートにとっても演奏しづらく、鳴らしにくい調性だが、 当然それは意図された選択であって、作品にどこかこの世ならぬ不思議な陰影をもたらしているように 私には感じられる。音楽が響いている場所、音楽的主体のいる場所がどこであるのかを言い当てることが できないように思われるのだ。強いて言えば、ヘルダーリン晩年の詩断片"Wenn aus der Ferne, ..."が 語られている場所が思い浮かぶのだが、その詩断片の語りの場というのもまた異様で、 まるで世の成り行きから超絶した、異世界のほとりで、かつて自分がその只中を 彷徨った世の成り行きを遙かに望みながら語っているかのようだ。
その限りでシェーンベルクがプラハ講演で第10交響曲について述べた言葉、 「われわれがまだ知ってはならないような、われわれがまだそれを受けとめるところまでは 熟していないようななにごとかがわれわれに語られているかにみえる」(酒田健一訳) という言葉は、この作品が知られていない過去の証言であるとして用済みにすることが できない何かを含んでいると私は考えている。
それだけにこの作品について言葉で語るのは非常に難しいのだが、特に今回の演奏を聴いて はっきりと感じ取れたことは、この作品の調的設計を中心としたユニークな全体の構造の 未完成とは思えぬ緊密さ、豊かさと、クックがマーラーの晩年の様式の延長線上で慎重に配置した 色彩の絶えざる変化が、モザイク状に組み上げられ交代する複数の音楽の層の質に 見事に適ったものであるということであった。
第1楽章冒頭のヴィオラが奏する調性感が希薄な旋律をはじめとして、この作品を 無調への入り口として捉える見方が一般的だが、全5楽章からなる交響曲総体の構想から すれば、細部での調性の拡大、非因襲的な楽章間の調的関係にも関わらず、 全体としては調性関係によって多層的・複合的な構造を構築する意図は明確であり、 従来にはない試みが行われているとはいえ、それは紛れもなくマーラーの 交響曲の発展の過程の(未完成であることを重視すれば、ありえたかも知れない) 最先端に位置づけられるものなのである。
この演奏では第2楽章と第3楽章の間にチューニングが行われたが、これは第1楽章と 第2楽章を第1部、第3楽章からを 第2部とする作曲者の構想に沿ったものであるし、実際に第2楽章の末尾において 嬰へ長調に到達することが作品全体の巨視的構造にとって持つ意味を考えれば、 この構造把握の妥当性は明らかであろう。
マーラーが交響曲においてそれまでも 何度か採用した5楽章形式ではあるが、その内部構造は前例のない、非常にユニークなものである。 特に重要なのが第2楽章スケルツォの位置づけであり、ここではスケルツォは「中間楽章」ではなく、 第1楽章に対して同じ調性圏において応答し、そのコーダにおいて第1段目のフィナーレを形成する。 頻繁な転調や調性感の拡大、希薄化にも関わらず、(あるいはそれゆえに)調的な発展はここでは 拒絶されていて、何か現実から断絶した閉鎖された空間の如き領域を形作る。
それに対して第2部冒頭の第3楽章は変ロ短調という調性(これは夙に関連が指摘される 「子供の魔法の角笛」の「この世の生」が到達する調性でもある)によって「プルガトリオ」と いうトポスを、嬰へ調というヴァーチャルで閉じた領域である第1部のいわば裏側に定位して 再開するのである。反復を嫌ったマーラーとしては例外的なDa Capoを持つプルガトリオ楽章の構造は、 この楽章の時間性が(「この世の生」への関連にも関わらず)日常的な生のそれではないことを 告げているかのようである。
いわゆる「死の舞踏」であると一般にはみなされる第4楽章スケルツォでは、その冒頭において ホ短調という調性が選択されていることに留意しよう。轟々と鳴る主部の嵐に対する凪のような (移行部分も含めた)トリオ部分(それはC-A-H-Dと調的に発展していくに従い表情を変えていく)の 指揮者によるテンポの設定が適切であるがゆえに、徐々に音楽が現実の影の領域に 侵入していく経過が的確に示され、その先のコーダにあたるフィナーレへのブリッジ部分への 到達が構造的に準備されているように聴き手には感じられる。
2人のティンパニ奏者が活躍する第4楽章の「影のような」コーダが「完全に消音された大太鼓」 (この演奏では、舞台上ではなく、舞台奥上方の客席に離れて置かれて、あたかもホール全体が 鳴っているかのような効果を上げていた)の一撃で鳴り止み、フィナーレの閾に達したとき、 音楽は二短調の領域にいる。
そしてバスチューバと大太鼓によって進められる 主部に対して、フルートが弦の和音上で息の長い、どんどんと輝きを増していく旋律を奏でるとき、 何たることか、音楽はニ長調の領域にいるのである。(ニ長調がマーラーの音楽において どのような機能をしているかは、幾つかの他の交響曲の楽章を思い起こせば充分だろう。) だがそれは中間のアレグロ部でもフラッシュバックのように挿入される、この楽章の (アドルノのカテゴリにおける)「滞留(Suspension)」のブロックの 調性であり、嬰へ長調の下属調であるロ長調の「幻境」に到達することで、この作品に おける「解決」の方向性が示唆される。
このロ長調の箇所の響きを比喩なしで言い当てるのは私には不可能である。 それは壜の中に閉じ込められた世界のように、何か膜のようなものに隔てられて、 周囲では樹々が嵐に吹かれて枝を撓ませ、その枝を通り抜ける湿気を孕んだ風の音と 風に靡く葉のざわめきとで充たされて、奥行きの感覚が喪われた結果であるのか、 外部から遮断され、閉鎖された空間が生み出され、その中心の場所はひっそりと黙して、 無時間的な空虚を閉じ込めていて、まるで神話的で無時間的な過去の断層に 落ち込んでしまったかのようだ。それはいわば外側(嬰へ調)から見た、 未来から見た「かつて」「現実」であったもののフラッシュバックなのだ。
音楽的主体はその挟間に居て、 いずれにも属さず、いずれとも膜のようなもので隔てられているかのようであり、 記憶の静寂の中にそうした風景が音も無く閉じ込められていて、己自身の存在を その風景の中に予感するのは、まるで自分の生に先立つ遥かな過去の 記憶の中に自分が埋め込まれたかのようで、己がその風景の裡に居るのか外にいるのかすら 最早定かではない。激しい嵐にも関わらず、彼の周囲には静寂が支配していて、 恰も聴覚を介してではなく、戻ってきた陽光の明るみや、暖かみのような 別の感覚を介して音を予感するかのようだ。
その後のアレグロの中間部が第1楽章のカタストロフの再現を経て、冒頭主題の 回帰を惹き起こした後、変ロ長調からの移行を経て、315小節で到達する 嬰ヘ長調の不思議な色合いを帯びた輝きがこれだけ眩く感じられ、 和声の進行による光の変化のニュアンスが、これだけ心を掻き乱すもので あったのも実演ならではで、聴いていて涙を堪えることができなかった。
その涙はまずもって素晴らしい演奏に接したことによる感動によるものなのだが、 同時にそれは、この終結部が第1部の調性である嬰へ調への回帰であること、 つまりここに何か肯定的なものがあるにしても、それは最早通常の 意味合いにおける「現実」で生起するものではないということが 調的な構造と、嬰へ調という調性の持つ固有の音調によって告げられている ことを感じた故なのだろう。 マーラー自身、変ロ長調による終結の代案を考えていたことが 遺された草稿からは伺えるようだが、既に述べたように、 「幻境」の部分がロ長調であることなどから、クックが選択した嬰ヘ長調による 解決に分があるように私には思われる。そしてそれは、井上氏が作品の解説に 記している「12回の打撃音」の「カバラ的」解釈とも整合しているのではなかろうか。
否、このフィナーレの結末における 主体の場所を考えれば、この作品が「この世」では作曲者によって完成される ことなく、その作品の価値を認識した他者によって補筆されなくてはならなかった 事情すら、作品にとって自然な成り行きではなかったかとさえ思えてくる。 再三シェーンベルクのプラハ講演を参照することになるが、確かに第9交響曲は 「限界」であり、第9交響曲では隠れた作曲者のメガフォンであった作曲者は、 第10交響曲では自らが隠れてしまい、補筆を待っていたかのようにさえ 感じられるのである。
第10交響曲には、その創作に纏わる「神話」が永らく付き纏ってきたが、 こうした調的遍歴をそうした「神話」に結び付けて解釈することにさほど意味が あるとは思えない一方で、この日の演奏のような明確な巨視的なブランと 各調的領域の性格やテンポの交替の適切な設定が為された演奏に接すれば、 この作品の持つ調的な設計の力の凄まじさに圧倒されずにいることはできない。 楽曲解説の類に書かれていることを手がかりに音楽を追いかけることと、 楽曲の構造が演奏そのものを通して浮かび上がってくるのを受け止めるのは 全く異なる経験であって、私はこの演奏によってようやく作品の構造を 充分に把握できたように感じられた。
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個別の楽章の解釈はといえば、これまでの第7, 9, 4番の実演においても井上氏の スケルツォ楽章の解釈には瞠目させられて来たが、個性の異なるスケルツォを3つ 中間楽章として持つこの作品はまさにその解釈の卓越を認識する、またとない機会となった。
特に第2楽章のスケルツォの解釈の卓越は、録音も含めて、これまでに接したどの 演奏解釈を上回るものであり、初めて隅々まで説得される十全な解釈に接したように感じた。 と同時に、第2楽章の全体構造に占める位置づけについても、ここまで説得的な解釈は これまでに出遭ったことがないほどに決定的なものであったと思う。
譜表の調号指定にも関わらず、不安定ながら嬰へ短調で始まるこの楽章の目まぐるしく変化する 調的な遍歴は、頻繁に交替するその部分部分の音楽の表情と、 固有のテンポによってその構造を明らかにするのだが、この演奏の解釈はそうした 部分部分の固有な音調を巨視的な流れの犠牲にすることなく隈なく提示することによって、 その音楽の経過の複雑さの中に秘められた或る種の必然性の如きものを明らかにしたものであり、 その説得力は圧倒的なものがあった。
オーケストラもまた、明らかに第2楽章に入ってドライブがかかったように感じられた。 特に主部は頻繁に拍子の変わるテンションの高い音楽だが、その響きの充実とリズムの躍動感は素晴らしく、 その後はフィナーレまで緊張感も途切れず、実に手応えのある響きでの演奏が展開され、 それぞれのパッセージの表情の濃やかさもまた、これまで聴いたどの演奏にも優るもので、 息を呑む瞬間にも事欠かなかった。勿論全く瑕がないというわけではないにせよ、 そうした細部の不安定さや瑕が気にならない素晴らしいアンサンブルであった。
特に印象的だったのはこの曲において常に支配的な 弦のパートが良く歌われていることに加えて、頻出する各パートのソロの表情の豊かさである。 印象に残った箇所やパートは枚挙に暇がないが、何よりも全体として、かくも深い感情に 満たされた演奏によって、マーラーの全交響曲の中でも際立って深く人の心を抉る第10交響曲の 全曲を聴くことができたのは稀有の経験であり、それはマーラーを演奏するための集った オーケストラでなくては実現できないに違いないものであり、聴き手にとって圧倒的な経験で あったのは勿論だが、それだけでなく、演奏する方々の心の動きと聴き手の心の動きが 一体となるような感じがして、作品を自らリアライズした指揮者をはじめとする 奏者の方々にとっても必ずや素晴らしい経験であったに違いないと感じられた。
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この日の演奏のような素晴らしく説得力のある演奏によって第10交響曲の全貌に 接することができると、「われわれがまだ知ってはならないような、われわれがまだそれを 受けとめるところまでは熟していないようななにごとかがわれわれに語られているかにみえる」 というシェーンベルクの言葉は、この音楽の持っている前代未聞の時間性を 図らずも「預言」してしまっているかにさえ感じられる。
この音楽は、それまでのマーラーの音楽とも異なった、 別の空間、現実の世界に住むものにとってはヴァーチャルと呼ぶ他ない、けれども 紛れもなく、そこもまた或る仕方で人間が生きる空間、進化の偶然と文化的・社会的な 発展の偶然の結果、今あるような意識を備えた人間のみが生きることができる仮想的な 空間を開示している類例のない作品であるように思われるのである。そうしたことを 一瞬であれ実現して見せる音楽芸術の持つ力の凄まじさと、それを構想しえた マーラーの天才に対しては、どんな言葉も無力なものに感じられ、この点でも シェーンベルクの講演内容に同意せざるを得ないのである。
同様に、試みが為された当時は寧ろ批判したり、留保したりすることが 良識ある姿勢とする見方が優越であったかに見えるクックの補筆の作業の 価値も疑問の余地がないものであると思われるし、この演奏はそのことを 最高度の説得力を持って示したと感じられる。
かつての留保は当時のマーラー協会の 校訂の基本姿勢であった最終稿=決定稿主義に象徴される美学を背景とするものであり、 そうした姿勢自体、全く異論を挟む余地のない絶対的なものではないだろう。 管弦楽配置に関しては、何よりも現場の人であったマーラー自身が演奏会場の アコースティクスに応じた臨機応援な対応を是としていたのであるし、 より作品の構造寄りの側面についてのアドルノの、モノグラフの第2版への後書きに 含まれる、決定的にさえ響く留保のコメント、即ち草稿が「垂直的に」断片的であり、 「和声的なポリフォニー、すなわちコラールの枠内での声部の編み細工によって はじめて、楽曲の具体的な形、作曲されたものが示されたことだろう」 (龍村訳)という発言すら、彼がその論の根拠とするマーラーの後期様式の 遺されたものではなく、向かっていった方向を考えたとき、クックの試みを 否定しきることができるような絶対的なものではないと思われる。
アドルノは 「マーラー自身に由来するものを厳密に尊重するならば、一つの不完全なもの、 彼の意図に反するものを提示することになるし、といって対位法的に補完する ならば、その仕事はまさにマーラー自身の創造性の発揮されるべきその場所へと 踏み込んでしまう」(龍村訳)という二者択一を示して両方を拒絶し、もって補筆を 否定するのだが、カーペンターのような、明らかに「マーラー自身の創造性の 発揮されるべきその場所へと踏み込んでしま」った挙句、自分の補筆の方を 絶対視するような姿勢とは全く異なって、クックの作業はどちらかといえば 不完全なものであることを自ら認めた上で、実現される音響像のもしかしたら 少し先に、ありえたかも知れない作品像を浮かび上がらせるための試みであり、 しかもマーラー自身の創作プロセスとて、それがどこで停止し、どこで 再開され、時には改作にまで到るかはその都度その都度の偶然に支配されることも あっただろうことを思えば、「少し先」の距離は、アドルノが考えている 程大きなものではないのかも知れないということは無いのかとさえ思えるのである。
何よりも「第10交響曲の構想の並外れた射程距離を感じ取る人間こそは、 そこに手を入れたり演奏することを回避すべき」であり、「まだ実行に 移されていないイメージに対する巨匠のスケッチを理解してあたかも完成 したかのように色づけする人は、それを壁に架けるのではなく、ファイルに 入れて自分一人で眺めている方がいい」という発言は、少なくともマーラーの 音楽が、人間の手によって演奏会場で演奏され、物理的な音響として 実現されることを不可欠のものとしているという点を決定的に見誤っている のではなかろうか。
今日のマーラーの音楽のポピュラリティは放送や録音媒体による 普及による部分が大きいだろうが、聴く力を麻痺させかねないバブル期に見られた ツィクルスによる実演の氾濫も含めた受容の歴史を経た現時点での展望からすれば、 寧ろ、必要なら「音断ち」をさえした上で、充分な準備と解釈の徹底が施された 実現がなされるのを新鮮な耳で聴取する経験こそが、その音楽の持っている力を 十全に解き放つための必須の契機であるということになるように私には思われる。 そしてまた、そうした契機なくして、過去の異郷の音楽を 今ここで演奏する意義はないし、そうした意義のある試みこそがマーラーの 音楽を世代を超えて継承していくものであるに違いない。
クックの試みもまた、 完成した暁にはコンサートホールで オーケストラによって演奏されることになっていたことが明らかなこの作品、 しかしながら、まさにそのために書かれたにも関わらず、演奏はおろか、 作曲の途上で、楽譜の上においてさえ、 そうした形態を採る前に作者たるマーラーの手を離れてしまったこの作品を、 アドルノのような専門家の占有物にしてファイルもろとも忘却に委ねてしまう ことなく継承していくことを可能にする試みである。
カーツワイルのような技術特異点論者の唱える技術的特異点の向こう側から見たとき、 生物学的な基盤の持つ限界からの自由を獲得し、 時間的にも空間的にも、現在の人間の持っている制限から自由になったとき、 人間のアイデンティティの定義も当然だが、作品のアイデンティティの側も また変容してしまった後で、この作品を取り巻く様々な状況の意味はどのように変わり、 どのような形態で、どのような媒体での受容が行われることになるのだろうか。 最早人間の可聴域の制限すら超え、媒体の制約も超えて、クックの作業の更なる延長線上に、 寧ろその未完成が故のポテンシャリティによって、現在では思いもつかないような 受容のされ方がなされるかも知れない。 例えばスタニスワフ・レムの「虚数」の中に収められた「ビット文学の歴史」に出てくる、 コンピュータによるカフカの「城」の補作完成の試み(これは失敗することになっているが)や、 ドストエフスキーの長編小説のミッシング・リンクの「仮構」といった試みの、 「人力による」(!)先蹤として評価される時代がいずれ到来するのではなかろうか。
マーラーの第10交響曲が提示するものは、21世紀になっても未だ解決済みでもないし、 過去の遺産などでは決してなく、未だそれに接する人間の成熟を待ち続けているように さえ感じられる。そういう意味で、この演奏会における演奏は、なぜ今ここでこの音楽を 演奏するのかについての有無を言わせぬ必然性を感じさせるものであったように感じられた。 改めて音楽監督の井上喜惟氏とオーケストラのメンバーに対して感謝の気持ちを記して 感想を終えたい。 (2014.6.16初稿公開, 17,18加筆修正)