2010年7月25日日曜日

マーラーの交響曲のソナタ楽章についての覚書

そのことをどう評価するかは立場によって様々であろうが、マーラーがおよそ1世紀程前に成立した、交響曲という多楽章の組曲形式に拘り続けたのは事実であろう。 一方でマーラーの交響曲が、伝統的な交響曲形式から著しく逸脱しているといるという認識も広く共有されていることといって差し支えないだろう。だが、その逸脱の 「如何にして」の内容についてはどうだろうか。全体としての長大化、楽章数の拡大・縮小、楽章間の長さのコントラストの拡大、そして何よりも管弦楽の拡大、 特殊な楽器の使用や声楽の導入といった特徴について語られることは多いし、勿論これらの特徴はいずれも取るに足らぬものではない。だが、私見によればそれ以上に 重要なのは、楽章間の調的な配置の問題であり、各楽章内の構造、とりわけ交響曲における主要楽章と見做されるソナタ楽章の内部構造の方であって、 マーラーのそれが(しばしば起きることではあるが、交響曲とは名ばかりの単なる)交響的な組曲ではなく、なお交響曲であり続けるのは、良きにつけ悪しきにつけ、 マーラーが主要楽章を構築するにあたり、そこから結果的に大きく離れていくことになったとはいえ、基本的にソナタ形式を出発点としている点、そればかりではなく、 そうした「逸脱」が単なる構造の解体ではなく、アドルノが的確に言い当てたように「唯名論的」にその都度決定される構造の構築、 前世紀後半に流行した言い方を借りれば「脱構築」であることに存するだろう。
例えばマーラーの音楽が同時代のパリで、「進歩的」と目される作曲家達に拒絶されたのは、それがなお「交響曲」であり続けたからに違いなく、そうした抗議は その後も「交響曲」というジャンルに拘り続ける作曲家達に対しても同様に向けられることになるのだが、ここではそうした音楽史的な展望は少なくとも二義的な 意味合いしか持っておらず、寧ろ、そうした批難にも関わらず「交響曲」であり続けた具体的な様相の方を、外から押し付けられる価値判断を中断して眺めてみたいのである。 なぜならこの点だけとも言わず、この点が他よりも優ってとも断定はできないかも知れないにせよ、それでもなおこの点こそがマーラーの音楽の独自性を示す特異点であることは 確かに思われるからだし、私見ではマーラーの音楽の際立って時間的に発展していく構造、しかも伝統的な形式とは異なって、時間発展が外枠で予定的に決められておらず、 内在する別の力によって時間発展の方向がその都度分岐していくような、際立って豊かな構造を明らかにするための予備作業として欠かせないものと考えるからである。 それは外部からの異質のファクターの介入による構造変化、或る種の換骨奪胎と見做すのが適当な場合もあろうし、もともと内在していて、だが潜在的であったパラメータが コントロール・パラメータとして顕在化したと見做すのが適当な場合もあるだろうが、いずれにせよ、マーラーの音楽の時間的発展の豊かさ、人によってはそこに分裂やら 混乱を見出すかも知れない複雑さの背後にある力学を解明するために、特にソナタ形式を出発点としている楽章の内部構造の解明は中心的な意義を担うに違いない。
勿論こうした主張自体、何ら新規なものでも独創的なものでもなく、寧ろマーラーの音楽の形式に対する関心の中心の一つが常に既にソナタ形式の扱いにあったことは、 これまでに蓄積された文献を一瞥しただけでも明らかなことであり、従ってここで為しうるのもそうした先行研究のおさらいに過ぎない。だが、それにしてもでは実際にこうした 「まとめ」が行われたケースを邦語文献で見たことはなく、であってみればまずは自分の確認と整理のためにおさらいをしてみることを思い立った次第である。 なお直ちに明らかになることだが、結局のところソナタ形式の認定にあたっては楽章内の各部の調性配置が決定的な要因となるのであるから、以下の整理は既に別のところで 行っている調的配置の問題を、より範囲を限定し、別の角度から眺めたものに過ぎないという見方ができる。マーラーの交響曲楽章は、歌詞の構造に束縛される場合を 除けば、ソナタか変奏か、舞曲に多い3部形式かさもなくばロンドに大きく分類できるだろう。だが、静的な構造であるはずの3部形式に展開が持ち込まれたり、 やはり循環的な構造を持つロンドが回帰するとともに変奏されたり、ソナタ的な展開が企図されたりといった具合に、マーラーの場合にはそうしたプロトティピカルな各形式間での 相互嵌入が著しく、それがマーラーの楽曲の構造に豊かな動性をもたらしているのであり、ソナタ形式にフォーカスすることは、その中で最も動的な構造を中心にして 見ていくことに他ならない。そしてソナタ形式との関連が最も深いのは二重変奏であり、とりわけてもマーラーのソナタ楽章において、提示部の中で提示が2重化されたり、 複数の展開部を持つようになったりすると、両形式の境界は非常に微妙なものになっていき、結局のところ、展開部と再現部を徴づける調的配置を手かがリにするしかない、 といったことが起きるようになる。その一方でソナタであれば展開部の途中で主調での主題再現が生じると同時に文字通りの再現を忌避し、再現部が圧縮される一方で、 更なる展開を行う契機も孕むといったといった、ブルックナーにも見られるような形式上の流動化が進んだ結果、特に晩年に至るとソナタ形式とも変奏ともつかないような 独特の動的発展を孕んだ形式が生じるようになっていく。
だが、些か結論を先回りして言ってしまえば、マーラーの音楽の動性には、単に上記のような従来の形式間での相互嵌入による緊張のみでは説明できない別の 動因が存在するのである。ソナタと変奏の間の緊張は、いわば展開による緊張の後の再現による弛緩というソナタの図式と絶えざる無限に続く変容の過程との 緊張であるが、その中に、異質の句読点を入れ、音楽の流れを不連続にするような契機が持ちこまれる。ソナタ自体が複数の主題の間の緊張関係を含み持つ 動的で弁証法的な図式なのだが、そこに更に別の力学が埋め込まれ、あらぬ方向に軌道を導くような様相を呈するのである。アドルノの著名な「突破」「停滞」「充足」 ないし「崩壊」といったカテゴリーは、そうした別の力学を言い当てるために導入されたと考えるべきであって、だから、楽曲のある部分の静的な特徴をそうした カテゴリーに対応づけて分類するのは、勿論意味のないことではなかろうが、事態の一面しか言い当てたことにならないであろう。実のところそれらのカテゴリーの価値は それらの実質が、出発点となったソナタ形式の図式自体には内在するものではなく、音楽の動的な流れの別の層、別の次元を構成する点にあり、にも関わらず、 晩年に至るまでマーラーは、ソナタ形式を単なる図式として利用し、いわば宿主のように寄生することでソナタ形式を形骸化したというのは些か行過ぎた評価であって、 実際には個別の楽章において、ソナタ形式がもともと含み持っていたそれ自体複合的な諸契機を、そうした別の層との交錯によって、その都度異なった仕方で 賦活したと考えるのが正しいように思えるのである。
そうした見方をした場合に、マーラーのソナタ形式にあって顕著なのは、まず基本的には静的な性質を帯びた序奏が、ソナタの形式の外部に置かれるのではなく、 形式の内側に入り込みことで音楽の流れを都度変えてしまう点であろう。まるで構造上の句読点が序奏の再現によって打たれているかのような印象を与える 事例すら出てくるようになる。また主題の絶えざる変容を伴った再現、しかもしばしば性格的な変容すら伴った再現により緊張と弛緩の交替は、必ずしも 複数の主題間の対立、同一主題の再現といった平面のみで起きる事象ではなくなってしまう。ソナタの図式でいけば展開の途中で緊張が弛緩してしまうかと 思えば、再現が単なる回帰ではなく、その間に生じたイベントによる時間の流れの不可逆性のバイアスを強く帯びることで、寧ろ心理的には別の段階への到達を 告げるような状況がしばしば生じる。そして最後に、ソナタの図式に一応は従って、だが構造上の特異点を為すように、例えば再現部冒頭や再現部末尾で 「突破」が生じることによって、音楽の句読点の位置が移動してしまう。「突破」は予告されずに生じることはないといってよく、必ず既に呈示だけはされている 素材に基づくのだが、しばしばその素材はソナタ形式における二項対立を構成する主要な二つではなく、全くエピソード的な性格であったものが、今や主人公と ばかりに表舞台に躍り出る、といった按配なのである。同一の素材で、更にはモットー的にさえ生じる長調・短調の交替もまた、弁証法的な緊張、対立が優位な 次元とは別の連続的な次元の存在を際立たせる。
マーラーの交響曲におけるソナタ形式が形骸化し、あたかも廃墟の如き有様を呈しているといった修辞が用いられることがあり、それがひいては交響曲という ジャンルそのものにも敷衍されがちなのはソナタ楽章が交響曲に占める地位を考えれば当然のことと言える。そして確かにいわゆる図式的な意味でのソナタ形式は、 控えめに言っても、極めて限定的な役割しか果たしておらず、マーラーの音楽でそこには収まらない、逸脱した部分が重要であることは確かなことである。 だが、ソナタ形式が昇ったら捨てられる梯子の如きものであったのかどうかについては、私見では疑問があるように感じられる。図式的なレベルではなくても、 ソナタ形式を特徴付ける実質的な諸契機は決して機能することを止めてしまったわけではない。当時のワグナー派の作品と比すれば例えば世代的には先行する ブルックナーに比べてさえ反動的なまでに全音階的な初期作品は、だがしばしば形式的な大胆さから拒絶にあったのだったし、調性がなくなる一歩手前まで 近接するかに見える晩年の作品においてなお、第10交響曲を含めてさえ、ソナタ形式の契機は機能することを止めてしまったわけではない。だからして私には、 ソナタ形式の形骸化、廃墟といった言い回しは、既成のものからの逸脱の距離をもってのみ「新しさ」を測ろうとする立場そのものに起因するように感じられてならないのである。 そこでソナタを形骸化をしているのはマーラーではなく、寧ろ分析者ではないのかといった感覚に囚われることすら一再ならず起きている。恐らくは それをソナタと呼ぶかどうかはさておき、マーラーの動的なタイプの楽曲の形式をより実質的に記述するための言語を手にする必要があって、そうした言語の中で ソナタ形式からマーラーが汲み上げた実質、賦活させた契機といったものは適切な位置づけをもって立ち現れるのではないかと思えてならない。 (2010.7.25)

2010年7月11日日曜日

調査レポート(2)「ドロミテのマーラーの足跡を辿る―林邦之さんに―」

少し前のことだが、マーラーの生涯の記録媒体として重要な写真を巡る混乱について、「ある写真についての備忘」と題した備忘を記したことがある。 そこで主題的に扱った写真ではないが、マーラーが「晩年」(それはどちらかといえば後知恵で、その生涯の終りから逆算したものだが、にも関わらず まるきり内実がないともいえない時代区分であるが)の夏の休暇を過し、そこで「大地の歌」「第9交響曲」「第10交響曲」が作曲されたトープラッハの トレンカーホーフを巡っても混乱があることに気付いて、以下のように記したのであった。

(...)ブラウコプフの「マーラー 未来の同時代者」の邦訳(酒田健一訳, 白水社, 1974)の巻頭では、 どうみてもトーブラッハの夏の別荘として使われた農家(トレンカー家の所有)が写っている写真に「アッター湖畔の別荘」というキャプションがついている。 同一の写真は例えばブラウコプフ夫妻が編纂したドイツ語版の資料集"Gustav Mahler, Leben und Werk in zeugnissen der Zeit" (Hatje, 1993)の27番で確認できるが、 そこでのキャプションは勿論トーブラッハの休暇の住まいとなっている。 なお同じ写真・同じキャプションの誤りは音楽之友社の作曲家別名曲解説ライブラリのマーラーの巻(1992)のp.50でも繰り返されている。(...)

もっともこの件に関しては、少なくとも白水社版のブラウコプフの「マーラー 未来の同時代者」の翻訳については、以下の事情を勘案しなければそれはそれで 不当なことになろう。即ち、原文であるKurt Blaukopf, "Gustav Mahler oder Der Zeitgenosse der Zukunft" (Fritz Molden, 1969)の図版のキャプション自体が 誤っているのである。私が所蔵している版では、1ページの上下に2枚の写真が割り付けられ、"Das Sommerdomizil am Attersee (oben), das Komponisthäuschen am Seeufer (unten)"として、上に問題のトレンカーホーフの写真が、下には正しくアッター湖畔の作曲小屋の写真が掲げられているのである。してみればブラウコプフ自身が 後になって"Gustav Mahler, Leben und Werk in zeugnissen der Zeit" (Hatje, 1993)を編む折に誤りを修正したことになる。ちなみに "Gustav Mahler oder Der Zeitgenosse der Zukunft"の図版にはもう一つ、現時点では考えられないキャプションの誤りがあって、これも青土社の「音楽の手帖 マーラー」や 新潮文庫の船山隆「マーラー」のp.165の下側など色々なところで紹介されている1909年に撮影された写真、グスタフとアルマがトーブラッハからアルトシュルダーバッハへ向かう なだらかな丘陵を並んで散歩している写真が"Gustav Mahler und Anna von Mildenburg"となっていたりする。 こちらも"Gustav Mahler, Leben und Werk in zeugnissen der Zeit" (Hatje, 1993)の図版22では"Alma und Gustav Mahler auf dem Weg von Toblach nach Altschluderbach, Photographie 1909"と訂正されていて、要するにこの種の混乱は別に日本だけのことではないということが窺えたりもするのである。

もともとが間違い探しを目的にしているのではなく、気になることを調べると次々とこうしたことが起きる、というのがマーラーを取り巻く現実なのはどうやら否定し難く、 その度に非常に消耗させられるのだが、この件はこれで一旦終りと思っていたら、以前、「ゼッキンゲンのラッパ手」を巡って問い合わせをいただいた林邦之さんから、 再び、今度はマーラーが晩年を過した場所が同定できない旨、お問い合わせを頂いた。今年はマーラーのアニヴァーサリーで、日本の音楽雑誌も特集を組んだり しているらしい(私は音楽雑誌というのを全く読まないので知らなかった)のだが、それを拝見してのこととのこと。手元にあるフランクリンの伝記のある部分を 元に、Webに存在する幾つかの情報源とともに取り急ぎご回答して、折角このようなお問い合わせをいただいたのだから、自分のWebページにもそうした 情報を付け加えようかと追加で調べ始めると、またもや雲行きが怪しくなってきた。といっても勿論、梅雨明けの豪雨に見舞われている日本の天気のことでも、 やはり天候が変わりやすく不順なことの多いらしいドロミテのことでもない。私には現地を訪れたりするだけの時間の余裕が許されていないから、 文献やら、Webの情報などを突き合せているだけなのだが、これが結構相互に矛盾していたりするのだ。

この件についてのもっとも簡明な解決方法は、自分で彼の地を訪れ、確かめることに違いない。だけれども今の私にはそれは許されていないので、 ここではあくまでも矛盾の指摘をするに留め、真実は、その目で確かめることが許された他の方に委ねたい。だがいずれにしても、 この項に記載する内容は上記のような経緯に基づくものである故、この文章自体が今度もまたご質問いただかなければありえなかった。 前回同様、ご質問がなければ、このテーマについてまとめることはなかっただろうし、私としてはまたもや非常に貴重な勉強をさせていただいたと感じている。 この場を借りて、林さんに、再び深い感謝の意を表したい。

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まず、件のフランクリンの著作である。この伝記はコンパクトではあるけれど新しいだけあって、それまでの研究の蓄積を踏まえたかなり突っ込んだ記述が なされており、トープラッハについてもまた然りである。一方で邦訳は首を捻るような箇所が多いので、一応念のため原書(私の手元にあるのはペーパーバック版)と 邦訳の両方の参照箇所を記すことにすれば、まず原書pp.164--165、邦訳pp.221--222で1907年にヴェルター湖畔のマイアーニヒを去ってからの残りの 夏を過した場所に触れた後、原書pp.168--171、邦訳ではpp.227--230にかけての部分で、ドロミテの一部の風景の写真(原書図版17、キャプションは "The Dolomities, a view from the path around the Dürrensee, just to the north of Schluderbach"、例によって訳ははなはだ自由な 読み替えを行っている)とともに、その続きを為すかのようにドロミテ(邦訳ではドロミティと表記)、だが実際にはここは(上記の写真とキャプションに対応する ように)シュルダーバッハを中心としたランドロ渓谷沿いの記述が続く。

("The railway line that one led from Toblach via Schluderbach to Misurina has gone, but the near by road, widened and much resurfaced, still snakes through the long and sometimes rather gloomy Landro valley, whose mountains walls periodically break to afford breathtaking views of viciously razoredged peaks. As one approaches Schluderbach, the peaks of the Drei Zinnen from the centre-piece of a grand vista to the east. A little further on one reaches the Dürrensee: the modest but picturesque lake, through whose forest of dwarf pines (it still flourishes) Mahler had thrashed in June 1905 to work off the migrane that train jouneys so often brought on. The path around the lake, where cowbells may still be heard, gives striking glimpses of jutting buttresses and towers of the cliffs that climb steeply above the road on the opposite side.") 

そこでは、ドロミテの一帯がマーラーにとって、この晩年に初めて訪れた場所などではなく、以前よりなじみの場所であることがきちんと記されているし、 (後述するが)特に1905年のドロミテ訪問と縁の深い第7交響曲で聴かれるカウ・ベルの音色まで仄めかす念の入れようである。

フランクリンが言及しているのは1905年のことだが、この時の経緯はアルマの「回想と手紙」に収めされたアルマ宛の1905年夏の一連の手紙、 シュルダーバッハ、エードラッハーホーフ、ホーホシュネーベルク発の手紙から窺える(白水社版の邦訳pp.313--316)。だが、南チロルまで範囲を広げれば その時が始めてというわけではなく、1897年の夏のチロルでの休暇の経緯はバウアー=レヒナーの回想が残っている(邦訳pp.196--202)し、 更に翌1898年にもやはりファールンで夏の休暇を過している(同じく邦訳pp.257--260)。1897年はマーラーがウィーンの歌劇場に就任した年だが、 この夏の休暇はその直前にあたり、バウアー=レヒナーの回想にも出てくるヤーンとハンスクリックの訪問のことは、書簡集に含まれるローザ・パピーア宛 の7月26日ファールンで書かれた手紙にも窺える(1996年版に基づく邦訳では252番。pp.241--243)。また書簡集では、1901年8月20日に ニーナ・シュピーグラー宛に書かれた手紙(同295番、pp.276--277)の中で、ドロミテを代表する高峰であるドライ・ツィンネンの山小屋が登場する。 (ちなみに邦訳では「三軒の鋸壁の山小屋」という奇妙な訳になっている。これはマーラーの"die 3 Zinnnenhütte"という書き方のせいもあるだろうが、 ちょっと調べればわかることには違いなかろう。)

話を1905年の夏に戻せば、この夏、前年に第6交響曲の余勢をかうように作曲された2つのアンダンテ楽章、第7交響曲の第2,4楽章の 「夜曲」を手に、第7交響曲の残りの部分の作曲をしようとしたものの、さっぱり筆が進まず、已む無くドロミテの山に籠ったようだ。 このあたりの経緯は、実はもっと後になって1910年6月にアルマに宛てて書かれた手紙の中で回想されているのを、アルマの「回想と手紙」で 読むことができる(白水社版邦訳pp.406--407)。回想にあるように結局、ドロミテの山中では収穫はなかったものの、その帰途のボートの一漕で 第7交響曲の第1楽章の冒頭がひらめき、その後4週間で第7交響曲を書くことができたのは有名な逸話に属するだろう。

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と、ここまでは別段問題はないのだが、その先で、「大地の歌」が書き始められたのが1907年なのか1908年なのかというこれまた 有名なトピックに関連して、アルフレート・ロラーの回想に触れるところで最初の齟齬が起きるのである。ロラーの回想(残念ながら私は 未だに原文にあたれていない)の引用として「大地の歌」の作曲は、「ランドロ渓谷の北端の町トープラッハから東に2、3キロ行ったところにある アルト・シュルダーバッハの古い農家」で1908年になって初めて行われたという記述が転記されているが、その少し後でフランクリン自身が アルト・シュルダーバッハを記述する際(原書pp.177-78、邦訳pp.238--39)には、「トープラッハから西に2,3キロ行った」というように、 アルト・シュルダーバッハとトープラッハの相対的な位置関係が逆転しているのである。

こんな疑問は地図が一枚あればたちどころに解決する類のものだ。地図はないかと思って探してみると、ド・ラ・グランジュの英語版伝記の 第3巻の図版57にトープラッハ近郊の鳥瞰図が収められている。尤もこの地図のみからではそもそもどちらが北か判らないのだが、 実際にはこれは南が奥になるような描き方になっており、従ってロラーの記述の「ランドロ渓谷の北端の町トープラッハ」の部分は正しくても、 アルト・シュルダーバッハとトープラッハの位置関係については「トープラッハから西に2,3キロ行った」というフランクリン自身の記述が正しいことになる。 (ちなみに、Webでも例えばHochpustertalのページ(http://www.hochpustertal.info/)から、丁度同じような鳥瞰図の画像を取得できる。 これには、山や町の名前と標高、湖の名前がドイツ語・イタリア語併記で詳細に記載され、山小屋の位置まで書き込まれている。Drei Zinnenは 勿論、DürrenseeとSchluderbachの位置関係、ランドロ渓谷からトープラッハ湖を経てトープラッハに至る、フランクリンが記述したルートが 視覚的に容易に確認できる。もっともこれは一例に過ぎず、ドロミテは今や世界遺産ということもあり、情報は幾らでもあるようだ。)

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さて、これで問題は解決かというとそうでもない。ド・ラ・グランジュは上で触れた図版57に"Toblach and its neighbourhoood, where Mahler made many excursions in the years 1897-1907"というキャプションをつけているが、これはこの図版が収められた巻が1904年から1907年までを 扱っているのに対応しているのだろう。ところで同じ見開きページに収められた関連する写真はいずれも絵葉書の写真で、58番が "Postcard view of Schluderbach and the Hohe Gaisl (1906), where Mahler stayed in 1907"、そして59番は"Postcard view of Lake Misurina (with Drei Zinnen)"、60番が”Postcard view od Landro (early 1900s), with Monte Cristallino”であり、ここはあくまで、 1907年にマイアーニヒを去ったマーラー家の足跡にフォーカスされているのであって、翌年以降、毎年訪れることになったアルト・シュルダーバッハが 話題になっているわけではないのだ。

フランクリンの記述の記述もまた、上で引用した部分は未だ1907年に留まっており、アルト・シュルダーバッハのトレンカーホーフが出て来るのは もう少し先、原書ではpp.177--178のことで、そこには例の作曲小屋の写真も掲げられている(邦訳ではpp.238--239)。アルマの「回想と手紙」の 「悲しみと不安 1907年」の章の末尾の部分(白水社版邦訳ではp.144)でシュルダーバッハへの移動に触れていて、その最後を「彼はシュルダーバッハ に滞在中、はてしないさびしい散歩のあいだに想をねり、はやくもこのオーケストラ付き歌曲のスケッチを書きあげていた。そしてそれは1年後に 「大地の歌」として完成するのだ!」と結んでいるのだが、この部分こそフランクリンが問題視した箇所なのであり、ロラーの証言もまた、この部分を 巡って引用されていたのである。

だがここで私が問題にしたいのは、「大地の歌」のスケッチが何時書かれたか、1907年か1908年かということそのものではない。それよりは寧ろ、 そのことに恐らくは関連して生じがちな混乱、1907年に滞在したシュルダーバッハと1908年以降の滞在場所であったアルト・シュルダーバッハの混同の方を 問題にしたいのである。これはわざわざド・ラ・グランジュが英語版マーラー伝第3巻のp.696で"Schluderbach (not to be confused with Alt-Schluderbach, in the neighbourhood of Toblach, where Mahler and Alma were to spend the next three summers)"と断り、更に 既に触れたとおり図版の58番にもHohe Gaislを背景とした写真(従って、西に向かって写真を取っていることになる)まで掲げている程なのだが、 例えば、Classical Composer DatabaseというWebサイトのトレンカーホーフの所在地の紹介(http://www.classical-composers.org/place/562)に おける地図の情報は、明らかに(アルト・シュルダーバッハではなく)シュルダーバッハの方を指してしまっていたりするのである。同じページにある写真の方は、 どうやら正しくトレンカーホーフ(今はペンションになっているらしい)と、マーラーの作曲小屋への途中経路を示しているようなので、却って混乱を招きかねない。

ド・ラ・グランジュは1907年のシュルダーバッハ滞在の折に拠点とした場所を、執筆時点でなお残っているシュルダーバッハにある2つのホテルのうちの いずれかであっただろうと推測しているが、それにつけた注(269番)で、マーラーの1907年のシュルダーバッハ滞在を裏付ける証跡(未知の人宛の 1907年8月シュルダーバッハという日付・場所を持つ第6交響曲の冒頭主題を伴うマーラー自筆の献辞が書き込まれたアルバム張)に言及すると ともに、翌年の滞在場所を提供したトレンカー家の一員であるマリアナ・トレンカーの回想でも1907年の(旧:Alt-ではなく)Neu-Schluderbachと 彼女が呼んでいるシュルダーバッハへのマーラーの滞在についての言及があることを記している(この点についてはフランス語版第3巻のp.87の注229にも記載がある)。 してみれば土地に住んでいる人でもわざわざ新・旧をつけて区別する必要がある地名なわけで、混同が起きるのは止むを得ない側面もあるのだろう。 現地に行って「シュルダーバッハへはどう行けばいいんでしょうか?」と現地の人に尋ねたら、「新しいのと古いののどちらのことですか?」と問い返されるような状況を考えれば良い。 こうした事は別段特別なことではなく、時代とともに少しずつ変わっていくプロセスはどの場所でも同じであって、日本でだってごく身近に実際に ちょくちょく起きているに違いない事態ではなかろうか。なお、このマリアナ・トレンカーの回想は、トーブラッハ(周知の如く、現在はイタリアに属していて、 トレンティーノ=アルト・アディジェ州ボルツァーノ自治県のコムーネであるドービアッコと呼ばれる。ただし現在でも住民の言語はほとんどドイツ語のようだ)で 開かれているマーラーの名を関した音楽祭のWebページで読むことができるようだ(http://www.gustav-mahler.it/index.html)。

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というわけでようやく1908年の夏、アルト・シュルダーバッハのトレンカーホーフに辿り着くことができたわけだが、トレンカーホーフの写真はモノクロ、 カラー取り混ぜ、時代も様々な写真が幾つもあるから、ここで紹介するまでもないだろう。なお、ド・ラ・グランジュの英語版マーラー伝の第4巻の p.203の最後のパラグラフ以降には、トープラッハを含む南チロル地方の当時の状況の紹介が為されており、鉄道網の発達やら、リゾート地としての 開発の様子を窺い知ることができる(ちなみにこの部分は英語版で大幅に増補された部分のようで、フランス語版には見当たらない)。 おさらいとばかりに、第7交響曲作曲の折のことにも触れているが、注では1905年の書簡を参照しているにも 関わらず、本文では何故か1904年のこととなっているなど、大作ならではの校正の杜撰さはフランス語版と同様相変わらずで、資料として利用するに あたっては注意が必要だろう。勿論、いわゆる実証性という点ではド・ラ・グランジュは徹底していて、(こうして休日に自室で資料を照合している だけの私などとは異なって)自分の足で現地を取材しているのは、フランス語版マーラー伝第3巻の図版21~24の"La Maison de Toblach"と題された4葉の 写真のうち23番の作曲小屋の写真には著者自身が写っていることからも窺える。

トレンカーホーフについても非常に詳細な記述が為されており、トレンカーホーフでの生活の様子も同様である。 かと思えば、p.212の注395では、典拠の1つとしている回想の主であるマリアナ・トレンカーが1906年生まれで、1908年にはまだ2歳、1910年でも やっと5歳に過ぎず、従ってその記述のあるものは"obviously fictitious"であること、回想のベースは実はトレンカー家で当時メイドとして働いていた 女性のそれであることが注記されていたりと、情報量は多いが、それだけに極めて見通しが悪い状態のまま積み上げられている感じが強い。 勿論、ドービアッコのグスタフ・マーラー音楽祭のWebのページではそんなことは断っていないから、知らずに読んだ人間が思わず鵜呑みにしそうになるのを 防ぐには役に立つわけであって、だからこそここでもそうした記述のあることを煩瑣を厭わずに紹介しているのであるが。

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ついでなので、ドロミテに関するド・ラ・グランジュの伝記資料でその年代考証で注目すべき例をもう一つだけ挙げておこう。上でも触れたフランス語版 マーラー伝第3巻の図版1には、"Mahler en promenade dans les environs de Toblach pendant l'été 1907"とキャプションが付けられた 写真が収められている。改訂・増補された英語版(出版は1999年)ではこれが1907年までを扱った第3巻に移動し、図版9として掲げられるところまでは当然なのだろうが、 それだけではなくキャプションが変えられていて、"Mahler in Fischleinboden (Dolomites), 10 August 1907"となっている。FischleinbodenがToblachの周辺か どうかは見方の問題だから問わないでおくとして、注目すべきは、この写真が一般には1909年に撮られたものだとされているのに、ド・ラ・グランジュが 異議を述べている、しかも日付まで特定してそうしている点である。

例えばKaplan FoundationによるThe Mahler Album(1995)では図版108が同一の写真である。所蔵はド・ラ・グランジュが館長を務める Bibliothèque Musicale Gustav Mahler(BMGM)で、同じ時に撮られた別のショット(こちらはKaplan Foundation所蔵)が図版107として 見開きのページに並べられていて場所は同じFischleinbodenでも1909年撮影となっている。ちなみに図版107もあちこちで見かけることができる有名な写真で、 例えばThe Cambridge Companion to Mahler(2007)の表紙を飾っているし、日本では音楽之友社の作曲家 人と作品シリーズに含まれる村井の 「マーラー」(2004)のp.201に収められ、しかもキャプションはThe Mahler Albumの1909年説を採っているのが確認できる。村井の著作はド・ラ・グランジュの 英語版第3巻より5年も後の出版であり、村井は後書きでできるだけ新しい資料にあたった旨を強調しているし、特にわざわざド・ラ・グランジュの英語版伝記を 生涯編の「タネ本」として明示的に言及している程なのだが、この写真が何故か解説編の第3交響曲のところ(だからどちらの説を採るにしても、年代的には 奇妙な錯誤を示していることになる)に挿入されている点はおくとしても、村井がド・ラ・グランジュの上記の見解を知っていて、なお別の根拠に基づきそれを却下したものか、 それとも単純に従来の見解に従っただけなのかは杳として知れない。村井は後書きにおいてド・ラ・グランジュが「比較的ナイーブに「人と作品」を 結びつけがちなのに対して、私は両者は基本的に別物だという立場だから、個々のデータの意味づけや解釈は随所で異なっている」(p.311)と書いているが、 勿論、ここで私が問題にしているのは意味づけや解釈以前の問題なのは言うまでもない。

だがここでは、ド・ラ・グランジュの主張を紹介するに留めよう。英語版第3巻本文で問題の写真に言及しているのはpp.704--705であり、そこでは 宮廷歌劇場での上司であったモンテヌオーヴォ侯から、ヴァインガルトナーがベルリンを離任したという手紙(これはアルマの「回想と手紙」で 読むことができる8月10日ゼメリング発の手紙だろう)を受け取ったときにはシュルダーバッハを離れ、フィッシュラインボーデン(フィッシュラインタールとも)に 移動していたという事実がまず述べられる。p.705の注11にある通り、更には上で紹介した地図でも容易に確認できる通り、フィッシュラインタールは Moosという村のすぐそば、Sextenと呼ばれる地域にあり、トープラッハからは15km程離れている。彼らの宿泊したホテルはHotel Dolomitenhofという 名前で、そのホテルのスタンプが押されたDrei Zinnenの絵葉書が、Sextenから更にToblachに向かって降りたところにあるInnichenという町から マーラーの妹ユスティーネ宛てに8月13日付けの消印で出されているようだ。以下、ド・ラ・グランジュ自身に語らせよう。

(...) Two photographs of Mahler were taken there that summer, not far from the hotel. They show him out walking in the mountains. He looks rather careworn, and is waring a waistcost and jacket, knee-breeches and walking boots. One hand is on his hip, the other, which is against his thigh, he holds a walking stick on which he is leaning. The photograph bears the signature of Alfred Liebig, whose identity remains unknown, and dated 10 August 1907. (...)

更に上記の部分につけられた注13で、ド・ラ・グランジュは1909年説がロラーによるものであることを明記し、また、先に触れたKaplan Foundationの The Mahler Albumに図版107,108として掲載されていることにも言及しているのである。

なお、ここで問題にしている写真は、上で触れた以外でも、例えば、マーラーに関するフランス語で書かれた書籍としては私の知る限り今のところ最も新しい Isabelle Werckの"Gustav Mahler"(2010)のp.148にも採られており、これもまたKaplan FoundationのMahler Albumに従い、1909年説をとっている。 (この本の場合、村井のそれとは異なり、Bibliographieが付いていて、そこにはKaplan FoundationのMahler Albumはあるが、de La Grangeの フランス語版マーラー伝はないから、これはこれで辻褄は合っていることになるが)。だが、そもそもBlaukopf夫妻編集の "Mahler : A Documentary Study"(Oxford University Press, 1976)において既に上で紹介したde La Grangeが言及している 事情には触れられていること、ただしここでは(実証を重んじるなら自然な選択だと思うが)1907年説が採られ、異説としてロラーの主張が根拠である1909年説を 併記している点を忘れてはなるまい。一体どういう事情があってのことかは杳として知れないが、30年以上が経過してなお、どちらかといえば回想ならではの 記憶違いから完全に自由というわけではないロラーの回想を根拠とした説が寧ろ優勢を占めているかにさえ見えるのは、私のような立場の人間には 不可解という他ない。

*   *   *

林さんからのお問い合わせに触発された、ドロミテのマーラーの足跡を辿るヴァーチャルな旅は、思ったより難渋し、かなりの視界不良の中にあったように感じられる。 私のような単なる市井の愛好家には危険な暴挙であるとして、音楽学者や音楽評論家といったプロの方には咎められるようなものであったかも知れない。 だが、ある意味では林さんの戸惑いは至極もっともなものであり、私の調査が、決定的にではなくても、わずかばかりでもマーラーの足跡を明らかにすることに 役立てばこれに優る幸いはない。

最後に今回の調査で私が感じたことを少しだけ書き留めておきたい。まず、第3交響曲がアッター湖畔のシュタインバッハと、中期交響曲がヴェルター湖畔の マイアーニヒと結び付けられるように、「大地の歌」以降の後期の交響曲はトープラッハの地名、そしてドロミテの風景と結び付けて論じられることが多く、 勿論それは巨視的に見れば間違いではないのだが、それでもなお、マーラーがドロミテを訪れたのが1897年まで遡るということ、実際に曲が書かれたのが ヴェルター湖畔に戻ってから、否、ひらめいたのがヴェルター湖畔の対岸のクルンペンドルフから漕ぎ出したボートの一漕ぎであったとしてもなお、 中期交響曲のカウベルの音色がドロミテに響くそれでもあった可能性もあるのだということは確認されて良いことのように思われる。 そして次にこのことに関連して私が気になるのは、アドルノのマーラー論のDer lange Blickの章に含まれる「大地の歌」に関連した次の一節(Taschenbuch版全集13巻p.291) のことなのである。以下の"weißen Fleck des geistigen Atlas"という言い回しは、ここで確認したようなドロミテとマーラーとの密接で長期に渉る関わりの 存在を知らないか、あるいは上記のような図式的な捉え方で済ませてしまう向きには、まるでドロミテが、それまでのマーラーにとって未知の土地であったかのように取られかねないことを 私は懼れるのである。東洋趣味すらモードとしてならば同時代には溢れかえっていたわけだし、マーラー自身、「大地の歌」作曲の時期にハンマーシュラークという知己を介して 中国音楽の録音されたものを聞いたという事実はあるものの、ショーペンハウアーやフェヒナーなどを通して、あるいはリュッケルトを通して、東洋趣味に 関してはより早い時期から全く没交渉であったとは言えないだろう。してみれば、かつてのドイツ民謡の位置を中国趣味が占めているという評言は、主観的にはどうであれ、マーラーの 音楽の持つ反照的で屈折した性格により、両者への距離感が、そして結局のところ両者の機能が本質的には変わらないという事情に照らせば結局のところ妥当であるものの、 それでもなお、もう少し微妙なニュアンスが存在するのではという疑念は拭い難い。

(...) Das Lied von der Erde ist auf dem weißen Fleck des geistigen Atlas angesiedelt, wo ein China aus Porzellan und die künstlich roten Felsen der Dolomiten unter mineralischem Himmel aneinander grenzen. (...)

ここはいわゆる仮晶(Pseudomorphose)について語られているところで、mineralischem Himmelという言い回しなどにはそうした用語法の反響がこだましているのであろうが、 それにしてもドロミテについての"künstlich roten Felsen"とは一体何だろうか。恐らくはアドルノは、ドロマイト(苦灰石)という鉱物そのものの色彩について述べたのではない。 (ドロミテの名前の由来はフランスの地質学者デオダ・デ・ドロミウDeodat De Dolomieu(1750-1801)の名前である。1791年にこの地方で多く見られる岩石が、 石灰岩がマグネシウムを含んで変成したものであることを発見し、彼の名を冠して鉱物の名前をドロミテ(ドロマイト)と呼び、この地域のことをドロミテ・アルプスと 呼ぶようになったようだ。)

そうではなくてアドルノは恐らく、彼の地で"Enrosadira"と呼ばれる現象、日の出や夕暮れの陽の光に照らされて、赤色、薔薇色、菫色などの色彩に変化する現象を 思い浮かべて、"künstlich roten Felsen"と書いたのであろう。もともとのドロマイトの色とは全く懸け離れた色彩に、黄昏時の光によって変容するイメージは、 如何にも仮晶(Pseudomorphose)に似つかわしい。künstlichはだから、自然か人為かの対立を含意しているのではないだろう。寧ろ魔法のように非現実的な色彩へと 風景が変容する一瞬があるのだ。無い物ねだりなのかも知れないが、2種類の日本語訳(竹内・橋本訳「白雲石山脈(ドロミーテン)の人工風に赤い岩石」、 龍村訳「ドロミテンの作り物のような赤い岩」)も、フランクリンが参照している英訳("artificially red cliff")も、いずれもそうしたニュアンスを捉えているとは言い難い。 龍村訳はドロミテンにわざわざ訳注をつけているのだから、せめてなぜドロマイトが赤いのかについても一言言及して欲しかったように思えてならない。それとも、 訳している先生方には自明のことで、そんなことは断るまでもないことなのだろうか。ドロマイトがどんな鉱物かを知っていて、カラー写真で「普段の」ドロミテの風景を 見たことがあった私には、残念ながら何故、岩が「赤い」のかわからず当惑したものである。「魔法にかかったように茜色に染まる岩」だと思い至るのに、随分と遠回りを したものである。なお、あるいはおやと感づかれた方がいらっしゃるかも知れないが、"Enrosadira"という単語は語源的にはイタリア語由来の単語ではない。 ドロミテで今なお使われているイタリア語とは異なるロマンス語系の言語であるラディン語の単語とのこと。

否、今でもこのアドルノの言い回しは、私の中に、わからなさを伴って沈殿し続けているといって良い。同じ薄明の中であっても、夕陽は山の向こうに去って、 寧ろ菫色から藍色へと変わっていく瞬間、あるいは永遠の碧空、銀色の月、否、終楽章を離れても、翡翠と磁器の緑と白、柳の翠、湖の碧、再び翡翠の翠、 黄金色に枯れた蓮の葉、黄金の杯といった色彩は、アドルノが仮晶の風景として提示したそれとは余りに遠い。大地=地球説と並んで、アドルノの「大地の歌」に ついてのコメントは、総体としては違和感がないのに、具体的なイメージの水準に近づけば近づくほど、奇妙な懸隔があることに戸惑ってしまうのだ。 (余談になるが、「魔法にかかったように茜色に染まる岩」のイメージにぴったりくるのは、私にとっては寧ろ第6交響曲のアンダンテである。あるいは「晩年」のマーラーの 音楽に限定すれば、ジュリーニの指揮した第9交響曲の第4楽章アダージョが"Enrosadira"の裡にあるように感じられる。ジュリーニのマーラー演奏については別の ところで印象を記したことがあるが、大地の歌や第9交響曲第1楽章におけるその風景の鮮明な輪郭や直接的・現在的な立ち現れ方は異様で、私はついつい、 ジュリーニにとって南チロルの風景が幼少期の記憶と結びついた「原風景」の如きものであったに違いないということを思い浮かべずには居られない。 第9交響曲のフィナーレもまた、他の演奏では記憶の裡に朧に霞んでいたり、あるいは闇の中に没していたりしているのが、ジュリーニの演奏に限っては 「魔法にかかったように茜色に染まった」、だが紛れもなく現実の風景が眼前に広がる思いがしてならないのだ。)

「お前は結局アドルノがわかっていないのだ」「ド・ラ・グランジュの素朴な伝記主義同様、それはあまりに詩句の表面に囚われすぎた、素朴な捉え方で そんなことではマーラーを理解することなどできない」ときっと言われるのが落ちなのだろう。だがそれも仕方あるまい。理論は取替えが利くが、音楽を虚心坦懐に 受け止めた印象を裏切ることはできない。無理解との誹謗も甘受する他ない。何しろ私はドロミテの地に立ったことがないし、今の絶望的な多忙の中で、 ドロミテを訪れる機会など望むべくもない。そうした私に一体何がわかるというのだろう。だから私はここで沈黙することにしよう。寧ろ私は、未整理だろうが何だろうが、 あれだけの莫大な情報を蒐集したド・ラ・グランジュの巨大な情熱に敬意を表して、この拙い調査報告の結びとしたいと思う。(2010.7.11,14,24)

2010年7月10日土曜日

ヴァルターの「マーラー」のマーラーの頭痛についてのコメント

ヴァルターの「マーラー」のマーラーの頭痛についてのコメント(原書1981年Noetzel Taschenbuch版p.27--28, 邦訳pp.36--37)
Und wie schlecht hätte es dabei gehen können! Mahler litt ab und zu an einer Migräne, deren Heftigkeit ganz der Vehemenz seiner Natur entsprach und die alle seine Kräfte paralysierte; heirbei gab es für ihn nichts anderes als ein ohnmachtsähnliches Daliegen. Im Jahr 1900, kurz von einem Konzert mit den Wiener Philharmonikern in Pariser Trocadero, lag er wirklich so lange in solcher Ohnmacht, daß das Konzert um eine halbe Stunde später beginnen mußte und von ihm mir mit Mühe zu Ende geführt werden konnte. Hier in Berlin nun hatte er im Grunde sein künftiges Schicksal als Komponist unter schweren Opfern auf eine Karte gezetzt, und da lag er mit einer der schwersten Migränen seines Lebens am Nachmittag vor dem Konzert, unfähig, sich zu rühren oder etwas zu sich zu nehmen. Noch sehe ich ihn darnach vor mir auf der viel zu hoch aufgebauten unsicheren Dirigentenplattform, totenbleich, mit übermenschlichem Willensaufwand sein Leiden, Mitwirkende und Hörer bezwingend. (...)

 だが、なんと物事は不幸に展開するのであろう。マーラーはおりおり激しい頭痛に悩まされ、その激しさは彼の情熱と正比例していた。一度頭痛が起ると全く麻痺したようになって、何もできなくなってしまうのである。ただ卒倒したように静かに横になっているよりほか手のつくしようがなかった。一九〇〇年、パリのトロカデロで行われた、ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団の演奏会の直前にも、この昏睡状態が起って、演奏を三十分延期して、やっと最後まで続けたようなことがあったが、かれがすべてを犠牲にして、作曲家としての活動に全生命を賭けたベルリンにおける演奏会前の午後に、かれの生涯中で最もひどい頭痛の発作に襲われてしまった。かれは身動きひとつできなかったが、やっとのことで、やや高過ぎる不安定な指揮台に立って、死人のように青ざめた姿で、超人的な意志力をもって苦痛をおさえながら、楽員や歌手や聴衆を引きずって行ったマーラーを、今日でもなおきのうのことのようにはっきりと眼前に描くことができる。(…)

マーラーが多忙な指揮者だったことを思えば、マーラーが激務に耐える程度の体力を維持し、体調管理に気を遣い、己の職責を全うしようとしたことは、私のような平凡な勤め人からすれば いわば自明のことであって、だからマーラーが病気に悩まされたことも、そうした前提あっての話を受け止めるのは当然なのだが、マーラーの健康を巡る議論は、時折、そうした前提を忘れてしまったかの 様相を呈することがあり、私などはそこに寧ろ、そうした議論をしている人間の生活がマーラーのそれと如何に遊離したものであるかを見るような思いすらする程である。マーラーの多忙が 自分のそれの比ではないことは承知の上で、だが、彼我の能力の差を思えば、自我がばらばらに断片化してしまったような感覚を共有している点において主観的に同じような境遇にあって、 だから私にはマーラーのそうした側面が他人事とは思えない。
だがそれだけに一層、職責を果たす上で体調が思わしくない折のマーラーの苦衷を見るにつけ、到底他人事とは思えず同情を禁じえない。私は幸い偏頭痛持ちではないので、偏頭痛が 起きたときの凄まじさを本当に知っているわけではないけれど、そのかわりマーラーに出会った子供の頃からの慢性の強い緊張性頭痛といわば30年近く付き合ってきたし、それが折悪しく、 仕事の山とぶつかったときの辛さを思い起こせば、マーラーの心境を推し量るに、さぞや惨めな、悔しい思いをしたことであろうと思う。痛みは純粋に主観的な質であって、他人が感じることはできない。 いくら同情したところで、本当のところはわかりはしないのだ。それでも同情は、全くの無ではない。上記のような文章を後世に伝えたヴァルターのような人間の存在は、マーラーにとってさぞや慰めに なったに違いない。そして何より上記の文章はマーラーの死後も、ヴァルターの死後もなお、このようにしてマーラーを擁護し続けているではないか。
主観的な苦痛などお構いなしに仕事は降ってくるし、言い訳無用、それで成果を上げられなければそれで無能の烙印を押される訳だ。 そしてこれもまたしばしば私にも起き、マーラーに起きたことのようだが、どこが限界なのかがわからず、その手前で留まるべき一線を超えた挙句、身体が精神に追随できなくなってカタストロフが 生じるのも、「自己管理能力の欠如」と見做されるのである。マーラーの周辺の人間がどう思おうと、病のために療養を余儀なくされ指揮台に立てなくなった指揮者を解任して何が悪いかと言われれば、 返す言葉はないのだし、周囲の人間よりも寧ろマーラー自身が、有能な管理職として一番それをよく自覚していたのではなかろうか。「こんなに頑張って、倒れました」と言ったところで誰も同情などしない。 自分の限界をわきまえない方が悪いのだ。「何故もっと早くに言わないんだ。早めに言えと言っただろう。」というわけだ。
そして勿論、それは仕方ないことなのだ。なぜなら成果を上げること、仕事を止めないことはやはり必要なことであって、立場が変われば、マーラーも私も、自分の部下には同じような要求を、 その人間の心理状態や体調を慮りつつ、それでもなおせざるを得ないだろうから。要するにお互い様というわけだ。だからマーラーだって、気心が知れた人には愚痴の一つも言っただろうが、 職場で面と向かっては文句は言わなかっただろう。本当に無能で出来ないのも、身体が悲鳴を挙げてダウンするのも、成果が上がらないという結果だけ見れば同じなのだ、 ということをマーラーだって知悉していただろう。しかもマーラーは稼がなくても困らない身分の出自ではなかったから、「さっさと降りる」ことなど怖くてできなかっただろう。 そうした行動の様式は、そんなに簡単には変わらない。かくして「いつだめになるか」と自分でもはらはらしつつ、へとへとになって「もうだめだ」と思いながらも、だが「行進し続けなくてはならない」。 「起床合図」の兵卒のように。
そしてまた「世の成り行き」の裡で、その規範に従って生きる人、有能に事を成し遂げる人たちの価値は、それが己のそれとは決して交わらず、収斂することがなかったとしても、 蔑んだり、否定したりすべきではない。己の価値の体系の優位をア・プリオリに主張することなどどうして出来ようか。もし論争するとすれば寧ろ立証責任はこちらにあることを忘れて、 あたかも自分が世俗を離れた高みにいると錯視するのは滑稽なことだ。そしてそうした「上品な趣味」からは蔑まれるマーラー自身は、そうした滑稽さを見抜くだけの批判的な知性の 持ち主であったことは、遺された証言が、何よりもその音楽が語っている。そして断固として私はマーラーの側につきたいと思う。
だがそれでも、強烈な吐き気を催すような頭痛をごまかしつつ、一週間通して一日のほとんどを職責を果たすべく費やすのは何ともいえない気分ではある。「世の成り行き」という言葉の実質、 第9交響曲のロンド・ブルレスケや第10交響曲の煉獄、第5交響曲の第1部や第6交響曲の行進曲が、歌曲「起床合図」のあの絶望が、大地の歌の冒頭楽章の自棄がまさに自分のこととして 思われてならない。マーラーの音楽では、あろうことか、主観的で伝達不可能な筈の痛みとか苦しみ、身を引き裂かれるような悲しみの伝達が可能であるかのようなのだ。勿論、それが 錯覚に等しい、ほとんど無に近いものであることだってわかっている。「大地の歌」の第6楽章の歌詞のように倦み疲れ果てて家路につき、マーラーの遺した音楽を聴くときにちっぽけな 私の脳内に起きることなど、これっぽっちの意義などないのはわかっている。だがそれでも私にはそれが必要なのだ。意識の、主観性の擁護をしてくれる同伴者が。
芸術を自分が抱えたストレスを紛らわす道具をして用いるなんて何と低級な聴取のあり方よ、と謗られても仕方ない。マーラーの音楽には希望が、今ここには端的に 存在しないものとして、自分が体験できないものとして、仮象として存在する。そうしたものを甘く退嬰的なものとして否定することは、だが私にはできない。まずもってこんな私にとって、 そうしたものが無ければ、到底やっていけないから。そうしたもの無しでやっていける程私はタフではない。意識は目覚めている。だが意識が存続するために眠りは必要なのだし、 「世の成り行き」とは別の何かの幻影が必要なのだ。そしてそれらは二つながら自分の心の奥底の別の部屋(ここで私はまたしても、ジェインズの二院制の心を思い浮かべている)に 繋がっているに違いない。覚醒し続け、外の暴力に抗い続け、告発を続けること、現実を見つめるシビアな姿勢は顕揚さるべきだろうが、それはまずもって自ら「世の成り行き」と 化すことに繋がりはしないかという懸念もあれば、それ以上に、意識の賢しらさが嘲笑される瞬間にふと垣間見える深淵、意識の手前にある領域の存在を私は知っているゆえ、 そうした「別の部屋」への通路を持たない音楽は、それが非人間的で超越的な秩序の反映だろうが、人間の愚行と野蛮の歴史の告発であろうが、結局のところ、自分の外で 響くものでしかない。
そして勿論、マーラーが職場でそんなことはおくびにも出さなかったように、私も職場ではそんなことを漏らしたりはしない。「世の成り行き」に唾を吐き掛けたって仕方ないのだ。 私の精神の圏、領域はそことは交わらない、どこか別の次元に開けている。私にはマーラーが自分の人生は紙切れだった、と言った気持ちが私なりにわかるような気がする。 私のような人間だってそう言ってみたい気分に囚われるのだから、マーラーがそう言ったことを咎めることなど到底できないだろう。けれどもその一方で、マーラーの音楽を聴くとき、 「世の成り行き」に優る何かが存在していること、私の脳内の頼りない幻影ではなく、世代を超えるミームとして存続し、そのようにして永遠性へと漸近しうることを確認する。 アドルノが言うとおり、マーラーの音楽は私のようなものにも手を差し伸べてくれる。私もマーラーの音楽ともに行進する「目覚めたもの=幽霊」の一人なのだ。(2010.7.10 執筆・公開, 2024.8.11 邦訳を追記。)

2010年7月4日日曜日

「ばらばらになった私の内的自我の破片をざっとかき集める」:妻のアルマ宛1904年6月23日付け書簡にあるマーラーの言葉

妻のアルマ宛1904年6月23日付け書簡にあるマーラーの言葉(アルマの「回想と手紙」、1940年版原書p.304, 白水社版邦訳pp.282-3)
"Mein liebstes Almschili!
Also der erste (richtige erste) Tage wäre vorüber. Einfach schrecklich! Der dumpfe Malgeruch im Schlafzimmer, hierauf nothdürftiges Zusammensuchen der zerstreuten Stücke meines innerich Ich (Wie viel Tage es dauern wird, bis ich es mir gesammelt?) hierauf Besprechungen mit Theuer, dann gebadet, mittagmahlt; (...)"

「いとしいアルムシリ! 
こんなぐあいに第一日目(まぎれもない初日だ)はすぎ去ったわけだ。まずいやなことだらけ!寝室の黴くさいむかつくような臭いに当てられたあと、ばらばらになった私の内的自我の破片をとりあえずざっとかき集め(うまく集められるようになるまで何日かかるだろう?)、それからトイアーと打ち合わせをし、からだを流し、昼食をすませた。(…) 」

 この一節、人によっては(もしかしたらほとんどの人は)気に留めずに読み飛ばしてしまうかも知れない手紙の書き出しの部分が、私にとっては最初にこの書簡を読んだ30年以上も前から 不思議と心を捉えて離さないものなのだ。理由ははっきりしている。「ばらばらになった私の内的自我の破片をざっとかき集め(うまく集められるようになるまで何日かかるだろう?)」(酒田健一訳)の 部分が私にはとてもしっくりきたからなのだ。要するにマーラーのこの言い回しが自分にもしばしば起きる状況の実感を見事に言い当てているように感じられたのだ。そしてそれは今でも同じである。 否、寧ろ今なら多分、かつてよりももっとマーラーが置かれた状態をうまく想像ができるような気がする。

 
一体、年端も行かない中学生かそこらの子供にそんな感覚がわかるものかという言い分には私は同意できない。それは子供の時分の状況を忘れてしまったからだとしか思えない。現在の私のように 目も回るような多忙の中、食事の時間すら満足に取れない、日によっては全く取れないような時間に追われた状況の中で、同時に幾つもの、しかもそれぞれにそれなりに気を遣わなければ ならないような作業を並列に、状況の変化に応じて自分の側のコンテキスト・スイッチを切替つつ対応するようなことを延々続けていると、己がばらばらの破片になってしまって、我に返って 何かをしようとした時に、まさにマーラーが記述したような状況に自分がいることに気付くのはしばしばだが、ではそうした時の感覚というものが全く未知のものかと言えばそんなことはない。 それはかつても味わったことのある感覚、子供の時以来、繰り返し繰り返し味わう感覚なのだ。子供の時には子供なりの限界の中で、でもその中に無自覚にいる本人にとっては 傍から見れば滑稽に見える程の深刻さをもって受け止められたに違いない。否、傍から見れば滑稽なのは今でも同じで、私がむきになればなるほど、傍から見れば何を肩肘張って 深刻そうにやっているんだ。もっと楽しく、気楽にやればいいじゃないかと一蹴されるに違いなく、だが私にはどうすることもできないものなのである。そして、「何かをしよう」のその「何か」の方はといえば、 私を断片化する「世の成り行き」の価値観においては無に等しいこと、例えばこうした文章を綴ることでも構わないのであって、実際問題としてこんな作業でもちっぽけな自己をかき集めなければ やれはしない。こんなものを書くのに数時間の時間を費やすのは或る種の価値観からすれば無意味で愚かなことに違いない。だが私は、ここでもやはり、そうせずにはいられないし、そもそも、 ばらばらになった内的自我の破片を集めるために、こうして書いているという側面すらあるかも知れないのである。
 
勿論今の私は、子供の頃の忙しさなど物の数ではないということが身に沁みてわかっているし、その一方でマーラーの多忙というのが私など及びもつかない苛酷なものであることは マーラーの伝記を紐解けば直ちにわかることであって、マーラーが主観的にはどうであれ、客観的にはいわば「楽長の道楽」なり副業として行った作曲の営みの質の高さは想像を絶する。 自ら生活の糧を得ることに汲々とする必要のなかった作曲家達と違い、マーラーはまずは生きるために稼ぐことを優先しなくてはならなかったタイプの作曲家で、そうした人たちは例外なく、 時間に追われながら、わずかな時間を自分の「無益」かもしれなかった営みに振り向け続けたのだ。勿論彼は、勤め人としての有能さの分だけは「世の成り行き」の 中でも生き生きと仕事をしたであろうし、傍から見れば寧ろそちらが彼の本領であると見做す人が大勢を占めたとしても不思議はない程の成果も挙げた。 だが、だからといって不和が帳消しになるわけでもなく、適応不全が無かったことになるわけでもない。彼が溜め込んだストレスの大きさや、彼が蒙った傷の深さは彼の有能さ、 彼の挙げた成果の大きさとはとりあえず関係ない。子供の頃は恐らく無意識に感じ取って共感していたであろうそうしたストレスの影や傷の痕跡がマーラーの音楽の中に はっきりと刻印されているのを今やはっきりと感じることができる。
 
今日企業で管理職などやれば、目標管理をやらされ、自分のメンタル・コンディションに関してすらポジティブ・シンキングとやらを押し付けられ、部下に対してはコーチングといった接し方の規範が与えられ、 といった具合に「有能」であるための処方なり規範なりがあり、それらへの忠実さをもって「有能さ」を測定されることを余儀なくされるわけだが(そしてそういう規範に照らせば、例えばこのような入れ子の多くて やたらにセンテンスが長く、従属節を幾つも従えたような文章を書く人間は「無能」呼ばわりされるわけである)、上司に対しては慇懃無礼、部下に対しては暴君で、思いやりの心に欠けているわけではなくても、 自分にばかりかまけるあまり、他人の内面には最後の部分で無関心だった彼、人並み以上の集中力と引き換えに放心癖をもち、過剰な「内面」としぶとい「内的自我」を持ち、内向的で傷つきやすい 悲観主義者だったマーラーは、一方では心理を読むのに長け、現実の条件の中で最大の成果を挙げる判断力を備えていたにも関わらず、 そういう規範に対しては全くそぐわないタイプの人間だったように見える。報酬の分に見合っているかどうかの判断は人それぞれで、悪意ある人の手に係れば、余分な「内的自我」を抱え、「道楽」に割く時間を 確保することに執着し続けるような人間は常に既に職務怠慢なのだろうし、個人主義者は「度し難い自己中心性」の廉で常に指弾され、批難される。 「それは私の能力には余る」などと言おうものなら、それは愚痴なのか、それとも白旗なのかと強い口調で迫られ、そうかと思えば「自分の要求をすべてやる必要はない」と嘯かれる。 彼が常に上司と衝突していたわけではなく、そういう意味ではもっと非妥協的である意味では「世の成り行き」に背を向けた人間達の中で育ったアルマが驚きをもって書いているように、 「成り上がり者のユダヤ人」マーラーは、「柔軟な膝」も持ち合わせていたし、それでは上司の方はろくでもない人間であったかといえば決してそんなことはなく、 ビジネスマンとしてはマーラーなんか及びもつかないほどの「やり手」であったり、頭脳明晰で極めて有能な官僚であったりしたわけで、要するにどちらが悪いというのは立場によって全く異なる判断になるに違いないのだ。
 
マーラーの有能さは、そういう意味では何か「おまけ」、余禄のようなものに近い。つまり彼の真の適性は別のところにあり、彼(の「内的自我」)が目指していたのはもっと別の何かであったのだけれども、 それを彼の埋め込まれた職場の規範なり目標なりに合致させることが出来るだけの器用さを持ち合わせていたということに過ぎない。その合致はエフェメールなものに過ぎず、 ちょっとしたことで見せかけの和解は綻んで、葛藤が生じるということが繰り返されたのは、これまたマーラーの伝記に記録されている通りである。 集中力と精神力の強靭さが身体の状態を上回るのが常であった彼は、自分の限界を超えてやってしまいそうになって、どこで止めようかその都度迷った違いなく、 だけれども時々やり過ぎてダウンしてしまうということを繰り返したのだろう。 記録にはそんなことは残っていないが、きっと折々「こんな仕事辞めてやる」と内心毒づいたことだって一再ならずあったに違いないし、そんなことは職場では言えないに決まっているが、 内心では「今度はここまでで止めておこうかどうしようか」と思案していたに違いないのだ。そういう意味では書簡集すら、それが他人に、しかるべき目的をもって宛てられたものであるが故に、内心の 吐露とは言いがたく、その中では全てではないにしても相対的には、妻に宛てた手紙は最も「構えた」ところがない場合が多く、有名な「ファウスト」終幕の解釈の手紙などを一方の極端として、 もう一方の極である日常の平凡な記述に過ぎない上記の手紙なども割りと素直に本音が出ているような気がする。
 
だが結局、マーラーにとってそうした鬱憤の「はけ口」は音楽を書くことだったに違いない。 音楽によって世界を構築することは、日頃の世の成り行きに対する反逆という側面が必ずやあったに違いないのだ。第3交響曲のフィナーレにちなんでマーラーが言及した「主よ私の傷を見てください」という 言葉は、マーラーにとって切実な響きをもったものであったに違いない。天使と格闘するヤコブ(「私は天国に行きたいのだ」)、反逆者ファウストの贖罪と復活の物語に曲をつけずにはいられなかった 彼の心情は、「世の成り行き」の中で「ばらばらになった私の内的自我の破片をざっと」(なぜなら彼には時間がないから)「かき集め」て新しい身体を獲得することへの絶望的なまでに切実な願いに 満ちていたに違いない。それは「世の成り行き」とは別の場所を、別の価値の秩序に支配された世界への憧憬を孕んでいて、素材としての世界観の方ではなく(それが作品の価値を担保すること などありえない)、音楽に刻み付けられたその衝動のベクトル性の深さが人を惹きつけて止まないのだ。
しかも彼は、端的に「世の成り行き」の外に出ることの不可能性をはっきりと認識していた。だから彼の音楽は端的に「別の世界」の構築になることはなく、寧ろそこには時折「世の成り行き」があからさまに 映り込むことがあって、しかもその程度たるやアドルノをして「攻撃者との同一化」といった精神分析学的な言い回しによる批判をさせずにおかなかったほどなのである。だが私はこの点では、 アドルノに与しない。百歩譲ってアドルノの主張の正当性を認めた上で、だが結局あなたにはマーラーの気持ちはわかるまい、とアドルノに対して言ってみたい気がするくらいである。 こんなことを言ってみても始まらないのは百も承知で、裕福なブルジョワの家に生まれ、何不自由なく育ったアドルノには、「女行商人の孫」(とアドルノはマーラーのことを指す言い方として用いている)の 気持ちなど結局のところわからないのではないか。経済的に何不自由なく「内的自我」に浸っていられた良家の子弟達や、音楽を書くことを「内的自我」などと関わらせることなく、仕事として 突き放すことができた職人的な作曲家達は勿論のこと、時代のせいもあって自分の理想とは異なる現実に曝され、その無慈悲な暴力の前に為す術もなく、そのギャップに「内的自我」が悲鳴を あげた挙句の果てに現実の戦場から病気の戦場に退却して、「世の成り行き」から背を向けて無人の高山に逼塞するほかなかった貴族出身のひよわなお坊ちゃんのヴェーベルンよりも、あるいは 若い時期には放蕩に身を持ち崩すことができ、文無しの友人を金策に奔走させ、結局は国家の支給する年金によって妻の名を冠した家に隠棲して暮らすことができた医者の息子のシベリウスよりも、 一見聖なる「愚者」に見え、現実に深く傷つき、時に神経を病みながらも、生活の糧を得るために自分の時間のほとんどを費やさざるをえない中で倦む事無く「無益な営み」に取り組み続ける 雑草のようなしたたかさを備えていたという点において、その他の点では共通点がなくとも、フランクやブルックナーといった作曲家たちの方がマーラーに遥かに近いとさえ言えるのではないか。
 
それは自分で作った檻から出ようとしないだけではないかという批判に対しては、自在に檻から出れる(と思っている、そして自分はそうできていると思いなしている)人間にはマーラーの音楽は 結局不要なのだから、どうぞお好きにされるがよかろう、と言いたい。そういう「円満な」「聡明な」「有能な」「人格者」にはマーラーの音楽は勿論、カフカだってヘルダーリンだって、「カラマーゾフの兄弟」や 「ドン・キホーテ」だって不要だろうし、おしなべて「哲学」など無用の長物なのだろう。そうであれば結局言葉は通じず、コミュニケーションは成立しないのだ。 開き直りと採られても構わないが、それが愚かさの側につくことになったとしても仕方ない。私はそういうマーラーに共感しているのだし、そうした愚かさから産み出された音楽が好きなのだ。

そんな音楽は聴きたくない、それならいっそ音楽は寧ろ純粋な気晴らしであるべきではないか、それはえもいわれぬ「無為な楽しみ」であるべきではないか、あるいは無人の森林や湖水の風景、 限りなく主観が希薄化して、ほとんど客観的な秩序のみが支配しているかのような音楽を聴けばいいのではないか、という主張があることも否定はしない。だが私が欲しいのは気晴らしや娯楽ではないのだ。 私にとって必要なのは、まさに「ばらばらになった私の内的自我の破片をざっとかき集め」ることで、寧ろ自我なり主観性なりを擁護するタイプの音楽、しかも無自覚に、無反省に、無媒介に 主観的なのではなく、寧ろ、そうした主観の働きが反映しているようなタイプの音楽こそが必要なのだ。マーラーの音楽から意識を消去することはできない。希薄になったり、解体しかかったり といったことはあるけれど、それは人によっては鬱陶しいと感じられる程に自意識の現われがあからさまだが、見方を変えれば、人はそんなに簡単に自我とか自意識とかから自由に なれるわけではない。それを監獄のようなものと見做す立場を認めたとして、だがその監獄から逃れることはできない。もう一度、「監獄にはもしかしたら鍵などついていなくて、外に出ることだって原理的には 可能ではないのか」と人は言うかも知れない。だがその辺の消息はマーラーにはわかっていたに違いない。「意志と表象としての世界」や「純粋理性批判」を読みこなせる人にそれがわからない筈はあるまい。 あるいは「ファウスト」の終幕の場にあの音楽をつけ、その後で「大地の歌」や第9交響曲、第10交響曲を書いた人がそれをわからなかった筈はないと私には思える。空を飛べると思っただけで 実際に空を飛べるほど「世の成り行き」はやわではないのだ。霧のかかったようなアナロジーで物理法則を音楽化したなどと嘯くことのできた自信家のスクリャービンとは異なって、 批判的な知性を備えていたマーラーは、自分が「移ろいゆくもの」の側に属していること、少なくとも自分のままでは永遠に与ることができないことを認識していた。 そして翻って、価値観の違いによる机の叩き合いにおいて、その場で勝利を収めるのは常に「世の成り行き」の側である。「世の成り行き」の外は端的に「ない」のだから、所詮勝ち目はない。 だから「内的自我」なり「自意識」なりは逼塞して、誰のものでもない何かを作り上げ、壜に詰めて流すという無益な営みによって秘めやかな復讐を試みるほかない。 そして復讐の成否は当人には原理的にわからない。マーラーが復讐に成功したことを知るのは、何かの偶然で壜を拾って、その価値を認めた私達でしかない。その一方で私は証人として、 復讐の成功を宣しなくてはならない。
 
夢想することを止められない現実主義者、現実と折り合いをつけようとしつつ、だが現実に自分を合わせることは拒絶する個人主義者、有能な職業人として、余人の及ばぬ成果を挙げながら、 同時に敗北者のバラードを歌うことができた余所者、、、そして休暇の初日、モードの切替がうまくできずに「ばらばらになった私の内的自我の破片をざっとかき集め (うまく集められるようになるまで何日かかるだろう?)」と呟く男。そのように生き、このような音楽を遺した人間がいるということに、比較に足らぬほど凡庸で卑小な私ですら勇気付けられる気がするし、 その音楽を聴くことによってやっと「自分」が取り戻せるのである。 こんな人間のこんな音楽がどうして過去の遺物、芸術の殿堂とやらに陳列された骨董でありえよう。今日が彼の時代なのかどうかなど私にはどうでもいい。彼が生きた時代がどんな時代であったかも副次的な 問題でしかない。私にとって彼は必要な存在だし、何よりもまず遺された音楽によって、そして上記のような語録によって、彼は今、私の内側にいるのだ。(2010.7.4)