マーラー生誕150年の昨年に引き続き、没後100年のアニヴァーサリーである2011年は、だが1000年に一度とも見做される未曾有の震災と、 その後の原子力発電所の災害、それに伴う電力供給不足への懸念への対応に厚く覆われることになった。私自身、被災地に知人がいるし、 首都圏に居住するために自らも日常生活のレベルで震災と原発事故の後の影響を少なからず蒙っている。その一方では震災復旧に 携わった方々の作業に身近に接し、間接的ながらお手伝いをしたりしてきて、ともかくも目前の現実の問題に、将来に向けての対応に 明け暮れ、100年も前の異邦の音楽のことは、それに職業として、例えば指揮者やオーケストラ奏者として、あるいは音楽学者、音楽評論家として 向き合っているわけではない以上、どうしても背景に追いやられてしまう。結局のところ、マーラーの音楽が自分に占めるポジションというのが こうした事態になると顕わになるということなのかも知れない。「音楽」一般が、「芸術」一般と無縁になったわけではなく、香川靖嗣さんの能「朝長」を 拝見し、三輪眞弘さんの活動(震災前のシンポジウムへの遅ればせの反応から始まって、「中部電力芸術宣言」、 「舞楽 算命楽」に至るまで)に対する自分なりの「応答」をしたりして、でもそれらは紛れもなく目前の現実の問題、将来に向けての対応の 一部を為しているという手ごたえがあるのに対し、マーラーについてもこれまで3回、考えたことを文章にまとめているとはいえ、それに向き合うだけの エネルギーが自分に不足しているのが感じられる。
一つには、マーラーを取り巻く状況と、自分の近辺の風景との、同じ時間を生きているとは到底思えないようなギャップに辟易したということもある。 この4ヶ月弱の間の音楽に関連する人々の反応は様々であったが、私が直接聴く機会はなくても、近年日本においてマーラーを取り上げていた 指揮者が恐らくは原発事故による放射能汚染の影響によってか、公演をキャンセルしたり、あるいは音楽が娯楽だから自粛する、あるいは心を 癒すから自粛すべきでないといったレベルの議論が繰り広げられるのを目撃したりすれば、要するにマーラーは端的に商材、商品なのだということに 思い至らざるを得ない。自粛を免れて公開されたらしい、マーラーの生涯を扱った幾つ目かの映画にしても同じことのように思える。
そうした中、マーラーの没後100年の命日にあたる5月18日付けのあとがきを持つ新しいマーラーの「評伝」(これは書籍に付けられた帯による、いわば 「自己規定」である)が出版されたのに気付き、慌てて入手する。個人的にはフローロスのマーラーに関するモノグラフの第3巻のみを翻訳されたことで 印象に残っている前島良雄さんという「音楽評論家・翻訳家・予備校講師」(これも同じく「自己規定」である)の労作である。2年続きの アニヴァーサリーの日本におけるマーラー関連の書籍出版は、紙媒体の「書籍」の商品としての地位に顕著な変化が生じていることの影響もあるのだろうが、 いずれにせよ寒々しい状況で、雑誌やムックの類は除外すると、いわゆる新著としては田代櫂さんのモノグラフが丁度露払いをするように2009年に 出版されて以来であろうか。
前島さんのあとがきには、震災のことは一切触れられていない。勿論、そのこと自体は別段、批難も賞賛もされるべきことでは ないにせよ、この書籍を後の人が読んだとき、この書籍がどのような状況で出版されたかを知らずに読むこともありえるのだろうな、ということには思いを 致さざるを得ない。この平静さに衝撃を受けている自分に気付き、しばし呆然とする。実際、意外なところで呆然とすることは多い。被災地から 出てきた知人とともに日本初演となるラヴェルのバレエ「ダフニスとクロエ」を観ていたとき、舞台の上で海の水がこちらに寄せてくる演出を見たとき、 私は津波の映像(私はそのとき東京都心にいたから幸いにも映像でしかそれを知らない)を思い浮かべてしまい、思わず身が竦む思いをした。 私の受けた傷など取るに足らないものとはいえ、震災後の数日の経験は外傷的なかたちで自分の中に刻み込まれてしまっていることを認識せざるを 得なかったものだ。そしてその後の三輪眞弘さんの活動を目の当たりにし、それが自分のパースペクティブと強く共振しているのを感じていただけに、 前島さんを一読して、まるで別の国、別の時期に出版された書籍に出会ったような思いがした。
前島さんの「評伝」の問題意識は、これまた本の帯の「自己規定」によれば「作られた神話、あるいは俗説・通説を徹底的な資料の検討によって 覆す」点に存するらしい。そしてそれは確かに、例えば田代櫂さんのモノグラフと比較したときに、同じくマーラーの生涯の記述であるとはいえ、 取り上げている内容の違いに如実に現れている。私自身は前島さんの問題意識を全く共有していない。このことは前島さんの、やはり同じような 問題意識によって書かれたと思しき文章「マーラーについてあまり知られていないこと、いろいろ」を読んで感じたことを書いてときにも触れたので 繰り返さない。例えば評伝の「はじめに」で前島さんは「マーラーの時代が来た」という言い方が、ずっと為され続けてきた点を指摘しているが、 「なぜ」そうした事態が生じたかには関心が行くことはない。「マーラーについてあまり知られていないこと、いろいろ」は必ずしもそうではなかったが、 この文章で訝しく感じたのがまさに「なぜ」に纏わる部分であったことを思うにつけ、結局、神話・俗説・通説がなぜ成立するのか(これは「どのように」の 実証的な検証とは異なる水準の話である)という、恐らく今日マーラーを考える上で少なからず重要と思われる、あるいは前島さんが現在執筆されていることを 表明されている受容史の類の立脚点を決める上で決定的な(こちらには敢えて「思われる」はつけないことにする)点については等閑視されているらしいことがわかり、 一層、非現実感が増すのを感じずにはいられない。
例えば前島さんは自分が検証の対象とする「作られた神話、あるいは俗説・通説」が一体「どこで」、 「何時」、「誰によって」書かれたものであるかについては必ずしも実証的ではないようだが、これは一体どうしたことだろうか。何故、具体的な典拠を示さず、 「誰」が神話を作り、「誰」が俗説・通説を語ったかを示さないのか。ちなみにこれは、俗説・通説が依拠していると推測される(だが、誰が推測するのか、 中動相的な非人称文はどういう効果を狙っているのか)多少なりとも権威のあるとされる典拠を示すこととは勿論区別されなくてはならない。告発されている 「犯人」は一体誰なのか。こうした挙措は一見したところ「罪を憎んで人を憎まず」的なレトリックで正当化できそうだが、それをここに適用するのは端的に 論理上の過誤による飛躍に過ぎない。ここでは到底それをする時間もないし、私がそれをやる意義も感じないのでやらないが、それが「検証」なのであれば 「検証」内容のそれぞれについて、個別にその論理とレトリックを確認していく作業が必要だろう。
要するに何を目的に「作られた神話、あるいは俗説・通説を徹底的な資料の検討によって覆す」ことが 意図されているのかが私にはわからないのだ。神話の解体を自称する作業が自己目的化しているとするならば、、、否、止めておこう。ここは既に私の場所では ないようなので。ただ、それ自体が既視感に充ちた風景であること、それは別に「音楽」の世界だけで見られるのですらなく、同じ構造はあちらこちらに 蔓延していること、恐らくはそうした風景の方が分析の対象となる「べき」であろうことは書きとめておこう。実際、そうした分析はマーラーが生きた場所においても、 マーラーについてすら既に行われてきているわけだし、そうした分析の方が余程興味深い。今日の日本での展望であれば、まずは時間的・空間的な、 つまりは社会的・文化的な座標変換の作業をした上でなければマーラーを巡っての問題にアクセスできないのは明らかで、到底私のような通りがかりの、「専門家」 ならぬ「素人」、単なる市井の愛好家が能くするところではない。
そうしたわけで、私には前島さんの評伝の成否を判断する資格がそもそもないから、ここでは私個人にとって単に「有用」でありえたかも知れない幾つかの トピックを取り上げておくことにしたい。せいぜいが私個人にとって単に「有用」でありえたに過ぎないことなので、それを以って専門家の労作についての 評価を為すことは不可能だし、ここでの意図でもない。いつものことながらそうしたことは専門家にお任せする他ないし、そもそも私にはもう時間が残されて いないのだ。ここではそれがどんなものであれ他ならぬ「マーラー」に関することであることと、私と同じ立場の、音楽の専門化ならぬ市井の愛好家が条件反射的に どういう反応をするのかの症例を示すことには将来何某かの意義があるのではと考え、駆け足で以下に書き留めておくことにする。
前島さんの著作が私にとって興味深いのは、意図はともあれ、近年整理が進んでいる書簡集等の資料を用いた検討が為されている点で、特にそれが 作品の成立史のような点に関するものであれば、情報としての価値は大きい。何しろマーラーに関する資料は未だに紙媒体に頼らざるを得ず、 従ってデジタル・アーカイブ化が進展すれば不要な莫大な時間と手間をかけなければ必要な情報の入手も覚束無い状況にある。例えばかつての 哲学研究がそうであったような、専門家による知識へのアクセスの特権化や情報の囲い込みの構造が未だに存続している場なのである。
その中で最も興味深かったのは、私自身も関心のある初期交響曲(ここでは第1~第4交響曲のことをそのように呼ぶことにしよう)の「成立史」に 纏わる書簡等から得られる情報である。詳述は時間の都合で割愛するが、マーラーが書簡において、例えば後の第1交響曲のことをどの時点で 「交響曲」と呼んでいたかが実証的に確認できるわけで、そうした「検証」から導出された前島さんの結論は「第1交響曲は初めから交響曲であった」り するわけである。作品の演奏時に外向けに「交響詩」と呼ばれていたものが、それ以前の日付を持つ書簡においてマーラー自身によって「交響曲」と 呼ばれていたといったのは、書簡の日付の同定が妥当で(マーラーにはしばしば日付の記載がなく、日付の同定のない書簡が多いので、この点については 個別の書簡によって信頼性は異なるし、どこまでいっても推測でしかないケースもあることに留意しよう)、その結果、指示対象の同定が信頼できる ものであれば極めて興味深い情報である。
そういうわけで、今は時間が取れないにしても、いずれは手元の資料で確認できる範囲で確認した上で、私の認識に誤認があった部分はそれを 正す必要を感じていた。そしてそれ自体は現時点でも感じているのだが、こうして後日の作業の心覚えのために文章を書きながら改めて検討してみると、 幾つか懸念もなくはない。それらは決定的なものではなかろうと思うが、つまるところ「実証的」な「検証」の目的に行き着くために、さほど瑣末というわけでも なさそうである。ここではそうした懸念を気付いた限りで幾つか書き留めて、この文章を終わらせたい。否、後日の作業は恐らく発生しないだろう。 率直に言って、このような文章を書くことそのものが時間の浪費であるように感じられる。こんなところで、こんなことをするよりは、別の場所でやらなくては ならないこと、それぞれを一つ一つとってもしおおせるかどうかすら判らないような作業があるのだ、という感覚が強まるばかりだ。だから箇条書きに済ませてしまおう。
1.書簡を演奏に際してのアナウンスに優先させることについて。私的に「交響曲」と呼んでいたにせよ、そしてそれが仮に不本意な 外向けのポーズ、自己欺瞞であったにせよ、「交響詩」として発表され、演奏されたという事実が残ることの影響は測れないだろう。 どちらも他者に宛てられた言葉には違いなく、恐らくは私的/公的といった差異をそこに想定することができるだろうが、そのうち「書簡」を、 恐らくは私的な発話を尊重するのは、如何なる根拠において正当化されるのだろうか。否、まずもって、A.書簡が「本心」であるというのは どこまで「検証」可能なのだろう、という点について実証性の強度を「検証」することもできるだろう。だが取り急ぎ問題視すべきは、 B.作曲家の「本心」がここでの最終的な審級となるのは果たして自明なのだろうかという点だ。マーラーの同郷の同時代人であり、 直接会いもし、間接にもお互いを知り合っていたフロイトは局所論的な心のモデルを提示するが、そこには既に幾つかの審級が設けられている。 内心は最早単一なものではなく、それ自体の中に対立を、つまり外部と内部の対立を持っているという認識がそこでは提示されている。 別に構造主義的な同型性、平行性を主張するわけではないが、マーラーの音楽そのものもまた、そうした心のモデルに対応するような 際立って複雑で錯綜とした構造を備えているように私には思われる。そうした風景の中で「作者」の「本心」とは一体どういう位置づけを 持つのかは、それ自体検討を要する問題であり、恰も自明の前提であるかのように進むことはできないのではないのか。ここで繰り広げられる論理は 或るイデオロギーの圏内、マーラーの音楽自体がそれに異議申し立てをしているかも知れないようなイデオロギーの下でのみ無条件で 通用する論理に過ぎないのではないか。
2.すると直ちに「作品」についての判断にとって「作者」の「意図」がどこまで尊重されるべきかという問題に行き当たる。これまた既に論じつくされた 感のある論点であり、この100年で、多少なりとも「作品」は「作者」に対して自律した存在であるという視点からの検討が必要であること (或る種の作業仮説、操作上の仮定としてであれ)はほぼ自明のこととなったように思っていたのだが、ここでもまた、まるでマーラー以前の時代に 逆戻りしたかと錯覚するような風景が広がっているのに唖然とせざるを得ない。勿論、マーラーがある書簡でそれを「交響曲」と呼んだという事実は 尊重されるべきだろうが、「作品」の「成立」を論じるにあたり、「作者」の「意図」が最終審級となることを恰も自明であるかのように 見做すのは、それが敵視する「作られた神話、あるいは俗説・通説」の類と結局は同じ土俵の上にいることになるのではないかという気が してならない。要するに、今、ここで、書簡の検証によって得られたと見做される(だが、それも既述のように必ずしも自明ではない)「事実」を もって、一体何をしたいのかが私にはちっとも見えてこないのだ。仮にそれがマーラーの、自作についての認識を証言しているということを 認めたとして、それが作品にとってどう関係し、影響するのかこそがマーラーにおける大きな問題であり、だからこそ「唯名論的」なアプローチでの 分析が行われてきたのではなかったのか。
3.「作品」が成立するのは「何時」なのか、という問題。「はじめから」とは何時からなのか、例えばだが、「交響曲として構想されたが、 出来上がったのは交響詩だった、初演の反応から交響曲と見做すようになった」といったような(断っておくが、上記はあくまでも架空の例であり、 具体的なマーラーの交響曲を事例として持つかどうかには関心を持たない)「変遷」はないのか。「変遷」を認めたとして、それでは 「はじめ」はどこにあるのか。自分も作曲家であったアルマの物語をこともなげに虚構と切り捨てて、書簡資料の「実証」の下に語られるそれは 「創作」にまつわるイデオロギーに汚染された、それも一つの「物語」ではないのか。私はここで何も「アウシュビッツは存在しなかった」や 「湾岸戦争は存在しなかった」式の歴史修正主義もどきの詭弁を弄そうとしているのではない。単純に、書簡の文章を作者の内面と同一視し、 さらにそれを優位におく論理と同様、これもまた結局のところ「作品」の「創作」についての、また「作品」の「成立」に纏わる或るイデオロギーの 圏内でのみ無条件で通用する論理に過ぎないのではないか。実証は尊重されるべきだが、その上で、何を目がけて実証するかが今や 問題ではないのか。
4.またしても「標題音楽」の問題。それを「交響詩」と呼ぶか「交響曲」と呼ぶかは事実の問題であるから、実証可能であろうが、だからといって 「標題」に対する姿勢が変容していったということの否定にそれが単純に直結するというのは自明なのだろうか。勿論、どう呼んだかの事実は 残るが、その上で「交響曲」についてのマーラーの姿勢に変化はなかったのか。またもし個別の事実に限定せず、マーラーの創作のプロセスを もう少しマクロにとられたならば、第2交響曲第1楽章が一時期「交響詩葬礼」であったこと、あるいは第3交響曲の第1楽章ですら、 ナターリエ・バウアー=レヒナーの証言によれば「交響詩パン」と呼ばれたことがあったことはどのように位置づけられるのか。 更にはマーラーが加えた改訂のプロセスが「絶対音楽」としての「交響曲」に向かっていくという方向性において一貫しているといった発言 (一例を挙げればミヒャエル・ギーレンの場合)は棄却されねばならないのか。はじめから「交響曲」だった「から」、改訂は「交響曲」に向けての ものではあり得ないというのは、論理的には全く正しいのだろうが、それは何のための主張であり、事実確認なのか。
結局のところ一見すると申し分のない文「第1交響曲は初めから交響曲であった」が、過度の単純化により(それが誤解を介してかどうかは問わず、 勿論、勝手に誤解されてしまう場合も含めて)新たな神話になる危険はないのだろうか。何故、その検証自体がそうであるのと同様に慎重に、 例えば「マーラーは第1交響曲のことを初めから私的な書簡では交響曲と呼んでいた」という事実確認文としてより確実な文章にしないのか。 「初めから」は上述の「成立」の認定についての曖昧さを残すから、日付を入れてしまえば更に「検証」の意図には適しているということはないのか。 そこに誤解と短絡と論理の飛躍を忍び込ませる余地をあえて作り出すのは何故なのかが、結局のところ私には理解できないのだ。
以上で要約を終え、大急ぎで終りに向かおう。総じて「音楽評論家」としての、どのような「専門家」的視点からのマーラー作品の研究の歴史の把握を前提とし、 どのような「専門家」的な方法論に基づく検討や分析の結果がこうなのかと考えるに、私のような「素人」には最早理解を絶していて、手をあげざるをえない。 思わず疲労感に囚われて「ここはいつでどこなのだ」と問い返したくなりもする。まるで100年の時間と空間の、社会的・文化的 隔たりと、その間に生じた様々な「出来事」、それによる展望の変容、認識の変化などまるでなかったかの如くのこの光景は、だがしかし、この地の マーラーの受容の場では見慣れた光景ではなかったのかという気もする。同じ時と場所にいながら、同じものを対象としているにも関わらず、恰も 全く別のものを見ているかのような、まるで声が届かないような感覚。お前はそれを繰り返し繰り返し書き留めてきたのを忘れたのか、と自分に問いかけ、 これが今日、ここでの「マーラーの受容」なのだという事実に絶句せざるを得ない。 しかも3月11日を過ぎ越した後でのそれは、何ともはや、ユートピアのような、亡霊的な風景であることか。
更にスピードを上げて結びに移ろう。
結果として「専門家」の「宣言」を前に、私は「子供のように」戸惑う。「作られた神話、あるいは俗説・通説に惑わされるな。これは「専門家」の 領分だ。お前は入ることはできない」という門番=「専門家」の声が恰も響いているかのようだ。しかもその「専門家」の断言は、 それ自体が窺い知れない理由によって単純化され、かえって子供=「素人」にとっては戸惑いを起こさせるものになっているようにしか見えない。
そしてふと私は、これと良く似た構造が、現在のこの国の別の領域でも起きているような気がする。そしてその別の領域が、それ自体複数であることに思い当たる。 その一つはやはり芸術に関する領域で起きていて、それに接したときに、その時も、こうして書いている今現在も深刻で解消していない幾つかの問題、 例えば一つだけ例を挙げれば放射線量の測定値とリスクの判定の問題に類似しているなと感じたことを思い出す。もう一つの外傷的な経験のように。
後者の問題からは(例え私が今いる場所であれば、影響が限定的であるとはいえ)簡単に逃げることはできないし、(影響が限定的であるがゆえに、 そうする必要も今のところないと「素人」なりに判断しているのだが)物理的に影響を軽減することができたにせよ、その問題から逃げることは できないと感じているのだが、「芸術」の「専門家」のムラ、「音楽」の「専門家」ムラでの類比的な出来事については、ムラの掟を知らない 「部外者」「異邦人」「子供」たる「素人」は、その場を立ち去るしかないように感じる。またしても、もう一つの外傷的な経験のように、今また。
けれども全ての「音楽」が「子供」たる「素人」の私に向かって門を閉ざしているのではない。「子供にでもわかることに気付かなくてはならない」と 発言し、私に呼びかけ、私が応答できる、応答しなくてはならないと感じる呼びかけが、今、私に既に届いている。それはこことは別の岸から 投げ込まれ、こことは別の場所で拾い上げた私が名宛人である手紙のごときものである。だから私はここではもう沈黙しよう。掟に従って。 「ここは私の場所ではない」のだから。
だが、しかし。
「ここは私の場所ではない」と語る声が時代と場所の隔たりを経て、私に届いているのではなかったのか。その声はもう聴こえないのか。それゆえに 痕跡を残す事無く、私はこの場を離れなくてはならないのか。
否、それもまた「だれがこの国に私を連れてきたんだ」(それ自体が何かの引用かも知れないのだから、二重の括弧で括るべきだろうか)と語り、 「ここは私の場所ではない」からここを去る「異邦人」、「私は何処へ行こう?私は山へ行こう。」 「私は故郷へ、私の居場所に行こう。」「けれども遠くへは行くまい。」と歌う声は、今なお「隣人」の声のように私に届かないだろうか。
否、否。それは幽霊のように微かではあるけれど、まだ届いている。それ故、私は痕跡を残したまま、未完成のものはそのままに、ここを去って沈黙しよう。
このように。
(2011.7.3公開)