音楽を聴くことは、認識、世界に対する態度の様態を学ぶことであるということは、私にとっては明らかなこと、音楽について考え、文章を書く際の出発点になっている。
ところで、才能というものと、世界に対する認識の様態とは必ずしも関係しない。同じような態度を持つ作曲の才能がない(だがもしかしたら他の才能があるかも知れない―無いかもしれない!)人間も居るだろう。その様態を受け入れられるかどうかは「相性」の問題で、どれが正しいということはあり得ない。
例えばマーラーを特徴付ける、それ自体様々な位相と志向を持つ「孤独」について考えてみる。
マーラーの孤独は決して不毛ではない。
それどころか、孤独の中から彼らは最上のものを生み出すことができた。
だが、平凡な人間の孤独は不毛だ。それは何も生み出さない。
同じ性格の、同じ気質の天才と凡人とが居る。才能は気質や性格とは関係がない。気質的に類似していることは何も物語らない。
マーラーの晩年のあの悲観主義は、その時点で得ていた地位を考えると些か当惑しないでもない。とりわけマーラーの音楽のあの「自己劇化」的なあり方に拒絶反応を持つ人はいるだろう。
私とて、今やマーラーの態度には割り切れなさを感じないでもない。世俗的にも頂点を極め、作曲においても―第2,3交響曲や第8交響曲を見れば明らかなように―成功を収め、そしてその作曲のために家庭生活を犠牲にした「天才たる肉食獣」(これは妻アルマがマーラーについて言った言葉だが)が「私はこの世では幸運にめぐまれなかった」等といって欲しくない。
かつては音楽に表現された内容にひきずられてであろう、マーラーの地位の特殊性―いわゆるセレブリティに属するのだ―に気付かなかった。事実としては知っていても、子供の私には実感がわかなかったのだ。何という想像力の欠如だろう!
マーラーは不幸な人間だと思っていた。だが、実際には、それはマーラーその人ではない。勿論、主観的な幸不幸は他人のどうこう言えるものではない。だが、マーラーは例えば、アラン・ペッテションではない。
ショスタコーヴィチの場合、まずは叙事詩的な語り部として、次には時代状況の犠牲者としての位置づけがある―それでも彼が「特権階級」であることは否定できないだろうが。
勿論マーラーだって、そうした叙事詩の語り部という側面がある(アドルノの主張の一部はつまるところそういうことだ)のかも知れない。
だがマーラーの場合、やはりギャップは大きい。彼が弱者を代弁するということが可能だということが、芸術の、天才の不思議なのだろう。
自分のやりたいことをなしとげることは、それなりの犠牲を伴う。それをするかどうかは選択の問題だ。あるいは性格の問題もあるだろう。
そして、自分のしている事の価値を信じることができるかどうかにも。
「年をとってしまった」アリサは、偉大なパスカルを読んで、違和感を感じる。多分、それと同じように私もまた、偉大なマーラーの音楽を改めて聴いて、それが隅々まで馴染みの音楽であるにも関わらず、違和感を感じることに気付いた。まずはその世界観のようなものが、自分の特にこの数年の経験による価値観の変化の結果、信じ難いものになっていること。それとその人格や性格に対する距離感が強くなったこと。
並外れた天才であるだけでなく、上昇志向の強い策略家。自分の作曲に対するあの自信。自分の才能への信頼。勿論、そうした側面がその音楽と無関係であるはずはない。そして、その風景との距離。それは結局、私の風景ではない。(私はかつて、勘違いしていたのだろう。自分の目前の風景を投影してしまったものだ。第1交響曲の序奏や、「大地の歌」の「告別」に、あるいは第6交響曲のアンダンテに。)
それは異邦の風景だ。今や例えば武満の音楽の風景の方がずっと馴染み深い。何より、パスカルのあの悲愴感漂う身振り同様、マーラーの身振りも美しくはあっても、
少なくとも共感できるものではなくなっている。
久しぶりにアーノンクールのハイドンを聴いたときの違和感、どうしてマーラーとハイドンという、この2種類の音楽を自分の中で共存させることができるのかという素直な懐疑の感情。少なくともアーノンクールがマーラーを受け入れないのは、生理的にいってもまず「自然」なことに思えた。
これだけ熱心に聴いて覚えている音楽が、けれども今の自分の身の丈、今の自分に見えている風景、様々な事象に対する考え方に合致しなくなっているのは、
悲しいことだ。けれども仕方ない。後ろを振り返っても仕方ない。この数ヶ月で、これまで各時期においてはそれなりの価値を持った音楽を聴きなおして、
取捨選択をした。今の自分が等身大で聴ける音楽を残すことにした。自分にとってヨーロッパは遠い、というのが実感だ。
ロマン派の音楽は、もうそれほど親しげに響かない。僻遠の地の、全く異なった文化的背景の音楽。
(2004.12/2007.12)