2011年7月3日日曜日

「私は故郷に、私の居場所に向かう」("Ich wandle nach der Heimat, meiner Stätte")

マーラー生誕150年の昨年に引き続き、没後100年のアニヴァーサリーである2011年は、だが1000年に一度とも見做される未曾有の震災と、 その後の原子力発電所の災害、それに伴う電力供給不足への懸念への対応に厚く覆われることになった。私自身、被災地に知人がいるし、 首都圏に居住するために自らも日常生活のレベルで震災と原発事故の後の影響を少なからず蒙っている。その一方では震災復旧に 携わった方々の作業に身近に接し、間接的ながらお手伝いをしたりしてきて、ともかくも目前の現実の問題に、将来に向けての対応に 明け暮れ、100年も前の異邦の音楽のことは、それに職業として、例えば指揮者やオーケストラ奏者として、あるいは音楽学者、音楽評論家として 向き合っているわけではない以上、どうしても背景に追いやられてしまう。結局のところ、マーラーの音楽が自分に占めるポジションというのが こうした事態になると顕わになるということなのかも知れない。「音楽」一般が、「芸術」一般と無縁になったわけではなく、香川靖嗣さんの能「朝長」を 拝見し、三輪眞弘さんの活動(震災前のシンポジウムへの遅ればせの反応から始まって、「中部電力芸術宣言」、 「舞楽 算命楽」に至るまで)に対する自分なりの「応答」をしたりして、でもそれらは紛れもなく目前の現実の問題、将来に向けての対応の 一部を為しているという手ごたえがあるのに対し、マーラーについてもこれまで3回、考えたことを文章にまとめているとはいえ、それに向き合うだけの エネルギーが自分に不足しているのが感じられる。

一つには、マーラーを取り巻く状況と、自分の近辺の風景との、同じ時間を生きているとは到底思えないようなギャップに辟易したということもある。 この4ヶ月弱の間の音楽に関連する人々の反応は様々であったが、私が直接聴く機会はなくても、近年日本においてマーラーを取り上げていた 指揮者が恐らくは原発事故による放射能汚染の影響によってか、公演をキャンセルしたり、あるいは音楽が娯楽だから自粛する、あるいは心を 癒すから自粛すべきでないといったレベルの議論が繰り広げられるのを目撃したりすれば、要するにマーラーは端的に商材、商品なのだということに 思い至らざるを得ない。自粛を免れて公開されたらしい、マーラーの生涯を扱った幾つ目かの映画にしても同じことのように思える。

そうした中、マーラーの没後100年の命日にあたる5月18日付けのあとがきを持つ新しいマーラーの「評伝」(これは書籍に付けられた帯による、いわば 「自己規定」である)が出版されたのに気付き、慌てて入手する。個人的にはフローロスのマーラーに関するモノグラフの第3巻のみを翻訳されたことで 印象に残っている前島良雄さんという「音楽評論家・翻訳家・予備校講師」(これも同じく「自己規定」である)の労作である。2年続きの アニヴァーサリーの日本におけるマーラー関連の書籍出版は、紙媒体の「書籍」の商品としての地位に顕著な変化が生じていることの影響もあるのだろうが、 いずれにせよ寒々しい状況で、雑誌やムックの類は除外すると、いわゆる新著としては田代櫂さんのモノグラフが丁度露払いをするように2009年に 出版されて以来であろうか。

前島さんのあとがきには、震災のことは一切触れられていない。勿論、そのこと自体は別段、批難も賞賛もされるべきことでは ないにせよ、この書籍を後の人が読んだとき、この書籍がどのような状況で出版されたかを知らずに読むこともありえるのだろうな、ということには思いを 致さざるを得ない。この平静さに衝撃を受けている自分に気付き、しばし呆然とする。実際、意外なところで呆然とすることは多い。被災地から 出てきた知人とともに日本初演となるラヴェルのバレエ「ダフニスとクロエ」を観ていたとき、舞台の上で海の水がこちらに寄せてくる演出を見たとき、 私は津波の映像(私はそのとき東京都心にいたから幸いにも映像でしかそれを知らない)を思い浮かべてしまい、思わず身が竦む思いをした。 私の受けた傷など取るに足らないものとはいえ、震災後の数日の経験は外傷的なかたちで自分の中に刻み込まれてしまっていることを認識せざるを 得なかったものだ。そしてその後の三輪眞弘さんの活動を目の当たりにし、それが自分のパースペクティブと強く共振しているのを感じていただけに、 前島さんを一読して、まるで別の国、別の時期に出版された書籍に出会ったような思いがした。

前島さんの「評伝」の問題意識は、これまた本の帯の「自己規定」によれば「作られた神話、あるいは俗説・通説を徹底的な資料の検討によって 覆す」点に存するらしい。そしてそれは確かに、例えば田代櫂さんのモノグラフと比較したときに、同じくマーラーの生涯の記述であるとはいえ、 取り上げている内容の違いに如実に現れている。私自身は前島さんの問題意識を全く共有していない。このことは前島さんの、やはり同じような 問題意識によって書かれたと思しき文章「マーラーについてあまり知られていないこと、いろいろ」を読んで感じたことを書いてときにも触れたので 繰り返さない。例えば評伝の「はじめに」で前島さんは「マーラーの時代が来た」という言い方が、ずっと為され続けてきた点を指摘しているが、 「なぜ」そうした事態が生じたかには関心が行くことはない。「マーラーについてあまり知られていないこと、いろいろ」は必ずしもそうではなかったが、 この文章で訝しく感じたのがまさに「なぜ」に纏わる部分であったことを思うにつけ、結局、神話・俗説・通説がなぜ成立するのか(これは「どのように」の 実証的な検証とは異なる水準の話である)という、恐らく今日マーラーを考える上で少なからず重要と思われる、あるいは前島さんが現在執筆されていることを 表明されている受容史の類の立脚点を決める上で決定的な(こちらには敢えて「思われる」はつけないことにする)点については等閑視されているらしいことがわかり、 一層、非現実感が増すのを感じずにはいられない。

例えば前島さんは自分が検証の対象とする「作られた神話、あるいは俗説・通説」が一体「どこで」、 「何時」、「誰によって」書かれたものであるかについては必ずしも実証的ではないようだが、これは一体どうしたことだろうか。何故、具体的な典拠を示さず、 「誰」が神話を作り、「誰」が俗説・通説を語ったかを示さないのか。ちなみにこれは、俗説・通説が依拠していると推測される(だが、誰が推測するのか、 中動相的な非人称文はどういう効果を狙っているのか)多少なりとも権威のあるとされる典拠を示すこととは勿論区別されなくてはならない。告発されている 「犯人」は一体誰なのか。こうした挙措は一見したところ「罪を憎んで人を憎まず」的なレトリックで正当化できそうだが、それをここに適用するのは端的に 論理上の過誤による飛躍に過ぎない。ここでは到底それをする時間もないし、私がそれをやる意義も感じないのでやらないが、それが「検証」なのであれば 「検証」内容のそれぞれについて、個別にその論理とレトリックを確認していく作業が必要だろう。

要するに何を目的に「作られた神話、あるいは俗説・通説を徹底的な資料の検討によって覆す」ことが 意図されているのかが私にはわからないのだ。神話の解体を自称する作業が自己目的化しているとするならば、、、否、止めておこう。ここは既に私の場所では ないようなので。ただ、それ自体が既視感に充ちた風景であること、それは別に「音楽」の世界だけで見られるのですらなく、同じ構造はあちらこちらに 蔓延していること、恐らくはそうした風景の方が分析の対象となる「べき」であろうことは書きとめておこう。実際、そうした分析はマーラーが生きた場所においても、 マーラーについてすら既に行われてきているわけだし、そうした分析の方が余程興味深い。今日の日本での展望であれば、まずは時間的・空間的な、 つまりは社会的・文化的な座標変換の作業をした上でなければマーラーを巡っての問題にアクセスできないのは明らかで、到底私のような通りがかりの、「専門家」 ならぬ「素人」、単なる市井の愛好家が能くするところではない。

そうしたわけで、私には前島さんの評伝の成否を判断する資格がそもそもないから、ここでは私個人にとって単に「有用」でありえたかも知れない幾つかの トピックを取り上げておくことにしたい。せいぜいが私個人にとって単に「有用」でありえたに過ぎないことなので、それを以って専門家の労作についての 評価を為すことは不可能だし、ここでの意図でもない。いつものことながらそうしたことは専門家にお任せする他ないし、そもそも私にはもう時間が残されて いないのだ。ここではそれがどんなものであれ他ならぬ「マーラー」に関することであることと、私と同じ立場の、音楽の専門化ならぬ市井の愛好家が条件反射的に どういう反応をするのかの症例を示すことには将来何某かの意義があるのではと考え、駆け足で以下に書き留めておくことにする。

前島さんの著作が私にとって興味深いのは、意図はともあれ、近年整理が進んでいる書簡集等の資料を用いた検討が為されている点で、特にそれが 作品の成立史のような点に関するものであれば、情報としての価値は大きい。何しろマーラーに関する資料は未だに紙媒体に頼らざるを得ず、 従ってデジタル・アーカイブ化が進展すれば不要な莫大な時間と手間をかけなければ必要な情報の入手も覚束無い状況にある。例えばかつての 哲学研究がそうであったような、専門家による知識へのアクセスの特権化や情報の囲い込みの構造が未だに存続している場なのである。

その中で最も興味深かったのは、私自身も関心のある初期交響曲(ここでは第1~第4交響曲のことをそのように呼ぶことにしよう)の「成立史」に 纏わる書簡等から得られる情報である。詳述は時間の都合で割愛するが、マーラーが書簡において、例えば後の第1交響曲のことをどの時点で 「交響曲」と呼んでいたかが実証的に確認できるわけで、そうした「検証」から導出された前島さんの結論は「第1交響曲は初めから交響曲であった」り するわけである。作品の演奏時に外向けに「交響詩」と呼ばれていたものが、それ以前の日付を持つ書簡においてマーラー自身によって「交響曲」と 呼ばれていたといったのは、書簡の日付の同定が妥当で(マーラーにはしばしば日付の記載がなく、日付の同定のない書簡が多いので、この点については 個別の書簡によって信頼性は異なるし、どこまでいっても推測でしかないケースもあることに留意しよう)、その結果、指示対象の同定が信頼できる ものであれば極めて興味深い情報である。

そういうわけで、今は時間が取れないにしても、いずれは手元の資料で確認できる範囲で確認した上で、私の認識に誤認があった部分はそれを 正す必要を感じていた。そしてそれ自体は現時点でも感じているのだが、こうして後日の作業の心覚えのために文章を書きながら改めて検討してみると、 幾つか懸念もなくはない。それらは決定的なものではなかろうと思うが、つまるところ「実証的」な「検証」の目的に行き着くために、さほど瑣末というわけでも なさそうである。ここではそうした懸念を気付いた限りで幾つか書き留めて、この文章を終わらせたい。否、後日の作業は恐らく発生しないだろう。 率直に言って、このような文章を書くことそのものが時間の浪費であるように感じられる。こんなところで、こんなことをするよりは、別の場所でやらなくては ならないこと、それぞれを一つ一つとってもしおおせるかどうかすら判らないような作業があるのだ、という感覚が強まるばかりだ。だから箇条書きに済ませてしまおう。

1.書簡を演奏に際してのアナウンスに優先させることについて。私的に「交響曲」と呼んでいたにせよ、そしてそれが仮に不本意な 外向けのポーズ、自己欺瞞であったにせよ、「交響詩」として発表され、演奏されたという事実が残ることの影響は測れないだろう。 どちらも他者に宛てられた言葉には違いなく、恐らくは私的/公的といった差異をそこに想定することができるだろうが、そのうち「書簡」を、 恐らくは私的な発話を尊重するのは、如何なる根拠において正当化されるのだろうか。否、まずもって、A.書簡が「本心」であるというのは どこまで「検証」可能なのだろう、という点について実証性の強度を「検証」することもできるだろう。だが取り急ぎ問題視すべきは、 B.作曲家の「本心」がここでの最終的な審級となるのは果たして自明なのだろうかという点だ。マーラーの同郷の同時代人であり、 直接会いもし、間接にもお互いを知り合っていたフロイトは局所論的な心のモデルを提示するが、そこには既に幾つかの審級が設けられている。 内心は最早単一なものではなく、それ自体の中に対立を、つまり外部と内部の対立を持っているという認識がそこでは提示されている。 別に構造主義的な同型性、平行性を主張するわけではないが、マーラーの音楽そのものもまた、そうした心のモデルに対応するような 際立って複雑で錯綜とした構造を備えているように私には思われる。そうした風景の中で「作者」の「本心」とは一体どういう位置づけを 持つのかは、それ自体検討を要する問題であり、恰も自明の前提であるかのように進むことはできないのではないのか。ここで繰り広げられる論理は 或るイデオロギーの圏内、マーラーの音楽自体がそれに異議申し立てをしているかも知れないようなイデオロギーの下でのみ無条件で 通用する論理に過ぎないのではないか。

2.すると直ちに「作品」についての判断にとって「作者」の「意図」がどこまで尊重されるべきかという問題に行き当たる。これまた既に論じつくされた 感のある論点であり、この100年で、多少なりとも「作品」は「作者」に対して自律した存在であるという視点からの検討が必要であること (或る種の作業仮説、操作上の仮定としてであれ)はほぼ自明のこととなったように思っていたのだが、ここでもまた、まるでマーラー以前の時代に 逆戻りしたかと錯覚するような風景が広がっているのに唖然とせざるを得ない。勿論、マーラーがある書簡でそれを「交響曲」と呼んだという事実は 尊重されるべきだろうが、「作品」の「成立」を論じるにあたり、「作者」の「意図」が最終審級となることを恰も自明であるかのように 見做すのは、それが敵視する「作られた神話、あるいは俗説・通説」の類と結局は同じ土俵の上にいることになるのではないかという気が してならない。要するに、今、ここで、書簡の検証によって得られたと見做される(だが、それも既述のように必ずしも自明ではない)「事実」を もって、一体何をしたいのかが私にはちっとも見えてこないのだ。仮にそれがマーラーの、自作についての認識を証言しているということを 認めたとして、それが作品にとってどう関係し、影響するのかこそがマーラーにおける大きな問題であり、だからこそ「唯名論的」なアプローチでの 分析が行われてきたのではなかったのか。

3.「作品」が成立するのは「何時」なのか、という問題。「はじめから」とは何時からなのか、例えばだが、「交響曲として構想されたが、 出来上がったのは交響詩だった、初演の反応から交響曲と見做すようになった」といったような(断っておくが、上記はあくまでも架空の例であり、 具体的なマーラーの交響曲を事例として持つかどうかには関心を持たない)「変遷」はないのか。「変遷」を認めたとして、それでは 「はじめ」はどこにあるのか。自分も作曲家であったアルマの物語をこともなげに虚構と切り捨てて、書簡資料の「実証」の下に語られるそれは 「創作」にまつわるイデオロギーに汚染された、それも一つの「物語」ではないのか。私はここで何も「アウシュビッツは存在しなかった」や 「湾岸戦争は存在しなかった」式の歴史修正主義もどきの詭弁を弄そうとしているのではない。単純に、書簡の文章を作者の内面と同一視し、 さらにそれを優位におく論理と同様、これもまた結局のところ「作品」の「創作」についての、また「作品」の「成立」に纏わる或るイデオロギーの 圏内でのみ無条件で通用する論理に過ぎないのではないか。実証は尊重されるべきだが、その上で、何を目がけて実証するかが今や 問題ではないのか。

4.またしても「標題音楽」の問題。それを「交響詩」と呼ぶか「交響曲」と呼ぶかは事実の問題であるから、実証可能であろうが、だからといって 「標題」に対する姿勢が変容していったということの否定にそれが単純に直結するというのは自明なのだろうか。勿論、どう呼んだかの事実は 残るが、その上で「交響曲」についてのマーラーの姿勢に変化はなかったのか。またもし個別の事実に限定せず、マーラーの創作のプロセスを もう少しマクロにとられたならば、第2交響曲第1楽章が一時期「交響詩葬礼」であったこと、あるいは第3交響曲の第1楽章ですら、 ナターリエ・バウアー=レヒナーの証言によれば「交響詩パン」と呼ばれたことがあったことはどのように位置づけられるのか。 更にはマーラーが加えた改訂のプロセスが「絶対音楽」としての「交響曲」に向かっていくという方向性において一貫しているといった発言 (一例を挙げればミヒャエル・ギーレンの場合)は棄却されねばならないのか。はじめから「交響曲」だった「から」、改訂は「交響曲」に向けての ものではあり得ないというのは、論理的には全く正しいのだろうが、それは何のための主張であり、事実確認なのか。

結局のところ一見すると申し分のない文「第1交響曲は初めから交響曲であった」が、過度の単純化により(それが誤解を介してかどうかは問わず、 勿論、勝手に誤解されてしまう場合も含めて)新たな神話になる危険はないのだろうか。何故、その検証自体がそうであるのと同様に慎重に、 例えば「マーラーは第1交響曲のことを初めから私的な書簡では交響曲と呼んでいた」という事実確認文としてより確実な文章にしないのか。 「初めから」は上述の「成立」の認定についての曖昧さを残すから、日付を入れてしまえば更に「検証」の意図には適しているということはないのか。 そこに誤解と短絡と論理の飛躍を忍び込ませる余地をあえて作り出すのは何故なのかが、結局のところ私には理解できないのだ。

以上で要約を終え、大急ぎで終りに向かおう。総じて「音楽評論家」としての、どのような「専門家」的視点からのマーラー作品の研究の歴史の把握を前提とし、 どのような「専門家」的な方法論に基づく検討や分析の結果がこうなのかと考えるに、私のような「素人」には最早理解を絶していて、手をあげざるをえない。 思わず疲労感に囚われて「ここはいつでどこなのだ」と問い返したくなりもする。まるで100年の時間と空間の、社会的・文化的 隔たりと、その間に生じた様々な「出来事」、それによる展望の変容、認識の変化などまるでなかったかの如くのこの光景は、だがしかし、この地の マーラーの受容の場では見慣れた光景ではなかったのかという気もする。同じ時と場所にいながら、同じものを対象としているにも関わらず、恰も 全く別のものを見ているかのような、まるで声が届かないような感覚。お前はそれを繰り返し繰り返し書き留めてきたのを忘れたのか、と自分に問いかけ、 これが今日、ここでの「マーラーの受容」なのだという事実に絶句せざるを得ない。 しかも3月11日を過ぎ越した後でのそれは、何ともはや、ユートピアのような、亡霊的な風景であることか。

更にスピードを上げて結びに移ろう。

結果として「専門家」の「宣言」を前に、私は「子供のように」戸惑う。「作られた神話、あるいは俗説・通説に惑わされるな。これは「専門家」の 領分だ。お前は入ることはできない」という門番=「専門家」の声が恰も響いているかのようだ。しかもその「専門家」の断言は、 それ自体が窺い知れない理由によって単純化され、かえって子供=「素人」にとっては戸惑いを起こさせるものになっているようにしか見えない。

そしてふと私は、これと良く似た構造が、現在のこの国の別の領域でも起きているような気がする。そしてその別の領域が、それ自体複数であることに思い当たる。 その一つはやはり芸術に関する領域で起きていて、それに接したときに、その時も、こうして書いている今現在も深刻で解消していない幾つかの問題、 例えば一つだけ例を挙げれば放射線量の測定値とリスクの判定の問題に類似しているなと感じたことを思い出す。もう一つの外傷的な経験のように。

後者の問題からは(例え私が今いる場所であれば、影響が限定的であるとはいえ)簡単に逃げることはできないし、(影響が限定的であるがゆえに、 そうする必要も今のところないと「素人」なりに判断しているのだが)物理的に影響を軽減することができたにせよ、その問題から逃げることは できないと感じているのだが、「芸術」の「専門家」のムラ、「音楽」の「専門家」ムラでの類比的な出来事については、ムラの掟を知らない 「部外者」「異邦人」「子供」たる「素人」は、その場を立ち去るしかないように感じる。またしても、もう一つの外傷的な経験のように、今また。

けれども全ての「音楽」が「子供」たる「素人」の私に向かって門を閉ざしているのではない。「子供にでもわかることに気付かなくてはならない」と 発言し、私に呼びかけ、私が応答できる、応答しなくてはならないと感じる呼びかけが、今、私に既に届いている。それはこことは別の岸から 投げ込まれ、こことは別の場所で拾い上げた私が名宛人である手紙のごときものである。だから私はここではもう沈黙しよう。掟に従って。 「ここは私の場所ではない」のだから。

だが、しかし。

「ここは私の場所ではない」と語る声が時代と場所の隔たりを経て、私に届いているのではなかったのか。その声はもう聴こえないのか。それゆえに 痕跡を残す事無く、私はこの場を離れなくてはならないのか。

否、それもまた「だれがこの国に私を連れてきたんだ」(それ自体が何かの引用かも知れないのだから、二重の括弧で括るべきだろうか)と語り、 「ここは私の場所ではない」からここを去る「異邦人」、「私は何処へ行こう?私は山へ行こう。」 「私は故郷へ、私の居場所に行こう。」「けれども遠くへは行くまい。」と歌う声は、今なお「隣人」の声のように私に届かないだろうか。

否、否。それは幽霊のように微かではあるけれど、まだ届いている。それ故、私は痕跡を残したまま、未完成のものはそのままに、ここを去って沈黙しよう。

このように。

(2011.7.3公開)

2011年6月11日土曜日

マーラーの「音楽」

マーラーの「音楽」。一見したところそれは自明のものに見える。だが、最初の曖昧さは「の」に存するだろう。「の」の曖昧さは それ自体が更に分岐し、それらのそれぞれについて答えるためには膨大な時間を要するであろう。それでいてそれらはそれぞれ独立の ものというわけではなく、もう一度マーラーと名づけられた或る種の「場」の如きものにおいて相互に作用しあっている。例えばそうした 分岐の一つはマーラー「にとっての」音楽と、マーラー「による」音楽の対立であるだろう。さらに例えば後者の意味でのマーラー「の」音楽は だがこれも一義的なものではなく、寧ろマーラーが生きていた時代にあっては、まずもっては指揮者マーラーが指揮した音楽の 「解釈」のことであったかも知れない。マーラーが生きた時代の制約でそれを没後100年の今、直接に(だが、直接性の定義は?)知る術は 無いとしても。これはこれで単独で扱っても際限なく問題は広がっていくだろうが、ここでは直接それを扱うことはせず、 マーラー「の音楽」のもう一方との関係においてのみ間接的に後でもう一度立ち戻ることにしよう。

そのもう一方とは、こちらこそが今日一般にそう思われているマーラー「の音楽」、作曲家マーラーの書いた音楽の「作品」の方なのだが、 これまた、一体それが「どこ」にあるのかという問いに答えるのはそんなに簡単ではない。既に完成されていた記譜法のシステムと 印刷術によって複製可能となった楽譜がマーラーの音楽なのか。それとも誰かがどこかでその楽譜を用いて演奏した時の音響こそが マーラーの音楽なのか。いずれをとっても更に問いは続くだろう。楽譜には校訂の問題が付き纏うし、音響の方は、まず演奏について まわる解釈の問題があり、更にその音響に接する媒体の問題がある。コンサートホールもそうした媒体の1つだし、レコード、CD、 ラジオ放送、テレビ放送と変遷し、更にMP3ファイルのダウンロード、Webでの演奏会のライブ・ストリーミングに至るまで、様々な 媒体の差異は「音楽」と無関係ではありえない。それに加えてマーラー自身が指揮者であり、解釈して演奏する立場であったことが、 「作品」にどう関係しているのかという問いをもう一度重ねてみることもできるだろう。複製技術との関連で行けば、ベンヤミンが映画の 製作の方法の演劇との違いに注目したのと並行して、録音媒体に記録されることを前提としたスタジオ等でのセッション録音のプロセスや いわゆる「ライブ録音」と呼ばれるものにも実際には介在する録音に対する様々な編集や加工といった操作に注目すべきだろう。

他方、マーラーが生きた時代が近代的な音楽史の確立の時期にあたり、過去の音楽に対する歴史的な展望を持ちつつ、 その一方で同時代の先行する潮流としてのブラームス派とワグナー派の対立、逆に同時代の後続する潮流としてのシェーンベルクの音楽、 あるいはドビュッシーの、アイブズの音楽の中でマーラーの音楽が作曲されたという当時の時代背景に規定される「音楽」についての了解が マーラーの「音楽」を規定している側面も留意する必要があるだろう。(だが勿論、直ちにこう問うことができる。その了解とは誰にとっての それなのか。再び偶然最初の分岐であったもの、マーラー「にとって」の音楽とマーラー「による」音楽のいずれがここで問題になっているのかを 改めて問うことができるだろう。)

かくの如くマーラーの「音楽」はマーラーが生きた時代の音楽を規定する様々な制度の制約を受けたものだが、100年の時と 文化の違いを隔てて存続しているに違いない或る種の制度的な連続性が今日におけるマーラーの「音楽」を可能にしていることは 確認しておいても良かろう。コンサートホールや歌劇場での演奏と享受の形態は勿論多少の変化はあるけれど、基本的には今日と 大きく変わるわけではない。それまではドラスティックな変遷を積み重ねてきた楽器、楽器の集合体であるオーケストラという演奏形態も同様に 今日なお廃れることなく、大きな変化もなく今日用いられている。

それと同時に喪われてしまった文脈の厚みを軽視すべきではなかろう。マーラーの音楽の周囲で鳴り響いていた他の「音楽」、音楽以外の音響は 今日のそれとは異なるし、既に述べた媒体の変化も一緒に考える必要があるだろう。更にそうした条件が作曲の現場を逆に条件づけ、 制約することにも留意すべきだろう。オーケストラ作品の作り方もマーラーの時代と電子的な音響の操作の経験が浸透した今日では 同じであろう筈が無い。オーケストラやコンサートホールそのものは大きく変わっていないとはいうものの、その社会的な機能や地位は 大きく変化し、今やオーケストラという媒体がもはや補助金なしで維持ができない「文化財」となってしまっていること、いみじくも「クラシック音楽」 という呼称が物語るとおり、媒体も作品ももはや過去のものであり、意識的な維持・継承が必要なものである点も決定的な差異だろう。 「芸術音楽」と「軽音楽」の対立そのものは既にマーラーの時代にもあったとは言いながら、その内実は大きく変化し、特に伝統を有さない 日本においてマーラーの音楽の「芸術音楽」からの逸脱を身体化された経験として受け止めることは困難であることは、例えばシュニトケの 多様式主義と対比してみれば否応なく認識されるに違いない。「民謡風」であることくらいはわかり、通俗性について漠とした感覚を 持つことはできても、その陳腐さの度合いを同時代の西欧人が感じたように意識することはできない相談である。

次にやって来るのが、マーラーとは誰かという問いだ。享受の経験において、まず初めに音楽があったとするならば、マーラーを規定するのは、 実は音楽の側、マーラーの署名のある音楽の総体がマーラーを規定しているという側面があるだろう。とりわけマーラーの音楽においては人と 音楽との関係が問題になることが他の作曲家、他の作品に比べて多く、それゆえにマーラーの生涯や気質についての伝記的知識が 作品の解釈に流れ込むかと思えば、逆に音楽の側から人間像が形成され、時として事実を凌駕しかねないといった事態が生じる。 こうした事態がとりわけマーラーにおいて顕著であるとするならば、要するに「の」が含意する内実はその都度、固有名毎に定まるもの なのだという見方さえ成り立つかも知れない。マーラー固有の事情ということであれば、既述の演奏家にして作曲家という点が既にそうで、 とりわけマーラーが歌劇場の指揮者であり、またコンサートの指揮者でもあったことが作品に与えた影響については、明らかに中傷や 誹謗のニュアンスを帯びたカペルマイスタームジークであるという生前からついてまわった規定から、しばしば作品の「意味」の解釈の 根拠として用いられる様々な他の作曲家の作品の「引用」の問題に至るまで、演奏者、なかんずく指揮者であることが作曲に 与えた影響について論じられるかと思えば、社会学的・経済学的な側面から、注文によらない道楽としての作曲、シーズンオフである 夏の余暇の作曲家といった側面が取り沙汰されることにもなる。そうした「作品」の外部がマーラーの署名を持つ作品を条件づけているのは 確かなことだろう。あたかもそれを問うことが自明であるかの如き、かの「標題」についての際限のない問い、ただマーラーという名の、 マーラーの署名のある作品の周囲をうろつきまわることのみしか念頭にないかのような徘徊は、「作品」について語ると見せかけながら、 その実、作品を取り囲む文脈についての詮索に過ぎず、「音楽」の側が呼び出す文脈には無頓着に、自分こそが、そして自分のみが 「正当な」作品理解のための条件を具備した特権的な立場を僭称し、その地位を恰も「作品」そのものが認めたかの如く偽っているに過ぎない。 署名された作品は、まさに署名されることによって、投壜通信にも似て、寧ろそうした特権的な文脈なしに漂流することになった筈なのに。

ところで、複製技術によってコンサートホール以外の場所で聴くことが可能となったマーラーの音楽は、「絵画」における複製のようなものなのだろうか。 自宅のパソコンにダウンロードされたマーラーの音楽のMP3音源は、自宅の壁に貼ってある絵画の複製のようなものなのだろうか。 ラジオやテレビで中継され、あるいは記録されて後、放送される演奏会での演奏は、(アドルノがシュピーゲルのインタビューに対して答えて 言ったように)「おこぼれ」に過ぎないのだろうか。だが、もともと放送目的で演奏された場合には、一体それは何の「おこぼれ」なのだろう。 いつの日か、「ピリオド・アプローチ」として、かつて存在した「コンサートホール」を復元し、もともとそうした場所で演奏されることを想定して 書かれた音楽を「復元」する作業が行われるようになるような時代が到来するだろうか。 一方で、印刷されて比較的容易に手に入るようになったマーラーの作品の「楽譜」は、これまた所詮はマーラー自身の書いた手稿の「おこぼれ」なのか? ワープロが手書きを駆逐しないまでも、一定の割合で手書きに変わったように、ノーテーションソフトの発達で楽譜を手書きすることなく作品を書きとめ、 それをそのままインターネット経由でダウンロードできるよう公開した場合、頒布された楽譜を含むファイルは一体何の「おこぼれ」なのだろう。 署名は複製されるが、もともとのオリジナルは本当に単一性を保持しているのだろうか。複数の草稿があり、仮にどれがどれのコピーかが判明したとしても、 ではどちらが「真」の作品なのか。マーラーの場合に固有な一例を挙げれば、第6交響曲の中間楽章の順序の問題のように、事実問題の水準での 蓋然性を限りなく高めていきつつ、だが、「作品」としては事実が指示するマーラーの「意図」なるものに反した選択をなおも許容するような事態が、 あるいは唯一の決定稿を、マーラーその人が(もしかしたらある一連の予定されていたプロセスの途中で、外的な要因によって中断された可能性 だってありえるのだが、そうした事情は無視するか、あるいは最小限の配慮に限定し)この世を去ったときに遺した形態に求める発想が、 もしかしたら便宜的で実用的な事情に基づく「現実的な妥協」であったかも知れない改変の価値を履き違えたかに見える「嘆きの歌」のマーラー 協会の批判版全集における稿選択のような事態が物語るように、「真正な」唯一の作品に辿り着くことが意味を喪うケースがあること、既に 起源自体が仮構である可能性が常に存在することに留意すべきだろう。

価値論的な判断はおくとして、記譜法のシステムといい、音楽を保存する媒体のフォーマットといい、それらを用いたときそれら自体のもつ 媒体としての制限が記録する対象を歪めてしまう。だが、記譜する「手前」にマーラーの「作品」を想定するのは事後性に基づく仮構ではないのか。 マーラーは作曲家であると同時に演奏家でもあったし、それゆえ自作品の解釈者でもあった。だが時代の制約もあってマーラー自身の演奏解釈の 記録は残っていない。コンサートホールでの演奏は繰り返し行われているが、ホールの音響的な条件がマーラーの「音楽」に相応しいものであるか、 オーケストラの演奏や指揮者の解釈がマーラーの「音楽」に相応しいものであるかは別の問題であるし、理念としての理想的なマーラー演奏のための アコースティクス、規範となる解釈を想定するのは、これもまた事後性に基づく仮構であろう。演奏の現場を知り尽くしていたマーラーは、自作の 「楽譜」すら絶対視せず、その都度の音響的な条件に応じた改変を認めていた。演奏が録音されるときに技術的な制約で情報が欠落してしまうことに 対する異議申し立てと、あるホールがマーラーの作品の演奏に適さないという理由で演奏をキャンセルすることの間に本質的で飛び越えられない ギャップがあるのだろうか。勿論、程度の差はあるし、その程度の差によってあるものは許容され、あるものは拒絶されるのだが、それは結局のところ 程度の差と見做して差し支えないのではなかろうか。

ここで再び「作曲家」マーラーの「改訂」の問題の展望の下で見るならば、マーラーが自分自身をも含めた「現場の判断」に基づく改変を許容したのは、 一部のパラメータに過ぎないことにも留意は必要だろう。既述のような絶えざる改訂のプロセスは楽譜が流通した後でさえ行われており、 「改訂」とその場限りの「現場の工夫」とを見分けることも微妙なケースがあるだろうが、それでも「演奏家マーラー」と「作曲者」マーラーの区別は 多くの場合可能だろうし、初期作品の複雑な創作のプロセスの経験の後、中後期の作品においては第6交響曲の中間楽章の順序の問題を 除けば作品の構造に纏わる変更はほとんど為されなかったと言って良く、不変とは言わないまでも、比較的安定した次元があり、それが 「作品」を実質的に規定しているのを軽視することは許されない。

マーラーを巡ってはコラージュ的な作曲法、多様式主義に繋がるような 通俗的素材の利用、晩年の無調的な響き、調律されていない特殊な打楽器の多用による騒音的な音響の導入などといった側面が 強調されることが多く、勿論そうした「傾向」はマーラーにおいて少なくとも萌芽的なレベルでは確実に存在したのだろうが、そうはいっても マーラーにおいては、既成の技法として取り上げられたのでなく、唯名論的に作品の内実の要請に従っていわば生み出されたのだと いいうることに注意しよう。それらが作曲された文脈ではマーラーの作品は「音楽からの逸脱」と見做されるような効果を備えていたことも 軽視すべきではないし、マーラーの音楽の唯名論的な、その都度形作られる形式にしてからが、ややもすれば単なる無形式と見做され 批判された事情も銘記すべきだろうが、そういう意味では変わったのは周囲の文脈の方で、マーラーの「音楽」は署名され、アーカイブに 保存されることによって、タイムカプセルに入れられたもののように変化せずに私の手元に届いているのだ。しばしば過去においては 新規な効果を持ったものが、今日では陳腐化して新鮮な効果を最早持ちえなくなっているといった言われ方をするが、ことマーラーの場合に 限れば、さしあたり今のところは、後から振り返ってみれば、相変わらずかつての同じ批判と同じ擁護が繰り返されているように 回顧されるのかも知れない。今日マーラーが生きていたら、作曲した作品が今遺されているものと同じものであったとは到底考えられないが、 その一方で、時空の隔たりを超えて残ったものを、あたかも骨董品のように陳列して眺めるがごとき受容の仕方は、最早受容とも継承とも 呼べまいし、マーラーの作品を通路にして過去の文脈の方に降りていき、時代の隔たりなどまるでないかのようにそうした文脈の中に 自分が入っていくような受容の姿勢も、マーラーの「音楽」を(勿論、そうした姿勢をとる人とってはそれこそ真正な聴取姿勢と 考えているに違いない)ある予断の中に閉じ込めるばかりで、それが時空の隔たりを超える力の在り処を明らかにすることはない。

いつの日か、マーラーの「音楽」が最早コンサートホールで、人間が楽器を演奏することによって 演奏されるのではなく、楽譜から直接、(自動的とは言わないまでも)音響的に合成されて再現されるようになったとしたら、それはもうマーラーの 「音楽」ではないのだろうか。それを聴くのは(シュトックハウゼンが想像したような)宇宙人ではなく、ロボットでもなく、人間なのだとしたら。 もしかしたら、その時の聴き手は、今日の聴き手と同じ「人間」では最早ないと言うべきなのだろうか。今、あなたはマーラーの「作品」の 「楽譜」を開き、楽譜を目で追いながらあなたの頭の中で音響を仮構するとする。最早空気の振動という意味での音響は存在しない。 その時あなたの頭の中を流れるのは、それでもなお、マーラーの「音楽」なのだろうか。熱心なあなたはじきに楽譜を覚えてしまい、 楽譜なしで頭の中に音楽を思い浮かべられるとしたら、その時には?楽譜は昇ったら捨ててしまえる梯子であると言い切ってしまって いいのだろうか。

「楽譜」以前にマーラーの音楽が「あった」のではないだろう。楽譜という記録のための補助具は、マーラーの交響曲のような長大で 複雑な作品の「創造」そのものにとって不可欠なもの、単なる外部記憶の媒体ではなく、作品の成立の条件をなし、プロセスを 構成する要素であるに違いない。とりわけパートタイムの夏の余暇の作曲家であったマーラーの場合、スケッチ帳からパルティチェルに、 それからスコアにという転記・編集の作業そのものが創作にとって極めて本質的なものであったに違いない。それはまた他者への伝達のために、 別の世代への継承のためにも必要だろう。それと同様に「演奏」なしでの伝達・継承もまた、ないだろう。仮にそれがアコースティックな楽器演奏に よる現実の空気の振動による音響の記録ではなくても、完全に電子的に合成されたものであったとしても、あるいは脳の中の音響像に 過ぎなくても、そうした合成や像の形成の前提をなすものとして、いわば「原」‐オーケストラの如きものの「演奏」があるのだ。

つまり、記譜され署名されてアーカイブ化される音楽は亡霊的であり、事後的に「再現」されるしかない。「再現」とはいうものの、 最初の1回は実は存在しない。作品が媒体に定着される過程、それは少なくともマーラーの場合は作品創造の過程に他ならないのだが、 イデアルな存在としての「音楽そのもの」、天才の頭の中に閃いた霊感の産物を抹消することにより、遅れて作品として生成する。自らが演奏家で あり、演奏を重ねながら改訂を加えていったマーラーの場合には、最初の演奏すら創作の過程を終結させる特権的な時点ではありえない。 だがいずれにしても、媒体への定着、それによる複写の可能性、再現可能性によって「作品」は成立する。楽譜は作品の不完全で部分的な備忘、 解読し、解釈することによる再構が求められている不完全な代補に過ぎないが、ことマーラーの音楽作品はそのようにしか存在しえないのだ。

純粋な、如何なるメディアをも想定しない透明なマーラーの「音楽」、いわばイデアの如きものとしてのマーラーの「音楽」は、それ自体が 事後性に基づく仮構なのだ。少なくともマーラーの「音楽」に限れば、それは予め、例えばマーラーの時代に存在した(そして100年後の 現時点でも存在している)楽器群に依拠している。サンプリングされた音響の合成の前提をしないという極端な仮定の下ですら、 それらの楽器の音響上の特性についての知識なしには、現実のオーケストラを不要とする音響の合成の前提が成り立たない。 楽譜に書かれている奏法指示の記号についても同じことが言えるだろう。更に、これまたマーラーの場合を特徴づける楽譜における自然言語での 様々な指示は人間の奏者、しかも特定の音楽文化の伝統に属する人間を想定して書かれていて、そうした背景なしにそれらを 音響上の効果に変換することはできない。更に一見したところ量的な変換が可能であるかに見える強弱法やアゴーギグなどの指示も、 実際には同様に特定の音楽文化の伝統に属する人間でなければ量的なものへ適切に変換することはできないのだ。 あなたは実演で聴いた、あるいはCD等の録音媒体で聴いた様々な演奏における楽器間のバランスやダイナミクス、テンポの設定等に 違和感を感じていて、自分の理想の演奏を別に頭の中で持っているかも知れない。だが、そのイメージを、何の媒介も無く楽譜に含まれる 記号や文字のみから構成したと考えるのは誤りであり、それらはマーラーが属する音楽伝統に対する様々な知識と様々な媒体による 聴取の経験(必ずしもマーラーの「音楽」のみのそれに限定されない)の上で初めて可能になっていると考えるべきなのだ。

転記や複写や記録は(作曲者たるマーラー自身による書き誤り・写し誤りも含めて)常に不完全なものだが、 一方で(ここでは人間の脳も含めて)マテリアルな媒体を介さない「音楽」はなく、ファイルのフォーマット変換のように、 SPレコードをCDに変換するように、ある記譜法を別の表記の体系に変換するように、変換をしつつでなければ「音楽」の受容も継承もない。 マーラーの「音楽」は、「本物」がどこか特定の媒体に結びついて存在するのでも、イデアルな存在として如何なる媒体とも独立に 存在するのでもない。(2011.6.11~14)

2011年5月29日日曜日

マーラーの音楽の「サウンドスケープ」

マーラーの音楽から聴こえてくる風景には当然のことながら、マーラー自身の生きた風景が映りこんでいるといって良いだろう。 勿論、聴き手が受け止めるものは聴き手の側の生きている風景の影響を受けて変容する。マーラー自身の生きた時代に関する知識が 無くてもそれなりに、その音楽から聴き取り、聴き手が構成する風景というのはあるだろう。マーラーの音楽自体が聴き手の生きている風景の 一部であるという視点は無視できないだろうし、そのようにして別の時空を生きた他者の風景を自分の風景に取り込むことが、聴き手の 風景を、同じことだが風景の感受の様態を変容させることは確実であろう。一方で、聴き手がもともと備えている風景の感受のあり方が音楽の嗜好に 影響し、マーラーのように風景の感受に対して肯定的であったり否定的であったりというのもあるだろう。また、こうした作用は何もマーラーにのみ 固有の事態ではなく、他の音楽作品についても起きることかも知れないし、或る種の音楽ではそうした事は起きないかも知れない。 だが、最後の点についてはいつもの通り、それによって音楽を定義することや音楽の類型を括りだすことには関心はなく、 個別のこの音楽(ここではマーラーのそれ)の個別性を突き止めることにあるので、ここでは専らマーラーの場合に絞ることにしよう。

マーラーの音楽から聴こえてくる風景といった時、そこで問題になっているのは、マーラーの音楽で用いられている「素材」としての音響だけではなく、 マーラーがそれをどのように音楽として組織化したかという形式化のあり方そのものである。実際にはこの両者は相関していて単純に分離することは できない。しばしば言及される「自然の音のように」というマーラーの指示も、それによってマーラーが「自然」の風景を音画的に描き出しているという のは(ヘーゲル的な意味合いで)抽象的な把握であって、その手前にはマーラーの「自然観」が横たわっているだろうし、それと表裏を為すように マーラーの「音楽」のありようが炙り出されてくる様相を捉えるべきなのだ。マーラーの場合には文化史的な視点での優れた研究というのが存在しており、 マーラーの「自然観」がどのような文化的背景を持つのかを重層的に把握する試みも行われている。だが「自然の音のように」と楽譜に書き込んだとき、 そのようにして形作られる「音楽」と「自然」との関係もまた問われなくてはならない。それをわざわざ混乱しきった「標題」の問題に還元するのは、 あまり粗雑な抽象、却ってマーラーの場合の特殊性を取りこぼし兼ねない誤った一般化ではなかろうか。それに比べれば、シェーファーの 「サウンドスケープ」を手がかりに、ベルンハルト・アッペルの「マーラーの交響曲における大都市型の知覚パターン―社会学的研究―」を紹介しつつ、 マーラーの音楽に、彼の生きた時代にまさに進んでいた「都市化」の力が映りこんでいることを示した渡辺裕さんの「文化史のなかのマーラー」の 第8章「都市の音の知覚」は遥かに多くのことをマーラーの場合について示唆しているように私には思われる。

とはいうものの、実を言えば、マーラーの音楽を「都市の喧騒」を映し出しているという主張そのものには単純に首肯し難いものを感じるし、 アッペルの挙げている「大都市型」の音の知覚に基づくとされる音楽書法「偶発的ポリフォニー」「異種並列様式」「主題の断裂」「モチーフの モンタージュ」の四つについても、個別の特徴が傾向としてマーラーの音楽に見られることについては同意できても、それを「大都市型」の音の知覚に 基づける点については違和感無しとはしない。残念ながらきちんとした議論をするだけの余裕がないので、ここでは後日の議論のための備忘として、 私の感じる違和感をごく素朴に書き留めておくことにしたい。

1.マリー・シェーファーの「世界の調律」の中の「記憶のホルン」について。ここではまさに「自然の音のように」という指示のあるあの第1交響曲第1楽章 の序奏のホルンが扱われているようだ。シェーファーによればそれは風景の変質を映し出しており、都市化の進展により喪われた田園風景を ノスタルジックに振り返るものだという。マーラーの時代に都市化が進展したのは間違ってはいないだろうし、各地を転々としつつ歌劇場でのキャリアを 積み重ねていったマーラーの居宅はほとんどの場合都市部にあったのは事実だ。「自然の音のように」という指示の裏側に、「自然」ではないものの 存在を意識するが故に、あえて恰も改めて模倣されるべきものとしてそのように書き込まなければならなかったという消息を関知するのも間違いでは なかろう。だが、ここで「自然」と対立するのは実のところ何なのか?第一義的にはそれは「音楽」という「人工物」と考えるべきではなかろうか。 些事に拘泥するならば、「記憶のホルン」の記憶は誰の記憶なのか。マーラーの幼年時代のそれなのか。あるいは「子供の魔法の角笛」歌曲集に おけるような幽霊的にしか存在したことのない偽りの過去なのか。それとも(夏の作曲家マーラーが作曲小屋で創作に励むのは少し先の話だが) 休暇に訪れる郊外の風景の記憶なのか。昨日、あるいは数時間前に訪れた郊外の風景の記憶としての「音楽」ということはないのか。 ハイドンとマーラーの間に、シューマンを、あるいはマーラーと時代と場所を共有した、だが、明らかに前の世代に属するブラームスを置いて、 そこでの「狩のホルン」の位置づけを問うた時、「記憶のホルン」はマーラー固有のものなのか。マーラー固有のものであるという強い主張が為されている 訳ではないことを認めたとして、ではそのことを殊更マーラーの場合に結びつけるのは、どのような事情によるのか。

2.ベルンハルト・アッペルの「大都市型」の音の知覚に基づく音楽書法をマーラーの音楽の特徴とすること自体に大きな異論はない。だが、 実際にはそれもまた程度の問題で、マーラーの音楽はそれらの特徴を、過去の音楽に比べて、あるいは同時代の他の音楽に比べて豊富に 備えているのは確かだとしても、或いはまた、非常に的確に渡辺さんがマーラーの音楽に対する同時代のカリカチュアによって例証しているように、 同時代の人々にとって顰蹙の種となる程にまでその特徴が際立っていたとしても、その後の音楽におけるほどそれらの書法は徹底されているわけ ではなく、寧ろ、マーラーの音楽の特異性は、そうした書法を伝統的な音楽の枠と対決させた点にあったのではないのか。渡辺さんもまた、第8章の結びの 部分で、ウィーンという都市そのものが「都市化」のベクトルと、それに抗する「伝統の力」の拮抗の場であり、マーラーはその「二つの力の狭間に あって激しく引き裂かれた」と書いているが、マーラーが「伝統の力」に敗れてウィーンを去ったというのを、この状況に重ね合わせるのには違和感を 感じずにはいられない。仮に歌劇場監督としてのマーラーが「伝統の力」に敗れてウィーンを去ったというのが事実だとしても(この点については私は 判断を留保する。判断するだけの材料の持ち合わせもないし、実のところそれ自体には興味もないので)、作曲家マーラーは本当に敗れたのだろうか。 そのように捉えることは、マーラーの音楽を一方的に「都市化」のベクトルの側のみに与するものとして捉えることになり、マーラーの音楽そのものが その拮抗の場であったという視点を損なってしまうことにはならないだろうか。

ここで例として、マーラーとやはり時代と場所を共有するが、マーラーとは 異なった文化的伝統にあり、かつ世代的にも後の世代であるチャールズ・アイブズの場合を思い浮かべてみよう。そしてまた、アイブズの場合と マーラーの場合とを比較して、「現実音」の使用に対する共通性のみならず両者の差異にも目配せしたドナルド・ミッチェルの「角笛交響曲の時代」の 記述を思い浮かべてみよう。この場においてはアッペルの取り上げる書法はそれ自体としては寧ろ、アイブズの方によりぴったりと当て嵌まる。 そして更にシェーファーに戻れば、「記憶のホルン」もまた寧ろアイブズにこそ相応しいようだし、「自然の音のように」などアイブズは書かなかっただろうが、 それはハイドンがそう書かなかったのと同じ理由によるのではなく、マーラーを挟んで両者がそれぞれの反対側にいるからなのだということ、「伝統の力」を それまた一つの(まさにアドルノ的な意味での)「素材」としたマーラーの音楽の立ち位置(それは境界を侵犯しつつ確定しているかのようだ)が 「自然の音のように」という指示に照応するのだということを、ここでは論証抜きで主張しておくに留める。

3.渡辺さんが「都市の喧騒」をきらって大自然の中の作曲小屋にこもったはずのマーラーのもっている別の一面をかいま見させてくれる例として 挙げている2つのエピソードについて。一つはアルマの回想の「新世界 1907~08年」の章に出てくる、マーラーがニューヨークのマジェスティックホテルに 滞在しているときのバレル・オルガンにまつわるエピソードであり、もう一つはバウアー=レヒナーの回想の「1900年夏」の章の「ポリフォニー」と題された 有名なエピソードであるが、これらを渡辺さんはウィーンのプラーター公園の遊園地における音知覚に結びつけ、第4交響曲が「街角の音楽」として 批難されたという同時代の反応に繋げていく。これらはアッペルの主張の紹介の所謂露払いのような位置づけの部分であり、シェーファーの 「記憶のホルン」から始まって、総じてマーラーの音楽を「都市の音の知覚」に基づくものとする主張を形作っている。だが、あえて些事に拘泥するならば、 バレル=オルガンのエピソードは摩天楼の聳える近代都市の中に突然侵入してきた「過去」の「記憶」が問題になっているのであって、それは寧ろシェーファーの 「記憶のホルン」に照応するもので、「自然」の側にあると考えるべきなのではないか。バレルオルガンのようなメディアが「自然」の側にあるというのは、 それ自体何某かの問題を孕んでいるかも知れないし、例えば人が似たような認識・知覚の様態を第9交響曲のハ長調の第2楽章に見出したとしたら、 それはそれで基調をなす「世の成り行きの喧騒」の側について、もう一度「都市の喧騒」との関係を問うのは全く正当なことだと思うのだが。

「ポリフォニー」のエピソードについても基本的には同じことが言えるだろう。つまりそこでの「ポリフォニー」は両義的なものであって、それが発生させる 喧騒・騒音は、「自然」のそれであり、同時に「世の成り行き」のそれでもあるという点にこそ、マーラーの音楽の、マーラーの音楽に刻印された 認識の様態の独自性が存するのではないのか。マーラーの都市型ポリフォニーの最も顕著な例として、人はまたもやハ長調の第7交響曲の ロンド=フィナーレを挙げるかも知れない。それを肯定的に評価するのであれ、否定的に評価するのであれ、あるいはそこでの「失敗」を 評価するといったアドルノ的な立場をとるにせよ、アドルノでさえ遊園地の喧騒を見出しているこの音楽こそ「都市の音の知覚」のもっとも端的な反映が 見られる範例であるといった主張がなされるかも知れない。だが、またもや些事に拘泥すれば、件のエピソードはオフ・シーズンの避暑地での出来事で あったのだし、第7交響曲のロンド=フィナーレの末尾では、先行する楽章では遠くから聞こえていたカウベルが舞台の上でガラガラと響きわたるのである。 第3交響曲の第1楽章でもそうだが、寧ろここでは「自然」そのものが大都市さながらの喧騒の巷と化していると言うべきではないのか。

勿論、オフ・シーズンの避暑地での出来事は、マーラーの時代ならではのもので、それもまた広義で「都市の音の知覚」の一部を為すという言い方もできるかも知れない。 だがそもそも、角笛もカウベルも「自然」そのものではない。(「ポリフォニー」のエピソードの末尾でマーラーが、またもや「過去」に遡行して、イーグラウの 森の中での経験を語ることに留意しよう。)第3交響曲第3楽章のポストホルンが人間の存在を告げ、自然の中に無自覚に埋め込まれているのではなく、 自然の中で、田園の風景の真っ只中で、だが距離をおいて(「遠くから」聴こえるのだから、聴き手の方が遠く離れているのだ)自然を眺める眼差しの存在を 証言するように、ここではそれが「都市」であれ「自然」であれ、自分が埋め込まれた環境に対する現象学的還元にも比せられるような括弧入れが 行われている、そうした態度変更が問題なのだ。(翻って、ハイドンの音楽には彼の生きた時代の「都市」の方は映りこんでいないのだろうか。決して そんなことはあるまい。)確かにマーラーの「自然」への態度には或る種の反省的な意識の介在が認められるし、それが文化的な背景を持つものであることも 間違いではなかろう。だが、マーラーは同じ眼差しを「都市」に対しても投げかけているのではなかろうか。彼の同時代の、もしかしたら「都市の音の知覚」に もっと(無意識、無自覚であるが故に)忠実かも知れない他の音楽と比較してマーラーの音楽を特徴づけるのは、それが「都市の音の知覚」の様態を 反映している点ではなく、「都市」も「自然」も含めた「世の成り行き」に対する反省的な視点であり、それらの手前、ないし彼方にあって(ということは その場には現れていないということだが)それらを根拠づけ、価値づける筈の(なぜならそれらはその場には現れていないのだから、それは実現はしていないし、 実現する保証もないのだ)ものに対する探求の姿勢ではないのかと思われてならない。そうした姿勢が音を聴く態度にも映りこむ。その結果として その音楽は(マーラー自身がそう語ったと伝えられるように)「憧れ」を含むのだ。「憧れ」は決して音楽の「標題」でもないし、「素材」ですらなく、 寧ろマーラーの姿勢や態度の結果として音楽が孕み、聴き手に伝播するものなのだ。

そしてもう一度。マーラーの時代の風景には、それがマーラーの音楽に直接映りこんでいるかどうかとは別に、「都市」的なものが含まれているのは確かだ。 渡辺さんが引いたカリカチュアに「4度で鳴く」カッコウとともに、蒸気機関車が含まれている点は、私が蒸気機関車をマーラーの音楽に見出すかどうかとは 別として、興味深い。私は蒸気機関車をごく例外的にしか知らない「から」、聞き取れないという可能性を否定しない。マーラーの時代の「都市」と 私が知っている「都市」は同じものではないから、私はそれを「都市の音の知覚」として聞き取れないという可能性もまた。マーラーの時代、馬車はまだ 走っていたが同時に市電が走り始め、自動車もまだ珍しいものであったけれど、既に走っていた。鉄道網、蓄音機、写真、記録装置としてのプレイヤーズ・ピアノ、 白熱電球といった技術がまさにマーラーの生きている時代に発明され、その後の普及を待っている状態にあった。電力を用いた様々なメディア普及の前夜に 書かれた「音楽」。実のところ私にはマーラーを聴いても「都市の喧騒」はちっとも響いてこない一方で、公式な(だが如何なる権威によってか?)マーラーの後継者、 息子たちとは隔たって、20世紀のメディアの揺籃期に生み出された作品としての位置づけを確認する作業を行い、その上で今・ここで自分に呼びかけられているものに答え、 記憶の継承への関与していかなくてはならないように感じている。ここでも別のところで別のある人物によって、ある別の人物について(ああ、だが、ここに或る種の並行 関係を認めるのは決して不当ではないだろう)の講演の冒頭で掲げられた奇妙なスローガンが木霊しているかのように。あなたでも私でもいい、 誰かが進み出て以下のように言う。「生きることを学びたい、終に」、と、、、(2011.5.29初稿)

2011年4月29日金曜日

「生きるという甘美な習慣」(süßer Gewohnheiten des Daseins)

マーラー生誕150年のアニヴァーサリーの昨年に引き続き、今度は没後100年のアニヴァーサリーの今年は、だが日本の歴史上では、史上最大級の地震に 見舞われた年として記憶されることになるだろう。昨年に引き続き、アニヴァーサリーを意識してか、マーラーに関連する雑誌の特集やら書籍の出版は 行われており、マーラーに因んだ映画の公開も予定されているようだが、その一方で3月11日の震災以降、いわゆる「芸術」活動への影響も決して小さくはなく、 私がコミットしていて、かつマーラーに関連する例を一つだけ挙げれば、会場として予定されていたコンサートホール、ミューザ川崎の被災により、 ジャパン・グスタフマーラー・オーケストラの第9交響曲の演奏会が1年延期になっている。その一方で、己の内部になる音楽が変わってしまったり、 あるいは音楽を聴いても感動できなくなったりすることもありえるだろうし、心の中に鳴り響く音楽がその人を支えることもありえるだろう。そうした最中にあって 音楽が娯楽だから自粛する、あるいは心を癒すから自粛すべきでないという議論は音楽がなお可能であるということを疑ってみることもせずに暗黙の 前提とした論理を備えていることがあからさまであり、音楽が必要とされなくなる、必要なのに音楽を演奏したり享受したりすることができないといった 状況からずれたものに感じられてならず、あるいはまた恰も自分が論じている作品や作曲家の価値が自明であり、自説や自分の解釈を開陳することに 終始するかに見えるマーラーを巡る状況にも強い違和感を覚えずにはいられない。

2011年3月11日の地震の日、私は自宅に帰らずに都心にある勤務先のオフィスに留まり、翌3/12の朝、復旧した電車に乗って帰宅した。 週明けの3月14日には今度は「計画停電」と称する突然の電力供給制限の実施のせいで運休を余儀なくされた交通機関の麻痺により、 出勤ができなくなった。それから1ヶ月が経過し、幸いにして私の周辺ではようやく日常が戻りつつあるものの、一旦損なわれた生活は恐らくは 完全に元に戻りはしないだろうし、この状態に明確な終りなどなく、最初は異常と感じられた様々な事象にも何時しか馴化してしまい、 日常の風景に溶け込んでしまうこともあろう。マーラーの音楽はそうした中で、だが確実に自分の内側で響いていた。例えば早朝の通勤の途上、 人影のまだほとんどない都心を歩いている最中、心のうちには第9交響曲の第1楽章が鳴り響き、そこから湧き出してくるものに導かれるように、 後押しされるような感覚に囚われることが幾度となくあった。そうした中、Webページの更新も別段自粛していたわけではなく、 仕事の関係もあって間接的ではあるけれど震災復興に従事する方々のお手伝いをしていたがため時間が全く取れずに断念してきたのだが、 ようやく一段落した時にふと思い浮かんだのが、この文章のタイトルとして掲げたマーラーの言葉であった。

この言葉は1909年の初めにニューヨークからヴァルター宛に書かれた日付のない書簡中に出てくる(1996年版書簡集では404番)のだが、書簡の方は 名宛人であったヴァルター自身がマーラーについてのモノグラフの中で言及して以来、この時期のマーラーの心境を告げる文章として 繰り返し引用されてきた非常に有名なものであり、私自身、以前に「語録」の項で取り上げたことがあるので、そこで書いたことは繰り返さない。

特に取り上げる上記の言葉は原文では ( in allen ) » süßer Gewohnheiten des Daseins « であり、だから括弧は私が付加したのではなく、 マーラー自身がつけたものである。色々なところで引用される際の日本語訳を調べてみるとかなりばらつきがあることがわかり、それはそれで興味 深いがここで逐一取り上げることはせず、私がここで示した訳は、そうした様々な訳と比べれば、いわゆる直訳と言われるタイプに属するであろうと いう点の指摘に留めることにしよう。マーラーが括弧をつけたのは、何かの引用であることを示している可能性はあるだろうが、原典について 言及した記述は管見では見当たらなかった。簡単に調べた限りでは、恐らくマーラーの愛読書であったE.T.A.Hoffmannの Lebensansichten des Katers Murr(「牡猫ムルの人生観」)のErster Band, Erster Abschnitt "Gefühle des Daseins. Die Monate der Jugend."の冒頭、 Es ist doch etwas Schönes, Herrliches, Erhabenes um das Leben! – »O du süße Gewohnheit des Daseins!« ruft jener niederländische Held in der Tragödie aus." がその出典に違いない。ここで言及されている「悲劇の主人公」とは、これまたマーラーの愛読書であったゲーテの「エグモント」であるが、対応する第5幕2場では やや違った形で出てくる。"Süßes Leben! schöne freundliche Gewohnheit des Daseins und Wirkens!")

だが出典が何であれ、括弧つきで繰り返し用いられているこの言葉は、第9交響曲に浸透している 情調と如何にも親和的に感じられ、また、震災とその後の混乱を経た後の私自身の思いと強く響きあうものを感じずにはいられない。 "Mich selbst finde ich jeden Tag unwichitiger, kann es aber oft nicht begreifen, daß nab im täglichen Leben doch seinen alten gewohnten Trott weitergeht - in allen » süßer Gewohnheiten des Daseins. «" というマーラーの述懐は、それ自体は平凡な私のような人間にもわかるもので ありながら、その背後に響く音楽によって比類ない仕方でもってその認識に伴う「感じ」の記憶を定着させ、ふとそれに耳を澄ます時代も場所も 隔たった他者の裡に再現するのだ。

更にもう一点、同じ書簡の少し先で(これまたヴァルターが引用している部分だが)、Was denkt denn nur in uns? Und was tut in uns? と問いかけていることにも触れずにはいられない。第3交響曲のタイトルよろしくここでもマーラーは自分を主体の位置に置かず、自分の内なる 何者かを主体の位置においているが、それは上記の Gewohnheit という単語と勿論対応しているに違いない。否、そのようにGewohnheitを 捉える視点こそが、第9交響曲のあの音調を可能にしているのだ。それゆえシェーンベルクが後にプラハ講演で第9交響曲に関して指摘する、 "In ihr spricht der Autor kaum mehr als Subjekt. Fast sieht es aus, als ob es für dieses Werk noch einen verborgenen Autor gebe, der Mahler bloß als Sprachrohr benützt hat."という消息にこの言葉は繋がっていく。

己の内なる他者の声に耳を澄ます姿勢はマーラーにあって(どこまでそれについて意識的であったかについてはおくとして、その姿勢そのものは) 一貫したものであったと私には思える。だが» süßer Gewohnheiten des Daseins «という認識自体は、マーラーが人生の危機、 それまでに経験したどれよりも大きな危機を経て獲得したものであり、危機を克服した後にそうした認識を芸術に定着させることができたことに 私は畏敬の念を覚えずにはいられない。客観的にはどうであれ、マーラー自身にとってそれは大きな危機だったに 違いないし、その経験を過ぎ越すことによってマーラーが獲得した認識の主観的な質や重みを、神話の解体や偶像破壊よろしく軽んじるような論調に 与することはできない。確かにマーラーはその時に自分の余命がいくばくもないとは考えていなかっただろうが、だからといってマーラーが己の有限性に ついてそれ以前とは質的に異なった認識に達しなかったことにはならないし、彼が獲得した認識がどんなものであるかは、その後の彼の音楽を 聴けば明らかなことではなかろうか。それはまたアルバン・ベルクが後に妻となるヘレーネに宛てた手紙に第9交響曲第1楽章について記した言葉とも 共鳴する。勿論、書簡でヴァルターへの語りかけに仮託しつつマーラー自身が自問しているように「生きるという甘美な習慣」は両義的なものだが、 そうした両義性に対する意識こそ、第9交響曲のあの不思議な、これ一度限りの(アドルノの言葉を借りれば「唯名論的」な)楽章配置の 構想に対応している。中間楽章でハ長調・イ短調という調性は、»Gewohnheiten des Daseins «の「世の成り行き」としての側面を、アクセントを 変えて提示するし、それらを囲繞する両端楽章のうち第1楽章のニ長調の色彩と光の調子は、きっとどこかで第10交響曲フィナーレのあの、最早どこで 鳴っているのか言い当てることができないようなユートピア的なニ長調に繋がっているし、半音下がった変ニ長調のフィナーレは茜色に染まって 漂ったまま静寂と薄明の中に溶け込んでしまい、決して元には戻らない。この音楽を順応的に感受する(ホワイトヘッド的な意味合いで)ことに よって聴き手が自分の中に形成するものの重みは、文化史的な背景への還元など受け付けないし、陳腐な標題についての議論やら 「人生」と「芸術」の単純化された関係図式の中をうろつきまわるだけの論争とも無縁のものだ。作品から自分が受け取ったものを作品の作者に 押し付けることも、そうして形成された「神話」の虚構性を告発し、事実をもって否定するかの身振りも、「作品」や「作者」の存在論的身分に ついて些かの疑いを抱くこともなく自らこそが「真理」に辿り着く特権を有しているのだという思い込みの下、所詮は同じ土俵の上で自分の観点の 押し売りをしているに過ぎないように思えてならない。

というわけで、2年続きのアニヴァーサリーの最中、それに因んで編まれた雑誌の特集に目を通しても、映画のリブレットを読んでみても、 何か奇妙に視界がずれているようにしか感じられない。そして震災とその後の時期を経て改めて感じたのはそうした違和感が 寧ろ深まったことだった。同じ対象を相手にしている筈でありながら認識を共有できないこと自体は日常的に色々な場面で多少なりとも 起きていることで、それ自体は驚くに足らないのかも知れない。だが「生きるという甘美な習慣」という言葉を書簡に書き付けた人間とその人間の書いた音楽の 場所と、それらについて解釈し、語っている筈の場所が全く重なり合わず、しかも後者こそが今・ここの近傍である筈なのに接点を見出すことが できなさそうに感じられるのは一種異様な感覚である。神話の解体や偶像破壊の名の下に一体そこで断罪されようとしているものは実際には何者で、 厄払いの後に残るものは一体何なのか。そこで救い出され、あるいは見出されたと主張されるものについてはどうか、少なくとも私にはわからない。 幽霊を追放し、抹殺する(だが、そもそも幽霊に対してそれは可能なのだろうか)ことにより顕わになる実体が本当にあるのだろうか。あるいはまた、 フィクションを隠れ蓑にして幽霊の代理を演じさせ、それを撮影して撒き散らすことがもたらす結果についての責任はどうなのか。先立つかつての アニヴァーサリーの折にあった類似の事象に対してはそれなりの正当な異議申し立てが為されたものであったが、このたびは時効により免責というわけか。 アニヴァーサリーが刻みつける時間の隔たりを介し、その隔たりそのものに他ならない地平の変容、技術がもたらした時空の遠近法のドラスティックな変化の影響下で、 まるでそんな変容には無頓着に、だがその実そうした変容のもたらした結果に最大限依存しつつ、幽霊の幽霊性を都合良く忘却し隠蔽すること、 自分の用意したフィクションに取り込んでしまうことによって幽霊を厄払いし、隔離して閉じ込めることは、だが、しかしそうした営みが自閉する地平の外には 出ることはないだろう。そのようにしたところで幽霊と会話することを学ぶことなどできないのだから。

それゆえそうした歪んだ遠近感の支配する空間の中で、だがそんな歪みなどお構い無しに、自分が会ったこともない過去の異郷の音楽家の 「生きるという甘美な習慣」という言葉の背後にある認識が、その認識と隣り合わせに書かれた音楽によって形成された地形に沿って自分の心に実感を伴って届く。 まるで幽霊に憑依されるかのように。そしてそれは取り憑いた者に対し、己の内なる他者の声に耳を澄ますように促すかのようだ。 Was denkt denn nur in uns? Und was tut in uns? という問いかけへの答を求められた者は、「生きるという甘美な習慣」の裡に (厄払いではなく)喪の作業に誘われるのだ。まさに能の舞台でしばしば起きるように。かつて別の文脈で、ある他者によって言われたように、 可能なのは幽霊に対して言葉をかけること、幽霊からの語りかけに言葉を返すこと、そうしつつ生きることを学ぶことでしかないのだ。 だがそもそも、マーラーという幽霊がその作品を通して私たちに語るのもまた、まさにそのことそのものではなかったか。(2011.4.29/30初稿・公開, 5.2/8加筆・修正)