2008年6月22日日曜日

1907年12月7日付ウィーン宮廷歌劇場への告別の手紙

1907年12月7日付ウィーン宮廷歌劇場への告別の手紙(Blaukopf u. Blaukopf, Gutav Mahler : Leben und Werk in Zeugnissen der Zeit (Hatje, 1993) p.347, なお船山隆「マーラー」新潮文庫のp.157に写真がある。)

AN DIE GEEHRTEN MITGLIEDER DER HOFOPER!

Die Stunde ist gekommen, die unserer gemeinsamen Tätigkeit eine Grenze setzt. Ich scheide von der Werkstatt, die mir lieb geworden, und sage Ihnen hiermit Lebewohl.
Statt eines Ganzen, Abgeschlossenen, wie ich geträumt, hinterlasse ich Stückwerk, Unvollendetes, wie es dem Menschen bestimmt ist.
Er ist nicht meine Sache, ein Urteil darüber abzugeben, was mein Wirken denjenigen geworden ist, denen es gewidmet war. Doch darf ich in solchem Augenblick von mir sagen : ich habe es redlich gemeint, mein Ziel hochgesteckt. Nicht immer konnten meine Bemühungen von Erfolg gekrönt sein. "Dem Widerstand der Materie", "der Tücke des Objekts" ist niemand so überantwortet wie der ausübende Künstler. Aber immer habe ich mein Ganzes darangesetzt, meine Person der Sache, meine Neigungen der Pflicht untergeordnet. Ich habe mich nicht geschont und durfte daher auch von den anderen die Anspannung aller Kräfte fordern.
Im Gedränge des Kampfes, in der Hitze des Augenblicks blieben Ihnen und mir nicht Wunden, nicht Irrungen erspart. Aber war ein Werk gelungen, eine Aufgabe gelöst, so vergaßen wir alle Not und Mühe, fühlten uns reich belohnt -- auch ohne äußere Zeichen des Erfolges. Wir alle sind weiter gekommen und mit uns das Institut, dem unsere Bestrebungen galten.
Haben Sie nun herzlichsten Dank, die mich in meiner schwierigen, oft nicht dankbaren Aufgabe gefördert, die mitgeholfen, mitgestritten haben. Nehmen Sie meine aufrichtigsten Wünsche für Ihren ferneren Lebensweg und für das Gedeihen des Hofoperntheaters, dessen Schiksale ich auch weiterhin mit regster Anteilnahme begleiten werde.

Wien, am 7. Dezember 1907.

GUSTAV MAHLER


私が子供の頃に最初に手にしたマーラー伝であったマイケル・ケネディの著作には部分的であるが上掲の文章の翻訳が引用され、それに続けて「メッセージは 掲示板にピンで貼られた。翌日、これははぎ取られ、破られた。」(中河原理訳p.90)との文章があって、この件を読んだ私は大変なショックを受けたことを 良く覚えている。私のような平凡で無能な人間でさえ、馬齢を重ねるに従い、そうした出来事が別段珍しいことではなく、むしろありふれたことに属するかも 知れないことを身をもって知るようにはなったし、それゆえ後続の痛ましい出来事に対する現時点での感慨は、その時のものとは些か異なるとはいえ、 上記のマーラーの文章から受ける印象の方はあまり変わりはないようだ。

今日でも、あるいは同時代においてすら、作曲家としてのマーラーはともかく指揮者としてのマーラーの能力についての評価は確固たるものであっただろうし、 劇場監督としてマーラーが達成した上演の水準の高さを疑問に付する意見は寡聞にして知らない。だが現場で起きていることは、従ってマーラー自身が 経験したことは、決して後からの美化で取り繕うことができるような生易しいものではなかったに違いない。であってみれば寧ろ船山さんのようにこの文章を 「模範的」と評価するのが適切であって、この文書自体もまた、劇場政治の最終幕の一齣には違いないのだろう。だがだからといって、例えばこの文章は ゴーストライターが書いたものではないのか、といった議論がされるわけでもなく、マーラーがこうした行為に及んだ意図を憶測しようという話もないようだ。 結局のところ、子供の私が子供なりに身をもって知らないではなかった筈の「現実」の経験の過酷さ(勿論そんなものはマーラーの場合と比べれば比較するのが 憚られるほど取るに足らないものに過ぎないには違いないのだが)と引き合わせ、自分のアイドルであるマーラーの受けた「理不尽」な仕打ちに義憤を感じた 当時の私の感じ方と大きくは違わないようだ。後になって病に倒れたマーラーはアルマに向かって、自分の人生は紙切れだった、と述懐したようだが、 上記のうわべは「模範的」な文章にもマーラーの傷が感じられ、おしなべて「大地の歌」の「告別」の詩と響きあうような感じさえあって私には痛々しい。

アルマがやはり回想で述べているように、劇場の管理者として極めて有能だったマーラーは、必須の能力として当然に人の心理を読むのに長けていたに違いない。 そのマーラーがこの文章を書置きしたのは、それに対する否定的な反応をも予測した、覚悟の上のことだったのではなかろうか。最早彼には喪うものはなかった。 そうした時に自分の偽らざる心境を、今なお自分を支持し、理解してくれる人たちに向けて吐露したい欲求にかられたとして、それを咎めることはできないだろう。 上記の文章が感動的なのは、牧歌的ではありえない現場の事情を糊塗せず、自分がしたこととその結果をマイナス面も含めて認める率直さがそこに 感じられるからだと思う。それをわざわざ最後に言い残す挙措について「やけくそ」と受け止める醒めた見方も、なおそこに「ポーズ」を、「演技」を見る冷静で 意地悪な見方も可能だとは思うが、私はそうは思いたくない。これまたアルマが正しく理解していたように、マーラーは時としてあまりに無防備で傷つきやすい、 素朴な心の持ち主だったし、私の知る限り疑いなく倫理的に高潔に振舞うことを自らに課していたように思える。 勿論、そういうマーラーを、何事もくそ真面目に考えすぎるのだと見做した シュトラウスの認識もまた正しいが、私はこの点についてはマーラーの「くそ真面目さ」に共感を覚えるし、シュトラウスとてそういってマーラーを一方的に批判した わけではない。寧ろシュトラウスは、醒めた視線を保ちながらも、そうしたマーラーに対して助力を惜しまない寛大さを持ち合わせていた。私には実際には 想像がつかない、同じように途轍もない才能を持つ者同士だけが分かち合える共感とともに。

勿論、人それぞれ能力も性格も異なるのは当然で、自分がマーラーになれると思い込んでいるわけではない。そういう「天才」マーラーですら、 机の下に唾したところでベートーヴェンになれるものではない、と語ったとアルマが伝えているではないか。上記の文書を去ってゆく職場に掲示した マーラーの気持ちも、自分の人生を紙切れだったと述懐するマーラーの気持ちも、誤解は覚悟の上で、自分なりに「わかる」し、深く共感できる、 ただそれだけのことなのだ。否、端的に言えばアドルノが1960年のマーラー論の末尾で述べているように、マーラーがまさしく » Ich soll da bitten um Pardon, und ich bekomm' doch meinen Lohn! Das weiß ich schon.« という角笛の詩に曲をつければこそ、あるいはまた、Ohne Verheißung sind seine Symphonien Balladen des Unterliegens, denn » Nacht ist jetzt schon bald. « であるからこそ、私はマーラーを聴かずにはいられないのだ。 そしてまた彼が「君臨した」筈の職場への告別の辞、翌日には破り捨てられる運命にあった上掲の言葉もまた「敗北者のバラード」のヴァリアントで なくて何だろうか。そこにはもうすぐ産み出される「大地の歌」の最終楽章に自ら書き加えた mir war auf dieser Welt das Glück nicht hold! ということばが こだましている。すでに第6交響曲のフィナーレで練習番号149に至って、先行して再現した副主題のどこかに不穏な予感を秘めつつも清澄で 柔らかな表情(この副主題再現部は前後との残酷なまでの対照ゆえにマーラーが書いた最も美しい瞬間の一つだと思う)が消え去り、身の毛のよだつ様な心理的な リアリティを伴いつつ、主要主題の再現を準備すべく練習番号150番にVorwärtsという指示を書き込んだとき、そのことばはマーラーのものであった。 そう、それは心のどこかで主要主題が回帰するのを「運命」として予感していて、それが現実のものとなったときのあの諦念と絶望感が入り混じった 心理状態そのものなのだ。「やはりこうなるのか」という言葉にならない呻き、そしてもう一度、だが今度は負けることがわかっている戦いに挑むときの心境。 この順序で主題が回帰してしまえば、最後のとどめの一撃、イ短調の主和音の到来は既に定まっている。それゆえ主要主題が回帰するときの 容赦なさの感覚は生々しい。あるいは第5交響曲第2楽章の練習番号21番以降22番の頂点で倒れ臥すまでの絶望的に彷徨う眼差しにおいてもまた、 一瞬過去を回顧する空間が広がりながら直ちに運命の容赦なさに再び呑み込まれて行くプロセスの過酷さが示される。 そしてそれらは聴き手の私のものでもあるのだ。はしたなく節操のない音楽の聴き方であることは否定しようと思わないが、聴き始めた子供の時以来30年あまり、 私にはそういう聴き方しかできないし、そういう聴き方ができればこそ、私はマーラーを聴き続けているのだ。

そして上掲の文章にも現われている人間の営みとその成果の限界についての認識が、その後の晩年のマーラーの作品にも色濃く反映しているのは 疑いないように感じられる。天才マーラーは遙かに遠くまで行くことができた。だけれども、それでも所詮は限界があるのだという認識もまた持っていた。 例えば、晩年のアルマ宛の1909年6月27日の書簡における「作品」についてのマーラーの言葉は非常に印象深いものなので別に既に紹介しているが、 それもまた、こうした文脈において考えるとまた別の意味を帯びてくるように思われる。更にこの先の到達点に、こちらもまた別に紹介しているあの遺言の » Die mich suchen, wissen, wer ich war, und die andern brauchen es nicht zu wissen. « を置いてみたらどうだろうか。 そこには「やがて自分の時代が来る」(そして「今や来たのだ」と受けるのが「マーラー・ブーム」以来のお約束のようだが)という妻への強がりよりも、 価値の相対性と自分の遺すものの不十分さに対する諦観が強く感じられるように思えてならない。「わかる人だけにわかってもらえれば良い」という言葉もまた、 エリート主義的な鼻持ちならない傲慢さによるものではなく、少なくとも不完全である人間にとって価値は相対的なものでしかないことに対する認識と、 それに応じて能力やら才能やらも相対的なものであること、その一方で、それが故に、ある価値を尺度とすれば、どうしようもない理解の溝というのが そこかしこに存在することを認めざるを得ないという現実的な認識によるものであるように感じられる。 そして私もまた、それが選択肢の一つであることを認識しつつ、マーラーとともに在ることに意識的にならざるを得ない。実を言えば最初の 選択の瞬間には子供であった私がこうしたことに対してどこまで意識的であったか自信はない。けれども今の私は今度は否応なく意識的に選ばざるを 得ないのだ。そしてその選択は私の生の態度の全般に影響する。良くも悪くもマーラーの音楽はその人と不可分であると言われるが、そうである分他の 場合よりも一層、聴き手の側にも音楽を単なる音響の消費で済ますことを許さないように思われる。

なおこの文章は有名だからあちらこちらで引用されていて、例えばクルト・ブラウコプフのマーラー伝でも邦訳を読むことができる。 ただし、私が所有しているブラウコップフの伝記の原書では何故か文章の細部に異同があり、上記の船山の著作所収の写真とは明らかに異なっていたので、 上掲の原文は写真と文面が同一であることを確認できた別の典拠に拠った。(2008.6.22,25,28)

2008年6月4日水曜日

喪の作業とマーラー

喪の文章。喪についてではなく、喪の行為として文章を書くこと。追悼の文章を書くこと。まずは自分のために。 けれどもあわよくば、喪われた命、恐らくは、このようにして書き留めなければ生成の絶えざる過程の流砂の中に埋没し、忘れ去られてしまう ハエッケイタスの擁護のために。そうした擁護もまた無力で、それ自体が流砂の中に埋没してしまうことはわかっている。客観的には愚行、 無意味な行為であることが明らかであるのに、それを止めることはできない。

死は他者である、ということは、かつてレヴィナスを研究していた時には明らかなことに思えた。ところが死の他者性は、他者性ゆえに 備えることができない剰余を必ず持っている。というよりその剰余こそが他者性なのだ。そうやって、嵐が来てみて、またしてもその嵐の最中で その都度不意に生命が喪われるのに直面する。常にその瞬間は不意打ちだ。そうやって今までそこに在った意識が不意に消滅する。 私を見つめていたまなざしは永遠に喪われる。永遠に、永遠に。残るのは活動を停止した生命維持のメカニズムの残骸。停止した自動機械だ。 意識はその自動機械のユーティリティの如きものに過ぎなかったのだ。

能にはいわゆる霊がごく自然に、当たり前のように出てくる。それは後には「怪談」という枠組みの中で恐怖の、排除の対象となるのだが、 能ではそうではない。彼らは大抵は己が成仏できない理由を述べ、僧形のワキに供養を請い、読経の功徳によって成仏する。彼らは肉体を 喪ってはいるが、別に不気味な存在というわけではない。これをチャーマーズのゾンビと比較するのはお笑い種だろう。ゾンビとは逆に、ここでは 意識のみがあり、身体は存在しない。ゾンビはまるで意識があるかのように身体のみが動くが、霊ではまるで身体があるかのように意識のみが動く。 そして更に考えてみれば、ここでの霊というのは意識の存在の制約条件を見事に裏返したものになっている。それは生物学的な制約を離れて存在したいという 無いものねだりの極限、意識自身の虚像なのだ。瞑想は言ってみれば感覚を遮断して意識のみを切り離す訓練だが、ソマティックな感覚まで 無くすことは困難だ。そこでは身体すら外部なのだ。ゾンビとゴーレムの西欧はいざ知らず、日本には意識なきロボットを擬人化する志向的スタンスがある一方で、 意識をその存在の物理的な制約から分離したものとして見做す志向もまた存在するということなのだろうが、それは多分ごく自然なことなのだろう。 能の多くが夢幻能で、それが繰り返し繰り返し、洗練を重ねつつ演じられ続けてきた理由の一端が実感できるように思える。だが、さしあたっては それは願望に過ぎない。意識は生命維持機構が発達させてきたユーティリティに過ぎず、それはある条件さえ整えば、生命の維持に必須なわけではない。 否、意識を持たない生物はいくらでもいるだろう。だが、私にとってはそのユーティリティがかけがえのないものなのだ。そして私自身もまた、 そうしたユーティリティに過ぎない。そして私は、他の意識の消滅を経験し、それが生じることを認識し、更にはそれがいつか自分に起きることを 色々な知識や経験によって知っている。けれども、知識としては持っているにも関わらず、自分自身の存在を脅かすのと同型の出来事が、自分がともに生きてきた 同型の存在に起きることによって自分の中におきる反応にいつまでたっても慣れることができない。それもまたそのように事前にプログラミングされている のかも知れないが。(もしそうだとしたら、「それは自分にもいつか起きる」という認識を持つことは、私にとってではなく、そのプログラミングを行った主にとって 一体どのような効用があるのであろう。)

そして今度もまた、マーラーがそう感じ、ワルターへの手紙に書いたように、私もまた「一からやり直さなければならない。」 マーラーは何故、そうした時に音楽を書いたのだろう?逃避のため、自己治療のため、などなどといった説明が色々あるのは 知っているし、それはそれぞれ正しいのだろう。それは喪の行為そのものだったに違いない。だが、それが作品として定着され、 ミームとして存続するのはどうだろうか。マーラーは自分の作品を精神的な「子供」と見做していたのだ。そして確かに、生命の連鎖とは 別の仕方で、その「子供」はマーラーの死後も命脈を保っているように見える。マーラーは、作品を創ることを、無意識の裡の反逆として 捉えていたのではないだろうか、と私には思えてならない。「原光」の歌詞が物語るあの葛藤は、素朴な装いではあるけれど、反逆の 一形態に感じられる。愚かなファウストの行いにもそうした「反逆」の影が見える。

マーラーの知性は、ファウストの終幕自体が或る種の「比喩」、ある文化の拘束下での表現形態の一つに過ぎないという認識に到達していたようだ。 丁度、ある人が確かに見たという神や天使といった超越的な存在の幻視が、その人の想像力に拘束されて、ひいてはその人が埋め込まれた文化を 色濃く反映しているのと同様に、人間は自分の認識の檻の外には出られないというのを彼ははっきりと認識していた。自分がすべて移りゆくものの、 比喩の側にしかいないという認識が彼にはあった。だからこそ、例えば第2交響曲のフィナーレのプログラムを真に受け取って、質問をしてきた女性の態度に 彼は当惑したのだ。どんな得意の絶頂にあってさえも、彼は自分が創るものがまがいもの、フィクションに過ぎないこと、その仮象性、 虚構性をはっきりと自覚していたに違いない。にも関わらず彼が創作をしたのは、それが結局のところフィクションに過ぎなくても、 そうせずにはいられなかったからなのだろう。 それは不可能事への挑戦、マーラーが親しんでいたカントであれば純粋理性が突き当たるべく宿命付けられているとされるあのアンチノミーに他ならない。 マーラーがカントをどのように読んでいたかは詳らかにしないが、恐らく、そうした自分の能力を超えた問いを立ててしまう人間の性のようなものをカントが 自分なりの仕方で見出した点に共感していたのではないかと想像せずにはいられない。 彼の作曲は、彼なりのそうした不可能事への挑戦、私なりに言い換えれば、ある種の「反逆」の実践ではなかったろうか。

私=この意識は、それによって自分が偶然に生じたに過ぎない進化の盲目の巧緻を賞賛できない。寧ろショーペンハウアー的な盲目の意志にしか 感じられない。私はおまけに過ぎない。そのかわりレヴィナスのいう多産性が用意されていると言うかも知れない。だが、それは私=この意識のためのものではない。 多産性は遺伝子が自分の存続のために仕組んだメカニズムで、個体の生命維持機構の上にほとんど随伴的にしか存在しえない私には 関係がないことだ。勿論ハエッケイタスはクオリア同様虚構で、ついでにお前という意識も虚構だ、と消去主義者は言うだろう。 確かにある視点からはそれは正しい。けれども、私にとって私は存在する。お荷物だろうが、私は無くなるまでは自分に付き合っていかざるを えないし、つい数十時間前まで私を見つめていたまなざし、確かに存在していた他者の意識をなかったことになどしたくないのだ。 私は私なりの仕方で「反逆」を企てたいのだ。勿論、天才ならぬ私には、マーラーのようにはできないのはわかっているけれど、そして、 多くの意識たちが、聖書の鳥のように、播かず、刈らず、倉に納めず、それでいながら、私の記憶の外では喪われてしまう無償の優しさを 与えてくれながら、無から無へとひっそりと還っていくその慎ましさに、自分もまた同じように全てを消去して、姿を消すべきなのではという懐疑に捉われつつも、 一方でそれらの意識たちの存在の慎ましさ、寡黙さゆえに(彼らは黙っていれば自分からは主張したりはしないだろうから)、己の非力を顧みない愚挙であっても、 あるいは彼らにとってはとんだ「おせっかい」かも知れなくても、自分なりの「反逆」を企てたいのだ。

否、私にはできなくても、マーラーの遺した音楽は、そうした私の心のベクトル性を汲み取ってくれるように感じられる。それが勘違いであっても、 私はそれを(主観的な音楽ではなく、)意識の音楽、主観性の擁護の音楽として聴き取る。その音楽はあまりに個人的であるという廉で批判され、 蔑まれてきたし、今後も毀誉褒貶が相半ばすることだろうが、それでもミームとしてのその力は明らかなように思われる。そしてその音楽が、喪の行為であること、逆説的にも 肯定的な瞬間においてすらそうであること(第8交響曲)は、私には明らかに感じられる。喪の行為が私=意識にとって必要であり続ける 限りは、マーラーの音楽は私のかけがえのない伴侶、しかも私よりも遙かに長寿の、「神の衣」の一部となることが許された同伴者なのだ。 マーラーの音楽がすっぽり含まれるであろうロマン主義的な音楽観は、音楽史においては、あるいは今日の作曲の現場では もう命脈が尽きたことになっているのかもしれない。だが、それは私にはどうでもいいことだ。私にとって大切なのはロマン主義的な音楽観自体ではなく、 それが産み出した(というのは認めたとして)マーラーの音楽という個別の場合の様相だ。肥大した自我?こんなに醒めて、己(と己の同類)の 有限性に意識的なのに?情緒過多で感傷的?確かにそうかも知れないが、ここに自己陶酔があるとは私には思えない。こんなに外部が、死が、 他者の影が露わな音楽はない。それは時折、自分を飲み込む「世の成り行き」のミメーシスに転化さえするではないか。

ある意識が「存在した、生きた、愛した」という事実性そのものを顕揚し、あたかも擁護しているようにみせかけ、 そこに慰めを見出すように諭す哲学者の姿勢には、好意的に言っても無意識の詐術が潜んでいる。事実性は、 (悪意ある言い方をすれば)最悪の場合でもそうした哲学者の行為によって、ようやくはじめて意味を持つのではないか。 「事実性が滅びることはない」のは、如何にしてなのかといえば、「事実性が滅びることはない」と幾つもの意識が連帯しつつ、反目しつつ、 あるいは互いに無関係に言い続けることによってでしかありえないのではないか。「生きた自然の超自然性」などといったお得意の、 しかし変わり映えのしないレトリックを最後に至っても手放さず、そうしたレトリックによって何かが達成できたかの如く振舞う饒舌なジャンケレヴィッチの姿は 私には欺瞞にさえ見える。もし、自分で気づいていないなら、それはそれで哲学者らしからぬ(でも、現実には哲学者におきがちな、自分だけは 安全なところにいて、超然とした視点を確保できているという勘違い、ないし、そのようなふりをする詐欺と同様の)、度し難いお目出度さだ。 それでもなお、彼(の=という意識)が「死」というタイトルを持つ数百ページにも及ぶ大著を残したことは事実だし、その内容が持つ効果は全くの無ではない。

そうした哲学者の賢しらさに比べれば、マーラーの音楽はずっと素朴に見える。(彼はまた、そのナイーブさによっても蔑まれて きたのだった。)あるいは音楽はそんな目的のためにあるのではなく、もっと高邁な目的のためにあるのだとして、彼の音楽を安っぽく、低俗なものと 見做す立場もあるだろう。一方で、マーラーの音楽を精神安定剤の如く利用するとは何事か、結局マーラーの音楽をムーディに消費している だけではないかという批判もあるかも知れない。そしてこうした聴き方は、本来あるべき姿に違いないコンサートホールでの実演ではなく、 専ら自宅で、生活の糧を得るのに追われる合間に、しばしば断片的に、貧弱な再生装置で録音を貪るような受容のあり方に固有の非本来的なもの、 コンサートホールのマナーには全く相応しからぬ、品のない姿勢として蔑まれるかも知れない。 結構、きっとそうした批判は皆、多分正しいのだろう、どこかに輝いている真理の星の輝きの下においては。 だが生憎、地面に這いつくばって生きているに等しい私には、そんな真理の星は無縁だし、 マーラーをそんな真理に照らして聴き、理解しないといけないのであれば、私には30年前のはじめからマーラーを聴く資格などなかったし、 今でも勿論ないのだろう。

それでも多分、私はマーラーを聴き続けるし、マーラーについて書き続けるだろう。無言のまま永久に閉ざされた瞳の向こうに、 ほんの少し前まで確かに存在した小さくて純真なあの意識をしのび、せめて自分が存続している間には、この出来の悪い 神経回路網に決して忘れないように記憶し続けるために、そしてそういう自分もいつの日か、跡形もなく消えうせるという事実を確認し、 銘記するために。こうした書いた文章とて、永遠とは程遠い。紙に書かれたものは風化し、電子化したものは環境の違いで そもそも無意味な数値の羅列になりうるし、そうでなくてもディスクが壊れて喪われてしまうかも知れない。けれども、私は、自分が 記憶している「良きもの」が、自分の死とともに永久に喪われるのに耐えられない。少しはましで充分。その少しの程度の違いのために、 私はもうしばらくは書き続けるのだと思っている。(2008.6.4、埋葬の後で)